宵(一幕)
宮本百合子
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人 物
中西 良三(小児科医) 三十四歳
同 やす子(良三の妻) 二十三歳
同 つや子(彼等の幼児) 二つ
たみ(子守女) 十七歳
書生
所
東京市内 静かな山の手
時
現代 或る秋の宵
幕開く
中西良三宅。 茶の間。
庭に面した八畳の座敷、廻縁付。障子は悉く開け放されている。
正面上手の壁には、瀟洒な秋草を描いた銀地の色紙をかけ、下に、桑の茶箪笥。稍々下って配置よく長火鉢や水屋棚が置いてある。
同じく下手は、二枚の襖で奥に通じ、傍に畳んで置いてあるつや子のくるみ袢纏が、鮮やかなメリンス友禅の色を浮上らせて、庭の暗闇と著しい対照をなす。
中西良三、寛いだ黒っぽい平常着、
やす子は、穏やかな束髪、銘仙の着物、羽二重の帯、
二人とも、見物に横顔を見せながら、食卓に向っている。
縁そと上手には、八つ手の植込みのかげに、障子の閉った部屋が見える。
やす子 (少し延び上って、卓子の中央に煮えている寄せ鍋の加減を見る)どう? お加減は。もう少し足しましょうか?
良 三 結構だよ。有難う、お前もおあがりな、まあそう気を揉むなよ。
やす子 (笑う)気なんか揉みゃしませんわ、だけれど、どうかと思って……
二人とも黙って箸を運ぶ、平和な静けさ。突然、
やす子 ああ、忘れていた!(と云いながら良人の顔を見る。)先刻ね、津本さんからお電話が掛りましてよ。
良 三 ほう何だッて?
やす子 矢張りいつものお嬢さんのこと。二三日前からどうも工合がよくないから、今夜でも来てくれっておっしゃるの。だけれども、まだお帰りがなかったから、とにかく御用の趣だけは申し伝えます、と云って置きましたわ……(一種の表情)それにしてもまああのお家じゃあ、よくお嬢さんに病気許りさせていらっしゃるのね、先月だってどこか苦情がおありになったんでしょう?
良 三 可哀そうに。まさか病気を「させ」る積りじゃああるまいが──とにかく弱いことは弱いね。
やす子 でも、私あの方のお家を見ると、ただ生れつき弱いからという許りじゃあないように思えますわ。おかあさまなんか、まるで家に落付いていらっしゃらないんですもの。いつだって、熱度の計りようも知らないような女中だか家庭教師だか見たいな人ばかり、電話に出るんですのよ。
良 三 (苦笑)まあいいさね、どうでも。津本のことは津本のことだ。そう憤慨しずに御飯でもよそっておくれ。(茶碗を出す)
やす子 (無条件な笑顔)だって……子供が可哀そうですわ(飯を盛って渡す。また真面目な表情)──だけれど、ああいう方なんか、どんな心持で御自分の子供を見ていらっしゃるんでしょうね。
貴方、そうお思いなさらなくって? わざわざ貧民の子供なんかを集めて世話を焼きながら、御自分の子は、馬鹿みたいな雇人まかせで安心していらっしゃるなんて、私には到底分りませんわ。
良 三 (幸福を感じつつ揶揄する)それは、お前は偉いさ。何にしろ模範的賢母なんだからね、つや子がさぞ素晴らしいものになるだろうよ。
やす子 ……(微笑)
良 三 然し、また、柳田の奥さんみたいでも堪らないからな。いくら拘わないのがいけないからって、ああ子供と医者とで討死しちまうようじゃあ助からない。
やす子 (はっきりして、良人を見る)まあ、そんな?
良 三 一遍行って会って御覧、大抵の者はいい加減毒気を抜かれるよ。
やす子 (苦笑)……
ところへ、書生、夕刊二枚許りと一緒に、三四通の手紙を持って来る。
書 生 これが参りました。
やす子 はい、どうも有難う。(一まとめにしてそれ等を良人に渡す。書生去る。良三、箸を持ったまま、先ず上の封書を開き黙読する)
やす子 (静に鉄瓶から茶碗に湯を注ぐ。良人の方を眺めながら)何方から?
