猿
宮本百合子
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人 物
ヨハネス (十八歳)
エッダ (十六歳)
エッダの母親 (四十歳前後)
場 所
デンマークの片田舎
時
或る秋
幕開く
第一 エッダの家の中
下手に、大きな鉄の蝶番の付いた木の大扉、開け放してあり、傍の壁の三段の棚の上には、上部に大小の皿、下段には、鑵、硝子瓶その他、料理用の小道具が置いてある。
直ぐ前が、石塊で囲んだ炉、鋸歯のような自在鍵から、円い煮物鍋が下っている。
椅子、薪木入等。
上手には、頑丈な、手彫模様のついた木製の長卓子、腰掛、櫃等置かれている。
正面の素朴な硝子窓から、透明な黄昏の光が部屋に入り、横顔を浮上らせながら、エッダ、白い後までまわる大前掛けをし、くるりと髪を包む頭巾をかぶって、糸車を廻している。母親、チロチロと小さい焔の見える炉辺で、縫物をする。暫く沈黙。──
やがて、
エッダ 阿母さん!
母親 何だい?(縫物の手を動かしたまま)
エッダ ヨハンがおそいね。……どうしたんだろう。
母親 ──あの子のことだから、また、野っ原に仰向いて、雲でも見ながら、腹の空くのを忘れているんだろう。──大丈夫だよ。
エッダ ……(糸車の音が、四辺に響く)だってもね、阿母さん。ヨハンはきっとどうかしていてよ、私が、ちゃんとこの胸で感じるんだもの。
母親 (笑い)お前の胸かえ? 要心おしよ、小さい娘っ子の胸と──
エッダ (強く)厭なの! そうじゃないさ。ヨハンは、死んだあの子のお父さんやお母さんを、このごろ頻りに思い出しているって云うのよ。
母親 (しんみりと)そうかえ? そんな風かえ?──可愛そうにね。……然し、思い出すに種もなかろうよ。何しろ、生れてたった五十日目に、死なれてしまったんだもの。
エッダ それあ、あの子は自分で何も覚えてはいないわ。でも、他人が云うんだもの──ヨハンが、自分が孤児で、阿母さん阿父さんがほんとの親でないのを知ったのだって、ハンスの婆さんに聞いたからよ。──(声を潜め)あの子の阿父さんが、狂って死んだってほんと? 阿母さんを捕まえて、泣いて逃げるのを、むりやり河へ突陥めたって……ほんと?
母親 (身震いをし)止めておくれ。厭な話だ。──けれどもほんとはほんとだよ。阿父さんも、阿母んも、私達二人の若い時っからの友達で、一緒に踊ったり、氷の上を滑ったり……。楽い思いをしているうちに、かあさんは、お前の阿父さんと、一緒になり彼方も彼方で家を持った──よく酒を飲む謡の上手な男だっけが。──恐ろしい恐ろしい。鬼が憑いたんだよ。
エッダ ヨハンは、誰からか、きっとそんなことでも聞いたのよ。だから。
母親 (ふと、戸外に耳を欹て)しっ!(指を立ててエッダに合図をする。さりげない調子で)もういい加減に休んだらいいじゃあないか? エッダ。
エッダ ああ。
ところへ、ヨハネス、木履のような靴をはき、薄緑色の布の帽子、粗毛織の仕事着の装い下手の扉から現れる。神経質そうな、細そりとした若者。
母親 ヨハンかえ?
ヨハネス ああ。ただいま。
エッダ (糸車を片よせつつ、振返り、元気に)お帰り! どこに迷子んなっていたの?
ヨハネス (微笑み、エッダの丸い体の動くのを見ながら)戸外の風は、さっぱりするからね。
母親 (これも縫物をしまいながら)もうやがて、嚔の出そうな時節じゃあないか。雲を見るのも、夏だけにおしよ。……それはそうと、どんな塩梅だったね? あの渦は……。
ヨハネス ああ、あれの心配ならもう入用ないよ。すっかりぴんぴんして、他の羊どもと大巫山戯をやっていたもの。
母親 (棚から皿小鉢をおろしながら)よかったね。私は阿父さんの留守の間に一匹でも子供等に死なれちゃあ堪らないと思ったからね。(火をほげたり、鍋を掻き廻したりする)
ヨハネス、エッダの傍に行き、
ヨハネス 阿父さんは今日も帰らないの?
エッダ もう二晩泊るんだって。──町から来た人が阿父さんの言伝てを持って来たわ。
ヨハネス 今度の市には、俺も行って見たいな。──エッダ、一緒に行かないか?
エッダ どうするの?
