道標
宮本百合子

道標 第一部



第一章




 からだの下で、列車がゴットンと鈍く大きくゆりかえしながら止った。その拍子に眼がさめた。伸子は、そんな気がして眼をあけた。だが、伸子の眼の前のすぐそばには緑と白のゴバン縞のテーブルかけをかけた四角いテーブルが立っている。そのテーブルの上に伸子のハンド・バッグだの素子の書類入鞄だのがごたごたのっていて、目をうつすと白く塗られた入口のドアの横に、大小数個のトランク、二つの行李、ハルビンで用意した食糧入れの柳製大籠などが、いかにもひとまずそこまで運びこんだという風に積みあげられている。それらが、薄暗い光線のなかに見えた。素子は伸子の位置からすればTの型に、あっちの壁によせておかれているベッドで睡っている。それも、やっぱり薄暗い中に見える。

 ここはモスクヷだったのだ。伸子は急にはっきり目がさめた。自分たちはモスクヷへついている。──モスクヷ──。

 きのう彼女たちが北停車場へ着いたのは午後五時すぎだった。北国の冬の都会は全く宵景色で、駅からホテルまで来るタクシーの窓からすっかり暮れている街と、街路に流れている灯の色と、その灯かげを掠めて降っている元気のいい雪がみえた。タクシーの窓へ顔をぴったりよせてそとを見ている伸子の前を、どこか田舎風な大きい夜につつまれはじめた都会の街々が、低いところに灯かげをみせ、時には歩道に面した半地下室の店の中から扇形の明りをぱっと雪の降る歩道へ照し出したりして通りすぎた。通行人たちは黒い影絵となって足早にその光と雪の錯綜をよこぎっていた。それらの景色には、ヨーロッパの大都市としては思いがけないような人懐こさがあった。

 きょうはモスクヷの第一日。──その第一瞥。──伸子はこみ上げて来る感情を抑えきれなくなった。ベッドのきしみで素子をおこさないようにそっと半身おきあがって、窓のカーテンの裾を少しばかりもちあげた。そこへ頭をつっこむようにして外を見た。

 二重窓のそとに雪が降っていた。伸子たちがゆうべついたばかりのとき、軽く降っていた雪は、そのまま夜じゅう降りつづけていたものと見える。見えない空の高みから速くどっさりの雪が降っていて、ひろくない往来をへだてた向い側の大工事場の足場に積り、その工事場の入口に哨兵の休み場のために立っている小舎のきのこ屋根の上にも厚くつもっている。雪の降りしきるその横町には人通りもない。きこえて来る物音もない。そのしずかな雪降りの工事場の前のところを、一人の歩哨が銃をつり皮で肩にかけてゆっくり行ったり来たりしていた。さきのとんがった、赤い星のぬいつけられたフェルトの防寒帽をかぶって、雪の面とすれすれに長く大きい皮製裏毛の防寒外套の裾をひきずるようにして、歩哨は行ったり来たりしている。彼に気づかれることのない三階の窓のカーテンの隅からその様子を眺めおろしている伸子の口元に、ほほえみが浮んだ。ふる雪の中をゆっくり歩いている歩哨は、あとからあとからとおちて来る雪に向って、血色のいい若い顔をいくらか仰向かせ、わざと顔に雪をあてるような恰好で歩いている。若い歩哨は雪がすきらしかった。自分たちの国のゆたかで荘重な冬の季節を愛していて、体の暖い若い顔にかかる雪がうれしいのだろう。雪のすきな伸子には、歩哨の若者が顔を雪にあてる感情がわかるようだった。

「──ぶこちゃん?」

 うしろで、目をさましたばかりの素子の声がした。伸子は、カーテンをもち上げていたところから頭をひっこめた。

「めがさめた?」

「あーあよくねた、何時ごろなんだろう」

 そう云えば伸子もまだ時計をみていなかった。

「八時半だわ」

 素子は一寸の間黙っていたが、ベッドに横になったまま、

「カーテンあけてみないか」

と云った。伸子は、重く大きい海老えび茶木綿の綾織カーテンを勢よくひいた。狭いその一室に外光がさしこんだ。雪のふりしきる窓の全景があらわれ、うす緑色の塗料でぬられている彼女たちの室の壁が明るくなった。しかし、その明るさは大きい窓ガラス越しにふる雪の白さがかえって際だって見えるという程の明るさでしかなかった。

「これじゃ仕様がない、ぶこちゃん、電気つけようよ」

 スイッチを押し、灯をつけてから、伸子はドアをあけて首だけ出すようにホテルの廊下をのぞいた。くらい十二月の朝の気配や降る雪にすべての物音を消されている外界の様子が伸子にもの珍しかった。廊下のはずれにバケツを下げた掃除女の姿が見えるばかりだった。廊下をへだてた斜向はすむかいの室のドアもまだしまったままで、廊下のはじにニッケルのサモワールが出してあった。サモワールは、ゆうべ秋山宇一が彼の室へとりよせて瀬川雅夫などと一緒に、伸子たちをもてなしてくれたその名残りだった。

 ドアをしめて戻ると、伸子はにおちない風で、

「まだみんな寝てるのかしら──」

と小声を出した。

「まるでひっそりよ」

「ふうん」

 ゆっくりかまえていた素子は、

「どれ」

とおき上ると、わきの椅子の背にぬぎかけてあったものを一つ一つとって手早く身仕度をととのえはじめた。


 二人で廊下へ出てみても、やっぱり森閑として人気がない。伸子たちは、ドアの上に57という室番号が小さい楕円形の瀬戸ものに書いてある一室をノックした。

「はい」

 几帳面なロシア語の返事がドアのすぐうしろでした。素子がハンドルに手をかけると同時にドアは内側へひらかれた。

「や、お早うございます。さあ、どうぞ……」

 ロシア革命十周年記念の文化国賓として、二ヵ月ばかり前からモスクヷに来ている秋山宇一は、日本からつれて来た内海厚という外語の露語科を出た若いひととずっと一緒だった。ドアをあけたのは、内海だった。

「どうでした──第一夜の眠り心地は……」

 窓よりに置いたテーブルに向って長椅子にかけている秋山宇一が、ちょっとしゃれた工合に頭をうなずかせて挨拶しながら伸子たちにきいた。

「すっかりよく寝ちまった……なかなか降ってるじゃありませんか」

 素子がそう云いながら近づいて外を眺めるこの室の窓は、二つとも大通りの側に面していて、まうように降る雪をとおして通りの屋根屋根が見はらせた。

「今年は全体に雪がおくれたそうです。──四日だったかな、初雪がふったのは──」

 すこし秋田なまりのある言葉を、内海は、ロシア語を話すときと同じように几帳面に発音した。

「もう、これで根雪ですね。一月に入って、この降りがやむと、毎日快晴でほんとのロシアの厳冬マローズがはじまります」

 秋山も、はじめてみるモスクヷの冬らしい景色に心を動かされているらしかったが、

「じゃ、瀬川君に知らせましょうか」

と、内海をかえりみた。

「朝飯前だったんですか」

「ええ。あなたがたが起きられたら一緒にしようと思って」

「まあ、わるかったこと」

 きまりのわるい顔で伸子があやまった。

「わたしたち、寝坊してしまって……」

「いや、いいんです。私どもだって、さっき起きたばっかりなんですから……しかしソヴェトの人たちには、とてもかないませんね、実に精力的ですからね。夜あけ頃まで談論風発で、笑ったり踊ったりしているかと思うと、きちんと九時に出勤しているんだから……」

 そこへ、黒背広に縞ズボンのきちんとした服装で瀬川雅夫が入って来た。日本のロシア語の代表的な専門家として瀬川雅夫も国賓だった。演劇専門の佐内満は十日ばかり前にモスクヷからベルリンへ立ったというところだった。

「お早うございます。──いかがです? よくおやすみでしたか」

 秋山宇一は無産派の芸術家らしく、半白の長めな髪を総髪のような工合にかき上げている。瀬川雅夫は教授らしく髪をわけ、髭をたくわえている。それはいかにもめいめいのもっているその人らしさであった。その人らしいと云えば内海厚は、柔かい髪をぴったりと横幅のひろい額の上にきつけて、黒ぶちのロイド眼鏡をかけているのだが、その髪と眼鏡と上唇のうすい表情とが、伸子に十九世紀のおしまい頃のロシアの大学生を思いおこさせた。内海厚自身、その感じが気に入っていなくはないらしかった。

 やがて五人の日本人はテーブルを囲んで、茶道具類とパン、バタなどをとりよせ、殆ど衣類は入っていない秋山の衣裳箪笥だんすの棚にしまってあったゆうべののこりの、塩漬胡瓜きゅうりやチーズ、赤いきれいなイクラなどで朝飯をはじめた。

「ロシアの人は昔からよくお茶をのむことが小説にも出て来ますが、来てみると、実際にのみたくなるから妙ですよ」

 瀬川雅夫がそう云った。

「日本でも信州あたりの人はよくお茶をのみますね──大体寒い地方は、そうじゃないですか」

 もち前の啓蒙的な口調で、秋山が答えている。

 うまい塩漬胡瓜をうす切れにしてバタをつけたパンに添えてたべながらも、伸子の眼は雪の降っている窓のそとへひかれがちだった。モスクヷの雪……活々した感情が動いて、伸子のこころをしずかにさせないのであった。雪そのものについてだけ云うならば、ハルビンを出たシベリア鉄道が、バイカル湖にかかってから大ロシアへ出るまで数日の間、伸子たちは十二月中旬の果しないシベリアの雪を朝から夜まで車窓に見て来た。それは曠野の雪だった。雪と氷柱につつまれたステイションで、列車の発着をつげる鐘の音が、カン、カン、カンと凍りついたシベリアの大気の燦きのなかに響く。白い寂寞は美しかった。列車がノヴォシビリスクに着いたとき、いつものとおり外気を吸おうとして雪の上へおりた伸子は、凍りきってキラキラ明るく光る空気がまるでかたくて、鼻の穴に吸いこまれて来ないのにびっくりした。おどろいて笑いながら、つづけてきをした。そこは零下三十五度だった。雪が珍しいというのではなく、こんなに雪の降る、このモスクヷの生活が、伸子の予感をかきたてるのであった。

 食事も終りかかったころ、瀬川雅夫が、

「さて、あなたがたのきょうのスケジュールはどういう風です?」

と、伸子たちにきいた。

「別にこれってきめてはいないんですがね」

 きな色のスーツが黒い髪によく似合っている素子が答えた。

「大使館へでも一寸顔だしして来ようかと思っているんだけど。──手紙類を、大使館気づけで受けとるようにして来たから……」

 秋山宇一は、黙ったままそれをききながら小柄な体で、重ね合わせている脚をゆすった。

「じゃ、こうなさい」

 席から立ちかけながら、瀬川が云った。

「もう三十分もすると、どうせ私も出かけてВОКСへ行かなけりゃならない用がありますから、御案内しましょう。ВОКСは、いずれ行かなければならないところでしょうから」

「それがいいですよ。ВОКСを訪ねることは重要ですよ」

 濃くて長い眉の下に、不釣合に小さい二つの眼をしばたたきながら、我からうなずくようにして秋山宇一が云った。

「外国の文化人たちは、みんな世話になっているんですから」

「じゃ、それでいいですね」

 瀬川が実務家らしく話をうちきった。

「ВОКСからは大使館もじきです」

 ВОКСというのは、モスクヷにある対外文化連絡協会の略称であった。この対外文化連絡協会は、ソヴェト同盟の各都市に支部をもっているとともに、世界の国々に出張してもいる。伸子たちが、旅券の裏書のことで東京にあるソ連大使館のなかに住むパルヴィン博士に会った。あの灰黄色の眼をした巨人のようなひともВОКСの東京派遣員であった。こんど、佐内、秋山その他の人たちが国賓として来ているのも、万事はВОКСの斡旋によった。

 瀬川につづいて、出かける仕度に部屋へ戻ろうとする伸子たちに向って、茶道具がのったままのテーブルのところから秋山宇一が、

「ВОКСで、すごい美人がみられますよ。イタリー語と日本語のほかはあらゆる国語を話すんだそうです。アルメニア美人の典型でね──まア、みていらっしゃい」

 笑いながらそう云った。


 黒い羊のはららごの毛皮でこしらえたアストラカン帽をかぶり、同じ毛皮の襟のついた外套を着た瀬川雅夫について、素子と伸子とは雪の降る往来へ出た。ホテルの前の大きい普請場の入口を、いま一台の重い荷馬車が入りかけているところだった。歩哨の兵士のきているのによく似た裏毛の防寒外套の胸をはだけたまま、不精ひげの生えた頬っぺたの両側に防寒帽のたれをばたつかせたまま、馬子は、

「ダワイ! ダワイ! ダワイ!」

と太い声で馬をはげまし、ながえのところへ手をそえて自分も全身の力を出しながら、傾斜した渡板のむこうへ馬をわたらした。ダワイということばは、呉れ、という意味だとならった。馬子は、いかにも元気の出そうな調子でダワイ、ダワイと叫んだけれど、それはどういう意味なのだろう。一足おくれていた伸子に、

「ぶこちゃん!」

 素子が大きい声でよんだ。ホテルを出たばかりの街角に、三台橇が客待ちしていた。その一台に、素子がのりかけているところだった。日本風呂敷に包んだ大きい箱のようなものをわきにかかえた瀬川雅夫が、素子と並んでかけた。

「ぶこちゃん、前へ立つんだよ」

「どこへ?」

「ここへ──十分立てますよ」

 瀬川雅夫が防寒上靴をはいた足をひっこめながら云った。

「ほんの六七分のところだから大丈夫ですよ。却って面白いじゃないですか。……ほら、こうして」

 箱を素子にあずけ、瀬川は素子を自分の膝に半ばかけさせるようにした。

 三人をつみこんで橇は、トゥウェルスカヤの大通りへ向けていた馬首をゆっくり反対の方角へ向け直し、それから速歩で、家の窓々の並んだその通りを進みはじめた。いかにも鮮やかな緑色羅紗らしゃに毛皮のふちをつけた御者の丸形帽に雪は降りかかり、乗っている伸子たちの外套の襟や胸にも雪がかかる。それは風のない雪だった。橇はじき、トゥウェルスカヤの大通りと平行してモスクヷを縦にとおっている一本の街すじへ出た。そこは電車の通っていない商店街だった。パン屋。本屋。食料品店。何をうっているのか分らないがらんとした幾軒もの店。ショウ・ウィンドウが一面白く凍っていて花の色も見えない花屋の店。店の前のせまい歩道では防寒用に綿入れの半外套を着、フェルトの長靴をはき、ふくらんだ書類鞄をこわきにかかえた男たちが、肩や胸を雪で白くしながら足早に歩いている。茶色の毛糸のショールを頭から肩へかぶった女たちが、腕に籠をとおして、ゆっくり歩いている。向日葵ひまわりの種をかんで、そのからを雪の上へほき出しながら散歩のようにゆく少年がある。その街は古風で、商店は三階建てで雪の中に並び、雪の匂いとかすかな馬糞のにおいがしている。伸子たちののっている橇は、国立音楽学校の鉄柵の前を通りすぎ、やがて右側のひろい段々のある建物の前へとまった。

 三人で、その低い石段をのぼるとき、素子が何かのはずみで雪の上で足をすべらし、前へのめって、段々に手袋をはめた手をついた。素子はすぐ起き直った。そのまま表玄関に入った。

 そこがВОКСの建物であった。防寒靴を下足にあずける間も伸子は深い興味をもってこの二十世紀初頭の新様式(ヌーボー)で建てられている建物を見まわした。いずれは誰かモスクヷの金持の私邸として建てられたものだろう。表玄関からホールを仕切る大扉の欄間がステインド・グラスで、そこにはカリフォルニア・ポピーのような柔かい花弁の花が、大きくそのつるを唐草模様にして焼きつけられている。そのステインド・グラスの曲線をうけて、見事な上質ガラスのはまった大扉の枠も、下へゆくほどふくらみをもった曲線でつくられていて、華やかなガラスの花をうける葉の連想を与えられている。すぐとっつきに表階段があった。その手すりは大理石だが、それもヌーボー式のぬらりとした曲線で、花のずいが長くのびたように出来ている。おそらくフランス風を模倣してつくられたものだったろう。けれども、生粋にフランス風なひきしまった線は装飾のどこにも見当らなかった。あらゆる線の重さとその分厚さがロシア風で、この屋敷の豪奢ごうしゃは、はっきり、ロシア化されたフランス趣味というものを語っているようだった。

 対外文化連絡のための事務所として、この建物を選定したとき、モスクヷのその関係の委員会の人々はみんなこの建物を美しいと思い、外国から来るものに、観られるねうちのあるものと思って選んだろう。でも、その人々は、この建物の華麗が、フランス風を模しながら、こんなにもずっしりしたロシア気質を溢らしているという点の意味ふかい面白さ、殆どユーモアに近い面白みを、予測しただろうか。

 伸子は、一層興味を動かされて、ホールの左手にある一室に案内された。そこが応接室につかわれていて、もう数人の先客が、いくらかせた淡紅色のカーペットの上に自由にばらばらおかれているひじかけ椅子の上にかけていた。もとも、ここはやっぱり冬の客室につかわれていたらしく、曲線的なモーデリングのある天井は居心地よいように、暖い感じのあるように割合低く、奥ゆきのある張出し窓が通りに面している。そこにシャボテンの鉢植がのっていた。入ったつき当りにも出窓があり、その前に大型の事務用机が据えてある。事務机はもう一脚、あまりひろくないその室の左手の隅にあるきりだった。そっちでは白いブラウスを着た地味な婦人が事務をとっている。

 秋山宇一が特別注意した美人というのは、一言それと云われないでもわかるほど、際だった容貌の二十七八のアルメニア婦人だった。黒のスカートにうすい桃色のブラウスをつけ、美しい耳環をつけ、陶器のように青白い皮膚と、近東風な長い眉と、素晴らしい眼と、円くて、極めて赤い唇とをもって、その室に入ったつき当りのデスクをうけもっているのであった。

「ああ、プロフェッソル・セガァワ!」

 てきぱきした事務的な愛嬌よさでそのひとは椅子から立ち上った。そして、手入れよく房々とちぢらした黒い髪を頸のまわりでふりさばくようにして、デスクのむこう側から握手の手をのばした。それと同時に、新しい客としてそこに佇んでいる伸子と素子の方へ、それぞれ笑顔をむけ、やがてデスクのうらから出て来て、握手した。

「これが、ここの事務責任者のゴルシュキナさんです」

 そして、一人一人伸子と素子の専門と、ソヴェト旅行は個人の資格で来ていることを紹介した。

「ようこそおいでになりました」

 美しいその人は、仕事に訓練された要領よさで、いきなり英語で伸子たちに向って云った。

「私たちは、出来るだけ、あなたがたの御便利をはかりたいと思います。──どのくらい御滞在になりますか」

 素子が一寸躊躇ちゅうちょした。伸子は、

「瀬川さん、すみませんが、こう返事して頂戴ちょうだい。私たちは旅費のつづく間、そして、ソヴェトが私たちを追い出さない限り、いるつもりですって──」

「それは愉快です」

 ゴルシュキナは笑い出して、伸子の手をとった。

「じゃ、モスクヷ観光も、あんまりいそがないおつもり、というわけでしょうか」

「もちろんいろいろな場合、御助力いただかなければなりませんけれど、まあ段々に──。わたしは早くロシア語で蜜柑みかんを買えるようになりたいんです」

「あら、蜜柑がお気に入りましたか」

 こんどは伸子が笑い出した。ゴルシュキナは一緒に笑いながら、その黒い、大きい、睫毛まつげがきわだって人目をひく眼に機智を浮べた。そして云った。

「ソヴェト同盟を半年の間見物してね。最後に、一番気に入ったのは塩漬胡瓜だ、とおっしゃったお客様もありました」

 瀬川雅夫は、ゴルシュキナに、カーメネヷ夫人に会いたいと云った。

「一寸お待ち下さい」

 ゴルシュキナは、もう一つのデスクにいる婦人に、ノートを書いてわたしながら、

「みなさんお会いになりますか?」

ときいた。

「どうです、丁度いい機会だから会っておおきなさい」

 伸子たちにそう云って、瀬川は、

「どうか」

と、ゴルシュキナが書きいいように丁寧ていねいに吉見素子(ロシア文学専攻・翻訳家)佐々伸子(作家)と口述した。

 これで、伸子たちとの用に一段落がつき、ゴルシュキナは、さっきから待っていた三人のアメリカ人に、出来て来た書類をわたして説明しはじめた。

 そこへ、しずかな大股で、ひどく背の高くてやせてあから顔の四十がらみの男が入って来た。

「こんにちは、プロフェッソル瀬川」

 その声をきいて、伸子は思わずそのひとを見直した。こんな低音でものを云うひとに、はじめて出会った。それが自然の地声と見えて、ノヴァミルスキーというその人は瀬川に紹介された伸子たちに、やっぱり喉仏が胸の中にずり落ちてでもいるような最低音で挨拶した。彼の手には、さっきゴルシュキナが、もう一つのデスクの婦人にわたした水色の紙片がもたれていた。

「一寸おまち下さい」

 その室を出て行ったノヴァミルスキーは程なく戻って来た。そして、

「カーメネヷ夫人は、よろこんでお目にかかるそうです」

 例の最低音で云いながら、社交界の婦人にでもするように伸子たちに向って小腰をかがめた。

 ドアの開けはなされたいくつかの事務室の前をとおりすぎて、三人はその建物の奥まった一隅に案内された。たっぷり首から上だけ瀬川より背の高いノヴァミルスキーが、一つのドアの前に立って、内部へ注意をあつめながら慎重にノックした。若くない婦人の声が低く答えるのがきこえた。ノヴァミルスキーは、ドアをあけ、

「プロフェッソル瀬川」

と声をかけておいてから、

「さあ、どうぞ」

 自分はそとにのこって、ドアをしめた。

 そこは、明るい灰色と水色の調子で統一された広い部屋であった。よけいな装飾も余計な家具もない四角なその広間の左奥のところに立派なデスクがあった。その前に白ブラウスに灰鼠色のスーツをつけた断髪の婦人がかけて、書類をみていた。四十歳と五十歳との間ぐらいに見えるそのがっしりした肩幅の婦人は、瀬川や伸子たちが厚いカーペットの上を音なく歩いて、そのデスクから五六歩のところへ来るまで、手にもっている書類から視線をあげなかった。

「こんにちは。お忙しいところを暫くお邪魔いたします」

 いんぎんな瀬川の言葉で、その婦人は書類から目をあげた。

「こんにちは」

 そして、椅子から立ち上って、伸子たちに向って、辛うじて笑顔らしいものを向けた。伸子には、彼女のその第一印象がほんとに異様だった。男きょうだいのトロツキーにそっくりの重たくかくばった下顎をもっているカーメネヷ夫人は、じっと三白の眼で対手を見つめながら、奥歯をかみしめたまま努めて顔の上にあらわしているような笑顔をしたのであった。伸子は若い女らしく、ぼんやりした畏怖いふをその表情から感じた。

 瀬川雅夫は、夫人のそういう表情にももう馴れているとみえて、格別こだわったところもない風で彼女に丁重に握手し、それから伸子、素子を紹介した。夫人は、

「お目にかかって大変うれしゅうございます」

と云ったきりだった。最近の観光小旅行について瀬川がいかにも大学教授らしい長い文章で礼をのべ、それから立って壁ぎわの椅子においてあった風呂敷づつみをといて、大事にもって来た二尺足らずの箱を運んで来た。その桐箱は人形箱であった。ガラスのふたをずらせると、なかから、見事な本染めの振袖をつけ、肩に藤の花枝をかついで紅緒の塗笠をかぶった藤娘が出て来た。瀬川は、一尺五六寸もあるその精巧な人形をカーメネヷ夫人のデスクの上に立たせた。

「おちかづきになりました記念のために。また、ソヴェトと日本の文化の一層の親睦のために」

 暗色のカーメネヷ夫人の顔に、かすかではあるがまじりけのない物珍しさがあらわれた。

「大変きれいです!」

 その言葉のアクセントだけに、感歎のこころをあらわしながら、カーメネヷ夫人は、よりかかっていた回転椅子から上体をおこし、藤娘の人形を両手にとった。

「──非常に精巧な美術品です」

 カーメネヷ夫人は、ヨーロッパ婦人がこんな場合よくいう、オオとか、アアとかいう感歎詞は一つもつかわなかった。

 日本人形の名産地はソヴェトで云えばキエフのようなキヨトであること。この藤娘は京都の特に優秀な店でつくらしたものであること。人形の衣裳は、本仕度であるから、すっかりそのまま人間のつかうものの縮小であること。それらを瀬川はことこまかに説明した。

「もちろん、十分御承知のとおり、すべての日本婦人が毎日こういう美的な服装はして居りません──彼女たちの日常はなかなか辛いのですから……」

 瀬川の説明をだまってきき、それに対してうなずきながら、カーメネヷ夫人は、持ち前の三白眼でなおじっと、両手にもった人形を観察している。

 こっちの椅子から、伸子たちが、またじっと、その夫人のものごしを見まもっているのだった。伸子には、人形をみている夫人の胸の中をではなく、その断髪の頭の中を、どんな感想が通りすぎているか、きこえて来るような気がした。色どりは繊美であやもこいけれども、全く生気を欠いていてどこかにかわの匂いのする泥でつくられたその大人形は、カーメネヷ夫人の全存在と余りかけはなれていた。夫人は、実際、好奇の心をうごかされながら、未開な文化に対する物めずらしさを顔にあらわしてみているのだった。

 夫人は、ため息をつくような息づきをして、黙ったままそっと人形をデスクの上においた。

 また、いんぎんな瀬川の方から、何か話題を提供しなければならない羽目になった。

 伸子は、段々驚きの心を大きくして、わきにいる素子と目を見あわさないでいるのには努力がいった。こんなつき合いというものがあるだろうか。瀬川の日本人形が出されてさえ、夫人が、若い女性である伸子たちに、くつろいだ一言もかけないということは珍しいことだった。夫人の素振りをみると、何も伸子たちに感情を害しているというのでもないらしかった。ただ、関心がないのだ。

 そう思ってみると、カーメネヷ夫人のとりなしには、文化的であるが社交の要素も加味されているこの文化連絡協会の会長という立場に、据りきっていないところがあった。この広々として灰色としぶい水色で統一されたしずかな照明の部屋に一人いる夫人の内面の意識は非常に屡々しばしば、こうやって言葉のわからない外国人に会ったり、国際的な文化の話をしたりすることとは全く別などこかに集注されることがあるように感じられた。夫人は、彼女ひとりにわかっている理由によって万年不平におかれているようだった。

 瀬川は、新しい話題をさがしているようだったが、

「ああ、あなたがたのもっていらしたものがあったんでしょう?」

 伸子たちをかえりみた。

「いま、出したらどうです」

 心からのおくりものがとり出されるには、およそそぐわないその場の雰囲気だった。しかし、素子が、いくらかむっとして上気し、そのために美しくなった顔で立ち上り、二人のみやげとしてもって来たしぼり縮緬ちりめん袱紗ふくさと肉筆の花鳥の扇子とをとり出して、カーメネヷ夫人のデスクの上においた。そして、彼女はロシア語が出来るのに、ひとことも口をきかないで、ちょっとした身ぶりで、それを差しあげますという意味を示し、その瞬間ちらりと何とも云えない笑いを口辺にうかべた。それは、カーメネヷ夫人の、奥歯をかみしめたまま顔に浮べているような渋い鈍重な笑顔とは比較にならないほど、酸っぱい渋い鋭い微笑であった。伸子は素子のその一瞬の複雑きわまる口もとの皺をとらえた。伸子は、この部屋に案内されてからはじめてほんものの微笑をうかべた。

 伸子たちのおくりものに対しても、夫人は、ごく短い一言ずつで、美しさをほめただけだった。ありがとうという言葉は夫人として云わない習慣らしかった。

 こういう贈呈の儀式がすむと、夫人は再び黙りこんだ。瀬川雅夫の言葉は自由でも、それを活用する自然なきっかけが明るい寒色の広間のどこにもなかった。三人は、そこで、会見は終ったものとしてそとに出た。

 ドアをしめるのを待ちかねたようにして、素子が、

「おっそろしく気づまりなんですね、文化連絡って、あんなものかい」

と、ひどくおこった調子で云った。

「どんなえらい女かしらないけれど、ありがとうぐらい云ったって、こけんにかかわりもしまいのに」

 瀬川はおどろいたように鼻の下の黒い髭を動かして、

「云いましたよ! ね、云ったでしょう?」

 並んで歩いている伸子をかえりみた。

「さあ……わたしは、ききませんでした。──いつも、ああいう人なの?」

「そうですか? 変だなあ、……云いませんでしたか。云ったとばかり思ったがな」

「──まるでお言葉をたまわる、みたいで、おそれいっちまうな」

 瀬川は、素子のその言葉は上の空にきいて、内心しきりに、夫人がありがとうと云わなかったというのが事実だったかどうか、思いかえしている風だった。

 そこへ、廊下のかどからノヴァミルスキーが出て来た。そして、うすい人参色のばさっとした眉毛の下から敏捷びんしょうな灰色の視線を動かして、夫人と会見を終って来た三人の表情をよみとろうとした。何か云いかけたがノヴァミルスキーは聰明にそれをのみこんでしまった。みんなは黙ったまま表玄関わきの、美人ゴルシュキナを中心に陽気にごたついている応接室へ戻った。


 ВОКСの建物のあるマーラヤ・ニキーツカヤの通りを数丁先へ行ったところで、この通りは、モスクヷを環状にとりまいている二本の大並木道の第一の並木道ブリヷールにぶつかった。遊歩道のそと側をゆっくり電車が通っていた。ここでマーラヤ・ニキーツカヤから来た道は五の放射状にわかれた。むかしはそこにモスクヷへ入る一つのワロータがあったものと見えてニキーツキー門とよばれている。瀬川雅夫に説明されながら、橇の上からちらりと見た並木道は、同じはやさで降っている雪をとおして、重そうな雪を枝へ積らしている菩提樹の大きい樹々が遠くまで連って美しく見えた。並木の遊歩道には、雪のつもったベンチがあり、街路の後姿をみせて並木道のはずれに高く立っている誰かの銅像の大外套の深い襞は、風をうける方の側にばかり雪の吹きだまりをつけている。

 伸子たちの橇は、そこでたてよこ五つに岐れる道のたての一本の通りを、斜かいに進んで行った。そこは商店街でなかった。鉄扉は堂々としているがその奥にはすすによごれて荒れた大きい五階建の建物の見える前や、せまい歩道に沿って田舎っぽく海老茶色に塗った木造の小家が古びて傾きかかっているところなどをとおった。近代のヨーロッパ風の建物と、旧いロシアの木造小舎とが一つ歩道の上に立ち並んでいて、盛に雪の降っている風景は、伸子に深い印象を与えた。

 日本の大使館は、どことなく不揃いで、その不揃いなところに趣のある淋しい通りの右側に、どっしりした門と内庭と馬車まわしとをもって建っていた。伸子たちは、車よせのついた表玄関の手前にある一つの入口から、いきなり二階の事務室の前の廊下へ出た。瀬川の紹介で、伸子たちは、自分たちの姓名、住所をかき、郵便物の保管をたのんだ。参事官である人は外出中で、伸子はその人の友人である文明社の社長から、貰って来た紹介状は出さないまま帰途についた。


 ホテルに戻った三人は、そのままどやどやと秋山宇一の室へ入って行った。

「や、おかえんなさい」

「どうでした、おひげさんを見て来ましたか」

 面白そうに秋山が小さい眼を輝かしてすぐ訊いた。

「おひげさんて?」

「ああ、あのアルメニア美人は上唇のわきに髭があるんです」

 そう云えば、赤い円い上唇の上に和毛にこげのかげがあった。ВОКСの美人については、秋山宇一がこまかい点まで見きわめているのが可笑おかしかった。

「会いました……いきいきした人ね」

「なかなか大したものでしょう」

 内海厚が、生真面目な表情に一種のニュアンスを浮べて、

「秋山さんは、コーカサス美人がすっかり気に入りましてね、日本の女によく似ているって、とてもよろこばれたですよ」

と云った。室の入口にぬいでかけた外套のポケットから、ロシアタバコの大型の箱を出して、テーブルのところへ来た素子が、瀬川に、

「いろいろお世話さまでした」

 律義にお辞儀をした。

「しかし、なんですね、あの美人も美人だがカーメネヷという女も相当なもんだ」

「…………」

 秋山はだまって目をしばたたいた。瀬川も黙っている。瀬川としては、素子がそれをおこっているように、夫人が、あれほどのおくりものに対してろくな礼も云わなかったということを認めにくい感情があるらしかった。黙って、タバコの煙をはいた。

「あのひとはいつも、あんな風なんですか」

 くい下っている素子に秋山が、あたらずさわらずに、

「どっちかというと堅い感じのひとですがね、そう云えるでしょうね」

 同意を求められた瀬川は、

「元来あんまり物を云わない人ですね」

 そう云った。そして、つづけて、

「しかし、わたしはカーメネヷ夫人が、あのВОКСの会長をしている、という事実に興味があると思いますね。ある意味では、ソヴェトというところの、政治的な大胆さを雄弁に示しているとも云えるでしょう。トロツキストに対して、これだけ批判されている最中、その女きょうだいを、ああいう地位に平気でつけているのは面白いですよ」

 秋山宇一が、小柄なその体にふさわしく小さい両方の手をもみ合わせるようにして、よく彼が演壇でする身ぶりをしながら、

「カーメネフは追放されているんですからね、ジノヴィエフと一緒に──」

 素子は、だまっていたが、やがて、きわめて皮肉な笑いかたをして、

「なるほどね」

と云った。

「ВОКСへ来るすべての外国人は、そういう点で一応感服するというわけか。──わるくない方法じゃありませんか」

 どういうことがあるにしろ、自分はいやだと云いたい一種の強情を示して、素子は、

「あんな女のいるВОКСの世話になるのは、いかにもぞっとしないね」

と云った。それをきいて秋山がすこし気色ばんだ。小さい眼に力の入った表情になった。

「それは個人的な感情ですよ。──ソヴェトの複雑さを理解するためには、いつも虚心坦懐であることが必要です」

「吉見さん、あなたは第一日からなかなか辛辣なんですねえ」

 瀬川が、苦笑に似たように笑った。

「けれど吉見さん、ああいう文化施設はあっていいものだと思われませんか」

 そうきいたのは内海であった。

「それについちゃ異存ありませんね」

「施設と、そこで現実にやっている仕事の価値が、要するに問題なんじゃないですか」

「…………」

「ああいうところも、よそと同じように委員制でやっているから、一人の傾向だけでどうなるというもんではないんでしょう」

 内海の言葉を補足するように、秋山がつけ加えた。

「ВОКСは、政治的中枢からはなれた部署ですからね。ああいう複雑な立場のひとを置くに、いいんでしょう」

 伸子は、みんなのひとこともききもらすまいと耳を傾けた。これらはすべて日本語で語られているにしても、伸子が東京ではきいたことのない議論だった。そして、きのうまでのシベリア鉄道で動揺のひどい車室で過された素子と伸子との一週間にも。

「どうしました、佐々さん」

 瀬川が、さっきから一言も話さずそこにいる伸子に顔をむけて云った。

「つかれましたか」

「いいえ」

「じゃあどうしました?」

「どうもしやしないけれど──早くロシア語がわかるようになりたいわ。ВОКСの建物一つみたって、あんなに面白いんですもの。──ここは、いやなものまでが面白い、不思議なところね」

「いやなものまでが面白いか……ハハハハ。全くそうかもしれない!」

 同感をもって瀬川は笑い、彼の快活をとりもどした。


「これからはお互にかけちがうことが多いから、きょうは御一緒に正餐アベードしましょう」

 瀬川がそう提案した。ホテルの食堂は、階上のすべての部屋部屋と同じように緑仕上の壁を持っていた。普通の室に作られているものを、食堂にしたらしい狭さで、並んでいるテーブルには、テーブル・クローズの代りに白いザラ紙がひろげられて、粗末なナイフ、フォーク、大小のスプーンが用意されている。午後三時だけれど、夕方のようで、よその建物の屋根を低く見おろす二つの窓には、くらくなった空から一日じゅう、同じ迅さで降っている雪の景色があった。伸子たちがかけた中央の長テーブルの上には、花が飾ってあった。大輪な薄紫の西洋菊が咲いている鉢なのだが、花のまわり、鉢のまわりを薄桃色に染められた経木の大幅リボンが園遊会の柱のようにまきついて、みどりのちりめん紙でくるんだ鉢のところで大きい蝶結びになっている。白いザラ紙のテーブル・クローズ、粗末なナイフ、フォーク、そしてこの花の鉢。ロシアというところが、その大国の一方の端でどんなに蒙古にくっついた国であるかということを、伸子はつきない感興で感じた。

 うしろまでまわるような白い大前かけをかけ、余りきれいでないナプキンを腕にかけた給仕が、皆の前へきつい脂のういた美味うまそうなボルシチをくばった。献立こんだてはひといろで、海老色のシャツにネクタイをつけ、栗色の髪と髭とを特別念入りに鏝でまき上げているその給仕は、給仕する小指に指環をはめている。

 犢肉こうしにくのカツレツをたべながら伸子が思い出したように、

正餐アベードでは可笑しいことがあったわね──話してもいい?」

 素子をかえりみた。

「なにさ」

「わたしたちがハルビンへついたとき、もうロシア暮しに馴れるんだというわけで、『黄金の角ゾロトーイ・ローク』へとまったんです。あすこは日本語も英語も通じないのね。おひるになったんで御飯たべようとすると、いまはまだ食堂があいていません、というんで、高価たかいスペシアルを部屋へとったの。七時頃、夕飯をたのむと、またそういうの。あれで二日ばかり、随分へんな御飯たべたわね」

「ああ、ロシアだけでしょうからね、正餐が三時から五時だなんていう習慣のところは──」

 秋山がそういうのを、瀬川が、

「そりゃ吉見さんにも似合わないぬかりかたでしたね」

と笑った。

「小説にだって正餐の時間はよく出て来るじゃないですか」

「──そこが、赤毛布あかげっとうの悲しさ、ですよ。あなたがただって、人知れず、似たようなことやって来たんじゃないんですか」

「わたしは大丈夫でしたよ」

 妙に含蓄のある調子で瀬川が力説したので、みんな笑い出した。

「ハルビンに、またどうしてそんなに滞在されたんです」

「猿の毛皮を買わなけりゃならなかったんですもの」

「猿の毛皮?」

「外套のうらにつける」

 その猿の毛皮について、伸子はいくらか悄気しょげていた。ハルビンでどうせ裏毛にするのだから、そのときちゃんと体に合わせればいいと、伸子の厚い黒羅紗らしゃの外套は、身たけなどをいい加減に縫ってあった。ハルビンのチューリンで、やすくて丈夫で、比較的重くもないという猿の毛皮を買ったとき、それを世話してくれたのは素子の友人の新聞記者であった。その場のなりゆきから、伸子は外套のたけをやかましく計らずに猿の毛皮をつけてもらってしまった。長すぎて幅もしっくりしない黒外套を重そうにひきずった小さい丸い自分の恰好を考えると、伸子は、他人の感じるユーモアを、われには微かにきまりわるく思っているのだった。

 デザートに出た乾杏や梅、なつめなどの砂糖煮をたべていると、瀬川が腕時計を一寸みて、

「秋山さん、こんやはМ・Х・Т(モスクヷ芸術座)へ行かれますか」

と、きいた。

「さあ……」

「切符、この間、あなたもおもらいでしょう?」

「あったかね──内海君」

「…………」

 内海は、首をかしげて黙ったまま思い出そうとするようにした。

「今夜は、『装甲列車』なんです──どうです、お二人は──みに行かれませんか」

 瀬川にそう云われて、芝居ずきの素子が、すこし上気した顔になった。

「よわったなあ」

と例の、下顎を撫であげる手つきをした。

「是非観たいけれど──今からじゃ、とても切符が駄目でしょう?」

 イワノフの『装甲列車』は日本に翻訳されていて、伸子も読んだ。

「切符は、わたしのところにありますよ」

「そりゃあ──それを頂けますか」

「丁度三枚あるから、お役に立てましょう」

 伸子は、

「うれしいこと!」

 心からよろこばしそうな眼つきをした。

「宿望のМ・Х・Тが今夜観られるのは、ありがたいですね」

「そうそう、吉見さんはチェホフの手紙を訳しておられましたね」

 それで、素子が芸術座へ関心をもつ気持もなおよくわかるという風に瀬川が云った。そうきまると、秋山は言葉をおしまないで、その芝居の見事さを賞讚しはじめた。

「あれは、観ておくべきものですよ。実に立派です」

 小さい両手を握り合わすようにして強調する秋山を見て、伸子は、秋山宇一というひとは、どういう性格なのだろうと思った。けさ、ВОКСへ行くときも、実際にそれを云い出し、誘ってくれたのは瀬川雅夫であった。瀬川がそれを云い出し、行くときまってから、ВОКС訪問の重要さを力説したのは秋山であった。いま、このテーブルで、М・Х・Тの話が出たときも秋山は同じような態度をくりかえした。瀬川が話しはじめて、瀬川が切符をくれて、一緒に行くときまって、秋山宇一はМ・Х・Тのすばらしさを力説した。

 モスクヷ芸術座は、瀬川が云ったとおり、ほんとにホテルから、じきだった。トゥウェルスカヤの大通りを、赤い広場と反対の左の方へ少しのぼって、ひろい十字路を右へ入ると、いくらも行かないうちに、せまい歩道の上に反射光線をうけて硝子ひさしがはり出されているのが見え、雪の夜の暗い通りのそこ一点だけ陽気な明るさに溢れていた。うしろから来て伸子たちを追いぬきながら、一層元気に談笑して足を早めてゆく人々。あっち側から来て劇場へ入ろうとしている人々。劇場の前だけに溢れている明るさは、ひっきりなし降る雪片を白く見せ、そのなかを、絶えず黒い人影が動いた。それらの黒い影絵の人々がいよいよ表扉を押して劇場へ入ろうとする瞬間、パッと半身が強い照明を浴びた。そして、かわ外套の茶色っぽい艷だの、女がかぶっているクリーム色のショールの上の赤や黒のバラの花模様を浮立たせている。

 その人群れにまじって伸子たちも防寒靴をあずけた。それから別のところにある外套あずかり所へ行って、帽子や外套をあずけた。伸子の前後左右には派手な花模様や、こまかい更紗さらさ、さもなければごくありふれた茶や鼠の毛織ショールなどをかぶって来た女たちが、それぞれに、そのショールをぬいでいた。ショールがぬがれると、その中からあらゆる種類のロシアの女の顔があらわれた。深い皺や、活々した皮膚や、世帯やつれのひそんだ中年の主婦の眼つきをもって。つづいて、曖昧な色あいのぼってりした綿入防寒外套がいかにもむくという感じで脱がれた。その中から女の体があらわれた時、急にしなやかであったかい一人の女がそこにむき出された新鮮な刺戟があった。

 瀬川の切符は、舞台に向って右側の中ほどにある棧敷さじき席だった。

「えらく晴れがましい場所なんですね」

 ひる間と同じ、きなこ色のスーツを着て来ている素子が、伸子と並んで最前列の椅子にかけながらうしろの瀬川に云った。

「ВОКСでくれる切符は、どこの劇場のでも、大抵、棧敷席のようですよ」

「そりゃ、あなたがたは国賓だもの」

「ちょっと!」

 それを遮って肩にビーズの飾止めのついた絹服を着た伸子が素子の手の上に自分の手を重ねて押しつけながら、注意をもとめた。

「チャイカ(かもめ)がついている!」

「どれ?」

 伸子は身ぶりで舞台を示した。開幕前のひろい舞台にはどっしりと灰色っぽい幕がおりていた。その幕の左右からうち合わせになっている中央のところに、翼をはって空と水との間をんでいるかもめが落付いた色調の組紐刺繍ししゅうで装飾されているのだった。

「入口のドアにもついていたでしょう──気がついた?」

 地味な幕の中央に、かどを落した横長の四角にかこまれて、それだけがただ一つの装飾となっている鴎は、片はじをもぎとられて伸子のハンド・バッグに入っている水色の切符の左肩にも刷られていたし、棧敷席のビロードばりの手すりの上においてあるプログラムの表紙にもついている。芸術座は、チェホフの『鴎』で、現代劇の歴史にとって意味ふかい出発をした。その初演の稽古のときは、まだこの劇場が落成していなかったので、俳優たちはどこかの物置のような寒い寒い建物のなかで、ローソクの光をたよりに稽古した。それでも、あらゆる俳優が自分たちこそ本当の新しい芝居をするのだという希望と誇りに燃えていて、寒いことも苦にしませんでした。そうかいていたのはチェホフの妻であったオリガ・クニッペルだった。「チャイカ」はМ・Х・Тの芸術的生命と切ってもきりはなせない旗じるしであった。

 こんなに科白せりふのわからない芝居が、こんなに面白いという事実に伸子はびっくりした。『装甲列車』は伸子が前に読んでいたためにわかりよかったばかりでなく、練習をつみ、統一され、一人一人がちゃんとした俳優である芸術座の俳優たちは、実に演劇的な効果をもって一幕一幕とこの革命当時、国内戦にたたかった農民パルチザンの英雄的行動を描き出して行った。カチャーロフが扮した主人公エルシーニンが、第一幕では、全く農民の群集のうちにまぎれこんでいて、どこにいるかさえわからない存在であったのが、幕の進むにつれ、その地方の農民の革命的な抗争が緊迫するにつれ、彼のほんの小さい一つの行動、わずかの積極性の堆積から、次第に、そのパルチザン集団の指導者として成長して来る。『装甲列車』は、はじめっから一定の役割を負わされた劇の主人公というものはない芝居だった。一定の事件や行動の主役というものが、どうやって現実のたたかいの間から自然に生れ出て来るかということを物語り、描き示していた。

 瀬川が、熱心に舞台を見ながら、棧敷の前列にいる伸子たちにささやいた。

「御覧なさい──カチャーロフのエルシーニンは、この場面で、はじめてやや目立って来たでしょう」

 観客たちは、ほんとに自分たちのために芝居をして貰って、それを観ているといううちこみかただった。伸子たちのいる棧敷から一段低い平土間席から二階のバルコンの奥まで、見物はぎっしりつまっていた。子供は見あたらないが、あらゆる服装、あらゆる顔立ちの老若男女が、薄明りのさす座席から身じろぎもしないで数千の瞳を舞台に集注しているのだった。この劇場の中で観客はどっちかというと遠慮ぶかく、つつましい感じに支配されているらしいのに、或るところへ来ると、猛烈な拍手が湧きたって場内をゆすぶった。どうみても、それはカチャーロフの芸達者に向ってだけ与えられる賞讚ではなかった。そのとき観客はパルチザンの判断と行動とに同感するのだ。

 М・Х・Тの由緒ふかいリアリズムの舞台と観客席とを、こんな情熱でつないでいる新しい情景に伸子は感動した。ロシアがソヴェトになってから、芝居も小説も、それまでとすっかりちがったものになったということが実感された。場内をうずめている観客のなかには、一九一七年から二〇年までの間に、実際このパルチザン・エルシーニンの物語のある部分をその身で経験した男たちがどの位いることだろう。革命のためにたたかったすべてのことの成りゆきは、舞台に殆どそっくりだが、最後に命を全うして、今夜この劇場に坐り、それを観ているところだけは違うという男たちもあるにちがいない。よしんばそれぞれ部署がちがい、したがって経験の内容に多少の相異はあったにしろ、一九一七年という年、その十月という月に、勇気と恐怖と、涙と歓喜の高波をくぐったすべての男、そして当然女も、みんな少くとも一篇だけは、自分たちの物語をもっているにちがいない。『装甲列車』は、これらの人々の、人生に深く刻みつけられている「その人たちの物語」に向って語りかけているのではないだろうか。М・Х・Тの俳優たちは、こんなに見事に『装甲列車』を演じて、観客たちを満足させているだけではなく、観客の非常に大部分の人たちに、かれらの奮闘の日を思いおこさせ、新しい歴史にとって自分も無駄に生きたものではなかった誇りと、なお彼に期待されている力量の可能を自覚させているのではないだろうか。『装甲列車』は舞台と観客をひっくるめてうちふるわす不思議な震撼のうちに、英雄的な悲劇の幕をとじた。

 十一時すぎのトゥウェルスカヤ通りには、宵のうちよりも結晶のこまかい粉雪が降りつづけている。劇場のはねるのを目あてにして来てあぶれた辻待橇が一台、のろのろ、伸子たちの歩いて来る方向について来た。伸子は、足もとのあぶなっかしさよりも、むしろはげしくゆり動かされている心の支えが欲しい心持から、茶色外套をきている素子の腕にすがった。

「そんなに寒いの?」

 ぴったりよりそって歩いている伸子の体のかすかなふるえに気がついて、素子が不安そうに訊いた。

「そうじゃないのよ、大丈夫!」

 上気している頬に粉雪を快く感じながら、何となく顫えの止らないような芝居がえりのこの心持──伸子は、十六七のとき、上目黒のある富豪のもっている小劇場で、はじめてストリンドベリーの『伯爵令嬢ユリー』を観た晩のことを思い出した。それは、伸子がみた最初の新劇だった。伯爵令嬢ユリーの恋は、なんと病的で奇異だったろう。鞭が、何とぞっとする音で鳴ったことだろう。しかし、伸子は何とも云えないその芝居全体の空気から亢奮して、うちまでかえるくるまの中で顫えた。木立のなかに丸木小舎めかして建てられていたその小劇場。喫煙室に色ガラスのはまった異国風なランターンがつり下げられていた。そこに立ったり腰かけたり、密集してタバコをのんだり、談笑したりしている大学生や文学、演劇関係の人々。芝居そのものが若い女になりかかっている伸子を感動させたばかりでなく、その小劇場の観客たちの雰囲気が、伸子に、からだの顫えをとめられないような歓喜と好奇とを与えた。二十九歳の伸子は、モスクヷの十二月の夜の粉雪の街をホテルに向って歩きながら、そのときに似た感銘で、顫えた。その感情は新鮮で、皮膚が痛むように感覚的で、同時に人生的だった。発光体のようになった小さい円い顔に、伸子は、うっとりと思いこんだ表情をたたえながら、我知らずホテルの室のなかまで素子の腕につかまって来てしまった。

 今夜は伸子たちの室で、お茶にすることになった。茶道具が註文され、秋山と内海が集って来た。

「──どうでした」

 伸子や素子の感動している顔を見まわしながら満足そうに秋山が中指にインクのしみのついた小さい両手をすり合わせた。

「М・Х・Тだけのことはあると思われたでしょう」

 伸子と並んで余りかけ心地のよくない堅いバネなしの長椅子にかけ、タバコばかりふかしている素子に、瀬川がきいた。

「吉見さん、感想はどうです」

「ふーむ」

 素子は、美しい顔色をして、自分に腹を立てているように、ぶっきら棒に云った。

「わたしは、大体、ここでは、いきなり何にでも感服しないことにしたんです」

「なるほどね──ところで、今夜のМ・Х・Тはどうです──やっぱり感心しないことにしておきますか」

「それが困るのさ!」

 素子は、同じようにむかっ腹を立てているような口調で云った。

「くやしいけれど、嘘はつけませんからね」

「じゃ、感服したんじゃないですか」

 瀬川と秋山は、ひどく愉快そうに笑った。内海は、そういう素子の感情表現に不賛成らしく、十九世紀のロシア大学生のような頭を、だまって振った。

「もしかしたら芝居だけが面白いんじゃないのかもしれないわ。見物と舞台と、あんなにいきがあうんですもの──独特ねえ……何て独特なんでしょう!」

「佐々さんは、そう思いましたか」

 秋山が目を輝かした。

「私も同感です。モスクヷの見物ぐらい熱心で素直な観衆はありませんよ。子供のように、彼等は舞台を一緒に生き、経験するんです。ところが佐内君はね、今度モスクヷへ来て、失望したといっていましたよ。М・Х・Тの観客がすっかりかわって、服装はまちまちだし、態度もがさつだって──」

「じゃ、佐内さんは、タクシードでも着ていらしたの?」

「そうじゃありませんでしたがね」

「見物のたちは、服装の問題じゃありませんよ」

 専門のロシア語のほか、伝来の家の芸で笛の名手である瀬川は、自分の舞台経験から云った。

「舞台に、しらずしらず活を入れて来るような観客がいい見物というもんですよ」

「時代の推移というか、年齢の推移というか、考えると一種の感慨がありますね。佐内君が左団次と自由劇場をやったのが一九〇九年。まだ二十五六で、私と少ししかちがわなかったんですが、第一回の公演のとき、舞台から挨拶をしましてね、三階の客を尊重するような意味のことを云ったんです。──三階の客と云ったって、今から思えば小市民層で、主に学生だったんですがね。すると、それが自然主義作家たちからえらく批判されましてね、きざだと云われたんです」

 瀬川が、

「そう云えば、このあいだ芸術座の事務所でスタニスラフスキーと会ったとき、佐内さんの話しかたは、幾分にげていましたね」

と云った。

「佐内君は、芸術座の技術の点だけをほめていたですね」

 素子は、注意して話に耳を傾けていたが、また一本、吸口の長いロシアタバコに新しく火をつけながら、きいた。

「スタニスラフスキーって、どんな人です?」

「なかなか立派ですよ。もっとも、もうすっかり白髪になっていますがね」

「ともかく、М・Х・Тが、こんど『装甲列車』を上演目録にとり入れたことは、画期的意味がありますよ、何しろ、がんこに『桜の園』や『どん底』をまもって来たんだから」

 瀬川が、白髪のスタニスラフスキーのもっている落付いた前進性を評価するように云った。

「そうですよ、私もその点で、彼に敬意を感じるんです。『桜の園』にしろ『どん底』にしろ演出方法は段々変化して、チェホフ時代のリアリズムに止ってはいませんがね。『装甲列車』を、あれだけリアルに、しかも、あれだけ研究しつくして、はっきり弁証法的演出方法で仕上げたのはすばらしいですよ。おそらくこのシーズンの典型じゃないですか」

 話をききながら伸子は眼をしばたたいた。演出の弁証法的方法というのは、どういうことなのだろう。伸子がよんだ只一冊の史的唯物論には、哲学に関係する表現としてその言葉がつかわれていたが。

 素子が、淡泊に、

「リアリズムと、どうちがうんです?」

と秋山に向って質問した。秋山は、すこし照れて、手をもみ合わせながら、

「要するにプロレタリア・リアリズムを一歩押しすすめたもんじゃないですか」

と説明した。

「同じ階級的立場に立っても平板なリアリズムで片っぱしから現象を描いて行くんではなくって、階級の必然に向って摩擦しながらも積極的に発展的に動いてゆく、その動きの姿と方向で描こうというんではないですか」

 しばらく沈黙して考えこんでいた素子は、

「そういうもんかな」

 疑わしそうにつぶやいた。

「たとえば今夜の『装甲列車』ですがね。ああいうのが、自然だし、また現実でしょう? パルチザンの指導者が、農民自身の中から出て来るいきさつっていうものは──天下りの指揮者がないときに──だから、リアリズムがとことんまで徹底すれば、おのずから、あすこへ行く筈じゃないんですか。どだい、些末主義なんか、リアリズムじゃありませんよ」

 秋山宇一は、質問者に応答しつけて来たもの馴れたこつで、

「今日のソヴェトでは、一つの推進的標語として、弁証法的方法、ということが云われていると理解していいんでしょうね」

 それ以上の討論を、すらりとさけながら云った。

「大局では、もちろん、リアリズムを発展的に具体化しようとしているにほかならないでしょうがね」

 厚い八角のガラスコップについだ濃い茶を美味そうにのみながら、瀬川が意外そうに、

「吉見さん、あなた、なかなか論客なんですね」

と、髭をうごかして云った。

「わたしは、これまで、佐々さんの方が、議論ずきなのかと思っていましたよ」

 素子と伸子とは思わず顔を見合わせた。瀬川の着眼を肯定しなければならないように現れている自分を、素子は、自分であきれたように、

「ほんとうだ」

とつぶやいた。そして、すこし顔をあからめた。

「ぶこちゃん、どうしたのさ」

「わたし?」

 伸子は、何と説明したらこの気持がわかって貰えるかと、困ったようにほほ笑んだ。

「──つまり、こうなのよ」

 その返事をきいてみんな陽気に笑った。素子が議論していることや、秋山の答えぶりの要領よさについて、伸子は決して無関心なのではなかった。むしろ、鋭く注意してきいていた。けれども、劇場でうけてきた深い感覚的な印象のなかから、素子のようにぬけ出すことが伸子の気質にとっては不可能だった。伸子の感覚のなかには、云ってみれば今朝から観たこと、感じたことがいっぱいになっていて、粉雪の降るモスクヷの街の風景さえ、朝の雪、さては夜の芝居がえりの雪景色と、景色そのまま、まざまざと感覚されているのだった。伸子は、М・Х・Тの演出方法の詮索よりも、その成功した効果でひきおこされた人間的感動に一人の見物としてより深くつつまれているのだった。

 一座の話が自然とだえた。そのとき、どこか遠くから、かすかに音楽らしいものがきこえて来た。

「あれは、なに?」

 若い動物がぴくりとしたように伸子が耳をたてた。

「マルセイエーズじゃない?」

 粉雪の夜をとおして、どこからかゆっくり、かすかに、メロディーが響いてくる。

「ね、あれ、なんでしょう?」

 秋山が、一寸耳をすませ、

「ああ、クレムリンの時計台のインターナショナルですよ」

と云った。

「十二時ですね」

 きいているとやがて、重く、澄んだ音色で、はっきり一から十二まで時を打つ音がきこえて来た。金属的に澄んで無心なその響は、その無心さできいているものを動かすものがあった。

「さあ、とうとう明日あしたになりましたよ、そろそろひき上げましょうか」

 みんないなくなってから、伸子は、カーテンをもち上げて、その朝したように、またそとをみおろした。向い側の普請場を、どこからかさすアーク燈が煌々こうこうとてらし、粉雪のふる深夜の通りを照している。銃を皮紐で肩に吊った歩哨が、短い距離のところを、行って、また戻って、往復している。モスクヷは眠らない。伸子はそう感じながら長い間、アーク燈にてらし出されて粉雪のふっている深夜の街を見ていた。



 一九二七年の秋、ソヴェト同盟の革命十周年記念のために文化上の国賓として世界各国からモスクヷへ招待された人々は、およそ二十数名あった。そのなかには、第一次ヨーロッパ大戦のあと「砲火」という、戦争の残虐にたいする抗議の小説をかき、新しい社会と文学への運動の先頭に立っていたフランスのアンリ・バルビュスなどの名も見えた。日本から出席した新劇の佐内満その他の人々は、祝祭の行事が終った十一月いっぱいでモスクヷを去り、佐内満は、ベルリンへ立った。伸子たちがモスクヷへついた十二月の十日すぎには、祭典の客たちの一応の移動が終ったところだった。外の国の誰々が、この行事の終ったあともなおモスクヷにのこったのか、伸子たちは知らなかったが、ともかく秋山宇一と内海厚は、なお数ヵ月滞在の計画で、瀬川雅夫は年末に日本へ立つまで、いのこった。これらの人々が、ボリシャアヤ・モスコウスカヤというホテルから、パッサージ・ホテルへ移っていた。秋山宇一に電報をうち、その人に出迎えられた伸子たちは、自然、秋山たちのいたホテル・パッサージの一室に落つくことになった。

 伸子の心はモスクヷ暮しの第一日から、ここにある昼間の生活にも夜の過しかたにも、親愛感と緊張とできつけられて行った。伸子の感受性はうちひらかれて、観るものごとに刺戟をうけずにいられなかった。伸子は先ず自分の住んでいる小さな界隈を見きわめることから、一風かわった気力に溢れたモスクヷという都市の生活に近づいた。

 クレムリンを中心として八方へ、幾本かの大通りが走っている。どれも歴史を辿れば数世紀の物語をもった旧い街すじだが、その一本、昔はトゥウェリの町への街道だった道が、今、トゥウェルスカヤとよばれる目貫きの通りだった。この大通りはクレムリンの城壁の外にある広い広場から遠く一直線にのびて、その途中では、一八一二年のナポレオンのモスクヷ敗退記念門をとおりながら、モスクヷをとりかこむ最も見事な原始林公園・鷲の森の横を通っている。

 このトゥウェルスカヤ通りがはじまってほんの五つか六つブロックを進んだ左側の歩道に向って、ガランとして薄暗い大きい飾窓があった。その薄く埃のたまったようなショウ・ウィンドウの中には、商品らしいものは何一つなくて、人間の内臓模型と猫の内臓模型とがおいてあった。模型は着色の蝋細工でありふれた医学用のものだった。ショウ・ウィンドウの上には、中央出版所と看板が出ていた。しかし、そこはいつ伸子が通ってみても、同じように薄暗くて、埃っぽくて、閉っていて、人気がなかった。この建物の同じ側のむこう角では、中央郵便局の大建築が行われていた。その間にある横丁を左へ曲った第一の狭い戸口が、伸子たちのいるホテル・パッサージだった。

 オフィス・ビルディングのようなその入口のドアに、そこがホテルである証拠には毎日献立が貼り出されていた。モスクヷは紙払底がひどくて、伸子たちはついてすぐいろんな色の紙が思いがけない用途につかわれているのを発見したが、その献立は黄色い大判の紙に、うすい紫インクのコンニャク版ですられていた。伸子がトゥウェルスカヤ通りからぐるりと歩いて来てみると、陰気な医料器械店のようなショウ・ウィンドウをもった中央出版所も、パッサージ・ホテルも、その一画を占めている四階建の大きい四角な建物の、それぞれの側に属していることがわかるのだった。

 伸子たちはモスクヷへついて三日目にホテルで室を代った。そして四階の表側へ来た。広いその室の窓からは、伸子に忘られない情景を印象づけた雪の深夜の工事場を照すアーク燈の光や、大外套の若い歩哨の姿はもうなくて、壊れた大屋根の一部が見られた。十二月の雪の降りしきる空と、遙か通りの彼方の屋根屋根を見わたしながら近くに荒涼と横わっている錆びた鉄骨の古屋根は、思いがけずむき出されている壊滅の痕跡だった。伸子が窓ぎわに佇んで飽きずに降る雪を見ていると、あとからあとから舞い降りる白い雪片が、スッスッと鉄骨の間の暗い穴の中へ吸いこまれてゆく。雪は無限に吸いこまれてゆくようで、それをっと見ていると目がまわって来るようだった。同じ絶え間のない雪は、隣りの大工事場の上にも降りかかっている。そこでは昼夜兼行で建築が進行している。深夜はアーク燈が煌々とそこを照している。伸子はこういう対照のつよい景色に、モスクヷ生活の動的な色彩をまざまざと感じるのであった。

 荒廃にまかせられている大屋根は、もとガラス張りの天井で、トゥウェルスカヤ通りの勧工場であった。だから、パッサージ(勧工場)ホテルという田舎っぽい名が、この小ホテルについているのだろう。質素というよりも粗末なくらいのこの小ホテルは、ドアに貼り出してある献立をのぞいては入口にホテルらしいところがないとおり、建物全体にちっともホテルらしさがなかった。表のドアの内側は、一本の棕梠しゅろの鉢植、むき出しの円テーブルが一つあるきりの下足場で、そこから階段がはじまっていた。大理石が踏み減らされたその階段を二階へ出ると、狭い廊下をはさんで、左右に同じような白塗りのドアが並んでいる。一室の戸は夜昼明けはなされていて、そこがこのホテルの事務室だった。二階から四階までの廊下に絨毯じゅうたんがしかれていた。黒地に赤だの緑だので花や葉の模様を出した、あの日本の村役場で客用机にかけたりしている机かけのような模様の絨毯が。──

 伸子は、この絨毯に目がついたとき、そのひなびかげんを面白がり、その絨毯を愛した。こけおどしじみた空気は、この小ホテルのどこにもなかった。人々は生活する。生活には仕事がある。ホテルの各室は、生活についてのそういう気取りない理解に立って設備されていた。どの室にも、お茶をのんだりする角テーブル一つと、仕事用の大きいデスクが置かれていた。デスクの上には、うち側の白い緑色のシェードのついたスタンドが備えつけてあり、二色のインク・スタンドがあった。ロシア流にトノ粉をぬって磨きあげられた木のゆかの、あっちとこっちにはなして、鼠色毛布をかけた二つの寝台がおかれている。

 こういう小ホテルのなかに、おそらくは伸子たちにとって特別滑稽こっけいな場所がひとところあった。それは浴室だった。はじめて入浴の日、きめた時間に素子が先へ二階まで降りて行った。すると間もなく、部屋靴にしているコーカサス靴の木のかかとを鳴らしながら素子が戻って来た。

「どうしたの? わいていなかった?」

 風呂は、前日事務所へ申しこんでおいて、きまった時間に入ることになっているのだった。

「わいちゃいますがね、──ちょいと来てごらんよ」

「どうしたの?」

「まあ、きてみなさい」

 白い不二絹のブラウスの上に、紫の日本羽織をはおっている伸子が、太い縞ラシャの男仕立のガウンを着ている素子について、厨房のわきの「浴室」と瀬戸ものの札のうってある一つのドアをあけた。

「──まあ……」

 伸子は思わず、その浴室のずば抜けた広さに笑い出した。古びて色のかわった白タイルを張りつめた床は、やたらに広々として、ところどころにすこし水のたまったくぼみがある。やっぱり白タイル張りの左手の壁に、ひびの入って蠅のしみのついた鏡がとりつけてあって、その下に洗面台があった。瀬戸ものの浴槽は、その壁と反対の側に据えられているのであったが、そんなに遠くない昔、すべてのロシア人は、こんなにも巨大漢であったというのだろうか。長さと云い、深さと云い、古びて光沢のぬけたその浴槽は、まるで喜劇の舞台に据えられるはりぬきの風呂ででもあるように堂々と大きかった。焚き口とタンクとが一つにしくまれている黒い大円筒が頭のところに立っていて、焚き口のよこに二人分の入浴につかう太い白樺薪が二三本おかれている。このうすよごれて、だだっぴろい浴室を、撫で肩でなめらかな皮膚をもった断髪の素子が、自分のゆたかで女らしい胸もとについて我からしゃくにさわっているように歩きまわりながら、時々畜生! と云ったりするのを思うと伸子は、実にユーモアを感じた。しかし、実際問題として、どうしたらよかったろう。伸子は素子よりももっと背が小さいから、普通の大さの浴槽でも、さかさに入って湯のカランのある方へ頭をもたせかけて、というよりも、ひっかけて、いつも入っているのに。

「──わたしおぼれてしまう」

 二人は、到頭いちどきに入ることにした。たがいちがいにしてならば、裸の体が小さくても滑りこむ危険はふせげるのであった。気候がさむくて、その上、夜は芝居だの、夜ふかしの癖のあるモスクヷの人たちは、午後のうちに入浴する習慣らしかった。十二月のモスクヷでは、昼間という時間が、一日に八時間ぐらいしかなかった。しかも雪のひどく降る日には電燈をつけぱなしにしたままで。


 伸子たちは、その朝も十時ごろまでには朝の茶をすました。掃除女が室の片づけを終るのを待って、素子は窓に向ったデスクの前に、「プラウダ」と「イズヴェスチヤ」とをもって納った。伸子は、外套を出してベッドの上におき、珍しいことに衣裳タンスについた鏡に向って、褐色フェルトの小さい帽子のかぶりかたを研究していた。

 この小帽子については、伸子にとって第二の帽子物語があった。伸子が日本からかぶって来た黒い帽子は、ずっとこれよりも上等で、色どりの美しい細いリボンであしらわれていた。モスクヷへついて数日すると、伸子にはその帽子がきれいすぎることで気に入らなくなった。雪のふるモスクヷで女のひとたちは髪の上から毛織のショールをかぶったり、鳥うち帽をかぶったりして、元気に歩いていた。普通の婦人帽をかぶっている人たちにしろ、どれもごく単純なフェルト製の小型のものだった。土地の人は土地の気候にふさわしいかぶりものをかぶっているのだった。色の美しいリボンをあしらった伸子の装飾的な帽子に雪がついて、しめりで形のはりを失ったとき、その弱々しさは不甲斐なく見えて伸子に腹立たしい気持をおこさせた。雪のモスクヷは、チェホフが心からそれを愛したようにきびしいけれども素晴らしい季節だのに。──

 モスクヷ芸術座の通りを歩いていたら、そこに幾軒も婦人帽を売る店があった。その一軒で伸子は、金色の簡単な飾金のついた褐色小帽子に目をとめたのであった。

 伸子と素子とは、その店へ入って行った。そして、ショウ・ウィンドウに出ていたその帽子を見せて貰った。それは伸子の気に入ったけれども、かぶってみるとあわなかった。髪が邪魔した。伸子は、モスクヷの婦人たちが、だれもかれもきりっと小さい帽子をかぶっているのは、彼女たちが断髪だったからだとはじめて気がついたのだった。

 その褐色帽子を手にとったまますこし考えていた伸子は、ひどく自然な調子で、

「わたし、きるわ」

と云った。

「きる?──いいのかい?」

 そういう素子は、ハルビンで断髪になっているのであった。

「ほんとに、きっちゃうわ──いいでしょう?」

「そりゃ、いいもわるいもないけれど」

「じゃ、そう云って頂戴。──どうせ、ちゃんときり直さなけりゃならないんだろうけれど……」

 こういういきさつで断髪になった頭に褐色帽子がおさまることになった。伸子は新聞読みに没頭しはじめた素子をデスクの前にのこして、ホテルを出かけた。

 伸子のわきの下には、表紙に「黄金の水」という題のある一冊のパンフレットと、縁を赤く染めたモスクヷ製の手帖が抱えられていた。

 トゥウェルスカヤの大通りをストラスナーヤ広場まで真直のぼって行った伸子は、広場をつっきって、モスクヷ夕刊新聞社の建物とは反対側の薬屋の横を入った。そして、正面入口の破風の漆喰しっくいに波にたわむれる人魚の絵がかいてある建物の三階へあがっていった。この建物にはエレベーターがあったらしいが、いまは外囲いの網戸だけがのこっている。伸子がベルを押したドアがすぐあいて、黒スカートに、少し色のさめた水色のスウェターを着た三十五六の婦人が顔を出した。この家で、このひとに、伸子はロシア語の初歩を習いはじめているのであった。

 艷のない栗色の髪を、ロシア風に頭の真中でわけ、こめかみのところに細い髪房にしてたらしているマリア・グレゴーリエヴナを、はじめ紹介してくれたのはВОКСであった。ノヴァミルスキーが伸子の相談に応じて、彼のおどろくべき最低音の声で推薦したのがここであった。

 約束の第一日、伸子は貰った所書と地図をたよりにこの建物をさがし当てて来た。マリア・グレゴーリエヴナの小皺の多い丸顔には、善良さと熱心さとがあらわれていて、伸子は気が楽になった。早速「黄金の水」がはじまった。短い課業が終って、二人が不自由な英語で雑談していると、入口でベルがなった。

「あら、おかえりなさい! もう?」

 出て行ったマリア・グレゴーリエヴナのおどろいたような声がした。対手は男らしいが声は聞えない。伸子がこんどマリア・グレゴーリエヴナが現れたら帰ろうとしていると、

「佐々さん、こんにちは」

 ききちがえようのない最低音で云いながら、ノヴァミルスキーが入って来た。つづいてそこへ現れたマリア・グレゴーリエヴナを、

「わたくしの妻です」

と改めて紹介した。

「課業はいかがです?」

 ここがノヴァミルスキーの家だとは思いがけなかった。伸子は急にいうことが見つからなくて、

「ありがとう」

と答えた。

「たしかにいい先生を御紹介下さいましたけれども、わたしはいい生徒とは云えないかもしれません」

「そんなことはありません。わたしの経験でわかりますよ」

 ノヴァミルスキーもそうだが、妻のマリア・グレゴーリエヴナは、すこし鼻のさきの赤いような顔で熱心に云った。

「佐々さんは、早い耳をおもちですもの」

 それにしても、伸子にはやっぱりここがノヴァミルスキーの家だったということが、意外だった。ВОКСで話したとき、ノヴァミルスキーは、まったく第三者の感じだった。自分の妻、その妻の仕事、それを、あんなに、その表情さえも第三者として話した。ノヴァミルスキーは、マリア・グレゴーリエヴナがもって来た紅茶のコップにサジをさしたまま、そのサジを人さし指となか指との間でおさえてのむ飲みかたで美味そうにのみながら、

「革命博物館は見られましたか」

ときいた。

「ええ。見ました」

「あれは独特な意義をもっています。当分は、モスクヷにしかあり得ない種類の博物館だと思いますね」

 ちょっと言葉を改めて、ノヴァミルスキーは、

「私は七年間、牢獄におかれました。アナーキストだったんです」

と云った。

「十月にレーニンに会って、二時間話しあいました。そのとき、私は自分のそれまでの思想をかえたんです。──発展させたんです──発展──おわかりですね」

 この話は伸子にとって、ノヴァミルスキーがここへ出現したことよりも意外でなかった。新世界という字をもじったノヴァミルスキーという名は本名なのだろうか、それとも、ウリヤーノフがレーニンと云った、そんな風なものなのだろうか。伸子たちの間で話題になったことがあった。マリア・グレゴーリエヴナは、頬に当てた左手の肱をもう一方の手で支えながら、ノヴァミルスキーのいうことをきいていたが、

「わたしどものところの革命も、随分いろいろ批評をうけます。でも、批評する人たちに、それまでの私たちがどんなに生きていたかということが、ちょっとでも分りさえしたら!」

と云った。

「革命は、たしかに少くない犠牲を出しました。けれど、その幾千倍かの人に、生を与えたんです。それはもっとたしかな事実なんです」

 革命前、マリア・グレゴーリエヴナは将校の妻であった。

「何という生活だったでしょう。あのころわたしは、死ぬことしか考えませんでした。でも、小さい男の子と女の子を、誰が育ててくれるでしょう? そのうち十月が来ました。そして、わたしと子供たちの人生が新しくはじまったんです」

 子供たちの望みで、男の子はマリア・グレゴーリエヴナについてここで暮すようになり、女の子は、父親について別れた。

 このマリア・グレゴーリエヴナのところへ素子も通いはじめた。素子は、プーシュキンの「オニェーギン」をよみはじめた。


 マリア・グレゴーリエヴナの稽古から、真直伸子がホテルへかえって来ることはほとんどなかった。ストラスナーヤ広場から、雪につつまれた並木道をニキーツキー門の方まで歩いてみることがあった。その時間の並木道は、ひどい雪降りでないかぎり、戸外につれ出されている赤坊と子供たちでいっぱいだった。すっかり蒲団ふとんにくるまれた赤坊は、乳母車のなかで小さく赤い顔だけ出して遊歩道を押されて行った。すっぽり耳までかくれる防寒帽に、紐でつったまる手袋、厚外套で仔熊のようにふくらんでいる子供たちは、木作りの橇をひっぱっていた。その上に腹這いにのっかって、枝々に雪のあるにれの並木の間の短い斜面を、下の小道まで辷りっこしている子供たち。

 纏足てんそくをして、黒い綿入ズボンに防寒帽をかぶった中国の女が、腕に籠を下げ、指にとおしたゴム紐で、まりをはずまして売っていた。その毬は支那風に、赤、黄、緑の色糸でかがってある。並木道ブリヷールの入口にコップ一杯五カペイキの向日葵の種やリンゴ、タバコを売っている屋台店キオスクがあり、一軒の屋台店では腸詰だのクワスだのを売っていた。その屋台店の主人は顔の黒い韃靼だったん人で、通りがかった伸子をきつい白眼がちの眼でじろりと見て、壺から真黄い粟のカーシャをたべていた。雪の白さに、韃靼人の顔の黒さはしんから黒く、粟の黄色さは目のさめる黄色だった。色彩のそんな動きも、絵か音楽のように伸子の心にはいった。

 風景に情趣こまやかなのはストラスナーヤから左の並木道で、同じ並木道でも右側にのびた方はいつも寂しく、子供たちも滅多に遊んでいなかった。遠くに古い教会の尖塔が見える雪並木の間を、皮外套に鳥打帽子の人たちが、鞄をかかえ、いそがしそうに歩いていた。道を歩いているというよりも用事から用事へいそいでいるようなその歩きつき。ぐっと胴でしめつけられた皮外套の着かたや、全神経が或る一点に集注されていて、ものが目に入って来ない眼つき。そういう視線が無反応に自分の上を掠めるのを感じながら、こちらからは一つずつ一つずつそういう顔を眺めて並木道を歩いてゆく心持。伸子にはそれも興味ふかかった。

 トゥウェルスカヤ通りをアホートヌイ・リャードまで下り切ると食糧市場へ出た。切符制で乳製品や茶、砂糖、野菜その他を売る協同販売所が並んでいる。その歩道をはさんだ向い側に、ずらりと、ありとあらゆる種類の食品の露店が出ていた。半身まるのままの豚がある。ひろげた両脚の間にバケツをはさんで、漬汁がザクザクに凍った塩漬胡瓜を売っている。乳製品のうす黄色い大きなかたまりがある。蝶鮫ちょうざめがある。リンゴ、みかんもある。卵をかごに入れて、群集の間を歩きながら売っているのは、大抵年をとった女だった。つぶした鶏を売っている爺がある。絶えず流れる人群れに交って、伸子のすぐ前を、一人の年よりが歩いていた。脚立きゃたつをたてて、その上へ板を一枚のせて、肉売りがいる。その前へ、年よりがとまった。

「とっさん、素晴らしい肉だぜ。ボールシチにもってこいだ!」

 それはいい肉と云えるのだろうか。伸子の目に、その塊りは黒くて、何の肉だか正体がしれなかった。黙ったままじいさんは、よごれた指を出してちょいとその肉をつついて見た。

? どうだねカーク

 肉を入れて来た樺製のカバンを足許において、その売手は、膝まである防寒靴を雪の上でふみかえながらせきたてた。じいさんは、口をきかない。その白髪まじりの不精髭につつまれたじいさんの顔にある無限の疑りぶかさに伸子の目がひかれた。じいさんは、おそらく、お前の名はこれこれだ、とその名を云われても、やっぱりその疑りぶかい顔つきを更えないだろう。ここの露店で売られるものは、すべて公定の価よりも三割か四割たかかった。何でもあるかわり、売る方も買う方も、実力のかけひきだった。アホートヌイ・リャードにどよめいている群集の中には、労働者風の男女は殆どみかけられないのに伸子は気づいた。そして子供づれも。──雪のつもった長方形の広場のむこうには、道のはたへとび出したような位置に古い教会がのこっていて、わきの大きい建物に張りわたされている赤いプラカートの上には、くっきりと白く、文盲を撲滅せよ、とよまれた。そういう広場の雪をよごしながら群集が動いた。

 伸子が、ながい街あるきの果に、自分たちの夜食のための刻みキャベジやイクラを買いに入る店は、ホテルからじきのところにあった。半地下室のその店の入口の段々のところからタイルではった床の上まで、オガ屑がまかれていた。濡れたオガ屑の匂い、漬もの桶の匂い、どっさり棚につまれた燻製くんせいから立つ匂い。それらがみんな交りあって、店の中には渋すっぱくて、懐しいような匂いがこめている。──伸子がやがて外套に冬の匂いをつけ、頬の色も眼のつやも活々とした様子で、ホテルへかえって来るのだった。

 素子は、大抵、伸子が出がけに見たとおりデスクの前にいた。入ってゆく伸子をみて、素子は椅子の上でふりむき、

「どうだった?」

ときいた。これは、そとは一般にどうだった、という意味だった。その素子の声には、たっぷり三時間一人でいたあげくの変化をよろこぶ調子がある。伸子はしゃべり出す。素子も新しいタバコに火をつけた。

「でもね、こういうこまごました面白さって、生活の虹だもの──話したときはもう半分消えてしまっているわ」

 伸子は、遺憾そうに云った。

「ほんとに一緒に出られるといいのに。──」

 デスクの上にひろげられている本から、わきにおいてある腕時計へちらりと目をやりながら、素子は、

「なにしろ、毎日の新聞をよむのがひと仕事なうちは、仕様がないさ」

 あきらめたように云うのだった。新聞──伸子はうけて来た許りの様々の印象で瑞々みずみずしく輝いていた眼の中に微かな硬さを浮べた。


 毎朝起きると、ドアの下から新聞がすべり込んでいるようになったとき、伸子は、自分によめない字でぎっしり詰まっている「プラウダ」の大きい紙面を、あっちへかえし、こっちへかえしして眺めた。そして、素子に、

「あなたが読んでいるとき、ところどころでいいから、わたしにも話してきかしてくれない?」

とたのんだ。そのとき「イズヴェスチヤ」の一面をよんでいた素子はすぐに返事をしなかった。

「ねえ、どう?」

「──ぶこちゃんはデイリー・モスクヷよめばいいじゃないか」

「どうして?」

 むしろおどろいたように伸子が云った。

「デイリー・モスクヷは、デイリー・モスクヷじゃないの。モスクヷ・夕刊は、プラウダとちがうでしょう? そういう風にちがうんじゃない?」

 主として外国人のために編輯されている英字新聞が、プラウダと同じ内容をもっているとは思えなかった。

 丁度その年の秋のはじめ頃ソヴェト最大の石炭生産地であるドン・バス炭坑区の、殆ど全区域にわたって組織されていた反革命の国際的な組織が摘発された事件があった。帝政時代からの古い技師、共産党員であってトロツキストである技師、ドイツ人技師その他数百名のものが、数年来、ソヴェトの生産を乱す目的で、サボタージュと生産能率の低下、老朽した坑内の支柱をわざとそのままにしておいて災害を誘発させるというようなことをやって来た。それが発見された。

 その記事は伸子も日本にいた間に新聞でよんだ。日本の新聞記事は、この事件でソヴェトの新社会が一つの重大な破綻に面し、またスターリンに対する反抗が公然化されたというような調子で書かれていた。そのドン・バス事件の公判が、伸子たちのモスクヷへ来た前後からはじまっていた。一面を費し、ときには二面をつかって、反革命グループのスケッチと一緒に事件の詳細な経過が報告された。そういう記事は世界じゅうの文明国の新聞にのったとおり、モスクヷ発行のすべての新聞に掲載されていた。けれども、伸子は、この世界の視聴をあつめている事件の成りゆきばかりでなく、しんのしんにある意味というものをつかみたかった。こんなに執拗な階級的な憎悪。そしてそれらの人々としてはきわめて真剣に計画し実行されていた陰謀。それがその人々にとってどんなに真面目だったかということは、公判で、すべての被告が、理性的という以上に理論をもって陰謀を告白しているということでもわかった。そこには、ソヴェトの建設に傾注されている情熱と匹敵すると云っていいくらいの破壊と妨害への情熱があり、伸子はこれらの情熱の源泉としての憎悪、更にその憎悪の源泉としての利害のありどころについて知りたかった。フランスの貴族たち、王党の人たちは、自分たちが貴族であり王党でさえいられるならと、大革命のとき、外国から軍隊を招きいれて、あんなに祖国を蹂躪じゅうりんさせた。トロツキストたちは、何の情熱で、外国の資本家たちの侵害の手さきとなるのだろう。ただ何でもかでも妨害したいためだろうか。政権への欲望というものはそういう狂気のような情熱をもたせるものなのだろうか。

 伸子は、そのとき、もう一度、

「──じゃあ社説の要点だけでもいいから──駄目?」

ときいた。素子は、

「ぶこちゃんは、そんなに、こせこせしなくっていいんだよ」

と云った。

「ぶこちゃんみたいな人間は、今のまんまで結構なのさ。あるいたり、見たり聞いたりしてりゃいいのさ。──いずれはどうせ読めるようになるんじゃないか」

 読めないなりに、伸子はデイリー・モスクヷのほかに、記事のかきかたのやさしいコムソモーリスカヤ・プラウダを外出のたびに買って来て見るのだった。

 朝から夜まで素子と伸子とが、一緒に行動したのは、モスクヷへ着いて、ほんの五日か一週間ぐらいのことであった。素子は、二人で芝居を観に出かける夜の時間をのぞいて、毎日の規則正しい勉強の計画をこしらえた。マリア・グレゴーリエヴナのところでプーシュキンを読むほかに、素子は一人の女教師に来て貰って、発音と文法だけの勉強もはじめた。

 言語学を専攻したというその女教師が、モスクヷ河のむこうからホテルへ教えに来るのは、芝居に行かない月曜日の、正餐後の時刻であった。

 その晩、教師が来たとき、伸子は、その前のときのように、素子が勉強するデスクから一番遠い壁ぎわに角テーブルをひっぱって行って、そこで、例の「黄金の水」の書きとりをやっていた。緑色笠のスタンドの光をなつめ形の顔にうけて、素子は、伸子にわからない慣用語や語源の質問をした。それが終り、発音の練習がはじまった。これは、ひとりで伸子の耳にわかり、時々興味をひかれた。ベルリッツの萌黄もえぎの本で一から百・千・万と数をおそわったとき、たとえば五はピャーチとかかれていて、素子はそれをその字のように発音した。だから伸子も、のばしてピャーチと云うものだと思っていた。しかし、それが十とくっついて、五十というときはあとの方に力点がついて、五はまるでペチというように響いた。

 女教師と素子とは、機嫌よくときどき笑ったりしながら、いろいろの組合せで発音していたが、ふと、女教師が何かききとがめたような声の表情で、

「どうぞ──もう一度」

と求めた。素子が注意してくりかえしているのは「あった」という字であった。伸子は室のこっちの壁ぎわで、粗末な紙の帳面へにじむ紫インクで書き取っていた。「農民ボリスは、非常に苦悩した。何故なら、彼に富と幸福をもって来る筈だった黄金の水──石油は、彼を果しのないぺてんの中へひっぱり込んだから」ひっぱりこむ、という字がわからなくて辞書をみていた伸子は、デスクのところで、

「何故です?」

 すこし怒りをふくんでききかえしている素子の声で、頭をあげた。

「わたしは、三度とも同じに発音したのに」

 まだ「あった」が問題になっていた。伸子は、おやおやと思った。柔かいエリときつく舌を巻くエルの区別が出来ない伸子は、駒沢の家でロシア語の稽古をしていた時分、素子に散々笑われた。その素子が、やっぱり本場へくれば、案外エリを荷厄介にしている。女教師はもう一度、そのごくありふれた一つの字を素子に発音させた。こんども黙って不賛成をあらわし、頭をふった。彼女のその視線が丁度そのとき帳面から顔をあげたばかりの伸子の眼とあった。女教師は、その拍子の思いつきらしく、素子のよこにかけたままの遠いところから、

「あなた、やって御覧なさい。──ブィラ」

と、その室の端にいる伸子に向って云った。

 伸子は、下手な方に自信があったので、格別の努力もしないで、その言葉を発音した。

「もう一遍」

 伸子は素直にもう一遍くりかえした。

「御覧なさい。あなたのお友達は、発音出来ますよ。やって御覧なさい」

 これは伸子にとって思いがけないことだった。恐縮してそちらを見ている伸子に、素子はちらりとながしめをくれながら苦笑した。そして、

「この次まで練習しておきましょう」

 ブィラは保留となって、女教師はかえった。

 女教師のうしろでドアがしまるとすぐ、伸子は壁にくっついている長椅子とテーブルの間から出て来た。

「──妙ね、あれ、どういうの?」

「なにがなんだかわかりゃしない」

「わたしのブィラが、ほんとによかったの?」

「いいんだろう」

 素子は一二度マッチをすりそこなってタバコに火をつけた。そして、その吸いくちの長いロシアタバコに、パイプをもつときのように指をかけてふかしながら室の中央に向けてずらした椅子にかけて考えていたが、

「ぶこちゃん」

 不機嫌な声のままで云った。

「なあに」

「わたしが何かやっている間は、この室から出ていてくれよ」

「──そうしたっていいけれど……」

 その間自分はどこにいたらいいのだろう。伸子は当惑した。ぶらぶら雪の夜街を散歩するほど伸子はまだモスクヷに馴れていなかった。考えてみれば、日本を出てから二ヵ月近く、二人は一つ室にばかり暮して来た。

「ね、いいことがあるわ、ここで、小さい室を二つかりましょうよ」

 今いる四階の表側のひろい室代は六ルーブリ五十カペイキでそれに一割の税がついていた。

「われわれに、そんな贅沢なんか出来やしないよ。ここじゃ、一番小さい室だって五ルーブリじゃないか。そんなことしたら本代なんか出やしない」

「…………」

 系統的に本を買わなければならないのは素子だった。二人の旅費のしめくくりをしているのも素子であった。

「ね、ぶこ、たのむ」

 素子は、自分の云うことに我ままのあるのは分っているが、どうにもやりきれないのだという風に、そう云いながら涙ぐんだ。

「暫くのことなんだから秋山さんの室へでもどこへでもいっててくれ」

「──いいわ。もう心配しないで」

 しかし、その晩ベッドに入ってから、伸子は長いこと目をあいていた。廊下の明りが、ドアの上のガラス越しに、灯の消えた自分たちの室の壁の高い一隅に映っている。スティーム・パイプのなかでコトコトコトと鳴る音がするばかりで、素子のベッドも、あっちの壁際で、ひっそりしている。

 素子が、発音のことからあんなに神経をいためられた。そのことに、どこまで自分の責任があるのだろう。伸子はそこがよくわからなくて、眠りにくかった。伸子にわるいところがあるとすれば、それは、このモスクヷの新しい生活で素子を押しのけようとすることではなくて、反対に、ここの生活に対する伸子の興味があんまりつよいためについ言葉のわかる素子にたよろうとする傾きがあることだ。実際モスクヷの朝から夜までの生活は、狭くせつない一本のびんづめのようだった伸子の精神を、ひろいつよい外界へ押し出した。佃と結婚し、それに失敗し離婚してから。更に素子と暮してからの数年、伸子の二十歳以後の存在は一本の壜のようだった。せまい壜の口から、伸子のよく生きたいという希いで敏感になっている漏斗じょうごをこして、トロ、トロと濃い生活の感銘が蓄積されて来た。けれども、その生活の液汁は、伸子の胸をすっとさせ、眼の裡を涼しくさせるような醗酵力はもっていなくて、或るときは熱く、あるときはつめたく、そしてときには壜がはりさけそうに苦しく流れこんで来るにしても、伸子はかたときもそれに無心におしながされることが出来なかった。中流の環境としてみれば、伸子の周囲は平穏ではなかった。けれども、波瀾そのものが、伸子にいつでもそれと一致しない自分の存在についてつよく感じさせるたちのことばかりだった。その苦しさのぎりぎりのようなところで、伸子はモスクヷへ来たのであった。

 息苦しい存在の壜のようなものが熱量のたかいモスクヷ生活でとけ去って、観ることのこんなにもうれしい自分、感じることがこんなにもたのしい自分、知ってゆくことの面白さで子供っぽくさえなっている自分がむき出しになっていることを発見したとき、伸子は自分とモスクヷとを、抱きしめた。モスクヷでのすべての印象は、日本の生活でそうであったようにせまい漏斗で伸子の内面にばかりたまりこまなかった。伸子の主観でつつまれるにしては、事件にしろ見聞にしろその規模が壮大であり、複雑であり、それ自身としての真面目な必然と意義をもっていた。旧さと新しさが異様に交りあったモスクヷ生活の歴史的な立体性は、伸子の全知識と感覚をめざましく活動させ、なお、もっともっとと、生きる感興を誘い出しているのであった。そういう熱中で、おのずと素子に迫ってゆく伸子を、素子は、絶えず自分から一定の距離に置こうとしているようだった。

 新聞の場合ばかりでなかった。

 モスクヷへついて三四日したとき、どうかして素子の外套のカラーボタンがとれて失くなってしまった。素子は、

「ぶこちゃん、見物がてら買っといでよ」

と云った。

「あらァ、それは無理よ」

 伸子は冗談のように甘えて、首をふった。

「ボタンなんて言葉、ベルリッツの本に出ていなかったわ」

「そのために字引もって来たんじゃないか。ひいて御覧」

 そう云われるといちごんもなくて和露の字引をひいて、伸子はその字を見つけ出した。

「あったろう?」

「あったわ」

「それで、いいじゃないか。さ、行っといでよ」

 片仮名でボタンという字と茶色という字を書きつけた紙片をもって伸子は、トゥウェルスカヤの通りへ出た。そして、衣料品の販売店を見つけ出して、どうにか茶色の大ボタンを買って来た。ちょいとした食糧品の買いものにしろ、モスクヷではいつとはなし伸子のうけもちになった。

「丁度いいじゃないか、ぶこちゃんは、何にだって興味もってるんだから……」

 それは、たしかにそう云えたし、素子の教育法は、伸子の片ことに自信をつけた。素子のそういうしつけがなかったら、伸子はモスクヷへついて、たった二週間めに、鉄工労働者のクラブで、たとえ十ことばかりにしろ、ものを云うことなどは出来なかったろう。ВОКСから紹介されてそのクラブの集会に行ったとき、素子も伸子も、自分たちが演壇に立たされることなどを想像もしていなかった。ところが司会者が伸子たちを、その夜集っていた三百人ばかりの人々に紹介した。日本の婦人作家という言葉だけをききわけて、伸子が、

「あら、私たちのこと云っているんじゃない?」

と小声で素子にささやいた。

「…………」

 黙ってうなずいたまま司会者の云うことを終りまできいていた素子は、

「挨拶する、って云ってる──ぶこ、おやり」

と云った。

「どうして!」

 当惑している伸子たちの前へ、司会者が来た。そして、

「どうぞ。みんな非常によろこんでいます」

 二人のどちらとも云わず、一寸腰をかがめた。素子は、はためにもわかるほど椅子の上に体を重くした。

「ぶこちゃん、何とかお云いよ」

「困った──何て? ね」

 押問答しているうちに、人々の間から元気のいい、催促するような拍手がおこった。

「ダワイ! ダワイ!」

 そういう声もする。モスクヷについた翌日、馬方が馬をはげましていた陽気なかけ声をきくと、伸子は何を何と云っていいのか分らないままに、赤い布で飾られている演壇に上った。小さい伸子の体がかくれるように高い演説者のためのテーブルをよけて、演壇のはじっこまで出て行った。すぐ目の下から、ぎっしりと男女組合員のいろいろな顔が並んで、面白く珍しそうに、壇の上の伸子を見上げた。その空気が伸子を勇気づけた。伸子は、ひとこと、ひとこと区切って、

「みなさん」

と云った。

「わたくしは、たった二週間前に、日本から来たばかりです。わたしは、ロシア語が話せません」

 すかさずうしろの方から、響のいい年よりの男の声で、

「結構、話してるよ」

というものがあった。みんなが笑った。壇の上にいる伸子も思わずほほ笑んだ。そして、その先何と云っていいか分らず、しばらく考えていて、

「日本の進歩的な労働者は、あなたがたの生活を知りたいと思っています」

と云おうとした。しかし、それは伸子の文法の力に背負いきれず、伸子の云おうとしたことが、ききてに通じなかった。伸子はそれを感じて、

「わかりますか?」

と、みんなに向ってきいてみた。伸子の真下で第一列にいた中年の女が、すぐ首を横にふった。伸子は困ったが、こんどは単刀直入に、

「わたしは、あなたがたを、支持します」

と云った。さっきの年よりの男の声がまた響のいい声で答えた。

「こんどは分った!」

 そして、盛な拍手がおこった。

 これは伸子にとって思いがけない経験であった。同時に、伸子をモスクヷの心情により具体的に結びつけた出来ごとでもあった。

 敏感な素子は、学問として学んだロシア語の知識で、かえって、闊達さをしばられている状態だった。また、素子は二年なら二年という限られた時の間に、来ただけのことはあるという語学者としての収穫をためようともしているのだった。そういう緊張した素子の神経のかたわらに、対外的に課せられている責任をちっとも持たず、自然に、気質のままに、ひろがったり、流れたりしてあらゆるものを吸収しようとしている伸子がいることは、素子を時々はいらだたせるのかもしれない。伸子はそうも思った。

 いま暮しているように暮さないで、どう生活するかとそうきかれれば伸子に分らなかった。けれども、伸子の暮しかたは、素子の生活計画と平行して、では伸子の方はこういう風に、と考えられ、きめられ、そこで始っているものではなかった。モスクヷの二十四時間に素子が素子としての線を一本つよくひいた。その線にかち合わないところ、外側のところ、あまったところをひとりでに縫うようにして、伸子のモスクヷ生活の細目は、はじまっているのだった。伸子がそういう工合に生活している。そのことは、そんなに全く素子の意識にのぼらないわけのことなのだろうか。

 素子が、マリア・グレゴーリエヴナのところでプーシュキンをはじめるときめたとき、伸子は何心なく、

「新しいものやったら?」

と云った。古典は、持ってかえっても読める。革命後の文学は、つかわれている言葉そのものさえ違って来ているのだから。そう思ったのだった。すると素子が、閃くような笑いかたをして、

「そして伸子さんのお役に立てますか」

と云った。瞬間、伸子にわけがわからなかった。伸子はほとんど、あどけない顔で、

「わたしに?」

とききかえしながら素子を見た。その伸子の眼を見て、素子は急に語調をかえた真面目な調子で、

「わたしは、一年は古典をやるよ」

と云った。そう云っているうちに、素子の顔が薄すらと赧くなった。

「新しものずきは、どこにだってありすぎるぐらいあるさ。しかし、ロシア文学には古いもので立派なものがどっさりあるんだ。いまの文学に意味があるんなら、その歴史の源が、ちゃんとあるんだもの──シチェドリンだって、サルトィコフだって。面倒くさくて儲かりもしないから、誰もやらないのさ。──だからわたしは、一つ土台からやってやるんだ」

 素子が自分で云ったことに対してひそかに赤面したわけは、よっぽどたってから、伸子に、わかった。

 率直ということが卑劣と相いれない本質のものであるなら、素子は卑劣でなかった。素子は伸子に対して、どんな場合も率直でないことはないのだから。けれども、伸子には、自分に向って率直にあらわされる素子の不安定な機嫌というようなものが切なく思われた。窓のそとでは大屋根の廃墟の穴の中へ雪が落ちているホテルの夜中、コトコト鳴るスティームの音をききながら、伸子は考えるのだった。そもそも、機嫌とは、何なのだろうか、と。そして、ぼんやりした恐怖を感じた。伸子は、はじめて機嫌を軽蔑する自分を感じたから。そして、一緒にくらして来た数年間、伸子は、素子の機嫌を無視した経験がなかったから。こうして伸子が何となしくよくよと物を思っているその夜の間も、羽搏はばたきをやすめず前進しているモスクヷ生活で、どんな一つの積極的なことが機嫌からされているだろう。どんな一つの失敗が機嫌で拾収され得ているだろう。伸子は、ここまで来て、こういう感情にかかずらっている自分たち二人の女の貧寒を感じた。



 つぎの夜、素子のところへ女教師が来たとき、伸子は気をつけていて、自分がドアをあけるようにした。そして、入れちがいに、戸をしめて、室の外へ出た。

 いつものとおりしずかな狭いホテルの廊下の階段よりのところに、ふちのぴらぴらした、日本の氷屋のコップのようなかさの電燈がついている。その下の明るい場所へ椅子をもち出して、ホテル女中のシューラが、白金巾しろかなきん糸抜細工ドローンワークをやっていた。室を出た伸子は、そばへ行って、手摺にもたれた。シューラは、手を動かしつづけながら、

「御用ですか」

ときいた。

「いいえ。何でもないの」

 今夜も伸子は白いブラウスの上に日本の紫羽織をひっかけていた。

「ここは寒くないの」

「暖くはありませんよ──」

 毛がすりきれて、編みめののびた古い海老茶色のジャケツを着て、薄色の髪をかたく頸ねっこに丸めているシューラはやせていた。小さな金の輪の耳飾りをつけているシューラの耳のうしろは骨だってやつれが目立った。伸子は、自分につかえるわずかの言葉で話すために骨を折りながら、

「シューラ、あなた、丈夫?」

ときいた。

 シューラは、糸抜細工ドローンワークから目をあげないままで、

「わたしは肺がわるいです」

と云った。

「肺、わかります? ここ──」

 そう云いながら、ボタンの一つとれたジャケツの胸をさして伸子を見あげた。シューラの顔に、遠目でわからなかった若さがあるのに伸子はびっくりした。

「わかるわ──日本にも肺病はどっさりよ」

「──わたしは技術がないから、ほかの働きが出来ないんですよ。でも、わたしはこわがっちゃいないんです、もうじき、サナトリアムに入る番が来るから」

 そのとき誰かが階段をあがって来た。シューラは話すのをやめて細工ものをとりあげた。かわ帽子をかぶって綿入半外套を着た若くない男があがって来て、それとなく伸子に注目しながら、一つのドアの中に入った。間もなく、手洗所のわきの女中室でベルが鳴った。いまの男が、茶でも命じるのだろう。シューラは、細工ものと椅子とをもって、廊下のはずれにある女中室の方へ去った。──やっぱり廊下は工合がわるい。

 伸子は、時間つぶしに一段一段、階段の数をかぞえながら三階へ降りて行った。それは二十六段あった。粗末な花模様絨毯がしかれている廊下の右側にある秋山宇一の室のドアをたたいた。

「おはいりなさい」

 にぎやかに若い女の声が答えた。ドアをあけると、壁ぎわによせたバネなしのかたい長椅子の上に、秋山宇一とドーリヤ・ツィンとがぴったりよりそってかけていて、窓ぎわのデスクに内海厚がよりかかっている。

「今晩は──お邪魔じゃないこと?」

「どぞ、どぞ」

 ドーリヤ・ツィンが早口の日本語で云った。

「わたしたちの勉強、すんだところです、ね秋山さん──そでしょう?」

「ええ──どうぞ」

 ドーリヤと秋山とが、そうやってくっついてかけている様子は、まるで丸くふくれて真紅な紅雀のよこへ、頭が灰色で黒ネクタイをつけた茶色のもっと小さい一羽が、自分からぴったりくっついて止り木にとまっているようだった。若い内海厚が却ってつつましくドーリヤからはなれているところも面白かった。ドーリヤ・ツィンという珍しい姓名をもっているこの東洋語学校の卒業生から、秋山はこの頃ロシア語を習っているのだった。

「ドーリヤさんと秋山さんがそうして並んでいるところは、二羽の紅雀のようよ」

 伸子が笑いながら云った。

「ベニスズメ?──それなんでしょう、わかりませんね」

「なんていうの? 紅雀」

 伸子にきかれた内海は、

「さあ」

と首を曲げた。伸子は、不審がっているドーリヤの気をわるくしないようにいそいで、

「小鳥」

とロシア語で云った。

「二つの小鳥……二つのロビンよ」

「おお、ロビン! アイ・ノウ」

 ドーリヤは英語をまぜて叫んで、面白そうに手をうち合わせた。

「ロビン! 英語の詩でよんだことあります。それ、美しい小鳥です。そうでしょう? サッサさん」

「そうよ。ドーリヤさんは、紅い紅雀よ、秋山さんは髭の生えている紅雀」

「まあ、素敵!」

 ドーリヤは、すっかり面白がって大笑いしながら、テーブルの奥の長椅子から、とび出して来た。

「サッサさん、可愛いかた!」

 そう云って伸子を抱擁した。ドーリヤは伸子を抱きしめると、そのまま、あっさり伸子からはなれ、衣裳タンスの前へ行って、まぶしい光りを反射させている鏡へ自分の全身をうつした。横姿から自分を眺めながらスカートの皺などを直した。ドーリヤは、半分アジアで半分はヨーロッパの血色のいい丸顔をふちどっているブロンドの髪や、たっぷり大きい胸元に似ずスラリとした自分の脚つきを一わたり眺めて、それに満足したらしく、小声でダンス曲をくちずさみながら、一人でチャールストンの稽古をはじめた。両肱をもちあげて自分の足もとを見おろしながら、エナメル靴の踵と爪先とを、うちそとにせわしく小刻みに動かした。

「サッサさん、あなたチャールストン踊れますか? わたし、これ、きのうならいました。むずかしいです」

「ロシアの人のこころとチャールストンのリズム、ちがうでしょう」

 伸子も、ドーリヤにわからせようと片言の日本語になって云った。ドーリヤは、なおしばらく、せかせかとぎごちなく足を動かしていたが、

「本当だわ」

 ロシア語で、真面目な顔つきで云って足のばたばたは中止にし、両手をうしろに組んで、面白いことをさがし出そうとするように、秋山の室のなかをぐるりと歩いた。やがて伸子のよこにかけて羽織をいじくっているうちにドーリヤは、子供のとき両親につれられて、日本見物に行ったときのことを話し出した。

「何と云いました? あの温泉のある美しい山の公園──」

「どこだろう、ハコネですか」

 秋山が云った。

「おお、ハコネ。そこで、わたくし、一つの箱買って貰いました。小さい小さい板のきれをあつめて、きれいにこしらえた箱です、そして、それ、秘密のポケットもっていましたね」

「ああ寄木細工の箱だ──貯金箱ですよ」

 慎重な顔で内海が、きわめつけた。

「その箱、いまどこにあるの?」

 伸子がそうきくと、ドーリヤ・ツィンは目に見えて悄気た。両肩をすくめて、

「知りません」

 悲しそうに云った。

「わたしたちはどっさりのものを失ったんです。──両親は、非常に金持でした。大きな金持の商人でした」

 ドーリヤは、それをロシア語で、ゆっくり、重々しく云った。秋山が暗示的に、伸子に向って補足した。

「ドーリヤさんの両親は、シベリアの方に生活しているらしいですよ。──そうでしたね?」

「そうです、そうです」

 ドーリヤは、シベリアという言葉に幾度も頷ずきながら、濃く紅をつけた唇の両隅を、救いようのない困惑の表情でひき下げながら、下唇をつき出すような顔をした。伸子にもおぼろげに察しられた。ドーリヤの親は何か経済攪乱の事件にひっかかっているのだ。

「ドーリヤさんは、どこで、そんなに日本語が上手になったの?」

 やがて、すっかり話題をかえて伸子がきいた。箱根細工から思いがけない物思いにひきこまれかかっていたドーリヤには、伸子の日本語がききとれなかった。内海が先生のように几帳面な口調で通訳した。

「おお、サッサさん、あなた、ほんとに、わたしの日本語上手と思いますか?」

 ドーリヤ自身、そのきっかけにすがりつくようにして、もとの陽気さに戻ろうとした。

「思います」

「ほんとに、うれしいです」

 その声に真実がこもっていた。ドーリヤはモスクヷでの生活の基礎を、すこしの英語、すこしの中国語、日本語などの語学においているのであった。

「わたくし、日本語話すとき、考えません。ただ、出来るだけ、迅く迅く、途切れないように」

と最後の途切れないようにという一字だけロシア語をはさんで、

「つづけて話します。きいている人、思いましょう? あんなになめらかに話す。彼女は必ずよく知っているだろうと。これ、かしこいでしょう?」

 ドーリヤの若い娘らしい率直さが、みんなを大いに笑わせた。秋山宇一は、何遍も合点合点しながら、手をもみ合わせた。

「わたしたち日本人には、こういうところが足りなさすぎるんですね。大胆さが足りないんです。いつも間違いばかりおそれていますからね」

 だまっていたが、伸子は、この時ドーリヤとさっき廊下で話して来たシューラとの比較におどろかされていた。はしゃいで、チャールストンの真似をしているときでも、しんから気をゆるした眼つきをしていないドーリヤと、清潔なぼろと云えるようなジャケツをきたやせたシューラの落着きとは、何というちがいだろう。エナメル靴をはいたドーリヤは何ともがいているだろう。

 ドーリヤ・ツィンは、今夜七時から友達のところの誕生祝いに出かける。二三人の仲間が誘いに来るのを秋山の室で待ち合わせることになっているのだそうだった。ドーリヤ自身は何も云わなかった。秋山がそのことを話した。そして、

「もう何時ごろでしょうかね」

 時計をみるようにした。伸子は、ひき上げる時だということを知った。秋山は、自分のところへ誰か訪ねて来るとき、伸子たちがいあわすことを好まなかった。いつも、自然に伸子たちが遠慮する空気をつくった。

「じゃ、また」

 伸子が椅子から立ちかけると、ドーリヤが思いがけないという顔で伸子と秋山を見くらべながら、自分も腰を浮かして、

「なぜですか?」

と尻あがりの外国人のアクセントで云った。

「どうぞ。どうぞ。サッサさん。時間どっさりあります。わたくし、サッサさんの日本語きくのうれしいです。ほんとにうつくしいです」

 秋山はしかし格別引きとめようともしないで、立ったままでいる伸子に、

「ああ、おとといニキーチナ夫人のところへ行きましたらね、どうしてあなたがたが来ないかと云っていましたよ」

「そうお──……」

「行かれたらいいですよ、なかなかいろいろの作家が来て興味がありますよ」

「ええ……ありがとう」

 伸子は秋山宇一らしく、おとといのことづてをするのを苦笑のこころもちできいた。

 ニキーチナ夫人は博言学者で、モスクヷの専門学校の教授だった。ケレンスキー内閣のとき文部大臣をしたニキーチンの夫人で、土曜会という文学者のグループをこしらえていた。瀬川雅夫が日本へ立つ三日前、瀬川・伸子という顔ぶれで、日本文学の夕べが催された。日本へ来たことのあるポリニャークが司会して、伸子は、短く、明治からの日本の婦人作家の歴史を話した。その晩、伸子は、絶えず自分のうしろつきが気にかかるような洋服をやめて、裾に刺繍のある日本服をきて出席した。

 講演が終ると、何人かのひとが伸子に握手した。ニキーチナ夫人もそのなかの一人だった。伸子は夫人の立派なロシア風の顔だちと、学殖をもった年配の女のどっしりとした豊富さを快く感じた。ニキーチナ夫人は、鼻のさきが一寸上向きになっている容貌にふさわしいどこか飄逸ひょういつなところのある親愛な目つきで、場所なれない伸子を見ながら、

「あなたは大変よくお話しなさいましたよ」

と、はげました。

「わたしたちが知らなかった知識を与えられました。けれどね、おそらくあなたは、こういう場合を余り経験していらっしゃらないんでしょう」

 伸子はありのまま答えた。

「日本では一遍も講演したことがありません。モスクヷでだって、これがはじめて」

「そうでしょう? あなたは、大へんたびたびキモノのそこのところを」

とニキーチナ夫人は、伸子の着物の上前をさした。

「ひっぱっていましたよ」

「あら。──そうだったかしら……」

「御免なさい、妙なことに目をとめて」

 笑いながらニキーチナ夫人は鳶色ビロードの服につつまれた腕を伸子の肩にまわすようにした。

「そこについている刺繍があんまりきれいだからついわたしの目が行ったんです。そうすると、あなたの小さい手が、そこをひっぱっているんです」

 ニキーチナ夫人は、伸子たちに、土曜会の仲間に入ることをすすめ、数日後には一緒に写真をとったりした。でも、土曜会とは、どういう人々の会なのだろう。伸子たちは、つい、行きそびれているのだった。秋山宇一は、おとといも行ったというからには、土曜会の定連なのだろう。

「この間は、珍しい人たちが来ていましたよ、シベリア生れの詩人のアレクセーフが。わたしに、あなたは、こういうところに坐っているよりも、むしろプロレタリア作家の団体にいる筈の人なのじゃないかなんて云っていましたよ」

 こういう風に、秋山宇一は伸子に、いつも自分が経験して来た様々のことを、情熱をもって描いてきかせた。けれども、それは、きまって、自分だけがもう見て来てしまったこと、行って来てしまったところについてだった。そして、そのあとできまって秋山宇一は、

「是非あなたも行かれるといいですよ」

と云うのだったが、どういう場合にでもあらかじめ誘うということはしなかったし、この次は一緒に行きましょうとは云わなかった。また、こういう順序で、あなたもそれを見ていらっしゃいという具体的なことは告げないのだった。

 ドーリヤに挨拶してその室を出ようとした伸子が、

「ああ、秋山さんたち、お正月、どうなさる?」

 ドアの握りへ手をかけたまま立ちどまった。

「きょう大使館へ手紙をとりに行ったら、はり出しが出ていたことよ。元旦、四方拝を十一時に行うから在留邦人は出席するようにって──」

「──そうでしたか」

 内海は黙ったまま、すっぱいような口もとをした。

「何だか妙ねえ──四方拝だなんて──やっぱりお辞儀するのかしら……」

 困ったように、秋山は大きい眉の下の小さい目をしばたたいていたが、

「やっぱり出なけりゃなりますまいね」

 ほかに思案もないという風に云った。

「モスクヷにいる民間人と云えば、われわれぐらいのものだし……何しろ、想像以上にこまかく観られていますからね」

 ドーリヤのいるところで、秋山は云いにくそうに、云った。そして、残念そうに内海を見ながら、

「うっかりしていたが、そうすると、レーニングラードは三十一日にきり上げなくちゃなりますまいね」

 秋山は国賓としての観光のつづきで、レーニングラードのВОКСから招待されているのだそうだった。

 四階の自分の室へ戻る階段をゆっくりのぼりながら、伸子は、このパッサージというモスクヷの小ホテルに、偶然おち合った四人の日本人それぞれが、それぞれの心や計画で生きている姿について知らず知らず考えこんだ。素子も、随分気を張っている。秋山宇一も、何と細心に自分だけの土産でつまった土産袋をこしらえようと気をくばっていることだろう。秋山宇一は、日本の無産派芸術家である。その特色をモスクヷで鮮明に印象づけようとして、彼は、立場のきまっていない伸子たちと、あらゆる行動で自分を区別しているように思えた。同時に伸子たちには、彼女たちと秋山とは全く資格がちがい、したがって同じモスクヷを観るにしろ、全然ちがった観かたをもっているのだということを忘れさせなかった。その意識された立場にかかわらず、秋山宇一は大使館の四方拝については気にやんで、レーニングラードも早めに切り上げようとしている。秋山が短い言葉でこまかく観られているといったことの内容を直感するほどモスクヷに生活していない伸子には、秋山のその態度が、どっち側からもわるく思われたくない人のせわしなさ、とうけとれた。伸子は、日本にいるときからロシア生活で、ゲ・ペ・ウのおそろしさ、ということはあきるほどきかされて来ていたが、日本側のこまかい観かたの存在やその意味方法については、ひとことも話されるのをきいていなかった。

 階段に人気のないのを幸い、伸子は紫羽織のたもとを片々ずつつかんだ手を、右、左、と大きくふりながら、一段ずつ階段をとばして登って行った。二人しかいないホテルの給仕たちは、三階や四階へものを運ぶとき、どっさりものをのせた大盆をそばやの出前もちのように逆手で肩の上へ支え、片手にうすよごれたナプキンを振りまわしながら、癇のたった眼つきで、今伸子がまねをしているように一またぎに二段ずつ階段をとばして登った。



 その年の正月早々、藤堂駿平がモスクヷへ来た。これは、伸子たちにとっても一つの思いがけない出来事だった。三ヵ月ばかり前、旅券の裏書のことで、伸子が父の泰造と藤堂駿平を訪ねたときには、そんなけぶりもなかった。藤堂駿平の今度の旅行も表面は個人の資格で、日ソ親善を目的としていた。ソヴェト側では、大規模に歓迎の夕べを準備した。その報道が新聞に出たとき、秋山宇一は、

「到頭来ましたかねえ」

と感慨ふかげな面もちであった。

「この政治家の政治論は妙なものでしてね、よくきいてみればブルジョア政治家らしく手前勝手なものだし、近代的でもないんですが、日本の既成政治家の中では少くとも何か新しいものを理解しようとするひろさだけはあるんですね。ソヴェトは若い国で、新しい文化をつくる活力をもっている。だから日本は提携しなければならない。──そういったところなんです」

 そして、彼はちょっと考えこんでいたが、

「いまの政府がこの人を出してよこした裏には満蒙の問題もあるんでしょうね」

と云った。

 こっちへ来るについて旅券のことで世話になったこともあり、伸子は藤堂駿平のとまっているサヴォイ・ホテルへ敬意を表しに行った。

 金ぶちに浮織絹をはった長椅子のある立派な広い室で、藤堂駿平は多勢の人にかこまれながら立って、葉巻をくゆらしていた。モーニングをつけている彼のまわりにいるのは日本人ばかりだった。控間にいた秘書らしい背広の男に案内されて、彼のわきに近づく伸子を見ると、藤堂駿平は、鼻眼鏡をかけ、くさびがたの顎髯あごひげをもった顔をふりむけて、

「やあ……会いましたね」

と東北なまりの響く明るい調子で云った。

「モスクヷは、どうです? 気に入りましたか。──うちへはちょいちょい手紙をかきますか?」

 伸子が、簡単な返事をするのを半分ききながら、藤堂駿平は鼻眼鏡の顔を動かしてそのあたりを見まわしていたが、むこうの壁際で四五人かたまっている人々の中から、灰色っぽい交織の服を着て、いがくり頭をした五十がらみの人をさしまねいた。

「伸子さん。このひとは、漢方のお医者さんでね。このひとの薬を私は大いに信用しているんだ。紹介しておいて上げましょう。病気になったら、是非この人の薬をもらいなさい」

 漢方医というひとに挨拶しながら伸子は思わず笑って云った。

「おかえりまでに、わたしがするさきの病気までわかると都合がいいんですけれど」

 藤堂駿平のソヴェト滞在はほんの半月にもたりない予定らしかった。

「いや、いや」

 灰色服をきたひとは、一瞬医者らしい視線で伸子の顔色を見まもったが、

「いたって御健康そうじゃありませんか」

と言った。

「わたしの任務は、わたしを必要としない状態にみなさんをおいてお置きすることですからね」

 誰かと話していた藤堂駿平がそのとき伸子にふりむいて、

「あなたのロシア語は、だいぶ上達が速いそうじゃないか」

と云った。伸子は、自分が文盲撲滅協会の出版物ばかり読んでいることを話した。

「ハハハハ。なるほど。そういう点でもここは便利に出来ている。──お父さんに会ったら、よくあなたの様子を話してあげますよ。安心されるだろう」

 その広い部屋から鍵のてになった控間の方にも、相当の人がいる。みんな日本人ばかりで、伸子はモスクヷへ来てからはじめて、これだけの日本人がかたまっているところをみた。小規模なモスクヷ大使館の全員よりも、いまサヴォイに来ている日本人の方が多勢のようだった。藤堂駿平のそばから控間の方へ来て、帰る前、すこしの間を椅子にかけてあたりを眺めていた伸子のよこへ、黒い背広をきた中背の男が近づいて来た。

「失礼ですが──佐々伸子さんですか?」

「ええ」

「いかがです、モスクヷは──」

 そう云いながら伸子のよこに空いていた椅子にかけ、その人は名刺を出した。名刺には比田礼二とあり、ベルリンの朝日新聞特派員の肩がきがついていた。比田礼二──伸子は何かを思い出そうとするような眼つきで、やせぎすの、地味な服装のその記者を見た。いつか、どこかで比田礼二という名のひとが小市民というものについて書いている文章をよんだ記憶があった。そして、それが面白かったというぼんやりした記憶がある。伸子は、名刺を見なおしながら云った。

「比田さんて……お書きになったものを拝見したように思うんですけれど──」

「…………」

 比田は、苦笑に似た笑いを浮べ、口さきだけではない調子で、あっさりと、

「あんなものは、どうせ大したもんじゃないですがね──」

と云った。

「あなたのモスクヷ観がききたいですよ」

「……なにかにお書きになるんじゃ困るわ、わたしは、ほんとに何にもわかっていないんだから」

「そういう意味じゃないんです。ただね、折角お会いしたから、あなたのモスクヷ印象というものをきいてみたいんです」

「モスクヷというところは、不思議なところね。ひとを熱中させるところね──でも、わたしはまだ新聞ひとつよめないんだから……」

 はじめ元気よく喋り出して、間もなく素直に悄気た伸子を、その比田礼二という記者は、いかにも愛煙家らしい象牙色の歯をみせて笑った。

「新聞がよめないなんてのは、なにもあなた一人のことじゃないんだから、心配御無用ですよ。──ところで、モスクヷのどういう所が気に入りましたか? 新しいところですか──古さですか」

「私には、いまのところ、あれもこれも面白いんです。たしかにごたついていて、そのごたごたなりに、じりじり動いているでしょう? 大した力だと思うんです。何だか未来は底なしという気がするわ。──ちがうかしら……」

「…………」

「空間的に最も集約的なのはニューヨーク。時間的に最も集約的なのがモスクヷ……」

 比田は、ポケットから煙草ケースをとり出して、ゆっくり一本くわえながら、

「なるほどね」

と云った。そして、すこしの間だまっていたが、やがて、

「ところで、あなたはロシアの鋏ということがあるのを御存じですか」

ときいた。伸子は、そういうことばを、きいたことさえなかった。

「つまりあなたの云われる、ロシアの可能性の土台をなすもんなんですがね。ロシアは昔っから、ヨーロッパの穀倉と云われて来たんです。ロシアは、自分の方から主として麦を輸出して、その代りに外国から機械そのほかを輸入して来ていたんですがね、この交互関係──つまり鋏のひらきは、あらゆる時代に、ロシアの運命に影響しました。帝政時代のロシアは、その鋏の柄を大地主だった貴族たちに完全に握られていましてね。連中は、ロシア貴族と云えばヨーロッパでも大金持と相場がきまっていたような暮しをして、そのくせ、農業の方法だって実におくれた状態におきっぱなしでね。石油、石炭みたいなものだって、半分以上が外国人の経営だった、利権を売っちゃって。──そんな状態だからロシアの民衆は、自分たちの無限の富の上で無限貧乏をさせられていたわけなんです。──宝石ずくめのインドの王様と骸骨みたいなインドの民衆のようなものでね」

 儀礼の上から藤堂駿平を訪問したサヴォイ・ホテルのバラ色絹の張られた壁の下で、比田礼二に会ったことも思いがけなかったし、更にこういう話に展開して来たことも、伸子には予想されないことだった。

「この頃のモスクヷでは、どこへ行ったっていやでも見ずにいられないインダストリザァツィア(工業化)エレクトリザァツィア(電化)という問題にしたってね。云おうと思えばいくらでも悪口は云えますよ。たしかに、先進国では、そんなことはとっくにやっちまっているんですからね──しかし、ロシアでは意味がちがう。これが新しいロシアの可能を決定する条件なんです。ともかく、まずロシアは一応近代工業の世界的水準に追いついてその上でそれを追い越さなくちゃ、社会主義なんて成りたたないわけですからね。『追いつけ、追いこせ』っていうのだって、ある人たちがひやかすように、単なるごろあわせじゃないわけなんです」

 人間ぽい知的な興味でかがやいている比田礼二の眼を見ながら、伸子は、このひとは、何とモスクヷにいる誰彼とちがっているだろうと思った。それは快く感じられた。

 モスクヷにいる日本人の記者にしろ、役人にしろ、伸子が会うそれらの人々は、一定の限度以上にたちいっては、ロシアについて話すことを避けているような雰囲気があった。その限度はきわめて微妙で、またうち破りにくいものだった。

 伸子は、知識欲に燃えるような顔つきになって、

「あなたのお話を伺えてうれしいわ」

と云った。

「それで──?」

「いや、別に、それで、どういうような卓見があるわけじゃありませんがね」

 比田礼二は、それももちまえの一つであるらしい一種の自分を韜晦とうかいした口調で云った。

「──革命で社会主義そのものが完成されたなんかと思ったらとんでもないことさ──ロシアでだって、やっと社会主義への可能、その条件が獲得されたというだけなんです。しかも、その条件たるや、どうして、お手飼いのちんころみたいに、一旦獲得されたからって、その階級の手の上にじっと抱かれているような殊勝な奴じゃありませんからね」

 それは、伸子にもおぼろげにわかることだった。ドン・バスの事件一つをとりあげても、比田礼二のはなしの意味が実証されている。

「これだけのことを、日本語できかして下すったのは、ほんとに大したことだわ」

 伸子は、友情をあらわして、比田に礼を云った。

「わたしはここへ来て、随分いろいろ感じているんです。つよく感じてもいるの──」

 もっともっと、こういう話をきかせてほしい。口に出かかったその言葉を、伸子は、変なれやすさとなることをおそれてこらえた。比田礼二の風采には、新聞記者という職業に珍しい内面的な味わいと、いくらかの憂鬱さが漂っていた。

「気に入ろうと入るまいと、地球六分の一の地域で、もう実験がはじまっているのが事実なんですがね」

 彼はぽつりぽつりと続けた。

「──人間て奴は、よっぽどしぶとい動物と見えますね、理窟にあっているというぐらいのことじゃ一向におどろかない」

 彼は人間の愚劣さについて忍耐しているような、皮肉に見ているような複雑な微笑を目の中に閃かした。

「見ようによっちゃ、まるで、狼ですよ。強い奴の四方八方からよってたかって噛みついちゃ、強さをためさずには置かないってわけでね」

 そのとき、人々の間をわけて、肩つきのいかつい一人の平服の男が、二人のいる壁ぎわへよって来た。

「──えらく、話がもてているじゃないか」

 その男は、断髪で紺の絹服をつけている伸子に、女を意識した長い一瞥を与えたまま、わざと伸子を無視して、比田に向って高飛車に云いかけた。

 比田はだまったまま、タバコをつけなおしたが、その煙で目を細めた顔をすこしわきへねじりながら、

「まあ、おかけなさい」

 格別自分のかけている椅子をどこうともしないで云った。三人はだまっていた。すると、比田がその男に、

「──飯山に会われましたか」

ときいた。

「いいや」

「あなたをさがしていましたよ」

「ふうむ」

 なにか思いあたる節があるらしく、その男は比田から火をもらったパイプをくわえると、大股に広間の方へ去った。

「何の商売かしら──あのかた……」

 そのうしろ姿を目送しながら伸子がひとりごとのように云った。

「軍人さん、ですよ」

 やっぱりその肩のいかつい男のうしろ姿を見守ったまま、伸子の視線は、スーと絞りを狭めたようになった。秋山宇一が、われわれは、こまかく見られている、と云った、そのこまかい目は、こういう一行のなかにもまぎれこんでいるのだろうか。

 伸子は、やがてかえり仕度をしながら、

「ここよりベルリンの方がよくて?」

と比田礼二にきいた。

「さあ、ここより、と云えるかどうかしらないが、ベルリンも相当なところですよ、このごろは。──ナチスの動きが微妙ですからね。──いろいろ面白いですよ。ベルリンへはいつ頃来られます?」

「まるで当なしです」

「是非いらっしゃい。ここからはたった一晩だもの。──案内しますよ。僕が忙しくても、家の奴がいますから……」

「御一緒?」

「──ドイツで結婚したんです」

 その室の入口のドアまで送り出した比田礼二と、伸子は握手してわかれた。

 藤堂駿平の一行で占められているサヴォイ・ホテルの奥まった一画から、おもての方へ深紅色のカーペットの上を歩いて行きながら、伸子は、モスクヷにいる同じ新聞の特派員の生活を思いうかべた。その夫婦は、モスクヷの住宅難からある邸の温室を住宅がわりにして、そのガラス張りの天井の下へ、ありとあらゆるものをカーテン代りに吊って、うっすり醤油のにおいをさせながら暮しているのだった。

 棕梠の植込みで飾られたホテルの広間から玄関へ出ようとするところで、

「おお、サッサさん、おめにかかれてうれしいです」

 モスクヷには珍しい鼠色のソフトを、前の大きくはげた頭からぬぎながら伸子に向って近よって来るクラウデに出あった。一二年前、レーニングラードの日本語教授コンラード夫妻が東京へ来たとき、ひらかれた歓迎会の席へ、日本語の達者な外交官の一人としてクラウデも出席していた。黒い背広をどことなしタクシードのような感じに着こなして、ほんとに三重にたたまってたれている顎を七面鳥の肉髯のようにふるわしながら流暢りゅうちょうな日本語で話すクラウデの風丰ふうぼうは、そのみがきのかかり工合といい、いかにも花柳界に馴れた外国人の感じだった。その席でそういう印象を受けたぎり、人づき合いのせまい伸子は、いつクラウデがロシアへかえったのかもしらなかった。

 ところが、伸子がこっちへ来てから間もないある晩、芸術座の廊下で声をかけた男があった。それがクラウデであった。三重にたたまっておもく垂れた顎をふるわしてものをいうところは元のままであったが、そのときのクラウデには、東京で逢ったときの、あの居心地わるいほどつるつるした艷はなくなっていた。彼の着ている背広もあたりまえの背広に見えた。クラウデはまた日本文学の夕べにも来ていた。そして、いま、またこのサヴォイ・ホテルの廊下で出あったのだった。クラウデは、愛嬌のいい調子で、

「モスクヷの冬、いかがですか」

と云った。

「あなたのホテルは煖房設備よろしいですか」

「ええ、ありがとう。わたしは、冬はすきですし、スティームも大体工合ようございます。あなたは、日本の冬を御存じだから……」

 伸子はすこし別の意味をふくめて、ほほ笑みながら云った。

「日本の雪見の味をお思い出しになるでしょう?」

「おお、そうです。ユキミ──」

 クラウデは、瞬間、遠い記憶のなかに浮ぶ絵と目の前の生活の動きの間に板ばさみになったような眼つきをした。しかしすぐ、その立ち往生からぬけ出して、クラウデは、

「サッサさん、是非あなたに御紹介したいひとがあります。いつ御都合いいでしょうか」

と云った。伸子は語学の稽古や芝居へゆく予定のほかに先約らしいものもなかった。

「そうですか、では、木曜日の十五時──午後三時ですね、どうかわたしのうちへおいで下さい」

 クラウデは小さい手帖から紙をきりとって伸子のために自分の住所と地図をかいてわたした。


 ボリシャーヤ・モスコウスカヤと並んで、大きく古びたホテル・メトロポリタンの建物がクレムリンの外壁に面してたっていた。約束の木曜日に、伸子はその正面玄関の黒くよごれた鉄唐草の車よせの下から入って行った。もとはとなりのボリシャーヤ・モスコウスカヤのように派手な外国人向ホテルだったものが、革命後は、伸子の知らないソヴェトの機関に属す一定の人々のための住居になっている模様だった。受付に、クラウデの書いてよこした室番号を通じたら、そこへは、建物の横をまわって裏階段から入るようになっていた。伸子は、やっとその説明をききわけて、大きい建物の外廓についてまわった。

 積った雪の中にドラム罐がころがっているのがぼんやり見える内庭に向って、暗い階段が口を見せていた。あたりは荒れて、階段は陰気だった。冬の午後三時と云えば、モスクヷの街々にもう灯がついているのに、ホテルの裏階段や内庭には、灯らしい灯もなかった。伸子は、用心ぶかくその暗い階段を三階まで辿りついた。そこで、踊り場に向ってしまっている重い防寒扉を押して入ると、そこは廊下で、はじめて普通の明るさと、人の住んでいる生気が感じられた。でも、どのドアもぴったりとしまっていて、あたりに人気はない。伸子は、ずっと奥まで歩いて行って、目ざす番号のドアのベルを押した。靴の音が近づいて来て、ドアについている戸じまりの鎖をはずす音がした。ドアをあけたのはクラウデであった。

「こんにちは──」

「おお、サッサさん! さあ、どうぞおはいり下さい」

 そういうクラウデの言葉づかいはいんぎんだけれども、上着をぬいで、カラーをはだけたワイシャツの上へ喫煙服をひっかけたままであった。クラウデは日本の習慣を知っている。日本の習慣のなかで女がどう扱われているかということを知りぬいている外国人であるだけ、伸子はいやな気がして、

「早く来すぎたでしょうか」

 ドアのところへ立ったまま少し意地わるに云った。

「たいへんおいそがしそうですけれど……」

「ああ、失礼いたしました。書きものをしていまして……」

 クラウデは、腕時計を見た。

「お約束の時間です──どうぞ」

 伸子を、窓よりの椅子に案内して自分は、二つのベッドが並んでおかれている奥の方へゆき、そっちで、カラーをちゃんとし上衣を着て、戻って来た。

「よくおいで下さいました。いまじき、もう一人のお客様も見えるでしょう」

 クラウデの住んでいるその室というのは奇妙な室だった。大きくて、薄暗くて、二つのベッドがおいてあるところと、伸子がかけている窓よりの場所との間に、何となし日本の敷居や鴨居でもあるように、区分のついた感じがあった。窓の下に暮れかかった雪の街路が見え、アーク燈の蒼白い光がうつっている。窓から見える外景が一層この室の内部の薄暗さや、雑然とした感じをつよめた。黙ってそこに腰かけ、窓のそとを眺めている伸子に、クラウデは、

「わたしは、ここにブハーリンさんのお父さんと住んでいます」

と云った。

「ブハーリンさん、御存じでしょう? あのひとのお父さんがこの室にいます」

 伸子はあきらかに好奇心を刺戟された。伸子がよんだたった一つの唯物史観の本はブハーリンが書いたものであったから。

「ブハーリンの本は、日本語に翻訳されています」

 伸子は、ちょっと笑って云った。

「お父さんのブハーリンも、やっぱり円い頭と円い眼をしていらっしゃいますか?」

 単純な伸子の質問を、クラウデは、何と思ったのかひどく真面目に、

「ブハーリンさんのお父さんは立派な人ですよ」

と、なにかを訂正するように云った。

「わたしたちは、一緒に愉快に働いています」

 しかし、伸子はちっとも知らないのだった、三重顎のクラウデが、現在モスクヷでどういう仕事に働いているのか。──

 クラウデは、ちょいちょい手くびをあげて時計を見た。

「サッサさん、もうじき、もう一人のお客様もおいでになります。わたくし、用事があって外出します。お二人で、ごゆっくり話して下さい。……それでよろしいでしょう?」

 クラウデにとってそれでよいのならば、伸子は格別彼にいてもらわなくては困るわけもなかった。

「いま来るお客さま、中国のひとです。女の法学博士です」

 そのひとが伸子に会おうという動機は何なのだろう。

「でも、わたしたち──そのかたとわたし、どういう言葉で話せるのかしら──わたしのロシア語はあんまり下手です」

「そのご心配いりません。英語、達者に話します」

 また時計をみて、クラウデは椅子から立ち上った。

「御免下さい。もう時間がありませんから、わたくし、失礼して仕度いたします」

 薄暗い奥の方で書類らしいものをとりまとめてから、クラウデは低い衣裳箪笥の前へもどって来た。そこの鏡に向って、禿げている頭にのこっている茶色の髪にブラッシュをかけはじめた。はなれた窓ぎわに、クラウデの方へは斜めに背をむけて伸子がかけている。その目の端に思いがけないピノーのオー・ド・キニーヌの新しい瓶が映った。伸子はおどろきににた感じをうけた。モスクヷで、この雑然として薄暗い独身男の室で、子供のときから父親の匂いと云えば体温にとけたその濃く甘い匂いしか思い出せないオー・ド・キニーヌの真新しい瓶を見出したのは意外だった。この化粧料はあたりまえではモスクヷで買うことの出来ないものでもある。柘榴ざくろ石のように美しく深紅色に輝いて鏡の前におかれているオー・ド・キニーヌの瓶は、父を思い出させるだけ、よけい伸子に、クラウデの生活をいぶかしく思う感情をもたせた。舶来もののオー・ド・キニーヌ。そして、ブハーリンさんのお父さん。それらはみんなクラウデと、どんなゆきがかりを持っているのだろうか。伸子のこころに、えたいのしれないところへ来たという感じが段々つよくなりかかった。そのとき、大きなひびきをたてて入口のベルが鳴った。

「ああ、お客様でしょう」

 出て行ったクラウデは、やがて一人の茶色の大外套を着た女のひとを案内して戻って来た。襟に狼の毛のついた外套をぬぎ、頭をつつんでいた柔かい黒毛糸のショールをとると、カラーのつまった服をつけた四十近い婦人が現れた。男も女も頬っぺたが赧くて角ばった体つきのひとが多いこのモスクヷで、その中国婦人の沈んだクリーム色の肌や、しっとりと撫でつけられた黒い髪は伸子の目に安らかさを与えた。

 時間を気にしているクラウデは、あわただしくその中国婦人と伸子とをひきあわせた。

「リン博士です。このかたの旦那様、やっぱり法学博士で、いまはお国へかえっておられます」

 リンという婦人に、クラウデはロシア語で紹介した。

「お話しした佐々伸子さん。日本の進歩的な婦人作家です」

 そして、リン博士と伸子とが握手している間に、

「では、どうぞごゆっくり」

と、クラウデは、外套を着て室から出て行った。

 やっと、きょうここへ来た目的がはっきりして、同じ薄暗く、ごたついた室にいても伸子は気が楽になった。伸子は、ほぐれくつろいでゆく心持から自然に、にっこりして、リン博士を見た。

「…………」

 伸子の人なつこいその気分を、聰明らしい落付いた眼のなかにうけとって、リン博士も年長の婦人らしく、笑みをふくんだ視線で伸子を見ながら、

「さて──私たちは何からお話ししたらいいでしょうね」

と云った。明晰で、同時に対手に安心を与える声だった。伸子はこのひとが若いものを扱いなれていることを直感した。モスクヷの孫逸仙大学にはどっさり中国から女学生が来ていた。黒いこわい髪を首の短い肩までバサッと長いめの断髪に垂して、鳥打帽をかぶっている中国の女学生たちを、伸子もよく往来で見かけた。中国では革命家たちに対して残酷で血なまぐさい復讐が加えられていたから、モスクヷへ来て勉強している娘たちの顴骨のたかい浅黒い顔の上にも、若い一本気な表情に加えてどこやら独特の緊張があった。中国女学生たちのそういう表情のつよい顔々は、並木道に立って色糸でかがった毬を売っている纏足の中国の女たちの顔つきと全くちがっていたし、半地下室に店をもっている洗濯屋のおかみさんである中国の女たちともまるでちがった、新しい中国の顔であった。リン博士は、それらの中国のどの顔々ともちがう落つきと、深みと、いくらかの寂しみをもってあらわれている。

 リン博士は、孫逸仙大学の教授かもしれない。ほとんどそれは間違なく思えた。けれども、自分が政治的な立場を明かにもっていないのに、あいてにばかりそんなことについて質問するのは無礼だと思えた。伸子は、

「ミスタ・クラウデは、あなたに私を、どう紹介して下すっているのでしょう」

 かいつまんで、自分のことを話した。モスクヷへ来て、ほんの少ししか経っていないこと。モスクヷへは、観て、そして学ぶために来ていること、など。──

「あなたの計画はわるくありませんね。だれでも、一番事実からつよい影響をうけますからね」

 リン博士はニューヨークにある大学の政治科を卒業して、そこの学位をもっているということだった。伸子の記憶に、まざまざと、その大学のまわりで過した一年ほどの月日の様々な場面が甦った。大図書館の大きな半円形のデスクに、夜になると、緑色シェードの読書用スタンドが数百もついていた光景。楡の木影がちらつく芝生に遊んでいた栗鼠りす。アムステルダム通りとよばれている寄宿舎前の古いごろごろした石敷の坂道を跳ね越えて、女学生達がよくかけこんでいた向い側の小さな喫茶店。どこも快活で、気軽で、愉しそうだった。そこへ、いつも山高帽子をかぶり、手套をきちんとはめていた佃の姿が陰気に登場する。つづいて、その腕にすがって、様々の混乱した思いのなかに若々しい丸顔を亢奮させつづけていた伸子自身の、桜んぼ飾のついた帽子をかぶり、マントを羽織った姿が浮んで来る。無限にひろがりそうになる思い出の複雑さを切りすてるように、伸子は、その大学が第一次ヨーロッパ大戦のあと、ドイツの侵略に対して英雄的に抵抗したベルギーの皇帝夫妻に、名誉博士の称号を与える儀式を挙行した、その日の光景を思い出して、リン博士に話した。

「ああ──それは、わたしたちが国へかえるすこし前のことでした」

 わたしたちと複数で云われたことが、伸子の耳にとまった。リン博士は夫妻でアメリカにいたのだろうか。

「私たちも、モスクヷへ来てまだ長くはないんですよ。──私たちは去年来たんですから」

 ボロージンが、武昌から引あげたのも去年のことであった。──伸子には段々、この経歴のゆたからしいリン博士に向いあって自分が坐っている意味がわからなくなって来た。クラウデは、どういうつもりで、リン博士を伸子に紹介したのだろう。リン博士の話しぶりには、親愛なこころもちが流れているけれども、クラウデに云われてここで伸子に会うために来ていることは、あきらかである。伸子は、リン博士と自分との間にあり得るいくつかの場合を考えているうちに、ひとつのことに思い当って、益々困惑した。もしかしたらリン博士は、何か伸子がうちあけて相談しなければならない真面目な問題をもっているように理解したのではなかろうか。たとえば合法的に旅券をもって来ているが、何かの形で政治的な活動にふれたいとでもいうような。そして、それが切り出されるのを待って、スカートのあたりのゆったりひろがった姿勢でテーブルによりながらこうして話しているのではなかろうか。さもなければ、その身ごなしをみても一日じゅうの仕事の予定をきっちり立てて活動しているらしいリン博士が、わざわざこの薄暗くて、お茶さえもないメトロポリタンの一室へ来て、伸子ととりとめない話をしようとは思えないのであった。どうしたらいいだろう。伸子は、さしあたってリン博士にうちあけて相談しなければならないようなどんな問題ももっていなかった。額のひろい色白で、眉と眉との間の明るくひらいている伸子の顔に、理解力と感受性のゆたかさはあっても、明確に方向のきまった意志の力はよみとれない。伸子の内心の状態も、彼女のその表情のとおり軟かくて、きまっていなかった。伸子が自覚し、意志しているのは、よく生きたいということだけだった。伸子は、こまって、また自分についての説明に戻って行くしかなかった。伸子はやや唐突に云いだした。

「わたしには、政治的な知識も、政治的な訓練もありません──社会の矛盾は、つよく感じているけれども」

 リン博士は、前おきもなしにいきなりそんなことを云いだした伸子の顔を平静な目でちょっと眺めていたが、

「わたしたちの国の文学者も、つい最近まではそうでしたよ」

 おだやかにそう云った。そして、考えている風だったが、ほっそりした形のいい腕をテーブルの上にすこし深く置きなおすようにして、リン博士は伸子にきいた。

「──モスクヷはどうでしょう……モスクヷの生活は、あなたを変えると思いますか?」

 こんなに煮えている鍋のなかで、変らずにいられるものがあるだろうか。

「モスクヷは煮えています。──誰だって、ここでは煮られずには生きられません」

 ひとこと毎に自分をたしかめながら、のろのろ口をきいていた伸子は、

「でもね、リン博士」

 へだてのない、信頼によってうちとけた態度で云った。

「いつでも、すべての人が、同じ時間に、同じように煮えるとは限らないでしょう?」

「…………」

「わたしは、わたしらしく煮えたいのです。いるだけの時間をかけて──必然な過程をとおって──」

 しばらく黙って、伸子の云ったことを含味していたリン博士は、右手をのばして、テーブルの上で組み合わせている伸子の、ふっくりとして先ぼその手をとった。

「──あなたの道をいらっしゃい。あなたは、それを発見するでしょう」

 二人はそれきり、黙った。窓の外の宵闇は濃くなって、アーク燈の蒼白い光の下を、いそぎ足に通る人影が雪の上に黒く動く。その景色に目をやったまま、リン博士がほとんど、ひとりごとのようにしんみりとつぶやいた。

「──わたしたちの国の人たちと、あなたの国の人たちと、どっちが苦しい生活をしているんでしょうね」

 リン博士の言葉は、しずかで、柔らかくて、心にしみる響があった。伸子は、自分が、リン博士との話の間で、はじめからしまいまで、わたし、わたし、とばかり云っていたことに気づき、自分というものの存在のせまさが急に意識された。そして伸子は、はずかしさを感じた。

 けれどもリン博士は、きいている伸子のこころがそんなに激しく動かされたことに心づかなかったらしく窓の外の雪の宵景色を眺めたまま、

「中国の民衆には、大きい、巨大と云ってもいいくらいの可能がかくされています──男にも、もちろん女にも。──ところが中国の人々は、まだその可能性を自覚しないばかりか、それを自覚する必要さえ理解していないんです」

 ふっと、情愛のこもった笑顔を伸子に向けて、リン博士は、

「あなた、孫逸仙大学の女学生たちを見ましたか?」

ときいた。

「あの娘たち──みんなほんとに若くて、未熟でさえあるけれど、熱意にあふれているんです。──可愛い娘たち──そう思いませんか?」

 その Don't you think so ?(そう思いませんか)というききかたには、どんなひとも抵抗できないあたたかさと、思いやりとがこもっている。ほんとに、黒い髪をしたあの娘たちは、国へかえって中国の人々の自由のためにたたかって、いつまで生きていられるだろう。伸子は彼女たちの生活を厳粛に思いやった。リン博士の声には、短く、熱烈な若い命を限りなく評価する響があった。


 ホテル・メトロポリタンのうすよごれた暗い裏階段から、伸子はアーク燈に照らされている雪の街路へ出た。リン博士との会見は不得要領に終ったようでありながら、伸子のこころに、これまで知らなかった人の姿を刻みつけた。リン博士のすんなりとした胸のなかには、そこをひらくと深い愛につつまれながら幾百幾千の中国の人々が、黒いおかっぱを肩に垂らした女学生もこめて、生きている。それにくらべて、自分の白いブラウスの胸をさいて見たとして、そこから何が出て来るというのだろう。先ず、わたし。それから佃や動坂の一家列。──しかもそれが、幾百幾千の人々の運命と、どうつながっているというのだろう。伸子は、防寒靴の底にキシキシときしんで雪の鳴る道を、足早に追いこしてゆくどっさりの通行人の間にまじりながら、小さい黒外套の姿で歩いて行った。



 一月にはいると、モスクヷでは快晴がつづいた。冬の青空がたかく晴れわたった下に、風のない真冬の日光が、白雪につつまれた屋根屋根、雪だまり、凍った並木道の樹々を、まばゆく、ときには桃色っぽく、ときには水色っぽく、きらめかせた。

 モスクヷ河の凍結もかたくなった。雪の深い河岸から眺めると、数株の裸の楊の木が黒く見えるこっち側の岸から、小さな小屋のようなものがポッツリと建っているむこう岸まで、はすかいに細く黒く、一本の踏つけ道が見えた。凍った河づらの白雪の上に黒い線に見える横断道の先で、氷滑りをしている人影が動いた。人影は雪の上で黒く小さく見えた。

 この季節になってから、赤い広場の景色に風致が加った。トゥウェルスカヤ通りが、クレムリン外壁の一つの門につきあたる。漆喰の古びた奥ゆきのふかいその門のアーチのぐるりには、毎日、雪の上に露店が出ていた。どこでもそうであるとおり、先ず向日葵の種とリンゴ売。靴みがき。エハガキ屋。粗末なカバンや、原始的な色どりのコーカサス絹のカチーフを並べて売っているもの。門のまわりはこみあっていて、裾長の大外套をきた赤軍の兵士だの、鞣外套のいそがしそうな男女、腕に籠を下げて、ゆっくりと何時間でも、店から店へ歩いていそうなプラトークのお婆さん。なかに交って、品質はいいけれども不器用に仕立てられた黒い外套をつけた伸子のような外国人までもまじって流れ動いているのだが、伸子は、いつも、この門のアーチを境にして、その内と外とにくりひろげられている景色の対照の著しさに興味をもった。アーチをくぐりぬけて、白雪におおわれた広場の全景があらわれた途端、その外ではあんなに陽気に動いていた人ごみは急に密度を小さくして、広場には通行人のかげさえまばらな寂しい白い真冬がいかめしかった。

 韃靼風に反りのある矛形飾りのついたクレムリンの城壁が広場の右手に高くつづき、その城壁のはずれに一つの門があった。そこに時計台が聳えていた。その時計台から夜毎にインターナショナルのメロディが響いて、こわれた屋根を見おろす伸子のホテルの窓へもつたわった。クレムリンの城壁からは、そのなかに幾棟もある建物の屋根屋根の間に、高く低く林立という感じで幾本もの黄金の十字架がきらめいていた。広場のつき当りに、一面平らな雪の白さに挑むように、紅白に塗りわけられたビザンチン教会がふくらんだ尖塔と十字架とで立ち、そのかたわらに、こっちの方はしぶい黄と緑で菊目石のようにたたみあげられた古い教会が並んでいる。これらの教会は十六七世紀につくられたものだった。広場の左側には、どっしりとした役所風の建築がつらなっていてその建物の数百の窓々が赤い広場を見おろしていた。

 広場の雪に、二本の踏つけ道が、細く遠くとおっている。一本はトゥウェルスカヤ通りの方から来た通行人が、歴史博物館の赤煉瓦の建物のよこから、レーニン廟の前をとおり、広場をよこぎって、時計台の下からモスクヷ河岸へ下りてゆく道。もう一本は、双曲線を描いて、左側の大建築の下につけられているアーチから、支那門とよばれているクレムリンに相対するもう一つの門へ出てゆく道。白い雪の上に、二本の踏つけ道は細い糸のように見えた。まばらに、そこを通る人々は、一列になって、踏つけ道の上をいそいだ。

 伸子は、この雪の広場の全景がすきだった。

 赤い広場の白雪の中に、円形の石井戸のようなものが灰色に突ったっていた。そのそばへ行く人はないから、その円形の石井戸のぐるりの雪は降りつもったままの厚さと、白さとできらめいている。遠くからは見えないけれども、その浅い石井戸のようなものの中に、あんまり高くない石の台があった。丁度、大きい男がひざまずいてのばした首がのるぐらいの高さで、──そして、太い鎖がたぐまって、その台の下に落ちていた。ここが、昔モスクヷがロシアの首都であった時分しばしばつかわれた有名な首の座ローブヌイ・メストだった。ステンカ・ラージンも、プガチョフも、この首の座で、彼らのちぢれ髪の、髯の濃い、太い農民の首を斬られて血を流した。自分の名をかくことさえ知らなかったその時代のロシアの民衆のうめきを彼らの呻きとし、母なるヴォルガの流れをさかのぼって、当時のモスクヷの暴虐者ツァーに肉迫した。ステンカ・ラージンの歌は、雄々しさと憂愁とをこめたメロディーで外国へもひろまっている。

 ひろい雪の上でさえぎるものない視線に、この首の座とクレムリンの城壁から林立している金の十字架の頂きを眺めあわせると、伸子は、いつも激しい叙事詩の感銘にうたれた。代々、いろんな人たちが、名のないステンカ・ラージンやプガチョフとしてこの首の座へ直らされるとき、この広場には、四方の門から、どんなにぎっしり群集が集って来たことだろう。みんなは首を斬られなければならない人物をあわれがり、自分たちの大きく正直な肉体にその恐怖と痛みを感じ、いくたびも胸に十字をきりながら、息をころして無残ないちぶしじゅうを凝視しただろう。その群集の訴えに向って、血の流されている首の座に向って、クレムリンの住人ツァーの一族がふりかざしたものは林立する十字架だった。モスクヷ河への道も有平糖細工のような二つの大教会でふさがれている。この広場にたぎった思いにこたえる人間らしいものは、どこにも見あたらない。

 どこの国の都でも、そこの広場には民衆の歴史のものがたりがつながっている。それだからこそ広場は面白く、あわれに、生きている。雪に覆われた赤い広場を眺めていると、ここには濃い諧調と美とがあって、伸子は、抑えられつづけた人間の執拗な蹶起けっきの情熱に同感するのだった。

 その日は、珍しく素子も一緒に散歩に出た。素子と伸子の二人は、トゥウェルスカヤ通りが終って、クレムリンの門へかかる手前で、一軒の菓子屋へよって、半ポンドの砂糖菓子を買った。そんな買物をするのは素子として滅多にないことだった。

「ちょっと、一つだけ」

 伸子は紙袋から、いちご模様の紙にくるまれたチョコレートをつまんで口に入れ、同じように頬ぺたをふくらましている素子とつれ立って、広場の入口まで来た。きょうもその辺をぐるりとまわって来るつもりだった。

 いかにも晴れやかな厳寒マローズで、露天商人もいつもよりどっさり出ているし、赤い広場の黒い二本の踏つけ道の上にも、一列につづいて、絶えず通行人がある。めったにこの辺をぶらぶら歩きすることもなかった素子は、

「やっぱりここの景色は味があるね」

と広場のはずれに立って、あちこち眺めわたした。そして、城壁に沿って足場めいたものの見えるレーニン廟へと目をとめた。

「一向工事がはかどってないじゃないか」

 レーニンの遺骸を、その姿のままに保存して、公開していたレーニン廟は、伸子たちがモスクヷへ来たころから修繕にとりかかって、閉鎖されていた。

「なおったら見るかい?」

「なにを?」

「レーニン廟というものを、さ。──世界名物の一つですよ」

 素子は、いつもの皮肉な笑いかたをして伸子をみた。

「わたしは、見ない」

 笑おうともしないで、遠いそっちを見つめながら伸子が答えた。

「──気味がわるい──それに変だわ。──レーニンは、死んでるから、うるさくないかもしれないけれど……」

「これだけの仕事をやっていながら、あんな子供だましみたいなこと、やめちまえばいいのさ。──これだからわるくちを云われるんだ」

 二人は、支那門へ向う踏つけ道を行った。「サトコ」のオペラの舞台が見せるように、諸国からモスクヷへと隊商たちが集った昔には、この辺に蒙古を横切ってやって来た粘りづよい支那商人のたむろ場所があったのだろうか。支那門のわきにも、いろんな露店が出ていた。こちらには食糧品が多かった。バケツに入れたトワローグ(クリームのしぼりかす)などまで売っている。素子と伸子とはそういう品々を見て歩き、素子は素子らしく、ホテル暮しでは買ってもしかたのない鶏一羽の価をきいたりした。そして、一人のリンゴ売りの前へ来かかった。年とったその男は、ものうげに小さい木の台へ腰をおろして、山形につみ上げたリンゴを売っていた。ちょっと肩のはった形で、こいクリーム色の皮に、上気のぼせた子供の頬っぺたのように紅みが刷かれている。そのリンゴは、皮がうすくて匂いの高い、特別に美味しい種類だった。ただ赤くて、平ったく円いリンゴよりは価もいい。素子は、

「うまそうなリンゴだね」

と立ちどまって見ていたが、

「パチョム(いくら)?」

 くだけたねだんのききかたをした。リンゴ売は、ろくに開けていないような瞼の間から、ぬけめなく、価をきいているのがロシアの女でないことを認めたとみえ、

「八十五カペイキ」

 わざとらしいぶっきら棒さで答えた。

「そりゃ、たかい」

 素子が、こごみかかって果物を手にとってしらべながら、ねぎりはじめた。

「七十五カペイキにしておきなさい。七十五カペイキなら六つ貰う」

 素子が、買いもののときねぎるのは癖と云ってよかった。日本でも、一緒にいる伸子がきまりわるく感じるほど、よくねぎった。気やすめのようにでも価をひかれると、もうそれで気をよくして払った。あいにくモスクヷでは、辻待ちの橇も露天商人も、素子のその癖を刺戟する場合が多かった。伸子は、こういうことがはじまるとわきに立って、おとなしくかけあいを傍聴するのだった。

「さ、七十五カペイキ……いいだろう?」

 リンゴ売は、いこじに、

「八十五カペイキ!」

と大きな声で固執した。

 するとそのとき、リンゴ売と並んで、すぐ隣りの雪の上に布をかぶせてなかみのわからない籠をおいて、赤黄っぽい山羊皮外套の両袖口からたがいちがいに手をつっこんで指先を暖めながら、フェルトの長防寒靴をパタパタやってこのかけひきを見ていた若い一人の物売女が、かみ合わせた白い丈夫そうな前歯と前歯の間から、真似のできないからかい調子で、

「キタヤンキ!(支那女)」

と云った。はじめと終りのキの音に、女の子がイーをしたときそっくりの特別な鋭い響をもたせて。──

 たちまち素子が、ききとがめた。リンゴ売の方は放り出して、

「何ていったのかい」

 花模様のプラトークをかぶったその物売女につめよって行った。頬の赤く太ったその若い女は、素子にとがめられてちょっと不意をくらった目つきになったが、すぐ、前より一層挑戦的に、もっと、意識的に赤い唇を上下にひろげて、白い歯の間から、

「キタヤンキ」

と云った。近づいて行った素子の顔の真正面に向ってそう云って、ハハハハと笑った。笑ったと思った途端、素子の皮手袋をはめた手がその女の横顔をぶった。

「バカやろう!」

 亢奮で顔色をかえた素子は、早口な日本語で罵り、女を睨んだ。

「ひとを馬鹿にしやがって!」

 また日本語で素子はひと息にそう云った。あまりの思いがけなさに、瞬間、伸子は何がなんだかよくわからなかった。同じようにあっけにとられた物売女は、気をとり直すと、左手で、素子にぶたれた方の頬っぺたをおさえながら、右手を大きくふりまわして、

「オイ! オイ! オイ!」

 自分の山羊皮外套の前をばたばた、はたきながら泣き声でわめきたてた。

「オイ! オイ! この女がわたしをぶったよウ。オイ! わたしに何のとががあるんだよう! オイ! オイ!」

 若い物売女のわめき声で、すぐ四五人の人だかりが出来た。よって来た通行人たちは、わめいている女に近づいてよく見ようとして、素子をうしろへ押しのけるようにしながら輪になった。

「どうしたんだ」

 低い声でひとりごとを云いながら、立ちどまるものもある。素子は、よって来る人だかりに押されて輪のそとへはみ出そうになりながら、急激な亢奮で体じゅうの神経がこりかたまったように、女を睨みすえたまま立っている。物売女は、一応人が集ったのに満足して、さて、これから自分をぶった女を本式に罵倒し、人だかりの力で復讐して貰おうとするように、頬っぺたを押えて、から泣きをしながら一息いれた。そのとき、女の背後の車道の方から、スーと半外套に鳥打をかぶった中年の男がよって来た。瘠せぎすで鋭いその男の身ごなしや油断のない顔つきが目についた刹那せつな、伸子は、これはいけない、と思った。むずかしくなる。そう直感した。伸子は、いきなり素子の腕を自分の腕にからめて輪のそとへひっぱり出しながらささやいた。

「はやく、どかなけりゃ!」

 素子は、神経の亢奮で妙に動作が鈍くなり、そんな男がよって来たことも心づかず、伸子が力いっぱい引っぱって歩き出そうとするのにも抵抗するようにした。

「だめよ! 来るじゃないの!」

 さいわい、物売女をとり巻いた人々は、真似まねの泣きじゃくりをしている女とまだ伸子たちとの関係に注意をむけていない。二三間、現場をはなれると、はじめて素子も自分がひきおこしたごたごたの意味がわかったらしく、腕をひっぱる伸子に抵抗しなくなった。二人は、出来るだけ早足に数間歩くと、どっちからともなく段々小走りになって、最後の数間は、ほんとに駈けだして、ボリシャーヤ・モスコウスカヤの前の通りまで抜けた。気がつくと、一人の身なりのひどい男の子が、かけだした伸子たちのわきにくっついて自分もかけながら、

「エーイ、ホージャ!(ちゃんころ) ホージャ!(ちゃんころ)」

と、はやしたててはねまわっている。しかし、ここでは、それに気をとられる通行人もなかった。

 伸子たちはやっと普通の歩調にもどった。そして、青く塗った囲いの柵が雪の下からのぞいている小公園のような植込みに沿ったひろい歩道をホテルの方へ歩きはじめた。このときになって、伸子は膝頭ががくがくするほど疲れが出た。力のかぎり素子をひっぱった右腕が、気もちわるく小刻みにふるえた。伸子は泣きたい気分だった。

「──つかまらせて……」

 伸子の方がぐったりして、散歩の途中から気分でもわるくしたというかっこうで二人は室へ戻った。

 帽子をベッドの上へぬぎすて、外套のボタンをはずしたまま、伸子はいつまでもベッドに腰かけて口をきかなかった。素子も並んでかけ、タバコを吸い、やっぱり何と云っていいか分らないらしく黙っている。伸子はまだいくらか総毛立った頬の色をして、苦しそうに乾いた唇をなめた。