良 三 山田さ。……また朝鮮から出て来たから、土曜の晩にでも、一緒に飯を食いたいって云って寄来したのだ。
やす子 そうお。よくお出られになるのね。そのくらい自由が利けば、朝鮮も悪くありませんわね。うちへお呼びしてもよろしいことよ。(夕刊を取ろうとして、一つの封書に目をつける。ふと、意外だという表情)
まあ! 一寸。(手紙を取りあげる)柳田さんの奥さんから何か来ましてよ、噂すれば影ね──何でしょう、まさ子ってあの方でしょう?
良 三 (読みかけの手紙からチラリとその方を見)へえー、何だろう、まさ子ならそうだね。(読み終ったのを手早く封筒に入れ、やす子の出す、灰色っぽい手紙をとる。裏表をかえして見)何が起ったんだろう。
やす子 (箸箱へ、良人と自分との箸をしまいながら、時々くり拡げられる巻紙を見る)短いじゃあありませんの。
良 三 うむ。(注意を全く手紙に奪れている。読むにつれて、次第に陰気な、険しい表情が眉宇の間に漲って来る)
やす子 (それに心付き、心配そうに小声で訊く)どうなすったの?
良 三 (無言。口元が激した感情で、次第に緊張して来る。読み終ると、ぞんざいに、巻紙を拡げたまま卓子の上になげ出す)フム!(溜息と共に吐く)
やす子 (思わず愕然とする)まあ! どうなすったのよ、ほんとに。(手紙と良三を素早く見較べる)何と云ってお寄来しになりましたの、見てもいいでしょう?(手紙を取ろうとする)
良 三 まあお待ち。僕が読んでやる。(感情を強いて制した語勢)あの奥さんが、また芝居気を出したのさ。つまらない。こんなものを寄来して、どうしようというんだ!
やす子 そんなに亢奮なすったって仕様がないじゃあないの? だから何と云ってお寄来しになりましたって云うのに。
良 三 じゃあいいかね、読むよ(わざと、手紙に対しての侮蔑を示すような、おどけかた)よく聞いておいで。(以下文面)
拝啓、朝夕は風も身にしみる時節となりました。先生は相変らず御健勝、御活動のことと大慶に存じ上げます。さて、いつぞや御来診を願いまして、本意を遂げませんでした幼児は、以来引続き、その健康を気づかわれておりましたが、ついに、昨二十一日、午前十一時半、あらゆる母の希願を空しくして、果敢なくなってしまいました。
やす子 (思わず)まあ!!
良 三 (おっかぶせ)これからが聞きものなのさ。(文面)
勿論、今となりましては総て返らぬ繰言でございます。何ごとも定められた運命と思い諦めるより、致しかたはございません。
けれども、母の身となりましては、せめてこうなります前、一度でも、斯界の泰斗として衆望を聚められる先生の霊腕に接し得なかったことのみが、かえすがえすも、心遺りに存ぜられます。
終りに先生の御健康を祈り、博大なる御心を以て、世の幾百の哀れなる幼児のために、御尽力あらんことを切望致します。
敬 白
柳田まさ子
中西良三先生
玉机下
良 三 どうだい?(やす子が涙を目一杯にしているのを見て、我知らず調子を変える)勿論僕だって、子供に死なれたことは幾重にも同情するさ。親の身になったら全く堪るまいからな、然し、自分の子供が死んだからって、何も、僕にこんな意味深長な矢文を投げて寄来さないだっていいじゃあないか? 底意が癪に触る。どうしろと云うのだ!(次第に語気烈しくなる)
やす子 (感動した顔をあげる)……だって、──それは嘘ではありませんことよ。貴方!(凝っと良三を見る)
良 三 嘘ではないって──書く動機がか?
やす子 ええ。──それは確に少し何だか……そうね、芝居がかりかも知れないけれども、ほんとはほんとですことよ。あの方は、ほんとにそういう感動に打れてお書きになったのですわ──(低い、厳かな声)一体、貴方、何をなさったの?
良 三 何をなすった? ハハハ(神経的な笑)細君に迄そう詰問されちゃあ立つ瀬がないね。何でもありゃあしないのさ、(自ずと弁解的な口調に落ちる)ほら、いつだったか、余程前に、岡や何かと釣に出かけようとしている時、柳田から電話が掛ったことがあったろう?
やす子 (手紙をとりあげ、見るともなく眺め、考えに沈んでいる)そうでしたかしら、思い出せませんわ。
良 三 その時、奥さんが自分で電話に出て、僕に来てくれと云ったのさ、去年生れた子が、どうも呼吸器を悪くしているらしいからってね。然し、僕の方だって偶の休みで、せっかく岡たちとも約束してあるのだから、事情を云って断ったのだ、ほかに仕様がなかったからね。それを今日まで根に持っているのだ。──
利口なようでも女は女だね!