ヨハネス 賑やかな市街の様子を一緒に見るの──何か買ってあげるよ。
エッダ 詰らないわ。阿父さんは、町の女や男は、それは、それは、小ざっぱりとしているんだって云ってよ。もう種々な物を一杯飾った店ばかりなんだって。──そんなところへ行って、たった一本飾紐位買ったって──それに、着物もありゃあしないわよ。
ヨハネス 衣裳なんぞは、俺もないけれど──綺麗なところを一緒に見るのはいいじゃあないか、皆俺たちの物ばかりだと想えばいい。
エッダ (おかしがって)ははははは、たった一クローネで? はははは阿母さん! ヨハンたら、たった一クローネで、市中の物を買い占めるんだって!
母親 (美味そうに湯気の立つスープを鉢によそい)さあさあエッダ。ヨハンは原っぱで腹を空かして来たんだよ、喋って許りいずに──。
エッダ、ヨハネスと顔を見合わせ、忍笑い、肩を竦めてチロリと舌を出し、母親のところへ駆けつける。鉢を受取り、長卓子の上に置き、
エッダ さあ、お殿様! 御飯を召上って下さい。
ヨハン、楽しそうに卓子につく。エッダ、駆けて棚からパンやその他二三の食物を運んで来、ヨハネスと向い合って、卓子の上に両腕をかけ坐る。ヨハネスの食べるのを頭を曲げ息をつめて見守り、一匙が終ると、意気込んで訊く。
エッダ どう? 美味しくなくって?
ヨハネス まるで御馳走だね。どうしたの?
エッダ (唾をのむようにし)美味しいでしょう? 今日はね、昼からすっかり砂糖煮を拵えたの、その余だわ。
(一寸母の方を偸見、悪戯らしく囁く)私、林檎のスープが大好きでしょう? 阿母さんは儉約家だから、ちっとでも傷のないのは、皆丸煮にするって云うのよ。仕様がないから、私、そうっと地べたにおっことしたり、噛みついたりして、駄目を出したの。お蔭で、お前までこんなスープにありつけたんだわ。
ヨハネス 有難うよ。
空腹と見え、ヨハネスせっせと物を食べる。エッダ感服して眺め、やがてさも大発見をしたように、大きな声で、
エッダ ヨハン! まあ、どうしてお前、そんな猿みたいな顔をするの?
ヨハネス (首を擡げ、口の辺を拭き)何が?
エッダ パンを食べる時さ。なぜそんな猿みたいな顔をするの?
ヨハネス ほんとかえ?
エッダ (力を入れて頷き)ほんとだとも! まあ、私ちっとも今まで知らなかったわ。
ヨハネス (照れ)いそいで食ったから──。
エッダ (俄に好奇心で熱くなり)ね、ヨハン、もう一口食べて御覧よ。ね、ゆっくり。私こうやって見てみるわ。
ヨハネス、少し赧い顔をし、工合悪そうに、ゆっくりパンの一切れを食べる。
エッダ (熱心に見守り)ほら! ほら、ほら! まるで、本ものよ、ヨハン。まあ、お前ッたら!
母親 何だえ? 大騒ぎをして──
エッダ (得意げに)ヨハンが猿なのよ。
母親 馬鹿! お前の頭の螺旋がゆるんだんだろう、しっかりおし。
エッダ そうじゃあないわ。だって、ほんとにそうなんだもの。
ヨハネス (機嫌わるく)光線のせいだよ、エッダ。
エッダ (熱中し)いいえ! こっちから見たって、矢張り同じよ。(場所を更えて、なお見守る)
ヨハネス (神経質になり、顔を平手で撫で廻し)お前のように、ふっくらしていないからそう見えるんだよ。
エッダ (ヨハネスが真面目なので、不意と嬲る気になる)瘠っぽちだって、猿と人間とは異うわよ。
ヨハネス (もう飲むことも、食うことも出来なくなり)エッダ! 止めてくれ(悲しそうに)俺は──……お前の好きなほど美い男じゃあないが──まさか猿じゃないよ。俺の阿父だって俺を生んでくれた阿母だって。
エッダ (笑い、小娘らしい意地悪さで)なあに?
ヨハネス 歴とした村の衆だ。
エッダ そう? お前偉いのね。見たこともない親のことが判るの?
母親 エッダ。下らない口論はおやめ、人間が猿で堪るものか。
エッダ 猿が人間じゃあ、なお堪らない!