「──お茶でも飲もう」

 素子が立って行って、茶を云いつけ、それを注いで、伸子の手にもたせた。コップ半分ぐらいまでお茶をのんだとき、

「ああ、そうだ」

 素子が、入口の外套かけにかけた外套のポケットから、往きに買った砂糖菓子を出して来た。二杯めの茶をのみはじめたころ、やっと伸子が、変にしわがれたような低い声で、悲しそうに、

「ああいうことは、もう絶対にいや」

と云った。

「…………」

「手を出すなんて──駄目よ! どんな理由があるにしろ……まして悪態をついたぐらいのことで──」

 素子は、タバコの灰を茶の受皿のふちへおとしながら、しばらくだまっていたが、

「だって、人馬鹿にしているじゃないか。なんだい! あのキタヤンキって云いようは!」

 物売がやったように、上と下とのキの音に、いかにも歯をむき出した響きをもたせて素子はくりかえした。

「だから、口で云えばいいのよ」

「口なんかで間に合うかい!」

 それは、素子独特の率直な可笑しみだった。伸子は思わず苦笑した。

「だって、ぶつなんて……どうして?」

 支那の女という悪口が、それほど素子を逆上させる、その癇のきつさが、伸子にはのみこめないのだった。

「そりゃ、ぶこちゃんは品のいい人間だろうさ。淑女だろうさ。わたしはちがうよ──わたしは、日本人なんだ……」

「だからさ、なお、おこるわけはないじゃないの。ああいうひとたちには、区別がわかりゃしないんだもの。ここにいるのは、昔っから支那の人の方が多いんだもの」

 街で伸子たちが見かけるのも中国の男女で、日本人は、まして日本の女は、モスクヷじゅうにたった十人もいはしない。その日本婦人も、大使館関係の人々は伸子たちよりはもとより、一般人よりずっと立派な服装をしていて、外見からはっきり自分たちを貴婦人として示そうとしていた。伸子たちにさえ、日本人と中国人の見わけはつかなかった。モスクヷの極東大学には、この数年間日本から相当の数の日本人が革命家としての教育をうけるために来ているはずであった。その大学附近の並木路を伸子たちが歩いていたとき、ふと、あっちからやって来る二人づれの男の感じが何となし日本人くさいのに気づいた。

「あれ、日本のひとじゃないのかしら」

 素子もそれとなく注目して、双方から次第に近づき、ごく間近のところを互に反対の方向へすれちがった。伸子も素子も、その二人の人たちが大ロシア人でないことをたしかめただけだった。中国人か朝鮮のひとか、蒙古の若い男たちか、その区別さえもはっきりしなかった。もし日本人であったとすれば、その人たちの方からまぎれない日本女である伸子たちを見つけて、話すのをやめ、漠然と「東洋の顔」になってすれちがって行ったのにちがいなかった。

 もう一度、トゥウェルスカヤの通りでも、それに似たことがあった。そのときも、さきは二人づれだった。愉快そうに喋りながら来る、その口もとが、遠目に、いかにも日本語が話されている感じだった。が、とある食料品店の前の人ごみで、ほとんど肩をくっつけるようにしてすれちがったとき、その人たちが、日本人だと云い切る特徴を伸子は発見しなかった。伸子は、それらのことを思い出した。

「それだもの、ああいう女がまちがえたって、云わば無理もないわよ」

「そりゃ、ただ区別がわからないだけなら仕様がないさ。日本人だって、西洋人の国籍が見わけられるものはろくにいやしないんだから。……バカにしやがるから、しゃくにさわるのさ。いつだってきまっているじゃないか、ホージャに、キタヤンキ。──日本人扱いをした奴が一人だっているかい」

「…………」

 キタヤンカ──(支那女)伸子は、その言葉をしずかにかみしめているうちに、この間、ホテル・メトロポリタンの薄暗い、がらんとした妙な室で会ったリン博士を思い出した。あのひとこそ、正銘の中国の女、キタヤンカであった。けれども、あのものごしの沈厚な、まなざしの美しいひとが、もの売をねぎっているわきからキタヤンカと、素子がからかわれたようなからかわれかたをしたことがあるだろうか。伸子からみると公平に云って素子には、何となしひとにからかいたい気持をおこさせるところがあるように思えた。

 素子は、タバコの灰をおとすときだけ灰皿のおいてある机のところへよるだけで、いかにも不愉快そうに室の内を歩きまわっている。段々おちついた伸子の心に、いきなりぶったあげく逃げ出した卑怯な二人の女のかっこうが、苦々しくまた滑稽に見えて来た。

「──あなたって、不思議ねえ」

 柔和になった伸子の声に、素子の視線がやわらいだ。

「どうしてさ」

「だって──あなたは、さばけたところがあるのに──。ある意味じゃ、わたしよりずっとさばけているのに、変ねえ……キタヤンカだけには、そんなにむらむらするなんて……」

「…………」

 伸子を見かえした素子の瞳のなかにはふたたび緊張があらわれた。

 伸子が五つ六つの頃、よく支那人のひとさらいの話でおどかされたことがあった。けれども、現実に幼い伸子の見馴れた支那人は、動坂のうちへ反物を売りに来る弁髪のながい太った支那の商人だった。その太った男は、いつも俥にのって来た。そして、日本のひとのように膝かけはかけないで、黒い布でこしらえたくつをはいた両足をひろげた間に、大きい反物包みをはさんでいた。弁髪の頭の上に、赤い実のような円い飾りのついた黒い帽子をかぶっていて、俥にのったり降りたりするとき、ながい弁髪は、ちょいと、あお緞子どんすの長上着の胸のところへたくしこまれた。この反物売の支那人は、

「ジョーチャン、こんにちは」

と、いつも伸子に笑って挨拶した。玄関の畳の上へあがって、いろいろの布地をひろげた。父が外国へ行っていて経済のつまっている若い母は、美しい支那の織物を手にとって眺めては、あきらめて下へおくのを根気づよく待って、

「オクサン、これやすい、ね。上等のきれ」

などと、たまには、母も羽織裏の緞子などを買ったらしかった。この支那人の躯と、反物包みと、伸子の手のひらにのせてくれた落花生の小さな支那菓子とからは、つよく支那くさいにおいがした。子供の伸子が、支那くささをはっきりかぎわけたのは、小さい伸子の生活の一方に、はっきりと西洋の匂いというものがあったからだった。たまに、イギリスの父から厚いボール箱や木箱が送られて来ることがあった。そういう小包をうけとり、それを開くことは、母の多計代や小さかった三人の子供たちばかりか一家中の大騒動だった。伸子は、そうして開かれる小包が、うっとりするように、西洋のいいにおいにみちていることを発見していた。包装紙の上からかいでも、かすかに匂うそのにおいは、いよいよ包が開かれ、なかみの箱が現れると一層はっきりして来て、さて、箱のふたがあいていっぱいのつめものが、はじけるように溢れ出したとき、西洋のにおいは最も強烈に伸子の鼻ににおった。西洋のにおいは、西洋菓子のにおいそっくりだった。めったにたべることのない、風月の木箱にはいった、きれいな、銀の粒々で飾られた西洋菓子のにおいと同じように、軽くて、甘くて、ツンとしたところのある匂いがした。

 こわいような懐しいような支那についての伸子の感じは、その後、さまざまの内容を加えた。昔の支那の詩や「絹の道」の物語、絵画・陶器などの豊富な立派さが伸子の生活にいくらかずつ入って来るにつれ、伸子は、昔の支那、そして現代の中国というものに不断の関心をひかれて来ていた。そこには、日本で想像されないような大規模な東洋の豊饒さと荒涼さ、人間生活の人為的なゆたかさと赤裸々の窮乏とがむき出されているように思えているのだった。

 日本にいたとき、わざわざ九段下の支那ものを扱っている店へ行って、支那やきの六角火鉢と碧色の毛氈もうせんを買ったのは素子だった。そんな趣味をもっている素子が、支那女と云われると、分別を失って逆上し、くやしがる。

 日本人のきもちには日清戦争以来、中国人に近づいて暮しながらそれをばかにしている気もちがある。日本に来ている留学生に対しても、商人にたいしても。そのばかにした心持からの中国人の呼びかたがいくとおりも、日本にある。素子が、キタヤンカと云われた瞬間、ホージャと呼ばれた瞬間、それは稲妻のような迅さで中国人に対する侮蔑のよびかたとなって、素子の顔にしぶきかかるのではないだろうか。

「そう思わない?──心理的だと思わない?」

 素子は、睨みつける目で、そういう伸子を見すえていたが、ぷいとして、

「君はコスモポリタンかもしれないさ。わたしは日本人だからね。日本人の感じかたしか出来ないよ」

 タバコの箱のふたの上で、一本とり出したタバコをぽんぽんとはずませていたが、

「ふん」

 鼻息だけでそう云って、素子は棗形をした顔の顎を伸子に向って、しゃくうようにした。

「──コスモポリタンがなんだい! コスモポリタンなら、えらいとでもいうのかい!」

 火をつけないタバコを指の間にはさんだまま室の真中につったって自分をにらんでいる素子から伸子は目をそらした。伸子は、あらためて自分を日本人だと意識するまでもないほど、ありのままの心に、ありのままに万事を感じとって生活しているだけだった。日本の女に生れた伸子に、日本の心のほかの心がありようはなかったけれども、伸子には、素子のように、傷けられやすい日本人意識というものがそれほどつよくなかった。或は気に入るものは何につけ、それを日本にあるものとひきつけて感情を動かされてゆく癖がないだけだった。

 モスクヷへついた翌日、モスクヷ芸術座を見物したとき、瀬川雅夫は、幾たびカチャーロフやモスクビンが歌舞伎の名優そっくりだ、と云ってめただろう。伸子にとってそれは全く不可解だった。カチャーロフと羽左衛門とがどこかで同じだとしたら、わざわざモスクヷへ来て芸術座を観る何のねうちがあるだろう。

 秋山宇一が、コーカサスの美女は、日本美人そっくりだ、とほめたとき、伸子がその言葉から受けた感じは、暗く、苦しかった。エスペラントで講演するひとでさえも、女というものについては、ひっくるめて顔だちから云い出すような感覚をもっているという事実は、それにつれて、伸子に苦しく佃を思い浮ばせもすることだった。駒沢の奥の家で一時しげしげつき合いそうになった竹村の感情も思い出させた。竹村も佃も、それが男の云い分であるかのように、編みものをしているような女と生活するのは愉しい、と云った。編みものをしたりするより、もっと生きているらしく生きたがって、そのために心も身も休まらずにいる伸子にむかって。──素子にしろ日本の習俗がそういう習俗でなかったら、もっと自然に、素子としての女らしさを生かせたのに──。

「自分で、日本のしきたりに入りきれずにいるくせに、日本人病なんて──。おかしい」

と伸子は云った。

「矛盾してる」

「──ともかく、さきへ手をあげたのは、わたしがよくなかった。それはみとめますよ」

 思いがけない素直さで素子が云い出した。

「実は、幾重にも腹が立つのさ」

「なにに?」

「先ず自分に……」

 そう云って、素子は、うっすり顔を赧らめた。

「それから、ぶこに──」

「…………」

「ぶこが、どんなに軽蔑を感じているかと思ってさ──腹んなかに軽蔑をかくしているくせに、なにを優等生づらして! と思ったのさ」

「軽蔑しやしないけれど……でも、あんなこと……」

 自分の前に来て立った素子を見あげて伸子はすこしほほえみながら涙をうかべた。

「ここのひとたちの前から、まさか、かけて逃げ出さなけりゃならないような暮しかたをしようとしてやしないんだもの──」



 壁紙のないうす緑色の壁に、大きな世界地図がとめてある。伸子はその下の、粗末な長椅子の上で横むきに足をのばし、くつしたをつくろっている。女学生っぽい紺スカートのひだが長椅子のそとまでひろがって、水色ブルーズの胸もとに、虹のような色のとりあわせに組んだ絹紐がネクタイがわりにたれている。

 すぐ手の届くところまでテーブルがひきよせてあった。日本風の紅絹もみの針さしだの鋏だのがちらばっていて、そのかたわらに一冊の本がきちんとおいてある。白地に赤で、旗を押したてて前進する群集の絵が表紙についていた。「世界を震撼させた十日間」ジョン・リード。ロシア語で黒く題と著者の名が印刷されている。その本はまだ真新しくて、きょうの午後から、伸子の語学の教科書につかわれはじめたばかりだった。

 薄黄色いニスで塗られた長椅子の腕木に背をもたせて針を動かしている伸子の、苅りあげられたさっぱりさが寂しいくらいの頸すじや肩に、白い天井からの電燈がまっすぐに明るく落ちた。伸子はその頸をねじるようにして、ちょいちょいテーブルの上へ眼をやった。向い側の建物の雪のつもった屋根の煙突から、白樺薪の濃い煙が真黒く渦巻いて晴れた冬空へのぼってゆくのが見えた部屋で、マリア・グレゴーリエヴナが熱心と不安のまじりあった表情で、新しい本の第一頁を開き、カデットとか、エスエルとかいうケレンスキー革命政府ごろの政党の関係を説明してくれた顔つきが思いだされた。そういういりくんだ問題になると、伸子の語学の力ではマリア・グレゴーリエヴナの説明そのものが半分もわからなかった。針に糸をとおしながら、伸子はあっちの窓下の緑色がさのスタンドにてらされたデスクで勉強している素子に声をかけた。

「あなた、ちかいうちに国際出版所メジュナロードヌイへ行く用がありそう?」

「さあ……わからない」

「行くときさそってね」

「ああ……」

 カデットとかエスエルとか、そのほかそういう政治方面の辞書のようなものが必要になって来た。

 伸子は、気がついて、保か河野ウメ子かにたのんで日本語のそういう辞典を送ってもらうのが一番いいと思いついた。日本でもそういう本はどんどん出版されていた。言海はモスクヷへももって来ているが、社会科学辞典がこんなに毎日の生活にいるとは思いつかなかった伸子だった。あんなに用意周到だった素子も蕗子もそのことまでにはゆきとどかないで来てしまった。──

 東京とモスクヷと、遠いように思っていても、こうして、たった二週間ばかりで手紙も来るんだから……。伸子は、ひょいと体をうかすようにして手をのばし、テーブルの上から二通の手紙をとった。手紙のわきには、キリキリとかたく巻いて送られて来た日本の新聞や雑誌の小さいひと山が封を切っても、まだ巻きあがったくせのままあった。マリア・グレゴーリエヴナのところへ稽古に出かけたかえりに、伸子は例によって散歩がてら大使館へよって、素子と自分への郵便物をとって来たのだった。

 伸子は、針をさしたつくろいものをブルーズの膝の上にのせたまま、一遍よんだ手紙をまた封筒からぬき出した。

 乾いた小枝をふんでゆくようなぽきぽきしたなかに一種の面白さのある字で、河野ウメ子は、伸子にたのまれた小説の校正が終って近々本になることを知らせて来ていた。そして、春にでもなったら、京都か奈良へ行ってしばらく暮して見ようと思っているとあった。奈良に須田猶吉が数年来住んでいて、その家から遠くないところにウメ子の部屋が見つかるかもしれない、とかかれている。この手紙は、素子様伸子様と連名であった。伸子は、ウメ子の手紙にかかれている高畠という町のあたりは知らなかったが、雨の日の奈良公園とそこに白い花房をたれて咲いていた馬酔木あしびの茂みは、まざまざとして記憶にあった。春日神社の裏を歩いていたら古い杉林の梢にたかく絡んで、あざやかに大きい紫の花を咲かせていた藤の色も。その藤の花を見た日、伸子は弟の和一郎とつれだって石に苔のついたその小道をぶらぶら歩いていた。

 ウメ子の手紙を封筒にもどして、伸子はもう一通をとりあげた。ケント紙のしっかりした角封筒の上に、ゴシックの装飾文字のような書体で、伸子の宛名がかいてある。さきのプツンときれたGペンを横縦につかって、こんな図案のような字をかくことが和一郎のお得意の一つだった。その封筒のなかみは、泰造、多計代、和一郎、保、つや子と、佐々一家のよせがきだった。つや子が、友禅ちりめんの可愛い小布れをはってこしらえたしおりがはいっていた。「今日の日曜日は珍しく在宅。一同揃ったところで、先ず寄書きということになりました。」年齢よりも活気の溢れた泰造の万年筆の字が、やっぱり泰造らしいせわしなさで、簡単に数行かいている。「近日中に母はまた前沢へ参る予定」──。

 つぎの一枚は、多計代の字で半ば以上埋められていた。伸子はその頁の上へぼんやり目をおとしたまま、むかし父かたの祖母が田舎に生きていたころ、多計代の手紙を眺めては歎息していたことを思い出した。「おっかさんは、はア、あんまり字がうまくて、おらにはよめないごんだ」と。その祖母は、かけすずりのひき出しから横とじの帖面を出しては、かたまった筆のさきをかんで、しよゆ一升、とふ二丁と小づかい帖をつけているひとだった。こうやって、便箋の上から下まで一行をひと息に、草書のつながりでかかれている母の手紙をうけとると、伸子も、当惑がさきに立つ感じだった。簡単に云えば、伸子に母の手紙はよめないと云えた。それでも、それは母の手紙であったから、伸子は読めないと云うだけですまない心があったし、よめないまんまにしておいた行間に、何か大切なことでもあったりしたらという義務の感情で、骨を折るのだった。

 さっき一遍よんだとき、読めなかったところをあらためて拾うようにして、その流達といえば云える黒い肉太の線がぬるぬるぬるぬるとたぐまっては伸び、伸びてはたぐまるような多計代の字をたどって行った。伸子は、こまかくよむにつれてはりあいのないような、くいちがっているようなきもちになった。そのよせがきには動坂の人たちが、食堂の大テーブルを囲んでがやがやいいながらてんでに喋っているその場の感じがそのまま映っているようだった。その和一郎にしろ、先月、伸子がきいたオペラについてモスクヷの劇場広場のエハガキを書いてやったことにはふれていないで、今年は美術学校も卒業で卒業制作だけを出せばいいから目下のところ大いに浩然の気を養ってます、と語っている。泰造はいそがしさにまぎれてだろう、伸子が特に父あてにおくったトレチャコフ美術館の三枚つづきのエハガキについて全く忘れている。

 多計代の文章の冒頭にだけ、この間は面白いエハガキを心にかけてどうもありがとう。一同大よろこびで拝見しました、とあった。けれども、それはいつ伸子が書いたどんなエハガキのことなのか、そして、どう面白かったのか、それはかいてなかった。膝の上にいまこの手紙をひろげている伸子が、もし、それはどのエハガキのことなの? ときくことが出来たとしたら、多計代はきっとあのつややかな睫毛をしばたたいて、ちょっとばつのわるそうな顔になりながら、あれさ、ほら、この間おくってくれたじゃないか、といいまぎらすことだろう。

 みんなの手紙の調子は、伸子にまざまざと動坂の家の、食堂の情景を思い浮べさせた。

 そして伸子は、ふっと笑い出した。動坂の家の食堂のあっちこっちの隅には、いつもあらゆる形の箱だの罐だのがつみかさねられていた。中村屋の、「かりんとう」とかいた卵色のたてかん、濃い緑と朱の縞のビスケットの角罐、少しさびの来た古いブリキ罐、そんなものが傍若無人に、どっしりした英国風の深紅色に唐草模様のうき出た壁紙の下につまれている。それは一種の奇観であった。中央の大テーブルの多計代がいつも坐る場所の下には、二つ三つの風月堂のカステラ箱がおいてあって、その中には手あたり次第に紙きれだの何だの、ともかくそのとき多計代がなくしては困ると思ったものが入れてあった。だから、動坂の家で何か必要な書きつけが見つからないというようなことがおこると、まず多計代から率先してふっさりしたひさしの前髪をこごめて、大テーブルの下をのぞいた。この習慣は、伸子たち動坂の子供にとっては物心づいて以来というようなものだから、食堂にとおされるほど親しいつき合いの人なら、その客のいるところでも、必要に応じて伸子のいわゆる「家鴨あひるの水くぐり」が行われた。ときには多計代が、何かさがしていて、どうも見えないね、というやいなや、伸子が音頭をとって、テーブルについている四人の息子や娘たちが一斉にテーブルの下へ首をつっこんで、わざと尻をたかくもち上げ、家鴨のまねをした。

 その食堂の煖炉だんろ棚の上には、泰造の秘蔵しているギリシアの壺が飾られていた。モスクヷへ立って来るについて伸子が駒沢の家をたたんで数日動坂で暮した間、その煖炉のギリシア壺のよこに大きなキルクが一つのっていた。毎朝掃除がされているのに、何かのはずみで一旦その場ちがいなところへのったキルクは、何日間も煖炉棚の上でギリシア壺のわきにあった。そして、もう今ごろそれはなくなっているだろう。いつの間にか見えなくなった、という片づきかたでキルクは煖炉棚の上からなくなり、その行方について知っているものはもう誰もいないのだ。

 こういうけたはずれのところは主婦である多計代の気質から来た。もし多計代が隅から隅までゆきとどいて自分の豪華趣味で統一したり、泰造の古美術ごのみで統一されたりしていたら、動坂の家というところはどんなに厭な、人間の自由に伸びるすきのない家になっただろう。伸子は、動坂の家に、せめてもそういう乱脈があることをよろこんだ。少女時代を思い出すと、そういうよそからは想像も出来ないようなすき間が動坂の家にあったからこそ伸子は、いつかその間にこぼれて伸びることもできた野生の芽として自分の少女時代を思い出すことができた。

 伸子が十四五になって、自分の部屋がほしくなったとき、伸子はひとりで、玄関わきの五畳の茶室風の室がものおき同然になっていたのを片づけた。そしてそこに押しこんであった古い机を、小松の根にふきとうの生える小庭に向ってすえた。そして、物置戸棚につみあげてある古本の山のなかから、勝手にとじのきれかかった水沫集だのはんぱものの紅葉全集だの国民文庫だのを見つけて来て、自分の本箱をこしらえた。その中で、ほんとに伸子のものとして買ってもらった本と云えばたった二冊、ポケット型のポーの小説集があるばかりだった。

 すきだらけと乱脈とは、いまも動坂の家風の一つとしてのこっている。年月がたつうちに経済にゆとりが出来てきただけ、その乱脈やすきだらけが、むかしの無邪気さを失って、家族のめいめいのてんでんばらばらな感情や、物質の浪費としてあらわれて来ている。伸子は数千キロもはなれているモスクヷの、雪のつもった冬の夜の長椅子から、確信をもって断言することが出来た。伸子がこのホテルのテーブルの上で、モスクヷ人がみんなそれをつかっている紫インクで、エハガキや時には手紙でかいてやる音信は、先ず多計代に封をきられ、いあわせたものたちに一通りよまれ、それから、なくなるといけないからね、と例のテーブルの下の箱にしまわれていることを。カステラ箱にしまわれた伸子の手紙はなくならないかもしれないけれども、ほんのしばらくたてば動坂の人たちは、もうすっかりそれについて、何が書かれているかさえ忘れてしまっているのだ。動坂の人たちは伸子なしで充分自足しているのだから──。

 伸子がいろいろの感情をもって打ちかえして見ている動坂のよせ書きの三頁めのところで、保が数行かいていた。ほそく、ペンから力をぬいて綿密に粒をそろえたノートのような字は、保のぽってりした上瞼のふくらみに似たまるみをもっている。これが、高等学校の最上級になろうとしている二十歳の青年の手紙だろうか。来年は大学に入ろうという──。保は、そのよせ書きの中で保だけまるで一人だけ別なインクとペンを使ったのかと思えるほど細い万遍なく力をぬいた字で、こうかいていた。「僕が東京高校へ入学したとき、お祝に何か僕のほしいものを買って下さるということでした。僕には何がほしいか、そのときわからなかった。こんど、僕は入学祝として本式にボイラーをたく温室をこしらえて頂きました。これこそたしかに僕のほしいものです。」そして、保は、簡単な図をつけて温室の大きさやスティームパイプの配置を説明しているのだった。

 動坂の家風は、すきだらけであったが、親に子供たちが何かしてもらったときとか、見せてもらったりしたときには、改まってきちんと、ありがとうございました、と礼を云わせられる習慣だった。言葉づかいも、目上のものにはけじめをつけて育ったから、二十歳になった保が、こしらえて頂いたという云いかたをするのは、そういう育ちかたがわれしらず反映しているとも云えた。しかし、保は小学生の時分から花の種を買うために僅の金を母からもらっても、収支をかきつけて残りをかえす性質だった。お母さまから頂いたお金三円、僕の買った種これこれ、いくらと細目を並べて。

 伸子が、モスクヷ暮しの明け暮れの中で見て感じているソヴェト青年の二十歳の人生の内容からみると、たかだか高等学校に入ったというような事にたいして、温室をこしらえて頂いた、と書いている保の生活気分はあんまりおさなかった。高等学校に入ったということ、大学に入るということそれだけが、ひろい世の中をどんな波瀾をしのぎながら生きなければならないか分らない保自身にとって、どれだけ重大なことだというのだろう。

 多計代にとってこそ、それは、佐々家の将来にもかかわる事件のように思われるにちがいなかった。長男の和一郎は、多計代にやかましく云われて一高をうけたが、失敗すると、さっさと美術学校へ入ってしまった。多計代は明治時代の、学士ということが自分の結婚条件ともなった時代の感情で、息子が帝大を出ることの出来る高校に入ったということに絶大の意味と期待をかけているのだった。その感情からお祝いをあげようという多計代の気もちが、それなり、お祝いを頂く、という保の気もちとなっているところが伸子に苦しかった。辛辣にならないまでも、保は保の年齢の青年らしく、家庭においての自分の立場、自分の受けている愛情について、つっこんで考えないのだろうか。あんなに問題をもっているはずの保が、和一郎と妹のつや子の間にはさまって、団欒だんらんという枠のうちに話題までおさめて書いている態度が、伸子にもどかしかった。どうして保は、もっと勝手にさばさばと、たよりをよこさないのだろう。そう思って考えてみると、伸子がモスクヷへ来てから保は二度たよりをよこしたが、二度ともみんなとの寄せ書きばかりだった。

 ──ふと、伸子は、あり得ないようなことを推測した。多計代は、もしかしたら保が伸子に手紙をかくことを何かのかたちで抑えているのではないだろうか。姉さんに手紙を出すなら、わたしに一度みせてからにおし。対手が保であれば、多計代のそういう命令が守られる可能もある。伸子が動坂の家へ遊びに行って、保と二人きりですこしゆっくり話しこんでさえ多計代は、その話の内容を保から話させずにいられないほど、自分の所謂いわゆる情熱の子パッショネート・チャイルドから伸子をへだてようとして来た。多計代と保の家庭教師である越智との感情が尋常のものでなくなって、その曖昧で熱っぽい雰囲気にとって伸子の存在が目ざわりなものとなってから、多計代のその態度は、つよく目立った。越智とのいきさつは、日没の空にあらわれた雲の色どりのように急に褪せて消えたが、伸子の影響から保を切りはなそうとする多計代の意志は、それとともに消滅しなかった。保や和一郎のことについて伸子が批評がましくいうと、多計代は、わたしには自分の子を、自分の思うように育てる権利があるんだよ。黙っていておくれ。──まるで、伸子は、子の一人でないかのように伸子に立ち向った。保を伸子から遠のけておくのは母の権利だと考えているのだった。それを思うと、伸子の眼の中に激しい抵抗の焔がもえた。多計代に母の権利があるというならば、姉である自分には、人間の権利がある。責任もある。保は人間らしい外気のなかにつれ出されなければならないのだ──。

 伸子は膝の上からつくろいものをどけて、ちゃんと長椅子にかけなおした。そして日本からもって来ている半ペラの原稿用紙をテーブルの上においた。

「みなさんのよせがきをありがとう。今度はこの手紙を、とくべつ、保さんだけにあててかきます。わたしたちは、いつもみんなと一緒にばかり喋っていて、ちっとも二人だけの話をしないわね。なぜでしょう? 保さんのところには、わたしに話してきかせてくれたいような話が一つもないの? まさかそうとは思われません。姉と弟とが別々の国に暮していて、お互にどんなに本気で生活しているかということを知らせ合うのはあたりまえだし、いいことだと思います。もし保さんの方に、それをさまたげているものがあるとすればそれは何でしょう」

 伸子は、こう書いている一行一行が多計代の目でよまれることを予期していた。

「わたしの筆不精がその原因かしら」

 温室の出来たことを保がよろこんでいる気持は、伸子にも思いやられた。フレームでやれることはもうしてしまったと云って、伸子がモスクヷへ立って来る年の春から夏にかけて、保は勉強机の上でシクラメンの水栽培しかしていなかった。温室がもてた保のうれしさは、心から同感された。しかしそれを高校入学祝として、こしらえて頂いた、という範囲でだけうけとって、自分の青年らしい様々の問題に連関させていないような保の気持が伸子には不安で、もどかしいのだった。伸子から云えば、保にはもっと率直な気むずかしさがあっていいとさえ思えた。そのことを伸子は感じているとおりにかいた。

「保さんの健康と能力と家庭の条件をもっているひとなら、高校に入るのは、むしろあたりまえでしょう。親はどこの親でも、親としての様々の動機をもってそれをよろこび、よろこびを誇張します。けれども、その親たちは、自分の息子が高校に入れたというよろこびにつけて、ほんとにただ金がないというだけの理由で、中学にさえ入れない子供たちが日本じゅうにどれだけいるか分らないということを、思いやっているでしょうか。

 保さんの東京高校というところは、たった一人の貧しい学生もいないほど金持の坊ちゃんぞろいの学校なの? もしそうだとすれば、こわいことだし、軽蔑すべきことだわ。そこで育っている学生たちは、自分たちだけに満足して、世の中にどっさり存在している不幸について、想像力をはたらかすことさえ知らないのでしょうか」

 書いている自分の肱で、紅絹もみの針さしを床におとしてしまったのにも心づかないで、伸子はつづけた。

「保さんのこしらえて頂いた温室というのがいくらかかったかは知らないけれども、それは少くとも、貧しい高校生の一年分の月謝よりどっさり費用がかかっているでしょう。保さんはそのことを考えてみたでしょうか。そして、公平に云えば、それだけの金がないばかりに、保さんよりもっと才能もあり人類に役に立つ青年が泥まびれで働いているかもしれないということを考えてみたでしょうか。こういういろんなことを、保さんは考えてみて? 想像の力のない人間は、思いやりも同情もまして人間に対する愛などもてようもありません」

 保に向ってかいているうちに、みんながさかんな食慾を発揮しながら、あてどなく時間と生活力を濫費している動坂の家の暮し全体が伸子にしんからいやに思われて来た。

「保さん、あなたこそ青春の誇りをもたなければいけないわ。自分のもてるよろこびをたっぷり味うと一緒に、それが、この社会でどういう意味をもっているかということは、はっきり知っているべきです。いただくものは、無条件に頂くなんて卑屈よ。持つべきものは、主張しても持たなければならないし、持つべきでないものは、下すったって、頂いたって、持つべきではないと思います」

 伸子の感情の面に、モスクヷ第一大学の光景がいきいきと浮んできた。冬日に雪の輝いている通りを大学に向って行くと、雪を頂いた円形大講堂の黄色い外壁が聳えている。その外壁の上のところを帯のようにかこんで、書かれている字はラテン語でもなければ、聖書の文句でもなかった。「すべての働くものに学問を」モスクヷ第一大学の黄色い円形講堂の外壁にきょうかかれているのは、その文字だった。

「保さん、この簡単なことばのふくんでいる意味はどれほどの大さでしょう。この四つの言葉は、この国で人間と学問との関係が、はじめてあるべきようにおきかえられたという事実を示しています。人間も、学問をすべてのひとの幸福のために扱うところまで進歩して来たという事実を語っています。わたしは、きのうもそれを見て来たばかりなのよ。そして、この古いモスクヷ大学の壁にその字がかかれたときのことを思って、美しさと歓喜との波にうたれるようでした。そしてね保さん。ソヴェトの青年は、この文字を頂いたのではなかったのよ。自分たちで自分たちのものとしたのよ」

 はるかに海をへだたっている保のところまで、つよいひとすじの綱を投げかけようとするように、伸子は心いっぱいにその手紙を書いた。

「わたしたちは、人間として生きてゆく上に、美しいことに感動する心を大切にしなければならないと思います。美しさに感動して、そのために勇気あるものにもなれるように。保さんはそう思わない? 花つくりの美しさは、それをうちの温室で咲かせてみせる、という主我的な心持にはなくて、あの見ばえのしない種一粒にこもっているすべての生命の美しさを導き出して来る、その美しさにあるんですもの」

 保むけのその綱が多計代の目の前に音をたてておちることをはばからないこころもちで伸子は手紙を書き終った。

 厚いその手紙のたたみめがふくらみすぎていて封筒がやぶれた。おもしをかってから封することにして、伸子は四つ折にした手紙の上へ本や字引をつみかさねた。

 丁度そのとき、素子が勉強をひとくぎりして、椅子を動かした。

「あああ!」

 部屋着の背中をのばすように二つの腕を左右にひろげて、素子は断髪のぼんのくぼを椅子の背に押しつけた。

「ぶこちゃん、どうした。いやにひっそりしてたじゃないか」

「──手紙かいてたから……」

「そう言えば、そろそろわたしもおやじさんに書かなくちゃ」

 きょう大使館からとって来た日本からの郵便物の中には素子あての二三通もあった。うまそうにタバコをふかしながら素子は、

「きみんところなんか、まだ書いても話の通じる対手がいるんだから張り合いもあるけれど、わたしんところは、結局何を書いたって猫に小判なんだから」

と云った。

「いきおいとおり一遍になっちまって……どうも──」

 京都で生れて、京都の商人で生涯をおくっている素子の父親やその一家は、素子を一族中の思いがけない変りだねとして扱っていた。まして、素子を生んだ母が死んだあと、公然と妻となったそのひとの妹である現在の主婦は、素子の感情のなかで決して自然なものとして認められていなかった。むずかしい自分の立場の意識から、そのひとは素子に対しても義理ある長女としての取りあつかいに疎漏ないようにつとめたあとは、一切かかわらない風だった。モスクヷへ来ても、素子は父親にあててだけ手紙をかいていた。

 保への手紙をかき終ったばかりで亢奮ののこっている伸子は、

「一度でいいから、ほんとに一字一字わたしに話してくれている、と思えるような手紙を母からもらってみたいわ」

と云った。

「母の手紙ったら、あいてがよめてもよめなくってもそんなことにはおかまいなしなんだもの……」

「──」

 素子は、そういう伸子の顔を見て賢そうで皮肉ないつもの片頬の笑いをちらりと浮べた。そう云えば、父の泰造には、母のあのするする文字がみんなよめたのかしら、と伸子は思った。昔、泰造がロンドンに行っていた足かけ五年の間に、まだその頃三十歳にかかる年ごろだった多計代は、雁皮紙がんぴしを横にたたんで、そこへしんかきのほそくこまかい字をぴっしりつめて、何百通もの手紙をかいた。若かった多計代は、そういうときは特別にピカピカ光るニッケル丸ボヤのきれいな明るい方のランプをつけ、留守中の泰造のテーブルに向って雁皮紙の手紙をかいた。五つばかりの娘だった伸子はそのわきに立って、くくれた柔かな顎をテーブルへのせてそれを眺めていた。それはいつも夏の夜の光景として思い出された。いまになって考えれば、その雁皮紙の手紙には、家計のせつないことから、姑が、父のいないうちに多計代を追い出して父の従妹を入れようとしていると、少くとも多計代にとってはそうとしか解釈されなかった苦しい圧迫などについて訴えられてもいたのだ。心に溢れる訴えと恋着とをこめて、書き連ねた若い多計代のつきない糸のような草書のたよりは、ケインブリッジやロンドンの下宿で四十歳での留学生生活をしている泰造に、どんな思いをかきたてたことだったろう。

 伸子は、いま自分が遠く日本をはなれて来ていて、モスクヷの生活感情そのもののなかで、故国からの手紙をよむ気持を思いあわせると、泰造ばかりでなく、すべての外国暮しをしているものが、その外国生活の雰囲気のなかにうけとる故国からのたよりを、一種独特の安心と同じ程度の気重さで感じるのがわかるようだった。

「母の手紙がつくと、父はそれをいきなりポケットにしまいこんで、やがてきっと、ひとのいないところへ立って行ったんだって──。それをね、話すひとは、いつも父の御愛妻ぶり、というように云っていたけれど──こうやって、自分がこっちへ来てみると、なんだかそんな単純なものと思えないわ、ねえ」

「じゃ、なんなのさ」

「──わたしたちはここで自分で手紙をとりに行って、そしてもって来るでしょう? だけれど、いきなり、はい、日本からのおたよりと云ってここへくばられて来たら、わたし、やっぱり何かショックがあると思うわ」

 まして、泰造がロンドン暮しをしていた明治の末期、日本にのこされた妻子のとぼしい生活とロンドンの泰造の、きりつめながらもその都会としての色彩につつまれた生活との間には、あんまりひらきがありすぎた。

「モスクヷだよりじゃ、たべもののことはいくら書いても決して恨まれっこないだけ安心ね」

 伸子は笑って云いながら、可哀そうな一つのことを思い出した。やっぱり泰造がロンドンにいた間のことだった。あるとき、多計代が座敷のまんなかに坐って泣きながら、お父様って何て残酷なひとだろう! とおかっぱにつけまげをして、綿繻珍しちんの帯を貝の口にしめている少女の伸子に云った。まあ、これをごらん! 何てかいてあると思うかい? ひとつ今夜のディンナーを御紹介しよう。ひな鳥のむし焼に、何とか、果物の砂糖煮と多計代はよんだ。そして、「どうだろう、お父様のおっしゃることは。大方そちらでは今頃、たくあんをかじっていることだろう、お気の毒さま、だとさ! よくも仰言れる!」その文句をかいてあったのは一枚のエハガキだった。稚い伸子に、その献立の内容はわからなかったけれども、父の方には何かそういう大した賑やかな御馳走があり、自分たちはたくあんをかじっているのだというちがいは、子供心に奇妙に鮮明に刻まれた。伸子は、いまでも、小さな娘を前において、ひな鳥のむし焼、とよみ上げたときの多計代の激昂と涙にふるえる声を思い出すことが出来た。それが思い出されるときには、きまってその頃母と小さい三人の子供らがよくたべていたあまい匂いのするいもがゆを思い出した。こってりと煮られた藷がゆは、子供があつがるのと、台所にいる人たちもそれをたべるのとで、釜からわけて水色の大きい角鉢に盛られて、チャブ台に出た。その角鉢には、破れ瓦に雀がとまっている模様がついていた。

 ずっと伸子が成長してからも、そのハガキの文句のことで、父と母とが諍っていたのを覚えていた。泰造は、ほんとにみんなが気の毒だと思ってそれを書いた、と弁明した。その時代の伸子は、母のあのときの憤りが、決してひな鳥のむしやき一皿にだけ向けられていたのではないことを諒解した。そういう御馳走。葡萄ぶどう酒の酔い。屈託のない男たちの談笑。小説もよみ外国雑誌の絵も見ている多計代は、そういう情景のなかに、細腰を蜂のようにしめあげて、華美な泡のようにひろがるスカートをひいた金髪の女たちの、故国にある家庭などを男に忘れさせている嬌声をきいたのだろう。

「漱石だって、かいたものでよめば、外国暮しでは、別な意味で随分両方苦しんでいるわね。奥さんにしろ」

 自分がいま保にかいたばかりの手紙を思い、その文面にものぞき出ているような動坂の家の生活とここの自分の生活との間にある裂けめの深さを伸子は、計るようなまなざしになった。

 モスクヷに暮しているものとしての伸子の心へ、角度を新しくして映る日本の生活一般、または動坂の暮しぶりに対して、自分の云い分を伸子は割合はっきりつかむことが出来た。しかし、モスクヷにいる伸子のそういう云い分に対して、佐々のうちのものや友人たちが、変らないそれぞれの環境のなかにあって、どういううけとりかたをするか。そのことについて、伸子はほとんど顧慮していなかった。

 伸子は、モスクヷの時々刻々を愛し、沸騰し停滞することをしらない生活の感銘一つ一つを貪慾に自分の収穫としてうけいれていた。伸子がウメ子のような友人にかくハガキの文体でも、モスクヷへ来てからは少しずつかわっていた。伸子としてはそれが自然そうなって来ているために心づかなかった。──わたしの住んでいるホテル・パッサージの壁紙もない室の窓は、トゥウェルスカヤ通りに面しています。そう書けば、伸子は、その窓の下に見えていて骸骨がいこつのような鉄骨の穴から降る雪が消えこむ大屋根の廃墟の印象をかかずにいられないし、その廃墟をかけば、つい横丁を一つへだてただけで中央郵便局の大工事がアーク燈の光にてらされて昼夜兼行の活動をつづけていることについて、沈黙がまもれなかった。この都会の強烈な壊滅と建設の対照は伸子の情感をゆすってやまなかった。伸子は、厳冬のモスクヷの蒼い月光が、ひとつ光の下に照したこの著しい対照のうちにおのずから語られている今日のロシアの意志に冷淡でいられなかった。同時に、これらすべての上に、毎夜十二時、クレムリンの時計台からうちならされるインターナショナルのメロディーが流れ、その歌のふしが、屋根屋根をこえて伸子の住んでいるホテルの二重窓のガラスにもつたわって来ることについて、だまっていられなかった。雪に覆われたモスクヷの軒々に、朝日がてり出すと、馬の多い町にふさわしくふとったモスクヷの寒雀がそこへ並んでとまって、さえずりながら、雪のつもった道の上に湯気の立つ馬糞がおちるのを待っている。そんな趣も伸子の眼と心とをひきつけた。

 伸子のかくたよりに現れる生活の描写は、こうして段々即物的になり、テンポが加わり、モスクヷの社会生活の圧縮された象徴のようになりつつあった。きょうの手紙にもあったようにウメ子が校正ののこりをひきうけてくれて、そろそろ本になろうとしている長い小説を、伸子は、ごくリアリスティックな筆致でかきとおした。それがいつとはなし、即物的になり、印象から印象へ飛躍したテムポで貫かれるような文章になって来ていることは、モスクヷへ来てからの伸子の精神の変化してゆく状態をあらわすことだった。それはモスクヷという都会の生活について、そこでの社会主義への前進について、伸子が深い現実を知った結果からだったろうか。それとも、ここで見られる歴史の現実も、伸子にとっては新鮮に感覚に訴えて来る範囲でしか、把握出来なかったからの結果だろうか。伸子はそういう点一切を自覚していなかった。

 日々を生きている伸子の感興は、耳目にふれる雑多な印象と心におこるその反響との間をただ活溌にゆきかいしているばかりだった。

 しばらくだまって休んでいた素子が何心なく腕時計を見て、

「ぶこちゃん、また忘れてる! だめだよ」

と、あわてて、とがめるような声をだした。

「なにを?」

 ぼんやりした顔で伸子がききかえした。

「室代──」

「ほんと!」

「きのうだって到頭忘れちゃったじゃないか。──すぐ行ってきなさい、よ!」

 伸子は、テーブルをずらして、日本から来た新聞の山の間に赤いロシア皮で拵らえられた自分の財布をさがした。ホテルの室代を、毎日夜十時までに支払わなければならないきめになっていた。伸子たちはよくそれを忘れて、二日分ためた。ほんとうは、いくらか罰金がつくらしかったけれども、素子や伸子がホテルの二階にある事務室へ入って行って、忘れてしまって、と二日分の金を出すとき、罰金はとられたことがなかった。長椅子から立って来るとき、伸子は、テーブルのわきに落してしまっていたのを知らずに、紅絹もみの針さしを靴の先でふみつけた。

「あら!」

 いそいでひろいあげて、伸子は紅絹もみの針さしについたかすかな跡をはらった。

「かあいそうに──」

 針さしをテーブルの上へおき、ベッドから紫の羽織をとって袖をとおしながら伸子は室を出た。



 三四日たった或る日の午後のことであった。伸子が、網袋にイクラと塩づけ胡瓜とリンゴを入れて、ゆっくりホテルの階段をのぼって来るところへ、上から内海厚が、上衣のポケットへ両手をさしこんだまま体の重心を踵にかけて、暇なようないそいでいるような曖昧な様子で降りて来た。

「や、かえられましたか。実はね、部屋へお訪ねしたところなんです」

「吉見さん、いませんでしたか?」

「居られました、居られました」

 内海は、相変らず十九世紀のロシアの進歩的大学生とでもいうような感じの顔をうなずけた。

「吉見さんには話して来ましたがね。実はね、ポリニャークがぜひ今夜あなたがたお二人に来て頂きたいっていうんです」

 革命後作品を発表しはじめているボリス・ポリニャークは、ロシアプロレタリア作家同盟に属していて、活動中の作家だった。

「こんや?──急なのねえ」

「なに、急でもないんでしょう」

 そのとき、また下から登って来た人のために内海は手摺の方へ体をよけながら、すこし声を低めた。

「この間っから、たのまれていたことだったんでしょうがね」

 二三年前ポリニャークが日本へ来た時、無産派の芸術家として接待者の一人であった秋山宇一は、モスクヷへ来てからも比較的しげしげ彼と交際があるらしかった。その間に、いつからか出ていた伸子たちをよぶという話を秋山宇一は、さしせまったきょうまで黙っていたというわけらしかった。伸子は、

「吉見さんはどうするって云っていました?」

ときいた。伸子としては、行っても、行かなくてもいい気持だった。ポリニャークは日本へも来たことがあるというだけで、作家として是非会いたい人でもなかった。

「吉見さんは行かれるつもりらしいですよ、あなたが外出して居られたから、はっきりした返事はきけなかったですが──つまりあなたがどうされるか、はね」

「すみませんが、じゃ、一寸いっしょに戻って下さる?」

「いいですとも!」

 伸子は、室へ入ると買いものの網袋をテーブルの上へおいたまま、外套をぬぎながら、素子に、

「ポリニャークのところへ行くんだって?」

ときいた。

「ぶこちゃんはどうする?」

 こういうときいつも伸子は、行きましょう、行きましょうよと、とび立つ返事をすることが、すくなかった。

「わたしは、消極的よ」

 すると内海が、そのパラリと離れてついている眉をよせるようにして、

「それじゃ困るんです。今夜は是非来て下さい」

 たのむように云った。

「どうも工合がわるいんだ──下へ、アレクサンドロフが来て待ってるんですよ」

「そのことで?」

 びっくりして伸子がきいた。

「そうなんです。秋山氏があんまり要領得ないもんだから、先生到頭しびれをきらしてアレクサンドロフをよこしたんでしょう」

 アレクサンドロフも作家で、いつかの日本文学の夕べに出席していた。

「まあいいさ、ポリニャークのところへもいっぺん行ってみるさ」

 そういう素子に向って内海は、

「じゃ、たのみます」

 念を入れるように、力をいれて二度ほど手をふった。

「五時になったら下まで来て下さい。じゃ」

 そして、こんどは、本当にいそいで出て行った。

「──急に云って来たって仕様がないじゃないか──丁度うちにいる日だったからいいようなものの……」

 そう云うものの、素子は時間が来ると、案外面倒くさがらずよく似合う黄粉きなこ色のスーツに白絹のブラウスに着換えた。

「ぶこちゃん、なにきてゆくんだい」

「例のとおりよ──いけない?」

「結構さ」

 鏡の前に立って、白い胸飾りのついた紺のワンピースの腕をあげ、ほそい真珠のネックレースを頸のうしろでとめている伸子を見ながら、素子は、ついこの間気に入って買った皮外套に揃いの帽子をかぶり、まだすっていたタバコを灰皿の上でもみ消した。

「さあ、出かけよう」

 二階の秋山宇一のところへおりた。

「いまからだと、丁度いいでしょう」

 小型のアストラハン帽を頭へのせながら秋山もすぐ立って、四人は狩人広場から、郊外へ向うバスに乗った。街燈が雪道と大きい建物を明るく浮上らせ、人通りの多い劇場広場の前をつっきって、つとめがえりの乗客を満載したその大型バスが、なじみのすくない並木道ブリヷール沿いにはしるころになると伸子には行手の見当がつかなくなった。

「まだなかなかですか?」

「ええ相当ありますね──大丈夫ですか」

 伸子と秋山宇一、内海と素子と前後二列になって、座席の角についている真鍮しんちゅうつかまりにつかまって立っているのだった。モスクヷのバスは運転手台のよこから乗って、順ぐり奥へつめ、バスの最後尾に降り口の畳戸がついていた。いくらかずつ降りる乗客につづいて、伸子たち四人も一足ずつうしろのドアに近づいた。

「あなたがた来られてよかったですよ」

 秋山宇一が、白いものの混った髭を、手袋の手で撫でるようにしながら云った。

「大した熱心でしてね、今夜、あなたがたをつれて来なければ、友情を信じない、なんて云われましてね──どうも……」

 今夜までのいきさつをきいていない伸子としては、だまっているしかなかった。もっとも、日本文学の夕べのときも、ポリニャークはくりかえし、伸子たちに遊びに来るように、とすすめてはいたけれども。──

 とある停留場でバスがとまったとき内海は、

「この次でおりましょう」

と秋山に注意した。

「──もう一つさきじゃなかったですか」

 秋山は窓から外を覗きたそうにした。が、八分どおり満員のバスの明るい窓ガラスはみんな白く凍っていた。

 乗客たちの防寒靴の底についた雪が次々とその上に踏みかためられて、滑りやすい氷のステップのようになっているバスの降口から、伸子は気をつけて雪の深い停留場に降り立った。バスがそのまま赤いテイル・ランプを見せて駛り去ったあと、アーク燈の光りをうけてぼんやりと見えているそのあたりは、モスクヷ郊外の林間公園らしい眺めだった。枝々に雪のつもった黒い木の茂みに沿って、伸子たちが歩いてゆく歩道に市中よりずっと深い雪がある。歩道の奥はロシア風の柵をめぐらした家々があった。

「この辺はみんな昔の別荘ダーチャですね。ポリニャークの家は、彼の文学的功績によって、許可されてつい先年新しく建てたはずです」

 雪の深い歩道を右側によこぎって、伸子たちは一つの低い木の門を入って行った。ロシア式に丸太を積み上げたつくりの平屋の玄関が、軒燈のない暗やみのなかに朦朧もうろうと現れた。

 内海が来馴れた者らしい風で、どこか見えないところについている呼鈴を鳴らした。重い大股の靴音がきこえ、やがて防寒のため二重にしめられている扉があいた。

「あ──秋山サン!」

 出て来たのはポリニャーク自身だった。すぐわきに立っている伸子や素子の姿を認め、

「到頭、来てくれましたね、サア、ドーゾ」

 サア、ドーゾと日本語で云って、四人を内廊下へ案内した。ひる間、ホテル・パッサージへよったというアレクサンドロフも奥から出て来て、女たちが外套をぬぎ、マフラーをとるのを手つだった。

 かなりひろい奥の部屋に賑やかなテーブルの仕度がしてあった。はいってゆく伸子たちに向って愛想よくほほ笑みながら、ほっそりとした、眼の碧い、ひどく娘がたの夫人がそのテーブルの自分の席に立って待っている。

「おめにかかれてうれしゅうございます」

 伸子たちがその夫人と挨拶をする間も、ポリニャークは陽気な気ぜわしさで、

「もういいです、いいです、こちらへおかけなさい」

と、秋山を夫人の右手に、伸子を自分の右手に腰かけさせた。そして、早速、

「外からこごえて入って来たときは、何よりもさきに先ずこれを一杯! 悧巧も馬鹿もそれからのこと」

 そう云って、テーブルの上に出されているウォツカをみんなの前の杯についだ。

「お互の健康を祝して」

 素子も、杯のふちを唇にあてて投げこむような勢のいいウォツカののみかたで、半分ほどあけた。伸子は、夫人に向って杯をあげ、

「あなたの御健康を!」

と云い、ほんのちょっと酒に唇をふれただけでそれを下においた。

「ナゼデス? サッサさん。ダメ! ダメ!」

 ポリニャークは、伸子が杯をあけないのを見とがめた。

「内海さん、彼女に云って下さい」

 よその家へ来て、最初の一杯もあけないのは、ロシアの礼儀では、信じられない無礼だというのだった。

「わかりましたか? サッサさん、ドゾ!」

 伸子は、こまった。

「内海さん、よく説明して頂戴よ。わたしは生れつきほんとにお酒がのめないたちなんだからって──でも、十分陽気にはなれますから安心して下さいって……」

 内海がそれをつたえると、ポリニャークは、

「残念なことだ」

 ほんとに残念そうに赫っぽい髪がポヤポヤ生えた大きい頭をふった。そのいきさつをほほ笑みながら見ていた夫人が伸子たちにむかって、

「わたしもお酒はよわいんです」

と云った。

「でもレモンを入れたのは、軽いですよ。いい匂いがするでしょう?」

 そう云われてみると、そのテーブルの上には同じ様に透明なウォツカのガラス瓶が幾本もあるなかに、レモンの黄色い皮を刻みこんだのが二本あって、伸子たちの分はその瓶からつがれたのだった。

 素子は気持よさそうに温い顔色になって、

「ウォツカもこうしてレモンを入れると、なかなか口当りがいい」

 のこりの半分も遂にあけた。

「ブラボー! ブラボー!」

 ポリニャークが賞讚して、素子の杯を新しくみたした。

「ごらんなさい。あなたのお友達は勇敢ですよ」

「仕方がないわ。わたしは駄目なんです」

 だめなんです、というところを、伸子は自分の使えるロシア語でヤー、ニェマグウと云った。ポリニャークは面白そうに伸子の柔かな発音をくりかえして、

「わたしはだめですか」

と云った。それは角のある片仮名で書かれた音ではなく平仮名で、やあ にぇまぐう とでも書いたように柔軟に響いた。伸子自身は、しっかり発音したつもりなのに、みんなの耳には、全く外国風に柔かくきこえるらしかった。主人と同じように大きい体つきで、灰色がかって赫っぽい軽い髪をポヤポヤさせている真面目なアレクサンドロフも、伸子を見て、笑いながら好意的にうなずいた。

 やがて日本とロシアと、どっちが酒の美味い国だろうかというような話になった。つづいて酒のさかなについて、議論がはじまった。この室へ入るなり酒をすすめられつづけた困難から解放されて、伸子は、はじめてくつろぐことが出来た。ペチカに暖められているその部屋は、いかにもまだ新しいロシアの家らしく、チャンの匂いがしていた。床もむき出しの板で、壁紙のない壁に、ちょいちょいした飾りものや絵がかけられている。室はポリニャーク自身の大柄で無頓着めいたところと共通した、おおざっぱな感じだった。自分なりの生活を追っている、そういう人の住居らしかった。

 ポリニャークは、同じようなおおざっぱさで、細君との間もはこんでいるらしかった。モスクヷ小劇場の娘役女優である細君は、ブロンドの捲毛をこめかみに垂れ、自分だけの世界をもっているように、しずかにそこにほほ笑んでいる。薄色の服をつけたさがたの彼女の雰囲気には、今夜のテーブルの用意もした主婦らしいほてりがちっとも感じられなかった。それかと云って、作家である良人と並んで、芸術家らしく活溌にたのしもうとしている風情もなかった。彼女はただ一人の若い女優である妻にすぎないように見えた。この家の主人であるポリニャークの好みによって、選ばれ、主婦としてこの家に収められているというだけの──

 ポリニャーク夫婦の感じは、伸子が語学の稽古に通っているマリア・グレゴーリエヴナの生活雰囲気とまるでちがっていた。マリア・グレゴーリエヴナの二つの頬っぺたは、びっくりするような最低音でものをいう背の高いノヴァミルスキーの頬っぺたと同様に、厳冬のつよい外気にやけて赤くなって居り、丸っこい鼻のさきの光りかたも夫婦は互に似ていた。二人はそれぞれ二人で働き、二人でとった金を出しあわせて、赤ビロードのすれた家具のおいてある家での生活を営んでいる。

 野生の生活力にみち、その体から溢れる文学上の才能をたのしんでいるポリニャークは、自分の快適をみださない限り、女優である細君が家庭でまで娘役をポーズしているということに、どんな女としての心理があるかなどと、考えてないらしかった。

 一座の話題は、酒の話から芝居の評判に移って行った。

 大阪の人形芝居のすきな素子が、

「大阪へ行ったとき、人形芝居を観ましたか」

とポリニャークにきいた。

「観ました。あの人形芝居は面白かった」

 ポリニャークは、それを見たこともきいたこともない夫人とアレクサンドロフに説明してきかせた。

「舞台の上にまた小舞台があって、そこがオーケストラ席になっている。サミセンと唄とがそこで奏されて、人形が芝居をするんだ」

「外国の人形芝居は、あやつりも指使いの人形も、人の姿は観客からかくして演じるでしょう」

 素子は、ロシア語でそう云って、

「そうですね」

と日本語で秋山宇一に念を押した。

「そうです、こわいろだけきかせてね」

「あなた気がつきましたか?」

 またロシア語にもどって素子が云った。

「日本の人形芝居は、タユー(太夫)とよばれる人形使いが、舞台へ人形と一緒に現れます。あやつられる人形とあやつる太夫とが全く一つリズムのなかにとけこんで、互が互の生き生きした一部分になります。あの面白さは、独創的です」

「そう、そう、ほんとにそうだった。ヨシミさん、演芸通なんですね」

 興味を示して、テーブルの上にくみ合わせた両腕をおいてきいている細君の方へ目顔をしながらポリニャークが云った。

「しかし、ノウ(能)というものは、僕たちには薄気味が悪かった」

「ノウって、どういうものかい?」

 アレクサンドロフが珍しそうにきいた。

「見給え、こういうものさ」

 酒のまわり始めたポリニャークは、テーブルに向ってかけている椅子の上で胸をはって上体を立て、顎をカラーの上にひきつけて、正面をにらみ、腕をそろそろと大きい曲線でもち上げながら、

「ウーウ、ウウウウヽヽヽヽ」

と、どこやら謡曲らしくなくもない太い呻声を発した。その様子をまばたきもしないで見守っていたアレクサンドロフが、暫く考えたあげく絶望したように、

「わからないね」

と云った。

「僕にだってわかりゃしないさ」

 みんなが大笑いした。

「可哀そうに! 日本人だってノウがすきだというのは特殊な人々だって、話してお上げなさいよ」

 伸子が笑いながら云った。

「限られた古典趣味なんだもの」

「何ておっしゃるんです?」

 ポリニャークが伸子をのぞきこんだ。

「内海さんがあなたにおつたえします」

 話がわかると、

「それでよし!」

とアレクサンドロフをかえりみて、

「これで、われわれが、『野蛮なロシアの熊』ではないという証明がされたよ。さあ、そのお祝に一杯!」

 みんなの杯にまた新しい一杯がなみなみとつがれた。そして、

「幸福なるノウの安らかな眠りのために!」

と乾杯した。伸子は、また、

「わたしはだめです」

をくりかえさなければならない羽目になった。ポリニャークは、

「やあ にぇ まぐう」

と、鳥が喉でもならすような響で、伸子の真似をした。そして、立てつづけに二杯ウォツカを口の中へなげ込んで、

「自分の国のものでもわれわれにはわからないものがあるのと、同じことさ」

 タバコの煙をはき出した。

「たとえば、ム・ハ・ト(モスクヷ芸術座)でやっている『トルビーン家の日々』あれはもう三シーズンもつづけて上演している。どこがそんなに面白いのか? 僕にはわからない」

「ム・ハ・トの観客は、伝統をもっていて特にああいうものがすきなんだ」

 アレクサンドロフが穏和に説明した。

「そりゃ誰でもそう云っているよ。しかし、僕にはちっとも面白くない。それだから僕がソヴェト魂をもっていないとでも云うのかい?──アキヤマさん」

 ウォツカの瓶とともに、ポリニャークは秋山にむいて云った。

「あなたは『トルビーン家の日々』を面白いと思いますか?」

「あれは、むずかしい劇です」

 それだけロシア語で云って、あとは内海厚につたえさせた。

「特に外国人にはむずかしい劇です。心理的な題材ですからね。科白せりふがわからないと理解しにくいです」

 一九一七年の革命の当時、元貴族や富裕なインテリゲンツィアだった家庭に、たくさんの悲劇がおこった。一つの家庭のなかで年よりは反革命的にばかりものを考え行動するし、若い人々は革命的にならずにいられないために。或る家庭では、またその正反対がおこったために。「トルビーン家の日々」は、革命のうちに旧い富裕階級の家庭が刻々と崩壊してゆかなければならない苦しい歴史的な日々をテーマとしていた。科白がわからないながら、伸子は、雰囲気の濃い舞台の上に展開される時代の急速なうつりかわりと、それにとり残されながら自分たちの旧い社交的習慣に恋着して、あたじけなくみみっちく、その今はもうあり得ない華麗の色あせたきれっぱじにしがみついている人々の姿を、印象づよく観た。

「サッサさん、どうでした? あの芝居は気にいりますか?」

「いまのソヴェトには、『装甲列車』の登場人物のような経験をもっている人々もいるし、『トルビーン家の日々』を経験した人々も、いるでしょう? わたしは、つよくそういう印象をうけました。そして、あれは決してロシアにだけおこることじゃないでしょう。──吉見さん、そう話してあげてよ」

「いやに、手がこんでるんだなあ」

 ウォツカの数杯で、気持よく顔を染めている素子が、そのせいで舌がなめらからしく、ほとんど伸子が云ったとおりをロシア語でつたえた。

「サッサさん、あなたは非常に賢明に答えられました」

 半ば本気で、しかしどこやら皮肉の感じられる調子でポリニャークが、かるく伸子に向って頭を下げた。

「僕は、あなたの理解力と、あなたの馬鹿馬鹿しいウォツカぎらいの肝臓に乾杯します」

 舞台の時間が来てポリニャーク夫人が席を去ってから、ポリニャークが杯をあける速力は目立ってはやくなった。

 秋山宇一は額まで赫くなった顔を小さい手でなでるようにしながら、

「ロシアの人は酒につよいですね」

 頭をひとりうなずかせながら、すこし鼻にかかるようになった声で云った。

「寒い国の人は、みんなそうですがね」

「空気が乾燥しているから、これだけのめるんですよ」

 やっぱり大してのめない内海厚が、テーブルの上に置いたままあったウォツカの杯をとりあげて、試験管でもしらべるように、電燈の光にすかして眺めた。それに目をとめてアレクサンドロフが、

「内海さん、ウォツカの実験をする一番適切な方法はね、視ることじゃないんです、こうするんです」

 唇にあてた杯と一緒に頭をうしろにふるようにして自分の杯をのみほした。

「日本の酒は、すするのみかたでしょう? 葡萄酒のように──」

「啜ろうと、仰ごうと、一般に酒は苦手でね」

 内海が、もう酒の席にはいくぶんげんなりしたように云った。

「日本の神々のなかには、大方バッカスはいないんだろうよ。あわれなことさ!」

 伸子はハンカチーフがほしくなった。カフスの中にもハンド・バッグの中にもはいっていない。そう云えば、出がけにいそいで外套のポケットへつっこんで来たのを思い出した。伸子は席を立って、なか廊下を玄関の外套かけの方へ行った。そして、ハンカチーフを見つけ出して、カフスのなかへしまい、スナップをとめながらまたもとの室へ戻ろうとしているところへ、むこうからポリニャークが来かかった。あまりひろくもない廊下の左側によけて通りすがろうとする伸子の行手に、かえってそっち側へ寄って来たポリニャークが突立った。

 偶然、ぶつかりそうになったのだと思って伸子は、

「ごめんなさい」

 そう云いながら、目の前につったったポリニャークの反対側にすりぬけようとした。

「ニーチェヴォ」

という低い声がした。と思うと、どっちがどう動いたはずみをとらえられたのか、伸子の体がひとすくいで、ポリニャークの両腕のなかへ横だきに掬いあげられた。両腕で横掬いにした伸子を胸の前にもちあげたまま、ポリニャークは、ゆっくりした大股で、その廊下の左側の、しまっている一室のドアを足であけて、そこへ入ろうとした。その室にはスタンドの灯がともっている。

 あんまり思いがけなくて、体ごと床から掬いあげられた瞬間伸子は分別が消えた。仄暗ほのぐらいスタンドの灯かげが壁をてらしている光景が目に入った刹那、上体を右腕の上に、膝のうしろを左腕の上に掬われている伸子は、ピンとしている両脚のパンプをはいている足さきに力をいっぱいこめて、足を下へおろそうとした。

「おろして!」

 思わず英語で低く叫ぶように伸子は云った。

「おろして!」

 背が高くて力のつよいポリニャークの腕の上から、伸子がいくら足に力をこめてずり落ちようとしても、それは無駄であった。伸子は、左手でポリニャークの胸をつきながら、

「声を出すから!(ヤー、クリチュー!)」

と云った。ほんとに伸子は、秋山と吉見を呼ぼうと思った。

「ニーチェヴォ……」

 ポリニャークは、またそう云って、その室の中央にある大きいデスクに自分の背をもたせるようにして立ちどまった。そこで伸子を床の上におろした。けれども、伸子の左腕をきつくとらえて、酔っている間のびのした動作で、伸子の顔へ自分の大きな赧い顔を近づけようとした。伸子は、逃げようとした。左腕が一層つよくつかまれた。顔がふれて来ようとするのを完全に防ぐには、背の低い伸子が、体をはなさず却ってポリニャークに密着してしまうほかなかった。くっつけば、背の低い伸子の顔は、丁度大男のポリニャークのチョッキのボタンのところに伏さって、いくら顔だけかがめて来ようとも、伸子の顔には届きようがないのだった。

 伸子の右手は自由だった。ザラザラする羅紗のチョッキの上にぴったり顔を押しつけて、伸子は自由な右手を、ぐるっとポリニャークの腕の下からうしろにまわし、デスクの方をさぐった。何か手にふれたら、それを床にぶっつけて物音を立てようと思った。

 そこへ、廊下に靴音がした。あけ放されているドアから、室内のこの光景を見まいとしても見ずにその廊下を通ることは出来ない。

 伸子は、ポリニャークのチョッキに伏せている眼の隅から赫毛のアレクサンドロフが敷居のところに立って、こちらを見ている姿を認めた。伸子は、デスクの方へのばしていた手で、はげしく、来てくれ、という合図をくりかえした。一足二足は判断にまよっているような足どりで、それから、急につかつかとアレクサンドロフが近づいて、

「ボリス! やめ給え。よくない!」

 ポリニャークの肩へ手をかけおさえながら、伸子にそこをはなれる機会を与えた。


 伸子は白々とした気分で、テーブルの出ている方の室へ戻って来た。いちどきに三人もの人間が席をたって、はぬけのようになっているテーブルに、ザクースカのたべのこりや、よごれた皿、ナイフ、フォークなどが乱雑に目立った。ポリニャークの席にウォツカの杯が倒れていて、テーブル・クローズに大きい酒のしみができている。秋山宇一と内海厚は気楽な姿勢で椅子の背にもたれこんでいる。反対に、素子がすこし軟かくなった体をテーブルへもたせかけるように深く肱をついてタバコをふかしている。伸子がまたその室へ入って行って席についたとき、素子のタバコの先から長くなった灰が崩れてテーブル・クローズの上に落ちた。

「──どうした? ぶこちゃん」

 ちょっと気にした調子で素子がテーブルの向い側から声をかけた。

「気分でもわるくなったんじゃない?」

 伸子は、いくらか顔色のよくなくなった自分を感じながら、

「大丈夫……」

と云った。そして、ポリニャークに掬い上げられたとき少し乱れた断髪を耳のうしろへかきあげた。

 程なく、ポリニャークとアレクサンドロフが前後して席へもどって来た。

「さて、そろそろ暖い皿に移るとしましょうか」

 酔ってはいても、格別変ったところのない主人役の口調で云いながら、伸子の方は見ないでポリニャークは椅子をテーブルにひきよせた。テーブルの角をまわってポリニャークの右手にかけている伸子は、部屋へ戻って来たときから、自然椅子を遠のけ気味にひいているのだった。

「われらの食欲のために!」

 最後の杯があけられた。アレクサンドロフが伸子にだけその意味がわかる親和の表情で、彼女に向って杯をあげた。ポリニャークは陽気なお喋りをやめ、新しく運びこまれたあついスープをたべている。食事の間には主にアレクサンドロフが口をきいた。部屋の雰囲気は、こうして後半になってから、微妙に変化した。しかし、少しずつ酔って、その酔に気もちよく身をまかせている秋山宇一や内海厚、素子さえも、その雰囲気の変化にはとりたてて気づかない風だった。


 伸子たち四人が、ポリニャークのところから出て、また雪の深い停留場からバスにのったのは、十一時すぎだった。市中の劇場がはねた時刻で、郊外へ向うすべての交通機関は混み合うが、市の外廓から中心へ向うバスはどれもすいていた。伸子たち四人は、ばらばらに座席を見つけてかけた。秋山も素子も、バスのなかの暖かさと、凍った雪の夜道を駛ってゆく車体の単調な動揺とで軽い酔いから睡気を誘われたらしく、気持よさそうにうつらうつらしはじめた。伸子がかけている座席のよこの白く凍った窓ガラスに乗客の誰かが丹念に息をふきかけ、厚く凍りついた氷をとかしてこしらえた覗き穴がまるく小さくあいていた。その穴に顔をよせて外をのぞいていると、蒼白くアーク燈にてらし出されている並木の雪のつもった枝だの灯のついた大きい建物だのが、目の前をかすめてすぎた。白く凍ってそとの見えないバスの中で、思いがけずこんな一つの穴を見つけた伸子は、そののぞき穴を守って、チラリ、チラリと閃きすぎる深夜のモスクヷを眺めた。

 断片的なそとの景色につれて、伸子の心にも、いろいろな思いが断片的に湧いて消えた。ポリニャークにいきなり体ごと高く掬い上げられ、その刹那意識の流れが中断されたようだった変な感じが、まだ伸子の感覚にのこっていた。ポリニャークは、どうしてあんなことをしたのだろう。自分も何か用事で廊下へ出て来た拍子に、小さい伸子が来かかるのを見て、ひょいと掬い上げたというのならば、そうするポリニャークに陽気ないたずらっ子の笑いがあったはずだし、伸子も、びっくりした次には笑い出す気分がうつったはずだった。ポリニャークのポヤポヤ髪をもった大きい赤い顔には、ひとつもそういうあけっぱなしの陽気さや笑いはなかった。伸子が本能的に体をこわばらして抵抗する、そういう感じがあった。男が女に何かの感情をつたえる方法としてならば、あんまり粗野だった。ポリニャークが育ったロシアの農村の若衆たちに、ああいう習慣でもあるのだろうか。また女優である細君の楽屋仲間をよんだりすると、酔った男優女優は、主人のポリニャークもこめてああいう騒ぎをやるのかもしれない。

 伸子は、客に行ったさきであんな風に掬い上げられたことは不愉快だった。自分の態度のどこかに、すきがあったと思われた。伸子は、「やあ にぇ まぐう」を思い出した。柔かくすべっこくされた日本の女のロシア語が、酔った男の感覚にどう作用するかというようなことを、伸子は今になって、考えて、はじめて推測できた。伸子は、屈辱の感じで思わず凍った窓ののぞき穴から顔をそむけた。

 モスクヷへ来てたった二週間しか経たなかったとき、伸子は鉄工組合の労働者クラブの集会へ行った。にわかに演壇に立たされて、困りながら伸子は、自分がたった二週間前に日本から来たばかりなこと、ロシア語が話せない、ということを云った。そのとき、伸子は、どんなしっかりした立派な発音でヤー ニェ マグウ ガバリーチ ルースキー(わたしはロシア語は話せません)と云ったというのだろう。いまよりもっとひどいフニャフニャ にぇ まぐう で云ったにちがいなかった。それでも、あの会場に集っていた二三百人の男女は、瞳をそろえて、下手なロシア語を話す体の小さい伸子を見守り、その努力を認め、声をかけて励してくれる者もあった。あの人々が、ポリニャークに掬い上げられたりしている伸子をみたら、どんなにばかばかしく感じるだろう。そんな伸子に拍手をおくった自分たちまでが、同時にばかにされたように感じるだろう。伸子はその感情を正当だと思った。そして、あの人々に、このいやさを訴えたいこころもちと半ばして、訴えることさえはずかしいと感じる心があった。伸子はこの意味のはっきりしない不愉快事を素子にさえ、話す気がしなかった。

 ホテルへかえりつくと、素子も秋山も、浅い酔いがさめかかって寒くなり、大いそぎで熱い茶を幾杯ものんで、部屋部屋にわかれ、じき床に入った。



 あくる日、臨時にマリア・グレゴーリエヴナの稽古の時間が変更になって、伸子がトゥウェルスカヤ通りをホテルへ帰って来る頃には、もうモスクヷの街々に灯がはいった。歩道に流れ出している光を群集の黒い影が絶間なくつっきって足早に動いている。そのなかにまじっていそぎ足に歩いていた伸子は、ふと、トゥウェルスカヤ通りの見なれた夕景が、霧につつまれはじめたのに気づいた。日本の晩秋に立ちこめる夕靄ゆうもやに似て、街々をうすくおおう霧にきがついたとき、もうその霧は刻々に濃くなって、商店の光もボーッとくもり、歩道の通行人もさきの見とおしが困難なくらいになって来た。大通りの左右に並んだ高い建物のきれめでは、煙のように灰白色の霧が流れてゆくのが見えた。伸子はモスクヷで、こんな霧のなかを歩こうとは思いがけなかった。急に見とおしのきかなくなった街をいそぐ伸子の気持には、外国の都にいるらしく、孤独の感じがあった。

 モスクヷへ来て暮したふた月ほどの間、モスクヷの人々に対する伸子の一般的な信頼と自分に対する信頼とを、動かされるような目に会っていなかった。ところが昨夜、ポリニャークのところへよばれて、あんなにひょいと、二本の脚でしゃんと立っていた筈の自分が床の上から体ごと掬い上げられた経験は、伸子が自分についてもっていた安定感を、ひっくるかえした。ポリニャークに、あんな風にやすやすと掬い上げられてしまったことには、体力も関係した。ポリニャークの大さ、力のつよさに対して、あんまり伸子は小さかった。日本人の男と伸子との体力の間にはあれだけの開きはない。あいてになりようない力を働かしてポリニャークは一人前の女である伸子をあんなにいきなり掬いあげた。無礼ということばの、真の感覚で伸子はそれを無礼と感じた。同時に、ひとから無礼をはたらかれるような理由も動機も自分はもっていないように天真爛漫だった伸子のモスクヷ暮しの気分も、ゆらいだ。これからも屈辱的な扱いにあうかもしれないモメントを自分がもっているということを伸子は知らされたのであった。二月の夜霧が流れるトゥウェルスカヤ通の、下り坂になった広い歩道をいそいで来る伸子のこころの孤独感は、素子にも話さない、そういう感情とつながっていた。

 その晩は、これまでなら、素子のところへモスクヷ河のむこうから女教師が来るはずの日だった。そして、伸子は二時間ばかりどこかへ行っていなくてはならないわけだった。今週からその女教師は、むこうからことわって来て、やめになった。伸子が、未払いになっていた授業料を届けがてら、素子のつかいで、病気だというハガキをよこしたその女教師のところへ行った。丁度午後三時すぎの日没がはじまる頃で荒涼と淋しい町はずれの一廓の、くずれかかったロシア風の木柵に沿って裸の枝をつきたたせている白樺の梢に、無数のロシア烏が鈴なりにとまってねぐらにつく前のひとさわぎしているところだった。その空地に壁を向けて建っている建物の、スープを煮る匂いのこもった薄暗い室で、その女教師はアボルトしたあとの工合がよくなくて、出教授は当分やめなければならないと云った。煤がかかってよごれていたその界隈の雪の色や、空地にくずれた柵、裸の梢に鈴なりに群れさわいでいた烏の羽音など、伸子の印象にのこる景色だった。

 そういうわけで今夜は、伸子も室にいてよかった。素子が自分の勉強がてらプレハーノフの芸術論をよもうということになった。素子がひとりで音読し、ひとりで訳した。モスクヷのどこの劇場へ行っても、劇評を見ても、弁証法的な演出とか手法とかいうことがくりかえされていたが、伸子たちにはどうもその具体的な内容がのみこめなかった。メイエルホリドでは「トラストD・E」を上演していて、解説には資本主義の批判をテーマとした脚本の弁証法的演出とあった。しかし伸子たちが観た印象では、その芝居は極端な表現派の手法としか感じられなかった。プレハーノフをよもうといい出した素子の動機は、そういうところにもあるのだった。

 素子のよむプレハーノフの論文の一字一字を懸命に追ってゆくうちに、伸子は、この芸術論が、案外ジョン・リードの「世界を震撼させた十日間」よりもわかりやすいのを発見した。時々刻々に変化する緊張した革命の推移を、ジャーナリスティックな複雑さと活溌なテムポとで描き出し記録しているリードの文章よりも、理論を辿って展開されてゆくプレハーノフの文章の方が、感情的でないだけに、伸子についてゆきやすかった。

「こうしてみると小説ってむずかしいわねえ」

「そりゃむずかしいさ、文章が動いているもの──」

「わたしには、とても小説の方はのぞみがないわ。──一字一句格闘なんだもの」

「なれないからさ」

「それもあるだろうけれど……」

 モスクヷへ来てからは、とくに字をよむよりさきに耳と口とを働かせなければならない必要が先にたって、伸子のロシア語のちんばな状態は一層ひどくなった。話す言葉は、間違いだらけでも、必要によって通用した。伸子の読み書く能力は、非常に劣っていた。自分の片ことのロシア語についても、伸子は昨夜の「にぇ まぐう」のことから不快を感じはじめているのだった。

「いまの作家で、だれの文章がやさしいのかしら」

 素子は、考えていたが、

「わからないね」

と云った。

「外国人にわかりやすい文章とロシア人にわかりやすい文章とは、すこしちがうらしいもの。大体、ロシア人は新しい作家のは、やさしいっていうけれど、わたしたちには反対だ、なまりや慣用語、俗語が多くて──バーベリなんかどうだい。文章はがっちりしていてきもちいいけれど、やさしいどころか」

 それは伸子にも推察された。

「ケンペルの文章、ほんとにやさしいのかしら」

 本屋でヴェラ・ケンペルの『動物の生活』というお伽噺とぎばなしめいた本を伸子が買って来たことがあった。やさしそうなケンペルの文章は、言葉づかいがいかにも未来派出身の女詩人らしく、それがわかれば気がきいているのだろうが、伸子にはむずかしかった。

「ありゃ、たしかに気取ってるよ」

「──でも、わたしたちが、彼女の文章はむずかしいと云ったら、大変きげんがわるかったわねえ」

「そうそう、御亭主に何だか云いつけてたね」

 それは半月ばかり前のことであった。伸子たち二人が秋山宇一のところにいたら、そこへ、シベリア風のきれいな馴鹿となかいの毛皮外套を着て、垂れの長い極地防寒帽をかぶったグットネルが入って来た。まだ二十三四歳のグットネルはメイエルホリドの演出助手の一人であった。秋山たちが国賓として日本を出発するすこし前にグットネルが日本訪問に来たとき、彼は、メイエルホリドの演出家として紹介された。演劇人でソヴェトから来たはじめての人であったため新劇関係の人々に大いに款待され、日本でその頃最も新しい芝居として現れていた表現派の舞台を、メイエルホリドの手法に通じる斬新なものという風に語られた。秋山宇一と内海厚とは、帰国するグットネルと一緒にモスクヷへ来た。そして、自然、若いグットネルがメイエルホリドの下で実際に担当している活動の範囲も、モスクヷの現実の中で理解した。それから、ずっと普通の交際をつづけているらしかった。伸子たちは、それまでに二三度秋山の室でグットネルにあったことがあった。

 その晩、秋山の室でおちあったグットネルは、伸子たちをみると、まるでその用事で来たように、二人をヴェラ・ケンペルの家へ誘った。

 黄色と純白の毛皮をはぎ合わせた派手なきれいな毛皮外套をきたままの若々しいグットネルにタバコの火をやりながら、素子はうす笑いして、

「突然私たちが行ったって、芝居へ行っているかもしれないじゃありませんか」

と云った。

「ケンペルは、こんや家にいるんです。僕は知っています」

 寒いところをいそいで歩いて来た顔のうすくて滑かな皮膚をすがすがしく赤らませ、グットネルは若い鹿のような眼つきで素子を見ながら、

「行きましょう」

と云い、更に伸子をみて、

「ね、行きましょう(ヌ・パイディヨム)」

 すこし体をふるようにして云った。

 素子は、じらすように、

「あなたと私たちがここで今夜会ったのは、偶然じゃありませんか」

「ちがいます」

 それだけ日本語で云ってグットネルは伸子たちを、部屋へ訪ねて誘うために来たのだと云った。

「偶然なら、なお私たちはそれをたのしくするべきです、そうでしょう?」

 到頭三人で、ヴェラ・ケンペルの住居を訪ねることになった。大通りから伸子によくわからない角をいくつも曲って、入口が見えないほど暗い一つの建物を入った。いくつか階段をのぼって、やっぱり殆ど真暗な一つのドアの呼鈴を押した。

 すらりとした、薄色のスウェター姿の婦人が出て来た。それが、ケンペルだった。

 狭い玄関の廊下から一つの四角いひろい室にはいった。あんまり明るくない電燈にてらされている。その室の一隅に大きなディヴァンがあった。もう一方の壁をいっぱいにして、フランス風の淡い色調で描かれた百号ぐらいの人物がかかっていた。その下に、膝かけで脚をくるんだ一人の老人が揺り椅子によっていた。伸子たちは所在なさそうに膝かけの上に手をおいているその老人に挨拶をしてそこをとおりぬけ、一つのドアからヴェラの書斎に案内された。

「見て下さい。モスクヷの住宅難はこのとおりですよ。私たちは、まるで壁のわれ目に棲んでいるようなもんです」

 ほんとに、その室は、モスクヷへ来てから伸子が目撃した最も細長い部屋の一つだった。左手に、一つ大窓があって、幅は九尺もあろうかと思う部屋の窓よりに左光線になるようにしてヴェラの仕事机がおいてあった。伸子たちが並んで腰かけたディヴァンが入口のドアの左手に当るところに据えられていて、小さい茶テーブルや腰のひくい椅子があり、その部分が応接につかわれていた。一番どんづまりの三分の一が寝室にあてられているらしくて、高い衣裳箪笥が見えた。素子が、

「わたしたちは、いまホテルにいますけれど、そろそろ部屋をさがしたいと思っているんです」

と言った。

「モスクヷで貸室さがしをするのは、職業を見つけるより遙かに難事業です──グットネル、あなたの友情がためされる時が来ましたよ」

 よっぽどその馴鹿の毛皮外套が気にいっているらしく、ヴェラの室へもそれを着たまま入って来て、ドアによりかかるようにして立っていたグットネルが、間もなく劇場へゆく時間だからと、出かけて行った。

 おもに素子とヴェラとが話した。未来派の詩をかいていたケンペルは、革命後同伴者パプツチキの文学グループに属し、直接社会問題にふれない動物とか自然とかに題材をとった散文詩のようなものをかいていた。フランス古典では、ロスタンの「シャンタ・クレール」があり、現代ではコレットという婦人作家が、動物に取材して気のきいた作品をかいているというような話がでた。体つきも小柄なヴェラは、行ったことがあるのかないのか、芸術や服装についてはフランス好きで一貫しているらしかった。ヴェラのかいた「動物の生活」の話が出た。

「いかがでした? 面白かったですか」

 ヴェラが興味をもってきいた。素子が、あっさりと、

「むずかしいと思いました」

と云った。

「一つ一つの字より、全体の表現が……」

「──あなたは? どう思いました?」

 伸子の方をむいて、ヴェラが熱心にきいた。

「わたしのロシア語はあんまり貧弱で、文学作品はまだよめないんです」

「──だって……」

 ヴェラ・ケンペルは憂鬱な眼つきでドアの方を見ていたが、やがて、

「わたしたち現代のロシア作家は、すべて、きのう字を覚えたばかりの大衆のためにも、わかるように書かなければならないということになっているんです」

 皮肉の味をもって云い出しながら、皮肉より重い日ごろの負担がつい吐露されたようにヴェラは云った。

「そのことは外国人の読者の場合とはちがいましょう」

「どうして?」

「外国人には、生活として生きている言葉の感覚がわからないことがあるんです。──あなたの文章を、むずかしいと感じるのは、わたしたちが外国人だからでしょう……」

「どっちだって同じことです」

 ヴェラの室にテリア種の小犬が一匹飼われていた。伸子たちが入って行ったとき壁ぎわのディヴァンの上にまるまっていたその白黒まだらの小犬は、そのままそのディヴァンにかけた伸子の膝の上にのって来て、悧巧な黒い瞳を輝やかしている。伸子は、その犬を寵愛しているらしい女主人の気持を尊重する意味で、膝にのせたまま、ときどきその犬を撫でながら、素子との話をきいていた。

 そこへ、ドアのそとから、声をかけて、全くアメリカ好みのスケート用白黒模様のジャケットを着た若い大柄の男が入って来た。ヴェラは、小テーブルのわきへ腰かけたまま、

「わたしの良人です。ニコライ・クランゲル──ソヴ・キノの監督──日本からのお客さまがたよ」

と伸子たちを紹介した。

「こちらは」

と素子をチェホフの翻訳家として、

「そちらは、作家」

と伸子を紹介した。

「お目にかかってうれしいです」

 クランゲルは、握手をしない頭だけの挨拶をして、グットネルがこの部屋へ入って来たときしていたように、入口のドアに背をもたせて佇んだ。くすんだ鼠色のズボンのポケットへ片手をつっこんで。──

 伸子たちにききわけられない簡単な夫婦らしい言葉のやりとりでヴェラはニコライに、二言三言なにかの様子をきいた。

「そう、それはよかったこと……」

 ヴェラは、ちょっと言葉を途切らせたが、

「ねえ、あなたはどう思うこと?」

 ほとんど彼女の正面にドアによっかかって立っているニコライを仰ぎみるようにして云った。

「この方々は、わたしの書くものがむずかしいっておっしゃるんです」

 じっと、ニコライの顔をみつめて、ヴェラは云っている。伸子は、そのヴェラの、妻として訴え甘えている態度をおもしろく感じた。モスクヷというところでは、何だかこんな婦人作家の表情を予期しないような先入観が伸子にあった。

 ニコライは、何とも返事をしないでヴェラの顔を見かえしたまま肩をすくめ、片方の眉をつり上げるようにした。その身ぶりを言葉にすれば、何を云ってるんだか、と伸子たちの意見をとりあわない意味であろう。ニコライは、ヴェラの顔を見まもったまま、ゆっくりタバコに火をつけた。伸子たちには、別に話しかけようとしない。ニコライが、ひと吸いふた吸いしたとき、ヴェラが、

「わたし退屈だわ」

と云って、そっとほっそりした胴をのばすような身ごなしををした。伸子は、びっくりした眼つきでヴェラ・ケンペルをみた。ヴェラのその言葉は、伸子たちの対手をしていることが退屈なのか、それとも一般的に生活が退屈だという意味なのか、そこの区別をぼやかした調子で云われた。

 ニコライは、ドアによりかかっているすらりと長い片脚に重心をもたせてタバコを吸いながら、映画俳優がよくやる、一方の眉の下からはすに対手を見る眼つきで、

「──曲芸チルクでも見にゆけばいい」

と云った。

「……曲芸チルクも見あきたし──大体私たちモスクヷ人は曲芸チルクをみすぎますよ」

 曲芸チルクを見すぎる、というヴェラの言葉も、伸子には象徴的にきこえた。モスクヷに曲芸をやる劇場は現実には一ヵ処しかないのだし。──

 伸子は、テリアの小犬を自分の膝からディヴァンの上へおろした。そして素子に日本語で、

「そろそろかえらない?」

と云った。

「そうしよう」

 そこで伸子と素子とは、ヴェラ・ケンペルの家から帰ったのであった。帰るみちで、伸子は素子に、

「あの私、退屈だわ、はわたしたちに云ったことなの?」

ときいた。

「さあ……ああいうんだろう」

 素子は、案外気にとめずヴェラ・ケンペルの文学的ポーズの一つとうけとっているらしかった。

 ときをへだてた今夜、素子と本をよみ終えて、雑談のうちにそのときの情景をまた思いおこすと、伸子たち二人を前におきながらヴェラがニコライに甘えて、じっとニコライの眼を見つめながら、書くものがむずかしいと云うと訴えたことも、退屈だわ、と云ったことも、伸子にいい心持では思い出されなかった。あの雰囲気のなかには、伸子たちにとって自然でなく感じられるものがあった。伸子たちが、どうだったらば、ヴェラ夫妻にあんな雰囲気をつくらせないですんだだろう? この問いは、伸子の心のなかですぐポリニャークに掬い上げられたことと、くっついた。伸子がどうであればポリニャークに、あんなに掬い上げられたりしなかっただろうか。伸子は、ひろげた帳面の上に、鉛筆で麻の葉つなぎだの、わけのわからない円形のつながりだのを、いたずら書きをはじめた。

 この前の日本文学の夕べのとき会ったノヴィコフ・プリヴォイの海豹アザラシひげの生えたおとなしいが強情な角顔が思い浮かんだ。あの晩、プリヴォイ夫妻は伸子のすぐ左隣りに坐っていた。ノヴィコフは伸子に、お花さんという女を知っているか、ときいた。ノヴィコフは日露戦争のとき、日本の捕虜になって九州熊本にいた。そのとき親切にしてくれた日本の娘が、お花さんという名だったのだそうだ。ノヴィコフの家庭では、お花さんという名が、彼の波瀾の多かった半生につながる半ば架空的な名物となっているらしくて、白絹のブラウスをつけた細君もわきから、

「彼は、どうしてももう一度日本へ行って、お花さんに会う決心だそうですよ」

と笑いながら云った。

「わたしは、お花さんによくお礼をいう義務があるんだそうです」

 クロンシュタットの海兵が反乱をおこしたとき連座して、一九一七年までイギリスに亡命して暮したプリヴォイ夫妻は英語を話した。モスクヷの住宅難で自分のうちに落付いた仕事部屋のないプリヴォイは、モスクヷ郊外に出来た「創作の家」で、「ツシマ」という長篇をかいているところだった。

 石垣のように円をつみ重ねたいたずらがきを濃くなぞりながら、伸子は、あのプリヴォイがたとえ酔ったからと云って、伸子を掬い上げたりするだろうか、と思った。それは想像されないことだった。プリヴォイには、そういう想像がなりたたない人柄が感じられる。けれども、ポリニャークもプリヴォイも同じロシアプロレタリア作家同盟に属している。──

「ねえ、プロレタリア作家って、ほんとうはどういうの?」

 伸子に訳してきかせたあとを一人でよみつづけていた素子が、

「──どういうのって……どういう意味なのさ」

 本の頁から顔をあげずにタバコの灰を指さきでおとしながらききかえした。

「何ていうか──規定というのかしら──こういうものだという、そのこと」

「そんなことわかりきってるじゃないか」

 すこし気をわるくしたような声で素子が答えた。

「労働者階級の立場に立つ作家がプロレタリア作家じゃないか」

「そりゃそうだけれどさ……」

 革命後にかきはじめた作家のなかには、プロレタリア作家と云っても、偶然な理由からそのグループに属している人もある、と伸子には思えた。

「ポリニャークなんかもそうじゃない? 革命のとき、偶然金持ちでない階級に生れていて、国内戦の間、ジャガ薯袋を背負って、避難列車であっちこっちして『裸の年』が認められたって……プロレタリア作家って文才の問題じゃないでしょう?」

「だからルナチャルスキーが気をもむわけもあるんだろうさ──前衛の眼をもてって──」

 伸子は、ひょっと、自分がもし日本から来た女の労働者だったら──工場かどこかで働くひとであったら、同じ事情のもとでポリニャークはどうしただろうか、と思った。それから、ヴェラ・ケンペルも。やっぱり、気のきかない客だということを、わたし退屈だわ、と云う表現でほのめかしただろうか。

 日本の政府はソヴェトへの旅行の自由をすべての人に同じようには与えないから、公然と来られるものはいつも半官半民の特殊な用向の日本人か、さもなければ伸子たちのような中途半端な文化人ということになっている。けれども、仮にもし女の労働者がどういう方法かでモスクヷへ来たとして。

 そういう人に対してだったら、ポリニャークもケンペルも、決して伸子に対したようには行動しない、ということは伸子に直感された。働く女の人なら、彼女がどんなに、にぇ、まぐう、と柔かく発音しようと、その女の体が日本の女らしく酔った大きな男に軽々ともち上げられる小ささしかなかろうとも、ポリニャークは伸子をそうしたようにそのひとを掬いあげたりはしないだろう。その女の労働者は、たとえ日本から来た人であろうと、労働者ということでソヴェトの労働者の全体とつながっている。その女のひとを掬いあげることは、ソヴェトの女の労働者の誰か一人を掬いあげたと同様であり、そういうポリニャークの好みについてソヴェトの働く人々は同感をもっていない。労働者が仲間の女の掬い上げられたことについて黙っていないことをポリニャークは知っているのだ。ヴェラ・ケンペルにしても、ちがった事情のうちに働くポリニャークと同じ心理があるにちがいない。

 伸子は、帖面の紙がきれそうになるまで、いたずら書きのグリグリを真黒くぬりつぶした。ああいう人たちは或る意味で卑屈だ。伸子は、ポリニャークやケンペルのことを考えて、そう思った。彼等はプロレタリアにこびる心を働かせずにはいられないのだ。伸子はもとより女の労働者ではない。だが、伸子が女の労働者でない、ということは、伸子がポリニャークやケンペルに対して、ソヴェトの働く人々に対して卑屈でなければならないということではない。伸子がモスクヷへ来てから、労働者階級の人たちや、その人たちのもっているいろんな組織は、伸子を無視していた。伸子の方から近づいてゆかなければ、その人たちの方から伸子を必要とはしていない。それは全く当然だ、と伸子は思った。伸子はモスクヷの生活でどっさりあたらしい生活感覚を吸いとっているのに、伸子のなかには、ここの人にとって学ぶべき新しいものはないのだから。珍しさはあるとしても。また漠然とした親愛感はあるにしろ。──無視されている、ということと、自分を卑屈の徒党のなかにおく、ということとははっきり別なことではないだろうか。──

 苅りあげて、せいせいと白いうなじを電燈の光の下にさらしながら、伸子はいつまでもいたずらがきをつづけた。



 モスクヷの街に深い霧がおりた翌日の十一時ごろ、郵便を入れにホテルから出かけた伸子は、トゥウェルスカヤ通りを行き来する馬という馬に、氷のひげが生えているのにおどろいた。ちっとも風のない冬空から太陽はキラキラ雪の往来にそそいで馬の氷のひげやたてがみをきらめかしている。氷柱つららをつけて歩いているのは馬ばかりではなかった。通行人の男の短い髭もパリッと白くなっているし、厚外套の襟を高くして防寒靴を運んでいる女の頬にかかる髪の毛も、金髪や栗毛の房をほそい氷の糸で真白くつつまれている。

 並木道へはいって行って、伸子は氷華の森のふところ深く迷いこんだ思いがした。きのうまでは、ただ裸の黒い枝々に凍った雪をつけていた並木道の菩提樹が、けさ見れば、細かい枝々のさきにまで繊細な氷華を咲かせている。氷華につつまれた菩提樹の一本一本がいつもより大きく見え、際限ないきらめきに覆われて空の眩ゆさとまじりながら広い並木道の左右から撓みあっている。その下の通行人の姿はいつもよりも小さく、黒く、遠く見えた。

 二月も半ばをすぎると、モスクヷの厳冬マローズがこうしてどこからともなく春にむかってとけはじめた。凍りつめて一面の白だった冬の季節が春を感じて、或る夕方の霧となって立ちのぼったり、ある朝は氷華となって枝々にとまったりしはじめると、北方の国の人を情熱的にする自然の諧調が伸子たちの情感にもしみわたった。伸子と素子とは、そのころになって一週間のうちの幾日も、モスクヷ市のあっちの町、こっちの横丁を歩きはじめた。二人は、貸室さがしをはじめたのだった。ホテル暮しも足かけ三ヵ月つづくと単調が感じられて来た。もっとじかに、ごたごた煮立っているモスクヷ生活の底までふれて行きたかった。そのためには素人の家庭に部屋を見つけるしかなかった。

 マリア・グレゴーリエヴナに世話をたのんで、はじめて三人で見に行った家は市の中央からバスで大分郊外に出た場所にあった。バスの停留場から更に淋しい疎林のある雪道を二十分も行った空地の一方の端に、ロシア式丸木建の新しい家がたっていた。ここは部屋の内部も丸木がむき出しになっている建てかたで、床の塗りあげもまだしてなかった。ガランとした室に白木の角テーブルが一つあった。室へ案内したそこの主婦は堂々として大柄な四十ばかりの女で、ほそいレースのふちかざりのついた白い清潔なプラトークで髪をつつんでいた。重い胸の前に両腕をさし交しに組んで戸口に立ち、いかにも彼女のひろい背中のうしろに、一九二一年の新経済政策ネップ以来きょうまでの世渡りのからくりはかくされていると云いたげに、きつい大きい眼だった。主婦は、伸子たちの着ている外套の生地やそれについている毛皮をさしとおすような短い視線で値ぶみしながら、愛嬌のいい高声で、その辺の空気がいいことや、前は原っぱで景色のいいことを説明し、一ヵ月分として郊外にしてはやすくない部屋代を請求した。

 家具らしいものが一つも入っていず、きつくチャンの匂うその新築丸木建の室の窓からは、貧弱な楊が一二本曲って生えている凹地が見はらせた。いまこそ一面の雪で白くおおわれて野原のように見えているが、やがて雪がとけだしたとき、その下から広いごみすて場があらわれることはたしかにみえた。伸子は、そういう窓外の景色を眺めながら、

「ここでは夜芝居の帰りみちがこわいわ。街燈がなかったことよ」

と云った。それは一つの理由で、この大柄で目つきがきつく、冷やかで陽気な主婦は、伸子たちがおじるような胸算用のきびしさを直感させた。

 劇場がえりが、女ばかりだから遠い夜道はこわいということは、眼つきのきつい主婦も認めた。モスクヷでは何よりむずかしいとされている室さがしを伸子たちにたのまれたマリア・グレゴーリエヴナはは、何かのつてでやっと手に入れた所書きだけをたよりに、自分でも先方のことは知らないまま、伸子と素子とを連れて見に来たのだった。

 その家を出てまた雪道をバスまで戻りながら、伸子は、自分たちのモスクヷ暮しも段々とモスクヷ市民生活の臓腑に近づいて来た、と思った。モスクヷの臓腑は赤い広場やトゥウェルスカヤ通りだけでは分らない色どりと、うねり工合と、ときに悪臭と発熱とで歴史の歯車にひっかかっている。

 ワフタンゴフ劇場の通りには、横丁が網目のように通じていた。或る日のおそい午後、伸子たち三人は、所書きをたどってその一つの横丁の、ひどく高い茶色の石壁のわきにある袋小路を入って行った。貸す室というのは、袋小路のなかの、ひどくくすぶった煉瓦の二階建の家の地階にあった。階段わきの廊下に面しているドアをあけると、その建物の薄ぐらさと湿気とをひとところにあつめたような一室があった。どういうわけか、その室の二重窓ガラスの二枚が白ペンキで塗りつぶされていた。それは暗くしめっぽいその室に不具者のような印象を与えた。ガラスから外の見える部分には、ほんのすこしの間隔をおいて一本の楡の大木の幹と、すぐそのうしろの茶色の石壁が見えた。どこからも直射光線のさし込まないその室に佇んで、茶毛糸の肩かけで両方の腕をくるみこんでいる蒼白い女が、飢えたように輝く眼差しを伸子たちの上に据えながら、

「おのぞみなら、食事もおひきうけします」

と熱心に云った。

「料理にはいくらか心得がありますし……ここの市場はものが割合やすくて、種類もたっぷりあるんです……」

 きれぎれな言葉で外套のどこかをひっぱるような貸し主の女のものの云いかたには、ほんとに部屋代を必要としている人間の訴えがこもっていた。その室にしばらく立っていると、この家のどこかにもう長いこと床についたままの病人がいて、見えないところからこの交渉へ神経をこらしているような感じだった。かりにこの室で我慢するとしても伸子たちが借りることの出来る寝台が一つしかなくて、補充する寝椅子も、そこにはなかった。

 こういう風なところをあちこち歩いてホテルへかえると、小規模なパッサージの清潔さと設備の簡素な合理性とが改めて新鮮に感じられた。

「こうしてみると、住めるような部屋ってものは容易にないもんだね」

 素子がタバコを深く吸いながら云った。

「いまのモスクヷで外国人に室をかそうとでもいうような者は、あの丸木小舎のかみさんのような因業な奴か、さもなけりゃ、きょうみたいな、気の毒ではあるがこっちの健康が心配だというような室しかもっていないような人しかないんだね」

 伸子はじっと素子をみて、体のなかのどこかが疼くような表情をした。室さがしにあっちこっち歩いてみて、伸子はまだモスクヷにも人間の古い不幸としての貧や狡猾がのこっているのを目近に目撃した。

「もうすこしさがしてみましょうよ。ね?」

 伸子は熱心に云った。

「モスクヷで外国人に室をかすものは、ほんとにいかがわしい者や、時代にとりのこされたような人しかないのかどうか、わたし知りたいわ」

「そりゃ探すさ、ほんとにさがしているんだもの──」

 女子大学の学生時代から、借家さがしや室さがしに経験のある素子は、しばらく考えていたが、

「もしかしたら、広告して見ようよ、ぶこちゃん」

と云った。

「モスクヷ夕刊か何かに──かえってその方が、ちゃんとしたのが見つかるかもしれない。あさっての約束の分ね、それを見て駄目だったら、広告にしよう」

 あさってという日、三人が行ったのは、ブロンナヤの通りにある一軒の小ぢんまりした家だった。外壁の黄色い塗料が古くなってはげているその家の二重窓の窓じきりのかげに、シャボテンの鉢植がおいてあるのが、そとから見えた。

 呼鈴にこたえて入口をあけたのは三十をこした丸顔の女で、その人をみたとき、伸子は自分たちが楽屋口へ立ったのかと思った。女は、映画女優のナジモヷアが椿姫を演じたときそうしていたように、黒っぽい断髪を頭いっぱいの泡立つような捲毛にしていた。モスクヷでは見なれないジャージの服を着て、赤いコーカサス鞣の室内靴をはいている。そういういでたちの女主人は伸子たちをみると、

「今日は」

と、フランス語で云った。

「どうぞ、お入り下さい」

 それもフランス語で云って、マリア・グレゴーリエヴナに、

「この方たちは、二人一緒に室をかりようとしているんでしょうか」

とロシア語できいた。

「ええ、そうですよ、もちろん」

 マリア・グレゴーリエヴナは照れたように正直な茶色の眼を見開いて、

「彼女たちはロシア語が十分話せるんです。どうか、じかにお話し下さい」

と、丸っこい鼻のさきを一層光らした顔で云った。

「まあ! それはうれしいですこと! ロシア語を野蛮だと思いなさらない外国の女のかたには滅多におめにかかったことがありませんわ」

 更紗の布のはられた肱かけ椅子に伸子たちはかけた。

「この室はね、外が眺められてほんとに気の晴れ晴れする室なんです。ずっとわたしの私室にしていたんですけれど──」

 捲毛の泡立つ頭をちょいとかしげて、言葉をにごした女主人は、あとはお察しにまかせる、という風に、こびのある眼まぜをした。

「──教養のある方と御一緒に棲めればしあわせです」

 スプリングの上等なベッドを二つと、衣裳ダンスと勉強机その他はすぐ調えられるということだった。

「私には便宜がありますから……。それに時間で通う手伝いをたのんで居りますから、食事も、おのぞみならいたしますよ。白い肉か鶏でね──わたしも娘もデリケートな体質で白い肉しかたべられませんの……」

 女主人がそう云ったとき、マリア・グレゴーリエヴナは、ひどく瞬きした。女主人が浮き浮きした声で喋れば喋るほど、素子は、もち前の声を一層低くして、

「で、これからこの室へ入れる家具っていうのは──、費用はあなたもちなんですか?」

 タバコを出しかけながら面白がっている眼つきできいている。

「あら、──それは、あらためて御相談しなくちゃ」

 素子は何くわぬ風で、外国人というロシア語をすべて男性で話しながら、

「モスクヷに、室をさがしている外国人はどっさりいるんでしょう、こんないい室なら、家具を自分もちでも来る外国人があるだろうに……」

と、云った。女主人は、素子が外国人を男性で話したことには心づかなかった表情で、

「おことわりするのに苦労いたしますわ」

と云った。

「ちゃんとした家庭では、一緒に住む人の選びかたがむずかしくてね。わたし、娘の教育に生涯をかけて居りますのよ」

 女主人は、うしろのドアの方へ体をねじって、遠いところにいるひとをよぶように声に抑揚をつけ、

「イリーナ」

とよんだ。

 待ちかまえていたようにすぐドアがあいた。スカートの短すぎる赤い服に、棒捲ロール毛を肩にたらした八つばかりの娘が出て来た。

「娘のイリーナです。大劇場の舞踊の先生について、バレーの稽古をさせて居ります。──本当の、古典的なイタリー風のバレーを。さあ、可愛いイリーナ、お客さまに御挨拶は?」

 すると、イリーナとよばれたその娘は、まるで舞台の上で、踊り子がアンコールに答えるときにでもするように、にっこり笑いながら、赤い服のスカートを左右につまみあげて、片脚を深くうしろにひいて膝を曲げるお辞儀をした。全くそれが、この娘に仕込まれた一つの芸であるらしく、前にのこした足を、踊子らしく外輪においてゆっくり膝をかがめ、またもとの姿勢に戻るまでを、女主人は息をころすようにして見つめた。

 マリア・グレゴーリエヴナが、

「見事にできました」

とほめた。低い椅子にかけたまま、立っている娘を見上げる女主人、立ったまま母親の顔を見ている娘とは、マリア・グレゴーリエヴナの褒め言葉で、互に、満足の笑顔を交しあった。娘は、ドアのむこうに引こんだ。

「さて、どうするかね、ぶこちゃん」

 素子が日本語で相談した。

「場所はいいが……ちっと複雑すぎるだろう」

「わたしには、とてもあの子をほめきれないわ」

「──場所は私たちにとって便利だし、室もいいけれども、何しろわたしたちは旅行者ですからね」

 女主人とマリア・グレゴーリエヴナとを等分に見ながら素子が説明した。

「家具を自分たちで負担するのは、無理なんです」

 捲毛の渦まく頭をすこし傾けながら、女主人は無邪気そうに、思いがけないという目つきをした。

「どうしてでしょう。──わたしたちが家具を買う、というときは、いつもそれが、また売れるということを意味しますのよ。そして、私たちは実際、いい価で交換出来ないような品物を、家具とはよばないんです」

 マリア・グレゴーリエヴナが、

「いずれにせよ、即答はお互に無理でしょう」

 なかに立って提案した。

「二日ばかり余裕をおいて、返事することになすったら?──こちらにしろ」

と赤い部屋靴をはいている女主人をかえりみて、

「その間に、非常に希望する借りてを見つけなさるかもしれませんしね」

「結構ですわ」

 捲毛の女主人は、社交になれたとりなしでちょっと胸をはった姿勢で椅子から立った。

「では二日のちに──」

「どうぞ──御一緒に暮せるようになったらイリーナもよろこびますわ」

 入口のドアがしずかに、しかしかたく、三人のうしろでしまった。三人はしばらく黙ったまま、人通りのない古風なブロンナヤの通りを並木道の方へ歩いた。

「ああいう女のひとにとって一七年はどういう意味をもっているんでしょうねえ」

 マリア・グレゴーリエヴナは、黒い毛皮のついた、いくらか古びの目立つ海老茶色の外套の肩をすくめるようにした。

「モスクヷの舞台にあらわれるああいう女のひとのタイプは、誇張されているんじゃないということがわかりました。──そう思うでしょう?」

 ブロンナヤの通りを出はずれて二股になったところで素子が雪の鋪道に足をとめた。

「ここまで来たんだから、ちょっと大使館へよって手紙見て行こうか」

 部屋を見に行った家の裏がわぐらいのところが、丁度大使館の見当だった。マリア・グレゴーリエヴナはそのまま真直ニキーツキー門から電車にのって帰るために行った。

 二人きりになって、二股通りを裏がわにまわった。伸子が口をききはじめた。

「珍しかったわねえ!」

 伸子はそう云って深く息をついた。

「フランス語──どうだった?」

「──ありゃ、妾だね」

 断定的に素子が云った。

「男をおかないのは、世話しているやつがやかましいからさ。あんな、うざっこい家にいられるもんか」

「あのうちにいたりしたら、日に何度娘をほめなけりゃならないかわからないわ」

 素子は、モスクヷでああいう女を囲ったりしている男の生活というものへ、より多く興味をひかれるらしかった。

「あの女の様子じゃ、男はまさか政治家じゃあるまい。所謂実業家というところだね」

「実業家って──あるの? ここに」

「トラストだのシンジケートだのってあるじゃないか」

「…………」

 門の入口に門番小舎を持つ大使館は、きょうも雪のつもった大きい樹のかげに陰気な茶色の建物で立っていた。正月一日に、在留邦人の拝賀式があって、そのあと、ちょっとした接待があった。そのとき客のあつまった大応接間は、陰気な建物の外見からは想像もされない贅沢さで飾られていた。はじめこの家を建てるとき、おそらくモスクヷの金持ちの一人だった主人は、社交シーズンである厳冬の雪の白さと橇の鈴音との、鋭いコントラストをたのしもうとしたのだろう。表玄関がすっかりエジプト式に装飾してあった。胴のふくらんだ黄土色の太い二本の柱には、朱、緑、黄などでパピラスの形象文字が絵のように描かれて居り、周囲の壁もその柱にふさわしく薄い黄土色で、浮彫の効果で二人のエジプト人が描かれていた。廊下一つをへだてた応接間はフランス風に、大食堂はイギリス好みに高い板の腰羽目をもってつくられていた。

 手紙をとりに事務室の方へのぼってゆく階段は、大玄関とは別の、茶色のドアのなかにあった。事務室のそとの廊下に、郵便局の私書箱のような仕切りのついた箱棚があって、在留している人々の名が書いてはりつけてある。伸子は、自分の姓が貼られてある仕切りのなかを見た。そして、瞬間何ということなし普通でない感じにうたれた。その日はどうしたのか仕切りの箱の中がいつものように新聞の巻いたのや雑誌の巻いたのでつまっていず、ガランとした棚の底に水色の角封筒がたった一つ、ぴたりとのっていた。封筒には多計代の字でかかれた表書きが見えている。その水色の厚ぼったい封筒はその仕きりのなかでいやに生きた感じだった。生きている上に感情をもってそこにいるという感じだった。伸子は変な気がして瞬間眺めていたが、やがて、生きものをつかむように、その手紙を仕切り箱からとり出した。そとの明るい光線にさらされると手紙はただ厚いだけで、別に変ったところもないのだった。

 ホテルへ帰って、二人はすこし早めに正餐をすませた。その晩は、メイエルホリド劇場で「吼えろリチ 支那キタイ!」を観ることになっていた。

「橇にしましょう、ね」

「橇、橇って……贅沢だよ」

「だって、もうじき雪がとけてしまうのよ、そしたらもう来年まで橇にはのれないのよ──来年の冬、たしかにモスクヷで橇にのるって、誰が知っている?」

 外套を着るばかりに外出の支度を終った伸子は、派手なマフラーをたらして、テーブルのよこに立ったまま、午後大使館でとって来た水色封筒の手紙を開いた。縦にケイのある実用的な便箋の第一行から、多計代のよみわけにくい草書が、きょうは糸のもつれるようではなく、熱い滝のように伸子の上にふりかかって来た。

「いま、あなたの手紙をうけとりました、異国にあるなつかしい娘から、その弟への久々のたよりをわたしはどんなによろこび、期待して見たでしょう。ところがわたしの暖い期待は見事にうらぎられました。あなたはどこまで残酷な人でしょう」

 この前保に手紙をかいたとき、伸子は、はっきり多計代に向っても対決する感情でいた。それにもかかわらず、多計代一流の云いかたに出会って伸子は、唇をかんだ。多計代が昂奮して、ダイアモンドのきらめく手に万年筆をとりあげ、食堂のテーブルのいつものところに坐って早速に書いている肩つきが、数千キロをへだてながら、ついそこに見えるようだった。保と自分との間には想像していたとおり、関所があった。はっきり保だけにあてて表書きのされている手紙だったのに、多計代は、あけて、先によんでいる。そして高校の入学祝に温室をこしらえて貰ったということについて伸子のかいたことに対して、保の考えはどうかということなどにかまわず伸子に挑みかかって来ていた。

 激越した筆致で、多計代は、保が、いまどきの青年に似ず、どんなに純情で、利己的なたのしみをもっていないかということを力説した。

「その彼が唯一のたのしみとしている温室のことを、あなたはどういう権利があって、難じるのですか。人間として、母として、私は抑えることの出来ない憤りを感じます。あなたは刻薄な人です。これまで永年の間、私がそれで苦しんで来た佐々家の血統にながれている冷酷な血は、あなたの心の中にも流れています。そのあなたが、ロシアへ行ってからの生活で──」

 そこまで読んで、伸子はその手紙を握りつぶしてしまいたい衝動を感じた。多計代は、何という云いかたをするだろう。伸子が佃と結婚すれば結婚してから、離婚して吉見素子と暮すようになれば吉見と暮すようになってから、伸子は冷酷になったとばかり云われて来た。ロシアへ来れば、多計代は偏見や先入観を一点にあつめて、ロシアへ行ってから伸子はいよいよ刻薄になったと云うのだ。多計代にとって伸子が暖い人間だったことは、一度もないらしかった。多計代にとって冷酷でないのは、保のような気質しかないのだろう。伸子は、蒼い顔になって、読まない手紙をしばらく手にもっていたが、やがて、しずかにそれをテーブルの上においた。投げだすよりももっと嫌悪のこもったしずかさで。──

 メイエルホリド劇場の舞台の上には、大きい軍艦の甲板があった。白い海軍将校の服をつけたヨーロッパ人将校が、粗末な白木綿の服の背に弁髪をたれている少年給仕を叱咤し、殴りたおし、そのしなやかな体を足蹴にかけている。こうして憎悪は集積されてゆくのだ。吼えろリチ 支那キタイ でも、多計代は、どうして、ああ憎悪を挑発するのが巧みなのだろう。うすぐらい観客席から舞台を見ている伸子の心に閃いた。「佐々家の血統にながれている冷酷な血」その血が、伸子の体のなかにも流れている、と、──それならその血が流れて伸子につたわるようにしたのは誰の仕業だろう、そして、それはどんな行為を通じて? 多計代のそういう行為に、子供たちの誰が参画しただろう。舞台の上は、いま薄暗い。船艙の一隅に蒼白く煙るような照明がつよく集注されている。足蹴にされた少年給仕の、くびれて死んだ死体がその隅に横たわっている。少年は、きょうだけ足蹴にされたのではなかった。きのうも、おとといも、彼の労働がはじまった日から、彼が命令者をもたなくてはならなくなったその日から、少年の恐怖ははじまった。無限につながる明日への恐怖と絶望のために少年給仕は縊れて死んでしまった。その同じ恐怖が、この船艙によりかたまった弁髪の人々の存在にふるえている。岸壁で荷役をして、酷使されている灰色の苦力の大群のなかを貫きふるえている。その大量な恐怖は憎悪にかわりかかっている。憎悪は、感情からやがて組織をもって行動にうつろうとしている。吼えろリチ 支那キタイ 彼等の憎悪は偉大であり、歴史のなかに立っている。観客席で伸子はかすかに身ぶるいを感じ、両腕で胸をかかえるようにした。あなたの国の人たちと、わたしの国の人たちと、どっちが苦しい生活をしているんでしょうねえ。ゆっくり、柔かく、沈んだ声でそう云ったのは、中国婦人のリン博士だった。それはメトロポリタンの奇妙な室でのことだった。いま、篝火かがりびのようにメイエルホリドの舞台いっぱいに燃え上って、観客の顔々を照し出している憎悪にくらべれば、伸子のもっている憎悪はほんとに古くて小さい。家だの血だのに絡まっている。「冷酷な血はあなたの心の中にも流れています。そのあなたがロシアへ行ってからの生活で──」ロシアに何があり、伸子がどうなるというのだろう。多計代の偏見では判断のつかない大きな憎悪が行動となって舞台に溢れ、真実の力と美の余波で伸子の小さい憎悪さえも実感にきらめかした。

 二日たった。ブロンナヤ通りの貸室の女主人に返事をする約束の日になった。

「ぶこちゃん、行ってことわっといでよ」

 朝の茶がすんだとき、素子が、テーブルの上を片づけている伸子に云った。

「家具の条件で?」

「──そうだろう? ぶこちゃんだって家具なんか買えないって云ってたんじゃないか」

「わたしにうまく云えるかしら──言葉の点で……」

「平気じゃないか。結局ことわるって意味さえ通じればそれでいいんだから……」

 その間に素子が机のところで、モスクヷ夕刊に出す求室広告をかいた。部屋の求め主を二人の外国女と書いた。

「大体こんなところでいいだろう?」

 二人の外国女イノストランキなどとかいたら、また経済能力を買いかぶられて、借りられもしないような条件で部屋主が手紙をよこしそうな気がした。伸子は、

「これでいいかしら……」

と、紙きれを見おろしながらためらった。

外国女イノストランキなんていうと、何だか毛皮外套ファー・コートでもきていそうじゃない?」

 素子は、だまって二吸い三吸いタバコをふかしながら、自分の書いた文面を眺めていたが、

「いいさ、いいさ」

 わきに立っている伸子の手に、草稿の紙きれを押しつけた。

「われわれは外国女イノストランキにちがいないんだもの。──外套だってはばかりながら毛皮つきですよ、内側についてるのと外側についてるのとがちがうだけじゃないか」

 伸子はホテルを出かけた。ホテルの玄関と雪のつもった往来をへだてて向いあっている中央郵便局の建築場の前に、大きなトラックが来て、鉄材の荷おろしをやっていた。防寒用外套の裾を深い雪の面とすれすれに歩哨の赤軍兵が鉄材の運びこまれるその仕事を見ている。膝まであるフェルトの防寒長靴ワーレンキをはいて、裏から羊毛がもじゃもじゃよれたれ下っている短皮外套をきた五人の若くない労働者が搬入の仕事をやっていた。

 合間に手洟てばなをかんだりしながらゆっくり重いビームをかつぎあげて運ぶ動作を、しばらくこっち側の歩道に佇んで見ていてから伸子は、ブロンナヤ通りへ歩いて行った。

 古びた外壁に黄色がのこり、歩道に面して低い窓のきられているその家は、きょうも窓のなかにシャボテンの鉢植えをみせていた。

 やっぱり捲毛の渦を頭いっぱいにして、しかしきょうは化粧をおとした顔で出て来た女主人が、伸子を玄関の廊下のところまで通した。伸子は、つかえるだけの単純な言葉で、彼女たちの経済では家具まで買えないからと云って、部屋をかりることをことわった。

「ようござんす。わかりました。(ハラショ パニャートノ)」

 女主人はこの前マリア・グレゴーリエヴナや素子と一緒にはじめて部屋を見に来たときの気取りいっぱいの調子とは別人のような素気ない早口で、役所でよくつかうようなふたことの返事をした。そして、ちょっとだまりこんでいたが、かすかに捲毛の頭をふり、自分で自分の気をひき立てでもするように、

「ニーチェヴォ」

と云った。

「わたしは、またあなたがたを、外交団関係の方たちだと思ったんです」

 なぜそう思ったんだろう。そう考えながらだまっていくらか仰向きかげんに向いあって立っている伸子の顔に、捲毛の女主人は瞬間全く別なことを考えている視線をおとした。が、やがてすぐ気がついたように、

「じゃあ、さようなら」

 伸子に向って手を出した。

「さようなら」

 入口をしめて雪の往来に出たとき、伸子は、やっぱりこのひとも、心の底では本当に部屋をかしたかったのだと、あわれな気がした。舞台の上にいるように、扮装だらけのいろんな表情で日々を送りながら、真実には不安があるのだ。伸子に向って云うというより自分に向って云ったような女主人のニーチェヴォの調子を思いかえしながら、伸子はモスクヷ夕刊社へ行く方角に歩いた。

 ニキーツキー門のところまで来たら、丁度並木道ブリヷールまわりの電車が、屋根の上に白くて円い方向番号をつけて通過するところだった。そのために縦の交通が遮断された。伸子のすぐわきの歩道で、支那女が、濃い赤や黄の色糸でかがった毱を、ゴム糸に吊り下げて弾ませながら売っている。毱のはずむのを見まもっているうちに、伸子は、ふっとあることを思いついた。

 むきかわって、もと来た道を、二つ股のところまで戻り、左をとって大使館の陰気な海老茶色の門をくぐった。

 事務室のある二階へのぼって、廊下の受信箱をのぞいた。伸子のかんはあたった。細紐で一束にくくられた新聞雑誌が、サッサと書いた仕切り棚へ入っている。シベリア鉄道は、一週のうちきまった日にしか通っていないのだから、さきおとといのように多計代からの手紙だけが一通別に届くということはあり得なかった。

 伸子は、何となしはずみのついた気持で、棚に入れられている郵便物をすっかりさらい出した。そして、一段一段とのろのろ二階を下りながら、紐の間をゆるめるようにして、どんな雑誌が来たのか、のぞいた。モスクヷへ来てからずっと送ってもらっている中央公論。婦人公論。その間に大型の外国郵便用ハガキが一枚まぎれこんだように挾まっているのをみつけた。保の字だ。

 丁度壁が高くて薄暗くなった階段口を、伸子はかけおりて外へ出た。菩提樹の根もとを深い雪が埋めている大使館の庭の柵のそばに立って、そのハガキをよみだした。読みながら伸子は無意識に一二度そのハガキの面を、茶色の鞣手袋をはめた指さきで払うようにした。保の字は例のとおり細く力をぬいたうすいペン字で、こまかく粒のそろった字面が、遠いところをもまれて来たハガキの上で毛ばだち、読めはするのだけれども伸子のよくよく読みたい感情には読みにくいのだった。

「姉さん、僕にあてて書いてくれた手紙をありがとう」

 先ず冒頭にそう書いてある。伸子は、よかった、と思った。多計代は、あんなに当然なことのように保に書いた伸子の手紙を勝手に開け、読み、おこってよこした。それでも伸子の手紙を保からかくしてはしまわなかった。そういうところは多計代らしいやりかただった。

「僕は、姉さんの手紙を幾度も幾度もくりかえして読んだ。いま、返事を書きはじめる前にも、また二度くりかえして読んだ。そして姉さんのいうことは正しいと思う。姉さんが外国へ行って、まるでちがう生活をしていても、僕のことをこんなに考えていてくれるということがわかって、僕は、ほんとにびっくりした」

 簡単に云いあらわされている文句のなかに、保が、姉・弟としての自分たちの関係について改めて感じなおしている気持が、はっきり伸子につたわった。

「姉さんが温室について書いてよこしたことは、もちろんただ僕を責めたり叱ったりしているのではない。また、温室をこしらえて下すったことを非難しているわけでもない。僕にそのことはよくわかる。姉さんは、僕に、もっとひろい社会の関係を知らそうとしただけなのだ」

 伸子は、涙ぐむようになった。保の書いている調子は重々しく真面目で、そこには、姉である伸子のいうことをちゃんと理解しようとしている心がにじんでいるばかりでなく、保自身、自分のうけとりかたの正当さを、周囲に確認させようとしてつよくはりつめている意志が感じられた。保の書きぶりは、伸子のかいたあの手紙一通のために動坂の家の食堂でまきおこされた論判の光景を思いやらせた。

「僕は温室について姉さんの考えるようなことは一つも考えていなかった。これは大変恥しいことだと思う」

 最後の一行のよこに線が引いてあった。字を書いているのと同じ細いうすいペンの使いかたで、これは大変恥しいことだと思う、と。

 伸子は、考えるとき時々クンクンと鼻の奥をならす保の初々しい和毛のくまのある瞼の腫れぼったい顔や、小さくなった制服のズボンの大きい膝が、雪の中に立ってよんでいる自分のすぐそのそこにあるように感じた。これは大変恥しいことだと思う。──そして伸子は自分の心にもその一本の線が通ったのを感じた。恥しいことだと思う、と。伸子が勢はげしく保へあててあの手紙をかいたとき、こんなに軟く深い黒土の上にくっきりとわだちのあとをつけるように保の心にひとすじの線をひくことまでを思いもうけていたろうか。

 門のわきの番小舎の戸があいた。大外套をきた門番が伸子の立っている庭の方へ来かかった。番人は、そこにいたのが時々見かける伸子だとわかると、

「こんにちは」

と、防寒帽のふちに指さきをあてた。そして、伸子がよんでいるハガキに目をくれながら通りすぎた。番人とは反対の方向へ、大使館の門の方へ伸子も歩き出した。歩きながら、ハガキをよみおわった。温室は、折角こしらえて頂いたものだから、みんなのよろこぶように使いたい。この夏はメロンを栽培してお父様、お母様そのほかうちのみんなにたべて貰おうと思う。そうかいたハガキの終りに、やっと余白をみつけて、

「僕は姉さんにもっと手紙を書きたいと思っている」

と、その一行は本文よりも一層こまかい字で書かれていた。ハガキはそれで全部だった。

 並木道ブリヷールのベンチの前には乳母車がどっさり並んで赤坊たちの日光浴をやっていた。遊歩道の上で安心しきっておっかけっこをしている小さい子供らが、外套の上から毛糸の頸巻きをうしろでしょっきり結びにされたかっこうで、駈けて来ては通行人にぶつかりそうになる。伸子は、物思いにとらわれた優しい顔つきで、いちいち、つき当りそうになる子供たちの体に手をかけて、それを丁寧によけながら、モスクヷ夕刊社のある広場まで歩いて行った。僕は姉さんにもっと手紙を書きたいと思っている。──保がそう云っているのはどういう意味なのだろう。日頃から、もっと書きたいと思っている、というわけなのだろうか。それとも、これからはもっとちょくちょく書きたいと思っている、ということなのだろうか。

 モスクヷ夕刊社で広告を出す用事をすまし、トゥウェルスカヤの大通りへ出てホテルへ帰って来ながら、伸子は、そのことばかり考えつづけた。保がこれからはもっと伸子へ手紙を書きたいと思っているというだけならば、保の手紙にこもっている姉への感情からも、すらりとのみこめることだった。これまでも、もっと手紙をかきたいと思っている保の心もちが伝えられたのだとすると、伸子は、きょうの保からのたよりがハガキで来ていることにさえ、そこに作用している多計代の指図を推測しずにいられなかった。書いてある字のよめない人たちばかりの外国にいる姉へやるのだから、こんなに心もちをじかに語っているたよりも保はハガキで書いたのかもしれなかった。けれども、姉さんへ返事をかくならハガキにおし。そして、出すまえに見せるんですよ。そう保に向って云わない多計代ではなかった。

 伸子は、素子も出かけて留守の、しんとした昼間のホテルの室へかえって来た。二重窓のガラスに、真向いの鉄骨ばかりの大屋根ごしの日があたっていて、日が、角テーブルのはずれまであたっている。抱えて帰って来た郵便物の束をそのテーブルにおろしてゆっくり手袋をとり、外套をぬいでいる伸子の目が、テーブルの上の本のつみかさなりの間にある白い紙の畳んだものの上に落ちた。それは、多計代の手紙だった。「そのあなたが、ロシアへ行ってからの生活で」というところまで読んで、伸子が、躯のふるえるような嫌悪からもう一字もその先はよまずに、そこへおいた多計代の手紙だった。封筒から出された手紙は、厚いたたみめをふくらませ、幾枚も重なった用箋の端をぱらっと開きながら、そこに横たわっている。

 明るいしずかなホテルの室で外套のボタンをはずしている伸子の胸に、悲しさがひろがった。保の心はあんまり柔かい。その柔かさは、伸子に自分のこころのいかつさを感じさせる。伸子が自分として考えかたの正しさを信じながら保に向ってそれをあらわしたとき、そのときは気がつかなかった威勢のよさや能弁があったことを反省させ、伸子にひそかな、つよい恥しさを感じさせるのだった。伸子が、それをうけ入れようとする気さえ失わせる多計代の能弁は、手紙となってそこの机の上にさらされている。悲しいほど柔かい保の心をなかにして思うと、伸子は、多計代の保に対するはげしい独占的な情のこわさと、その娘で、その情のはげしさやこわさでよく似ている自分とが、向きあっている姿を感じるのだった。

 外套をぬいで水色のブルーズ姿になった伸子は、ちょっと長椅子にかけていた体をまたおこして、清潔につや出しをされた茶色の床の上をあっちこっち歩きはじめた。

 保の心のやわらかさは、こうして伸子に自分の心のきめの粗雑さを感じさせ、そのことで恥しささえ感じさせている。多計代のきらいなところが、自分にあることをかえりみさせる。だけれども、そうだからと云って、保の心の柔かさにうたれることで、伸子は自分の生きかたを保の道に譲ってしまうことは思いもよらなかったし、保のゆえに多計代の生きかたと妥協してしまうことも考えられなかった。

 二重窓の前に立ちどまって、かすかにモスクヷの冬の日向のぬくみがつたわっている内ガラスに額をおっつけ、黒い鉄骨と日かげに凍りついている薄よごれた雪を見ながら、伸子は心に一つの画面を感じた。そこは海の面であった。海の面はこまやかな日光にきらめき、時々雲が通りすぎると薄ら曇り、純粋でいのちをもっている。そのむこうに断崖が見える。断崖の上は青草がしげって、その青草の上にも、断崖の中腹にも、海の上と同じ日光がさしていて、断崖の根は海に洗われている。夜もひるも、断崖の根は海に洗われており、海はその断崖のために波をあげている。だけれども、断崖は海でなく、海は断崖ではない。しかし一つ自然の光のなかにつつまれて、そうしている。

 海がそうなのか、断崖がそうなのか分らなかったが、伸子はそこに自分と保との存在を感じた。調停派ということは、決して調停されることはない人々によってつけられる名だ。海と断崖の心の絵の上に、伸子は、異様な鮮明さで、はっとしたように理解した。保が同級生から、佐々はバカだ。生れつきの調停派だと罵られたことを、いつか動坂のうちの客間できいた。あのとき伸子は、保のものの考えかたについてばかり、調停派ということを理解した。保の友達たちは、やっと伸子にいま、わかったこともふくめてそう云ったのにちがいなかった。考えかたや理窟だけでなく、保の心の悲しいくらいの柔かさが、柔かさそのもので、いくつかの心を若々しい一本気な追究から撓わせそうにする。保の友人たちには、保のその異様な柔らかさが、いやなのだ。だといって、保に、自分の心のそんな柔かさをどうすることが出来るだろう……。

 伸子は、三月近いモスクヷのよごれてふくらみのへった雪の見えるホテルの二重窓の前に長いあいだ佇んでいた。



第二章




 それは、ほんとに狭い室だった。ヴェラ・ケンペルが彼女夫婦の暮しているうなぎの寝床のように細くて奥ゆきばかりある住居をモスクヷの壁と壁とのわれめ、といったのが当っているとすれば、伸子と素子とがアストージェンカの町角にある建物の三階に見つけた部屋は、モスクヷの壁と窓とのすき間住居と云うようだった。

 マリア・グレゴーリエヴナと、三人であっちこっちさがして歩いた貸間には住めそうなところがなくて、モスクヷ夕刊に出した求室広告に案外三通、反応があった。

 一通はモスクヷ河の向う岸にいる家主からだった。一通はトゥウェルスカヤの大通りをずっと下って鷲の森公園に近いところ。最後の一通がアストージェンカ一番地、エフ・ルイバコフという男からだった。

「変だな、ただアストージェンカきりで、町とも何ともないんだね、どの辺なんだろう」

 その手紙は、ぞんざいに切った黄色い紙片に、字の上をこすったりぬらしたりすると紫インクで書いたように色が浮きでて消えない化学鉛筆で書いてあった。簡単に、われわれのところに、あなたがたの希望条件にかなった一室がある、お見せすることが出来る、という男文字の文面だった。ひろげたその手紙とひき合わすように、テーブルの上にかがみかかってモスクヷ市街地図をしらべていた素子が、

「へえ。──こんなところに、こんな名がついているんだね。ぶこちゃん! 場所はいかにも、もって来いだよ」

 地図をみると伸子たちがいるホテル・パッサージから狩人広場へ出て、ずっと右へ行き、クレムリンの外廓を通りすぎたところにデルタのようにつき出た小区画があって、そこがアストージェンカだった。

「一番地て云えば、とっつきなんだろうな」

 地図に見えている様子だと、そこはモスクヷ河にも近いらしいし、並木道ブリヷールもついそこらしい。それらの好条件はかえって伸子と素子を信じがたい気持にさせた。リンゴを四つ割にした一片のような角度で、トゥウェルスカヤからなら歩いてだって行ける距離だった。二人はマリア・グレゴーリエヴナと、そのアストージェンカを包括する何倍かの円周でモスクヷじゅうをさがしまわったのだ。

「妙だな……ともかく、ぶこちゃん、見るだけ見といでよ、どんなところだか」

「ひとりで?」

 出しぶって伸子が素子を見た。

「ともかく、散歩のつもりで行って見てさ、ね。ほんのついそこじゃないか。一番近いところから片づけて行こうよ」

 小一時間たったとき、伸子が、ホテルの階段を駈けあがるようにして戻って来た。ノックもしないで自分たちの室のドアをあけるなり、

「ちょっと! すばらしいの。──早く来て」

 手袋をはめたなりの手で、素子の外套を壁からはずした。

「すぐ、友達をつれて来るからって、待ってもらっているんだから」

「ほんとかい?」

「ほんと! 絶対のがされないわ」

 二人は大急ぎで狩人広場まで出て、そこから電車にのった。

「よっぽど先かい?」

「四つめ」

 クレムリンをすぎると、左手の小高い丘の雪の上に、金ぴかの大きな円屋根と十字架をきらめかして建っている大きな教会があった。その停留場で伸子たちは電車を降りた。

「おや、まるでこりゃ並木道ブリヷールの根っこじゃないか」

「そうなのよ!」

 亢奮している伸子はさきに立って、すぐその右手からはじまっている並木道ブリヷールとは反対の方角へ折れた。茶色外套をきた素子は、鞣帽子をかぶって、伸子と並び歩道の外側をついて来る。その歩道を一ブロック行った右手に、板囲いが立っていて、木戸があいていた。それは、まだ未完成な普請場によく見うけられるような板囲いと木戸だった。板囲いの上に、「この内に便所なし」と大きく書いたはり紙がされている、伸子は、わざと素子に予告なしで急にその木戸を入った。

「なんだ、こんなとこを入るのか」

 素子もついて木戸の中へ入ると、樽だの古材だのが雪の下からのぞいている細長い空地があって、そこをぬけるとかなりひろい内庭へ出た。雪の上に四本黒く踏つけ道がついている。コンクリートの新しいしっかりした五階の建物が、コの字形にその内庭をかこんで建っていた。

 伸子は、まだ黙ったまま、四本の踏みつけ道の一番とっつきの一本を辿って、一つの入口から、階段をのぼりはじめた。

 入口や階段口にはむき出しの電燈がともっていた。コンクリート床の隅に、建築につかったあまりらしいセメント袋がつみ重ねられたままある。手すりもコンクリートで武骨にうち出されている。あんまりひろくない階段を、伸子は、素子をおどろかしているのがうれしくてたまらない顔つきで、一歩一歩無言のままのぼった。建築されてからまだ一二年しか経っていないらしいその大きい建物の内部は、適度な煖房のあたたかみにまじってかすかにコンクリートの匂いをさせている。

 三階へのぼり切ると、伸子は防寒扉の黒いおもてに35と白ペンキで書いた扉の前にとまった。

「ここなの」

「なるほどね。これじゃ、ぶこちゃんが亢奮するのも尤だ」

 さっき伸子が一人で見に来たときには、髪にマルセル・ウェーヴをかけて、紺のワンピースをきた大柄な細君と五つばかりの男の児しかいなかった。こんどは、あかっぽい鼻髭をつけ、藪のような眉をした丸顔のルイバコフそのひとが帰って来ていた。入口に、ソヴェトの技師たちがみんなかぶる緑色のつばつき帽がかかっていた。

 ルイバコフの話によれば、建物は、鉄道労働者組合の住宅協同部が建てたものなのだそうだった。

「鉄道の組合は、ソヴェトの労働組合でも化学をのぞけば最も大規模な一つですからね、おそらく、この建物は、モスクヷに建った組合の建物の中じゃ、一番早かった部でしょう」

 十年の年賦がすむと、その四つの部屋と浴室、共同の物干場をもったアパートメントはルイバコフの所有になるのだった。あいている一室を利用することは伸子たちの便利と同時に、ルイバコフの経済にも便利だ。従って室代も決して不合理には要求しようと思わない。

 そんな話を、ルイバコフ夫婦、伸子、素子の四人がこれから借りようとし、貸そうとしている室で話しあったのだったが、赭っぽい鼻髭のルイバコフは人はわるくないがいくらか慾ふかそうな顔つきで、その室の入口の左手に置いてある衣裳箪笥にもたれて立って話している。マルセル・ウェーヴがやや不釣合な身だしなみに見える味のない大柄な細君はドアを入ってすぐのところで、縦におかれている寝台の裾に一メートルばかりあいたところがある、そこに佇んでいる。寝台の頭と直角に壁をふさいでいるもう一つの寝台兼用の皮張り大型ディヴァンに素子がかけ、ディヴァンに向ってその室の幅いっぱいの長テーブルのこっち側の椅子に伸子が横向きにかけていた。小さな室はアストージェンカの角を占める建物の外側に面しているので伸子のうしろの窓からは雪の丘と大教会が目のさきに見えた。素子が奥のディヴァンにおさまっているのは、そこを選んでかけた、というよりも、むしろそっちへ行ってみていた彼女のあとから伸子やルイバコフ夫妻がつめかけたので、素子はディヴァンと長テーブルとの間から出られなくなってしまっている、という方がふさわしかった。そんなにそれは小さな室なのだった。


 伸子たちこそ、モスクヷ市街地図の上でさがさなければならない一区画であったが、アストージェンカと云えば、モスクヷの人には知られている場所だった。伸子が、遠くから金色にきらめいて見える円屋根を、目じるしにして電車を降りた小高い丘の上の大寺院はフラム・フリスタ・スパシーチェリヤ(キリスト感謝寺院)とよばれていて、一八一二年、ナポレオンがモスクヷを敗走したあと、ロシアの勝利の記念のために建てられたものだった。ロシアじゅうから種類のちがう大理石を運びあつめてその大建造がされたこと、大円屋根が本ものの金でふかれていること、大小六つの鐘の音は特別美しく響いて聳えている鐘楼からモスクヷの果まできこえる、ということなどでこの寺院はモスクヷの一つの有名物らしかった。ナポレオンが、モスクヷの焼けるのをその上に立って眺めたという雀ヶ丘と、遙かに相対す位置に建てられたというから、おそらく十九世紀はじめのアストージェンカは、クレムリンの城壁を出はずれたモスクヷ河岸の寂しく郊外めいた一画であったのだろう。そして、遊山がてら、フラム・フリスタ・スパシーチェリヤを見に来るモスクヷ人たちは、きっと雪のつもった並木道ブリヷールに橇の鈴をならしてやって来て、雪にふさがれている寺院のウラル大理石の大階段のところから真白な淋しくおごそかな四方の雪景色を眺めやったことだろう。

 フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの建っている丘の周囲は、石の胸壁をめぐらされ、一本の狭い歩道がぐるりとその胸壁の下をまわって、川に面した寺院の正面石段から下りて来たところの道に合している。もう一本、伸子たちが出入りするアストージェンカ一番地の板囲いの前をとおっている歩道が、ずっと河岸近くまで行ったつき当りのようなところに、賑やかな色彩のタイルをはめこんだペルシア公使館の建物があった。河岸はどこでも淋しい。その上に、雪にとざされて、交通人の絶えているフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの大階段のあたりは眺望がひらけているだけに寂寥がみちていた。

 アストージェンカ一番地という場所は、面白い位置だった。河岸はそんなに荒涼とし、淋しさにつつまれているけれども、電車がとおる道の方は、三四流の商店街で、夜でも雪の歩道に灯が流れた。モスクヷを、半円にかこんでいる二本の並木道ブリヷールの内側の一本が、丁度フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの真前の小さい広場のところからはじまっていて、その辺にはいつも子供や買物籠を下げた女の姿があり、並木道ブリヷールのはじまるところらしい、ごちゃついたざわめきがあった。ニキーツキー門を通って来る電車の終点がこの並木道ブリヷールの外にあった。並木道の下の停留場ですっかり客をおろした電車は、空のまま戻って行ってすこし先の別の停留場から新しい客をのせた。電車の停留場のある通りは家々の正面の窓から並木道ブリヷールの雪の梢が眺められる住宅街である。

 ひとが、或る町に住んでいて、やがてもうそこには住まなくなる。そのことには、何か不思議な感覚があった。伸子たちの窓からみえる景色が、トゥウェルスカヤ大通りの裏側のこわれた大屋根の鉄骨ではなくなって、アストージェンカの大きいばかりで趣味のないフラム・フリスタ・スパシーチェリヤであり、並木道ブリヷールの入口の光景であるということは、何か不思議な感じだった。

 アストージェンカの室の二重窓にカーテンがなかったから、雪明りまじりの朝の光はいきなり狭い室の奥にまでさした。寝台がわりのディヴァンの上で目をさまし、そういう清潔ではあるがうるおいのない朝の光線に洗われて、すぐ横から突立っている大テーブルの上に、ゆうべ茶をのんだ水色エナメルのやかんが光っているのを眺めたりするとき、伸子は自分たちの生活がほんとに平凡なモスクヷ暮しの道具だてにはまって来たのを感じた。そして、伸子としてはその平凡であるということに云いつくせない勇躍があり満足があった。

 夜になるとカーテンのないアストージェンカの室の窓ガラスの面に、伸子たちが室内でつけているスタンドの緑色のかさの灯かげが映った。長テーブルの中央に本を並べてこしらえた区切りのあっち側に素子が、こっちのドアに背をむける側が伸子の場所だった。ルイバコフの夫婦は小さい男の子を寝かしてから二人で映画へ出かけ、台所に女中のニューラがいるだけだった。アパートじゅうは暖くて、しんとしている。八時になると、ギリシア系で浅黒い皮膚をしたニューラがドアをたたき、

「お茶の仕度が出来ました」

 コップや急須をのせた盆をもち、水色エナメルやかんを下げて入って来る。伸子たちは、朝と夜の茶の仕度だけをルイバコフの台所でして貰って、正餐アベードは外でたべた。伸子たちもいまは勤め人なみの配給手帖で、イクラや塩漬胡瓜を買うばかりでなく、生活の基本になるパンや茶・砂糖類を自分で買っていた。お茶のとき、伸子はアストージェンカの食料販売所ではじめて見つけて来た酸化乳(プロスト・クワシャ)のコップを二つ窓枠のところからもって来ながら、

「秋山さんたちどうしてるでしょうね」

と云った。伸子たちがパッサージ・ホテルをひきあげてアストージェンカに移るときまったとき、秋山宇一は記念のために、と云って、ウクライナの民謡集を一冊くれた。それは、水色の表紙に特色のあるウクライナ刺繍の図案のついた見事な大判の本だった。

「これは、あるロシア民謡の研究家がわたしにくれたものですがね」

 その扉にエスペラントと日本字で、ゆっくりサインをしながら秋山宇一が言った。

「わたしがもっていても仕様がないですからね」

 楽譜づきで、ウクライナの民謡が紹介してある本だった。秋山宇一は、メーデーをみてから帰ると云っていた。

 伸子は、長テーブルの端三分の一ばかりのところに食卓をこしらえつづけた。ひろげた紙の上に、大きなかたまりになっている砂糖を出して、胡桃くるみ割で、それをコップに入れるぐらいの大きさに割った。秋山さんたち、どうしているでしょうね、と云い出した伸子の心持には、アストージェンカではじまった生活の感情からみると、パッサージの暮しが平面のちがう高さに浮いているように思えるからだった。ちょいとした事実、たとえば、アストージェンカの台所では、サモワールが立てられたことなんか、まだ一遍もなかった。それさえ、ロシアと云えばサモワールと連想していた伸子にとって新しい生活の実感だった。現代のモスクヷの人々は毎日誰だってありふれたアルミニュームのやかんで、ガスだの石油コンロだので格別かわったところもなく湯をわかしているのだ。色つけ経木の桃色リボンで飾られたりしてはいない自分のうちの食堂でたべ、さもなければ、この頃伸子たちがちょくちょく行くような、街のあんまり小ざっぱりもしていない食堂ストローヷヤで酢づけの赤キャベジを添えた家鴨の焼いたのをたべたりしているのだった。

 トゥウェルスカヤ界隈で伸子たちのよく行った映画館は、第一ソヴキノや、音楽学校の立派なホールを利用したコロスなどだった。アストージェンカへ来てから、伸子が一人で行く小さな映画館は、昼間伸子がそこでプロスト・クワシャを買ったりパンを買ったりするコムナールの三階にあった。すりへって中凹になった白い石の階段をのぼりきったとっつきにガラスばりのボックスがあって、そこで切符を買い、広間ザールでは、五人の若くない楽手たちがモツァルトの室内楽を演奏していた。人気のまばらな、照明にも隈のあるぱっとしない広間で、五人のいずれも若くないヴァイオリニスト、セロイスト、笛吹きたちが着古した背広姿で、熱心に、自分たちの音楽に対する愛情から勉強しているという風にモツァルトを真面目に演奏している情景は、感銘的であった。

 そのうちにその日の何回目かの上映が終って、観客席のドアが開いた。広間ザールへ溢れ出して来た人々をみれば、誰も彼もついこの近所のものらしく、どの顔もとりたてて陽気にはしゃいでいるとは云えないが、おだやかな満足をあらわしている。ここでは防寒靴のままはいれた。人々の足にあるのは働く人々がはいている粗末で岩乗なワーレンキだった。同じような群集にまじって、伸子はいれかわりに一番おそい上映を観た。その週は、性病についての文化映画と、国内戦時代のエピソードを扱った劇映画だった。

 アストージェンカの生活には、三重顎のクラウデも現れず、ポリニャークも遠くなった。伸子の心は次第に重心を沈め、心の足の裏がふみごたえある何ものかにふれはじめた感じだった。それは伸子に、ものを書きたい心持をおこさせはじめた。

 丁度そのころ、モスクヷの雪どけがはじまった。伸子の住んでいる建物の板囲いのなかにも、往来にも、並木道ブリヷールの真中にも、雪解けで大小無数の水たまりが出来た。昼間、カンラカラララと雨樋をむせばしてとけ落ちている屋根の雪や往来の雪は、はじめのうちは夜になるとそのまままた凍った。柔かい青い月光が、そうやって日中に溶けては夜つるつるに凍る雪を幾晩か照し、やがて、もう夜になっても雪は凍らなくなって来た。そうなるとモスクヷじゅうはねだらけの、ほんものの早春が来た。馬も人もはねだらけになって往来し、冬のうち積った雪に吸いとられていた生活の音響がゆるんだ雪の下からいっせいに甦って来た。道のひどいぬかるみと、抑えるに抑えきれないような生命のそよぎ、歩くどの道もいまにも辷りそうにつるつるしたこわさなどで、にわかに重さの感じられる冬外套の下で伸子は汗ばみながら上気した。食料品販売所のドアをあけて入ると、その内部は冬の間じゅうより奥が深く暗く感じられ、ゆるんだ店内の空気に、床にまかれている濡れオガ屑の鼻をさすような匂いと、燻製魚類の燻しくさい匂いとがつよくまじった。つり下げられている燻製魚の金茶色の鱗にどこからか一筋射し込む明るい光線があたって、暗いなかに光っている。そんな変化も春だった。

 伸子のものをかきたい心持は、一層せまった。瞳のなかに疼く耀かがやきをもって、伸子がマリア・グレゴーリエヴナの稽古から、アストージェンカの角を帰って来ると、毛糸のショールを頭のうしろへずらした婆さんの物売りが、人通りのすきから、

お嬢さんバリシュニア!」

と伸子をよびとめた。そして一束の花束をさし出した。

雪の下ポド・スネージュヌイ! 春の初花、お買いなさい、あなたのお仕合せのために」

 伸子はその花束を眺め、ポケットからチャックつきの赤いロシア鞣の小銭入れを出し、婆さんに三十五カペイキやって花束をうけとった。雪の下という花は、日本で伸子の知っている雪の下のけば立った葉とちがって、つるつるした団扇うちわ形の葉をもっていた。その葉を五枚ばかり合わせてふちどりとしたまんなかに、白菫に似たような肉あつの真白な花が数本あつめられている。いかにも雪の下から咲いた早春の花らしく茎のせいが低かった。手袋をはめた指先で摘むようにその小さい花束をもち、アパートメントの段をのぼって行きながら、伸子は顔をよせて香をかいだ。雪の下の真白い花はかおりらしい香ももっていない。それでも、これは、モスクヷの春の初花にちがいなかった。伸子は、ガラスの小さい杯に水を入れて花束をそこにさした。そして、大机の自分の領分に飾った。ガラス杯の細いふちに春の光線がきらめいている。窓のそとのフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの丘の上は、そこも一面の雪どけで、不規則に反射する明るさのために大きな金の円屋根はひとしお金色にかがやいて見える。

 ──伸子は、ものを書きはじめた。



 その日は日曜日だった。素子は、この頃たいてい毎日モスクヷ大学の文科の講義をききに行っていた。その留守の間、伸子は一人をたのしく室にいた。そして伸子の旅費を出している文明社へ送るためにモスクヷの印象記を書いていた。日曜は素子の大学も休みだし、従って一つしかテーブルのない室では伸子の書く方も休日にならないわけにゆかず、二人は、ゆっくりおきて、素子は背が高いからそっちにているベッドの方を、伸子は背が低いからこっちに臥ているディヴァンを、それぞれ片づけていた。

 そこへドアをノックして、ニューラがギリシア式の、鼻筋のとおった浅黒い顔をだした。そして、なまりのつよい発音で、

「あなたがたのところへ、お客ですよ」

と告げた。

 伸子と素子とは思いがけないという表情で顔を見合わせた。誰が来たんだろう。二人はまだ起きたばかりでちゃんと衣服をつけていなかった。

「──仕様がないじゃないか!」

 素子が、ロシア風に、困ったとき両手をひろげるしぐさをしてみせながらニューラに云った。

「みておくれ、私たちはまだ着物をきていないんだから……どうかニューラ、お客の名をきいて来ておくれ」

 いそいで寝床のしまつをし終りながら、伸子が、

「朝っから誰なのかしら」

 不思議そうに云った。もし秋山宇一なら、こんな朝のうちに来るわけはなかった。まして、気のつく内海厚がついていて、伸子たちの寝坊は知りぬいているのだから。

 ニューラが戻ってきて、またドアから首をさし入れた。

「お客さんは、ミャーノってんだそうです。レーニングラードからモスクヷへついたばかりだって」

「ミャーノ?」

 素子はわけの分らない表情になった。が、

「それはロシア人なの? 日本人なの?」

 改めて気がついてききただした。ニューラには、はっきり日本人というものの規定がわからないらしくて、迷惑そうにドアのところでもじもじと立っている足をすり合わした。

「ロシア人じゃないです」

 そのとき、伸子が、

「ね、きっとミヤノって名なのよ。それがミャーノってきこえたんだわ、ニューラに……そうでしょう?」

「ああそうか、なるほどね。それにしたって宮野なんて──知ってるかい?」

「知らないわ」

「だれなんだろう」

 ともかく、廊下で待っていて貰うようにニューラにたのんで、伸子たちは、浴室へ行った。

 顔を洗って室へ戻ろうとすると、ほんのすこし先に行った素子が、

「おや! もう来ていらしたんですか!」

と云っている声がした。それに対して低い声で何か答えている男の声がきこえる。伸子は、その声にきき耳を立てた。ニューラが間ちがえて通してしまったんだろうか。女ばかりの室へ、いないうちに入っているなんて──。伸子は浴室から出られなくなってしまった。例のとおり紫の日本羽織はきているものの、その下はスリップだけだった。

 浴室のドアをあけて、伸子は素子をよんだ。そして、もって来て貰ったブラウスとスカートをつけ、又、その上から羽織をはおって、室へ戻ってみると、ドアの横のベッドの裾のところの椅子に、一人の男がかけている。入ってゆく伸子をみて、そのひとは椅子から立った。一種ひかえめな物ごしで、

「突然あがりまして。宮野です」

と云った。

「レーニングラードでバレーの研究をして居られるんだって」

「着いて停車場から真直まっすぐあがったもんですから、朝から大変お邪魔してしまって……」

 そのひとはほんの一二分の用事できている人のように、カラーにだけ毛のついた半外套をきたまま、そこにかけていた。伸子は、その形式ばったような行儀よさと、いきなり女の室に入っていたような厚かましさとの矛盾を妙に感じた。意地わるい質問と知りながら伸子は、

「秋山宇一さんとお知り合いででもありますか」

ときいた。

「いいえ。──お名前はよく知っていますがおめにかかったことはありません。まだ居られるそうですね」

「じゃ、どうして、わたしたちがこんなところにいるっておわかりになったのかしら──」

 紹介状もない不意の訪問者は二十四五で、ごくあたりまえの身なりだった。ちょっとみると、薄あばたでもあるのかと思うような顔つきで、長い睫毛が、むしろ眼のまわりのうっとうしさとなっている。

 宮野というひとは、遠慮ない伸子のききかたを、おとなしくうけて、

「大使館でききましたから」

と返事した。伸子には不審だった。レーニングラードからモスクヷへ着いて真直来たと云った人が、大使館で、きいて来たという、前後のいきさつがのみこめなかった。しばらくだまっていて、伸子が、

「──きょうは何曜?」

 ゆっくり素子に向って、注目しながらきいた。

「日曜じゃないか!」

 わかりきってる、というように答えたとたん、素子はそうきいた伸子の気持をはっきりさとったらしかった。日曜日の大使館は、一般の人に向って閉鎖されているのだった。ふうん、というように、素子はつよく大きくタバコの煙をはいた。

「ずっとレーニングラードですか?」

 こんどは素子がききはじめた。レーニングラードはモスクヷより物価もやすいし、住宅難もすくないから、レーニングラードにいるということだった。同じような理由から、外務省の委托生──将来領事などになるロシア語学生も、何人かレーニングラードにいるということだった。

「バレーの研究って──わたしたちはもちろん素人ですがね、自分で踊るんですか」

「そうじゃありません、僕のやっているのは舞踊史とでもいいましょうか……何しろ、ロシアはツァー時代からバレーではヨーロッパでも世界的な位置をもっていましたからね。──レーニングラードには、もと王立バレー学校がありましたし、いまでも、その伝統があってバレーでは明らかにモスクヷをリードしていると思います」

「──失礼ですが、わたしたち、お茶がまだなのよ」

 伸子が言葉をはさんだ。

「御免蒙って、はじめてもいいかしら」

「どうぞ。──すっかりお邪魔してしまって……」

「その外套おとりになったら?」

 明らかに焦だって伸子が注意した。

「あなたに見物させて、お茶をのむわけにもいかないわ……」

 そのひとにもコップをわたして、バタをつけたパンとリンゴで茶をのみはじめた。そうしているうちに、伸子の気分がいくらかしずまって来た。不意にあらわれた宮野という人物に対して、自分は礼儀の上からも実際の上からも適切にふるまっていないことに気づいた。話がおかしいならおかしいでもっと宮野というひとについて具体的に知っておくことこそ、必要だ。伸子はそう気づいた。

「いま第一国立オペラ・舞踊劇場で『赤い罌粟けし』をやってますよ」

 ちゃんと着かえる機会を失った素子が部屋着のまま、茶をのみながら話していた。

「あんなのは、どうなんです? 正統的なバレーとは云えないんですか」

「レーニングラードでは、このシーズン、『眠り姫』をやっているんですが、僕はやっぱり立派だと思いました──勿論『赤い罌粟』なんかも観たくてこっちへ来たんですが」

 宮野というひとは、

「僕は主として古典的なバレーを題目にしているんです。何と云ってもそれが基礎ですから」

と云った。

 その頃、ソヴェトでは、イタリー式のバレーの技法について疑問がもたれていた。極度にきびしい訓練やそういう訓練を経なければ身につかない爪立ちその他の方法は、特別な職業舞踊家のもので、大衆的な舞踊は、もっと自然であってよいという議論があった。伸子がこれまでみた労働者クラブの舞踊は、集団舞踊であっても、いわゆるバレーではなかった。伸子は、すこし話題が面白くなりかかったという顔つきで、

「日本でも、バレー御専門だったんですか?」

ときいた。

「そうでもないんです。──折角こっちにいるんだからと思いましてね。バレーでもすこしまとめてやりたいと思って……」

 再び伸子は睫毛のうっとうしい宮野の顔をうちまもった。何て変なことをいうひとだろう。折角こっちにいるんだから、バレーの研究でもやる。──外交官の細君でもそういうのならば、不思議はなかった。良人が外交官という用向きでこっちへ来ていて、自分も折角いるのだから、たとえばロシア刺繍でもおぼえたい、それならわかった。けれども、この若い男が──では、本当の用事は何でこのひとはソヴェトへ来たのだろう。はじめっからバレーの研究をするつもりもなくて来て、折角だからバレーでもやろうというような話のすじは、伸子にうす気味わるかった。伸子にしろ、素子にしろ、フランスではないソヴェトへ来るについては、はっきりした目的をきめているばかりか、いる間の金のやりくりだって、旅券やヴィザのことだってひととおりならないことで来ている。それだのに──伸子はかさねて宮野にきいた。

「どのくらい、こっちにいらっしゃる予定なの」

「さあ──はっきりきまらないんです。──旅費を送ってよこす間は居ようと思っていますが……」

 素子が、へんな苦笑いを唇の隅に浮べた。

「何だか、ひどくいい御身分のようでもあるし、えらくたよりないようでもありますね」

「そうなんです」

「そんなの、落付かないでしょう。──失敬だが、雑誌社か何かですか、金を送るってのは……」

「西片町に一人兄がいるんです。その兄が送ってよこすんですが──大した力があるわけでもないんだから、どういうことになりますか……」

 そういいながら、宮野はちっとも不安そうな様子も示さないし、その兄という人物から是非金をつづけて送らせようとしている様子もない。

 茶道具を片づけて台所へ出て行った伸子は、つかみどころのない疑いでいっぱいだった。どういうわけで、宮野という人が伸子たちのところへ来たのか、その目的が感じとれなかった。ただ友達になろうというなら、どうして誰かから紹介されて来なかったのだろう、たとえば大使館からでも。──大使館からでもと思うと、伸子は宮野の身辺がいっそうわからなくなった。その大使館で、伸子の住所をきいて来たと云ったって、今朝はしまっているはずなのに。──

 はっきりした訪問の目的もわからずに、日本人同士というだけでちぐはぐな話をだらだらやっているうちに、一緒に正餐アベードという時間になり、夜になったりしたら困る。伸子は不安になった。伸子のこのこころもちは伸子自身にとってさえいとわしかった。しかし座もちがわるくなってつい伸子や素子ばかり喋るうちに、えたいもしれないひっかかりがふかまりそうで、それにはいわくがないはずのない予感もするのだった。伸子は、思案にあまって台所にしばらく立っていた。どうしたら、自然にわけのわからない応対をうちきることが出来るだろう。

 ややしばらくして、伸子は思いこんだような顔つきになって、室へ戻って行った。そして、苦しそうな、せっぱつまった調子で、

「ねえ」

と素子に云いかけた。

「失礼だけれど、わたしたち、そろそろ時間じゃない?」

 素子は、この突然の謎をとくだろうか。その日曜に外出の約束なんか二人の間に一つもありはしなかったのだから。素子は、

「ああ」

と、ぼんやり答えたぎり、窓のそとにキラキラするフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根の方を眺めてタバコをふかしている。宮野は伸子がそう云い出しても帰りそうな気配がなかった。