やす子 それだけのこと!(疑しそう)
良 三 勿論じゃあないか!(力瘤を入れる)その時こう云ったのだ。僕も今日は偶の休みで、釣に行くところで駄目ですから、明日病院の方へ連れていらっしゃいってね。そうしたら、怒ったような声で、戸外が寒いのに風には当てられません、またいずれそのうちに致しますって云っていたっけが……一体、何さ、子供をなくした女親なんていうものは、誰の顔を見ても食ってかかりたいものだろうさ、泣きたいならいくら泣いても構わないが、見当違いの説法だけは聞かされたくないものだね……ああ、ああ(坐ったまま擬勢的な空欠伸をする)詰らない商売を始めたもんだ!
やす子 (良三の様子を苦々しげに見る)貴方。よくそんな平気な風をしていらっしゃれるのね、お気の毒じゃあありませんか。一寸電話ででもお悔みを云っておあげ遊ばせよ。あんなに子供を命にしていらっしゃる方が……可哀そうだわ。──何番?(立とうとする)
良 三 おい、止せ止せ。下らない!
やす子 (中腰のまま)まあ。何故? そうすべきものではありませんの? 貴方。
良 三 僕はいやだよ。妙に人道主義者振るのはよしてくれ。詰らない。──
第一考えて御覧な、(だんだん熱中する)医者だって、人間だよ。人間なら、偶には職務以外の楽しみだって持ちたく思うのは当然だろうじゃあないか。
世の中に、病人ほど、或は病人の近親ほど利己主義な者はありゃあしない。雨が降ろうが槍が降ろうが、こっちで一声、病気だと云いさえすれば、忽ち馳せ参じて全力を傾倒するものだと、てんから定めてかかっているのだ。柳田の奥さんが癪にさわったのも、つまり自負心を傷けられたからなのさ。若し実際それほど僕の「霊腕」に接したければ、翌日でもまた改めて迎えに寄来したらいいじゃあないか、自分の方でするだけのことを尽して置きもしないで、死なれると逆捩を喰わせて、大いに良心に咎めさせようとするなんか、随分傲慢きわまった話だ。ただ死んだという報告だけなら、こちらだって人間らしい気持で純粋に同情もしてやれるが、こんな、思い知ったか、と云うような文句を投げつけられて、僕には、その上の御機嫌伺迄出来ないよ、そういうのは、馬鹿正直というんだ。
やす子 それは奥さんのなさりかたも感情的ね。──でも……何だか気が済まないようじゃあありませんの? さっぱりしませんわ、電話をかけましょうよ。
良 三 ──少しは胆にこたえたか、と云って奥さんは、いよいよ壮重な涙を「幾百の幼児のために」こぼすだろう。
やす子 随分意地ずくね(目に止まらぬ寂しき笑)……無理にかけようとは申しませんことよ。
良 三 (黙々として楊子を使いながら、夕刊を見はじめる。いくら辛辣な言葉を吐いても、気分のうっとうしさは散じきらないという様子)
やす子 せっかくの御飯が台なしになりましたわね、いけなかったこと。(努めて良三の気を引立たせようとする本能的な心づかい。ちょいちょい彼の方を見ながら、食卓を片づけ始める。)
遠くで、子供の泣声がする。だんだんそれが近づくにつれてやす子の注意がその方に集注される。
やす子 (手塩を親指と央指とで抓みあげたまま、耳を立てる)つやちゃんだわ……どうしたんだろう今頃……(振返って、茶箪笥の上の時計を見る)
泣声はだんだん近より、八つ手の植込みのかげの部屋で、
「さあ、よい子よい子、つや子ちゃま、なきなきおやめあちょばせよ」
と子守が節をつけてあやしているのが聞える。
子供は泣き止まない。
やす子 (独白)困るわね、泣くと連れて来るんですもの。
やす子、子守に負けるものかというように食器を盆にのせたり、水焜炉の火を長火鉢に移したりする。
がとうとう気になって堪らなくなった声で子守を呼ぶ。
やす子 たみ、こちらへ連れておいで。
待ちかねていたように、「はい」と返事が聞える。上手の縁側から、たみ、白い前掛に、染絣の着物、赤まじりの帯で、つや子を抱いて来る。
つや子は、可愛らしい友禅の袖なし、大きな犬張子の縫をしたエプロンをかけた、色白の肥った愛らしい子、右の手で耳の辺を払うようにしては啜りあげている。母の顔を涙の裡から見て、小さい手を延す。
やす子 はい、はい、つやちゃんや、どうしたの、え?(可愛くて堪らなそうにたみの手からとり、頬ずりをする。顔を離し)ばあ!(と笑う)
さあ、いいお顔をして頂戴、いいお顔はどんなお顔? ほら、いないいないばあ! ね、父ちゃま、はいはいはい!