ヨハネス (決然と)お前が何と云ったって、俺が猿でないことはわかってるよ。見な。手だってお前のほど白くこそないが、同じ形だ。足だって、ほら。第一言葉が通じるじゃないか。
エッダ (負けず)それは、お前だけが、そうと思っているんじゃあないの? 誰の眼で見ている?「お前の眼」じゃないの? 誰の耳で聴いているの?「お前の耳」じゃあなくって。お前の眼が私の眼と同じだっていうのは、ただ、お前だけがそう思う、というばかりよ。お前の頭が狂っていないって。
母親 エッダ。云うことをお考え!
エッダ (はっとする。が、強いて勢いよく)ほんとにそうじゃあないの? お前が見て、これに間違いはないと思う世界の様子だって、どこまで真実か解りゃあしないわ。逆に立ったって、お前は、お前の頭でほか、見るも考えるも出来やしないんだもの。
ヨハネス ──(不安を面に漲し、凝っとエッダの顔を見る)──エッダ……エッダ──お前は(深い感情を以て)エッダに違いないだろう?
エッダ (笑い)知らなくってよ! お前が自分を猿じゃあないと思い込むと同じに、まるで異ったどこかの婆ちゃんを、エッダだと思っているのかもしれやしないわ。
ヨハネス (混乱した顔になり)ああエッダ。(焦々しく)はっきりしてくれ。ね(エッダの手を執ろうとする)お前はエッダだよ。ね、俺が、死んだ親父の息子のヨハネスの通りに。ね。
エッダ (いよいよ笑い)お猿さん! 人の真似する痩猿さん!
ヨハネス、さっと立ち上る。エッダ面白そうな声をあげ、逃げようとする。ヨハネス突立ったまま、堪えられないように低く呻き、髪を掴み、いきなり顔中を動して、ほんとに獣のような相貌をする。
エッダ (中腰になったまま)あら!
ヨハネス、いきなり体中の力を入れて、エッダを捕まえようとする。エッダ怖れ、叫び、飛ぶように、扉の方から室外へ逃げる。母親、驚いて椅子から立ち、扉の方とヨハネスとを見、
母親 どうしたんだい一体。何をしたの?
ヨハネス、黙って突立ち、眼をしばたたき、まるで絶望したように、くしゃくしゃ顔を歪める。 幕。
第二 その夜、ヨハネスの部屋
上手に小さい窓。下手には入口、低い寝台。正面に衣裳箱、上に四角な鏡を立てかけ、燭台、聖書、櫛等置いてある。中央には机、椅子。洋燈の黄色い光りが机の前に坐ったヨハネスの影法師を大きく後の壁に投げている。
ヨハネス、頬杖を突き、考えに沈んでいる。幾ら考えても解らない風。髪の中に指をくぐらせ左手で襯衣の襟元を烈しく寛める、顔には、深い、深い懐疑と苦悶が現れる。唇をきっと緊め、立ち、鏡を洋燈のところへ持って来る。腰をかけ、燈の蕊をあげ、両手で鏡をつかまえて、睨むようにその面を見る。泣くような呻き声。
「エッダ!」
鏡をすて、部屋中を重く歩き廻る。
どうにかして、この考えを振り棄てたいというように、時々立ち止っては柱に頭を圧しつけ、壁に倚りかかる。が、苦しさは増し、やがて、どうにでもなれ! という風に洋燈を吹消してしまう。真暗闇の中で靴を脱ぐ音、寝床の掛布を動す音。ひっそりとする。やがて、苦しげな寝返りの気勢。吐息。沈黙。いきなり、ひどい勢いでヨハネス寝床から飛び起る。素足でひたひたと床を踏み、衣裳箱の上の燭台に灯をつける。そして、蝋燭を引よせ、涙の跡のついた顔を鏡に写す。暗い鏡の面で、揺れる灯かげを受けた片影の顔が、不気味に見える。ヨハネス、緊張に堪えないように、わざと顔を動す。眉を動し唇を歪め、突然、
「あッ!」
鏡の中に、はっきり人間と猿の混血児のような動物の顔が見える。脅かされ、後じさり、息も塞って、
「猿!……猿!」
目も離さずに見るうちに、鏡面の動物の顔は、だんだん大きくなり、活々とし笑うように震えながら、鏡の中から抜け出して来る、ヨハネス、一歩、一歩と後退りながら、
「何だ! 貴様は、何だ!」
一切構わずその動物の顔は、刻々、延び、拡がり、迫って来る。ヨハネス、狂ったように扉の方に走けつける。開かず。窓の方に走りよる。動かず、
「ああ! ああ! エッダ!」
両手を投げあげ、気絶して床に倒れる。震えつつ、しぼみつつ、奇怪な大きな顔は消え失せる──静かな、小さい蝋燭の瞬。── 幕。
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
1979(昭和54)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月7日公開
青空文庫作成ファイル:
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