 伸子は、また落付かなくなって室を出た。自分たちも出かけるにしろ、伸子は行先にこまった。日曜にあいているところ、そして、男はついて来にくいようなところ、どこがそういう場所だろう。伸子は、やっと裁縫師のところを思いついた。室へ戻ると、それをきっかけのように素子がテーブルのあっち側に立ち上った。

「じゃ、出かけましょうか」

 ひどくあっさりときり出した。

「あなたもその辺まで御一緒に、いかがです?」

 素子独特の淡白さで、着がえのために宮野に室から出て貰った。衣裳ダンスの前で上衣を出しかけている素子の耳へ口をよせて伸子が心配そうにささやいた。

「行くところ、わかってる?」

 素子はニヤリとした。そしてテーブルのところへ行って引出しから財布を出しながら、そばへよって行った伸子にだけきこえる声で、

「ついて来りゃいいのさ」

と云った。

 外へ出ると、春のはじめの快晴の日曜日らしさが町にも並木道の上にもあふれていた。ふだんよりゆっくり歩いている通行人たちはまだ防寒外套こそ着ているけれども、膝頭まであるワーレンキがたいてい軽いゴムのオヴァ・シューズだった。車道との間にはとけたきたない雪だまりと雪どけ水の小川が出来ているが、きょうは歩道の真中が乾いて石があらわれている。伸子たちにとっては、春がきたモスクヷの歩道をじかに踏む第一日だった。

「──乾きはじめたわねえ」

 伸子は天気のよさをよろこびながら、こんな事情で出て来たことを辛がっている声でつぶやいた。

 素子は三人のすこし先に立つようにアストージェンカの角まで来た。そこで、立ちどまった。そして、

「宮野さん、どっちです?」

 ふりむくようにしてきいた。折から、左手のゆるやかな坂の方から劇場広場の方向へゆく電車がのんびりした日曜日の速力で来かかっている。

 伸子たちが住んでいる建物の板囲いからいくらも来ていないのに、いきなり素子からそうきかれて、宮野は間誤まごついたらしかった。口のうちで、さあ、とつぶやきながら、うっとうしそうな睫毛をしばたたいた。

「──僕は、『赤い罌粟』の切符を買いに行っておきましょう」

「じゃ」

 素子が、鞣帽子をかぶっている頭をちょいと下げて会釈した。

「わたしたち、こっちですから……」

 宮野は鳥打帽のふちに手をかけた。

「レーニングラードへいらっしゃることもあるでしょうから──いずれまたゆっくりあちらでお目にかかります」

 こうして宮野は電車の停留場のところへのこった。

 伸子たちは、自然、停留場のあるその町角をつっきって、並木道ブリヷールへ入った。並木道ブリヷールも、よごれた雪の堆積がまだどっさりあるけれども、真中にひとすじ、柔かなしっとりした黒い土があらわれている。名残りの雪がその辺の到るところにあるだけに、その間にひとすじのあらわれた黒い土は、胸のときめくような新鮮さだった。艷と、もう芽立ちの用意のみえる並木道の菩提樹やかえでのしなやかさをました枝のこまやかなかげは、その樹々の根っこに残雪をもって瑞々しさはひとしお感覚に迫った。

 得体のしれない客に気分を圧しつけられていた伸子はしっとりした黒い土の上の道を、往き来の群集にまじって歩きながらふかい溜息をつくように、

「ああ、防寒靴ガローシをぬいでしまいたい!」

と云った。冬のぼてついたものは、みんな体からぬいでしまいたい。早春の日曜日の並木道は、すべての人々をそういう心持にさせる風景だった。それでも、モスクヷ人は北方の季節の重厚なうつりかわりをよく知っていて、まだガローシをぬいでいるものはなかったし、外套のボタンをはずしているものもなかった。とける雪、暖くしめった大地、芽立とうとしている樹木のかすかな樹液のにおい。それらが交りあって柔かく濃い空気をたのしみながら、伸子と素子とはしばらくだまって並木道ブリヷールを歩いて行った。

「わたし、びっくりしちゃった」

 歩きながら伸子が云った。

「あんな風に出来るのねえ。わたしは、本気で行くさきを考えて、苦心したのよ」

「ああでいいのさ」

 日本服なら、片手はふところででもしていそうな散歩の気分で素子が答えた。

「先手をうてばいいのさ」

「──あの宮野ってひと……どういうんだと思う?」

 まだこだわって、伸子が云い出した。

「ぶこちゃん、だいぶ神経質になってるね」

「たしかにそうだわ。曖昧なんだもの──西片町の兄さんだのって──誰だって外国にいるとき、お金のことはもっと本気よ。まるで帰れと言われればすぐ帰る人間みたいじゃないの。あの話しぶり……」

 宮野という男が、室を出入りするとき妙にあたりの空気を動かさないで自分の体だけその場から抜いてゆくような感じだったことを思い出して、伸子は、それにもいい心持がしなかった。たとえば内海厚という人などにしても、どういう目的で秋山宇一と一緒にソヴェトに来ているのか、伸子たちにはちっともわかっていなかった。秋山宇一が日本へかえっても、彼だけはあとにのこるらしいくちぶりだけれど、それとてもモスクヷでどんな生活をやって行こうとしているのか、伸子たちはしらない。知らないなりに、内海厚の万端のものごしはあたりまえで、あたりまえにがたついていて、伸子たちに不審の心を抱かせる点がなかった。

「──まあ、どうせいろんな人間がいるんだろうさ、それはそれなりにあしらっとけばいいのさ。──何もわたしたちがわるいことしてやしまいし……」

「そりゃそうよ。もちろんそうだわ。誰だって、ここでわるいことなんてしようとしてやしないのに──ソヴェトの人たち自身だってもよ──なぜ……」

 伸子はつまって言葉をきった。伸子も宮野という人を、暗い職業人だと断定してしまうことは憚られた。しばらく黙って歩きながら、やがて低い、不機嫌な声で続けた。

「──ぎまわるみたいなのさ!」

「そんなこと、むこうの勝手じゃないか。こっちのかまったこっちゃありゃしない」

 伸子たちは、いつか並木道ブリヷールが、アルバート広場で中断される地点まで来た。トゥウェルスカヤの大通りが並木道ブリヷールを横切っているところにはプーシュキンの像が建っていた。ここの並木道ブリヷールのつき当りには、ロシアの子供たちのために無数の寓話物語を与えたクルィロフの坐像が飾られていた。部屋着のようなゆるやかな服装で楽々と椅子にかけ、いくらか前こごみになって何か話してきかせているような老作家クルィロフの膝の前に、三四人の子供が顔を仰向けてそれにきき入っている群像だった。その台座には、クルィロフの寓話に描かれた、いくつもの有名な情景が厚肉の浮彫りでほりつけられている。伸子たちはしばらくそこに立って、芽立とうとする菩提樹を背にした親しみぶかいクルィロフの坐像と、そのぐるりで雪どけ水をしぶかせながら遊んでいるモスクヷの子供たちを眺めていた。日曜の並木道ブリヷールには父親や母親とつれ立って歩いている子供たちがどっさりあり、長外套をつけ、赤い星のついた尖り帽をかぶった赤軍の兵士が、小さい子の手をひいて幾組も歩いている姿が伸子に印象ふかかった。

 並木道ブリヷールからアルバート広場へ出て、一軒の屋台店キオスクの前を通りがかったとき、伸子は、

「あれなんだろう」

と、その店先へよって行った。売り出されたばかりの「プロジェクトル」というグラフ雑誌が表紙いっぱいにゴーリキイの写真をのせて、幾冊も紐から吊り下げられていた。



 その展覧会場の最後の仕切りの部分まで見終ると、伸子はゆっくり引かえして、また一番はじめのところへもどって行った。

 作家生活の三十年を記念するゴーリキイの展覧会のそこには、マルクス・レーニン研究所から出品された様々の写真や書類が陳列されていた。けれども、おしまいまで何心なく見て行った伸子は、これだけの写真の数の中にゴーリキイの子供の時分をうつしたものは見なかったような気がした。けれども、見なかったということも、確かでなかった。

 伸子は、またはじめっから、仕切りの壁に沿って見なおして行った。マクシム・ゴーリキイが生れて育った古いニージュニ・ノヴゴロドの市の全景がある。ヴォルガ河の船つき場や荷揚人足の群の写真があり、ニージュニの町はずれの大きなごみすて場のあったあたりもうつされている。写真の下に簡単な解説が貼られていた。このごみすて場からボロや古釘をひろって、祖母と彼のパンを買う「小銭を稼いだ」と。けれども、そこには、ごみすて場をあさっている少年ゴーリキイの写真は一枚もなかった。

 写真の列は年代を追って、伸子の前にカザンの市の眺望を示し、アゾフ海岸の景色や、近東風な風俗の群集が動いているチフリス市の光景をくりひろげた。解説は語っている。カザンで十五歳のゴーリキイを迎えたのは彼がそこへ入学したいと思ったカザン大学ではなくて、貧民窟と波止場人足。やがてパン焼職人として十四時間の労働であったと。ここにもゴーリキイそのひとは写っていない。

 伸子は、カバンの河岸という一枚の写真の前に立ちどまってしみじみ眺めた。ゴーリキイは、二十歳だった。そう解説は云っている。夜この河岸に坐って、ゴーリキイは水の面へ石を放りながらいつまでも三つの言葉をくりかえした。「俺は、どうしたら、いいんだ?」と。陳列されている写真の順でみると、それから間もなくゴーリキイはニージュニへかえり、ヴォルガの岸でピストル自殺をしかけている。苦しい、孤独な渾沌こんとんの時代。この時代にもゴーリキイは写真がない。

 黒い鍔びろ帽子を少しあみだにかぶって、ルバーシカの上に外套をひっかけ、日本の読者にもなじみの深いゴーリキイが、芸術家風というよりはむしろロシアの職人じみた長髪で、その荒削りの姿を写真の上に現しはじめたのは一九〇〇年になってからだった。その頃から急にどっさり、華々しい顔ぶれで撮影されている。記念写真のどれを見ても、当時のロシアとヨーロッパの真面目な人々が、ゴーリキイの出現に対して抱いた感動が伝えられていた。気むずかしげに角ばった老齢の大作家トルストイ。穏和なつよさと聰明のあふれているチェホフ。芸術座によって新しい劇運動をおこしはじめたスタニスラフスキーやダンチェンコ。だれもかれも、ロシアの人特有の本気さでゴーリキイとともにレンズに顔をむけてうつされている。「マカール・チュードラ」「鷹の歌」「三人」やがて「小市民」と「どん底」などの古い版が数々の記念写真の下の台に陳列されはじめている。ゴーリキイは、ツァーの専制の下で無智と野蛮の中に生を浪費していた人民の中から、「非凡、善、不屈、美と名づけられる細片」をあつめ描きだした、と解説は感動をこめて云っているのだった。

 その展覧会はやっときのう開かれたばかりだった。まだ邪魔になるほどの人もいない明るくしずかな会場のそこのところを、伸子は一二度小戻りして眺めた。有名になり、作品があらわれてからのゴーリキイは、こんなに写真にとられ、その存在はすべての人から関心をもたれている。だけれども、それまでのゴーリキイ、生きるためにあんなに骨を折らなければならなかった子供のゴーリキイ。卑猥ひわいで無智だったパン焼職人の若い衆仲間のなかで、遂に死のうとしたほど苦しがっていた青年時代のゴーリキイ。それらの最も苦しかった時代のゴーリキイの写真は一枚もなくて、ただ彼の生へのたたかいのその背景となった町々ばかりが写されているということに、伸子はその場を去りがたい感銘をうけた。ありふれた世間のなかに、そのひとの道がきまったとき、人々はそのものの存在のために場所をあけ、賞讚さえ惜しまれず無数の写真をあらそってうつす。けれども、まだゴーリキイが子供で、その子がその境遇の中で、生きとおせるものか、生きとおせないものか、それさえ確かでなく餓えとたたかい悪とたたかってごみすて場をさまよっていたとき、そして、若いものになって、ごみくたのような生活の中に生きながら自分のなかで疼きはじめた成長の欲望とあてどのない可能の予感のために苦しみもだえているとき、周囲は、その生について知らず、無頓着だった。「三人」や「マカール・チュードラ」を文学作品としてほめる瞬間、人々はそこに自分の知らない生についてのロマンティックな感動をうけるだけで平安なのだろうか。

 ゴーリキイの幼年と青年時代を通じて、一枚の写真さえとられていない事実を発見して、伸子は新しく鋭く人生の一つの面を拓らかれたように感じた。トルストイの幼年時代の写真は全集にもついていた。レーニンも。チェホフはどうだったろう? 会場の窓ぎわに置かれている大きい皮ばりの長椅子にかけて休みながら、伸子は思い出そうとした。チェホフの写真として伸子の記憶にあるのは、どれも、ここにゴーリキイとうつっているような時代になってからのチェホフの姿ばかりだった。少年のチェホフの写真をみた人があるかしら。──記憶のあちこちをさぐっていた伸子は、一つのことにかっちりとせきとめられた。それはチェホフも少年時代はおそらく貧乏だったにちがいない、ということだった。チェホフの父は解放された農奴でタガンローグというアゾフ海の近くのどこかの町で屋台キオスク商人として生活していた。と読んだことが思い出された。そうだとすれば、チェホフも、少年の頃ちょいちょい写真をとってもらったりするような生活の雰囲気はもっていなかったのだ。

 それらのことに気がつくと、伸子はひとりでにわきの下がじっとりするような思いになった。

 雪どけが終って春の光が溢れるようになると、モスクヷの並木道ブリヷールやモスクヷ大学の構内で、ときには繁華な通りでビルディングを背景に入れたりして、おたがいに写真をうつし合っているソヴェトの若い人たちを、どっさり見かけるようになった。つい二三日前、伸子と素子とがブリヷールを散歩しているときだった。そこの菩提樹の下に古風な背景画を立て、三脚を立てた写真師が日本でなら日光や鎌倉などでやっているように店をはっていた。五十カペイキでうつすと書いた札が菩提樹の幹にはってあった。伸子たちが通りかかったとき丁度一人の若い断髪の女が、生真面目にレンズを見つめて、シャッターが切られようとしているところであった。その肥った娘の赭ら顔の上にあるひなびたよろこびや緊張を伸子は同感して見物した。ソヴェトらしい素朴な並木道ブリヷール風景と思ってみた。けれども、同時に伸子は素子にこんなことを云った。

「こういうところをみるとロシアって、やっぱりヨーロッパでは田舎なのねえ」

 そして、連想のままに、

「ヨーロッパで、日本人を見わける法ってのがあるんだって。──知っている?」

「知らないよ」

「黄色くって、眼鏡をかけて、立派な写真器をもって歩いているのは日本人てきまっているんだって」

「なるほどねえ」

 展覧会場の長椅子の上で、伸子が思い出したのは、この自分の会話だった。ゴーリキイの幼年時代や青年の頃一枚の写真さえもっていなかったということ。そしてあんなにゴーリキイが愛して、命の糧のようにさえ思っていた話し上手のお祖母さんの写真さえ、ただ一枚スナップものこされていないという現実は、伸子に自分のお喋りの軽薄さを苦々しくかえりみさせた。ロシアの貧しかった人々の痛ましい生活の荒々しさ。無視された存在。現在ソヴェトの若い人たちが、あんなに嬉々として春の光を追っかけて互に写真をとりあっていることは、決してただ田舎っぽいもの珍しさだけではなかった。

 伸子は、あんな小憎らしい日本の言葉が、まわりの人たちにわからなかったことをすまなくも、またたすかったとも思った。

 これまでの社会で写真というものは、ただそれを写すとか写さないとかいうだけのものではなかったのだ。伸子ははじめて、その事実を知った。写真をうつすということが、金のかかることである時代、何かというと写真をうつす人々は、それだけ金があり自分たちを記念したり残したりする方法を知っている人たちであり、写真を眺めて、その愉快や愛を反復して永く存在させる手段をもった人々であった。写真というものがロシアのあの時代に、そういう性質のものでなかったのなら、ゴーリキイのロマンティックで野生な人間性のむき出された少年時代のスナップが、誰かによって撮られなかったということはなかったろう。チェホフの子供時代にしろ、小父さんのとった一二枚の写真はあり得ただろう。

 ソヴェトの若い人たちが、写真器をほしがり、一枚でも自分たちの写真をほしがっているのは、伸子が浅はかに思ったような田舎っぽい物珍しがりではなかった。金もちや権力からその存在を無視され、自分からも自分の存在について全く受け身でなげやりだった昔のロシアの貧しい人民ナロードは、自分の生活を写してとっておく意味も興味も、思いつきさえも持っていなかったのだろう。写真なんかというものは金のある連中のたのしみごととして。ソヴェト生活のきょう、その人民が写真ずきだということは、その人たちにとって生存のよろこびがあり、日々の活動の場面が多様で変化にとんで居り、生き甲斐を感じているからこそにちがいなかった。写真がすきということのかげに、幾百千万の存在が、めいめいの存在意義を自覚して生きて居り、同時に社会がそれを承認しているということを語っていると思われるのだった。

 こういう点にふれて来ると、伸子は、自分がどんなに写真というものについてひねくれた感情をもっているかと思わずにいられなかった。そして、ヨーロッパ見物の日本人について云われる皮肉と、ソヴェトの写真ばやりとを、同じ田舎くささのように思ったひとりよがりにも、胸をつかれた。

 伸子は、子供のときから、モスクヷへ来てニキーチナ夫人と一緒にうつした写真まで、無数と云うぐらいどっさり写真をとられた。それは生後百日記念、佐々伸子、と父の字で裏がきされている赤坊の伸子の第一撮影からはじまった。そこには、ゴム乳首をくわえている幼い総領娘の手をひいた佐々泰造の若いときの姿があり、被布をきた祖母が居り、弟たち、母がいた。ニューヨークで佃と結婚したとき、伸子はその記念のためにとった写真の一つを思い出した。平凡に並んでうつしたほかに、伸子は自分のこのみで、佃と自分の顔をよせ、横から二人の輪廓を記念メダルの構想で写してもらった。佃の彫りの深い横顔を大きくあらわして、その輪廓に添えて、二十一歳の軟かく燃える伸子の顔の線をあらわすようにした。六年たって、佃と離婚したあと、伸子はその写真を見るに堪えなかった。写真がそんなに佃と自分との結合を記念して、消えないのが堪えがたかった。書いた日記を破ったりしたことがないほど生活をいとしむ伸子であったが、そのメダル風の写真は、台紙からはがしてストーヴの火のなかに入れた。伸子は写真ぎらいになっていた。

 十八ぐらいからあと、伸子は、自分が写真にとられなければならなくなる羽目そのものを厭うことから、写真ぎらいになって来た。それは見合い写真をとらされることから、気もちのはっきりした娘たちが屈辱に感じて、いやがるのとはちがった。ゴーリキイが人生にさらされたのと、反対の角度から、伸子は、早く世間にさらし出された。それは、伸子が少女の年で小説をかき出したということが、原因であった。伸子は、新聞や雑誌から来る写真班に、うつしてほしくないときでも写真をとられた。それらの写真は、いつも好奇心と娘について示される多計代の関心に対する皮肉と伸子の将来の発展に対する不信用の暗示をふくんだ文章とともに人目にさらされた。伸子には、それが辛かった。そういう人工的なめぐり合わせをいやがって、普通の女としての生活に身を投げるように佃と結婚したのだったが、そこにもまた写真はつきまとった。伸子が思いがけなく唐突な結婚をしたと云って。身もちになってしまったからそのあと始末に仕方なく佃というアメリカごろつきと夫婦にもなったのだそうだ、という噂などを添えて。

 それらすべては伸子にとって苦しく、伸子の意識を不自然にした。伸子が、母の多計代に対してはたで想像されないほど激越した反撥をもちつづける原因も、伸子のその苦悩を多計代が理解しないことによっている。世間の期待と云えば云えたのかもしれないが、伸子の感じから云えば無責任な要求に、多計代は娘を添わして行きたがった。伸子は、それに抵抗しないわけにゆかなかった。

 目の前に、赤い布で飾られたゴーリキイ展の一つの仕切りを眺めながら、伸子は限りなくくりひろがる自分の思いの裡にいたが、その赤い飾りの布の色は段々伸子の眼の中でぼやけた。あんなに自分の境遇に抵抗して来ているつもりでも、伸子は、やっぱりいやにすべっこくて艷のいいような浅薄さをもっている自分であることを認めずにいられなくなった。いやがる自分をうつそうとする写真を軽蔑しながら、結局伸子はうつされた。写されながらいやがって、写真を金のかかる貴重なものとし、大切にするねうちのあるものとして考える地味な正直な人々、一枚の写真のために自分で働いて稼いだ金のなかから支払わなければならない人々の心と、とおくはなれた。これは、中流的なあさはかさの上に所謂文化ですれた感覚だと伸子は思った。そう思うと展覧会の飾り布の赤い色が一層ぼやけた。すれっからしの自分を自分に認めるのは伸子にとって切なかった。

 伸子は、どこかしょんぼりとした恰好で、中央美術館のルネッサンス式の正面石段を一歩一歩おりて、通りへ出た。雪どけが終って、八分どおり道路が乾いたらモスクヷは急に喧しいところになった。電車の響、磨滅して丸いようになった角石でしきつめられている車道の上を、頻繁に荷馬車や辻馬車が堅い車輪を鳴らし、蹄鉄としき石との間から小さい火花を散らしながら通行する物音。伸子が来たころモスクヷは雪に物音の消されている白いモスクヷだった。それから町じゅうに雪どけ水のせせらぎが流れ、日光が躍り雨樋がむせび、陽気ではねだらけでモスクヷは音楽的だった。こうして、道が乾くと乾燥しはじめた春の大気のなかでは、電車の音響、人声、すべてが灰色だの古びた桃色だのげかかった黄色だのの建物の外壁にぶつかって反響した。

 モスクヷへ来て半年たったきょう伸子の心の中でも下地がむき出しにあらわされた。歩くに辛いその心の上を歩いてゆくように伸子はアストージェンカへの道を行った。

 ソヴェトの人たちが、ゴーリキイを我らの作家として認めている。それにはどんなに深く根ざした必然があるだろう。歩きながらも伸子はそのことを思わずにいられなかった。

 ソヴェトに子供の家のあること、児童図書館のあること。働く青年男女のために大学が開放されていること。ソヴェトの民衆は自分たちの努力と犠牲とでそういう社会を組み立てはじめたことについて誇りとよろこびとを感じている。少年時代のゴーリキイの日々は、ソヴェトの表現でベスプリゾールヌイ(保護者なき子)と云われる浮浪の子供たちの生活だった。ヴォルガ通いの汽船の料理番から本をよむことを習って大きくなったゴーリキイは、ソヴェトに出来はじめている児童図書館の事業を自分のやきつくような思い出とともに見守っているのだ。そしてすべての働く若もののために大学があることを。「私の大学」でない大学がソヴェトに出来たことを。

 ゴーリキイは、生きるために、そして人間であるためにたたかわなければならなかった。ロシアの人民みんながそのたたかいを経なければならなかったとおり。そしてゴーリキイの物語は、どれもみんなその人々の悲しみと善意ともがきの物語りである。これらの人々が自分たちの人生を変革し、人間らしく生きようと決心して、忍耐づよくつづけた闘争の過程で、ゴーリキイはペテロパウロフスクの要塞にいれられたし、イタリーへ亡命もしなければならなかった。ゴーリキイの人生はそっくり、正直で骨身惜しまず、人間のよりよい生活のために尽力したすべてのロシアの人々の歴史だった。

 伸子は、まだ冬だった頃、メトロポリタンのがらんとした室で中国の女博士のリンに会った帰り途、自分に向って感じた問いをゴーリキイ展からの帰り途ひときわ深く自分に向って感じた。伸子の主観ではいつも人生を大切に思って来たし、人々の運命について無関心でなかった。女として人として。だけれども、伸子は、誰とともに生き、誰のための作家なのだろう。伸子はどういう人達にとっていなくてはならない作家だと云えるだろう。

 伸子は、アストージェンカの角を横切りながら再び肩をちぢめるような思いで、写真について生意気に云った自分を思いかえした。伸子が、ひとなら、あのひとことで佐々伸子を憎悪したと思う。ああいう心持は、ソヴェトの人たちの現実にふれ合った心でもなければ、日本のおとなしく地味な人たちの素直な心に通じた心でもない。その刹那伸子は、また一つの写真を思い出した。ニキーチナ夫人ととった写真だった。その写真で伸子は真面目に自分の表情でレンズの方を見ながら、手ばかりは写真師に云われたとおり、一方の手を真珠の小さいネックレースに一寸かけ、一方の腕はニキーチナ夫人の肩のところから見える長椅子の背にかけて、両方の手がすっかりうつるようなポーズでとられているのを思い出した。その髯の濃い写真師は、伸子の手がふっくりしていて美しいと云い、ぜひそれを写したいと、伸子にそういうポーズをさせたのだった。ドイツ風というか、ソヴェト風というのか、濃く重い効果で仕上げられたその写真をみたとき、伸子は、ちらりときまりわるかった。幾分てれて、伸子はその写真をとどけて来てくれた内海厚に、

「みんな気取ってしまったわねえ」

と笑った。そこにうつっている秋山宇一も内海厚も素子も、みんなそれぞれに気取って、写真師に云われたとおりになっていることは事実だった。けれども、伸子のポーズでは、伸子の額のひろい顔だちの東洋風な重さや、内面から反映している圧力感とくらべて、平俗なおしゃれな手の置きかたの、不調和が目立った。手が美しいと写真師がほめたとき、伸子は、それが伸子の生活のどういうことを暗示するかまるで考えなかった。しかも、その手の美しさが、何かを創り何かを生んでいる手の節の高さや力づよさからではなく、ただふっくりとしていて滑らかだという標準から云われているとき。──

 伸子には、ポリニャークが自分を掬い上げたことや、それに関連して自分が考えたあれこれのことが、写真のことをきっかけとしてちがった光で思いかえされた。これまで、伸子は自分が中流的な社会層の生れの女であることについて、決してそれをただ気のひけることと思わないで来た。気のひけるいわれはないことと考えて来た。そして、ポリニャークやケンペルが、プロレタリアートにこびることに反撥した。駒沢に暮していた時分「リャク」の若いアナーキストたちが来たときも、伸子は、そういう心の据えかたをかえなかった。

 それはそれとして間違っていなかったにしろ、いつとしらず自分の身についている上すべりした浅はかさのようなものは、伸子自身の趣味にさえもあわなかった。

 伸子は、そういうことを考えながら、並木道ブリヷールの入口近くにある食料販売所へ入って行った。プロスト・クワシャの二つのコップとパンを買った。勘定場で金を支払い、計算機がガチャンと鳴って、つり銭の出されたのをうけとりながら、伸子は、自分が自分のそとに見えるすべての小市民的なこのみをきらいながら、同じそういうものが自分の内にあって、自分の知らないうち発露することについて、苦しむことを知らなかったことに心づくのであった。

 伸子は、住居のコンクリートの段々を、のぼりながら、しつこく自分をいためつけるように思いつづけた。こうしてソヴェトへ来るときにしろ、伸子は自分のまともに生きたいと思っている心持ばかりを自分に向って押し立てて来た。本当の本当のところはどうだったのだろう? 伸子が誰にとってもいなくてはならない人でなかったからこそ、来てしまえたのだと云えそうにも思えた。伸子は誰の妻でもなかった。どの子の母親でもなかった。女で文学の仕事をするという意味では、伸子の生れた階層の常識にとってさえ、伸子はいてもいなくてもいい存在だったかもしれない。そして、伸子の側からは絶えずある関心を惹かれているソヴェトの毎日にとっても、また故国で伸子とはちがった労働の生活をしているどっさりの人々にとっても。──伸子は、その人々の苦闘ともがきの中にいなかったし、この社会に存在の場所を与えられずに生きつづけて来た者の一人ではない。その人たちの作家というには遠いものだったのだ。食事のために素子と会う約束の時間が来るまで、伸子はアストージェンカの室のディヴァンの上へよこになって考えこんでいた。


 作家生活の三十年を記念するマクシム・ゴーリキイ展は日がたつにつれ、全市的な催しになった。五月中旬には、五年ぶりでゴーリキイがソヴェトへ帰って来るという予告が出て、モスクヷでは工場のクラブ図書室から本屋の店にまで、「マクシム・ゴーリキイの隅」がこしらえられた。伸子たちがもと住んでいたトゥウェルスカヤ通りの中央出版所のがらんとした飾窓にも、人体の内臓模型の上にゴーリキイの大きい肖像画がかかげられた。



 そういう四月はじめの或る晩のことだった。

 伸子はアストージェンカの室の窓ぎわで、宵の街路を見おろしていた。そして街の騒音に耳を傾けていた。その日の昼ごろ、伸子が外出していた間に、伸子たちの室も窓の目貼りがとられた。帰って来てちっとも知らずにドアをあけた伸子は、室へふみこんだとき彼女に向ってなだれかかって来た騒音にびっくりした。雪のある間は静かすぎて寂寥さえ感じられた周囲だのに、窓の目ばりがとれたら、アストージェンカのその小さな室はまるでサウンド・ボックスの中にいるようになった。建物のすぐ前の小高いところにフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの多角型の大伽藍がらんが大理石ずくめで建っているせいか、すべての音響が拡大されて伸子の室へとびこんで来た。電車は建物の表側のあっちを通って、そんなひどい音を出す交叉点らしいところもないのに、一台ごとにどこかでガッタン、ギーと軋む音を伸子たちの室へつたえた。その最中は話声さえ妨げられた。しかし伸子は春と一緒に騒々しくなった自分たちの室をきらう気にならなかった。見馴れた夜の広場の光景に、今夜から音が添って眺められる。それは、北の国の長い冬ごもりの季節のすぎた新鮮さだった。

 テーブルのところで、昼間買って来た「赤い処女地」を見ながら素子が、

「きょう、ペレウェルゼフが、ゴーリキイについて一時間、特別講演をしたよ」

と言い出した。

「まあ、みんなよろこんだでしょう?」

「ああ随分拍手だった、前ぶれなしだったから……」

 ペレウェルゼフ教授は、モスクヷ大学でヨーロッパ文学史の講義をしていた。今学期は、ロマンティシズムの時代の部分で、素子はそれを聴講していた。

 伸子は素子の聴講第一日にくっついて行った。文科だのに段々教室で、一杯つまった男女学生がペレウェルゼフの講義している講壇の端にまであふれて腰かけていた。立って聴いている学生もあった。伸子にはききわけにくいその二時間ぶっとおしの講義が終って四十五分の質問になったとき、そこに風変りの光景がおこった。質問時間には、学生同士が自主的に討論することを許されているらしかった。教授のわきに立って、黒板にもたれるようにしてノートをとっていた数人の学生の中から、学生の質問にじかに解答したり「君の質問は先週の講義の中に話されている」と質問を整理したりした。段々教室の中頃の席に素子と並んでかけて居た伸子は、そのとき、講壇のわきにいる学生の一群の中でも特別よく発言する一人の学生に注意をひかれた。その学生は、ごく明るい金髪の、小柄な青年だった。そばかすのある顔を仰向けて段々教室につまった仲間たちを見まわしながらその学生は、ユーゴーについての質問に応答した。ロシア語ではHの音がGのように発音されるから、その色のさめた葡萄色のルバーシカを着た金髪で小柄な学生は、ギューゴー・ギューゴーとユーゴーを呼びながら、組合の会合で喋るときのとおり、手をふって話していた。その光景は親愛な気分がみなぎりユーモラスでもあった。伸子はその情景を思いうかべながら、

「それで何だって?」

とペレウェルゼフ教授の話の内容を素子にきいた。

「ゴーリキイの作品にあらわれているロマンティシズムについて話したんだけれどね」

 素子の声に不承知の響があった。

「革命的なロマンティシズムと比較してね、ゴーリキイの多くの作品を貫くロマンティシズムは、概して小市民的な本質だというのさ。『母』だけが階級的なロマンティシズムをもっているっていうわけなんだそうだ」

 素子のタバコの煙が、スタンドの緑色のかげのなかを流れている。伸子は、

「ふーん」

と云った。そう云えば、伸子たちがモスクヷ芸術座で見た「どん底」では、巡礼のルカの役をリアリスティックに解釈していた。「どん底」の人々に慰めや希望を与えるものとしてではなく、現実にはどん底生活にかがまってそこから出ようともしないのに、架空なあこがれ話をくりかえして、不平な人々をなお無力なものにしてゆくお喋りの主として、モスクヴィンのルカは演じられた。とくにそのことが、プログラムに解説されていた。演出の上でルカがそのように理解されたことは、「どん底」の悲惨に一層リアルな奥ゆきを加えて観衆に訴えた。少くとも伸子の印象はそうだった。

「ゴーリキイのロマンティシズムが或るとき過剰だったということは、もちろんわかるさ。チェホフが云ったとおりに。しかしね、『母』だけが革命的ロマンティシズムで立派であとは小市民的なロマンティシズムだって、そんなに簡単にきめられるかい?」

 素子は、何かに反抗するような眼つきをして云った。

「『母』のテーマは革命的であり、英雄的である。したがって、そこにあるのは革命的ロマンティシズムである。──それだけのもんかね」

 京都風にうけ口な唇にむっとした表情をうかべて素子はおこったように、

「メチターってどういうものなのさ。え? 人間の心に湧くメチターってどういうものなのさ」

 憧れ、待望をあらわすその言葉を、響そのものの調子が心に訴えて来るロシア語で、つよく、せまるように素子は云った。きょう目貼りのとれた窓からきこえるようになった早春の夜の物音が時々のぼって来て、月のない空にフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根がぼんやり浮んで見えている。

 しばらくだまっていた素子は、苦しそうな反感をふくんだ表情で、

「わたしはここのものの考えかたの、こういうところは嫌いだ」

と云った。

「何でも、ああか、こうかにわける。分けて比べて、一方には価値があって、一方は価値がない。そうきめちまうようなところが気にくわない」

 素子は、抑えていた感情にあおられたようにつづけた。

「ゴーリキイにしろ一人の人間じゃないか。一人の人間である作家が書いたものに、ぴょこんと、一つだけ革命的ロマンティシズムがあって、ほかはそうでないなんてあり得ないじゃないか……どっかで、きっとつながっているんだ。そのつながったどっかこそ人間と文学の問題じゃないか、ねえ。社会主義ってものにしろ、そういうところに急所があるんだろうとわたしは思いますがね」

 おしまいを素子は皮肉に結んだ。素子がこれだけ集注した感情で、話すのはめずらしいことだった。

 伸子は、素子のいおうとするところを理解した。けれども、語学のできない伸子は、素子とちがってすべてがそうであるとおり目で見て来たゴーリキイ展からあんまり自分に照らし合わせて考えさせられる点をどっさりうけとって来ていた。

 こういうことは、伸子と素子との間でよくあった。

 ソヴェトにおけるゴーリキイの芸術についての評価ということになると、伸子には伸子らしく目で見えることから疑問がなくはなかった。伸子たちがモスクヷへ来て間もない頃リテラトゥールナヤ・ガゼータ(文学新聞)にゴーリキイの漫画がでたことがあった。乳母のかぶるようなふちのぴらぴらした白いカナキン帽をかぶった老年のゴーリキイが、揺籃に入れた「幼年時代」をゆすぶっているところだった。伸子はその漫画に好感がもてなかった。その意味で印象にのこった。今年になってからも何かの雑誌にゴーリキイの漫画があって、それではゴーリキイが女のスカートをはかせられていた。スカートをはいたゴーリキイが、炉ばたにかがみこんで「四十年」という大鍋をゆるゆるかきまわしている絵だった。「ラップ」と略称されているロシアのプロレタリア作家同盟の人たちのこころもちは、ゴーリキイに対してこういう表現をするところもあるのかと、伸子は少しこわいように思ってじっとその漫画を見た。

 この頃になってルナチャルスキーの評論をはじめ、マクシム・ゴーリキイの作家生活三十年を記念し、ロシアの人民の解放の歴史とその芸術に与えたゴーリキイの功績が再評価されるようになると、文学新聞をふくめてすべての出版物のゴーリキイに対しかたが同じ方向をとった。

 この間の日曜の晩、アルバート広場で買った「プロジェクトル」にも漫画に描かれたマクシム・ゴーリキイという一頁があった。それはどれも「小市民」や「どん底」の作者としてゴーリキイが人々の注目をあつめはじめた時代にペテルブルグ・ガゼータなどに出たものだった。一つの漫画には、例の黒いつば広帽をかぶってルバーシカを着たゴーリキイがバラライカを弾きながら歌っている記念像の台座のぐるりを、三人のロシアの浮浪人が輪おどりしていて、その台座の石には「マクシム・ゴーリキイに。感謝する浮浪人たちより」とかかれている。ゴーリキイの似顔へ、いきなり大きなはだしの足をくっつけた絵の下には「浮浪人の足を讚美する頭」とかかれている。ゴーリキイきのこという大きな似顔きのこのまわりから、小さくかたまって生えだしているいくつもの作家の顔。ゴーリキイが「小市民」のなかで苦々しい嫌悪を示した当時の小市民やインテリゲンツィアが、「やっぱり、これも読者大衆」としてゴーリキイを喝采しているのを見て、げんこをにぎっていらついているゴーリキイ。それらはみんな一九〇〇年頃の漫画であった。「プロジェクトル」のゴーリキイ特輯号のために新しく描かれた漫画では、大きな鼻の穴を見せ、大きな髭をたらした背広姿の年をとったゴーリキイが、彼にむかって手桶のよごれ水をぶっかけている女や竪琴たてごとを小脇にかかえながら片手でゴーリキイの足元に繩わなをしかけようとしている男、酒瓶とペンとを両手にふりまわしてわめいている男たちの群のなかに、吸いかけの巻煙草を指に、巨人のように立っているところが描かれている。わるさをしている小人どもは、革命後フランスへ亡命している象徴派の詩人や作家たちの似顔らしかった。

「国外の白色亡命者と何のかかわりもないマクシム・ゴーリキイ」について数行の説明がついていた。イヷン・ブーニンは、ゴーリキイが結核だということさえ捏造してゴシップを書きちらした。しかし、実際にはゴーリキイが結核を患ったことなんかはないのだという意味がかかれている。

 ゴーリキイが一九二三年にレーニンのすすめでソレントへ行ったとき、理由は彼の療養ということだったと伸子も思っていた。「プロジェクトル」はそれを否定している。

 ゴーリキイは、ソレントで、その乳母帽子をかぶって描かれていた自分の絵を見ただろうし、スカートをはいて「四十年」の鍋をかきまわしている婆さんとして描き出されている自分をも眺めたことだろう。そして、今は巨人として描かれている自分も。肺病だった、肺病でなかった、今更の議論も、ゴーリキイの心情に何と映ることだろう。伸子には、そういうことが、切実に思いやられた。ゴーリキイはソヴェトへ帰って来ようとしている。ソヴェトへ帰って来ようとしているゴーリキイの心の前には、どんな絵があるだろう。乳母帽子やスカートをはいた自分の絵でないことは明らかだった。ゴーリキイの心は、じかに、数千万のソヴェトの人々のところへ帰って行く自分を思っているにちがいなかった。伸子はそう思ってゴーリキイの年をとり、嘘のない彼の眼を写真の上に見るのだった。

 その晩、九時すぎてから伸子が廊下へ出たら、伸子たちの室と台所との間の廊下で、ニューラが妙に半端なかっこうでいるのが目についた。伸子は、自分の行こうとしているところへ、ニューラも行きたかったのかと思って、

「行くの?」

 手洗所のドアをさした。どこからか帰ったばかりのように毛糸のショールを頭にかぶっているニューラは、あわてて、

「いいえ。いいえ」

と首をふり、台所へ消えた。

 伸子が出て来たとき、台所のところからまたニューラの頭がちょいとのぞいた。どうしたのかしらと思いながら、伸子がそのまま室へ入ろうとするとうしろから、

お嬢さんバリシュニヤー!」

 すがるようなニューラのよび声がした。伸子は少しおどろきながら台所の前まで戻って行った。

「どうしたの? ニューラ」

「邪魔して御免なさい」

「かまわないわ。──でも、どうかしたの? 気分がわるいの?」

「いいえ。いいえ」

 ニューラはまたあわてたように首を左右にふりながら、浅黒い、鼻すじの高い半分ギリシア人の顔の中から、黒い瞳で当惑したように伸子を見つめた。

「きいて下さい、お嬢さんバリシュニヤー、わたし洗濯ものを干さなけりゃならないんです。奥さんハジヤイカが帰るまでに干しておかなけりゃならないんです。そう云って出て行ったんです」

 洗濯ものを干すことで、どうしてニューラがそんなにまごつかなければならないのか伸子にわからなかった。

「ニューラ、あなたいつも自分で干してるんでしょう? それとも奥さんがほしているの?」

「わたしが干しているんです。──でも、わたし、こわいんです」

 わたし、こわいんですと云いながら、ニューラはショールの下で本当にそこにこわいものが見えているように見開いた眼をした。

 黒海沿岸のどこかの小さい町で生れた十七歳のニューラは、ほとんど教育をうけていなかった。ソヴェトの娘としての心持にもめざまされていなかった。伸子たちが、ヨシミとサッサという二人の名を教えても、ニューラはその方がよびいいように昔風に二人をお嬢さんバリシュニヤーとよんだ。ルイバコフを主人ハジヤイン、細君を奥さんハジヤイカとよんでいる。モスクヷで、伸子たちをバリシュニヤーとよぶのは辻馬車の御者か町の立売りぎりだった。パン屋の店員でも女市民グラジュダンカとよんでいるのに、ルイバコフ夫婦が夏の休暇に南方へでも出かけたとき見つけて連れて来たらしいニューラの、雇女としての境遇は古くさくて淋しかった。

 こわいというニューラの言葉から伸子は、この間この建物の別の棟に泥棒がはいったという噂があったのを思いだした。

「ニューラ、その洗濯ものはどこへ干すの」

「物干場です」

「それはどこ?」

「上なんです。一番てっぺんなんです」

 やっと伸子にわかりかけて来た。物干場は五階のてっぺんだった。もう夜だのにニューラはそこへ一人で物を干しにゆくのがこわい、というわけなのだった。

「わかったわ、ニューラ、じゃ、わたしが一緒に行ったげる」

「ありがとう、お嬢さんバリシュニヤー。あなたは御親切です」

「外套をきて来るからね」

「わたし待ちます」

 伸子は室へ戻り、外套を出しながら、

「一寸ニューラが洗濯もの干すのについて行ってやることよ」

と素子に告げた。

「てっぺんで、一人でそこまで行くのがこわいんだって」

「──ぶこだって大丈夫なのかい? いまごろ」

「だって建物の中だもの」

「そりゃそうだけど……」

「大丈夫だことよ。じゃ、ね」

 ニューラとつれ立ってアパートメントを出た。ニューラは普通の外出のときのとおりちゃんと表戸をしめた。コンクリートのむき出しの階段には、それぞれの階の踊場に燭光の小さいはだか電燈がついているぎりで、しめきられたアパートメントのいくつもの戸と人っ子一人いない階段に二人の跫音あしおとが反響した。ニューラのこわがったのもわかる寂しさだった。二人は、黙って足早に六階まで登って行った。六階までのぼりきると、つき当りがガラス戸のしまった露台になっていて、右手に、やっぱりはだか電燈のついた一つのドアがあった。その前で止ると、

「ここなんです」

 ニューラはポケットから鍵を出してドアをあけた。はだかの電燈に照しだされて、天井の低いその広間いっぱいに綱がはられているのや、あっちこっちにいろんな物の干してあるのが見えた。床は砂じきだった。ニューラは二人でその物干場へ入ると、また内側から鍵をしめた。そして、伸子の先へ立って、ずんずん、ほし物の幾列かの横を通りすぎ奥に近いところに張りわたされている綱の下に、下げて来たバケツをおろした。張りわたした綱がひっかけられている大釘の上の壁に、アパート番号がはっきり書かれている。ニューラはダブルベッド用の大シーツや下着類を、いそいでその綱に吊るしはじめた。伸子が砂の上に佇んで待っているのでニューラは気が気でないらしく、

「じきです──じきです」

とくりかえした。

「いいのよ、ニューラ、いそがないでやりなさい。わたしはいそいでいないのよ。鍵をしめておけば、こわくもないわ──ニューラは?」

 ニューラは、すぐに返事をせず綱に沿って横歩きにものを干しつづけていたが、

「すこしは、ましです」

と、ぶっきらぼうに答えた。伸子は笑った。天井の低いうす暗いもの干場の空気はしめっぽくて、そこからぬけたことのない石鹸のにおいがした。

「きょうは、どうして、夜もの干しに来たの?」

 伸子が、その辺を眺めながら、ニューラにきいた。

「きょうは洗濯日じゃなかったんです」

「──じゃ、特別?」

「ええ。──さっき、洗ったんです。奥さんハジヤイカは、いそいでいるんです」

 不恰好に長い腕を動かしながらものを干している若いニューラの見すぼらしい姿を、伸子は可哀そうに思った。ソヴェトの家事労働者組合では、契約時間外の労働には一時間についていくらと割増を主人が支払うことをきめている。そんなことなんかニューラは知らないのだろう。ルイバコフ夫婦はニューラがそういうことを知らないのを、ちっとも不便とはしていないということも伸子にわかる。

「ニューラ、あなた両親がいるの?」

「死にました、二人とも。──二一年にチフスで、二一年には、どっさりの人が死んだんです」

 ジョン・リードのような外国人も、それで死んだし、この間素子がその著作集を買ったラリサ・レイスネル夫人のように類のすくない勇敢な上流出身のパルチザン指導者、政治部員だったひとたちも序文でみればその頃に死んだ。

「ニューラは一人ぼっちなの?」

「そうです」

 最後の下着を吊り終ったニューラは、そのまま足元へ押して来た、からのバケツをとろうとしてかがんだ。が、急にそれをやめて、斜うしろについて来ている伸子をふりかえった。そして、いきなり、前おきなしに、

「わたしの本当の名はニューラじゃないんです」

と云った。

「エウドキアなんです──でも、ここのひとたちはわたしをニューラとしかよばないんです」

 伸子は、思わずニューラの浅黒くてこめかみにこまかいふきでもののある若い顔を見つめた。その顔の上には、どう云いあらわしていいかニューラ自身にもはっきりわかっていない自身のめぐり合わせについての訴えがあった。伸子の眼に思いやりの色があらわれた。その伸子の眼をニューラも見つめた。夜の物干場のしめっぽくて石鹸の匂いがきつくこめて居る空気の中で、ほしものとほしものの間に向いあって、瞬間そうして立っていた二人は、やがて黙ったまま入口のドアの方へ歩き出した。ニューラが、黙ったまま鍵をあけ、外へ出て二人のうしろへ鍵をしめた。跫音を反響させながら、再び人気ない階段を下りて来た。

 四階まで下りて来たとき、伸子がきいた。

「ニューラ、あなたの月給はいくらなの?」

「十三ルーブリです」

「…………」

 もうじきで三階の踊場へ出る階段のところで伸子が、

「ニューラ、あなたがたの組合があるのを知っていて?」

ときいた。この間、ニキーツキイ門へ出る通りを歩いていたら歩道に面した空店の中で多勢の女が、大部分立ったまま何か会議していた。ドアのあいた店内へは通りすがりの誰でも入れた。伸子も入って立って聞いていたら、それは、家事労働婦人の組合の会議だった。伸子はその集会をみたりしていて独特にテムポのゆるい、重い、しかし熱心な空気を思いおこしてニューラにきいたのだった。

「知っています」

「じゃ、はいりなさいよ、そうすれば、友達が出来るわ。そこの書類にはエウドキアって本当の名を書いてくれるわ」

「わたしは書類をかきこむために主人ハジヤインにわたしてあるんです」

「いつ?」

「もう三月ばかり前に」

 三月まえと云えば、伸子たちがまだアストージェンカへ引越して来なかった時分のことだ。

「書いてくれるまで度々、たのみなさい、ね」

 もうそこは主人のドアの前だったので、ニューラは、気がねしたような声で、

「ええ」

と返事した。

 ベルを鳴らすと、素子が出て来て戸をあけた。ルイバコフ夫婦はまだ帰って来ていなかった。

「いやに手間がかかったじゃないか、どうかしたのかと思っちゃった」

「そうだった? 御免なさい。わたしたちは急がなかったのよ、そうでしょう? ニューラ」

 ニューラは台所の入口に立ってショールをぬきながら無言でにこりとしたぎりだった。



 あくる朝、ニューラはいつもどおり茶道具を運んで来た。そして丁寧に腰をかがめるような形で急須や水色ヤカンを一つ一つテーブルの上へおくと、関節ののびすぎた両方の腕を、いかにも絶望的にスカートの上へおとして、

「オイ! わたし、不仕合わせなことになっちゃったんです」

 呻くように、

「オイ! オイ!」

と云いながら胸を反らし、両腕で、つぎのあたった茶色のスカートをうつようにした。その動作は、いつか赤い広場のはずれで素子が物売女の顔をぶったとき、仰山な泣き真似をしながら物売女がオイ! オイ! と大声をあげたそのときの身ぶりとそっくりだった。

「どうしたのさ、ニューラ」

 ニューラの大袈裟げさな様子をいやがるように素子がきいた。

「盗まれちまったんです! オイ!」

「なにを盗まれたのさ」

「洗濯ものを。──ゆうべ乾した洗濯ものがみんな無いんです。盗まれたんです」

「ゆうべ乾したって……」

 素子が、おどろいた顔を伸子にむけた。

「ぶこちゃんが一緒に行ってやった分のことかい?」

「ニューラ、落付きなさい。わたしと一緒にゆうべ乾したものが、無いの?」

「その洗濯ものが、けさまでに、一枚もなくなったんです──わたしに何の罪があるでしょう。こんなことがなくたって、わたしはちっとも仕合わせじゃあないのに……何て呪われているんだろう。何のために、わたしに大きな敷布がいるでしょう」

 ニューラの頬を涙が流れた。

「奥さんは、わたしが盗んだにちがいないと思っているんです。もう電話かけました。警察犬をよんで、わたしの体じゅうを嗅がせるんです。オイ!」

 最大の恐怖が、警察犬にあらわされてでもいるかのようにニューラはますます涙を流した。

「ニューラ、あなた、物干場を出るとき鍵をかけたことはたしかに思い出せるでしょう!」

「わたしが鍵をかけたって何になるでしょう。あすこに入る鍵はこの建物じゅうの住居にあるんです……警察犬が来たら、わたし、この建物じゅうの人たちを嗅がせてやるんだから──オイ!」

 ニューラは涙をふきもせず濡れたほっぺたをしたまま室を出て行った。

「どうしたっていうんだろう」

 ゆうべ見た夜ふけの物干場の光景や人気なかった階段の様子を思い浮べながら伸子が気味わるいという顔をして素子をかえりみた。どういうわけで、ニューラの干したものばかり、盗まれたのだろう。濡れた洗濯ものからはあのときまだ床にしかれた砂の上へ水がたれていたのに。ニューラの荷物と云えば、台所の壁についている折り畳み寝台の下に置かれている白樺の箱の一つだった。

「──こんなことがあるから、つまらないおせっかいなんかしないがいいのさ」

 不機嫌に素子が云った。迷惑をうけるばかりでなく、そんな風ならゆうべだってどこに危険がかくされていたのかもしれないのに。そういう意味から素子は不機嫌になって伸子の軽率をとがめた。

「なにか特別なものがあったの?」

「いいえ。シーツが二枚に女の下着やタオルよ。──変ねえ、よそのだってあんなに干してあったのに……」

 災難がルイバコフ一軒のことだとは伸子に信じられなかった。

「ニューラは知らなくっても、きっとよそでもやられているんでしょう、いやねえ」

 素子は大学へ出かける仕度をしながら、こういうときの彼女の云いかたで、

「わたしは知らないよ」

 わざとちょいと顎をつき出すような表情で云った。

「まあ犬にでも何でも嗅がせることさ」

 そして、出て行った。


 伸子は、一人になってテーブルの上を片づけ、自分の場所におちついた。書きかけた半ぺらの原稿紙はもう三十枚ばかりたまって、ニッケルの紙ばさみにはさまれている。きのう書いた部分をよみ直したりしているうちに、朝おきぬけからの泥棒のさわぎを忘れた。藍色のケイがある原稿紙に、モスクヷ出来の粗悪な紫インクで伸子はしばらく続きを書いて行った。伸子はこの間の復活祭の夜のことを書きかけていた。

 宗教は阿片である。と、ホテル大モスクヷの向いの反宗教出版所の飾窓にプラカートが飾られている。しかし一九二八年の、ソヴェトで復活祭パスハを行った教会はどっさりあった。パスハの前日、往来の物売りは、ほんの少しだったが色つけ玉子を売っていたし、経木に色をつけた祭壇用の造花を売っていた。フラム・フリスタ・スパシーチェリヤでは、金の円屋根の下に礼拝堂の壁が幾百本かの大蝋燭でいっせいに煌きわたり、モスクヷ第一オペラ舞踊劇場の歌手たちが、聖歌合唱に来た。伸子と素子もフラム・フリスタ・スパシーチェリヤへつめかけた群集の中にまじった。宗教は阿片である、という言葉なんか知られていないところのような大群集であった。その群集には男よりも女の数が多く目立った。そして、混雑ぶりに一種の特徴があるのが伸子の興味をひいた。白髪で金ぴかの服装の僧正が、香炉の煙のなかでとり行う復活祭の儀式は、復活祭の蝋燭を手にもって祈祷の区切りごとに胸に十字を切っている年とった連中にとってこそ信仰の行事であろうが、多数の若い男女にとっては、ただ伝統的な観ものの一つとしてうけとられるらしかった。そういう感情のくいちがいからあちこちで、群集の間に口喧嘩がおこっていた。それは、人間の歴史のつぎめにあるエピソードであり、伸子はそれが書いて見たかった。

 相変らず時々ひどい音をたてて電車がとおる。そのたびに机の上のコップにさされているミモザのこまかい黄色の花がふるえた。伸子は自分の心の中で何かと格闘しているような緊張を感じながら書いて行った。

 モスクヷの印象記を書こうとしはじめてから、伸子はこれまで経験されなかったその緊張感を自覚した。その感じは、書き進んでも消えなかった。ソヴェトの社会現象はその印象を書きはじめてみると、ひとしおその複雑さと嵩のたかさとで伸子を圧倒しそうになるのだった。

 モスクヷの印象記を、伸子は、自分が感じとったままの感銘と感覚であらわして行きたいと思った。伸子はいつも眼から、何かの出来事と情景から、色彩と動きと音と心情をもってモスクヷを感じとって来た。そのテムポ、その気ぜわしさ、一つ一つに深い理由のある感情の火花や風景。それらをみたように、あったように表現しようとすると伸子の文体はひとりでに立体的になり、印象的になり、テムポのはやい飛躍が生じた。そして断片的でもあった。

 エイゼンシュタインの映画やメイエルホリドの舞台と、どこか共通したようなところのある伸子の文体は、伸子自身にとって馴れないものだった。けれども、生活の刺戟は、ひとりでに伸子にそういう様式を与え、伸子は、そうしかかけなくて書いているのだった。

 伸子がモスクヷに生きている現実のいきさつを辿れば、モスクヷは伸子が印象記にかいているように伸子のそとに見えている現象だけのものではなかった。伸子は眼から自分の中へ様々のものをうけ入れ、自分というものをそれによって発掘してもいた。たとえばゴーリキイ展のときのように。しかし、そのようにして一人の女の内面ふかく作用しながら生かしているモスクヷとして印象記を描き出す力は、伸子にまだなかった。伸子には影響をうけつつある自分がまだはっきり自分につかめていなかった。伸子はおのずからの選択で主題を限ってその印象記を書いているのだった。

 伸子が、復活祭パスハの夜群集の中で目撃した婆さんと若い娘の口争いをかき終ったときだった。ドアをたたくものがあった。

「はいっていいですか」

 ニューラのしめっぽい声がした。伸子はけさの泥棒さわぎを思い出した。警察犬が来たのかと思った。そういう職業人に、その人々によめない日本字でうずめられた原稿を見られたくなかった。伸子はいそいで椅子から立ち、紙ばさみのなかへ原稿をしまいながら、

「お入りなさい」

 改まった声をだした。

 入って来たのはニューラだけだった。泣いて唇のれあがった顔つきではいって来た。

「どうしたの? ニューラ」

 また椅子に腰をおろした伸子のわきに、だまって自分の体をくっつけるようにして佇んだ。ニューラの着ているものからは、かすかに台所の匂いがした。警察犬が、いま来るかいま来るかと思いながら一人ぽっちで台所にいるのが、ニューラに辛抱できなくなって、到頭伸子のところへ来たことは、室へ入って来たものの、そのまま途方にくれたようにしているニューラのそぶりでわかった。

「ニューラ。こわがるのはやめなさい。犬は正直だから、ニューラのところに洗濯ものなんかかくしてないことはよくわかることよ」

 そうはげまされてもなお半信半疑の表情で、窓からフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根を眺めていたニューラは、

「奥さんは、わたしを疑っているんです」

 深く傷つけられて、それを癒す道のない声の調子でつぶやいた。

「奥さんは、わたしが不正直でも九ヵ月つかっていたでしょうか」

 すすり泣くように大きな息を吸いこんでニューラは、

「ああ。悲しい」

と全身をよじるようにした。

「いつだってあのひとたちはそうなんです」

 ニューラは、気の上ずったような早口で喋りはじめた。伸子たちがここへ移って来る前、オルロフという山羊髯の気味のわるい男の下宿人がいた。山羊髯のオルロフは何でも特別彼のためのものをもっていた。ニッケルの特別な彼の手拭かけ。特別な彼の葡萄酒コップ。そして、彼はいつでも机の上へバラで小銭をちらばしていた。

「あのひとは何故、小銭をそうやって出しておかなけりゃならなかったでしょう──わたしがとるのを待っていたんです。わたしをためしているのがわかっていたんです。朝と夜の時間に、あのひとは何度わたしを呼びたてたでしょう。可愛いニューラ、どうぞこれをしておくれ。親切なニューラ、あれをしなさい」

 ニューラは憎悪をこめて、「可愛いニューラ、どうぞこれをしておくれ」「親切なニューラ、あれをしなさい」と云うときの山羊髯のオルロフという男の口真似をした。

「口でそう云いながら、眼はいつだってわたしを睨んでいたんです。いつだって──笑うときだって、あのひとは唇でだけ笑ったんです」

 伸子は、時計を見て、立ちあがった。

「ニューラ、わたし正餐アベードのために出かけなくちゃならないわ」

 ニューラは、自分が用もないのに伸子のところに来ていたことが急に不安になった風で、

お嬢さんバリシュニヤー

 哀願するように伸子を見た。

「わたしがこんなこと話したって、どうか奥さんに云わないで下さい」

「心配しないでいいのよ、ニューラ。──でもあなたは淋しいのよ、一人ぼっちすぎるのよ、だから、あなたには組合がいるのに」

 室を出て行こうとするニューラに伸子は、外套を着ながら云った。

「犬が来ても、あなたは自分が正直なニューラだということを考えて、こわがっちゃ駄目よ」

 四時に、伸子は素子とうち合わせてある菜食食堂の二階へ行った。普通の食堂とちがってあんまり混んでいない壁際の小テーブルに席をとり、その席へこれから来る人のあるしるしに向い側の椅子をテーブルにもたせかけた。モスクヷの気候が春めいて来てから、素子は、日本人の体にはもっと野菜をたべなければわるい、と云いはじめた。そこで、三日に一度は菜食食堂へ来ることになったのだった。

 素子の来るのを待ちながら、伸子はそこになじむことのできない詮索的な視線であたりを眺めていた。モスクヷでも食堂へ来て食べるひとは、女よりも、男の方が多かった。ここでも大部分は男でしめられているのだったが、菜食食堂でたべる男たちは、概してゆっくり噛んでたべた。連れ同士で話している調子も声高でなく、よそではよく見かけるように食事をそっちのけで何かに熱中して喋り合っているような男たちの光景は、ここで見られなかった。常連の中には、髪を肩までたらしたトルストイアンらしい風采の男もある。伸子がみていると、菜食食堂へ来る人は、みんな体のどこにか故障があって、内心に屈託のある人のようだった。さもなければ、自分の食慾に対して何かその人としてのおきてをもち、同時にソヴェト政権の驀進ばくしん力に対しても何かその人だけの曰くを抱いていそうな人たちだった。こういう会食者たちに占められている菜食食堂の雰囲気は、体温が低く、じっとりと人参やホーレン草の匂いに絡み合っているのだった。伸子は落付きのわるい顔をして、ちょいちょい食堂の壁の高いところについている円い時計の方を見あげた。

 素子は二十分もおくれた。

「ああおそくなっちゃった。何か註文しておいた?」

「あなたが来てからと思って……」

「じゃ、すぐたのもうよ」

 二人は薄桃色の紙によみにくい紫インクでかかれた献立表を見て食べるものを選んだ。

「どうした? 来たかい?」

 泥棒詮議のことを素子が訊いた。

「わたしが出かけるまでは何にも来なかったわ」

 素子は存外こだわらず、

「ま、いいさ」

と云った。

「われわれの部屋だって鍵ひとつないんだから、犬に嗅がせるなら嗅がしてみるさ」

 アストージェンカの室へ移ってから、伸子と素子の生活条件は、一方では前よりわるくなった。室はせまくてぎゅうぎゅう詰めだし、テーブルは一つしかないのを、二人で両側から使っている有様だった。けれども新しい生活のそんな窮屈ささえもモスクヷではあたりまえのこととして伸子が却って落付けたように、素子もアストージェンカへ来てから、大学の講義をききはじめ、神経質でなくなった。泥棒さわぎにしろ、そのことに伸子がいくらかひっかかっているような状況だのに、素子はその点を伸子がひそかにおそれたよりも淡泊にうけた。

 菜食食堂を出て伸子と素子とは散歩がてら大学通りの古本屋へまわった。よごれた白堊の天井ちかくまで、三方の壁を本棚で埋めた広い店内はほこりぽくて、夜も昼も電燈の光で照らされていた。入れかわり立ちかわりする人の手で絶えず上から下へとひっくりかえされている本の山のおかれている台の脚もとに、繩でくくられたクロポトキン全集がつまれていた。伸子は偶然、一九一七年から二一年ごろに出版された書物だけが雑然と集められている台に立った。その台には、ひどい紙だし、わるい印刷ではあるが、この国内戦と飢饉の時代にもソヴェトが出版したプーシュキン文集だのゴーリキイの作品集、レルモントフ詩集などが、今日ではもう古典的な参考品になってしまったプロレトクリトのパンフレットなどとまじっている。

 伸子がその台の上の本を少しずつ片よせて見ているところへ、素子が、より出した二冊の背皮の本をもって別な本棚の方から来た。

「なにかあるのかい」

「──この間のコロンタイの本──こういうところにならあるのかしら」

「さあ。──何しろもうまるでよまれてないもんだから、あやしいな」

 素子が勘定台へ去ったあと、なお暫く伸子はその台の本を見ていた。

 一週間ばかり前日本から婦人雑誌が届いた。それに二木準作というプロレタリア作家が、自分の翻訳で出版したコロンタイ夫人の「偉大な恋」について紹介の文章を書いていた。二木準作は、その作家もちまえの派手な奔放な調子でコロンタイの恋愛や結婚観こそ新しい世紀の尖端をゆくモラルであり、日本の旧套を否定するものはコロンタイの思想を学ぶべきであるというような意味が、若い女性の好奇心や憧憬を刺戟しながら書きつらねられていた。

 アストージェンカの室でその文章をよんで、伸子は一種のショックを感じた。伸子たちがモスクヷへ来た時、コロンタイズムは十年昔の社会が、古いものから新しいものにうつろうとした過渡期にひき出された性的混乱の典型として見られ、扱われていた。むしろ、性生活の規律や結婚の社会的な責任、新しい社会的な内容での家庭の確立のことが、くりかえしとりあげられていた。「偉大な恋」はコロンタイ夫人が、国内戦の時代にかいた小説だった。その中で、新しい性生活の形として、互の接触のあとには互に何の責任ももたず、結婚、家庭という永続的な形へ発展する必要も認めないのが、唯物論の立場に立つ考えかただという観念がのべられている。その誤りは、本質的に批判されていた。唯物的であるということの現実は、めいめいの恋愛や結婚そして家庭生活の幸福の基礎が、働いて生きる男女の労働条件が益々よくなってゆくこと、社会連帯の諸施設がゆきわたり、住宅難、食糧、托児所問題などがどしどし解決されてゆくその事実に立つものだということが、いつか自然と伸子にものみこめて来ていた。あらゆる場面でそれはそのように理解されているのだった。

 婦人雑誌の上で二木準作のコロンタイズム礼讚の文章をよんで伸子が感じたショックは、十年おくれの紹介が野放図にされているというだけではなかった。伸子は女としてその文章をよんだとき、本能的ないとわしさを感じ、胸が痛む思いがした。プロレタリア作家だという二木準作は、社会主義というものに対して責任を感じないのだろうか。伸子は、二木という人物の心持をはかりかねた。伸子たちが日本を去る頃、マルクスボーイとかエンゲルスガールだとかいう流行語があった。伸子はあんまり出会ったことがなかったが、菜っ葉服をきた若い男女が銀座をのしまわすことが云われていた。その時分、ジャーナリズムにはエロ、グロ、ナンセンスという三つの言葉がくりかえされていた。コロンタイズムを紹介している二木準作の調子は、その三つの流行語のはじめの一つと通じているようだった。伸子の女の感覚は、それを扱っている二木準作の興味が理論にはなく、そういう無軌道な性関係への男としての興味があると感じた。もっとつきつめて云うと、日本の男の古来の性的放恣ほうしに目新しい薬味をつけ、そういう空想にひかれて崩れかかる若い女たちの危さを面白がるような気分を、伸子はよみとったのであった。もし、もっともっと社会的に保証された男と女とその子供たちとが、たのしく安全に生きて、社会に価値のある創造をしてゆくよりどころとしての家庭を確立させなくていいのなら、コロンタイがいうように結婚や家庭や子供がけちらされてしまっていいものなら、社会主義なんかいりはしない。伸子は激情を動かされて素子を対手に議論した。

「生産手段と政権をプロレタリアートがとれば社会主義だなんかと思っているんなら、それこそバチが当る、……人間は、それだけのためにこんな苦労をしてやしないわよ、ねえ。人間の心も体も、個人と社会とひっくるめて、ましに生きようと思うからこそ、骨を折っているのに……」

 伸子は二木準作をしんからいやに感じる心の一方で思うのだった。ソヴェトにある数千の托児所や子供の家、産院は何を意味して居るだろうか、と。数百の食堂は不十分ではあっても働く女の二十四時間にとって何を語っているだろう。結婚の社会的な責任が無視されているならば、無責任な父親である男に課せられているアリメントの法律的な義務は存在するはずがない。

 伸子が、二木準作のコロンタイズム宣伝について憤懣する心の底には、そのとき云い表わされなかった微妙な女の思いがあった。伸子は佃とああいう風に結婚し、ああいう風にして離婚した。もう四年素子と二人の女暮しをして、伸子は、どういう男の愛人でもなかった。恋や結婚の問題は、伸子のいまの身に迫っていることではないようだった。そして、もし伸子に質ねる人があったら、伸子はやっぱり、いま結婚を考えていないと答えたであろう。その返辞は偽りでなかった。佃が悪い良人だったから伸子が一緒に暮せなかったのではなかった。佃は常識からみればいい良人であった。しかし伸子には佃のそのいい良人ぶりが苦しいのだった。平和で不自由のない家庭を自分たちだけの小ささで守ろうとすることに疑問のもてないいい良人ぶりが、伸子を窒息させたのだった。それ故、伸子がいま結婚を考えていない心には、佃とは別な誰か一人の男を見出していない、というよりも、伸子が経験した結婚とか家庭とかいうそのものの扱われかたに抵抗があるのだった。

 モスクヷへ来て半年近くなる伸子の感情には、結婚や家庭のありかたについて、ぼんやりした新しい予測と、同時に、どこかがちぐはぐな疑問が湧いて来ていた。伸子がみるソヴェトの生活で、たしかに社会的な施設は幸福の可能に向って精力的につくり出されていた。だけれども、彼女のふれたせまい範囲では、伸子の女の気持がうらやましさで燃え立つほど、新鮮でゆたかな結合を示している男女の一組を見たと思ったことはなかった。ルイバコフの夫婦にしろ、ケンペル夫妻にしろ、そして、並木道ブリヷールをぞろぞろと歩いている無数の腕をくみ合わせた男女たちにしろ。

 然し、そういう何の奇もない男と女とが、平凡な勤勉、多忙、平凡な衝突、平凡な移り気や官僚主義など、ソヴェト風な常套の中に生きている姿の底を支えて、伸子が生きて来た日本の社会では、どんな秀抜な資質のためにも決して存在しなかった一人一人の女の、働く女として、妻として、母として、お婆さんとしての社会保護が、社会契約で実現されていることに思い及ぶと伸子はやはり感動した。自分も女であるということに奮起して、伸子は元気を与えられるのだった。伸子の心の中にいくらかごたついたまま芽生えはじめた女としての未来への期待、確信めいたものが、二木準作のコロンタイズムに対して、女にだけわかる猛烈さで抗議するのだった。

 コロンタイの本は、結局その古本屋にもなかった。帰って来て、ルイバコフのベルを鳴らすと、ドアをあけたニューラの顔が明るかった。すぐ素子が、

「どうした? ニューラ?」ときいた。

「犬に嗅いでもらったかい?」

 するとニューラは、うしろをふりかえってルイバコフたちの住んでいる室のドアがしまっているのをたしかめてから、

「わたしには犬の必要がなかったんです」

 小声で、勝ちほこって云った。

「あの人たちは、よその家の敷布もどっさり盗まれているのを見つけたんです──御覧なさい! あの人たちはいつもあとから分るんです」

 うれしくて仕方のない感情を、ほかの仕草であらわすすべを知らないニューラは、いそいで廊下を先に立って行って、伸子と素子とのための二人の室のドアをあけた。



 メーデイの日のために、伸子たちは対外文化連絡協会から、赤い広場への入場券をもらった。

 その朝はうす曇の天候で、気温もひくかった。モスクヷの街々では電車もバスもとまった。辻馬車の影もないがらんとした通りを、赤い広場へむかって、人々がまばらにいそいで行く。行進をする幾十万という人々は、みんなそれぞれの勤め先から旗やプラカートをもってくり出して来るから、ばらばらに赤い広場の方へ歩いているものはごく少数で、しかも何かの事情で行進には参加しない連中らしく見うけられる。伸子と素子も、そのばらばらの通行人にまじって、中央美術館前の大通りを、アストージェンカから真直に赤い広場へ歩いて行った。

 うすら寒いような五月一日の天気にかかわらず、歩道をゆく人々は、今朝はすっかり夏仕度だった。くすんだ小豆色のレイン・コートじみた合外套にハンティングをかぶった男連のシャツやルバーシカは、白かクリーム色だった。女の半外套の下からは、寒くないのかとびっくりするような薄い夏服の裾がひらめいた。伸子たちのすぐ前を、黒い半外套の下からヴォイルのような夏服を見せた三人づれの若い娘たちが歩いて行っていた。三人おそろいのプラトークで頭をつつんで、派手なその結びめが、大きい三つの蝶々のようにひらひらする。それを追うように伸子たちも無言で速く歩いた。午前十時から赤い広場の行進がはじまる、その三十分前に、参観者たちは広場の中のきめられた場所へ到着しているように指定されているのだった。

 猟人広場まで来ると、もうトゥウェルスカヤ通り一杯につまって、行進が定刻の来るのを待機していた。大きい赤地のプラカートをもった行進の先頭はトゥウェルスカヤ通りが猟人広場に向ってひらく鋪道のギリギリの線まで来ていて、ゆるく上りになっている通りをずっとかみてへ見渡すと、トゥウェルスカヤ通りは、目のとどく限り人と赤い旗の波だった。左右の高い建物の窓から窓へとプラカートが張りわたされている。広場をこして大劇場通りの方を眺めると、こっちにはモスクヷの商業地帯、官庁地帯から出て来た幾列もの行進で、赤く賑やかにつまっている。いまにも溢れんばかり街すじに漲っている巨大なエネルギーをきとめて、特別清潔に掃除されている猟人広場の石じきの空間は、けさ全く人気が少なかった。ところどころに、整理のための赤軍兵と民警が立っているだけだった。

 きれいに掃かれてがらんとしている猟人広場を横ぎって赤い広場の方へ歩いて行きながら、伸子はたがいちがいに運ぶ自分の脚の短かさを妙にぎごちなく意識した。伸子はこれまでに、人間のこんな陽気な大群集を観たことがなかったし、その大群集がこんな秩序をもって待機している光景を見たことはなかった。まして自分が、特権でもあるように、箒目ほうきめの立った清潔な広場を整理員に見まもられながらよこぎってゆく経験ももっていなかった。伸子は、厳粛な顔つきで、赤い広場の右側、クレムリンの外壁沿いにつくられている観覧者席へ入って行った。

 各国の外交団のための観覧席と、伸子たちの入った民間日本人の観覧席との間に、赤い布で飾られた高い演壇がこしらえられていた。そこがソヴェト政府の指導者たちの立つところらしかった。そこはまだ誰も見えていない。

 太い綱をはって、広場の片隅を区切っているだけの観覧席には、秋山宇一、内海厚、そのほか新聞関係の人とその細君などが先着していた。

「や、来られましたね」

 ハンティングをかぶった秋山宇一が、入って来た伸子たちに向ってうなずいた。

「あいにく、寒いですね」

「それでも降らなかったから大助りですよ」

 素子が答えながら、はすうしろに立っていた新聞の特派員とその細君に会釈した。大柄な体に、薄手な合外套のボタンを上までしめている特派員はいくらか近づいて来るようにしながら、

「あなたがた、最近の日本の新聞を御覧でしたか」

と伸子たちに話しかけた。

「──最近のって云ったところで、わたしたちのは、どうせ幾日もかかってシベリアをやって来るんですがね──何かニュースがあるんですか」

「日本の共産党事件──よまれましたか」

「ああ、よみました──ひどく漠然とした記事ですね、何が何だか分らなかった」

「──そう云えばそうだが、吉見さんなんか、あらかじめこっちへ逃避というわけじゃなかったんですか」

 うす笑いをしながらそういう特派員の言葉を、素子はぼんやりした顔つきできいていたが、急にその特派員の方へくるりと向きかわって、

「冗談にしろ、そんなこと、迷惑ですよ」

 きめつけるように、真顔で云った。そして、秋山宇一をかえりみながら、いくらか皮肉な調子をこめて、

「秋山さんこそ、どうなんです?」

と云った。

「あなたは、大丈夫なんですか」

「今も塩尻君に様子をきいていたところですがね」

 例の癖で自分に向ってうなずくように首をふりながらその特派員の名を云って秋山宇一が答えた。

「友人のなかには、やられたものが相当あるらしい工合ですよ」

 そう云いながら、秋山宇一はどことなく肩をすぼめるようにして、それも癖の、小さい両手を揉み合わせながら、仕切り綱に上体をのり出させ、

「──まだ誰も見えませんか?」

 赤い布飾りのついた演壇の方をのぞいた。折角、モスクヷのメーデイを見に来ているところで、これからじき帰って行こうとしている日本では、共産党という秘密結社が発見されて、全国で千余名の人々がつかまった、というような報道を、どこかその身に関係がありそうに話されたのを秋山宇一が快く感じていない表情は、ありありとうけとられた。

 秋山宇一が、その話をさけたそうに体をのり出させて眺めている赤い演壇の方を一緒に見ながら、伸子も、メーデイの朝の気分にそぐわない、いやな気持でそのことを思いだした。伸子たちは、ついおととい着いた日本からの新聞で、一ヵ月近く前の三月十五日の明け方、「官憲は全国一斉に活動を開始し」という文句で書かれている共産党検挙の事件が解禁になった記事をよんだのだった。初号の大見出しで一面に亙って、五色温泉で秘密の会合をした仮名の人々のことだの、大学教授や大学生がどっさり関係していること、内相談、文相談と、いかにも陰謀の一端をもらすという風につかみどころなく、しかも動顛のおおえない調子で報道されていた。動坂の家からモスクヷにいる伸子あてに送ってよこした朝日新聞の四月十一日のその記事の大見出しのところには、赤インクで長いかぎがついていた。銀行ペンに濃い赤インクをつけて、大きく、長く、抑揚のある線でかけられたかぎは、まぎれもない父の泰造の手蹟であった。

 三月十五日の記事にかけられている赤インクのかぎを見たとき、伸子は、いやな刺戟を感じた。記事そのものが漠然としている上に、そういう運動を知らない伸子には、全国的検挙という事実さえ、実感に迫って来なかった。共産党という字が、いたるところで目にふれるモスクヷでは政治について知らない伸子も、世界の国々に資本家の代表政党があるからには、勤労階級の共産党があるのは当然と思うようになっていた。泰造のペン先でつけられた赤インクのかぎは、そんな風にのんびりと、日本の現実について無知なまま自由になっている伸子の体のどこかを、その赤いかぎでひっかけて、窮屈なところへ引っぱり込もうとするような感じを伸子に与え、伸子は抵抗を意識した。

 うす曇りのメーデイの朝、赤い広場の観覧席の仕切り綱の中に立って、まだ空っぽの赤い演壇の方を眺めながら、伸子は、素子と記者との間に交わされた話から、赤インクのかぎの形を生々しく思い出した。抵抗の感じがまた全身によみがえって来た。その抵抗の感じは、すべての感受性をうちひらいてメーデイの行事を観ようとして来ている伸子の軟かい心と、瞬間鋭く対立した。観覧席で、まわりの人々は腕時計を見たり、とりとめなく話し合ったりしながら折々期待にみちた視線を赤い広場の入口へ向けている。その中に交っている伸子の背の低い丸い顔は、質素な紺の春コートの上で、弱々しいような強情のような一種の表情を浮べた。

 そのとき、何の前ぶれもなしに、突然猟人広場の方から轟くようなウラーの声がつたわって来た。観覧席は俄に緊張し色めきたった。

「スターリンですか」

「さあ……」

「見えますか」

「いいや」

 尾の房々と長く垂れた白馬にまたがった一人の将校を先頭に黒馬にった十余人の一団が、猟人広場の方から赤い広場へ入って来た。広場へ入ると、その騎馬の一団は広場のふちにそって跑足だくあしで外交団席の前を通り、赤い演壇の下を進んで、伸子たちのいる観覧席の少し手前まで来た。観覧席に向って進んで来る白馬の騎兵をじっと見守っていた伸子が、

「ブジョンヌイよ!」

 びっくりしたような、よろこばしいような声を立てた。

「あの髭! あの髭はブジョンヌイだわ!」

 白馬にのった将校の顔の上には、ほかの誰もつけていない大きい黒髭が、顔はばを超して左右にのびていた。

「ほんとだ!」

 素子も、おもしろそうに肯定した。一九一七年から二〇年にかけてウクライナで革命のために活躍した第一騎兵隊と云えば、その英雄的な物語は戯曲のテーマにもなっていた。ブジョンヌイは、その第一騎兵隊の組織者、指導者として、コサック風の大髭とともに、伸子のような外国人にさえ親愛の感情をもたれていた。

 騎馬の一団は、伸子たちが目をはなさず見守っている観覧席の前を通りすぎて、一番はずれの観覧席のところまで行った。そこで馬首をめぐらして、広場の遠いむこう側を、すこし速めた跑足で、再び入口に向ったときだった。それが合図のように、赤軍の行進が猟人広場の方の門から広場へ流れこんで来た。見る見る広場が埋められはじめた。すると、一台、大型オープンの自動車が伸子たちの観覧席の前をすべるようにすぎて、クレムリンの河岸に近い門の方へ去った。

「自動車が行きましたね。じゃ、スターリンが来たんです」

 秋山宇一が確信ありげにそう云って、伸子と一緒に仕切り綱の上へのり出したとき、クレムリンのスパースカヤ門の時計台からインターナショナルの一節がうちだされた。それから一つ、二つ、と時をうって十時を告げ終ったとたん、赤い広場からそう遠くないところで数発の号砲がとどろいた。

 メーデイの儀式と行進とはこうして、うすら寒い五月の赤い広場ではじまった。真横にあたる伸子たちの観覧席からは、骨を折っても赤い演壇の上の光景は見わけられなかった。広場の四隅につけられている拡声機から、力のこもった、しかし誇張した抑揚のちっともない、語尾の明晰なメーデイの挨拶の言葉が流れて来た。演壇の上が見られない伸子は気をもんで、かたわらの素子に、

「いま話しているの、スターリン? そう?」

ときいた。

「そうなんだろう、わたしにだって見えやしないよ」

 声にひかされるように、伸子は、見えない演壇の方へ爪先立った。伸子は、日本の共産党検挙の記事や、その記事に父のペンでかけられていた赤インクのかぎのことを忘れた。

 スターリンの声と思われた演説が終ったとき、広場をゆるがし、その周囲にある建物の壁をゆすってソヴェト政権とメーデイのためにウラーが叫ばれた。ブジョンヌイは、その間じゅう白馬に騎って、演壇の下に、赤軍の大集団に面して立っていた。

 やがて、拡声機から行進曲が流れ出して、赤軍が動きはじめた。歩兵の大部隊がゆき、騎兵の一隊が、隊伍に加った大髭のブジョンヌイを先頭に立てて去り、機械化部隊が進行して行った。つづいて労働者の行進が広場へ入って来た。

 まちまちの服装で、ズック靴をはいて、プラカートをかかげた人々の密集した行進が来るのを見たとき、伸子の眼のなかにさっと涙が湧いた。この人々は何とむき出しだろう。なんとめいめいが体一つでかたまりあっているだろう。いかつく武装をかためた機械化部隊のすぎたあとから行進して来た労働者の隊伍は、あんまりむきだしに人間の体の柔かさや、心や血の温かさを感じさせ、伸子は自分の体をその生きた波にさらいこまれそうに感じた。年をとった男、若い男、同じようにハンティングをかぶり、娘もおかみさん風の婦人労働者もとりどりのプラトークで頭をつつみ、質素な清潔さで統一されているが、ソヴェトの繊維品生産はまだ足りないということは行進する人々の体に示されていた。何という様々の顔だろう。さまざまの顔のその一つ一つに一つずつの人生がある。心がある。けれども、きょうのメーデイに行進するという心では一つにつながっていて、クレムリンの城壁をこして空高くゆるやかに赤旗のひるがえっている広場へ入って来る列は、演壇から行進に向って挨拶されるローズング(スローガン)に応えて心からのウラーをこだまさせてゆく。蜿蜒えんえんとつらなる行進の列は、演壇の下を通過するとき、数百の顔々を一斉に演壇へ向けて、ウラーを叫んだ。広場には行進曲が響いている。それにかまわず自分たちのブラス・バンドを先頭に立てて来る列もある。さっきから祝い日の低空飛行として広場の上空に輪を描いている二台の飛行機の轟音さえもたのしい音楽の一つとして、八十万人と予想されている大行進は猟人広場の方の門から入って来てはモスクヷ河岸の門へ流れて出てゆく。

 そっちの方角を埋める人波と、人波の上にゆれるプラカートの林立を眺めていて、伸子は、いつも特別な思いで眺める首の座ローブヌイ・メストが見えないのに気がついた。赤い広場のその方角に、いつも灰色の大きい石の空井戸のような円形の姿をみせて、そこでツァーが首斬った人民の歴史を語っている首の座ローブヌイ・メストは、メーデイの人波とプラカートの波の下にかくれてしまっている。そのまわりに来たとき、人々は列をくねらしてよけて通って行っているのだろうけれども、伸子のところからは、そのうねりさえ認められなかった。首の座ローブヌイ・メストはメーデイの行進の波にのまれてしまっている。

 伸子の心には閃くように、三月十五日の記事にかけられていた赤インキのかぎの形が浮んだ。それはいま、一つの象徴として伸子の心に浮んだ。実際よりもはるかに巨大な形をもって。父の泰造が伸子に送る新聞につけてよこした赤インクのかぎはいまその形をひきのばされ、首の座ローブヌイ・メストを埋めて動いている数万の人々の上に幻のように立つようだった。しかし、そんな不吉の赤インクのかぎを見るのは伸子一人にちがいなかった。そしてそのかぎの下に入れられそうな感じに抵抗しているのも伸子一人にちがいなかった。伸子は実にはっきり自分がちがう歴史のかげの下にいるのを感じた。

 終りに近づいたメーデイの行進は、数十万の靴の下でポクポクにされ熱っぽくなった広場の土埃りの中を、きょうは一日中おくられる行進曲につれて、いくらか隊伍をまばらに通っている。

 最後の行進が通過した。気がついた伸子が演壇の方を見たら、いつかそこも空になっていた。伸子、素子、秋山宇一、内海厚の四人はひとかたまりになって、ぐったりとくたびれたようになった赤い広場を猟人広場へ出て来た。

 この辺はひどい混雑だった。行進を解散したばかりの群集が押し合いへし合いしている間を縫って、赤いプラトークで頭をつつんだ娘をのせた耕作用トラクターが、劇場の方からビラをき撒きやって来た。伸子たちは、やっとそこを抜けてトゥウェルスカヤの通りの鋪道へわたった。赤いプラカートの張りわたされているここも一杯の人出で、空気はもまれ火照ほてっている。

「ぶこちゃん、ちょっとパッサージへよってお茶をのんで行こうよ」

 素子がそう云って秋山に、

「パッサージ、やっていますか」

ときいた。

「さあ──どうでしょう──やっているでしょう」

「やってます、やってます」

 内海厚が、わきから早口に答えた。


 伸子たちは、靴を埃だらけにして、アストージェンカへ帰って来た。朝のうちは、電車のとまった通りを赤い広場の方へゆく人かげはまばらだったのに、帰り途は、同じ大通りが、赤い広場から家へ歩いてかえる群集で混雑していた。赤い紙の小さい旗をもったり、口笛をふいたりしながら、みんなが歩きつかれたメーデイ気分でゆっくり歩いている。

「くたびれた!」

 部屋へ入ると、すぐ窓をあけて伸子がディヴァンへ身をなげかけた。

「立ってるのはこたえるもんさ」

 美味おいしそうに素子がタバコを吸いはじめた。

 いつもなら窓をあけるやいなや、ごろた石じきの車道をゆく荷馬車の音だの、電車のガッタンガッタンがひとかたまりの騒音となって、フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの大きな石の建物にぶつかってから伸子たちの狭く浅い部屋へなだれこんで来る。きょうは、窓をあけても、騒々しい音は一つもなかった。午後の柔かく大きな静けさが建物全体と街をつつんで、伸子がディヴァンにじっとしていると、四階の窓へはかすかに人通りのざわめきがつたわって来るだけだった。伸子にとってメーデイの行進は感銘ふかかった。こうしてメーデイにはいそがしいモスクヷ全市が仕事をやめて休み、祝っている。その祭日の気分の深さには、やはり心をうたれるものがあった。メーデイの前日からアルコール類は一切売られなかったから、きょうの祝い日の陽気さはどこまでもしらふだった。そういうところにも一層伸子に同感されるよろこびがあるのだった。

 伸子と素子とは、しばらく休んでから埃をかぶった顔を洗い、着ているものをかえた。そしたら、また喉がかわいて来た。素子が、

「お湯わかしといでよ」

と伸子に云った。

「いいさ、メーデイじゃないか」

 伸子たちとルイバコフとの間の日頃の約束では、朝晩しかお湯はわかさないことになっていた。

 伸子が台所へ行ってみると、さっき入口をあけてくれたニューラの姿が見えない。ルイバコフの細君や子供も出かけてしまったらしく、アパートメントじゅう、ひっそりとしている。伸子は、自分たちの水色ヤカンが、流しの上の棚にのっているのを見つけた。伸子は、ニューラが見えないのに困った。うちのものが誰もいない台所で、勝手なことをするようなのがいやで、伸子は水色ヤカンを眺めながら、半分ひとりごとのように、

「ニューラ、どこへ行っちまったの」

 節をつけるようにひっぱって云った。すると、台所のガラス戸のそとについているバルコニーからニューラが出て来た。何をしていたのか、すこし上気のぼせた顔色だった。

「歩いたんで、喉がかわいたのよ、ニューラ。お湯をもらえるかしら」

「よござんす」

 ニューラはすぐヤカンをおろして水を入れ、ガスにかけた。

「ありがとう。お湯はわたしがとりに来るから」

 そう云って台所を出ようとした伸子に、ちょっとためらっていたニューラが、

「ここへ来てごらんなさい」

 バルコニーへ出るドアをさした。鉄の手摺のついたせまいバルコニーの片隅には、空箱だの袋だのが積まれていて、ニューラが洗濯するブリキのたらいもおいてある。バルコニーは、この建物の内庭に面していて、じき左手から建物のもう一つの翼がはり出しているために日当りがわるかった。内庭のむこう側にコンクリート壁があって、ギザギザの出た針金が二本その上にまわしてある。そこにくっついて塀の高さとすれすれに赤茶色に塗られたパン焼工場の屋根があった。その屋根の上に、もうメーデイの行進から帰って来たのか、それとも行かなかったのか、三人の若者が出てふざけていた。ニューラがバルコニーへ出ると、その若者たちのなかから挑むような鋭い口笛がおこった。

 伸子は反射的にドアのかげに体をひっこめた。

「ヘーイ! デブチョンカ(娘っこ)!」

「来いよ、こっちへ!」

 屋根の上から笑いながら怒鳴る若者の声がきこえた。むこう側からはこちらの建物の、内庭に面しているすべての窓々とバルコニーとが見えるわけだった。若い者たちはおそらくその窓々がきょうはみんなしまっていて、バルコニーで働いている女の姿もないのを見きわめて、たった一つあいているバルコニーのニューラをからかっているらしかった。

 赤茶色の屋根のゆるい勾配にそって横になっていた一人の若者が、重心をとりながら立ちあがって、ポケットから何か出した。そして、それを、ニューラのいるこちらのバルコニーへ向って見せながら、伸子にはききわけられない短い言葉を早口に叫んだ。そして、声をそろえてどっと笑った。一人が口へ指をあてて高い鋭い口笛をならした。それは何か猥褻わいせつなことらしかった。ニューラは、メーデイだのに着がえもしなかった汚れたなりで、両方の腕を平べったい胸の前に組み合わせ、いかついような後姿でバルコニーに立ち、笑いもしないが引こみもしないで、じっとパン工場の屋根を見ている。

 伸子はそっと台所から出て、自分たちの部屋に戻った。建物の表側にある伸子たちの部屋では、あけ放された窓ガラスに明るくフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根の色が映って、祭り日の街路を通る人々の気配がかすかにつたわって来る。こっちには祭日のおもて側があった。

 モスクヷのメーデイのよろこびの深さがわかるだけに、建物のうら側のバルコニーにはメーデイの閑寂の裏がある。台所のバルコニーに立ったニューラの姿は伸子に印象づけられた。伸子の心は象徴的に形を大きくした赤インクのかぎの形を忘られていなかった。



 メーデイがすぎると、モスクヷの街々には一足とびの初夏がはじまった。すべての街路樹の若芽がおどろくようなはやさで若葉をひろげた。フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの大理石の胸壁を濡らして明るい雨が降った。伸子が、モスクヷの印象記を書き終ろうとしている机のところから目をあげて雨のあがったばかりの、窓のそとを見ると、雨の滴をつけた一本の電線に雀が七八羽ならんでとまっていたりした。

 伸子は、このごろ直接多計代あての手紙は書かなくなってしまっていた。モスクヷの町に雪があったころ、保にかいた手紙のことで多計代から来た手紙を、伸子は半分よんだだけでおしまいまで読めなかったことがあった。それ以来、伸子は時々エハガキに近況をしらせる文句をかき、佐々皆々様、という宛名で出していた。動坂の家からは、伸子が東京あてのエハガキをかくよりも間遠に、和一郎がかいたり、寄せ書きしたりした音信が来た。相かわらずとりとめなく、どこへドライヴしたとかいう出来ごとばかりを知らせて。

 メーデイの前後しばらくの間、伸子はちょくちょく父のペンでつけられた赤インクのかぎつきの新聞記事を思い出してこだわった。

 泰造が、例によって一人がそこにいる朝の食堂のテーブルであの新聞を読み、無意識に、入歯のはいっている奥歯をかみ合せながら、しっぽのひろがった太く短い眉をひそめてすぐテーブルの上においてあるインクスタンドからペンを執り、せっかちな手つきで赤インクのかぎをかけたときの顔つきが、手にとるように伸子にわかった。泰造のその表情や、わるく刺戟的な赤インクのかぎをかけた新聞を送らせるようなやりかたのなかに、伸子は、これまで心づかなかった父と自分との心のへだたりを知った。

 三月十五日に日本で共産党の人々が検挙されたという記事に、泰造は、どんなつもりでそんな、衝動的な赤インクのかぎをかけ、伸子へ送らせたのだろう。伸子が仮にパリにいたとして、泰造はやっぱりこうして新聞をよこすだろうか。娘がモスクヷにいるということだけで、泰造はその新聞記事から普通でない衝動をうけたのだ。どう表現していいか泰造自身にもわからなかったのだろうけれども、赤インクのかぎは、泰造の受けた衝撃の感情の性質を語っていることが伸子を悲しくさせた。

 去年の秋、伸子たちがソヴェトへ来るときめたとき、そして旅券のことについて動坂の家へ行ったとき、母の多計代は「ロ・シ・アへ?」と、ひとことひとこと、ひっぱって云って、いやな顔をした。半年近くたったこの間、伸子がそこまでよんで先がよめなくなった多計代の手紙には、「冷酷なあなたの心は、ロシアへ行ってから」とかかれていた。父の泰造は、旅券のことで助力をたのみに行ったときも、伸子がともかく自分の力で借金ができて、外国へも行くようになったことをよろこんで、行くさきについて意見は洩さなかった。その後の泰造の簡単なたよりにも、ロシアというものへの先入観や偏見はちっともあらわされていなかった。

 ところが、こうして、日本にも世界のよその国と同じようにいつの間にか共産党が出来ていて、それがわかった、と大臣や役人があわてて右往左往している様子のわかる新聞記事が出たら、泰造の心の安定はたちまち動揺した。程度のちがいこそあれ多計代と同じような性質で、ロシアというところ、そこにいる伸子というものについて普通でない心の作用をあらわしている。

 伸子には、無条件で父を肯定する習慣があった。母の多計代はどうであっても、父の泰造は、と思う習慣があった。その習慣的な父への安心が、伸子の心の中ではげしく揺られた。父と母とは、生れ合わせにもっている気質がちがって、そのちがいは永い年月が経つ間に双方からつよめられ、その間で育った娘の伸子には、父と母とがものの考えかたや感じかたで全くちがうように思えていた。けれども、いま伸子は、父と母との気質のそのちがいを実際よりも誇張して感じていたのは、自分の甘えだったとさとる心持になった。父と母とは、夫婦だったのだ。いざというところでは、いつも一致した利害を守って生きて来た夫婦だったのだ。伸子が、自分の都合のいいように誇張してそれに甘えて来たような本質のちがいが、両親のものの考えかたにあるという方が変だったのだ。

 四月の末モスクヷの中央美術館でひらかれたゴーリキイ展を見に行ったとき、伸子は、そこでゴーリキイに子供のときの写真が一枚もないことを発見した。そして赤坊のときからの写真をどっさりもっている自分に思いくらべた。それにつれて、写真に対する自分の浅薄さを非常に苦しく自覚したことがあった。母親と仮借なく対立しながら、父にだけは批評なしに甘えられそうに思っていた自分の心の姿も、伸子にはじめて同じような醜さとして見えた。父の泰造が、よく云っていた見識とか常識とかいうことも、窮極では、母の多計代の量見とどこまでちがったものだったろう。

 泰造は役所や役人ぎらいであった。大学を出たばかりで勤めた文部省の営繕課をやめたいばかりに、若い旧藩主のお伴のような立場でイギリスへ行った。泰造が官庁の建築家として完成したのは札幌の農科大学のつましい幾棟かの校舎だけであった。伸子が十九のとき札幌へ行ってみたら、その校舎は楡の樹の枝かげに古風な油絵のように煉瓦建の棟を並べていた。外国から帰ってから泰造はずっと民間の建築家として活動して来ている。

 泰造はよく、判断のよりどころのように常識があるとか、ないとかいうことを云った。それがイギリスには在って日本にはないものであるかのように「コンモンセンス」と英語で云って、常識が低いとか、常識がないとか云うことは、泰造にとって軽蔑すべきことだった。でも泰造が、あるとかないとか重々しくいう常識というものは、どういうものだったのだろう。考えつめながらもお父様というよび名が心にうかぶとき、伸子は懐しさにうごかされた。泰造の暖くて大きくてオー・ド・キニーヌの匂いのする禿げ頭をしのんだ。そのなつかしい父に、伸子は自分について発見していると同じ性質の浅薄を感じた。父の泰造も、つきつめてみればほんとに常識と呼ぶだけつよい常識はもっていないのに、コンモンセンスと英語でいうようなところがある。ほんとに分別にとんだ常識というものなら、資本主義の一つの国で法律が共産党を禁じるという事実があるなら、とりも直さずそのことがそういう改革的な政党の生れるような社会的条件をその国がもっていることを語っているのだと、理解するはずだった。

 五月の夜、若葉の香の濃い並木道ブリヷールのアーク燈の下をぞろぞろ散歩しているモスクヷの人々にまじって歩きながら、伸子はこの群集の流れの中で、あの赤インクのかぎを負っているのは自分だけだと思うと変な気がした。わきに並んで、時々腕をくみ合わせたりして歩いている素子にさえ、伸子のその奇妙な感じはわかっていない。モスクヷの生活は、伸子を、日本にいたときはあることさえわからなかった広い複雑な社会現象のなかへつき出した。伸子はそれだけ自由にのびやかになった。そしたら、これまで気づかずにいたいろんな意味での赤インクのかぎが、自分にかかっていて、周囲に動いているモスクヷの人たちにはかかっていないことを、見出しているのだった。

 こういう心の状態で夜の並木道ブリヷールを散歩しているときなどに、伸子がもうちょっとで素子に話しそうになっては、話さなかった一つの気もちがあった。モスクヷへ来る年の秋、駒沢の奥の家に素子と住んでいたころ、素子が買って来て伸子も読んだブハーリンの厚い本の中に書いてあったことにつながっていた。駒沢の、柘榴ざくろの樹のある芝生に庭を眺めながら伸子はその本をよんで、今日の社会で資本というものが演じている役割や働く階級の歴史的な意味を知り、自分たちの属している小市民層というものの、どっちへでも動く可能をもった浮動的な立場の本質を知った。そのころ、伸子は父の泰造の建築家という仕事がもっている社会的な関係に新しく目をひらかれた。たとえ泰造がローヤル・アカデミーの特別会員であろうとも、アメリカの建築学会の名誉会員であろうとも、今の日本で建築家として働く佐々泰造は、日本の、建築工事を起すだけの金のある人々に奉仕するものであることを伸子は知った。そうわかって、泰造が折にふれてもらしていた依頼者の我ままな注文に対しての鬱憤に、娘として同情をもった。

 ところが、赤インクのかぎは、伸子のその理解を、もう一遍ひっくりかえしにして見せた。泰造のうそのない役人ぎらいは、そのまま泰造を、金をもっている人々ぎらいの人間にはしてはいないという現実を、伸子は理解したのだった。

 父の泰造のバロン、バロンとよんで話す或る富豪は美術と音楽の愛好者であった。同時に日本の大財閥で政党を支配し、日本の権力をにぎっている人の一人だった。その富豪と父の泰造とはイギリス時代からのつき合いで、友人の一種ではあったろうが、伸子たちをふくめる家族は、そのつき合いのなかに入れられていなかった。

 伸子が十か十一ぐらいのときだった。泰造が何かの用で箱根へ行くことができて、伸子もつれられた。夏のことで、伸子ははじめて箱根というところへ父につれられてゆく珍しさに亢奮し、自分が着せられている真白なリネンの洋服に誇りを感じた。箱根へ行って、大きな宿屋で御飯をたべて、それから泰造が少女の伸子でも知っていたその富豪の名を云って、その別荘へよって行こうと云った。

 伸子が父の泰造につれられて行ったその富豪の別荘は、伸子が少女小説の絵で見知っている城のようだった。大きな鉄の蝶番ちょうつがいをつけた玄関の扉があいて、入ったところは、二階まで天井がつつぬけになっているホールだった。高いところに手摺が見えて、そこから赤い美しい絨毯が垂れていた。一つの大きいドアの左右に日本の緋おどしの甲冑かっちゅうと、外国の鋼鉄の甲冑とが飾られていた。そのほかホールには壺や飾皿があった。それらの飾りものは、ホールについている窓の、緑にいくらか黄色のまじったようなステインド・グラスを透してさし込んで来る光線をうけて、どれもどっしりと生きているようだった。

 少女の伸子は父とつれ立って目をみはりながらも、勝気な少女らしく、そのホールの絨毯の上を歩いた。自分が、よく似合うリネンの白い洋服をつけ、桃色のリボンで頭をまき、イギリス製のしゃれたサンダルをはいていることに伸子は満足していた。

 伸子は、帰るまでにはきっとここの主人に会うものと思っていた。けれども父の泰造は伸子をつれて、執事の男と二つ三つの室をまわって見ただけだった。それきりで、また夏の日が土の上に照りつけている外へ出てしまったとき、伸子はあてがはずれ、辱しめられたような、がっかりしたいやな感じがした。あとで伸子に、主人が留守だから自分をつれて行ってくれたのだったということがわかった。

 泰造はまた、財閥としてはその富豪と対立の立場にいて、同時に対立する政党を支配しているような人々とも同じような友人めいた交渉があった。全然政治的な興味も野心も持たない泰造の気質は、ひろい趣味をもっていて、或る意味では至極さっぱりしていたから、そういう年じゅうごたごたした関係の中で生きている人々にとって、らくにつき合える建築家の友人という関係であったのかもしれない。しかし、伸子は赤インクのかぎを思いだすと、父の泰造のそういう社交性を、やっぱり複雑に感じとらずにいられなかった。

 そういう人々の住んでいる、伸子が見たこともなく快適な住居で、主人と泰造とが談笑しているとき、誰かが検挙された共産党を、少くともそれが生れる必然を肯定して話したとしたら、主人も泰造もどんな顔をするだろう。泰造はきっと、場所柄を考えずそんな話題をもちだした者の常識なさをとがめるだろう。でも、その場合の常識とは何だろう。富豪で権力をもっている人が、共産党の話なんかはきらうというその人たちの気分の側に立った泰造の判断であり、その人たちがきらうことを、よくないこととする通念にしたがう泰造の判断でなかったろうか。

 伸子は、心ひそかに父の泰造を誇って来ていた。日本で有数の建築家として。役人でも実業家でもなく、軍人や政治家でもなくて、自分の父は建築家であり民間の独立した一人の技術家であるということを、文学を愛するような年ごろになってからの伸子は、どんなに心の誇りとして来たろう。

 けれども、泰造の建築家としての独立性はほんとに狭い範囲のもので、根本では、民間の大建築を行う経済能力をもった者によって活動を支配されていることがわかったのは、伸子にとってそう遠いことではなかった。そして、泰造のそういう社会的な立場は、泰造の清廉さ、誠実さ、正義感、独立性にも限界を与えていて、泰造の紳士らしさには、何か見えないものへの服従が感じられることを、いま伸子は悲しく認めるのだった。伸子の意識は、そういう服従を、自分に求めていなかった。けれども、と伸子は自分について考えめぐらすのだった。たとえば自分が泰造の娘として、そのバロンなる人と一座しているとき、伸子が父の泰造の服従した感情とどれだけちがった自由をその心に保っていると期待できるだろうか。伸子は、自分がそういう場面におかれれば、やっぱり泰造と同じようにその人たちに好感を与える若い女として自分をあらわすにちがいないと感じた。さもなければ、そういう人が自分に加える圧力に負ける自覚がいやで、こわばって一座をさけるか。

 伸子が十六七になったころ、日本ではじめてフィルハーモニーという洋楽愛好者の組織が出来た。パトロンは、泰造と友人めいた交渉を持つそのバロンだった。その第一回のコンサートのとき、伸子はおしゃれをして、親たちとその音楽会をききに行った。そしてバロン夫妻に紹介されたとき、その人たちの光沢のよい雰囲気に伸子は亢奮と反撥とを同時に感じた。二様の感情をうけながら伸子は、我しらず利発そうな洗練された娘として自分をあらわした記憶があった。そういうところが、自分にそれを認めることがいつもきらいな伸子の腹立たしいすべっこさだった。

 素子に話しそうになりながら、話さなかったことのいきさつは、父の泰造に対すると同時に自分にも連関する伸子のこういう新しい気持の過程だった。それぞれの人がもっている道徳観というものも、その人たちの属す階級の利害に作用されている。それは、泰造についてみても真実だった。その真実は、伸子が生れかかっているイヴのように半分そこからぬけかかってまだ全体はぬけきっていない中流性にもあてはめられた。泰造がその限界の中では誠実な人であり、清廉な人であることにちがいはなかった。でも、伸子が新しく感じとった泰造の限界、自分の限界は、伸子にとってそれが分らなかった以前に戻すことは不可能だった。無条件に父を肯定しつづけ、父を肯定する自分を肯定して来た伸子にとって、こういう思いは、一段落がついたとき、痩せた自分に心づくような心の中の経験であった。

 三月十五日の事件に関連して、社会科学の研究会を指導していた京大や九大の教授の或る人々を、文部省ではやめさせるように命令し、大学総長たちはそれをすぐ承知しないという新聞の記事があった。しかし、結局辞職勧告をうけて京大の山上毅教授そのほかのひとが大学を去ることになった。山上毅教授の勅任官服をつけた写真とそのニュースとがのっている新聞に、伸子が校正を友達の河野ウメにたのんでモスクヷへ立って来た長い小説がやっと本になって発売される広告があった。

 間もなく、河野ウメから、出来た本を送ってよこした。モスクヷの町に、本はどっさりあるけれども、紙質もまだわるく、装幀も粗末だった。そういう本ばかりみている伸子は、送られて来た自分の本の立派さにおどろいた。

「いい本ねえ」

 アストージェンカの室の机の上で小包をほどいて、伸子と素子とは、ひっぱり合うようにしてその美しい柿の絵のある和紙木版刷の表紙をもつ天金の本を眺めた。

 その小説は日本の中産階級の一人の若い女を主人公としていた。溢れようとたぎりたつ若々しい生活意欲と環境のはげしい摩擦を描いたその小説のかげには、伸子自身の歓迎されない結婚とその破綻の推移があった。上質の紙にルビつきの鮮やかな活字で刷られているその本の頁をひらいて、テーブルの前に立ったまま伸子は、あちらこちらと、自分のかいた小説をよんだ。

「わたしにもお見せよ」

と手を出す素子に本をわたし、小包紙や紐の始末をしながら、伸子は、ソヴェトの女のひとたちに果してこの小説にこめられている日本の女性の様々な思いが同感できるだろうかしら、と思った。

「──ここじゃあ、却ってこの小説の男の立場を女にした場合の方が多くて、それならここのひとたちにもわかるんじゃないか」

 素子が云う、男の立場というのは、主人公の夫である人物のことだった。その男は、若い妻が、息づまる生活環境に辛抱できないでもがく心持を理解することが出来ず、夫として妻を愛しているという自分の主観ばかりを固執して、複雑な関係の中で破局に導かれる人物だった。

「そうともちがうんじゃない?」

 伸子は、その本の美しい小花の木版刷のついたケースをいじりながら云った。

「『インガ』みたいな芝居でも、夫にとりのこされた女は自分で自分を伸してゆく余力をもっているし、またそれが可能な条件を社会生活の中でもっているんだもの……」

 伸子のその小説に描き出されているような娘の生活に対する親の執拗な干渉ということ一つとってみても、それはもうソヴェトの社会の習慣と感情のなかからはなくされている事実だった。モスクヷのメーデイの行進の轟きの上に、象徴的に大きくされた赤インクのかぎを見たのが、日本の女であり、娘である伸子ばかりであったように。しかも、それは、伸子を愛していると自分でかたく信じている父の手によってひかれている赤インクのかぎを。──

 前後して、保から久しぶりにたよりが来た。またハガキだった。温室は好調でメロンが育ちつつあるということや、僕もそろそろ大学の入学準備で、科の選定をしなければならない。姉さんはどう思いますか、僕は大体哲学か倫理にしようと考えて居ます。と例の保の、軽いペンのつかいかたの几帳面な細字でかかれていた。

 その頃から、モスクヷでは目に見えて夕方の時間がのびた。午後九時になっても、うすら明りのなかにフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根が艷の消えた金色で大きく浮び、街々の古い建物にぬられている桃色や灰色が単調な、反射光線のない薄明りの中で街路樹の葉の濃い緑とともにパステル絵のように見えた。物音も不思議に柔らかく遠くひびくようになった。

 夜のなくなりはじめた広い空に向って、あいている二つの窓にカーテンのない伸子たちの部屋では、いつの間にやら二時三時になった。電車が通らなくなってしまってからの時刻、静かな、変化のないうすら明りにつつまれて、まばらに人通りのあるアストージェンカの街角の眺めは、そよりともしない並木道ブリヷールの深い茂みの一端をのぞかせて、魅力のある外景であった。

 窓のそとの小さいバルコニーへ椅子を出して、伸子と素子とはいつまでも寝なかった。伸子は、保が、大学で哲学だの倫理だのを選ぼうとしていることを気にした。

「倫理学なんて、それだけを専門にするような学問なのかしら……あんまりあのひとらしくて、わたし苦しくなってしまう」

 くもった真珠色のうすら明りの中で、小さく美しく焔を燃えたたせながら素子はマッチをすってタバコに火をつけた。そして、指先で、唇についたタバコの粉をとりながら云った。

「哲学の方が、そりゃましさね」

「哲学って云ったって……」

 保のそういう選択に加わっているに相違ない越智の考えや、それに影響されている多計代の衒学好みを思いあわせ、伸子は信用しないという表情をかえなかった。

「哲学なんかやって、あのひとは益々出口がなくなってしまうばかりだわ、どうせカントなんかやるんだろうから……」

 昔東大の夏期講座できいたカントの哲学の講義を思いおこし、保の抽象癖が、カント好みで拡大され組織されるのかと思うと、伸子はこわいような気がした。そんな学者になってしまった保を想像すると、伸子は保の一生と自分の生涯とを繋ぐどんな心のよりどころも失われてしまうように思った。

「あのひとに必要なのは、思いきって社会的にあのひとを突き出してくれる学科だのに」

「経済でもやればいいのさ、いっそのこと。──さもなければ、哲学だって、ここの国でやってるような方法で哲学をやりゃいいのさ。それなら、生きていることはたしかだもの」

 でも保は、保のこのみで、あらゆる現実から絶対に影響されない純粋な真理を求めようとしている。そのことは伸子にわかりすぎるほどわかっていた。それは人間と自然の諸関係のおどろくべき動きそのものにわけ入って、その動きを肯定し、動きの法則を見出そうとする唯物弁証法の方向とはちがった。保は、何かの折唯物という言葉にさえ反撥したのを、伸子は覚えていた。利己という字につづいた物質的というような意味に感じて。

 しばらく言葉をとぎらせて伸子と素子とがうすら明りの街を見下している午前二時のバルコニーへ、遠くから一つ馬の蹄の音がきこえて来た。その蹄の音は、伸子たちのバルコニーが面している中央美術館通りから響いて来た。石じき道の上へ四つの蹄が順ぐり落ちる音がききわけられるほどゆっくり、アストージェンカに向って進んで来る。やや暫くかかって、モスクヷの一台の辻馬車があらわれた。それは、人も馬も眠りながら、白夜の通りを歩いてゆく馬車だった。黒い馬が、頸を垂れて挽いてゆく辻馬車の高い御者台の上で、毛皮ふちの緑色の円型帽をかぶった御者は、すっかりゆるめた手綱をもったまま両手をさしかわしに外套の袖口に入れて、こくりこくり揺られている。座席に一人の酔っぱらいが半分横倒しにのっていた。薄い外套の下に白ルバーシカの胸をはだけ、ギターをかかえている。馬車は、伸子たちの目の前へあらわれたときののろさで、アストージェンカの角へ見えなくなって行った。馬車が見えなくなったあといつまでも、蹄の音が単調なうす明りの中に建ち並んでいる通りの建物に反響して、伸子たちのところまできこえた。

 伸子は、翌日、保へあて、手紙をかいた。伸子には、倫理学が独立した専門の学問として考えられないこと。哲学そのものが、今日の世界では進歩して来ている。彼は、どういう方向で哲学をやって行こうとしているのか知らしてほしい、そういう意味を書いた。

 伸子が保へその手紙を出して一週間ばかり立ったとき、おっかけて保からまた一枚のハガキが来た。それには、前のたよりと何の関係もなく、保の夏のプランが語られていた。僕はこの夏は一つ大いに愉快にやって見ようと思います。保としては珍しく、決断のこもった調子の文章であった。字はいつもながらの字で、大いにテニスをやり、自転車をのりまわし、ドライヴもしてと書いてあった。伸子は、そのハガキを手にとって読んだとき、何となし唐突なように感じなくもなかった。けれども、伸子が保から来たそのハガキをよんでいるモスクヷは、もう夏だった。並木道ブリヷールの入口に、赤と桃色の派手な縞に塗ったアイスクリームの屋台店が出て、遊歩道には書籍市が出来た。日曜日には菩提樹の下で演奏される音楽が伸子たちの部屋へもきこえた。レーニングラードへ行こうとしてその支度にとりかかっていた伸子は、保の夏のプランというものも、ひとりでに自分がその中にいるモスクヷの夏景色にあてはめて読みとった。



第三章




 白夜の美しいのは六月のはじめと云われている。伸子と素子とはその季節に、二ヵ月あまり暮したアストージェンカの部屋をひきあげてレーニングラードへ向った。

 春とともに乾きはじめて埃っぽくなるモスクヷは、メーデイがすぎ、にわかに夏めいた日光がすべてのものの上に躍りだすと、いかにも平地の都会らしく、うるおいのない暑さになって来た。

 伸子たちは夜の十一時すぎの汽車でモスクヷの北停車場を出発した。汽車がすいていて、よく眠って目がさめたとき列車の窓の外に見える風景が伸子をおどろかせた。列車は、ところどころに朽ちかけた柵のある寂しいひろい野原に沿って走っていた。その野原の青草を浸す一面のひたひた水が春のまし水のように明けがたの鈍い灰色の空の下に光っていた。瑞々しい若葉をひろげた白樺の林がその水の中に群れ立っている。白と緑と灰色の色調の水っぽくて人気ない風景は、いかにも北の海近い土地に入って来た感じだった。

 汽車の窓から見えた北の国らしい風物の印象は、レーニングラードという都会にはいって一層つよめられた。バルト海に面していくすじもの運河をもつこの都会は十八世紀につくられた。橋々は繁華で、いまは十月通りと呼ばれるもとのニェフスキー大通りプロスペクトはヨーロッパ風だけれども、都会の目抜きなところがドイツをまねたヨーロッパ式でいかつく無趣味につくられているために、かえってネヷ河やバルト海や、その都会をとりかこむ水の多さを感じさせる。レーニングラードには不思議に憂鬱な美しさがあった。

 伸子と素子とはレーニングラードのはじめの十日間ばかり、小ネヷ河の掘割の見えるヨーロッパ・ホテルにとまっていた。そこで伸子たちに予想しなかった一つのことがおこった。或る朝、新聞のインタービュー記事で、ゴーリキイが、伸子たちと同じヨーロッパ・ホテルに逗留していることがわかった。

「へえ──じゃあ、もう南から帰って来ていたんだね」

「そうらしいわねえ」

 五月に五年ぶりでソレントからソヴェトへ帰って来たマクシム・ゴーリキイは、歓迎の波にまかれながら、じき南露へ行ってドニェプルのダム建設工事その他を見学していたのだった。

「──そうか」

 そう云ったまま黙って何か考えている素子と顔を見合わせているうちに、伸子の心が動いた。

「会ってみましょうか」

 伸子がいきなり単純に云いだした。どんなひとだか会って見ようという心ではなく、もっと対手あいてに信頼を抱いている素朴な感情から伸子はゴーリキイに会ってみたい心持になった。云ってみれば会いたくなるのがほんとなほど伸子はゴーリキイの作品の世界にふれていたし、ゴーリキイ展は伸子に人及び芸術家としてのゴーリキイに共感をもたせて伸子自身について考えさせたのだった。

「──どう?」

「ひとつ都合をきいて見ようか」

 明るく眼をみはったような表情を小麦肌色の顔に浮べて、素子ものりだした。

「われわれはいつがいいだろう」

「だって──。あっちは忙しい人だもの」

「むこうの都合をきいてからこっちをきめるとするか」

「そりゃそうだと思うわ」

 素子が小さい紙にノートの下書きをかいた。二人の日本の婦人作家が、あなたに会うことを希望している。短い時間がさいて貰えるでしょうか。御返事を期待します。そしてホテルの自分たちの室番号と二人の名をかいた。

「ところで、宛名、何て書いたもんだろう──いきなりマクシム・ゴーリキイへ、かい?」

 なんとなしそれも落付かなかった。

「グラジュダニン(市民)てこともないわねえ」

 区役所へでも行ったような不似合さにふき出しながら伸子が云った。

「タワーリシチじゃ変かしら」

「そのこころもちさね、土台会おうなんて──」

「じゃ、そう書いちゃえ」

「そうだ、そうだ」

 素子の書いたノートを、二人でホテルの受付へもって行った。そして、ゴーリキイの室の鍵箱へいれてもらった。ゴーリキイは八番の室であった。

 翌朝、伸子たちはその返事を自分たちの鍵箱に見出した。その次の日の朝十時半に、ゴーリキイは伸子たちを自分の室で待つということだった。

 伸子は白地にほそい紅縞の夏服をつけ、素子は、白ブラウスの胸に絹糸の手あみのきれいなネクタイをつけ、約束の朝の時間きっちりに、八番のドアをたたいた。

 白く塗られた大きいドアがすぐ開けられた。びっくりするほど背の高い、うすい栗色の髪をした若い男が、これはまたドアを開けたすぐのところに立っている二人の女があんまり小さいのにおどろいたようだった。

「こんにちは。どんな御用でしょう」

 こごみかかるようにして訊いた。いくらか上気した頬の色で素子が自分たちの来たわけを告げた。

「ああ、お待ちしていました。お入りなさい」

 狭い控間をぬけて、その奥の客室へとおされた。そこの窓にも小ネヷの眺望があった。室のまんなかにおかれている大理石のテーブルの上に、どうしたわけかぽつんと一つ皿がおいてあって、ひと切れのトーストがのっていた。

 奥の別室に通じているもう一つのドアがあいた。ゴーリキイが出て来た。伸子たちを案内した若い背の高い男と一緒に。写真で見覚えているよりも、ゴーリキイはずっとふけて大柄な体から肉が落ちていた。同時に、薄灰色の柔かな布地の服を着ているゴーリキイには、写真でわからない老年の乾いた軽やかさがあった。二人つれだったところを見ると、一目で若い男がゴーリキイの息子であるのがわかった。二人とも背の高さはおつかつで、骨骼もそっくりだった。けれども、ちょっと形容する言葉の見出せないほど重々しく豊富なゴーリキイの顔と、善良そうであるけれどもどこか力の足りなくて、背がのびすぎたようなゴーリキイの息子とは、何とちがっているだろう。ゴーリキイ父子をそういうものとして目の前に見ることも伸子の心にふれた。ゴーリキイは大きくてさっぱりと暖い掌の中へ、かわりがわり伸子と素子の手をとって挨拶した。

「おかけなさい」

 そして、自分もゆったりした肱かけ椅子にかけながら、

「私の息子です」

 わきに立っている若い男を伸子たちに紹介した。

「私の秘書として働いています」

 多分このひとの子供だろう、ゴーリキイが、赤坊をだいてとっていた写真のあることを伸子は思い出した。

 ゴーリキイは、伸子たちに、ソヴェトをどう思うか、ときいた。

 伸子は少し考えて、

「大変面白いと思います」

と答えた。

「ふむ」

 ゴーリキイは、面白い、という簡単な表現がふくむ端から端までの内容を吟味するようにしていたが、やがて、

「そう。たしかに面白いと云える」

と肯いた。

「ソヴェトは、大規模な人類的実験をしています」

 そして、日本へ行ったソヴェト作家の噂が話題になった。また、日本で翻訳されているゴーリキイの作品につき、上演された「どん底」につき、主として素子が話した。

 素子は、素子の訳したチェホフの書簡集を、伸子は伸子の小説をゴーリキイにおくった。ゴーリキイは、綺麗な本だと云って伸子の小説をうちかえして眺めながら、日本の法律は婦人の著作について特別な制限を加えていないのかと素子に向ってたずねた。素子は、

「女でも自分の意志で本が出せます──勿論検閲が許す範囲ですが」

と答えた。ゴーリキイは、

「そうですか」

と意外そうだった。

「イタリーでは、婦人が著書を出版するときには、若い娘ならば父兄か、結婚している婦人なら夫の許可が必要です」

 そして、真面目に考えながら、

「それはむしろ不思議なことだ」

と云った。

「日本というところは婦人の社会的地位を認めていないのに、本だけが自由に出せるというのは──」

「それだけ日本が女にとって自由だということではないと思います」

 伸子が、やっとそれだけのロシア語をつかまえて並べるように云った。

「それは、古い日本の権力が、女の本をかく場合を想像していなかったからでしょう」

「──あり得ることだ」

 社会のそういう矛盾を度々見て来ている人らしく、ゴーリキイは、笑った。伸子たちも笑った。三人の間に、やがて日本の根付ねつけの話が出た。はじめゴーリキイは、誰かにおくられて日本の独特な美術品のニッケをもっていると云った。話してゆくと、それは根付のことだった。

 低い肱かけ椅子にかけているゴーリキイは顔のよこから六月の朝の澄んだ光線をうけて額に大きく深い横皺が見えた。ネヷ河の小波だつ川面をわたって、ひろく窓から入っている明るさは、ゴーリキイの薄灰色のやわらかな服の肩にも膝にも落ちて、それは絨毯の上で伸子たちの靴のつまさきを光らせている。

 自分が話そうとするよりもゴーリキイの真率でとりつくろったところのない全体の様子を伸子は、吸いとるように眺めた。ゴーリキイには、有名な人間が自分の有名さですれているようなうわ光りが微塵みじんもなかった。ゴーリキイの全体は艷消しで、年をとったことで一層人間に大切なものは何かということしか気をとめなくなった人の、しんからの人間らしさ、その意味での気もちよい男らしさがあった。いろいろなことをつよく感じとりながら、ゴーリキイの精神には誇張がなかった。あぶなっかしい伸子のロシア語を、ゴーリキイは骨骼の大きい上体を椅子の上にこごみかげんにして、左膝へつっぱった肱を張りながらきき、あり得ることだと云って肯くようなとき、ゴーリキイの簡素さと誠実は伸子に限りないよろこびと激励を与えた。

 そろそろいとまをつげかけたとき伸子がゴーリキイに云われて贈呈した小説の本の扉へ、ロシア語で署名した。書きにくい字が、改まったらなお下手にかけた。伸子はそれをきまりわるがったが、ゴーリキイは、ほんとにそんなことは問題にしないで、ゆっくり、

「ニーチェヴォ」

と云いながら、窓の方へ体をよじるようにして伸子の書いた字の濡れているインクの上を吹いた。それは自然で、伸子の心をぎゅーっとつかむような自然さだった。ゴーリキイに会っていると、伸子のよんだ作品の世界のすべてが、人間の多様さと真実性をもって確認される感じだった。

 ゴーリキイの室を出て、自分たちの部屋へと廊下を歩いて来ながら、伸子はうれしさから段々しんみりと沈んだ心持に移って行った。ゴーリキイの深い味わいのある艷消しの人間性にこのましさを感じたとき、伸子は反射的に、父の泰造にある艷を思った。泰造のもっている艷の世俗性が伸子にまざまざとした。そしてそこに赤インクのかぎが見えた。伸子はまばたきをとめて父の艷と赤インクのかぎとを見つめるような心持になった。

 一人の芸術家が、個性的だというような表現で概括されるうちは、そのひとの線はほそく、未発展のものだということも、ゴーリキイを見ると伸子に感じられた。

 それから五、六日後、伸子と素子とはヨーロッパ・ホテルから冬宮わきにある学者の家へ移った。レーニングラード対外文化連絡協会の紹介と、メーデイのすぐあと日本へかえった秋山宇一を送ってからレーニングラードへ来ている内海厚の斡旋であった。

 そこはネヷ河の河岸で、窓ぎわにたつと目の下に黒く迅いネヷの流れがあった。遠く対岸にペテロパウロフスク要塞の金の尖塔が見えている。伸子と素子とが並んで、ネヷの流れの落日を眺めたりする窓は、二人の立姿が小さく見えるぐらい高く大きかった。白夜の最中で、毎日午後十二時をすぎての日没だった。伸子と素子が日本の女の肌理きめのこまかい二つの顔を真正面から西日に照らされながら見ている前で、太陽は赤い大きな火の玉のようにくるめきながら、対岸に真黒く見えている三本の大煙突の間に沈みかかっていた。ネヷの流れが先ず暗くなってはがね色に変った。しかし、まだ伸子たちの顔を眩しくてりつけている斜陽は、もとウラジーミル大公の宮殿だったというその部屋の、天井や壁についている金の縁飾りを燃え立たせている。伸子たちが立って入日を見ている窓のよこに大煖炉があって、その上の飾り鏡に、西日をうけて眩しいその室の白堊の欄間や天井の一部が映っていた。

 レーニングラードのこの季節の日没と日の出は一つの見ものだった。対岸に真黒く突立っている三本の煙突の一本めと二本めとの間に沈んだ太陽は、十二三分の間をおいただけで、すぐまた、沈んだところからほんの僅か側へよった地点からのぼりはじめた。沈むときよりも、手間どるようにその太陽はのぼって来る。バルト海からの上げ潮でふくらみはじめたネヷの水の重い鋼色の上を光が走った。河岸通りには、人通りが絶えている。こういう時間の眺めは憂愁にみち、また美しかった。伸子はレーニングラードという都会がそんなにも北の果ちかくあることや、地球の円さが日没と日の出とにそんなにはっきりあらわされる自然にうたれた。

 レーニングラードは、ソヴェト同盟の首都でない。このことが、半年モスクヷでばかり生活しつづけて来た伸子と素子とに、レーニングラードへ来てみるまではわからなかったそこでの暮しの味わいを知らせた。

 レーニングラード‐ヴ・オ・ク・ス(対外文化連絡協会)は、伸子たちの泊っている元ウラジーミル大公の邸、ドーム・ウチョーヌイフ(学者の家)の通りを三位一体橋の方へゆく左側にあった。木煉瓦のしきつめられたそのあたりの通りは広くて、いつも静かで、ヨーロッパの貴族屋敷らしい鉄柵のめぐらされた庭の六月の青葉の茂みが歩道の上まで深く枝をのばしている。冬宮の周辺のそのあたりには、まるで人気のない建物があった。同じ広い通りの右側に、鉄柵のめぐらされた大邸宅が一つあった。槍形にとがった先が金色につらなっている鉄柵ごしに、窓々のかたく閉されたやかたが見え、ぐるりに繁っている雑草とその雑草に埋もれて大きい車寄せの石段が見えた。規則正しい輪廓を夏の外光に照りつけられている石造の人気ない大きなその家は、物音のすくないその通りにひとしお物音を消して立っていて、伸子と素子とがその長い鉄柵に沿った歩道を行くと、とかげが雑草の根もとを走ってかくれた。

 寂しいその通りは、三色菫の植えこまれた花壇が遠くに見える公園へ向ってひらいた。その左角の鉄柵に、レーニングラード‐ヴ・オ・ク・ス(対外文化連絡協会)の白く塗られた札がかかっていた。瀟洒しょうしゃな鉄門の左右からおおいかぶさるように青葉が繁っていて、高い夏草の間に小砂利道がひと筋とおっている。その門内にはいって伸子たちはおどろいた。そこは廃園だった。楡の枝かげの雑草のなかに、壊れた大理石の彫刻の台座の破片が二つ三つころがっていて、茂みのむこうは、河岸通りの見える鉄柵だった。そこにネヷの流れが見えていた。濃い夏草と楡の下枝のむこうの鉄柵ごしに見えるネヷの流れは、伸子がほかのどこで見たよりも迅く、つよく流れているようだった。その水音が聴えて来るかと思うほどひっそりとした真昼の小砂利道は、ドアの片びらきになっている一つの戸口へ伸子たちを導いた。奥の方へつづいた大きい建物のはずれにあいているそのドアは、事務所めいたところがどこにもなくて、外壁に改めてかけられているレーニングラード‐ヴ・オ・ク・スの札がなければ、あたりの人気なさは伸子たちに自分たちを侵入者のように感じさせそうだった。

 伸子たちは、タイプライターの音をたよりに二階の一つの広間へ入って行った。そこは、壁に絹をはった本式の貴族の広間だった。楕円形の大テーブルが中央に置いてあって、その上にきちんと、ヴ・オ・ク・スの出版物が陳列されている。そこを通りぬけた小部屋でタイプライターがうたれている。

 声をかけて、あけはなされているその室の入口に立ったとき、伸子はまた不思議な心持になった。若いきれいな女のひとがたった一人、そのバラ色で装飾された室の真中にフランス脚の茶テーブルを出して、その上でタイプライターをうっていた。なぜ、このひどく華奢きゃしゃな、なめらかなこめかみに蒼みがかった金髪を波うたせている女のひとは、こんな室の真中でタイプライターをうっているのだろう。その若い女のひとのこのみが、そういう位置を彼女に選ばせているらしかった。伸子たちが、そのきれいな人とでは事務的にてきぱきとはすすまない話をしているところへ、外から、この室の責任者である中年の男のひとが戻って来た。淡い肉桂色のネクタイをして、手入れのよい鳶色の髪や白い額の上に、いまその下をとおって来た青葉のかげが映っていそうな風采だった。

 モスクヷのブロンナヤ通りに面して、フランスまがいの飾りドアが、一日中開いたりしまったりしているモスクヷ‐ヴ・オ・ク・スの活況と、ここのしずけさとは、何というちがいだろう。モスクヷのヴ・オ・ク・スは、あぶくを立て湯気をたてて煮えたっているスープ鍋だった。ここの、廃園の奥にあるレーニングラード‐ヴ・オ・ク・スは丁度手綺麗な切子ガラスのオードウヴル(前菜)の皿のようだった。よけいなものは何一つない。いるだけのものは揃えられている。──

 伸子と素子とは、毎朝九時ごろ、学者の家のごろた石をしきつめた裏庭をぬけて、レーニングラードのあっち、こっちへ出かけた。レーニングラード・ソヴェトのあるスモーリヌィや、母性保護研究所。「労働婦人と農婦」編輯局。郊外にあるピオニェールの夏の野営地など。

 伸子たちがそこへ行ってみたいと思ってヴ・オ・ク・スから紹介をもらったところは、どこもみんな、元ニェフスキー大通りプロスペクトと呼ばれたレーニングラードの目抜きの場所から遠くはずれた街々に在った。冬宮のぐるり、目抜きの大通りは、人馬の物音をやわらげる木煉瓦でしきつめられていたが、壺売りの婆さんがジプシー女のようにサラファンの裾をひろげて大小様々の壺をあきなっている運河の橋をわたって、もう一つの地区へ出ると、そこはもうモスクヷがそうであるように、すりへったごろた石じきの町々であった。すりへったごろた石の間には藁くずや紙くずや乾いた馬糞がある。北の夏は、歩いている伸子たちに汗をかかせるほどではないが、埃っぽくむっとした街路のいきれが、彼女たちの靴を白くした。

 白麻のブラウスに、学生っぽいジャンパア・スカートをつけて訪ねて行ったさきざきで、伸子たちは、モスクヷで知らなかった発見をしたのだった。モスクヷでも、伸子たちは随分いろんなところを見学した。とくに伸子は素子の倍ほども足で歩いて目で見て歩く仕事をしたのであったが、モスクヷではどこへ行っても、そこに見出すのは、ソヴェト社会という大きな有機体の一部として不断に活動している一つのシステム、或はメカニズムだった。最新式の厨房工場フアブリカ・クーフニャでも、伸子はそこで一日に幾千人分の食事が用意されどんなスティーム鍋がつかわれているかということを見た。そして、その工場はどういう各部の担当にわかれていて、そこに文学サークルと共産党細胞と組合地区委員会がある、ということを、長い廊下を案内されつつ理解した。また伸子は白い上っぱりと帽子をつけて大活動をしている三十人の人民栄養労働組合員も見たのであったけれども、みんなの活動があんまりきびしく組織されて居り、その活動にゆるみがなくて、伸子にふれて来るのは、一つの系統だてられた活動そのものだけで、活動している人の肌合いというようなものではなかった。児童図書館でさえも、それは同じだった。迅くまわっている自転車の輪のこまかい一本一本のスポークスが目にとまらないように、モスクヷで、人々は、一人一人が活動のなかへ消えこんでいるほどはげしく活動しつづけている。

 スモーリヌィへ行って、伸子たちは、はじめてレーニングラードの、テムポを理解した。スモーリヌィはもと貴族女学校で、十月革命の頃、ここに全露ソヴェトがおかれていた。歴史的な十月の夜、コサック革命軍の機銃にまもられていたスモーリヌィの正面玄関の柱列や、銃をかかえたまま無数の人々がそこを駈け上り駈け下りした正面階段には、伸子たちがのぼってゆく一九二八年の六月の或る朝、夏のさわやかな光線と、微かに夏草のにおう微風があった。伸子たちは、スモーリヌィが見たいことと、モスクヷでは、モスクヷ・ソヴェトを訪ねたことがなかったために、そこの婦人部へ来てみたのだった。

 伸子と素子とは、その日一日だけ、スモーリヌィで過すつもりだった。都合によれば、数時間だけ。──ところが、伸子たちは、その翌日もまた次の日も、四日つづけてスモーリヌィを訪ねることになった。レーニングラード・ソヴェトでは、そのころ婦人部の仕事で農村婦人の政治指導者養成のための講習会をやっていた。レーニングラード附近の各地方ソヴェトから選ばれて来た婦人代表が五十人ばかり一クラスとなって、二週間の講習をうけていた。計らずそこへ現れた伸子と素子とは、翌日もたれる懇談会へ招かれた。懇談会へ傍聴に来ていた文化部の責任者から、その次の日、文化部を訪ねて来るように招かれた。四日目に、伸子たちは、十月革命の時期、レーニン夫妻が自分たちの室として住んでいたというスモーリヌィの、もと掃除女の部屋だった小室を見せて貰った。

 そんなことは、何ひとつヴ・オ・ク・スの紹介状には記入されていないことだった。モスクヷでは、どこでも、紹介状の当てられたその部面だけが、伸子たちの前にひらかれた。一通の紹介状は二度役に立たず、二つの部門に共通しなかった。スモーリヌィでは、伸子たちの前に開いた婦人部のドアが、次から次へと別のドアを開き、次から次へと別の人が現れ、その人々は、それぞれ自分から説明し、伸子たちに訊ね、ちょいとしたユーモアをあらわした。文化部のパシュキンが云ったように。──パシュキンは、玉蜀黍とうもろこし色の髪の毛をポヤポヤさせた大きい体を、窓ぎわに立っている伸子にふりむけて、こう云った。

「さあ、どう思いますか、我らの達成は素晴らしいでしょう、ここにこういう手紙が来ましたよ、遠い田舎の女から……」

 我等の達成ナーシャ・ドスティジェーニアという言葉は、その時分すべての報告演説の中に使われる表現の一つであった。

「彼女は、ソヴェト文化部へ質問して来ているんです。ソヴェト権力は、亭主が妻をなぐることを認めているでしょうか。わたしの亭主は革命前に、わたしをなぐっていました。そしていまもなぐります。──ヴォート!」

 パシュキンは、さきの太い鉛筆の大きな字のかいてある水色の紙きれをテーブルの上において、大きい手の平を上向けに、また、

「ヴォート!」

と、云って左眼をつぶった。

「ソヴェト権力がどんなに広汎な問題に責任を問われているかということが、わかりますか」

 やがてパシュキンは、ユーモラスな眼の輝きのなかに集注した注意を浮べた。

「彼女は、坊主にこれを訴えないで、ソヴェト文化部へ手紙をよこした。ここにはっきり我らの十年の意味が語られています」

「返事をやりますか?」

 伸子がそうきいた。

「もちろんやりますとも。──この手紙は我々のところから婦人部へまわします。残念なことにロシアにはまだ、なぐる夫や親たちが少なからずいるんです。子供たちも加わって、なぐられる習慣のある子供たちを保護する団体をつくりました。誰からそのことをききましたか?」

 こういう話しぶりの間に、モスクヷでは伸子がめぐり合うことのなかったゆるやかさでスモーリヌィでの時が経過した。迅すぎない時間の流れのなかに、伸子は変化しつつあるソヴェトの人々の感情の、横姿やうしろ姿までを見まもるゆとりを与えられた。

 はじめて、スモーリヌィの婦人部へ行ったときのことだった。

 二台のタイプライターの音が交互にきこえて来る隣りの室のドアがあいて、一人の瘠せがたの白ブラウスをつけた婦人が出て来た。黒いスカートをはいて背のすらりとしたそのひとの皮膚はうすくて、ヴ・オ・ク・スで会った若い女のひとと一種共通したレーニングラードの知識婦人の雰囲気をもっていた。

 そのひとは、伸子たちの問いに答えて婦人部の活動を話してきかせるより先に、伸子たちが共産党とどういう関係をもっているかときいた。伸子たちとして、行った先でそういう質問をうけたのははじめてだった。

「わたしたちは党外のものです」

 伸子が返事した。

「政治活動家でもありません。わたしたちは文学の仕事をしているから──けれども、わたしたちはあなたがたの仕事について知りたいと思って居ります」

 白黒のなりの女は、役所風に、

「モージュノ(出来ます)」

と云った。そうひとこと云ったきりで、片手にもった鉛筆で、機械的に片手の手のひらをたたきながら不得要領にしている。その態度に刺戟されたように、素子が独特の悧巧で皮肉な鋭い片頬笑みを浮べながら、

「ソヴェト婦人部の仕事は、党員婦人だけのためにされるべきものなんですか」

と質問した。黒白の女は、急に目をさましたように伸子たち二人をみて、弁明的な早口で云った。

「そんなことはありません。ソヴェト代議員には、党外婦人の方がより多勢選挙されているぐらいですから」

 しかし、この白黒の女に、東洋という観念がはっきりつかめていず、日本の女を見たのも初めてなのは明らかだった。ヴ・オ・ク・スの若いひとも、日本の女に会ったのは伸子たちがやっぱり初めてらしくて、どこか調子のわからないようなばつのわるさを、優美なそのひとらしく内気さと社交性であらわした。スモーリヌィの白黒の女は、なお自分に求められている婦人部の活動についての説明は回避して、自分の知らない未開地の状況の報告でもきくように、日本では女子のための大学があるかなどと質問をつづけた。

 ますますれて来た素子がいまにも日本語で、こんな女を対手にしてたって仕様がないよ、とでも云い出しそうになったときだった。伸子たちが入って来た廊下の方のドアが勢よくあいた。そして、白い木綿のちょいとした半袖ブラウスの上から、鼠色地にこまかい更紗さらさ模様のあるサラファンを着て、クリーム色のプラトークで陽気に頭をつつんだ血色のいい大柄な女が入って来た。窓ぎわにいる二人を認めると、

「──わたしどものところへのお客様ですか?」

 こだわりのない足どりで真直伸子たちに近づいて来た。

「こんにちは」

 太くて力のある手で握手しながら白黒の女と伸子たちとを半々に見た。

「どちらから?」

 白黒の女は、椅子から立ち上りながら、

「わたしたちの主任です」

 伸子たちにそう告げて、サラファンのひとに向って伸子たちが日本の婦人作家であること。ヴ・オ・ク・スから紹介されて来ていること。婦人部の仕事について学びたいと云っていることを報告した。サラファンのひとは、クリーム色のプラトークの結びめのはじを、日焦け色をしたむきだしの頸のうしろでひらひらさせながら、

「大変うれしいです」

と、伸子たちにうなずいた、すると、白黒の女は、すこし声をおとし、しかしそれは十分伸子たちにきこえる程度で念を押すように、

「彼女たちは、党員でありません」

とつけ加えた。その瞬間、伸子は火のような軽蔑と反撥が胸の中を走ったのを感じた。党員でなければどうだ、というのだろう。どんな人だって、党員より前に人間であるしかないのだ。そして、女であるか男であるかしかないのだ。──

 クリーム色のプラトークのひとは、到って平静で、伸子たちの上に視線をおいたまま、声の高さをかえず、

「それは重大なことじゃありません」

と云った。

「わたしたちは、みんなのために働いているんだから……」

 白黒が立ってそこから去ったあとの椅子に、かわってサラファンのひとがかけた。

「さて、何からはじめましょう。あなたがたは遠くから来ていらっしゃるのだから、ここでの時間は有効につかわなくてはなりません」

 サラファンのひとは、その室にいた別の女に云ってソヴェトの構成図の印刷したものを伸子たちに与えた。婦人のソヴェト代議員の大部分は村でも都会でも主として、教育、衛生、食糧の部門でよく活動していると説明した。

「非常に大部分の婦人が、特に農村では自分たちの文盲を克服すると同時に、すぐ村ソヴェトの活動に参加して来ているんです。わたしたちのところでは、子供たちもぐんぐん育っていますけれど、婦人たちの成長ぶりはすばらしいです」

 このサラファンのひとが、伸子たちを婦人代議員たちのために政治講習会が開かれている室へつれて行った。かなり広い、風とおしのいい白壁の室の真中に、色さまざまなプラトークで頭をつつんだ、さまざまの年齢の婦人たちが、どの額も頬も農村のつよい日光と風にさらされた色で、農業と電化の話をきいていた。うしろに空いていたベンチに伸子たちと並んでかけて、クリーム色プラトークのひとは、更紗模様のサラファンの下で楽々と高く膝を組み、その上へむきだしの太い肱をつき、顎を支え、断髪を赤いプラトークでつつんだ二十七八の講師の話が終るのを待った。講義が終ったとき、彼女は一同に伸子たちをひき合わせた。すると、講習生の中の一人で金の輪の耳飾りをつけた、いかにもしっかりもののおっかさん風の四十ばかりの婦人代議員から、伸子たちに向って、日本の婦人も参政権をもっているか、という質問が出た。

 伸子は、この村ソヴェト婦人代議員の質問の題目よりも、彼女の質問のしかたにつよい興味をひかれた。どこまでも実際家らしい体つきのそのおっかさん風の代議員は、単に知識上の好奇心からそういう質問を伸子にしているのではないことが、まざまざと伸子に感じられた。彼女は村での自分の生活がひろがり、日々に新発見があり、人生の地平線が遠く大きく見えはじめたその生活感の新鮮さから、日本の女はどうしているのだろうと、知りたがっているのだった。素子にたすけられながら、伸子は簡単に、ごく短かかった日本の自由民権時代、男女平等論の時代と、それからあと現代までつづいている婦人の差別的な境遇について説明した。おっかさん代議員は、伸子のその話をきくと、

「御覧!」

 肩をゆすりながらおこったようにとなりに坐っている同年配の女の脇を小突こづいた。

「わたしたちのとこだって同じことだったんだ」

 楽な様子でベンチにかけながら注意ぶかくこの空気を見ていたサラファンのひとが、

「皆さん、どうですか」

と云った。

「この様子だと、わたしどもは、お互にもっと訊いたり、きかせたりすることがありそうじゃありませんか。明日、二時から、座談会をしましょう、どうです?」

 農村からのひとたちらしく、ゆっくり重くひっぱった。

「ハラショー」

「ラードノ」

が、あっちこっちからおこった。こうして、伸子たちは、思いがけずまた翌日もスモーリヌィへ来ることになった。丁度正餐アベードの時間でサラファンのひとも講習生の婦人代議員たちも、講堂からぞろぞろ階下の大食堂へおりた。伸子たちが、そっちへ曲る廊下の角でわかれて帰りかけると、サラファンのひとは、

「どうして?」

 立ちどまって伸子たちを見た。

「どこへ駈け出すんです? わたしたちと一緒におたべなさい」

 わきを歩いていた一人の、手に火傷やけどのあとのある若くない婦人代議員が、いくらか躊躇している伸子に向って合点合点しながら、

「まったくのことさ!」

と云った。

「革命のときはみんながかつえたけれど、いま、パンは、たっぷりなんだから遠慮はいらないことさ」

 スモーリヌィからニェフスキー大通りの手前まで、電車にのって夕方の街々をぬけてかえる途中、伸子はサラファンのひとと、白黒のひととあんまり違いのひどかったことを、くりかえして心にかみしめた。サラファンのひとが戻って来るまで、伸子は、白黒を婦人部の責任者かしらと思っていた。白黒は、伸子たちにそんな風に思いこませるように応待をした。まるで素朴な外見で、自分のするべきことをよく知っていて、そのやりかたに、気持のさっぱりした洗濯上手の女のような自然の練達と確信がそなわっているサラファンのひとが、本当の責任者だったということは、すこし強く云えば、伸子に、ソヴェトというものに対する信頼をとりもどさせた。

「あなた気がついた?」

 がったん、がったん、と古びたレールの上ではずむ電車の中で、伸子はとうの座席に並んでかけている素子に云った。

「白黒さんが、わたしたちの主任です、と云ったときの、あの調子! なんてデリケートだったんでしょう。まるで、あのひとが間にあったのが残念みたいだったじゃないの」

「あれで、白黒の方がきっと大学ぐらいでているんだ。だからいやんなっちゃう──」

 翌日スモーリヌィへゆき、また次の日もゆき、ゆくたびに伸子はアンナ・シーモヴァというそのサラファンのひとにつよくひかれた。アンナ・シーモヴァは伸子よりも五つ六つ年上らしかった。一九一七年からの党員で、革命のときは働いていた工場のある地区ソヴェトの仕事をしていたということだった。いつみてもとりつくろわない風で、アンナ・シーモヴァは動きも気持も自然だった。彼女のうちにきわだって感じられるのは精神の均衡で、あっさりしたユーモアと具体的なポイントのつかみと一緒に、人に自信をめざませ、働かせ、それを愉快に感じさせる力がアンナ・シーモヴァのなかにある。

 一番おしまいにスモーリヌィへ行ったときのことであった。レーニンの室を見せて貰って帰りぎわに、伸子たちはもう一遍アンナ・シーモヴァのところへよった。彼女は室にいなかった。伸子たちが帰りかけて、三階の踊り場まで降りて来たとき、下からのぼって来るアンナ・シーモヴァに会った。伸子たちは、ほんとに心持よく多くのことを学んで過したスモーリヌィの四日間について礼を云った。

「あなたがたが満足されたのは、わたしもうれしいですよ」

 そして、伸子たちが秋まではレーニングラードに滞在する予定だと云うと、

「せいぜい愉快なときをおもちなさい、秋にまたお会いしましょう」

 そう云ってさようならをしかけたが、アンナ・シーモヴァは、急に伸子と握手していた手をそのままとめて、

「この講習会がすむと、わたしも休暇をとるんですよ」

と云った。アンナ・シーモヴァはうれしそうにそう云って頬が微笑で輝いた。

「わたしに、三つの娘がいるんです」

 つづけて、アンナ・シーモヴァが柔かい低い声で云った。

「わたしの夫は、集団農場の組織のために地方へ行っていますが、彼も一週間たつと休暇になります」

 アンナ・シーモヴァが、

「わたしたちは、三人で暮すんです。少くとも一ヵ月──」

と云ったとき、伸子は思わず、

「おめでとう!」

 そう云って、アンナ・シーモヴァを抱擁しそうに手をひろげた。アンナ・シーモヴァの幸福感はそれほど新鮮で、伸子をうち、感染させた。三つの娘がいるんですよ。わたしの夫は地方から休暇をとって来ます。わたしも講習会が終ったら休暇になります。そして、わたしたちは三人で暮すんです。歌のような活動のリズムとつよい生活の歓喜がそこにあった。

 もうスモーリヌィへ行かなくなってから、伸子は一層しばしばアンナ・シーモヴァを思いおこした。あの、歌の繰返しリフレーンのようだったよろこびの囁きと一緒に。──わたしたちは三人で暮すんです、少くとも一ヵ月。そこには、一ヵ月一緒に暮すことさえ珍しくうれしいほどの活動の響きがうらづけられていた。──

 それを思うごとに、伸子の心に憧れがさまされた。アンナ・シーモヴァのあの歓喜のある生きかた。ひとまで幸福にするあの清冽な幸福感。

「アンナ・シーモヴァって、いいわねえ。あのひとは、ほんとに生きているという感じがぴちぴちしている。──そう思わない?」

 レーニングラードの白夜もややすぎかけて薄暗くなりはじめた夜ふけの窓によりかかり、ネヷからの風にふかれながら、部屋靴にくつろいだ伸子が、ひかれる心を抑えかねるように素子に云った。

「あんな風に生きるってこと──羨しくない?」

 素子は、正面から噴水のしぶきでもあびたときのように、伸子の横溢の前にちょっと息をひくようにした。

「そりゃ、あのひとはほんものさね」

「あんな人に会えたの、思いがけないことだったわねえ」

 モスクヷで暮した六ヵ月あまりの間に、その面影が伸子の心に刻まれたひとが無いわけではなかった。正体のわからないような三重顎のクラウデに紹介されて、ホテル・メトロポリタンのごみっぽい室で会った中国の女博士リンの思い出は、そのときの情景を思い出すごとに伸子をしんみりと真面目にした。あなたの国の人たちとわたしの国の人たちと、どっちが苦しい生活をしているんでしょうねえ。哀愁をこめたリン博士のその言葉は伸子の耳の底にのこっている。伸子は、そういうリン博士の言葉で、自分という者の運命が日本の見知らぬ数千万の人々の運命とかたく結ばれたその一部であることを知らされたのだった。けれども、伸子がリン博士に感じた尊敬や真摯さは、伸子が伸子でないものになりたいような刺戟を与えるものではなかった。リン博士のゆたかさ、伸子の貧弱さ、その間には非常に大きな差があった。けれども、その厳粛な差のなかにリン博士の本質は伸子の本質と通じるものであることが感じられた。

 アンナ・シーモヴァに伸子のひかれているこころもちは、惹きつけられる感情そのものが、もう伸子を伸子のそとへ押しだすものだった。リン博士と伸子との間に流れかよった共感というのとはちがった。アンナ・シーモヴァって何といいのだろう。そう思うとき伸子は、自分という意識から解き放されて、アンナ・シーモヴァという一人の女性に表現されているこのましい生活ぶりへの想像に惹きこまれるのだった。

 六月も終ろうとする晩で、伸子がよりかかっている窓のあたりは、人気ない河岸どおりをへだてて、ふんだんなネヷの夜の水の匂いがして来るようだった。

「あなた不思議だと思わない?」

 くつろいでいる全身に、金ぶち飾りのついた天井からの隈ないシャンデリアの光を浴びながら伸子がまたつづけた。

「アンナ・シーモヴァとゴーリキイと、どこか共通な感じがあるのに気がついた?」

「──そうかなあ」

 ベッドよりに置かれているテーブルのはじに左肱をかけて、タバコのついていないパイプを指の間でいじりながら、素子がのみこめなさそうな眼ばたきをした。

「そう云えば、あのひとたちは、どっちも働く人の中から出ているんだから、そういう意味では共通な感じがあるかもしれない」

「そればかりじゃなく──革命を経験した人たちだというだけでもなく。──ゴーリキイはあんなに人間で、まるで人生そのものみたいに見事で、それで日向ひなたの年とった糸杉の匂いのようなまじりけない男が感じられたでしょう。アンナ・シーモヴァに、似たものが感じられるわ。あのひとの人間らしさに、くっきりと女がはめこまれているわ」

「…………」

 素子はだまってじっと伸子を見つめた。そして、無意識な手つきでからのパイプを口にくわえた。伸子は、窓の前をゆっくり行ったり来たりしはじめた。窓からは、広く暗いネヷの面を越して対岸の街燈が淋しくまばらに見えている。

「立派な、人間らしい人たちの中に、それぞれの完全な性があるのは美しいことだわねえ」

 素子の方へ背をむけて歩いていた伸子は、あこがれに小波だっているような調子でそう云ったとき、きいている素子がさっと上気したのを知らなかった。

「わたしも、ああいう風に咲き揃ってみたいと思うわ。──あの人たちのように……何て人間らしいんでしょう。咲きそろうって……」

 でも、と伸子はすぐつづけて考えた。自分には、自分を咲き揃わせるどんな方法が現実にあるだろう。誰の真似でもなく、間に合わせでもなく、この自分が咲き揃うために。──ゴーリキイやアンナ・シーモヴァが生きて来て、自身を咲き揃わせた道は、それが心を魅する内容をもっていればいるほどその人たち固有のもので、伸子にそのままくりかえせるものでも、真似するすき間のあるものでもなかった。いつかまた窓ぎわに戻って、目に映るものをほんとには見ていない視線を、明るく照し出されている素子の顔の上におきながら、伸子は思いつづけた。人間の善意は大きく真面目で、その中で一人一人が自分の正直な意志や希望を生かしてゆくためには、何ときびしいその人ひとの道があるだろう。その道の前途は、伸子にとって空白だった。そのことが伸子に明白に意識されるばかりだった。伸子が口を開こうとした瞬間、

「ぶこ!」

 低い迫るような素子の声が先をこした。

「なに考えてる──」

 複雑なこころもちを云おうとしていたその出鼻をくじかれて、伸子は言葉につまった。

「──当てて見ようか」

 素子のなめらかな小麦肌色の片頬に、不自然な片頬笑みがあらわれた。

「いままでぶこが考えなかったことを考えてる──ちがうかい?」

 亢奮を強いて抑えているような素子の声音や凝視が、伸子を警戒させた。

「そうかしら……でも、どうして?」

「はぐらかさなくたっていいだろう」

 そう云いながら、素子は椅子のなかで膝を組み重ねている体の重心をぐっと落すようにした。

「率直に云ったらどんなもんだい。いつだってぶこは正々堂々がすきなはずだったじゃないか」

 まごつきをあらわしている伸子の顔を素子はくらいつくような眼で見据えた。そして、ふん、というように顔をそむけ、その顔をもどして、

「わたしへ遠慮はいらないよ」

と云った。

「そんなに咲き揃いたいんなら、さっさと咲き揃ったらいいじゃないか。──さいわい、ここなら、内海君とちがった男たちもいるんだから」

 かたく、大きく見開かれた伸子の目の前で、素子は挑発するように伸子を見ながらパイプをもっている片手で自分の顎から頬へさかなでした。

「──せいぜい全き性を発見するさ!」

 ガスへバッと音をさせて火がついたように、伸子の気持が爆発した。

「それはどういうことなの」

 素子につめよろうとする衝動をやっと制しながら窓ぎわから伸子がひしがれた声で反問した。

「何の意味?」

「わかってるじゃないか」

「わからなくてよ──なにを思いちがいしてるんだろう……」

 いとわしさで伸子の唇が蒼ざめた。

「わたしは──複雑に云っているのよ」

 素子は明らかにかんちがいしているのだった。伸子が云った全き性という感じや、咲き揃うということを、じかに男は女との関係、女は男との関係という風にだけうけとったのだ。しかもその関係というものを、素子の狭い傾いた主観の癖で、直接で露骨な性の交渉の絵図に局限して、

 伸子は、素子を見ていればいるほど、素子の暗く亢奮してこちらを睨んでいる眼つきから、唇の両端を憎らしそうに、自虐的にひき下げている口つきから、いとわしさを挑発されるのに気がついた。伸子は、泣きたくなった頬を手でおさえて、窓の方へ向いてしまった。

 ネヷの上流に架かっている長い橋の上を、灯のついた電車が小さくのろく動いてゆく。日頃は、特別な意識をもたずにすぎてゆく伸子と素子との生活だが、伸子が何か男の影をうけたと素子が思うこういう瞬間に、素子は思いもかけない角度でぐらんと感情の平衡を失わせた。そして、その上にこわもてに全身で居直った。軟かい素子の女の体が、異常な激情に力をこめて居直るのを見ると、伸子は悲しさといとわしさで、自分たち女二人の生活にかくされている普通でないものを考えずにいられなくなった。こういう場合伸子はいつも、より普通でないものを素子の側に感じながら、

 少女期を出たばかりにずっと年上の佃と結婚して、心がそこに安らわず、断続して遂に破壊された五年の結婚生活の経験で、伸子は女として、性的な意味でほんとに開花していなかった。伸子は、ほんとの意味では女にも妻にもなりきらないまま、素子と暮すようになったのだった。けれども、伸子は自分の女としてのその微妙な状態について、何と比較するよしもなく、従って知りようもなかった。本質ははげしいけれど今は半ば眠っている伸子の官能のなかで、まだその全能力を発揮させられずにいる強い愛の能力の範囲で、伸子は素子にひかれ、暮しているのだった。伸子としては、自分が自分の頬を素子の頬にふれさせたい気持になることがあること、唇をふれ合うこともあること。そういう感情や表現を、そっくりそのまま男と女との間のことと同じとは感じていなかった。それはちがうのだもの。素子は女なのだもの。未開のままその生活からはなれたと云っても、伸子は佃と恋愛した。夫婦の生活をした。伸子にとって男と女のちがいは、自然がそれを区分しているとおりはっきりしていて、素子は男の代償という意味ではなく、どこまでも女として、友達として、しかし、そこには頬をふれる気持になるようなところのある女友達として、伸子は結ばれているのだった。

 モスクヷへ来て暮すようになってから、伸子と素子の生活は、駒沢にいた時分より、ずっとのびやかに、解放された。特に男たちから、伸子と素子との表面の暮しのかげに、なにか偏奇なグロテスクなものでもありそうにのぞきこまれる苦痛がなくなった。それに抵抗して、強いても二人を一組に押し出そうとするような伸子のうらがえされた恥辱感も消された。モスクヷでは、伸子たち二人が、つれだって遠い国から来ている外国の女たちだからと云うばかりではなかった。ソヴェトの社会生活では、男と女との接触が理性的にも感情的にも解放されていて、その間のいきさつはめいめいの自然の流れにしたがい、社会的責任で処理されている。そういう雰囲気の中では、性に関する好奇心とでもいうようなものも、表面で封鎖されているだけに、すべての下心が一枚はがれた下では、いつもかくされた亢奮ではりつめているような日本の状態とはちがった。すべてのことを感覚へじかにうけとるたちではあるけれども情慾的であるとは云えない伸子の気質は、ソヴェトのその雰囲気に調和した。そして、佃との苦しい生活でいためられた伸子が、異性への自然さを失わないながらその一方では日本の常識の中での両性生活のやりかたについて絶望していたような気持も、段々社会の変化と一致して変化する可能のあるものとして希望の方に向けられた。

 ゴーリキイやアンナ・シーモヴァの人間らしさに、完全な性が保たれ、咲き揃っている。そのことを伸子が、美しいと感じうらやましいと感じるのは、人間達成の可能のゆたかさへの共感であり、すすみゆく社会の本質が個々の男や女に与える可能性の意味ふかい承認だった。

 おとといの晩、伸子たちはレーニングラードの一つの横通りにある外務省の留学生沖のアパートメントに招かれた。そこには、沖の一時的な愛人である蒙古の眉、蒙古の口元、蒙古の濃い黒髪をもったヨーコという女医がいた。ほかに七人ばかりの外務省の留学生たちがいた。重く太い編み下げを蒙古服の背にたらして、おとなしく台所の間を往復するヨーコの姉という、原始的な皮膚をした女のひとがいた。だらだらとつづいた食事やいくらか葡萄酒によった会話の、どこに本ものの愉快さがあったろう。みんなが自分を馬鹿者でないと思っていて、日本の官僚主義や退屈な社交生活を軽蔑して話しながら、自分たちのその話しぶりそのものが無気力であり退屈であることを知らない若い男たちに、伸子が、どんな男の魅惑を感じたというのだろう。土台、そういうきっかけから出ている話ではなかった。