つや子を膝の上に立たせ、笑わせようとする。たみ傍に膝をついて、手を打ちながら笑って見せている。子供は、笑いたそうにしては、また顰め顔になって泣き出す。
やす子 まあ、どうしたのだろう(子守に向って)余程前からこんななの?
た み いいえ、それほどでもございません。何だか不意にお泣き出しになって……
やす子 どうしたんでしょうね本当に。
いろいろやって見る。つや子の機嫌はなおらない。
一寸、貴方!(良三の背中を呼ぶ)済みませんけれども一寸見てやって下さらないこと?
良 三 (やや面倒くさそうに)おむつだよ。
やす子 そんなことあるもんですか。……取りかえてやってくれたろう?
た み 今一寸前すっかりおなおし致しました。
やす子 それだものね、おむつじゃあないわね。父ちゃま、何でも、おむつでは困りますよっておっしゃい、つやちゃん。
ぱぱぱぱ(つや子の小さい指を、自分の唇に挾んで鳴しながら、あっちこっち丸い体を検べる。ふと右の耳を見ると一緒に、やす子の顔付が変る。あわててつや子を横に抱きなおし、懸命な顔でそこを見る。ぞっとした表情。さっと蒼くなる)まあ、貴方! 大変よつや子の耳が!(震えながら、なおもなおも耳の上に屈む)
良 三 耳が? どうしたんだ。(ぱっと立って来る)
やす子 耳から血が、これ、こんな、塊って出ているのよ。
た み (顔色を変える)ほんとでございますか?(二人の間から覗き込もうとする)
やす子 ほら! 御覧なさい。こんなよ、どうしましょう。(せわしく良三とつや子の顔に眼を走せる)
良 三 (無意識に緊張し、そっと耳の周囲を押して見る、つや子火のついたように泣く)
やす子 (もう真蒼になり、我知らず厳しい声で)たみお前どうもしやしまいね。
た み (おろおろする)まあ奥様!
良 三 まあいいから、早くあの書斎の机から反射鏡を持って来い。銀色の平べったい、ほら知ってるだろう、黒い柄のある。──
た み はい(立つ。後から)
やす子 熱度計りもね、赤いかさに入ったのよ。
内部からでしょうか(灯に覗くようにする)外に傷はないわね。
良 三 (自らなる不安、頭を重ねてやす子と同じ処を見るようにする)どうしたのかな、変だね、急にこんな出血をするなんて、まだ新らしく出て来るかい?
やす子 そうでもなさそうですわ。
良 三 (頭をつや子から離し)今迄どうもありあしなかったんだろうね。
やす子 (憤然とする)そんな不注意だと思っていらっしゃるの? さっきまで平常の通りだったんですわ……(まるで異った、苦しげな涙のつまった声。一語一語力を入れて)貴方……だいじょうぶ?
良 三 何が?
やす子 何がって(睨むように顔を見合わせる)定ってるじゃあないの、若し……若し(泣き出す。急につや子を強く抱きしめ)可哀そうにね、つやちゃん、早くよくなって頂戴! ほんとにかあさんが願うことよ。堪らないわ、私。──痛いの? え? 痛むの?
良 三 (真剣になって来る)痛いから泣くのさ。
とにかく、大切なお前からそう上気せあがっては駄目だよ、確かりしろ確り!
ほい、ほい、つや子、つや子。(あやしながら職業的な落付を失わずに脈を数える)ふむ。
た み (殆ど馳けて二品を持って来る)はい。
良 三 (反射鏡で耳の内部を照して見る。息を潜めた周囲の沈黙。無言の裡に自分の位置を変えたり、つや子の頭を動したりした後)見えないね一向。中が汚れているせいだろう。
やす子 (急に良三をせき立てる)仕様がないわね。貴方で駄目なら、どうぞ早く横田さんにお掛けになって頂戴よ。熱を計って見ますから。ね?