 伸子は、しばらくして、窓の方を向いたまま、テーブルのところにいる素子に云った。

「あなたは、自分のそういうものの感じかたをあんまり自認しすぎているわよ」

「…………」

「ぶこは、ひとりよがりで、自分は真実だから、おこりもすると思っているとしたら、違うことよ。ソヴェトへ来てまで、そんな何だか女同士の痴話喧嘩みたいなこと──わたしほんとに御免だから……」

「──えらそうに、なにを生意気云ってるんだ。──ぶこはいつだってそうだ。自分の都合のいいように理窟をつける──卑劣さ」

「そうは思わない。だって、あんたがああいう風にからんじまうとき、わたしは、どうしたらいいの?──どうしたら、あなた、気がすむ?」

 段々落ちついてものが云えるようになって、伸子は窓を向いていた体を素子の方へ向け直した。

「駒沢のころ、そういうとき、わたしはこわくなって泣いたり、真実を証明したりしました。やっぱり、いまもわたしがそうすればあなたの気がやすまる?」

 だまっている素子のまわりを伸子はゆっくり歩いて、背の高い煖炉棚へ部屋靴のつまさきをそろえてもたれかかった。

「──わたしは、もうそうしなくてよ。お互のために──わたしたち、折角いつもは病的なところなんかなくて暮しているのに、こんな時っていうと、まるで突発的に妙になるんだもの──これこそ病的だとしか思えない。わたし苦しくなるし、自分たちが恥しい……」

 ちょっと言葉を切って、伸子は羞恥のあらわれた、うす赧い顔で早口に云った。

「わたしたち性的異常者じゃないんだもの。──人間の親密さのいろんなニュアンスを肯定しているだけなんだもの」

 素子の眼から暗いおどかしと毒々しい光沢が次第に去った。

「そんなことはわかってるさ」

「変じゃないの、じゃどうして、あんなに、何とも云えないぐらんとした居直りかたになるんだろう。自分でわかる? どんなに──」

 醜い、という言葉を云いかねて伸子は、

「普通でないか……」

と云った。

「そりゃ普通じゃなかろうさ、わたしは自分を一遍だって普通だなんて云ったことはありませんよ」

「…………」

 素子の、京都風な受口の小麦肌色の顔や、そこから伸子を見ている黒い二つのなつめ形の眼、くつろいだ部屋着の胸元をゆたかにもり上らせている伸子より遙に成熟した女の胸つきなどを眺めていて、伸子は不思議にたえない心持になった。素子の生理になに一つ女でないことはない。それだのに、素子はどうしてこうまで自分の性をそのままにうけいれようとしないのだろう。伸子より三つ年上の素子が、女学校の上級生ごろから、らいてうとか紅吉とかいう青鞜婦人たちの女性解放の気運に影響されていたというだけでは、伸子に諒解しつくされなかった。素子の家庭で、父と母と母の妹との間に乱れた関係があって、素子の実母への愛と正義感が男への軽蔑や反撥になったとしても、やっぱり伸子にはわかりきらないものがあった。

「あなたってまったく不思議ねえ」

 その声のなかから腹立たしさも軽蔑も今はすっかり消えた調子で、伸子がまじまじと素子を見た。

「あなたの生活に、これまで具体的に男のひとが入って来たことってなかったんでしょう」

「そりゃないさ」

「そういう意味からだけ云えば、あなたは、わたしより純潔と云えるわけなのに──あなたは、わたしより純潔じゃないわ」

 素子はすこし顔を赧らめ、立ち上ってタバコに火をつけた。

「中学の男の子みたい? そうお? 具体的に経験されていないから却って、男と女のことっていうと、きまりきった形でいやにむき出しに頭の中で誇張されるのかしら……」

 素子は、タバコをふかしながら、ネヷ河に向って二つの大きい窓のひらいている夜の室内をあっちこっち歩いた。伸子のいうことから、何か自分への目がひらかれるところがあるらしい表情で。──考えながら歩きまわって、素子はやがて、

「もういい。ぶこ」

と、椅子のところへ立ちどまりながら云った。

「そう分析されちゃ、やりきれるもんか」

 伸子は黙った。けれども、伸子はこれまでのいつのときよりもはっきりした輪廓で素子を理解できたように思った。素子の封鎖されている性のなかには、伸子が自分に感じるより醗酵力のつよい欲望があり、しかもその欲情の激しさと同じ程度のはげしさで男の性が反撥されている。いつか素子は、自分からその矛盾の輪を破るだろうか。伸子はそのときがみたいと思った。素子の上にそのときを見たいと思う心の底潮に、意識されないかすかな遠さで、自分の生活もそのときはちがった展開をするだろうという予感がきざしていることは心づかずに。──



 レーニングラードから近郊列車で小一時間ばかり行ったところに、もとの離宮村があった。エカテリナ二世が、バルト海に臨んだ水の多い首都から、ひろびろとしたロシアの耕野の眺望を恋しがり、自然の野原と森の眺めをなつかしがったその好みに、いかにもあった地勢の土地だった。平らに遠く地平線がひらけて、ところどころに天然の深い森がある土地を更に人工の大公園で飾って、バロック風の離宮をこしらえた。

 一九一七年の十月、ニコライ二世が退位してから、シベリアへ出発するまで暮したのも、そこの離宮であった。ツァールスコエ・セロー(皇帝村)とよばれていたその離宮村は、その後デーツコエ・セロー(子供の村)と改称され、格別そこに子供のための施設ができているわけではなかったが、レーニングラード近郊の遊園地になっていた。日曜ごとに、ズック靴をはいて運動シャツ姿の青年男女や少年少女の見学団がデーツコエ・セローの小さくて白い停車場から降りて、大公園のなかへぞろぞろと入って行った。エカテリナ二世の離宮もニコライ二世の離宮もいまはそのまま博物館になっていた。エカテリナ二世がその小部屋をすいていて、毎日長い時間をそこで過したという見事なディヴァンのある「支那室」や、ニコライ二世の大理石の浴槽、その妻や娘たちの衣裳室というようなところを、見学団の数百の若いものたちは好奇心と無感興と半々な表情でだまって見て歩いた。彼等は博物館の内部を見おわって、そこからニコライ二世がシベリアへの旅へ出て行ったというフレンチ・ドアから自分たちも出て、公園の森と池とを見おろす大露台へかかると、はじめて解放されたように陽気になり、さわぎだし、喋ったりふざけたりする。

 そのフランス風の大露台から左手に見える森をへだてて、公園のはずれに、古風で陰気な石造の小建築がある。プーシュキンが少年時代をそこで教育された貴族学校のあとだった。その建物と往来をへだてた斜向いのところに、目立たない入口をもった石造の二階建の家がある。建物に沿った古びた石じきの歩道をゆくと、その建物の一階の四つの窓に白レースの目かくしがたれて、桃色のきれいなゼラニウムの花が、窓のひろさいっぱいに飾られているのがちらりと目に入った。その建物はもと貴族学校の校長の家だった。いまはパンシオン(下宿)になっている。

 伸子と素子とがデーツコエ・セローについて、ごくあらましにしろあれこれの知識をもったのは、ヴ・オ・ク・スのつけてくれた案内者と一緒に、七月の或る一日その大公園と離宮の村を歩きまわったからだった。そのとき案内者がアベードのためにつれ込んだ下宿は、ずっととまっている下宿人のほかに、日曜などにはそうやって不意の客もうけ入れる派手な落付きのない家だった。公園の一部を見晴らす庭に面した広間のあっちこっちにテーブル・クローズのかかった大きい円テーブルをおいて、ネップ(新経済政策)風の社交気分だった。

 外へ出てみると、そんなうちは例外で、デーツコエ・セローの村全体の日常は地味で、しかも鬱蒼とした大公園の散歩も、周辺の原始的な原っぱの遠足も思いのままで、伸子は、暫くこんなところに住みたいと思った。

 レーニングラードへ来てから伸子と素子とが暮している学者の家には、夏じゅういてもさしつかえなかった。けれども、もとウラジーミル大公の屋敷だったという学者の家の室は、いい部屋であればあるほどつくりが宮廷ごのみで、伸子たちにはしっくり出来なかった。フランス脚が金で塗られた椅子はあっても、モスクヷのホテル・パッサージにあったような実用的なデスク一つ、スタンド一つなかった。レーニングラード見学の期間が終ると、伸子も素子も、食事つきで勉強のできる下宿がほしくなった。デーツコエ・セローで、あんなにネツプ風でない下宿はないものだろうか。

 東洋語学校の教授であるコンラット博士が偶然デーツコエ・セローの下宿の一軒をよく知っているという話になった。きいてみると、それは、あのプーシュキンの学校の前の家で、伸子たちが桃色のゼラニウムの小ざっぱりした綺麗さに目をひかれた旧校長の家だった。その教授の紹介で、伸子たちは学者の家からデーツコエ・セローのパンシオン・ソモロフの二階へ移った。

 七月初旬で、伸子たちははじめの数日を一室で、あとは二人別々に部屋がもてた。食事のために出歩かないでよくなったことや、七ヵ月ぶりで自分一人の部屋がもてたこと、青葉照りの底へ沈んだような自然の奥ふかさなどで、伸子はレーニングラードへ来てから受けたいろいろの刺戟がデーツコエ・セローの暮しで日に日に自分のなかへ定着するのを感じた。落付いた気分になると、モスクヷのアストージェンカの、あのやかましくて狭い室で暮した生活も面白く思いかえされ、伸子は、自分の室がもてるようになってから間もなく小説をかきはじめた。

 朝飯がすむと、伸子は自分の部屋へかえって、くつろいだなりになって三時のアベードまでとじこもった。アベードのあと、八時の夜の茶の時間まで伸子と素子とは大公園の中を歩きまわったり、草のなかに長い間ねころがっていたりした。思いがけず往来で出会った作家のアレクサンドロフにつれられて、アレクセイ・トルストイのところを訪ねたりもした。アレクセイ・トルストイはピョートル大帝についての歴史小説をかいているところだった。マホガニー塗のグランドピアノのある客室に、すこし黄がかったピンクの軽い服を着た若づくりの夫人と十三四歳の息子がいた。トルストイの書斎にはプーシュキンとナポレオンのデス・マスクがかかっていた。タイプライターがおかれて支那の陶器の丸腰掛があった。プーシュキンのデス・マスクはともかくとして、ナポレオンのデス・マスクの趣味が伸子にわからなかった。

 伸子にわからないと云えば、パンシオン・ソモロフにとまっている人たちが、折々盛に話題にするコニー博士という学者のことも、伸子たちには分らなかった。下宿の食堂の壁に、コニー博士の寸簡が額に入れて飾ってあった。レーニングラード大学の歴史教授リジンスキー。法律の教授ヴェルデル。やせぎすの体にいつも黒い服をつけて姿勢の正しい老嬢エレーナ。夜のお茶の間などに主としてそういう人たちがよくコニー博士の追想を語りあった。なかでも老嬢のエレーナが故コニー博士を褒めるとき、いつも冷静にしている彼女の声が感動で波だった。少くとも老嬢エレーナにとってはコニー博士について話すときだけが彼女の感情を公開する機会らしかった。やがて伸子は、パンシオン・ソモロフの人々が云わず語らずのうちに一つのエティケットをもっていることに、気づいた。それは食卓で顔を合わす同士が、決してお互の過去にふれないこと、政治の話をしないこと、現在の職業にふれても、つっこんだ話はしないことなどだった。

 ところが、ある晩、ふとしたことからひとりでにこの掟が破られた。何かのはずみで一九〇五年の一月九日事件の話が出た。外国の民衆が、レーニングラード、その頃のペテルブルグの冬宮前広場でツァーの命令でツァーの軍隊によって行われた人民殺戮事件を、どんな風にうけとったかという風な話だった。高級技師の細君であるリザ・フョードロヴナが、二すじ三筋、白い髪の見えはじめたその年輩によく似合ったおだやかに深みのある声で、

「わたしは、こんなことをきいていますよ」

と話した。

「イギリスでね、一月九日の事件があったとき、ある大公が晩餐会を開いて居りました。食卓についている淑女・紳士がたの間に計らず『ロシアの事件』が話題になりましてね、当然いろいろの意見が語られたというわけでしたろう。すると、最後に当夜の主人である大公が、口を開いて『要するにロシアのツァーは政治を知っていない。そして人民たちは野獣にすぎないんだ』と云いました。その途端、お客たちのうしろで、いちどきにガラスのこわれる音がしました。今まで杯をのせた盆をもって、お客がたのうしろに立って給仕をしていた給仕頭が、人民たちは野獣にすぎないんだと主人が云った次の瞬間、真直に杯をのせた盆を自分の足許に投げすてたんです。そして、ひとことも口をきかず、ふりかえりもしないでその室を出てゆきました。──御承知のとおりイギリスの礼儀では子供と召使は見られるべきものであって、自分から口を利くべきものとはされて居りませんからね。──その給仕頭は適切な方法で自分を表現したというわけです」

 灰色の背広を着て、薄色の髪とあご髯とをもった歴史教授のリジンスキーが、すこしさきの赤らんだほそい鼻が特色である顔に内省的な、いくらか皮肉な微笑を浮べた。

「それは一九〇五年のエピソードであると同時に、その給仕頭の一生にとって恐らくたった一遍のエピソードじゃありますまいかね。──そこにディケンズの国の平穏な悲劇があるんだが……」

 老嬢のエレーナが、心のなかにかくされているいらだたしい何かの思い出でも刺戟されたように、

「大体エピソードというものをわたしたちはどのくらい信用したらいいんでしょう」

 テーブルの上においている右手の細い中指でテーブル・クローズの上を軽く叩きながら云った。

「エピソードに誇張が加えられなかったことがあるでしょうか──ほとんど嘘に近いほど……」

「お言葉ですが──御免下さい」

 袋を二つかさねたようなだぶだぶの顎をふるわして、パーヴェル・パヴロヴィッチが舌もつれのした云いかたでエレーナに答えた。

「わたくしは、全く誇張されない一つのエピソードをお話しすることができます」

 パーヴェル・パヴロヴィッチが、それだけのまとまった会話をはじめたということさえ、パンシオン・ソモロフの食堂では珍しいことだった。パンシオンの実際上の主人である大柄な老婦人と大柄でつやのぬけたようなその息子とは、いつも裏の部屋にだけ暮していて、パンシオンの客たちと食卓につくのは、古軍服をきた、中風症のパーヴェル・パヴロヴィッチだった。彼はテーブルで主人の席についているものの、ちっとも主人らしいところがなく、どっちかといえばその席に出されている主婦のかかりうどという感じだった。パーヴェル・パヴロヴィッチは、枯れた玉蜀黍の毛たばのような大きな髭を、二つめの胸ボタンのところからひろげてかけているナプキンで入念に拭いた。

「わたくしは、御承知のとおり軍隊につとめていまして──砲兵中佐でした。一七年には西部国境近くの小さな町に駐屯していました。われわれのところではペテルブルグでどんなことが起っているのか全然知っていませんでした。ところが、或る晩、二時頃でした。急にわれわれの粗末な営所へ武装した兵士の一隊がやって来ました。その頃は、どこへ行ったって武装した兵士ばかりでした。──ただその連中の旗がちがいました。赤い旗を彼等はもっています。ツァーはもういない。革命だ、と彼等は云います。しかし、私どもは何にも知っていない……」

 パーヴェル・パヴロヴィッチはそのときの困惑がよみがえった表情で、たれさがっている両頬をふるわせた。

「われわれの受けていた命令は国境警備に関するものでした。われわれは革命軍に対する命令は何も受けとっていなかったんです」

 きいている一同の口元が思わずゆるんだ。

「それで、どうなさいました? パーヴェル・パヴロヴィッチ」

 リザ・フョードロヴナが訊いた。

「御免下さい奥さん。──わたくしに何ができましょう。私には理解できませんでした。革命軍は将校をみんなひとつところに集めました。そして、その一人一人について、集っている兵士たちにききただしました。上官として彼等を苦しめるようなことをしたかどうか。将校は一人一人、連れ去られました。──おわかりでしょう? わたくしの番が来ました。わたくしはもう死ぬものと思って跪きました。私も将校ですから。ほかの将校たちよりよくもなければわるくもない将校であると思っていましたから。革命軍は、兵士たちにききはじめました。彼等を殴ったことはないか。無理な懲罰を加えたことはないか。支給品を着服したことはないか。──彼等の質問は非常に精密で厳格でした。私の額から汗がしたたりました。幸い、私は、質問される箇条のどれもしていません。ところが、やがて思いがけないことになりました。部下の兵士たちが、革命軍に向って、私を処罰するな、と要求しはじめたんです。私は親切な上官であったから殺さないでくれ。もし彼を殺さなければならないなら、われわれも殺してからにしろ、と叫びはじめました。革命軍は、永いこと彼等の間で相談しました。そして、わたくしはこうして生きています」

 パーヴェル・パヴロヴィッチの年をとったおっとせいのように曇って丸い眼玉に薄く涙がにじんだ。

「わたくしは、生きました。──しかし、私にはまだわからないようです」

 彼の左隣りの席にいる伸子をじっとみて、パーヴェル・パヴロヴィッチは一層舌をもつれさせながら云った。

「私が彼等を殴らなかったのは、私に、人間が殴れなかったからだけです。──概して、殴られるということがそれほど決定的な意味をもっているならば、どうして彼等は、あのときよりもっと前に、それをやめさせなかったでしょう──私は、殴れない人間だったのです」

 自分の恐怖や弱さを飾りなくあらわしたパーヴェル・パヴロヴィッチの話は、みんなに一種の感動を与えた。老嬢エレーナも、その話に誇張があるとは云わなかった。同時に、リジンスキー教授もヴェルデル教授も、兵士たちが、どうしてもっと前に将校の殴るのをやめさせることが出来なかったかということについては話題にしないまま、やがてテーブルからはなれた。

 伸子は、パーヴェル・パヴロヴィッチのエピソードから深い印象をうけた。それと同じくらいのつよさで、パンシオンの話術を感じた。この人たちの間には、品のいい話しぶりがあるのだ。

 翌る日のアベードの前、すこし早めに自分の室から出て来た伸子が素子と並んで、パンシオンの古風なヴェランダに休んでいた。隣りの家との間に扇形に枝をひろげた楓の大木があって、その葉かげを白い頁の上に映すような場所の揺椅子で、老嬢エレーナがフランス語の本をよんでいた。ヴェランダからは午後三時まえの人通りのない夏の日の大通りと、大公園の茂みと、そのそとの低い鉄柵が見えている。デーツコエ・セローの夏の日は果しなく静かである。

 そこへ、広間の方からヴェランダに向ってコトリ、コトリ、床に杖をついて来る音がした。元軍医の夫人ペラーゲア・ステパーノヴァがあらわれた。彼女は、心臓衰弱で、室内を歩くにも杖がいった。赤銅がかった髪を庇がみにして、どろんと大きい目、むくんだ顔色にいつも威脅的な不機嫌をあらわしている夫人は、灰色っぽい古軍服をきている良人に扶けられて、あいている揺椅子の一つにやっと重く大きい体をおさめた。

「ふ! わたしの心臓!」

 息をきらしながら、胸を抑えて頭をふった。一番近いところにいた老嬢エレーナが、ものを云わなければならなくなった。

「いかがです。また眠れませんでしたか?」

「──どこへ行ってもわたしに必要な空気が足りないんです」

「窓をあけてねると大分たすかりましょう」

 ペラーゲア・ステパーノヴァは、まるで侮辱でもされたように白眼に血管の浮いた眼を大きくした。

「わたしの心臓が滅茶滅茶になってから、十年ですよ。──できることなら壁さえあけて眠りとうござんすよ」

 暫くして、思いがけない質問がヴェランダのはずれにいる伸子たちに向けられた。

「日本にも、心臓のわるい人はどっさりいますか」

 伸子と素子とはちょっと間誤ついた。

「日本には、心臓病よりも肺のわるい人の方が多いでしょう」

 素子がそう答えた。ペラーゲア・ステパーノヴァにはその返事が不平らしかった。

「革命からあと、少くともロシアには心臓病がふえました」

 ふっと笑いたそうな影が伸子の口元を掠めた。

「わたしは一八年まではほんとに丈夫で、よく活動していました。あの火事までは。──ねえ、ニコライ。わたしの心臓は全くあの火事のおかげですね」

 古軍服と同じように茫漠とした表情の元軍医は、そういう妻の問いかけを珍しくもなさそうに、

「うむ」

と云った。

「もちろんそうですとも、ほかに原因がありようないんです」

 椅子によせかけてあったステッキをとって、コトコトとヴェランダの木の床を鳴らした。

「一八年にわたしどもはエストニアにいたんです。良人は病院長、わたしは婦長として。病院は、その村の地主の邸だったんですがね、何ていう農民どもでしょう? そこへ火をつけたんです。屋敷ばかりではなく、ぐるりの森や草原へまで──」

 息をきらして、ペラーゲア・ステパーノヴァは話しつづけた。

「その晩だって、わたしどもはちゃんと屋根に赤十字の旗を立てておきました。ねえ、ニコライ。わたしたちの赤十字の旗は二メートル以上の大きさがありましたね」

「うむ」

「わたしどもは、夢中になって負傷者や病人を火事の中から救い出しました。眉毛をやいたものさえいませんでしたよ。その代り、わたしどもは、ほんとうに着のみ着のまま」

 ペラーゲア・ステパーノヴァは揺椅子の上に上体をのり出させた。そして白眼に血管の走っている二つの大きな眼で、伸子、素子、老嬢エレーナをぐるりと見まわしながら、

「ほんとの一文なし!」

 むき出した歯の間から低い声で云って、左手の人さし指のさきを、拇指の爪ではじいた。

「革命は、わたしの心臓をこわしただけですよ」

 革命のときのことを知らない伸子の顔にしぶきかかるような憎悪がペラーゲア・ステパーノヴァの話ぶりに溢れた。伸子は食堂へゆっくり歩いて行く廊下で素子に云った。

「あんな話しかたって、実に妙ね。そんな一文なしになったのなら、どうしてこんなところに来ていられるんでしょう」


 リザ・フョードロヴナのところへ、良人の技師が来ることがあった。理科大学の上級生で、ラジオ放送局に実習生としてつとめている十九歳の娘のオリガが一晩どまりで来ることもある。赧ら顔に鼻眼鏡をかけ、頭を青い坊主刈りにして、いくらかしまりのない大きな口元に愛嬌を浮べながら社交的に話す技師が現れると、パンシオン・ソモロフの食堂の空気は微妙に変化した。日ごろは、いい意味でさえも野心の閃きというようなものが無さすぎる食卓に、技師は一種の騒々しさ、ソヴェト風な景気よさのような雰囲気をもたらした。細君であるリザ・フョードロヴナよりもむしろ軽薄で俗っぽい人物に見える技師がテーブルに加わると、その隣りに席のきまっているヴェルデル博士とリジンスキー教授の態度が目にとまらないくらい、より内輪になった。

 食堂のこういう小風景にかかわりなく、パンシオン・ソモロフで、いつもたゆまず同じように働いている人があった。それは女中のダーシャだった。パンシオン・ソモロフの人々の生活や感情にかかわりなく、日曜日ごとに天気さえよければ陽気にガルモーシュカを奏し、歌い、白藍横ダンダラの運動シャツの姿や赤いプラトークを大公園の樹の間がくれにちらちらさせて、日の暮まで遊んでゆく大群集があった。その群集について現れる向日葵の種売り、アイスクリーム屋が鉄柵のそとへ並んだ。その大群集や物売りたちは、日曜日になると、デーツコエ・セローの鬱蒼とした公園にうちよせるソヴェト生活のピチピチした波だった。伸子は、その波の波うちぎわにいる自分を感じながら、二つに畳める円テーブルの一つのたたみめを壁にくっつけて、ベッドに背中がさわりそうな僅のすき間で毎日少しずつ小説を書いた。



 八月にはいって間もない或る雨の日のことであった。きのうも一日雨であった。しっとり雨をふくんだ公園の散歩道にパラパラと音をたてて木立から雨のしずくが落ちかかり、雨にうたれているひろい池の面をかなり強い風が吹くごとに、噴水が白い水煙となってなびきながらとび散った。

 人っこ一人いない雨の日の大公園で、噴水を白く吹きなびかせている風は、パンシオン・ソモロフのヴェランダのよこの大楓の枝をゆすって、雨のしずくを欄干のなかまで吹きこませた。この北の国の夏が終りに近づいた前じらせのように大雨が降っている古いヴェランダの端から端へとぶようにして、老嬢のエレーナと伸子とがマズルカを踊っていた。いつものとおり黒ずくめのなりをしたエレーナの細くて力のある手が、くいこむようにきつく伸子のふっくりした若い手をとらえていた。伸子にはかぎのように感じられるその手でエレーナは伸子をリードして、黒いスカートをひるがえしながら、頭をたかくもたげ、伸子にはどこにも聴えていないマズルカの曲を雨と風とのなかにききながら踊る。ほそい赤縞のワンピースを着ている東洋風になだらかな丸い曲線をもった伸子の体は、エレーナの大きく黒く蝙蝠こうもりがとぶような動きに絡んでギャロップした。はげしい運動で薄く赧らんだ伸子の顔の上に恐怖があった。エレーナは、ほんとに発作のように立ち上って、教えてあげましょう、マズルカというものはこういう風におどるんです、と伸子の手を、いや応なくしっかりつかまえて踊りだした。そのときエレーナは伸子に、自分の若かったときの話をしていたのだった。オデッサで、大きい実業家だったエレーナの父親は、一人娘であったエレーナのために時々すばらしい宴会や舞踏会を開いた。昔、と云うのは革命前のことであるけれど、オデッサは、ロシアの小パリで、ペテルブルグよりも早いくらいにパリの流行が入った。エレーナはフランス製の夜会靴をはき、音楽と歓喜のなかで夜が明けるまでマズルカをおどった。話しているうちにエレーナの瞳のなかに焔がもえたった。あなたマズルカを知っていますか? いいえ。ああ。──いまはマズルカさえちゃんと踊る人がなくなってしまった。エレーナはひとりごとのように呟いて公園の森の方を見ていたが、不意にカンヷス椅子から立ち上り、教えてあげましょう。マズルカというものは、と伸子の手をつかまえて立ち上らせたのだった。

 いつも冷静に、厳粛にしているエレーナの黒服につつまれた細いからだには、こんな荒々しい情熱がひそんでいた。伸子はそのことにおどろかされた。エレーナとしては不意に中断されて、それっきりすっかり消えてしまった半生の最後に響いたマズルカの曲が、いまこの夏の終りの雨が降る人気ないヴェランダで伸子の手をつかんで立たせる衝動となってよみがえって来たのだろう。エレーナは非常に軽かった。彼女にはまだまだマズルカをおどるエネルギーがある。伸子はエレーナにリードされてヴェランダの床をギャロップしながらそう感じた。でも、いつ? そしてどこで? また誰とエレーナはマズルカを踊るだろう。彼女は昔よろこんで踊ったマズルカがあったことさえ今語ろうと思ってない。彼女にも憎悪があるのだ。ペラーゲア・ステパーノヴァの心臓のかわりに、エレーナは彼女のがんこな黒服をまとっている。説明ぬきで──説明するよりも雄弁に彼女がうしなったもののあることを表徴して。折からさっと風がわたって来て大楓の枝がなびき、欄干の近くを踊りすぎる伸子の頬に雨のしぶきが感じられた。反対側の広間をよこぎって素子の来るのが見えた。真面目ないそいだ足どりで来た素子はヴェランダの伸子を認めると、手にもっている黄色い紙をふってみせた。エレーナもそちらへ注意をひかれた。マズルカの足どりは自然に消えて、エレーナと伸子とが片手はまだつなぎあったまま立ちどまったところへ、素子が、

「ぶこちゃん、電報だ」

 黄色い紙を細長い四角に畳んだものをわたした。

「電報? どこから」

「うちかららしい」

 伸子は、どういう風にエレーナの手をほどいたかも気づかないで、広間とヴェランダの境に立ったまま電報をひらいた。

 よみにくいローマ綴りを一字一字ひろった。シキウキチヨウアリタシ。──至急帰朝ありたし。──無言のまま二度三度、その文句を心の中にくりかえして見ているうちに、伸子は抵抗の自覚される心持になって来た。電文そのものが唐突で簡単すぎ、意味がつかめないばかりでなく、そういう唐突な電報でこんなに遠くで営まれている伸子の生活の流れが変えられでもするように思ううちのひとたちの考えが、苦しかった。

 伸子はエレーナに挨拶して、のろのろ素子と広間の寄木の床を部屋の方へ歩いた。

「どういうんだろう」

 電文をくりかえしてよんだ素子が、それを伸子にかえしながら、いろいろの場合を考えて見るように云った。

「何があったんだろう」

「さあ……」

 動坂のうちの人たちとして、伸子にそういう電報を打つだけの何かはあったのだろう。しかし、伸子は、その動機を、すぐに、自分の生活を変えるだけ重大なものとしてうけとる気持になれなかった。

 廊下のはずれにある伸子の室まで二人で来て、伸子はベッドに腰かけ、もう一遍電報を見た。やっぱり、シキウキチヨウアリタシとしか書かれていない。

「何てうちは相かわらずなんだろう。電報まで電話そっくりなんだもの──伸ちゃん、一寸話があるからすぐ来ておくれ。──ここにいるものにすぐ帰れなんて……」

 素子はタバコに火をつけて、それをふかしながら、窓の外を見てしきりに考えている。動坂の家を出て別に暮すようになってから、多計代からの電話というと、伸子にはきかない先から用がわかる習慣になってしまった。ああ、もしもし伸ちゃんかえ。ぜひ話したいことがあるから、すぐ来ておくれ。多計代のいうことはきまっていた。

 はじめの頃、伸子は呼び出されるとりつぎ電話の口で、ほんとに何か火急な用が出来たのかと思って、当惑したりびっくりしたりした。家の戸締りをして、留守に帰って来る佃のために書きおきして、住んでいた路地の間の家から急いで歩いて動坂の家へ行った。多計代の坐っている食堂に入りかけながら、伸子が息のはずむ声で、

「何かおこったの」

というと、多計代は一向いそがない顔つきで、

「まあお坐り」

と云うのだった。そして、やがて切り出される話は、伸子が佃と暮していた間は、佃や伸子についての多計代の不満だったり、臆測だったりした。素子と生活しはじめてからは、一体、吉見というひとは、という冒頭ではじまる同じような多計代の感情だった。三度にいちどは、気の重い話のでないこともあって、そういうとき多計代はほんとにただ娘と喋りたい気になって、よび出す口実に用があると云っただけらしかった。

 いずれにせよ、多計代のすぐ来ておくれ、は伸子にとって一つの苦手であった。素子にとっても。──伸子はそうしてよばれると、じぶくって出かけて、その晩は駒沢の奥までかえれず、翌る日、素子にそのまま話しかねるような多計代との云い合いの表情を顔にのこして戻って来るのだった。

 シキウキチヨウアリタシ。その電文をよんだ瞬間、伸子は反射的にぐっと重しがかかって、その場から動くまいとする自分を意識した。

「しかしぶこちゃん、こりゃ放っておいちゃいけないよ」

 素子が妙に居すわってしまったような伸子に向って云った。

「ともかく電報うって見よう。──あんまりこれだけじゃ事情がわからないから」

「なんてうつ?」

 しばらく思案して素子は、

「事情しらせ、とでも云ってやるか」

と言った。

「それがいいわ。じゃ、すぐ打って来る、正餐までに」

「いっしょに行ってやろう」

 伸子と素子とは、人通りのたえている雨の大通りをデーツコエ・セローの郵便局まで出かけて、問い合わせの電報をうった。レイン・コートをもっていない伸子たちは、うすい夏服の前やうしろをすっかり黒く雨にぬらして帰って来た。

「ぶこのおっかさんなんか、わたしがこうやって却って気をもんでることなんか知りもしないんだから……」

 毒のない不平の調子で素子が云った。

「ぶこちゃんが、これを放ってでもおいてみろ。無実の罪をきるのは、わたしさ」

 東京から返事の電報が来るまでには少くとも二三日かかるということだった。伸子は、シキウキチヨウアリタシに気をわるくしながら、やっぱり返事が気にかかり、落付けず、快活さを失った。夜、素子の室で話したりしているとき、自然その方へ話が向いた。

「まあ、返事が来てからのことさ。次第によったら、いやでも帰らなけりゃならないかもしれないが……」

「ひとりで?」

「──お伴しなくちゃならないというわけかい」

 一人で帰ることがいや、いやでないよりも、伸子にとっては今ソヴェトから帰るということが、うけ入れられないのだった。

「先にね、ニューヨークから急に帰ったとき、やっぱり、こんな風だったのよ。母がね、お産をしなければならないのに、こんどは非常に危険だと医者に宣告された、と云って来たんです。わたしはたまらなく心配になってね、無理やり一人で帰って来てみたら、とっくに赤坊は生れてしまっているし、母はおきてけろりとしていたのよ」

 あのときの残念な心持、たぶらかされたような切ない心持を伸子はまざまざと思いおこした。ニューヨークで、伸子がアメリカごろの洗濯屋と夫婦になったとか、身重になって始末にこまって結婚したとかいう風聞になやまされた佐々の両親は、多計代の出産ということを口実に伸子がいやでも、大学での研究が中途だった佃をのこして帰って来なければならないように仕向けたことだった。そのときから八九年たった今になって見れば、親たちのばつのわるい立場も苦肉策も伸子に思いやることができた。それでも、父や母が、二十一ばかりだった伸子のまじりけない娘としての心配ごころをつかんで動かしたということについては、思いが消えなかった。伸子は思うとおりに生きようとして親たちに抵抗する娘ではあったが、他人のなかでもまれて育った女とちがって、そういう子供の時分から習慣になっている肉親のいきさつでは案外もろかった。

 至急帰朝ありたし、と云って来るからには、何かあるのだろう。だが、伸子は、こんども自分の子供っぽさであわてさせられるのは金輪際いやだった。

「まさか、お父さんがどうかされたんじゃないだろうね」

 老年の父親をもっている素子が、次の日になってから、散歩している公園の橋の上でふっと云った。黙っていて、やがて伸子は確信があるように断言した。

「父じゃないわ、それはたしかよ。もしそんなことなら、別な電報のうちようがあるもの。──それに……たしかに大丈夫!」

 伸子は、もし万一父の身の上に変ったことでもあれば、あの電報があんなにはっきりとそれにさからう心持を自分におこさせる筈はないと思った。最近は父というものについても伸子の心にこれまでとちがった判断が加えられて来ていたけれども、まだ伸子は仲のいい父娘としての心のゆきかいを信じていた。多計代に変ったことのないのは、あの電文そのものが、多計代の娘に対する物云い癖をそのままあらわしていることでたしかだった。家族の一人一人の消息を心のうちに反復してみても、伸子には見当がつかなかった。モスクヷを立って来るとき受けとったハガキで、保が、この夏は大いに自転車ものりまわし愉快にやってみるつもりですと書いてよこしていた。その文章も、伸子はよくおぼえていた。

 デーツコエ・セローの郵便局から伸子がジジヨウシラセと東京の家へ電報した三日目の夕刻だった。パンシオン・ソモロフの人々は茶のテーブルに向っていた。その午後、伸子は東京からの返電をまっている心持があんまり張りつめて苦しいので、素子につれ出されて四マイルも散歩して帰ったところだった。お給仕のダーシャから二杯目のお茶をうけとって、牛乳を入れているとき、玄関の呼鈴よびりんが鳴った。

 食堂とホールとの境のドアは、夏の夕方らしくパーヴェル・パヴロヴィッチの背後で左右に開けはなされている。食堂から玄関へ出て行ったダーシャが、戻って来ると、パーヴェル・パヴロヴィッチの左側をまわって、伸子の方へ来た。彼女の手に電報がもたれている。伸子は、思わずテーブルから少し椅子をずらした。

「あなたに──電報です」

「ありがとう」

 たたまれている黄色い紙をひらいて、テープに印刷されて貼られているローマ字の綴りを克明に辿ると、伸子はテーブル仲間に会釈することも忘れて食堂を出た。一足おくれて素子も席を立って来た。ホールの真中で伸子は電報をつきつけるように素子にわたした。八ガツ一ヒタモツドゾウチカシツニテシスアトフミ。

 ものも言わず二階へあがる階段に足をかけたら、伸子は体じゅうがふるえはじめてとまらなくなった。てすりにつかまって一段一段のぼって行きながら、伸子ははげしく泣き出した。泣きながら階段をのぼりつづけ、のぼりつづけて泣きながら、てすりにつかまっていない左手をこぶしに握って伸子は身をもだえるように幾度もいくたびも空をうった。何てことをしたんだろう。保のばか。保のばか。とりかえしのつかない可哀そうさ。くちおしさ。──よろよろしながら伸子は自分の室へ行く廊下を異常な早足で進んだ。もうじき室のドアというところで、伸子は不意に白と黒との市松模様の廊下の床が、自分の体ごとふわーともち上って、急に下るのを感じた。


 伸子にはっきり思い出せるのは、そこまでであった。それからどういう風にして自分がベッドへつれこまれたのだったか、素子が涙に濡れた顔をさしよせてしきりに自分の肩へかけものをかけてくれたのや、夜だったのか昼間だったのかわからないいつだったかに、素子が、ぐらぐらして体のきまらない伸子をベッドの上にかかえおこし、伸子の顔を自分の胸にもたせかけて、

「駄目じゃないか! ぶこ! どうするんだ、こんなこって! さ、これをのんで……」

 スープをひとさじ無理やりのまされたことなどを、きれぎれに思い出せるだけだった。それからもう一つ、自分がしつこくくりかえして、よくって? わたしは帰ったりしないことよ。よくって? と云ったことと、そのたんびに素子が、ああいいよ、わかってる、わかってる。と力を入れて返事して涙をこぼしたことなどを思い出すことが出来た。


 夢とうつつの間で伸子はまる二日臥ていた。どの位のときが経ったのかそんなことを考えてみる気もおこらないほど長い昼寝からさめたような気分で、伸子は三日目のひるごろ、ほんとに目をさまして自分の周囲をみた。

 伸子が目をさましたとき、その狭い室のなかには臥ている伸子のほかに誰もいなかった。明るい静かな光線が小さい室の白い壁いっぱいにさしていた。テーブルの上のコップに、紫苑しおんの花のような野菊と、狐のしっぽのような雑草とがさしてある。コップにさしてある雑草はあの日に、遠い野原で伸子が自分でつんだものだった。すべてのことが、はっきり伸子に思い出されて来た。八ガツ一ヒタモツドゾウチカシツニテシス。──保は死んでしまった。波のようなふるえがシーツにくるまって臥ている伸子の下腹から全身に立った。八ガツ一ヒ。鋭い刃もので胸をさかれる悲しさがあった。ドゾウのチカシツ。──

 胸に手をやって痛いところを抑えずにいられないほど悲しさは鋭いのに、伸子の眼からは不思議にもう涙がでなかった。そのかわり、まるであたりの空気そのものが悲しみそのものであるかのように、ちょっと体を動かしても、首をまわしても、伸子は息のつけないような悲しみのいたさを感じるのだった。

 足もとのドアがそっと開けられた。素子が入って来た。眼をあけている伸子をみると、

「めがさめた?」

 素子が強いてふだんの調子をたもとうとしている言いかたでベッドに近づいて来た。

「大分眠ったから、もう大丈夫さ。──気分ましだろう?」

「ありがとう」

「ともかく電報をうっといたから……」

 伸子の感情を刺戟しまいとして素子は事務的な方面からばかり話した。

「ぶこちゃんは帰らないということと、おくやみをうっといた」

「それでいいわ。ありがとう」

 次の日、素子に扶けられて、伸子はアベードの時だけ食堂へ下りた。食後、テーブルについていた人々が、一人一人伸子に握手して悔みをのべた。ロシアの人としては小柄で、頭のはげているヴェルデル博士は、彼の真面目な、こころよい黒い瞳でじっと伸子の蒼ざめている顔を見ながら、

「あなたが勇気を失わずに居られることは結構です。あなたはまだお若い。生きぬけられます」

 信頼をこめてそう云って、執ったままいる伸子の手の甲を励ますようにねんごろにたたいた。

「ありがとう」

 泣きださないで礼をいうのが伸子にやっとだった。ヴェルデル博士のやりかたは、あんまり父そっくりだった。泰造も、伸子の手をとることが出来たら、きっとそうして伸子と自分をはげましただろう。

 やがて、伸子は、食事のたびに食堂へ出るようになった。けれども、伸子の状態は、重い病気からやっと恢復しかかっているひとに似ていた。まだごくひよわいところのある恢復期の病人が、微かなすき間や気温のちがいに過敏すぎるとおり、伸子は人々の間に交って食卓に向っているようなとき、何か自分でさえわからないきっかけで、不意に「八月一日」とはっきり思うことがあった。するとたちまち悲哀のさむけが伸子の全身をふるわせた。何心なくものをのみ込もうとしているとき、前後に何のつながりなくいきなり、保は死んでしまった、と思うことがあった。古くなって光った制服の太い膝をゆすったり、紺絣の着物の膝をゆすっているときの保、柔かい和毛のかげをつけた若いおとなしい口元、重いぽってりした瞼の形、可愛い保のおもかげは迫って、伸子はものをのみこむどころか息さえつまった。伸子の悲しみは体じゅうだった。その体に風が吹いても悲傷が鳴った。

 喪服をつけるというようなことを思いつきもしなかった伸子は、相かわらず白麻のブラウスにジャンパア・スカートのなりで、素子の腕につかまりながら、ほとんど一日じゅう戸外で暮した。結局たれ一人、保が生きられるようにはしてやれなかった。この自責が伸子をじっとさせておかないのだった。ひとはてんでに、生きるようにして生きている。そのひとのなかに、兄の和一郎も姉の伸子も、父母さえもおいて保は一人感じつめたのだと思うと、伸子の唇は乾いた啜り泣きでふるえた。

 伸子は、保の勉強部屋の入口の鴨居に貼られているメディテーションという小紙に、あんなに拘泥していた。いつだってそれを気にしていた。だけれども、それだからと云って自分がソヴェトへ来ることをやめようとはしなかった。自分の生きることが先だった。デーツコエ・セローの大公園の人目から遠い池の上に架かった木橋の欄干にもたれて、そこに浮いている白い睡蓮の花を見ながら伸子は考え沈んでいた。

 保は、おそらく、あんなに執拗に追求していた絶対の正しさ、絶対の善という固定したものを現実の生活の中に発見できない自分と和解できなくて、死んでしまったのだろう。保が恋愛から死んだとは伸子にどうしても思えなかった。伸子がそう感じていたくらいだから、保の同級生はどんなにか佐々保を、家庭にくっついた息子だと思っていたことだろう。母の云うことにはがゆいばかり従順だった保が、母の情愛の限界も知って、死んだ。そのことも伸子のこころをひきむしった。越智がまだしげしげ動坂の家へ来て母が客間に永い間とじこもっているような頃、保が、伸子に向って、越智さんが来るとお母様どうしてお白粉しろいをつけるんだろう、と云ったことがあった。伸子はそのときのはっとした思いを忘られなかった。多計代は、誠実とか純潔とかいうことを保あいてに情熱的に話すのが大好きだったが、もしかしたら保は次第に母と越智との現実に、母の言葉とちぐはぐなこともあったことを感じはじめていたのではなかったろうか。保は、母の話におとなしく対手になりながら、あのふっくりした瞼のかげに平らかにおいた瞳のなかで母のためにはずかしさを感じていたのではなかったろうか。

 相川良之介のように複雑な生活の経験がなく、また性格的に相川良之介のように俊敏でない保に、生きるに生きかねる漠然たる不安というようなものがあったとは伸子に思いかねた。二十一歳の保は、一本気に自分流の観念に導かれて、その生きかたを主張する方法として死ぬことを選んだのだったろう。いずれにしろ、保はもう生きていない。生きて、いない──何という空虚感だろう。その空虚の感じは伸子の吸う息と一緒に体じゅうにしみわたった。そして保がもういないという空虚感には、九つ年上の姉の伸子が、保というものを通じて、漠然と自分よりも年のすくない新鮮な男たちにつないでいたいのちの断絶も加わっていた。兄とはちがう姉の女の心が、三十歳の予感にみたされた感覚で、弟の大人づいてゆく肉体と精神に関心をよせていた思いの内には、そのこころもちをとらえて名づけようとするともう消えて跡ないようなにおやかさもあった。


 落胆のなかをさまようように、伸子はデーツコエ・セローの森のなかを歩きまわった。伸子のかたわらにはいつも素子がついていた。伸子の悲しみの深さで、日頃はちらかりがちな自分の感情をしんみりと集中させた素子が、伸子と一つの体になったような忠実さで、ついていた。伸子は折々びっくりして気づくのだった。こんなに素子がしてくれるのに、何時間も口をきかずにいて、ほんとにすまなかった、と。

「ごめんなさい──心配かけて」

 伸子は、心からそう言って素子の腕を自分のわきへおしつけた。

「いい。いい。ぶこ。よけいなことに気をつかうもんじゃない」

「だって……いまになおるからね」

「──いいったら!」

 しかし、しばらく歩いているうちに、伸子はまた素子のいることを忘れ、しかも伸子は素子の腕につかまって、やっと森かげの小みちを歩きつづけることができるのだった。

 日曜日になると、朝早いうちからいつものようにデーツコエ・セローの停車場へはき出された青年男女の見学団が、ぞろぞろとパンシオン・ソモロフのヴェランダの前の通りを通って行った。終日浮々したガルモーシュカの響がきこえ、笑い声や仲間を呼んで叫ぶ声々が大公園にこだました。伸子はそういう日は公園へ出てゆかず、パンシオンの古いヴェランダにいた。そして、自分をみたしている悲しさと全くあべこべでありながら、不思議な慰めの感じられるよろこばしげなざわめきに耳を傾けた。

 伸子がいるパンシオン・ソモロフのヴェランダから、ひろい通りをへだてた向い側に、大公園のわきの入口の一つが見えていた。楓の枝が房々としげった低い鉄柵のところに、桃色と赤とに塗りわけられたアイスクリーム屋が出ている。日曜日にだけ商売する屋台キオスクだった。その前で、二人の若いものが何か論判していた。コバルト色のスポーツシャツを着たいかにもコムソモール風な若者と、黄色と黒の横だんだらのこれもスポーツ・シャツで半ズボン、ズック靴の若者が議論している。往来の幅がひろいから伸子のいるヴェランダのところまで、二人の声はきこえなかった。何か言いながら力を入れてむき出しの腕をふったりしている動作だけが見えた。そのうちに黄色と黒の横だんだらの方の形勢がわるくなって来たらしく、その若者は、返答につまるたんびに頭の上にちょこなんとのっかっている白いスポーツ帽をうしろから前へつき出すようにしては喋っている。その動作にはユーモラスなところがあった。間もなく公園のなかから、六七人の仲間が駆けだして来た。ぐるりと二人はとりまかれた。黒い運動用のブルーマをつけて、赤いプラトークをかぶった三人の少女もまじっていた。コバルト色の青年がみんなに向って説明するように何か言った。黄色と黒の横だんだらも、帽子を前へちょいと押し出しておいて、何か訴えるように云った。一人の少女が、少し顔を仰向けるようにして、コバルト色の青年に向って何か言いながら、賛成しないような身ぶりで日やけした手をふった。黄色と黒との横だんだらに向っても同じようなことをした。それにつづいて新しく来て、二人をとりかこんだ青年の中の一人が何か言った。すると、そこにかたまっていた全部のものが、たまらなく可笑おかしくなったように大笑いした。赤いプラトークの少女は、とんび脚のように膝小僧をくっつけ合った上へ両手をつっぱって体を曲げて笑っている。コバルト色シャツの青年が、いく分苦笑いめいた顔でこれも笑いながら黄色と黒の横だんだら青年の背中を一つぶった。ぶたれた方は例によって、ちょいと帽子をうしろから押し出し、やがてみんなは一団になって公園へ入って行ってしまった。入れちがいに、赤いネクタイをひらひらさせてピオニェールの少女が二人、木の下からかけ出して来て、アイスクリーム屋の前へ行った。

 ヴェランダから見ていると、そのあたりの光景は絶えず動いていて、淡泊で、日曜日の森に集っている健康さそのもののとおりに単純だった。雰囲気にはかわゆさがあった。その雰囲気に誘いこまれ、心をまかせていた伸子は、やがて蒼ざめ、痛さにたえがたいところがあるように椅子の上で胸をおさえた。伸子は思い出したのだった。保の笑っていたときの様子を。愉快なとき保は両手で膝をたたいて大笑いした。にこ毛のかげのある上唇の下から、きっちりつまって生えている真白い歯が輝やいて、しんからおかしそうに笑っていた保。──その保は死んだ。もういない。

 ヴェランダから見ている伸子の視界に出て来たり、見えなくなったりしている若ものたちは大抵、十七八から二十ぐらいの青年や娘たちだった。この若い人たちの生は、何とその人たちに確認されているだろう。

 伸子は公園のぐるりの光景から目をはなすことができずに、そのヴェランダの椅子にかけていた。そこに動いている若さには若い人たちの生きている社会そのものの若さが底潮のように渦巻いているのが感じられて、デーツコエ・セローの日曜日は、たのしげなガルモーシュカの音を近く遠く吹きよこす風にも、保が偲ばれた。

 動坂の家のひとたちは、伸子と保とがどんなに一枚の楯の裏と表のようなこころの繋りをもって生きていたものであったかということについて、考えてみようともしていないであろう。或は多計代だけは考えているかもしれない。伸子のような姉がいるから、保はなお更思いつめずにはいられなかったのだ、と。誰か人があって、伸子に向い、同じことを言ってなじったとしたら、伸子はひとこともそれについて弁明しようと思わなかった。たしかにそれも事実の一つであろう。だけれども、それだけが現実のすべてだろうか。伸子が保に影響したというよりも、伸子は伸子らしく、それに対して保は保らしく反応せずにいられない今という時代の激しい動きがあるのだ。たとえば三・一五とよばれる事件で大学生が多数検挙されている。生れながらの調停派とあだ名されながらその恥辱の意味さえ彼の実感にはのみこめないような保が、保なりに、保流に、それについていろいろ考えなかったとどうして言えよう。保は、その一つのことについてさえも彼らしく各種の矛盾を発見し、そこに絶対の正しさをとらえられない自分を感じたことであろう。動坂の人々の生活の気風は、一定の経済的安定の上に流れ漂って、泰造にしろ、或る朝新聞をひろげてその報道に三・一五事件をよむと、そのときの短兵急な反応でその記事に赤インクのかぎをかけ、伸子へ送らせたりするけれども、つまりはそれなりで日が過ぎて行った。

 八ガツ一ヒタモツドゾウチカシツニテシスという電文をよんで気を失いかけながら、伸子がくりかえして、よくって? わたしは帰ったりしないことよ。よくって? とうわごとのように念を押した。それは伸子が自覚しているよりも深い本心の溢れだった。伸子という姉のいるせいで、保が一層保らしく生きそして死んだとしても、伸子は、その生と死においてやっぱり密着しつづけている彼と自分とを感じた。その保の死を負った伸子の生の感覚は動坂の誰にもわからないものであることを伸子は感じ、伸子に、いま在る自分の生の位置からずることをがえんじさせないのだった。

 その日曜日も、午後おそくなるとデーツコエ・セローの森じゅうにちらばっていた見学団が、再びそれぞれの列にまとめられた。誰も彼も朝来たときよりは日にやけ、着くずれ、一日じゅうたゆまず鳴っていたガルモーシュカの蛇腹じゃばらはたたまれて肩からつるされ、パンシオン・ソモロフの前の通りを停車場へ向って行った。一つの列が通っているとき、それに遮られてパンシオン・ソモロフの女中のダーシャが、腕に籠をひっかけて向い側の歩道に佇んでいるのがヴェランダから見えた。いつも葡萄酒色のさめた大前掛をスカートいっぱいに巻きつけて働いてばかりいるダーシャを、外光の中で見るのは珍しかった。ダーシャも、列に道をさえぎられた一二分にむしろ休息を見出しているように立って眺めている。このダーシャは、伸子が保の死んだしらせをうけとって、まだ自分の部屋で食事をしていたころ、朝食をのせて運んで来た盆をテーブルの上へおろすと、改めてエプロンで拭いた手を、ベッドにおき上っていた伸子にさし出した。そして、

「おくやみを申します」

と言った。

「弟さんが死なれましたそうで──おおかた学生さんだったんでしょうね」

 もう四十をいくつか越しているらしいダーシャは重いため息をした。

「もとは、こっちでもちょくちょくそういうことがあったものです。神よ、彼の平安とともにあれ」

 ダーシャは祈祷の文句をとなえて胸の上に十字を切った。

 もとは、こっちでもちょくちょくそういうことがあったもんですというダーシャの言葉と、学生さんだったんでしょうね、と疑う余地ないように言ったダーシャの感じとりかたが、伸子の感銘にきざまれた。もとはちょいちょい自殺するものがあって、その多くは学生たちだった頃のロシアの生活。ダーシャはその生活を生きて来た。そしていまデーツコエ・セローの歩道で、足もとから埃を立てながらぞろぞろ歩いてゆく若い男女見学団を見物している。それは日曜の平凡な街の風景にすぎなかった。けれども、その平凡さのうちには、伸子の悲しみに均衡する新しい日常性がくりひろげられている。



 もう十日ばかりで伸子と素子とがパンシオン・ソモロフをひきあげようとしていた九月はじめ、伸子は東京からの電報以来、はじめての手紙をうけとった。丈夫な手漉てすきの日本紙でこしらえた横封筒に入れられ、倍額の切手をはられた手紙は厚くて、封筒は父の筆蹟であった。

 伸子は手紙をうけとると、素子と一緒に室にとじこもった。封筒を鋏できった。パリッとした白い紙に昭和三年八月十五日。東京。父より。伸子どの。と二行にかかれていた。わが家庭の不幸がありてのちいまだ日も浅く、母の涙もかわかざるとき、父としてこの手紙を書くことは、苦痛この上ありません。しかし、伸子も一人異国の空にてどのように歎いているであろうかと推察し、勇を鼓して、保死去の前後の事情を詳細に知らせることにした。泰造は、伸子が見馴れている万年筆の字でそう書いている。その万年筆は、ペン先がどうしたはずみか妙にねじれてしまっていたが、泰造はそれでもほかのよりは書きいいと云って、ねじれたペンを裏がえしにつかって書いていた。動坂の家庭生活のこまごました癖やそのちらかり工合までを伸子に思いおこさせずにおかない父の筆蹟は、肉体的な実感で伸子をつかんだ。

 今年も七月早々母は持病の糖尿病によるあせもの悪化をおそれて、例の如く桜山へつや子とともに避暑し、動坂の家にのこりたるは保、和一郎と余のみ。保は、二十日間のドイツ語講習会を無事終了。その二三日来特に暑気甚しく、三十一日の夜は和一郎、保、余三人、保の講習会を終った慰労をかねてホテルの屋上にて食事、映画を見物して帰った。その夜も保は映画の喜劇に大笑いし極めて愉快そうに見えた。

 三十一日はそうして過ぎ、泰造の手紙によると八月一日は、平常どおり泰造は朝から事務所へ、和一郎は友人のところへそれぞれ出かけた。父も和一郎も夕飯にかえって来たが、めずらしいことに保がうちにいなかった。女中にきくと、おひる前ごろ、保が筒袖の白絣に黒いメリンスの兵児帯へこおびをしめたふだんのなりで、女中部屋のわきを通り、一寸友達のところへ行ってくるよ、と出かけたことがわかった。昼飯はあっちで食うからいいよと保がいうので、晩御飯はどうなさいますかときいたら、保は歩きながら、それもついでに御馳走になって来ようか。少し図々しいかな、と笑って門の方へ出て行った。

 いつも几帳面に自分の出るとき帰る時間を言いおく保が、その晩はとうとう帰宅しなかった。八月二日になった。父は事務所に出勤。和一郎は在宅して、保が帰るのを心待ちしたが、その日の夕刻になっても保は帰って来ない。父が事務所から帰ったときは、和一郎が何となし不安になって、日頃保が親しくしていた二三人の友達の家へ電話をかけたところだった。保はどこへも行っていなかった。きのう来たというところもなかった。まして、家へ泊ったという返事をした友人はなかった。われらの不安は極度に高まり、二日夜は深更に到るまで和一郎と協議し、家じゅうを隈なく捜索せり。

 よみ終った頁を一枚ずつ素子にわたしながらそこまでよみ進んだ伸子は、鳥肌だった。和一郎とつれだった泰造が、平常は活動的な生活のいそがしさから忘れている家のなかの隅々や、庭の茂みの中に保をさがすこころの内はどんなだったろう。伸子は、白い紙の上にかかれている文字の一つ一つを、父の苦渋の一滴一滴と思った。

 三日の早朝、和一郎が念のためにもう一度土蔵をしらべた。そして、はじめて、土蔵の金網が切られていることを発見した。母の留守中土蔵の鍵は余の保管にあり。くぐりにつけられている錠はおろされたままで、くぐりごと土蔵の大戸を開けることの出来る場所の金網がきられ、それが外部からは見わけられないように綿密につくろわれていることがわかった。父と和一郎が土蔵へ入った。入ったばかりの板の間に、猛毒アリ、と保の大きい字で注意書した紙がおかれていた。地下室へ降りるあげぶたが密閉されている。そこにも猛毒アリ危険 と警告した紙があった。

 保はかくの如く細心に己れの最期のあとまでも家人の安全を考慮し居たるなり。その心を思いやれば涙を禁じ得ず。動坂の家へ出入りしている遠縁の青年がよばれた。父と和一郎とは土蔵の地下室のガラスをそとからこわして、僅かなそのすき間から二つの扇風機で地下室の空気の交換をはじめた。土蔵の地下室の窓は、東と西とに二つあったが、どっちも半分地面に出ているだけだった。一刻も早く換気せんとすれども、折からの雨にて余の手にある扇風機は間もなく故障をおこし、操作は遅々としてすすまず。──涙があふれて伸子は字が見えなくなった。幾度も幾度もくりかえして伸子はそのくだりをよんだ。父の涙とまじって降る雨のしぶきが顔をぬらすようだった。

 動坂の家でそういう切ない作業がつづけられている間に、よばれた遠縁の青年が、福島県の桜山の家へ避暑している多計代の許へやられた。多計代をおどろかさないために、とりあえず、保さんはこちらに来ていませんか、とたずねて。

 つづけてその先へよみすすんで、伸子は涙もかわきあがった両眼をひきつったように見開いた。手紙をもっていた手が膝の上におちた。やがてまたそれを目に近よせて熱心によみ直した。保は三月の下旬に一度死のうとしたことがあって、さいわいそのときは未然に発見されたと泰造は書いているのだった。三月下旬のある晩、まだ高校が春休み中だった保もまじえて、みんなが賑やかに夜をふかし、保だけをのこして、両親は二階の寝室へあがった。寝ついてしばらくたったとき、泰造はふと、いつも眼鏡、いれ歯、財布、時計などを入れて枕もとにおく小物入れの箱を食堂へおきっぱなしにして来たのを思い出した。泰造が階下へおりて食堂へ行こうとすると、真暗な廊下にひどくガスのにおいがした。廊下をはさんで食堂と向い合いに洋風の客間があって、そこにガスストーブがおかれている。泰造はそれを思いだしてスウィッチをきって、客間の電燈をつけた。そして、内から鍵をかけたその室にガスの栓をあけ放して保が長椅子の上に横になっているのが見つけられた。保は廊下に面した小窓が外からあくのを忘れていたのだった。その夜は母も保も共に泣き、余も思わずもらい泣きをした。こういうことがあったから、東京から行った若いものが多計代に、保さんはこっちへ来ていませんか、ときけば、それで十分母の多計代にとって保の身に何事かあったという暗示になる。そのいきさつの説明として泰造は伸子への手紙に書いているのだった。

 なんということだったろう。そんなことがあったのに、長い夏休みじゅう、留守で、がらんとした、男と女中ばかりの動坂の家へ保を一人おいておくなんて。伸子には、そんなうかつさを信じられなかった。三月に、死のうとした保が見つかったとき、母も保も共に泣き、余も思わずもらい泣きをしたと泰造は書いている。それきりで、泰造や多計代が、どんなにして死のうとして失敗した息子の保をなぐさめ、愧しさから救い、生きる方向へはげましたかということについては、書かれていない。多計代は、そのとき保とともに心ゆくばかり泣いて、死のうとした保の純情に感動して、それで自分としてはすんだように思ってしまっていたのではなかろうか。さもなくて、どうして、夏、がらんとした動坂の家へ保をおいて自分たちだけ田舎へ行ってしまう気になれたろう。伸子は、くちおしさに堪えなくて、自分のこぶしで自分のももをぶって、ぶった。伸子たちがモスクヷへ来る年──去年の夏、相川良之介が自殺したのも八月だった。その何年か前武島裕吉が軽井沢で自殺したのも八月だった。どちらのときも、その前後は、ことのほか暑気きびしく、と書かれた。ほんとに保が多計代の情熱の子パッショネート・チャイルドならば、何かの不安から保のそばをはなれかねる気分が多計代になかったという方が、伸子にすれば納得しかねた。父の泰造も、三月のとき、保に自殺の計画をわすれさせ、生きさせるために何一つ強硬な努力を試みていない。──ほとんど、ずるずるに、こんどのことまで来ている。保がメロンの駆虫用ガスの効果をしきりに研究していたことについても何一つ勘を働らかせないで。──

 去年の夏、相川良之介が死んだとき発表された遺書を、もちろん保も読んだだろう。その遺書の中に、生きるためだけに生きるみじめさ、と書かれた観念は、全く同じ内容ではないにしろ、保の日頃の考えかたと符合していた。あのとき、伸子はそのことを考えて不安だった。相川良之介の葬儀のかえり動坂へよったら、保が、涼しいからと云って土蔵の地下室を勉強部屋にしていた。そのことも、不吉感として迫った。その不吉感がつよいだけに却って伸子はこわくてそれを母にも素子にも云えなかった。きょうとなってみれば、予感にみたされていたのは一番自分だった。伸子は自分にさしつけられた事実としてそれを認めた。だのに、自分はつまるところ保のために何もしなかった。自分はソヴェトへ来てしまった。──自分が生きるために。

 自分の悲しみに鞭をあて、感傷の皮をひっぺがそうとするように、伸子はきびしく先をよんで行った。父の手紙には、悲歎にくれる多計代の姿はひとつも語られていなかった。桜山へ行った青年から保が来ていないかときかれて、あることを直覚した母は、つづけて届いた保キトク、保シキョの電報を、むしろ落付いてうけとった。母は急遽つや子同伴、桜山より帰京した。その夜は、清浄無垢な保に対面するには心の準備がいるとて一夜を寝室にこもり、翌朝はやく紋服に着かえ、保のひつぎの安置されている室へ入った。

 伸子はそのくだりをよんで恐ろしいような気がした。多計代の悲しみかたは、泰造や伸子のむきだしのおどろきや涙と何とちがっているだろう。死んだ保を崇高なものとして、保のその心は自分にだけわかっていたというように、とりみださなかった母としての多計代の態度は伸子を恐怖させた。多計代が悲歎にとりみださなかったということは、伸子に、口に言えない疑惑をもたせた。多計代は、いつか保が生きていなくなることをひそかに覚悟していたとでもいうのだろうか。その覚悟をもちながら、暑くて寂しい八月の日に保を一人にしておいたとでもいうのだろうか。清浄無垢な保にふさわしい母として荘重にふるまおうとしている多計代のとりなしは、父の手紙をとおして伸子に胸のわるくなるような母の自己満足を感じさせた。かあいそうな保を抱きとって死ぬまで生きた心をいたわり泣く母はいなくて、場ちがいに保をあがめ立て、その嵩だかさで人々の自然な驚愕の声を圧しているような母の姿は、伸子に絶望を感じさせた。伸子は、素子がそこを読み終るまで、うつろな眼をひらいて自分の前を見ていた。

 手紙の最後に、泰造は、伸子が帰朝しないと電報したことに対して意見をかいていた。寂寥とみに加わったわが家に、溌剌たる伸子の居らざることはたえがたいが、考えてみれば、伸子の判断にも一理ありと信じる。たとえ伸子がいま帰朝したにせよ、すでに逝いた保の命はよみがえらすに由ない。おそらくは保も、姉が元気に研究をつづけることを希望しているだろう。われら老夫妻も保とともにそれを希望するこころもちになって来た。何よりも健康に注意して暮すように。泰造は、はじめて自分たちを、われら老夫妻とかいている。最後の白い書簡箋を素子にわたして、伸子は両手で顔をおおった。



 伸子は、思いにとらわれた心でパンシオン・ソモロフの食卓につらなっていた。妙に長くて人目立つ鼻にお白粉を塗って、白ヴォイルのブラウスの胸に造花の飾りをつけたエレーナ・ニコライエヴナが、小さくて黒く光る眼をせわしく動かしながら耳だつ声でトルストイが最後に家出した気持は理解できるとか出来ないとか盛に喋っている。あの雨の日のヴェランダで伸子の手をつかんで蝙蝠の羽ばたきのようにマズルカをおどった老嬢エレーナは、彼女の休暇を終って美術館の仕事に戻って行った。新しく来たエレーナ・ニコライエヴナは、レーニングラードのどこかの映画館でプログラム売りをしていた。三十三四になっている彼女は、自分からそのいかがわしい職業を披露した。彼女の出生がいいためにソヴェト社会ではそんな半端な職業しか許されない、と軽蔑をこめた註釈を添えて。

 香水をにおわせているエレーナ・ニコライエヴナとトルストイ論の相手をしているのはリザ・フョードロヴナの良人おっとの技師であった。すぐ隣りの席で、だまったまま薄笑いしている歴史教授リジンスキーをとばして、鼻眼鏡をかけて髭のそりあとの青い顔をテーブルの上へつき出しながら技師はエレーナ・ニコライエヴナに言っている。

「トルストイが家庭に対してもっていたこころもちは私にはわかりますね。──理解のふかいあなたに、彼の心がわからないというわけはないと思います」

「まあ」

 エレーナ・ニコライエヴナは、自然にうけとれない亢奮をかくした笑顔で、

「でもそれは良人として、父親として家庭への義務を忘れたことですわ。ねえ、リザ・フョードロヴナ」

と、いきなりテーブル越しに、伸子のわきにいる技師の細君に話しかけた。

「──トルストイの場合として、わたしは理解されると思いますよ」

 リザ・フョードロヴナはおだやかにフォークを動かしながらいつものしっとりとした声で、エレーナ・ニコライエヴナを見ないで答えている。そこには何か感じられる雰囲気があるのであった。

 伸子は、その雰囲気を感じながら同時に自分自身の思いに沈んだ。保の死んだ前後のいきさつをこまかく書いた泰造からの手紙をよんでから、伸子にはあのことも、このこともと思いあたることばかりだった。

 駒沢の家をたたんで、荷物を動坂へはこびこんだとき、伸子は本の入った一つの行李だけ別にして保に保管をたのんだ。その行李の中には、もしかしたらモスクヷへおくってほしくなるかもしれないと思う本ばかりをひとまとめにしてあった。伸子がそのことをたのんだとき、保はなぜか、すぐああいい、と言わなかった。ちょっとの間だまっていた。それをけげんに感じた伸子が重ねて、ね、たのむわ、いいでしょう、と念をおしたとき保は、ともかくわかるようにしておく、と言った。

「僕がいなくてもちゃんとわかるようにしておくから姉さん安心していい」

 保のその言葉は、ひと息に云われて、何ということなく伸子の印象にのこった。今になって思いおこすと、保の心にはもうそのとき、自分がいつまでも生きているとは思えない計画が浮んでいたのだったろう。伸子が動坂の家へ荷物を運びこんだのは十月のはじめだった。二ヵ月前新聞に出た相川良之介の遺書は、保に長い計画的な死の準備を暗示しなかったとは、伸子に考えられなくなった。相川良之介の遺書には、三年来、死ぬことばかり考え、そのために研究して来た、とかかれていた。保は三月下旬に、第一回を試みて、失敗した。十月ごろからほぼ半年たっている。八月一日といえばその三月からまた半年ちかい時間があった。その間に、保は、大学へ入るときどの科を選ぼうかと伸子に手紙をよこし、六月にはあんなに元気そうに、今年の夏休みは大いに自転車ものりまわし愉快にやってみるつもりです、といってよこした。伸子は、自分がどんなに単純にそのハガキをよんで安心していたかということが今やっとわかるようだった。愉快にやってみるつもりです、という表現に気をつけてよめば、それは、きわめて陰翳にとんでいるわけだった。愉快にやってみるつもり、という言葉のかげには、愉快になれない現在を一飛躍して見よう、という努力の意味がこもっている。しかも、愉快にやってみるつもりだが、それがうまく行かなければ、と、保の内心には、執拗な死の観念と生への誘いのかね合いが感じられていたのだったろう。伸子は、そんなことすべてに気がつかなかった。気がつかなかったということから、伸子は保に対する自分の情のうすさを責められた。

 一月に、温室について保へ書いた伸子の手紙に対して多計代が怒り、伸子をののしった手紙をよこした。それぎり多計代と伸子との間に直接のたよりは絶えてしまっているのだったが、そのわけも、間に三月の保のことがあったとわかれば、おのずからまた別の角度で伸子に思いあたるふしもある。父の手紙によれば、三月の夜のガスのことは、家族のあらゆる人から完全に秘密にされていた。知っているのは保と父と母のみである、とかかれていた。多計代は、この秘密を伸子にたいして絶対に守ろうとしたにちがいなかった。多計代にとっては神聖この上ない保の秘密を、破壊的だと思われている伸子、物質的だと考える伸子には決してふれさせまいときめたのだろう。そのために一層手紙もかかなくなったと思える。

 伸子は、もっとつよくも想像した。多計代はもしかしたら、三月の夜保のしたことに、姉の伸子の冷酷な手紙が原因しているとさえ思っているかもしれなかった。保は、そんな風にはうけていなかった。雪のつもった大使館の外庭の菩提樹の下でよんだ保からのハガキを伸子はまざまざと思い浮べることができた。姉さんが遠い外国に生活しているのに、こんなに僕のことを考えていてくれたのに僕はびっくりした。そこには、保の柔かな心情が溢れていた。保が高校入学祝にこしらえて貰ったという温室の一つで、金がなくって困っている高校生の一年分の月謝が出たかもしれないと伸子が言ってやったことについて、保は率直に、僕はまるでそんな風には考えてみなかったといってよこした。僕はそれをたいへん恥しいことだと思う。その一句のよこには特別な線がひいてあった。あのハガキをよんだとき、伸子はそういう保の心をどんなに近く自分の胸に抱きしめただろう。かわゆい保。──新しい悲しさで茶のコップをとりあげた伸子の喉がつまった。

 そのとき、テーブルの向い側からエレーナ・ニコライエヴナが、さっきからの話のつづきで、変に上気した顔つきをしながら伸子に向って、

「あなたは小説をおかきになるんですってね。婦人の作家としてトルストイのこの問題をどうお考えです?」

と話しかけた。伸子はエレーナ・ニコライエヴナの人がらにも話ぶりにも、どちらにも好感がもてなかった。エレーナ・ニコライエヴナは食卓の礼儀とすれすれなところで、赧ら顔の頬から顎にかけて剃りあとの濃い、口元にしまりなくて羽ぶりのいい技師とトルストイをたねにいちゃついているだけのことだった。伸子は、ロシア語のよく話せないのを幸い、喉にこみあげている悲しみのかたまりをやっとのみこんで、

「リザ・フョードロヴナが、正確にお答えになったと思います」

と短く返事した。


 伸子が夜となく昼となく自分の悲しみをかみくだき、水気の多い歎きの底から次第に渋い永続的な苦しさをかみだしている間に、パンシオン・ソモロフの朝夕はエレーナ・ニコライエヴナが来てから変りはじめた奇妙な調子で進行していた。

 食卓でトルストイの家出の話が、何かひっかかる言葉の綾をひそめて話題になってから程ない或る午後のことだった。ヴェルデル博士、伸子、素子の三人で、二マイルばかりはなれた野原の中にたっている古い教会の壁画を見に行った。附近の村からはなれて、灌木のしげみにかこまれた小さい空地にある淋しい廃寺で、ビザンチン風のモザイクの壁画が有名だった。そこを出てぶらぶら来たら、思いがけず正面の茂みの間をエレーナ・ニコライエヴナと技師とがつれ立って歩いているのにぶつかった。双方ともにかわしようのない一本の道の上にヴェルデル博士と伸子たちとを見て、エレーナと技師は組んでいた互の腕をはなしたところらしかった。そのままの距離で二人は二三歩あるいて来ると、派手な水色で胸あきのひろい服をつけたエレーナ・ニコライエヴナがわざとらしくはしゃいだ調子で、

「まあ思いがけないですこと!」

と、明らかにヴェルデル博士だけを眼中において近づいて来た。

「お邪魔いたしましたわね」

 ヴェルデル博士は、黒いソフトのふちへちょっと手をふれて、技師へ目礼し、いつものおだやかで真面目な口調に苦笑しながら云った。

「誰が誰の邪魔をしたのか、私にはわかりかねますな」

 伸子たち三人はそのまま帰り道へ出てしまった。その間技師は少し顔をあからめたまま、ひとことも口をきかなかった。

「男の方があわてたのさ。エレーナなんか、どうせ出張さきのひと稼ぎの気でいやがるんだ」

 二人きりになると、素子は憤慨して云った。

「あんまり人を馬鹿にしているじゃないか、あんな感じのいいちゃんとした細君をわきへおいときながら、その鼻っさきで──甘助技師奴」

 夜のお茶にパンシオン・ソモロフの人々がみんなテーブルについたとき、素子がとなりのリザ・フョードロヴナに、誰でもする会話の調子で、

「きょう散歩なさいましたか」

ときいた。

「いいえ」

 暗色のロシア風な顔の上ですこし眉をあげるようにして、リザ・フョードロヴナは若くない女のふっくりした声で答えた。

「わたしは部屋に居ました──本をよんで」

「それは残念でしたこと。わたしたちは、あなたの旦那様とエレーナ・ニコライエヴナが散歩していらっしゃるのにお会いしましたよ、あの原っぱの古いお寺で。──」

 わきできいていて、伸子はきまりわるい心持がした。素子は、リザ・フョードロヴナに感じている好意から技師とエレーナに反撥してそんな風に話しはじめたにちがいないのだ。でも、それはおせっかいで、誰にいい感じを与えることでもなかった。伸子は、そっと素子をつついた。すると素子は、伸子のその合図を無視する証拠のように、こんどはエレーナ・ニコライエヴナに向ってテーブルごしに話しかけた。

「エレーナ・ニコライエヴナ、散歩はいかがでした? あなたが、古い壁画にそれほど興味をおもちなさるとは思いがけませんでしたよ」

 エレーナ・ニコライエヴナは素子がリザ・フョードロヴナに話しかけたときから、歴史教授のリジンスキーといやに熱中して、デーツコエ・セローでは有名なその寺の由緒について喋りはじめていた。自分に話しかけられると、彼女は軽蔑しきった視線をちらりと素子になげて、技師の細君に向って云った。

「ほんとにきょうは偶然御一緒に散歩できて愉快でしたわ。ねえリザ・フョードロヴナ、ぜひ近いうちに皆さんともう一度、あの寺を見に参りましょうよ、リジンスキー教授に説明して頂きながら……」

 素子は、そんなことがあってから益々エレーナと技師の行動にかんを立てた。ゆうべ、廊下で二人が接吻してるのを見かけた、ということもあった。伸子は苦しそうな顔つきになって、

「いいじゃないの。放っておおきなさいよ。おこるなら奥さんが怒ればいいんだもの」

と云った。

「エレーナはおもしろがっていてよ。あの日本女ヤポンカ、やっかんでいると思って──」

「チェッ! だれが!」

 素子は顔をよこに向けてタバコの煙をふっとはいた。

「あんまり細君をなめてるから癪にさわるんじゃないか」

 正義感から神経質になっている自分を理解していない。そう云って素子は伸子をにらんだ。

 耳にきこえ、目にも見える夏のパンシオンらしい些細な醜聞に、伸子は半分も心にとめていなかった。保が死んで日がたつにつれ、動坂の家というものが、いよいよ伸子にとって遠くのものになって行った。自分もそのなかで育ったという事実をこめて。保の死は、動坂の家がどんなに変質してい、また崩壊しつつあるかという現実を伸子につきつけて思いしらした。

 ひとりでじっとしていると、伸子の心にはくずれてゆく動坂の家の思いが執拗に湧いた。パンシオン・ソモロフのヴェランダの手摺に両方の腕をさしかわしてのせ、その上へ顎をのせ、伸子が目をやっているデーツコエ・セローの大公園の森はもうほとんど暗かった。黒い森の上に青エナメルでもかけたような光沢をもってくれのこった夕空が憂鬱に美しく輝いている。伸子の心の中に奇妙なあらそいがあった。心の中で、又しても動坂の家がそのなかへ佐々伸子の半生をこめて、あっちへ、あっちへと遠ざかって行っていた。動坂の家といっしょに伸子の体からはなれて漂い去っていく伸子は、佐々伸子からひきちぎられたうしろ半分であった。目鼻のついた顔ののこり半面は前を向いて、今いるここのところにしがみついて決してそこから離れまいとしている。動坂の家というものが遠くになればなるほど、伸子が自分の片身で固執している今この場所の感覚がつよまって、伸子はいつの間にか素子がわきに来たのにも気がつかなかった。エレーナの室からこそこそと技師が出て来たところを見たと素子は云っている。それがどうだというのだろう。自分がどうなっているからというのでなく、やがて自分がどうなるだろうからというためでなく、死んだ保につきやられて遠のくこれまでの家と自分の半生に対して、伸子は自分の顔が向っている今の、ここに、力のかぎりしがみついているのだった。いまは全く伸子の生のなかにうけいれられている保を心の底に抱きながら。

道標 第二部



第一章




 その年の夏の終り近くなってから伸子と素子とはニージュニ・ノヴゴロドからスターリングラードまでヴォルガ河を下った。ドン・バスの炭坑を見学したり、アゾフ海に面したタガンローグの町でチェホフがそこで生れて育ったつましい家などを見物して、二人がモスクヷへ帰って来たのは十月であった。

 モスクヷには秋の雨が降りはじめていて、並木道の上に落ち散った黄色い葉を、日に幾度も時雨しぐれがぬらしてすぎた。淋しく明るい真珠色の空が雨あがりの水たまりへ映っていて、濃い煤色の雨雲がちぎれ走って行くのもそのなかに見えた。雨を黄色さで明るくしている秋の樹木と柔らかな灰色のとりまぜは、せわしいモスクヷの街の隅々に思いがけない余情をたたえさせた。

 旅行からかえった伸子たちは一時またパッサージ・ホテルに部屋をとって暮していた。日本から左団次が歌舞伎をつれてモスクヷとレーニングラードへ来るという話が確定した。シーズンのはじめに日本の歌舞伎がロシアへ来て、二つの都で忠臣蔵と所作ごととを組合わせたプログラムで公演するという評判は、モスクヷにいる日本人のすべてにとって一つのできごとであった。ヴ・オ・ク・スと日本大使館とがこの歌舞伎招待の直接の世話役であったから、伸子と素子とは何かの用事でどっちへ行っても、必ず一度はモスクヷへ来る歌舞伎の話題にであった。浮世絵などをとおして、日本のカブキに異国情緒の興味を抱いているヴ・オ・ク・スの人々の単純な期待にくらべると、日本の人たちがモスクヷへ来る歌舞伎について話すときは、深い期待といくらかの不安がつきまとった。歌舞伎が日本特有の演劇だとは云っても、モスクヷへ来ている人たちのなかで、ほんとに歌舞伎についていくらかつっこんで知っているのはほんのわずかの男女であった。日本にいたときだって、歌舞伎などをたびたび見ることもなく暮していた人々が、うろ覚えの印象をたぐりながら、モスクヷへ来るからには歌舞伎はどうしてもソヴェトの市民たちに感銘を与えるだけ美しくて立派でなくては困るような感情で噂するのだった。

 芝居ずきで、歌舞伎のこともわりあいよく知っている素子は、

「歌舞伎の花道のつかいかた一つだって、ソヴェトの連中は、無駄に観やしませんよ。舞台を観客のなかへのばす、ということについて、メイエルホリドにしろ随分工夫してはいますけれどね、歌舞伎の花道の大胆な単純さには、きっとびっくりするから」

 社会主義の国の雰囲気の中で古風な日本の歌舞伎を見るということに新しい刺戟を期待して、素子は熱心だった。

「ただ解説が問題だよ、よっぽど親切な解説がなけりゃ、組合の人たちなんかにわかりっこありゃしない」

 モスクヷの主な劇場は、シーズンをとおして一定数の入場券をいろいろな労働組合へ無料でわりあてるのだった。

 歌舞伎が来れば、どうせまたレーニングラードへも行くのだからと、旅のつづきのようにホテル住居している気分のなかで、伸子は言葉すくなに人々の話をきき、話している人々の顔を眺めた。

 八月のはじめデーツコエ・セローのパンシオン・ソモロフで、保が死んだ知らせをうけとってから、伸子はすこし変った。いくらか女らしい軽薄さも加っている生れつきの明るさ。疑りっぽくなさ。美味いものを食べることもすきだし知識欲もさかんだという気質のままにソヴェトの九ヵ月を生活して来ていた伸子は、自分が新しいものにふれて生きている感覚で楽天的になっていた。どこかでひどくちがったものだった。ソヴェトの社会の動きの真面目さから自分の空虚さがぴしりと思いしらされる時でも、その痛さはそんなに容赦ない痛さを自分に感じさせるという点でやっぱり爽快であった。

 保が死に、その打撃から一応快復したとき、伸子と伸子がそこに暮しているソヴェトとの関係は伸子の感じでこれまでとちがったものになっていた。保は死んでしまった。伸子はこれまでのきずなの一切からはたき出されたと自分で感じた。はたきだされた伸子は、小さい堅いくさびがとび出した勢で壁につきささりでもするようにいや応ない力で自分という存在をソヴェト社会へうちつけられ、そこにつきささったと感じるのだった。

 こんな伸子の生活感情の変化はそとめにはどこにもわからなかったが外界に対して伸子を内気にした。ソヴェト社会につきささった自分という感じは、しきりにモスクヷへ来る歌舞伎の噂でもちきっている人々の感情とは、どこかでひどくちがったものだった。伸子はそのちがいを自分一人のものとしてつよく感じた。保の死んだ知らせが来たとき、伸子は失神しかけながらしつこく、よくて? わたしは帰ったりしないことよ、よくて? とくりかえした。ソヴェト社会につきささった自分という感じは、この、よくて? 帰ったりはしないことよ、と云った瞬間の伸子の心に通じるものであった。同時に、パンシオン・ソモロフの古びた露台の手摺へふさって、すべての過去が自分の体ぐるみ、うしろへうしろへと遠のいてゆくようなせつな、絶壁にとりついてのこっている顔の前面だけは、どんなことがあってもしがみついているその場所からはがれないと感じた、あの異様な夏の夕暮の実感に通じるものでもあった。

 伸子は素子と自分との間に生れた新しいこころもちの距離を発見した。保の死から伸子のうけた衝撃の大きいのを見て、ヴォルガ下りの遊覧やドン・バスの炭坑でシキへ入るような見学を計画したのは素子であった。それはみんな伸子を生活の興味へひき戻そうとする素子の心づかいだった。そうして生活へ戻ったとき、伸子はソヴェト社会と自分との関係が、心の中でこれまでとちがったものになったのを自覚した。素子は、もとのままの位置づけでのこった。この間までの伸子がそうであったように、素子は自分をソヴェト社会の時々刻々の生活に絡めあわせながらも、一定の距離をおいていて、必要な場合にはどちらも傷つかずにはなれられる関係のままにのこっていた。

 自分と素子とのこのちがいは切実に伸子にわかった。そして、伸子はその変化を議論の余地ない事実として素直にうけいれた。弟の保に死なれたのは素子ではなくて伸子であった。その衝撃が深く大きくて、そのためにこれまでの自分の半生がぽっきり折り落されたと感じているのは、伸子であって素子ではなかった。その結果伸子は、ソヴェト社会につきささった自分という不器用で動きのとれないような感じにとらわれ、そのことにむしろきょうの心の手がかりを見出している。その伸子でない素子が、生活を数年このかた継続して来たままのものとして感じており、モスクヷの生活で蓄積されてゆく知識や見聞をそれなりに意識していることは自然であり、当然でもあった。伸子と素子とはこういう状態で、外国にいる日本人にとってお祭りさわぎめいた出来ごとであったモスクヷへ来た歌舞伎のにぎわいにはいって行った。

 モスクヷに駐在する日本の外交官たちの生活が、どんな風に営まれているものか伸子たちの立場では全然うかがいしられなかった。いずれにしろ、いわゆる華やかなものでもなければ、闊達自在な動きにみたされたものでもないことは、大使館の夫人たちの雰囲気でもわかった。歌舞伎が来たことは、モスクヷにいる日本人全体に活気をあたえ、日本の外交官もいまはソヴェトの人々に示すべき何ものかをもち、ともに語るべきものをもったというよろこばしげな風だった。

 歌舞伎についていろいろな人がモスクヷからレーニングラードへゆき、またレーニングラードからモスクヷへ来た。前後してドイツにいた映画や演劇関係の人たちも数人やって来た。

 伸子は、たのまれて映画と演劇という雑誌に鷺娘の解説の文章をかいた。日本語で書いたものをロシア語に翻訳してのせるということだった。どうせ考証ぬきの素人がかくことだからせめて文章そのものから白と黒との幻想に描きだされる鷺娘のファンタジーを読者につたえようと努力した。日本の古典的な舞踊の伝統の中に、さらさらとふりかかる雪と傘とがどんなに詩趣を添える手法として愛されているかということなどもかいた。

「どうせわたしにわかる範囲なんだから単純なことなんですけれどね、一生懸命に書いているうちに、段々妙なきもちになって、こまっちゃった」

 そう話している伸子とテーブルをはさんでかけているのはドイツから来ている映画監督の中館公一郎と歌舞伎の一座の中で若手の俳優である長原吉之助、素子、そのほか二三人の人たちだった。場所はボリシャーヤ・モスコウスカヤ・ホテルの部屋だった。中館公一郎があしたソヴ・キノの第一製作所へエイゼンシュタインの仕事ぶりを見学にゆく、伸子たちも一緒にということで、伸子たちはその誘いをよろこんでうち合わせに寄ったのだった。

 歌舞伎の俳優たちは左団次を中心に、短い外国滞在の日程を集団的に動いていて、個人的な自由の時間がなかなか見つからないらしかった。その忙しいすきに何かの用で中館のところへ話しに来ていた長原吉之助は、遠慮がちにカフスのかげで腕時計を見ながら、

「いま、佐々さんの云われた妙なきもちっていうの、全く別のことなのかもしれないんですが、わたしはここの舞台の上でちょくちょく感じることがあるんです」

 歌舞伎の俳優としては例外なようにざっくばらんな熱っぽい口調で吉之助が云った。

「それ、どんな気持?」

 どこまでもくい下ってゆく柔らかな粘着力とつよい神経を感じさせる中館が、それが癖のどこか女っぽい言葉で吉之助にきいた。

「言葉の通じない見物を前へおいての舞台って、そりゃたしかに妙だろうな」

「その点は案外平気なんです。せりふがわからないからかえってたすかるみたいなところがあるんです。こっちは、土台、せりふがわからない見物を芸でひっぱって行く覚悟でやっているんですから」

「それは見ていてわかりますよ」

と素子が、永年芝居を見ているものらしく同感した。

「左団次だって、よっぽどまじめに力を入れてやってますよ。その意味じゃ、ちょいと日本で見られないぐらいの面白さがある」

「文字どおり水をうったようだねえ、ソヴェトの人に面白いんだろうか。こっちの見物には女形おやまなんてずいぶんグロテスクにうつるわけなんだろうのに、反撥がないんだね。そこへ行くと映画にはお目こぼしというところがなくってね」

「そうでしょう? お目こぼしのないのが芸術の本来だって気がするんです。ふっと妙なこころもちがするっていうのもそこなんです。舞台でいっぱいにってますね、そんなとき、ふいと、こんなに一生懸命にやっている芸にどこまで価値があるんだって気がするんです」

 吉之助は、青年らしい語気に我からはにかむように、薄く顔をあからめた。

「たしかに歌舞伎は日本独特の演劇にはちがいないんですけれどね──忠臣蔵にしろ、自分でやりながらこの感情がきょうの私たちの感情じゃないって気がつよくするんです」

「そうだわ、わたしが鷺娘の幽艷さを説明しようとして、妙な気もちがしたのもそういうとこだわ」

 伸子が賛成した。

「どんなに力こぶを入れて見たって、鷺娘には昔の日本のシムボリズムとファンタジーがあるきりなんですもの……しかもああいう踊りの幻想は、古風なつらあかりの灯の下でだけ生きていたんだわ」

「──桑原、桑原」

 中館公一郎がふざけて濃い眉をつりあげながら首をちぢめた。

「吉ちゃんの云っているようなことが御大おんたいにきこえたら、とんだおしかりもんだろう」

 だまって笑っている吉之助に向って素子が、

「あんたがた、モスクヷへ来る前に一場の訓辞をうけたって、ほんとですか」

ときいた。

「左団次が一同をあつめて、ロシアへは芝居をしに行くんだっていうことを忘れるな、赤くなることは禁物だって云ったって──」

 吉之助はあっさり、

「そんなこと云わせるものもあるんですね」

と答えた。

「こんどこっちへ来るについてだって、それだけの人間をひっこぬかれるんならいくらいくらよこせって、会社側じゃ大分ごてたんだっていうじゃありませんか」

 素子の話に答えずしばらく黙っていた吉之助は、

「歌舞伎も何とかならなくちゃならない時代になってます。ともかく生きてる人間がきょうの飯をくってやっていることなんですから」

 やがて時間がなくなって、長原吉之助はさきに席を立った。

 柄の大きい、がっしりした吉之助の背広姿がドアのそとへ消えると、素子は感慨ぶかそうに、

「歌舞伎生えぬきの人がああいう心もちになってるんだものなア」

と云った。

「案外、云わせてみりゃ、ああいうところじゃないんですか」

 歌舞伎の伝統的な世界の消息にも通じている中館は、若い俳優たちの動きはじめている心に同感をもっている口調だった。

「なんせ、あの世界はあんまりかたまりすぎちまっていてね。いいかげんあきらめのいいやつでも、こっちへ来て万事のやりかたを見りゃ、目がさめますよ、おいらも人間だったんだってね、同じ役者であってみれば、こういうこともあってよかったんだぐらい、誰だって思ってるでしょう」

 レーニングラードのドラマ劇場の楽屋で、鏡に向って顔を作っている左団次のうしろに不機嫌なあおい顔をして、ソファにかけていた左団次の細君の様子を、伸子は思い出した。楽屋のそとの廊下で伸子たちを案内して行った中館が顔みしりの若い俳優に会った。中館が、令夫人もいるかい? ときいたら、半分若侍のこしらえをしたその俳優は、ええ、と答えて、何か手真似てまねをした。へえ。そうなのかい。中館はちらりと唇をまげた。ここでまで、うちどおりにやろうったって、そりゃきこえません、さ。下廻りだって、ここじゃれっきとした演劇組合の組合員ってなわけなんだそうですからね。若い俳優は目ばりを入れた眼じりから中館に合図して、ごたついたせまい廊下を小走りに舞台裏へ去って行った。

 そんな前景をぬけて、楽屋へとおり、いきな細君のあおいほそおもてを見た伸子は、歌舞伎王国を綿々と流れて大幹部の細君たちの感情とまでなっている古い格式やしきたりを、理解できるように感じた。白粉おしろいの匂いや薄べりの上にそろえられている衣裳。のんきそうで、実ははりつめられている癇が皮膚にあたるようなせまい楽屋のなかで、伸子は何を話していいかわからないで黙っていた。

 手もちぶさたでぎこちない伸子にひきかえ、黙ってタバコをふかしているそのおちつき工合にも素子は、楽屋馴れしてみえた。

 ひいきがいう調子で、素子は中館に、

「吉之助、いくつです?」

ときいた。

「八ぐらいじゃないんですか」

「これからってとこだな」

「──吉ちゃんは、あれで考えてますからね、ここまで出て来たってことだけでも、歌舞伎俳優としちゃ謂わば千載一遇のことなんだから、おめおめかえっちゃいられないって気もあるでしょう」

 吉之助のことを云っている中館公一郎の言葉の底に、計らず中館自身の映画監督としての気がまえが感じとられ、わきできいている伸子はひきつけられた。中館公一郎は、日本の映画監督のなかでは最も期待されている一人だった。

「若い連中のなかには、だいぶ千載一遇組がいるらしいですよ。吉ちゃんなんか、この際ベルリンあたりも見ておきたいんじゃないかな」

「そう云うわけだったんですか」

 新しい興味で目を大きくした素子は、

「吉之助の今のたちばなら、出来ないこともないんでしょう。──行きゃいいさ」

 好意のあらわれた云いかたをした。



 吉之助のベルリン行きの希望とその実現計画について話すにつけても、中館公一郎は、歌舞伎が滞在しているという自然な機会のうちにモスクヷで吸収できるだけの収穫を得ようとする自分の熱心もおさえかねる風だった。あしたのソヴ・キノ見学について、素子とうち合わせた。

「エイゼンシュタインも偉いですよ。そりゃたしかにすごい偉さなんでしょうけれどもね、僕らは製作の実際で、お話にもなんにもならないしがない苦労をさせられているんでね。ソヴ・キノの製作企画や、仕事のしぶりみたいなことも知ってみたいんです」

 三人が行ったときエイゼンシュタインは、丁度ソヴ・キノの大きい撮影室で、農民が大勢登場して来る場面を準備しているところだった。舞台は、農民小屋の内部だった。古風な小さい窓の下におかれた箱の上にかけて泣いている婆さんと、そのわきに絶望的にたっている若い女、二人の前でたけりたって拳固げんこをふりながらおどしつけているルバーシカに長靴ばき、赤髯の強慾そうなつらがまえの中親父。そこへ、上手のドアが開いて、どっと附近の農民たちが流れこみ、ぐるりと三人をとりかこんでしまう、そのどっとなだれこんで三人をとりまく瞬間の農民の集団の動きを、エイゼンシュタインが必要とするテムポと圧力とでカメラに効果づけるために、練習がくりかえされているところだった。

 舞台からすこしはなれたところに腰かけているエイゼンシュタインは、映画雑誌などに出ている写真で伸子もなじみのあるくるりとした眼と、ぼってり長い顎の肉あつな精力的な顔だちだった。立って練習を見物している中館や伸子たちに彼は、この三十人ばかりの男女の農民がボログダの田舎から来ているほんとの農民で、カメラというものをはじめて見た連中だと説明した。

「御覧のとおり、彼等に演技はありません。しかし、彼等は生粋の農民の顔と農民の動作と農民の魂をもっているんです。その上に何がいります?」

 エイゼンシュタインは『オクチャーブリ』(十月)でも素人の大群集を非常に効果的につかった。

「集団とその意志を、芸術の上にどう生かすか、ということは、ソヴェトの社会が我々に与えた課題なんです。映画はそれに答える多くの可能性をもっています」

 そう云って言葉をきり、エイゼンシュタインは同業者である中館公一郎のまじめに口を結んで舞台を見ている顔を仰むいて見るようにしながら、

「もしわれわれに十分の忍耐力と技倆さえあるならば──」

とユーモラスにウィンクした。それがとりもなおさず彼の目下の実感にちがいなかった。

 伸子たちがスタディオに入って行ったとき、もう何回めかの、

「一! 二! 三!」

で、戸口からどっと入る稽古をしていた農民たちの六列横隊の動きは、どうしても足なみと速度がばらばらで、スクリーンの上にいっせいに展開し肉迫する圧力を生みださない。運動の密度が農民の感覚に理解されていないことが伸子にも見てとられた。

 中館とエイゼンシュタインとが素子を介して話している間、なお二度ばかり同じ合図で同じ失敗をくりかえした演出助手は、首をふってダメをだし、しばらく一人で考えていたが、やがて一本の長い棒を持ってこさせた。農民の群集の最前列の六人が、一本のその棒につかまらせられた。棒の一番はじを握っている奥の一人はそのまま動かず、あとの五人が棒につかまって大いそぎで扇形にひらいてゆく。従って舞台のはじ、カメラに近い側にいる農民ほど早足に大股に殆ど駈けて展開しなければならない。

 棒が出て、ボログダの農民たちにはやっと自分たちに求められている総体的な動作のうちで一人一人がうけもつ早さやかけ工合の呼吸が会得されたらしかった。三度目に棒なしで、

「さあ、戸口からどっと入って!」

 農民がぐるりと三人をとりまく集団の効果は、テムポも圧力も予期に近づいた。エイゼンシュタインは、そのときはじめて、

「ハラショー」

と腰をもたげた。カメラがのぞかれ本式の撮影にすすんだ。

 ソヴ・キノのスタディオから帰りに伸子たちのとまっているパッサージ・ホテルへよった中館公一郎は、映画監督らしいしゃれたハンティングをテーブルの上へなげ出して、

「われわれにこわいものがあるとすれば、あの根気ですね」

と、椅子にかけた。

「しかもそれがエイゼンシュタインばかりじゃないところね。──それにしてもいい助手をもってるんだなあ」

 素子のタバコに火をつけてやり、自分のにもつけて、うまそうに吸い、中館はいい助手をもっているエイゼンシュタインをうらやむような眼ざしをした。

「ちがいがひどすぎますよ。徹夜徹夜で、へとへとに煽って、根気もへちまもあったもんですか──あのみんなが腰をすえてかかっている根気よさねえ──あれが計画生産の生きてる姿なんです」

 伸子もその日はじめてソヴ・キノの大規模な内部をあちこち見学した。一九二八年度のソヴ・キノ映画製作計画表も説明された。その中では文化映画何本、教育映画何本、劇映画何本、ニュース幾本と、それぞれに企画されていた。

「こういう企画でやっていますから、われわれは資材のゆるすかぎり、適当な時が来ると次の作品のためのセットから衣裳、配役その他の準備をします。しかし、残念なことに、まだ革命からたった十年ですからね。ソヴ・キノは決して必要なだけの設備をもっていません、もう五年たったら、われわれは遙にいい設備をもてると信じています」

 スポーツのスタディアムのように天井の高いセット準備室から別棟のフィルム処理室へと、きのうの雨ですこしぬかるむ通路を行きながら中館公一郎は、

「あきれたもんですね」

と、わきを歩いている伸子に逆説的に云った。

「俳優から大道具までが八時間労働で映画をつくっているなんて話したところで、本気にする者なんかいるもんですか」

 ソヴェトへ来てから、映画におけるプドフキンとかエイゼンシュタインとかいう監督の名は、いちはやく伸子たちの耳にもつよくきこえた。その一つ一つの名を、伸子は何となし文学の世界でバルビュスとかリベディンスキーという名が云われるときのように、そのひとひと固有の達成の素晴らしさとしてききなれた。ソヴェトでもこれらの監督たちは新しい映画の英雄のように見られてもいる。

 小柄な体としなやかなものごしをもって、柔軟の底に見かけより大きい気魄をこめている中館公一郎が、エイゼンシュタインの才能について多く云わないで、いきなりそのエイゼンシュタインに能力を発揮させているぐるりの諸条件につよい観察と分析とを向けていることが、伸子にとって新鮮な活気のある印象だった。中館公一郎がもちまえの腰のひくいやわらかな調子で、エイゼンシュタインは偉いですよ。そりゃたしかにすごい偉さなんでしょうけれどもね、というとき、彼の言葉のニュアンスのなかには、同じ仕事にたずさわるものに与えられている世間の定評に対する礼儀と、その礼儀をはねのけている芸術上の不屈さが感じられた。それは、伸子にも同感される感情だった。映画監督としての才能そのもので中館公一郎は、あながちエイゼンシュタインを別格のものとしているのではないらしかった。彼にとっては、エイゼンシュタインよりむしろソヴェトの映画製作そのもののやりかたが重大な関心事なのだった。ソヴ・キノのスタディオからかえったとき、素子が、

「あの棒はいい思いつきだったじゃありませんか」

と、云ったのに答えて中館は、

「棒をつかってみようとするところまでは、大体誰しも考えることなんじゃないのかな」

と云った。

「ただ棒のつかいかたね……そこのところですよ」

 つづいてドイツ映画の話も出た。伸子がモスクヷへ来たウファの『サラマンドル』という映画をみたことを話した。

「ユダヤ人の学者が迫害されて、外国へ逃げる話なんですけれどね、へこたれちゃった。その学者が深刻な表情をしてピアノをひくと、グランド・ピアノの上におそろしくロマンティックな荒磯の怒濤が現れるんですもの」

「ヤニングスみたいな俳優にしろ、もち味がいかにもドイツ的でしょう」

 中館の言葉を、素子が、かぶせて、

「でも、ヤニングスぐらいになれば相当なものさ」

と、ヤニングスの演技の迫力をほめた。

「リア・ド・プチとヤニングスのあの組み合わせなんか、認めていいものさ」

「中館さん、あなたにベルリンてところ、随分やくにたつの?」

 伸子がむき出しにきいた。

「そりゃあ……日本から行って役にたたないってところの方が少ないんじゃないかな」

「わたしには、ドイツの映画、なんだか分らないところがあるんです。だって、ツァイスのレンズって云えば、世界一でしょう? それは科学性でしょう? それなのに、『サラマンドル』であんなセンチメンタルな波なんかおくめんなく出してさ。──ドイツの文化って、一方でひどく科学的で理づめみたいなのに、ひどく官能的だし、暗いし──わからないわ」

「──ツァイスのレンズだけあってもいい映画にならないところに、われわれの生き甲斐があるわけでしょう」

 歌舞伎がモスクヷへ来たにつれて、一座の俳優の或るひとたちや中館公一郎のような映画監督がそれぞれに芸術の上に新しい意欲を燃やし、どこかへ展開しようとして身じろいでいる。その雰囲気は、はじめ歌舞伎がモスクヷへ来て公演するときいたころの伸子たちには、予想もされなかった若々しく激しいものだった。

 ソヴェトの見物人たちは、歌舞伎の舞台衣裳の華やかで立派なことを無邪気に驚歎し、ごくわずかの体の動きで表現される俳優の表情や科白せりふの節まわしに歌舞伎の独特性を認め、好意にみちていた。それにこたえて、モスクヷ一週間の公演を熱演しながら、長原吉之助と数人の若手俳優たちは、舞台におとらぬ熱心さでベルリン行の手順をすすめていた。歌舞伎の一行には、興行会社である松竹の専務級の人もついて来ていた。ベルリンへ行きたい俳優たちはその計画を左団次に承知してもらうばかりでなく、会社の人たちの承諾も得なければならず、それには、正月興行に必ず間に合うように帰ることを条件として申出ることそのほか、伸子たちには想像できないこまかい順序といきさつがあるらしかった。そして、そういう順序のはこびかたそのものに、また歌舞伎の世界のしきたりがあるらしくて、率直な吉之助でさえも、伸子たちが、そのことについてせっかちに、

「どうです、うまく行きそうですか」

ときくと、

「ええ、まあ」

と笑いまぎらすことが多かった。

「左団次さんは自分も若いときイギリスへ行ったりなんかしているから、自然話もわかるんですがねえ」

 それでも吉之助たちのベルリン行の計画は歌舞伎がモスクヷでの公演を終る前後には実現の可能が見えて来た。

「見てきます」

 吉之助は俳優らしさと学生らしさのまじりあったような若い顔を紅潮させた。

「そしてまたかえりにここへちょいとよります、こっちはないしょですが……」

と健康そうな白い歯を見せて笑った。ソヴェトへ来て、自分というものは一つところに置いたまま、見聞ばかりをかき集めてもって帰ろうとするような人たちとちがって、吉之助や中館公一郎の態度は、伸子に共感を与えた。吉之助がふるい歌舞伎の世界のどこかをくいやぶって、自分を溢れ出させずにはいられなくなっている情熱。中館公一郎が映画監督として、自分の持てる条件を最大限まで押しひろげて見ようとしている目のくばり。そんな気持はどれもはげしく明日に向って動いている心であり計画であった。明日あしたは、明日あしたくいをうちこんで前進してゆこうとしているこれらの人たちの生活気分は、保が死んでからソヴェト社会へつきささった小さいくさびのように自分を感じている伸子の感情にじかにふれた。

 モスクヷへ来た歌舞伎は、そのふるい伝統の底から思いがけない新しいもの、種子を、そうとは知らず後にのこして、好評をみやげに日本へひきあげた。吉之助とあと三四人の若手俳優が、すぐベルリンへ立ち、中館公一郎も別に一人でハンブルグ行きの汽船にのった。



 歌舞伎がモスクヷで公演していたとき、左団次の楽屋で、伸子と素子とはさくらと光子という二人の日本語を話すロシアの若い女に紹介された。二人とも東洋語学校を出ていて、日本名をもち、さくらはたまに短歌をつくったりした。色のわるい面長な顔に黒い美しい眼と髪をもっている文学的なさくらとちがって、光子はがっしりとしたいつも昼間のような娘で、脚がわるく、ステッキをついて伸子たちのホテルの室へ遊びに来た。またそのステッキをついて毎日どこかの役所につとめてもいるのだった。

 さくらや光子が、それとなしベルリンから吉之助が帰って来るのを待っているきもちが伸子によくわかった。吉之助には、歌舞伎俳優の型にはまっていない人柄の生々した力があって、それが外国人であるさくらや光子を魅していた。伸子が吉之助に快く感じるのも同じ点からであった。若い男に対して、いつもうわての態度で辛辣な素子が、

「吉之助、なかなかいいね」

と伸子に云ったことがあった。それは、レーニングラードのジプシーの音楽をききながら食事をする店でのことで、素子と伸子とはスタンドのついた小卓にさし向い、素子はグルジア産の白い葡萄ぶどう酒をのんでいた。吉之助、なかなか、いいねと素子が云ったとき、伸子は素子の眼や頬がいつもとちがったつややかさをたたえているのを感じた。

「そう思う?」

 のまない葡萄酒のコップをいじりながら、伸子は、ききかえした。

「──ぶこちゃんだってそう思うだろう?」

 素子が、俳優としての吉之助だけを云っているのでないことを伸子は女の感覚で直感した。軽いショックで伸子は上気した。素子がいいと思う男がいたということは思いがけない一つのおどろきであった。そして、それが伸子も好感をもっている長原吉之助だということは。しかし、その長原吉之助だから素子がすきというのもわかるところがあるのでもあった。素子の珍しいその心持のうごきを、伸子は自分の手もそえて、こぼすまいとするような気持で、だまってスタンドの灯に輝く琥珀こはく色の葡萄酒を見ていた。でも、吉之助に対する素子のそのこころもちは、どう発展するものなのだろう。素子自身は、どう発展させたいと思っているのだろう。

 一途いちずな、子供らしい恋愛の経験しかない伸子は、ぱらりとした目鼻だちの顔に切迫したような表情をうかべて、スタンドのクリーム色の光の中から素子を見あげた。

「あなた、本気なら、話してみたら?」

「…………」

「じゃ、わたしが話す?」

 素子はだまったまま、葡萄酒をのみ、スタンドのかさのまわりでタバコの煙がゆるやかに消えて行くのを見まもっている。じゃ、わたしが話す? 思わずそう云って、伸子は、当惑した。素子に対して吉之助がどう思っているか、知りようもなかったし、仮に、互の間にいい感情があったにしろ、吉之助の歌舞伎俳優としてのこまごました生活の諸条件と断髪で洋装の素子とはどうつながるものなのだろう。素子が吉之助にひかれるのはわかるけれど、二つの生活の結びつく現実的な必然が見つからなくて、伸子はとまどう心持だった。

 当の素子よりも解決にせまられているような伸子の表情をいくらかぼっとしたまなざしで眺めていた素子はやがてゆっくり、

「まあ、いいさ」

とひとりごとのように云った。そして、給仕をよんで勘定をさせはじめた。


 歌舞伎がモスクヷからひきあげ、吉之助たちがベルリンへ行って二週間とすこしたったある朝のことだった。朝の茶を終ったばかりの伸子たちの室の戸がノックされた。素子が大きな声で、

「お入りなさい」

とロシア語で云った。

 ドアがあいて、そこに現れたのは黒っぽい背広をきた吉之助だった。

「ただいま!」

 吉之助は、ベルリンへ行けるときまったとき、見て来ます、と簡明に力をこめて云った、あの調子でただいまと云った。

「ゆうべ帰って来ました、こんどはここへ部屋をとりましたからどうぞよろしく」

 握手の挨拶をしながら伸子が、

「ひどく早かったんですね」

と、おどろいた。

「そんなに早くいろんな芝居が見られたの?」

「ええ。マチネーと夜と必ず二度ずつ見ましたから」

 素子は、思いがけず吉之助の姿があらわれたのを見てかすかに顔をあからめていたが、しっとりした調子で、

「何時についたんです」

ときいた。

「よく部屋がとれましたね」

「ええ。カントーラ(帳場)の人が顔をおぼえていてくれましてね。パジャーリスタ、コームナタ(どうぞ、部屋)って云ったら、ハラショー、ハラショーでした」

「どこです?」

「この廊下のつき当りの左の小さい室です」

「ああ、じゃあ一番はじめわたしたちがいた室だ。ね、ぶこちゃん」

 それは雪の夜アーク燈にてらされて中央郵便局の工事場が見えた部屋だった。

 ベルリンへ行くということが、むしろ一行のあとにのこって自由行動をとるための一つのきっかけであったように、吉之助は一人になってベルリンからモスクヷへ戻って来た。そして、外国人はめったにとまらない、やすいパッサージ・ホテルにとまった。

 秋山宇一や内海厚が同じパッサージに泊っていた時分、伸子も素子もモスクヷ生活に馴れなかったこともあって、気やすくその人たちの部屋をたずねた。こんど吉之助の部屋が同じ廊下ならびになったが、伸子も素子も吉之助の室へは出かけなかった。吉之助がちやほやされつけている若い俳優であるということは伸子たちに理由もなく彼の部屋を訪ねたりすることに気をかねさせた。それにレーニングラードのジプシー料理屋のスタンドのかげで素子の吉之助に対する好意がわかっているものだから、なお更彼の部屋へ訪ねかねた。二三日まるで顔を合わさないまま過ぎることが珍しくなかった。

 そんな風にして数日が過ぎた或る晩、吉之助の方から伸子たちの室を訪ねて来た。

「なにたべて生きてたんです? 大丈夫ですか」

 ロシア語のできない吉之助に素子が云った。

「パジャーリスタ、オムレツ。パジャーリスタ、カツレツでやっていますから、大丈夫です」

 艷のいい顔を吉之助は屈托なさそうにほころばした。

「オムレツとカツレツだけは日本と同じらしいですね」

 吉之助は用事があって来たのだった。あした朝のうちにメイエルホリド劇場俳優のガーリンが吉之助にあいにホテルへ来る。歌舞伎の演技のことについてじかにききたいことがあるのだそうだ。素子か伸子に通訳をしてくれるようにということだった。

「じゃ吉見さんでなくちゃ。わたしのロシア語なんて、長原さんのオムレツに二三品ふやしたぐらいのところなんだから」

「──わたしはいやだよ」

 素子はかけている長椅子の背へもたれこむようにして拒絶した。

「芝居の話なんて出来るもんか」

 芝居ずきで、俳優一人一人の演技についてもこまかい観賞をしている素子が、通訳なんかいやだという気持は、伸子にわからなくもなかった。ガーリンは『検察官』のフレスタコフを演じたりしてメイエルホリドの若手の中で近頃著しく評判になっている俳優だし、一方に吉之助がいることだし。

 そんなこころもちのいきさつを知らない吉之助は、当惑したように慇懃いんぎんな調子で、

「すみませんが、じゃあお二人でいっしょに会って下さいませんか、おかまいなかったら、ここを拝借して」

と云った。

「それがいい。ここで、みんなで会いましょうよ。そして、わたしが主に通訳するわ」

 伸子が、あっさりひきうけて云った。

「そのかわり、わたしは、みんな普通の云いかたでしか云えなくてよ。だから吉之助さんはかんを働かして、ね」

「それで結構ですとも。ガーリンさんは型のきまりのことが知りたいらしいんです」

「それ見なさい」

 素子が伸子の軽はずみをからかうようににらんでおどかした。

きまりなんか、ぶこちゃんの軽業だって、説明できるもんか」

「そうでもないでしょう」

 とりなすためばかりでない専門家の云いかたで吉之助が説明した。

「わたしに、どういう場合ってことさえわからせてもらえばいいんです。あとは、どうせ体で説明するんですからね」

「なるほどね」

 その晩は吉之助にも約束がなくて例外のゆっくりした夜だった。三人はテーブルをかこんでモスクヷの書生ぐらしらしくイクラや胡瓜きゅうりで夜食をした。吉之助は、しんからそういう単純な友人同士の雰囲気をたのしく感じるらしく、

「こんなにしていると、日本にある自分たちの暮しかたが信じられないほどです」

と云った。

「外国へ出て見るとほんとにわかるんですねえ」

「ふるさがですか?」

「あんまり別世界だってことですね」

 吉之助は、レモンの入ったいい匂いの熱い紅茶をのみながら、若い顔の上に白眼の目立つような目つきでしばらくだまっていたが、

「伝統的なのは舞台ばかりじゃないんですからね、歌舞伎の俳優の私生活の隅々までがそれでいっぱいなんだ……」

 ため息をつくようにした。

「かえられませんか」

 伸子は、思わずそういう素子の顔を見た。素子は、伸子が見たのを知りながら、吉之助の上においている視線を動かさなかった。

「むずかしいですね」

 これまでにもう幾度か考えぬいたことの結論という風に吉之助は云った。

「自分一人、そこから、ぬけてしまうならともかくですが、あの中にいて何とか変えようったって、それはできるこっちゃありません」

「かりに、あなたがそこをぬけるとしたら、どういうことになるんです」

 素子が何気なくたたみかけてゆく問いのなかに、伸子は、自分だけしか知らない素子の吉之助への感情の脈うちを感じるように思った。かたわらで問答をきいていて伸子の動悸が速まった。

「そこなんですね、問題は」

 テーブルにぐっと肱をかけ、吉之助はまじめなむしろ沈痛な声で言った。

「まず周囲が承知しませんね」

「周囲って──細君ですか」

「細君も不承知にきまってるでしょうが、親戚がね。歌舞伎の世界では、親戚関係っていうのが実に大したものなんです──義理もあるし」

 吉之助は、歌舞伎俳優だった父親に少年時代に死なれ、その伝統的な家柄のために大先輩である親戚から永年庇護される立場におかれて来ているのだった。

「もう一つ自分として問題があるわけなんです。僕には舞台はすてられない。これだけはどうあっても動かせません。俳優としての技術の蓄積ということもあります。ただ、やめちまうというなら簡単でしょうがね。自分を成長させ、日本の演劇も発展させる舞台っていうものは、どこにあるでしょう」

「いきなり築地でもないだろうし……」

「そこなんです」

 歌舞伎の息づまる旧さのなかに棲息していられなくなっている吉之助は、さりとていきなりドラの鳴る築地小劇場で『どん底』を演じるような飛躍も現実には不可能なのだった。

 吉之助の飾らない話をきいていて、伸子はやっぱりみんなこういう風にして変るものは変ってゆくのだ、としみじみ思った。丁度せり上りのように、生活の半分は奈落と舞台との間の暗やみにのこっていても、もうせり上ってそとに出ている生活の半分が、猛烈にのこっている半分について意識し苦しむのだ。伸子にはそれが自然だと思えた。相川良之介が自殺したとき、その遺書に、彼の身辺の封建的なものについてはふれない、なぜなら、日本の社会には多少ともまだ封建的なものが存在していると思うし、封建的なものの中にいて封建的なものの批判は出来ないと思うから、とかかれていたことが思い出された。当時伸子には、その文章の意味がよくのみこめなかった。けれども、こうして話している吉之助を見ても、伸子自身について考えて見ても、自分のなかに古いものももちながら、吉之助のようにはっきりそれを肯定しながらもその一方で新しいものを求めているのが真実だった。そこに矛盾があるということで新しい道を求める思いの真実性が否定されなければならないということはないのだ。伸子は、そういうごたごたのなかでひとすじの思いを推してゆく人間の生きかたを思い、悲しい気がした。保を思い出して。保には、こうやって矛盾や撞着の中から芽立ち伸びてゆく休みない人生の発展がわからなかったのだ。そして相川良之介にも。相川良之介の聰明さは、半分泥の中にうずまりながら泥からぬけ出した上半身で自分にも理性を求めてもがく人間の精神の野性がかけていた。

 伸子はその質問に自分の文学上の疑問もこめた心で、

「吉之助さんのような人でも、新劇へうつるということはできないものなのかしら」

とたずねた。

「気分では、いっそひと思いにそうしたら、さぞサバサバするだろうって気がします。しかしどうでしょう」

「歌舞伎のひとは、子役からだからねえ」

 身についた演技の伝統のふかさをはかるように素子が云った。

「あなただって、そうなんでしょう」

「初舞台が六つのときでしたから」

 吉之助は考えぶかい表情で、

「西洋の俳優も、芸の苦心はいろいろあるでしょうが、わたしのような立場で苦しむことはないんじゃないでしょうか」

と云った。

「古典劇が得意で、たとえばシェークスピアものをやる人だって、現代ものがやれるんでしょう。日本の歌舞伎と現代もののちがいみたいなちがいは、よその国にはなかろうと思うんです」

「考えてみると、日本てところは大変な国だなあ」

 からのパン皿のふちへタバコをすりつけて消しながら素子が云った。

「チョン髷のきりくちへ、いきなりイプセンがくっついたようなもんだもの」

「問題が問題ですから、てまがかかりましょうが、ともかく何とかやって見るつもりです」

 そう云ってしばらく考えていた吉之助は、やがてもち前の熱っぽい口調で、

「私生活からでも、思いきってかえて行ってみるつもりです」

 伸子には、吉之助が決心を示してそういう内容がすぐつかめなかった。歌舞伎俳優として、しきたりのような花柳界とのいきさつとかひいき客との交渉とか、そういう点を整理するという意味なのか、それとも別のことなのか、判断にまよった。同じようにすぐ話の焦点のつかめなかったらしい素子が、

「私生活っていうと?」

とききかえした。

「粋すじですか」

 そうきいて、素子はちょっとからかう眼をした。

「わたしは、そっちはどっちかっていうとほかの人たちよりあっさりしているんです。自分がつくらなけりゃあそういう問題はおこらない性質のものでしょう。わたしのいうのは主に結婚生活ですね」

 ひろがっていた話題が、再び急に渦を巻きしぼめて、吉之助は知らない素子の感情の周辺に迫って来た。

「うまく行きませんか」

「──わたしの場合はうまく行きすぎているんです。そこが問題なんです」

 伸子は吉之助の話につよい関心をひかれた。同時に、良人によってそういう風に友人の間で話される妻の立場というものを、伸子は女として切ないように感じた。

 素子もだまった。しかし、吉之助は、歌舞伎のことを話していたときと同じまじめな研究の調子で、

「わたしたちの結婚は、土台わたしに妻をもらったというより、早くから後家で私を育てた母の助手をもらったみたいなところがありましてね」

と云った。

「よくやってくれることは、実によくやってくれているんです。その点一言もないんですが……細君には、俳優が芸術家だってことや成長しようとしているってことはわからないし、必要なことだとも考えられないんですね、役者の生活の範囲ではうるさいつき合も、義理もきちんきちんと手おちなくやってくれて、全く後顧の憂いがないわけなんですが。これまでの役者の生活なんて、そんなことが第一義だったんですからね、無理もないが……。細君に一つもつみはないんです。けれども、わたしにはマネージャと妻はべつのものであるべきだと思えて来ているんです」

 つやのいい元気な吉之助の顔の上に、沈んだ表情が浮んだ。

「あなたがた、どうお思いです? あんまり我儘わがままでしょうか」

 伸子も素子も、吉之助の気持がぴったりわかるだけに、すぐ返事をしかねた。

「──わたしは妻を求めているんですね。演劇そのものの話し合える……」

 するとわきできいている伸子をびっくりさせるような鋭さで、素子が、

「かりにそういうひとが細君になったって、やっぱりマネージャ的必要は起って来るんじゃありませんか」

と云った。

「ほんとに、わけられるもんなのかな──あなたに、わけられますか?」

「わけられないことはないと思いますね。ほんとに芝居のことがわかっているひとっていうなら、自然自分でも舞台に立つひとだろうし、舞台に立つものなら勉強の面とマネージャ的用事と、却ってはっきり区別がつくわけですから……」

 赤いパイプを口の中でころがしながら、じっと吉之助の言葉をきいていた素子は、ややしばらくして、

「なるほどねえ」

 深く自分に向って会得したところがあったようにつぶやいた。

「あなたは、リアリストですね」

 その云いかたに閃いたニュアンスが伸子に素子の気持の変化を感じとらせた。伸子が理解したと同じ明瞭さで、素子も、長原吉之助が求めている女性は、彼として現実のはっきりした条件をもって考えられて居り、少くとも伸子や素子たちとそのことについて話す吉之助の感情に遊びのないことを理解したのだった。

 伸子は段々さっぱりしてうれしい気持になって来た。吉之助にたいする自分たちの感情にはあいまいに揺れているところがあった。素子は素子の角度から、伸子はその素子の角度に作用された角度から、吉之助としては考えてもいない過敏さが伸子たちの側にあった。吉之助の考えかたがずっと前へ行っているために、素子の吉之助に対する一種の感情やそれにひっぱられていた伸子の気分が、吉之助の新しい人間らしさにひかれるからでありながら、その一面では、やっぱりありきたりの常識のなかに描かれている俳優を対象においた気分だったということが、伸子にのみこめて来た。伸子は、心ひそかに自分たち二人の女をいくらかきまりわるく感じた。そして、改めて吉之助を友達として確信するこころもちだった。

「わたし長原吉之助が、いわゆる役者じゃなくてほんとによかったと思うわ」

「へんなほめかたがあったもんだな」

 素子が笑った。吉之助も笑った。伸子は、素子のその笑いのなかにやっぱり転換させられた素子の気分を感じた。素子は、もうすっかり自分ときりはなした淡泊さで吉之助にきいた。

「ところで、あなたの希望のようなひとって、実際にいますか」

「どうなんでしょう」

 彼としてどこに眼ぼしもないらしかった。

「なにしろ、歌舞伎には女形しかないんですから……」

 そこにも歌舞伎の世界の封建的な変則さがあるという口ぶりだった。



 あくる朝十時ごろ約束のガーリンが吉之助とつれだって伸子たちの室へ来た。くつろいだ低いカラーに地味なネクタイをつけて、さっぱりした風采だった。ガーリンが芸術座の名優たちとはまるでちがった顔だちで、アメリカの素晴らしい踊り手フレッド・アステアによく似たおでこの形をしているのが伸子の目をひいた。アンナ・パヴロヷァも、ああいうこぢんまりとして横にひろいおでこをもっていた。少し鉢のひらいたような聰明で敏捷なガーリンの丸いおでこは、『検察官』のフレスタコフとはちがった役柄が彼の本領を発揮させそうに思えた。メイエルホリドは、前のシーズンから構成派風の奇抜な舞台装置で、蒼白くて骨なしめいたフレスタコフを登場させているのだった。

 ガーリンは、歌舞伎のきまりを直接自分の舞台の参考にしたいらしく、忠臣蔵で見たいくつかの例で吉之助に質問した。きのうの話し合いで、伸子がガーリンのいうとおりをあたりまえの日本語で表現すると、素子が、

「ああ、かけこみのきまりのことだ」

という風に補足した。

「そうですね、じゃ」

と、吉之助は洋服のまま、ホテルのむきだしの床に片膝をついて型をして見せた。

 そんな間にも伸子には、ガーリンの特徴のあるおでこが目についた。ガーリンが歌舞伎の型にこれだけ興味をもつことも彼の舞踊的な素質を示すことのように思えた。メイエルホリドの舞台は強度に様式化されていて、人物の性格描写も、ム・ハ・ト(芸術座)のリアリスティックな演技とは正反対に、観念で性格の焦点をつかんだ運動で様式化して表現された。フレスタコフもそういう演出方法だった。そういう舞台で、ガーリンのような額をもつ俳優が、鋭い運動神経で現在成功していることもわかる。しかし、伸子は、何だか芝居としてメイエルホリドの舞台に沈潜しにくいのだった。

 ガーリンは、一時間ばかりいて、帰って行った。一二度、吉之助のやる型を見習って、すぐ自分で床に膝をついてやって見たりした。

「こっちのひとたちは、あんな人気俳優でもあっさりしていますね」

 吉之助は師匠役に満足したらしく云った。

「われわれの間じゃ、何一つおそわろうたって、大したさわぎなんです。人を立てたり、つけ届けしたり」

「そりゃ能も同じですよ。家伝だもの──大したギルドですよ」

 伸子は、ガーリンのおでこのことを話した。

「気がつかなかった?」

「そうだったかな」

 運動神経のよさと、俳優としての人間描写の能力とは同じものでないし、いつも同じ一人の中にその二つの素質が綜合されてあるとも思えない。伸子は俳優としてのガーリンの一生を、平坦な発展の道の上に予想できなかった。

「それもそうだけれど、吉之助さん、どう思う? わたし、さっきガーリンと話していてふっと思ったのよ。こんど歌舞伎が来て、一番熱心に見学したり、特別講習をうけたりしたのはメイエルホリドだったでしょう。次は『トゥランドット』をやっているワフタンゴフ。ム・ハ・ト(芸術座)はその割でなかったでしょう? あれは、どういうことなんだろうと思ったの」

「ム・ハ・トには演技の伝統が確立しているからなんじゃないですか」

「そりゃそうだよ、ぶこちゃん」

「わたし、それだけだとは思わないなあ」

 伸子は、真面目な眼つきで吉之助を見た。

「ム・ハ・トは、リアリズムで押しているのよ、そうでしょう?『桜の園』から『装甲列車』へと移って来ているけれども、それはリアリズムそのものを押して発展させて動いて来ているんです。メイエルホリドはあんな風に様式化して、動的にやろうとしているけれど、ああいう線が本質的にどこまでも発展できるのかしら……。わたし、ム・ハ・トが、歌舞伎のくまに大して関心を示さなかったのに、メイエルホリドが熱心だったっていうの、少くとも吉之助さんとしては考えていい問題だと思うんだけれど」

「──歌舞伎だって世話ものには菊五郎のリアリズムだってあるよ」

 反駁するように芝居ずきの素子が云った。

「こっちじゃ、時代ものしかやりませんでしたからね。そのせいもあるかもしれませんね」


 吉之助が日本へ帰らなければならない時が迫って来た。けれども、同じホテルにいる伸子たちとのつき合いは、はじめと同じに、三四日顔も合わせないまますぎてゆく工合だった。吉之助と伸子たちの間にあるのは、もう不安定なところのない友人の気持だけだった。吉之助が珍しく伸子たちの室に長居して家庭生活の問題も出た夜、素子は、吉之助が去ったあともテーブルのところから動かなかった。そしてその晩、会話の底を流れて、吉之助の上へは影も投げず自分の心の内にだけ推移した心持を思いかえしているようだった。テーブルに背を向けベッドの毛布をはねて、そろそろ寝仕度をはじめている伸子に素子は、

「吉之助もあのくらいはっきり考えて居りゃ、何かになれるかもしれない」

と云った。その声の調子に、思いやりとおちついた期待が響いた。レーニングラードのジプシー料理の店で、クリーム色のスタンドの灯かげといっしょに伸子の気分まで動揺させた、あの、吉之助、なかなかいいね、と云った素子の三十をいくつか越した女の体がそのせつなふっと浮き上ったような切ないニュアンスは消されていた。

 あさってはいよいよ吉之助もモスクヷを立つという晩だった。十二月の十日すぎで街は一面寒い月夜だった。八時すぎに、思いがけず若い女を二人つれた吉之助が伸子たちの部屋を訪ねて来た。

「お邪魔してすまないと思ったんですが、わたしにロシア語ができないんで、どうも……」

 吉之助は当惑そうに云って、モスクヷの若い女にあんまり見かけない捲毛を器量のいい顔のまわりに垂れた姉妹を、伸子たちに紹介した。

「こちらは姉さんなんだそうです、浪子さん」

 その娘は、紫っぽい絹服をつけていて、内気そうに伸子たちと挨拶した。

「こちらが妹さん、さくらさんていうんだそうです。──姉妹で度々楽屋へ訪ねて頂いたんですが……」

 妹も新しくないベージュの絹服をきていて、器量は美しいけれども艷のない若い顔に白粉がついていた。胸のひろくあいた古い絹服、睫毛まつげの長い黒い眼にある一種のつやっぽさ。伸子と素子には、娘たちのなりわいが推察された。同じさくらという日本名をもっていても、この娘たちにくらべると光子とその友達のさくらは、まるで別の雰囲気の若い娘たちだった。

 一つ長椅子の上に並んでかけた姉妹は伸子たちと、ぽつりぽつりあたりさわりのない話をはじめた。二人ともほんとに内気らしく、二人ともどこにも勤めていない、と答えたりするとき、そんな質問をしたのが気の毒に思えるような調子だった。素子が間に日本語で、

「あなた、このひとたちの家へ行ったことがあるんですか」

と吉之助にきいた。

「ええ、一二度」

 そして、

「ひどいところに住んでいるんです。何人も一つ部屋にいて、カーテンで区切って。あんまり気の毒だったから少しおくりものして来ました」

と云った。娘たちの住居はモスクヷ河のむこう岸らしかった。

 十分もすると吉之助は、ちょっと今のうちにすまさなければならない荷作りがあるから、と自分の室へ戻って行った。

 娘たちは、しきりに吉之助の立つ時間をきいた。それは、伸子たちも知っていないのだった。もう引きあげなくてはならないとわかりながら、吉之助を待って二人の娘たちが長椅子の上でおちつかなくなりはじめたとき、せっかちに伸子たちの部屋をノックするものがあった。

「おはいりなさい」

「こんばんは」

 かわの半外套を着て、小さいフェルト帽をかぶった中ぐらいの体つきの若くない女が入って来た。

「わたし、テルノフスカヤです──日本にいたことがある……」

 伸子は、思いがけないことに思いがけないことの重なったという表情で、ゆっくり椅子から立ち上った。テルノフスカヤという女のひとの名は、革命当時シベリアのパルティザンの勇敢な婦人指導者であったひととして、日本へ来ていた間はプロレタリア派の文学者たちと結びついて、伸子たちにも知られていた。このモスクヷでもむしろ、ホテル暮しなどをしている自分たちとは政治的にもちがった環境に属す人として、伸子も素子も、テルノフスカヤが今晩不意に現れたことに意外だった。

 いそがしく活動している婦人の身ごなしでテルノフスカヤは伸子たち娘たちと、事務的に握手した。そして、テーブルに向ってかけ、タバコを出して素子や娘たちにすすめ、自分も火をつけた。眉をしかめるようにタバコに火をつけているテルノフスカヤの髪は、ひどく黄色くて光沢がなかった。五人の女の中でたった一人タバコをすわない伸子は圧迫される感じで、テルノフスカヤの眼から自分の眼をそらした。テルノフスカヤの眼は黄色っぽい灰色でその真中に真黒く刺したような瞳があった。その目の表情があんまり豹の目に似ていた。精神の精悍さより、何か残忍に近いものが感じられ、それが女の顔の中にあることで伸子はこわかった。

「吉之助さんは、ここに住んでいるんでしょう?」

「ええ。この娘さんたちも彼のところへ来たお客さんなんですが、いま、いそぐ荷作りがあって、彼は自分の室で働いています」

「彼に会えますか」

「じきここへ来るでしょう」

 テルノフスカヤは素子と話している。伸子は、秋のはじめのいつだったか雨上りの並木道で、この人には会ったことがあると思った。雨はあがったが、菩提樹の枝から風につれてまだしずくが散るような道を、伸子の反対の方から一人の女が書類鞄を下げて通りがかった。伸子の眼をひいたのは、その雨上りの並木道を来るひけどきの通行人のなかで、その人ひとりがすきとおるコバルト色のきれいな絹防水の雨外套を着ていたからだった。それは、日本で若い女たちが着ているものだったが、モスクヷでそんなレイン・コートを見たのは、初めてだった。コバルト色のレイン・コートとともに、特徴のあるその瞳の表情も、伸子の印象にのこされた。

 伸子は、思い出して、テルノフスカヤにその話をした。

「そうですか? わたしは思い出せませんよ」

 それきりで、テルノフスカヤはコバルト色のレイン・コートを自分がもっているともいないとも云わなかった。二人の娘たちは、自分たちに話しかけようともしないテルノフスカヤの出現に、やっと思いあきらめて腰をあげた。すると、テルノフスカヤが、

「あなたがた、吉之助さんの部屋へよって帰るんでしょう」

 見とおした命令的な口調で云った。

「荷作りがすんだら、こちらへ来るように云って下さい」

 思ったより早く吉之助が、どことなし腑におちない表情で伸子たちの室へ入って来た。テルノフスカヤを見ると、顔みしりではあると見えて、

「こんばんは」

 身についている客あしらいのよさで挨拶した。テルノフスカヤはだまって握手して、

「いそがしいですか」

 はじめて日本語で吉之助にきいた。

「ええ荷づくりが少しあったもんですから、……失礼しました」

 二人の娘をあずけたことをもこめて、吉之助は伸子たちにも軽く頭を下げた。先にかえった左団次一行からはたよりがあったか、とか、正月興行で、吉之助の配役は何かというような話が出た。

 テルノフスカヤがどういう用で吉之助のところへ来たのか、伸子たちに見当がつかないように、吉之助にもわからないらしかった。吉之助の室へ行こうとするでもなくて、四十分も雑談すると彼女は来たときのように余情をのこさない足どりで伸子たちの室から出て行った。

 伸子たちがモスクヷへ来てやがて一年になろうとしていた。その間、ただ一度も来たことのないテルノフスカヤが、その晩不意に、しかもさがしもしないような的確さでパッサージの三階にいる伸子たちの室を訪ねて来たのは不思議な気持だった。

「長原吉之助のファンは、ああいうところまではいってるのかな」

 そういう素子に吉之助は却って訊ねるような視線を向けた。

「一度楽屋で見かけた方には相違ないんですが……」

 素子は何か考えるようにパイプをかんでいたが、やがて、

「気にすることはありませんよ」

と云った。

「俳優にどんなファンがいたって、ある意味じゃ不可抗力なんだから」

 一日おいた冬の晴れた朝、吉之助は予定どおりモスクヷを出るシベリア鉄道へのりこんだ。



 伸子と素子とは、また貸間さがしをはじめた。もう十二月で、伸子たちにとってまる一年のモスクヷ生活だった。春ごろ、貸部屋をさがしたときのようなまだるっこいことはしないで、こんどはいきなりモスクヷ夕刊の広告受付の窓口で求間の広告をかいた。

 あしたにも雪が降りはじめそうな夕方だった。午後三時ごろから店々に灯がついているトゥウェルスカヤ通りをホテルへ帰りながら、伸子は、

「こんどもいい室が見つかるといいけれど」

と云った。

「でも、ルイバコフのところみたいに、あんまり短い期限は不便ね」

 レーニングラードへ出発するまでの暫くの間暮したフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根が窓からみえる家は、ルイバコフの家族が夏の休暇をとるまでという期限つきだった。

「あのときは、わたしたちだってモスクヷから出る前だったんだし、よかったのさ。こんどは少し腰をおちつけなくちゃ」

 伸子たちの夏の休暇は、間に保の死という突発の事件をはさみ、予定より長びいた。ひきつづいて歌舞伎が日本から来たことは、モスクヷにいた多くの日本人の気持にふだんとちがった影響を与えた。なかでも芝居ずきの素子は、モスクヷで歌舞伎を観るということに亢奮した。そして、その旧い歌舞伎の根元から思いがけない若さでひこ生えて来ているような長原吉之助の俳優としての存在が、モスクヷの環境で、伸子と素子との日常に接近した。伸子は、保に死なれ、生れた家や過去の生活ぶりから絶縁された自分を感じている心の上へ、長原吉之助や映画監督エイゼンシュタインが新しい生活と芸術を求めて動いているエネルギーを新しい発見としてうけとった。うちはないようになっても、うちよりほかのところに伸子の精神につながった動きがあるという確認は、伸子を力づけた。長原吉之助がモスクヷを立ってから、伸子は一層自分を、モスクヷ生活にくっささったものとして感じた。素子も、吉之助がパッサージ・ホテルを去った次の週から、またモスクヷ大学へ通いはじめた。素子の勉強ぶりには、何となく、とりとめもなく煙のあとを目で追いながらタバコをくゆらしていたひとが、急に果さなければならない義務があったのを思い出して、灰皿の上へタバコをもみ消しながら立ち上った趣きがあった。

 素子の日常が、レーニングラードへ出かける前の初夏のころとあんまりちがわない平面の上で廻転しはじめた。一つ部屋に暮してそれを見ながら、伸子は平面で動けなくなっている自分というものを感じ、しかしくっささったぎりそれからさきの自分の動かしようはわからないでいる感じだった。

 二人の外国女として伸子たちの求間広告がモスクヷ夕刊の広告欄に出た二日後、伸子たちは一通の封書をうけとった。それはタイプライターでうたれた短い手紙だった。要求にふさわしい一室があいている。毎日午後二時には在宅。来訪を待つ。部屋主からの事務的な通知だが、伸子たちはそのアドレスを見て、

「まあ!」

と、手紙の上に集めていた二つの頭をはなして互の顔を見合わせた。

「またあの建物の中よ! なんて縁があるんでしょう!」タイプライターの字が、アストージェンカ一番地とあった。

「じゃ、またあのフラム・フリスタの金の円屋根ね」

「さあ」

 素子が実際家らしく、思案した。

「そうとも限るまい。だって、こっちはクワルティーラ(アパートメント)五八とあるもの」

 また伸子が下検分の役だった。

 六ヵ月ぶりで来てみるとアストージェンカの街角には、やっぱり黒地にコムナールと大きく白字で書いた看板をかかげた食糧販売店の店が開かれており、そのわきからはじまる並木道の樹々は、葉をふるいおとした梢のこまかい枝で冬空に黒いレース模様を編みだしている。フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの石垣の下に春ごろ、空のまま放られていたキオスク(屋台店)に、人がはいっていまは新聞だのタバコ、つり下げたソーセージなどを売っていた。

 一番地の板がこいには、まだ「この中に便所なし」と書いた紙がはりつけられている。

 伸子は、そこを出入りしなれている者独特のこころもちで、一番地の木戸をはいって行った。ルイバコフの入口はとっつきの右だったけれども、クワルティーラ五八というのは、その建物の内庭に面して並んでいる四つの入口の、左はじから二番目に入口があった。

 相かわらず人気のない内庭から四階までのぼって、五八のドアの呼鈴よびりんをならした。スカートのうしろまで鼠色麻の大前掛をかけた、太った年よりの女が出て来た。伸子が用向きを告げると、小柄な伸子の上から下まで一瞥しながら、

「おまち下さい」

と、奥へ入って行った。入れちがいに、大柄の、耳飾りをつけた年ごろのはっきりわからない中年の女が出て来た。この女も、こんにちは、と云いながら一目で伸子の上から下までを見た。それが主婦であった。

 ここで貸そうとしている部屋は、ルイバコフで借りていた浅い箱のような室を、丁度たてにして置いたような細長い部屋だった。フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根はその窓からは見えず、したがって街の物音の反響もすくなかった。

「この室には、別入口がついているんですよ」

 ぱさぱさした褐色の髪や皮膚の色にエメラルドの耳飾りがきわだつ顔を奥のドアへ向けながら主婦が伸子に説明した。

「そのドアをお使いなすってもかまわないんですが、もし不用心だといけませんから、表から出入りしていただきたいと思います」

 翌日、伸子たちはソコーリスキーというその家の表部屋へ移った。アストージェンカの界隈には馴れていたし、シーズンのはじまった芝居の往復にも、そこからは便利だった。ソコーリスキーでは食事つきの契約ができた。もうじき厳冬がはじまるモスクヷで、毎日正餐をたべに出ないでもすむのはのぞましい条件だった。

「アニュータの料理はわたしたちの自慢です」

 耳飾をさげた細君のいうとおり、太ったアニュータのボルシチ(濃いスープ)やカツレツは、パッサージ・ホテルの脂ぎった料理よりはるかにうまかった。伸子たちにとってやや意外だったのは、正餐がソコーリスキーの夫婦といっしょなことだった。白いテーブル・クローズをかけ、デザート用の小サジまでとり揃えたテーブルで。

 食後、細君はすぐ子供部屋へひっこんだ。

「われわれのところには、三つになる娘がいるんです。可愛い子です。二三日風邪気味でしてね……もっとも母親に云わせると、娘の健康状態はいつも重大な注意を要するんだそうですが」

 どっちかというと蒼白いぬけめない顔の上に気のきいた黒い髭をたてて大柄でたるんだ細君よりずっと若く見えるソコーリスキーは、皮肉そうに本気にしない調子でそう云った。

「日本でも──概して母性というものは、驚歎に価しますか?」

 食後のタバコをくゆらしていた素子が、そんな風にいうソコーリスキーの気分を見ぬいた辛辣さで、

「どこの国でも、雛鳥をもっている牝鶏にかなう猫はありませんよ」

と云った。

「なるほど! それが真実でしょうな」

 皮ばりのディヴァンにふかくもたれこんで、よく手入れされたなめし革の長靴をはいた脚を高く組んでいたソコーリスキーは、

「さて」

と、ルバーシカのカフスの下で腕時計を見た。

「失礼します。こんやはまだ二つ委員会があるもんですから。──必要なことは、何でもアニュータに云いつけて下さい」

 ルイバコフの家庭には、いかにも下級技師らしい生活の気分があり、正直と慾ふかさとがまじっていたが、飾りけがなく、そこで働いていたニューラの体からしめっぽい台所のにおいがしていた。ソコーリスキーの家庭の雰囲気には、上級官吏らしい艷のいいニスがなめらかにかけられていて、伸子はなじみにくかった。

 部屋へかえって、伸子は素子に、

「わたしルイバコフの方がすきだわ」

と、ふくれた顔で云った。

「ここの連中は、ミャーフキー(二等車)にしか乗らないときめてるようなんだもの」

 素子は、

「まあいいさ」

と、伸子の不満にとりあわず、それぞれに風のある家の仕くみを興がるようだった。

「ここじゃ、アニュータが実質上の主婦だね。あの太った婆さんで全体がもててる感じだ」

 おそく生れたらしい娘にかかりきりになっている細君にかわってソコーリスキーの家庭の軸がアニュータのおかげで廻転している。それが一度の正餐でもわかった。アニュータの給仕ぶりは自信と権威とにみちていて、いかにも、さあ、みなさんあがって下さい。いかがです? という調子だった。アニュータは、主人の地位をほこっていて、そこで権威を与えられている自分自身に満足している様子だった。

 二日目の午後、伸子たちは下町の国際出版所へ出かけ、正餐にやっと間に合う時刻に帰って来た。その日は朝から初雪だった。二人が外套についた雪をはらっているところへ、ノックといっしょにドアがあいた。そして、耳飾りをした細君の顔があらわれた。

「入ってもようござんすか?」

 いいともわるいともいうひまもなく細君は伸子たちの狭い室へ体を入れて、自分のうしろでドアをしめた。細君は、体の前で両手を握りあわすような身ぶりをした。握りあわせた手をよじるようにしながら、

「きいて下さい」

 奇妙な赤まだらの浮いたようになった顔で伸子たちに云った。

「さっき、わたしの夫から電話がかかりまして、非常に思いがけないことが起って、どうしてもこの室が必要になったんです」

 あんまり突然で意味がわからないのと、勝手なのとで素子と伸子とは傷つけられた表情になった。だまって、デスクの前の椅子に腰をおろした素子に追いすがるように、細君は一歩前へ出て、また、

「スルーシャイチェ(きいて下さい)」

 圧しつけた苦しい声でつづけた。

「どう説明したらいいでしょう、──つまり、──非常に重大な人物に関係のあることが起ったためなんです」

「…………」

「わたしの夫の役所の関係なんです。──どうしても避けられない事情になって来たんです。すみませんが、子供部屋と代っていただきたいんです。アニュータがあっちへ、あなたがたの荷物や寝台の一つを運びますから」

 伸子が、

「大変わかりにくいお話だこと!」

というのにつづいて素子が、

「妙じゃありませんか」

と言った。

「わたしたちは、きのうこの部屋に移って来たばかりですよ。あなたがたは、この部屋に、そういう突然の必要がおこることを、おととい知っていらしたんですか。知っていて、われわれと契約したんですか」

「どうしてそんなことがあるでしょう! ほんとに思いがけないことになったんです」

 細君の混乱ぶりはとりみだしたという以上で何か普通でない事件がふりかかって来ようとしていることを示している。それはこの大柄で、不似合な耳飾りをつけ、娘にかかりきっている細君に深い恐怖を抱かせる種類のことであり、部屋の問題も、それが夫の命令であるからというばかりでなく、夫婦を危機から守るためにも、細君として必死な場合であるらしく見えた。しかし、おそらく決して説明されることのないだろうその内容は不明で、したがって伸子も素子も、いきなりきのううつって来たばかりの部屋をあけろと云われている者の立場からしか、口のききようもないのだった。

 素子は、

「残念ですが、わたしどもに、あなたの話はのみこめないんです」

と云った。

「あんまり例外の場合だから。──あなたの旦那様とお話ししましょう。そして、わたしどもに話がわかることだったら、そのとき荷もつは動かしましょう。──この部屋がいるのは何時ごろからです?」

「多分夜だろうとは思うんですが……」

 細君は、途方にくれたように両手をねじりつづけ、顔のむらむらが一層濃くなった。そのまましばらく立っていたが、急に啜り泣きのような音をたてて息を吸いこむと、ドアをあけはなしたまま部屋を出て行った。


 立ってドアをしめながら、伸子が目を大きくして、

「何のことなの?」

 小声で素子にきいた。

「何がもちあがったっていうんだろう」

 素子は不機嫌に唇のはしをひきさげて、タバコに火をつけながら、自分にも分らない事件の意味をさぐりでもするようにドアをしめて来た伸子をじろじろ見た。

「何がどうさけがたいのか知らないが、バカにしてるじゃないか、いきなりここをあけろなんて。──そんなくらいなら貸さなけりゃいいんだ」

「ほかの部屋をつかえばいいんだわ。なぜわたしたちが子供部屋へ行って、ここをあけなけりゃならないのかわからない」

 いいことを思いついたという表情で伸子が、

「いいことがある!」

と云った。

「パ・オーチェリジ(列の順)と云ってすましてましょうよ、ね?」

 パンを買うにも、劇場や汽車の切符を買うにもモスクヷの列の秩序はよく守られた。長い列の中でも、ちゃんと番さえとっておけば途中で別の用事をすまして来ても、番が乱されることはなかった。モスクヷの市民生活のモラルの一つなのであった。

 伸子たちが評定している間もなく、玄関の呼鈴が鳴ってソコーリスキーが帰って来た。細君がいそいで出迎える気配がした。ひそひそ声で訴えるようにしゃべっている。夫婦の寝室になっている部屋のドアがあいて、しまった。

 するとアニュータが、伸子たちのドアをノックして、戸をしめたままそとから高い声に節をつけて、

「アーベェード」

と呼んだ。

 伸子たちがこっちのドアから出てゆく。その向い側のドアがあいて、ソコーリスキー夫婦が出て来た。下手な芝居の一場面のような滑稽なぎごちなさで四人がテーブルへついた。きょうもよく磨いた長靴をはいているソコーリスキーが、テーブルに向って椅子をひきよせながら、

「さきほど、家内が部屋のことについてお話ししたが、よく御諒解なかったそうでしたね」

と云いだした。

「ええ。突然のことだし、大体、あんまり例のないことですからね」

 ソコーリスキーは、気のきいた黒い髭に指を当ててちょっと考えていたが、

「そうです、そうです」

 自分にむかっても合点するように頭をふった。

「われわれの生活には、例のないことも起ることがあるんです。──ともかく正餐をすませてからにしましょう」

 細君はひとことも口をきかず、赤いむらむらは消えたかわり妙に色がくろくなったような顔で、まずそうにこうしの肉を皿の上でこまかくきっている。

 ほとんど口をきかないで食事が終った。細君はすぐ立って寝室の方へ去った。アニュータがテーブルを片づけに入って来た。うちのなかにおこることは何から何まで知られて困らない召使をもっている人間の気がねなさで、ソコーリスキーは早速、

「では、われわれの事務を片づけましょう」

と、ディヴァンの方へうつった。

 ソコーリスキーは、細君が伸子たちに云ったと同じことを、細君より順序よく、もっと重要性をふくめてくりかえした。ソコーリスキーが、神経の亢奮やいらだちをおさえて、出来るだけすらりとことを運ぼうと希望しているのは明瞭だった。

「あなたにもおわかりでしょう」

 素子が、ソコーリスキーにタバコの火をつけさせながら云いはじめた。

「あなたの説明は、客観的にはよわい根拠しかもっていないと考えるんです。或る一つの室を、ちゃんとした契約でAという人が借りた。そして二日たったら、その部屋が急にいるからあけてくれ、というような場合、一般に、『やむを得ない事情』というのは、説明にならないと考えます」

「──なるほど」

ソコーリスキーはディヴァンに浅くかけて、その上に片肱をついていた膝をひっこめて、坐り直した。

「あなたの云われるとおり、わたしの説明は客観性をかいているとしてですね──、それをより具体的にする自由がわたしに許されていない場合、あなたならどうしますか」

 きいていて、伸子はソコーリスキーの巧妙さと役人くさい抜け道上手に翻弄されてはいられない気がして来た。素子が、タバコをひと吸いしている間に伸子は、全く伸子らしい表現で云った。

「それは、ほんとにあなたの不幸だ、というしかありません」

 ソコーリスキーは、思いがけないという表情で伸子を見守って云った。

「不幸は、そのことにおいて同情される性質のものです」

「そうかしら」

 伸子は、思わず小さく笑った。

「残念なことに、あなたはあんまり権威にみちて見えます」

「それで、部屋は何日間必要なんですか」

 素子が話を本筋にひきもどした。

「それは今のところわかりません」

「その間、わたしたちは子供部屋に暮して待っているわけですか」

「わたしは、むしろ、あなたがたが、この際別の部屋を見つけて移られる方が便利だろうと思うんです」

 すっかり怒らされた眼つきと声で素子が、

「エート、ニェワズモージュノ(それは不可能です)」

 議論の余地なし、というつよい調子で云った。

「モスクヷに住宅難がないなら、あなたがたがわたしたちの広告に返事をよこすこともなかったでしょう」

 伸子の心にもきつい抗議が湧いた。大体すべてこれらのいきさつには、伸子がこの一年の間に経験したソヴェト生活らしい、いいところがなかった。理由は曖昧だし、いやに高圧的だし、伸子の気質としてほかならぬこのモスクヷで、こういう妙なおしつけがましさに負けていなければならない理由が発見されないのだった。むっとして黙っているうちに、伸子は「クロコディール(鰐)」にでていた一つの諷刺画を思い出した。それは、ソヴェト社会にある官僚主義を鋭く諷刺したものだった。「氷でつつまれた」役人たちを、一枚のブマーガ(書類)がどんなに忽ち愛嬌のいい人間に「とかしてゆく」かという有様が描かれていた。伸子は、咄嗟とっさの思いつきで素子に日本語で云った。

「わたし、これからヴ・オ・ク・スへ行ってくる」

 ソコーリスキーが、ヴ・オ・ク・ス(対外文化連絡協会)という単語をききとがめた。

「何と云われたんですか」

 伸子に向ってきいた。

「わたしは、ヴ・オ・ク・スへ行って、こういう場合、モスクヷ人はどう処置するのが普通なのか相談して来る、と云ったんです」

「ヴ・オ・ク・スにお知り合いがありますか」

「わたしたちは、モスクヷへ来てもう一年たっているんです」

 ソコーリスキーは沈黙した。しかし、彼が伸子たちのいる部屋をあけさせなければならないことにはかわりないらしく、しかも、その時刻は、刻々に迫っているらしかった。考えながらソコーリスキーは腕時計をのぞいた。そして、また思案していたが、暫くすると、それよりほかに方法はない何事かを決心したらしく、

「わたしは、最後の協調案を提出します」

と云った。

「必ずあなたがたのために、最も早い機会にこの建物の中で部屋を一つ見つけましょう。今の部屋とちがわない部屋を。──これは約束します。心あたりもありますから。その条件で、子供部屋へ荷物を運ばして下さい」

「では、わたしたちは、あなたの言葉を信じましょう。部屋ができたら子供部屋からそちらへ移りましょう」

 ソコーリスキーは、ディヴァンから立ちあがると、伸子たちに挨拶することも忘れて、あわただしい足どりで台所へ行った。

 伸子たちは、机の上に並べたばかりの本や飾りものを自分たちで、食堂と壁をへだてた裏側の子供部屋へはこんだ。

 アニュータは、子供寝台をその室からおし出し、あっちの室から折り畳式の寝台をもって来た。大きいトランクや籠は、外出のために外套をつけたソコーリスキー自身が運んだ。子供は前もって夫婦の寝室へつれてゆかれていて、白い壁の上に、復活祭の飾りか、誕生日祝の飾りか、赤と緑の紙で大きいトロイカの切り紙細工がのこされていた。ほかの室より燭光のよわい電燈で照されている子供部屋にはかすかに甘ったるく乳くさいにおいがしみついている。部屋そのものは、伸子たちのかりたところよりも倍以上ひろかった。けれども、窓ぎわにごたごた子供部屋らしい品々をのせたテーブルがあるきりで、デスクはないし、スタンドはないし、伸子たちは避難民のようにベッドの上に坐って、建物の内庭に面した暗い窓の外に降っている雪を眺めた。

 その晩、伸子が手洗いに行ったら、まだ灯のついた食堂のドアが開いていて、細君が葡萄酒の壜とコップとをのせた盆をうやうやしげにもとの伸子たちの部屋へ運んでゆくところだった。



 あくる朝、伸子と素子とは目ざめ心地のわるい気分で、乳くさい部屋の第一日を迎えた。顔を洗って来た素子が、男ものめいた太い縞のガウンを着て、手拭をもって、臨時にあてがわれている部屋へ戻って来るなり、

「保健人民委員にミャーコフっていう男がいるのかい」

ときいた。

「──知らない」

 伸子は、ソヴェトの指導的な人々の名をいくつか知っていたし、ある人々の写真をエハガキにしたのも数枚もっていた。けれどもそれは一年もモスクヷに暮している自然の結果で、政府の役人の一人一人についてなど、知っていなかった。

「その人がどうかしたの?」

「あの部屋へ来ているのは、その保健人民委員のミャーコフだとさ」

 ソコーリスキーが伸子たちに部屋をかわらした熱中ぶりの意味がそのひとことで説明された。同時に、伸子は疑いぶかい、さぐるような表情を二つ目にあらわして、じっと素子を見た。

「そんな人間が、なぜ、こそこそこんなとこへ部屋なんかもつ必要があるんだろう」

 ゆうべその人物がアパートメントへ来たのは、劇場のはねる前の、一番人出入りのすくない時刻だった。表ドアのそとについている別入口から直接部屋の鍵をあけて入ったらしく、ベルの鳴る音もしなかった。偶然細君が酒を運ぶところを見かけて、伸子は、自分たちをどけたその室に予定のとおり人が来ているのを知ったのだった。

「何かあるんだね」

「いやねえ」

 去年ドン・バスの反ソヴェト陰謀が発覚してから、ソヴェトの全機構と党内の粛正がつづけられていた。収賄、不正な資材や生産物の処分、意識的な指導放棄などが、いろいろの生産部門、協同組合などの組織の中から摘発されて「プラウダ」に記事がのせられる場合がまれでなかった。一人の人民委員が、その地位にかかわらず非合法めいた住居のかえかたをしたりすることは、外国人である伸子たちに暗い想像を与えた。そして、その暗さは、ソヴェト生活の中では特殊な性格をもった。みんなから選ばれた人民委員が大衆の批判をおそれて、こそこそ動く。そのことが、ソヴェト生活の感情にとって不正の証明であるという印象を与えるのだった。その感情は素朴かもしれないが強くはっきりしていて、伸子は、そういう者のために自分たちがいるところをとりあげられるいわれは絶対にないという気が一層つよくおこった。自分たちは外国人で、共産党員でもなければ、革命家でもない。だけれども、少くともソヴェトの人々の真剣な建設の仕事をむしばむ作用はしていない。こそこそアジトをもったりする人民委員よりも、伸子たちの方が心性と事実とにおいてソヴェトの人々の側にいるのだ。伸子は、

「それならそれで結構だわよ、ね」

 挑戦的な元気な表情で云った。

「ソコーリスキーがわたしたちをおい出す理由がますます貧弱になっただけだわ」

 朝晩は部屋へ運ばれることになっている茶を注ぎながら、素子が幻滅したような皮肉な口調で、

「人民委員は、バルザック(ロシア産の白葡萄酒)がお気に入ったとさ。朝はコーヒーしかめし上らないんだそうだ」

と、唇をゆがめて笑った。

「アニュータは、うちへそういう人が来たっていうんで亢奮してだまっちゃいられないんだね。絶対秘密だってみんな話してきかせた。どうせしゃべらずにいられないんならわたしを対手にした方が安全だから、アニュータもばかじゃない」

 伸子は茶をのみながら考えていて、

「部屋がみつかりさえしたら、ひっこしましょうね」

と云った。

「たとえわるい部屋でもね」

 いかがわしい事件にかかわりのある家に自分たちがいることを伸子はいやに思った。モスクヷへ来て一年たつ間、伸子たちの存在は何の華々しいこともないかわり、平静で自由であった。もしミャーコフという保健人民委員のいざこざにつれてどういういきさつからかそれに荷担しているソコーリスキー一家の生活がひっくりかえった場合、それにつれて自分たちの生活まで一応は複雑な角度から見られなければならない。そういうことは伸子にいやだった。保が死んでから、かっきりソヴェト生活へうちこまれた自分しか感じられずにいる伸子にとって、そういう事態にまきこまれるような場面に自分をおくことはあんまり本心にたがった。

 それには素子も同じ意見で、熱心に自分のきもちを話す伸子を半ばからかいながら、

「わかってるじゃないか。そんなにむきにならなくたって」

と云った。

「しかし、ソヴェトもなかなかだなあ。アニュータはその男がコーヒーをのむ(ピヨット)というところを、わざわざプリニマーエットと云ったよ。特別丁寧に云ったわけなんだ。ナルコム(人民委員)はただ飲むんじゃなくて──召しあがるというわけか」

 プリニマーチという動詞を、伸子は薬なんかを服用するというとき使う言葉としてしかしらなかった。

 その日も一日雪だった。伸子たちがモスクヷへ着いて間もなかった去年の季節の風景そのまま、来年の春まで街々をうずめて根雪となるこまかい雪が間断なく降りつづけた。

 正餐のとき、それまでどこにも姿を見せなかった細君が不承不承な様子で寝室から出て来た。そして、テーブルにつき、

「いやな天気ですね」

 おちつかない視線を伸子たちからそらして台所の方を見ながら、両手をこすり合わした。素子が平静な声で、

「特別でもないでしょう」

と云った。

 そのアストージェンカ一番地の大きいアパートメントには、中央煖房の設備があって、各クワルティーラは台所まで居心地よい温度にあたためられているのだった。

 細君は、すこし乱れた褐色の髪の下にエメラルドの耳飾りを見せながら、スープをのんだきりだった。両肱をテーブルの上について、時々指でこめかみをもみながら、二番目の肉の皿にも乾果物の砂糖煮にも手をつけなかった。ソコーリスキーは正餐にかえって来ず、伸子たちの出たあとの部屋へ来た人物同様、いつ帰っていつ出てゆくのかわからなかった。

 翌日、正餐のときも細君は寝室にとじこもったきりだった。アニュータの給仕で二人だけの食事を終って、伸子は食堂の窓からアストージェンカの雪ふりの通りの景色を眺めようとした。寝室のドアがすこしあいていて、更紗さらさ模様の部屋着を着た細君がだるそうな様子で、子供寝台の上に立っている女の子に白エナメルの便器をとってやるところが、ドアのすき間から見えた。ちらりと隙間洩れに見えた寝室の様子にも、伸子たちのいる子供部屋と同じ混乱があった。


 建物の同じ棟の一階下に、ともかく部屋が見つかったのは三日目の正餐のあとのことだった。細君は、まるで一家のごたごたが伸子たちのせいででもあるように、がんこに寝室から顔を出さなくなった。正餐には帰らなかったソコーリスキーが五時ごろ、いそいで十五分間ばかりもどって来て伸子たちのドアをたたいた。やっと同じ棟の三階に一部屋できたこと、四十分たったら荷物をはこぶために門番が来ることを通告して、ちょいと寝室へ入ってゆき、ドアの間へ外套の裾をはさみこみそうにあわただしくまた出て行った。伸子たちはアニュータに心づけをやり、太って息ぎれのする門番について三階の新しい室へおりて行った。


 いかにも醇朴な若くないロシア女の眼をもった主婦の顔を見て、まず伸子がふかい安心と信頼を感じた。そのルケアーノフ一家はソコーリスキーの家庭と比較にならないほど質朴で、住んでいる人に虚飾がないように調度も余計なものはなに一つなかった。

 伸子たちのための部屋というのは、しかしながらひどい部屋だった。この建物には、どこへ行っても一部屋はそういう室があるらしい狭い小部屋が、ルケアーノフのクワルティーラでは、建物の内庭に面して作られていた。暗い外ではしきりなしに雪の降っている内庭に面して一つの窓が開いているばかりで、寝台が一つ、デスクが一つ、入口のドアのよこにたっている衣裳箪笥で、きわめて狭いその部屋はもういっぱいだった。

 ソコーリスキーが苦しまぎれに、こんな部屋でも無理に約束したことは明白だった。伸子たちにしても、ソコーリスキーの破局的な不安にとらえられている家庭の雰囲気中にいるよりは、どんな窮屈でも、さっぱりしたルケアーノフの室がましだった。伸子たちが、苦心して荷物を片づけているのをドアのところに立って見ているルケアーノフの細君の素朴な鳶色の目に、真面目な親切と当惑があらわれた。

「この室は、わたしの娘がつかっている部屋でしたのを、ソコーリスキーが、たってと云われるので、お二人のためにあけたんですけれど──二人が暮せる部屋ではありません」

 一層困惑したように、ルケアーノフの細君は、手縫いの、ロシア風にゆるく円く胸もとをくったうすクリーム色のブラウスのなかで頸筋をあからめた。

「わたしどものところでは、あなたがたのために正餐をおひきうけできるかどうかもきまっていないんです」

 伸子も素子もそれぞれに働きながら、困ったと思った。素子が、

「ソコーリスキーがおねがいしませんでしたか」

ときいた。

「あのひとは、そのことをあなたにお話ししなければならなかったわけです」

「ソコーリスキーは話しました。けれども、わたしの夫がいま出張中なのです。この部屋をおかししたことさえ、彼は知らないんです」

 ソコーリスキーが何かの関係でことわりにくいルケアーノフの細君をときふせて、部屋のやりくりをさせたことはいよいよ明瞭になった。ゆっくり口をきく真面目な細君は、伸子たちに対して、主婦としてはっきりしたことの云いきれない極りわるさとともに、夫に独断で外国人を家庭に入れたりしたことに不安を感じているのだった。

「いいじゃないの、パッサージへたべに行けば」

 日本語で伸子が云った。

「うちの人が気持いいんだもの」

 素子が、むしろ細君の不安をしずめるように、

「かまいませんよ」

と云った。

「何とかなります。心配なさらないでいいんです」

「オーチェン・ジャールコ(大変残念です)」

 心からの声で細君がそう云った。しばらく考えていて細君としては些細ささいな、けれども伸子たちにとっては大いに助かる申し出が追加された。

「お茶は、わたしどものところで用意できます。朝と晩──」

 翌々日出張さきから帰って来たルケアーノフは、物の云いかたも服装も地味な五十がらみの小柄な撫で肩の男だった。大して英雄的な行動もなかったかわり、正直に一九一七年の革命を経験して、実直に運輸省の官吏として働いている、そういう感じの人物だった。ルケアーノフの眼も、細君の眼と同じ暖い鳶色をしている。二つのちがいは、ルケアーノフの眼の方が、細君の眼の明るさにくらべて、いくらかの憂鬱を沈めているだけだった。娘が二人いた。やせて小柄で気取っている上の娘は去年モスクヷ大学を卒業してどこかへ勤めている。下の娘は、来年専門学校へ入るぽってりとした母親似の少女で、母親よりもっと澄んだ鳶色の眼に、同じ色の艷のいい髪をおかっぱにしている。この下の娘が伸子たちの室へ茶を運んで来た。ドアをゆっくり二つノックして、

「いいですか?(モージュノ?)」

 どこかまだ子供っぽい声で、ゆっくり声をかけ、ついにっこりする笑顔で茶の盆をさし出した。

 ルケアーノフの質素な家庭には、伸子と素子の語学の教師であるマリア・グレゴーリエヴナとその夫でヴ・オ・ク・スに働いているノヴァミルスキー夫妻のクワルティーラにあるような雰囲気があった。みんながそれぞれに自分たちのすべき仕事を熱心にし、乏しくないまでも無駄のゆとりはない暮しぶりだった。夫のノヴァミルスキーと妻のマリア・グレゴーリエヴナが、夫婦とも同じように外気にさらされて赤い頬と、同じようにすこしその先が上向きかげんの鼻をもっているように、ルケアーノフの夫婦と二人の娘たちは、みんな鳶色の眼とゆっくりしたロシア風の動作とをもっている。

 ルケアーノフ一家の暮しぶりには、伸子の心に共感をよびさます正直さがあった。ルイバコフのうちでは夫婦ともが日常生活のどっさりの部分をニューラに負担させ、細君がそうであるように夫も目的のはっきりしない時間のゆとりのなかで暮していた。ソコーリスキーの家庭は、伸子にとって思いもかけずまぎれこんだソヴェト社会の一つのわれめだった。ルケアーノフの一家の、飾ることを知らない人々の自然で勤勉な簡素さは、保が死んでのち伸子の心から消えることのなくなった生活への真面目な気分に調和した。保がいなくなってから、ヴォルガ河やドン・バスの旅行から帰ってから、伸子は、はためには大人らしさを加えた。素子に対しても、おとなしくなった。しかし、それは伸子の心が沈静しているからではなくて、反対に、生活に対するひとにわからない新しい情熱が伸子の内部に集中しているからだった。ますます生きようとしている伸子のはげしい情熱は、ひそかに体の顫えるような、保は死んだ、という痛恨で裏づけられている。まぎらしようのないその痛みは、新しく生きようとしている伸子の情熱に音楽の低音のような深い諧調を与えていた。伸子は自分の内にきこえる響に導かれて、もっと、もっととソヴェト生活にはまりこんで行こうとしているのであった。


 ルケアーノフの主婦が伸子たちの正餐をひきうけてもよいときめたのと、素子が、パッサージ・ホテルに部屋をとったのとが同じ四日目のことだった。

「惜しいな、折角そういうのに──」

 丁度パッサージに部屋をきめて帰ったばかりの素子が、部屋にのこっていた伸子からその話をきいて残念がった。

「──でも、これじゃ、とてもやってかれないし……ぶこちゃんだってそうだろう?」

 伸子は黒っぽい粗末な毛布のかかったベッドの上に坐っていた。

「無理ね。ほんとに一人分だわ、この部屋は」

「正餐だけたべにこっちへ来ることにするか」

 パッサージ・ホテルとアストージェンカは近いけれども、素子は往復の時間が惜しいらしかった。

「ついおっくうになっちゃうからね、いまの天気じゃ。こっちで正餐をたべりゃ、ついどうしたってこっちで夜まで暇つぶししちゃう」

「わたしがパッサージへ行ったら? 暇つぶししないの?」

「いいさ、おっぱらっちゃうもの」

 笑いもしないでそう云いながら考えていて、素子はやっぱり予定どおり自分だけパッサージに移ることにした。そうなれば、たった一人で降る雪ばかり見える窓に向いて、正餐をたべる勇気は伸子になかった。正餐には伸子がパッサージへ出かけて行くことにきまった。



 舞台では、人々の耳になじみぶかい華麗な乾杯のコーラスの余韻をひきながらオペラ「椿姫」の第一幕めのカーテンがおりたばかりだった。

 二階のバルコニーの第一列に並んでいる伸子と素子のところへ、一人の金髪のピオニェールのなりをした少年があらわれた。ピオニェールの少年は、素子のわきへよって来た。そして、そばかすのある顔じゅうにひどく陽気な好奇心を踊らして、

「それ、望遠鏡ですか」

 素子のきなこ色のスカートの膝におかれていた双眼鏡をさした。

「ああ。──なぜ?」

「僕はじめてこういうものを見たんです。ずっと遠くまで見えるんですか」

「そんなに遠くは見えないさ、オペラ・グラスだもの──舞台を見るためのものだから」

 赤い繻子のネクタイをひろく胸の前に結んでさげているピオニェールは、ちょっと素子の云っていることがわからない表情をした。

「それで見てもいいですか」

 素子は、オペラ・グラスをそのピオニェールにわたした。そして、もちかたや、二つのレンズの真中にある銀色の軸をまわして、距離を調節する方法などを教えた。

「やあ素敵だ! あんな隅が、まるで近くに見えらあ」

 ピオニェールは、オペラ・グラスを目にあてて、そう大きくもないエクスペリメンターリヌイ劇場の円天井のてっぺんだの、下の座席だのを見まわした。そのころモスクヷでは万年筆だの時計だのが珍しく思われていた。そのピオニェールがオペラ・グラスをはじめて見たということは本当らしかった。でも、ピオニェールが、オペラ・グラスを目にあてがって、あすこも見える! こっちも見える! とはしゃぐ有頂天ぶりは何か度はずれだった。伸子は、

「ほんとにそんなによく見えるの?」

 そのピオニェールにきいた。

「そのグラスはもう古くて、よくない機械でわたしたちには舞台を見るにも不便なのに」

 オペラ・グラスは、伸子の母親が誰からか外国土産にもらって長い間つかい古したものだった。小さいねじで、レンズが倒れて、オペラ・グラス全体が薄くたたまれる。それが手ごろで、伸子はもらって来たのだった。

 伸子がそういうと、ピオニェールはレンズを目からはなして、瞬間かたまったような笑い顔で伸子をじっと見た。

「それ、ほんとですか」

 伸子は半分ふざけて云った。

「レンズだの自動車だのは、一年ごとに進歩して、よりよいものが作られているのよ」

 ピオニェールは、口のなかで、

「そりゃ本当だ」

と言いながらまたレンズを目に当ててバルコニーのうしろの方を眺めていたが、素子に、

「僕このレンズちょっとかりて下へもって行っていいですか。僕の席、あすこなんです」

 バルコニーの手摺りから、下のオーケストラ・ボックスの右よりの場所を示した。

「僕、下から上が見てみたいんだ。いいですか。すぐもって来ます」

 素子は、ちらりと伸子を見た。

「──いいだろう」

 その言葉の響には、少年を信用してもいいだろうという意味がききとれた。伸子は、だまって、口元でわからないという表情をした。その少年のピオニェールの服装が、どこやら信用しない自分のきもちの方が普通でないようにも伸子に感じさせるのだった。

「まあいい──」

 素子はロシア語で、

「かしてあげるよ。すぐもって来なさい」

と云った。少年はバルコニーから姿を消した。オーケストラ・ボックスに近い下の席にまた彼のピオニェール姿が現れるまでに、すこし時間がかかりすぎる感じだった。素子と並んで首をのばして下を見ながら、伸子は、

「あの子供、返しに来るかしら」

と云った。来ないような気がした。

「ピオニェールだよ」

「そりゃそうだけれど……」

 そう云ってなお下を見ている伸子の頭に、札束のことが思い浮んだ。

「あなた、お金どこにある?」

「こっちへうつした」

 伸子と自分との席の間に挾んでおいてある書類鞄を素子はたたいた。劇場へ来るまえに、伸子と素子とは国立銀行へまわって、三ヵ月間の生活費にあたるほどの紙幣をもっていた。素子はどうしたのかそれを外套の内ポケットに入れていた。劇場の外套あずかり所で、外套をぬいであずけるとき、素子はそのことを思い出し、ポケットから札束を出して、入れ場所をかえた。伸子は、素子のそういう動作は場所柄不用心だと思ったけれども、だまっていた。そのとき、彼女たちのまわりに何人か外套あずけの観客がいた。素子がそうやって手早くではあったが不適当な場所で札を動かしたとき、すぐ横にいて、どうも素子のやったことに気づいたらしい、きびしい顔つきの四十がらみの女が、赤っぽい絹ブラウスを着て、やっぱり同じバルコニーで素子から斜よこの席に一人でかけていた。

 伸子は、あいかわらず素子と顔を並べて下を見ながら、小さな声で、

「お金、みられたんじゃないかしら」

と云った。

「あの女、気がついてる? 赤ブラウスの女、外套あずけのところで、すぐあなたのうしろにいたのよ」

「ああ、あいつはすこし変だ」

 オペラ・グラスそのものは、伸子たちにとって、なくなって大して惜しいものでもなかったし、不便する品ものでもなかった。けれども、あの子供は、ほんとにただオペラ・グラスが珍しいだけなのか。それとも盗むのだろうか。伸子たちの好奇心はそちらに重点がうつった。

 すこし時間をかけすぎた感じだったが、やがてそのピオニェールは伸子たちが見下しているオーケストラ・ボックスの近くの席へ、赤いネクタイ姿をあらわした。幕のしまっている舞台をうしろにして席のところに立ち、伸子たちのいるバルコニーへオペラ・グラスを向け、挨拶に手をふった。幕間にも席を立たずにいたまばらな観客の顔が二つ三つ、ふりかえって、ピオニェールがそこに向って手をふっている伸子たちのバルコニーを見上げた。少年の隣りの席にいた黒っぽい背びろ服の男が、少年からオペラ・グラスをかりて首をねじり、特に伸子たちの方というのではなくバルコニー全体を眺めた。そして、かえしたオペラ・グラスで又ひとしきりあっちこっち見まわしてから、少年は、いまそっちへゆくという意味の合図をして、見えなくなった。

 ピオニェールは、オペラ・グラスをかえしに来た。素子は少し伸子をとがめるように「やっぱり来たじゃないか」とささやいた。そして素子と少年との間に、断片的な日本の話がはじまった。

「モスクヷに日本人すくないですね。中国人は僕よく知ってるんです、『子供の家』に中国人の子供がいたから。僕日本人にあったのはじめてです」

 自分の名をペーチャと云って紹介したピオニェールは、やがて開幕を告げるベルが場内に鳴ると、

「僕、こっちの席へうつってもいいですか」

と素子にきいた。

「幕間に、もっと日本のことがききたいから」

 その晩のエクスペリメンターリヌイ劇場は八分の入りだった。モスクヷの劇場ではそこがあいていることがたしかなら、席をかえてもかまわない習慣がある。──もっとも、そんな空席のあることはまれだったけれども。

 ピオニェールはそのままバルコニーにのこって、赤ブラウスの女の一つうしろの席に坐った。素子と伸子との座席は丁度第一列の中央通路から一つめと二つめだった。素子の右手はゆったりした幅の通路で区ぎられており、その隣りにいるのは伸子で、あとずっとその列に空席がなかった。

 オペラとバレエだけを上演する国立大劇場とくらべれば、エクスペリメンターリヌイ劇場は、上演目録も『ラ・ボエーム』『ファウスト』『トラヴィアタ』という風なもので若い歌手たちの登場場面とされていた。すべてが小規模で、舞台装置もあっさりしているけれども、その晩の『椿姫』は魅力的であった。ソプラノが、いかにも軟かく若々しい潤いにとんだ声で、トラヴィアタの古風で可憐な女の歓び、歎き、絶望が、堂々としたプリマドンナにはない生々しさで演じられた。歌詞がロシア語で歌われるために、流麗なメロディーにいくらかロシア風のニュアンスがかげを添え、その晩の『椿姫』は、プーシュキンでもかいた物語をきくような親しみぶかさだった。伸子は、体のなかで美しく演奏されたオペラのメロディーが鳴っているような暖くとけた心持で劇場を出た。パッサージ・ホテルまで歩いて、そこで素子とお茶でものんで、伸子はそれから電車でアストージェンカの住居へ帰るのだった。

 雪のこやみになっている夜道を中央郵便局の建築場に面したパッサージの入口まで来た。伸子たちは二人きりでそこまで来たのではなかった。例のピオニェールが送ってゆくと云って、ついて来ていた。

 パッサージの入口で、素子が糸目のすりきれた黒ラシャの短外套の襟の間から赤いネクタイをのぞかせているピオニェールにわかれを告げた。

「じゃ、さようなら、家へかえって、寝なさい。もうおそいよ」

 ピオニェールは、ちょっと躊躇していたが、

「あなたの室へよって行っていいですか」

 いくらか哀願するように云った。

「ほんの暫くの間。──じきかえります」

 伸子も素子も、子供が茶をのみたがっているのだと想像した。

「ピオニェールが、そんなに夜更していいのかい」

 そう云いながら結局三人で素子の室へあがった。そのとき素子は、モスクヷへついた一番はじめの晩に伸子と泊った室、あとでは長原吉之助がオムレツばかりたべながら二週間の余り逗留していた三階の隅の小さい部屋をとっているのだった。

 素子の室へはいって外套をぬぎ、もちものをデスクの上や椅子の上においてひと休みするとピオニェールはめっきり陽気になりだした。小さい焔がゆれているような顔をしてトラヴィアタの中にあるメロディーを口笛で吹き、そうかと思うと、ブジョンヌイの歌を鼻うたでうたって、部屋じゅう歩きまわったあげく膝をまげた脚をピンピン左右かわりばんこに蹴出すコーカサス踊の真似などをした。

「なぜ、お前さんはそう騒々しいのかい」

と、素子があきれた顔でとがめた。

「おかしな小僧だ!」

 ピオニェールはすかさず、

「僕、いつだって陽気なんだ。ラーゲリ(野営地)で有名なんです」

と口答えして笑ったが、敏感に限度を察して、それきりさわぐのをやめた。そしてこんどは当てっこ遊びをはじめた。

「この机の引出しに何が入ってるか、僕あててみましょうか」

「あたるものか」

「いいや僕あててみせます──ず──何だろう」

 緑色のラシャの張ってあるデスクを上から撫でて、金色の髪がキラキラ光る五分刈の頭をかしげ、

「まず、紙類が入っている!」

「お前さんはずるいよ。紙類の入っていない机の引出しなんてあるものか」

「それから、たしかに鉛筆も入っている。ナイフ──あるかな?」

 ピオニェールは、挑むような、からかうような眼つきをして素子と伸子を、順ぐりに横目で見た。

「少くとも、何か金属のものが入っています!」

 そう宣言しながらさっと素子のデスクの引出しをあけた。その引出しに、白い大判のノート紙と日本の原稿紙などしか入っていないのを見てピオニェールは、失望の表情をした。

「大したもんじゃないや!(ニェ・ワージヌイ!)」

「あたり前さ、もちろん大したもんじゃないよ、紙は紙さ。白かろうと青かろうと」

 ピオニェールはすぐ元気をとり戻した陽気さにかえって、

「でも、僕はあてましたよ、御覧なさい。これは金属でつくられてる!」

 モスクヷ製のペン先を二本つまんで見せた。

「──さてと……これには何が入っているかな」

 デスクの上におかれている素子の書類入鞄に手をかけようとした。

「さわっちゃいけない」

 きつい声で云って、素子はその鞄をかけている椅子の背と自分の体との間にしっかりはさみこんだ。

「なぜ、それにさわっちゃいけないんですか?」

「お前さんの指導者にきいてごらん」

 伸子は、ピオニェールのあてっこ遊びに飽きて来た。茶をのまして早く帰そうと思い、水色エナメルの丸く胴のふくらんだヤカンをさげて、台所まで湯をとりにおりた。

 湯の入ったヤカンをさげ、ピオニェールのためにコップとサジとをのせた盆をもって部屋へもどって来ると、ピオニェールは、せまいその部屋の真中あたりにじっと椅子にかけている素子のまわりを、ぐるぐるまわって歩きながら、伸子の茶色い小さなハンド・バッグをあけてなかをのぞき、

「やあ、あなたのまけだ!」

と叫んでいるところだった。

「七ルーブリ、三十五カペイキと、金の時計と、古い芝居の切符とが入ってますよ」

 伸子は、変なことをすると思った。

「なにしてるの? なぜわたしのスーモチカ(金入れ)に用があるの」

「あなたのタワーリシチが、この中に入ってるものをあてる番だったんです。三ルーブリぐらい金があるだろうというきりで、あと何が入っているか、全然しらなかったんです。僕が勝ったんだから、これは僕が没収(リクイジーロワーチ)します」

 ピオニェールは、その茶色の小型ハンド・バッグを、もったまま、手をうしろへまわした。伸子は、少年の前へずっとよって行って手をさし出した。

「よこしなさい!(ダワイ)」

「…………」

「どうして? よこしなさい! 遊びは遊びよ!」

 戻してよこしたハンド・バッグを伸子は、机にしまい、音をたてて引出しをしめた。

「さあ、もう十分だ。お茶をのんで、帰るんです」

 茶をのみながら伸子はそろそろ自分のかえる時間も気になりはじめた。

「何時ごろかしら」

 素子が腕時計を見た。

「おや、もうこんなかい」

 間もなく十二時になろうとしているところだった。


 伸子はピオニェールのなりをした少年とつれ立ってパッサージ・ホテルを出た。トゥウェルスカヤ通りを、猟人広場の方へおりた。

「アストージェンカへは、ストラスナーヤからも行けますよ」

「知ってるわ」

「ストラスナーヤから行きましょうよ。──いやですか?」

「わたしには遠まわりする必要がないのよ」

 ストラスナーヤ広場は、夜のモスクヷの繁華なところとされているかわり、いろんなことのある場所としても知られていた。伸子は、ストラスナーヤをまわって行こうと云った少年の言葉を自然にきけなかった。足早に猟人広場の停留場へ行こうとして、伸子は雪のつもったごろた石の間で防寒靴をすべらせた。

「気をつけなさい!」

 ピオニェールは大人らしく叫んで伸子の腕をささえた。そして、彼が支えた方の手にもっていて、すべったとき伸子がそれをおとしそうにした茶色の小型ハンド・バッグを、

「僕がもってあげましょう」

 伸子からとって自分の脇の下にはさんだ。

 アストージェンカへ行く電車が間もなく来た。明るい車内は、劇場や集会帰りの男女で満員だった。伸子とピオニェールはやっと車掌台へわりこんだ。伸子たちのほかにも数人乗った。おされて少しずつ奥へ入りながら、伸子は、

「そのスーモチカをよこしなさい。切符を買うから」

と云った。

「僕が買ったげます──僕はパスがあるから」

 そう云いながら伸子より一歩さきに車掌台から一段高くなった電車の入口に立っていたピオニェールは、すこし爪先だったようにして、こんだ車内を見わたした。電車は次の停留場へ近づいているところだった。ちょっと外を見た伸子が、目をかえして電車の入口を見たら、ピオニェールは、そこにいなかった。モスクヷの電車で車掌はいつも伸子たちののりこんだ後部にいて、日本のように車内を動きまわらない。見ればちゃんと婦人車掌は、こみながらも彼女の場所として保たれている片隅に立っている。ピオニェールは切符を買うために奥へ入る必要はないのだ。

 やられた! 伸子は瞬間にそう思った。それといっしょに伸子は黙ったまま猛烈な勢で電車の奥へ人ごみをかきわけて突進しはじめた。伸子はすりという言葉を知らなかった。泥棒という言葉も思いうかばなかった。咄嗟に叫ぶ声が出なかった伸子は、ぐいぐい人をかきわけて奥へすすみ、停留場へ着く前に自分で赤ネクタイをつかまえようとした。

 車内を四分の三ぐらいまで進んだとき電車はとまった。そして、すぐ発車した。車内には赤ネクタイの端っぽさえ見あたらなかった。ピオニェールは完全に逃げおおせた。

 そのときになって、伸子はやっと口がきけるようになった。まわりの乗客たちは、黒い外套を着た小柄な外国女がピオニェールのなりをした小僧にスモーチカをられたという事実を知った。乗客たちは、そんな小僧の素早さや、つかまりっこのないことを知りぬいているらしく、伸子の災難に同情しながらもきわめて平静だった。伸子が一文なしになったから、電車からおろしてくれ、友達のところへ帰る、と云うと、二三人の男が運転手に声をかけた。電車はすぐとめられた。


 まだかなり人通りのある夜ふけの雪道を、いそがずパッサージ・ホテルに向って歩きながら、伸子は亢奮している自分を感じ、同時に、ピオニェール小僧のやりかたに感歎もした。エクスペリメンターリヌイ劇場で伸子たちにつきまといはじめてから、小僧は一晩じゅう目的に向って努力をした。双眼鏡をもって行って、それはかえして、第一歩の疑惑をといたやりかた。あてっこ遊び。小僧はそういう遊びにことよせて伸子たちの持ちものの検査と値ぶみをしたのだった。素子に、伸子のモヷードの金側腕時計を見せて、

「これ、にせものでしょう」

と云い、素子から、

「にせものなもんか、本ものだよ」

と云わせた巧妙さ。伸子も素子も、陽気すぎ、その好奇心がうるさすぎるピオニェール小僧に対して決して気を許しきってはいなかった。半分の疑惑があった。素子は、意地くらべをするように書類鞄を椅子の背と自分の背中との間に挾みこんで椅子から動かなかった。伸子だって、ストラスナーヤをまわろうというピオニェール小僧の言葉をしりぞけたとき、あっちに小僧の仲間がいるのかもしれないと思ったのだった。それだのに、結局スーモチカをもたせる始末になった。それは伸子がすべったはずみではあるが、全体として、あの金毛のそばかすのあるピオニェール小僧が、はじめっから伸子たちの警戒と油断とが等分にい合わされた神経の波に応じて絶えざる緊張で演技をつづけとうとう最後のチャンスで獲物をせしめた。そのねばりは、ごまのはいにしても相当なものだった。えもののねらいかたが心理的にごまかして、計画的であることが、伸子にゴーゴリの悪漢を思わせた。でも、もし、あの小僧があれだけ伸子たちをつけまわしたのに、今夜じゅうに何もとれなかったとしたらどうだったろう。それを思うと、伸子は、はじめて真面目なこわさを感じた。ピオニェール小僧が徒党をもっていることはストラスナーヤと云ったことで察しられるし、そこには、彼の大人の親方がいたのかもしれない。スーモチカをくれてやって、よかったと伸子は思った。少くとも、ピオニェール小僧は親方にさし出す獲物として、いくらかの金と、金側時計と古くても皮のスーモチカがあった。それは彼を死もの狂いにすることから救った。それは、伸子の安全を買ったことなのだった。

 パッサージのドアをあけ、去年伸子たちがモスクヷに着いたときからそこに置かれていた棕櫚しゅろの植木鉢のかげから、下足番のノーソフの大きな髭があらわれたら伸子は急に体じゅうが軟かくなってしまった。半分は意識して、半分は無意識のうちに一晩中ピオニェール小僧と心理的な格闘をしていた。それがもうすんだ安心だった。

 椅子にちょこなんと腰かけて防寒靴をぬぎながら、伸子は、今宵こよいの出来ごとをかいつまんでノーソフに話した。

「あの小僧が──そりゃ、そりゃ」

 ノーソフは、頭をふった。

「わしは、あなたがたといっしょに小僧が入って来たのを見ましたよ。だが、あなたがたといっしょだったもんだからね、知り合いの子でもあるかと思ったです。──カントーラ(帳場)に話しなさるこったよ」

 ノーソフと話しているうちに、伸子の眼の中と唇の上に奇妙に輝きながらゆがんだ微笑がうかんだ。トゥウェルスカヤの大通りからアホートヌイへ出るところで伸子が足をすべらし、そのはずみに何気なく伸子のスーモチカがピオニェール小僧の手にわたった。そのとき、ピオニェール小僧は、伸子の小型で古びたスーモチカを脇の下にしっかり挾み、伸子の腕を支えて歩き出しながら、手袋をはめている伸子の手をとりあげ、寒さで赤くなっている自分のむき出しの両手の間にはさんで音たかく接吻の真似をした。伸子は、馬鹿馬鹿しいというように手をひっこめた。

 ノーソフと話しながら伸子はその情景を思い出した。あのときどんなにピオニェール小僧はほっとしたんだろう。先ずこれでせしめた。そう思ったはずみに、ピオニェール小僧は思わず伸子の手へ接吻の真似をしたのかもしれない。しかし──接吻の真似──それはやっぱりごまのはいの仕業だった。

 小花模様のついた絨毯のしかれた午前一時すこし前の階段を伸子は一段ずつ素子の部屋へ、のぼって行った。



 伸子と素子とがたかられ、伸子がスーモチカをとられたピオニェール小僧は、モスクヷで通称ダームスキーとよばれ、婦人や外国人専門のごまのはいだった。翌日、市民警察の私服のひとと四十分ばかり昨夜の出来ごとについて話して、伸子たちは新しくそういう事実も知った。しかし、伸子にも素子にも、自分たちの被害を強調する気分がなかった。ことのいきさつは、はじめから伸子たちの不注意に発端していたのだから。

 写真で見るルイバコフがいつも着ているようなダブル襟の胸にひだのあるつめ襟を着た私服のひとは、こまかに伸子のとられた品物の記録をとった。わずかの金銭のことや時計のことを告げているとき、伸子はきまりわるい思いだった。時計は、モヷードの金側であるにしろ、とまったまま動かなくなっていたものだし、それは伸子が立つとき父の泰造が餞別に買ってくれたものでもあった。職業をきかれたとき、婦人作家と答えた伸子は、現実にあらわれたとんまを、自分に対してつらい点で感じるわけだった。

「わたしたちは、むしろ自分たちがわるかったと思っているんです。しかし起ったことは起ったことですからね」

 素子が、その私服のひとにタバコをすすめながら云った。

「報告すべきだと考えたわけです」

「そうですとも。それにわれわれとしては、あなたがた外国のひとが、ピオニェールという点でその小僧を半ば信用されたことを、非常にお気の毒に思います。且つ遺憾とします」

 ああいう小僧のつかまることや品ものの出ることについてはそのひとも度々の経験から期待をもっていないらしかった。

「あなたはどうお考えですか」

 ゆうべから疑問に思えていたことを伸子が質問した。

「あの小僧は、本当のピオニェールだったんでしょうか、それともただピオニェールの服を着たよくない小僧だったんでしょうか」

 ちょっと考えて、実直な顔をした若い私服のひとは、

「どっちとも云えないですね」

と云った。

「ピオニェールの組織は御承知のとおり大きな大衆組織で、モスクヷ市ばかりで数万の少年少女がそれに属しています。──その小僧がピオニェールであることも事実であり、同時に職業的ダームスキーであることも事実かもしれません。──残念ながらこれは、過渡期の社会としてあり得ることです」

 モスクヷへ来た当座はすりにもあわないで、一年たったとき念入りなごまのはいにたかられたということは、伸子に自分たちの生活態度をいろいろと考えさせた。劇場の外套あずかりどころで、素子が外套のポケットから札束を出したりした。それが間違いのもとだったのだが、そんな油断は伸子たちのどんな心理からおこったことだったのだろう。伸子も素子もモスクヷで働いて、それで取る金で生活しているというのではない。その上、ルーブルが円よりやすくて、換算上、日本の金の何倍かにつかわれている。素子と伸子のうかつさは、都会生活になれない人間の素朴なぼんやりさが原因なのではなくて、その土地で働いて生活しているのでない外国人がいくらか分のいい換算率に甘やかされている、そのすきだということが伸子には思われるのだった。

 素子の節倹は、モスクヷへついた当座からかわりなく、伸子たちはいまでも、気のかわった贅沢な料理をたべに、サヴォイ・ホテルの食堂へ行くというようなことは一ぺんもしなかった。モスクヷとしてはたかい砂糖菓子さえ滅多に買わなかった。そういう風なつつましさでは、多くの実直なモスクヷ人と同様なのに。──あの札束が、かりに素子の月給であったらどうだったろう。もしくは、伸子の原稿料だったら──いずれにせよ二人はもっと慎重だったにきまっている。

 ルーブルと円との換算率ということも、改めて考えてみれば、伸子にとっては一つの自己撞着だった。日本の円に対してルーブルが低い換算率をもっているということは、日本よりソヴェトの方が、一般的に社会的信用がないことを意味している。でもそれは、日本のどういう条件に対してソヴェトの信用がより少ないのだろう。ソヴェトの大多数の人々にとっては、ソヴェトの全生活がほかの資本主義社会より少ししか信用できないものだとは決して思われていない。ここの国の人々が選んだ社会主義の実績は着々進められているのだから。農業や工業の電化は、一九二八年のメーデーから革命記念日までの六ヵ月間に、かなりのパーセント高められた。ソヴェトに対する信用は低いとしているのは、その社会主義の方法を信用しまいとしている諸外国の権力であり、ソヴェトに機械類その他をより高く売る方がのぞましい人々の利害であるし、本国にいるよりどっさりルーブルの月給がとれる出さきの役人や顧問技師の満足であるわけだった。

 ソヴェトの生活になじむにつれて、伸子は、ソヴェトに対するよその国々の偏見と、それをこけおどしに宣伝する態度にいとわしさを感じていた。いってみれば、その偏見そのものが通過の上にあらわされている換算率で、自分たちのルーブルがふえるというのは何という皮肉だろう。

 金についての素子のつましさは、働くもののつましさではない。むしろ、常にいくらかゆとりのある金を用心ぶかくねうちよくつかってゆく小市民的な習慣だ、と伸子は思った。けれども、それならば、伸子自身が素子とはちがった面で小市民的でないと云えただろうか。一度か二度ピオニェールの野営地を訪問し、クラブでピオニェールたちと会談したくらいのことで、ピオニェールのことは心得たようにあの金毛のピオニェール小僧に対した伸子は、自分の態度に甘さのあったことをかえりみずにいられなかった。ピオニェールのネクタイしか赤いきれがモスクヷにないとでもいうように! モスクヷぐらい、どこへ行ったって雑作なく赤い布きれが手に入るところはありはしないのに! 悪意は辛辣でリアリスティックだと伸子は思わないわけにゆかなかった。小悪漢ピオニェール小僧の炯眼けいがんは、二人の日本人の女の無意識の断層にねらいをつけて図星だった。


 このことがあって間もなく、素子はパッサージ・ホテルから、筆入れ箱のように細長くて狭いルケアーノフの室に戻って来た。そして、伸子がチェホフの墓のあるノヴォデビーチェ修道院のそばの新しい建物の一室に移ることになった。

 アストージェンカからモスクヷの郊外に向う電車にのってゆくと、その終点が有名なノヴォデビーチェだった。ノヴォデビーチェと云えば先頃までは修道院でしか知られていないところだったが、今年十二月の雪が降りしきるノヴォデビーチェにひとかたまりの新開町ができていた。モスクヷ市の膨脹を語るできたばかりの町で、その町の住民の生活に必要な食料品販売店、本屋、衣料店などがとりあえず当座入用な品々を並べて菩提樹の下の歩道に面して木造の店鋪をひらいている。公園の中のように、大きい菩提樹の間をとおって幾条か雪の中のふみつけ道がある。その一条一条が三棟ほどある五階建ての大きいアパートメントのそれぞれの入口に向っているのだった。

 雪空のかなたにノヴォデビーチェ修道院の尖塔のついた内屋根をのぞみ、雪につつまれた曠野にひとかたまり出現したその新開町のなかは、ぐるりの風景のロシア風な淋しさとつよい対照をもって、ソヴェト新生活の賑わいと活気をあらわしていた。雪の中に黒い四角な輪廓で堂々と建ちつらなっている大アパートメントは、化学航空労働組合が建てたものだった。人々は、何年かにわたって、これらの建物のために一定の積立金をし、完成の日を期待し、やがて凱歌とともにこの新開町へ引越して来たところだった。店々に品物がまだとりそろわず、雑貨店の赤い旗で飾った窓に石油コンロがちょこなんと二つ並んでいるばかりであるにしろ、そこにはこの町のできた由来と新生活のほこりがあるのだった。

 伸子が移った室というのは、そのノヴォデビーチェの新開町の中心をなす三棟の大アパートメントの右はずれの建物の四階にあった。入口のドアをおして入ると、その大きい建物全体の生乾きのコンクリートがスティームに暖められ、徐々に乾燥してゆく、洗濯物が乾くときのような鼻の奥を刺すにおいがこめていた。借りた室は、ルケアーノフの室の四倍ほどの広さがあった。が、伸子は、組合の保健婦であるそこの細君に案内されて部屋をみたとき、素子がどうしてもそこに、おちついていられないんだ、といくぶんきまりわるそうに云ったわけがわかるようだった。

 三方の真白い壁と、カーテンのかかっていない二つの大窓に面して、ひろくむき出された床の上には、ぽつねんと古びた衣裳箪笥が一つたっていた。ニスの光る新品のデスクが一つ窓に向って据えてあった。ドアの左手の窓ぎわにくっつけて、寝台がわりにディヴァンがおかれている。部屋を見わたして、伸子は、

「大変清潔です」

と云いながら、ひどく不思議な気持がした。その部屋は全く清潔でなくなろうとするにも、それだけのものがないのだったが、この室におかれているものは、デスクにしろディヴァンにしろ、どうしてこうも小型のものばっかり揃っているのだろう。デスクは、室の広さとのつり合いでおちつきようもなく小さくて真新しいし、ディヴァンにしろ、それがそこにあるためにかえって室内のがらんとした感じが目立つぎごちない新しさと小ささだった。伸子がモスクヷの家具として見なれた大きさをもっているのは、衣裳箪笥だけだった。どこにも悪気はないのだけれども、大きい顔の上に、やたらに小さい目鼻だちをもった人とむかいあっているような、居工合のわるさがその部屋を特色づけている。

 素子がこういう部屋を見つけたことについて伸子は、ちっとも知らなかった。パッサージ・ホテルにいた素子は、ひとりで広告して、一人できめて、正餐つき一ヵ月の部屋代をさき払いした。

「ぶこちゃん、失敗しちゃった」

と、素子がノヴォデビーチェの部屋について話したのは、伸子をびっくりさせようとして、素子がノヴォデビーチェの室へ一晩とまって見た翌日の正餐のときのことだった。

「前払いなんかしなけりゃよかった。──すまないけれど、ぶこちゃんあっちで暫く暮してくれよ。入れかわって──いやかい?」

 パッサージの室を素子はその日の夕方までで解約してしまっているのだった。

 紙のおおいのかかったパッサージの食堂のテーブルに素子とさし向いにかけ、アルミニュームのサジで乾杏や梅を砂糖煮にしたものをたべながら、伸子は、答えのかわりに、べそをかいた顔をつくった。

「だって、そこは淋しいっていうのに──」

「ぶこなら大丈夫だよ」

「どうして?」

「わたしみたいに一日そんなところへとじこもっていなくたっていいんだもの。ぶこは寝るだけでいいんだもの、平気だよ。モローゾフスキーとトレチャコフスキーをしっかり見るんだって云ってたんじゃないか」

 レーニングラードの冬宮附属に、エカテリナ二世がこしらえたエルミタージ美術館があった。その厖大で趣味のまちまちな蒐集しゅうしゅうをみたら伸子は、純ロシアの絵画ばかりを集めたモスクヷのトレチャコフスキー画廊に愛着をおぼえた。ロシアにおけるフランス近代絵画の優秀なコレクションであるモローゾフスキーの画廊をもう一度見なおしたいとも思った。伸子がそんなことを云っていたのはパンシオン・ソモロフで暮した夏からのことだった。モローゾフスキーには、ピカソの笛吹きをはじめ、青年時代のいくつかの作品やゴーガン、カリエール、ドガ、モネ、マネ、セザンヌなどフランスの印象派画家たちの作品があった。

 フランスの近代絵画の手法と、ロシアのどこまでもリアリスティックな絵画の伝統とは決してとけ合うことない二つの流れとして、ソヴェト絵画の新しい門の前にとどまっているようだった。ちょうど日本から歌舞伎の来ていたころ、プロレタリア美術家団体からフランスへ留学させられていた三人の若い画家の帰朝展がモスクヷで開かれた。パリにおける三年の月日は、ソヴェトから行った若い素朴な三人の才能を四分五裂させてしまっていた。三人の作品は、どれをみても、ソヴェト人にとって、外国絵画のまねなどをしようとしてもはじまらないことだという事実を証拠だてているようだった。画面全体が不確なモティーヴと模倣のために混乱した手法の下におしひしがれ、本人たちが、何をどう描いていいのか、次第にこんぐらがって行った心理の過程がうかがえた。パリへ行ったばかりのときの作品は主として風景で、三人ともロシア人らしい目でありのままに対象を見、しかもにわかに身のまわりに溢れる色彩のゆたかさと雰囲気にはげまされて、面白く親愛な調子を示していた。それが一年目の末、二年と三年めとごたつきかたがひどくなって来て、最後の帰朝記念の作品では、三人が三人ながら、いたずらに何かをつかもうとする苦しい焦燥をあらわしていて、しかもそれができずに途方にくれているのだった。

 このパリ留学失敗展は伸子にいろいろ考えさせた。ソヴェトの新しい芸術はパリへ三年留学するというようなことでは創れない本質をもつものだ。この事実を、ルナチャルスキーとソヴェト画家たちが知ったことにはねうちがあった。学ばれること。模倣されること。ソヴェト独特の絵や文学がそのどっちでもなかったということは、伸子にとって身につまされる実感だった。この発見のなかには、伸子にむかって、それならお前のものはどこに? とひびく声がひそんでいた。ソヴェトの芸術はソヴェト生活そのものの中から。自分としては今のところ、益々ソヴェト生活そのものの中へ、という執拗な欲求の形でしか伸子の答えはないのだった。

 そういうわけで、この冬、伸子はもっぱらトレチャコフスキーやモローゾフスキーを見るにしても──

「どうして、そのノヴォデビーチェ、ことわっちゃいけないの?」

 それは自然な伸子としての疑問だった。

「そんなこと今更できやしないよ。だって、あの連中」

と素子はクワルティーラの番号だけはっきり覚えていて、名を忘れた化学航空組合員夫婦のことを云った。

「わたしがはじめての借りてなんだもの。そのためにデスクとディヴァンを買って入れたんだし、こっちだってそれに対して前払いしたんだから、解約なんてばかばかしいことはできないよ」

 解約すれば一ヵ月の前金は先方にわたすことになっているのだった。

 アストージェンカからノヴォデビーチェ行きの電車にのりながら、伸子は、そういう素子らしい考えかたを滑稽なように、また、いやなように感じた。自分が淋しくていにくいところへ、もっと淋しがりの伸子をやる。前金を無駄するのがばからしいという気持から──。しかし、伸子が行って見る気になったのにはどっちみちどこかへ室がいるのだからという実際の判断とともに、その淋しさというものへの彼女自身のこわいものみたさもあるのだった。

 グーセフというノヴォデビーチェの夫婦には四つばかりの男の子があった。朝、八時すぎに夫婦がそろって出勤してゆく。暫くして、田舎出の女中が、男の子を新開町の中にある托児所へつれて行ってもどって来る。それから伸子が食堂で朝の茶をのみ、午後四時に、また一人で食堂の電燈の下で正餐をたべた。九時に、又同じようにして夜の茶をのむ。毎晩きまってそのあとへ、夫婦がつれだって、ときには集会の討論のつづきの高声でしゃべりながら、帰って来た。グーセフの家では夫婦とも勤めさきで正餐をたべた。

 保健婦であるグーセフの細君は、ルイバコフの細君のように、自分の髪にマルセル・ウェーヴをかけて、女中のニューラに絶えず用をあてがうような趣味をもっていなかった。托児所へ送り迎えをしなければならない小さな子供がいるから女中もおいているという風なグーセフ夫婦は、ひる間女中の時間がすっかりあいているそのことから下宿人をおくことを考えついたらしかった。夫婦は下宿人に対してきわめて淡泊だった。したがって女中の料理の腕についても無関心だった。伸子がどんなに焦げたカツレツを毎日たべ、夜の茶にはどんなにわるい脂でかきまぜた魚とキャベジと人参のつめたい酸づけをたべているかということについても無頓着だった。

 二三日暮らすうちに、グーセフの家のそういう無頓着さは、ほんとにただ無頓着だというだけのもので、むしろ自然な状態なのだということが伸子に会得された。小型なディヴァンも、室の大きさにくらべて異様にちょこんとしたデスクも、グーセフ夫婦にすれば単純に素子と伸子の体の大きさを念頭においてそれらの家具を選んだというのにすぎないらしかった。事実、その極端に小さく見えるディヴァンに伸子がシーツと毛布とをひろげて寝てみれば、それはゆっくりしないまでもさしつかえなく寝床の役に立つのだった。

 グーセフ夫婦は足にあわせて靴の寸法でもはかるように、自分たちからみればずっと小柄な新しい下宿人の寸法に合わせて、清潔な新しい二つの家具を買い入れた。その小型なディヴァンと小型なデスクとが、がらんとしたひろい室にどんな効果をもたらすかということについて夫婦は考えなかった。そこに伸子にとっての苦しいはめがあった。


 むきだしの二つの窓のそとには、十二月下旬の雪が降りしきるノヴォデビーチェのはてしない夜がある。がらんとした室の中に一点きれいな緑色をきらめかせている灯の下で、伸子はデスクに向っていた。せめてデスクにおくスタンドのかさでも気に入ったのにしておちつこうと、伸子はそのシェードをきょうモスクヷの繁栄街であるクズネツキー橋の店から買って来たのだった。伸子は例によって水色不二絹のスモックを着て、絹のうち紐を胸の前にさげている。伸子はこの室へ移って来てから毎日数時間デスクに向ってかけて、そのセメントのにおいとがらんとした室の雰囲気に自分をなじませようと練習しているのだった。

 いまも外では雪の降っている夜の窓に向って、デスクにかけている伸子には、目の前の窓ガラスにうつる緑の灯かげと、その灯かげにてらされて映っている自分の水色のスモックの一部分ばかりが気になった。デスクの上に本と手帳とがひらかれていた。が、それには手がつかない。麻痺するような淋しさだった。なぜこうここは寂しいんだろう。あんまりセメントくさいからだろうか。伸子はしびれるような単調な淋しさにかこまれながらあやしんだ。部屋がガランとしているということが、こんなはげしい淋しさの原因となるものなのだろうか。しかしグーセフ夫婦はあっさりしたいい人間なのだ。伸子は自分をぐっとおちつけようとつとめるのだったが、ちょうど水をたたえた円筒の中でフラフラ底から浮上って来るおもちゃの人形のように、いつの間にか伸子の体も心も、深い寂寥の底から浮きあがって一心に寂しさを思いつめているのだった。淋しさははげしくて、ぬけ道がないのに、奇妙なことにはその淋しさにちっとも悲しさや涙ぐましさがともなっていなかった。伸子を淋しくしているそのがらんとした部屋がそうであるとおり淋しさは隅々まで乾いていて、コンクリートの乾燥してゆくにおいに滲透されているのだった。乾ききって涙ぐみもしない淋しさ。それは伸子にとって勝手のしれない淋しさだった。二つの黒目が淋しさでこりかたまったような視線を窓ガラスに釘づけにしている伸子の髪が、その晩は風変りだった。スタンドのかさを買う道で、伸子はクズネツキー橋の行きつけの理髪店によった。そこは男の理髪師ばかりでやっていて、評判がいいだけにいつもこんでいた。伸子の番がきたとき、年とって肥った理髪師は、ただ刈りあげて、という伸子の註文を、

「毎度こうなんでしょう? あんまり簡単すぎますよ」

と云いながら、白い布でくるまれた伸子の背後で鋏を鳴らした。

「御婦人の髪の毛は、羊の毛とちがいましてね、バーリシュニャー(お嬢さん)ただ刈りさえすればいいってわけのもんじゃありません──まあためしにやらせてごらんなさい」

 肥った理髪師は、体で調子をとりながら次から次へと鏝をとりかえて、伸子の髪にあてて行った。鏡の上に動いている理髪師の白くて丸っこい手もとを見ていても、自分の髪がどんな風にできあがってゆくのか、伸子には見当がつかなかった。

「わたしは、あんまり手のこまない方がいいのよ」

「ハラショー、ハラショー。こわがりなさるな」

 やがて、

「さあすみました! いかがです?」

 闘牛のマンティラでもさばくような派手な手ぶりで、伸子の上半身をすっぽりくるんでいた白い布をとりのけると、肥った理髪師は、ちょっと腰をかがめて、伸子の顔の見えている同じ高さから鏡の中をのぞいた。そして、

「トレ・ビアン!」

 フランス語で自分の腕をほめた。

 鏡の中の伸子は、頭じゅうに泡だつような黒い艷々したカールをのせられているのだった。それは似合わないこともないが、似合いかたに全く性格がなかった。女が、その年ごろや顔だちでただ似合うという平凡な似合いかたにすぎなかった。伸子は、鏡の前へ立ったまま、手をやって、ふくらんでいる捲毛の波をおさえつけるようにした。

「いけません、いけません。そのままで完全です」

 伸子はそんな髪を自分として突飛だと思った。だけれども、女は髪で気がかわると云われるから、もしかしたら淋しさを追っぱらう何かの役に立つかしらと思った。髪は祭のようだったが、伸子が雪の降る夜のガラス窓を見ている眼は黒い二つのボタンのようにゆうべと同じ淋しさで光っている。

 その晩はめずらしく早めに帰って来ていたグーセフの細君が、ノックして伸子の室へ入って来た。

「邪魔してごめんなさい。外套を出さして下さいね」

 一つしかない衣裳箪笥は、伸子のかりている室におかれていた。伸子とおもやいに使う、という約束だったが、伸子は自分のスーツ・ケースをディヴァンの横へ立て、外套は釘にかけていた。いかにも一時的なそういうくらしかたそのものが、なお伸子をそこになじませないのだということを伸子は心づいていなかった。

「あした、わたしどもお客に招かれているんです」

 白木綿のブラウスに黒いスカートのグーセフの細君は、たのしみそうに云って、衣裳箪笥をあけた。そして、その中に彼女のもちものとして一枚かかっていた大きな毛皮外套をとり出した。グーセフの細君は、ハンガーごとその毛皮外套を片手でつり上げ、すこし自分からはなして眺めながら、

「ニェ・プローホ(悪くない)」

と云った。

「わたしに似合いますか?」

 顎の下へその毛皮外套を当てがって伸子の方を向いた。伸子はノックがきこえたとき、ものが手につかず淋しがっている自分をその室の中に見出されるのがせつなくて、さも何かしかけていたようにデスクのまわりに立っていたのだった。伸子は、

「着てみせて」

といった。

「よく似合います」

「よかったこと」

 細君は伸子がひそかに気にしたようには、伸子の髪の変化に注意をはらわず毛皮外套を着ている腕をのばし、厚く折りかえしになっているカフスのところを手で撫でながら、

「モストルグには、もっとずっと上等の毛皮外套が出ていたんです。でも、そういうのはひどくたかいんです」

と云った。

「わたしたちは、当分これで間に合わせることにきめたんです」

「結構だわ。いい外套ですよ」

 グーセフたちは今年の冬は組合住宅へ住むようになった。そして、木綿綾織の裏がついた綿入外套でない毛皮外套を初めて着て夫婦でお客に招かれてゆけるようになった。グーセフの細君の生活のよろこびは、ノヴォデビーチェの新開町そのものに溢れている新生活のよろこびだった。ルイバコフの細君は決して身につけていない飾りけなさで、また遠慮ぶかいルケアーノフの細君にはできないあけっぱなしの単純さで、保健婦グーセフは何と気もちよく彼女たちの生活の向上を伸子にまでつたえるだろう。一面から云えば、この部屋がたえがたくがらんとしているのだって、ソヴェトにおける急速な勤労者生活の向上の結果なのだと思うのだった。

 毛皮外套をかかえてグーセフの細君が出て行ってしまうと、伸子はふたたび、緑色の灯かげが動かないと同じように動かない淋しさにとりまかれた。グーセフの細君には、彼女の下宿人がこんなに、たっぷり空気のある部屋にいて、どうしてそんなに淋しがる必要があるのか、しかも淋しがっていることをどうしてだまってこらえていなければならないのか、それらのことは全然想像もされていないのだった。そして、伸子自身にも、その暖く乾いた淋しさにそれほど苦しみながら、なぜ一日一日を耐えて見ようとして暮しているのか、わかってはいなかった。伸子は、素子が、一ヵ月前払いしているということに呪文をかけられていた。その期限が来るまでは、としらずしらず身動きを失っていて、しかもその状態を自分で心づいていないのだった。



 その年の十二月三十一日の晩、伸子と素子とは大使館の年越しに招かれた。漁業関係の民間の人々などもよばれていて、伸子ははじめてその夜の客たちにまじって麻雀をした。伸子のわきに椅子をもって来てルールや手を教えてくれる財務官の指導で、伸子はゲームに優勝した。

「これだから、素人はこわいというのさ」

 いつもきまった顔ぶれで麻雀をしているらしい大使館の人たちが、勝ったことにびっくりしている伸子をからかって笑った。

「佐々さん、白ばっくれるなんて罪なことだけはしないで下さいね」

「わたし、ほんとに今夜はじめてなのに──。ねえ」

 伸子が上気した顔をふりむけて念をおすのを、素子はわざと、

「わたしはそんなこと知らないよ」

とはぐらかしてタバコをふかした。その夜中に、伸子たちは珍しい日本風の握りずしをたべた。

 一九二九年の元旦、朝の儀式が終ってからまた暫く大使館で遊んで、伸子が素子といっしょにルケアーノフの部屋へかえったのは午後五時ごろだった。

 ひとやすみして、伸子はノヴォデビーチェの自分の部屋へかえろうとしているうちに、胃のあたりがさしこむように痛んで来た。

「あんまり珍しいお鮨をたべたり、麻雀で勝ったりしたバチかしら……」

 冗談のように云いながら、伸子は素子のベッドにあがって、壁へもたれ指さきに力を入れて痛い胃の辺をおした。

「冷えたんだろう」

 素子が、湯タンポをこしらえて来た。

「足をひやしていたんじゃなおりっこない。暫く横になっていた方がいいよ」

 着たまま毛布の下へ入り、湯たんぽを足の先、胃のうしろと、かわりばんこに動かして伸子は体を暖めようとした。

「どこも寒くないのに……」

 痛みはつのって、夜になると、痛いのは胃なのか、それとも体じゅうなのかわからないほどひろがり、激烈になった。伸子は、痛みにたえかねて首をふりながら絶え絶えの泣き声で、

「ねていられない」

とベッドの上におきあがった。腹の中がよじられるように痛み、それにつれて背中じゅうが板のようにこわばった。起きていても苦しく、ねていることもできなかった。伸子はうめきながら素子の手をつかまえて、それを脇腹だの苦痛でゆがんだ顔などにあてながらベッドの上で前へかがみ、うしろにそりした。



 明るすぎる電燈の光が顔の真上からさしている。伸子は、やっときこえる声で、

「まぶしくて」

とつぶやいた。伸子の瞼の上にたたんだハンカチーフのようなものがのせられた。伸子にだけくらやみが与えられた。そのくらやみにもぐっているような伸子の耳のつい近くで絶え間なく話し声がしている。話しているのは女と男とだった。彼等はロシア語でない言葉で話している。ゴットとかゼンとかミットとか。ドイツ語なんだろうか。女は入れ歯をしている。ああいうシュッ、シュッという音は入れ歯をした人間だけが出す音だ。いつまでしゃべるんだろう。もうさっきから無限にずいぶんながくしゃべっている。しゃべりつづけているようだ。伸子は、話し声をうるさく感じながら、同時に胴全体をくるまれたあつい湿布はたしかにいい心持だと思った。しきりに口が乾いた。伸子がそれを訴えるたびに、ふくろをむいて、お獅子にしたミカンが伸子の唇にあてがわれた。ミカンの汁を吸わすのは素子だ。見ないだってそれはわかっている。ミカン──マンダリーン。マンダリーンチク。プーシュキンは、どうしてあんなにたくさん果物の名を並べたんだろう。アナナースとマンダリーン。それを、素子が韻をひろって、雑巾のこまかい縫めのように帳面のケイをさして行く。おかしなの。詩を韻だけで書くなんて──愚劣だ。

 やがて伸子にだけ与えられている暗やみの中で、素子が、ミカンここへおいとくからね、と云った。またあした午後来て見るからね、と云った。そして素子はいなくなった。男の声と女の声との、ごろた石の間をゆくような発音の会話はまだつづいている。


 目をあいて、伸子は自分のおかれている病室の早い朝の光景を見た。同時にはげしい脇腹の痛みを感じた。ベッドのわきの小テーブルの上にあるベルを鳴らして便器をもらった。雑仕婦が用のすんだ便器をもって病室を出てゆくと、隣りのベッドの上に起きあがっていた中年の女が、

「こういうところで、ものをたのむときにはブッチェ・ドーブルイ(すみませんが)といった方がいいんですよ」

と教えた。

「あのひとたちはみんな忙しいんですからね」

「ありがとう」

 ブッチェ・ドーブルイと云うとき、女の声は入れ歯の声だった。伸子はゆうべのまぶしさとうるささとがこんがらかっていた気持を夢のような感じで思いだした。

 素子が午後になって来た。

 伸子の運びこまれたのはモスクヷ大学の附属病院だった。面会時間が午後の二時から四時までだった。伸子の胆嚢と肝臓とが急性の炎症をおこしているのだそうだった。

「胆嚢って、ロシア語で何ていうの」

「ジョールチヌイ・プズィリだよ」

「ふーん。ジョールチヌイ・プズィリ?」

「たって来る前、ぶこ、胃痙攣けいれんみたいだったことがあったろう、あのときから少々あやしかったらしいね」

「どうして、炎症をおこしたの?」

「わからないとさ、まだ」

 全身こわばって身うごきの出来ない伸子は、二つの重ねた白い枕の上に断髪の頭をおいたまま、苦痛のある患者につきものの鈍い冷淡なような眼つきで、フロムゴリド教授をじろじろ観察した。フロムゴリド教授は、何てごしごし洗った、うす赤い手をしているんだろう。その手を、白い診察衣の膝に四角四面において、鼻眼鏡をかけて、シングルの高いカラーに黒ネクタイをつけ、ぴんからきりまでドイツ風だ。フロムゴリド教授は、その上に鼻眼鏡ののっている高い鼻をもち、卵形にぬけ上った額を少し傾けて、

「まだ痛みますか?」

と、伸子の手をとり、脈をかぞえた。その声は権威のある鼻声だった。

「ひどく痛みます」

「お正月に酒をのみましたか?」

「いいえ、一滴も」

「家族の誰か、癌をわずらっていますか」

「いいえ、誰も」

「ハラショー」

 フロムゴリド教授は椅子から立ち上って、伸子に、

「じきましになりますよ」

と云い、わきに立っていた助手のボリスにダワイ何とかとロシア語にドイツ語をまぜて指図した。

 伸子は、一日に二度湿布をとりかえられ、湯たんぽを二つあてて仰向きにベッドに横たわっている。となりのベッドにいる女は糖尿病患者だった。肉の小さいかたまりが食事に運ばれて来たとき、その女は、ベッドに半分起き上って、皿の上のその肉をフォークでつついてころがしながら、

「肉のこんな切れっぱじ!──どこから滋養をとるんだろう」

 憎々しげに云った。それはやっぱり入れ歯をしている声だった。アトクーダ・ウジャーチ・シールィ?(どこから力をとるんだろう)ウジャーチという言葉には奪うという意味がある。どこから力を奪う──生きるために。──そこには憎悪がある。

 伸子は、ボリスと二人の看護婦におさえつけられて、ゴム管をのみこまされた。そのゴム管のさきに、穴のある大豆ぐらいの金の玉がついていた。伸子の口から垂れた細いゴム管の先は、ベッドの横の床におかれたジョッキのようなガラスのメートル・グラスの中に垂れている。そのゴム管はゾンデとよばれた。三時間、ゴム管を口からたらしていても、床の上におかれたジョッキには一滴の胆汁もしたたりおちなかった。

 伸子ののむ粉薬は白くてベラ・ドンナという名だった。紙袋の上に紫インクでそうかいてある。ベラ・ドンナ。それは美人ということだった。


 四五日たつうちに、伸子の体じゅうの痛みがおちついて来た。まず背中がらくになった。それから、鈍痛が右の脇腹だけに範囲をちぢめた。仰向いたまま少し身動きができるようになった。少くとも腕と首だけは苦しさなしにうごかせるようになってきた。そして、伸子に普通の声がもどり、生活に一日の脈絡がよみがえりはじめた。

 モスクヷ大学附属のその内科病室は、厳冬マローズの郊外の雪のなかに建っていて、風のない冬の雪明りが、病室にも廊下にも、やがて伸子が治療のためゆっくり熱い湯につかっているようになった浴室のなかにも溢れていた。壁の白さ、敷布の白さ、着ている病衣の白さは、透明な雪明りのうちに物質の重さを感じさせ、そこに生活の実感があった。自分で計画したり、判断したり行動したりする必要がなくなって、人々の動くのを眺め、人々に何かしてもらい、生活をこれまでとまったく別の角度から眺めるのは何とものめずらしいだろう。

 はげしい苦痛が去るとともに、伸子が臥ていながらときどき雪明りそのもののようにすきとおったよろこびを体の中に感じるようになった。鈍く重く痛い右脇腹は別として。──胆嚢や肝臓の炎症が病名であり、伸子はその一撃でねこんだのだけれども、生活の微妙なリズムは、病気そのもののためよりもむしろ伸子の生の転調のために、そういう病気を必要としたかのようだった。モスクヷへ来てから、とりわけ去年の夏保が自殺してからというもの、伸子の生存感はつよく緊張しつづけていた。ノヴォデビーチェのあのコンクリートの乾いてゆくにおいのきつい、淋しい室で、伸子がこりかたまったようにその淋しさとむかいあって暮した一週間。伸子にめずらしいあの方策なしの状態に、もう彼女の病気のきざしがあったかもしれず、もしかしたら、あの建物の生がわきのコンクリートが暖められるにつれて発散させていたガスが、伸子の肝臓に有害だったのかもしれなかった。しかし、伸子には病気の原因や理由をやかましく詮索するような感情がなかった。伸子は内臓におこった炎症の一撃でたおれた自分の状態をおとなしく、すらりとうけとった。

 ゾンデをのまなければならないとき、伸子は両眼から涙をこぼし仔猫のようにはきかけた。マグネシュームをのみ、ひどい下剤を与えられるとき、伸子は猛烈な騒々しさといそがしさのあげくにぐったりした。黒いレザーをはった台の上に横たえられ、皮膚の白いすべすべした伸子の胴がはだかにされることがある。その右脇腹へフランネルの布の上からすず板があてがわれ、電気のコードが接続された。物療科の医師の白上っぱりが配電板のうしろへまわると、きまって、伸子が仰向いたまま配電板の方へこわそうに横目をつかってたのんだ。

「パジャーリスタ・チューチ・チューチ。ハラショー?(どうか、少しずつ。いいですか)」

 そのほかのとき、伸子は明るく透明な雪明りに澄んだような気分ですごした。右の脇腹の中に黒くて柔くて重たいものがあって寝台から動けない、そのためになおさら心は安定をもって、ひろびろとただよい雪明りとともにあるようだった。伸子は、非常にゆっくり恢復の方へ向って行った。病気の原因はわからないまま。そして、規則正しくて単調な朝と夜との反復の間に、いつか伸子の心から、保が死んで以来の緊張がゆるめられて行った。その全過程について伸子が心づかないでいるうちに。保が死んだとき、八月のゼラニウムが濃い桃色の花を咲かせているパンシオン・ソモロフの窓ぎわで、懇篤なヴェルデル博士が、蒼ざめている伸子の手をとって、あなたはまだ若い、生きぬけられます(モージュノ・ペレジワーチ)と云った。いまこそ、伸子は生きぬけつつあった、突然な病気という変則な大休止の時期をとおして。


 モスクヷ大学の病院には一等二等三等という区別がなかった。伸子のいるのは、内科の婦人ばかりの病棟で廊下のつきあたりに三十ばかりベッドの並んだ広い病室が二つあり、その手前に、四つばかりの小病室が並んでいた。小病室には二つずつ寝台があって、病気の重いものがそこへ入れられた。けれども、小病室があいていて一人を希望すれば、伸子がそうしているように、室代を倍払うだけで一人部屋にもなった。糖尿病の患者の女が退院すると、その女のいたベッドは伸子のとなりからもち去られ、大きい長椅子がもちこまれた。

 素子が、その長椅子に脚をまげてのっていた。面会時間で、伸子がねているベッドの裾の方のあけはなしたドアのそとの廊下を、毛糸のショールを頭からかぶった年よりの女が籠を下げ、子供をつれて大病室の方へゆくのなどが見られた。モスクヷでは病院でも産院でも、原則として外から患者へ食べものをもちこむことは禁じられていた。

「考えてもごらんなさい。肉やジャム入りの揚饅頭が、胃の潰瘍にどんな作用をするか。しかも多勢の中にはそれさえたべたら病気がなおるとかたく信じている患者がいるんです」

 助手のボリスはそう云って笑った。素子は、伸子の正餐のためにルケアーノフのところから鶏のスープと鶏のひき肉の料理とキセリ(果汁で味をつけた薄いジェリーのようなもの)を運ばせる許可を得た。それは、アルミニュームの重ね鍋に入れられ、ナプキンで包まれて、毎日きちんと四時半に、届けられた。

「ぶこちゃんが病気したおかげで、わたしもルケアーノフで正餐がたべられるようになったよ」

 伸子のためにもって来たミカンを自分もたべようとしてむきながら、素子はわざと意地わるに云った。

「おかげで、スープをとったかすの鶏のカツレツばっかりたべさせられてる」

 伸子は、枕の上にひろげて頭にかぶっている白い毛糸レースのショールの中で笑った。

「大丈夫よ。わたしはまだ濃いスープはだめなんだから、かすになりきっちゃいないわよ」

 その年の冬は厳冬の季節がきびしくて、モスクヷで零下二五度という日があった。電車もとまった。伸子の病室の雪明りはその明るさに青味がかったかげをそえた。頭の上の二重窓の内側のガラスの隅にかけたところがあって、その小さい破れからきびしい冷気が頭痛をおこすほどしみて来た。その日伸子は湯あがりにつかう大きなタオルを頭からかぶって暮した。翌日素子にもって来てもらってそれから、ずっと伸子がかぶってねている白い羊毛レースのショールは、ヴォルガ沿岸のヴィヤトカ村の名物だった。去年の秋伸子と素子が遊覧船でヴォルガ河をスターリングラードまで下ったとき、ヴィヤトカの船つき場をちょっと登ったいら草原のようなところで、三四人の婆さんがショールを売っていた。雨が降ったらひどくぬかるみそうな赭土が晴れた秋空の下ででこぼこにかたまっていて、船つき場から村へ通じる棧道がヴォルガの高い石崖に沿ってのぼっていた。船から見物にあがって来た群集がショール売りの婆さんのまわりに群れていた。そのひとかたまりの群集も、口々にがやがや云っている彼等のまとまりのない人声も、みんなひろいヴォルガの水の面と高い九月の空に吸いこまれて、群集は小さく、声々はやかましいくせに河と空とに消されて静かだった。伸子が買ったヴィヤトカ・ショールはあんまり上等の品でなかったから、そうして枕の上でかぶっていても頬にさわるとチクついた。

 ノヴォデビーチェの部屋は解約した。伸子の容態に見とおしがついたから、東京の佐々の家へ大体の報告をかいてやったことなどを素子は話した。

「どうもありがとう。いまにわたしも書くわ」

「おいおいでいいさ。いずれぶこちゃん自身で書くがと云っておいたから。──ノヴォデビーチェじゃびっくりしていたよ、ぶこが入院したと云ったら。お大事にってさ」

「──あの犬の箱みたいなディヴァン、まだやっぱりあの壁のところにあった?」

「あったさ」

 素子は、ちょっと寂しい室内の光景を思い浮べる表情をした。

「──あすこは妙なところだったね」

 そこへ伸子一人をやったことをいくらか気の毒に思う目つきで早口に云った。そして、

「きょうは、すこし早めにひきあげるよ」

と、腕時計を見た。

「河井さんの奥さんとスケートに行く約束してあるから」

「そりゃいいわ。是非おやんなさいよ、奥さんはすべれるの?」

「四年めだっていうんだから、すこしゃすべれるんだろう」

 二人のスケート靴を買ったばかりで伸子は入院してしまったのだった。

「はじめ眼鏡はずして練習しないとだめよ、きっと。ころぶのをこわがってるといつまでもうまくなれないから。──どこでやるの?」

「どっか大使館の近くにあるんだとさ、専用のスケート場が……」

「──そんなところでないとこでやればいいのに……」

 伸子はいかにも不服げな声を出した。専用スケート場と云えば、リンクのまわりが板囲いか何かで、一般のモスクヷ人は入れないにちがいなかった。

「いっそモスクヷ河ででもやればいいのに」

 快活な冬のスポーツにさえ、専用のかこった場所をもっている外交官生活というものが、モスクヷという場所柄伸子にはひときわ普通でなく感じられた。伸子は、自分がこうやってねている病院が、あたりまえの大学附属病院で、いろんな女が入院しているのをよかったと思った。しかし素子は専用スケート・リンクというものについて伸子が感じるようには感じないらしく、

「いいのさ、はじめのうちはどうせころがり専門なんだから」

 日本人同士の方が気がおけなくていい、という風に云った。伸子は白い毛糸レースのショールをかぶった枕の上から、長椅子の上に脚を折りまげている素子を、じっと、やぶにらみのような眼つきで見た。伸子は、ねたきりの自分と丈夫な素子とがその瞬間すれ違ったことを感じたのだった。

 素子が帰ってからも、伸子は長椅子の肱かけのところに置きわすれられたミカンの黄色い皮を眺めながら、そのことを考えた。自分は身動きもろくにできず日に幾度かとってのぐらつくところをガーゼで巻いてあるベルをふって雑仕婦をよび、糖尿病患者のユダヤの女に教えられたとおりブッチェ・ドーブルイと云って用を足してもらっている。けれども、ここはロシアの人たちの病院だった。その二十四時間にはソヴェト式のやりかたとロシア固有のこころもちとが濃厚にまざっていて、伸子はねていながら病気のために一層ふかくロシアの人々のなかにはまりこんだ生活を感じていた。健康で大学に通っている素子の方が、スケートをはじめ、そのスケートがきっかけとなって大使館専用のスケート場へ行く。そして、ソヴェトの生活について、いつも必ず一定の距離をおき、それに感動しないということを外交官というものの特質のようにしている人々の雰囲気にふれてゆく。伸子には、そこにわりきれない心持がわくのだった。伸子自身、大使館で夜をふかすことがあったのだし、こんど急な病気で半分意識が朦朧もうろうとしたとき、フロムゴリド博士をよび、自動車をまわして入院させてくれたのは、大使館の河井夫妻の親切であった。そういう個人的なつき合いが深まりそうになるごとに、伸子の心の隅にはソヴェトにおける日本の外交官というものの伸子にとっても信頼しきれない性質が思い浮んだ。そして伸子は神経質になるのだった。けれども素子には、真実な感情を表明しないことがその根本態度であるような大使館の雰囲気はそれとして、つき合ってゆけるらしかった。素子には、同時にたちのちがう二様の世界へ触れてゆくことが可能であるらしかった。駒沢で暮していたころ、素子は伸子よりずっと先に唯物史観の本をよみながら、同じときに京都へかえれば祇園のおつまはんとの全く伝統的な花街のつき合いをしていたように。伸子にはそういう風な気持の融通がなかった。

 スケートをはじめてはいて、一歩あるこうとしては尻もちをつくユーモラスな姿を、どうして素子はロシアの人に見られるのがいやなのだろう。きっとそのスケート場にいる誰かが女か男かが、尻もちをつく素子のそばへ笑いながらやって来て、すべれるこつを教えてくれるだろうのに。ころぶのをロシアの人に見られたくないという素子の気分は、伸子に、いつか、素子が彼女をキタヤンキ!(支那女)とからかった物売女の頬にものも云わず平手うちを加えた感情の激発を思いおこさせた。

 思ってみれば素子も一年のモスクヷぐらしで、生活上のいろいろの細目は加えたけれども、本質的な心もちの動きかたには、何とかわりがないだろう。大きいソヴェト生活のうねりに向ってさえも、素子は何かにつけ自分の自分らしさでうち向って行くようなのを思うと伸子は苦しくなった。

 伸子はかすかに身じろぎをした。そして頬の下へ枕をたぐりよせ、その柔かい羽根のなかへきつく顔をおしつけた。伸子はモスクヷの生活の中へ自分を忘れることを欲するのだった。


十一


 澄みわたった二月の午後の雪明りが真白な狭い浴室の隅から隅までさしこんでいる。タイルばりの床の上に、車輪付椅子があって、その上に伸子のぬいだ病衣や毛布がたぐめられてある。浴槽には熱いめの湯がたっぷりたたえられていて、その湯のなかに沈んでいる伸子の体は、病人と思えないほど快い桜色だった。胆嚢や肝臓の炎症にかかわらず伸子は黄疸の気味もなかった。すこしのびた断髪のぼんのくぼの毛がぬれるほど伸子はゆったり手脚をのばして湯につかっている。明るい雪あかりは白い浴槽のふちに輝き、短く湯気のたっている湯がほんのり赤い伸子の体の上におこす波だちの上にきらめき、ナターシャの糊のきつい白前掛の膝に流れている。

 ナターシャは、ちぢれた艷のいい栗色の髪を真白なプラトークでつつんで、白い看護服の首のところから洗いたての白前掛をかけ、肱の上まで両腕をむき出している。小さい円腰かけにかけたナターシャは気持よさそうに窓外の雪景色を眺めている。そうしていながらときどき、雪あかりをいっぱいうけて湯の中に横たわっている伸子の暖かそうな肌色の体に目をやり、また外を見ている。ナターシャの頬っぺたの色は日に日に熟して行くすももの色をしていた。ごみのない澄んだ雪あかりと白いプラトークや看護服のなかで、ナターシャのすもも色の若い頬っぺたは、びっくりするほどの生活力にあふれている。遠いそとの雪景色を見ている彼女のすももの頬っぺたの横顔やおなかのところで白い大前掛のもりあがっている若い丈夫なからだつきには、強壮さといっしょにどこか真面目な重々しさがある。ナターシャは姙娠七ヵ月になろうとしているところだった。

 額ぎわに汗ばんで来た伸子は、汗のつぶが流れるようになるまで漬っていて、ナターシャの腕につかまりながら湯ぶねの中に立ちあがった。伸子が、左脚に重心をおいて、ナターシャの腕につかまり、まだ足のつけない右脇をかばって立っているうちに、ナターシャはタオルで伸子のぬれて湯気のたつ体をつつみ、きつくこすった。自分も片手をうごかして拭きながら伸子がきいた。

「ナターシャ、数学の課題、どうなって? すんだ?」

 その日ナターシャは午前の休息時間じゅう、微分の宿題ととっくんでいた。ナターシャの踵へ重みのかかった歩き姿をちっとも見かけないので、伸子が年とった雑仕婦の一人に、

「ナターシャ、きょうは休んだの」ときいたら、

「来ていますよ。──彼女は一生懸命数学の勉強しているんです」

 そして、片手のひらを皺のよった頬にあてて同情するように頭をふった。

「課題は彼女にとってやさしくないんです」

 ナターシャは第二モスクヷ大学の医科のラブ・ファク(労働者科)の学生なのだった。

 伸子の頭から新しい病衣を着せかけながらナターシャは、

「どうやらこうやらね」

と答えた。

「できないのが一題あるけれど、それはかまわないんです」

「あなたお風呂へ入ってからいつも学校へ行くけれど、それで風邪をひかないの」

「いいえ。お風呂はわたしのためにいいんです」

 伸子の治療のため、毎日午後湯がわかされるようになってから姙娠七ヵ月の彼女は医局から許可されて、伸子のあと自分も入浴するようになった。それから正餐をすませ、彼女は晩の六時から十一時まで大学へ通って勉強している。

 湯あがりの伸子がすき間風にあたらないように、ショールと毛布ですっかりくるんで、ナターシャは車椅子を押し、病室へもどった。いない間に病室のドアのすきから病棟に飼われている猫が入って来ていた。猫は枕もとのテーブルの上へのり、おとなしく、しかも熱中した様子で、テーブルの上にあるアスパラガスに似た鉢植の房々した青い葉っぱを引っぱってはたべている。伸子は猫にかまわず器用に車椅子からベッドへ移って横たわった。

「ああ、いい気持。ナターシャ、こんどはあなたの番よ」

「ハラショー」

 入院して一ヵ月以上たったこのごろ伸子とナターシャとの間には、看護婦と患者とのありふれた交渉より、もうすこし友情に近い感情がうまれていた。その感情は、ナターシャの側ではごく淡白なもので、むしろ伸子のこころもちが、身重なナターシャの一挙一動に関心をそそられている状態だった。伸子のその感情は、はじめまるで逆なきっかけから成長した。

 入院して五日ばかりたったとき、フロムゴリド教授が、伸子に治療として毎日の入浴を命じた。その午後、車椅子をころがして、

「お風呂へ行きましょう」

と病室へ入って来たのが、いま思えばナターシャであった。痛さでくたびれ、ぼんやりしている伸子の視線に、入ってきた赤い頬っぺたの若い看護婦のおなかがかなり大きいのがうつった。伸子はその看護婦に扶けられて、どうやらベッドから両脚をおろした。が、痛みでどこもかしこもこわばっている体ではどうしてもベッドから車椅子に乗りうつる一つ二つの身ごなしがままにならなかった。身重の若い看護婦は赤い頬をなお赤くして、両腕で動けない伸子の体を車椅子へひっぱり乗せようとするが、二人ともが似たりよったりの背たけしかなく、その二人が、めいめいの体にいたわらなければならないところをもっているので、伸子と看護婦とは、からまり合ってよちよちするばかりだった。二つの体が不器用にぶつかってよろけるたびに、車椅子は正直その輪の上でころがって、あとじさりする。伸子は二度三度やってみて、こらえられない痛さから癇をたてた。

「やめましょう」

 泣き声をだした。

「わたしたち、どっちの力もたりないんだもの」

 翌朝助手のボリスが回診に来て、入浴の工合をきいたとき、伸子は、

「看護婦は来てくれましたけれど、彼女は姙娠しているんです。彼女のためにすけてがいるぐらいなのに、どうして、動けない私が運べるでしょう」

 そういう体の看護婦に力仕事を命じたことは不当であるという不満を、はっきり声にあらわして云った。伸子のベッドに向って腰かけているボリスのよこに、当の看護婦が伸子のカルテをもって立っていた。またふたたび、伸子にとってもその看護婦にとっても不便なくりかえしが起らないようにと、伸子はその看護婦がそこにいるのを知って云ったのだった。

 背が高くて、薄色の髪と瞳をもっているボリスは黙って伸子の訴えをきいていたが、訴えそのものには答えず、診察を終ると平静な口調で、

「まだ動くのには早すぎたかもしれないですね。まあ、ゆっくりやりましょう」

 そう云って、全く自然な様子で病室を出て行った。伸子の非難をふくんだ訴えを聞かなかったと同様に。カルテをもった看護婦も同様だった。まるで自分の状態については、何の不満もあるべきようがないというあっさりした感じで出て行った。

 彼等のあんまり自然なあたりまえらしさが伸子をおどろかせ、ついで反省をひきおこした。モスクヷでは、身重の看護婦がいるということは、或る場合あたりまえのことであったのだ。身重になった看護婦が、一つ病院の中でそういう体で大して無理のない部署へまわり、出産休暇まで勤務をつづけるのは、思ってみればあたりまえのことだった。ソヴェトでは働くすべての女が、姙娠して五ヵ月以後になったとき馘首かくしゅされることは絶対に禁じられていたから。馘首によって、彼女と赤坊がうけられる四ヵ月の有給休暇や産院の保障、哺育補助費などが奪われることがあってはならないから。

 ソヴェトのそういう女の勤労条件を、伸子はパンフレットでよんで知っていたはずだった。産院だの托児所だのも見学していた。だのに、そういう条件が当然病院の中の看護婦にもあてはめられるという現実をのみこまなかった自分におどろいた。痛い脇腹からしぼり出された伸子の、身もちの看護婦! という何か場ちがいなものに出会ったような感情は、ボリスやあの看護婦の知らない、しかし伸子はその中に生きて自分もそれに苦しまされて来た旧い社会での感じかただった。金をはらって入院している患者が、その金に対して、病院や看護婦に或る程度要求することが慣習になっている社会でのエゴイズムがほとばしり出たと伸子は心づいた。伸子がいままで経験して来た病院というところは、そこで病人がたかい金をとられ、医療に対する漠然とした不信用になやみつつ、自分の病を癒すことに懸命なところだった。モスクヷで病院は、患者が組合だの医療保険だのに後だてされながら病気を治療される場所であると同時に、そこで働いている健康な若い女である看護婦が、首からかけた白い大前垂の下に円く大きいおなかを公然と運び、踵へ重心をおいた歩きつきで、ゆったり働いていていいところでもあるのだった。

 この発見は、伸子に、自分の住んで来た社会がどんなに思いやりがないかを思いしらせるといっしょに、驚くばかりの新鮮さで「よそとはちがうソヴェトの生きかた」を伸子の女の感覚に訴えた。

 伸子は、身持ちのナターシャに絶大の注意をむけはじめた。

 伸子の入院している婦人ばかりの病棟では六人の看護婦が二十四時間を八時間制の三交代で勤務していた。看護婦が、乳母という意味ももつニャーニャという言葉でよばれているのは、いかにもロシア風な人なつこさだった。また、ニャーニャという昔ながらのよび名が彼女たちの実際にもふさわしかった。というのは六人の看護婦のうち、いくらかでも系統だった医学の知識をもっているのは身もちのナターシャだけで、あとの五人はどれも年とった女たちで、親切と辛抱づよさと看病の経験をもっているだけの、よその国でいう雑仕婦だった。

 朝の掃除の時間に、ナターシャが押し棒の先に濡雑巾のついた掃除道具をもって廊下から入って来るのを見ると、伸子は活気づいた。背の低いがんじょうづくりのナターシャは、艷のいい栗色のちぢれ毛と、そのちぢれ毛に似合った大きくていくらか動物的で勝気らしい眼をもっている。ナターシャは、ゆっくり丁寧ていねいに長椅子の下からベッドのかげにまで濡雑巾をかけた。どういう仕事をするときでもナターシャはいそがない。円くて重いおなかが全身にもとめている安定をみだすことのないゆっくりさで、着実に動いている。

 伸子は枕の上からナターシャの動作を目で追った。身もちの彼女の動きがひとりでの慎重さで統制されていることから、伸子はいかにもはじめて母になろうとしているナターシャの若々しさと、赤坊へのかわゆさと夫をこめた自分たちの生存全体へのまじめな評価を感じとった。伸子は、ゆっくり働いているナターシャに向ってねている病人がベッドからものをいう声の調子で訊いた。

「ナターシャ、あなたの旦那さんはどこに勤めているの?」

「彼は学生です。国立音楽学校の声楽科で、バリトーンです」

 医科大学の労働者科(ラブ・ファク)に通っている若い身もちの看護婦の夫は、音楽学校の生徒でバリトーン歌手である。そのことを、ナターシャは、ソヴェト以外の国できくことのできない何の不思議もなさで答えた。

「じゃあ、あなたも音楽は好きね」

「オペラや音楽学校の演奏会の切符は決して無駄にしたことがないんです」

 また別の日。ナターシャは掃除を終って、ガラスの吸いのみの水を伸子の枕もとのアスパラガスに似た鉢植に注いでいる。片手の甲でテーブルへのっかって来ている白と黒とのぶち猫の顔をよこへむけながら、伸子がいう。

「その猫、どうしてこう青いものがすきなんだろう」

「さあ。彼女にはリンゴがないからでしょう」

 新しい野菜のない冬の間じゅう、モスクヷの人たちは、ほんとにリンゴやミカンをよくたべる。伸子も毎日ミカンをかかさなかった。

 伸子は、いきなり話題をとばして、

「ナターシャ、ラブ・ファク(労働者科)はもうあと何年ですむの?」

ときいた。

「今二年めです。だから、あともう一年です」

「女の学生、何人ぐらい居て?」

「少ないんです。──たった九人」

 ナターシャは看護婦というよりも大学生らしい眼くばりになって云った。

「わたしたちのところでは、一般に云ってまだ婦人がおくれているんです。生産面に働いている勤労婦人の間でも、高い技術水準をもっている女はすくないんです。それにラブ・ファクは昼間働いてからですからね。学課だってかなり骨が折れるし、女はやり通せない場合もあるんです。家庭をもったり、赤坊がいたりすると」

「あなたはどうなの? 自信がある? その体で昼間働いて、夜勉強する、つらいことがあるでしょう?」

「ニーチェヴォ」

 ほんとに、何でもないという調子でナターシャは、むき出しの腕でちょいと顎をこすった。

「ラブ・ファクではほんとに勉強したいと思っているものだけが勉強しているんです。ただ、ときどき、眠いことったら! どうしたって目のあいてないことがあるんです。並んで順ぐり居睡りしているかっこうったら! オイ!」

 ナターシャはたまらなさそうにふき出した。

「でも、みんないい青年たちなんです。ラブ・ファクには、全国で五万人ぐらいの若者が勉強しています。ルナチャルスキーが云っていたでしょう、『ソヴェトにとって最も必要なのは今ラブ・ファクで困難にうちかちつつ学んでいる者たちだ』って」

 ナターシャは何でもない時間に、ふっと入って来ることがあった。

「かけてもいいですか」

「どうぞ」

 長椅子にかけて、ナターシャは前かけのポケットからリンゴをとり出し、いい音をたててそれを丸かじりし、五分ばかり休んで出て行く。

 ナターシャの勤務ぶりをつくづく眺めていて、伸子は心から、公然たる結婚、公然たる姙娠というものの本質がわかって来るように感じた。

 伸子が女としてこれまで知って来た社会ではどこでも、公然たる結婚ということを結婚の儀式の手落ちない運びかたとか、さもなければ法律上の手続の完了──入籍したかしないかという点などから云っていた。こそこそしたことのきらいな生れつきの伸子は、その意味では佃と公然と結婚したのであったし、同じ意味での公然さで離婚した。

 だけれども。──伸子は、ナターシャが彼女の職業と結婚、姙娠、赤坊の誕生についてもっている全く社会的な公然性を、自分の経験したみせかけばかりの公然さとくらべて見ないではいられなかった。伸子が女として生きて来た社会では、自分の意志で選んだ対手と生活しようときめた若い女に対してはそのはらのなかまで詮索ごのみの目を届かせずにはおかないほどだのに、いざというとき、みずからが要求したその結婚の公然性に対して、社会は何の保障らしいものを提供しただろう。

 伸子は、そういう社会に行われていて人のあやしまない虚偽におどろきを深めながら、佃と離婚しようときめたときの自分の困惑と動顛の感情を思い出した。伸子は、そのときになるまで日本の民法では女が結婚すると法律上の人格をうしなって無能力者にならなければならないという事実を知っていなかった。互にとって苦しい五年の生活のあげく、伸子は離婚するしかないときめて、その法律上の手続きを調べようと六法全書をあけてみたら、婚姻の項に、その法文を発見したのだった。そのとき伸子はもうずっと佃の家からはなれ、動坂の生家にいた。父親のデスクの前にたって六法全書のその頁をひらいたまま、ほんとにあのときは体も頭も一時にしびれてゆくようだった。佃はこの法律を知っているだろうか。伸子は恐怖の稲妻の下でそう思った。妻という立場の自分からは離婚もできないのだろうか。伸子は毛穴から脂をしぼられるような苦悩で、夫は妻に同居を要求する権利がある、という文句や夫の許可なくして妻が行うことのできない様々の行為をよみ、やっと協議離婚ということは、妻からも求めることができるとわかったとき。これで救われたと思った次の瞬間、伸子は一層残酷な恐怖にとらわれた。もし佃が、協議離婚をうけつけなかった場合はどうしよう。いつもの彼の云いかたで、それは伸子の望むことであるかもしれないが自分としては考えられもしないことだ、僕の愛は永久に変らない、と云って、その手続のためになくてはならない署名や捺印を拒んだら。──それは佃がしようと思えば夫としてする権利のある復讐なのだった。

 うしろの往来では十一月の北風に砂塵がまきあげられている代書人の店先の土間の椅子にかけて、協議離婚の書式がげびた代書人の筆蹟でかかれてゆくのを、くい入る視線で見つめていた自分のコートを着た姿。やがて、佃の本籍地の役場で離婚手続きはされなければならないとわかったときの新しい不安。──ヴィヤトカ・レースのショールをかぶって、雪明りのさしている静かな病室に横たわりながら、あの暗澹としたこころもちを思い出すにつれ、伸子は、女だけがあれほどの恐怖をくぐって生きなければならない社会で、結婚の公然性など、いうも偽善だと思った。

 ナターシャは美しい。若い強壮な動物がはらんでいるような荘重な純潔な美しさにみちている。そのような彼女の美しさは、ナターシャが彼女の現在あるすべての条件において公然と存在しているからこそ、日ましにはたん杏色の濃くなる彼女の頬の上に、日ましにふくらむ看護婦の白前垂の上に輝き出ているのだ。病室へ来て、赤い頬やエプロンの上に澄んだ雪あかりをちらつかせながら無心に何かしているナターシャを眺めていて、伸子はもうすこしで、

「あなたがたにとってソヴェト権力がどういうものだかということはほんとによくわかるわ」

と云いたくなることがあった。そんなとき伸子は黙ったまま白いショールと白い枕との間で、東洋風な一重瞼の黒い眼をしばたたきながら辛辣に考えるのだった。妻であった五年の間に、日本の権力が伸子の公然たる結婚に対して与えたものは、いくばくのものであったろうか、と。妻になったということで法律上の人格がうばわれたほかに、伸子のうけた社会的存在のしるしは、佃の月給に二十五円ずつ加えられていた家族手当と、年に四俵か五俵、独身者よりもよけいに学校からわけられる炭俵だけだった、と。


十二


 葡萄の房でも眺めるように、伸子は枕に仰向いている顔の上へ両手で一対の耳飾りをつまみあげて見ていた。ちょうど伸子の小指のさきほどある紫水晶が金台の上にぷっちりとのっていて、その紫からしたたりおちたひとしずくの露という風情に小粒なダイアモンドがあしらわれている。大きな紫水晶の粒は非常に純粋で、伸子のベッドの頭の方からさしこんでいる雪明りに透かすと、美しい葡萄の実のように重みのある濃い暗紅の光を閃かせている。

 いかにもモスクヷの富裕な商人の妻の耳につけられたものらしい趣味のその耳飾りは、伸子の誕生日の祝いに、素子が買って来てくれたものだった。そのままでは伸子に使いようがないから、二つの耳飾りを一つにつないでブローチにこしらえ直すという素子の計画だった。その前に、ひとめみせてと、きょうが誕生日であるきのう、素子が置いて行ったのだった。

 紫水晶の重いあつかいかたはロシア風で、伸子はそれがブローチになったとしても紫水晶の重さにふさわしい豊満な胸が自分にはないと思った。二月の生れ月の宝石は紫水晶だからと、素子はその耳飾りを見つけて来てくれた。そして、伸子はよろこんだ。けれども、それはむしろ素子の心くばりに対して示されたよろこびというのがふさわしかった。伸子は、白い紙包みがあけられて、なかからその一対の耳飾りがあらわれたとき、宝石のきれいさに目をみはったと同時に心の奥には一種の衝撃を感じた。どこからみても新品でないその耳飾りは、それだからこそ金目と手間をおしまないいい細工なのだが、このことは伸子に刺すような鋭さで革命の時期を思わせた。はじめこれをこしらえさせて持っていた富裕な女の手からはなれて、この耳飾りが今計らず素子に買われるまで、どのくらい転々としたことだろう。どんな指が、富を表象するこの耳飾りをつかみ、そして離して来ただろう。

 伸子のほんとの好みは、その純粋な美しさをたのしむ宝石のようなものこそ、新しくて、人の慾や恨みや涙にくもらされていないことが条件だった。新しくて美しい宝石が買えないのなら、伸子は全然買おうという気さえおこさなかったろう。でも、素子は買った。大病をしている伸子を慰めようとして。──

 紫水晶の大きな粒にあたる光線の角度をほんの少しずつ変えながら濃紫色の見事な色を眺めているうちに、伸子は、露のしずくのようにあしらわれているダイアモンドがちっとも燦かないのを発見した。露は紫水晶からしたたって繊細な金の座金の上にとまったまま、白く鉱物性の光をたたえているだけだった。多計代の指にいつもはめられていた指環のダイアモンドが放ったような高貴なつよい冷たい焔のようなきらめきは射ださない。ウラル・ダイアと云われているダイアモンドの種類があったことを伸子は思い出した。それはアフリカから出るダイアモンドより質が劣っていると云われた。そんな話を、伸子は日本歌舞伎がモスクヷへ来たときにきいた。そのとき一行について日本から来ていた一人の婦人が、ロシアはダイアモンドがやすいと云ってウラル・ダイアをせっせと買っている、という風な噂話で。

 伸子は、一瞬、見事なダイアモンドの指環をはめている多計代の、青白い皮膚のなめらかな細い指を思い出した。その若くない手の表情から、くすんだ色の紅をつけている多計代の華やかな唇のあたりが思い出された。ふっさりした庇髪、亢奮で輝いている黒い眼と濃い睫毛の繁いまばたき。伸子は横たわっているベッドの白いかけものの下でかすかに身じろぎをした。二三日前うけとった多計代からの手紙のなかに何だか気にかかる箇所があった。伸子の病気と入院していることを知った多計代は、いつものとおり流達すぎる草書の字を書簡箋の上に走らせているうちに、次第に自分の感動に感激して来た調子で、伸子の健康を恢復させるためには、母として可能なすべての手段をつくす決心をしたと書いていた。彼のために、というのは、死んだ保のことであった。多計代は、去年の八月保が自殺してから、保のことは決して固有名詞で云わなかった。彼としか書かなくなった。彼のために為すことの乏しかった母は、のこされた子等のために最善をつくすのが彼に対する義務だと思っています。そして、電報為替で千円送ってくれた。その金は、手紙より早くモスクヷへついていた。礼のハガキは行きちがいにつくだろう。が、いま紫水晶の耳かざりを見ているように仰向いたまま読んだ多計代の手紙にあるそれらの字句は、思い出したいま、やっぱり伸子に漠然としたいらだたしさを感じさせるのだった。気持のぴったりしない肉親の間に感じる愛着といとわしさの複雑に絡りあった感情のなかで、伸子はつまみあげている一対の紫水晶の耳飾りを贅沢なふりこのように振った。ダイアモンドの露が、もっと巧妙な細工で、そこだけ揺れるように作られていたら、どんなに優美だろうと伸子は思った。そして、その露のひとしずくが、つよい閃きを放ついいダイアモンドだったら。──でも、そうなれば、この耳飾は既に貴族のもので、素子が買いもしなかっただろうし、第一伸子はもらえばなお更こまって返しもしかねないものになる。

 病室のドアのところへ誰かが来たように思って伸子は、いそいで紫水晶の耳飾りを手のひらの中に握った。伸子は、ナターシャに、こういうものを見られたくなかった。ナターシャが彼女の大きい少し動物的で勝気そうなあの眼でじろりと見て、肩をそびやかす気持が伸子にありあり映った。ナターシャにとって、それは軽蔑すべきものであり、彼女の階級の歴史が憎悪とともにそれをむしりすてたものなのだ。それをひろって、埃りを吹いて、掘り出しものだと珍重する外国人を見たとしたら、伸子がナターシャだったとしても、さあさあ、そんなものでいいならいくらでもおもちなさい、と思うだろう。伸子は、枕もとのテーブルから紙をとってその耳飾りをつつんだ。そして、ベラ・ドンナの粉薬が入っているボールの薬箱へしまった。

 しばらくして、ほんとにナターシャが病室へ入って来た。ちぢれた髪と、濃いはたん杏色の頬と、踵へ重みをかけた重い歩きつきとで。洗いたての真白い看護服と前かけをつけて、ナターシャの丸い姿はひとしお新鮮だった。伸子は、もうナターシャのおなかの大きさにすっかりなれているばかりでなく、おなかの大きい彼女を愛してさえいるのだった。

「ナターシャ、きょうはあなたのちびさんの御機嫌いかが?」

「オイ! とても体操しているんです」

 その日は、伸子のひまな日だった。マグネシュームと下剤をのまなくてよかったし、ゾンデもない日だった。

 白い病室の壁にまぶしいくらい雪明りがさしている。伸子は、ぼんやりその明るさを見ながら一つの黒い皮ばりの安楽椅子と、白フランネルで縫われた小さい袋とを思い出した。昔、伸子がニューヨークでスペイン風邪にかかったとき入院していたのは、セント・ルーク病院の小さい病室で、黒い皮ばりの大きな安楽椅子が窓と衣裳箪笥の間におかれていた。それは看護婦用のものだった。水色木綿の服の上から、胸のところがひとりでにふくらむほどきつく糊をしたエプロンをかけ、同じようにきつく糊をした小さい白い看護婦帽を頭にのせた一人の看護婦が、その椅子にかけている。そして、モウパッサンの「頸飾」を伸子のために音読していた。

 伸子はベッドにねてそれをきいている。日本語の翻訳で、伸子はそのすぐれた短篇を知っていた。でも、英語でよまれるのをきいている。はじめのうちは克明に声を出してゆっくり読んできかせていたミス・ジョーンズは──背のたかい、伸子に年のよくわからない気のいいその看護婦はそういう名だった──だんだん物語につりこまれるにつれ、伸子が眠ってしまったと思いでもしたのか、段々黙って、頁から頁へ、ひきつけられて読みすすんで行った。そして、暫くしてよみ終ったとき、思わず前こごみになっていた背中をのばして安楽椅子へもたれこみながら、ミス・ジョーンズは、

「可哀そうに!」

 心からそうつぶやいて、幾人もの看護婦に読みまわされたらしく頁の隅のめくれあがって手ずれた本をエプロンの膝の上においた。

 じっとして仰向きにねている伸子の胸に、ミス・ジョーンズの実感のこもった Poor thing !(かあいそうに)という響がしみとおった。夫のために出席しなければならない一晩の宴会のために身分のいい女友達から、借りた真珠のネックレスを紛失させ、代りに買ってかえした真珠の頸飾りの代を月賦で払うために、何年間も苦労してやつれ果てた貧しくつましい妻。彼女夫婦の幸福ととりかえた月賦払いが終ったとき、もと借りた頸飾りは模造品であったことを知らされる。貧しくて正直なものがこうむった愚弄の惨憺さを、ミス・ジョーンズは真実そのような目にあうこともある立場の人間として、同情といたましさを禁じ得ずにいるのだ。

 一九一八年十二月で、曇ったニューヨークの冬空を見晴らすセント・ルーク病院の高い窓の彼方には、距離をへだてて大都市の同じような高層建築が眺められた。ミス・ジョーンズは、きちんと前を二つに分けて結っている褐色の髪の上に白い看護婦キャップをのせ、高い鼻を横に向けて、頬杖をつき、外の景色を眺めていた。すこし荒れたような横顔にはかすかな物思いと、きちんとした看護婦が彼女の勤務時間中、患者のどんな些細な要求にもすぐ立ち上って応じる準備をもっている習慣的な緊張がある。頬杖をついているミス・ジョーンズの手は、日に幾度も洗われるために薄赤く清潔で、何年間も患者の体を扱っているうちに力が強くなり、節々のしっかりした働く人の手だった。華美と豪奢の面をみれば限りのないニューヨークという都会のなかで、生れつき親切で勤勉で背の高いミス・ジョーンズが、隅のめくれたモウパッサンの「頸飾」一冊を膝において窓の外を眺めている姿は、伸子をしんみりした心持にした。

 いつの間にとろりとしたのか、伸子は自分が眠りかけたのにおどろいたようにして枕の上で眼をあいた。ミス・ジョーンズはさっきと同じ窓ぎわの椅子にかけている。物音をたてずに行われている彼女の奇妙な動作が伸子の視線をひきつけた。ミス・ジョーンズは、真白い糊のこわいエプロンの前胸の横から、小さな灰色の袋をとり出し、そのくちをあけ、なかから何かつまみ出して左手の指にはめた。それは大きなダイアモンドのついた指環だった。ミス・ジョーンズは、女が自分の部屋でひとり気に入りの指環をはめて見ているときのように、真面目な、しらべるような表情で薬指に指環のはめられている左の手を眼の高さにもちあげて動かしながら、冬の室内の光線でダイアモンドのきらめき工合を眺めた。やがてその手を握って膝の上において、じっと見おろした。

 その目をあげたミス・ジョーンズと伸子の視線があった。顔を赧らめたミス・ジョーンズのために、伸子はいそいで彼女と同じような真面目さで、

「その指環はたいへん立派な指環ね」

と云った。

「あなたは大切にしなくてはいけないわ」

 ミス・ジョーンズは伸子の気持をそのままの暖かさでうけとって、

「Yes. Dear」

と答えた。そして、真白い帆のようにふくらんだエプロンの胸横から、長い紐でつりさげられている灰白の小さい袋をぶらさげたまま、

「これはわたしの婚約指環です」

と云った。そして、いまはベッドの上の伸子にもそれを見せるという工合にまた顔からはなして左手をあげて、しばらく複雑なきらめき工合を眺めた。

「勤務中、わたしたちは度々手を洗わなければなりませんからね、ときにはつよい薬で。どんな指環もはめられないんです。だからいつもわたしは勤務がすむと、はめるんです」

 そうやって、伸子もいっしょに真面目な目つきで見ているミス・ジョーンズの婚約指環は、大粒なダイアモンドの見事さにかかわらず、浮々したところも、派手やかさもなかった。その婚約指環は、いかにもミス・ジョーンズとその夫になるらしい地味な人がらの男が二人で相談して、慎重に自分たちのものにしたという感じだった。婚約指環と云っても、そこには、どこかに勤めて一定の月給をとっている男と看護婦であるミス・ジョーンズとのつましい生活設計が感じられる。ふと読んだ「頸飾」の物語から、何とはなし自分たちの婚約指環を出して見る心持になったミス・ジョーンズに伸子は同感できるのだった。

 その夜、七時になると、ミス・ジョーンズはいつものとおり伸子の髪をとかして二本の編下げにし、体じゅうを湯で拭いてアルコールをぬり、タルカム・パウダーをつけて、彼女の一日の勤務を終った。最後にスティームを調節して病室を出て行こうとするミス・ジョーンズに、伸子は、

「ミス・ジョーンズ、あなた、これからまだ手を洗わなければならないの?」

ときいた。

「いいえ。もうすっかりすみましたよ」

「じゃあ、あの指環をおはめなさいよ。わたしは、あなたがあれをはめて帰るところが見たいのよ」

 ミス・ジョーンズは思いがけない注文をうけたように、ちょっとの間伸子を見て黙って考えていたが何か思いついたように、

「じき戻って来ますから」

 ドアをしめて出て行った。ほんとにじき廊下に足早な女の靴音がきこえ、ノックと同時にドアが開いた。着物を着かえて来たミス・ジョーンズだった。彼女はカラーに黒い毛皮のついた紫色の外套を着て、黒い目立たない帽子をかぶっている。

「これでお気に入りましたか?」

 いそぎ足に伸子のベッドのわきへよって来て、

「さようなら、おやすみなさい」

 右手で伸子のかけものを直しながら、婚約指環をはめた方の手で伸子の手をにぎってふった。

「看護婦が個人のなりで病室へ入ることは禁じられているんです──さようなら」

 ミス・ジョーンズはすぐドアのそとへ消えた。

 ──年をへだてて二月の雪明りが室内にあふれるモスクヷの病院で、あのときのミス・ジョーンズのダイアモンドの婚約指環や彼女が紫色外套を着てこっそり入って来たときの正直にせかついた顔つきを思い出している伸子の心は、それからあとにつづいておのずと思いおこされて来た記憶に一種の抵抗を感じた。そうやって毎夜七時に、ミス・ジョーンズが伸子のために夜の身じまいをして帰って行くと、やがて八時頃、伸子の病室のドアが間をおいて重くノックされた。佃が入って来るのだった。佃の下顎の骨格の大きくたっぷりした、青白い筋肉の柔軟な顔がまざまざと伸子の思い出に浮んだ。

 そう。あのころ佃は毎晩伸子の病室へ訪ねて来たのだ。枕の上へリボンを結んだ二本の編下げをおき、それを待っていた自分。夜がふけてもうエレヴェータアのとまった病院の階段を一段一段遠のいてゆく靴音を追って耳を澄していた自分。それを思い出すことは、現在の伸子につらかった。その足音と顔とからにげだすために、あんなにも死もの狂いにならなければならなかった自分。それを思い出すことにも苦しさとこわさとがあった。

 セント・ルークの病院にいたころ伸子の全心に恋があったから、ミス・ジョーンズの婚約指環に対してもあんなにやさしい同感があったと云えるかもしれない。それにしても、と、伸子は重苦しい記憶をのりこして考えるのだった。ミス・ジョーンズは、何とあの婚約指環を大事にし、自分たちの幸福の要石がそこにあるようにしていただろう。伸子が、彼女の大切な指環のありかを知ってからミス・ジョーンズはよくあの胸から下げている小袋を出して、一粒のダイアモンドを見た。そのたびに伸子は不思議な感じにとらわれたものだった。辛苦のこもっている見事なそのダイアモンドの婚約指環は、それがミス・ジョーンズのエプロンの下から出て来るとは思いがけないだけに、伸子には何だか、その婚約指環が金の結婚指環と重ねてはめられるときが、ミス・ジョーンズにとってなかなか来そうもなく思えるのだった。

 伸子が病院から出て、やがてその都会の山の手にある大学の寄宿舎で暮すようになったとき、ミス・ジョーンズが一度芝居に誘ってくれたことがあった。若い女学生たちがざわめいている寄宿舎のホールで、伸子が七階の室からおりて来るのを待っていたミス・ジョーンズの全体の姿は、何と質素で隅から隅まで看護婦らしかったろう。歩いて来る伸子を認めて、ホールの椅子から立ちあがり、伸子の歩くのを扶けようとでもするように手をさしのばしながらいそぎ足によって来たミス・ジョーンズの素振りは、いい看護婦だけのもつまめな親切にあふれていた。その晩行った劇場の名も戯曲の名も、伸子はもう忘れてしまった。三階の席に、ミス・ジョーンズの親友であるもう一人の看護婦が来ていた。幕がすすむにつれて、ミス・ジョーンズはハンカチーフを握って、しきりに目を拭いた。白いハンカチーフで、せっかちそうに涙をふく彼女の手に指環があった。三階のやすい席からのり出して一心に舞台を見ながら涙をふいているミス・ジョーンズの急にふけたような真面目な横顔が、うす明りの中にぼんやり照し出されていた。

 大きいおなかを勤勉な生活の旗じるしのようにして悠々ゆうゆう勤務しているナターシャの様子を、あの実直で絶えず何かを懸念しているようだったミス・ジョーンズの生存と思いくらべると、伸子には、それが同じ女の生きてゆく一生だと思えないほどのちがいがあった。ミス・ジョーンズの上等な制服につつまれた体は背高くやせて、棒のようだった。彼女に求められているのは規律正しい行きとどいた勤務であった。それが彼女の職業なのだから。彼女の結婚だの姙娠だのという人間の女に関することは、勤務とは別の、患者のかかわりしらない、彼女だけの問題──プライヴェート・アフェアだった。ミス・ジョーンズの大切にしている婚約指環が灰色の小さな袋にはいってエプロンの下にかくされていたとおりに。文明国では、身もち看護婦の勤務などということは途轍とてつもない笑話以外にあり得ないことだった。

 ナターシャは、彼女がうけている社会の条件について、価値を知りつくしていない。そう伸子は思った。ナターシャにはどこにも過渡期の影がない。ナターシャはきっすいのソヴェト娘として育ち、生きている。ヒールのない運動靴のようなものをはいて、いくつも薬袋をのせた盆をもってドアの外を通ってゆくナターシャを伸子は枕の上から見ていた。


 その日の午後おそく、やがて面会時間がきれようとするころ、伸子は思いがけない人に訪問された。その日は素子のいるうちに入浴がすんだ。その素子も帰ったあと、雪明りが赤っぽい西日にかわってゆく時刻の病室で、半分ねむったような状態でいた伸子は、

「こんにちは──入ってもいいですか」

という男の声にびっくりして目をあいた。ドアのところに、黒い背広を着て、がっちりした背の高くない日本人の男がたたずんでいる。伸子は枕の上から頭をもたげるようにして、そのひとの方を見た。全然見たことのない色の黒い四角ばった顔だった。伸子は、入っていいともわるいとも云わず、

「どなたかしら」

ときいた。

「権田正助です。──大使館へ行ったらあなたが病気でここへ入院しておられるってきいたもんだから、ちょっとお見舞しようと思って」

 権田正助という名は、伸子の耳にも幾度かつたわっていた。どこかの海で、国際的な注目のもとに第一次大戦当時沈没した旅客船のひきあげに成功して有名になった潜水業者であった。

 権田正助は、自分を自分で紹介しているうちに、病室へ入って来た。そして、

「やあ、初めておめにかかります」

 頭を軽くさげ、さっさとあいている長椅子に腰をおろした。

「ロシアの病院なんてどんな有様かと実はばかにして来たんだが、案外なもんじゃないですか。──なかなかいい」

 権田正助は、枕についている伸子の顔を正面から見ながら、

「ところで病気っていうのはどうなんです」

ときいた。

「どこがわるいのかしらないが、いっこうやつれていないじゃないですか。それどころか、艷々したもんだ。いい顔の色ですよ」

 伸子には、権田正助というような商売の人が、まるで見当ちがいな自分の見舞いに来てくれたということが思いがけなかったし、その上、調子の太いもの云いにあいてしにくい感じがした。

「あなたはいつこっちへいらしたんです」

 伸子は話題を自分からはなして権田の側へうつした。

「こっちにも、何かお仕事があるんですか」

 短く刈って前の方だけ長めな髪を左分けにしている頭のうしろを、ばさっと払うようにした片手を膝におとして、権田正助は、

「それがね、面倒くさくてね」

と云った。

「あなた、ブラック・プリンスっていう船の名をきいたことがあるでしょう? 有名なもんだから」

「──さあ、知らないけれど」

「ブラック・プリンスっていうロシアの大きな船が黒海のある地点に沈んだままになっているはずなんです。こんどは一つそいつをあげて見ようと思ってね、それでやって来たんですが、四の五の云って、ちっともらちがあかない」

「権利か何かお貰いになるわけなんですか」

「そうですよ。なかなかこまかい契約がいるんでね。第一引上げに成功したら、その何パーセントかはこっちへとるということがあるし」

 ブラック・プリンスは、世界の潜水業者の間に久しく話題になっている沈没船なのだそうだった。金塊を何百万ルーブリとかつんだまま沈んでいるというのだった。

「それが今ごろまでそのまんまあるものかしら」

 押川春浪の綺談めいた物語に伸子はうす笑いの口元になった。ソヴェトは、こんなに新しい開発建設の事業のために金を必要としている。それだのに、自分の領海に沈んでいる何百万ルーブリという金塊をうちすてておこうとは伸子には信じられなかった。

「案外、もう始末してしまってあるんじゃないかしら」

「いいや、そんなことは決してない」

 つよく首をふって権田正助は否定した。

「第一、誰もまだブラック・プリンスの引上げに成功したっていう話をきいていないんだから」

「だって、いちいち世界へ報告しないだっていいでしょう」

「そう行くもんですか」

 四十を越した年配にかかわらず、権田正助は、一徹に主張した。

「あなたにはわかるまいけれど、海の真中でそれだけの仕事をやるのに、航行中の船が目をつけないってわけは絶対にあるもんじゃないんです。わたしがやっているときだって、どうして、大したもんだった。──コースをまげて来たからね。それに、今のソヴェトには、あの船がひっぱり上げられるだけ腕のいい潜水夫はいませんよ。もぐることにかけちゃ、日本は世界一だからね」

 かさばって貝がらだらけになった船そのものをそのままにしておいても、必要な金塊だけ発見して海底からもち出すことがあり得ないのだろうか。かりに権田正助が引上げて見て、金塊がなかったらどうするのだろう。

「そりゃはじめによくよく調べてかかるんですさ。対手国で保証しないもんなら、そりゃ骨折損ですがね──そのかわりうまく当てれば、相当のもんだからね」

 権田正助は、当ったときの痛快さと満足を思い出して、北叟笑ほくそえみと云われる笑いかたをした。そして、

「どうです、これでわたしの商売もなかなか男らしくていいでしょう」

と云った。伸子は、ふと妙な気がした。権田正助は、酒のあいてをする女を前においていい気持になっているときのような口調で云ったから。双方が暫くだまった。

「ところで、あなたはいつごろ退院です?」

 権田がやがて帰りそうにしてたずねた。

「さあ、まだ見当がつかないんです──肝臓がはれているから」

 原因のわからない伸子の胆嚢と肝臓の炎症はなかなかひかなくて、つい四五日前、レントゲン療養所へまで行って調べた。その結果何も新しい発見はなかった。ゾンデをとおしてすんだ胆汁が出るようになって来たけれど、肝臓は膨れていて、肋骨の下から指三本たっぷりはみ出たままだった。

「肝臓とはまた酒のみみたいな病気になったもんだな──黄疸の気はちっともないじゃないですか」

「ええ」

「のむんですか?」

「いいえ」

「まあ、どっちみち大丈夫ですよ。わたしが保証してあげます。その色つやならじき退院できるさ」

 帰りそうにしながらまだ長椅子にかけてねている伸子を見ていた権田正助は、ブラック・プリンスのことを云ったと同じ調子で、

「あなた、フレンチ・レター、知ってるでしょう」

と云った。フレンチ・レター。伸子はどこかでそういう言葉をよんだ。そして、それは普通の話の間には出されない種類のことのように書かれていたのを思い出した。だが、果してそういう種類のことなのかどうか。そうだとすれば、権田正助がこんなところで云い出したのがわからなくて伸子は、

「しらないけれど」

と云った。

「ふーん、知らないかな」

 小首をかしげたが、

「男のつかうもんですよ」

と伸子に説明した。

「わたしのところに、非常に質のいいのがあるんです、全く自然なんだ。──一つこころみませんか」

 伸子は白い枕の上に断髪の頭をのせ、ぽかんとした眼で権田正助を見た。権田の云っている言葉はわかるのだが、話の感覚がまるで伸子とピントを合わせなかった。黙って、意外な眼で権田をみている伸子に、

「とにかくお大事に。──時間があったらまたよってみますが」

と云って、権田正助は病室を出て行った。


十三


 どんな気で、権田正助が伸子の見舞いに来、ああいうことを云ったのか、伸子にはいくら考えても推量ができなかった。それなり世界的な日本の潜水業者と自他ともに許している背の低い、色の黒い男は伸子のところへ二度とあらわれず、伸子は一日のうち少しずつベッドの上へ起き上ってくらすようになった。

 そうすると、伸子の病室に出入りするひとも、素子とナターシャと医者たちばかりでなくなった。医局の方につとめている若くない看護婦で、紙にはった押し花を売りに来るひとができた。その内気な小皺の多い看護婦のこしらえている押し花は、よくある植物標本のようなものではなくて、青色やクリーム色の台紙へ、その紙の色にふさわしい配合で三四種類のロシアの草や野の花をあしらったものだった。どういう方法で乾燥させるのか、花々は鮮やかなもとの色をあんまりせさせずにいて、柔かい緑の苔が秋の色づいた黄色いかえでの葉ととりあわせて面白く貼られていたりした。それらの花や苔や草の穂は、伸子にレーニングラードのそばのデーツコエ・セローでくらした去年の夏を思い出させた。そこの野原の夏風にそよいでいた草や花をしのばせ、保が死んだという電報をうけとったとき、パンシオン・ソモロフの伸子の室のテーブルの上にさされていた夏の野の草花を思いおこさせた。押し花は忘られない八月を伸子の心によみがえらせ、伸子は一枚もとらずに返すことのできにくい心もちにされた。伸子は、ちがった組合わせで貼られている押し花を見つけ出しては、その余白に、短いたよりを書いて東京のうちや友達に送った。そういう伸子の買いものにナターシャは興味をもたなかった。

「きれいですね、よくこしらえてあります」

と云ったきりだった。それはナターシャとして自然な態度だった。乾燥して押された花は所詮思い出草にしかすぎない。自分の体のなかで旺盛な生の営みが行われているナターシャにはどんな思い出のよすががいるというのだろう。

 また、二つばかり先の病室にいると云って、伸子のところへ美しく刺繍した婦人用下着をみせに来た女のひとがあった。病院ぐらしのいまは手入れもおこたられているが、いつもは理髪店で鏝をあてられているらしい髪つきで、瘠せてすらりとした体に、だぶつきかげんの紺のワンピースを着ていた。上へ、変り編の青っぽいスウェターを羽織って。

 三十と四十との間らしい年ごろのそのひとは伸子にこまかい花飾を刺繍した麻の下着類を見せた。水色、紺、白、桃色のとりあわせで忘れな草が刺繍されているシミーズ。裾まわりに黄色とクリーム色、レモン色の濃淡であっさりとウクライナ風の模様が縫いとりされているパンテイ。どれもいい配色だし、手ぎわがよかった。伸子は、枕に背をもたせて起きあがっているベッドの上に、それらをひろげて眺めた。

「モスクヷにも、こういうものがあるんですね。どこでも見たことがなかった」

 伸子が見る範囲のモスクヷでは、衣料品は貧弱で、麻のブラウスさえ見かけたことがなかった。

「商品じゃないんですよ。個人のためにこんな仕事をするひとがあるんです。わるくない腕でしょう?」

 刺繍を見ている伸子にそのひとが云った。

「お気にいりまして?」

「大変きれいだわ」

「もしおのぞみなら、あなたのために、そういう下着類をこしらえさせることができますよ」

「そう? ありがとう」

 伸子は、ぼんやり挨拶した。素子も伸子も日本からもって来た白いあっさりしたものばかり身につけていて、モスクヷでわざわざ刺繍させた下着を買うなどとは思いもよらなかった。

「──彼女はじきこしらえるでしょう。一週間もあれば。──あなたはそれまでに退院なさいますか?」

 その云いかたで、伸子は、もしかしたらこのひと自身が刺繍のうまい彼女であるかもしれないと心づいた。そこで伸子は、下着類をたたんで、ありがとうとそのひとにかえしながら、

「わたしたちは、ここで簡単にくらしているんです」

と、下着を注文する意志のないことがわかるように云った。

「見事な下着──そして、上へ着るものは?」

 女のひとも伸子といっしょに笑って、

「ほんとにね」

と同意した。

「すべての人は簡単にくらしたいと思っているんです。ただ誰にでもそうくらせるものではないんです」

 伸子からうけとった下着類を女らしいしぐさで何ということなし自分で膝の上でたたみ直しながら、その女のひとは突然、

「あなた、子供さんは?」

と伸子にきいた。

「まだです」

 そう答えて、伸子は夫もなかったのに、と自分の返事が飛躍したのに心づき、

「わたしには、まだ夫がないんです」

とつけ加えた。そのひとはそれについて何とも云わず、しかしどこかでその思い出が、外国の女の病室へ刺繍を見せに来ている現在の彼女の生活とつながっているらしく、

「わたしは子供をもったことがあったんです」

と話しだした。

「それは一九一九年の飢饉の年でね。年をとった真面目ないいドクターでしたが、わたしにこう云いました、いまこの子供を生んで、育てることができると思うかって。──わたしたちは、そういう時代も生きて来たんです」

 伸子は去年、デーツコエ・セローのパンシオン・ソモロフで会った技師の娘の歯のことを思い出した。レーニングラード大学の工科の実習生として放送局につとめているそのソヴェトの娘は、可愛く大きく育った十九歳の体だのに、笑うと上歯がみんなみそっぱだった。その歯は飢饉のためだった。赤坊の乳歯から本歯にうつる年ごろに、その女の児がひもじく育ったせいだった。

 双方の言葉がとぎれているところへ、ナターシャが、例の踵をひく歩きつきで病室へ入って来た。女のひとは、ナターシャが窓ぎわの台で何かさがしている姿を眺めていたが、しみじみと、

「これが、わたしたちの時代、ですよ──ねえ、ナターシャ。あなたお産の準備にいくら貰うの?」

「月給の半分。──産院は無料なんです。それに九ヵ月の牛乳代」

「決してわるかないわ」

 女のひとは、なお暫くだまって何か考えながら長椅子にかけていた。が、ナターシャが出てゆくと、つづいて、

「では、お大事に。さようなら、わたしは多分あさってごろ退院するでしょう」

 優美であるけれども素姓のあいまいなすらりとした後姿を廊下へ消した。

 たった一ぺんだけ伸子の病室に現れて何かの生活の断片を落し、しかしもう二度とめぐり合うことのない訪問者の一人として、やっぱりそれも或る午後、伸子の病室へ一人のひどく気のたった女が入って来た。

 病院で患者に着せる白ネルの病衣の上から茶がかった自分の外套をはおったもう若くない女は、両肩の上に黄色っぽい髪をふりみだし、ちょうどおきあがっていた伸子をドアのところに立ってにらむように見つめた。

「お前さんかね──日本の女のひとっていうのは?」

 いきなりのことで伸子は返答につまった。しかしここで日本の女と言えば自分よりほかの誰でもないわけだった。伸子は、

「何か用ですか」

ときいた。

「入ってもかまわないかね」

「どうぞ」

 伸子は、長椅子の方をさして、

「かけて下さい」

と云った。

「寒くないかしら。──ここの窓はガラスがこわれているんだけれど」

「なに、かまわないさ」

 その女は、ひどく亢奮している様子でそんなことは面倒くさそうにせかせかと云った。

「わたしはね、ちょいとお前さんに会って話したいと思って来たのさ」

 抗議することのある調子だった。伸子は何だろうと思った。人の気をわるくする機会があるほど伸子はまだ動けないでいるのだから。見当のつかないまま伸子は、

「スカジーチェ(おきかせなさい)」

と云って、両方の手を、半身おきあがっているかけものの上においた。

「わたしは、腎臓がわるくて、体じゅうはれたんでこの病院に入って来たのさ。できるだけ早くよくしてもらって、すぐかえるためにね。それが二週間よりもっと前のことさ。ところがもうこの一週間はわたしの体からはれがひいて、すっかりなおっているのに、ドクターは、まだ癒っていないって云うのさ。──え? 誰が知っちゃいるもんか! わたしは癒ったっていうのに、医者は癒っていないっていう。あけてもくれても一つことだ」

 女はおこった大きな声でしゃべった。大病室の方はしずかだった。廊下越しに、彼女の病床がそっちにある大病室の仲間たちにも、伸子の室で自分が云っていることをきかせようとしているようだった。伸子は荒々しい生活の中に年を重ねて来たらしいその女の上気して毛穴のひらいた顔を見つめた。亢奮しているばかりでなく熱が出ているらしい眼のうるみ工合だった。伸子は、また、

「寒くないのかしら」

と気にした。

「ニーチェヴォ」

 そんなことではぐらかされるものかという風に伸子の注意をしりぞけて、女は一層声高につづけた。

「わたしが早くかえらしてくれっていうと、ここのドクターと看護婦はいつだって、お前さんのことを引合いに出すんだ。あの日本の女のひとを見ろって、さ! 若くって、遠いところから来て一人ぼっちでねていて、友達が来るだけなのに、もう二ヵ月近く、いっぺんだって苦情を云ったことがないって。食べものについても、治療についても辛抱づよいって。わたしもお前さんに見習えっていうのさ!──ばかばかしい

 女は憤懣にたえないらしく、はげしい身ぶりで片手をふった。

「わたしとお前さんとはまるきしちがうじゃないか。こう見たところお前さんはまだ若い──」

 首をのばして伸子の顔を改めて見直して、

「まるでまだ娘っこみたいなもんじゃないか!」

 伸子は、思わず笑った。

「ところが、わたしはどうだね。わたしはもう四十四だよ。うちには、去年生れの赤坊を入れて五人子供がいるんだ。わたしは、あいつらに食べさせ、着させ、体を洗ってやって、その上勤めているんだ──わたしは掃除婦だからね。それに亭主だって──亭主だって見てやるもんがなけりゃ、どうして満足に働きに出られるかね。──わたしは、お前さんとはまるきりちがうんだ。わかるだろう?──どうして、わたしがお前さんと同じように辛抱づよくなれるかってんだ──世帯も持ってなけりゃ、亭主もなけりゃ、乳呑子ちのみごだってないお前さんのようにさ。──お前さんにゃてんで心配の種ってものがないんじゃないか」

 粗野な女の言葉のなかに真実があった。伸子には心配の種がないんだ。ソヴェトの働く女というより古い、ロシアの下層の女のままな彼女の暗い不安な、人を信用しない感情には、医者のいうことも疑わしければ、苦労のなさそうな日本の女を手本にひっぱり出されることにも辛抱がならないらしかった。暗くせつなくとりつめて、髪を乱し、伸子にくってかかっている女に、伸子は自分が予期しなかったおちつきで、

「あなたがわたしのところへ来たのは、よかったですよ」

と云った。

「あなたは、本当のことを云いましたよ。たしかにあなたの条件とわたしの条件とはまったくちがうんです。──わたしはひとりもんだから」

 つい体に力がはいって、重苦しくなった右脇に手をあてて圧しながら、伸子は説明した。

「しかし、お医者があなたに云ったことについて、わたしの責任はないのよ。わたしはまるでそのことは知らなかったんだから。──あなたから、いまはじめてきかされたんだから。そのかわり、あなたのことについて、わたしは誰からもひとことも話されていませんよ」

 煮えたぎるようだった女のいらだちとぼんやりした屈辱感は、伸子のその話しぶりでいくらかずつ鎮められて行くらしかった。伸子のねているベッドの裾のところにつっ立っていた女は、すこしらくな体つきになって肩からひっかけている外套の前を押えながら衣裳箪笥にもたれた。伸子は、

「腰かけなさい。立っていることはあなたの病気にわるいんです」

と云った。

「あなたは、あんまりどっさり働かなけりゃならなかったから病気になったんだから……」

 女は、のろのろした動作で長椅子にかけた。彼女は素足に短靴をつっかけている。いかにも、もう我慢ならない、と病室からとび出して来たらしく。ひとめ見たときはこわらしい彼女の顔にある正直ものらしい一徹さと生活にひしがれたぶきりょうさが伸子の心にふれた。ふっと伸子は、この女の亭主には、もしかしたらほかに若い女があるかもしれないと思った。

「あなたの旦那さん、あなたの見舞に来ますか?」

「あのひとにどうしてそんな時間があるものかね、会議! 会議! で。いつだって、夜なかにならなけりゃ帰ってきないよ」

「党員?」

「ああ」

「あなたは?」

 女は腹立たしそうに、ぶっきら棒に答えた。

「わたしは党員じゃないよ、組合の代議員さ」

「結構じゃないの。デレガートカ(代議員)ならあなたも自分の病気について、道理にかなった考えかたをもたなくちゃならないと思うわ」

「そりゃそうさ。──だけれどね、まあ見ておくれ」

 女は自分の外套をひろげ、更に病衣をはだけて伸子に清潔でない自分の胸をみせた。

「このわたしの体のどこがむくんでるんかね、それどころか、やせちまったわ、ろくなもの食わないでいるから」

「塩気なしの食事でしょう?」

 意外らしく女は伸子の顔を見直した。

「──お前さん、医者の勉強もしているのかね」

「世界中、どこでも腎臓の病人には塩気をたべさせないんです」

「それにしたって、お前さんにゃわけがわかるかね。これほど毎日医者の顔さえ見りゃもうなおったって云ってる者を、何だってまた意地にかかって出さないんだか」

 女の眼のなかにまたつかみどころのない非難苦悩があらわれた。女は思いこうじて、脅迫観念のようなものを感じはじめているらしかった。すっかり連絡の絶えてしまった家族や亭主のことが日夜気にかかるあまり。

 伸子は蛋白というロシア語を知らないので困った。そればかりか、この女の体のなかにどんな病気があるのか、どうして伸子にわかることが出来よう。伸子はやがていいことを思いついた。レントゲン照射を受けたかどうか女にきいてみた。

「ああ。やられたよ、来て間もなしに一度と、またこの間。──ありゃ高くつくんだってね」

「心配はいりませんよ、あなたは組合員なんだもの。──医者は、あのレントゲンの写真を見て、まだ癒っていないっていうんだと思います。あなたはそれを見なかったにしろ、彼はよく見ていますからね、それが仕事なんだから……」

 いま女は伸子の病室の外まできこえるような声では話さない。日本の女が、襟の間に片手をさしこんで物思いするように、女は外套の襟のところへ手をさしこんでうなだれた。肩にふりかぶっている髪はこんがらかっていて雪明りのなかによごれて見える。

 伸子は、よけい重苦しくなった脇腹へ、ゴム湯たんぽをひっぱりあげながら、

「早くかえろうと思うなら、気を立てることは禁物ですよ」

と、疲れの響く声になって云った。

「鍋の下で火をたけば、病気もそれにつれて煮えたつからね」

 そして、一つの思いつきを女に提案した。同じ病室から退院する誰かに家の住所を教えて、子供に来るようにつたえて貰うように、と。伸子は大儀になって枕の上によこたわった。女はうつむいた頭をもたげて、あてもなく二重窓の外の雪景色に目をやっている。伸子にそっちの景色は見えない。二重窓は寝台のちょうど真上にあたるところにあるから。

 伸子の病室の人気なさと沈黙とが、その女の気分に最後のおちつきを与えたらしかった。彼女は、暫くすると自分に云いきかすように、

「じゃあまあ、当分辛抱してみることだね」

と、膝に手をつっかって、身をもちあげるように長椅子から立ちあがった。亢奮がすぎて彼女にも疲れが感じられて来たらしかった。

「お前さんは、よくわかるように説明したよ」

 そう云って、女はちらりと微笑に似た皺を口のはたに浮べて伸子を見た。そして、足をひきずるように伸子の病室から出て行った。


 お前さんはよくわかるように説明したよ。──何て組合の職場集会での言葉だろう。あのもつれた暗色の剛毛こわげのたまのような女の感情の一部に、そう云う用語になじみきった一つの生活があって、ありがとうともお邪魔さまとも云わず、お前さんはよくわかるように説明したよ、とお礼のつもりで云って帰った。伸子はそこにやっぱりソヴェトとなってからの十年というものを彼女の生活としてうけとったのだった。

 こんな風なモスクヷ大学病院での生活のうちに、伸子の病気は快癒するというより、どうやら徐々におちついてゆくという消極的な経過だった。二月も末になってからまだ右脇腹にのこっている重く鈍い痛みで上体をまげたまま伸子はやっと寝台から長椅子まで歩くようになった。


十四


 そういう或る日、伸子にとっては一日で一番きもちのいい湯上りの時間だったにかかわらず、彼女は緊張した眼を病室の白い壁にくぎづけにして、考えこんでいた。その顔の上にめずらしい屈托があった。彼女の胸に生れた苦しい混乱した思いをてりかえして。

 伸子は、伸子の病気に対する故国の母親の心配ぶりをきょう思いがけない形でうけとったのだった。外国に駐在する大使館付の陸軍武官という立場の軍人がもっている様々な隠密の任務について、多計代はおどろくばかり無邪気で、ただ派手やかな役目という風にだけ考えているらしかった。さもなければ、多計代も一二度の面識しかない藤原威夫という陸軍少佐に、モスクヷで入院している娘の伸子の様子をよくしらべて、逐一ちくいち本国へ知らして呉れるようにとたのんだりはしなかったろう。話によれば最近この藤原威夫という少佐の義妹が、一人の若い医学士と結婚した。その医学士というのが、計らず、伸子もそのひとの父親にはおんぶされたりした覚えのある関係の家庭の長男で、結婚式には佐々泰造も多計代も出席した。その席で、偶然、義兄にあたる藤原少佐が或は近くモスクヷ駐在になるかもしれないという話が出た。そのときはそれぎりだったのが、出立の二日前とかに多計代が使をよこした。そして出発の日が迫っているとしると、その日のうちにと、もう夜がふけたのに藤原威夫の郊外の住居を訪ねて、伸子の様子を見てもらうことをくれぐれもたのんだのだそうだった。あいにく自動車が家の前まで入らないもんですからかなりのところを車から降りて、さがしさがし歩いて来られたんで恐縮しました。よほど御心痛の様子でしたよ。くりかえして、私の目で見たあなたの様子をそのまま知らしてくれ、と云って居られました。ことのいきさつをそう説明されて、伸子として礼をいうよりほかにどうしようがあるだろう。

 伸子は病気の経過をずっと話した。いや。お目にかかるまでは、どんなに憔悴しょうすいしておられるかと思っていたんですが、この様子ならばもう大丈夫です。ひとつ、御安心なさるようによくかきましょう。四十をいくつか越して見える藤原威夫というその少佐は、若いときからかぶっている軍帽でむされて髪の毛がうすくなったのが五分刈の下からもわかる顱頂ろちょう部をもっていて、その薄はげと冴えない顔色とはかえって頭脳の微細な勤勉と冷静な性格を印象づけた。伸子たちが来た頃からモスクヷには木部中佐というアッタッシェがいた。その人の年中よっぱらっているような豪放磊落らいらくらしい風と、きょう伸子の前に現れた藤原という少佐の人がらはひとめ見て対蹠たいしょ的であり、普通そうであるように、もとからのひとと新しいアッタッシェの交代が行われず、これからはこの、いかにも互に相補うといった性格の二人がモスクヷに駐在するのだそうだった。東支鉄道の問題、漁業権の問題でこのごろ日ソ国境に関心がたかまっている。そのことが浮んで、伸子にも新しく藤原威夫が加えられて来た意味が察しられるのだった。伸子にさえあらましはその任務の性質が察しられる陸軍少佐が、不思議な御縁で佐々の家にとっては内輪のもののように多計代からたのまれて、伸子の前に出現した。家族に一人も軍人というもののない家庭に育ったせいと、関東地方の大震災のとき憲兵大尉の甘粕が、大杉栄と妻の伊藤野枝と甥の六つばかりの男の子をアナーキストの一族だというのでくびり殺して憲兵隊の古井戸へすてたことがあり、伸子はある場所で、その男の子の母親にあたる若い女の人が声を忍ばして泣く姿を見た。伸子の軍人ぎらいは骨にしみたものになっているのだった。

 伸子がこわく思うような粗剛なこわらしさは、藤原威夫のどこにもなく、この少佐は全体がはっきりしない色合で静かに乾いた感じだった。モスクヷ生活についてのあれこれ雑談の末、日本の天皇というものについてあなたはどう考えておられますか、と訊かれたとき、伸子はあんまりその質問が思いがけなかったからベッドの上で笑い出した。どうって。──あなたがたのような軍人さんは別かもしれないけれど、わたしたち普通の人間がそんなに天皇のことなんか考えているものなのかしら。──伸子には、そうとしか感じられなかった。すると藤原威夫は自分も薄く笑ってそりゃそうでもありましょうがね。と伸子の耳について消えない穏やかな執拗さで云った。御覧のとおりロシアではツァーを廃してこういうソヴェトの世の中にしているんだし、フランス革命のときだって、ルイ十六世をギロチンにかけたんですから、大体社会主義思想そのものに、主権の問題がふくまれているんでしょう。あなたは、大分ソヴェトのやりかたに共鳴しておられるらしいから、ひとつその点をおききして見たいんです。──伸子はみぞおちのあたりが妙な心持になった。これが雑談だろうか。伸子は、この質問のかげにぼんやり何かの危険を感じた。一般的に軍人に対する本能的ないとわしさがこみあげた。しかし伸子は自然な警戒心から自分の感情におこったいとわしさをおしころして、はじめと同じ調子で返事した。そりゃ、わたしはソヴェトの生活に興味をもっているし、感心していますけれど、だってそれは、ソヴェトのことでしょう? 日本は日本でしょう。あなたはどうお思いかしらないけれど、わたしはまだ革命家というものになってはいないのよ。理論は知らないんです。それは伸子のありのままの答えだった。じゃ、あなた個人の気持ではどうです? 藤原威夫は、同じおだやかなねばりづよさでなお質問した。日本に天皇はあった方がいいと思いますか、無い方がいいと思いますか。伸子はそういう風によくわけのわからないことを受け身に質問されては答えようとしている自分に腹立って来た。伸子は、ぽっと上気した。そして、どんな人が考えたって、在る方がいいものならあっていいだろうし、悪いものならないのがいいにきまってるんじゃないかしら。と早口に云った。そんなにおききになるのは日本に天皇があるのが悪いと思っていらっしゃるからなのかしら。伸子は、むっとして、変だと思うわ、とつぶやいた。どうして、モスクヷで天皇がそう問題になるのか。

 藤原威夫は、伸子の癇癪をおこしたような同時に問題を理解していないことがあらわれている答えかたを、青黒い、眼のくぼんだ顔の表情を動かさずきいていたが、やがて云ってきかすような口調で、日本の将来にとってあらゆる場合この天皇の問題が一番むずかしいし、危険な点でしてね、と云った。日本でも、共産主義者は、天皇制打倒を云っているんです。従ってこんど改正された治安維持法でも、第一条にこの国体の変革という点をおきましてね。きわめて重刑です。あなたも、社会についてどう考えられるのも自由だが天皇の問題だけは慎重に扱われたがいいですよ。藤原威夫は、タバコを吸わない人と見えて、長椅子にもたれている両腕を腕ぐみしたままこういう話をした。伸子がだまって彼のいうことをきいていると、藤原威夫は、声を立てない笑いかたで口のまわりを皺めながら、あなたのお母さんも、御婦人にはめずらしく深く考えておられると見えて、あなたの思想について御心配でしたよ、と云った。伸子は、胸のなかへくさびをさしこまれるように肉体の苦痛を感じた。多計代が、伸子に対するあの昔から独特なひとり合点と熱中とでなまじい頭の動くまま、藤原威夫に何を話したのかと思うと、伸子はわが身のやりどころのない思いだった。それが伸子という娘に対する多計代の母の愛だというのは何たることだろう。伸子は、苦々しげに堅くほほえみながら云った。わたしは母にはもとから評判がわるくて。──さぞエゴイストだって云っていたでしょう。すると、藤原威夫はいま伸子を見ていると同じ冷静な表情で多計代をも観察したらしく、そうでもなかったですよ、と云った。感服もしておられたです。入院してからよこされたあなたの手紙にちっとも悲観の調子がないと云って。しかし、去年の夏ですか、弟さんが亡くなられたのは。それからあなたがちっとも手紙に思想上のことを書いてよこされなくなったのを心配しておられたでしょう。まあその点についても私からよく云ってあげましょう。

 多計代にとって、藤原威夫が何ものだというのだろう! 伸子は体がふるえる思いがした。多計代は、子供のことについては自分が誰よりも理解しているというくせに、現実ではいつも、思いがけない他人のわが子に対する批評をきいてまわり、その言葉に影響されている。保の家庭教師の越智の場合にしろ、そうだった。彼の主観的なまた性格的な批評が、そのまま多計代の伸子に対する感情表現にくちまねされるから、伸子は娘として我慢ならなかった。母と娘とさし向いならば衝突は烈しく互に涙を流し合おうとも、多計代に対する心底からの嫌悪がのこされて行くようなことはないのに。佃と結婚した当時のごたごたの間多計代は伸子をしばしば泣かせ、娘に対して母親だけの知っている苦しめかたで絶望させた。でもあのころは母だった。伸子が泣いてものの云える母であった。あのころはまだ二人の間に立つものは存在しなかった。やがて越智があらわれ、モスクヷへまでこういう人があらわれて。──母が肉親の情のあらわれだと信じて行う工作は伸子の心を多計代に対して警戒的にするばかりだ。多計代は致命的なこのことに心づかないのだろうか。たった一度しかあったことのない軍人に、それが旧くから知ったもののところへ義妹を縁づけた人だというだけの因縁で、おそらくは、軍人だからたしかだと信じて多計代が自動車で駈けつけ、伸子の思想上のこともよろしくお願いいたしますとたのんでいる情景を想像すると、伸子は手のひらがにちゃつくような屈辱をともなう切なさだった。保がああして死んで、伸子は何が多計代にうちあけられたろう。伸子には保の死について多計代の責任を感じる和解しがたい思いがある。それは、保が亡くなってからの伸子の生きてゆく意識に作用している。伸子は保であるまいとしているのだった。人生に対して。母というものに対して。どうして、それやこれやのことが、手紙のようなものに書けよう。議論される余地のあることではなかったのだから。伸子にとってそれは自分の生そのものなのだから……

 思い沈んでだまっていた伸子に、藤原威夫は、彼もその間に彼自身の考えの筋を辿っていたらしく、しかしなんですな、と云った。あなたのお母さんはさすが井村先生の令嬢だけあって、皇室に対しては今どきめずらしい純粋な気持をもっておられるですね。お話をうかがって敬服しました。

 藤原威夫のその軍人らしい賞讚の言葉を、伸子はぼんやりと実感なくきいていた。母が、皇室に対して純粋な気持をもっている──それは何だかまるで生活からはなれていて伸子の感情にない問題だった。自分の感情の中に合わせるピントがないという意味で、伸子は母と藤原威夫という軍人とはっきり別な自分を感じるのだった。藤原威夫は、帰りしなに、笑って次のように云った。実はお母さんから、モスクヷへ来たらぜひちょいちょいあなたをお訪ねするように御依頼をうけたんですが、どうもこう忙しくては折角おひきうけして来たものの実行不可能ですな。

 腎臓病で入院している同じ病棟の掃除婦に、伸子が、お前さんにゃてんで心配の種ってものがないんじゃないか、と云われて、それを自分からもうけがったのは、二三日前のことだった。屈托なく心をひろげて一つの病棟のなかに様々のニュアンスで展開されてゆくソヴェト・ロシアの生活の朝から夜の動きに身をまかせていた伸子は、不意に現れた一人の軍人によって、その居心地のよかった場所から熊手で丸ごとかきおこされた。伸子は、藤原威夫が軍人らしい歩調で出て行ったあとの病室のベッドの上で、自分のまわりにかけられた堅くて曲げようのない金熊手の歯を感じた。ほんとのところ、伸子には藤原威夫の話したことがよくわからなかった。モスクヷへ来る前の伸子が考えたこともなかったし、またモスクヷで伸子が考える必要を感じもしなかったこと、たとえば天皇のことなどを、藤原威夫は主にして話して行ったがそれは伸子に何と無関係のように感じられ、その一方で何と薄気味わるい後味をのこしたろう。

 三・一五事件からあとの本国の空気を知らない伸子には、藤原威夫の出現も天皇論も多計代が彼のところへかけつけたということも、すべて普通でなくうけとれた。そしてその普通でない何かは、去年のメーデーの前、父の泰造が三・一五事件の新聞記事に赤インクでカギをつけてよこした、あのあくどい赤インクのカギが自分の動きに向って暗黙にかけられたように感じた、そのときの漠然とした感じより、はるかに内容をもっており、また意志的だった。藤原の来たのも話したのも個人としてのわけだのに伸子の心にのこされた後味には何をどうしようというのか伸子にわからないが、ともかく権力の感じが濃かった。そして、そのような権力を身のまわりに感じることは伸子を居心地わるくさせる一方だった。

 その午後おそく素子が病室へ来たとき、伸子は待ちかねていたように、

「あなた藤原威夫って少佐に会った?」

ときいた。

「さっきここへ来たわよ」

「きみのおっかさんからたのまれたってんだろう?」

 素子は皮肉な眼つきで浮かない伸子の顔つきを見ながら鞄からタバコを出しかけた。

「ひどく鄭重なお礼言のおことづけだった」

 そう云って素子はハハハと笑った。

「きみのおっかさんの現金なのにゃ、顔まけだ」

 モスクヷで病気している伸子が素子の世話になると思うと、多計代はそれとしてはうそのない気持で感謝のことづてをよこしたのだろう、でも素子とすれば過去何年もの間自分に向けられている多計代の猜疑や習慣的に見くだした扱いの、全部をそのことによって忘れることはできないのだった。素子は、おきまりの土産であるミカンを鞄から出して一つずつ伸子のベッドのわきのテーブルへ並べながら、低い声の、ちょっと唇を歪めた表情で、

「君のおっかさんは何と思ってるかしらないが、ここじゃ、ああいう関係、いいことはないよ」

と云った。

「わたしもそう思ったわ。──ほんとに困る……」

「木部中佐とは反対のタイプさ、そうだろう?」

「そうだと思うわ」

「木部君にしたって、あの磊落は外向的ジェスチュアだがね」

 伸子は素子のいうことがいちいちわかって、一層せつなかった。心細い活路をそこに見つけるように伸子は、

「あなた、東大の吉沢博士がモスクヷへ来るかもしれないって話きいて?」

と素子にたずねた。

「誰から?……藤原からかい?」

「私にちょっとそんなこと云ってよ。──もし来るときまったらわたしを診てもらうようにするって母が云っていたって」

「へえ──知らないよ。佐々のお父さんと同郷とかっていう、あの吉沢さんかい?」

「聞いたことがあった?──吉沢さんでも来ればいい」

 伸子は、自分の病気を診てもらうもらわないより、せめて自分の病室へは藤原威夫のようなものでない普通の人、天皇のこととか伸子の思想のことだとか云わないあたり前の人に来てほしかった。

 その夜は、二つばかりさきの小病室から終夜病人の呻り声がこちらの廊下へまできこえた。伸子が入院してから平穏がつづいているその病棟にはじめてのことだった。その呻り声は、はじまった病気の苦しみというよりも、死ぬ間際のうめきのようにきこえた。婦人病棟だのに、その呻り声は高く低く男のようにしわがれて、ドアの外の廊下を看護婦や当直医の往来する足音がした。

 あたりがふっと静まったときまどろみかける伸子は、じきまた聞えて来る呻り声で目をさまされた。さめた瞬間、伸子の心は沈んでいて昼間の印象がこびりついている自分に気づくのだった。灯を消してある病室の中は、ドアの上のガラスからさしこむ廊下の明りにぼんやり照し出されていた。その薄暗がりの中で両眼をあいている伸子には、暗さが圧迫的で、我知らず耳をひかれる物凄い呻り声が高まるにつれ、伸子の体は恐怖といっしょに仰向きに横わったまま浮きあがるような感じだった。

 こんな晩こそナターシャが見たかった。看護婦の大前掛を大きいおなかの上にかけて、はたん杏の頬をして、ゆっくり歩いているナターシャが。でも、ナターシャはよびようがない。彼女は夜勤はしなかった。身重だから。

 呻り声がたかくなってこわさがつのると伸子は息をつめ掛けものの下でぎゅっと両手を握りあわせた。伸子の全心が苦しく緊張し、その苦しさのなかには呻り声から与えられる恐怖とは別に昼間のいやな後味が冴えて尾をひいているのだった。薄い涙を眼のなかに浮かせたまま、伸子は顔をできるだけ深く枕に埋めるようにして明けがた近く、疲れて眠った。


 この二月初旬から三月にかけての間に、本国の佐々の家で多計代を中心にどんな相談がもちあがり、それが実行に移されようとしていたかということについて、伸子は全然知る由もなかった。


十五


 三月にはいったばかりの或るひる前のことだった。ナターシャと素子とが二人揃って伸子の病室へはいって来た。

 ベッドの中で爪をはさんでいた伸子はそれを見て、

「あら──どうして?」

 小鋏みの手をとめ、鞣外套を着ている素子からナターシャへ、ナターシャから素子へと視線をうつした。素子は伸子の入院以来、かかさず日に一度は病室へ顔を見せていたが、それはいつも必ず午後二時から四時までの面会時間のなかでだった。伸子の顔にかすかな懸念があらわれた。入って来た素子がどこやら緊張した表情で、不機嫌だというのともちがう口のとがらせかたをしている。伸子は自分の手術のことかと思った。前々日フロムゴリド教授の回診があったとき、原因不明の伸子の肝臓のはれがあんまり永びくから、一遍外科で診察される必要がある、と言われていたのだった。伸子は、手術をのぞんでいなかった。脇腹にパイプのはめこまれた体になることを欲していないのだった。

 素子は、伸子の咄嗟の不安を察したらしく、

「ちょいと早く見せたいものができたんで特別許可をもらったの」

と説明した。

「なんなの」

「──心配はいらないことさ」

 ナターシャが去ると、伸子は、

「ね、なんなの」

とせきたてた。

「こういう電報が、けさ来た」

 渡されたローマ綴りの日本語の電文をよんで、伸子は、

「まあ」

 ほとんど、あっけにとられ、信じられないという風に素子を見あげた。そして、もう一ぺんたしかめるように一字一字をよんだ。「マダタイインセヌカ、ワイチローケツコン三カツ一四ヒ。イツカ五カツ二三ヒコウベハツ、七カツ一ヒマルセーユチヤク」まだ退院せぬか。それはすらりと伸子にのみこめた。和一郎結婚三月十四日も唐突ながらわかった。五月二十三日神戸発、七月一日にマルセーユに着というのもわかるけれども、一家というのは──。

「どういうんでしょう」

 一家という言葉にあらわされている父と母、弟とその妻となるおそらくは小枝、妹のつや子という佐々一家の人々を、七月一日にマルセーユに着く顔ぶれとして想像することは、日頃の一家のくらしぶりを知っている伸子にとってあんまり予想外だった。伸子は、しばらく黙りこんで電報をながめていた。やがてうなるように、

「どういうつもりなんだろう」

とつぶやいた。多計代の健康がよくなくて、一日に何度も神経性の下痢がおこること、糖尿病から視力に障害のおこっていることなどを、保が亡くなってからの手紙には、絶えず訴えられていた。伸子は、多計代の外出のひとさわぎの情景を思い出した。海辺の家へ数日出かけるだけにさえ、どれだけの荷物と人手が入用だったろう。家のなかでさえ自分の枕、自分の洗面器がなくてはならない多計代が、ヨーロッパへ来る。──電報のローマ綴りの間から、伸子は佐々一家独特の混雑と亢奮とを、気圧計の針が全身で気圧の変化を示さずにいられないようにありありと感じとった。費用の点から言っても、伸子が知っている範囲では、佐々の家にとって一つの事件というに足りた。自家用の自動車をもっているにしろ、そして、多計代はいつもそれでばかり出歩いているにせよ、その自動車はガソリン消費のすくないイギリスのものであり、かつ、自動車輸入が無税であった期間に買われたものだった。佐々の家の経済は、日常些細なことには派手やからしいが、どういうまとまった額の支出にもたえるという深い実力をもっているものではなかった。きっと父は陶器を手ばなすのだろう。伸子はそう思った。佐々泰造は陶器に趣味があって、蒐集のなかには名陶図譜にのっているものもあった。それにしても、一家総出で来るというのは──つや子まで連れて……

「あなた、これ、いったいどういうことなんだと思う?」

 伸子は、ゆったりおさまっていたベッドの下が急にあぶられて熱くなりだしたような眼で素子に相談しかけた。

「うちじゅうで来るなんて」

「わからないね」

 赤くすきとおったパイプをかみながら素子は、

「こっちへ来る気なんじゃないかな」

 病院へ来る道々でもさんざん考えたあげく発見している結論のように、おとなしい客観的な調子で言った。

「保君がああいうことだったし、君の病気というんで、おっかさんが矢も楯もたまらなくなっているんじゃないのかな」

 伸子は、おびえた眼色になってこの間うけとった母の手紙の文句を思いあわせた。「母は可能なすべての方法をとる決心をしました。」まずその第一のあらわれとして、多計代にたのまれて訪ねて来たというのが軍人の藤原威夫だった。その訪問は伸子に苦しいだけだった。こんどはうちじゅうでやって来て。──そのようにうちじゅうでやって来るということに対して、伸子はどうするのが当然だと思われているのだろう。ああ、と伸子は両手で顔をおおいたいようだった。

「かえりをこっちからシベリアまわりにして、もし君がなおってないなら、そのとき一緒につれて帰ろうという心もちじゃないのかい?」

「ほんと? そりゃ、だめよ! そんなの絶対にだめだから

 伸子はベッドにしがみつくような泣き顔になった。

「もっとも、七月にマルセーユ着っていうんだから、まだかなり間があるがね。まだ三月になったばかりなんだから五ヵ月もすりゃ、ぶこちゃんだって、まさかよくなってるだろうさ」

 とりみだしたというに近いほど困惑している伸子を眺めて、

「ぶこちゃんにも、人の知らない苦労があるさね」

と、素子が、伸子のはげしい困惑の半ばは自分も負っているものの思いやりがある口調で言った。

「なにしろ、君の一家はかわってる。奇想天外を実際やりだすんだから恐縮しちまう。そこへ行くと、うちの親父なんか、全くのメシチャニン(町人)だからね。かえって始末がいいようなもんだ。せいぜい年に二度の別府行きぐらいしか考えもしない」

 伸子は少しずつ最初の衝撃から分別をとりもどした。うちで、こまかい計画を立てきってしまわないうちに、それに応じた手配があちらこちらへされてしまわないうちに、伸子たちは伸子たちとして自主的なプランをはっきり知らしてやることが先決問題だと考えついた。すべてが二人にとって、特に伸子にとって受けみな、追いこまれた状態になってしまわないためには。──

 伸子は一生懸命に起り得るあれやこれやの条件を考え、それについて素子に相談し、最後に一つの決定をした。それは伸子たちが、モスクヷから出て行って、フランスでうちのものと合流する、という方法だった。

「たしかに、それも一つの方法かもしれない」

 素子もその計画に不賛成でなかった。

「わたし、そうするのが一番いいと思う。どうせわたしたちだって、いずれフランスやドイツは見ようと思っているんだし、ね、そうきめましょう、ね。──どうかそうきめて頂戴ちょうだい

 伸子は肝臓の手術をうけようと思っていなかった。なお相談しているうちに、伸子は、いつだったかフロムゴリド教授が云った言葉を思い出した。肝臓に炭酸泉がきくということを。フロムゴリド教授は、真白い診察着の膝に、うす赤く清潔に洗われた手をドイツ流な肱のはりかたでおいて、鼻眼鏡をきらめかせながら、身についている鼻声で、日本には豊富な温泉があることをきいていると言った。そのとき、炭酸泉の温浴は、肝臓のためのすばらしい治療だと言った。

「いいことを思いついた。素敵! 素敵!」

 それを思い出して伸子は素子の両手をつかまえた。

「ね、ほら、ドイツのどこかにバーデン・バーデンて有名な温泉場があったじゃないの、よく小説なんかに出て来る。──それからカルルスバードっていうところも。わたし、どっちかへ行くことにする」

 ヨーロッパの温泉地がどういう風俗のところであるか、伸子たちがモスクヷ暮しの習慣と、ろくな身なり一つ持たないでその雰囲気にまじれるものかどうかということについて、何ひとつ知らない伸子は、そういうことを知らないからこその単純さで自分の思いつきにすがりついた。手術をしないようにすること。そして、国外旅行の許可を得ること。その二つのために、カルルスバードかバーデン・バーデンへ治療に行くということは、ヨーロッパの人々の常識にとってよりどころのない理由ではないはずであった。午前中相談をかさねて、伸子はさしあたっては次のような電報を佐々のうちあてにうってもらうことを素子にたのんだ。「コンゲツスエマデニタイイン。マルセイユニテアウ」


十六


 朝からの思いもうけない亢奮で疲れ、伸子は長い午睡をした。そして、目がさめたとき、伸子はテーブルの青い薬箱の下から、もう一度電報をとり出して、読みかえした。雪崩なだれがおちかかるように感じられた驚きと不安がすぎ、伸子たちとしての処置の第一段を一応きめたのちの感情でしずかに電報を読んでいると、伸子の心には午前中感じるゆとりのなかったいくつものことについて思われて来た。

 日本の中流の家庭で、一家五人のものが、どういう事情にせよ外国にいるその家族の一人に会いに出かけて来るということは、例のすくないことだった。あたりまえにはない佐々のうちのもののやりかただが、それをいきなり自分をさらいに来るためばかりのように警戒の心でだけうけとった自分を、伸子はわるかったと思いはじめた。伸子の病気が一つの大きいきっかけになっているにしろ、折角みんながそれだけの決心をして出かけるからには、父の泰造として二十年ぶりのロンドンも再び見る機会を期待しているだろうし、多計代にしろ、一度西洋を見たいという希望は随分昔からのものだった。視力が弱っていると言えば、多計代が今のうちに外国へ行ってみたく思うのは当然だとも思われた。保が死んで、多計代には夫だのほかの子供たちとはまったくちがった存在として神格化された「彼」というものができてしまっているらしかった。それは、一家のみんなにとって圧迫的でないわけはない。珍しいところへ、あれこれかかわっていられない時間や旅程でガタガタ旅行をし、様々のものを見たり聞いたりすることは、うちの空気をすっかり変えるためにいいかもしれない。ほこりの種であった保を失った多計代が、また別の話の種をもつようになり、それに興味をもてば、どんなにみんなほっとすることができるだろう。出発前に、云わば旅行のために結婚が促進されたらしい和一郎と小枝が、三月十四日といえばたったもう二週間しかないが、急に式をあげるようになったことも、伸子としてはやっぱりうちのものの身になって祝福すべきだと思った。

 泰造や多計代の世間の親としての立場とすれば、こんど長男の和一郎の結婚式こそ、はじめて子供を結婚させると言える場合なのだった。長女の伸子は、あんな騒動をして、親たちがいいともわるいともいうひまを与えずがむしゃらに結婚してしまった。伸子のときには結婚式もなければ、披露らしいものもなかった。それらのことで、あれほど親としての社会的な体面を傷つけられ、自尊心をそこなわれた多計代は、きっと和一郎の婚礼は佐々家の大事なのだからと言ってさぞ盛大にやることだろうと伸子は想像した。数年前行われた小枝の姉の結婚式も、華美だった。実業家である小枝の父親も派手にすべきときには思いきって派手にする性格と手段をもつひとだった。さぞや賑やかなことだろう。伸子が外国へ出発するというだけでさえ人のゆきかいで廊下が鳴るようだった情景を思って、伸子は枕の上でほほえんだ。佐々のうちとしても保がいなくなってお嫁さんというものをもらう息子は和一郎一人になってしまったのだから、萌黄のユタンのかかった箪笥でも長持でもドシドシかつぎこめばいい。なかばユーモラスな感情で伸子は親たちの派手ごのみを肯定した。