良 三 そうしよう。(行きかける)
やす子 (後から)頭でも冷してやらないで大丈夫でしょうか。
良 三 (廊下へ踏み出しながら)まあともかく聞いて見よう。(去る)
やす子 (身も世もあられない様子で、泣きじゃくるつや子の顔を見つめる。涙がひとりでに頬を落ちる。強いてはっきりした声で、その方は向かずに)たみ、ぱいぱいさんを持って来て御覧。
た み はい。空ぱいでよろしゅうございますか?
やす子 ああ。早く。
たみ、急いで茶箪笥のガラス器の中からゴムの乳首を出して来る。
やす子、片手でこれをつや子にあてがったまま耳を澄ます、ベルの音。話声がはっきり聞えて来る。
良三の声 あ、番町の三千九百五十六番……ああ、もしもし横田さんですか? 先生は御在宅ですか? そう、僕は中西ですが、一寸電話口まで出て頂けるでしょうか……ええ、──どうぞ。
やす子 (僅にほっとしたらしく囁く)いらっしゃるらしいね。
た み さようでございますね。(共にきき耳を立てる)
良三の声 やあ横田君か? せっかくお休の処を偉い邪魔をしたね。──いや、どう致して。……そうだろうとも。
実はね、突然だが、うちの赤坊が、先刻から妙に泣き立てると思ったら、どうかして耳に少々出血しているのさ。何?──ああ、見たがね、駄目だよ、別に脈搏に異状もないから大したことじゃあなかろうと思うんだが、何しろ、当人より阿母さんの心配の方が激しい有様だから気の毒でも、一つ来て貰えないだろうか。若し都合して貰えれば、直ぐ車をやるが。
やす子 (確かりつや子を抱きながら、一層注意を傾ける)
良三の声 フム、フム、そうかい──それは困ったな。
やす子 (思わず、はっとする、つや子を抱いたまま立上る。)
良三の声 いいや、決してそんなことはない。仕方がないさ。そうそうはお互に務まりかねるからねハハハ(強いて快活な笑声)──じゃあそうしてくれ給え、三谷にでも訊いて見よう、ウム有難う、じゃあ失敬、忙しい処を迷惑だったね……失敬。
ベルの音。
やす子 (まだ姿の現れない良三の方に顔を向けて、言葉をかける。非常に焦立った不安な声)どうでして? 駄目?
良 三 駄目だとさ(云いながら出て来る)謡の会があって自分が主宰者だからどうしても今夜は抜けられないと云うんだ。(わざとやす子を見ず、つや子を覗き込む)どうだね?
やす子 まあ! 謡ですって? 呑気ね、(やす子失望と不安で我知らず自制を失う)抜けられないって、一晩中掛るのじゃあ、あるまいし。あの方の謡なんかより、つや子の命の方が、よっぽど大切ですことよ。(良三を鋭く見る)うんそうかって引込んでいらっしゃる貴方も貴方ね。
良 三 おい、おい(たしなめる)「奥さん」になるなよ。そう無茶を云ったって仕様がないじゃあないか。(二重の意味ある声)あの男だって、偶の楽しみであって見ればフイにされたくもなかろうさ。(心に湧く感情を、強いて紛らすように、髭の辺を撫で、部屋を歩き廻り始める)
やす子 (忽ち、或ることを直覚する。鋭い表情で良三を見詰める)弁解?
やす子の顔には、歴然と不愉快、嫌厭の表情が現れる。唇をかみしめながら、無言で計温器を出し、灯にすかして見る。殆ど叱責するような語調。
やす子 貴方! 八度一分よ。(緊張した沈黙、じっと喰い入るように落付かない良三を睨まえていたやす子は、怒った牝獅子のように憤然として)貴方!(唇が震える。それをぐっと堪え)私は、貴方の意地で、子供を殺してはいられませんよ。
良 三 (打たれたように、やす子を見る。つや子を見る。益々落付きなく部屋を歩き廻り、立止り、何か云おうとする。が、止め、遽しく部屋を出、廊下に消える。)
やがてベルの音。
良三の声 (沈んで重々しく)小石川の九百五十二番。
やす子、思わず深い深い溜息をつき、つや子を見、涙をほろほろとこぼす。彼女は立ったまま、たみ、膝をついて中腰になったまま等しく眼を据えて、電話の方に耳を欹てる。──
非常に、静に、幕。[地より11字上げ]
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
1979(昭和54)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月8日公開
2003年6月29日修正
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