 和一郎と小枝が結婚するようになったということは、伸子としてとうとう、と思えることだった。和一郎はもう何年も従妹の小枝がすきで、伸子がソヴェトへ立って来る前の日の晩、伸子をわざわざ暗い応接間へひっぱりこんで、彼の気持を多計代につたえておいてほしいと言った。小枝は、華麗な少女で、樹のぼりが上手という風な自分の知らない活気と生の衝動にみたされている娘だった。多計代は、和一郎が従妹にあたる小枝のところへ幾日も泊っていたりすることについては、和一郎を信用して黙認して来ているのに、伸子が彼の決心を伝えたとき、そんなことを言っていたかい? とそのひとことに明瞭な否認をこめて伸子を見た。そりゃ小枝ちゃんはわるい子じゃないだろうけれど、和一郎のおくさんになんて! あのひとは、夫を扶けて発展させるようなたちの女じゃあないよ。あんまり享楽的だよ。多計代は小枝についてはっきり自分の批評をもっていた。伸子は、明日に迫った出立のために気ぜわしくて、細かく話をしていられず、きいてもいられなかった。彼女は、短い時間と言葉のうちに多計代を説得しようとするように母の手を押え、でもねお母様、と言った。和一郎さんは決心をかえないことよ。そうはっきり言ったわ。だから、わたしに、お話しておいてくれとたのんだんでしょう。伸子は、そのとき、母の白くてにおいのいい顔を見ているうちにいつもながらわが息子尊しが不快になって、お母様もよくお考えになった方がいいわよと言ったのを今も忘れなかった。和一郎さんがあんなにずるずる飯倉の家へとまりこんだりしているのは放っておいて、あげくに、小枝ちゃんが和一郎を扶けて立身させる女でないなんていうの、虫がよすぎるわよ。小枝ちゃんは和一郎さんがよくよくきらいでないなら好きになるしかしようがないようになってるのに。伸子にそうつっこんで言われると多計代は、また例のお前がはじまった! と伸子の手から自分の手をひっこめた。お前は姉さんのくせに──お前はしたいようにやってみるのもいいだろうが、和一郎まで煽動しておくれでないよ。そう云う多計代の二つの眼に伸子の言葉をはねかえす光が閃いた。伸子は、じゃまあいいようになさるといい。とそこを立ちかけた。でも、わたしがあのひとにたのまれて、こういうことを言ったことだけは覚えていて下さる方がいいことよ。

 あのいきさつ──多計代の小枝に対する不満は、どう扱ったのだろう。伸子は、ベッドのかけものの上へ出している両手の間で電報をひろげたり畳んだりしながら思いめぐらした。和一郎も小枝もがんばりとおしたと見える。

 伸子がソヴェトへ立つ前に一家揃ってとった写真の中には、制服をきちんと着て、ぽってりとした顔にまったく表情の動きのない保の姿がうつっており、前の例に、おかっぱで太い脚をして、はにかみと強情と半ばした口もとで小さいつや子もうつっていた。そのつや子までついてはるばるやって来る。──

 この思いたちを、できるだけ豊富な収穫の多いものにし、愉快なものにするために、伸子は自分ものり出そうという気になった。自分の積極性をその計画に綯い合わして行こうと思いはじめた。和一郎と小枝にとって、ましてつや子にとってそういう旅行をする機会がまたいつあろうとも思われなかった。若い連中への思いやりとはおのずからちがったニュアンスで、父と母とがその立場や境遇にふさわしくこの旅をたのしむことを想像すれば、それはやはり伸子にやさしい思いを抱かせるのだった。できるだけみんなを満足させ、その上でみんなはシベリアをとおってなり、アメリカをぬけてなり、都合のいいように帰ればいい。そして自分はまたモスクヷへ戻ってくればそれでいいのだ。自分はうちのものみんなと、どうしても帰らないと気分がきまればきまるほど、伸子はさっぱりしたこころで、一家の旅行が愉快に始められることを希望するようになった。

 翌日、素子が来たとき伸子は、彼女の顔を見るなり、

「ねえ、わたし、少し希望が出てきたわ、みんなが来るということについて」

 嬉しそうに快活に言った。

「わたしはね、早くよくなって、フランスまで出かけて、まめによくみんなの面倒をみてやってね、帰れなんて言われないようにする決心したのよ」

 熱心な思いを浮べて話している伸子の顔をじっと見つめ、素子は非常にまじめな複雑な表情で、彼女の大きめな唇の隅をゆっくりつりあげた。その表情には、ちっとも皮肉がなく、伸子をあわれんでいるような、また伸子のその考えかたをあやぶんでいるような表情だった。伸子は、その表情に素子の無言の批評を感じて、

「どうして?」

とききかえした。

「いけないところがあると思う?」

「──よすぎるぐらいだろう」

 素子は、

「肉親なんて、なんと言ったって大したもんさ」

と、沈んだ声で云った。伸子は、その声の調子から、素子の知りぬいている多計代を中心にパリのどこかでかたまった情景を描くと、素子はその家族の輪に決してしっくりはまることのあり得ない自身を急に一人別なものとして感じているにちがいなかった。伸子は、間接にその問題にふれ、しかし直接には自分の希望として、

「わたしたちは、うちのものとは別々に暮しましょうね」

と提案した。

「どうせわたしたちは、生活の内容がちがうんだし、サーヴィスばっかりじゃとても身がもたないから」

 伸子たちが、すこし早めにパリへついていて、自分たちなりの暮しかたをはじめておれば、佐々のうちのものとすっかりまぜこぜになる必要もおこるまい。いくら、うちのものを満足させようと思う気になったにしろ、伸子は多計代が好むような交際や見物につき合うきりで辛抱できない自分であることはわかっているのだった。そして、もっと伸子自身にとってこまったような面白いような思いのすることは、フランスとかパリとかいうとき、モスクヷに一年以上生活した現在、伸子の心にそこで何がほんとに自分の興味をとらえるのかということがつかみにくくなって来ていることだった。ひととおりのものに万遍なく興味をもつことは、伸子の生れつきから自然だった。ソヴェトへ向って立って来る時分の伸子は、そのひととおりフランスらしいもの、音楽とか絵とかカフェーとかマロニエとかパリの雰囲気として語られているものに期待するだけだった。けれども、現在の伸子は、モスクヷについてクレムリンや並木道ブリヷールの風物以外のより現実的な生活の組立てと動きとに魅せられているとおり、パリときくと、そこには何があるだろうかと、見とおしのきかない複雑な都会生活のリアルな細部を求めて気持が動き、フランス語を知らない自分たち二人がもっている貧弱な可能性について伸子は思うのだった。


 もうとうに素子のスケート練習は中止だった。素子はそれでも三四度、大使館専用のスケート場へ通ったらしかったが、ころんでばかりいたってはじまらないや、と笑いもせずにつぶやいて行かなくなってしまった。伸子はベッドの中から惜しがって、モスクヷにいるうちだわ、おやりなさいよ、とはげました。きっともうじき歩けてよ、いまやめちゃ、一生やらなくなっちゃうってことだもの。しかし素子は、わたしは駄目だよと伸子の激励をこばんだ。わたしは駄目さ。体をこわばらしちまうんだから。──伸子はそれ以上すすめることをやめた。素子自身に不可抗な、そういうことは素子の性格的な一つのあらわれであることを伸子は理解したから。

 七月一日マルセーユ着という多計代からの電報をうけとってから、日に一度伸子の病室へ来る素子の来かたもおのずから内容がかわった。病人である伸子の気分もかわって、二人はこれまでのようにミカンをたべながらのんびりしているというような時間がなくなった。伸子と素子とは長椅子へ並んでかけた膝の上にヨーロッパ地図をひろげて手帳のうしろについているカレンダーを見くらべながら、モスクヷからパリまでの道順を相談した。ウィーンとかベルリンとかいう都会にどのくらいずつの日数を滞在するかという予定をたてた。素子はそれとなしに河井夫人に相談して、二人の最少限の服装はでずいらずのウィーンでととのえるのがよかろうということになった。ウィーンからプラーグ。そこからカルルスバードへ行き、ベルリン、パリという順だった。それにしても、伸子がいつ退院できるものか。うちへは、今月末までに退院と電報をうってやったけれども、それは退院の見こみ、または伸子たちの予想というだけで、フロムゴリド教授はその点について、はっきりしたことは何も言っていなかった。ただ、教授の話しぶりから伸子自身が、内科的な治療としてはするべきことがすべて試みられたこと、フロムゴリド教授は現在肝臓のはれのひききらない状態のまま伸子がだんだん動けるように訓練していること。しかしそれは快癒の状態ではないから、外科に診察をうけさせようと思っていることなどを判断しているのだった。そして、自分としてはかたく心をきめているのだった。よしんば不十分な癒りかたであるにしても、白くて、丸くすべすべした自分の脇腹から年じゅう胆汁を流す一本のゴム管をぶら下げて生きていなければならなくなるような手術は断じて受けないと。伸子は不具のような体になるのはいやだった。ブラウスの下にゴム管をさげている女の姿を想像すると、伸子はそこに遮断され、限定された未来を感じた。伸子は未来をそっくり未来のまま欲しているのだった。

 三月の雪どけがはじまって、冬じゅう静かな雪あかりにみたされていた伸子の病室の壁にも、雪どけでどこかにできた水たまりから反射するキラキラした光りがおどるようになった。そういう一日、伸子はショールをかぶり、毛布に包まれ、運搬車にのせられて、病室からはなれた構内にある外科へ診察をうけに運ばれた。ワーレンキ(長防寒靴)をはいたナターシャが看護服の上から外套を着、プラトークをかぶってついて来た。

 適当な温度にあたためられたひろい手術室で、伸子は着ているものをすっかりぬがされた。そして、手術台の上によこたえられた。マスクをつけていず、手袋をはめていないというだけで、すっかり手術者のなりをした三人の医者が、つやのいい体を裸でころがされ、きまりのわるさと厳粛さとまじりあった表情で口をむすんでいる手術台の上の伸子をかこんだ。そして、だまって診察しはじめた。内科の医者がやるとおり、肝臓の上を押したり、それを痛がって伸子が顔をしかめると、

「──痛む(ボーリノ)」

と仲間同士でつぶやいたりしながら。いくたびも同じ調べかたをしてから、三人のうちの一番年長で髭の剃りあとの鮮やかな医者が、

「さて…………」

 手術台から一歩どいた。手術室づきの看護婦の方へ伸子に着せるようにと合図しながら、

「あなたは手術をのぞんでいますか?」

 伸子は、手術台の上におきあがり看護婦のきせる病衣に腕をとおしながら断髪の頭をもたげてその医者を仰ぎ見、ひとこと、ひとことをあいての理解にうちこもうとするように云った。

「ヤー・ソフセム・ニェ・ハチュー(わたしは全然のぞんでいません)」

 みんなの顔に瞬間微笑がうかんだ。

 主任医師が、ちょっと考えた末、

「あなたに手術の必要はありません」

 そう結論した。医者の一人はそれだけきき終ると手術室のドアの方へ去りかけた。

「フロムゴリド教授はあなたをよく治療しました。あんまりあぶらっこいものを食べなさるな。ウォツカは一滴もいけませんよ。いいですね」

 また運搬車にのせられて、菩提樹並木の間の雪どけ道を内科病室の方へもどるとき、伸子は、

「ナターシャ、どんなにわたしがうれしいか察して頂戴!」

と言った。

「わたしは手術を恐れていたんだもの」

「まったくですよ」

 大きなワーレンキとふくらんだ体つきとでロシア人形のようなかっこうのナターシャは、折から行手にあらわれた水たまりをよけながら内科の看護婦らしく同意した。

「わたしも手術はきらいです」

 天気のいい午前十一時ごろで、大気はつめたくひきしまっているけれど、三月の日光は晴れやかにそのさわやかな大気を射とおし、伸子が運搬車で押されて行くふみつけ道のあたりのしずけさのうちには、樹の枝々からとけた雪が、地面にまだ厚く残っている雪の上へしたたり落ちるかすかなざわめきがあった。伸子はまる二ヵ月ぶりで外気にふれたのだった。手術をしないでいいときまって、しんから安心した伸子の体にも心にもよろこびがあふれた。長い冬ごもりからとかれた動物が春の第一日の外出で、自分の巣をもの珍しげに勿体もったいぶって外から眺めるような感情で、伸子は菩提樹並木の彼方の平屋建木造の内科病室を眺めやった。

 その午後、病室にあらわれた素子を見るなり伸子は、

「万歳よ!」

 握りあわせた両手をすとんとベッドのかけものの上へうちおろしながら告げた。

「悪魔退散よ! 手術しないでいいときまったことよ」

 そして、上機嫌のおしゃべりで、伸子はけさ外科へ診察のため運搬車にのせられて出かけて行ったことや、久しぶりの外気がどんなに爽やかで気持よかったかということや、雪どけの道で、どんなに多くの悪魔の黒い穴を見つけたかという話をした。

 外科から病室へ帰って来る途中の菩提樹並木のところで、伸子は人のふまない白い雪の上に、いくつもいくつも泥のしぶきでまわりの雪のよごれた小さい黒い穴ぼこができているのを発見した。樹の枝々からしたたり落ちる雪どけ水が点々と地べたの雪をうがってつくる穴ぼこだった。モスクヷに春の来たしるし、季節の足跡として、去年の早春も並木道ブリヷールを散歩するたびに伸子の目についた。いよいよ手術しなくてよくなったうれしさでいたずらっぽくなった伸子は、爽快な外気の中を運搬車にねたままで押されてゆきながら道ばたの菩提樹の下にあらわれるそのよごれた小さい黒い穴を、あんこのついた日本の子供の口のまわりのようだと思った。ひとり笑いたいような気持で眺めて通ってゆくうちに連想がひろがって、伸子はチョルト・ポヴェリ(悪魔にさらわれろ!)と、すぎさった手術に向って心の内で陽気にルガーチ(罵り)しながら、ひとり笑いで唇をゆるめた。ロシアの人が言うように、一つの黒い小さい穴から一匹の悪魔チョルトが消えるものなら、何てどっさりの悪魔が、ここいら辺の雪の上についた穴から消えたことだろう。何ぞというとチョルトという言葉をつかって悪態をつくロシアの大人や子供が、冬じゅうめばりをした家の中ではき出した大小無数のチョルトが、春になって開いた戸口からみんなにげ出して、やれやれと穴へもぐったかと思うと伸子はひどく滑稽だった。

「わたしのロシア語じゃ、とてもこんなおかしさは話せないしさ。それこそまったくチョルトだと思っておかしくって……」

 伸子は安心を笑いにとかし出して素子とふざけた。


十七


 手術しなくていいときまって、伸子はなるたけ一日のうちの長い時間をベッドから出て、起きている稽古をはじめた。三月中に退院することについて現実のよりどころができた。フランスでうちのものたちと合流するという計画も実際的に考えられて来た。三月十四日に間に合うように和一郎と小枝との結婚を祝う電報をうったなかに伸子はハハノケンコウノタメアメリカケイユデコラレヨと云ってやった。糖尿病からのアセモがひどくて、毎年夏は東京にもいられない多計代が、どうして真夏の欧州航路で印度洋の暑熱をとおって来る気になっているのだろう。伸子はだんだん考えを実際的にひろげて行って、それを無謀だと思った。うちのものが少くともつつがなく旅をたのしむには多計代の健康が第一であり、そのために金はかかっても、涼しい太平洋の北方航路をとり、アメリカも北方鉄道でぬけて大西洋からフランスへ来た方が、安全と思われるのだった。

 日本ではきょう和一郎と小枝の結婚式があげられたという夜、伸子は何とはなし眠りにくくて、九時すぎても病室のあかりを消さずにいた。

 かれこれ十時になろうとするころだった。伸子の病室のドアがあいて、よほど前に一ぺん見たことのある女の助医が入って来た。看護婦とフロムゴリド教授の助手であるボリスとのちょうど中間のような地位で、伸子が入院して間もなく回診について来たことのある女助医だった。

「こんばんは。──いかがですか?」

 伸子が名前を知らない女助医は、ずっと伸子のベッドのそばへよって来た。

「久しくお会いしませんでしたね。もうほとんど恢復しなすったんでしょう?」

 この前みたときと同じ四角い乾いた顔つきで、彼女は愛嬌よくしゃべりながら、伸子を見たりベッドの枕もとのテーブルの上へ眼を走らせたりした。

「今晩、わたしは当直なんです。あなたのことを思い出しましてね、よし、ひとつあの気持のいい日本の御婦人を見舞って来ようと思いついたんです」

 彼女の来た時間も、また彼女のいうこともとってつけたように感じながら伸子は、

「ありがとう」

と答えた。

「やっとそろそろ歩きはじめました──もう結構永いことねたきりだったけれど」

「おめでとう」

 女助医は何だかおちつかない風で病室のなかをひとわたり見まわし、

「ちょいとかけていいですか」

ときいた。

「──どうぞ」

 伸子は、病室へ来たものは誰でもそうするようにその女助医もむこうの壁ぎわにおかれている長椅子にかけるものと思った。ところが、彼女は伸子が思ってもいなかったなれなれしさで、いきなり伸子がねているベッドの脇へはすかいに腰をおろした。伸子は思わずかけものの下で少し体を横へずらせた。女助医は、伸子がその表情をかくそうともしないで迷惑がっているのに一向かまわず、夜の十時の患者の室がまるで非番の日曜日の公園のベンチででもあるかのように、

「あなた、作家でしたね、そうでしたね」

と言いだした。

「ええ」

 伸子は短く答えた。

「どんなものをお書きなさるの?──ロマン? それともラススカーズ(短篇)? ああ、わたしは文学がすきですよ。何てどっさり読むでしょう!」

 だまっている伸子に、彼女はくりかえしてきいた。

「ね、何をおかきなさるの?」

「小説(ポーヴェスティ)です」

「すばらしいこと! ロシア語でかかれないのはほんとに残念です。本になっていますか」

「わたしはもう幾冊かの本を出版しています」

 だが、一体何のためにこういうばからしい会話をしていなければならないのだろう。伸子には訳がわからなくなった。彼女が伸子を迷惑がらしているということをはっきり知らすために、伸子は、

「私に幾冊本があろうと、あなたには同じことです──残念ながらあなたは読めないんだから」

 そう言った。

「さあ、もうそろそろねる時間です」

 そして、伸子がベッドの中で寝がえりをうちそうにすると、女助医はどうしたのか、

「もうちょっと! 可愛いひと!(ミヌートチク! ミーラヤ!)」

というなり、ベッドのはじにはすかいにかけていた体を、半分伸子の上へおおいかぶせるようにして右手を伸子の体のあっち側についた。

「きいて下さい、わたしはゆうべ結婚したんです」

 その瞬間伸子は女助医が酔っぱらっているのかと思った。ウィシュラ・ザームジュ。嫁に行った──そうだとしてこのひとは何故伸子に知らさなければならないのだろう。伸子は枕の上でできるだけ頭と顎をうしろへひき、きめの荒い四角いどっちかというと醜い女助医の顔から自分の顔を遠のけるようにした。

「あなた、旦那さんがありますか?」

 不機嫌に伸子は、

「わたしに旦那さんがあるんなら、どうぞ見つけ出して下さい」

と云って、片手で、

「窮屈(トゥーゴ)」

と自分の上へかぶさりかかっている女助医の白い上っぱりの腕をおしのけるようにした。そう大柄ではないが重い彼女の体と、伸子の体ごしにつっぱった彼女の手との間で伸子のベッドのかけものは息ぐるしく伸子の胸の上でひきつめられた。

「ね、息をさせて!」

 必要よりすこしきつい力を出して伸子は身をもがいた。女助医は上の空のような表情で、

「御免なさい」

 伸子の体ごしについていた手をどけ、同時に自分の体をまともな位置にもどしながら、なお追いかけて思いこんだように、

「あなた、どこからお金をうけとっているんです?」

ときいた。

 この質問で、伸子に万事が氷解した。彼女はさしせまってモスクヷ大学病院に入院中の日本婦人佐々伸子について、一定の報告をしなければならない立場におかれているにちがいなかった。しかもそれは、突然の必要で、彼女はいそいでいるのだ。それにしても、この人は何という下手な演技者だろう。そういう性質の仕事にまったくふさわしくなく愚直で、悪意がないどころか機智にさえかけた女助医のしどろもどろの努力はむしろ伸子にあわれを感じさせた。伸子は、もう一年以上モスクヷに生活して、ある程度は外国人に対するソヴェトとしてやむをえない必要というものについては理解していた。そして、伸子の理解は同情的だった。無邪気でない者に対して無邪気である必要はない。自分の気持としてもそう思っているのだった。だからそういう特殊であるがその特殊が一般性となっているところではあるとき自分もそれにかかわってゆくのはさけられなかった。伸子の主観的な気持から言えば、いまこの女助医は率直に、これこれのことについて答えて下さい、と伸子に向っていうのが一番かしこい的確なやりかただった。しかし彼女にそうはできない。なぜなら彼女の女助医という立場と別の任務とは全く別個の任務とされていてそれについて知っているものは彼女自身よりほかにあってはならないのが任務の性質だから。

 伸子は、彼女のためと自分自身のために、きわめてざっくばらんに説明した。

「或る程度文学の上での仕事を認められている作家が、出版社から本を出す約束で金を出させて旅行するということは、どこの国でもあることです。──わたしのいうことがわかります?」

「どうして? もちろんわかりますよ」

「日本の代表的な出版社の一つである文明社がわたしが出すだろう本のためにわたしのところへ金を送ってよこすんです。朝鮮銀行を通して。──わかりました?」

 どうして越したらいいのか戸まどっていた質問の峠を、すらりと通過することができて、女助医はやっと自然に近い表情と動作をとりかえした。あんなに突拍子もなく、まるで何かに酔っぱらったようにゆうべ嫁に行った、などと口走ったことを忘れたように、彼女はにっこりして、

「きっとあなたはソヴェトについて興味のある本をかくことができるでしょう」

と云った。そして、はじめに文学がすきだといったときの空々しさのない調子でつけ加えた。

「ロシア語に翻訳されることをのぞみます」

 なお暫く黙ってベッドのはじに掛けていたがやがておとなしく立ちあがって女助医は、

「おやすみなさい」

と言った。

「邪魔して御免なさい」

 女助医がドアをしめて病室を出てゆこうとしたとき、伸子はベッドの中から大きな声で、

「あかりを消して下さい、どうぞ」

とたのんだ。

 あくる日、いつものとおり面会時間に来て、伸子からゆうべのいちぶ始終をきかされた素子は、

「へえ。だって今更──おかしいじゃないか」

 素早く頭を働らかせて状況を判断しようとする眼の表情で言った。

「きのうきょうここへ来た人間じゃあるまいし」

「そう思うでしょう? わたしもわからなかったの。でもよく考えてみたらね、御利益ごりやくがあらわれたわけなのよ」

「御利益?……なんのさ」

「陸軍少佐藤原威夫の」

「そうか──なるほどね」

 素子はうめくように承認した。

「だって、そうとしか考えられないんだもの。わたしたち、モスクヷへ来てはじめてだわ、こんなこと」

 伸子は自分の推測を最も現実に近い事情として信じた。それにつけ、考えれば考えるほど歎けて来るおももちで伸子はしょげ、

「ほんとに、母ったら!」

 おこってもまに合わないという風に気落ちした顔を窓に向けてだまりこんだ。

 そのころ、ソヴェトでは、はっきりした目的や理由がないと国外旅行を許可しなかったし、旅行のために国外へもち出せるルーブリの額にも制限があった。伸子たちは、モスクヷから出かけた先のどこか便宜な場所で、伸子は文明社からの送金を、素子は東京の従弟にまかせて来ている送金を受けとることができる手筈をととのえておく必要があった。やっと病棟の廊下をそろそろ歩きするようになった伸子に代って、ひまを見ては素子がその調べのために歩きまわった。こういうことを、伸子と素子とは慎重に二人の間だけの事務にしていた。少くとも、フロムゴリド教授が伸子のカルルスバード行きに賛成して、証明書のようなものを書いてくれるまで。伸子も素子も、いらざるひとに──藤原威夫のようなひとに──二人のこの計画へ手を出されることをひどくおそれた。


十八


 いったい、佐々のうちのもの、と言ってもそれは多計代の意志で決定されたものなのだったが、いつの間に、ヨーロッパへ出かけて来ようという計画をたて、その決心をし、船室までとったのだろう。

 モスクヷ東京間の電報往復にさきを越されてやっと三月三十日ちかくなってついた多計代からの二度目の部厚い手紙を半分ばかり読んだとき、伸子はそういう疑問にとらわれた。手紙の最後の頁をみると、二月二十一日夜と、多計代がそれを書いた日づけが入っている。素子からのしらせで伸子の病気を知り、胸をうたれ、と言って来た一回目の手紙は、いつごろ出したのだったろう。伸子は枕もとのテーブルから紙ばさみをとって、しまってあるその手紙を出してみた。それは二月五日の日づけだった。二つの日づけをみくらべて、伸子は、ものすごいスピードだと思った。たった二週間たらずのうちに、田舎の家へ行くさえも一騒動の多計代がこれだけのことをきめてしまった。いかにも多計代らしい一図さ。情熱的な強引。動坂のうちににわかにまきおこされた旋風状態が察しられるようだった。間に、和一郎と小枝の結婚式までさしはさまれて。

 でも、その和一郎と小枝との結婚について、新しく着いた多計代の手紙の上にあらわされている感情は、期待とちがう沈静、冷淡とさえうけとれる調子で伸子を意外に思わせた。このたびいよいよわれわれ外国行につき、和一郎と小枝の法律上の手続が必要になったから、来月十四日を吉辰として挙式のことに決定。母親のこころは、はかりしれない慈愛をもってこの若い二人の前途を祝福しようと、それぞれ準備中です、とかかれていた。この調子は事務的だった。どことなし、われわれ外国行につき、必要だということが主眼で和一郎と小枝の結婚式は行われることのような感じを与える。「ああ、でもこの母が、出入りのものの祝儀の言葉に何げなくほほ笑んでいる、その胸のうちを何人がわかってくれるでしょう。神となりし吾子は知るらんわが心、泣きつつも笑み、笑みつつも泣く。」

 読みながら伸子は暗さを感じ、危惧をおぼえた。ここでは、若い二人に与える祝福という表現をおおうもっとリアルな雲が湧きたっている。母がしんから和一郎と小枝の結婚を歓迎していない感じがむき出されていた。伸子には書いてよこさない何かの考えを多計代としてもっている。そしてそれは彼にしかわかってもらえない、とされているのだった。

 伸子は唇を酸っぱさで小さく引緊めたような表情になりながら読みすすんだ。結婚式は親類の者ばかりでごく内輪に行い、おなじ顔ぶれで星ヶ岡茶寮の披露をやるとかかれていた。予定されている客の顔ぶれを見て、伸子は、おそらく招かれる親戚たちにしろいささか拍子はずれだろうと思った。日ごろ佐々家のあととりとして、うちの運転手が和一郎を若様とよぶのさえやめさせきらない多計代。泰造の仕事の上の後継者として、泰造の引き立てようが足りないと不満をもらす多計代。その多計代が、和一郎の結婚式を仰々しく行えば、馬鹿らしいにせよ、言わばあのお母さんだからとわかる話だった。そんなに内輪にする理由として、このたびのヨーロッパ旅行に若夫婦と同伴するについては経費も莫大なことだから、と多計代はかいている。

 若夫婦を同伴するのは、二人に対する親の恩恵ということが多計代のかきぶりのうちにはっきり示されていた。たとえ自分の健康がどうあろうとも伸子を見舞おうと決心したことは、親の限りない愛だ、と自分からきめて多計代が言っていると同じに。でもそれは、伸子としてそれだけの単純さにはよめないのだった。だって多計代の「このたびわれわれ外国行につき」という言いかたは、たった二十ことにもみたないながら、何とわれわれと多計代と泰造とを主体とし、決定的に言われていることだろう。お前のところへゆくについては、と行く手に伸子の姿を想像して言われてもいなければ、若い人たちにも見せてやりたいしと、かばったところの感じられるもの言いでもなかった。われわれ外国行きにつき、多計代がこうと思うことはみんなその目的にしたがえさせられる。あれもこれも親心の発露というしめくくりのもとに。そしてもっと伸子をせつなくしたことは、多計代は会う人ごとに、新聞、雑誌の記者たちにまで、こんどの一家総出の外国行きは伸子に対するやむにやまれぬ親心からこそ企図されていることを吹聴しているらしいことだった。

 伸子はわきの下がじっとりするようだった。ふん、と思う人々の気持が伸子の頬の上に感じられた。母というひとは、どうして物ごとをあるとおりに、だからこそ誰でもそのことについてすらりと納得するという風に話せないたちなのだろう。娘が外国で病気している。それが心配だし、一度は外国も見ておきたいから、みんなを連れてちょっと行こうと思う。だれがそれをとがめよう。

 多計代の手紙の白い紙をスクリーンとして、その上には黒や灰色やあかね色が、どぎつく神秘的な水色をのぞかせながら、あとからあとから漂いすぎている。伸子にはそんな感じだった。その定まりない色の渾沌は、わが身の上に映って動き流れるが、伸子はそれをつかまえてどの一つの色に統一させるということもできず、流れてとまらないおちつきなさを静止させる力もない。

 伸子は手紙をしまってから、永いこと枕の上へ仰向いていた。涙にならない涙が伸子の胸のうちを流れた。多計代のえたいのしれない強烈さ。伸子がそれを堪えがたく感じ、偽善だと感じる愛の心理のちぐはぐさ。それが母にとっては微塵のうそのない真情であり、すべての行動はその真情から発しているほか在りようないものと信じられているのを、どうしたらいいのだろう。おそらく多計代にとって世の中には善いことと悪いこととしか存在していないのだろう。そして、「母」は本原的に善に属すものと考えられているのだろう。伸子は歎きをもってそう思った。けれども、生活には、善悪のほかに、母のしらない堪えがたい思いという種類のことがあるのだ。その堪えるにかたい思いを、伸子は多計代との間であんまりしばしば経験しなければならない。それが伸子のやさしくなさ、冷刻さと云われるときこれまで何度も伸子の堪えがたさは燃えて憤りにかわって行ったのだった。

 伸子の心の中のこういう一切のうねりにかかわりなく、ナターシャは今は廊下を歩くようになった患者としての伸子を見、車附椅子に用のなくなった退院間ぢかな一人の患者として伸子に接し、彼女自身はますます雄大なおなかの丸さになって来た。ちぢれた髪にふちどられた精力的な彼女の容貌の上で、頬っぺたのはたん杏色はいっそう濃くなった。

「ナターシャ、あなたいつから休暇をとるの?」

「もう十六日あとに」

「それじゃ、わたしはのこされるでしょうね、たぶん」

 伸子の退院はもう時間の問題だった。けれどもそれが三月のうちにできることか、来月にかかってのことになるか、伸子は知っていなかった。フロムゴリド教授の回診のとき伸子は、外国の温泉行きの話を出しかけたばかりだった。日本にいる家族がフランスへ来る。自分はどこかの温泉へ行って暫く休養した上でフランスで家族に会って来たい。伸子がそう言ったら鼻眼鏡をきらめかせ、鼻にかかった幾分甲高い声でフロムゴリド教授は、

「それはすばらしい!」

と、診察用の椅子にかけている白い上っぱりの上体を前へかがめるようにした。しかし、まだ話はそれぎりのことだった。

 ナターシャが、一日一日と近づいて来る休暇をたのしみにしている様子は、感動的だった。彼女は相かわらず勤勉に勤務し、必要な任務をすべて果し、そういう勤務ぶりで来ようとしている二ヵ月の有給休暇をまったく自分にふさわしいものにしようとしているようだった。ナターシャは毎朝おきると、さあ、あともう何日という風に若い夫と数えて暦の紙をめくるらしく、うけもち患者の一人である伸子にことさら言う必要もない自分たちの計画のたのしさが、勤務中彼女のはたん杏の頬にこぼれて感じとられることがあった。

「ナターシャ、あなたを見ていると、わたしまで何かいいことがありそうなきもちになることよ」

 伸子はほんとうにそう感じるのだった。彼女の見とおしをもった生きかたの単純さ。よろこびの曇りなさ。このナターシャが赤坊をもった姿を想像し、そのかたわらにバリトーンの歌手である彼女の若い夫を居させると、そこに若いというばかりでなくまるで新しい内容での家族というものの肖像が思われた。目的のわからない熱烈さと、とりとめなく錯雑した感情のくるめきに支配されつつ日が日に重ねられてゆく動坂の家族生活と、それとをくらべるとなんというちがいかただろう。ナターシャの新鮮なトマトの実のような「家族」をおもうと、伸子は、動坂の家族生活からうける複雑で、手のつけようのないごたごたした物思いから慰められた。保がああして死んだとき、遂に保を生かさなかった環境とし、自分をも息づまらせる環境とし、伸子は動坂のうちの生活と自分の生きかたとの間に、もう決して埋められることのない距離を感じた。そして、ソヴェト社会に向いてくっささった自分を感じ、その感じにつかまって生活して来た。伸子の心の中にわれめをつくっているその精神のへだたりや動坂のくらしに対する否定の感情はそのままでありながら、娘としてことわりきれないいきさつや肉親として思いやらずにいられない事情が一方に追っかけて来て、伸子はこの間までの苦労なさから掻きおこされてしまった。伸子は、それにつけてもナターシャのよろこばしさを曇りなくかばいたいように言った。

「ナターシャ、休暇をたっぷりたのしみなさいね」

 すると、ナターシャはにっこりして伸子を見、

「散歩できるんです」

とひとこと言った。散歩できるんです──これこそ休暇のたのしさの根本という風に彼女は言った。思えば、そうなはずだった。看護婦として昼間いっぱい勤務し、夜はモスクヷ大学医科のラブ・ファクに通ってきりつめた時の間でくらしているナターシャにとって、散歩ができるということ、昼間ぶらぶら歩きの時がもてるということは、そのほかにも可能ないろんなたのしさがもりこめる自由な時間、解放と休息の何より確実な証左であるわけだった。

 モスクヷじゅうの樹という樹、建物のといという樋が三月の雪どけ水で陽気に濡れかがやき、一日ごとに低くなる雪だまりや水たまりの上に虹が落ちているような雪どけのまばゆさは、伸子の病室にもはいって来た。春のざわめきはおなかの大きいナターシャのうれしそうな様子と調和し、伸子のもうじき退院できるという期待の明るさに調和した。

 家族の騒動や、刺戟的な多計代の激情。支離滅裂な論議ずきを思うと苦しかったが、それでもモスクヷの満一ヵ年の後フランスが見られることや、うちの者たちに会えることは伸子にとっても負担だとばかり言うのはうそだった。伸子は或る日思い立って、日本のうちあてに三通の手紙を書いた。父母あてに、和一郎夫婦あてに、それからあしかけ三年見ないうちに十五歳の少女になっているはずの妹のつや子にあてて。荷物を最少限にすること。母は身についた和服で旅行するように、どうせ多計代はバスや電車にのることはないのだから。足袋は少し多いめに、草履は三足ぐらいもって来るように。パラパラ雨の用意をもつこと──コートなり何なり。なんと言っても和一郎と小枝に対して一番具体的に旅行の収穫を期待する感情が伸子にあった。若い建築家として和一郎がただぼんやり御漫遊の気分で来ないように、専門の立場から何か一つのテーマをもって見て歩く用意をするようにというのが、手紙の眼目だった。つや子へ伸子は、女学校の下級生の受けもち先生のように書いた。自分の身のまわりのことは母や小枝をたよりにしないで荷づくりもできるようにしなければいけない、と。あなたは、これまでいつも何をするんだって、誰かに手つだってもらってばかりして来たんですものね、と。

 もう一週間ばかりで伸子が退院するときまったころ、噂されていた泰造の友人の吉沢博士がジェネヷの国際連盟の会議へ出席するためにシベリア経由で来てモスクヷへ数時間たちよった。その短い時間に素子が吉沢博士に会って、伸子の経過を話し伸子に加えられた治療について報告した。

「そりゃ、もうそこでおちついているんでしょうな」

というのが吉沢博士の意見だった。

「手あても、これ以上の方法はどこにいたってないんだとさ。日本へかえって一ヵ月も温泉へ行けば、ケロッとしてしまうだろうって話しだったよ」

 そう素子がつたえた。伸子は、

「日本へかえって温泉へ行くって?……」

 たちまち不安そうにした。

「わたしたち、逆へ行こうとしているんじゃないの」

「日本へ帰ったらば、ということさね。おっかさんは、吉沢さんに電報をうつようにたのんでるんだそうだ。君の様子しだいで、あっちがたつかどうかをきめるわけになってるらしいよ」

 訊くような眼つきで伸子はそういう素子の顔を見た。何と妙な──だから多計代は率直に、わたしも西洋を見て来たいし、と言ってしまえば誰の気持もさっぱりしていいのに! 伸子は多計代の手紙から感じた矛盾をまたあらためて感じた。死んでもいいから生命を賭して娘の見舞いに来ようとするものが、様子によってたつのをきめる、伸子が旅行してよかったらたつというのは、伸子にはくいちがったものとしてうけとれるのだった。

 とにかく吉沢博士から「タテ。ヨシザワ」という電報がうたれた。伸子は四月の第一土曜日に、あしかけ四ヵ月ぶりでモスクヷ大学病院を退院して、アストージェンカの狭い狭い素子の室へかえった。カルルスバード行きを証明したフロムゴリド教授の小さい一枚の書きつけをもって。



第二章




 佐々伸子と吉見素子とがモスクヷを出発して、ワルシャワについたのは一九二九年の四月三十日の午後だった。

 朝から車窓のそとにつづくポーランドの原野や耕地をぬらして雨が降っていた。その雨は、彼女たちがワルシャワへついてもまだやまなかった。大きくすすけたワルシャワ停車場の雨にぬれ泥によごされたコンクリートは薄暗くて、ロシア語によく似ていながら伸子たちには分らない言葉を話す群衆が雑踏していた。その雑踏ぶりは、伸子と素子とがモスクヷの停車場で見なれている重くてゆるく大きい混雑より小刻みで神経質だった。伸子たちは駅の前から辻馬車を一台やとった。モスクヷの辻馬車の座席を低く広くしたような馬車だった。瘠馬にひかれたその馬車は黒いほろからしずくをたらしながら、そのかげから珍しそうに早春の夕暮の雨にけむるワルシャワの市街を眺めている伸子たちをのせて灌木の茂みのある小さな公園めいた広場に面したホテルに二人を運んだ。

 伸子と素子とが旅行用のハンド・バッグに入れてもっている旅券には、モスクヷの日本大使館から出されたドイツ、ポーランド、チェコスロヴァキア、オーストリアに向けての許可が記入されて居り、モスクヷ駐在のポーランド公使館のヴィザがあった。ワルシャワからウィーンへゆき、プラーグからカルルスバードをまわってベルリンには少しゆっくり滞在するというのが伸子と素子との旅程であった。伸子の家族がマルセーユに着くのは七月一日の予定だった。それまでに、伸子と素子はパリに到着していればいいはずだった。一年半もそこに暮していれば、伸子と素子とにとって外国であるモスクヷの生活はいつしか身に添ったものになっていて、ポーランド国境を越して来て、伸子も素子も新しく外国旅行に出発して来ている自分たちを感じているのだった。

 長い旅行に出たての気軽さと不馴れなのんきさとで、伸子たちは一晩をそこにとどまるワルシャワで格別ホテルを選択もしていなかった。馬車が案内するままに停車場近くの、国境通過の客ばかりが対手のようなそのホテルに部屋をとった。

 ワルシャワの駅頭でうけた感じ。それからその三流ホテルのロビーや食堂で、あぶらじみたような華美なような雰囲気にふれるにつれ、伸子と素子とは自分たちがここでは外国人であり、どこまでも通りすがりの外国人としての扱いで扱われることをはっきりと感じた。その国の人々の間で自分たちをそれほど外国人として感じることは、モスクヷではないことだった。それに、ワルシャワでは特別、モスクヷから来た外国人というものに、一種の微妙な感情がもたれているらしかった。

 広場を見はらすホテルの二階正面の部屋がきまると、素子は早速ロビーへおりて、片隅の売店でタバコを買った。こんどの旅行では、少くとも数ヵ国のタバコをのみくらべられる、というのがタバコ好きの素子のたのしみなのだった。素子はロシヤ語でタバコ問答をはじめた。すると、若い女売子の唇にごく微かではあるが伸子がそれを軽蔑の表情として目とめずにいられなかったある表情が浮んだ。女売子はお義理に素子の相手をし、素子の顔をみないで釣銭をさし出しながら、フランス語でメルシと云った。

 似たようなことがホテルの食堂でもおこった。伸子と素子のテーブルをうけもった年とった給仕は、素子の話すロシア語をすっかり理解しながら、自分からは決して同じ言葉で答えず、ひとことごとにフランス語でウイ・マダームと返事した。しごく丁寧に、そして強情に。──

 食器のふれ合う音や絶間ない人出入りでかきみだされているその食堂の空気をふるわして、絃楽四重奏ストリング・クワルテットがミニュエットを奏している。伸子は、音楽に耳を傾ける表情で食事をはじめたが、やがて、

「あら。白いパン!」

 びっくりしたような小声でつぶやいた。そして向い側の素子の顔を見た。

「ね?」

「ほんとだ。真白だ」

 素子は自分のパンもさいてみて、

「パンが白いっておどろくんだから、われわれも結構田舎ものになったもんさね」

と苦笑した。モスクヷでは、黒パンと茶っぽい粉でやいたコッペのような形のパンしかなかった。それに馴れてしまっていた伸子は、いま皿の上で何心なくいたフランス・パンの柔かい白さに目から先におどろいた気持がしたのだった。でも、伸子には、雪白なパンの色が白ければ白いほど、それは何だかあたりのうすよごれた雰囲気と調和せず、ウイ・マダームとかウイ・メダーメとしか云わない瘠せこけた爺さんの給仕の依估地いこじさと似合わないものに感じられるのだった。

 食事がすんで、ロビーへ出て来ながら、素子が、ひやかし半分伸子に云った。

「ぶこちゃんにもなかなかいいところがある。ヨーロッパへ出てきての第一声が、あら、白いパン! てのは天衣無縫だ」

「だって、ほんとにそうじゃない?」

「だからさ、天衣無縫なのさ」

 それにしても、ワルシャワの人々の、ロシアに対する無言の反撥は、何と根ぶかいだろう。帝政時代には、ポーランド語で教育をうけることさえ禁じられていた人々が、古いロシアへ恨みをもっているというのなら、伸子にものみこめた。けれども、現在になってまで、これほどロシア語に反感がもたれているとは思いがけなかった。

「ポーランドの人たちは、いまのロシアがどんなに変っているか、知らないのかしら。──まるで別なものになってるのに……」

 遺憾そうに伸子が云った。ポーランドはソヴェト・ロシアになってから独立したばかりでなく、一九二〇年にウクライナのひろい地域を包括するようになった。

「あんまりいためつけられていたもんだから、猜疑心がぬけないんだろう。ソヴェトのいうことだって信用するもんか、と思っているんだろう」

 ポーランドでは軍人のピルスーズスキーが独裁者で、ポーランドの反ソ的な民族主義の立場を国際連盟リーグ・オヴ・ネイションズに訴えては、ウクライナを分割したりしている。元ソヴェト領だったウクライナのその地方では時々ユダヤ人虐殺があって、伸子たちはモスクヷの新聞で一度ならず無惨な消息をよんでいた。

 伸子と素子とは、いそぎもしない足どりでホテルのロビーを帳場へむかった。明日のメーデーはワルシャワのどこで行われるのか。劇場の在り場所でもきくように伸子たちはそれをホテルのカウンターできこうとしているわけだった。

 ロビーのひろさに合わして不釣合に狭苦しい古風なカウンターのところでは、折から到着した二組の旅客が、プランを見て、部屋をきめているところだった。その用がすむのを待って、伸子たちはわきに佇んだ。旅客たちはドイツ語で話している。いかにも職業用にフロックコートを着た支配人が、ヤー・ヤーとせっかちに返事して、何かこまかいことを云っているらしい一組の夫婦づれの方の細君に答えている。大きな胸の、赤っぽい髪の細君が、内気そうに鼻の長い顔色のよくない亭主をさしおいて旅先のホテルの泊りにも勝気をあらわして交渉している光景が面白くて、伸子は、いつの間にか自分がハンカチーフを落したことを知らなかった。

 そこへいかにも、このホテルのどこかで催されている宴会へでも来ているらしい一人の若いポーランド将校が華やかな空色の軍服姿で通りあわせた。彼はすっと瀟洒に身をかがめて伸子が落して知らずにいたハンカチーフを赤いカーペットの上からひろいあげると、

「ヴォアラ。──マドモアゼル」

 直立して、乗馬靴の二つの踵をきつくうち合わせチャリンと拍車を鳴らし、笑いをふくんで白い麻の女もちハンカチーフを伸子にさし出した。社交にみがかれてつやのあるヴォアラ・マドモアゼルという云いかた。チャリンと澄んだ音でうち鳴らされた拍車の響。そして軽く指の先へひっかけるようにしてつまみあげたハンカチーフを小柄な伸子にさし出した身ごなし。そのひとつらなりの動作がまるで舞踊のひとくさりそのまま軽妙でリズミカルだった。

 伸子は、あんまり人に見られるとも思わず佇んでいた。モスクヷを立つ間ぎわになってから大急ぎで、そのカラーとカフスのところへ柔かな灰色のアンゴラ毛皮を自分で縫いつけて来た紺の合外套を着て。

 そこへさし出されたものを見れば、思いもかけずいつおとしたのか、それが自分のハンカチーフであったのと、若い将校のひろってくれかたが、あんまり派手なサロン風なのとで、伸子はわれしらず耳朶を赤くした。そして、踊りあいての挨拶につい誘われたようなしなで、

「メルシ」

と礼を云った。若い将校は、はじらいぎみに外国語をつかう伸子の顔にじっと笑いをふくんだ目を注ぎ、もう一度直立してその拍子に踵をうち合わせ、チャリンと拍車を鳴らして、去って行った。

 対手が行ってしまうと同時に、伸子は急にきまりわるさがこみあげた。我にもなくつい気取って、メルシなんて云ってしまって。フランス語なんか知りもしない自分だのに。素子が見ていなくてたすかった、と伸子は思った。素子は支配人に向って少し声高なロシア語で談判めいて云っている。

「どうして? もちろんあなたは知っているはずだし、知っていなければならないでしょう、職務上……」

 伸子は、わきへよって行った。

「どうしたの?」

 ちらりと伸子を見て、意味ありげに苦笑しながら素子は日本語で、

「メーデーのことなんか知らないって云いやがる」

 ワルシャワで、メーデーがどう感じとられているかということが、伸子たちに察しられた。伸子がかわって、英語で支配人に云った。

宿帳ゲスト・ブックにかいたとおり、わたしたちは作家だから、五月一日の光景を観ることが必要なんです──行進はどこにあるんです?」

 支配人は黒いフロックコートの腕をあげて鼻髭を撫でながら伸子のいうことをきいていたが、まるで出し惜しみするように、ドイツ訛のきつい英語で、

「行進は劇場広場に集ると、けさの新聞にはありました」

と答えた。つづけて、

「しかし危険です」真中からわけてポマードでかためている頭をふりながら警告した。「彼らが、どこで何をやるか、誰にわかっているもんですか。──御婦人の近よる場所じゃありません」

 伸子と素子とが、あしたのメーデーについて支配人から知ることのできたのはメーデー行進は劇場広場に集るだろう、ということだけだった。

 モスクヷを出るとき、彼女たちは、さて、これで今年のメーデーはワルシャワだ、と感興をもって期待した。去年のメーデーは、赤い広場の観覧席で、音楽につれ流れ去り流れ来る数十万の人々の行進を観た。町々が何と赤い旗と群集と歌とで埋ったろう。ウラア……という轟きに何という実感があったろう。行進が終った午後のモスクヷの、いくらかくたびれたような市中の静けさのうちにさえもとけこんで休日の空気を充していたあのよろこびと満足の感情。伸子にはその感銘が忘られなかった。ポーランドでは、どういうメーデーがあるのだろう。ワルシャワのメーデーを観る。どうせ、五月一日にワルシャワにいられるならそれは伸子にとっても素子にとっても、自然な興味のよせかたなのだった。


 たしかな時間も場所もわからないままに、翌朝九時ごろ、伸子と素子はつれだってホテルを出た。

 目をさました頃にはまだ降っていた雨がやっとあがって、歩道はうすらつめたく濡れていた。街路樹の春の芽もまだかたい枝々から大粒な雨のしずくが音をたてて落ちて、歩道をゆく伸子の肩にかかった。幾たびか通行人にきいていま伸子たちが来かかっているその通りは、市公園のどこか一方の外廓に沿っている道らしかった。低い鉄柵とその奥に灌木のしげみが見えている。規則正しく一定の間隔をおいて植えこまれている街路樹と鉄柵との間にはさまれている歩道は、ひやびやと濡れていて淋しいばかりでなく、人通りがごくたまにあるきりだった。その通行人も雨外套の襟を立てポケットへ両手をつっこんだ肩をすぼめるような姿で足早に過ぎてゆく。

 伸子と素子とは、互にこれでいいのかしらん、と云いながら半信半疑で歩いて行った。モスクヷのようなメーデーの朝の気配があるはずはないにしても、こんなに寒そうで濡れて人気なく淋しい通りが、どこかで自分たちをともかくワルシャワでのメーデーの行進に出会わせるとは、思えないようだった。

「こんな調子じゃ、行進なんかないのかもしれない」

「そうかしら──そんなことってあるかしら。ここだって労働者がいるはずだのに……」

 二人が先へ先へと視線を放って歩いてゆくと、歩道の右手沿いにずっとつづいた公園の低い鉄柵がぽつんと終った。その先に茶色っぽい高い建物が現れた。伸子たちの背たけより高い石の外羽目が切れたところが、城門のようなアーケードになっていた。重々しいそのアーケードの奥がちょっとした広場めいた場所だった。人がつまって乗っているトラックが数台とまっている。伸子たちは怪しんでそっちを見た。

「変だな。──こんなところが劇場広場だなんてことないだろう」

 いぶかりながらそれでも二人は建物にとりかこまれて陰気なその広場めいたところへ歩みこんだ。モスクヷの赤い広場にくらべると、十分の一あるかなしのその石じきの場所の、三方を高く囲む石造建築の裾にぴったり車体をよせて、トラックが十数台とまっている。どのトラックの上にも、いちようにカーキ色のレイン・コートのような外套を着て同じ色の雨帽子めいたものをかぶった男女が、長い棒をついて立っていた。一台ごとにきまっただけの人数が積まれているらしかった。トラックの上に棒をついて立っている男女の方陣の間からは、そんな情景につきものの談笑も湧いていなければ、タバコをふかしている者さえまれだった。服装はみんな同じだが指揮者らしい年かさの者だけがトラックからおりて、石じきのあっちこっちにかたまり、断片的に何か話したり、腕時計を見たりしている。そこには、何かを待って緊張している雰囲気がある。

 何心なくその場へふみこんだ伸子と素子とは、普通でない雰囲気に警戒心をよびさまされた。何かしらただごとでなく感じながら、旅行者の好奇心で、その広場を去ろうとしなかった。

 トラックの連中はレイン・コートの上からみんな腕章をつけていた。白地に黒い活字のような字でシュタッド・ガルドとよめる。ガルドという意味を警備とすれば、シュタッドは、クロンシュタッドというようなわけで、市とでもいうわけだろうか。トラックの上からは、伸子たちに向って、無関心な機械的な視線が投げられた。伸子たちが、そこから入って来たアーケードとは反対の広場のはずれに、一軒のカフェーと、短い家なみをなして店鋪が並んでいる。それらの店は防火扉をしめて、カフェーだけがあいていた。袋のような広場からの一方の通路はその一廓にあいている。

 高い建物にかこまれた広場のまんなかで足をとめ、そのままどこやら物々しい光景を見まわしている伸子と素子。一人は柔かい灰色アンゴラのファーつき外套を着、もう一人はラクダ色の外套を着て自分たちをむき出しに広場をかこんで止っているトラックの上からの環視にさらしたまま、佇んでいる伸子と素子。そのときその場にいあわせた並の身なりの人間と云えば、こういう伸子と素子の二人ぎりだった。それはどこから見てもポーランド語の話せない外国婦人の風体であり、その場の事情にうといものだけが示す自然で無警戒なそぶりだった。伸子たちは、次第にここの広場の空気のただならなさを感じるにつれ、どっちからともなくまた歩き出して、

「もうすこしあっちへ行こうか」

 カフェーが一軒、店をあけている広場のはずれへ近づいた。そこからふりかえってみると、雨あがりの空からうすくさしはじめた陽の光が、高い建物にさえぎられて、広場の半分どころまでに注いでいる。石だたみの奥半分は寒々とした陰翳の中におかれていて、どぎつい明暗は見るからに陰気な広場だった。

 伸子と素子とが、あらましその附近の様子を会得したときだった。カフェー側から見て右手の通りに向って三台一列縦隊にならんでとまっていた先頭のトラックから、一声、伸子たちに意味のわからない叫び声がおこった。それは何かの合図だった。忽ち、そのトラックにいたカーキ色レイン・コートの連中が棒を片手にトラックの両側からとびおり、あとにつづく二台のトラックから同じようにしてとびおりて駈け集った連中と一隊になって、す早く、その狭い右手の町口にかたまった。何事かがはじまった。そのときになって、伸子たちは発見した。自分たちのまわりがいつの間にか群集でかこまれている。どこから、いつ、これだけの人が出てきたのだろう。ついさっきまで、広場には、カーキ色の連中のほかに、伸子と素子の姿しか見あたらなかったのに。無気味に、がらんとしていた広場だったのに、いま伸子たちが爪立って前方を眺めようとしている横通りへの出口あたりは、黒山の人だった。その群集の頭ごしに、まだかなりの距離をもってこちらへ向って進んで来る赤旗が見えた。伸子のところから眺められる赤旗は十本たらずの数だった。伸子は赤旗が目に入ったと同時に、異様な衝撃を感じた。赤旗は黙って進んで来る。メーデーの歌の声一つそっちからきこえて来ない。赤旗がこちらに向って前進して来る歩調はかなり速かった。歌声もなく、十本足らずの赤旗はどこか悲しそうに、しかしかたく決心している者のようにいくらか旗頭を前方へ傾け、執拗に一直線に進んで来る。のび上っている伸子は思わず片方の手袋をはめている手をこぶしに握りしめた。メーデーの日だのに、メーデーの歌もうたわず、ほんの少数でかたまって広場に向ってつめよせて来る赤旗の下の人々の心もちはどんなだろう。突然、先頭に進んでいた赤旗が高く揺れたと思うと、行進は駈足にうつったらしく、それと一緒に急調子のインターナショナルがわきおこった。はげしい調子のインターナショナルの歌声の上に赤旗が広場の間近まで来たとき、カーキ色の連中を最前列にして伸子たちの前方をふさいでいた群衆の垣がくずれ立った。インターナショナルがとぎれた。入りまじっておしつけられた怒号が、伸子に見えない前方からおこった。もみ合いがはじまった。十本足らずの赤旗は高く低くごたごたと怒声の上にゆれていたが、そのうち赤旗を奪おうとしたものがあるらしくて、急に殺気だって圧力をました人なだれが伸子の立っているところまでおしかえして来た。行進はカーキ色連中が棒と棒とでこしらえたバリケードを破って、なお前進しようとしているのだった。人なだれは渦のように広場へひろがって、伸子と素子とははぐれまいとして手をつなぎあったまま小さな日本の女の体をぐいぐいおしたくられ、到頭行進のもみ合っている町口からずっとひっこんだカフェーよりまでつめられてしまった。そのときパン。パン。と高くあたりに響きながら間をおいて二つ、ピストルかと思う音がした。

「なかへ入っちまいましょう、よ!」

 伸子と素子とは、むしろよろけこんだという姿勢でカフェーの表ドアをおして入った。そして、そこだけに空席のあったカフェーの大きなショウ・ウィンドウ前のテーブルについた。広場の混乱はショウ・ウィンドウ越しのついそこにあった。それどころか、今にもひろいショウ・ウィンドウのガラスがわられるかと思うほど群集の肩や背中がおしつけられて来る。

 そういう戸外の光景をガラス一枚へだてて見ているカフェー内部のおちつきは、まったく対照的なものとして伸子に感じられた。そこにいて外を見ているのは伸子と素子ばかりではなかった。しっかりした体格の背広姿に無帽の男が三四人、それぞれ自分の前のテーブルの上にコーヒー茶碗をおいてかけている。或るものは、外が騒がしくなったから読むのをやめたという風に、ひろげたままの新聞を膝の上へのせて戸外を見ている。一人の男は、椅子の上で体をずらし、ひろげた両股の間へカフェーの小テーブルをはさみこむ行儀のわるい恰好で、ズボンのポケットへ両手をつっこんだまま上眼づかいにショウ・ウィンドウの外でこねかえしている人波を視ている。

 内心こわくてそこにいる伸子にまわりの男たちの奇妙に動じないような様子はどこやら不自然に感じられた。もしピストルの撃ち合いでもはじまったら、カフェーの内部とは云っても、ショウ・ウィンドウ一重へだてただけで広場に向って自分たちをさらしているその位置は安全でなかった。そう云っても、手狭なそのカフェーの内部では、ほかに移る奥まった席もなかった。伸子たちのかけているすぐうしろがカウンターで、ワイシャツにチョッキ姿の太ったおやじがカウンターのうしろに突立って、腕組みしながら表ドア越しに広場を見ている。

 それをきいて伸子がカフェーへにげこんだピストルかと思う音は、あの二つぎりでもうしなかった。入口でカーキ色外套の連中に遮えぎられたメーデーの行進は遂に広場へ入って来ることができなかった。一本の赤旗も広場に釘づけされている伸子たちの視野の内にあらわれなかった。段々、目に立たない速さで広場の群集のもみ合いも下火になりはじめた。伸子はそのときになって、その広場につめかけた群集はほとんど男ばかりで、女は見当らないのに気がついた。そして、陰気な広場へ数百人あつまっている男ばかりのその群集が、ワルシャワ市民のどういう層に属す人々なのかも伸子にわからなかった。メーデーの行進とその赤旗とを広場へ導き入れたいと思って来て見ていた人々なのか、それとも、もしも赤旗が広場へ入ったら、と事あれかしの連中が群集の大部分を占めているのか。──

 群集がまばらになってゆくにつれて、カフェーのショウ・ウィンドウの外でマッチをすりタバコに火をつけたりしている男の背広が、失業者らしくすりきれているのが伸子の目にとまった。まるでルンペンらしくよごれて、油じみのついたりしているレイン・コートをひっかけているような男もまじっている。

 伸子と素子とは、広場が大分閑散になってからそのカフェーを出た。二人とも、互に必要以外の口をきかなかった。どちらも亢奮が去ったあとの疲れのよどんだ瞼の表情だった。

 再び二人で立って眺める広場の空気は、群集のもみ合いが散ったばかりでまだ荒れている。広場をとりかこむ高い建物の外壁にぴったりよせて止っていた幾台ものトラックの影もなく、カーキ色外套の連中は退散してしまっている。それとともに、メーデーの行進と赤旗も同じような速さでどこへ消え去ってしまったものか。伸子と素子とはいくらか急ぐ気持でカフェーの前からさっき行進が広場へ入ろうとしていた街すじの見とおせるところまで出て見た。いまその街すじには、二人五人と遠ざかってゆくまばらな人影があるばかりだった。伸子は、見とおしのきくその路面の明るい空虚さから鋭い悲しみを感じた。あの行進の人々はどこへ行ってしまったのだろう。そして、あの揺れていた赤旗は?──ほんの数節うたわれてすぐとだえたインターナショナル。とだえた歌声も群集の頭の波の上にゆらいでいた赤旗のかげも、伸子にすればまだその空の下に残っていそうに思えるのに、その街すじにあるものとては遠くまでつづくからっぽさである。伸子は思わず深く息を吸いこみ、自分の鼻翼のふるえを感じた。これがワルシャワのメーデーだった。ちらりと見えたと思ったらもう散らされてしまったワルシャワのメーデー。行進して来た人々は何百人ぐらい居たのだろうか。伸子にその見当がつかなかったが、あのようにして赤旗の下にかたまって進んで来た人々が、こんなにす早くカーキ色連中と同じように一人のこさず広場のまわりから姿を消したのは異様だった。伸子にはそれが、むごいしわざにならされた人のすばしこさのように思えた。彼らは、おそらく赤旗をかくして迅く走らなければならなかったのだ。赤旗とプラカートがわきおこる音楽の上に林立していたモスクヷのメーデーの街々が思いくらべられた。伸子の眼に涙がにじんだ。ワルシャワのメーデーに赤旗をたてて行進して来た人々に、伸子は、つたえようのない同感と可哀そうさを感じた。

 もと来た道へひっかえす気分を失った伸子と素子とは、自分たちの激しくされた感情におし出されるような歩調で、空虚のみちている街すじを歩いて市公園の表通りへまわった。

 往きに通って来た鉄柵沿いの紙くずなどの散った寂しい歩道とは正反対に、こちら側はいかにも近代都市公園をめぐってつくられている清楚な大通りだった。おこたらず手入されて、ゆるやかな起伏に風情ふぜいのある芝生が、幅ひろく清潔な歩道のきわまでひろがっている。滑らかな車道を、立派な自動車がはしっていて、行手に遠く大理石のオベリスクのような記念塔が聳えていた。正午ちかい陽が真上からその富裕らしい大通りを照した。ガソリンの軽い匂いがあたりに漂い、遠目に記念塔の大理石が白くきらめいている。

 暫く行って、みて、伸子はその公園通りが、そこの歩道を歩く人のためというよりも、自家用自動車の駛りすぎる窓から眺める風物として満足感を与えるように端から端まで手ぎれいにされているということを理解した。歩道に沿って、一つのベンチも置いてなかった。そこは歩くしかないようにこしらえられている見事な公園通りなのだった。公園のいい景色を眺めながら、陽にでもあたってベンチで休みたいと思う通行人はワルシャワではたった一日しか逗留しない旅客である伸子たちが今そうして歩いているように、自動車なんかにのらないのだ。タクシーのつかまえようがわからない人でもあるのだ。どこかで足を休ませたいのを、こらえて歩いているうちに、この公園通りの見てくれのいい壮麗さが段々伸子の癪にさわって来た。伸子のその気分が通じたように、素子が歩道の上で立ちどまった。

「この調子じゃ、どこまで行ったって結局同じこったね」

 どこかへかけて一服したそうに素子もぐるりを見まわした。

「──ベンチぐらい置いたってよかりそうなもんだのに──薄情にできてる」

 仕方なく二人は、ずっとのろい歩調で歩きつづけた。

「変だなあ、いくらなんでもあれっきりのメーデーなんてあるもんかね」

 はっきり目当てもないままに素子も伸子も心のどこかで、メーデーらしいメーデーの行進をさがしてここまでは足早に来もしたのだった。

「はじめっから分散デモだったんだろうか」

「そう思える?」

 二人の前に贅沢らしく照り輝やいているその公園通りのどこの隅にも、きょうがメーデーだという雰囲気はなかった。伸子たちが、公園裏の陰気な広場で目撃して来た光景は、夢魔にすぎないとでも云われかねない様子だった。

 伸子と素子とは、くたびれて、がっかりした気持で、おそい昼飯にホテルへ戻った。そうやって歩いて来てみると、ワルシャワのステーションから伸子たちをのせて来た馬車が、雨の中を街まで出て大まわりして来たのがわかった。ステーションから灌木の茂みの見える小公園を直線にぬけると、ついそこがホテル前の広場だった。

「これだからいやんなっちゃう! あの爺、あらかた街をひとまわりして来てやがる」

「いいじゃないの。どうせ街見物サイト・シーイングなんだもの」

 いちいち腹を立てていたら、これから言葉もわからない国々を旅行するのに、たまったものではない、と伸子は思った。

「抜けめない旅行をしようなんかと思って、気をはるの、わたしいや。どうせ土地の連中にかないっこないんだもの」

「ぶこはいい気なもんだ。──おかげでわたし一人がけちけちしたり気をもんだりしてなけりゃならない」


 ひる休みのあと、伸子と素子とはもう一度ホテルを出た。こんどは本式にワルシャワの街見物のために。二人はまたステーション前から馬車をやとった。伸子たちがそれにのってウィーンへ向う列車はその晩の七時すぎにワルシャワを出発する予定だった。

 ワルシャワの辻馬車が街見物をさせてまわる個所は大体きまっているらしく、毛並のわるい栗毛馬にひかれた伸子たちの馬車はいくつかの町をぬけて、次第に道はばの狭い穢い通りへはいって行った。やがて、ごろた石じきの横丁のようなところへさしかかった。馬車の上から手がとどきそうに迫った両側の家々の窓に、あらゆる種類の洗濯物が干してある。それらの洗濯物は、そうやってぬれて綱にはられているからこそ洗濯ものとよばれるけれど、どれもみんな襤褸ぼろばかりだった。上半身裸体のようななりをした女が、その窓際で何かしているのが見える。貧相な荒物店。ごたごたした錠前や古時計などが並んでいる店があって、やっと人のすれちがえる歩道の上で子供たちがかたまって遊んでいた。こちらを向いてしゃがんでいる女の子の体がむき出しに馬車にのって通りすぎてゆく伸子たちの目にふれた。子供たちの体も服も不公平なしによごれていた。どっか近くの窓のなかから、ドイツ語に似たユダヤ語で、男と女が早口に云い合いする声が起った。それはじきやんだ。狭い穢いその町すじ全体に貧困と人口過剰と漠然として絶間ない不安がのしかかっているようで、馬の足なみにまかせてごろた石の上に蹄の音をたてながら通ってゆく伸子たちの馬車は大きな塵芥すて場のわきにあるような一種のにおいにつつまれた。そこは、ワルシャワの旧市街とよばれ、昔からユダヤ人の住んでいる一廓だった。モスクヷではユダヤ劇場があり、トゥウェルスカヤの角から芸術座へ曲るところに大きい清潔なユダヤ料理店があった。伸子と素子とは、ときどきそこで一風かわった魚料理だの揚ものだのをたべた。そこの店では、いつもこざっぱりとした身じまいの女が給仕した。

 ワルシャワのここではその不潔で古い町すじに密集して建っている建物のすき間というすき間に、その内部にぎっしりつまって生きている不幸な老若子供よりもっとどっさりの南京虫が棲息していることはたしかだった。幌をあげた馬車の上から、通りの左右に惨めさを眺めて行く伸子の顔に苦しく悲しい色が濃くなった。現代になっても、こんなに根ぶかく、血なまぐさくユダヤに対する偏見がのこっていることは、ヨーロッパ文明の暗さとしか伸子に思えなかった。東京に生れて東京で育った伸子は、日本の地方の特殊部落に対する偏見も実感として知っていなかった。これまでポーランドが自分の国をあんなに分割され、自身の悲劇と屈辱の歴史をもって来たのに、そのなかでなお絶えず侮蔑するもの、人づきあいしないもの、虐殺の対象としてユダヤの人々をもって来ていることを思うと、伸子は苦しく、おそろしかった。関東の大震災のとき、東京そのほかで虐殺された朝鮮人の屍の写真を見たことがあった。虐殺という連想から伸子は馬車の上で計らずその記憶をよびおこした。

 その旧市街スタールイ・ゴーロドにも、きょうがワルシャワのメーデーだという気配はちっともなかった。おそらくはきのうと同じような貧しさ。不潔さ。溝ぶちに群れている子供たちのあしたもそうであろう穢さと虐げられた民の子供らの変なおとなしさ。

 伸子と素子とをのせた馬車は、葬式のような馬の足どりで旧市街を通過した。一つの門のようなところをぬけると御者が、自分もほっとしたように御者台の上へ坐り直して、ロシア語で云った。

「さて、こんどは新市街へ行きましょう」

「あっちはきれいです。立派な公園もあります」

 ついでに自分も一見物というような口調だった。

 なるほど暫くすると、伸子たちの馬車は、その馬車のいかにも駅前の客待ちらしいうすぎたなさが周囲から目立つように堂々とした住宅街にのり入れた。近代的な公園住宅で、一つ一つの邸宅が趣をこらして美しい常緑樹の木立と花園に包まれて建っていた。芝生の噴水のまわりで小さい子供が真白いエプロンをつけた乳母に守りされながら、大きい犬と遊んでいる庭園も見えた。この界隈では、富んでいるのが人間として普通であるようであり、どの家もそれを当然としてかくそうとしていなかった。旧市街の人々が、せま苦しい往来いっぱいに貧を氾濫させて、かくそうにもかくしきれずにいたとは反対に。

 その住宅街を貫いて滑らかな車道と春の芽にかすみ立った並木道が、なだらかに遙か見わたせた。自分たちが決してこれらの近代的マンシャンの客となることはないのだと感じながら、伸子は贅沢に静まっている邸宅の前を次々と馬車で通りすぎて行った。伸子は、ふと、こういう邸宅のもち主にユダヤの人は一人もいないのかしら、とあやしんだ。いるにきまっていた。たとえば、ここのどの屋敷の一つかがロスチャイルド一門に属すものであったとしたら、近所の召使いたちは何と噂するだろう。うちのお隣りはロスチャイルドの御親戚なんですよ。そう云わないだろうか。そういう召使自身はポーランド人であり、旧市街スタールイ・ゴーロドへは足もふみ入れたことがない、ということを誇りとしていることもあり得るのだ。そのようにあり得る現実を伸子は嫌悪した。

 馬車は馬の足並みにまかせてゆっくりひかれてゆく。美しい糸杉の生垣の彼方に黄色いイギリス水仙の花が咲きみだれている庭があった。その美しい糸杉の生垣も早咲きのイギリス水仙の花も、繊細な唐草をうち出した鉄の門扉をとおして、往来から見えるのだった。まるで、ここにある人生そのものを説明しているようだ、と伸子は思った。その人生は、旧市街スタールイ・ゴーロドのくさい建物につめこまれているおびただしい人生とはちがうし、伸子が名を知らないあの陰気な広場へ赤旗をもって行進して来た人々の人生ともちがう。そして、糸杉と黄水仙のある人生は、それが無数の他の人生とちがうことについて満足している。──

 伸子はかたわらの素子を見た。素子は火をつけたタバコを片手にもち、手袋をぬいだもう片方の指さきで、舌のさきについたタバコの粉をとりながら、馬車の上から、とりとめのない視線を過ぎてゆく景色の上においている。焦点のぼやけたその表情と、むっつりしてあんまりものも云わないところをみれば、素子も特別気が晴れていないのだ。ゆうべホテルの食堂でモスクヷ馴れした自分の目をみはらせたワルシャワのパンの白さ。それが、象徴的に伸子に思い浮んだ。パンはあんなに白い。──パンのその白さを反対の暗さの方から伸子に思い出させるようなものがワルシャワの生活とその市街の瞥見のうちにあった。メーデーさえ何だか底なしのどこかへ吸いこまれてしまって、しかも、それについては、知っているものしか知っていてはいけないとでもいうような。ワルシャワの街そのものが秘密をもっているような感じだった。

 折から、伸子たちをのせた馬車が、とある四辻のこぢんまりした広場めいた場所にさしかかった。その辺一帯の公園住宅地のそこに、また改めて装飾的な円形小花園をつくり、伸子たちの乗っている馬車の上からその中央に置かれている大きい大理石のマッスの側面が見えた。大理石のマッスから誰かの記念像が彫り出されている。記念像は下町に向ってなだらかにのびている大通りにその正面を向けて建てられているのだった。

「ショパンの記念像です。有名なポーランドの音楽家のショパンの像です」

 御者は、御者台の上で体をひねってうしろの座席の伸子たちにそう説明しながら、ゆっくり手綱たづなをさばき、その記念像の正面へ馬車をまわしかけた。

「どうする?」

 少しあわてたような顔で素子が伸子を見た。

「見るかい?」

「いい。いい」

 伸子もせかついてことわった。この首府の名物ショパンの像と云ったものを見せられたところで、伸子がワルシャワの街から受けた印象がどうなろうとも思えなかった。

「まっすぐゆきましょうよ」

 素子は御者に向って片手を否定的な身ぶりでふりながら、

「ハラショー。ハラショー。ニェ・ナーダ(よしよし、いらないよ)」

と云った。

「プリャーモ・パイェージチェ(まっすぐ行きなさい)」

 うすよごれた馬車は、伸子と素子とをのせてそのまま下町を見晴らす大きな坂へさしかかった。かすかにあたりをこめはじめた夕靄と、薄い雲の彼方の夕映えにつつまれたワルシャワの市街にそのとき一斉に灯がともった。



 ヨーロッパ大戦の後、オーストリアの伝統を支配していたハップスブルグ家の華美な権威がくずれて、オーストリアは共和国になった。首府ウィーンをかこんで、そこからとれる農作物では人口の必要をみたしてゆくことのできないほど狭い土地が、共和国のために残された。外国資本があらゆる部面に入りこんでいた。

 それでも、ウィーンは、さきごろまでヨーロッパにおける小パリ・ヴィエンナと呼ばれていた都市の特色をすてまいとしていて、大通りに並んでいる店々は、その店飾りにもよその国の都会では見られない趣を出そうと努力している。

 伸子と素子とは、ウィーンまで来たらいかにも五月らしくなったきららかな陽を浴びながら、店々がその陽にきれいに輝やいている大通りを歩いていた。婦人靴屋のショウ・ウィンドウには、ウィーンの流行らしく、おとなしい肌色の皮にチョコレート色をあしらった典雅な靴が、そのはき心地よさで誘うようにガラスのしゃれた台の上に軽く飾られている。大体ウィーンはヨーロッパでも有名な鞣細工の都だった。目抜きの通りのところどころに、用心ぶかく日よけをおろして、その奥に色彩のゆたかなウィーン金唐皮きんからかわのハンド・バッグやシガレット・ケースを売っている店がある。そういうものに興味をもっている素子は、鞣細工店を見つけると、必ずその店先にたちどまってショウ・ウィンドウをのぞいた。ウィーンで伸子と素子とは、これから先の旅行のためにいくらか身なりをととのえる必要があった。素子はここでそういう用をはたすひまに、ちょっとした身のまわり品を入れる気のきいたカバンと、婦人用のシガレット・ケースを買おうとしている。気に入った品があったにしても素子は、決して、はじめてそれを見つけた店で買ってしまわなかった。ホテルを出てウィーンの街を歩くにつれ、目につく鞣細工品の店のあれからこれへと丹念に飾窓を見くらべた。そのあげくきょうは、伸子たちの服をこしらえている服飾店のある大通りから一つ曲った横通りで目ぼしをつけておいた一軒の店でその買物をしようというのだった。

 伸子は、素子とならんで賑やかな目抜通りを歩いていた。その辺の店ではどこでも英語が通じた。それはウィーンへはこの頃アメリカの客がふえていることを物語っている。伸子は沈んだ顔つきで午前十一時のウィーンの街を歩いていた。何を売るのか二本の角を金色に塗られた白い山羊が、頸につられた赤い鈴をこまかく鳴らしながら、クリーム色に塗られた小さな箱車をひいて通ってゆく。トラックが通り、そうかと思うと蹄の大きい二頭の馬にひかれた荷車が通ってゆく。頻繁で多様なそれらの車馬の交通は、街の騒音を小味に、賑やかに、複雑にしている。こうしてウィーンの街はどっさりの通行人にみたされて繁昌しているように見える。だけれども、こんなに店があり、こんなに使いきれないのがわかっているほど品物があり、しかもどの店の品も真新しく飾りつけられているのを眺めて歩いていると、伸子はウィーンがどんなに商売のための商売に気をつかっているかということを感じずにいられなかった。ウィーンは、パリともロンドンともニューヨークともちがった都会の味──小共和国の首府としての気軽さをもちながら、その程よい貴族趣味と華麗で旅行者をよろこばせるように工夫されている。オペラと芝居のシーズンがすんでしまっているウィーンでも、ウィーンという名そのものにシュトラウスのワルツが余韻をひいているようだった。

 鞣細工品の店頭の椅子にかけて、素子は自分たちの前へ並べられた男もちの財布の一つを手にとり、しかつめらしくそのにおいをかいでいる。店員が、

「これはすばらしい品です。かいで御覧なさい。いいにおいがしていましょう? すぐわかります」

と云ったからだった。伸子は、気のりのしない表情で、皮財布のにおいをかいでいる素子の様子を見ていた。伸子は、そんなにして買物をたのしんでいる素子に対して、傷つけられた自分の気持を恢復できず、離れた気分でいるのだった。

 けさ、ホテルで、素子はどうしてあんなに伸子をおこらなければならなかったのだろう。自分の着がえのブラウスが、手まわりのスーツ・ケースに入っていなかったからと云って。ベッドのわきで着がえをはじめた素子は、さきに着てしまっていた伸子に、スーツ・ケースからブラウスを出すことをたのんだ。伸子はスーツ・ケースの下まで見た。が、素子のいう白いクレープ・デシンのブラウスは見当らなかった。伸子は、うっかりした調子で、

「どうしたのかしら、……ないわ」

と云った。

「ないことあるもんか。あれはたった一枚のましなんだから、入れなかったはずありゃしない。見なさい」

「ほんとに入っていないのよ……どうしたのかしら」

 手ごろなスーツ・ケースが伸子の分一つしかなくて、その一つに、素子のと伸子のと、二人ぶんの手まわりを入れて来ているのだった。

「ぶこがつめたんじゃないか」

 まだカーテンをあけず、電燈にてらされている寝室の中で、スリップの上にスカートだけをつけた立ち姿の素子が、こわい眼つきと声とで、

「出してくれ!」

 伸子に命令した。

「わたしが、出さなかったはずは絶対にないんだ。ほかに着るものがないのに、忘れる奴があるもんか。ぶこの責任だ。つめたのは君だもの。──どっからでも、出してくれ──」

 どっからでも出せと云ったって、伸子と素子と二人で、そのたった一つのスーツ・ケースしかもっていないのに。──

「無理よ。そんなこと」

 伸子は、自分のベッドの上で、ひっくりかえしたスーツ・ケースのなかみをまたもとどおりにしまいながら云った。

「二人分を一つに入れているのがわるかったんだわ」

「出してくれ!」

 素子は腹だちで顎のあたりがねじれたような顔つきになり、寝台に近づいて来て、その上で片づけものをしている伸子の腕を服の上からぎゅっとつかんだ。

「あのブラウスがなくて何を着たらいいんだ」

「…………」

 いっしょにつめるように素子が揃えて出したすべてのものを、スーツ・ケースに入れたとしか伸子には思えないのだった。伸子は途方にくれた。

「もしかしたら、衣裳ダンスにかけっぱなしで来たんじゃないのかしら──着て来ようとでも思って」

「そんなことないったら!」

 痛いように伸子の腕をつかんでゆすぶりながら、

「自分のものは何を忘れて来た? え? 何一つ忘れたものなんかないじゃないか。わたしだけ、よごれくさったものを着て歩かなくちゃならないなんて!」

 くいつくように睨んでそういう素子の顔に赤みがさして来て眼のなかに涙がわいた。

「わたしのことなんかどうでもいいと思っている証拠だ。いいよ! いつまでだってこうしてここにいてやるから!」

 あのとき、ウィーンの公使館からきいて来たと云って、黒川隆三という青年が二人を訪ねて来なかったら、素子はほんとに一日ホテルの寝室から出なかったかもしれなかった。

 二つのベッドの間のテーブルの上で電話のベルが鳴ったとき、素子は、そっちを見むきもしないで、伸子の腕をつかんでいた。自然、伸子もその場から動けず、答えてのない電話のベルは、重いカーテンで朝の光を遮られた寝室のなかで、三四へんけたたましく鳴った。やがてベルがやんだ。しばらくして、ドアをノックするものがあった。それが、黒い髪の毛に黒い背広を着た、若いのに世なれた調子の黒川隆三だった。

「やっぱり、おいででしたね、下で、電話に出る方はないが鍵が来ていないっていうもんですから。──いきなりお邪魔しました」

 黒川という客の来たことが素子にとっても局面打開のきっかけだった。仕方なくきのう着た白いブラウスを着た素子と伸子とは互同士では口をきかず、しかし黒川に対してはどっちもあたりまえに応対しながら、寝室のとなりの室で朝食をすました。やがて三人でホテルを出、伸子たちは約束のある服飾店へ、黒川は次に会う日どりをきめてわかれた。黒川は、二週間近くウィーンに滞在する伸子と素子とのために、下宿パンシオンをさがすことをすすめ、その仕事をひきうけた。ホテルを出て、明るい街頭を行きながら、伸子はそれとなく並んで歩いている素子のブラウスに目をやった。もういく度か洗われている素子の白絹のブラウスは、きついその純白さをおだやかな象牙色にくもらしているけれども、細いピンタックでかざられた胸のあたりにも、アイロンのきいているカラーにも、よごれらしいものは一つもなかった。モスクヷから来れば、はじめてヨーロッパの都会らしいウィーンの通りを歩きながら、伸子は素子のブラウスがみっともないようには着古されていないことに安心した。同時に、ウィーンまで来たのに、まだ駒沢のころのように、或はモスクヷぐらしのあるときに素子がそうであったように自分に対してこじれからまる素子の感情が伸子に苦しかった。

 これからの旅の先々では片言ながらどうしても伸子の英語で用を足してゆかなければならなかった。素子が自分の言葉の通用しないもどかしさと、伸子のうかつさとに癇をたかぶらしてきっかけがありさえすれば又けさのような場面が起るのかと思うと、伸子はその鞣細工品で、自分のために気の利いた小鞄を選びながら自分たちの旅行について銷沈した気分になるのだった。


 ウィーン風にいれられたコーヒーには、ふわふわと泡だってつめたいクリームが熱く芳しいコーヒーの上にのっている。その芳しいあつさと軽くとけるクリームの舌ざわりとをあんまりかきまぜず口にふくむ美味さが、特色だった。

 そういう飲みようを知らない伸子と素子とは、クリームをすっかりかきまわしたコーヒーの茶碗を前において、とあるカフェーにかけていた。空いている椅子の上に、買って来た、暗緑色とココア色の二つの婦人用カバンがおいてある。暗緑色で、角のまっしかくに張った方は素子のだった。こってりしたココア色で四隅に丸みのつけてあるのが伸子用だった。

 そのカフェーも、ウィーンの目抜き通りにあるカフェーがそうであるように、通りに向って低く苅りこんだ常緑樹の生垣いけがきの奥に白と赤の縞の日覆いをふり出している。初夏がくれば、ウィーンの人々は、オペラの舞台にでも出て来そうなその緑の低い生垣の陰で休みもするのだろう。五月もまだ早い季節で、英語を話している婦人づれを交えた人々はみんなカフェーの室内に席をとっていた。その室の、すっきりした銀色の押しぶちで枠づけられた壁の壁紙には、うす紅の地に目のさめるような朱ひといろで、大まかに東洋風を加味した花鳥が描かれていた。大胆で、思いきってあかぬけしたその壁紙の色彩と図案は、そこにとりつけられている浮彫焼ガラスの、扇を半ば開いて透明なガラスの上に繊細な変化をつけたようなランプ・シェードと、しっくり調和していた。

 おそろしい戦争が終り、ウィーンの飢餓時代がすぎた一九一八年このかた、ロシアはソヴェトになってしまったけれども、ヨーロッパのこっちはこれまでの貴族をなくしただけでそのまま小市民風の安定と安逸に落付こうと欲している人々の感情を反映し、またその気分にアッピールしてウィーンの最新流行は、室内装飾まで、このカフェーのようにネオ・ロココだった。

 そのカフェーの一隅で、伸子は途中で買った英字新聞をひろげた。二人がモスクヷをたったのは四月二十九日だった。五月五日のその日まで、あしかけ七日、伸子たちは新聞からひきはなされていたわけだった。何心なく新聞を開いた伸子の眼が、おどろいたまばたきとともに、第一面に吸いよせられた。「ベルリン市危機を脱す。騒擾やや下火。」という大見出があった。「暴民モップはウェディング・ノイケルン地区に制圧さる」そうサブ・タイトルがつけられている。ロイター通信五月四日附だった。見出しがセンセーショナルに扱われているのにくらべると、本文は簡単だった。五月一日の暴力的なメーデー行進にひきつづいて、ベルリン全市の各所におこった亢奮と騒擾は、この二日間に漸次鎮静されつつある。現在なお一部の暴民モップはノイケルン地区で彼らの抵抗をつづけている。しかし、ウンテル・デン・リンデンその他中心地の街上は、外国人の通行安全である。そういう意味が報道されている。ウンテル・デン・リンデンは外国人の通行安全とあるのが、いかにもウィーンの英字新聞らしかった。ドイツは、世界から旅行者を吸収するために、入国手続を簡単にしてヴィザのいらない時期であった。

「──どういうことなのかしら、こんなことが出ているけれど」

 伸子は素子にその新聞をわたした。ドイツの共産党は合法的な政党として大きな組織をもっていた。カーペーデーという三つの字は、モスクヷの生活をしている伸子たちにとっていつとはなしの親しみがあった。そのベルリンで、暴力的メーデーというのは、どういうことがおこったのだろう。その新聞記事につたわっている調子から、激しい武装衝突がおこったことだけはわかる。伸子と素子とは、ワルシャワで、ああいうせつないメーデーの断片とでもいう光景を目撃して来た。

「比田礼二や中館公一郎、大丈夫かしら」

 伸子はあぶなっかしそうに、そう云った。ベルリン全市がただならぬ事態におかれたとすれば、日本の新聞記者である比田礼二や映画監督である中館公一郎にしても、その渦中にいるかもしれないと伸子は考えた。二人は、どちらも、この人々がベルリンからモスクヷに来たときに伸子が会った人たちだった。二人がベルリンからモスクヷへ来て見る気持の人々だということは、メーデーの事件がおこったとき、彼等がカーテンをひいてベルリンの自分の室にとじこもってはいまいと伸子に思わせるのだった。

「何かあったらしいが、これだけじゃわからない」

 ニュースにおどろいて、その朝から二人の間にあった感情のわだかまりを忘れている伸子に、しずかに新聞をかえした。

「いずれにしたって、あの連中は大丈夫さ。外国人だもの」

「わからないわ。どっちもじっとしていそうもない人たちなんだもの」

 ワルシャワのあの広場のカフェーに逃げこんだときの女二人の自分たちの姿を伸子は思い浮べた。雨あがりの空に響いてパン、パン。と二つ鳴ったピストルのような音も。──どういう意味で、ベルリンにそれほどの混乱がおこったのか、わけがわからないだけ、伸子はいろいろ不安に想像した。

「きのうの新聞をぜひ見つけましょうよ、ね」

 カフェーを出ると、伸子はさっきのキオスクへとってかえした。その店には、前日のしかなかった。青く芽だっているリンデンの街路樹の下に佇んで、伸子は五月三日づけの外電をよんだ。ベルリン騒擾第二日という見出しで、数欄が埋められている。できるだけはやく、事件の輪廓をつかもうとして、伸子は自分の語学の許すかぎり、記事をはす読みした。ベルリンでメーデーの行進が禁止されていたことがわかった。それにかまわず、多数の婦人子供の加った十万人ばかりの労働者の行進がベルリン各所に行われて、警官隊との衝突をおこし、ウェディング、モアビイト、ノイケルンその他の労働者街では市街戦になった。警官隊は、大戦のときつかわなかった最新式の自動ピストルまでつかったとかかれている。ウェディングとノイケルンにバリケードが築かれた。二日の夜は附近の街燈が破壊され、真暗闇の中で、バリケードをはさんだ労働者と警官隊とが対峙した。夜半の二時十五分に、装甲自動車が到着して、遂にその明けがた、労働者がバリケードを放棄したまでが、夜じゅう歩きまわった記者の戦慄的なルポルタージュに描写されている。一日二日にかけて労働者側の死者二十数名。負傷者数百。そして千人を越す男女労働者少年が検挙されつつあるとあった。政府がベルリンのメーデー行進を禁止したという理由が、伸子にはまるでのみこめなかった。ドイツは共和国だのに。──政府は社会民主党だのに。──こんな風なら、ワルシャワのメーデーも、行進が禁じられていたのだったろうか。でもなぜ? いったいなぜ? メーデーに労働者がデモンストレートしてはいけないというわけがあるのだろう。不可解な気もちと、腹だたしさの加った不安とで伸子は、眉根と口もとをひきしめながら、その記事をよみ終り、あらましを素子に話した。

「これだから、モスクヷの新聞がないのは不便なのさ。何が何だかちっともわかりゃしない」

 もどかしそうに素子が云った。そう云いながら、さっきカバンやなにかの買物をした鞣細工店の前をまた通りすぎるとき、素子は、つとそのショウ・ウィンドウへよって行ってまたその中をのぞいた。



 メーデーにおこったベルリン市の動乱は、五月五日ごろまでつづいた。政府は禁止したが、それを自分たちの権利としてメーデーの行進をしようとしたベルリンの労働者の大群を、武装警官隊が出動して殺傷したことは、ドイツじゅうの民衆をおこらしているらしかった。ハンブルグでジェネラル・ストライキがおこる模様だった。「メーデー事件公開調査委員会」というものが、ドイツの労働団体ばかりでなく、各方面の知識人もあつめて組織されようとしているらしかった。

 ウィーン発行の英字新聞だけを読んでいる伸子と素子とにとって、それらすべてのことがらしいとしかつかめなかった。その英字新聞は五月三日のベルリン市の状況を報道するのに、何より先に外国人はウンテル・デン・リンデンを全く安全に通行することができる、と書いたような性質の新聞であった。ハンブルグにジェネストがおこりかかっていることも、調査委員会が組織されたことも、その英字新聞は、直接ベルリンのメーデー事件に関係したことではないように、まるでそれぞれが独立したニュースであるかのように同じ頁のあっちこっちにばら撒いてあるのだった。

 伸子と素子とは、黒川隆三が世話してくれた下宿パンシオンの三階の陽あたりのいい窓の前におかれたテーブルのところで、ゆっくりそういう新聞紙に目をとおした。

 繁華なケルントナー・ストラッセからそう遠くない静かな横通りにあるその下宿パンシオンは、伸子たち女づれの旅行者にホテルぐらしとちがった質素なおちつきを与え、黒い仕着せの胸から白いエプロンをきちんとかけ、レースの頭飾りをつけた行儀のいい女中がパン、コーヒー、ウィンナ・ソーセージの朝飯の盆を運んで来たりするとき、伸子は明るいテーブルのところにかけていて、このウィーン暮しが二週間足らずで終るものだということを忘れがちな雰囲気につつまれた。

 ベデカ(有名な旅行案内書)一冊もっていず、金ももっていない伸子と素子とは、オペラや演劇シーズンの過ぎた五月のウィーンの市じゅうをきままに歩いて、いくつかの美術館を観た。リヒテンシュタイン美術館でルーベンスの「毛皮をまとえる女」を見ただけでも、伸子としては忘られない感銘だった。そこには、ベラスケスの白と桃色と灰色と黒との見事に古びた王女像もあった。

 モスクヷを出発して来てから十日ばかりたって、伸子ももうウィーンでは下宿パンシオンの食事に出るパンの白さに目を見はらなくなった。モスクヷからの冬仕度はすっかりぬぎすてられ、明るい大通りの雑踏に交って、思いがけない角度からちらりと店さきの鏡やショウ・ウィンドウのガラスに映る伸子のなりはウィーンごのみの、渋くて女らしい薄毛織格子の揃いの服と春外套になった。素子のスーツも春らしく柔かなライラックめいた色合いだった。モスクヷの生活の習慣で、夜の服がいるなどと思いそめなかった伸子と素子とは、一組二組新調した服装にたんのうして、きのうもきょうも一つなりなのを気にもせず黒川隆三と郊外のシェーンブルンを見物に行ったり、公使夫妻の自動車にのせられて市外にある中央墓地ツェントル・フリードホーフで、ヨーロッパの音楽史さながらの歴代音楽家の墓地を見たりした。

 そのおとなしい公使夫妻は、ヨーロッパの中でも国際政治の面でうるさいことの比較的すくないウィーンのような都会に駐在していることを満足に感じている風だった。公使館が植物園ととなり合わせだった。公使館の庭をかこむ五月の新緑の色がびた石の塀をこして一層こまやかに深く隣りの植物園の緑につづき溶けこんでいる。ドイツのグラフ・ツェペリン号が世界一周飛行へ出ようとしているときだった。もう若くない公使夫人は洋装をした日本婦人の一種の姿で客間の長椅子にかけながら、

「丁度この窓からよく見えましてね、ほんとに綺麗でございましたよ、あの大きい機体がすっかり銀色に輝やいておりましてね、まるで、空の白鳥のように」

などと、伸子に話してきかせた。公使夫人は、ウィーンが世界の音楽の都であるという点を外交官夫人としての社交生活の中心にしていて、日本へ演奏旅行に行ったジンバリストの噂が出た。最近イタリーで暫く勉強してウィーンへまわって来た若いソプラノ歌手の話もでた。大戦後はオーストリアも共和国になって、伝統的な貴族、上流人の社交界がすたれてしまったために、シーズンが終るといっしょにウィーンの有名な音楽家たちは、アメリカへ長期契約で演奏旅行をするようになった。

「そんなわけで当節はウィーンも、いいのはシーズンのうちだけでございますよ。いまごろになりますと、せっかくおいでになった方々にお聴かせするほどの演奏会もございませんでねえ」

「でも、そのおかげで日本にいてもみんながジンバリストをきけたと思えばようございますわ」

 日本へヨーロッパの演奏家たちが来るようになったのは、夫人のいうように、第一次大戦のあとからのことだった。ジンバリストが日本へ来たのは伸子がモスクヷへ立って来た年の初秋ごろのことだった。それはジンバリストの二度めの来訪で、彼はアメリカへの往きと帰りに日本へよった。二度めにジンバリストが東京へ来た期間の或る日、上野の音楽学校でベートーヴェンの第九シムフォニーの初演があった。いかにも明治初年に建てられた学校講堂めいた古風で飾りけない上野の音楽学校の舞台に、その日は日本で屈指な演奏家たちが居並んだ。第一ヴァイオリンのトップは音楽学校教授であり、日本のヴァイオリニストの大先輩である有名な婦人演奏家だった。その日伸子は母親の多計代、弟と妹、二人の従妹たちという賑やかな顔ぶれで、舞台に近すぎて、音がみんな頭の上をこして行ってしまうようなよくない場所できいていた。演奏者たちも、せまい講堂に立錐のよちのなくつまった聴衆も、日本ではじめて演奏される第九シムフォニーということで緊張が場内にみなぎった。第一楽章が、入れ混ったつよい音の林のように伸子たちの頭の上をふきすぎ、短いアントラクトがあって、第二楽章に入ろうとする間際だった。ヴァイオリンを左脇にかかえ、弓をもった右手を膝の上に休ませてくつろいだ姿勢で聴衆席を眺めていた第一ヴァイオリンのトップの伊藤香女史が、何を見つけたのか急にうれしそうな笑顔をくずして、いくたびもつよく束髪の頭でうなずきながら、弓をもった右手を軽くあげた。数百の聴衆は、何ごとかと伊藤女史が頭で挨拶している方角をさがした。谷底のような伸子の場所からは何も見えなかった。が、じきジンバリストだ、ジンバリストが来ている、という囁きが満場につたわった。すると、どこにそのジンバリストがいるのかわからないなりに熱心な拍手がおこって、伸子も、どこ? 見えないわね、と云いながら誰にも劣らず拍手した。ジンバリスト自身は演奏中に思いがけずおこった歓迎を遠慮するらしくて何の応答もなかった。かえって静粛を求めるシッシッという声がどこからかきこえた。それはほんの一分か二分の出来ごとだった。第九シムフォニーの第二楽章がはじまった。その日の指揮はセロのドイツ人教授だった。指揮棒が譜面台を軽く叩き、注意。そして、演奏がはじまる。

 一呼吸はやく、第一ヴァイオリンのトップが弾き出した。伸子は、はっとした。次に罪なくほほえまれる感情につかまれた。ジンバリストが来ている。そのうれしさで全員の感じた亢奮が、率直にもう若くないしかも大家である女性ヴァイオリニストによってあらわされたように感じたのだった。その演奏会から、伸子も多計代も、ほかの連中もひどく刺戟に疲れてかえって来た。多計代は、まず一服という風に外出着のまま食堂に坐ってお茶をのみながら、一つテーブルをかこんでこれもお茶とお菓子を前にしている伸子たちに、

「さすがはベートーヴェンだけあるねえ。わたしはほんとに感激した。おしまいごろには、涙がこぼれて来てしかたがなかったよ」

と云った。その瞬間和一郎と小枝とが、顔を見合わせようとしてこらえたのが伸子にわかった。伸子は、何にしてもきょうの場所はわるかったと思っているところだった。シムフォニーとして一つにまとまり調和しあった音楽の雲につつまれることができず、伸子たちの席では、はじめっからおしまいまで厖大な音響の群らだつ根っこの底にかがんでいるようなものだった。それは素人である伸子の耳に過度に強烈な音響の群立であり、音楽に感動するよりさきに逃げようのない大量な烈しい音響に神経が震撼させられた感じだった。日本ではじめて演奏される第九シムフォニーだったのに、と切符を買いおくれたことを残念に思っていた。伸子は自然なそのこころもちのまま多計代に、

「場所がわるかったわねえ」

と云った。

「あれじゃ、涙も出て来てしまうわ」

 そして何心なく、

「人間て、あんまりひどい音をきいていると涙が出るのよ」

と云った。そう云ったとき伸子に皮肉な気分は一つもなかった。すると、多計代が亢奮でまだ黒くきらめいている美しい眼で伸子を不快そうに見ながら、

「また、おはこの皮肉がはじまった」

と云った。

「わたしが感激しているんだから、勝手に感激させとけばいいじゃないか」

 伸子はだまった。けれども、多計代はどうして、ベートーヴェンだから感激しなければならないときめているのだろう、と誇張を苦しく思った。

 モスクヷへ来てから、伸子はずいぶんいろいろのオペラをきき、音楽会をきいた。日本ではまだハルビン辺から来るオペラ団を歓迎していた。オペラはもとより、ソヴェトになってから組織されたフェル・シン・ファンスという、コンダクターなしの小管絃楽団の演奏にしろ、伸子が日本できいていたオーケストラとはくらべられない熟練をもち、音楽の音楽らしさをたたえていた。モスクヷの音楽学校で演奏者たちが舞台の上に円くなって、第一ヴァイオリンが指揮の役もかねて演奏するフェル・シン・ファンスのモツァルトをききながら、伸子は、はじめてモツァルトの音楽の精神にふれることができたように感じた。フェル・シン・ファンスの演奏するモツァルトは、ただおのずから華麗な十八世紀の才能が流露しているばかりではなかった。そこには、意識して醜さとたたかいながら美を追求しそれを創り出そうとしている意志と理性とがあり、人生が感じられた。伸子は、モツァルトを自分のこころの世界のなかに同感した。

 その演奏会があったのは一九二八年の雪のつもった日曜の午後だった。雪道をきしませてホテルへかえって来ながら伸子は最後に上野できいて来たベートーヴェンの第九シムフォニーの演奏を思いおこし、それが、どんなに不手際な幼稚なものだったかを理解した。同時に、あのとき、裾模様を着て第一ヴァイオリンの席につきながら束髪の頭を、あんなにうれしそうにこっくり、こっくりした伊藤香女史の特徴のある平顔を思い出し、一つの息を吸うほどの間、早く鳴り出した彼女のヴァイオリンの音を思いおこした。モスクヷへ来てみると、それらはすべて途方もないことだったのが、伸子にもわかるのだった。しかしまた、ヨーロッパの輝やかしく技術の練達した、社交性に磨きぬかれた音楽の世界に馴れたジンバリストにとってそういう真心にあふれひなびた日本音楽家とその愛好家たちの表情は、素朴に感動的だったにちがいないこともわかった。有名なピアニストやセロイストがそのころ幾人か日本へ演奏旅行に来たがその人たちは、来て、演奏して聴衆の質がよいことをほめて、帰った。日本におけるヨーロッパ音楽の発達そのものに深い関心を示したのはジンバリストだった。そのことを、いわゆる通な人々は、ジンバリストが、エルマンやハイフェッツのような世界的に第一流の演奏家でなくて、むしろ教育者風の人だから、とそのことにどこか二流というニュアンスをこめて云ってもいた。モスクヷへ来てみれば、音楽にしろ演劇にしろその専門の教育は名誉をもって考えられつとめられている。

 ウィーンにいる日本公使夫人として、東から西からの音楽交驩に立ち会う機会の多い夫人は、話している対手の伸子が社交界に関係をもっていず、また音楽家でもないことに、くつろぎを感じるようだった。

「こちらにこうしておりますとね、ウィーンへ音楽の勉強にいらっしゃる日本の方々の御評判のいいことも嬉しゅうございますが、ジンバリストのような偉い方が日本へいらして、お帰りになると、きっと、日本の聴衆は静粛で、まじめでいいとほめて下さるときぐらい、うれしいことはございませんよ。そのときは、ほんとに肩身のひろい思いをいたします」

 アメリカへ演奏旅行したウィーンの音楽家たちは、アメリカの聴衆は入場券を買って入った以上その分だけ自分たちが楽しませられることを要求している、と云う印象をうけて来るそうだ。まじめ一方な日本の聴衆にさえ好感をもつ人々が、もしロシアのしんから音楽ずきに生れついている聴衆の前で、刻々の共感につつまれながら演奏したら、どんなに活々した歓びがあるだろう。思えばおかしいことだった。ソヴェトへはヨーロッパの音楽家の誰も演奏旅行に行かなかった。ふたをあけるともう鳴り出すオールゴールのように音楽の可能にみちみちているロシアは、避けられている。それは、外国の政府が音楽家がモスクヷへ行くのをのぞんでいないためなのだろうか。

 伸子からそういう質問をうけた公使夫人、どこやらのみ下しにくいものを口の中に入れたような表情をしたまま、

「さあ──。どういうものでございましょうねえ」

 すらりと手ごたえのない返事をしたきり、その質問を流しやった。ウィーンでは、そして、この客間では、そういう風に話をもってゆかないならわしである、ということが伸子にさとれるようなそらしかたで。

 伸子たちが、社交と音楽のシーズンがすぎてからウィーンへ来たことは、伸子たちのためにもむしろよかった。冬のシーズン中には、その日の午後新緑の光りにつつまれ静寂のうちに小鳥の囀りさえきこえている公使館の客間にも、幾度か公式に非公式に、華々しい客たちが集められるらしかった。シーズンはずれの旅行者であるために、モスクヷから来た社交になじまない伸子と素子にも、公使夫人として気をらくに対せていることを、伸子は感じるのだった。

 数年前、ウィーンで自殺した日本のピアニスト川辺みさ子の、自殺するまでにつめられて行ったせつない心のいきさつが、彼女の名も忘られはてた今、ウィーンに来た伸子に思いやられるようになった。



 川辺みさ子は、伸子が十ばかりのときから五年ほどピアノをならったピアニストだった。ある早春の晩、肩あげの目だつ友禅の被布をきた伸子が父の泰造につれられて、はじめて川辺みさ子の家を訪ねたとき、門の中で犬が吠え、伸子たちが来たのでぱっと電燈のついた西洋間に、黒塗のピアノが一台、茶色のピアノが一台、並んでおいてあった。川辺みさ子は、その春、上野の音楽学校を首席で卒業したばかりの若いピアニストだった。細面の、瞳の澄んだ顔は、うち側からいつも何かの光にてらし出されているように美しく燃えていた。少女の心にさえ特別な美しさがはっきりと感じとられるその川辺みさ子がひどいびっこであることが、伸子を厳粛にした。弟の和一郎の小児麻痺をして左の足くびの腱に故障があった。赤坊のときから家じゅうの関心がそこに集められていて、和一郎が四つの春、はじめて乙女椿の花の咲いている庭を一人だちで歩いたとき、二歳の姉娘である伸子は母の多計代より先によろこんで泣きだした。その弟をかばいつづけて少女になった伸子は、自分のピアノの先生が激しい跛だということにつよく心をうたれた。そのことについて、うちへかえってひとこともふれなかったほど、川辺みさ子に同情と尊敬をもった。親たちは、伸子の感情が早くめざめていることに気づいて、ピアノを習わせはじめたのだったが、伸子はうちにベビー・オルガンを一台もっているきりだった。そのベビー・オルガンで伸子は教則本を習いはじめた。

 やがて、チンタウから来たものだという、中古のドイツ製のピアノが買われた。古風な装飾のついた黒塗りのピアノの左右についている銀色のローソク立てに火をとぼし、伸子は夜おそくまで、少女の心をうち傾けて練習曲をひき、また出まかせをひいた。それらは、光そのものの中に生きるような時の流れだった。伸子はやがてソナチネからソナタを弾くようになった。そのころの川辺みさ子は有名な天才ピアニストであり、音楽学校の教授だった。ベートーヴェンを専門に勉強していた川辺みさ子のリサイタルは、そのころの音楽会と云えば大抵そうであったように上野の音楽学校で開かれた。飾りけない舞台の奥のドアがあいて、そこから裾模様に丸帯をしめた川辺みさ子が出て来ると、聴衆は熱烈に拍手した。美しく燃え緊張した若い顔を聴衆にむけ、優しい左肩をはげしく上下に波立てながら、左手を紋服の左の膝頭につっかうようにしてピアノに向って歩いて来る川辺みさ子の姿には、美しい悲愴さがあった。その雰囲気に狂い咲いた花のようなロマンティシズムが匂った。彼女の演奏は情熱的であるということで特徴づけられていた。うす紫縮緬の肩にも模様のおかれている礼装の袂をひるがえしてベートーヴェンのコンチェルトが弾かれ、熱中が加わるにつれて、川辺みさ子のゆるやかに結ばれた束髪からは櫛がとんで舞台におちた。コンチェルトはその時分誰の場合でもオーケストラはなしで、ピアノだけで演奏されていた。

 伸子に、二人のあい弟子があった。二人とも伸子が通っていた女学校の上級生であり、その人々は、伸子よりずっと上達していた。伸子は、ピアノに向って弾いているとき、よくその横についている川辺みさ子から、不意に手首のところをぐいとおしつけられて、急につぶされた手のひらの下でいくつものキイの音をいちどきに鳴らしてしまうことがあった。川辺みさ子の弾きかたは、キイの上においた両手の、手くびはいつもさげて十の指をキイと直角に高くあげて弾らす方法だった。それは、どこかに無理があってむずかしかった。われ知らず弾いていると、いつの間にか手くびは動く腕から自然な高さにもどってしまって、川辺みさ子の二本の指さきで──いつもそれはきまって彼女の人さし指と中指とであったが、ぐいときびしく低められるのだった。

 伸子が、一週に二度ずつ通っていたピアノの稽古をやめてしまったのは、偶然な動機だった。伸子が十六になる前の冬、川辺みさ子は指を、ひょうそうで痛めた。激しい練習のために、ひょうそうになったのだそうだった。稽古は四ヵ月休みにされた。その四ヵ月がすぎて、川辺みさ子が削がれてさきの細くなった左の人さし指をもって病院から帰って来たとき、伸子は、それまでピアノの前ですごしていた時間の三分の二を机の前にいるようになっていた。音楽と歌にだけ様々な少女の気もちの表現を托していた伸子は、川辺みさ子がひょうそうで指をいためた間に、急速に小説にひかれて行った。その真似をして書く面白さにとらわれた。メレジュコフスキーが、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を描いた小説だの、ワイルドの「サロメ」、ダヌンチオの「死の勝利」などが、伸子をひきつけた。そこには恋愛があった。肉体の動きとして表現された情熱と、声として、行為としての思想とがあった。十六歳の伸子は、愛し、憎み、思考し、はげしくもつれあう人生を生のままに目で見、耳できき、ふれられる体の表現として、とらえられている小説にひかれた。

 こうして、伸子は川辺みさ子から離れた。離れたと云ってもピアノの稽古をやめたというだけであったが。──伸子はその後もかかさないで彼女の演奏をきいた。

 伸子が女学校を終ったばかりの早春、川辺みさ子の身の上に思いがけない災難がおこった。或る晩、友人のところから帰りがけ、赤坂見附のところで川辺みさ子は自動車にかれて重傷を負った。夜ふけの奇禍だったのと、本人が昏倒したままであるのとで、どこの誰とも判明しないままに築地の林病院に運びこまれた。その婦人がピアニスト川辺みさ子であると知れたとき、世間はおどろいた。川辺みさ子の負傷は頭部だった。脳底骨がいためられて重態だった。伸子は、林病院のうすぐらくて薬のにおう病室の控の間で、小声にひそひそと告げられる川辺みさ子の病状に戦慄した。

 その年の秋もふけてから、川辺みさ子は病院から自宅へかえって来た。伸子は見舞に行った。ピアノのおいてある、そこで伸子が教則本をひきはじめた洋間に、手軽なベッドをおいて、川辺みさ子は、伸子がその部屋に入って行ったときは、うしろのカーテンをひいて、ほの暗くしたなかに横たわっていた。

「おお、伸子はん!」

 川辺みさ子は、おお! という外国風な叫びと京都弁とをまぜて、ベッドの上におき直った。

「よう来てくれました!」

 つよくつよく伸子の手をとって握りしめた。

「これからやりますよ、わたしは生れかわったのやもの! なあ、そうやろう?」

 伸子が口をさしはさむ間を与えず、川辺みさ子は話しつづけた。伸子は、暫く話をきいているうちに、せつなくて体から汗がにじみ出した。川辺みさ子は、脳のどこかに負傷の影響を蒙ったと思わずにいられなかった。早口に、だまっていられないように勢づいて話す川辺みさ子の言葉は、明瞭をかいていた。そして、これからの自分こそほんとの天才を発揮するのだとくりかえし川辺みさ子が云うとき、伸子は滲み出た血がこったような涙を目の中に浮べた。それをきくのはこわかった。そして、いやだった。天才! 伸子がそのひとことでおぞけをふるうには、深いわけがあった。その前後にはじめて小説を発表するまわりあわせになった十八歳の伸子は、天才という人の心をそそるような、同時にマンネリズムによごされた言葉の裏に最も辛辣冷酷なものを感じていた。それをまったく感じようとしていない母の多計代の人生への態度との間に、伸子の一生にとって決定的なものとなったとけ合うことのできないへだたりを感じはじめているときだった。川辺みさ子がまだ弾くことのできない閉されたピアノのよこの薄暗いベッドで、伸子の手をにぎり、ほとんどききわけにくいまでに乱された舌で、未来の自分の音楽における成功と天才についてとめどなく話すのをきいていることは、伸子にとって苛責だった。

 伸子は、川辺みさ子のところからほんとに逃げて、うちへ帰って来た。そして、自分の小部屋にひっこんで長いこと姿をあらわさなかった。川辺みさ子は、怪我けがによってどうかなってしまった。それを否定するどんな徴候も彼女に会っていた間の印象の中から見出せなくて伸子は人生の恐ろしさに身じろぎできないようだった。川辺みさ子に対する無限の気の毒さ、哀れさには、いつか伸子自身が自分の運命をそうはさせまいとしている本能的な抵抗がこめられていたのだった。

 川辺みさ子がまだ療養生活をしていたころのあるときのことだった。近所にすんでいる伸子のところへ迎えの使いが来た。川辺みさ子は、文学の仕事をはじめた伸子に、音楽と関係のある作品を教えてくれというのだった。伸子は、立派な文学作品で音楽に関係のないというものがあるだろうかと思った。そのどちらもが、人生にかかわっているとき。──伸子は「ジャン・クリストフ」と「クロイチェル・ソナータ」をあげた。それから「ジャン・クリストフ」の作者ロマン・ローランによる「ベートーヴェン」とを。その日、川辺みさ子は、何が動機だったのか日本の音楽家の思想の貧しさをしきりに伸子に話した。

 更に月日がすぎて再び川辺みさ子がピアノの前に立ち、弟子たちの練習に立ち合うようになったとき、伸子は心ひそかにおそれていたことを噂としてきくようになった。川辺みさ子は、あの怪我から少し誇大妄想のようになったというのだった。伸子は子供のころからのおなじみなのだから、何とか注意してあげたら、と云う人もあった。でも伸子に何と云えたろう。伸子は伸子として自分のぐるりとたたかうことで精一杯だった。

 しばらくして、川辺みさ子のウィーン行きが発表された。日本へアンナ・パヴロヴァが来たり、エルマンが来たりしていた。川辺みさ子は、日本のピアニストである自分の芸術で、少くとも自分の弾くベートーヴェンで世界の音楽界を揺すぶって見せる、とインタービューで語った。伸子は、その談話を新聞でよんで覚えず手の中をじっとりさせた。

 どこかはらはらしたところのある思いで伸子は川辺みさ子がウィーンへ立つ前の訣別演奏会フェアウェルコンサートをききに行った。それはベートーヴェンの作品ばかりのプログラムで上野の講堂にひらかれた。一曲ごとに満場が拍手した。そして熱演によって彼女の櫛が、またふりおとされた。伸子は、座席の上で苦しく悲しく身をちぢめた。せめて、日本で最後の演奏会であるその日だけ、川辺みさ子の櫛はおとされないように、と伸子はどんなに願っていただろう。川辺みさ子のピアノは情熱的で櫛をふりおとしてしまうそうだ、という噂はいつかひろまっていた。その様子を、きょうは現実に見られるだろうかと半ばの期待でステージに視線をこらしている聴衆が、川辺みさ子のゆるやかな束髪のうしろから次第にぬけかけて来た櫛に目をつけ、やがて音楽そのものよりいつその櫛が落ちるだろうかという好奇心に集中されてゆくのが、聴衆にまじっている伸子にまざまざと感じられた。川辺みさ子が糸桜の肩模様の美しい上半身をグランド・ピアノへぶつけるようにしていくつかの急速に連続するコードをうち鳴らしたとき、彼女の髪のうしろからとんだ櫛はステージの上にはずんでおちて、ころがった。瞬間の満足感が聴衆の間を流れた。

 演奏はつづけられたが、伸子は、どうせとんでしまうものならステージへ出る前に、なぜ櫛なんかとって出て来ないのかと、川辺みさ子自身の趣味をうたがった。伸子がごく若い娘の作家であることを娘義太夫にあつまる人気になぞらえて、娘義太夫のよさは、見台にとりついてわあーっと泣き伏す前髪から櫛がおちる刹那にある、佐々伸子にこの味が加ったら云々と書かれていたのを読んだことがあった。伸子はそれを忘れることができず、意識してそれに類するどんなその注文にも応じまいとかたく決心していた。伸子のそのこころもちは、川辺みさ子の演奏会と云えばステージにおとされる櫛を期待させているような点に伸子を妥協させないのだった。彼女の天才主義に疑問をもちつづけた伸子は、櫛のことから、芸術家としての川辺みさ子と自分のへだたりを埋めがたいものとして感じた。稚いながらも川辺みさ子に対しては伸子も一人の芸術にたずさわるものとしての主張をもちはじめていた。

 川辺みさ子がウィーンへ行ってから半年たつかたたない頃だった。川辺みさ子は世界を征服すると大した勢で出かけたが、案外なんだそうだ、某というコンセルバトワールの教授に、これから三四年みっしり稽古したら月光の曲ムーンライトソナタぐらいは一人前にひけるようになるだろうと云われた。そういう噂が伸子の耳にはいった。川辺みさ子の運指法がめちゃめちゃなんだそうだ、そういう話もつたわった。そういうひとこと、ひとことは伸子の全存在の内部へしたたりおちた。何も云わず伸子は自分の若いしなやかさを失っていない十本の指を目の前にひろげて長いあいだそれを眺めた。ピアノのキイの上においた両手の、手くびをさげて、指をあげて! と命じた川辺みさ子の声を思いおこしながら。

 下宿の窓から鋪道へ身を投げて川辺みさ子がウィーンで自殺した。そのニュースが新聞へ出たのは、それから程ない時だった。伸子は、頬のひきつったような表情でその新聞を見つめ何にも云わず、息を吸いこんだ。吸いこんだその一つの息がはきどころないように胸がつまった。伸子は誰に向っても、がんこに口をつぐみつづけた。

 数ヵ月たって川辺みさ子の遺骨が故国へ送り届けられた。それは単衣の季節だった。はかばかしい喪主もなくて、まばらに人の坐っている寺の本堂を読経の声とともに風が通った。遺骨は、錫製のスープ運びの罐のようなものに入れられていた。その罐に外国語でタイプされた小さな貼紙がついていた。京都に埋められる遺骨の一部を東京にのこすために分骨するとき、こころを入れてその日の世話を見ているたった一人の弟子であった土井和子の貴族的な美貌の上をいくたびも涙がころがって落ちた。──おかわいそうに。土井和子は真実こめてそうささやきながら骨をひろった。伸子は、土井和子の誠意にうたれ、謹んでかたわらに坐っていた。川辺みさ子その人に対して芸術家としての疑問や異種なものである感じは、死によっても伸子の心からは消されなかった。伸子はそのころ佃との生活紛糾のただなかにいて、自分にもひとにも鋭く暗い気分だった。

 音楽という広いようで狭い世界では、ウィーンと日本との距離がはたで思うよりはるかに近いものであることを、こんどウィーンに来て見て伸子は実感した。当時川辺みさ子の評判やそれに対する期待、好奇心は、おそらく川辺みさ子そのひとが、ウィーンに現れるよりさきまわりして、彼女の登場の背景を準備していたことだろう。いま公使館の客間は五月の深い新緑に青ずんでしまっている。ここへはじめて川辺みさ子が日本服姿を現したとき、まだきずつけられず、うちのめされていない彼女の気魄はとうとうウィーンに来たという亢奮でどれほどたかまって表現されたか。その情景は伸子にも思い描かれるようだった。

 三四年みっちり稽古すれば月光の曲ムーンライトソナタぐらいは一人前に弾けるようになるだろうと、そのままをウィーンのその教授が云ったのだろうか。川辺みさ子は、日本に一つしかない官立音楽学校教授という肩書のまま遊学した。そして、そのベートーヴェンの演奏で世界をふるわせることができると信じてウィーンへ着いた。川辺みさ子が、そういう評価を与えられたとき、そしてその噂がおどろきに人々に顔を見合わさせながら野火のように彼女の周囲の日本人間にひろまって行くのを見たとき、十四歳で音楽修業をしている少女にとってそれは運指法の問題でありえたとしても川辺みさ子にとっては、生涯の暗転の瞬間であった。三十歳になっている伸子にはっきりそう理解された。自分の仕事というものによって工面した金で外国を女旅している伸子には川辺みさ子の経済問題も深刻にうかがわれた。川辺みさ子の兄は、両親の亡いあとむしろ彼女の経済力で支えられているらしかった。川辺みさ子はおそらく一定の旅費をもってただけだったろう。あとはウィーンをはじめ各地の演奏旅行で収入を得ながら、より高い勉強もつづけようと計画していたにちがいなかった。演奏旅行で収入を得ながらウィーンにくらすという生活と、指の練習からやりなおしをはじめなければならない三十をこした一人の日本婦人としてのウィーンでの朝夕。──日本服の細い肩にゆるやかに束ねられた束髪のほつれ毛を乱して、寂しいウィーンの下宿の窓べりに立った川辺みさ子が、自分の脚の不自由さを音楽家として破局的な時期にまったく致命的な意味をもって自覚した瞬間を想うと、伸子はあわれに堪えがたかった。川辺みさ子のひどい跛が雄々しい優美さをもってあらわれるのは、音楽の光につつまれてこそであった。そのころの日本では、どこへ行くにもくるまにのってゆけたからこそであった。その光の波がひいてしまったウィーンの生きるためにせめぎ合っている朝夕の現実で、やがてはくたびれて見すぼらしくなるだろう日本の着物の裾をみだして、馬車に乗ってばかりいられなくなった川辺みさ子が街を行く姿は、ヨーロッパへ来て見なければわからないみじめさとして彼女の前に描きだされたにちがいない。一日一日を食べて行くことさえこまかく計算されなければならないとき、外国人弟子からはおどろくような月謝をとるのが風習であるウィーンのピアノ教授への謝礼をつづけることはどうして可能だろう。川辺みさ子が、日本を出発したとき、彼女のボートは焼きすてられていた。ふたたび故国へ帰るときの川辺みさ子は、凱旋者でなくてはならなかった。川辺みさ子は、ウィーンでピアノを修業するものとしてではなく、自分のベートーヴェンで世界を征服して来る、と云って出発して来たのだったから。嫉妬ぶかい日本の音楽界は、ひとたび自分たちの耳に聞いた彼女のその言葉を忘れることはないだろう。川辺みさ子が、自分で自分をとりこにしたその言葉の垣のすき間から、彼女の一挙一動は見まもられているのだ。ウィーンでの川辺みさ子には、彼女を支持する大衆というものもなかった。よしんば音楽そのものはよくわからないにしても彼女の勇気と努力とを愛して、櫛のおちる演奏に拍手する素朴な人々はいなかった。ウィーンにいるのは、彼女の競技者である彼女より若くて富裕な人々、もしかしたら、彼女の教えた人々と、音楽の技術そのものによってでなければ彼女の存在を認めることのない世界の音楽の都であるウィーンの聴衆だけだった。進退のきわまった、という字がそのままあてはめられる川辺みさ子の、訴えようもなく、すがりようもなく苦悩する姿が、伸子のウィーンの下宿パンシオンの窓際に見えるようだった。

 川辺みさ子の黒く澄んだ眼は、どんなに暗澹とした闇をたたえて、彼女の下宿パンシオンの室内を眺めまわしたことだろう。沈黙して、しかも何かを見ているような壁。無心に物を映す鏡のよそよそしいつめたさ──一九二九年の春の午後、モスクヷで癒したばかりの肝臓が疲れて重く、部屋にこもって、我ともなく追想にとらわれた伸子が眺めるウィーンのパンシオンの室の三方の壁は、やさしく地味な小枝模様の壁紙で貼られていた。壁の上の楕円形の鏡に金色の細ぶちが輝いて、二つのベッドの前に赤い小絨毯がおいてあった。

 川辺みさ子がウィーンでくらした下宿というのは、どこのどんな家だったろう。そして、川辺みさ子の体が窓から落ちて横たわったウィーンの通りというのはどんな通りだったのだろう。伸子は生々しいようなこわい思いで、自分のすぐ横に開いている三階のひろい窓から外をのぞいた。天気のいい日が向う側の建物に照っていて、伸子の窓の下は、人通りのすくない横通りのペーヴメントだった。灰色に乾いた日向のペーヴメントの車どめの石の上に半ズボンの男の子がちょこんと腰かけて、両手の間で何か小さい物をああし、こうしして、しきりに研究中らしくいじくりまわしている。余念のない少年の動作を見おろしているうちに、伸子はいつか川辺みさ子の最期についての暗く凄じい回想から解放された。同時に、まるでそれは人気ないその部屋のどこかではっきり云われた言葉であるような感じで一つの疑問がおこった。どうして川辺みさ子は自分の音楽で世界を征服するなどと、いう気になったのだろうかと。川辺みさ子の生涯が悲劇として終ったあとも伸子はそれを川辺みさ子個人の天才癖の悲惨とだけ思っていた。モスクヷ生活の間、そこできく音楽と川辺みさ子の回想は、一度も結びついたことがなかった。──ベートーヴェンの音楽のどこに、いわゆる征服的なものがあるだろう。あるものは、人間の存在にさけがたい苦悩と擾乱の克服ではないだろうか。苦しむ人間の情熱そのものが昇華しようとする過程が嵐のようなとけるようなアダジオとなって新しい生への意欲へと運ばれてゆく。それだのに、何故川辺みさ子はそのようなベートーヴェンの本質が、世界を征服すると思ったのだろう。

 ペーヴメントの上にいる少年の動作を見おろしている眼をしばたたいて、伸子は自分にわきおこった新しい疑問におどろいた。征服したいと思ったのはワグナーだったのに、と伸子は考えた。彼はウィルヘルム一世にああいう手紙をかいたのだから。──人民を温和にして統治しやすくするために最も有効果なのは宗教ならびに音楽であります、と。ニイチェは、音楽をそういう風なものとして皇帝に売りつける晩年のワグナーに腹を立てて仲たがいした。伸子にはニイチェの気持がもっともなことと思えているのだった。

 そして、きょうワグナーのオペラとしてきかれているのは、ワグナーがまだそんな手紙を皇帝にかいたりしなかったころ、初期の作品、ワグナーが若くて、貧しくて自分の途をさがしていた頃の「タンホイザー」などであることも、意味ふかいと思っているのだった。

 ベートーヴェンの音楽の人類的な本質、それは文学へもつきぬけて来ているほどの本質を、川辺みさ子が個人的な、天才の光輝と思いちがいし、自分の光背ともして背負いあげたことは、愚かしい単純さであり、思いあがりとして、彼女の一人の女としての真実な悲劇まで嘲笑のうちに忘られた。でも──と伸子は、なお思いつづけるのだった。川辺みさ子のような天才についての本質的な考えちがい、芸術が人々の心にしみ入り、そこに場所を占めてゆく過程とナポレオン風な力ずくのような征服をごちゃまぜにする途方もなさが、果して川辺みさ子の頭の中だけにあったことだろうか。伸子にはそう思えなかった。伸子が、モスクヷへ来るまでの生活でぶつかりつづけて来た母の多計代のものの考えかた、文学上の名声だの名誉だのというものについての感じかたは、伸子がまともに生きようと願えばそれとたたかわずにいられない本質のものだった。多計代の名声欲につよく反撥する伸子の心もちがそのまま川辺みさ子の天才主義に抵抗したのであってみれば母としての多計代とピアニストとしての川辺みさ子の態度に共通な世俗的な英雄主義があるわけだった。そして、詮じつめれば、それも二人の気の勝った女性が偶然もち合わせた共通な性格というようなものではなくて、個人と個人のたえまないはたき落しっこで一方は栄達し一方は没落してゆくという風な、激甚で盲目的で血みどろな生存のためのあらそいがよぎなくされている旧い社会のしきたりの中では、ひとりでに固められて来た観念でもある。ただ人々は、そのあらそいの凄まじさをむき出しにして、うっかり勝利の前ぶれなどをして自分への敵意を挑発する危険から身を守るために、つつましさだの、謙遜だのというつけ黒子ほくろをはるのだ。伸子は日本の風習にある、ほとんど偽善に近いつつましさの強制について思わずにいられなかった。それは女にとって何と特別に負わされている重荷だろう。川辺みさ子には、生きてゆく要所要所につけ黒子ほくろをはってゆく狡猾な用意がなかったのだ。彼女はおどろくほど一途で正直だった。伸子はそうも思うのだった。川辺みさ子の生涯には、川辺みさ子の生きた社会の姿がそっくり映し出されている。

 伸子の下宿のその室には、大きな煖炉がきられていた。冬の季節がすぎて、その中に火がたかれなくなってから程たっている。春の煖炉の、冷えてくらい炉の上の棚に、伸子が街で買って来たパンジーの花束が飾られている。

 その下をゆっくり歩きながら、ウィーンで命を絶った川辺みさ子がいまになってみれば、きょうの自分といくらもちがわない年ごろであったことを考え、伸子は新しい哀れに誘われた。あのことがあってから七年も八年もたった。伸子もモスクヷへ来てからは新しい社会が作家や音楽家の生活状態がどんなにいろいろな関係の面で変るものかという事実を目撃している。そういう理解の加わった気持で、しんみりと思いかえしてみると、伸子が自分のひとりの心の中で川辺みさ子と自分とが別ものであることをあんなに強調して意識し、一生懸命に自分とは反対の端へ川辺みさ子という存在を押しつけていたにしろ、ひっきょうその気がまえをもっているというだけでは、伸子が川辺みさ子から本質的に別な世界にいるということではなかった。伸子は、そのころ云われていた文士とか女文士とかいう言葉と、そこから連想されている生活ぶりに、嫌厭を感じ、反撥していた。けれども反撥していただけで、それにかわるものがなに一つ伸子にあるわけではなかった。文士の一人であり女文士であることを拒んでいる伸子にあるのは孤立だけだった。その孤立のなかで、伸子はもがきつづけて来ているのだった。

 静かな午後の横町の下宿の室でかすかにパンジーの花束がにおう炉棚の下にたたずみ、伸子はあれからこれへと心の小道をたどりながら、半ば無意識に、そこの小テーブルの上に立ててあるモツァルトの薄肉浮彫の飾りメダルを手にとった。ウィーン名物の薄肉浮彫の金色の面に、こころもち猫背で、というより鳩胸のような肩つきで、円い形のかつらをつけたモツァルトの横顔が浮き出ている。

 伸子は、川辺みさ子が、晴やかな裾模様につつまれた跛の姿で、ステージにあらわれたときの表情を、まざまざとおもかげにみた。拍手にこたえて何か云いたそうに少しあいている紅のさされた唇。細おもてできめのこまやかな顔にうっすりとお白粉がにおっていて、亢奮と精神集注と、そこから来る一種のぽーっとした表情にとけ合った若く燃える彼女の顔は、いくらか上向きかげんに聴衆に向ってもたげられていた。彼女の不均衡な足のはこびによって、彼女の左肩がどんなにひどくしゃくられ、一歩は高く、一歩は低く進まなくてはならないにしても、川辺みさ子は、かすかに開いて印象的な唇をもつ、その関西風の小さい白い顎を決してさげることはなかった。──



 あと二日で、ウィーンを去るという日のことだった。伸子と素子とは、黒川隆三にたってすすめられて、ウィーンのまちはずれにあるカール・マルクス館というものを見学に出かけた。

 オーストリアの政権はキリスト教社会党にとられているけれども、ウィーン市の市政とウィーン州の政策はすっかり社会民主党に掌握されている。そして、百八十万の人口をもつウィーンは最近社会主義によって運営されている工業都市として、各国の注目をあつめている。

「あなたがたのような御婦人が、せっかくウィーンへ来て、あすこを観ないで行ったんではもの笑いですよ。僕だって、シェーンブルンへ案内したが、そっちへは連れて行かなかったなんて、あとで恨まれては遺憾ですからね」

 リンデンホーフというウィーン市の外廓にある労働者街までゆく電車の中で、黒川隆三は、ウィーンの社会民主党が、労働者福祉のためにどんな数々の事業を行っているか、なかでも、住宅政策と保護事業の成功について伸子と素子に説明した。ウィーンでは、借家人の権利を尊重して、大きな家屋を独占しているものに増加税法をかけるため、売買から利益を得ることが困難にされている。ウィーン市は、一九二七年にウィーンの土地の二七パーセント弱を市有にすることができた。それらの土地へ、これから伸子たちがみようとしている労働者住宅と同じものをどんどん建ててゆく計画なのだそうだった。

 電車がウィーンの街を出はずれるにつれて、市中の多彩で華美な雰囲気が、段々左右の町なみから消されて行った。伸子たちは、木造の低い小家やガソリン・スタンドの赤いタンクが目立つ、ひっそりした停車場で電車を降りた。そこからすこし歩いた小高いところに、名所の一つであるカール・マルクス館が建っていた。ひろやかな砂利道を入ってゆく中央に、丸々とした裸の子供が飾られている小噴水があり、それを灌木の低いしげみが囲んで、小公園の趣にベンチが置かれていた。各階ごとにテラスをもった近代風なアパートメントが、二ブロック、たてにつらなって建てられているために、窓々やテラスの見とおしが賑やかにゆたかな効果で印象づけられる。一方は、もとからある何かの建物の古びた煉瓦の高くない外壁で、他の一方はゆるい斜面にはさまれたさほどひろくない面積が、日あたりよく快適につかわれているのだった。

「どうです──労働者住宅ですよ、これが」

 黒川隆三は、そう云いながら、第一の棟の地階の、廻廊になったところへ伸子と素子とをつれて行った。地階は、建物のあっち側へ通りぬけられる黒と白との市松模様のモザイックの廻廊だった。迫持天井に装飾ランプがつられていて、廻廊に面していくつかのドアが堅くしめられている。通路も、ごみの吹きたまりそうな廻廊の隅もこざっぱりと掃除がゆきとどいていて、しかも人影のないあたりの空気は、伸子に何だかなじみにくかった。週日で人々は働きに出ている午後の時間のせいだろう、と伸子は思った。

 黒川隆三は、ここへの常連の一人らしく、なれた様子で廻廊のつきあたりにしまっている一つのドアをノックした。ドアの上には、その建物全体の洋式につりあったおとなしさで図案風に17と番号が白くかかれている。

「ここに、シュミットという爺さんがすんでいるんです。古い旋盤工ですがね。──ひとつ内部を見せて貰いましょう」

 心やすい黒川隆三のノックは応えられず、二度三度間をおいてたたいても、ドアのあちら側に人の気配はなかった。

「留守らしいわね」

「爺さん、ふらふら出て行っちまったかな、天気がいいですからね」

 黒川隆三の口ぶりは、どういうわけか、たとえばいつもそこにいるはずにきまっている門番の姿が見あたらない、といったときの調子だった。

「その辺へ出て、待って見ましょうか」

 云われるままに、伸子と素子とはその廻廊から建物の裏側へぬけて、斜面を見はらす日ざしの気持よい石段の低い墻壁しょうへきに腰をおろした。五月の晴れた日光にやかれた石肌が、服をとおしてあついくらい伸子のからだにしみとおった。素子は早速タバコをとり出した。黒川隆三がマッチをすって火をつけてやった。その火が透明に見える。そこはそんなに明るい日向だった。風もない。

 伸子は、瞳をせばめたような視線で、灌木の生えている斜面の下に日をうけてつらなるウィーンの市はずれの屋根屋根を眺めていたが、やがて、

「静かねえ、ここは……」

と、あらためて、背後の建物と廻廊を見かえった。

「なんだか、人なんかどこにも住んでいないみたいね、いつもこんなのかしら」

「そんなことはありませんよ。いま丁度みんな働きに出ている時間ですからね」

 黒川隆三は、単純な説明にいくらか弁解の調子を加えて云った。

「かみさん連も、ここに住んでいると留守番がなくてすむから、何かかにか外へでてみんなで稼いでいますからね。──比較的楽にやっていますよ。ウィーン市は労働者に失業手当はもとよりだが、養老保険も出しているから……」

 伸子たちが日向ぼっこしている場所から離れて、建物よりのところに一人の老婆が黒い肩かけをかけて編物をしていた。

「おおかた、ああいう連中も養老年金組でしょう。シュミットも今は年金ぐらしで結構やっているんです、三十五年勤続したあげくですからね、それが当然ですよ」

 そのシュミットがもう帰っているかもしれない、と黒川隆三は建物の廻廊の方へ一人で見に行った。伸子は、彼の姿が少し遠のくと、素子に、

「ここ、どういうのかしら」

 すこし低めた声で云った。

「こんなに、子供のいない労働者住宅ってある? どこ見たって、もののほしてある窓一つないなんて──」

 モスクヷのノヴォデビーチェの新開町が、勤労者住宅を中心として雪の中に賑やかに雑沓してあけくれしていた情景を伸子は思いくらべた。あそこではどっちを見ても子供たちがいた。いろんな物音と声がしていた。そして動いて生活の活気がたぎっていた。

「──ここは、だいぶ参観用なんじゃないかな」

 素子がそう云って、皮肉そうにタバコをもっている手で顎をなでるようにした。そこへ、

「まだかえっていませんよ──せっかく来たのに残念だなあ」

と、黒川隆三が、脱いだ黒いソフト帽を片手にふりながら伸子たちのところへもどって来た。

「いつもいるんですがね、あいにくだ」

「いいですよ」

 素子が云った。

「いずれ、内部も外同様、さぞこざっぱりしているんだろうから」

「それを見てもらいたいんです」

「ほんとに、いいことよ」

 伸子も素子についてそう云った。

「たいてい、わかるわ」

「しかし、そこにまた百聞一見にしかず、ということもありましてね」

 ウィーン大学の宗教哲学の学生だという黒川隆三は、伸子たちが日本で学生として考えなれている若者とちがい、世馴れていて、ものをいうにも、いまのように百聞一見にしかず、というような成語をさしはさむのだった。

 シュミットをさがすことは断念したらしく、黒川隆三がまた一本タバコをつけて、何か云い出そうとしたとき、廻廊の奥から一人の少年が、伸子たち一行へ向って歩いて来た。半ズボンの下から少年らしく肉の少い脛と膝小僧を出して、古いシャツの上からジャケットを着たその十一ばかりの男の子は、おとなしい様子で伸子たちの前へ立つと、ウィーンの子供らしい金髪の頭をすこしかしげるようにして、

こんにちはグットターク

と云った。伸子たちも、

「こんにちは」

と挨拶した。すると、男の子は、何ということなしの身ごなしでそれまで伸子たちの視線からかくされていた右手をさし出して、

どうぞビテ

と、エハガキを見せた。素子が、

なんなのチトウ?」

と、思わずロシア語で云って少年の手にあるエハガキを上からのぞきこんだ。それは、このリンデンホーフの労働者住宅カール・マルクス館の写真エハガキだった。入口の小公園めいた噴水のところから、明るく並んだテラスと窓々の見透ヴィスタし図を撮った写真のエハガキだった。伸子も素子も瞬間躊躇していると、黒川隆三がズボンのポケットからいくらかの小銭をつかみ出して少年にやり、顔みしりらしくおっかさんムッターがどうとかきいた。少年は内気な表情でそれに答え、伸子たちに、

ありがとうございますダンケ・シェーン

と云って、病身そうなぼんのくぼを見せながら、出て来た廻廊の方へ去って行った。黒川隆三は、

「記念に一つ」

と一枚ずつ、伸子と素子にそのエハガキをわけた。「都市行政における社会主義化」を見るために世界各国から参観人が絶えないと黒川がいうこの労働者住宅の状況が、このエハガキを売る少年の表情で、伸子にいかにもと思えた。おそらくきょうは留守のシュミットという旋盤工だった爺さんの室も、お客が来ればドアを開いて内部を見せる住居ときまっているのだろう。そして、一遍うちのなかを外国人に見せるたびに、シュミット爺さんは、案内して来たものからいくらかのこころざしをもらうのだろうと思った。ウィーンは心づけのこまごまといるところだったから。そして、そういうみいりも、カール・マルクス館に住んでいる余徳だと思われているとすれば、労働者の生活として、何という矛盾と偽瞞だろう。伸子は、そういう風に感じずにいられなかった。エハガキ売りの少年の、おとなしくしつけられた、感じのいい物乞いとでも云えるものごしは、素子にもある感銘を与えたらしかった。彼女は、ぶっきら棒に、

「ここへは、誰でも労働者なら住む権利をもっているんですか」

と黒川にきいた。

「今のところ、ここに住んでいる二百七十世帯ばかりの労働者は、大体のところ、古くから社会民主党に入っている労働者の家族ですね」

「──政党労働貴族ってわけですか」

 すると黒川は、

「ロシアだって事実はそうなんでしょう?」

 からかうような笑顔で伸子を見た。

「コンムニストの労働者だけなんでしょう? 住宅なんかもてるのは──」

「こっちではそういうことになっているの? ロシアって何でもコンムニストだけでやっているっていう話があるのかしら。はっきりおぼえてはいないけれどもソヴェトのコンムニストは人口の一パーセントぐらいよ」

「──ともかくここの社会民主党の政策は、こういう住宅をどんどんふやして、労働者の生活を向上させて行こうとしているんです」

 黒川隆三は、

「佐々島博士──御存じでしょう?」

と、『改造』や『中央公論』に、社会主義についての論文をかいている経済学者の名をあげた。

「先生は、大分ウィーンの社会主義には感服しておられるようですよ。都市社会主義からマルクシズムにまで出て来ているって。実際いまのウィーンの労働者住宅の家賃は戦前の十二分の一ですからね」

 都市社会主義というのが、どういうものか伸子は知っていなかった。伸子も素子もだまっていた。黒川隆三は、

「どうです。佐々さん!」

 はっきり年齢のとらえられない独特のものなれたくちぶりで黒川は伸子に話しの中心を向けて来た。

「こうしてみると、世の中ってものはおもしろいもんでしょう? 労働者の生活向上をやっているのはロシアばかりじゃないんですからね。ボルシェビキでなくたってウィーン社会民主党は、現に労働者生活を改善しているんですから」

「そうかしら」

 胸のなかで黒川のいうことをはじきかえした伸子の気持が、そういう声におのずとあらわれた。

「わたしにはそう思えないわ」

「どうしてです?」

 小さなものにつまずいたような表情が黒川の、ぴったり黒い髪をわけた顔の上を通りすぎた。

「ひとつ、後学のためにうかがいたいもんですな」

 こういう黒川の身のかわしかたと口調とが伸子に彼の人物をわからないものにするのだった。

「だって、そうじゃないかしら。ああしてそこに住んでいる労働者の子が、外国人を見るとエハガキを売りに来るんじゃ、そこで労働者生活が改善されているとは云えないと思うんです」

「あれは佐々さん、大した意味のあることじゃないですよ。ここへ来る外国人は、みんな何か記念を欲しがるんでね、ああやってほしい人に売っているだけですよ」

「でも、事実、あれで小遣いを稼いでいるんでしょう? エハガキの収入がこの労働者住宅としての収入になっているのでないことはたしかよ」

「それはそうでしょうがね」

 黒川は、その現実は認めた。しかし、すぐつづけて、

「じゃ、ロシアじゃ売ってませんか」

と、逆に質問した。

「何でも彼でも宣伝というとぬけめがないらしいがエハガキまでには手がまわりませんか」

 何と妙にもってまわった云いかたをするのだろう。伸子は、

「そんなもの売っちゃあいないわ」

 おこった若い女らしくぷりっとして答えた。そして傷つけられた心もちで、この間シェーンブルンへ三人で行ったときのことを思いあわせた。それは、ベルリン事件から間のないある日のことで、美しい丘の上の柱廊コロネードからはるかにウィーンの森を見はらしながら、素子が何心なくベルリンのメーデー事件について、ウィーンの新聞に何か後報がでていやしまいかと黒川隆三にきいた。そのとき黒川は、無関心な様子で、さあと云い、けりがついたんでしょう、と答えた。つづけて、ベルリンじゃ、何でも共産党が先棒をかつぐんでね、と云い、そうなんでしょう? と伸子たちに顔をむけた。コミンターンの指令どおりに、何でもしなけりゃいけないことになっているんでしょう? 黒川のそのききかたには、とげがふくまれていた。そのとき伸子は黙っていた。素子もきこえないふりをしているようだった。

 いまも、気もちの害された表情で伸子が沈黙したまま、斜面の景色を眺めていると、黒川は、

「もしロシアで労働者がエハガキなんか売っていないとおっしゃるんなら、そりゃ、まだロシアが、エハガキなんか作るところまで進んでいないというだけのことですよ」

と云った。

「やめてよ! 黒川さん」

 伸子が、あきれた顔に黒川を見た。

「あなたレーピンやコンチャロフスキーの絵のエハガキ見たことおありんならないの?」

「こりゃ、黒川君のまけだね」

 面白そうに、わきから素子が云った。

「ロシアじゃね、黒川君、労働者住宅は労働者がそこに住むために建てられているんで、外国人に見せたり、エハガキにしたりするために建てているんじゃないんですよ」

「まあ、見ていらっしゃい」

 深い確信に貫かれているように黒川が反駁した。

「いまにロシアの労働者も、ここみたいにエハガキでも何でも自由にこしらえられるようになって御覧なさい。きっと、売るようになるんだから。──人情なんてものは、国によってそうそうちがうものじゃないんです」

「変だわ、黒川さんの話は。みんな逆なんだもの──」

 もうこれひとことだけ、という顔つきで素子を見ながら伸子が云った。

「ロシアの労働者が、何でも自由にこしらえられるようになった時こそ、あの人たちはなおエハガキなんか売る必要のない生活をもつようになるのに──」

 ウィーン出発をひかえて、それまでにすまさなければならない用事はみんなすみ、伸子たちにとってその日の用事は、このカール・マルクス館を見るだけだった。ここをいそいできりあげて、うららかな午後ののこりの時間をどうすごす計画もなかった。黒川隆三とのくいちがった話にあきて、伸子は一人でぶらぶら石段を斜面のなかほどまで下りて見た。その石段のなかほどから見おろすと、町の眺望が低くはるか左右にひらけて、少し西にまわった太陽をまともに受ける遠い建物の窓々のガラスがいっせいにまばゆく燃えたって見えている。

 その眺望を面白い感じで見ながら、伸子はこのカール・マルクス館についてふっきれない味をうけている。これと同じようなきもちは、クーデンホフ夫人の客間でも感じた、と思った。東京に生れた光子という美しい日本婦人が、明治の初年、外交官として東京に来ていたウィーンのクーデンホフ伯爵夫人となって、一生をウィーンで過していた。オーストリアが共和国となってから、そのクーデンホフ伯未亡人は、額のひろい、やせぎすな末娘と二人で、郊外の別荘につましく生活していた。数年来、半身不随の老婦人は、レモン色の細い毛糸で編んだ優美な部屋着につつまれて、長椅子にもたれていた。そのヴィラの、小砂利のしかれた入口の細道にも狭い庭にも折から紫のライラックが満開で、その花房はられて、柔かなレモン色にくるまれた老夫人のわきの卓にもあふれるばかりもられていた。それは色彩的だった。この老夫人の次男が、クーデンホフ・カレルギー伯で、一座の会話のなかでは、パン・オイロープというよび名でよばれていた。ヨーロッパ諸国はヨーロッパ諸国だけのヨーロッパ連合をつくって、政治経済の問題を処理し、文化も守るべきであるというのがクーデンホフ・カレルギー伯のパンヨーロッパ主義だった。体の自由はうばわれていても、この婦人の身にしみついて、いまは過渡な華やかさは消えているヨーロッパ風の社交性と東京の女らしい淡泊さは一種の洗練された雰囲気に調和されていて、彼女が、

「ああ、パン・オイロープはね、あなた、今ブルッセルでございますよ」

などと話していると、いくらか時代ばなれした日本語のつかいかたがかえってみやびやかにきこえた。

 このパン・オイロープという不在のひとの名と仕事のために、ウィーンの郊外の老人の隠栖も時々は賑わされている様子だった。伸子と素子とを、この老夫人の客間へつれて行ったのは、公使館づきの武官だった。瀟洒として目立たない縞の背広を着て、春らしい灰色のソフトと鹿皮の手袋をもったその人の風采は、陸軍少佐とは見えなかった。彼は、クーデンホフ未亡人に、伸子にもパン・オイロープに賛成して、署名してもらうべきだとすすめた。

「そうでございますよ。あなた。お一人でも多くみなさんの御署名をいただきましてね」

 伸子は、だまって笑っていた。汎ヨーロッパ連合にソヴェト同盟は招待されていなかった。ロシアがヨーロッパのうちの一国ではないかのように。そして、国際連盟リーグ・オブ・ネイションズがソヴェトもネイションズの一つである事実をみとめまいとして来ているように。ロマン・ローランが、汎ヨーロッパ連合に勧誘されたとき、もういまは世界の諸民族の結合のために努力すべきだ、という意味から拒絶したことを、伸子は、モスクヷの文学新聞リテラトゥールナヤ・ガゼータで読んだことがあった。その記事は、ロマン・ローランがヨーロッパの知識人でさえも様々の形と表現で反ソ十字軍に組織されようとしていることを警告して、ソヴェトの事業が破壊されることは、世界から社会的自由と個人的自由の一切が失われることだ、と主張した論文に、ルナチャルスキーの解説の抜すいがそえられたものだった。伸子がどうやらそれをよむことができたのは去年のことだった。伸子として見まごうことのできないロマン・ローランの写真にひかれて、モスクヷへ来たばかりだった伸子は、その古い文学新聞リテラトゥールナヤ・ガゼータを大事に紙挾みの間にしまってもちつづけていたのだった。

 モスクヷを立ってワルシャワへいったとき、伸子は、雰囲気的にポーランドのソヴェトぎらいを感じとった。一晩しかいなかったワルシャワでは一つの匂いのように伸子の顔の上に感じられた反ソヴェトの感情が、ウィーンへ来ると音楽についての公使夫人の話しかた、附武官のパン・オイロープへの肩のいれかた、黒川隆三の老成ぶったソヴェト批評と、どれもつながりをもち、一定の方向をとっている。その国の言葉が話せないということで、自分と全く種類のちがう同国人にまじってすごす不自然さについて伸子はまじめな感情にされた。あながち伸子自身がどうという政治的な立場をきめているのではないけれども、ソヴェトの現実を知っているものの心持としておのずから彼等と反対におかれるような場合、ウィーンでの伸子は、沈黙してしまうことが少くなかった。ここと、ここにいる人々と自分とのつながりは一時のものにすぎないということから、いつの間にかそういう伸子の態度がでていた。伸子とすれば、もしあしたになれば、ふたたびみることのないこの丘の斜面の風景であるにしろ、いま遠いところにあるどこかの建物の窓々が午後のある時間の日光をある角度から受けるとあんなに燃えるという事実は、伸子がそれを眺めようが眺めまいが、その事実独自の全さで存在しつづけるだろう。それがすべてに通じる事実というものの本体なのだ。

 伸子は、ウィーン風の春外套の背中で女らしく結び飾りがゆれるのを意識しながら、一段一段のぼってゆく靴のつまさきに目をおとして、素子と黒川隆三がタバコをくゆらしている場所へもどって来た。

 もどってみると、素子が、胸の前にくみ合わせた右手に長い女もちのタバコのパイプをもったまま、並んでその胸壁にかけている黒川をっと見て、議論している最中だった。

「へえ、妙な理論なんだな。じゃあ、あなたの社会主義じゃ、インテリゲンツィアってものが、それとして一つの階級だってわけなんですか」

「まあ、そうですな。──少くともインテリゲンツィアの独自性というもの、ビルドウングというものは守ってそれとして発展させてゆかなけりゃならんのです」

「そのビルドウングとかって、なんなんです?」

 素子一流の率直なききかただった。

「日本語で云えば文化とでも訳すかな。ほんとはずっと複雑な内容をもったガイスティックなものなんですがね」

「ガイスティックてのは?」

 つっこんでまた素子がきいた。

「精神的、或は知性的とでもいいますか」

 皮肉な表情でそうやって、ぐんぐん追っかけてきくところは、素子だった。わきにきいていて伸子はふとユーモラスな気分になった。この素子がモスクヷである日内海厚と、ロシア字一字のよみかたについてひどく論判して、遂にどっちも自分が正しいとゆずらなかったことがあったのを思い出して。──

「ぶこちゃん、さっきから黒川君の社会主義理論というのを拝聴しているところなんだがね」

 暗示的なまなざしで伸子をかえりみながら素子が云った。

「社会主義の理論というものは、元来三十何種とかあるんだってさ。──そうでしたねえ、黒川君。黒川君の社会主義ってのは、知識階級は知識階級、資本家階級は資本家階級として、それぞれの独自性において発展してゆくべきなんだそうだ」

「もちろん、労働者階級を基礎においての話ですよ」

 伸子にむかって、黒川は補足した。

「大体日本のインテリゲンツィアが、猫も杓子しゃくしもロシアかぶればっかりして、何でもかんでも労働者、農民だってさわいでいるくらい滑稽で非理論的なことはありませんよ。そもそも社会主義ってのは、みんなが、無学な百姓や貧乏な労働者になることを目的としちゃいないんですからね。そうでしょう? すべての者がよりよく生活するのが目的なんです」

「じゃ、つまりこう?」

 伸子は黒川隆三にききかえした。

「あなたの考えでは労働者は労働者として、インテリゲンツィアはインテリゲンツィアとして、資本家は資本家として、その区別をいまのままこういう工合でもちながら、よりよく発展して行くべきだっていうわけ?」

 こういう工合というとき、伸子は、労働者、インテリゲンツィア、資本家という順に上へ上へとつみあげる手つきをした。

「いいや、社会主義の中では、知識が金の上にくるべきなんです。インテリゲンツィアがその文化力で、資本を支配してゆくべきなんです」

「だって──それじゃ、オーエンだわ」

 伸子が、おどろいた眼で黒川を見つめた。

「そう云われるだろうと実は、はじめっから思っていたんです。失礼ながら、あなたがたは、ボルシェビキの理論しか御存じないから……」

 黒川隆三はパッと音をさせてマッチをすり、改めて素子のタバコにも火をつけてやりながら、

「ボルシェビキの理論にしたがって、革命になったら、一つ佐々伸子さんがプロレタリアの側に移ったところを見せていただきましょうか」

 それは伸子の心に、彼に対して憎悪をわかせる云いかただった。黒川は声をたてて笑った。

「佐々伸子さんが、プロレタリアになって、小説なんかやめて、どこかのホテルの掃除女になるってわけですか」

 たかぶる感情をしずめようとして伸子が沈黙しているのを、黒川は自分の意見に彼女が説得されはじめたと思ったらしかった。

「僕は人道上から、そういうことは許せません。佐々さん自身にしたって、事実がそうなって現れたとき、それにたえることはできないにきまってるんだ。ボルシェビキのすることをごらんなさい。プロレタリア独裁がはじまるとすぐ、それまでは仲間づらをして利用したインテリゲンツィアをどう扱いました?」

 そういう黒川の一つ一つの言葉は、きいている伸子の心に百の抗議をよびさまして、それを黒川へ直接の悪態とならないように、順序だてていうためには伸子の全心の力がいった。伸子は、そっと深い息をひとつして、

「よくて、黒川さん」

 ふだん話すときより、二音程ばかり低い声で云い出した。

「あなたは、大変上手に、率直に云えば人をひっかけるようにお話しなさいます。だけど、それは間違いよ」

 何か云おうとする黒川を伸子はおさえて、

「第一に、インテリゲンツィアは、労働者階級や資本家の階級のような意味での階級ではありません。それから、社会主義は文化だけの問題ではあり得ないんです。社会の生産とその経済関係が基礎です。それから政治よ。インテリゲンツィアがプロレタリアート側に移行するっていうのは、わたしが掃除婦にならなければならないってことではないんです。作家そのものとして、歴史の発展的な方向に立ってプロレタリアートの立場から社会をよくしなけりゃ、芸術も文化もそのものとしてのびないことは明白です。──ルナチャルスキーはインテリゲンツィアよ。レーニンだって。マルクスだって、インテリゲンツィアよ」

 もし革命になったら、というような前提で話すことさえ、伸子にはうけ入れられなかった。伸子は現在の自分が革命家というものであると思っていなかったし、将来そういうものになるとも思っていなかった。しかし、人類の歴史の前進という意味で、伸子はどういう過程でどう現れるのかはわからないながらも、革命というものについて、うけみにばかり感じているのではなかった。でも、それは伸子の心の奥の奥にひそめられている小さくて熱いものだった。議論の中で話す種類のことでもないのだった。

 黒川隆三はしばらくだまって、ひろい外気の中へタバコの煙が消えてゆくのを目で追っていたが、そのうちに自分の心の中の重点を一つところからもう一つのところへおきかえた風で、

「なかなか、頑強ですな。おどろきましたよ」

 こんどは声を立てない笑いかたで笑った。

「もっとも御婦人てものは、一旦こうと覚えこまされると、あたまが単純だからなんでしょうな、なかなか理性的に方向転換できにくいものと見えますからね」

 さっと手をのばしてそういう黒川のネクタイをつかむように、

「とうとうそれを出したね」

と素子が云った。そして、なつめ形のきめのこまかい顔を上気させた。

「黒川君のまけだよ。男が女と議論して、それを出したら、白旗だ。──認めませんか」

 言葉の上では冗談のようでもあり、黒川に迫っている素子の眼の表情のうちには冗談でない真剣さも閃いている。

「なにしろ二対一だからね」

 態度をあいまいにして、黒川は譲歩した。

「外国じゃあ、あらゆる場合に御婦人を立てる習慣ですからね」

「──そんなことじゃないさ!」

 三人とも三人の思いでだまりこんだ。そのままなおしばらくはそこで休んでいた。

「そろそろ行きましょうか」

 そう云いだしたのは黒川だった。三人並んでカール・マルクス館の廻廊をぬけ、またシュミット爺さんが住んでいるというドアのわきを通りがかった。けれども、黒川はもう一度そこをノックして見ようとはしなかった。みんなは入りまじった音で砂利をふみ、表門を出た。ウィーンもこの辺の労働者街になると歩道が未完成で、歩くだけの幅にコンクリートがうってあるのだった。



 予定どおりにウィーンを立って、プラーグへ来た伸子と素子とは、そこで思いがけず旅程を変更させるような事情にぶつかった。

 伸子たちがウィルソン駅から遠くないホテルへ着いてみると、そこでは近代風なロビーのあたりからアメリカ流のひろいカウンターのぐるりをとりまいて、男女の旅客がひどく雑踏していた。プラーグでは最新式と云われるそのホテルはもう満員になっていて、白と黒の派手な市松模様の床の上にトランクを置いたまま、ことわられた旅客がつれ同士で相談しているのは伸子たちばかりではなかった。いちじにプラーグへつめかけたこれらの旅客は、みんな翌日から開会されるチェッコスロヴァキア第一回工業博覧会へ来た人々だった。東ヨーロッパの交通の中心点であるプラーグへ殺到したこれらの旅客たちのほとんどすべては、伸子と素子とがそこへ行こうとしているカルルスバード目ざしているのだった。欧州で有名な温泉地での遊山ゆさんも、工業博覧会へ諸国からの客を招きよせる条件の一つとして、博覧会はカルルスバードで開催されるのだ。

 ウィーンから一二〇〇キロもはなれた旧いボヘミアの都。美しいモルタウ河に沿って「一百の塔の都」とよばれている十三世紀以来の都であるプラーグは、その河岸や町のなかのいたるところに豊富な中世紀の記念物をのこしているとともに、大戦後は、民族解放の指導者マサリークを三度大統領としている新鮮な若い共和国の心臓部でもある。伸子と素子とは、とぼしい知識ながらも、ウィーンとはおのずから違った好奇心を抱いてウィルソン駅に下りたのだった。が、ステーションの混雑にひきつづく予想外のホテル難で、先ず伸子が、旅心をくじかれた。ホテルのカウンターにぐっと上半身をもたせこんで部屋のかけ合いをしている男連中の態度は、いかにも自分たちが工業博覧会のために来ている客たちなのだということを押し出したとりなしだった。数人一組の男づれだったり、或は夫婦づれだったり、いずれにもせよ、伸子たちのように博覧会があるということも知らず、室の予約もなく賑いのなかにまぎれこんで来たような女二人づれの旅客などというものは、カウンターの周囲をいれかわり立ちかわりする人たちの間にも見当らないのだった。

 時がたつほど、ほかのホテルも満員になってゆく心配が目に見えた。伸子たちは、馬車にのって、プラーグの中心地をすこし出はずれたところにある一つのホテルにやっと部屋をとった。それも、一応満員になっているそのホテルで、たった一つだけのこっているという組部屋コンパートメントを。

 はじめ着いたホテルが、新興プラーグのビジネス・センターに近くて、設備も近代的をめざしているとすれば、伸子たちが室をとることのできたホテルの気風は、プラーグの優美さをそこに泊ったものに印象づけようとしているらしかった。

 李王世子が泊ったことがあるというその組部屋コンパートメントは、ひるがおの花と葉の間に身をおいたような感じの装飾だった。床にしかれたカーペットも壁の絹張りの色もいちように薄みどりの色のニュアンスに調和されていて、天井には、ほんとに露のきらめくひるがおの花びらのような精巧なボヘミアン・グラスのシャンデリアが下から燈火をつつんでいる。寝室には、これもボヘミアらしいレース被いのかかった寝台が並んでいた。日ごろは、閑静なホテルらしいのに、その日はひろくもないロビーに人の出入りがはげしくて、それだのに夕飯の時間になってみると、食堂にはちらりほらりとしか人影がない。ちぐはぐであわただしい空気だった。博覧会のためにプラーグへ集った男女の旅客たちは、行儀のいいホテルの、タバコものめない正式な食堂では陽気になりきれないというわけなのだろう。

 伸子たちは、夕食後、カウンターへよってカルルスバードでは、もうどんな小さいホテルにも空いた部屋はあるまいと聞いて、自分たちの、一晩とまるにしても贅沢すぎて落付けない室へかえって来た。

 かげろうのはねのような色につつまれた室の一隅に金ぶちのしゃれたガラスの飾り棚がおかれていた。その中に、美術工芸品として世界に有名なボヘミアン・グラスの見事なカットの杯やカメオのような透しやきの小箱などが飾られている。伸子は、少し古びの見える絹ビロードの長椅子にかけて、

「どうする?」

 テーブルのところに立ってタバコに火をつけた素子を見上げた。

「この有様じゃ、何とも仕様がないわね」

 チェッコスロヴァキアの工業博覧会は、向う二ヵ月の予定で開催されているのだった。

「わたし、カルルスバードはやめにする」

「どうして……ここまで来ているのに」

「だって。──わかるじゃないの」

 大雑踏のカルルスバードで、きょうの騒ぎを幾層倍かにした気骨を折ることを思うと、伸子は体が苦しいようになった。

「ね、わたし、ほんとにカルルスバードはやめたいわ。かえって横腹がいたくなってしまうもの」

「そりゃ御本人がいやだっていうなら、それまでのことだがね」

「フロムゴリド博士にだって、決してわるいことはないと思うわ。プラーグで博覧会とかち合おうなんて、思ってもいなかったことなんですもの」

 伸子は素子をときふせた。カルルスバードへ行かないときまったら、翌日プラーグの市内見物をして、夜の汽車でひと思いにベルリンまで行ってしまおうということになった。

 次の日は朝から細かい雨ふりだった。細雨にけむる新緑の道をゆっくり馬車で行きながら、モルタウ河にかけられている中欧らしい橋や城を観てゆくと、伸子は、たった一日たらずでこのこまやかな趣のある、そして宗教改革者フスのまけじ魂をもった町を去ってしまうのが心のこりだった。それに伸子たちが選んだベルリン行の列車ではドレスデンを真夜中に通過することになった。中欧のフロレンスと云われるドレスデンの美術館も見ないでしまう。

「カルルスバードをやめたんだから、もう一晩とまって、ドレスデンへ昼間つく汽車にしない? 四五時間でもいいから」

 有名なプラーグの天文時計を見るために、市役所に向って行く馬車の上で、伸子は素子に云った。

「やっぱりあきらめきれないわ。ドレスデンなんて、またあらためて来られるところでもないし……」

 しばらく黙っていて、素子は決断したように、

「まっすぐベルリンへ行こう」

 はっきりと云った。

「ぶこちゃんの趣味であっちこっちへひっかかりはじめたら、それこそきりがありゃしない。とにかくベルリンまで行っちゃおう」

 こうして伸子たちは翌日のひる近くベルリンに着いた。そして、かねて中館公一郎に教えてもらってあったモルツ・ストラッセのルドウィクというパンシオン(下宿)に部屋をとった。



 ベルリンには、モスクヷで伸子たちと一緒にソヴキノのスタディオを見学したりした中館公一郎がまだ滞在していた。建築から新鋭な舞台芸術の研究にかわったことで多くの人に名を知られている川瀬勇もいた。落付いていられるホテルもないプラーグで素子が、とにかくベルリンまで行っちゃおう、と主張した気持の底には、互に言葉の通じるこれらの人々の顔が浮んでいたこともあらそえなかった。伸子は、モスクヷで会った新聞の特派員である比田礼二に会えたらとたのしみにして来たのだった。ベルリンについたあくる日、伸子たちのとまっているパンシオンから近いプラーゲル広場のカフェーで、中館公一郎にあったとき比田のことをきくと、

「あのひとは、いま旅行じゃないんですか」

 あっさりしすぎた口調が、何かを伸子に感じさせるように中館公一郎は答えた。

「ジェネヷかどっちかじゃないんですか。そんなような話だったですよ」

 川瀬勇にたずねたときも、伸子は似たような返事をうけとった。

「ああ、彼は旅行中だよ、スウィスだ」

 その云いかたは、比田の行くさきについて伸子にそれ以上しつこく訊かせない調子があった。おぼろげながら伸子は理解したのだった。要するに、比田礼二はジェネヷであろうと、ずっと東のどこかの都市であろうと、彼にとって行かなければならないところへ行っているのだ、と。そして、それについて何もきく必要はないのだし、きくべきではないのだ、と。伸子はそういうところに、ベルリンという土地にいて世界をひろく生きようとしている日本の人たちの暮しぶりがあることを知ったのだった。

 美術学校の建築科にいたころから俊才と云われた川瀬勇は、ベルリンのどこかの街にもう三年近く住んで舞台装置や演出の研究をつづけていた。かたわら、ベルリンの急進的な青年劇場の運動にも関係しているらしかった。川瀬勇は、そのころ日本で有名になったプロレタリア作家の、印刷工の大ストライキをあつかった長篇小説を翻訳しているところでもあった。翻訳の話のあいだに、川瀬勇がたいへん能才なドイツの女のひとを愛人としているらしいことが、伸子たちに察しられた。

 この川瀬につれられて伸子と素子とはベルリンへ来て間もない或る日、ノイケルン地区へ行った。ベルリンのメーデーに、ノイケルンやウェディングという労働者地区で、数十人の労働者の血が流された。その記事を伸子たちはウィーンにいたとき、偶然買った英字新聞の上でよんだ。

「ただ行ってみたいなんて、何だか恥しいんだけれど」

 ノイケルン行きを川瀬勇にたのみながら、伸子は、その地区に生活し、そこでたたかっている人々に対してきまりわるげな顔をした。

「でも、わかるでしょう? あなたがモスクヷへ来たとすれば、やっぱり赤い広場へは、行ってみるしかないと思うの」

「そうだともさ。行こうよ」

 その日は、メーデーからもう二十日あまりたっていた。が、ベルリンの革命的な地区とされているノイケルンの労働者たちとその家族が、五月一日の夜から三日の夜まで自分たちが築いて守ったバリケードと、そこで流された仲間の血について忘れようとしていない証拠が、カール・リープクネヒト館前の広場にあった。それは、白ペンキで広場の石じきのあちらこちらに描かれている大きい輪じるしだった。広場の上にそれぞれはなれて三ところに、白い大きい輪じるしがある。その輪のなかに、警官隊に殺されたノイケルンの労働者の血が流された。カール・リープクネヒト館に向って左手の建物の黒い石の腰羽目のところに、やはりいくところか白ペンキをこすりつけられているところがあった。それは、警官隊の弾丸があたって石がそがれた箇所の目じるしだった。

「土台、メーデーの行進を禁止するなんていうやりかたが、そもそも明らかに挑発さ。百九十万もあるんだぜ、失業が──。それを、ひっこんでいろったって、いられるものかどうか、誰が考えたってわかるこっちゃないの。折あらば弾圧しようと。うの目鷹の目なのさ、ムッソリーニなんてわるい奴さ」

 ドイツの保守的な勢力は、ムッソリーニのファシスト独裁をうらやましがっていて、一九二五年、彼がイタリー全土にメーデー行進を禁止したとき、ヒンデンブルグは早速まねして、ドイツでもメーデーを禁止しようとした。ドイツの労働者階級は勇敢にあらそって、メーデーの権利をとりもどしたのだそうだった。

 薄曇りしたベルリンの日の光を、ライラック色の旅行外套の肩にうけながら、伸子は瞳のこりかたまったような視線で、広場の上に、くっきりと白く円い三つの輪じるしを見つめた。バーバリ・コートを着てベレー帽をかぶっている背の高い川瀬勇は、

「いまのうちに見ておくことさ」

と、云った。

「ツェルギーベルは、手前が命令してやらせたくせに今となっちゃ、ここにいつまでも白い輪がかかれているのがたまらないんだ。場所がら、ツェルギーベルの名が世界の労働者に向って挑戦しているようなもんだからね」

 その広場に面して建っているカール・リープクネヒト館に、ドイツ共産党K・P・Dの本部がおかれているのだった。素子が、まじめなような、からかうような眼つきで川瀬を見ながら、

「そのツェル何とかって奴、案外正直ものなんだな。人をうち殺させる男が、白ペンキの輪には閉口なのかしら」

「なんべんもやったあげくのことさね、もちろん。彼は遂に労働者地区ノイケルンには、白ペンキが払底していないという事実を発見せざるを得なかったのさ」

 伸子たちは、声をそろえて短く笑った。

「ドイツの労働階級も、社会民主党の正体をしんからつかまないうちは泥沼だと思うな。どんどん産業合理化で失業させる。何十万人というロック・アウトをやる。赤色前衛隊ロート・フロントや反ファッショ組織のアンティ・ファを禁止する。労働者はその一つ一つのできごとに対しては、誰しも反撥しているんだ。だからこそことしのメーデーだって、うちに臥ている奴はなかったんだけれども、それでも、ドイツの社会民主党が、もうすっかりファシストの飼いものになってしまってることまでは信じきれないんだな。社会ファシストの罪悪っていうのは、カーペー(共産党)の云いぐさだと思っている連中が、まだある。そして、漠然と、何か自分でもわからないものを期待しているんだ。おかげで、だまされつづけだ」

 暫く広場にいてから、伸子、素子、川瀬勇の三人は、カール・リープクネヒト館の地階の書店にはいって行った。共産党本部への入口は、どこか別のところにあるらしくて、広場に向った地階は、単純に開放されて、書店になっている。格別人目をひくようなショウ・ウィンドウもなく、書物を並べた陳列台と、壁のぐるりに書棚をめぐらしあっさりした感じのその店で事務をとっているのは、白いブラウスに黒いスカートをつけた五十がらみの、物静かな婦人だった。

 川瀬に教えられた伸子はグロスの諷刺画集一冊、ケーテ・コルヴィッツの二冊の画集、フランスの諷刺的な版画家マズレールの二つの絵物語を陳列されている書籍の中から選びだした。クララ・ツェトキンのレーニン伝の英訳があって、それもとった。その間にも、伸子の気持にはほかならぬK・P・Dの売店で本を買っているのだという亢奮があった。伸子にとっては、このベルリンのカール・リープクネヒト館こそ、生れてはじめて目撃した共産党の本部だった。モスクヷにいる間、伸子はたびたびカーペーデー(ドイツ共産党)という名をきき、字を見た。В・К・П(Б)全連邦共産党、ボルシェビキと、念入りにカッコつきの三つの字は、もっと日常的にこまかく伸子たちの生活にはいりこんでいた。新聞でも、ラジオでも、伸子が何よりもそれで啓蒙されている労働婦人用のさまざまなパンフレットの頁の上にも。В・К・П(Б)はもとよりカーペーデーの響は、一年半のモスクヷ生活のうちにいつか次第に変化して来ている伸子の生活のなかにとけているのだった。しかし伸子たちの前に、В・К・П(Б)の建物は、ついぞ一度もあらわれたことがなかった。全連邦共産党の本部はクレムリンの城壁の内側にあった。そこへ通るために、伸子たちのもっている日本外務省の旅券は、役に立たなかった。伸子は、ソヴェトの社会と政治の関係がいくらかわかって来るにつれてかえって、В・К・П(Б)に対する真偽とりまぜのものみだかさをもたなくなったばかりか、自分が政治的には組織のそとの人間であることを、常に明瞭にしていることを、階級的な良心の表現とする気持だった。ベルリンへ来ても、伸子のその態度は一貫しているのだった。そういう伸子の心もちは、一方から云えば各国にある前衛組織とその活動家に対して、まじめな敬意をさまされていることでもあった。したがって、伸子はいま幾冊かの画集や本を選び出している伸子たちの様子をその売店の机の前から眺めている婦人事務員の、もの柔らかだが商売人の愛嬌はどこにももっていないさっぱりした表情にも、無関心であることはできにくいのだった。

 ゆっくり時間をかけて書籍を買ってから、三人は広場を横切って、ノイケルンの通りへ出た。地下鉄のステーションに向っていた川瀬勇は、歩きながら何か思いついたらしく、

「ついでに、もうひとところ、見せよう。カフェーだがね。なかじゃ、あんまり話ししない方がいいんだ」

 土地なれない伸子と素子にそう注意してから、川瀬勇は一軒の小さなカフェーのドアを押して、女づれ二人をさきに入れた。

 労働者地区にあるカフェーらしく、小さいテーブルと鉄の椅子がせまい店内におかれていて、カウンターにおかれた二つのニッケル湯わかしが唯一の装飾になっている。カウンターのうしろに、頭のはげたおやじが縞シャツの腕をまくりあげて立っていた。半ば裸体になった女の蒼い顔を大映しにした映画のビラがよこての壁に貼られてある。

 川瀬は、すぐココアを三つ注文した。窓ぎわの席を選んでかけた川瀬からはななめうしろ、伸子たちに正面を向けるテーブルに、つれもない四十がらみの男が一人かけていた。椅子の上に両股をひろげてかけて、片手をズボンのポケットにつっこんでいる。からのコーヒー茶碗がその男の前のテーブルにのっていた。通りからそのカフェーへ入って来た途端、伸子は、川瀬がこのノイケルンでどういうカフェー風景を見せようとしたのか、察しがついた。伸子が思い出したのはワルシャワのメーデーの朝、素子と二人で逃げこんだカフェーにいた男たちのもっていた感じだった。ドアをあけて小さい店へ賑やかに入って来た伸子たちに鈍重なようで鋭い一瞥をくれたこの男の感じは、瞬間に、ワルシャワのあの朝伸子が理解していなかった多くのことを理解させた。テーブルへ運ばれて来たココアをかきまわしながら、川瀬はほんのちらりと片方の眉を動かして、伸子たちに合図した。

 ココアをのみ終ると、川瀬と素子とがタバコを一服して、三人はそこを出た。

「わかったろう? この辺は到るところに、ああいうこぎたない眼だの耳だのがばらまかれているんだ。でも、このごろは連中も楽じゃないのさ」

 川瀬はおかしそうに結んだままの口をひろげて笑った。

「あれ以来、連中はうっかり労働者住宅の窓の下なんか、うろつけないことになってしまったんだ。水はおろかもっと結構なものまで浴びなけりゃならないからね──あのとき子供まで見さかいなく怪我させたんだから、女連だって勘弁しやしないさ」

 ベルリンへ来た翌日から伸子と素子とは、一日に一度は市内のどこかで川瀬勇、中館公一郎そのほか二三人の青年からできているグループと会った。川瀬や中館は、伸子たちの住所も、およそのつき合いの範囲も知っていた。けれども、伸子たちには中館の住所も川瀬の住居も告げられていなかった。これらの人々の日常生活の内容についても、伸子たちとしては自分たちに会っているときの彼ら、伸子たちと行動している間の彼らのことしか、知らないのだった。しかし、ベルリンでは日本人の間にそういうつき合いかたがあるのも伸子と素子とに、不自然でなくうけとられた。



 生れた国のなかで、会ったこともなければ噂をきいたこともなかった親戚同士が、外国の都で偶然おちあって、つき合いはじめるというのは、おかしなことだった。古い日本がつたえて来た義理がたい親類づきあいの習慣は、佐々の家庭ではいつとはなしにこわれて来ていた。そのくせ、外国で偶然同じ都会にいあわせたりすると、日本人同士というせまさから双方を近くに見て、多計代らしくベルリンにいる母方のまたいとこ、医学博士の津山進治郎に、伸子のことについて連絡してあった。

 ベルリンの地下鉄が、ウェステンドあたりで高架線にかわる。そこのとある街で、大学教授の未亡人の家とかに下宿している津山進治郎と伸子が初対面したのは、主に儀礼的な動機だった。ところが、伸子は彼から思いがけないたのみを受けた。ベルリンにいる医学関係の人々の間に木曜会というものが組織されている。そこで伸子に、ソヴェトの見聞について短い話をしてくれるように、というのだった。

 伸子は、こまって、返事を保留した。そして、川瀬や中館に相談した。

「津山って──軍医じゃないのかい」

 大きな眼玉をもっている川瀬がその眼玉をギョロリと動かしながら、中国の青年と見まがうような長身をねじってかたわらの村井とよばれる青年にきいた。

「さあ……知らないんだ」

 伸子も、医学博士津山進治郎としてしか知っていなかった。

「毒ガスの研究か何かやっている男で、そんな名をきいたように思うんだが──相当がんばるって、誰かが云っていたように思うんだが……」

「──ことわっちゃおうかしら」

 教室から抜け出そうとたくらんでいる女学生のような顔つきをして伸子が云った。

「話はにがてだから、わたしはことわることが賛成なんだけれど」

 そのときまで黙っていた中館公一郎が、

「お話しなさい」

 濃い眉に重って一層太くまるく見える黒い眼鏡のふちの中から伸子を見て、はげますように云った。

「あっちの話はね、ききたいっていうものには話してやるのが功徳なんです」

 みんなの言葉に背中を押されるようにして、伸子は、その会に出席することを承知したのだった。

 伸子は気をはって、その日は定刻の午後七時きっちりに着くように、素子とつれだって日本人クラブへ行った。

 その一区画は、規則ずくめなベルリン市のやりかたにしたがって、町並全体がどの家の前にも同じ様式の上り段とおどり場とを並べている。タクシーからおりた伸子は、車のなかでぬいでしまった紺フェルトの帽子をハンド・バッグにもちそえた学生っぽい姿で、その一つの入口をのぼって行った。

 とりつぎらしい人の姿も見あたらなくて、がらんとしたホールに立話をしている人があった。会合のある室をその人にきいて、伸子と素子とは左手の奥に大きい両開きのドアがあけはなされている方へ行った。

 その室の敷居ぎわまで行って、伸子の断髪がさっぱりとうつっている顔に困った表情があらわれた。古風なシャンデリアの強い光にてらしつけられているその室は、どの窓もすっかりカーテンをおろして夜の重々しさだった。タバコの煙がうすくこめている。細長い大テーブルのぐるりには、一見して伸子のような若い女は子供に近いものとしてしか見なさそうな年輩の風采の医学者連が多勢よりあつまっているのだった。今夜話をさせられるのは女の自分だということから、伸子は、何となし夫人同伴の組もあるように想像して来た。しかし、目の前の光景は女気ぬきでタバコと乾いた毛織物の香のみちた雰囲気だった。その室の開いたドアのところに素子と伸子とを見ずにいられない位置にいる年配の人々は、おおかた彼らの日本医学者としての権威が非常にたかくて、年かさの女学生に過ぎない風な簡素な日本の女に、直接の注意を向けることは不見識と思われるのだろう。伸子たちとほとんど真向いのところでテーブルに頬づえをついて喋っている人。そのわきで、片腕を不精らしくテーブルの上でのばして遠くの灰皿で吸いきったタバコを消している人。彼らの視線はちらりと伸子たちの上を掃いたきりだった。

 話しをするために何処どこかへ招かれたということは、伸子にとってその夜の日本人クラブの会合が初めての経験だった。ほんとに自分の話をききたいと思っている人なんかなかったのだ。堪えがたい気持で伸子はその場の空気を身にうけた。もしかしたら、木曜会の幹事である津山進治郎ひとりの思いつきだったのかもしれない。来なければよかった。そのまま帰ってしまいたい気になって、伸子が、たすけをもとめるように素子と目を見合わせたときだった。伸子たちにまうしろを見せてテーブルに向っていた一人の男が、ふいと人の気配を感じたように首をねじって振向いた。津山進治郎だった。

「やあ──」

 彼は、いくらかあわてたように椅子をずらして立ち上った。

「さあ、どうぞ。どうぞこちらへ。失礼しました。御案内しませんでしたか──例会の前にちょっと報告していたもんですから、失敬しました」

 伸子と素子とは、大きなテーブルの一方の端に並んだ席を与えられた。落付くと素子は例によってタバコをだした。そして、口をきかないまま隣席の人に向ってちょいと頭を下げて火をもらい、男連がどう思おうとかかわりない風でそれをうまそうにくゆらしながら、古風なベルリンごのみでいかつく装飾されている室内とそこに集っている人々をひっくるめた視野においている。人々の間にかけてみると、一座の親しみにくい雰囲気は、一層具体的な感じで伸子をしめつけた。みんな学問をしているはずの人々だのに、その室内の空気はどこまでもかたくて、妙に粗くて、浸透性をかいている。伸子はテーブルにおいていたハンド・バッグを膝の上におろして、小さいハンカチーフをとり出した。彼女はそのハンカチーフで、そっと力を入れててのひらを片方ずつこすった。

 やがて津山進治郎が、雑談の中止を求める意味で手を鳴らしながら立ち上った。そして、格式ばって講演者としての伸子を紹介した。津山進治郎にとって伸子はベルリンで初対面した母方のまたいとこであったが、津山進治郎はそういう個人的な点にはふれないで、小説をかく佐々伸子、日本の民間婦人としてはじめてソヴェト生活を経験して来たものとして紹介した。

「このたび各国視察旅行の途中、ベルリンに来られたのを機会に、今晩は一席ソヴェト同盟の医療問題について、話を願った次第です。御清聴をわずらわします」

 それをきいて、伸子は思わず心の中でつぶやいた。


「そんな医療問題なんて──、わたしこまっちゃう」

 津山進治郎が木曜会の例会に伸子をよんだとき、彼はそんないかめしい専門の区分はつけて話をするようにとは云わなかった。おおまかにソヴェトの生活について、ということだった。伸子はそれならば、とあながち自分にできないこととも思わなかったのだった。

 何だか心やすさのない室内の空気だったわけも、伸子にのみこめた。小説をかく佐々伸子が、ソヴェトを見て来たというだけでベルリンの専門家に医療問題を話すときかされれば、軽い反撥もおこるだろう。話のきっかけがむしろそこにつかめた気持で、伸子は案外自然に口をひらくことができた。何よりも、自分には、医学上の専門のことは何もわかっていないこと。従って、伸子としては実際に見聞したソヴェト──主としてモスクヷの日常生活の有様を、ありのままに話して参考になればと思っているという点を明瞭にした。伸子はソヴェトの工場やそこで見た医療設備のこと、労働組合と健康保護の関係、母子健康相談所やレーニングラードの母性保護研究所の仕事、労働者、特に婦人労働者の保健のために職場で行われている一分体操や休養室の細かい注意、海岸や温泉地につくられている休みの家の様子などについて話した。座談的な伸子の話は、おさないような云いまわしながら、どの一つをとっても、それはみんな彼女が心を動かされて自分の眼で見て来ているものであり、ソヴェト生活の現実から生々しくきりとられて来た、誰にもわかる報告なのであった。

 話がすすみ、まざまざとした印象がよみがえって描写されてゆくにつれて、伸子は心の自由をとりもどした。話している伸子にも聴きての感興が集中されてゆくのが感じとられる刹那もあった。

 最後に、伸子は自分が肝臓炎でついこの四月まで、三ヵ月も入院していたモスクヷ大学附属病院の生活を話した。いかにもソヴェトの病院らしい事実は、ナターシャのことだった。熟したはたん杏のような頬っぺたをして、ずんぐりした身持ちの看護婦ナターシャと伸子とが、どんなに滑稽に車輪付椅子のまわりで抱きあいながらもごもごしたか。患者である伸子が、それについてどんな癇癪を起したか。やがて、身持ちのナターシャが、健康で美しく働いているのを見たり彼女と話したりすることが、伸子の病床生活の一つの歓びとなったいきさつについて、ナターシャはコムソモールカであり、モスクヷ大学医科の労働者科ラブ・ファク二年生であることをも添えて伸子は新鮮に話した。

「みなさまは、あちこちで立派な病院をどっさり御存知でございましょうし、御自分でそういう病院をおもちかもしれません。よく訓練された看護婦というものも珍しくおありになるまいと思います。けれど、このナターシャの看護婦としての生活ね、わたくしは女ですから、やっぱり深く感銘いたしました。ドイツの人は音楽好きと云われますけれど、このナターシャたちのように、国立音楽学校のバリトーンの学生の若い細君が大学附属病院の看護婦だというような組合わせは、あんまりないでしょうと思います」

 四十分あまり、変化をもって話しつづけて来た伸子は、そこで絶句した。ナターシャのことまで話して来るうちに、伸子の心にいろいろの思いが湧いた。めいめいが偉くなることを目的としているような従来の医学の道について、その本質をくつがえす一言を呈したい気持になって来た。

 頭上から強い光をうけているせいで断髪の頭や、ゆるやかな頸から肩への輪廓がしまってなお小柄に見える伸子は、影を絨毯の上におとしながら、首をかしげてちょっとの間黙って考えていた。適切な表現が見つからなかった伸子は実感のままを率直に、

「わたくしが最もつよく感じたのは、ソヴェトで医学は、ほんとにすべての人の生活をまもるために役立てられようとしているということです。もちろんまだいろいろ不備な点はあって、たとえば、歯医者が下手で痛いという漫画が出たりもして居りますけれど、それにしろ、医学は、どんどん生活のなかへ普及して居ります。すべての国で医学が、そういう本来の働きを発揮できるように、お医者さまというものが、ほんとに苦しんでいる人間の燈台となれるように、そういう社会がつくられてゆくことが、医学の側からも求められていいのだと思います」

 そう結んで、また一二秒だまった。が、ぽつんと、

「わたくしの話はこれでおしまい」

 一つお辞儀をして伸子は席に復した。

 三四十人ほどの聴きての間から、儀礼的でない拍手が与えられた。あきらかに、伸子の話は、自然さといきいきした事実とによって、ききてに人間らしい感銘を与えたのだった。

「や、御苦労さまでした」

 色の黒い太い頸に、うすくよごれの見えるソフト・カラーをしめた津山進治郎が立って挨拶した。

「具体的で、得るところがあったと思いますが、例によって、どうぞ諸君から自由に質問を出して下さい」

 伸子があんまり素人だから、専門家であるききてとしては、かえってききたいことがないのだろう。ややしばらくはタバコの煙があっちこちからあがるばかりであった。その沈黙をやぶって、伸子の右側にいた六十がらみの人が、チョッキの前でプラチナの時計の鎖をいじりながら、

「どういうもんかね、これで。──いまの話で、社会的な面はどうやらわかったようなもんだが」

と、そこへ伸子にわからないドイツ語をさしはさんで、

「そっちの方面は低いんじゃないのかね」

 臨床の大家といわれる医者によくあるように少し鼻にかかった声でゆっくり、じかに伸子に向うというのでもなく云った。この額の四角い半白の人は、伸子が話しはじめたときから終るまで、腕組みをして椅子の背にもたせた顔を仰向けたなり目をつぶっていた。

「どうですか、佐々さん」

 幹事の津山が、伸子には横柄に感じられたそのひとの間接の質問をとりついだ。

「あっちの、医学そのものとしてのレベルは、どうです? 現在はやっぱり相当のものだと思いますか」

「──?」

 伸子はのみかけていた番茶の茶碗をテーブルの上において、顔の上に意外そうな表情をむき出しながら津山から一座の人々へと目をうつした。

「わたしにそんなことをおききになるなんて──ソヴェトの研究や発見の報告はいつも世界の学界へ報告されているんじゃないでしょうか──ドイツの医学雑誌では、ソヴェトのものはのせないことになっているのかしら──」

 伸子は、この言葉の皮肉な効果を全く知らずに云ったのだった。

 音楽の都のウィーンでは、ソヴェト音楽をしめ出していた。ドイツでの学会というようなところでは、似たようなことがあり得ないことでもないと思ったのだった。ところが、伸子の単純な問いかえしに答えて発言する人は誰もなかった。みんな黙っている。その黙りかたが何だか妙だった。話しがすんで、いくらかゆとりのできた伸子は、いぶかしがる視線で、部屋の奥にかたまっている人たちの方まで見た。そっちの壁には、ドイツの趣味で紫がかった水色タイルで飾られたカミン(煖炉の一種)が四角くつきでていた。その左右のくぼみへ椅子をひきつけて、若い人々が云い合わせたようにその隅にかたまっていた。その一番隅っこのところで、三十三四の一人のひとが、カミンへ肩と頭とを軽くよせかけた楽な姿勢で腕組みして居た。その人は組合わせた脚をゆるくふりながら、唇をしめたまま微笑していた。伸子の視線がその微笑にとめられた。それは智慧のあらわれた微笑であり同時に批評をたたえている微笑だった。その表情が暗示するものがあった。伸子は視線をもどして、勿体ぶって間接に質問した人や自分がそこでかこまれているテーブルのぐるりの人々を見直した。どっかりと自分たちをテーブルのぐるりに落つけている人々はみんな概して年配であった。カミンのところにかたまっている後輩たちが、当然彼らのためにその場所をあけておくものときめてそこへかけているような人々だった。ベルリンの木曜会なるものの性格が伸子に断面を開いたような感じだった。ここも一種の学界みたいなのだろう。先輩後輩の関係やら会員同士にもいろいろと面倒くさい留学生らしい感情があるのだろう。その木曜会のしきたりにとって、伸子のもの云いの簡明率直さはおのずと笑いを誘うようなところがあるだろう。伸子に質問している人が、格式にかかわらず、学問上のことについては若い専門家たちから批評をもって見られている人であるらしい感じもうけた。

 血色いい角顔に半白の髭をつけて、金杉英五郎にどこか似た面ざしのその人は、伸子の話から一座に流れたソヴェトに対する好感的な印象を、そのまま人々の胸に沈められることをきらうらしかった。

「医学にかぎらず、すべて学問というものは、学問それ自身として重大な多くの問題をもっているものなんでね。あなたに云っても無理だろうが、まああなたの話は、要するに医学というよりもソヴェトというところの社会状態の紹介さね」

 ここにいる学者たちにとって、それだけで価値をみるには足りないのだ、ということを伸子にわからせ、同時にほかのききての自尊心も刺戟しようとするようだった。

「ところで、どうですかな、予防医学なんかの方面は──」

「──予防医学って──結核や流行病の予防なんかのことでしょうか」

 伸子は津山進治郎にきいた。

「そんなようなことです」

「結核のサナトリアムは随分できていますが──どうなんでしょう」

 伸子は不確に答えた。

「御承知のとおり一九二二年、三年まで、饑饉のチフスであれだけ死んだんですから、ソヴェトは決して無関心だとは思えません。でも、一般に予防注射なんかどの程度やっているかしら……」

 モスクヷに一年半ちかくいた間に、伸子たちはそういう場合にめぐりあわなかった。

「性病予防の知識を普及させることは労働者クラブなんかでも随分行きとどいてやられて居ります」

「そりゃそうだろう」

 半白の髭をつけた人は、満足そうにうなずいた。

「かなりな乱脈ぶりらしいからね。政府としても放っちゃおかれまい」

 ソヴェトでは女が共有されているとか、乱婚が行われているとかいう種類のつくり話を否定しきろうとせずに、その半白の頭の中にうかべているらしいそのときの表情だった。

「いずれにしろ、現在予防医学の進歩しているところはアメリカだね。つぎが、戦前のドイツ」

「でもね」

 その人がひとつひとつにひっかかってくる云いかたにだまっていにくい気持につき動かされた伸子は、

「この間、宮井準之助さんがジェネヷの国際連盟で報告なさるとき」

と、木曜会員なら知らないわけにゆかない、知名な伝染病と予防医学の大家の名をあげた。

「モスクヷへよって何かしらべていらっしゃいました。案外、何かあったんじゃないでしょうか。予防医学という学問そのものとして……」

 聴いていた素子が、にやりとしてこころもち顎をつき出すような形でわきを向いた。その素子を見たとたん、伸子は、ほんとだった。なんてばかばかしい! と自分がひっかかっていた予防医学という専門語のかぎから身をふりほどいた。この医者は伸子がまごつくような質問をするためにだけ質問しているのだった。伸子の話をすらりときいていた人なら、ソヴェトでは予防医学というものの枠がひろげられていて、予防注射とかワクチン製造とかいうせまい範囲から、もっと広く深く勤労生活の日常そのものを健康にしてゆこうとする現実に移って来ている事実がいくつもの実例のうちに理解されたはずだった。伸子の話全体が、いわば新しい予防医学の現実だったのに。──そのことに思いついて、伸子はあらたまった顔つきになった。彼女は半ばその半白の髭の人に向い、半ばその席にいあわせるすべての人に向って、

「ちょっと、ひとこと追加させていただきます」

 椅子にかけたまま、にぎりあわせた両手をテーブルの上において云い足した。

「みなさまは、いつも専門的な言葉でばかり話される報告に馴れていらしって、わたしのように、あたりまえの言葉で毎日の生活の中から話す話は、よっぽど、おききになりにくかったんだろうと思います。さもなければ、失礼でございますが、ただいまの御質問ね」

と、伸子はさっきから、伸子の話が与えた印象をつき崩そうとしている父親のような年配の半白の髭の人に向って、云った。

「ああいう御質問は出なかったんじゃないでしょうか。──ああいう御質問いただくと、なんだか、わたしのお話したことを、どこできいて頂いていたのか、わからないみたいで……」

 控えめだがおさえきれない笑いがカミンのわきにかたまっている人々の間から湧いた。それはテーブルのぐるりまで波及した。

「どっちみち、みなさまソヴェトの様子は御自分でじかに見ていらっしゃるのが一番いいんです」

 伸子は、本気で他意なくみなにそれをすすめた。

「わたしの話をもの足りなくお思いになったり、半信半疑でいらっしゃるのは、当然だわ。よそと全くちがうんですもの。ほんとに、どなたにしろ、行って御覧になればいいのに──経験も自信もおありになるんだから……ここからモスクヷまでは一晩よ」

 そう云って、伸子は反響をもとめるように若い人々がかたまっているカミンの横の席の方を眺めた。さっき、怜悧で皮肉な微笑を泛べながら伸子を見ていたひとは、やっぱり腕組みした肩を軽くカミンにもたせ、くみ合わせた脚をふっているが、視点は低く足許のどこかにおかれている。テーブルに向っている半白の髭のひとは、こげ茶色の服を着て鼻髭のある隣席のひとと、伸子にはそれが伸子を無視したことを示すものだと感じとれる態度で私語しはじめた。モスクヷへみんなが自分で行って見て来るように、という伸子の実際的なすすめは、その夜、伸子が話したどの言葉よりも吸収されずに、伸子のそういう声がひびいたそのところにそのままかかっているのだった。

 ひきつづいて何かうち合わせをするという皆より一足さきにその室をでるとき、伸子と素子とは木曜会の客として、来週のうちに二ヵ所で行われる見学──セント・クララ病院とベルリン未決監獄の病舎の視察に招待された。提案をしたのは津山進治郎であった。それはあっさり通った。伸子のまたいとこにあたる津山進治郎は、ただ一人の医学博士であるというばかりでなく木曜会には何かの角度から発言権をもつ存在であることが感じられた。

 あと味のわるい気もちで、伸子と素子は息ぐるしい室を出た。そして、控間へ出たとき、伸子はそこに思いがけないものを見た。そこから奥の室にいた伸子が丁度見える控間の一隅に、人むれができていた。伸子たちが奥から出て来ると同時にそのかたまりもほぐれて、玄関のホールへ出てゆく人たちの後姿、廊下から階段をのぼってゆく人々。まだそこに佇んでタバコをつけながら、通りがかる伸子と素子とを目送している人達。こんなところに立って話をきいていた人々があった。ベルリンには日本人が千人あまりもいるそうで、そこに三々五々見えている人たちの中に伸子の知った顔はなかった。でも、その人たちは、そこで伸子の話をきき、自然な雰囲気で、出て来る伸子にふれた。冷淡にその人々の間を通りぬけてしまってはわるいと感じた素振りで、伸子は、ちょっと歩調をゆるめた。しかし、何ということもなくて伸子は、身のこなし総体にさようなら、という気持をあらわしながら、日本人クラブの玄関を出た。

 重くカーテンをしめこんだ室内では、夜更けのようだった午後九時すぎも、戸外へでてみるとまだほのかに明るい初夏の宵だった。どれも同じな薄黄色い正面入口から歩道へおりて来る伸子と素子に、

「──御苦労さま」

 リンデンの街路樹の下にいた日本人のかたまりの中から、中館公一郎の声がよびかけた。

「なんだ、みんな来てたのか」

 すぐ素子がよって行った。

「きいていらしたの?」

 きまりわるそうにいう伸子に、

初舞台デビューだっていうのに、きかなくちゃわるいだろうと思ってさ。すすめた義理もあってね。万障くりあわせ」

 答えたのは、背の高い頭にベレーをかぶった川瀬勇だった。

 もち前のやわらかな口調で、

「佐々さんて、相当なもんなんですねえ」

 中館公一郎がいつも、まじめな内容をさらりという調子で云った。

「お歴々一視同仁という光景はなかなかよかった」

 伸子は、のぼせている頬に手の甲をあてながら、

「でも、あの半白なひと。──意地わるねえ」

 子供らしく訴えた。

「ありゃ、ちょいと来ている男だね。視察にね──はやりだから」

 芝居がはねでもしたあとのように素子が、わきから、

「とにかく、わたしは喉がかわいちゃった」

と云った。

「どっかへ行こうじゃありませんか」

「──ビールでもいいのかな」

「いいさ」

「佐々君はこまるんじゃない?」

 川瀬勇が、青年らしい気くばりでわきに立っている伸子をかえりみた。

「今夜は、佐々君が主賓なんだから」

「いいわ、何かたべられるところなら。──わたしおなかがすいちゃった」

 さもあろうという風にみんなが笑った。伸子たちをいれて六人ばかりのものは、ベルリンの白夜とでもいうように薄明い夜の通りをぶらぶら歩きだした。

 同じベルリンにいる日本人と云っても、この人たちと、今伸子たちがそこから出て来た日本人クラブの奥の室にいた連中とは、何というちがいだろう。年齢や職業がちがうばかりでなく顔だち、身なり、気分、住んでいる世界ががらりとちがっているのだ。

 六人の日本人がやがて腰をおろしたのは、繁華なクール・フールステンの通りの近くでベルリンでもビールがうまいので有名な一軒の店だった。カフェーよりも間口がひろびろとしていて、そのかわり奥のあさい店は三方に煌く鏡の上に賑やかな店内の光景を映している。

 一隅にテーブルを見つけてかけた伸子たち一行の前へ、ガラスのビールのみになみなみとたたえられた美しい琥珀色の液体がくばられた。

「佐々君の初舞台の成功を祝す」

 川瀬勇がわざと芝居がかりで云った。みんな笑いながら互にビールのみのふちをかち合わせ、男の連中は一息で三分の一ほどのみ干した。

「──こんやは特別うまい……やっぱり、もう夏だよ」

「こりゃいい。──ぶこちゃん」

 乾杯のためにビールのみをもち上げただけで、川瀬が注文してくれたサラダを待っている伸子に、素子が云った。

「これなら大丈夫だよ、アルコールなんかとても少いもん──うまいなあ」

 伸子は、ひとくち飲んで、そのビールの軽い芳ばしさと、甘いようなほろ苦さを快く口のなかにしみとおらせた。

「こまったわね、これは飲まないでいる方がむずかしい」

「ははははは、けだし真なり、ですね」

 中館公一郎が賛成した。

「でもフロムゴリド博士がこれを見たらどんな顔をするでしょうね」

「誰? その何とかゴリドというの」

「モスクヷの病院のお医者。──わたしはいまごろカルルスバードで鉱泉をのんでいる筈だったのよ」

「何いってるんだ。ぶこちゃん、自分からカルルスバードはやめにしたんじゃないか」

 瞼のところを薄っすり赤らめた素子が、きつい語気で云った。

「へんな云いかたするのはやめてくれ」

 きめつけは伸子にも意外であった。みんなしばらくはだまってしまった。

 二つめのビールのみがめいめいの前に並ぶころから、こだわりもとれて、川瀬勇も中館公一郎も活気づいて雄弁になってきた。

「君たち、せっかくききに来てくれたんなら、あんな隅っこにいないで、堂々と入って来りゃよかったのに──」

 素子が云った。

「恐れ、恐れ」

 中館公一郎が、皮肉な誇張で首をちぢめるようにした。

「ああいうおえらがたに、われわれはあんまり近よらないことにしているんです」

「佐々君が、みんなに、自分で行ってソヴェトを見てこいと云ったときの連中の顔は見ものだったな。誰一人、うんともすんとも音を立てなかったじゃないか」

「でも、ほんとにどうしてみんな行かないんでしょうね、せっかくベルリンまで来ているのに。──あんなに慾ばって最新知識の競争しているのに」

 神経のくたびれが段々ほごされて来て艷やかな顔色にもどった伸子がきまじめな疑問を出した。

「みんなヴィクトリア通いにいそがしいからさ」

 素子が云った。ベルリンには、日本人専門の女たちがいるそういう名のカフェーがあるのだった。

「でも、──まじめにさ」

「つまりお互の牽制がひどいんだな」

 大きい眼玉をいくらか充血させた川瀬勇が答えた。

「あの連中のなかにだって一人や二人、ものを考えている男がいるにきまってるさ。そういう連中はソヴェトへも行って見たいんだろうが、うかつに動いて睨まれた揚句、将来を棒にふったんじゃ間尺にあわないんだろう──何しろベルリンの日本人てのは、うるさいよ」

「それはお互のことでしょう」

 あっさりと、それだけユーモラスに中館が口を挾んだ。

「むこうからみれば、われわれは日本人のつらよごしなんだそうですからね」

「へえ、いやだなあ。じゃ、わたしたちは、いつの間にやらつらよごしの仲間入りってわけなのか」

「──それは心配しなくていいだろう。君たちは、ともかくベルリン在留日本人の最高権威を任じている木曜会から招待されているんだ」

 笑い声の中から、それまで黙っていた村井という青年が、

「中館さん、あれ、どんな風に行きそうです?」

 ビール店内のざわめきに消されまいとしてテーブルへ首をのばすように訊いた。

「──何とか行くでしょう」

「なんの話です?」

 村井からタバコに火をつけて貰いながら素子がききとめた。

「中館さんが日本を立つ前に制作した映画が、近くこっちで封切りされるらしいんです」

「いいじゃありませんか」

「いいことはいいんですがね」

 中館公一郎はベルリンでウファの製作所へ出入し、歌舞伎の来たときはモスクヷでソヴ・キノの撮影所も見て来ている。どこかに渋る気持があるのもわかるのだった。

「旧作だってわけですか」

 芝居や映画が好きな素子らしく追求した。

「それもありますがね──」

 すると村井が、中館にかわって説明するという風に、

「中館さんは、いわゆる髷ものの制作に、一つのアンビションをもっておられるんです。──そう云っていいんでしょう」

 中館の承認を求めた。

「髷ものは、日本の封建社会の批判として制作されるんでなくては存在の意味がないという主張なんです。そして、そういう芸術としての日本映画の髷ものは、全く未開拓だと云うわけなんです」

 こんどベルリンで公開されようとしている作品は、徳川末期の浪人生活をリアリスティックに扱って、武家権力が崩壊してゆく姿を物語っているのだそうだった。

「──結構じゃありませんか」

「なにしろ、二年たっていますからね。──われながら見ちゃいられないなんてことになったら、参っちゃうと思って」

「案外なんだろうと思うな」

 モスクヷで公開された一つの日本映画について、素子が話した。日本のプロレタリア作家の作品から脚色されたもので、孤児の娘が、孤児院の冷酷な生活にたえかねて、遂にはその孤児院へ放火し、発狂してゆく悲劇であった。

「娘が逃げ出しても逃げ出しても警察につかまってひきもどされて、益々ひどい扱いをうけてゆく過程なんかリアルでしたがね。わたしは芸術的にそれほどいい作品だとは思えなかった。でも、モスクヷじゃ好評でしたよ」

「ああ、ありゃわかるんだ」

「テーマでわかって行くんだ」

 中館公一郎と川瀬勇が同時に、互の言葉でぶつかりあった。

「ああいうテーマは、国際的なんでね。──あれは、これまでの日本映画の空虚さを、ああいう国際的なテーマへまでひきずり出したところに意味があったんだ」

 そう云えば、伸子が思い出しても、「何が彼女をそうさせたか」というその悲劇の手法は、ドイツ映画の重さ、暗さを追ったものだった。

「中館さんの、それ、何ていう題?」

「こっちの会社の案じゃあ、シャッテン・デス・ヨシワラ、に落ちつきそうなんです」

「シャッテンて?」

 伸子がききかえした。

「影、ってんでしょう」

「──じゃあ……吉原の影?」

 みんな黙りこんだなかへ川瀬勇がプーとつよくタバコの煙をふいた。そのタバコの煙のふきかたは、だまっているみんなが、そういう改題には不満である気持を反映した。

「やっぱり、そんなもんかなあ」

 遺憾そうに素子がつぶやいた。

「それにしちゃあよく『太陽のない街』がそのまんまの題で出るんだな」

「そりゃちがうもの──出版屋からしてこっちのだもの。そういう意味から云えば、いっそ『何が彼女を』なら、そのまんまで行くのさ」

「そりゃそうですがね」

 中館は伸子にききわけられなかったベルリンの興行会社の名を云った。

「あすこじゃ、あれを蹴ったんだ」

 その同じ会社が、こんど中館の作品を買おうというのだった。

「ふうむ。そこなんだ、いつも……」

「──だろう?」

 川瀬勇の眼玉のギロリと行動的な相貌と、太い黒ぶち眼鏡と重なりあっている濃い眉のニュアンスのつよい中館公一郎の顔とが、瞬間まじまじと互の眼のなかを見つめあった。

 中館のこころもちはモスクヷに来ていたときより、ずっと実際的な問題にみたされている。伸子はベルリンへ来て間もなくそれに気づいていた。モスクヷで会ったときは、ふるい歌舞伎の世界にいたたまれなくなって、そこから脱出しようとしていた長原吉之助の方が思いつめていた。あれからベルリンへかえって、七八ヵ月の生活が中館公一郎に何を経験させたかは、伸子にはかり知られないことだった。しかし、川瀬勇との話しぶりは、いつも会っていて、何か継続的な問題について論じあっている友達同士のもの云いであり、省略の中に二人に通じる何か根本的な問題がふれられていることを、伸子に感じさせるのだった。

「──実際、映画や演劇って奴は、ギリギリまで近代企業でいやがるからね」

 眼玉の大きい顔を平手で撫でて、川瀬勇はいまいましそうに巻き舌をつかった。

「ドイツ映画にしたって、もう底をついたさ。エロティシズムにしろ、異常神経にしろ、マンネリズムだ。パプストにしたってうぬぼれるがものはありゃしないんだ。そうかって、一方じゃラムベル・ウォルフでもう限界なんだから」

 映画制作が大資本を必要とするために、左翼の芸術運動が盛なように見えるベルリンでも、プロレタリア映画の制作は経済上なり立ちにくいということだった。

「このまんまトーキーにでもなったら、ドイツ映画も末路だね」

「そうさ、目に見えていら。アメリカ資本にくわれちまうんだ」

 そのビール店では、入って来るなりいきなりバアに立って、たんのうするだけのむと、さっさと出てゆく人々も少くない代り、片隅へ陣どったら容易に動き出さない連中もかなりいた。それらの男女の姿が店内に煌く鏡にうつり、伸子のいる隅からは、すっかり夜につつまれた大通りの一角が眺められた。ベルリンが世界に誇っているネオンが、往来の向い側にそびえている建物の高さにそって縦に走り、初夏の夜空へ消える青い光のリボンのように燃えていた。わきの映画館の軒蛇腹に橙色の焔の糸が、柔かい字体で、GLORIAグロリアPALASTパラストと輝やいている。色さまざまなネオン・サインは、動かない光の線でベルリンの夜景を縦横に走り、モスクヷやウィーンで味わうことのなかった大都会の夜の立体的な息づきを感じさせる。ベルリンの夜には、闇が生きものでもあるかのように伸子を不気味にするものがある。伸子は、そういう夜の感覚の上に、中館公一郎と川瀬勇とが、なお映画、演劇の企業性について論じているのを聞いていた。



 伸子と素子とがベルリンへ来ると間もなく、中館公一郎と川瀬勇とはつれだって、彼女たちをウンテル・デン・リンデン街のしもてを横へ入ったところにあるプレイ・ガイドのような店へつれて行った。光線の足りない狭い店の壁からカウンターの奥へかけて、ドイツ特有の強烈な色彩と図案の広告ビラがすきまなくはりめぐらされていた。そこで、二人は、この二週間のうちに伸子と素子とが、シーズンはずれのベルリンで見られる芝居、きける音楽会のプログラムをしらべた。そして、伸子たちのために数ヵ所の前売切符を買わせた。ドイツ劇場でストリンドベリーの「幽霊」をやっている。その切符。ふたシーズンうちとおしてなお満員つづきの「三文オペラ」。演奏の立派なことで定評のあるベルリーナア・フィルハルモニッシェス・オルケスタアが珍しくシーズン外にベートーヴェンの第九シムフォニーを演奏する。それと、旅興行でベルリンへ来るスカラ座のオペラがききものであったが、どっちも切符はほとんど売りきれで、伸子たちは、第九の方では柄にない棧敷席ロッジのうれのこり二枚、オペラでは「カルメン」の晩三階の隅っこで二つ、やっと切符を手にいれることができた。

「さあ、これでよし、と」

 背のたかい体でその店のガラス戸を押して、伸子たちを先へ往来へ出してやりながら川瀬勇が云った。

「いま、このくらいの番組がそろえば、わるい方じゃないや──じゃ、いい? 君たちきょうは美術館なんだろう?」

 役所風に堂々とはしているけれども無味乾燥なウンテル・デン・リンデンの大通りへでたところで、伸子たちはその大通りのつき当りにそびえている元宮殿の美術館の方へ、川瀬たちは地下鉄の方へとふたくみにわかれた。

 その日、伸子たちは、川瀬や中館の仲間がよくそこで昼飯をたべているらしい、一軒の日本料理店で彼らとおちあった。外国にある日本料理店には、ほかのところにないしめっぽくて重い一種のにおいがしみこんでいる。それは味噌だの醤油だの漬けものだのという、それこそ恋しがって日本人がたべに来る食料品から、壁やテーブルへしみこんでいるにおいだった。ときわとローマ字の看板を出しているその店の、そういうにおいのある食堂の人影のない片隅で、醤油のしみのついているテーブルに向いながら、伸子、素子、中館、川瀬の四人がおそい昼飯を終った。

「ここのいいところは、ちょいと時間をはずすと、このとおりがらあきなことなんだ。──食わせるものは御覧のとおり田舎くさいがね……」

 ベルリン生活のながい川瀬は、ふところ都合とそのときの気分で、月のうちの幾日かは、顔のきく、そして大してのみたくもないビールをのまなくてもすむこのときわへ食事に来ていた。ベルリンのたべもの店には、ビールか葡萄酒がつきもので、それをとらない伸子たちは、食事ごとに、料理の代以外の税金みたいなものを酒がわりにはらわせられるのだった。

 その日それから伸子たちは美術館へゆく予定だときくと、川瀬勇は、

「丁度いいや。ね、きょう行っちまおう、どうだい?」

 大きい眼玉をうごかして、中館公一郎をかえりみた。

「ああ、いいだろう」

「なんのことなの?」

 二人の問答にすぐ好奇心を刺戟されたのは伸子だった。

「あなたがたも、美術館に用があるの?」

「そうじゃないんだが、どうせ君たち、ウンテル・デン・リンデンへ出るんだろう?」

「ほかに行きようがあるんですか」

 素子がきいた。

「やっぱり、あれが道順ですよ」

 柔かに説明する中館を見つめるようにして考えをまとめていた川瀬が、

「君たち、いま金のもちあわせがあるかい?」

 おもに素子に向って云った。

「──たいしてもっちゃいないけど……なにさ」

「君たちに、芝居の切符を買わせようと思うんだ。──どうせ観る気でしょう」

 川瀬はそこでウンテル・デン・リンデン街のわきにあるプレイ・ガイドのような店のことをはなし、伸子たちがあらかじめ順序だてて、ベルリンにいる間、見たりきいたりしたいものの切符を買っておく方が便利だろうとすすめたのだった。

「なるほどね、それもわるくないかもしれない」

 万更でもなさそうな素子の返事を、しっかりつかまえるまじめな口調で川瀬は、

「こうみえてても、われわれはいそがしいんでね」

と云った。

「君たちにはせいぜい、いろいろ見ておいて貰いたいんだけれど、とてもくっついて歩いていられないんだ。おたがいに負担にならない方法がいいと思うんだ」

「──わたしたちは、はじめからなにも君たちの荷厄介になろうなんて気をもってやしないよ」

「そりゃよくわかっているさ、だからね──妙案だろう?」

 川瀬はいくらか口をとがらして、大きな眼玉をなおつき出すように素子を見た。その拍子に、まじめくさっている川瀬の下瞼のあたりをちらりと掠めた笑いのかげがあった。伸子はそれに目をとめて、おや、と万事につけて川瀬のあい棒である中館公一郎を見た。例のとおりたださえ濃い眉の上に黒く丸く大きく眼鏡のふちを重ねた中館は、眼鏡がもちおもりして見える細おもてを、さりげなく窓の方へ向けて指の先でテーブルをたたいている。その中館の、表情をかえずにいる表情、というようなところにも何だか伸子をいたずらっぽい気持へ刺戟するようなものが感じられる。伸子は、

「あら……なんなんだろう」

 まばたきをとめて、当てっこでもするように中館を見つめた。

「──なにがあるの?」

「相談でしょう」

 芝居のせりふをいうときのような口元の動しかたで中館が答えた。

 自分たち二人分の勘定をはらったついでに、素子がテーブルのかげでこれから切符買いに行くために金をしらべはじめた。街頭に面して低く開いている窓から、ベルリンの初夏の軽い風が吹きこんで来て、その部屋のかすかな日本のにおいをかきたてる。

「川瀬さん!」

 ずるいや、という感じで溢れる笑い声で、ほどなく伸子が川瀬をよんだ。

「なに?」

「わかったわ──これはわたしたちにとって妙案であるより以上に、川瀬勇にとっての妙案だったんでしょう?」

「ふーん。そういうことになるかな」

 眉のあたりをうっすり赧らめたが、川瀬は青年らしくいくらか気取っているいつもの態度を崩さなかった。中館が、またせりふのように、

「小細工というものは、とかく看破されがちだね」

と云ったので、みんなが笑い出した。彼らのグループの間では公然のひとになっている愛人を、川瀬はどういう都合か伸子たちに紹介しなかった。伸子たちの方でもそれにはふれず、彼とつきあっているのだったが、川瀬はそのひとと過す夜の時間をつぶさないで、伸子たちにも不便をさせまいと、二人に前売切符を買わせておくという便法を思いついたにちがいなかった。

 金をしらべていて、三人の間の寸劇を知らなかった素子が、

「そろそろ出かけましょうか」

 女もちの書類入の金具をピチンとしめて立ち上る仕度をした。そして四人は、もよりの駅からウンテル・デン・リンデン街まで地下鉄にのりこんだのであった。



 数日たってゆくうちに、伸子は、素子と二人ぎりで行動できるように前もって切符の買ってあったことに、思いがけない便利を発見した。一方に、伸子のまたいとこである医学博士、木曜会の幹事である津山進治郎がいることから、ベルリンで伸子たちが動く軸が二つになった。

 木曜会で伸子が小講演したあと、素子と二人が誘われたセント・クララ病院とベルリンの未決監病舎の見学は、どちらも全く官僚的な視察だった。セント・クララ病院は婦人科専門で、レントゲン設備が完全なことと、その医療的効果の高いことで知られているということだった。二十人ばかりの男にたった二人の女がまじっている日本人の視察団一行に応対したのは、六十ばかりの言葉が明晰で快活な尼だった。糊のこわい純白の頭巾が血色よく健康そうな年とった女の顔をつつんでいて、黒衣の上に長く垂れている大きい金色の十字架を闊達に揺りながら、一行を案内し、説明する動作には、現実的な世間智と果断さがあった。いかにも尼僧病院らしく、レントゲン室の欄間も白い天井をのこして、白、水色、紫の装飾的なモザイックでかこまれていた。伸子たちは、素人らしくそういう外観のドイツ趣味にも興味を感じ、おのずからモスクヷの病院を思いくらべて参観するのだったが、木曜会の医者たちは、専門がちがうのか、それともセント・クララ病院のレントゲン室が噂ほどでなかったのか、質問らしいまとまった質問をするひともなかった。

 ベルリンの未決監獄は、アルトモアブ街に、おそろしげな赤錆色の高壁をめぐらして建っていた。一行が案内されて、暗い螺旋らせん階段をのぼって行くと、明りとりの下窓から中庭が見おろせた。中庭が目にはいった瞬間、伸子は激しく心をつかれ、素子をつついた。あまり広くない中庭のぐるりに幅のせまいコンクリート道がついていた。真中に三本ばかり菩提樹が枝をしげらしている。その一本ずつを挾んで稲妻型に、これも人一人の歩く幅だけのコンクリート道がついている。その道の上に、同じように褐色のスカートにひろいエプロンをかけた十人たらずの女が一列になって歩いていた。伸子は男連中にまじってその窓のところを更にもう一階上へとのぼりつづけて行ったが、その光景は心にやきついた。伸子は小声で、

「同じね、ローザの写真と」

と素子にささやいた。ローザ・ルクセンブルグが投獄されていたとき、女看守に見はられながら散歩に出ているところをうつした写真をモスクヷで見たことがあった。ローザは、エプロンをかけさせられていた。そして、散歩場は、その窓からちらりと見えた散歩場そっくりに、せまい歩道が樹のある内庭をまわっていた。

 病舎の見学と云っても、見学団の一行は、舎房の並んでいる廊下をゾロゾロとつっきったばかりだった。丁度、昼食の配ばられている時間で、伸子たちが廊下を通りすぎるとき、一人の雑役が小型のドラム罐のような型の入れものから、金じゃくしで、液体の多い食餌をアルミニュームの鉢へわけているときだった。灰色の囚人服に灰色の囚人帽をかぶった雑役は、水気の多いその食べものを、乱暴にバシャバシャという音をたててわけていた。その音は伸子に日本の汲取りのときの音を連想させた。そこだけ一つドアがあいていて、ベッドの上に起きあがった病衣の男の、両眼の凹んだ顔がちらりと見えた。

 目に入るものごとが伸子に苦痛を与えた。伸子は、段々湧きあがって来る一種の憤りめいた感情でそれに堪え、一同についてレントゲン診察室に案内された。ひる間だが、その室は電燈にてらし出されていた。ぐるりの壁に標本棚のようなものがとりつけられていて、そのガラスの内部には、変な形にまがったスープ用の大きいスプーン。中形のスプーン。フォーク、そのほか義歯、何かの木片、櫛の折れたの、大小様々なボタン、とめ金などが陳列されている。津山進治郎の説明によると、それらの奇妙なものは、ことごとく囚人の胃の中からとり出されたものだった。未決監獄へいれられた囚人たちは、屡々しばしば自殺しようとしたり、病気を理由に裁判をひっぱろうとして、異物をのみこむ。その計画をこのレントゲン室はすぐ見破って、彼らは適当な処置をうける、というのだった。

 日本人の医学者たちは、未決囚の胃の中からとり出された異様な品々に研究心をそそられるのか、その室の内に散ってめいめいの顔をさしよせ、ガラスの内をのぞき、そこに貼られているレントゲン写真の標本を眺めた。標本写真の中には、靴の踵皮をのんでいる、二十二歳の男の写真というのもあった。自分の毛をむしってたべて、胃の中に毛玉をもっている男の写真もあった。伸子はある程度まで見ると、胸がわるいようになって来て、自分だけこっそりドアの方へしりぞいた。どういうずるい考えがあったにしろ、人間が自分の口からあんなに堅くて大きいスプーンをへし曲げてのみこんだり、靴の踵皮をのみ下したりする心理は普通でない。それほど、彼らを圧迫し、気ちがいじみたことをさせる恐怖があるのだ。監獄にレントゲン室が完備しているのを誇る、そのことのうちに、伸子は追究の手をゆるめない残酷さを感じた。気も狂わしく法律に追いつめられた男女の胃の中から、正確に気ちがいじみた嚥下えんか物をとりのぞいたとしても、人間の不幸はとりのぞかれず、犯罪人をつくりだしつつある社会も変えられない。それにはかまわずレントゲン室はきょうもあしたも科学の正確さに満足して、働きつづけるだろう。機械人間の冷酷さ! そうでないならば、ベルリンの警視総監ツェルギーベルはメーデーに労働者をうち殺したりはしなかっただろう。

 その日の見学には、伸子としてひとしお耐えがたいもう一つの場面がつづいた。レントゲン室から出ると木曜会の一行は、食堂へ案内されることになった。昼食の時間だから、この監獄の給食状態を見てくれるように、と云うことだった。伸子は、そこにも陳列棚があって、その日の献立にしたがって配食見本が陳列されているのだろうと思った。さっき廊下で雑役がシチューのようなものを金びしゃくでしゃくっていたときの音を思い出した。ああいう音は、陳列されているシチューからはきこえて来ないのだ。しかも、ここに入れられている人々にとって切ないのは、シチューそのものより、あの食わせられる音だのに。──

 伸子は、陰気なきつい眼つきで、人々のうしろから明るい食堂へ歩みこんだ。そして、そこへ立ちどまった。食堂に用意されていたのは、簡単ながら一つの宴会だった。

「どうも、こりゃ恐縮だな」

 いくぶん迷惑そうに日本語でそういう誰かの声がきこえた。案内の役人は、特に女である伸子たちに、

どうぞビッテどうぞビッテ、席におつき下さい」

 自分が立っている真向いの席をすすめた。食堂には五六人の雑役が給仕のために配置されている。灰色服に灰色囚人帽の彼らは軍隊式な気をつけの姿勢で、テーブルから一定の距離をおいて直立しているのだった。どの顔にも、外来者に対するつよい好奇心がたたえられていた。伸子が、その示された席に腰をおろそうとしたとき、うしろに立っていた若い一人の雑役が、素早い大股に一歩ふみ出して、伸子のために椅子を押した。

 みんな席について、さて格式ばった双方からの挨拶が短くとりかわされて、見学団一行の前に、ジャガイモとキャベジの野菜シチューの深皿が運ばれて来た。

「これがきょうの囚人たちの昼飯だそうです。さっき廊下を通られたとき配給されていたのと全くおなじものだそうです」

 役人のとなりに席を与えられた幹事の津山進治郎がみんなに説明した。同じもの……と心につぶやいた。同じもの──そう──でも、何と別なものだろう。伸子は、えづくように、バシャバシャいっていたあの音を思い浮べた。

「ほかに御馳走はありませんが、この皿はどうかおかわりをなすって下さるように、ということです。なお、いまここに出ているものは、みんな囚人たちのたべるものばかりだそうです」

 真白い糊のきいたクローズをかけたテーブルの上には、各人にパンの厚いきれとバターがおかれているほか、皿にのせられたチーズの大きい黄色いかたまり。四角いのと円い太いのとふた色のソーセージを切ってならべた大皿。ガラスの壺にはいった蜂蜜。菓子のようにやいたもの、干果物などがならべられている。これはみんな囚人たちのたべるもの──でも、それは、いつ、どれを、どれだけの分量で、彼ら一人一人に与えられるというのだろう。客たちが説明され、そしてたべるのをじっと目をはなさず見守っている雑役たちの瞳のなかに、伸子は、彼らが決してこういうものをいつもたべているのでない光を認めずにいられなかった。雑役たちは、じっと視線をこらして客のたべるのを見ている。全身の緊張は、いつの間にか彼らの口の中が、つばでなめらかになっていることを語っていた。テーブルの上にのっているものはみんなお前たちのものだと云われながら、現実にはそれの一片にさえ自由に手を出すことを許されていない人々に給仕され、見まもられて、客としてそれらを食べることは、何という思いやりのない人でなしのしうちだろう。姿勢を正して立っている雑役たちの眼の表情に習慣になっているひもじさがあらわれている。皮肉も嘲笑も閃いていない。そのことが、一層伸子を切なくした。その明るい未決監獄の客用食堂の光景は静粛で、きちんとしていて諷刺画の野蛮さがかくされていた。

 このアルトモアブ街の未決監獄からのかえり、伸子はすぐ下宿へもどらず素子と二人、ながいこと西日のさすティーア・ガルテンの自然林の間を散歩した。こんなとき、伸子たちが川瀬たちとの約束にしばられず二人ぎりで行動できることはよかった。

 伸子たちはまた同じ木曜会の一行に加って、ベルリン市が世界に誇っている市下水事業の見学もした。下水穴へ、日本人が一人一人入ってゆくのを通行人がけげんな目で見てとおり過る大通りのわきの大型マンホールから、鉄の梯子を地下数メートル下って行ったら、そこがコンクリートのトンネル内で河岸のようになっていた。湿っぽい壁に電燈がともっている。その光に照らされて、幅七八メートルある黒い川が水勢をもって流れていた。それは、ベルリンの汚水の大川だった。自慢されているとおり完全消毒されている汚水の黒い大川からは、これぞという悪臭はたっていない。ただ空気がひどく湿っぽく、皮膚にからみつくようなつめたさと重さだった。大都会の排泄物が清潔であり得る限界のようなものを、伸子は、その大下水の黒い水の流れから感じた。

 こうして、伸子と素子とは川瀬や中館たちが彼女たちに見せるものとはまるでちがったベルリンの局面を見学するのであったが、案内する津山進治郎にとって、こういう見学は云わば公式なものというか、木曜会の幹事という彼の一般的な立場からのものだった。津山進治郎自身としては、もっとちがった、もっと集中的な題目があった。それは「新興ドイツ」の再軍備についての彼の関心である。


十一


 ウィーンに滞在していた間、伸子はそこの数少い日本人たちが、公使館を中心にかたまっているのを見た。ものの考えかたも、汎ヨーロッパ主義だとか、ソヴェトに対する云い合わせたような冷淡さと反撥と、オーストリアの社会民主党政府の、そのときの調子とつりあった外交団的雰囲気にまとまっているようだった。ベルリンへ来たら、伸子は寸刻も止らず動いている大規模で複雑な機構のただなかにおかれた自分を感じた。ベルリンにいる日本人にとって大使館はウィーンの公使館のように、そこにいる日本人の日常生活の中心になるような存在ではなく、大戦後のインフレーション時代からひきつづいてベルリンに多勢来ている日本人は、めいめいが、めいめいの利害や目的をもって、互に競争したり牽制しあったりしながらも、じかにベルリンの相当面に接続して動いているのだった。だから、噂によれば医学博士としてベルリンで専心毒ガスの研究をしているという津山進治郎がドイツの再軍備につよい関心を抱き、一方に同じ日本人といっても川瀬勇や中館公一郎のグループのように、映画や演劇、社会科学と国際的なプロレタリア文化運動に近く暮している一群があることは、とりもなおさずベルリンの社会の姿そのものの、あるどおりのかたちなのだった。

 ある午後、伸子はいつものとおり素子とつれだってドイツ銀行へ行った。文明社から伸子のうけとる金が来た。不案内で言葉も不自由な二人は手続が前後して、二度ばかり一階と三階との間を往復しなければならなかった。百貨店を思わせるほど絶え間ない人出入りのある一階正面で、上下しているエレベータアには、手間と時間をはぶくというベルリン流の考えかたからだろう。ドアもなければ、それぞれの階で止まってゆくという普通の方法もはぶかれていた。エレベータアにのるものは、あけっぱなし無休止のケージが自分たちの前へゆるくのぼって来たり下って行ったりした瞬間をとらえて、せわしくその中へ自分をいれるのだった。その乾きあがった気ぜわしさがどうにもなじめなくて、伸子は一台のケージをやりすごしたまま、立っていた。折から下りて来たエレベータアのケージが、床からまだ十数センチもはなれて高いところにあるのにそれを待てないで、とじあわせの紙をヒラヒラさせながら若い一人の行員がその中からとび出て来て、半分かける歩調で窓口の並んだホールの奥へ姿を消して行く。必要以上に全身の緊張を感じてケージへ入るとき、必要以上に脚をもち上げるような動作で伸子と素子はやっと三階へ往復する用事をすませた。そしてほっとして窓口のならんでいる一階のホールへ行ったときのことだった。大理石の角柱がたち並んだ下に重りあってこみあって動いている外国人のあまたの顔の間から、伸子はちらりと一つの日本の顔を発見した。伸子は、

「あら」

 小さく叫んで素子の手にさわった。

「あすこにいるの、笹部の息子じゃない?」

 そう云うひまも伸子の視線は、人ごみをへだてて、一本の角柱の下に見えがくれするその特徴のある日本の顔を追った。伸子は異様な錯覚的な感覚にとらわれた。見もしらない、よそよそしい外国人の顔に満ちているこの雑踏のなかに、偶然、写真ながら伸子が少女時代から見馴れている文豪笹部準之助の顔があったことは、伸子の感情をとまどった興奮で波だたせた。笹部準之助がなくなってから、その長男が音楽の勉強にベルリンへ来ているということは、きいていた。ゆたかな顎の線と眼の形に特徴があって、笹部準之助の晩年の写真には、渋くゆたかな人間の味が一種の光彩となり量感となってたたえられていた。伸子は、その人の文学の世界への共感というよりも、その人を囲んだ人生のいきさつとして、心にうごくものなしに、その写真を見ることができなかった。

 笹部準之助その人がなくなってから、夫人の思い出が発表された。それには、夫人の現世的でつよい性格がにじみ出ていた。良人である明治大正の文学者笹部準之助が自身の内と外とに、ヨーロッパ精神と東洋、特に日本の習俗との矛盾や相剋を感じながら生きていた、その内面のこまかい起伏に対して、妻として、むしろわけもわからず気むずかしい人としてだけ語られていた。

 笹部準之助の文学の世界に目を近づけてみれば、そこには男女の自我の葛藤が解決を見出せないままに渦巻いている。伸子は、相川良之介の、遂に生き得なかったもろく美しい聰明に抗議を抱いて生きる一人の女であった。それと同時に、もう一つ前の時代の笹部準之助の文学が、無解決のまま渦の巻くにまかせてそれを観ている人生態度にも服さないで、自分の生活で、きょうの歴史には別の道をきりひらく可能があるということをたしかめたくねがっている女である。ベルリンの機械化されたテンポに追い立てられて、まごつきながら抵抗を感じ、不機嫌な表情でドイツ銀行のホールに現れた伸子は、せっかちぎらいの気持でいっぱいになっていた。そこへはからず笹部準之助そのままの顔だちを見つけた瞬間、伸子の感情のつりあいはやぶれて、いきなり自分が人生や歴史のうちに模索していて、まだ解決していない課題が、生きた顔でいきなりそこへ現れたような感じだった。あら、と小さく叫んで手袋をはめている自分の手を素子の手にふれたとき、自分の爪先まで走った衝撃は伸子の体じゅう、生活じゅうに通うものだった。

 大理石の角柱の下に誰かを待ち合わせていたらしい笹部準之助の顔は、遠くから、やきつくような視線が向けられていることを感じたらしく、人のゆき来の間からいぶかしそうに伸子が立っている方角へ眼を向けた。すると、その顔も伸子が伸子であることを間接に認めたらしく、視線にかすかなほほ笑みの影をうつした。その表情で、顔は一層写真にある父笹部準之助の顔だちに近くなるのだった。

 伸子は風に吹かれるように異様な心持につつまれた。ベルリンのこの人ごみで、伸子をこんなに衝撃する笹部準之助の顔が、つまりは顔だちばかりのもので、生の過程そのものは二度と父であり得ない息子のものだということは、何ときびしい暗示にみちた現実だろう。その顔が、いま伸子の見ているところでどことなく気弱そうに人波にもまれ、ある瞬間には見え、次の瞬間にはまたかくされて、見えがくれしている姿も、伸子に人生というものを感じさせずにいない。

 伸子は、あんまり父そっくりな顔だちをもって生れた笹部準之助の息子にいたましさを感じた。彼は彼の顔からにげ出すことは出来ないのだ。その顔は、ベルリンにいようとロンドンへ行こうと、そこに日本人がいて、その日本人が笹部準之助という名を知っているかぎり、写真を見おぼえているかぎり、この親の立派な顔だちをうけついだ青年のぐるりに一応は、父の文学への連想によって調子のつけられた環境がつくられてしまうにちがいないのだ。どんな力で彼はその境遇から身をふりほどくだろう。

 あくる日、プラーゲル広場の角のカフェーで川瀬たちと落ちあったとき、伸子はドイツ銀行の人ごみの間で見かけた笹部準之助の息子のことを彼らにはなした。

「ああいう人はあなたがたと、ちっともつき合わないの?」

「──まあ別世界だね」

 大きい眼玉をうごかして川瀬勇が返事した。

「ああいう連中は、どこへ行っても、ちゃんと、とりまきってものがあってね。──いわばお仕着せの人生なんだ」

「そんなもん、蹴っちまったらいいじゃないか、ばかばかしい」

 むっとした口元で素子が云った。

「かんじんのおやじは、牛鍋が御馳走で、あれだけの仕事をのこしたんじゃないか。そのことを考えりゃいいんだ」

「子供の時分から、何のかの、とりまきに馴れて育ったものは、やっぱりそれがないと淋しいんだろう。それに、はたもいけないさ、てんでに目下俗人に堕しちまっているもんだから、あの顔をみると、いやにセンチメンタルになって、笹部準之助の作品をよんだ自分の若かりし日を回顧する気になったりするのが多いんだから。それが所謂相当の地位にいるからなお毒なのさ」

 ベルリンには、伸子や素子のように、短い滞在の間、あれにも、これにも触れようとしているもののほかに、また、ドイツ銀行の人ごみで偶然見かけてもう二度と会うこともなさそうなこういう笹部のような名流子弟もいるわけだった。互に知らないベルリン在住の日本人の、ほとんどすべての顔をそこの主人は知っている一つの場所があった。それは「神田」という日本人のやっている土産店だった。


十二


 津山進治郎は、ベルリンで出会った伸子の心の日々にはこういういきさつもあり、同時に、モスクヷの一年四ヵ月というそこでの生活から彼女がここへもって来ているいろいろの生活感情がある。という事実にとんじゃくのないところがあった。

 伸子たちが会うときは、とかくいつもくたびれているソフト・カラーがものがたっているように、金の使いかたのこまかい津山進治郎は、女づれでも、塩豚とキャベジを水っぽく煮たようなベルリンの小店の惣菜をふるまった。津山進治郎は世間でいうりんしょくからそうなのではなくて、彼のやりかたには、万事万端、何か一つのことを激しく思いこんでいて、わきめもふらずそれを追いこむことに没頭している人間の、はたにとん着ない馬力とでもいうようなものがあるのだった。

 大柄のがっしりした体に灰色っぽい合服をつけ、ソフト・カラーで太い頸をしめつけている津山進治郎は、すこしねじれたように結んでいる、くすんだ色のネクタイをゆすって伸子たちに云うのだった。

「とにかく日本人はドイツのやりかたをもっともっと本気で研究する必要がある。大戦後のあのドイツが、どうです、もうそろそろ英仏を追いぬきかけて来ている。クルップだって、ジーメンスだってイー・ゲーだって──これは世界有数な染料工場ですがね。おどろくべき発展をとげている。レウナの窒素工場と云えば世界最大のものだが、これなんか、御覧なさい。現在生産しているのは肥料ですよ。ドイツの農業を躍進させたのはレウナだという位だが、一旦ことがあればこの大工場が、そっくりそのまま強力な軍需工場に転換するような設備をもっている。日本でもだいぶこのごろは生産の合理化っていうことが云われて来ているらしいが、どうして! どうして! ドイツのやっていることにくらべれば、おとなと子供だ。──まあ、それにしろ云わないよりはましですがね」

 そして、津山進治郎は、伸子たちにもっとすすんだ説明をした。

「御婦人のあなたがたには無関係なことだろうが、これというのも、ドイツが戦後、高度なトラスト法をとるようになって、はじめて成功したわけです。トラスト法というのはね。『わかれて進み合してうつ』という有名なモルトケ将軍の戦術を、産業上に応用した独特の方法なんです」

 こういう話のでたのは木曜会員の一行がベルリンの下水工事を見学し、解散したあとのことで、津山進治郎、伸子、素子の三人がその辺の小店で昼飯をたべたときのことであった。津山進治郎の話がすすむにつれて伸子の眼は次第にみはられた。しまいにはくいいるような視線で彼のきめの粗い、ほこりっぽいほどエネルギーにみちた顔を見つめた。伸子は、しんからおどろいたのだった。資本がますます独占されてゆく形として第一次大戦後のドイツにトラストが発展して来ている。それは世界平和の危険として注目されているのに。──ドイツの少数の企業家たち、軍需企業家たちが寡頭政治で独裁権をつよめて来ているからこそ、ドイツの大衆の固定的窮乏と云われるものが生じているのに。──伸子が、おどろきと、好奇心を動かされたのは、津山進治郎が、トラストというものを、ほんとに彼の説明どおりのものとして──モルトケ将軍の戦術という側からだけ理解しているらしいことだった。何につけても、ドイツの再軍備の面に関心を集中させている津山進治郎は、ドイツが国をあげてこの次の戦争には是が非でも勝とうと復讐心をもって準備している、そのあらわれとして、トラストも説明してきかせるのだった。彼の話をきいていると、トラストやコンツェルンというものは、ドイツの軍国主義から発明されて、ドイツにしかないものであるかのような錯覚があった。石炭液化とか人絹工業のように。でも、伸子がよんだり聞いたりしてもっている知識や実例のどこをさがしても、トラストは、資本主義の経済のしくみそのものからおし出されて来る資本集中の過程だった。そうでないなら、どうして、こんにちのヨーロッパの経済を動かしているものは僅か三四百人の実業家であると云われているのだろう。三四百人の軍人であるとは云われないで。──

 産業合理化はドイツの国内に進んでいるばかりでなく、製鋼その他は国際カルテルにまでひろがっているということを、津山進治郎は「新興ドイツ」の制覇として話すのだった。おそろしく素朴で、しかも自分の云っていることにゆるがない確信をもっている津山の話しぶりは、世界経済についてよく知らない伸子をも、ますます深くおどろかした。

「じゃあ、津山さんも、またああいう戦争がおこった方がいいと思っていらっしゃるの?」

「──いいというわけはないが、どうみたってドイツとして、このままじゃすまんでしょう」

「どこが相手?」

「そりゃ、ドイツにとって伝統的な敵がある」

 それは、フランスというわけだった。

「むこうだって、このまんまの状態が永久につづくとは思ってはいない。国境に、あれほど大規模な要塞建造をやろうとしているじゃないですか」

 フランスに対してばかりではなく、ドイツの一部には、国境の四方へ憎しみの目をくばっている人々がある。それは伸子もわかっていた。でも──

「もう一遍戦争すればドイツはきっと勝つと、きまってでもいるのかしら」

「そんなことは、時の運だ」

 いかにも伸子の女らしいこわがりと戦争ぎらいをおかしがるように、津山進治郎はこだわりなく大笑いをした。

「ドイツとしちゃ飽くまで勝つべくやるのさ。それが当然だ、そして十分の可能性がありますね」

「──へんだわ」

 伸子が若い柔かな体ごとそこへ坐りこんだような眼つきになって津山を見つめた。

「そんなことしたって、やりかたがもっともっと残酷になって行くばっかりじゃありませんか──土台を直そうとしなけりゃ……」

 一九一八年十一月七日、ドイツの無条件降伏のニュースがつたわって、酔っぱらったようになったニューヨーク市の光景が閃くように伸子の記憶によみがえった。ニューヨークじゅうの幾百というサイレンが、あのときは一時に音の林を天へ吹きつけた。ウォールストリートを株式取引所の横道へかつがれて来たカイゼルの藁人形に火がつけられ、その煙が流れる往来でニューヨーク市民は洪水のような人出によろけながら笑って、叫んで、紙ぎれをぶつけあって、見も知らない男女がだきあって踊った。夜じゅう眠らないでニューヨークの下町に溢れた群集は、どの顔も異様な興奮で伸子にとってはみにくくおそろしかった。征服欲の満足と歓喜で野蛮になっている群集の相貌というものを、伸子はそのときはじめて見たのだった。それからひきつづき伸子は心のうちに深い疑問をめざまされたものの目色で、次第に虹の色をあせさせながら実利の冷たさにかたまってゆく人道主義的な標語と、ニューヨーク・タイムズにあらわれる兇猛な辻強盗ホールド・アップの増加と、ヨーロッパから着く船ごとにエリス・アイランド(移民検疫所)へおくられるおびただしい戦争花嫁と戦争赤坊の写真を見たのだった。伸子が痛感したのは、世界大戦について最も厳粛な感想をもっているのは、必ずしも平和克復という舞台の上でいそがしくしゃべっている人々ではないということだった。夫や愛人や父をもう二度とかえらぬものとして戦死させた家族の思いは、大戦を通じてその富を益々ふくらませた「永遠の繁栄」の、厚かましいほどの溢れる元気とは、おのずからちがったしらべをもって戦後というものを生きている。そのことを伸子は感じずにいられなかった。得意と、偽善に気づかない一人よがりで生きているものへの反感が、伸子の場合には自分の育った家庭の空気への反撥ともつれ合った。佃と結婚するようになって行った伸子の気もちは伸子自身がそれほど自覚していなかったにしろ、もえる大気のように不安定にゆれていた一九一八年の秋からのちの雰囲気ときりはなせないものだった。

「わたしは戦争ってものは、むごたらしいものだと思うの」

 なお苦しげなまなざしを津山の眼の中にすえたまま伸子がつづけた。

「そして、悪いことだわ。一番わるいことは戦争で得をする人間に限って、決して自分で戦争しないですまして来ていられた、ということよ。津山さん、そうお思いにならない? そして、戦争なんて、ほんとにひどい間違ったことだっていうことを決して正直に認めようとしないことだわ。むき出しの資本主義の病気だのに。愛国心だの、正義だのって──何て云いくるめるんでしょう」

 伸子はつきささるような口調になって行った。

「もし、まだ戦争がしたりないっていうんなら、こんどこそ、あなたのおっしゃる『モルトケ戦術』で儲けている人たちだけの間でやってもらいましょうよ。結局、自分たちの儲けのためにやる仕事なら、その人たちの間だけでやるがいいんだわ」

 そう云ったとき、伸子はテーブルの下で、痛いほど靴のつまさきをふみつけられた。伸子はさとった。素子が合図をしたのだということを。気をつけて口をきけ、そう警告しているのだということを。

 津山進治郎は、伸子のいうことをだまってきいていたが、やがて相手の話から一つも本質へ影響をうけないものの平静さで、

「あなたのような考えも、或は正しいかもしれんさ。しかし理想だ」

 意外なようにおだやかな語調で云った。

「あるいは、現代の人類がまだそこまで進歩していないのかもしれない」

「そうは云えないと思います。だって、ソヴェトがあってよ。社会主義は、とにかく、もうはじめられているのよ。それだのに、世界じゅうは、一生懸命それを認めまいとしているのじゃないの、それはなぜなの?」

 重い大柄な体のつくりのわりに額は低く、濃い生えぎわが一文字に眉へ迫っている津山進治郎の顔には、伸子の言葉でどういう表情の変化もあらわれなかった。彼は、おちついて、

「そりゃ、まだ社会主義ってものが一般法則になっていないからだ」

と云った。

「例外は、いつだってありますよ。しかし例外は一般法則ではないんです。そうでしょう? ロシアはああなっても、よそはよそで、まだ別の方法を信じているし、それで成りたってゆく条件をもっているんだ。だから、より普遍な法則の中で行われる生存競争には、その方法でもって勝たねばならんというわけですよ。ドイツはヨーロッパの中の『持たざる国』なんだから」

 そして、伸子は津山進治郎から、ドイツ軍備の内容をきかされた。国際連盟は、ドイツの軍国主義を監視して国防軍十万ときめている。けれども、その十万人の陸軍の中に、出来るだけ旧ドイツ軍の将校たちを保有していて、この十万と、やっぱり旧軍人からなる警官隊十五万とに、連盟の規定を最大限にくぐりぬけた武装を与えている。そのほか自衛団、応急技術団、将校同盟団、いろいろの名目で旧い、軍隊組織を仮装させている。

「海軍だって、一万トン以上の軍艦はつくれないことになっているんだが、この頃ジュラルミンと云ってアルミニュームより軽くて丈夫な新発見の軽金属をつかうことをやりはじめているんです。ドイツじゃ商船だって、ちゃんと規格があるし、航空路だって無意味にこんにちだけ拡げたわけじゃない」

 ことしのメーデーにベルリンの労働者が殺されたとき、すべての新聞はそれを警官隊のしわざと報じた。メーデーの労働者群と警官隊とはつきもののように思う習慣がつけられている国の人々は、ひどいことだが警官のしたことと、そこにまだ何かゆるされるべき余地があるように印象づけられている。だが、津山進治郎が話してきかせるとおりなら、メーデーに労働者を射ち殺したのはつまりドイツの軍隊だったのだ。タンクをもって、機関銃をもって、ベルリンの労働者を掃射したのは、ドイツの軍隊だったのだ。国内でもう彼らは人殺しをはじめている。国際連盟が、ドイツ国内の治安という口実で、十五万人もの武装警官隊を許可したとき、ことしのメーデーに起ったようなことは、見ないふりする用意をもったのだ。津山進治郎が現にドイツの国内におこっているそういうおそろしいことには全く無頓着で、ドイツ再軍備のぬけめなさとしてばかり称讚するのを、伸子は言葉に出して反撥するより一層の注意ぶかい感情をもってきいた。ドイツについてこういう考えかたをもつ人が、自分の国の日本へかえって別の考えようになるはずはない。その意味ではいまベルリンの小料理屋にいる津山進治郎と、労農党の代議士へ暗殺者をけしかけた人々との間に共通なものがある。そして、津山進治郎は、自分がそれを意志するわけでなくても日本における同じような考えかたの人々の間で、ドイツ式最新知識の伝授者となるだろう。医学博士という彼の科学の力を加えて。──この考えのなかには、伸子の気分をわるくさせるようなものがあった。伸子は津山進治郎に説得されず、津山進治郎も伸子の考えから影響されることなく、やがて三人はシャロッテンブルグ通りの横丁の小店から出た。

 伸子と素子とはそこから、ニュールンベルグ広場まで地下鉄にのった。ベルリンの地下鉄は日本の山の手線のように、のんびりと一本の環状線で市の周辺をとりかこんでいるのではなかった。いくつかの比較的短い距離の循環線に区切られて、一つ一つの区切りが、鉄道の幹線駅に接続している。津山からああいう話をきいたあとでは、自分がのってゆられているベルリンの地下鉄のこういう区切りかたにも、伸子は軍事的な意図を感じた。底意をかくしながら几帳面な都会。ベルリンには意趣がふくまれている。

 清潔で広々した地下鉄のプラット・フォームから、伸子たちは街上へ出た。もう二日三日で六月になろうとする太陽の熱は、大気のなかへかすかにアスファルトに匂いをとかしこんでいる。ニュールンベルグ広場の四つの角に、ベルリン得意の自動交通信号機がそびえたっていた。機械が人間の流れを指揮するぎくしゃくしたいかめしさで、縦通りが赤、橙、青と、三つ並んだ眼玉の色をかえてゆくと、それに交叉する横通りのシグナルは、青、橙、赤の順で信号を与える。

 伸子と素子とがその角へさしかかったとき、丁度信号がかわって、二人が行こうとしているプラーゲル街の方向に赤が出た。伸子は神経のつかれた感じで行手をいそがず、頭をあげて信号の色を眺めていた。白昼の外光を巧みにさえぎった黒い庇の中で、濃い橙色が、人工的に鮮やかな青色のシグナルにとびうつった。そのとたん、まるで映画のタイトルでも読んだようにはっきり、日本のファシスト、ベルリンでかえる、という文句が伸子の心にうかんだ。そのひとつらなりの言葉は、病的なはやさでそれ自身を配列させながら津山進治郎の額の低い顔やきれいでないソフト・カラーにしめつけられている太い頸にからみついて、表現派映画のように伸子の心の中で大きくひと廻転した。


十三


 雨の夜で、伸子が窓ぎわに立って外の往来を見おろしていると、レイン・コートを着た男と女のひと組が、むこう側の歩道をいそぎ足に通りすぎて行くとき、ネオンの光が、おもやいにさしている濡れた雨傘の上に赤々と流れた。

 クリーム色と緑の配色で壁や椅子が飾られている下宿ルドウィクのその室に伸子は一人で、テーブルの上に「戦旗」の旧い号が二冊ひろがっている。伸子は、初めてその雑誌を見た。一冊の表紙にはソヴェトの石油工場らしい写真が、もう一つの方には、外国の鉱山夫らしい男が片手に安全燈のようなものをぶら下げながら笑い顔でこっちへやって来る写真がつかわれている。全日本無産者芸術連盟機関誌として去年のなかごろから発行されるようになったその雑誌には、伸子がこれまで日本の雑誌で触れたことのない新鮮さと、国際的な触手と、闘争の意志があふれているのだった。川瀬勇が「戦旗」へ、伸子もなにか寄稿するようにと云ったとき、伸子ははじめてその名を知った。

「ほう、見たことないの。モスクヷへは送ってるのかと思っていた。──こっちのリンクス・クルフェ(左翼曲線)みたいなものだがね」

 川瀬がそう説明した「戦旗」には、評論家篠原蔵人や詩人の織原亮輔、森久雄などの論文のほかに、在ベルリン鈴村信二という名でドイツ労働者演劇に関する覚え書という記事もあり、ピスカトールの演劇論と大戦後の有名な反戦諷刺小説「勇敢な兵士シュウェイクの冒険」の舞台が紹介されていた。一冊の、ソヴェト革命記念号には、小林多喜二というひとの「一九二八年三月十五日」という小説がのっていた。「前哨戦」という同人語の欄で篠原蔵人が、その小説について書いていた。「成程そこには非常に多くの芸術的欠陥がみられる。だが、作者が我々に最も近い、最もヴィヴィッドな問題を小さなエピソードとしてではなく、大きな時代的スケールの中に描き出そうとした努力のなかには、プロレタリア文学の今後の発展に対する一つの重要な暗示が含まれている」と。

 伸子は「戦旗」をかりて来た日から、折にふれてはその二冊をかわりばんこにくりひろげて、読んで見るのだった。そこにのっている小説は、どれも戦争反対の主題や権力の横暴をばくろした作品だった。プロレタリア作家とよばれている人々がそういう主題を選んで書くことや調子に激しさのあることは、伸子にもその必然がよくわかった。三・一五の事件があってから、ひろくもない日本のなかで、革命的な大衆は、弾圧の二十四時間の中で生きなければならなくなっているのだから。その余波は、形こそかわっているがモスクヷの伸子の生活にまで及んだ。

 けれども──それにしても、と、伸子の心はこれらの小説についての疑問をいだいた。そこではすべての小説が叫びのようだった。これらの小説には何とたくさんのエキスクラメーション・マークがあるだろう。そして、小説の世界は、その小説を書いている人たちが階級的な亢奮で力を入れてこわばらしている肉体そのもののように、主題を主張し、こわばって、封鎖されている感じがした。読むものが、そのときどきの心のまま、ひとりでにその小説の世界へはいって、いつかそこに表現されている世界にとけ入るような戸口がついていないように、伸子には息づまって感じられるのだった。

 無産派の小説は伸子がまだ日本にいたころにあらわれはじめた。「セメント樽の中の手紙」「施療室にて」「三等船客」そんな小説があった。それらはそういう人々の生活と文学とから遠く暮している伸子にも感銘を与える強烈なものがあった。そこには、金のない民衆、みじめな人間、破綻におかれた人間の生な情熱の爆発があった。しかし、プロレタリアートというものの意味はつかみ出されていなかった。それから、丁度伸子たちがモスクヷに立って来る前後から、ひとくるめに無産派の文学と云われていたグループの中に階級性の問題がとりあげられ、アナーキズムとマルクシズムの対立、そして分裂がおこった。伸子と素子がモスクヷで暮した一年半ばかりの間に、マルクス主義に立つ文学を求める人々のグループが「文芸戦線」から分離して、やがていま伸子が見ているような「戦旗」も出されるようになった。伸子が川瀬にかりてルドウィクの部屋へもって来た二冊の「戦旗」のこまごました記事は、「文戦」が社会民主主義者のあつまりでしかないこと、新労農党を支持する日和見主義者たちであることを痛烈に非難しているのだった。

 去年の夏、レーニングラードにいたとき弟の保が自殺した。それから、伸子は一つも小説をかいていなかった。旅行記もかいていなかった。保の自殺から打撃を蒙って、ものがかけなくなったというよりも、伸子の場合は、その深い打撃から立ち直って来たとき、伸子はどこやらもとの伸子でなくなってしまったからだった。これまでのとおり自分の小説の世界へおちつけず、それならばと云って、自分を何に表現していいか分らないようなところのできた伸子として、伸子は、ベルリンに来ているのだった。

 ルドウィクのベルリン風に清潔だが情趣にとぼしい室のなかで、雨の降る夜の街を窓の下に眺めながら、伸子は、テーブルのまわりをぶらついていた。小林多喜二という人の「一九二八年三月十五日」という小説は、連載の一部だった。その小説には、ほかの作品にない骨格の大きさが感じられ、人間の心と体の動きのあったかく重い柔軟さもにじんでいた。闘士龍吉の妻であるお恵が、スパイをいやがり、残虐な横柄さをきらい憎む感情の描写が、伸子に共感された。お由も伸子にわかり、会社員佐多とその母親の素朴で真情のある描きかたは、この小説の背景となっている北の国のどこかの港町に生きている人々へ伸子を結びつける。でも、どうしてこの小説にはこんなにビクビクとかモグモグとかネチネチ、モジモジ、ウロウロという表現がばらまかれているのだろう。手数をいとわず、そして実感をもって描写されている小説の他の部分とくらべて、伸子にはそれが不可解だった。作者が、気づかずつい書いてしまっているのだとは思えなかった。不注意ということで、こんなにくりかえしがされるものだろうか。

 伸子は、雨にぬれた街の夜空に赤くネオンが燃えている窓からはなれて、テーブルへもどり、またその小説のところどころをあけて見なおした。同じ号に「解決された問題と新しき仕事」という織原亮輔の論文があり、その前月号に篠原蔵人の「芸術運動における左翼清算主義」森久雄の「プロレタリア大衆文学の問題」というのがあった。レーニンやルナチャルスキーの引用にみちているこれらの論文はどれもプロレタリア文学そのほか階級的な芸術運動が、大衆の生活へ結びついて行かなければならないということについての討論だった。結論として、誰にでもわかるような小説の必要ということが力説されていた。小林多喜二という人は、もしかしたらやさしい小説をかこうと思って、ビクビクとかモジモジとかいう表現を、こんなに多すぎるほどとり入れたのではなかろうか。伸子は、このモグモグビクビクのために、せっかくしっとりした小説の世界は安価にさせられ、重量を失っていると感じた。しかし、と、伸子はまた視点をうつして考えるのだった。伸子がそう感じるということが、とりもなおさず、ルナチャルスキーが排除しなければならないものと云っている、そして森久雄がこの雑誌の論文に引用している「あらゆる芸術的条件性及び洗煉性」だと云うのだろうか。伸子自身は、「洗煉性」の中で腐ってゆく文学に反抗しつづけて来ている自分として感じているのではあったが。──

 二冊の「戦旗」の記事には伸子にわかるところと、わからないところがあった。全日本無産者芸術連盟は略称をナップNAPFと云っていた。その常任委員会の名で「論争の方法に関する意見書」というものが「戦旗」にのっていた。その文章は、伸子をひそかにおどろかすのだった。云われている意味は、議論のための議論にとらわれてしまうのは間違っている、というもっともな、わかりやすいことらしかった。そのわかりやすいことをいうのに、この意見書の云いまわしはその趣意とは正反対に、口のはたがこわばっている人がいう言葉のようにぎごちなくて、大がかりに理窟っぽい言葉をひきずりまわしている文章だった。それでも、マルクシストであるこの人々が、こういう文章をかくのは正しくて、悪文というのは間違いなのだろうか。同じような伸子の当惑は、篠原蔵人そのほかの人々が書いている論文からも与えられた。これらの人の云いまわしから、伸子にとってはよけいだと思える箇所をみんな一応どけて見て、はじめて伸子に論文の趣意がつかめた。そういうしまつだけれども、そのむずかしく混雑した論文は、プロレタリア文学は、誰にでもわかるものでなければならないことを主張するために、かかれているものなのだった。

 こういうことは、みんな伸子によくわからなかった。日本のマルクシストという人々の間に習慣づけられている特定の用語法。あたりまえの言葉づかいをしているものには変に思えるまわりくどさ。そこにある不思議な矛盾を、伸子はまじめに苦しさをもってうけとった。駒沢の家へ見知らぬ人が訪ねて来たときのように、篠原蔵人の書くものはわからないわ、引用だけのようで、とほほえんでいる気持は、もうきょうの伸子にはなかったから。それらの人々の目に映る伸子が何であるにしろ、伸子自身は明日に自分をむすびつけずにはいられないし、そういう云いまわしと無縁な自分を感じて居られなくなっているのだから。──

 一見非常に堅牢そうに、理論で組みたてられているように見えるもののうちにあって、誰からも気づかれずにいる奇妙な矛盾。伸子は、ふと似たようなものが、ベルリンにいる川瀬勇たちの生活気分のうちにもあるのではないかしらと思った。その思いあたりは、女としての伸子を、何かしら感覚的にはっとさせるようなものをもっているのだった。

 また伸子が窓の前へ立って、雨足のつよい夜の鋪道を見おろしているところへ、うしろのドアがあいた。

「なんだぶこちゃん、まだ仕度もしてないのか」

 それは湯あがり姿の素子だった。

「すぐ行きなさい。ここのおやじのことだから、どうせすぐあとをぎっしり詰めているにきまってるんだから」

「じゃ、すぐ出して来るわ」

 伸子は浴槽へ湯をみたして来るつもりだった。すると、

「すぐはいれるようにして来てあるんだよ」

 あるんだよ、というところへ一種のアクセントをつけて、いつもそういうときの素子の、自分の親切がくやしいような口調だった。

「どうもありがとう、じゃ、はいって来る」

 三十分ほどして、伸子は顔も体もさっぱりと桜色になって、洗った断髪をタオルできつくこすりながら戻って来た。素子は、テーブルの上へ旅行用の裁縫袋をとり出して、上衣の絹裏がほつれたのをつくろっている。あしたからおろしてはくための新しい靴下がセロファン袋のまま裁縫袋のわきに出ている。それは、伸子たちがいままではいているような、本当の絹ではあるが白っぽくだらけた肌色ではなく、すっきりしたオークルで、人絹のうすでな靴下だった。ベルリンの大きな百貨店ウェルトハイムの婦人靴下売場にはモスクヷから来た伸子をびっくりさせるほどいく種類もの靴下があった。それを買う婦人のために、売子は内部から電燈にてらされているガラスの脚型にくつ下をはかせて、ほつれのあるなしを調べわたしていた。

 街路をぬらして降っている雨と、女ばかりにくつろいだ室のなかの光景と、それはベルリンでのめずらしい一晩だった。

 伸子は、素子からはなれてテーブルにふかくもたれ、艷やかな湯あがりの顔を頬杖にささえながら、素子のこまかい針の動きを見ていたが、

「あなた、ワンピース着て見る気はない?」

 ゆっくり自分の考えていることのなかから話す声の調子でいった。いま素子がほつれを直しているのはウィーンで買った、淡いライラック色のスーツの上着だった。

「そりゃ着たっていいけど、似合うのがないじゃないか」

 うつむいて手を動かしながら素子が返事した。

「──スーツって、そんなに着心地がいいものかしら?」

 伸子にはそう感じられないのだった。

「いいと思うな。スーツが女のなりの基本になっているだけのことはある。しゃんとしてるもの」

 ウィーンでも素子のこしらえたのは二組のスーツだった。一着は、いまつくろっている上着とそろいの。もう一つは、ひどくしゃれた渋いスーツで、紺地におもしろい縞がほそく出ているコートとスカートに、とも色でドローンワークした白いクレープ・デシンのブラウスが組み合わされた。伸子は、その同じ店で、おちついた細かい格子のワンピースにともの春外套のついたのを選んだ。その薄毛織地のワンピースの衿のところには、肌色と紺のなめしがわでこしらえた椿の花の飾がついている。ベルリンへ来てから、伸子は初夏用の服を一着買った。それもさらりとした肌ざわりの、月光のような色あいのワンピースである。

 伸子はしばらくだまっていて、

「そう云えば、わたしはスーツきないわねえ」

と云った。

「どうしてかしら。──旅行用にでもきる気がしない」

「そりゃそうさ。ぶこちゃんみたいなはいはい人形がスーツきられるもんか、窮屈で──」

 たしかにそれもそうだった。素子のすらりとした体つきから見れば、伸子はまるまっちくて、手脚が短かいのだから。伸子はこれまで素子と自分とが、一方はスーツずきで、一方はワンピースずきだというようなことについて、特別な注意を向けたことは一度もなかった。素子と自分とは皮膚の色がちがうように、体つきがちがうように、めいめいはめいめいのこのみで着ているとしか思ったことがなかった。こまかく云えば、伸子がそう思っていたということさえ、いくらか意識しすぎた表現になるくらいだった。ひとりでにそうなって来ていた。ところがつい二三日前、伸子たちはつづけざまに妙なものをみた。


十四


 川瀬たちのグループが、伸子と素子をつれて行ったのは、ベルリンの繁華街から二つばかりの通りをそれた、とある淋しい町だった。リンデンの街路樹のしげみのかげに、ぼんやり青っぽい灯のついた一つのドアをあけて入った。内部は、こぢんまりしたカフェーだった。レコードが鳴っていて、幾組か踊っている。周囲の壁ぎわに、スタンドに照らされた小テーブルがおかれていて、そこへかけて、踊っている組を眺めているものもある。伸子たち四人は一つの小テーブルを囲んでかけたが、気がついてみると、その狭いカフェーで男というのは、川瀬や中館たちばかりだった。そのカフェーの中にいるのは、踊っている組も、壁ぎわのテーブルに腰かけて見ているのも、女ばかりだった。同じように断髪の頭だけれども、スーツを着てネクタイをたらした女と絹のワンピースを着た女とが組んで踊っていて、スーツとワンピース半々の数だった。

 照明のはっきりしないカフェーのなかで、レコードの廻転度数をおとしたようなフォックストロットがもの憂げに鳴った。踊っている組でも、その動作にも顔色にも華やいだ興奮の雰囲気はなかった。

「なるほど、ここはかわってる」

 素子が、しばらく店内を見まわしていたあげくに云った。

「みんな商売人ですか」

「どうなんだろう」

「こんなにしていて気が向けば、どっかへ行くってわけなんだろうか」

「そうなんだろう。──こういう連中は大抵コカイン中毒でひどいんだ。──大戦後のドイツにはこんなことがひどいんだ」

 伸子は話をききながら、好奇心と嫌悪のまじりあった感情で、ぐるりにいる女の群を見た。スーツを着ている女、このカフェーの特色である女で女の対手をする女は、どれも瘠せていて、云い合わせたように顔色がわるかった。そして、うすい顎の線が目立った。伸子たちのテーブルのそばを踊りながらすぎてゆく組をよく見ていると、スーツの上から肩胛骨がわかるように不健康な背中をしているのが多くて、ポマードをつけた断髪の髪をそこにかきつけてある耳のうしろあたりには、伸子を無気味にした病的なよごれの感じがあるのだった。

 伸子たちのテーブルへ、ベルリンでおきまりのビールがくばられた。伸子の顔つきを見て、

「へんな顔をするもんじゃないよ。誰も無理につれて来たわけじゃあるまいし」

 川瀬たちに対する礼儀と、そこにいる女たちへの仁義のように素子がたしなめた。君たちも女づれだからってベルリンの表通りを見ていただけじゃ、と風変りなこのカフェーへ、案内された。大戦後、ドイツのショウは裸ばやりになった。その流行はアメリカにうつって大規模なジーグフリード・フォリーズなどを生んでいる。先晩、伸子たちが同じ顔ぶれで観たもう一つの風変りなカフェーは、カフェーというよりもっと見世物式で、そこの立役者は、まるで若い女のような体つきをもった一人の男だった。きれいな金髪を柔かな断髪に波うたせて、大柄でぽってりとした体つきの裸体女が、音楽につれて、照明の輪の中にあらわれた。パリでジョセフィン・ベイカアがはやらした駝鳥羽根の大きい扇を体の前にあやつり、きっちりと小さい金色のパンプをはいた足の上で、あらゆる角度に桃色の体をくねらせながらしばらく踊った。胸のあたりも体のしまった若い女としか見えないその男は、踊りが終って照明の輪からぬけ出す瞬間、伸子たちのいるところからは見えなかった何かの動作をしたらしくて、それまでしーんとしてその女のような男の踊る姿に目をうばわれていた観客が、どっといちじに男の喉声を揃えて笑った。それは、ばかばかしいような異様なような空気だった。伸子たちは、その立役者のおどりがすむとすぐそこを出た。川瀬たちの話によると、そこにいたかなりの数の女客のうち、ほんとの女は何人位だろう、ということだった。

「ベルリンには、もっと気ちがいじみたカフェーがある。囚人カフェーっていうんで、そこじゃ給仕がみんな横だんだらの囚人服を着ていて、バーテンダアは看守のなりだよ。御丁寧に、腰かけは裁判所の被告席そっくりのベンチさ」

「戦争ですよ、みんな戦争の置土産ですよ」

 ベルリン生活のそういうものが珍しくもなくなっている中館公一郎が沈んだ顔をして云った。

「人間のアブノーマリティなんて、つくづく見ればどれもこれもあわれきわまったものなんだ」

「こっちにあるもので、モスクヷになさそうなものっていうと、さし当りこんなところだね、そのほかにはあの広場プラッツの白い輪だ」

 それはカール・リープクネヒト館の前の流血メーデーの記念のことだった。

 こんな病的な女カフェーも、戦争まではなかったものにちがいなかった。伸子はその陰気でじめついたカフェーにかけていた三十分ばかりの間に、女たちが踊りながら伸子たちのわきを通りすぎて行くとき、とくにスーツの方の女が、意味ありそうな眼つきで素子を見、それからその視線を伸子の上へ流してゆくのに気づいた。しばらく何となくただそのねばっこい視線を感じていた伸子は、突然目がさめたように自分がワンピースを着ていて、素子の着ているものはスーツだ、という事実を発見した。そして、それはこの特殊なカフェーの中では偶然と見られるものでなくて、ここに集っている錯倒的な女たちには互の錯倒を見つけ合う一つの目じるしとなっている身なりだということに気づいたのだった。

 伸子は、それに気づいたとき、自分がそう気づいたことを川瀬たちに気取られるのさえいやだった。川瀬たちは、伸子と素子という二人一組の女にとって、この錯倒的なカフェーの雰囲気は何かの連関をもっているものかと、わる気はないにしろ、ある距離をおいて眺める気持もなくはなかったのだろうか。

 伸子はそこへはいって行ったときの無邪気さを失ってその女カフェーを出た。大きくすこやかに動いているモスクヷ生活で忘れていたこだわりが、伸子によみがえった。ベルリンにこういう女カフェーがあるのを見せられて、伸子は、自分たちが主観的にどう生活を内容づけているかということとは別に、女と女との関係の頽廃の底をのぞき見た感じだった。そこからうけるいとわしさは、伸子がひととおり正常な性のいきさつを知っているだけに肉体的だった。そしてそれには、カール・リープクネヒト館の前の広場で、はじめてあの白ペンキの環をじっと見たとき、伸子の体をこわばらした感じと共通するところがある。

 けれどもそういう心もちについて伸子は素子と何も話さなかった。こんな話題をつっつきまわすことで、二人の感情とその表現の上に保たれて来ているつり合いが狂うことが、伸子としてこわかった。素子も、ただ物ずき心で陰惨なあの夜の女カフェーの光景を見ていたのでなかった証拠に、彼女としては珍しくそれについて皮肉めいたことも云わず冗談らしいことも云わなかった。二人とも、自分たちの生活は下水の上にわたされている一枚のふたの上に営まれていて、しかもそのふたはさまで強固でないことを知らされたわけだった。

 その晩も、伸子は、スーツが着よいか、着にくいかというだけの話にとどまって、素子が、上衣のうらのほつれを直しているのを見ていたが、やがて、

「あなた、ベルリンていうところを、どう思う?」

 素子にむかってきいた。

「おもしろいところと思う?」

「さあ、おもしろいっていうのとはちがうんじゃないか」

「わたしはドイツってところ、やっぱり気味がわるい」

 やっぱりというのは、この間うち幾度かベルリン国立美術館へ行ってドイツの絵を見たとき、伸子は、古い絵に描かれているヴィナスさえも蒼白く肩がすぼけて、腹のふくらんだ発育不全の女の姿で、冷たく魚のようで気味がわるい、とくりかえし云ったからだった。

「ベルリンの生活って、何だか矛盾に調和点がないみたいだわ」

 一方には、津山進治郎が日本も見ならうべきだという軍国主義があった。ベルリン市内の建築物はすべて五階。町並は一区画ごとに同じ様式に統一されていなければならなかった。だからベルリンでは綺麗な町ほど観兵式じみていた。やかましい規定をもった街路が、その幅なりに四方から集った中央に広場プラッツがあった。そこは十字路だが、几帳面に同じ幅の道が落ちあっただけの四角四面な広さに動的なふくらみがなくて、交通頻繁なところはせまくるしい感じだった。そこで、口を利かない気むずかしやのように、赤、橙、青の交通信号が絶えず瞬いている。ベルリンのレストランでは、献立につけてビールか葡萄酒をのまないものは、そのかわりとして一定の税のようなものを払わせられた。それも規則だった。

 伸子は、ベルリンの電車のなかで、席があっても立ったままでいる中学生をよく見かけた。それも規則であった。派手なバンドつきの丸形制帽をかぶって「春の目醒め」にでて来るような半ズボンから長い脛を出した中学生がうすい金髪のぼんのくぼを見せて、にきびのある血色のわるい顔を窓に向けて電車にのっているところを見ると、伸子はその少年たちの心の内にあるものが知りたかった。ベルリンでは長幼の序という形式がやかましい。しかし、ベルリンの劇や映画でセンセイションをおこしているのは、少年少女の犯罪を扱ったものだった。「三文オペラ」にしても、表現派の舞台に暗く速く展開されるギャングの世界のばくろだった。メイエルホリドは、モスクヷの劇場のうちでは一番表現派に近い舞台で、「検察官」などを上演したが、メイエルホリドでは諷刺の形式として表現派がつかわれているようだった。ベルリンでの表現派は、物体も精神も、破壊をうけて倒れかかる刹那の錯雑した角度とその明暗という印象で、迫るのだった。

「グロスの漫画にしても、わたしには、ああいう肉感性のからんだグロテスクが疑問だわ。ね、そうじゃあない? 現代のいやらしさを描き出すことに、グロス自身がはまりこみすぎているわよ」

 日曜日の夕方になると、郊外から野草の花で飾られた自転車をつらねて一日のピクニックからベルリンの市内へかえって来る人々の大きい群があった。なかには若い夫婦が二人乗自転車のペダルをふんで、二人の間の籠に赤ん坊をのせてかえって来る一組がある。日にやけて歌いつかれたように笑ったりしゃべったりしながら野原の花をもって、軍用道路の上を陸続と明日の勤労のために自転車をそろえてかえって来る人々を見ると、伸子には、「三文オペラ」やグロスの漫画が、しんからそれらの人々の生活感情の底から生れているものと思えなかった。こういう人たちも、もちろん、ああいう芝居を見たり絵を見たりはしているだろう。そして、痛快がり、面白がりもしているかもしれない。けれども、それは気持の一部でのことで、あとのより多くの部分はどんなところに日常の流れをもっているのだろうか。

「赤い地区」ウェディング、ノイケルンはメーデー以来大きく浮びあがっているけれども、伸子や素子がベルリンでのこまかいありふれた日々の間にふれている場面のなかへまでは、新しく創られた生活の道がしみ出していなかった。それはそれがあるところにあるだけだった。

 ベルリンのプロレタリアートは、津山進治郎のいう「モルトケの戦法」で、経済の上にも法律の上にも、分れて進み合してうつ「新興ドイツ」のしめつけにあっていて、それをふんまえながら軍国主義のボイラーへはますます燃料がつぎこまれている。ロート・フロント! ロート・フロント! 用意はいいか! それは反抗の叫びであり、抵抗の唸りであり、帝国主義に向ってつき上げられているつよいこぶしだった。けれども。伸子はそこに双方のゆずらない対立を見出すだけだった。

 以前より悪辣に生きかえりはじめているドイツの帝国主義と、それに反対する民衆の勢力とが、伸子たちにさえ感じとれるほど鋭く対立しながら足踏みしているのは、川瀬勇の説によると、独占資本に尻尾をまいたドイツの社会民主主義者たちのせいだった。シャイデマンやノスケは、カールやローザを殺して、一九一九年のドイツの革命をブルジョア民主革命にまでも及ばない、まがいものにすりかえることに成功した。だから、と、川瀬や中館たちは自分の専門の映画や劇の問題にかえって、ドイツの新興芸術の深刻さは、段々くさった溝になって来てしまった、というのだった。興行資本の大きいアメリカの裸レビューに吸収され、トーキーに食われてゆくのだというのだった。伸子たちはそれらのことを、世界情勢という言葉にまとめて話されるのだった。

 モスクヷの生活は、民衆の生活のすべての具体的なあれやこれやをひっくるめて、社会主義がわかっていようがいまいが、こみで社会生活の実際を、社会主義の方向へひっぱっている。新しいものは旧いものと絡みあい、交りあい、ときにはまだらになりながら、たゆみなく前進している。

 伸子は、テーブルの上に出たままになっている「戦旗」をめくりながら、日本は、ソヴェトの社会に似るよりもよけいにベルリンに似ていると思った。革命という字は、伸子にしても、そこに未来の約束がふくまれている言葉として感じとられるようになっているけれど、ほんとうに革命が生きぬかれてゆく、いりくんで複雑な過程は、何とそれぞれの場所で、それぞれにちがっていることだろう。伸子が、日本はドイツに似ていると感じることのなかには三・一五やら山本宣治の暗殺や二冊の「戦旗」にみなぎっているけわしい対立の雰囲気からの連想があった。自分のうちにある正義の感覚や人間としての権利の主張を、理論にたって組織して、それによって、行動する習慣を身につけていない伸子は、ひたすら、いやなものをいやと感じて澄んだ眼のなかの黒い瞳を一層黒くこりかたまらせるのだった。

 伸子はしんから腑におちたという調子で、

「日本の男のひとたちが、ドイツをすくわけだわねえ」

と歎息した。

「形式ばったところや、勿体ぶって男がいばっていられるところなんか、日本そっくりなんだもの。かげへまわればグロス的でさ。女のひとは、三つのK(子供キンダア台所クーヘ教会キルヘ)だし……。ドイツが気に入っているという日本人にきいてごらんなさい、勤勉だとか几帳面がいいとかいうけれど、本質的には三分の二までの人が、ドイツの旧さや軍国主義と気があっているんだから」

「外国へ来ている日本人で腹から進歩的なのはすくないにきまってるさ」

 素子が実際的な顔つきで云った。

「旅費の工面をつけて来るものが立身を忘れちゃいられまいだろうさ」

 六月はじめの夜の八時ごろ、パリ行きの列車がとまるZOOツォー(動物園)停車場のプラット・フォームに、ひとかたまりの日本人がいた。色さまざまなネオンにあやどられているベルリンの夜景にそむいてその一団は、輪になって興奮した調子の声でしゃべっていた。

「そんな無茶な奴ってあるもんか!」

「僕もそんなおどかしでひっこむ気はありませんがね」

「もちろんだわ。何てけちな人たちなんでしょう!」

 そう云っているのはこれからパリへ立って行こうとしている伸子だった。

 中館公一郎の「シャッテン・デス・ヨシワラ(吉原の影)」がいよいよベルリンで封切りになるについて、きょうの午後おそく試写会がもたれた。出立の時間が迫っている伸子と素子とは観に行かれなかったが、いまステーションへ見送りに来た川瀬勇たちの話によると、それを見たベルリンの日本人のなかに、いちはやく、中館公一郎をなぐっちゃえ、という声がおこっているのだそうだった。映画は徳川末期の浪人の生活苦とその人間苦を主題にして、武士階級の没落を描き出そうとしたものであったが、肩つぎの破れ衣裳を着てぼろ屋のうちに展開される貧しさや苦悩は、貧乏くさくてベルリンにいる日本人の体面をけがす、国辱だ、といきまいているのだそうだった。

「そりゃ多勢の中にはそんな奴もいるだろうが、まさか、全部が全部ってわけはないんでしょう」

 オリーヴ色の小型カバンを足もとにおいている素子が云った。

「ところがね、大体似たりよったりの感情らしいんです。ただそれを口に出すか出さないかだけでね。わたしのきいた範囲じゃ、このごろのドイツ映画はきたないのがはやりだから、この位が通用するのかもしれん、というのが、最も進歩的な意見だったですよ」

「冗談じゃない!」

 みんなが苦笑した。

「ああいう連中はね」

 川瀬勇が、云った。

「下宿の神さんや娘や、その他おなじみの女たちに、せいぜい刺繍したハンカチーフだの何だのやっちゃ、大いに国威を発揚していたのさ。富士山フジヤマだの桜だのってね。そこへ、『シャッテン・デス・ヨシワラ』に出られちゃ、顔がつぶれるっていうわけさ、被害甚大ってわけさ。まさか見るな、とも云えまいしね。御婦人連は、おあいそのつもりで、わいわい云うんだろうし……」

 プラット・フォームから頭をのばして、村井がレールの鳴り出した高架線の前方をすかして見ていた。

「来たようですよ」

 伸子と素子は、一人一人に握手した。

「どうもいろいろありがとう」

「かえりにまたどうせよるんだろう?」

 地ひびきを立てて入って来た列車は、惰力をおとしてやがて停ろうとしている。その車室の窓に沿って、伸子たちは、長い列車のなかごろまでいそいだ。

「ここだ、九番でしょう?」

「そうだわ。どうもありがとう」

 伸子はステップへあがって、棒につかまりながら素子の肩ごしに、

「じゃ、さようなら!」

 プラット・フォームに立っている川瀬たちに向って手をふった。

「ね、みなさん、お願いよ。中館さんをなぐらせたりしないでね」

 動き出した列車に向って歩きながら高くのばした腕を一つ二つ大きく振る川瀬勇の姿が、人影のまばらなプラット・フォームのアウスガング(出口)と白い字でかかれた札の下に遠くなった。

道標 第三部



第一章




 毎晩七時に、リオン停車場からマルセーユ行の列車が出る。その列車でパリを立つと、翌朝七時に、マルセーユに着く。五月二十日ごろ佐々の一家をのせて神戸を出帆した日本郵便エヌ・ワイ・ケイ株式会社のカトリ丸は七月一日の午前九時ごろにマルセーユへ入港する予定だった。マルセーユの駅からホテル・ノアイユへよって、パリの日本大使館のムシュウ・マスナガが契約しておいた部屋と云って一応たしかめておいてから、埠頭ふとうへ迎えに行けばよいだろう。増永修三が、マルセーユ行の切符とともに伸子に与えた指図は、そういうことであった。

 六月三十日の夜七時に、伸子は一人で、ガール・ド・リオンから出発した。どんなあい客が、いつどこからのって来るか予想されない車室クーペのなかに、さし向いでとじこめられる一等車をさけて、伸子の乗ったのは、日本の汽車のような体裁の二等車だった。

 車内は、八分どおりのこみかたで、伸子は二人ならびの席にひとりでかけられた。伸子は、ウィーンで買ったクリーム色の小さい手提鞄を用心ぶかく自分の体と窓の間におき、言葉のよく通じない外国で一人旅する若い女の身のひきしめかたで、座席がきまるとすぐ窓外の景色を眺めはじめた。

 南仏に向う列車の沿線には、夏の薄明りにつつまれておだやかに耕地がひろがった。耕地はゆたかに隅々まで愛情をもって耕作されている。伸子の列車が通過して行く地方には、ポプラが目立った。薄明トワイ・ライトの光線を細く鈍く反射させながら流れてゆく小川のふちに、数株のポプラの樹が並んで、年を経て瘤々の太くなっている幹から萌え出た勢のいい若枝が、灰色のまざった軽い浅緑の葉を繁らせている。列車の進行につれて、ゆるく旋回しながら、遠ざかってゆく野道の上に、ポプラ並木がつづいている。ところどころに散らばって在る農家は、灰色の外壁に厚い麦藁葺き屋根をもっていて、家畜小屋や荷車のおかれている内庭には、低い灰色の土のかきねで四角くかこまれている。それらの農家は、円い形の厚い藁ぶき屋根と土のかきねと、ポプラの樹のかげに、伝統的なフランス農民の生活をつつんでいるようだった。しかし最近の数年間にフランスの農業人口は減りつづけているということだった。政府は、金まわりのいい状態を保ちつづけるために、国内に不足な農業生産物を、やすく植民地からとりあげる政策をとりはじめた。それは植民地の住民から土地を失わせる結果になっていてフランスの共産党は、攻撃している。伸子は、パリで買えるデイリー・メイル紙からそういう記事をよんで間もなかった。

 つやの消された水色と、灰色がかって爽やかな緑で調和している風景は、車窓から眺めている伸子にシャヷンヌの色調を思い出させた。シャヷンヌがこのんだ、しずかなその諧調は、こうして旅してみればフランスの自然がその中に生きている色だった。優雅な、ほとんど清楚と云っていいフランスのこの自然色は服地にもつかわれて、東京にあるフランス人経営の中学校の制服に同じ系統の色が用いられていた。保が、その学校の一年生になったとき、伸子は、少年の制服のそのしゃれたフランスの色をこのもしいと思って見た。

 フランスの自然の主調であるこの色は、またフランス陸軍の色でもあった。そこでおそらくこの優美な色調は地物の色とよばれ、掩護色と云われる種類のものでもあるのだろう。

 車窓のそとは次第に暗くなって、やがて一直線にマルセーユに向って走っている夜行列車の窓ガラスには明るく車内の電燈が映るようになった。

 ほんとうは、自分一人がこんなにして夜汽車でマルセーユまでうちのものたちを迎えに行くようになるとは、伸子は考えていなかったのだった。

 伸子が素子と暮すようになった五年このかた、素子と多計代との間には双方からの根ぶかい折りあいのわるさがあったから、佐々のものがフランスへ来るからと云って、伸子は、素子にも迎えに行ってほしいとは誘いかねた。しかし、素子もマルセーユという港町そのものには興味があるかもしれない。もしかしたら、素子らしく、埠頭へ迎えには行かなくても、マルセーユ見物にだけは一日ぐらいつきあって伸子とパリを立つ気があるかもしれない。伸子はそんなふうに思っていた。増永に会って、七月一日に着く佐々の一行を迎えるうち合わせをしているとき、わきにいる素子は、マルセーユという港町への興味さえも示さなかった。

「こうやって、ホテルまで手配してあれば、ぶこちゃん、心配いらないさ」

 そう云ったきりだった。

「マルセーユを見る気はない?」

「──まあ、親子水いらずの方が無難だろう」

 リオン停車場へ送って来た素子は列車の窓ごしに伸子に向って云った。

「せいぜい気をつけて行って来なさい」

 増永の気持についても、伸子の思いちがいがあった。増永謹と佐々泰造との親しいつき合いから、息子の修三が、父の親友の一人である泰造のために、マルセーユくらいまで行くのかもしれないと、伸子は、思っていた。ところが増永修三は、伸子のためにマルセーユまでの切符をととのえて届けるというとき、

「ほんとうは、僕もお出迎えに行かなけりゃならないところなんでしょうが、手のはなせないことがあるし、御婦人だから、却ってお邪魔だといけませんし……」

とつけ加え、世間で秀麗と云われるような顔で笑った。なにげなく礼をのべてあいさつしながら、伸子は、彼の小さい笑いに傷つけられた。単純に、失礼します、と云われた方が伸子としてはこころもちがよかった。フランスで、言葉の自由でない若い伸子に日本の封建的なしきたりを口実に、女だから、男のつれは迷惑だろうというのは、すじが通らず、女として侮蔑された感じだった。伸子が気づまりでないようにという親切があるなら、別の座席で、伸子に関係なくマルセーユまでゆくこともできないことではないわけだった。

 社交人らしく、自身のスマートさを大切にしているらしい増永とすれば、マルセーユで船からぞろぞろとあがって来る佐々泰造はいいとして、多計代、和一郎、小枝、つや子という一家総勢の姿を想像しただけで、その相伴にあずかるのは気の毒な自分を感じるのだろう。

 佐々の一行が家じゅうでパリへ来る、ということのなかには、たしかに誰の目にも何か度はずれなところがあった。金もちとも云われない階級の佐々一家が、何のために家じゅう、小さい娘までをひきつれて、外国へ来るのか。モスクヷでその通知をうけとったときから、娘の伸子にしろ、こんどの思いたちのなかにどことなく自然でないものを感じつづけている。パリで、一緒になってからの生活が思いやられて、伸子はそれまでに自分と素子とのパリでの暮しの根じろをきめ、ごたついても崩されない自分たちとしての生活感情をとおしておきたいと一ヵ月も前にパリへ来てその準備をして来た。いよいよみんなが七月一日にマルセーユにつくとわかったとき、伸子は、人知れぬ深い息を胸のなかにためて、そっとそれをはきだす思いだった。

 娘である伸子の、それを重荷としていることをかくそうとしないそぶりは、素子はもとよりのこと、増永修三にも、パリへ来かかっている泰造や多計代を厄介に感じさせるたすけとなったかもしれなかった。

 外の景色を眺める気晴らしもなくなった夜行列車のひとすみで、伸子は、はるばる日本から来るうちのものを、こういう気分で迎えようとしていることをやっぱり悲しく感じた。これには自分の責任もある。伸子はそうも思った。何がどうであるにしろ、父も母も、うちのものみんなは、パリにいる伸子というものを心あてにして四十日の航海をして来ているのだった。あしたはたった一人で出迎える自分として、できるだけにぎやかに、みんなを迎えよう。伸子はそう決心した。


 翌朝、九時すこし前というのに、もう暑いマルセーユの波止場で、タクシーからおりたった伸子の腕には、大きな花束が抱えられていた。そのほか、グリーンのリボンでぶら下げられている、ふざけた顔つきの青びろうど製のむく犬。同じようにバラ色のリボンにつられて、薔薇の花びらを重ねたように華やかなスカートをふくらませているフランス人形。そんなものが女学生っぽい伸子の身のまわりにひきつれられている。埠頭には、船腹に赤錆を出した、見っともない船が一艘いっそう横づけになっていた。パイプをくわえた波止場人足が多勢、ぶらぶら仕事のはじまるのを待っている。その辺に出迎人らしいものと云えば、ひさしの人に金モールでホテルの名をぬいだした丸形帽をかぶったホテルの案内人が二三人いるぐらいのものだった。伸子は、てっきり埠頭がちがうと思った。そこにはいっている船はどうみても貨物船だった。伸子は、万一そういうことになってはと思って、わざわざホテルの帳場へ玄関番をよんで、タクシーの運転手にカトリ丸の着く埠頭へ行くようにというようにたのませたのに。──

 タクシーからおりて、埠頭のよごれた小さい船を見たとき、伸子はすぐ、わきにいたオヴァー・オールの太った人足に、

「これ、カトリ?」ときいた。

「ウイ・ウイ」

 花だの人形だのを腕からぶらさげた伸子は、まっすぐ船腹の真下まで行って、また心配そうに、

「これ、N・Y・Kライン。カトリ?」

ときいた。パイプをくわえた大男の労働者は、伸子の様子を見おろして、興がったような同情的な笑顔になった。

「ヴォア・ラ・マドモアゼール。カトリ!」

 とまっている船の方へ片手のひらを上むけに大きくふりながら、その上甲板を見上げた。

 手ぶりにつれて見上げると甲板と甲板との間にはさまれたように馴れない目に見わけのつかない、いくつもの顔が並んで、波止場を見おろしている。

 伸子は、その人の姿の間に、日本服を着た女の上半身を認めたように思った。それは、多計代でも、小枝でもない、別の日本の女のひとだった。しかしそれで元気を得た伸子は、一心に首をもたげて、横歩きしながら上甲板の端から見えている一つ一つの顔をしらべて行った。あるところへ来たとき、いきなり伸子は全身で爪立って、花束を大きく左から右へ、右から左へとふりはじめた。父の泰造が見つかったのだった。つづいて、つや子がわかった。小枝もいる。母が見えた。そして、和一郎も。

 船の上でも、まばらな波止場人足の間にぽっちりと一人まじって、花束をふっている伸子を見わけたらしかった。そこにざわめきがおこって、泰造が盛に帽子で合図をはじめた。つくん、つくん、とび立つような子供らしい手のふりかたで、つや子があいさつをよこした。多計代も和服のたもとをひるがえして高く手をあげた。

 それにこたえて、伸子は花ばかりでなく、こんどは青い犬ころと人形とを、ゆるく大きく、輪をかくようにふりまわしはじめた。船の顔々がそれを見おろして笑っているのがわかった。伸子も、笑いながら、

「みんなの顔が見えることよウ」

と叫び、ますます陽気に犬ころと人形とをふるのだったが、そうやって賑やかに笑っている伸子の眼のなかには涙がにじんだ。

 何という多計代の変りかただろう。伸子が東京を立って来たころは、いつもふっさりと結ばれていて、多計代らしい派手ごのみだったひさし髪は、ひきつめられて前がみのほとんどない、髪のゆいぶりにかわっている。白粉おしろいこそ刷かれているようだけれども、黒い陰気な光線よけレンズに眼はかくされ、さだかでない視線のなかにいる伸子に向って途切れがちに手をふっている肩はやせて、衣紋えもんの正しい夏衣裳は骨だって見える。

 多計代は変っていた。その多計代が、インド洋をとおってフランスまで来た。この事実は、伸子に同情以外のすべての感情を忘れさせた。

 伸子は、泣きそうで喉をぴくぴくふるわしながら、船の上から見ている人たちへ向けている顔の笑いは消すまいと努力して、なおつよく花束や犬ころをふりつづけた。

 上甲板に見えていた泰造がいなくなったと思ったら、やがて誰もいない中甲板の手すりのところに彼の姿が再び現れた。近眼の伸子にも、そこまで近づいた父親の顔は手にとるように見わけられた。泰造は、帽子をふり、伸子を見、笑って、そして泣いている。泣いて、笑っているその父の顔を見たら、伸子は、上甲板に向って花束や人形をふりながら、足もとがよろつきそうなこころの激動を感じた。泰造の表情は、保が死んでからの動坂のうちの生活が、みんなにとって、どんなものであるかということを伸子にさとらせたのだった。

 渡橋ガング・ウェーのとりつけられるのを待ちかねて、伸子は船へのぼって行った。



 トロカデロの広場から、トウキオと名づけられているセイヌ河岸へ出る間にあるディエナ通は、役所町じみたしずけさで、プラタナスの繁った歩道の左側に、古くさく、イルミネーションつきのホテル・アンテルナシオナールの車よせがつき出ている。

 おそらくこのホテルは、エッフェル塔がトロカデロに建てられた一九〇〇年のパリ大博覧会のころ、各国から集って来た各種各様の客のために国際アンテルナシオナールという名をつけて開業されたにちがいなかった。ここがパリへ来る日本人の一時の定宿のようになって、ホテルの数少い召使たちが、日本の男の浴衣ゆかたがけの姿にもおどろかないような風になったのは、いつごろからだろう。ホテルに近いセイヌ河岸にトウキオという名がついているところをみれば、それはヨーロッパ大戦以後のことらしかった。ディエナ通がエッフェル塔とトウキオ河岸の間にあって、迷子になりにくい位置だし大使館から遠くない上にシャンゼリゼをふくむグラン・ブルヴァールにも近く、そんな場所に在るにかかわらず気やすい三流ホテルだということから、いつの間にかパリへ来る日本人の一時の定宿のようになってしまったのだろう。

 伸子と素子とは、間口ばかりはこけおどしに広くて、奥ゆきの浅いそのホテルの建物の正面階段を三階へのぼって行った。そして、金色のハンドルのついた白塗り両開きの大扉をノックした。

 ドアをあけたのは小枝だった。帽子をかぶればそれでもういつでもいいだけの外出姿で、しぶい色のバラ模様のジョーゼットの服が小枝ののびやかに若々しい体に美しく似合っている。小枝は、

「あら! お早う!」

 うれしそうに伸子の手にさわった。

「よくこんなに早くいらっしゃれてね」

 小枝は、すぐそこから奥の寝室に向って、

「おかあさま。素子さんとお姉さまがいらっしゃいました」

と告げた。つや子が駈けて来た。白いブラウスに草色のスカートをつけて。ふとりすぎた十三歳の少女のつや子に、草色の服はいなかくさかった。つや子は、だまって伸子にすがりついた。

「どうしたの? どっかへお出かけ?」

「わからない」

 つや子にからみつかれたまま伸子たちが通りぬけるがらんとした控間のすれた赤いカーペットの上には、二つの大きい鋲うちの航海用トランク、泰造用のインノヴェーション・トランク、そのほか大トランク、小トランク、荷物の山がある。奥の寝室には、夫婦のための二つの寝台のほかに、もう一つ、つや子のベッドまで入れてあって、どの寝台も起きたままだった。ひろい部屋じゅうは混雑していて、引越し最中のように落付かなかった。椅子の上に、多計代の手まわりのスーツ・ケースがふたをあけてのせてあった。多計代は、ねまきの手綱染めの単衣ひとえの上に伊達巻をしめた姿で、化粧台に背をもたせ、もう一つの椅子に素足の両足をのせていた。泰造は一つのベッドの上にはすにかけ、和一郎は、窓じきりにもたれて、むっつりとした表情でいる。

 三人のそんな様子、小枝のよろこびかた。マルセーユでうちのものと一緒になってからきょうで四日目の伸子には、およそのいきさつが察しられるようになった。伸子は、

「お早うございます」

 あっさり父親に挨拶して、多計代のそばへよって行った。

「いかが? お眠れになって? つかれは?──ゆっくりしてごらんになると、やっぱり相当でしょう?」

「ああ、お早う。よく来られたね」

 素子に向って多計代は、

「ごめんこうむりますよ、脚がむくんでしまって痛いもんだから」

と、椅子に足をのばしている云いわけをした。

「どうぞ、どうぞ」

 多計代は、髪を結ったばかりでいるけれども、泰造も和一郎もきちんとした服装だった。朝飯はすまされ、コーヒー道具が、壁ぎわのテーブルに片よせてある。

「さて、それじゃ伸子も来てくれたから、わたしはそろそろ出かけますよ」

 泰造が、そう云ってベッドから立った。多計代は、椅子の上に足をのばしたまま、視線を泰造の動きにからませて、

「あなた、それで、何時ごろお帰りです?」

ときいた。

「早めに帰っていただかなけりゃ。豊原さんたちのお迎えが何時ごろ来るのか、わたしは伺っていませんよ」

「大丈夫だ、夕方までには帰ります」

 泰造が控間で身じたくして出てゆくと、多計代は、

「さあ、あなたがたも出かけたらいいだろう」

 不機嫌に窓ぎわに立っている和一郎に云った。伸子が日本にいたころの和一郎は、美術学校の最上級生だった。この春卒業して、父の事務所につとめはじめた。和一郎は、若い良人らしく大人びた。和一郎は、純白のカラーの上に、神経質な口元をむすんで、返事しない。

「だれもとめてやしないんだから、出かけたらいいじゃないか。小枝さんをごらんなさい。もうさっきからすっかり支度ができて、お待ちかねですよ」

 多計代の云いかたには、小枝のために、伸子を苦しくさせる響きがあった。きかないふりをしている小枝の、おとなしい顔が、案の定こころもちあからんだ。小枝は、ちょっと居場所のないような身のこなしをしたが、

「おかあさま、お召をそろえましょうか」

 つとめて、話題をかえるように云った。

「どれをだしましょう」

「そうねえ、夕方までは、どうせどこへも出ないんだから何でもいいけれど。──あの裏葉色の裾模様はどこに入れたっけ」

「さあ。──船で召さなかった新しい方のでしょう?」

 小枝はこまったように、

「大トランクの方だったように思いますけれど──見ましょう」

 大トランクというのは、控間の方に置いてある鋲うちの入れものの方だった。

 伸子は、小枝について控間に出て行った。そして、正直に自分でトランクの鍵をあけようとする小枝をとめて、大きい声で、

「和一郎さん、ちょっと来て」

とよんだ。

「鍵がうまくまわらない」

 和一郎が来て、トランクの鍵はもとよりすぐあいた。伸子は、多計代にきこえない小声で和一郎に云った。

「あなたまで不機嫌にしていちゃ、小枝ちゃんはどうしていいかわかりゃしないことよ。──出かけなさい。ひきうけるから。──いい?」

 和一郎は、

「うん」

と云った。

「夕方ちょっとかえっていらっしゃいね。そして、おかあさまたちを送り出してから、みんなで夕飯に出かけましょう」

「ああ」

「さ、行った方がいいことよ」

 和一郎はそのまま控間から出て自分たちの部屋へ帽子をとりに行った。しかし、小枝はそれについて一緒に行こうとせず、一人だけのこって大トランクにかがみこみ、つまれた衣類を一枚一枚丁寧にわきへどけながら、云われた着物を見つけようとしているのだった。

「これだけの中を、ほじくりかえすのじゃ、とてもだわ。いいわよ、小枝ちゃん、わたしがあとでゆっくり見ておいてあげるから」

 小枝の気づかいがひどくて、伸子は見かねた。同時に、多計代との間にそういう習慣をつくり出してしまった和一郎や小枝その人に対して、はがゆい気持が湧いても来る。伸子はこっちの部屋から、

「それでいいでしょう?」

と寝室の多計代に声をかけた。

「ついでに、キモノ展覧会をしていただくわ。よくこんなにもって来られたこと」

 そこへ和一郎が帽子をもって入って来た。

「そら小枝さん」

 こんどは多計代が、和一郎の機嫌をとり結ぼうとしてトランクのところにいる小枝をせきたてた。

「あなたも早く帽子をかぶっておいでなさいよ。和一郎さんは、もうそれで出られるんだろう?」

「ああ」

「もういいから。──小枝さん」

 やっと若い一組が外出した。

 多計代は、

「やれ、やれ、相もかわらずひと騒動だ」

と椅子にもたれこんだ。

「小枝さんてひとは、ほんとに何をさせてもお姫様のなぎなただからねえ」

 甲斐性がなくて、ずるずるしているというわけらしかった。伸子には、あんなに美しく、樹のぼり上手と云われていた女学生の小枝が、嫁という立場では全く自信をなくして、おどおどしている様子ばかり目にはいるのだった。

 ひとやすみしてから、多計代は化粧台に向きなおってゆっくり化粧にとりかかった。毛のさきをぷつんと短くきった細筆のさきに桐をやいてこしらえた軽い墨をつけて、両眉をかわりばんこにもち上げて、口をすぼめるような表情で鏡を見ながら眉を描く手つき。手鏡を顔ちかくよせて、仕上りをしらべるまじめな顔つき。実の娘の伸子の前では、多計代ものんびりと一人きりのように化粧に専念している。伸子も、何年ぶりかで母の化粧するのをわきから見ていて、その家庭的な情景を珍しく、ある興味をもって意識するのだった。

 素子はさっきから、ぎごちない空気のみなぎっている寝室をさけて、控間の露台に出て行っていた。そこからはディエナ通が見おろせた。つや子も素子について、そっちにいる。

 そばでみると、多計代の髪は随分白くなっていた。それを、上から黒チックで黒くして、前髪のつまった束髪に結っているのだったが、黒チックは多計代の形のいい額の生えぎわをきたなくしているようだった。伸子は、

「おかあさま、もしかしたら、そのチックやめてみたら」

と云った。

「地のまんまの方が立派じゃないかしら。血色のさえた顔色をしていらっしゃるんだから、かえって引立つと思うけれど……」

「さあねえ……」

 伸子のいうことには賛成できない風で手鏡を見ていた多計代は、一遍化粧台の上においた眉筆をまたとりあげた。そして、両方の眉のはじまりのところを、すこしずつ強く黒くした。そうすると、眉に起筆のアクセントのような調子がついて、いわばその不自然さが多計代の若いときからの美貌の特色をはっきりさせるのだった。

 古びた紅いカーペットをしきつめて寝室のごたごたしたなかで化粧する多計代の手もとに気をとられながら、伸子の心の底は何かの不安──どうかしなければならないことの予感にみたされているのだった。



 七月の晴れた朝のマルセーユの港で、まだ船からおりずにいるうちのものの姿を見たとき、特に父の泰造の顔とやつれきった多計代の様子を見たとき、伸子の心はしめつけられて、ほんとにみんなのために頼りになり、役に立たなければならないと思った。みんなの必要が、たとえ伸子としてどう判断されるにしろ、それを批評するよりは実際的に解決してゆく力とならなければならない。それは、この長い旅行をとおして泰造の負担を軽くすることでもある。伸子はそう決心して、マルセーユのホテル・ノアイユの一晩を、早くから横になった多計代のベッドのわきにいて過したのだった。

 その一晩で、佐々の全家族のこんどの旅行のむつかしさが、伸子に、はっきり感じられた。伸子をおどろかしたのは、みんなの心もちが、なぜだかひどくくいちがっていて、それがむつかしく入りくんでいることだった。長い長い航海のあげくマルセーユへ上陸したのだから、一家一同くつろいで、しんみりと、この一年半わかれていた間におこったことが話されるだろう。伸子はそう期待した。保のことを話して、多計代はどんなに新しく歎くことだろう。あるいは、伸子をせめるかもしれない。伸子はそれをおそれた。伸ちゃんの顔を見たら、もうわたしは動きたくなくなった、と云われることさえ想像した。船の上に見た多計代は、そのくらい憔悴しょうすいしていた。

 ホテル・ノアイユへ着いてひと休みし、和一郎と小枝とが自分たちの室へひきとってゆくと、多計代はそれを待っていたように、

「お父様、すみませんが、あれを出して下さいまし」

と、泰造に云った。そんなにいそいで出さなければならないあれというのは何だろう。伸子はそう思って、泰造が背広の背中をこちらに向けて、黒皮のボストン・バッグをあけるのを見守っていた。泰造は、銀色っぽい錦のきれで包まれた小型の壺の形をしたものを両手の間にもって、そこに立ったまま、

「どこへ置くかね」

 クリーム色のびろうどで張られた長椅子の上にいる多計代にきいた。

「さあ」

 多計代は、港町のホテルらしく華美に飾られている室内を見まわしていたが、

「すみませんがそこへ置いて下さいまし」

 鏡のついている高い炉棚の前をさした。それは多計代がその上に半ば横になっている長椅子の後方だった。泰造は、多計代のたのみのままに、銀色の錦の包みものを両手で、恭々うやうやしくそこにのせた。

 伸子は、唇の色が変ってゆくような気持になった。それは保だということがわかったのだった。その銀色の錦のきれにつつまれた小箱は保の一部分なのだ。思いがけない衝撃で、伸子はかけている椅子の上で体じゅうがこわばった。そして目の中に、苦い汁が湧いた。伸子の心に保は生きている。──死んでしまったいとしい保として、生きている保よりなお哀切に生きている。八月一日という日は、伸子にとって、いまもなお平静に感じることもきくこともできにくい日づけである。日本から来たうちのものみんなの心の中に保もはいって来ていると思えばこそ、伸子はその心と結びつこうとする自分を実感し、それに対して誠実であろうとしているのだった。

 痛切に愛しているものが、どうして、その愛するものの骨をもち歩くことに耐えるだろう。保に関するちょっとしたヒントにさえ、ほとんど肉体的な鮮やかさで死んでも生きている保を感じて、さむけだつような伸子に、ホテルの炉棚の上の骨箱との対面は、あんまりだった。伸子は、暗い刺すような視線でその錦の箱を見すえたまま、息をつめ、頸をこわばらしたまま声も立てなかった。伸子は、マルセーユのホテルでひとことの前おきなしに保の骨を出しかけられようとは考えてもいなかった。

 多計代は口をきかない。泰造もだまっている。ものを云えず、体もうごかせないようになった娘の自分を見つめて、ふた親が沈黙しているということにさえ、伸子は、しばらく気づかなかった。我にかえって、その異様な雰囲気をさとり、それが、多計代にどううけとられているかを直感したとき、伸子は両手で顔をおおいたかった。

 多計代は、伸子をためしたのだった。伸子は、はっきりそう感じた。錦のつつみものが保だとさとったとき、伸子はそれにすがって泣きでもするだろうか。あるいは椅子から立ってお辞儀でもするだろうか。そうならば、それは多計代に伸子のやさしさが示されたことであった。だが伸子は涙をこぼさず、ただ蒼ざめて、こわいこわい顔つきになったばかりだった。そして、それについて、ふた親の方から何も云わないとおり、伸子も何も云わない。多計代は、伸子のうけた衝撃について、全く理解しないのだった。伸子に、錦のつつみものの内容が、どんな苦痛を与えたか。多計代はそれを理解しなかったばかりでなく、期待したような表現で愁歎を示さない伸子を、やっぱり冷酷な娘と思ったことが伸子に、ひしひしとわかった。冷酷な姉になんか保は頭を下げて貰うに及ばないのだ。伸子は、多計代の眼のなかに、言葉となってそう光っている光をよみとった。一層伸子を苦しい思いにさせたのは、その瞬間の反撥の火花のなかで、多計代の結論が目に見えることだった。多計代の考えかたは、きまっていた。ロシア──ボルシェビキ──伸子の思想──と。多計代は、突嗟とっさにそれを口に出して議論するだけまとまった反撥のよりどころを伸子に対してもっているわけではないのだった。

 錦のつつみもの、そのものから直接にうけた衝撃と、それをきっかけにはたらいた多計代の態度への苦しさとが加わって、伸子はかたくなな心になった。保へのいとしさから、伸子がそっと錦のつつみの上に手を置くことがあるとすれば、それは誰もいないとき、誰も見ないとき、そういうときだけされることなのだった。

 和一郎と小枝にくっついて行っていたつや子が、室へもどって来た。ドアを入りしな、つや子は素早い視線を煖炉棚へ向けた。そして、そこにのせられているものを見ると、強いてそれを見なかったような、そんな表情を少女の顔の上に浮べた。

 伸子は感じるのだった。この様子でみればつや子も、おそらくは和一郎も小枝も、心のなかではこの錦の包みものを重荷として感じているのだ、と。泰造さえ、あるいは、こういう形で保をつれまわることを、多計代の満足のためにだけうけ入れているのかもしれなかった。多計代をのぞく佐々のうちのものは、みんな目前に生きていて、あるときは自然に、あるときは軽率に生活を肯定してゆくたちの者たちなのだった。

 あくる日の朝、パリへ向けて出発するまで一昼夜たらずの間に、伸子が、うけた印象は非常に複雑だった。複雑になる根柢には、多計代の健康が弱っているという事情があった。それに加えてもう一つの原因があった。それは多計代が、迎えに来た伸子をいれて目に見える一行六人のほかに、見えないもう一人保という存在をはっきり自分の感情のなかにおいて、旅行に出て来ているという事実だった。

 夜ねる前に和一郎と小枝の部屋へ行ったとき、伸子は、

「おかあさま、船のなかでも、あの錦へつつんだもの、ああやってずっと飾っていらしたの?」

ときいた。小枝は、若い良人である和一郎の方を見ながら、

「そうなの」

 当惑そうに答えた。

「お兄さまは、うんといやがってるんだけれど……」

 こんどの旅行に出る二ヵ月ばかり前に、思いあっていた従兄である和一郎と結婚したばかりの小枝は、こまかい事実を知らないだろうけれども、去年の八月、暑中休暇のがらんとした動坂の家で、姿の見えなくなった弟の保をさがして、父の泰造と二人、竹藪のなかや古井戸をしらべたのは和一郎であった。土蔵の地下室に保を発見したのも、そこから運びだしたのも和一郎であった。和一郎の記憶は錦のつつみを見るごとに刺戟され、それは新婚の彼にとって苦痛であることが、伸子には同情をもって思いやれるのだった。

「おっかさん一人で旅行しているんなら、すきなとおりにしたらいいのさ。でも僕たちは、やりきれやしない。つや子だって、あれから、ずっと妙になっているのに」

 和一郎のそういう言葉の調子には、船にのっていた四十日の間に、たまって来ている感情のくすぶりが抑えようもなく響くのだった。

「パリへ行けば、あなたがたの逃げ場もあってよ」

 深い話をさけて、伸子は冗談のように云った。ノアイユでの午後に見られたいくつかの情景──たとえば、マルセーユ市街見物に泰造と和一郎が出かける。小枝もつれて行こうかどうしようかという場合のごたつきかた、それからホテルの食堂での晩餐のとき多計代が小枝にもとめたこまかいサーヴィスの模様。小枝がこんなにも多計代の気にいっていないという発見は伸子を困却させた。二十一になったばかりで苦労を知らず、人につかえた経験のない小枝が、伯母であって姑という関係におかれるようになった多計代に対して、どう親愛をあらわして行ったらいいのか、気おくれがさきに立って、自分からきっかけがつかめないでいる様子を、多計代はじりじりしたまなざしで、追っているようだった。

 晩餐後、伸子は、父の泰造とホテルのロビーへ出て行った。遠洋航海の果てにある港の都市のホテルらしく、ロビーは華美で逸楽の色彩にあふれている。そのころ流行のスペイン風のショールをむきだしの肩にかけたりして、それと見まがうことのない身なり化粧の女たちが、多勢あちこちにたたずんだり、ぶらぶら歩いたりしていた。泰造と伸子とは、そのロビーの植込みのかげにひっこんだしずかな一隅で、トマス・クック会社の店の男と明日のパリ行列車の切符についてうち合わせた。伸子は、船で一緒だった人々と別れて、六人もいるうちのものだけ、特二等という車室にすることを力説した。トマス・クックの店のものの説明によると、その車室は、マルセーユ‐パリ間だけに接続されるもので、アメリカからの観光客のために、プルマン式に、開放的につくられている車室だった。きょうマルセーユについた外国船はカトリ丸一艘だから、あしたその車室もすいているというのだった。

「わたしはその車室を推薦します。四十日間小さい箱に入って旅行して来た人たちには、開放された席の方がいいでしょう」

 トマス・クックの男に伸子はそう云った。

「ねえお父様、一等にしなけりゃほかの人たちに対して御都合がわるい? さっきみたいなことが、あした汽車にのっている間じゅうつづいたら、面倒じゃない?」

 ホテル・ノアイユには、その日カトリ丸から上陸するとすぐにパリ行の列車へのってしまわなかった、幾組かの日本人がとまっていた。晩餐のために食堂へ出た佐々の六人が円くかけたテーブルは、間接照明にてらされている大食堂の、噴水の奥で、水滴の音の爽やかな気持のいい場所だった。がくれたような風情をもったそのあたりには、金色のスタンドをつけて、幾組かのいきな二人用小卓もしつらえられているのだった。海辺のホテルでの献立には新鮮な魚介もあって、多計代は満足した表情で、あたりを見まわしていた。その多計代の目が、ふと、そのどれにも、華やかな夜のなりをした女と男とむかいあっている小テーブルの一つにとまった。

「おや、小枝さん、あすこのテーブルは、大高さんじゃないかい」

 前から、その小卓に、眼隈の濃いマルセーユの女とさし向いでいる日本人に気づいていたらしい小枝は、

「さあ」

と、云ったきり、そちらを見ようとせず、うっすり赧い顔になった。

「そうだろう? 和一郎さん」

「よくわからない」

「おかしいこと! みんな急に目が悪くでもなったようだね。わたしの眼はわるいけれど、ちゃんと見えますよ」

 銀色のシャンパン冷しをわきにおいたテーブルの上に両肱を立て、こちらに横顔を見せながら女に何か囁いていたその半礼装の日本の男は、あいての女の視線が急に好奇心でひきつれられた方角を追いかけて、ひょいと佐々の家族が囲んでいる円卓の方へ、酔いの出ているその顔を向けた。彼はすぐ顔をもどして、女に何か云い、女もほほえみをたたえたままじっと多計代の和服姿に注いでいた視線をそらした。伸子のかけているところからはすっかりその様子が見えた。

 多計代は、食慾をそこなう不快なものをさけるように、椅子の上で少し体をむきかわらした。

「けさのけさまで、あんなに奥さんのお産を心配しているようなことを云って、みんなの同情を買っておきながら──あれが、大任を負った軍人さんのすることだろうかね」

 困った表情で、泰造は、用のすんだ献立表をまた手にとって見るようにしながら、

「船でのつき合いは、船の上だけということにしておきなさい。そういうものだ」

「そりゃそうでしょうけれど」

 なお執拗に多計代はこだわった。

「ひとをふみつけるにも程がある──」

「おかあさまあ」

 いとわしそうに、悲しそうに、つや子が大粒のダイヤモンドで飾られている母の手をひっぱった。

 食堂につづいたテラスへ出てコーヒーをのみながら、多計代は、船旅の模様を知らない伸子あいてに、また大高の話題へもどった。ひまをもてあましているカトリ丸の一等船客たちのサロンで、飛行将校である大高が、自分の優越感をたのしみながら、愛国の情に感激した調子で、飛行機の秘密をさぐるためにイギリスへ派遣されてゆくことについて講演したりした雰囲気が、多計代の話ぶりから伸子にもまざまざと描かれた。

「どんな小さい秘密でも、知る機会があったら国のために協力してほしい、なんて云っておきながら。──あの様子を見せられちゃ、口車だとしか思えやしない」

 大高の上陸第一夜の放蕩についてそれほど不機嫌になって拘泥する多計代の心理を、伸子は単純に、いつもの母の正義派がはじまったとだけ理解した。

「ひとのことはひとにまかせておおきなさいよ、おかあさま」

 伸子は、淡白に云った。

「外国へ来て、ひとはどうせいろんなことをするんだもの。厚かましいやりかたにはちがいないけれど、いちいち、それを気にしていちゃ、御自分が愉快になるひまがなくなってしまう」

「伸ちゃんは、あいかわらずだ」

 まるで、一年半わかれていても、そういう伸子を見出すのを待って来たとでもいうように、多計代は先入観でかたまった声を出した。

「伸ちゃんがエゴイストだってことはわかっていますよ」

 苦笑してだまっているために、伸子は努力した。そして心のなかに思うのだった。四十日も、船のなかでごちゃごちゃして来たのがわるいのだ。みんなが少し、神経をどうかしている。早くパリへ行くことだ。そしてそれぞれに気をちらすことだ、と。

 伸子はつや子をつれて別に部屋をとり、そちらで眠るつもりだった。けれども、多計代の主張で、夫婦の寝室にもう一台寝台がはいり、伸子もそこへ泊ることになった。

 日本浴衣のねまきに着換えた多計代は、煖炉棚の上においてある錦のつつみものに向って、よく響くかしわでを二つうちならした。それから、寝台にはいった。伸子は、気まずい思いでその儀式の終るのを待って、多計代のわきへ横になった。母のもう片方の側には、つや子がくっついた。

「おかあさま、うれしい? サンドウィッチだから」

 昼間のいろいろなことであんなに伸子を傷つけた、そのひととは思えないうれしさのあふれた眼つきで、多計代は大きい白い枕の上で、頭をあっちに動かして、いくらか汗っぽい下の娘の十三歳の顔を眺め、こんどは頭をこっちに向けて、さっぱりしたうちにも、表情の成熟して来ている三十歳の伸子の顔を見た。そして、伸子がきかえた薄黄色地に小花模様の両腕の出る寝間着を、

「かわいくて、いいこと」

とほめた。

「それにしても、よく吉見さんが伸ちゃんを一人でよこしたね」

 そんなことを云っている多計代はほとんどあどけないようで、一つ枕の上に並んだ多計代の髪が前髪をつめられ、八分どおり白くなっていることも、そこに不手際に黒チックが塗られていることも、伸子の心を動かすのだった。若いうちから最近まで多計代の御自慢だった、顎から喉へかけての柔かくゆたかな線がやせたためにゆるんで、喉に、年よりらしい二つのすじが立って見える。多計代の柔かな顎の下へ伸子は顔をおしつけた。伸子は小さな声で、

「やっぱりおかあさまのにおいがする」

と云った。

「何だろう、この人ったら。牛の子みたいだよ」

「こっち向いて! おかあさま。このひとも牛の子にして」

 電燈を消そうという気になる者のいない寝室で、妻と二人の娘が一つ寝台の中でごたついている光景を、泰造は隣りの寝台からまばたきもしないで眺めていて、笑った。

「なかなか、いい景色だよ」

「お父さま、すみませんね、おひとりで……」

 多計代にはめずらしい愛嬌だった。

「いいわ、お父さま。いまにそっちへ行って、お父様もサンドウィッチにしてあげるの」

 そういうのはつや子だった。伸子は、笑って何とも云わなかったが、父のよこにねることには、伸子だけのはずかしさがあった。モスクヷへ立って来る前、もうそれは十二月にはいってからの東京の寒い夜のことだったが、泰造は風邪気味だといって早く床にはいっていた。その枕もとへ行って、伸子は朝鮮銀行のことか何かきいた。用事がすんでも話していた伸子が、この部屋、思ったよりさむいのね、と云ったら、泰造は、何だ、座蒲団もしいていないじゃないか、ここへおはいり、さ、いいからおはいり、と夜着の袖をもち上げて、そのなかへ伸子をいれた。そして、こんな手をしている、とひやひやになっている伸子の丸くなめらかな手を、あったかい自分の両手の間にはさんだ。さ、もっとよくはいってあったまりなさい。泰造はそう云いながら、行儀よく着もののなかで膝をそろえて横たわっている伸子の脚に、自分の片脚をからめて、ひきよせるようにした。それは、全く自然な父親の情愛のしぐさであったけれども、同時に、男のしぐさでもあった。伸子は、その瞬間に感じたつよいはずかしさをいまでもおぼえていた。父は無邪気であり、自分は、結婚生活を知っている年かさの娘として、無邪気でなかった。そういう自分を伸子は忘れないのだった。

 つや子がわかれて泰造の寝台へ行き、多計代は伸子と夜がふけるまで話した。話しにでることは、どれもこれも船の上でのことだった。それほど心がとけても、多計代は保については姉である伸子にかたく唇と心とを閉して、ひとこともふれようとしなかった。



 ごたついた佐々のうちの一行にとって、皮肉なほど似合いのホテル・アンテルナシオナールでの生活がはじまったとき、伸子に思いがけない困難を感じさせた第一のことは、みんなの一日の行動のプログラムを組み立てるという仕事だった。

 多計代の疲れは見た目にもあらわで、多計代が、できるなら食事もホテルの室でとって、安静にしていなくてはいけない状態であることは、あきらかだった。そのために、つや子のほかの、誰かうちのものが、多計代についてホテルにのこっていなければならなかった。つや子が十三の少女だということも、一行のプログラムを一層複雑にした。ヨーロッパの習慣で、つや子はまだ親たちの表だった社交の生活には加えられなかった。泰造と多計代、和一郎と小枝、素子と伸子と、それぞれの組にわかれて行動しようとするとき、一人ぼっちでのこされなければならない少女のつや子は、和一郎と小枝の組か、さもなければ素子と伸子の組か、どっちかにくっつかなければならなかった。二人一組の大人に、子供であって子供でない年のつや子が附属すれば、自然その組の行動は、その条件にしたがえさせられることを意味した。

 和一郎と小枝、素子と伸子の二組は、かわりばんこにそういうふたとおりの条件に支配され、佐々のうちのものがパリについてから、和一郎たちにとっても、まる一日が自分たち若夫婦の自由につかえるという日がなかった。このことは、永年思いあっていた従兄妹同士の新婚旅行であるパリ滞在について、和一郎と小枝の深い不満になった。小枝は、だまって、困った顔でいるのだけれど、和一郎は、

「パリへ来てまで、こんな思いさせられるなんか、僕ごめんだ」

 言葉に出して、伸子に云うのだった。

「小枝だって、ちゃんと、いやですって云えばいいのに、いつだってぐずぐずなんだもの」

「だって、お兄さま、そうはいかないわ」

 姪であったときと、嫁という立場におかれたいまとでは、和一郎と小枝との間にある感情そのものにも複雑さがましているのであった。

 伸子は、和一郎の不満、小枝の困惑を、自分の困惑に重ねてうけとった。一週間、十日のことならば、毎日ヴォージラール街のホテルから親たちのいるディエナまで通って来て、一日の三分の二をそこでの必要をみたすためにつかったとしても、何とかなった。どうせ、うちのものと落ち合うために来ているパリなのだったから。そして、伸子は、マルセーユへみんなを迎えに行った晩、一人でのって行く夜汽車の隅で決心もしたのだから。とにかく、うちのものの必要のために役立つものであろう、と。泰造と多計代とは秋の末までパリとロンドンで暮そうとしていた。その上で、和一郎と小枝がヨーロッパへのこることになるかもしれなかった。しかしそれは未定で、泰造と多計代の考え次第でどうなるかわからないことだった。親たちの考え次第でどうなるかわからないというその事情が、和一郎をよけいにいらだたしくしているらしかった。

 ヴォージラールのホテル・ガリックの屋根裏部屋の露台に出て、パリの夜空に明滅するエッフェル塔のイルミネーションを眺めながら、

「うちのものの状態は、思っていたよりわるいわねえ」

 ディエナからおそく引きあげて来た伸子が素子に訴えた。

「あのひとたちのところには、なんだか、わたしにわからない感情のもつれがあるわ」

 素子は、だまって考えていたが、

「とにかく、あっちはあっちで、もう少し自律的にやって行ける仕組みを考えなくちゃいけないね」

 家族的な感情の沼から、伸子を扶けてぬけ出させようとするように素子が忠告した。

「そのことね。父は、あなたが見てもわかるでしょう? ちょっと、まあよろしくやっていてくれ、という風だわ。くたびれたのね」

「若い連中と、事務的にうちあわせておく必要があるよ、ぶこちゃん」

 その日、夕方早めにホテルへ帰って来た小枝と二人で、伸子は、パリへ来てはじめて招待の晩餐に出かけようとしている多計代のために、裾模様の着物をそろえ、丸帯をしめる日本服の身じまいを手つだった。泰造と多計代が迎えの自動車で出かけて行ってから、和一郎、小枝、つや子と伸子、素子のかたまりは、リュクサンブール公園のそばの中華料理店へ行って食事をした。

 ベルリンやパリの日本料理店が、主として日本人だけあいてにして店をひらいているのに反して、パリの日本人の間に知られている三軒の中華料理店は、上、中、下にわかれたそれぞれの範囲で、パリにいるいろんな外国人やフランス人の客で繁昌しているのだった。

 店のものは、伸子たちのような日本人の客に対してはごく事務的だった。必要以外の口はきかず、愛嬌らしいまなざしも笑顔も示さなかった。それは、リュクサンブール公園のなかですれちがう幾組かの中国学生たちが、ひとめで伸子たちの一団を日本人と見わけた瞬間、彼らの間をとおりすぎたある空気と同じものだった。その空気は、日本人一般に対しての批判と非難を示すものであり、パリにいる中国の青年たちにそういう感情をもたせるのは、日本軍閥の満州侵略であり、第二次、第三次山東出兵であり、済南で行った日本軍の残虐行為のためだった。数百名の共産党員を銃殺し、労働者のストライキを弾圧しながらハルビンでソヴェト領事館へ侵入したり、東支鉄道の幹部を逮捕したりしている南京政府に対して、フランスにいる進歩的な中国青年は抗議していた。フランス共産党ばかりでなく各国の共産党が、南京政府に対して抗議していることを、伸子はこまかい本文はよめない「リュマニテ」の見出しで理解するのだった。パリにいる中国青年の抵抗は、中国解放を殺している二つの勢力に向けられているわけで、その一方に、南京政府があった。他の一方に、中国を植民地としている帝国主義の国々の一つとしての日本があるのだった。

 伸子は、その夕方、和一郎、小枝、つや子を自分たちに加えた五人づれで、気持よく爽やかな日暮れ前のリュクサンブール公園のなかを歩き、ソルボンヌ大学附近やこの公園の中では特にゆき合うことの多い中国青年たちが、素子と伸子二人のときより、あらわな侮蔑を示して通りすぎるのに心づいた。伸子は、それをつらく感じ、また当然と感じ、彼らに同感もするのだった。小枝の、自分というものさえはっきりつかんでいない優美さ。どこから見ても、人生の何かのためにたたかっているものとは見えない和一郎の、おっとりしたものごし。そこにまざって、歩いている伸子や素子が、モスクヷから来ていて、社会主義の社会について何かを知り、解放の意味の何かを実感していて、パリの中国青年たちは知らないどっさりのけなげな中国の娘たちを、孫逸仙大学の留学生として見知っているというようなことは、彼らのひとめにはわかりようないことだった。伸子たち一団がまきちらしながら歩いているあらわな階級性、それは、小枝や和一郎が全然無意識であるにしろ、中国解放の味方でもなく、日本の人民の味方でもない日本の階級を感じさせるにちがいないものだった。

 伸子は、そのことによって苦しむ自分としての階級の意識を自覚し、同時にまた、そういうこころもちだけをとりだして傷つけられている自分の、ひよわさをも意識するのだった。

 日貨排斥が行われている上海へ、カトリ丸も寄港したわけだった。船客たちの多くは、上海の競馬とか、日本で見られないキャバレーとかいうことで、この都市を知っているわけだった。

「どうした? みんなもあがったの?」

 伸子がきいた。

「わたしは、お父さまのおともで、ちょっと買いものをしに上陸しただけ。──お兄様は、あれでも五六時間、あっちこっち御覧になったんじゃない?」

「僕は、西川さんのところによばれていただけだ──歩かなかったな」

 カトリ丸の船長は、シャンハイの市街見物に、制限を加えたらしい話だった。

 それにつけても、小枝は、寄港地ごとに、上陸する、しない、でもめた四十日の船旅が思いかえされる風情で、

「ナポリのときばかりは、わたしもつくづくお父様がおかあいそうでたまらなかったわ」

 楽しいはずの旅がみんなに辛かったことを惜しむように云った。腕をからめて歩いている伸子を自分の方へひきよせるようにして、つや子がささやいた。

「お父様、デッキの上からナポリの街の灯を見て泣いていらしたの」

「お父様、前のときは、イタリーへ行らしたでしょう。ですものなお更ねえ。ナポリって、ほんとにきれいそうなところだったのに」

 その美しいナポリへ、印度洋の暑さで弱った多計代は上陸できなかった。多計代が船から動けないために、和一郎と小枝の上陸も、ごたついた。和一郎、小枝が、食卓仲間に誘われてやっと上陸し、やがて午後おそくなってつや子が同じ年ごろの少年少女と一緒に船医につれられて上陸した。わざわざミラノから案内のために出向いて来てくれた人があったのだけれども、多計代が動けないために泰造もとうとう船にのこる決心をしてしまったというのだった。

 ひどくもんちゃくしたのが、父に気に入りのナポリだったということが、伸子を悲しくさせた。

「だってまさか、どこでもそんな風じゃなかったんでしょう」

「印度洋のはじまりまではずっとましだった。コロンボで仏牙寺見物のときなんか、僕はへばっていたのに、おっかさん、ひとりではりきって百マイル以上ドライヴしたりした」

「ナポリのときは、あれは特別だったのよ、お兄様」

 小枝が半分は伸子にそのときの事情をきかせるように云った。

「ほら、あの日は午前中に佐伯さんのことがあったでしょう? お母様、たいへんだったんですもの」

 船の上では、その前日、退屈まぎらしの仮装舞踊会が催された。そのとき酒井という若い夫人がボーイ・スカウトに仮装して好評だった。ナポリへ着く日の午前ちゅう、映画をとるからというので、多計代をこめた数人の夫人たちが下甲板に招待された。小枝もおともで行ってみると、酒井夫人がきのうのボーイ・スカウトの仮装で出て来ていて、その夫人を中心に、イギリスへゆくために乗船しているボーイ・スカウトたちをフィルムにおさめるのだった。多計代その他の夫人たちは、その見物にかりだされたのだった。ボーイ・スカウトの指導者として来ている佐伯というひとは、甲板にあつまった見物人たちの前でスカウトのボーイたちに向って、君たち、よく見たまえ。この奥さんの方がいくら姿勢がいいか。みんなもそういう風にシャンとしているものだ、と云った。多計代は、仮装のとき、その夫人に向って佐伯という人が、奥さん、何てよく似合うんでしょう、僕、踊りたくなったと云っているのをきいていた。あれやこれやが、多計代の感情には男女の享楽的な雰囲気として、つよく刺戟的にうけとられた。そして、船室へかえって小枝までしかられた。日本の女は、男にこびるようにばかりしていて、みっともないと云って。

「わたし、そのときは何のことをおっしゃるのかわからなかったけれど、あとから思いあたったわ。いつだったか、わたしが珍しくおかあさまのお云いつけで日本服で食堂へでたことがあったでしょう。あのとき佐伯さんが、わたしにはずっと洋服の方がいいなんて云ったの、それを覚えていらしたのね」

 そういう話をする小枝の柔かな若い声のなかには、人生をたのしみたい無邪気なはげしい欲望が響いた。病弱だのに無理な海外旅行に出て来た多計代が、不健康なために自分からうばわれる楽しみの一つ一つに彼女流の道徳的な解釈をつけて、良人の泰造や若いものたちに不自然な心の重荷を負わせることになっているのがよくわかった。多計代が無理な旅行に出ているということが、何につけてもみんなの無理のかなめとなっている。伸子は、多計代がパリか、ロンドンで長くつくようなことにならなければ幸だ、とまじめに思った。泰造の経済力は、そこまでの負担にたえるとは思えない。

「お母さまの健康、よっぽどひどいのかしら」

 だまってみんなの話をきいていた素子が、おこったように、

「見たってわかるじゃないか」

と云った。

「──お兄様、三井さんとお話しになったんじゃない?」

 多計代の信頼している家庭医の名を云って、小枝が和一郎をかえりみた。

「三井さんは、はじめっから絶対反対さ。医者として保証しないって云ったんだ」

 保が死んでから、多計代は見ちがえるように健康を失ったのだった。

「それでも、おっかさんがきかないもんだから、おやじも仕様がなくなったんだろう」

 そうならば、伸子は考えるのだった。つや子や和一郎夫婦をごたごたとひきつれて来るよりも、実質的に多計代をたすける能力をもった、語学ができてしっかりした女のひとを一人つれて来るべきだった。そのひとと、泰造の助手となれる若い男のひととを。──どうせ、多計代を中心にしての計画ならば、どうしてみんなはそういう風に、整理された旅行の方法を考えつかなかったのかしら。

「あなたがた、やっぱり一緒に来てみたかった?」

「冗談じゃないよ、姉さん!」

 心外この上ないという、にらむような表情で和一郎が伸子の言葉を否定した。

「僕たちは、来たいどころか、来ないですましたいと思って、いくたびことわったかしれやしない。使っていい金があるんなら、もうすこしあとんなってから、僕たち二人でちゃんと計画して来る方が、僕のためにもなるんだからって。──そりゃ、全くそうなのさ。小枝はおふくろの小間使い。僕は小使いなんて、志願するもんか。無理矢理さ。ついて来ればいいんだっていうから、ついて来ているだけだ」

 和一郎はそれだけをいうにも、見かけは柔和らしい面長の顔に、ふてくされてけわしくなっている神経の表情を浮ばせた。マルセーユ以来、和一郎自身は、そういう感情を両親に対してあらわに行動した。そのために小枝の立場は、いつも双方への心配にみちて、板ばさみにされているのだった。

 モスクヷで和一郎と小枝の結婚について多計代からの知らせをうけとったとき、伸子には、二人の結婚が多計代に承諾されたということさえ意外のようだった。和一郎にたのまれてモスクヷへ立って来る前の晩、人気ない洋風客間で彼が小枝と結婚する決心でいるということを立ち話したとき、多計代は何と云ったろう。多計代は、娘の伸子の顔にさぐるような視線をすえて、そんなこと言っていたかい? とそのひとことに、はっきり不承知をふくませた。和一郎のおくさんなんて! そのとき多計代は、小枝が夫を扶けて発展させるたちの女ではない、あんまり享楽的だ、と云った。そういう話を、弟にたのまれるままにひきうけて母に告げる伸子を、多計代は、煽動しないでおくれ、ときびしい声でとがめた。

 三月に式をあげて、五月下旬に両親やつや子とフランスへ出発して来た和一郎と小枝との結婚は、伸子がモスクヷで単純に思っていたように、とうとう若い二人も、がんばりぬいた、というだけの愛嬌のある婚礼ではないらしかった。和一郎や小枝としては、二人が結婚するということだけをがんばったつもりにちがいなかった。けれどもその要求は、多計代がどうしても外国旅行をしようと決心したについての老巧な計画性と、微妙にからみ合わされ、若い二人にとっては、ひとぎきだけ華やかな海外への新婚旅行として、まとめあげられてしまった形だった。

 和一郎は、憤懣にたえない若い男の口元の表情で、むきだしにそのいきさつを姉に説明した。

「小枝を小間使いにするためだってことがはじめっからわかれば、僕、決して、あのとき結婚するなんて云い出しゃしなかったんだ。のばして平気だったんだ──その点、僕、小枝にほんとにすまないことをしたと思っている」

 ホテルの小部屋で、寝台に並んでかけて話している和一郎のわきで、彼がそういうのをきくと小枝はさっと顔をあからめて涙ぐんだ。そして、何か云おうとしたが、やめた。

 結婚式についても、いずれ外国から帰ってのち改めて、ということで至極手軽にすまされたし、花嫁の結婚支度も、双方の親の話しあいで予算の三分の二はこんどの旅行の費用として、現金で泰造にわたされたということだった。

「──それで、それだけのお金は、あなたがたが持っているの?」

 伸子は、自然そういうことまで訊かないわけにいかなくなった。

「それが、そうじゃないんだ。一緒くたになってしまっているんだ。僕たち二人なら、出るたんびにタクシーにのるわけじゃないし、一流のレストランへ行きたいわけじゃないし、倹約に、能率的に、若いものらしくつかえるんだ。今のまんまなら、結局、総額は頭わりで、不合理きわまるのさ。おやじにだって、そんなことぐらいわかりきっているはずなんだ」

 若い二人は、船の上でも、パリへついてからでも、少額ずつ小遣いをあてがわれているだけだ、ということを、伸子は、その晩の話しで知らされたのだった。

 段々話が深く具体的になって行くにつれて、伸子は苦しくなった。そして、ことのいきさつ全体に恥しさを感じるのだった。和一郎と小枝の結婚を承認するということを、こんどの旅行へ結びつけた親たちのやりかた。伸子のきもちからみると、どことなくすっきりしない小枝の婚資のつかいかた。そと目に派手で、内実、それほど充実したものでない佐々の家の風からおこる無理、というより伸子に云わせれば、いやしさと知らない中流的ないやしさで、ごたついている一家の旅姿を、伸子はせつなく思うのだった。

 泰造の、いわゆる英国紳士らしい常識、良い判断とよばれているものが、このいきさつに関して一向はたらきをあらわしていないようなのも、新しく伸子を考えさせることだった。泰造はすっかり、多計代の企画にしたがっているだけのように思える。保が死んだ失望と歎きは、泰造の心もちを、そんなにうちくだいてしまったのだろうか。多計代のいうなりにする、ということの中に何か泰造の言葉にあらわさない保への供養があるのではないだろうか。ナポリで、上陸しない船の上から街の灯を見て泰造が泣いた、というみんなの話は、伸子の胸をさしとおした。みんなの病的に過敏にされている感情と、泰造の神経のつかれが感じられて。

 話したかったことを、ともかく話しきったという様子で、タバコをふかしはじめた和一郎に、長い沈黙ののち伸子はぽつり、ぽつり云った。

「何しろ、うちはむずかしいうちなのよ。小枝ちゃんだって、姪とお嫁さんと、こうまでちがうもんだっていうことは思わなかったでしょう? 佐々のうちには、たしかに特別つよく特徴があらわれているんだけれど、つまりは日本の旧い家族というものの考えかたよ、ね。それに日本の中流というものの経済的な貧弱さよ、ね」

 デュトに住んでいる画家の磯崎恭介とその美しくて忍耐深い妻の須美子が、故国の親との間にもっている辛い関係にしろ、佐々のうちでもめている事情の別の一面なのだった。

「外国へ出ると、誰でも一応日本のいろんなことから自由になったように思うし、自由にしていいはずだと思うから、矛盾がひどくわかって来るんだわ。自分の国で窮屈な思いをしている国の人ほど、外国へ出ると、外国は自由だと思ってのびようとするのよ。だけれど、ここでだって、セイヌ河からみもちの若い女の溺れた死骸が毎日あがっているのよ。新聞でみてるでしょう? 木炭ガスで自殺している貧しい親子があるわ。あなたがただって、もうどうせここまで来てしまっているんだもの、できるだけ智慧をはたらかせて、生活のいろんな面のなかから自分たちの方針を立てて行かなくちゃ。いま、和一郎さんが腹を立てているのも、もっともだけれど、だって、怒るために、何もパリまで来たわけじゃないんでしょう。ねえ、小枝ちゃん」

「わたしは、正直なところ、お兄さまがおこるのさえ、やめて下すったらと思うの。わたし、背中のぬけるぐらい、平気なのよ。すこしの間恥しいのを辛抱すれば、それでいいんですもの」

 船で、小枝が夜の服に着かえてから、多計代の和服の帯をしめる。暑い船室でのその仕事は、せっかく身じまいした小枝に汗をかかせて、薄い、きれいなレースや何かの夜の服の背中まで汗をにじませることがある。和一郎は、そういう小枝を見ると、不機嫌になるのだった。

「和一郎さん、それは御亭主のエゴイズムというものよ」

 伸子は、気のつまる話の末に、くつろぎたくて、

「そりゃ、小枝ちゃんみたいに、きれいな若い奥さんをもてば、汗をかかせている姿なんか見せたくないでしょうけれどね」

と、すこし笑った。

「小枝ちゃんの、いいところよ。そういういいところで、和一郎さん、もしかしたら、あなた小枝ちゃんの御亭主になれているのかもしれないのに」

 しかし、和一郎は、むっとしている顔つきをゆるめず、白眼の光る視線で伸子をちらりと見た。

「僕は、そういう自分の気分で、小枝のことをいうんじゃないんだ。小枝だって、僕の気もちを、姉さんにそういう風に話すなんて変だ。僕は、おっかさんの、あの荷物がいやなんだ」

 伸子の顔にも緊張があらわれた。和一郎は、保の分骨がはいっている錦のつつみものをさしているのだった。パリへついてからずっと、それは、いま二人とも出かけていないアンテルナシオナールの泰造と多計代の室の、奥に並んだ二つの寝台の間におかれている枕テーブルの上に飾られてあるのだった。

「僕たちにしろつや子にしろ、みんなおっかさんは気の毒だと思って、それぞれにやって来ているんだ。そうでも思わないんなら、ここまで来るもんか。それだのに、おっかさんときたら、ちょっと何か満足することがあると、そういうことは何でも彼でも、『彼』のおかげにするんだ。僕たちがやったことでもだよ。そして僕たちは、あらいざらいの気にくわないことの張本人にされる。生きてるものが、そんなに死んだものの犠牲にされるなんて、あることかい? そんなに『彼』がいいんなら、おっかさんは何だって、袋をもったりタクシーを止めたりすることだって『彼』にさせればいいんだ」

 和一郎が、多計代の携帯品である錦のつつみをきらう原因は、ただ保の肉体についての思い出からばかりではないのだった。

「僕は、ホテルの女中でも、あれを何かと間違えてなくしちゃいでもしたら、かえっていいと思ってるくらいだ」

 つや子は、一人ぼっちで誰もいないひろい両親の室へ臥ているのをいやがって伸子、素子、和一郎、小枝とつまっている室の、一つのベッドにはいっていた。

 若い四人は、つや子を眠ったものと思い──そう思ったというよりむしろそこにつや子がいるのを忘れて話していた。

 和一郎のはげしい語気に、たれ一人口をきくものがなくて、ひっそりしたとき、伸子はふと、ベッドのなかでつや子が泣いているのに気づいた。伸子は、思わずはっとした。目で、ほかのものの注意をつや子のベッドの方へ向けさせた。

「つや子ちゃん、ごめんね」

 伸子は立って行って、白い掛けものに顔をかくして泣いているつや子の、少女らしく汗ばんだ肩を撫でた。

「みんなであんまりいやな話ばかりして、泣けた? 大丈夫よ。ね。いちど話して、これから、気もちよくやるようにするんだから」

 つや子は、伸子の頸に片方の腕をまきつけて、伸子の顔を涙でびっしょりになっている自分の顔にすりつけた。そして、しゃくりあげながら、

「そうじゃないの、そうじゃないの」

とささやいた。

「いいの、お兄さまが、みんな話すの、うれしいの。このひと、ほんとにどうしていいかわからなかったんですもの。──保ちゃんみたいに死んでしまえば、お母様は、このひとも可愛がってくださることと思っていたんだもの」

 伸子は、だまってきつくつや子の体をだきしめた。伸子の眼にも涙があふれた。



 うちのものがパリへ来てから、その日はじめて伸子は父の泰造と二人きりで外出した。ひるすこし前にいつものように親たちのとまっているホテル・アンテルナシオナールへ伸子が行くと、めずらしく泰造がまだ室にいて、手袋を買わなければ困ると云っているところだった。

「だって、あなた、この暑さに──手袋なんて」

 小規模な上に、設備の不十分なホテル暮しで、じき七月十四日のパリ祭をむかえようとする都会の暑気を多計代は凌ぎがたく感じはじめているのだった。

「こっちの習慣で、夏でも正式の訪問には、手袋をもっていることになっているんですよ」

「おやおや。はめるためじゃなくて、持っているための手袋なんて──暑いのに御苦労さまだこと」

 多計代は、そういうパリの習慣をおかしがるように、また、年をとっても外国の習慣には従順であろうとしている泰造を、おしゃれだと思っている眼で、娘をみて笑った。

「丁度伸ちゃんが来たから、一緒に行ってお買いになったらいいじゃありませんか」

 そのとき和一郎も小枝も外出してしまっていた。それでも多計代が、伸子に出かけていい、というのは、気分のいい証拠だった。

「じゃ、そうしよう。じき伸子はかえしますからね」

 男子の正式な訪問用手袋などというものを、どこで買っていいのか、伸子も知ってはいないのだった。ちゃんとした百貨店で、ちゃんとしたものを買えばいいのだろう。そう思って、伸子は売子の一人は必ず英語のわかるトロア・カルチエへ泰造と行った。泰造は、そこで鹿皮の手袋を、二種類買った。

 トロア・カルチエの前の歩道のマロニエの樹かげにたたずんで、泰造は、

「さて、──どうしますか?」

と伸子に云った。これは泰造のくせだった。東京で、伸子が泰造の事務所へよって昼飯を一緒にたべたりしたあと、泰造はいつもこれを云った。そして、伸子の予定をきいた上で、そのまま別れることもあったし、どうせ、次の約束までにはまだ時間があるから、と伸子に便利なところまで車で送って来てくれることもあった。いま、パリの繁華なブルヴァールのマロニエの下で、

「さて、どうしますか?」

と、いつもながらの父の云いかたをきいて、伸子は何だか胸が急にいっぱいになるような、まごついたような心持になった。

「お父様は?」

 娘としての習慣から、伸子はひとりでにそうききかえした。パリで、はじめて父と二人きりで外に出ているという条件は、その日の外出のはじめから伸子をいくらかふだんと違うこころもちにさせていた。伸子には、父にゆっくりと隔意なく訊いて見たいようなことがいろいろあるのだった。こんどのヨーロッパ旅行について、父のもっている全体の見とおしについて。それから、和一郎夫婦の処置について。それほどまとまったことでなくても、とにかく何かにつけて、おちおち父と話しているような落付きさえないホテル暮しの毎日が、伸子には苦しい。四十日の航海の間、絶えずしっくりと行かなかったらしい和一郎夫婦とのことが、泰造を苦しませていないわけはないだろうし、現在、和一郎が益々両親夫婦に反撥して、神経をたてている、それが父親である泰造に何も感じさせないこともあり得ないと思える。伸子には、しんみり父に甘えたい気分がある。それといっしょに気がかりなあれこれを年かさの娘らしく話しあってみたい心をもっているのだった。

 ところが泰造の方は、せめてパリにいるときだけは日本のことからできるだけ離れていようとしているようだったし、外出している間だけでも、ホテル・アンテルナシオナールとそこの一室で、沢山の荷物とともにごたついている妻や息子たちのいざこざから自由になっている自分をたのしもうとしているようだった。

 泰造は、そのときも、ふっさりとしりぶとな眉毛のある年よりの快活で血色のいい顔に、ひときわ屈托のなさそうな、明るい表情をたたえてプラタナスの樹かげにたたずんでいるのだったが、素早く指を一本立ててタクシーをとめた。

「いいチャンスだから、ひとつパリの骨董店を見せてあげよう」

 泰造は運転手に向ってボナパルト街と、行先を告げながら腰をおろした。こんな風な骨董商歩きも、東京で、泰造と伸子とが一度ならずつれだったなぐさみである。

 タクシーのなかで、伸子は軽く父の手を自分の手のなかへ執った。その動作で、泰造の注意を自分の言葉に集注させるようにしながら、

「ねえお父様、アンテルは、お母様にもう無理よ」

と云った。

「きのうも、ここには煽風機もないんだね、って歎いていらしたことよ。何とかしなくちゃ」

「うーむ。どうしたものかね……」

 泰造は、避けて来ていた重苦しい問題の前に心ならずもひき据えられた表情になった。

「どこかさがしましょうよ。夏なんだから、もう少しは居心地いいところでなくちゃ、体のためにわるいわ。──お父様、賛成なさる?」

「そりゃ大いに賛成ですよ。しかし、さがすにしても時間がない」

「お父様が賛成なら、さがす方は、わたしたちがやるわ。ただ、わたしたちのつき合いは狭いんだから、お父様が、いろんな人に会ったとき心あたりをきいて下さらなくちゃ」

「そりゃいいとも! 早速そうしよう」

 しばらく黙って、走っているタクシーの窓から街の風景を見ていた泰造は、不本意そうに、むしろ悲しんでいる語調でぽつんと云った。

「本来なら、こういうことは和一郎がするべきことだのに、あの男は一向動こうとしない。──船の中だって、そうだ」

 保がいたら、と泰造は云わないのだった。伸子は、そこに泰造の泰造らしさを感じ、その心によりそった。

「和一郎さんたちは、あの人たちだけで、しばらく離しておいてやる方がいいんじゃないの?」

「或はそうかもしれない」

 もう少し何か云いたそうな様子だったが、泰造はそれだけでやめた。

 泰造と伸子とは、それから、三四軒、骨董商を見て歩いた。クラシックな趣味の建築家である泰造はルネッサンス前後の家具と陶器に着目した。この日の巡遊記念に、日本の柿右衛門をロココ風に模倣したセーブルの小さな白粉入れを伸子は泰造からもらった。

 帰りに、泰造は伸子をつれてフリードランド・アヴェニューにあるホテル・キャンベルへよった。往きのタクシーの中での提案が早速実行にうつされたわけだった。泰造の知人がここに滞在していて、ほめていたということで、どこからどこまでこぢんまりと、行儀よく清楚な雰囲気のホテルであった。

「ホテルとしてはたしかにいいけれど。──でも、お母様にはどうかしら」

 荷物がごたついたなかに、つや子の寝台まで夫婦の寝室においているアンテルナシオナールの室の光景を伸子は思いくらべた。

「お母様には、こんなところ、きゅうくつじゃないかしら。ちんまりしすぎていて……」

 多計代は、外国へ来ても、それが無作法でないかぎり、日本人の習慣で生活してわるい法はないと信じていて、そのとおり実行した。十三にもなった娘の寝台を、親たちの寝室のなかへおかせていることが、ホテルの召使いたちの目にどんな風に映るかなどということは問題にしなかった。伸子がそれとなく注意したとき、多計代は、

「伸ちゃんは、つや子がどんなに神経質だか知っているのかい?」

 気色を害された顔で云った。

「お前ってひとは、何でもそうだ」

 つや子を多計代からはなそうとするのを、防衛しようとでもするような眼づかいだった。

 しっとりと物しずかなホテル・キャンベルの雰囲気と、多計代が身のまわりにもっている大がかりな空気とは、どこかそぐわないものであることを、泰造も直感したらしく、

「お前のおっかさんは、何しろひろい室でなくちゃ気に入らない人なんだから」

と云った。

 アンテルナシオナールを引きはらうという計画は、多計代をよろこばせた。その話をきいて、小枝は、

「まあ! ほんと?」

 輝く眼を見はって和一郎と顔を見合わせた。

「だから、和一郎さんも、その気になってうちさがしを手つだってくれなくちゃ駄目よ、ね」

 単純に明るくそういう伸子に、

「うん」

 和一郎は重く考えながら答えた。

「僕たちが、のりきになるのもよしあしなんだ。早く別になろうとして、珍しく御熱心だねなんてやられちゃ、やりきれないや」

「──そんな」

 伸子は、こじれている和一郎の感情におどろいた。

「まさか!」

「ねえ、伸ちゃん」

 多計代のいないところで、従姉としての伸子をよぶよびかたで、小枝は不安な身ごなしにあらわして云った。

「ほんとに、アンテルを引っこすとき、わたしたちだけ別になれるとお思いになる?」

「どうして? 別になれるような条件で見つけようとしているんじゃないの」

「もしそうできたら、どんなにいいでしょう」

 和一郎は、やっぱり家さがしのために動かなかった。一箇所、これも泰造が教えられたアパルトマンがあって、そこへは多計代も一緒に見に行った。最新式の建築ということで、コルビュジエのガラスを多くつかった様式とアメリカのライト式をくみ合わせたような建てかただった。家具も直接的でパイプ椅子がおいてあるアパルトマンの室の天井は、思いきり低くて、風通しもよくなさそうだった。

「おや、これじゃまるで帝国ホテルだ!」

 多計代のひとことが、泰造や伸子のうけた印象を率直にあらわした。内幸町の帝国ホテルの建てかたは、多計代の気に入っていず、泰造もすいていなかった。このアパルトマンの「最新式」は、要するに四階のところを五階にして、室数をふやしたための云いわけにすぎなかった。

 伸子は、素子とつれだって、パリから一時間ほど郊外電車にのってアンギャンまで貸別荘を見に行ったりした。

 貸別荘というのは、別荘の一部をかす、というわけで、つまりパンシオン式の食事つき貸室だった。家そのものは町の高みにあって、糸杉の生えた心地のいい庭園に面して露台のある広い室だった。別に、かりられる小室もあった。庭に面した広い室の露台に立つと、遠いむこうに湖の端がちらりと光って見えた。それは、そのおかげでその町が避暑地とされているアンギャンの湖であった。週末や、近づいている七月十四日祭の夜は、夜明け近くまで湖畔のパゴーラから音楽がひびき、踊る人々のさざめき、笑う声などが水の面をわたって、対岸の丘の中腹にあるその家の露台まできこえて来るのだろう。夏のパリの郊外らしい風情が想像された。

 しかし、それも現実には多計代向きと云えなかった。パンシオンの食事にあきて多計代はきっと日本食をほしがるだろうし、そのために市内へ出るにしても、ここではタクシーがなかった。タクシーのないことは、泰造もここでは暮せないことを意味した。

 あと二日で七月十四日祭だという日の午後、やっと、多計代たちがアンテルナシオナールから引越せる目あてがついた。ブルヴァール・ペレール四七番の四階にアパルトマンが見つかった。客間、食堂、寝室、それにつや子の居間にうってつけの可愛い更紗ではったディヴァン・ベッドつきの小室があった。厨房、浴室、家具、食器つきで、一ヵ月二千フラン、三ヵ月前払い。それは日本の金で一ヵ月二百円足らずだった。同じ建物の三階にピアニストの河並博義が三年このかた暮していた。四階の一廓がとれたのも河並博義の口添えだった。一層好都合なことに、もうじきアルプスへ避暑にゆく河並が出発したら、これまで河並の台所をやっていた通いの手伝が、佐々の家族のために働いてもいいという条件が加わった。

 いよいよ、そこをとりきめるという日、はじめて和一郎夫婦もつれだって同勢七人がペレールへ行った。

 静かなプルヴァールに繁ったマロニエの梢を見下す客室の露台から、たっぷりした風がはいって来て、廊下をとおり向う側の小部屋の窓から吹きぬけた。建物のそっち側の窓々は裏通りに面していて、四七番地の建物は四角く街角に建っているのだった。おおまかな間どりで、どっしりした食器棚やテーブルのおかれている食堂の気分や、煖炉がきられていて、ルイ式の家具の置かれている客室などは、その古風さが泰造や多計代に似合った自然な落つきだった。

 多計代は、客室のソファで風にあたりながら、

「ああ。やっとこれで、わたしもパリへ来たという気がする」

 銀糸のはいった夏の丸帯の前で、帯あげをゆるめて、ため息をついた。あけはなした食堂との境に立っていた小枝が、痛いほどぎゅっと伸子の手を握りしめた。そのきもちがあんまりぴったり同感されて伸子は思わず笑った。ほんとに、このアパルトマンが多計代の気にいったのは、何とよかったろう。両親夫婦とつや子が暮すにはおあつらえ向きの室数で、しかし、もう一組はいっては無理な間どりだということは、和一郎と小枝を解放する自然な条件であるばかりでなく、伸子にとっても重大な意味があった。両親とつや子の生活がそれとして運転されてゆくために、偶然、日本人になれた通いの手伝があったことは、とりわけ小枝と伸子にとって、運がよかったと云っていいほど幸なことだった。



 七月十四日のパリ祭に、パリの男女は午前二時すぎまで戸外に群れ出て踊った。伸子たちが住んでいるヴォージラールの通りでは、二三日前からヴェルサイユ門の広場、コンヴァンシオンの角、パストゥールなどに次々に楽師のための舞台がつくられた。丸太の柱を緑の葉で飾られ、青と赤の色電球をつましく一条二条交叉した市民の祭日のための舞台では、十四日のひるごろからそろそろヴァイオリンやフリュートの音がきこえはじめて、夜が更けるにつれ全市に祭の気分が漲った。

 伸子と素子とが、九時ごろメトロにのってひとまわりして見ると、車内には陽気な尖り帽をかぶった若い男女のひとむれがいて、ピピーと鳴りながら色紙細工の象の鼻がのびるおもちゃでふざけあいながらどこかへのし出して行くところだった。レモン色に塗られた、明るい車内にこんでいる乗客たちは、祭りの夜らしい賑やかさが、メトロの中にもあることに異存はないという風で、おとなしくにこつきながら眺めているほろよいの年寄の顔も目についた。

 パストゥールでメトロをおりて広場へ出ると踊りの輪はひろがり、熱狂を加えていて、踊る男女の群が街上にあふれた。踊らない伸子と素子とは、音楽とともに絶えずゆれ動いている群集のうしろでしばらく見物しては、ぞろぞろ流れる人どおりにまじりながら、ヴェルサイユ門に向って歩いた。凱旋門附近のブルヴァールとちがってパリのこのあたりは、街燈がまばらで、いつも街はくらい。暗い街上に、舞台の青や赤の紐電球が、むらな光を投げ、ヴァイオリン、セロ、ピアノなどで奏される旋律のこまかい急調子なフランス風の舞踏曲につれて、楽師の舞台に近い男女の群は、肩や横顔に動くにつれて場所のかわる色電燈をうけて踊って居り、すこし遠のいたところにいる群はうす黒くうごめく影を重ねあって、暗いなかで踊っている。どの踊の輪のまわりにも、夜目には見えないパリの場末町の街路のほこりがかきたてられて、風のない七月の夜気のなかにむんとするいきれが感じられるのだった。

 メーデーだの、革命記念日だのと、明るく歌声にみちたモスクヷの祭日を見なれた伸子たちには、パリの場末の町のパリ祭の夜景は一種の哀愁をそそった。

 伸子と素子とは十二時すこし過にホテルへかえって来た。今夜は祭日だからだろう。表戸はひろく開かれたままで、電燈が煌々と白い石の板目に輝いている。伸子と素子とは人っ気のないホールを通りぬけて、エレヴェーターのよこから階段をのぼりはじめた。あたりは明るくて人気ない夜更けの階段をのぼるとき、誰でもがするように何となし靴音をはばかって登って行った二人は、二階の廊下へ出た瞬間、思わず立ちどまった。電燈の明るい廊下に向ってかたく閉められているドアの前には、ドアごとに男の靴と女の靴とが一組ずつ出してあるのだが、それが、何者のしわざか、てんでんばらばら、ごちゃまぜにして、片ちんばにされているばかりでなかった。一つのドアの前で片ちんばに組み合わされた男の靴、女の靴が、いかにも踊っている形で向いあわされているかと思うと、そのさきのドアでは、靴のぬげたのをかまわず逃げる女を、男が追っかけてつかまえたとでもいうような形に男靴女靴がいりみだれている。その廊下で、いたずらをされていない靴は一組もなかった。あげくのはて、一つずつ物語を仕組んでゆくのが面倒くさくなったか。ええ、とばかりふらつく両手につかみあげた男靴女靴をあたりかまわず赤い絨毯の上へばらまいたらしく、女のよそゆきのエナメル靴、男靴が、そのやけっぱちな無茶苦茶ぶりに何とも云えないおかしみをたたえながら、あっちこっちにぶちまかれているのだった。

 三階へのぼる階段口に佇んで、伸子と素子とは、はじめ、何だろうと思ってその光景を眺めた。やがて軽いやきもちをより多くの茶目気であらわしたようないたずらの気分がわかって二人は笑い出した。

「なるほどねえ、これがパリっ子か。わるくないじゃないか」

「三階もこんなかしら」

「さあ、どうだか」

 いたずらをした者はこのホテルの三階に泊っているのかもしれなかった。三階の廊下には何のかわったところもなかった。赤い絨毯のしかれた明るい廊下に向って、ドアの前に男の靴は女の靴と並んで、しずまっていた。

 伸子たちは七階まで、ゆっくり歩いてのぼった。見ると、伸子の室に隣りあわせたドアの前にも、ゆうべまで見かけたことのない女靴が一足、平凡な男靴とならべて出してあった。深夜の明るい廊下を、ドアごとに出されている男と女の靴をながめながら歩くとき、伸子は、まざまざとそこに人を感じ、丁度抱きあって踊っている組と組との間を単身すりぬけてゆくような感覚だった。

「テラスでちょいと休もうか」

 何となし低い声で云って、素子は伸子の室へ一緒に入った。

 一旦つけた灯をまた消して、二人は露台へ涼みに出た。街ではまだ人々が踊っている。音楽がきこえて来る。夜空の下に、パリ名物の細い煙突が無数に林立している屋根屋根が続き、はるか遠くセイヌ河の対岸でエッフェル塔のイルミネーションが、パリ祭の夜をとおして明滅している。イルミネーションは、シトロエン6、シトロエン6。それからシトロエン6・6・6とせわしくまたたいて、シトロエン自動車の最新型6シリンダーの広告をしている。

 統一労働総同盟シー・ジー・ティー・ユーは、こんやの革命記念祭のためにパリの労働者地区のどこかで、午後は演説会を、夜は盛大な祝祭を催しているはずだった。「リュマニテ」のひと隅に、伸子はそれらしい広告を見た。伸子たちのパリには、七月十四日の夜じゅうピエロ帽をかぶって、コンフェッティをぶつけあってナイト・クラブをひっぱりまわす人もいないかわり、東部ルエストのそういう組合の祝祭や演説会へ案内してくれる人もいない。

 革命というものの実体は忘られて、庶民風な男女の無礼講、おおっぴらな歓楽の夜としてのパリ祭を、伸子と素子とは街の上にもホテルの内にも発見しているのだった。

 午前一時すぎの涼しい露台に坐って、伸子と素子とはかすかな疲れを感じ、一種の寂しさを感じ、その為に互に相手を優しく思いあいながら沈黙していた。歓楽の雰囲気があんまりおおっぴらで、横溢的なので、さすがの素子もその撩乱ぶりに圧倒されたようだった。おはこの花柳界じみた皮肉やわるじゃれをひとことも云わず、むしろ、おとなしくまじめになっている。そういうときの素子を、伸子は好きだと思った。皮膚に興奮したつややかさを漂わせながら、ひきしまっている素子の顔つきもよかった。

 小一時間も二人が露台にいるうちに、あちこちに響いていた音楽の数はいつか減って、今は一番近所のどこかの街角で奏されているヴァイオリンとピアノばかりが祭の夜の最後の一曲を、という風に張った調子できこえて来る。

「寝ようか」

 素子が露台から立った。

「ぶこちゃんもねるだろう?」

「ねるわ」

「…………」

 何かためらっている風だった素子が、露台と室との境のところで、伸子の手をとった。

「じゃ、おやすみ、ね」

 素子のその声には、思わず伸子を素子の方へつき動かす調子があった。伸子は、素子をかたく抱きしめて、自分の頬を素子の頬におしつけた。よろけかけてやっとふみとどまった素子の背中の骨の、いかにも細くかよわく彎曲した感触が、異様に伸子をうった。伸子の抱擁は次第にゆるんだ。


 この七月十四日、パリ祭の日にソヴェト同盟と中国との国境が封鎖された。十七日には、正式に国交断絶した。そして、十八日、ハルビンに戒厳令がしかれた。

 佐々の親たちとつや子とが、ホテル・アンテルナシオナールから、ブルヴァール・ペレールのアパルトマンに引越すのが十六日で、伸子は、引越しに必要なシーツだのテーブル・クローズなどを買うために、いそがしく百貨店を歩いた。十九日に通い女中が来るまで、伸子はペレールの家へかよって、台所をうけもった。スープをとる深鍋でたく御飯は、水のひきがわるくてぐちゃついたが、それを泰造までおいしがった。

「ほんとにここへ来てよかった。あなた、伸ちゃんがあと片づけしてしまったら、ボア・ド・ブーローニュへでも行ってみようじゃありませんか」

 内輪の者ばかりでいる夏の夕方らしく、台所まで、あけはなされたドア越しに、客間でそういっている多計代の声がする。

「よかろう、行きましょう」

 伸子は、ここに住居をきめたことはやはり成功だったと思った。ここならアパルトマンの表口にさえ立っていれば、ブルヴァールを通るタクシーをいつでも、誰にでも、つや子にだってとめることができるのだった。和一郎と小枝は、予定どおりホテルにのこっていた。二人は二人で、おいおい気にいったところを見つけて移るわけだった。

 床を白タイルで張ってあるこぢんまりした台所で、伸子は鍋や大杓子を洗っている。赤いセロファンのようなエプロンをつけたつや子が、伸子の洗った鍋は鍋のあったところに、大杓子はそれがかかっていた釘へかけて片づけを手伝っている。アパルトマンにうつってから、つや子は気がむくと手伝う場所ができ、自分としての部屋もできて、いくらかたのしそうだった。

 明日から、通いの手つだいが来はじめるという夕方だった。

「つやちゃん、あなた、すこしは学校でならったフランス語をつかって見なくちゃ──あんまりだまり虫だわ。これからおかあさまと二人でいるとき、用ができれば、あなたが何とかしなければならないのよ……」

「──お姉さま、もうあんまり来ない?」

「来ることは来るけれどもさ」

 鍋を洗っている伸子の眼のなかには、夕飯をしまったあとの両親たちが、自分たちだけでかもしだしているおだやかな雰囲気とはちがった、重く鋭い、何かを知ろうとして、心をよそにひかれている表情があった。

 七月十四日からひきつづいておこったソヴェト同盟と中国との間の国境封鎖。国交断絶。支那側による東支鉄道の回収について、パリの英字新聞「デイリー・メイル」は冷静に事実を報道しているだけだった。「吾々の最も危険な敵はソヴェト・ロシアである。吾々は列強の特権を武力をもって廃絶しないであろう」そういう蒋介石の宣言をのせている。「リュマニテ」はこの事件の真実について語っていた。南京政府はソヴェト・ロシアに対する戦争政策によって、中国労働大衆の革命を弾圧するための帝国主義国の援助を獲得している。そして、国境にどしどし白露軍を結集させていると報じた。中国側がハルビンに戒厳令をしいたということは、そのニュースの本質を裏がきすると、伸子は思うのだった。

 おととしの冬、モスクヷへ来る途中で、伸子と素子とは四五日ハルビンへよった。目抜きのキタイスカヤ通りの光景。そこにあった大百貨店チューリン。ハルビンにいる金まわりのいい日本人──というより、ハルビンにいる日本人が、金まわりのいいときや内地から客が来たとき、出かけてゆくレストランやキャヴァレーは、大抵、白系露人が経営しているところだった。こんどの蒋介石のやりかたに対して、ハルビンの日本人の大部分がどんな興味と期待をもっているかが、そこで会った幾人かの人の顔を一つ一つ思いうかべながら、伸子は想像できるようだった。ハルビン在住の日本人たちは、よりより情報をかわしあったり、臆測を語ったりしながら、むしろ、蒋介石がこれでどこまでやれるものか、という風な話しかたをしているにちがいなかった。ハルビン市にしかれた戒厳令ということも、その人たちは三分の不安と七分の安心でうけとっているのだろうと思えた。満州で張作霖を爆死させたりしている日本の侵略の気風はハルビンの人々にも影響していて、ものみだかい、あわよくば、という感情の半面で、本国から遠くはなれている人々はやっぱりソヴェト同盟の平和政策を信じたいところもあるのだから。

 中国側の強引な回収に抗議して七月二十二日、東支鉄道従業員のジェネラル・ストライキがおこった。蒋介石は軍隊の力でそれを弾圧している。「デイリー・メイル」は、はじめと同じような冷静さで、中国側の動きを肯定的にとりあげて報道しつづけている。「リュマニテ」にはアッピールがのった。フランスの革命的労働者諸君! ソヴェト・ロシアに対する戦争政策の開始は、全世界の労働大衆に向けられた殺戮政策である。反動、ファシズム粉砕のために、ソヴェト同盟の敵に対して強力な階級闘争をたたかえ! 檄は近づいている八月一日の、世界反戦デーの、大規模な行進へのよびかけとむすび合わされていた。

 わかりやすい字をひろってやっとあらましの意味をつかめる「リュマニテ」の紙面からは、伸子を緊張させずにおかない響がつたわって来る。それを感じない人々にとっては一つの国際的な些事のように、しかし、その意味を実感するものにとっては重大な信号をもって、さりげなく、だが不断の注視をもって資本主義の国々の視線が一つの国境に集中されつつある。ロシア革命の歴史については乏しい伸子の知識のなかにさえも、デニキンという名がある。コルチャックとウランゲルの名がある。革命のロシアへなだれこんだこれらの白軍のうしろに、帝国主義国のいくつかの国旗がはためいた。日本は東洋の番犬である任務をはたして、それに対するおこぼれを期待してシベリア出兵をした。

 伸子は、自分のなかに生きている国境がみだされようとしているのを感じるのだった。その国境は冬空の下に果しなくひろがり、半ば蒙古風だった。伸子がそこを通過した日は北風が吹いていた。一人の蒙古の男が線路沿いの淋しい野道を歩いていた。防寒帽の耳覆いのたれを北風にふきちらされ、蒙古服の裾を足にからむほど煽られながら。その男のわきについて、精悍な黒い蒙古犬が二匹駈けていた。

 バイカル湖を深く囲んだ、シベリアの原始林の間へ沈んで行く太陽は何と赤かったろう。そこには雪があった。人跡絶えた雪の白さ。赤く燃える落日。逆光をうけて真黒く、太古の茂りに立っている原始林の荘厳さ。

 現在パリに暮している伸子は、郷愁に似た思いで、この国境を愛している自分を自覚するのだった。ソヴェトの国境は飢饉とたたかい、白軍を撃退し、営々として建設しているソヴェトの人々のために堅持されなければならない。人類の社会は成長し得るものであることを信じて、努力している世界の人々にとって守られなければならない。モスクヷの街々の朝夕。人々の顔、声。ここではじめて試みられている様々の社会生活の新しい仕組によって生きているナターシャとその赤坊と若い良人がいる。モスクヷの四季のなかに、何と大量に人間の可能性が燃焼していることだろう。そして、あすこには、そのような新しい社会からしか生れない新しい人間感情が存在しているのだ。

 去年のメーデーの前、日本の共産党の人々が検挙されたとき、泰造はその新聞記事を赤インクのカギをかけてモスクヷにいる伸子のところへ送ってよこしたことがあった。その伸子はいまパリにいてペレールのアパルトマンへ日に一度は顔を出し、親たちや弟妹とブーローニュの森の散歩だの、ルナ・パークでの他愛ない遊びにつれだったりしているから、もう東支鉄道問題がどうであろうと、泰造にとってそれは外国でよむ一つの新聞記事にしかすぎないのだろうか。

 赤インクのカギがいくらか荒っぽくかけられた新聞をモスクヷで見たとき、伸子は苦しかった。そういうものを送られたことについて、忘れがたい印象をうけた。パリでの暮しで、泰造がパリというところにはきびしい人間の思想がないように、自由に成長しようとする人々の苦しくまじめな階級のたたかいがないように、安気そうなのは、またそれとして伸子の関心をひくことだった。

 七月二十三日の夜あけがた、パリの警視総監は、パリの市内のあちこちで、手あたり次第に多数の共産党員を逮捕させた。東支鉄道問題以来、ファシズムに反対、ソヴェトを侵略からまもれ、という声は労働者ばかりでなくひろい知識人の層からもおこっていた。八月一日の反戦デーの準備は大規模に精力的にすすめられているらしかった。七月二十三日の明けがたの急襲は、その妨害だった。

 その日の午ごろ、例によって伸子がペレールの家へあらわれると、多計代は、

「きょうは、明けがたに妙なことがあったよ。伸ちゃんの方はどうだったい」

ときいた。伸子はヴォージラールのホテルの七階で、何にも知らなかった。目をさまされるような特別のことは何もなかった。

「どうしたんだろう」

 多計代は、自分の記憶が夢の中のことでないのをたしかめるような眼つきで、

「あけがた、外を何度にも、騎馬で通ったものがあるんだよ。ふっと眼がさめたら、かなりどっさりの蹄の音がしているじゃないか。おや何だろうと思って耳をすましていたら、つづけて、あれでどの位通ったんだろう。大分の数だったよ。わたしは段々薄気味がわるくなってね、お父様に起きて頂いたけれど、何だかわからなかった。──何だったんだろうね」

 そのとき、伸子はまだその明方に何事が行われたか知らなかった。母が、おびただしい馬蹄の音を往来の上にきいて、そんな不安を直感したという、そのことの方がむしろ不思議だった。

 二十四日の新聞で、伸子は、前日の夜あけの出来ごとを知った。多計代が目をさましてきいたという馬蹄の響は、そのためにくり出されたパリの騎馬巡査がどっかへ行く音だったのかもしれない。伸子は、母が、その見えない往来の上の馬蹄の響に物々しさと殺気とを感じた敏感さにおどろいた。伸子は、素子とその話をしたぎりで、多計代に、事件の内容は告げなかった。検挙された共産党員とよばれる人々の中には、いくたりかの外国人もまじっていた。ベルリンの血のメーデーのときの記事を思い出させるところのある英字新聞の調子だった。伸子はくりかえして「デイリー・メイル」の記事をよんだ。こういう事件は予想外のことでなく、ブリアンの政府にとっては全く計画的なことであり、これからもこういう事件は又くりかえされ、人々がそれをあたりまえと思うようにひき入れて行こうとするきざしがうかがわれる調子だった。「リュマニテ」は、フランス全市民を決定的にファシズムのもとにしたがえるために、人々が生活権のためにたたかう勇気をくじかれ恐怖としりごみをおこさせるために、ブリアン政府は、まず人民の前衛である共産党の破壊に着手した、という事件の本質をあきらかにした。ファシストは国際的にはソヴェト同盟を、国内的には共産党を、潰そうと試みている。しかし、それは不可能である。「不可能であるセ・タンポシブル」──この言葉は紙面に目をすえている伸子の心にこだました。短い否定の言葉に、最もつよい積極の意味が表現されている。そのことに伸子はうなずくのだった。

「デイリー・メイル」をよんでいる泰造が、七月二十三日の事件について、どんな感想をもつだろうか。注意ぶかくなっていた伸子は、この場合にも泰造が全然よそごととしているのに安心し、こころひそかなおどろきも感じた。これが日本のなかのことでもなく、モスクヷでもない国フランスにいる、そのことで、泰造は気楽になっている。伸子は改めて、どこにいても同じように神経のたった女の鋭さでかんを働かしている多計代の感受性について考えた。



 街々のマロニエの緑の色をこころよく甦らせて夕立があがった日の午後五時すぎ、伸子はペレールの両親のアパルトマンを訪ねた。うすぐらい入口のドアの前にたってベルをおした。しばらく答えがなくて、もう一度鳴らした。ドアをあけたのは、通い女中のマダム・ルセールではなくて、はれぼったい顔色をしたつや子だった。

「ああお姉さま!」

 つや子は体ごとすりつくようにして、伸子の手をひっぱった。

「来て……」

 つや子のその様子は普通でないのに、アパルトマンは、しんとしていた。

「どうしたの」

 伸子は、さては母が病気になったかと思った。

「誰か病気なの?」

「ううん、ちがう」

 もしゃもしゃになっているおかっぱの頭をふって、つや子は、とり乱したようにひどい力で伸子を、まっすぐ客間へひっぱって行った。露台に向って一杯に窓がひらかれている、雨のあとの爽やかな空気が流れている客間の長椅子の上に脚をのばして、多計代がいた。ななめよこから夕暮の外光をうけている多計代の顔色のわるさ。それは蒼さをとおりこして青っぽく黄色かった。長椅子の前の小テーブルに飲料水エビアンの瓶とコップとがおかれていて、わきに多計代の持薬である宝丹の紙袋が出ている。

「ほら、やっぱり、どっかお悪いんだわ」

 伸子は、足早に母のそばへよって行った。

「どうなすって? 電話下さればよかったのに」

 多計代は、むしろ精神的に、力も何もぬけはてた様子で、伸子の方へ手をさしだした。大粒のダイアモンドの指環のはまった多計代の右手は、伸子の手のなかでかすかに震え、表面が冷えきっているようでしんが熱っぽかった。

「ね、ほんとにどうなすったの? どっかが苦しいの?」

「苦しいのなんのって──伸ちゃん」

 多計代は、すっかりかすれてしまった声で、やっとききとれるぐらいに云った。

「きょうというきょうは、もうすこしで、わたしも殺されるところだったよ」

 多計代は、そう云いおわって、息がつまって来るのに抵抗するような咳ばらいをした。

 まじりけない不安にはりつめられていた伸子の表情のかげに、多計代の言葉の誇張を疑う色が動いた。

「殺されるなんて──」

 だれに? どうして? あり得ないことだ、と伸子は思った。伸子は訊くように、わきに立っているつや子をかえり見た。うちのめされたようになって、ぼっとしている十三歳の肥ったつや子の様子は哀れだった。

「どういうことだったのか、ちっともわけがわからない」

 とがめるような伸子の調子に、多計代が、

「和一郎が来ていたんだよ」と答えた。「あの、おこりようったら……つや子さんも見ていただろう。まるで親の見さかいがなくなるんだから──、おそろしい」

 くっ、というむせび泣きの声と一緒につや子がくるりと向きなおって、廊下ごしに客室と向いあっている自分の小部屋へ逃げこんでしまった。

 午後二時ごろ和一郎が来て、引越すホテルが見つかったから、金を渡してくれと申し出た。それが、ことのはじまりらしかった。和一郎の主張は、和一郎と小枝が今度の旅行でつかうべき金額全部を、この際、はっきり計算して、親たちの会計からわけて貰いたいというのが眼目だった。

「急にそんなことを云い出されたって、わたしにどうしようがあるもんじゃあるまいし──第一、お父様もいらっしゃらないのに」

 娘をあいてに、いきさつを説明しているうちに神経的に喉のつまっていた多計代の声が、段々自然に出るようになって来た。

「第一お前、あのひとたちに、お金をみんなわたしてなんか御覧。半年のところが三月で消えてしまうにきまっているから……」

 親たち夫婦とつや子がペレールへ引越して間もない或る朝、泰造がワグラム広場で和一郎夫婦にでくわしたことがあった。午前十時すぎごろ、若夫婦が広場の角のカフェーのテラスで、めいめいの前に葡萄酒のコップをおいて、のんびり往来を眺めていたところだった。小枝が目ざとく歩道を近づいて来る泰造を発見した。

「──お父様よ」

と云ったとき、もう泰造は二人のわきへ来た。その場では泰造らしく、小枝に機嫌のいい調子で口をききながら、自分もコーヒーを一杯つきあって、わかれて行った。

 この插話を小枝からきいたとき、伸子は、さぞ若い連中がへこたれたろうと思って、おかしかった。笑う伸子に、小枝が心配そうな眼ざしで、

「そんなに笑わないで頂戴」

と云った。

「あの朝、わたし何だか自信がなくて、いくら、こんなところはおやめなさい、って云っても、お兄様ったらきかないんだもの。──まるで意地をはったみたいにして……」

 小枝の不安は、よりどころないことでなかった。泰造は、その日の夕方、外出から帰って来るといあわせた伸子に、朝のできごとを話した。

「どこの、のら息子どもが、朝っぱらから、こんなところにとぐろを巻いているのかと思って近くへ行ったら、和一郎と小枝だ」

 しり太の眉根をしかめて泰造が頭をふった。

「まったく、仕様がない」

 泰造の心には、和一郎に対して、とりかえしようのない不信頼がうちこまれたらしかった。

「将来まじめに建築でもやろうと云う者なら、折角の機会に観ておくべきものは、ありあまるほどあるんだ」

 泰造が、きびしく和一郎を批評する場合でも、多計代はそのことの主な責任を小枝に負わせて弁護した。小枝が享楽的で和一郎に勤勉なこころをふるいたたせようとしないから、と。金銭について警戒する多計代の心には、品のいい肉桂色シナモン・カラーの絹レースの服をつけ、すらりと美しい脚でパリの人目さえひきつけている小枝の姿態が浮ぶにちがいなかった。金の話をしに、和一郎だけが一人で来たということも、小枝に対する多計代の感情をこじらせた。小枝はいつも陰で和一郎をつっついているという風に。

「しまいには、詐欺も同じだなんて怒り出してさ……誰がお前……全く泣くにも泣けない気持だった──死ぬのにしょってゆけるものじゃなし、いずれはみんなあのひとのものになるにきまったものじゃないか──それも、どれほどに沢山あるというわけでもあるまいし……」

 二時間以上も、云いあっていた揚句、和一郎は、おそろしい顔つきになって多計代を睨みすえていたと思ったら、いきなり立ちあがってそこに在った椅子をふりあげたのだそうだった。

 小枝との結婚を多計代が承知しようとしなかったとき、和一郎は、茶碗をぶつけた。

 おろおろして、それでも自分の云い分をまもって、つくろった多計代の話をきいているうちに、和一郎の乱暴なふるまいをとがめながら、衝動的な憎悪につかまれた彼の激情が伸子にわかって来るようだった。

 伸子は、苦しげにむずかしい顔でしばらく黙っていたが、

「お母様、せん、和一郎さんが茶碗をぶつけたというときね、あの人は、お母様をめがけて茶碗をほうったの? それとも、ただ畳かどっかへなげつけたの」

「そりゃあ、お前……」

 つづけて口から出そうになった言葉を、思わずためらって、多計代は、きびしい表情で自分の答をまっている娘の顔へ視線を向けた。

「いかにあのひとだって、わたしにぶつかるように投げつけやしなかったさ」

「きょうはどうだったの?」

「…………」

「お母様は、お金のために和一郎さんが椅子でお母さまをうち殺すことがあるなんて、ほんとにお思いになったの?」

「──伸ちゃんは、あのときの和一郎の相好を見ていないからわからないんだ──ほんとに、あの勢ったら」

「もちろん和一郎さんは、悪いわよ。ひとをおどすようなことをするなんて、男らしくない卑劣なことだわ。──でも、お母様」

 伸子の体をあふれてこのいきさつ全体に対するいとわしさ、悲しさ、腹立たしさが、いっぱいになった。伸子は低い、迫る声で多計代に云った。

「お母様には、その途端にだってわかっていたはずよ。和一郎がそれ以上のことをしようとしていないっていうことは──」

「…………」

「それなのに、なぜ、いきなり、殺されるところだったなんておっしゃるの?」

「…………」

「ね、なぜそんな風におっしゃるの」

 渋いような涙が伸子の目の中に浮いた。

「つや子があんまりかあいそうだわ」

 多計代も和一郎も、大騒動をして、そのことで感情放散をやっている。十三の少女のつや子に、どうして、そんな事のいきさつが噛みわけられよう。

「和一郎さんには、今後絶対そういう乱暴をさせちゃいけない」

「伸ちゃんからも、よくよく云ってきかせてやっておくれよ」

 それよりも先に、多計代の態度だ、と伸子は思うのだった。和一郎のなかには少年のころから神経質でわがままな人間のもっている一種の残忍さがあった。すべてを小枝にあてつける多計代の刺すような言葉が、和一郎にどんなに猛烈な母への憎悪をたきつけるか。それは伸子にも佃のことで身におぼえがある。

「とにかく、お母様も和一郎さんたちの結婚は許していらっしゃるんだから、今更ここで小枝ちゃんのことをとやかく云ったって一つもいい事はないわ」

 すると多計代は、伸子にとって思いがけないほど元気な辛辣な口調で、

「へえ。──そりゃあまた伸ちゃんらしくない妥協的なことをきくもんだね」

 挑むように娘を見た。

「伸ちゃんの主義は、決して妥協しないっていうのかと思っていたのに」

 その調子は、一時の驚きがすぎて多計代がふだんの多計代に戻ったという証拠だった。伸子は議論をさけた。

「お母様、どんなときにも和一郎さんにおどかされる癖をつけちゃだめよ。よくて? あのひとのためにだってこわいことだわ。お母様はよけいな刺戟的なこと云わないで、毅然としていらっしゃればいいのよ。そして、やっぱり事務的なことは事務的に早くかたづけた方がよくはないのかしら」

「お金のことかい?」

「そうなんでしょう? きょうのさわぎにしたって」

「そりゃそんなようなもんだけれど」

 多計代は、金の問題を意識的にさけた。多計代は長椅子の上に両脚をのばしたまま向きをかえた。あけはなした露台から、ブルヴァールを越えてひろく夕空が見晴らせる位置になった。

「和一郎が椅子をふりあげたとき、あのひとの手をそこでつかまえているのが誰だか、わたしにははっきりわかった」

 前後のつながりなくつぶやく多計代の声を、伸子は憂鬱に聴いた。多計代の調子は特別に重々しく、そのことが、彼女の意味しているものを伸子にさとらせた。多計代は、「彼」が──保の霊が母をまもった、といおうとしている。アパルトマンに引越して来てから、白地錦襴きんらんの包みものは、夫婦の寝台の枕元の台の上におかれているのだった。



 伸子のまじめな心配は、パリから数千キロはなれた満州とソヴェトとの国境にかかっている。伸子のてぢかななやましさと混乱は、ブルヴァール・ペレール四七番地のアパルトマンにあった。

 日曜日で通い女中のマダム・ルセールが休み、伸子が夕飯の支度をした日だった。その晩は泰造もいた。食後、泰造と多計代との間に和一郎の話が出た。和一郎はその日も小枝と一緒に来て、旅費の処置について母の返答をもとめたのだそうだった。この前、和一郎がおこった日も、多計代は、旅費の処分という点ははっきりさせずに、和一郎が我ままを云って乱暴したという風な面を主にして泰造にその日のことを告げていた。きょうも、多計代は、

「ほんとうに、あのひとたちったら、何と考えているんだろう」

 相談というよりは、泰造に自分の不服を訴える口調だった。

「つれて来てもらったおかげで、パリだって見ているんじゃありませんか。自分たちの力で何ができるというんだろう」

 食堂の食器棚へ洗ったコップをしまいながら、伸子は多計代がそう云っているのをきいた。多計代がそんなニュアンスで泰造の耳に入れる限り、旅費の配分という実際的な問題は解決されようがない。伸子は多計代の態度はごたごたを深くすると思った。泰造は長男に批評をもっているのだから、妻の話しようによってはただ和一郎に対して不愉快な感情をつよくするばかりにきまっている。和一郎とすれば、今度の旅費の問題は、おそらくカトリ丸に乗ったときから心にあったことだろう。いずれ実際的に扱われなければならないことだし、泰造を通さないでは何一つ決着しようのない種類のことでもある。

 伸子は、

「ねえお母様、こんやはお父様もいらっしゃるから丁度いいわ。そのことをすこし本気に御相談なさるといいわ」

と云った。

「お父様は、和一郎さんから直接には何もきいていらっしゃらないんだから。よく具体的にお話しになれば……」

 伸子は台所に少しいて、それから浴室で体を洗い、帰り支度をした。

「じゃ、さようなら。あしたは午後来るけれど、何か御注文があること? 買いものがあったらして来ることよ」

 露台に向って両親とつや子が半円形にかけている客室へ声をかけた。

「どうですね、多計代。伸子がああ云っているが──いるものはありませんか」

 それに答えず、ちょっと黙っていた多計代は、

「伸ちゃん、帰るのは、少し待って貰おう」

 思いがけなくかたい、命令的な調子だった。

「こっちへ来ておくれ」

 そろそろと近よってゆく伸子の顔を、多計代は椅子の上からふり仰ぐように見た。

「伸ちゃん、こんやは一つ、お前からすっかりお父様にお話して貰おうじゃないか。──おおかた伸ちゃんには、みんなわかっているんだろうから」

「わたしにわかっているって──なにが?」

 多計代から泰造へと視線をうつしながら、伸子は、あんまり意外でナア、ニ、オ? とひとこと、ひとことひっぱった。

「話しに出ていたのは、和一郎さんのことじゃなかったの?」

「だからさ、あなたから、何でも思っていることをみんなお父様に云って、思うとおりにして頂いたらいいだろう、って云っているんですよ」

「へんだわ、お母様ったら」

 単衣の下に骨だって見える母の肩つきや、白粉がむらになっているひきつめ髪の額を眺めて、伸子は悲しい、いやな気になった。

「和一郎さんから話をおききになったのはお母様じゃないの。わたしじゃないのよ。おまけに、お金のことじゃありませんか。わたしが何を知っているとおっしゃるのかしら」

「そりゃそうだけれどね。わたしには、だれも、和一郎がこんど越したホテルを知らしてくれないじゃないか……」

 そう云われて、伸子は自分もそれを知らされていないことに気がついた。

「そう云えば、誰も知らないんじゃないのかしら」

 もし多計代の健康に何事かおこったりしたら、と伸子はそんな場合の責任の感じからあわてた。

「お父様は、おききになった?」

「手帖に書いてあるはずだ。モンソー公園の近くなはずだった」

「御存じなら、そう早く云って下さればいいのに」

 考えてみれば、このパリで、みんなは何とばらばらに暮しているだろう。伸子たちの生活ぶりにいくらかでも関心をもってヴォージラールのホテルへも来てみたのは、泰造だけであった。パリへ来てからやがて一月たつのに、和一郎も小枝も、そんな気はないらしかった。和一郎たちの生活は、心持の上でも伸子と別なところにあるのに、多計代は、どんなよりどころでそう思うのか、伸子と和一郎たちがしめし合わせて、でもいるような口ぶりだった。

「とにかく、こんやは、御迷惑だろうが伸ちゃんにもすっかり思っていることを話してもらって、わたしにも云うことだけは云わせてもらおうじゃないか」

 銀鼠色のわなてんのフェルト草履をはいている素足のつまさきをせわしく動かしながら、多計代は興奮の眼くばりで云った。

「親は一つも理窟をいうな。金だけは黙って出せっていうのが、伸ちゃんの何とか主義っていうのかもしれないがね。わたしは御免だ」

 例の多計代の、挑みかかる言葉つきだった。伸子はそれにひっかかるまいと努力しながら、それでもつい、

「勘ちがい、しないでよ、お母様!」

 ほとばしるように云った。

「わたしがいつ、一フランだって下さいって云ったことがあって? 和一郎の話じゃありませんか」

 ほんとに、旅費なんか出してもらっていなくてよかった。伸子は激しく考えた。

 きっとこんなこともあろうと、伸子は買物のために泰造からあずかる僅かの金でも、計算書にして収支を明白にして来た。パリには素子もいる。素子は、自分たちの暮しと、佐々の一家の生活と、この一ヵ月は二つの間をかけもっている伸子に、きびしいけじめを要求した。素子ははっきりした理由もなしに佐々のうちのものと食事によばれることさえよろこばなかった。

「和一郎の問題で、伸子も一緒に話せっておっしゃるならわかるけれど──そんな、……まるでわたしがお金でもゆすっているみたいな!」

「なんにもお前がどうこうっていうわけじゃないさ。だけれど、和一郎たちの味方をするのはいつも伸ちゃんじゃないか」

「そうお? 椅子をふりあげても、わたしは和一郎に味方して? お母さまも和一郎も、感情的にひっかかってごたついてばかりいたってはじまらないから、わたしは、実務的なことは実務的に片づけた方がいいでしょうと云っているだけだのに」

 泰造は、ひとことも口を利かずアーム・チェアにもたれて腕組みをしている一方の手で、ときどき目立たないように上歯の義歯を動かしている。重苦しい気分のとき泰造のあらわす癖だった。つや子はさっきから、母親と姉とのけわしい話声にはじき出されたように露台にいた。手摺りにもたれて、街燈がマロニエの並木を下の方からてらしている夜の静かなブルヴァールを見下している。日本を立つとき着せられて来たまま、ずっとそれを着ている草色のスカートのたけがつや子には短かすぎて、露台の手摺にもたれこんでつり上ったスカートのうしろと靴下の間から、ちらりとふとったが見えている。それは、いかにも身のまわりをこまやかに見まもってくれる者をもたない、中途半端な年ごろの少女の可哀そうな後姿だった。

 つや子のいまの後姿が、パリへ来てまで、家庭のごたつきに浮きつ沈みつ、その場その場の不和や和解で暮している佐々のうちの気分を、まざまざと反映している。伸子はその場の情景の上に字で書きしるされているように、それを感じるのだった。一家でパリへ来て、アパルトマンをかりて、通いの手つだいをつかって暮している。それだけの条件から云えば、それは国際的な中流の上の生活様式だった。けれども、生活気分は、何と、フランスのいわゆる中流家庭の生活感情とちがうだろう。フランスの中流人たちは、社交というものが中流階級の存在のための動脈、共通な利害の結びめであると理解して、伝統的に神経をくばるように鍛えられている。パリの中流層の人たちが、機会をのがさぬ愛嬌と機敏な打算とでブルジョア社会のより太い脈管へ、よりつよい綱へと一家をつなぐために緊張しているのにくらべると、パリでの泰造と多計代、特に多計代の生活気分はレジオン・ド・ノールをつけたどこかの酋長の妻のようにおおまかで、夫婦は、どちらも、佐々第二世ジュニアである若い和一郎夫妻を、パリで開かれている自分たちの交際圏へ引き合わせ、何かと一家の将来のために計っておくというようなせせこましいことはしなかった。パリの生活にあらわれた佐々泰造と多計代の生活の素朴さは、親たちが日本の特権階級の内部にはいりこんで生きている種族でないことを、伸子に証明した。権力の液汁を一滴でも多く同族のなかに吸収しようとして、特権階級の人々がその結婚や知人関係をとおして毛細管をはりめぐらす手腕は、日本でもフランスでも同じことなのであった。

 伸子は、親たちのそういう素朴さに好意をもっている。それだのに、今夜多計代は金のことに絡めて伸子の「何とか主義」と、さも、あるところからは何でもとる主義がこの世の中にあるように、それが共産主義だとでもいうように、世界の一定の人々の間に流布している無知な偏見を平気で口にのぼせることは、金という現実的なきっかけがあるだけに伸子をまじめにおこらせた。

「つや子ちゃん」

 伸子は露台のところにいるつや子に声をかけた。

「あなた、もう今夜はおやすみなさいよ、ね。あした来て、又リュクサンブールへでもつれて行ってあげるから……」

 つや子は誰かから自分の存在が注意されるのを待っていたように、素直に露台から客室へ入って来た。

「お姉さま、帰るまえに、ちょっとこのひとのところへよって。──いい? 忘れない?」

 伸子の頸につや子は重く両腕を巻いた。

「忘れない。──だから臥ていらっしゃい。いい子」

 両親の方を見ないで夜の挨拶をし、つや子が室を出て行った。伸子はあらたまって、多計代を主として、両親に云った。

「旅先でもあるし、お母様もごたごたしたお気持なんだろうけれど、わたし、お金のことについては、はっきりしておいて頂きたいと思うわ。これまで、随分お母様とはいろんなことで云い合ったけれど、お金について今夜のようにおっしゃったのは、はじめてなんだから。これまで実際にあったことをあったとおりに考えて見て下されば、お母様は、わたしに対して、ただの一遍だって、出すだけは黙って出せ、と云うような金をお出しになったことはなかったと思うわ。そうお思いにならない?」

 だまって多計代は顔をそむけた。

「わたしから、お金をねだったということがあったかしら。佃と結婚したとき、お母様は、自分の思うことをするのなら、経済的にもすっかり自分でやれっておっしゃったでしょう。あれは、今になってみればみるほどありがたかったと思っているんです。和一郎さんには、お母様少しちがうのよ。オートバイのときだって。ヴィクターのときだって。和一郎さんは、ねだって成功して来ているのよ。小枝ちゃんと結婚したい、とあのひとが云ったときお母様は、すきな結婚をするなら、何でも自分でやれ、とおっしゃったかしら。──そうじゃなかったろうと思うんです」

 ありのままを、ありのままに話しているうちに、伸子は、和一郎が総領息子として子供のときから母親との関係のうちにつみ重ねて来ている特権のようなものを、はっきり目の前に見た。それは、同じ総領と云っても娘である伸子と母との間にあったものとは全くちがった性質のものだった。そして、伸子の知らない一年半のうちに、保が死に、和一郎が結婚したという新しい事情は、金の話に、これまでの佐々の家庭には無かった一種の複雑さを与えてあらわれるようになって来ているのだった。次々とそれらが明瞭になって来て、伸子は、こういう種類の問題で、一家のうちの「娘」である自分のおかれている立場というものが、はじめて客観的にのみこめたのだった。

「お母様は、これまでの習慣で、何でもわたしをひっくるめておっしゃるけれど、こういう問題では、わたしは自然第三者的な立場なのよ。──そうでしょう?」

 単純な云いかたではあるけれども、これらの言葉には、日本の「家」のなかでおかれている伸子の娘としての立場と、自分としての生きかたを主張している女としての条件の自覚がこめられているのだった。

「…………」

「もし、わたしがここのうちのなかで、こういう問題についていつも第三者的な立場に自分を置こうとしないなら、どういうことになるのかしら──」

 多計代は沈黙したまま、不安げに長い睫毛まつげをしばたたいた。伸子の云っていることのわけが多計代にのみこめたのだった。もしも多計代が不用意に云ったようなことが事実あって、伸子が和一郎をけしかけて佐々の家の金銭問題をせせくる女であるならば、佐々の家の将来はどうなるだろう。運転手の江田が和一郎を若様とよぶにまかせている多計代のこころもちには、自分たちの代でこれまでにした佐々の家という意識、そのあととり息子としての和一郎という意識がつよく作用している。パリへ来て、母の知らない別のホテルに泊って、自分たち夫婦の旅費の精算を強硬に主張するようになった和一郎のこころの底にも、日頃の多計代の口癖が反映している。どうせやがてはみんな自分のものになるものなら、それが必要な今ほしい、出しおしみするなといういきりがあるのだろう。

 和一郎が学生であったころ、親たちと伸子との間におこった数々の衝突や争いを、今夜の話の内容と比べれば、どちらの側にも打算がなくて若々しく、さっぱりしたものだった。伸子は、悲哀をもって、佐々の家庭にも新しい局面がひらかれたことを感じた。

「お母様、よく覚えていて頂戴。わたしはもうこれから決して、お母様と和一郎さんとのお金の話には立ち入らないことにきめてよ。こんどは、偶然あんなことで仕方がなかったけれど……。こんどだって、お母様が思っていらっしゃるよりも和一郎が云い出した心持は根が深いと思うから、わたしは実際的に処置した方がいいと思っただけなんだから」

「──何も彼も、わたしが行届かなくて、相すまないことだよ」

 多計代は、あからさまな反語の抑揚でそう云った。

「どこの親が、ためあしかれと思って苦労するものか! 子供も生んだことのないひとに親の気持がわかってたまるものか」

 伸子は三十歳になって、現在良人をもっていない。子供ももっていない。母である多計代は、女として伸子が、そこにひけめをもってでもいるように、その一点を狙って放ったもりのように云って椅子から立ち上った。丁度そのとき、アパルトマンの廊下で電話のベルが鳴った。

 電話は素子からだった。

「いやにおそいからどっかへ行っているのかと思った──どうした?」

「ちょっと──いろいろあるもんだから」

 感情のわだかまりから急にぬけ出せない伸子の声は、うっかりして沈鬱だった。

「──相変らずなんだなア」

 素子は、電話口で考えていたが、

「迎えに行こうか」

 その思いつきに弾んだ調子だった。

「迎えに行けば、いくら何でも放免だろう」

「じゃ、そうして。来るときね、あのクリーム色の小さい鞄に、部屋着と顔を洗う道具を入れて来て──二人分──いい?」

 あんまりおそくなるようだったら、ヴォージラールまでかえらずに、いっそここのブルヴァールのはずれで街路樹のかげに一つ小さいホテルがある、そこへでも泊って見るのもいい。伸子は、いくらか重苦しい雲にきれめの見えた思いで客室へ戻って来た。泰造がひとりで肱かけ椅子に残っていた。

「お母様は?」

「よこにでもなったんだろう。しばらくそのままにしておけ」

 泰造は、拇指と小指とで、両方のこめかみのところを揉むようにしているのだった。

「頭痛がなさるの?」

「頭痛というほどじゃないが」

 なお自分でこめかみを揉みながら、

「どうだい、吉見さんは来ますか?」

「迎えに来てくれるんですって、よかったわ」

「そりゃよかった。一人で帰るつもりなのかと思っていたところだ」

 泰造の様子を眺めていた伸子は、立って父の椅子のうしろにまわって行った。

「お父さま、わたし頭をもむのがうまいのよ、すこし揉みましょう」

 泰造の頭は、左右の角を円く充実してよく発達していた。脳天のところが、よくみのった実の丈夫な殼のようにしまって低くなっている。泰造のその頭は、マッサージしている伸子の指さきに今夜はのぼせをつたえ、伸子が子供のときからかぎ馴れているオー・ド・キニーヌの匂いがする。あったかくて、重くて大きい父の頭にさわるのは、何と久しぶりだろう。伸子は、麻のハンカチーフごしに、父のはげた頭へ自分の頬をふれた。

「お父様も、御苦労さま」

「うちの連中にも困ったもんだ。みんながてんでに勝手なことばかり云っている」

 父のうしろに立っていて、その頭をマッサージしていることは、伸子を口のききやすい位置においた。泰造にしても同じ工合らしかった。

「和一郎にも困る」

 それは体裁をつくろったところのない云いかたであった。

「──ねえ、お父様、わたしには分らないことがあるのよ。和一郎さんが、うんと不平なの、御存じ? どうして、ああなんでしょう。あんなのに、つれていらっしゃらなくたってよかったのじゃないのかしら。──二人ぎりでいらしって──」

「そこだよ、おれの気持が誰一人わかっていないんだ。多計代はいよいよ決心して、どうしても死ぬまでに一度外国を見ておきたいというし、医者は健康を保障できないというし、おれも考えた。多計代にすれば保を失ったことは、将来の希望を奪われたと同じなんだから、おれもこの際、思いきって多計代の最後の希望を実現してやろうときめたわけだ。何しろ医者がそういうんだから、出かけるについては、万一のときの覚悟がいる。何事かあるとき、多計代は子供たちの顔を見たがるにきまっている。そのとき悔んでも意味をなさないから、こんどは、あらゆる犠牲をしのんで、みんな連れて来たんだ」

 つや子までがこんどの一行に加えられ、しかもつや子自身のためにはプランらしいものの立てられていないわけも、それで伸子に得心がいった。

「さもなければ、こんどのような旅行は、計画そのものからして無謀さ。しかし、こういうことは二度とあるわけのものでもなし、おれとしてベストをつくすことにしたわけだ」

 母の体の調子がわるくて、上陸することのできなかったナポリの港で、停泊している船のデッキから夜のナポリの街の美しい灯のきらめきを眺めながら、父が涙をこぼしていた、という小枝の話は、それをきいたとき、伸子の心をかきみだした。そのような父の感傷の動機も、今夜の話で、思いやられるところがあった。父はこんどの旅行で、どんなに多計代を主にして行動する決心でいるか、そのためにどれほど自分の自由をためているか。それにくらべればよそよそしさのある心でいる自分を伸子はすまなく感じた。

 でも、それほどの泰造の心づくしは、それなり多計代にそっくり通じているのだろうか。和一郎が、納得していないというのだろうか。泰造の頭をマッサージしている伸子の手先が思わずとまった。

「お父様、そのお気持を和一郎さんたちに、ちゃんとお話になったことがあるの?」

 泰造は咳ばらいした。

「──和一郎にだって、十分わかっているはずだ」

 しかし、それは確信のない答えかただった。

 伸子は、またマッサージをつづけた。夜更けの沈黙が、やや古風な家具調度の明るく照らし出されたアパルトマンの客室にみちた。その沈黙をつたわって、ペレール広場で路面の停車場へ出る地下電車メトロの轟音が遠くから響いて来る。

「お父様、こんどの旅行について、いくらか陶器を手離しになった?」

「ああ、かなり売ったよ」

「どれを?」

「『せきれい』と『牡丹』が主なものだ。──あとはお前知るまい」

 どっちも十客揃いの中皿と大皿で、その図がらから『せきれい』『牡丹』とよばれている鍋島の逸品であった。泰造の蒐集のなかでは、参考品としての価値以上に好事家こうずかの間に評価されていた品々だった。

「あんなものも、いずれ保の役にでも立つだろうと思って持っていたようなもんなんだから、まあ、いいさ」

 そういう父の頭をだまってマッサージしながら、伸子は涙ぐんだ。年とって保に死なれた親たち夫婦のこころもちには、まだ人生の前方ばかりを見はっている伸子や、生活を保証された長男の若夫婦である和一郎たちに、うかがいしれない微妙な動機がこもっている。嘱望していた次男の保のためにと心がけていたものを、おそらくは多計代が主唱して、自分たち夫婦で使ってしまうことにしたのだ。

 伸子は、モスクヷで手紙をうけとったときから腑に落ちなかった佐々の家族の旅行の本質を、はじめてつかむことができるように感じた。多計代が、保の分骨を錦につつんで、まるでそこに一人の人が存在しているようにつれて歩き、ホテルの室でもアパルトマンでも特別な置場所を与えていることも、親たち夫婦のこんどの旅行についてのある心持の表現かもしれなかった──保にもパリやロンドンを見せてやっているのだという。──

 年をとってから秘蔵の次男に自殺されるというような深い落胆を経験した夫婦の、親として哀切な思いに、幾晩か語りあかして出て来た旅であろうのに、その一行が親も子もてんでんばらばらな性格の向きのまま、それだけは家族に共通な互の強情さでもって、揉めながら日をすごしているのも、佐々の家らしい現実であった。哀傷は、多計代のこころを苦しめ、乾きあがらせ、病的に過敏にしているけれども、それをしっとりと和らげ無慾とする作用となってはいない。どうせ、やがてみんなあのひとのものになるのに、と和一郎の金の話にふれて云ったとき、多計代の声には一つの響があった。

 伸子は、そろそろ父の頭のマッサージを終りかけた。

「結局和一郎さんたちはどういうことになるの? 一緒につれておかえりになるつもり?」

「あの連中は、暫くのこして見ようと思う。幸、多計代の健康が思ったよりいいからね」

「ここへ?」

「おれの考えではイギリスの方がいいと思う。──伸子はどうする」

「わたし?」

 思いもかけない自然さで質問が大飛躍したのに伸子はあわて、上気した。伸子は一所懸命なひと息の云いかたで答えた。

「わたしは、お父様たちがこっちにいらっしゃる間はこっちにいて、モスクヷへ帰ります」

 これは、ふた月まえにモスクヷを出て来るときから、この質問がおこったときのただ一つの答えとして、伸子の心にかたくしまわれていた言葉だった。

 泰造は、かたずをのんだような伸子の語調に格別注意をはらわず、

「やっぱりモスクヷがいいかい?」

 あっさり、自分の知らない土地についての意見をきくように訊ねた。

「それは、ちがうわ。こっちへ来てみると、モスクヷがどんなに新しい社会かということが一つ一つ身にしみてわかります──女の生活なんか、社会にもっている保証の程度がまるで違うんですもの」

 泰造は、しばらくだまっていたが、

「それもよかろう」

と云った。

「徹底するまでいて見るのもよかろう」

 伸子は非常にびっくりした。泰造は、自分の云うことが、どういうことを意味するかを知らずに云っている。モスクヷで、その社会主義の社会生活に徹底すると云えば、階級的な自身の立場を決定するということでしかない。もちろん、泰造自身は、気のすむまでというほどの意味で云っているのだった。そうとわかってきいていながら、モスクヷの生活について徹底するまでという泰造の何気ない言葉から、伸子は衝撃を感じる自分としてのこころのそよぎをもっている。自身で云ったひとことが、パリの、この夏の夜更けの露台のそばでモスクヷから来ている娘の、どんな思いに通じたかと知ったら、こんどは泰造が強い衝撃をうけずにいないだろう。伸子のおどろきは、自分の心の内外を感じ合わせて、深いのだった。


 伸子と素子とが、ペレール四七番地のアパルトマンを出て、同じブルヴァールの並木はずれに洒落しゃれた軒ランプを出している小さなホテルに部屋をとったのは、かれこれ午前一時だった。

 もうすっかり灯の消されている狭い入口の廊下から、主婦に導かれて爪先さぐりに三階へのぼったその部屋は、あしたの朝になってみなければ、二つの窓が往来のどっちを向いて開いているのか、方角もわからないようにとりこめた部屋だった。二つの寝台の間の壁の上に、古風なビイドロ・ガラスの笠の電燈が灯っていた。一つのドアの奥は、この幾週間もつかわれずにあるらしい浴室だった。洗面台の水が細く出るだけだった。

 いくら眼を大きくしても、鈍い光の下に重い茶色の雰囲気のどぎつくないようなその室内で、伸子は部屋着に着換えた。シーツだけが白くきわだった寝台に腰かけて伸子は今夜のあらましを素子につたえた。

「なるほどねえ。ぶこちゃんも、大分ふかいところをのぞいたっていうわけだな」

 ペレールの親の家を出て来て、親子の間にとりかわされた会話について話していると、伸子にはひとしお強烈な刹那の色どりをもって、夕焼雲のてりはえるようだった母と越智との感情交渉のところを思いかえした。あの、伸子の若いすこやかな理性をめまいさせそうだった多計代の女としてのゆらぎかた。──あのころ、多計代は母という自分の立場にさえ反撥しているようだった。いまの多計代にのこっているものは、そのおきであり灰だとして、その燠と灰とは、様々の涙にしめらされて、何ときつい刺戟する匂いを立ちのぼらしているだろう。

「でも、よかったじゃないか。お父さんがそんなにあっさり、ぶこちゃんがモスクヷへかえることを承知して下すって──」

「そうなの。ほんとに思いがけなかった」

「きみとお父さんとの間が、ごく自然に行っている証拠さ。なかなかそう、すらっと通じ合うものじゃない」

 素子は自分の生家のこみいった父との関係を思いめぐらす風だった。

「きみのお父さんはめずらしく寛大なひとだ」

 素子のその言葉は、伸子をまた新しく自分の心のうちへひきかえさせた。伸子は、素子には云っていないのだったから──泰造が、徹底するまでモスクヷにいてみるのもよかろうと云ったことが、自分の心にどのような衝撃を与えたか、ということについては。──そのような自分を、伸子は素子の前に全部うちひらいて見せてはいないのだった。



 佐々の親たちと和一郎との感情をもつらせた旅費の問題は、その後、どんな風にけりがついたのか。あとのいきさつは、伸子に一向わからなかった。ペレールの家へ伸子はあいかわらず日に一度、二日に一度と顔を出していたが、多計代はもうそのことにはふれなかった。和一郎もだまった。その様子で、伸子は、両親と和一郎との間には、もう伸子を必要としない協定がなりたったことを知ったのだった。そして、八月にはいると間もなく、佐々泰造、多計代、つや子の一行がロンドンへ行った。留守になったペレールのアパルトマンへは、ホテルを引きあげて和一郎夫婦がはいった。

 パリの日本郵船支店から貨物船の便宜があって、不用になった佐々の荷物の一部を、ロンドンへ立つ前に東京の家へ向けて発送しておくということになった。

 大きい木箱だの、金ものづくりの大トランクだのが、アパルトマンの狭いなか廊下へもち出された。これから先の旅行のために残しておかなければならない衣類と、もういらない分とをよりわけて、うずたかくつみあげたベッドのはじへ腰をかけて、多計代はトランクのまわりで働いている伸子、素子、運搬がかりのつや子を監督した。多計代がくたびれてベッドによこになっても、そこからみんなのしていることは見える廊下の位置に、トランクはひっぱり出されているのだった。

「こっちじゃ、こんなにとりこんでいるっていうときに、小枝さんにも困ったもんだ。どうしてああ病気ばっかりするんだろう」

 つや子がトランクのところへ運んでゆくひとやまずつの衣類に、最後の検分の目を向けながら、多計代は非難をこめてひとりごとした。

「いまごろ風邪ひきだなんて──」

 その日は、熱が出ているからと、小枝は姿を見せなかった。和一郎が来て、トランクを多計代の云いつける位置に出しておいて、すぐ帰って行った。

 伸子、素子、つや子の三人は、二日間、口かず少なく能率的に働いた。伸子は、いつか父に買ってもらった柿右衛門もじりの白粉壺をよく包んで、トランクの片隅に入れた。

 その大荷物が二個運び出された翌日、廊下のカーペットが何となしごみっぽくなっているなかを、親たちとつや子三人はロンドンへ立った。早朝の出発で、北停車場へ送りに来たのは伸子たちのほかに和一郎だけだった。

 留守になって二日目に、伸子と素子とはペレールの和一郎たちから晩餐によばれた。いくらか頬にやつれが目立って、それがかえって若妻らしいおとなびた美しさを添えた小枝は、親たちの留守に入っているという自分たちの立場からひかえめなものごしを失うまいとしているけれども、パリへ来てはじめて夫婦ぎりのアパルトマン暮しの楽しさは、つつみきれないそぶりだった。

「お姉さまを、ぜひ一度およびしなくちゃって云っていたのよ、ほんとにいろいろ御心配かけちまったんですもの」

「姉さんたちも、もう一週間ぐらいで行っちまうとすると、あんまり日がないから、いっそ早い方がいいかと思って」

 和一郎夫婦は、半年ばかりロンドンに滞在することに決定して、先発した親たちが適当と思う下宿を見つけ次第、知らせをうけて出発することになっていた。伸子が、親たちと一緒に立たず、わずか一週間でも自分たちだけおくらしたのは、伸子のこころもちの切実な要求からだった。親たちがパリへ来てから、ペレールの家へ日参するようになってから、伸子の時間と精力とは、東京の家からそのままパリまでもちこされてついて来ている佐々一家の、家庭的ないざこざの中で費された。多計代の性格がかわらず、和一郎が和一郎であるかぎり、そして、おそらくは伸子も伸子であるかぎりは、循環小数のように、あるいは無為な人々にとってのスポーツででもあるかのように、いくらでも繰返される深刻そうで他愛のないごたつきに、伸子はあき疲れた。ペレールのアパルトマンのそとの世界には重大な事件があとからあとからとおこっていた。東支鉄道問題は、ソヴェト同盟にかみつく機会をうかがっている帝国主義の国々のあと押しで、蒋介石政府はわざと交渉会談を停頓させている。ソヴェト同盟の極東派遣軍のいるところでは、国境の村、町、都市のいたるところで、土地の住民による新しい中国の人たちのソヴェトが生れているらしかった。辺鄙地方の中国人民に、極東派遣軍の進駐は殺戮をもたらすものではなくて、はじめてその人々に人間らしい暮しのしかたを教えている。

 ことは、どうなりゆくだろう。ボンベイやカルカッタでは、はだかではだしのインドの民衆が、幾千、幾万と行進し、地方から地方へと動いて民族独立運動を再燃させている。ランカシアの紡績労働者の大罷業は、ただ産業合理化に対する繊維労働者の生活擁護というばかりでなく、世界資本主義の新しい段階、一層明瞭になった労働者階級への攻勢、ファシズムの危険とのたたかいとして、「リュマニテ」はフランス労働者の注意によびかけているのだった。

 片眼鏡モノクルをかけたチャンベルレーンとロシア流によばれていたチャンバーレンの似顔は、ソヴェト同盟の諷刺画を通じて伸子に見なれたものだった。チャンベルレーンの保守党内閣は、六月に労働党のマクドナルド内閣にかわった。「髭のマック」に、どれだけのことができるのだろう。日本でも張作霖を爆死させた田中義一の内閣が浜口雄幸の内閣にかわった。しかし、それで日本の支配階級が中国やソヴェト同盟に対してもっている野望の本質がかわったことになるのでないことは、伸子にさえもわかっていることだった。伸子は、こういうあれこれについてもっとよく、しっかりと知りたい情熱を感じ、ますますフランス語のわからない歯がゆさに苦しみながら、親たちをまずロンドンへ立たせた。

 ロンドンについても、伸子が心にもっている地図は、泰造の、昔なつかしいロンドン案内とはちがっていた。伸子のロンドン地図では一八五〇年代のある陰気な雨の日に、一つの情景が描き出されていた。それは、大英博物館から遠くないとある街の歩道の上の光景だった。歩道へは、一軒の家の家主から追い立てをくって、放り出された家財がつまれ、そのわきに赤坊を抱いた気品のある細君と三人の子供と忠実そうな年とった召使いが、途方にくれた様子でたたずんでいる。この家族には、行く先がないのだ。しかし、かけのたまっていた薬屋、パン屋、肉屋、牛乳屋は、家主からこの家族が追い立てをくったと知るが早いか、集って来て、借金のかたに子供寝台まで差押えている。こうして二百人もの弥次馬に囲まれていたのは、イエニー・マルクス夫人とその子供たちだった。伸子のロンドンには、このほかに一九〇三年に描かれた一枚の小さい地図もやきつけになっている。地図をかいた男は、やがてレーニンという名で知られるようになったロシアの亡命革命家ウリヤーノフである。モスクヷの革命博物館のレーニンに関する特別陳列室の壁に飾られているその小さい地図を、伸子は、どんなにしげしげと眺めたろう。親切に、注意ぶかくかかれているこの一葉の地図を目あてにロシアから秘密に国境を越えてロンドンへ集って来た人々による社会労働民主党の第二回大会で、プレハーノフ、マルトフたちのメンシェヴィキ(少数派)とレーニンを指導者とするボルシェヴィキ(多数派)にわかれた。きょう、ロンドンのコヴェント・ガーデンがロンドン最大の青果市場であるというだけでなく、そこに「労働者の生活」の発行所があり、イギリス共産党があるということを伸子が知っているのは、伸子としての自然であった。モスクヷから出発して来て、ワルシャワの陰惨なメーデーに遭い、「ヨーロッパ方式」での民主都市とめずらしがられているウィーンの模型じみた舞台をとおって、ベルリンで伸子が消えない印象を与えられたのは、カール・リープクネヒト館前の広場のいくところにも、白い輪じるしを記念にのこしている労働者殺戮のあとであった。日本から毒ガス研究のために派遣されている津山進治郎の思想の上にてりかえしている、ドイツの再武装、ファシズムの進行はあからさまだった。このパリからロンドンへ向おうとする伸子の心には、音楽でいうクレッシェンドのように次第に強くなりまさりつつある探究の情熱があった。伸子は、ロンドンをしっかりつかみたいと思った。そのためにはもう一歩深くこのパリの生活を、と──

 半月ばかり前、伸子と素子とは日本で面識のあった蜂谷良作に思いがけずパリで出会った。蜂谷良作は経済が専門であった。伸子とすればロンドン行きをのばしたこの一週間のうちに、蜂谷にならきけるだろうと思われることを、あれもこれもと持っていたのだった。コンミューンの歴史をもっているのに、なぜフランスの共産党は、現在の程度の存在でしかないのだろうか。絶えず問題となっている統一労働総同盟シー・ジー・ティ・ユー労働総同盟シー・ジー・ティとの関係はどういうことなのだろう。パリの労働者が労働者地区でだけ示威行進をしているというのも伸子にはわけがわからないことだった。それやこれやをみんな自分にわからせて、それからロンドンへ、と伸子は爪先に力のこもった状態だった。

 素子の方は、大学の新学期がはじまるまえに、モスクヷへ帰ろうと考えはじめている。ロンドンへ行って見たって同じことだ、と伸子を家族の間にのこして、自分だけモスクヷへ引かえそうとしている。いつまで、佐々の家族旅行にまきこまれるような形でいたって、というのが素子の心もちだった。伸子は自分の事情が、素子をそういう気分にさせていることに責任のようなものを感じ、ロンドンの街だけでも素子が見ておいた方がいいと主張するのだった。

「わたしは、あなたの姉さんみたいに、どこにいても何かが仕事の役に立つ、というようないい身分じゃないんでね。もう、こっちにだって、いすぎたぐらいのもんですよ」

 素子は、食後のタバコをくゆらしながら和一郎に云った。

「もう、ぐずぐずしちゃいられない」

「どうして? まだ八月にはいったばかりよ」

 モスクヷ大学の新学期は九月中旬から開かれるのだった。

「だからさ、ロンドンへは飛行機で行きましょうよ。いいでしょう? そしたら、まだるっこくないでしょう? そして、ざっと市街見物して、三日で立って来ればいいじゃないの」

 そういう伸子の手をつかまえるような表情で、小枝が、

「飛行機なんて──何だかこわいようだわ、大丈夫なのかしら?」

と云った。

「このごろ、海峡チャネルでおっこちたって話はちっともきかないじゃないの」

「それより、姉さん、船に弱いんじゃなかったかな」

「弱いわ」

「吉見さんはいかがです」

「さあ、わかりませんね。しかし、昔大島通いの船じゃ散々でしたね」

「それじゃ二人とも、あやしいんじゃないですか。やっぱり相当酔うものらしいですよ」

「そこがいいところなのよ。吉見さん、ロンドンへ三日しかいないなんてがんばっているんだもの、あとで何がおもい出せるもんですか。だからね、たしかにドーバアを越えたっていうことを一生忘れないためには飛行機で行っておいた方がいいのよ」

「それにしても、いまごろは、おやじさん、さぞ感慨無量で二十年ぶりのロンドンを歩いているんだろうなあ」

 そういう和一郎の顔つきには、自分たちもパリで解放された朝夕をたのしみ味っている満足と寛容さがあった。

「お父様の御様子、目に見えるようだわねえ」

 伸子は、小枝の実感のこもった云いかたに笑えた。

「小枝ちゃんのおとうさまっていうのは、いつでもワグラムの通りをあっちから歩いて来るんじゃない?」

 朝っぱらからワグラムのカフェーにいるところを、思いがけなく通りかかった泰造に発見されて、若夫婦の信用が徹底的に失墜した小事件があった。和一郎がとうとう自分たちの旅費は自分たちの自由にさせてもらおう、と親たちにつめよって行くようになった。彼のそんな感情の鬱積やけわしさも、いまのような気まかせなパリのアパルトマン暮しの中でおだやかに溶け去っているように見える。両親の留守をペレールで暮しはじめた和一郎の主人ぶりがあんまりなごやかであるだけ、伸子は姉として、その正反対の極にうつった場合の和一郎のむずかしさを思い比べずにいられないのだった。

 しかし小枝は、今夜は今夜の和一郎のいい機嫌をそれなり幸福として、ほの明るみに輝やいている若妻だった。

「お母様もロンドンなら、御自分のおつき合いもおありになるから、ほんとにいいわ」

 しかし、ロンドンのホテルで多計代の帯をしめてやっているのは泰造だろうか。それともつや子だろうか。小枝はその連想へまで自分をひきこむ気持のない明るさ、はなやかさで、

「お母様の英語って、しっかりしていらっしゃるのね。びっくりしたわ、船で話していらっしゃるのを伺って……」

「そりゃ、あの時代は、津田梅子先生じきじきのおしこみだったんだもの──私の主人マイ・マスターさえ出なけりゃ、お母様の英語も、大丈夫よ」

「あら、その話、わたしまだ知らないわ。ねえ、お兄様」

 家族のなかにはいって暮すようになってからまだ程もないひとらしく小枝が和一郎をかえりみた。

「小枝ちゃんだって案外気がつかないで云っているんじゃないの、和一郎さんのことを、宅だの主人だのって。──いつだったかニューヨークから建築家のブランドンさんが不意に、お父様のお留守に訪ねて来たことがあったのよ。そのとき、お母様が玄関へお出になったのはよかったけれど、私の主人は不在ですマイ・マスター・イズ・ナット・アット・ホームっておっしゃったの。まさか宅を直訳してハウス(家)とは云えないってことをとっさに判断なすったのは大したものよ」

「なるほどねえ。──ありそうなこった!」

 特徴のある喉声をたてて素子もふきだした。笑い声のなかから、小枝が、

「わたしだって、あやしいもんだわ」

 思いもうけなかったところで、多計代とあんまりちがいそうもない自分を見つけ出したことにおどろいた眼だった。

「じゃ、小枝なら何て云ったと思う?」

「何ていうかしら……ともかく、ちょっと考えたろうとは思うわ。ミスタ・佐々というにしろ──」

 飾ったところのない云いかたをした。

「だって、考えてみれば、わたしたちが女学校でならった英語には、ファーザーとか良人ハズバンドとか云う言葉はたしかにあったけれど、その父や良人を自分からはなして、三人称?──ミスタ誰それ、っていう場合は、はっきり習わなかったみたいだわ」

「そこに、日本のいわゆる『家庭』ってものの、急所があるんですよ」

 素子が、瞳のなかに鋭い光を浮べた。

「女は何よりさきにおれの女房マイ・ワイフだし、わたしの母さんマイ・マザーなのさ。ミセス誰それっていう、独立の存在がありますか」

 うすく顔をあからめて、素子は半ば冗談に半ば辛辣に云った。

「日本じゃ、ミセスどころか、そもそもミスが人格をみとめられちゃいないんだから……。もっともミスもわたしぐらいになると、上にオールドがついて、幾分ちがいますがね」

「やあ……どうも、手きびしいですね。しかしね、吉見さん、僕は弁解じゃありませんが、ミス、ミセスにかかわらず敬意を表す方のたちなんです」

「──お兄様って──そうね」

 ちょっと伏目になって何気なく云う小枝の瞼と口元にあらわれた微妙なかげが、伸子の目をとらえた。素子もそれに気がついた。

「しかしまあ小枝さんは当分安心していいでしょう、和一郎さんが離れまいからね。ここじゃ留守にフランス人のお客に来られるっていう心配もないだろう」

 和一郎は、機嫌のいいときの彼一流の、さざなみがひろがってゆくような軟かい微笑を顔の上に浮べて、素子の言葉にゆっくり、

「まあ、そうですね」

とあいづちをうった。

 その表情を眺めていて伸子は、近ごろの和一郎というものがわかったように感じた。和一郎は両親から解放されているばかりでない。どっちかと云えばかたくるしい弟であった保から、何かにつけてうけていた圧迫からも自由になったのだと。そして、彼らしい緻密さで、彼にとってはゆるやかにすぎてゆく生のたのしみを味っているのだ、と。その晩、和一郎の口からは一度も彼の専門にふれた話や社会的な事件にふれた話は出なかった。



 伸子と素子とがベルリンで観そこなったピスカトールと有名な悲劇女優であるその妻の劇団がパリへ来た。そして、労働者地区に近いアヴェニュー・ジャン・ジョレスの小さな劇場でふたをあけた。

 ピスカトールはドイツにプロレタリア演劇運動をおこした演出家であり、民衆劇場が進歩性を失いはじめてからは自分の劇場をもって、ドイツの青年民衆演劇運動に働いている。このピスカトールの芝居の第一幕があがったとき、観客席の伸子は思いがけない親しみと同時におどろきを感じた。というのは、そこがまるでモスクヷででもあるかのように、先ず中央にかけられている大きなレーニンの像が目にはいったからだった。その右に竪琴と橄欖かんらんの葉で飾られたI・S・Rという三つの赤い頭文字があり、左に、C・G・T・Uと四つの頭文字が同じ竪琴とローレルに飾られてある。その下に人形芝居ギニョールの舞台ぐらいの大きさの舞台ができていて、上手にテラスと半分観客からかくれてその入口の階段が見える。そこの白い壁の上に、折々往来の人どおりを思わせる人の脚の影だの物かげが動いて、ごくあっさり普通のなりをした俳優は、楽に、小舞台からはみ出て、その下のテーブルのところで小鏡を片手にもって髭を剃ったり、女が縫いものをしたりする。背景は海だった。ただ白い布に、赤と、あおの照明のかげが落ちて、たくみに揺れる海の水の重く光る感覚が表現されるのだった。ハンブルグの港湾労働者のストライキからとられたエピソードで、港町の労働者夫婦の生活の物語だった。洗煉されて新鮮な舞台装置とリアリスティックな登場人物とはうまく調和していて、そのような舞台の雰囲気は、レーニンの像やC・G・T・Uという大きな四つの頭文字などを労働者階級のたたかいの旗じるしとしてよりも、むしろ斬新な意匠としての効果にまとめているのだった。

 伸子は、自分と素子との間にかけている蜂谷良作に、

「I・S・Rって、何の意味なんでしょう」

ときいた。

「僕もさっきっから何だろうと思って見ているんです。Iはインターナシォナールでしょう。──赤色労働組合インターナシォナールという意味だろうかとも思うんだが──国際社会主義革命ってわけじゃないのかな」

「それじゃ、Sの意味がわからないじゃありませんか」

 すこし茶っぽくて柔かい髪をおとなしく左わけにして、大柄な体を地味な服につつんでいる蜂谷良作は、素子にそう云われてこまったような顔をしてだまった。満鉄関係の調査機関から派遣のような、留学のような形でパリへ来ている蜂谷は、伸子と素子が日本であったころには、ある大学の経済学教授だった。かたわら、満州と中国の経済事情の研究をしていた。伸子と素子とが彼と知り合いになったのは、中国旅行から帰って来た蜂谷良作を中心にした、小規模の報告座談会のような席でだった。伸子や素子を能見物に招いたりする楢崎佐保子が、その夜も二人を誘ったのだった。

 そのとき、中国共産党の革命の見とおしについて、いろんな角度から質問された。蜂谷良作は、うつむいて一つ一つ質問を注意ぶかくきいて、それに答えたが、中共の革命が成就するまでには、今日の中国の生産条件から見て必ず通らなければならないもう一つ手前の革命的段階がある、というのが彼の根本前提であった。社会主義は、原則として、発達した資本主義の矛盾の中から生れるものである。そうだとすると、中国のアジア的生産は、近代資本主義から数百年もおくれたままの状態であるから、社会主義革命の前に、まずブルジョア革命が行われて、中国の歴史に近代資本主義生産の条件が熟さなければならない。その意味で、自分としては蒋介石政権の役割を、一部の人の批評するように、単なる反動として断定してしまうことには疑問をもっている。蜂谷の、中共革命についての考えかたは、そういうものだった。蜂谷良作の意見をもう一つつきつめてはっきり云えば、中共の運動は要するに中国の大衆の生活に根をおろしていない一部のウルトラどものまきおこしている騒動にすぎない、ということになるのだろうか。二月の上海のジェネストや臨時革命委員会の成立はコミンタン(国際共産党)の革命あそびにすぎないというのだろうか。そう質問したひとがあった。

 そのとき、蜂谷良作の、ぼってりして子供っぽいようなところのある顔の上に、濃い動揺の色があらわれた。蜂谷良作はしばらく伏目になってテーブルの上にある鉛筆をいじっていたが、やがて頭をもたげて、中国には特別な事情があることも認めなければならない、と答えた。近代に入ってから列強の半植民地になっている中国としては、民族自立の要求が強烈なのは当然であって、中共の運動はその点で、独特な足場をもっているとも云える、と。

 たまに無産者新聞を見ることがあるぐらいだったそのころの伸子には、蜂谷良作の理論について判断ができなかった。彼の教授らしい質問への答えかたと、そこに感じとられた性格的なものが印象づよかった。蜂谷は、自身としてそのどちらにも加担しないまま、蒋介石も中共も、それぞれのものとして認めようとする態度でいる。蜂谷良作の表情を見ると、そのどっちつかずの曖昧さも、用心ぶかさや狡猾さから出ているというよりも、彼として、ほんとにそうとしか考えられないありのままを、云っていることが感じられたのだった。

 それから足かけ三年がたった。きょうパリでピスカトールの舞台を見ながら伸子にその意味をきかれ、はっきり答えられなくて素子につっこまれた蜂谷良作の困ったような顔つきは、パリでの一年半の生活が、蜂谷良作をより器用な人物に変化させていないことを告げた。教授という肩書のない現在の蜂谷は、かえって元より精神の柔かい部分──未完成なところをむき出しているようでもある。それが、伸子にも素子にも、蜂谷の気やすさとして、感じられているのだった。

 十一時半ごろ芝居がはねた。三人は、うすら淋しい場末の夜の、アヴェニュー・ジャン・ジョレスから賑やかなサン・ミシェルの大通りまで戻って来て、とあるカフェーのテラスで休んだ。

 ベルリンで見た「三文オペラ」の舞台と比較して、素子がしきりにピスカトールの芝居の批評をした。

「構成派の芝居みたいに、いやにどぎつかったり、しゃっちこばってすごんだりしていないのはいいけれど、あれじゃあ、気がききすぎている。理性的な、鮮明な舞台をねらっているのはわかりますがね、──あれじゃインテリくさいや」

 黒びろうどの大垂幕を二枚背景としてつかって、その前に工事場の足場を意味する大きい半円形の螺旋らせんの段々がこしらえてある。一段一段とそこをのぼってゆきながら、良人を殺された労働者の妻のアンネットが悲しみと憤りに燃えて仲間の港湾労働者たちに叫びかける大詰の場面は、ピスカトールの妻である女優の大きい身ぶりの線があんまり洗煉されて鋭くて、伸子は、ペイラシェーズのコンミューン戦士の墓についている女の浮彫像を思い出したほどだった。

「パリの観客ということを考えて、ああいう味をつよく出しているのかしら──象徴的シムボリックだったわね。プロレタリア・シムボリズムってあるものかしら」

「そんなもの、あるもんか」

 すぐ素子が否定した。

「シムボリズムは、土台労働者階級のものじゃないでしょう。だから、インテリくさいって、いうのさ」

「でも革命の情熱が、赤旗にシンボライズされていて不自然じゃないわよ。ソヴェト同盟の『鎌と槌』だっても──」

 芸術的なところがあるという性格でない蜂谷はだまって二人の女の話をきいていた。外国生活の多面さとして、映画や芝居もときどきは観ているというわけらしかった。

 伸子と素子とがもう二三日でロンドンへ立つところだという話から、蜂谷は、そのカフェーのコバルトと黄色に塗られた椅子の上で厚い胸を張るようにして、

「僕もそろそろどっかへ動き出したくもあるなあ」

と云った。

「じゃ、ソヴェトへいらっしゃい!」

 伸子は、こだまするように云って、あながち出まかせばかりではない眼色で蜂谷を見た。

「わたし、思うとおりを云ってもいいかしら」

「ああ、もちろんさ。──何です?」

「わたしは、ベルリンでお医者の会に出たときそう思ったし、あなたに会ってからも思うんだけれど──どうして、みなさん、ソヴェトへ行こうとしないんでしょう。経済をやるあなたがいつまでもフランスにばかりいるなんて、わからない。中国へ行って来ている人なら、なおのこと、ソヴェトへは行って見たいだろうと思うのに──」

 それについて知らないものの大胆さで、伸子は、

「フランスに、本気で研究するような新しい問題があるのかしら」

とつぶやいた。

 素子の顔に、面白そうな皮肉な輝きがうかんだ。

「そりゃ蜂谷さんたちは学者なんだから、うっかりソヴェト同盟へなんか行けないさ」

 学者というところに、あるアクセントをつけて素子は云った。

「──お勤め先の関係で?」

「そんなことじゃないさ──ねえ、そうでしょう?」

 正体をかくしたまま、鋭いものをふくんで迫る素子の語調を、蜂谷は少し不愉快そうにかわした。

「行けないと、きまったもんでもないさ」

「そりゃそうでしょうがね──蜂谷さんは今でも、中共も意味があり、蒋介石にも役割があるっていう論法ですか」

 そういう風に質問が展開したのは伸子に思いがけなかった。同様に蜂谷としても予想しなかったらしく、

「──いやによくおぼえているんだな」

 てれたようだった。

「少し失礼な云いかたかもしれないが、あなたがた学者とか教授とかいう人たちは、思ったより、ほんとの知識欲ってものはうすいもんなんですね。外国へ来て見て、留学中と称する諸先生にあって、しみじみそう思うなあ。みんな、これまでの自分のもちものに、ちょいと何か無難な新知識をつけ足すだけで、本当に人生観が新しくなるとか、これまでの考えかたをすっかり変えなけりゃならないかもしれないような冒険は、こっそりさけている。みんなのソヴェトに対する態度でよくわかる──要するに影響されるのが、こわいんですね」

 蜂谷は、つっこんでゆく素子の言葉を、だまって終りまできいている。そして素子が云い終ると、それが彼の癖の、伏目になってきいていた眼をあげて、ゆっくり考えを辿るように、

「吉見君のいう心理もたしかに、どっかにはあるだろうな」

 浅黒い皮膚の下に、微かな赧らみがのぼった。

「しかし、少くとも僕はそれだけじゃないんだ。──どうもひとことに説明しにくいが──。これは、一つの例だがね、コミンテルンの第六回大会の決議では、国際情勢の特徴を帝国主義戦争とファシズムの危険においている。僕もそれは正しいと思う。ところがね、ここの共産党だのマルクシストって連中は、かんじんのフランス自体の帝国主義の実状やファシズムの実力については、案外呑気のんきなんだな。僕は、去年からかなりいろんな人と話して見ているが、概してそうなんだ。フランス人のもっている自由の伝統はドイツとはちがう。イタリー人ともちがう。はっきりそう云うんだ。一種の誇りがあるんだな。そのために、かえって、ここの共産党は社会民主主義者と自分たちの区別をはっきりしないし、右翼的になったりウルトラじみたりして、去年のフランス問題では『リュマニテ』も批判をうけたでしょう。僕に忌憚きたんなく云わせれば、吉見君の云った中国革命の進行についての見かただってもね、中共の側にだけたって支持することは、むしろ、我々のようなものにはやさしいと思う。──そうじゃないのかな──どっちみち、我々の時代は、資本主義社会を批判しないじゃいられなくなっているんだから。いつだって、どこの国においてだって、共産主義の理論は明晰さ。現実の理性に立って云っているんだから明瞭なわけだ。むずかしいしそれだけ興味がふかいのは、その明晰な理性が、乱麻らんまのような帝国主義の日々の目前の利害と延命のための権謀術数の間をぬって、どう運転され、たたかわれ、勝利を占めてゆくかという、現実のいきさつだと思うんだ。これに異議はないだろうと思うんだが……。さし当り、僕はフランス帝国主義のはらわたにもぐりこんで、見ていてやるつもりだ。フランスの金融資本というやつはね、昔からソヴェトにだって中国にだって、見かけよりずっと深い因縁をもっているんだ」

 蜂谷は、ウィーンであった黒川隆三のように、口が達者でデマゴギストかと思うような反ソ目的をもった社会民主主義論者でもないし、ベルリンの津山進治郎のように、現代のコンツェルンを、「わかれてすすみ合してうつモルトケの戦法」と云って毒ガスの研究をしている軍国主義者でもない。死んだ保のように、善いことをするためには絶対に善い方法がとられるべきだ、と、おさなくひよわな精神の力をふりしぼって絶対の正しさを求めた若者でもない。社会主義へという一つの方向へ啓蒙しようとするばかりの論議よりも、より深い複雑なところで蜂谷良作が現実を捉えようとしたがっていることは、伸子を反撥させることではなかった。伸子自身も、ものごとの、しんしんから知りたがる方なのだったから。そうして知ったものこそ、つよいと信じているのだったから。

 話しこんでいた蜂谷良作は、腕時計をのぞいて、

「──こんな時間なんだろうか」

 素子の時計と見くらべた。

「そりゃそうでしょう、芝居がはねたのが何しろ十一時すぎだったんだから」

 サン・ミッシェルの大通りはまだ宵のくちの賑やかさで、カフェーの客も女づれが目立って入れかわり立ちかわりしている。

「よわったな」

 蜂谷は、こまった額に太い横じわを現した。

「クラマールへ行く電車が一時までなんだ」

「どこなんです? そのクラマールって」

「ヴェルサイユ門から四十分ばかりのところなんだけれども──よわったなあ」

 そのよわりかたは、郊外電車にのりそこなうかもしれないことよりも、よそで泊る用意なんか全くしていない蜂谷の財布のなかの問題のように、伸子には思えた。

「ポート・ド・ヴェルサイユなら、わたしたちのところからじきじゃないのかしら。こうしたらどう? タクシーでいそいで行って見ましょうよ。それで、間にあえばいいし、間に合わなければ又そのときのことで、さ」

「そうしよう!」

 三人はカフェーを出るなりタクシーをつかまえた。行くさきをいそいで言葉すくない三人をのせ、タクシーは、明るさとざわめきにみたされているサン・ミッシェルの大通から寂しいリュクサンブール公園の裏通へはいって、ヴォージラールの長い通りをひとすじにヴェルサイユ門まで走った。

 素子がタクシーに支払いをしている間に、蜂谷良作は小走りにかけて、そこの広場に一台とまっていた電車に近づいて行った。

「間にあったんだろうか」

「どうでしょう」

 あとからそっちへゆく伸子と素子とに向って、駄目、駄目と横に手をふって見せながら蜂谷良作はもどって来た。

「出ちゃったんですか」

「いま出ちゃったんだそうです──よわったな」

 ポート・ド・ヴェルサイユからクラマールの住居までの距離がどのくらいあるのか、具体的に知らない伸子と素子とは、駒沢まで帰る玉川電車が出てしまったあとの渋谷で困ったことのある自分たちの心もちに翻訳して、蜂谷の当惑を同情した。

「タクシーで行っちゃ駄目ですか」

「遠すぎてね。パリのタクシーは、市内はやすいが、一歩郊外へ出るとメーターが倍ずつまわるから、とてもやりきれたもんじゃない」

「そんなくらいなら、わたしたちのいるガリックへ来て泊った方がよっぽどやす上りだ。──そうしちゃどうです。どんな部屋だって一晩ぐらい、かまわないんでしょう?」

 三人は、こんどはゆっくりヴォージラールの通りを逆もどりしてホテル・ガリックのドアをはいった。ここでもカフェーの方はまだあいている。帳場で蜂谷が部屋の交渉をはじめた。

「部屋はないんだそうだ」

「部屋がない?」

 そんなはずがあるもんかというおもざしで、素子が番頭を見た。頭のうすく禿げた番頭は、クリーム色のシャツの前に緑色のネクタイをたらして、とがめるように彼を見る素子に向って、両手を左右にひらいて肩をすくめてみせた。

「いくらかほしいんじゃない?」

 伸子がその様子を見て素子にささやいた。

 蜂谷は、帳場にもたれるようにして、

「アロール・ムシュウ」

と、また新しく談判をはじめた。

「うそじゃないらしいなあ、きょうは土曜日だから、っていうんだ」

「あ、そうか! そこまで気がつかなかった」

 土曜日の夜は、いつも、目立たないながら一夜どまりの男女の組が多くて、大きくもないホテルの部屋部屋はふさがるのだった。

 蜂谷は、ぬいでいるソフトを左手にさげて、ハンカチーフで額をふきながら、思案している。伸子も素子も帳場のわきにたたずんだままこまった。もともと、ピスカトールの芝居を観に蜂谷が一緒に行ったのは、伸子たちへのつき合いだった。場末の劇場だし、案内所で扱う切符ではないからと、蜂谷が切符の面倒も見てくれたのだった。

 いよいよ、ほかに思案がつかないなら、ふた部屋もっている女二人がかたまって、素子の室をあけて蜂谷が泊れるようにしたらどうなのだろう。伸子はそう思いながらだまって、素子が何とか発案するのを待った。伸子と素子との生活のなかで、こんやのような場合には一種のデリケートさがあった。伸子が先立って、蜂谷がとまれるようにあっせんしたりすると、それは何となし単純なことでなく素子に映る危険があって、伸子は用心ぶかくなっているのだった。

 やがて、素子が決心したように、

「ぶこちゃん、われわれがかたまって、わたしの方をあけるか」

 やっぱり同じ考えにおちた。

「とんだ迷惑をかけて、すまないなあ」

と云いながら、蜂谷は七階まで二人の女のあとについてのぼった。

「ともかく、ちょいとこっちで休みましょう。それから、あなたの落つき場をちゃんとするから」

 伸子の部屋にはいった。屋根裏部屋には、宵じゅうしめこまれていた夏の夜の暑気がこもっている。伸子は、露台のガラス戸をいっぱいにあけた。そして椅子を露台の上へもち出した。土曜日と日曜日の晩だけは夜どおし灯っているエッフェル塔のイルミネーションが、遠い空の中で今夜もシトロエン・シトロエン・6シリンダー・6・6と休みなくまたたいている。

 蜂谷良作は、露台の欄干に肱をかけ、遠くエッフェル塔をたてに走っては光っている字を眺めた。

「久しぶりだなあ、パリの夜の景色──やっぱり、いいな」

「クラマールって、そんなに淋しいところ?」

「まわりが田舎ですからね。こんな都会の夜の気分は全然ないですよ。その代り歩きまわるにはいいけれども」

 廊下ごしの自分の部屋に行っていた素子が、ねまきや枕や洗面道具などを腕にかかえて、伸子の方へ運んで来た。蜂谷が椅子から立ち上った。

「何か手伝いましょうか」

「いや、もうこれでいいんです」

 素子も露台のところへ出て来て腰をおろした。

「ここからの街の風景は昼間も面白いですよ、ペレールあたりなんかより、ずっと趣がふかい。生活があふれているからね」

「そりゃそうだわ、あっちで見えるのはブルヴァールの並木だけですもの」

 蜂谷良作はペレールへ佐々泰造を訪ねて、アパルトマンも知っていた。彼がパリにいることが伸子と素子にわかったのも、泰造が偶然知人のところでそこに来合わせていた蜂谷良作にあって、話が出たからのことなのだった。

 段々ひえて来る夜ふけの空の下で、蜂谷良作は伸子と素子とに、くもの巣のようにいりくんで互に連関しながらはりめぐらされているフランスの国際金融資本の動きと、それによって養われている十字火団クロア・ド・フウのようなフランスのファシスト団体の話をした。その中核であるパリ・オランダ銀行の総裁のフイナリはアメリカのスタンダード石油のフランス代表であり、ドイツの銀行、電気、化学工業トラストに関係していて、大戦中はドイツから資本の出ているノルウェイ窒素の重役としてドイツへ硫酸ソーダを供給していたので、大戦後はイタリーへ亡命していた。

「それが、いつの間にかかえって来て、総裁になっている。パンルヴェ内閣にモロッコ戦争をやらせたのは、この男だ。ウェイガン将軍だとか、リオーテだとか、フランスの参謀本部はかいらいだからね。イギリスの参謀本部だって、日本の三井だってスイスからニュージーランドの軍需資本家までがフランスのシュネーデルと結びついている。軍縮会議がまとまらないのは当然なわけさ。戦争の危険がほんとになくなられては困る連中が、いたるところで政権をもっているんだから」

 一九二七年に出来た十字火団クロア・ド・フウは、いわば中産階級の組織で、十字火勲章や名誉勲章をもらった第一次大戦当時の退役士官、下士官が中心なのだそうだった。戦争で彼らを犠牲としたという理由で資本家と資本家の共和制に反対し、同時に共産主義に反対している。市民同盟ユニオン・シヴィックは、補助警官、スキャッブとして、政府から重宝がられている。五十人余りがひとかたまりの突撃隊となっていて、パリでも労働者のデモンストレーションがつよくなったりすると、すぐ自動車で千人は動員される。蜂谷良作は、露台の夜目にもわかる深い横じわを額にきざんで、

「何しろ、クロア・ド・フウなんか飛行機を三十台も持っているんだからな。トラック、オートバイ、軽機関銃なんかは、どの位もっているか」

 これには参るという風に頭をふった。

「フランスのファシスト団体は、そういう点では実に整備されているんだな」

 体をかたくするような気持できいていた伸子は、しばらくすると、小さい声をたてて笑いだした。

「蜂谷さんたら──おかしい。フランスのファシズムを非難しながら、感歎しているみたいな云いかたをなさるんだもの」

「同感だね」

 素子が、タバコにむせたようにしながら、しわっがれた声で云った。

「蜂谷さん、ミイラ取りがミイラになるってことがありますよ。そんなの御免だな」

「そういうわけじゃない。僕は、マルクシストたちが、ひとくちに反動だ、ファシストだって片づけるだけで、彼らの必死な実力を知ろうとしないのは間違っていると思うんだ。第一次大戦のあと、ファシズムがおこって来ているには、それだけの必然があるんだから、そこを分析する勇気がなければいくら『自由のフランス』でだって左翼は敗北するね」

「そりゃそうでしょう。しかし大戦後の必然ってことを云えば、ソヴェト同盟が生れた必然、世界に社会主義がたかまって来る必然が一方にある。少くともわたしたちはね、その二つのもののたたかいを、犬のかみ合いを見物しているようには見ていないんです」

「犬のかみ合いは、ひどい」

「だって、ただ、どっちがつよいか、どっちが勝つかなんていうところからだけ見ているなら、結局、闘犬見物みたいなもんですよ。──闘犬にだって、ひいきはあるでしょう、かたせたい側っていうものが……」

 男の友人たちとの間で話が議論めいて来ると、ぐいぐいつっこんでゆくのは、いつも素子だった。伸子は、蜂谷のいうことのうちに感じとられる真実と、そこにまじって現れている彼の傍観的な立場とを、だまって考えあわせるのだった。

「さあ、そろそろ、ひっこみましょうか」

 そう云って自分のかけていた椅子を部屋のなかへもちこむ素子に、つづいて椅子を運びながら蜂谷は、

「それにしても、あなたがたは、かわったもんだなあ」

と云った。素子は、そういう批評が不満足ではないらしく、その感情を、からかうような眼つきの中に示して、

「あなたはどうなんです」

 蜂谷は、それに答えなかった。素子に案内されて、向いの部屋へ去るとき、

「あなたがたが、ロンドンから帰って来たらいっぺん是非サン・ドニへ行って見ましょう」

 二人の女のどちらへともなく云った。

「あすこの市長は去年の選挙でドリオという共産党員になって、七月と十一月の革命記念日にはサン・ドニの市庁オテル・ド・ウィユに赤旗があがりますよ」


 翌朝、伸子と素子とが起きたとき、蜂谷良作は、向いの室で、ちゃんと身仕度をすまして待っていた。朝のコーヒーを三人でのんで、蜂谷は帰って行った。伸子の手帳に彼のクラマールの住所を書きのこして。



第二章




 ロンドンにいた四十日の間に、ヨーロッパの夏が秋の季節にうつって行ったばかりでなく、伸子の身のまわりの事情もあれやこれやと変った。

 八月十三日の朝、アミアンの飛行場から飛びたった真白い旅客機は、二十四人の客をのせて、パリから北へとんで、カレーとドーヴァの間で英仏海峡を越した。海峡の上はひどい霧だった。気流もわるかった。真白い飛行機は灰色の濃い霧の渦の中で、エレヴェータァが三階から地階まで落ちるときのような気味わるい無抵抗さで沈み、次の瞬間には、同じ高さを浮き上った。ピッチングのひどいとき船にのっているよりも、はるかにわるかった。

 素子は伸子より早く酔いはじめて、青黄色い顔色になっては、そなえつけの紙袋に顔をつっこんだ。伸子の酔いかたは素子とちがって、ちっとも嘔気はなく、ただ頭が金のたがでしめつけられるようになって、段々夢中になって行った。こわばって、きしんで、動かなくなったように感じられる眼玉で、伸子は、濃い霧のきれめから憂鬱な藍色に波だっているドーヴァ海峡の水の色を眺めた。

 イギリスの上空にはいったとたん、飛行機の下に見える草木の色が変った。フランスの、うすい灰色や真珠色とまじって軽快に爽やかな自然の緑は、イギリスの重厚に黒ずんだ緑にかわった。それはイギリスの風景画の基調だった。時間を倹約するつもりもあって伸子と素子とは、飛行機でロンドンへ向ったのだったが、午後おそく佐々の一行がとまっているケンシントン街のホテルへたどりついたときの二人は、帳場から電話をしたきり、挨拶にゆく力もなくて、晩餐の時刻まで寝こんでしまった。

 素子は、ほんとにロンドンに三日いただけで、パリ、ベルリンを通過してモスクヷへ帰った。伸子が佐々の家族にかこまれているということで、日ごろ伸子についてもっている関心から素子は自由になったというわけだったろうか。ロンドンへ行けば、素子の気分もかわるかもしれないと思った伸子の想像は、あたらなかった。わたしにはパリにいるよりつまらない。第一、かたくるしいや。二日目に素子はそう言った。そして、四日目の朝、ヴィクトーリア停車場から立ってしまった。伸子が、いつモスクヷへ帰るかということも、はっきりとはうち合わせずに。

 和一郎と小枝は、伸子たちより二週間おくれてロンドンへ来た。二人は、親たちや伸子のいるケンシントンのホテルには二晩とまったきりで、ミセス・ステッソンの部屋にうつった。ミスタ・ステッソンというひとは、存命中、長崎の領事だったということで、大戦前の日本の、地方の小都市で、たてまつられていた外国夫人らしい権式ぶりだった。伸子をつれて、ミセス・ステッソンのところで部屋を見たり、黒ずくめの絹服をつけたその未亡人と話したりしての帰途、泰造は、

「まあ、和一郎たちには、あれもいいだろう」

と言った。ミセス・ステッソンは、泰造にまで平日は十一時という門限のことや、日曜日の食事は料理女を休ませるから冷たい皿コールド・ディッシュだと心得てくれ、と言った。

「語学の稽古にはいい。あの夫人はいい英語をはなしていたよ。伸子にわかったかい?」

 泰造としては、ロンドンで昔、自分が下宿していたミセス・レイマンの住居をさがしだして、そこへ和一郎夫婦をおきたかった。パリにいたころ、伸子は泰造のそういうこころづもりをきいた。ところがロンドンへ来て、いまミセス・レイマンとその息子が住んでいるところをしらべると、泰造がいたころからほぼ四分の一世紀をすぎたイギリス社会の推移は、このつましい一家の生計を、泰造が下宿していた時分とはくらべものにならず落魄させていることがわかった。変らないのは、ミセス・レイマンがGペンを風雅につかって書く手紙の文字と、彼女の温い親切な生れつきだけだった。ミセス・レイマンは、礼儀にかなった服装がなくて失礼だからと泰造夫婦の晩餐の招待をことわってよこした。若い和一郎夫婦が、「彼らの前途多幸プロスペラスな未来」のために、イギリス生活を学ぶ目的のためには、残念なことにわたしの家庭はふさわしい環境でありません。大戦後、わたしたちの生活は、もう二度ともとに戻ることの不可能な変化をうけました。イギリスの多くの中流階級の人々のように。風雅な書体のレイマン夫人の手紙は、そういう風な現実を告げていた。

 ミセス・ステッソンが、下宿人をおきはじめたのも大戦後のことだった。ローラとよばれる二十六七の娘は、チャーリング・クロスの近くで友達と服飾店を経営していた。

 ミセス・レイマンの手紙にある和一郎夫婦の「前途多幸プロスペラスな未来」という文句を、伸子は、言葉に出して誰にいうこともできない懐疑をもって見つめた。ミセス・レイマンにとって懐古的な思いをそそるばかりのプロスペラスという言葉、戦後、ひとしお激しい資本主義経済の波に追いまくられて、ロンドン市内の生活を支えきれず、郊外の一隅へなげだされたささやかな中流の一家。あからさまに言ってしまえば、伸子は、和一郎の代になってからの佐々の家の未来に、ミセス・レイマンが経た生活の推移と大差ない過程を予感しているのだった。

 泰造と多計代とはミセス・レイマンとその息子のジャック・レイマンを、少し改まった午後の茶に招いた。七十歳ちかい母親であるミセス・レイマンと三十歳になったばかりというジャックの上に、大戦を境とするロンドンの中流人の経済的な世代のちがいが、あんまりくっきり描き出されていて、伸子は苦しいようだった。ミセス・レイマンはその老年にかかわらず、レースの訪問着はややつかれているにかかわらず、いくらか頬の艷があせているだけで、イギリス婦人らしいしっかりとした骨格と血色を失っていなかった。眼づかいや身ごなしに清潔な気品がのこっていた。

 ジャックはおそらく実業学校を卒業しただけで、商会の店員になったらしく、彼の体格は、年とった母より、ずっとわるかった。伸子が、二階づくりのバスにのって、商業地域シティから、奥にひろがるロンドンの東区を歩きまわるとき、そこで出会って来る数万の店員クラークたちの一人であった。両肩がすぼんで、すこし猫背で、くすんだ顔色の冴えることのない若者たち。

 日曜日の午後、イーストの大公園ヴィクトーリア・パークのせまい池は、そういう若者たちが、男同士、または女の友達をのせて漕ぎまわるボートで、こみあっていた。

 その池にそって、散歩道の上には、あとからあとから家族づれの散歩者の列がつづいた。彼らの間には、何とどっさりの乳母車がおされて行っただろう。若い母親が夫とつれだって押してゆくのもあったけれど、七つから十二三までのお下髪の女の児が押してゆくのが多かった。二三人の、もっと小さい子供たちは姉娘が押してゆく乳母車のまわりや母親のスカートのまわりにたかって歩いてゆく。散歩行列の中にいるおびただしい子供たちの日曜日用の服は、どの子の服もきつく畳まれていた折目がついていて小さい体から浮くようにこわばっていた。その折目は、いつもはどんなに注意ぶかく、その半ズボン服がしまいこまれているかということを告げた。その人々の生活には、子供用の服ダンスなどというものはないこと。畳んだ服はトランクに入れられて、兄から弟へ、姉から妹へとゆずられていることなどを語るのだった。インディアン・サマアとよばれる夏の終りの明るく暑い日曜日の午後でも、ヴィクトーリア公園の明るさには払いきれない人生のかげりと、隈と、たまにしか入浴させられない子供たちの体の匂いがあった。そこの散歩道をねり歩いている大人や子供の鼻のまわりや口のすみには、いくらシャボンで洗ってもおちない、うすぐろさがあるように。

 バスで三十分も乗ってゆくと、伸子の目には全くちがった光景が展開された。笛をふいているピイタア・パンの銅像のあるハイド・パークの一隅から、のどかそうにボートの浮んでいるテームズ河がひろびろと見えた。そのあたりには、英国の血色と言われている、あざやかな顔色と金髪をもってすらりと背の高い若い男女の夏衣裳だの、桃色や白の子供服が楽しそうに動いていた。大公園の中でも伸子たちのいるホテルに近い一廓はケンシントン公園ガーデンとよばれて、きれいな芝生の上に、華やかな縞の日除傘をひろげた喫茶店があった。

 そういう西ウエストの色彩、声、動き、習慣のすべてはゴールスワージーの小説の舞台であり、バーナード・ショウの皮肉の本質にそういうものがあるように、自己満足があるのだった。西ウエストの人たちは、ロンドンに、自分たちとまったく外見まで違うイギリス人の大群がいることを、至極当然としているらしかった。伸子は、しかし、資本主義がひき出したこれらの二つの人種をあるままに見くらべて驚歎し、やがては奥歯をかみしめるような思いにおかれた。赤坊のときからもうふけはじめて、それなり育ちがとまったような人間の大群。紫外線の不足とよくない食物のために、こまかいふきでものを出している顔色のよくない両肩の落ちた若い男女の大群集。夕刻のラッシュ・アワに、こういう男女の大群集が数万の眼をもつ無言の黒い流れとなって、地下鉄のエスカレータアに運ばれ、自働的に上ったり下ったりしている光景は、緩慢で大規模な屠殺場のようだった。

 伸子は、ケンシントンのホテルの五階に、寄宿舎の一人部屋のような狭い室をもっていた。その室の一つの窓は、ケンシントン・ガーデンの芝生を見下した。夕方になると柵のしめられるその公園は、夜じゅうしずかで、ときたま、ねぐらのなかで何かにおどろかされた鳩のつよい羽音などがきこえて来る。毎晩床につく前に、伸子はルドウィッヒ・レーンの「戦争」を数頁ずつよんでいた。ロンドンの本屋には、十年たったいまだに「戦争物ワア・ブック」の特別な陳列台があるのだった。

 レーンの小説は、理性的で鮮明な描写をもつ戦争反対の作品だった。近代科学の力をふるって大量に人間を殺しあっている前線で、一人の男が、機械力そのものの機械的な性格を積極的につかんで、砲弾の落ちる時間の間隔、角度を測定し、一つの砲弾穴から次の穴へと這い進んで僚友と一緒に自分の生命を救う場面を伸子は読んでいた。おそろしい破壊のただなかでも、失われることのなかったレーンの精神の沈着さ、緊密さは、その小説をよむ伸子のこころを二重に目ざめさせ、活動させた。その小説の頁から時々頭をもたげては、伸子はその日に見て来たいろいろのことについて考え、やけつくように思った。背の低い顔にふきでものを出して、腕が不均斉に長いようなロンドンの人々の大群は、いつこの西にまであふれて出て来るだろうか、と。

 マクドナルドの労働党内閣は、伸子がロンドンについて間もない八月二十二日に、ランカシアの紡績労働者の大ストライキを、一二パーセントの賃銀値下げで、一ヵ月目に鎮圧した。一九二九年になってからイギリスの炭坑労働者の合理化はひどくて、一六パーセント減った労働者数で、前年よりも一三〇〇万トンよけいに採掘している状態だった。賃銀は一交替九シリング六ペンスから九シリング一ペンス半に下げられた。こういう合理化と賃下げ、失業に反対する左翼は少数者運動と云われ、第三インターナショナルの影響のもとに行動しているといつも非難されているのだった。

 ある日、伸子はペンネン通りにある一つの労働大学へ行って見た。十三番地のそこでは、「売家」と大きな広告の出ている露台のところで、二人の労働者が労働大学の看板を太い繩で歩道へつりおろしている最中だった。残務整理のために一、二脚の椅子と一つのテーブルだけをのこしてとりかたづけられた受付のところで、太ってたれた頬にそばかすのある五十がらみの男が、気落ちのした顔で伸子に閉鎖するわけを説明した。御承知のような現状で、炭坑労働者組合は三十人前後のものを教育するために年に三四千ポンドの負担にたえなくなったんです。このごろでは、ここで教育されたものがかえって政府や資本家の利益のために逆用されている。それでは労働大学をもってゆく意味がない。従って閉鎖することに決定されたんです。

 伸子は、セットルメントの仕事で世界に知られているトインビー・ホールを訪問して、そこの労働者大学の課目を帳面に写してもっていた。夏のつたが青々とした大きい葉をからましている由緒のふるい掲示板には、九月末からはじまる新学期の課目がはり出されていた。経済、文学、歴史、英・仏・独語。劇。雄弁術、音楽、美術、民族舞踊、応急看護法。一科目五シリング、と。

 この科目のどこに、労働者が自分たちの階級の意義を自覚するために必要な勉強がふくまれているだろう。トインビー・ホールの内部を参観して帰りぎわに、もう一遍掲示板を眺めたとき、伸子の不同意は反撥にまで高められた。トインビー・ホールでは、労働者学生の食堂は天井の低い、窓が床に近いところに切られている薄暗い中二階のなかだった。うす暗い中に、むき出しの木のテーブルとベンチがあって、ティンの茶のみコップがずらりと並んでいた。どこか中世の職人部屋の感じがただよい、そこを見てから、しばらく廊下を行って伸子が案内された指導者たちの食堂は、あんまり学生の食堂との相違がはげしくて伸子をおどろかせた。そこは天井の高い柱を見せた造りの室だった。真白いテーブル・クローズのかかった食卓の上には銀色にかがやく砂糖壺だの大小のスプーンがきちんと並んでいた。壁にはいくつもの記念写真が飾られている。婦人の案内者が重々しく発音して「指導者たちリーダース」と云っているのは、どういう人たちなのだろう──云いかえれば、一方に労働者たちのためのああいう食堂をおきながら、平気でこの真白いクロースのかかったテーブルに向う無神経な指導者というのは、どういう種類のひとたちなのだろう。伸子は、そのことを質問した。案内の婦人は、その人たちは、オックスフォード大学とケイムブリッジ大学から来ます、とだけ答えた。伸子の口辺にちらりとほほ笑みが走った。旅行案内書ベデカにも、それは書かれています。彼らは、教授ですかそれとも学生ですか。婦人の案内者は、白いブラウスの胸をはり出すようにして、ゆっくり、彼らの多くは学生たちです、と答えた。

 トインビー・ホールから帰る道々、伸子は胸に迫る鮮やかさと感動とをもって、モスクヷ大学の円屋根の下に記されている字を思い出した。──すべての働く者に学問を。──この一句のうちに、千万言にまさる真実があった。これこそ人類に新しくかちとられるべき美ではないだろうか。すべての働くものに学問を──真実の科学を。いつわりなく社会の現実を追求して、それを発展させる力をもつ学問を。──

 売家に出された労働学校の残務整理をして、ふとった悲しそうな顔を頬杖に支えている男に、伸子はトインビー・ホールを訪問したと話した。そして、あなたのところでも、もしあすこと同じような学科を教育していたのなら、卒業生たちがマクドナルド政府に便利な召使になるのは明瞭だと思います。トインビー・ホールの二種類の食堂がそれを語っています、と云った。肥った男は眠たそうにしていた瞼をあげて、伸子の顔を見直した。あなたは、その二つの食堂を見ましたか? 見ました。それで──あなたの気に入らなかったですか? 伸子は、ああいうやりかたは、大戦前まではある意味があったのでしょう。でも、それでは余り古いです、と云った。肥った男は、二つの指で下唇をつまむようにしてしばらく黙って、考えこんでいた。やがて、正直そうなふとった顔に一層悲しそうな表情を浮べながら、多分それがほんとうでしょう、と立ち上り、伸子とつれ立って重い足どりで看板おろしをしている入口へ出た。歩き出しながら、その男は同じような沈んだ声で、あなたはコンミュニストですか、と質問した。そんなしっかりしたものに思いちがいされたことは意外で、ノー、と答える伸子の声に力がはいった。

 伸子のいるケンシントン街のホテルでは、「デーリー・ヘラルド」が労働党の機関紙だというので配達しなかった。「ワーカアス・ライフ」は、下町のスタンドで売っているだけだった。「ワーカアス・ライフ」は日刊紙になろうとして、ドイツの労働者はローテ・ファーネのために何をしたか、というアッピールをのせていた。

 日曜日の午後、人の出盛る時刻にハイド・パークを歩くと、散歩道に沿った樫の大木の下に台をおいて、いろいろの男が演説していた。互の声を邪魔しないだけの距離をおいて、一人一人が立って話している台に、彼が属している団体や政党の名が書きつけられている。散歩している人々は、ぞろぞろと歩きながら、見なれた町のショウ・ウィンドウでも見るように、ここに独立労働党。次に自由思想家フリー・シンカア。アナーキスト。つづいて協同組合主義者トレード・ユニオニスト。共産党。クリスチャン・サイエンスと演説の断片を耳にはさんで歩いていた。もし、何かの言葉に心をひかれて止ってきくなら、それは、どの演説を、どれだけ聴こうと、質問しようと、討論しようと自由だった。演説者の並んでいる散歩道の前はかなりひろい草原で、そこの草の上には、ねころがって日曜を楽しんでいる男女や、かけまわっている子供の群がある。

 ハイド・パークのここらを歩いたり、草の上にねころがったりしている人たちは、身なりを見ても、ヴィクトーリア公園に群れて乳母車を押しながらねり歩いている人々より、いくぶん生活のましな部類の人たちだった。労働者の家族にしても、就業している労働者たちの一家が多いことはすぐわかった。草原に体をのばしている男女は、一週に一度の大気と日光とにあますところなくふれようとして、特に女が、靴をぬいだ両脚をのばしている姿が、あちらこちらで目に入った。人々は、のんきに日光にあたっているか、自分たちの間で喋ったり笑ったりしていて、樹の下の、馴れっこになっている演説者に対して関心はうすいようだった。

 広大な地域をしめているハイド・パークの大衆的なこうした風景と、身なりのきれいな人々のとりすまして、散策しているケンシントン・ガーデンのあたりとは、同じ日曜日の午後でも別天地だった。

 泰造も、ロンドンへ来てからは、建築家として実務的ないそがしい日を送っていた。日本へ帰ればすぐとりかからなければならない大規模な大学校舎と病院建築の予定があった。イギリスの王立美術院の名誉会員である便宜を利用して泰造は、時にはノッティンガムまで出かけて大学や病院の視察に歩いていた。

 和一郎夫婦をミセス・ステッソンのところへ落つけた今は、多計代も心に軽やかなところができたらしくて、ケンシントン・ガーデンの芝生の上で集って来る雀にパン屑をなげてやりながら、ゆっくり茶の時間をすごしたり、つや子をつれてテート画廊を見に出かけたりしていた。大使館関係の夫人たちを訪問したりもしている。ロンドンでは、言葉がわかるということが、泰造をくつろがせ、多計代の神経をも楽にした。しかし一行のなかでつや子の立場が宙ぶらりんなことは、パリにいたときとちっともかわらなかった。ロンドンのホテルでも、つや子の寝台は夫婦の寝室にもちこまれていた。イギリスのいわゆるちゃんとした家庭のしきたりからみれば、つや子ぐらいの少女に家庭教師をつれずに旅行している佐々の一家は、いわば泊っているホテルの格にあわないとも云えるものだった。泰造や多計代は、そういうことに頓着していなかった。

 伸子は或る晩八時すぎてから、つや子をつれて、トラファルガー広場から出発するトマス・クックの東区イースト・エンド見物バスにのりこんだ。トマス・クックはロンドンの観光ルートを独占していて、大戦まではロンドン市の恥とされていた東区の貧窮の夜の光景までを、夜のロンドン見物に変化を与えるスリルの一つとしてさし加えた。黄色と藍の塗料のきれいな大型バスは、車内に電燈をきらめかせながらテームズ河の河底を貫く長い淋しいトンネルをぬけて、追剥おいはぎの出そうなロンドン・ドック附近を通り、ホワイト・チャペルの周辺の曲りくねった道へはいって行った。バスの行く道すじは、ジャック・ロンドンが「奈落の人々」の中に辿った道順とほとんどちがわなかった。止まったバスのまわりに集って来て、タバコや小銭をせびる浮浪児たち。道ばたでやたらに唾をはいているよっぱらい。よっぱらいの中には、年とった売笑婦らしい女も見えた。「質屋」の電気看板。「ベッズ」と看板を出している木賃宿。その明暗のなかに数知れない男女の失業者と宿なしとを包んで、ゆれているホワイト・チャペルの大通りの黒い人波の上に、そこだけ火事になっているように赤い光で夜の闇をこがしながら、イルミネーションの十字架が大きくきらめいていた。

 つや子はバスでひとめぐりしている一時間半ばかりの間、ひとことも物を云わなかった。街にあふれ出ている陰惨におどろき、むき出しの荒々しい生存からうける感銘が、つや子の少女の額に刻まれた。伸子はせめてつや子の心へのおくりものとして、このロンドンでの一晩の見物を計画したのだった。伸子は、不自由なく親と外国旅行をしているようには見えても、真実にはいじらしい立場にいるつや子が生活というものについて理解をもち、自分の生活を自分でまかなってゆく必要を知るようにと、伸子はねがっているのだった。つや子は女の子だから。そして、末娘だから。自分の力で女が生きにくい日本の社会であり、家族の制度であるだけに、伸子は年下の妹の将来に、女としての実力がゆたかであるように、と願わずにいられないのだった。

 ロンドンでの三度目の日曜日のことだった。伸子は泰造とつれだってケンシントン・ガーデンの奥の草原を散歩していた。昼寝をしかけていた多計代とつや子とには、四時すぎに、喫茶店で落合う約束で、父娘二人は、のんびり樫の大木の間をぶらついた。いつもそのあたりは人気が少くて、伸子たちから見えるところに、一人の銀髪の老人が、指環のはまった手をのばして、栗鼠りすに南京豆をやっていた。ととのった服装のその老人は、気が向くとここへ来ては、樫の大木の根元に立って栗鼠を対手にいくらかのときを過しているのだろう。樫の枝の上からじっと下を見ていて、やがて用心ぶかく幹をつたわっておりて来た一匹の栗鼠は、いくたびか近づいたり遠のいたりしてしらべてから、素早く老人の体をかけのぼって、掌にある南京豆をたべはじめた。南京豆をたべるときの栗鼠は、樫の枝の上にいるときと同じように、老人のカフスの上に後脚で坐って、太い尻尾を立てて、二つの前肢の間に南京豆を捧げもって、小刻みに早く口をうごかした。一つたべ終るごとに、栗鼠は必ず一度草原へ下りて、樫の枝まで戻るのだった。

 泰造と伸子は、おもしろくその光景を眺めながら遠くに佇んでいた。

「こういうところがイギリスだねえ」

 泰造の声には、羨しさがこもった。

「どこへ行っても大戦後は変ったというし、また事実かわってもいるが、やっぱり同じ昔のイギリスの樫セーム・オールド・イングリッシュ・オークはそのままだ」

 なお草原にじっと立って、幾度目かに栗鼠が掌の南京豆に向っておりて来るのを待っている老人から歩き去りながら、泰造が伸子にきいた。

「伸子、きのうパスポート(旅券)の査証をし直しに行ったのかい?」

「ええ。どうして?」

「ホテルのカウンタアで昨夜注意してよこしたから……お前の旅券は、イギリス滞在に期限つきだったんだね。知らなかった」

 クロイドンの旅券査証所は飛行機から降りて来た伸子の旅券に「三週間を越えざるイギリス滞在を許可する」と書いてスタンプを押したのだった。

「お父様たちのは、どう? 無期限でした?」

「もちろんそうだよ」

 それが、当然であり、伸子が期限つきの入国許可をうけているというようなことは、泰造として心外であり、傷つけられることでさえもある。父としてのそのこころもちと心配が伸子を見る目の中によみとられた。

「どういうわけなんだね、それは」

「たいした意味はないでしょうと思うわ。わたしはお父様たちのようにパリから来ているのじゃなくて、モスクヷから来ているわけでしょう? イギリスとソヴェトとは一九二六年に国交断絶したまんまなのよ、いまのところ。だから、モスクヷから来たものは、日本人だから入国はさせるようなものの、ちょいと期限をつけておきたいんじゃないの」

「それだけの理由かね?」

「ほかに何かあるとお思いになる?」

 泰造はだまった。伸子は直感するのだった。期限つきの旅券のことから、泰造はまた伸子の「思想」について気にしているのだ、と。泰造の感情に、また赤インクのかぎが、あらわれそうになっているのだ、と。

「お父様、ほんとに心配なさらないで頂戴ちょうだい──。どこをさがしたって、わたしにはそれよりほかの理由はなくてよ」

「それならいいがね──しかし……」

 泰造は、ソフトをぬいで、重い、禿げた頭を曰くありげにふった。伸子は、泰造を安心させるために云った。

「イギリスは、日本とちがうのよ、お父様。共産党だって、ちゃんと公然の政党よ。新聞も出ているし、選挙にも立っているんですもの。──コンミュニストだったにしろ大威張りなわけなのよ。──わたしはそうじゃないけれどもさ……」

 多計代やつや子より一足さきに、泰造が伸子を散歩につれ出したわけがわかった。

 喫茶店の派手な日除傘が見える道まで来たとき、泰造は、ちょいと足をとめるようにした。

「お前に、佃君が亡くなったことを、しらせたっけか」

「──いいえ」

 佃が死んだ──しずかな声で、いいえと云った伸子の、うすい絹服をつけた体の外側にだけ八月末のロンドンの暑さはのこって、おなかのしんをすーとつめたいものがはしった。──佃が死んだ──

「遺児の育英資金を募集しているんでね、立つ前に、応分のことをして来た。きょう、事務所からよこした書類の中に受取がはいって来たんで思い出したんだが」

「いつごろのこと?」

「あれは──もうごたごたしはじめていたときだから四月ごろだったかな。結核だ。三人遺児があって、まだどれも小さいらしいから、夫人は気の毒だ」

 伸子が佃とわかれてから五年たっていた。三人の幼児とのこされた夫人というひとは、佃に同情して、我ままだった伸子さんに代って、佃をきっと幸福にして上げるといって彼と結婚したひとだった。どこかの学校で教鞭をとっているひとのようにもきいた。

「何でも、子供がみんな弱いんで、沼津とかへ移ったということだった」

 佃との生活にどうしても馴れることができないで、伸子が逃げ出してしまったとき、佃のアメリカ時代からの友人が、こんど結婚したら女が何と云っても、子供を生ませなければいけない、と忠告したということも、伸子はきいていた。佃が自分で、そういう風なことを伸子に云ったような記憶もある。四つか三つをかしらに、三人のよわい子供をこれから育ててゆく夫人──。

 日ごろ、伸子は佃のことにかかわったところのない心持で生活していた。日本にいたころ、佃の住居のある町を電車で通ったりするとき、そこいらの角から不意に佃があらわれはしまいかと思って、身のひきしまる思いだったのは、別れて当座のことだった。モスクヷへ立って来る前に、渋谷からタクシーで、佃の住んでいる町の角々に目をとめて、冷たいいとわしさで通りすぎてから、モスクヷでも、伸子の心に悔恨の感情は湧いたことがなかった。不思議に佃の夢を見なかった。伸子は、佃が次の家庭をもっていて、彼としての満足のうちに生活していることを、よかったと思っていたのだった。そういう佃の幸福は、佃のものであった。佃の幸福の内容が伸子の感じる幸福感とちがう性質のものであるからこそ、伸子は彼といられなかった。羨しさとは、自分にも同じそれが欲しい心に生れる思いであった。伸子は、佃のところであり得る幸福からは、逃れたのだ。

 日光のおどる芝生の間の小道を歩きながら伸子の心に、人の生きかたの哀さの思いが湧いた。

 短い幸福をうけて四十五歳で死んだ佃も、そのように短い間の彼の幸福のために努力して、より大きい努力の必要のうちに三人の子供とともにのこされた夫人のめぐり合わせも、伸子には、気の毒に感じられた。

「お父様が、その育英資金に加わって下すったの、ありがとうございました」

 その晩、一日の終りにいつもそうして時をすごすとおりアーク燈にてらされている公園の木立を見おろすホテルの部屋の窓ぎわに立って、伸子は、公園の散歩で父からきいたことを思いかえしていた。

 悲しみと名づけられるこころもち、涙ぐむこころもち、そういう感傷は、佃が亡くなったときいたときから、伸子のなかになかった。しんとして、まじめにひきしめられた思いがあった。──佃の生涯は終った──佃の生涯は終った──その思いをたどっているうちに、伸子の心は自覚されていなかった一つの区切りのようなものを見出した。佃と自分とのいきさつは、完結した。その事実の新しい確認がある。

 伸子は、これまで、佃に対して、何かの責任を感じながら暮していたのだろうか。伸子にそんな意識はなかった。だけれども、思いがけず佃の亡くなったしらせをきいた今、伸子の心のうちに強くなりまさるのは「完結した」という意識だった。伸子が何もしらなかった今年の四月のあるときに、伸子の過去の生涯に、一つの大きいピリオドがうたれた。伸子はきょうまで何もしらないままモスクヷを出発して、ロンドンへ来た。伸子の過去に一つのピリオドがうたれたとき、伸子は知らないままに伸子の新しい生涯の日々を歩みはじめていたのだった。

 両手で顔をおおいながら伸子は夜の公園に開いている窓の前に膝をついていた。熱心に生きようとしている自分の命ひとつのなかに、いくつの命が、いあわされて来ただろう。死んだ弟の保の、若くて柔かい、いとしい命。佃というひとの、暗く、ぎごちなくて、しかし嘘はつかなかった命。つよい生活への欲求のなかで、死んだ人々は生きている。そのことが伸子の胸をしめつけた。彼とのことは完結したのだ。その自覚から生れた、思いがけない解放感。──佃との間にあったすべての経験は、これまでよりもっと自由に、生きてゆく伸子の生のうちにうけいれられたと感じられる。両手で顔をおおうている伸子の眼からは涙がこぼれないで、体じゅうがかすかに震えた。熱でもでる前のようにふるえている伸子をつつんで、あけはなされている窓から流れこむ夏の夜の濃い樫の葉が匂った。



 素子がさきにモスクヷへ帰ったことは、ロンドンでの伸子に、五年ぶりのひとり暮しをもたらした。その日々のうちに、佃が亡くなったしらせをうけた。これらの二つのことは、伸子の生活にとってどんな意味を与える新しい条件であるかということや、それが伸子の意識の底にこれまでとちがうどんな流れをおこさせているかというような点に心づかないまま、伸子はロンドン滞在を終ってパリへ帰って来た。

 泰造と多計代とは、ゆっくりしたロンドン滞在がすんだら、もうこんどの旅行の中心目的は果されたこころもちらしかった。秋の時雨のふりはじめたパリへは、帰り道の順で立ちよっているという状態だった。

 もうそろそろ煖炉に火のほしい季節で、ペレールのアパルトマンでの夫婦の話題は、もう一つスケジュールにのこっているジェネヷ行きのことだの、土産ものの相談などだった。

 客間の長椅子で、子供らしく片方の脚を折り、片方を床にたらしたつや子が、カルタのひとり占いでもしているように、ロンドンで集めて来た船のエハガキを幾枚も並べて、ひとり遊びしている。佐々の三人は、大体十一月のはじめにパリを去る予定で、太洋丸に船室を申しこんでいた。ロンドンではつや子にも友達があり、身なりもつや子の年に似合う少女らしさでととのったけれども、大人の間で居場所のきまらないような不安定さはパリにいてもロンドンへ行っても同じだった。大きい船にのって、またひろい海へ出て、港から港へとゆるやかにうつる景色をたのしみながら日本へ帰るということが、つや子のたのしみらしかった。長椅子の上にずらりと並べられている船づくしのエハガキをわきからのぞく姉の伸子に、つや子はおかっぱの頭をすりつけながら、

「このひと、ほんとに船すき」

 目をエハガキからはなさないで云ったりした。

 ロンドンにのこった和一郎からは、小枝とよせ書のエハガキが来た。ロンドンの秋のシーズンがはじまります。この土曜日にクィーンス・ホールでシーズンあけの音楽会がありますが、エスモンド街にいながらにしてそれが聴けるのは幸です。ミセス・ステッソンもおかげで今年は冬がたのしみだと大満足です。そんな文面がいかにも一日のうちに、ひまな時間をたっぷりもっている人らしい和一郎の念の入った装飾的な文字でかかれて来た。

 そういう和一郎のたよりには、用心ぶかさがあった。少くとも、伸子にはそう感じられた。ロンドンとパリに離れていても、絶えず若夫婦の贅沢や浪費を警戒している多計代に対してよこすたよりには、和一郎たちも、むしろ彼らの生活の消極面から書いている。伸子は、どこへ行って何を見て、何をきいて、と二人で身軽に、好奇心をもって動いて暮している消息を、弟夫婦からほしいと思うのだった。

 クィーンス・ホールの音楽会をエスモンド街でいながらにして聴けるのは云々と、和一郎が個性のない丁寧さで書いてよこしているのは、新しくひいたラジオのねうちが早速あらわれているという意味の報告なのだった。

 和一郎と小枝がミセス・ステッソンのところへ引越して行って、三度目にホテルへ来たとき、はじめて和一郎たちの室が電燈でなくてガス燈だということを知らされて、佐々のものはみんなびっくりした。それも、和一郎が、ガスにしては部屋代がすこしはりすぎているようだね、と云い出したのがはじまりだった。ミセス・ステッソンのところでは、階下の客室、食堂、居間だけが電燈で、二階から上の部屋部屋では、昔ながらに蒼白いガス燈をつかっているというのだった。

「何だろうか、まあ! ガスが洩れでもしたら命にかかわることだのに。──お父様、あなただって御覧になったのに」

「いや、そこまでは、おれも気がつかなかった」

「やっぱり申上げてみてよかったことね」

 小枝が、泰造や伸子のうかつさをとりなすように、口をはさんだ。

「実は、僕たち、云い出そうかどうしようかって、大分遠慮していたんだ。知っていらっしゃると思ったもんだから」

「そんなお前。──ほかのこととはちがいますよ」

 ロンドン市内のどこかに小さい家の一軒も持っている中流階級の経済事情は益々きりつまって来ていて、ミセス・ステッソンのところが未亡人の家だからというだけでなく、市の中心からはなれたエスモンド街あたりには、まだガス燈をつかっている家が軒並だということだった。そう聞いて伸子は思いあたった。ロンドンのいろんな新聞に出ている貸室の広告には、いつも電燈エレクトリックライトと特別に説明がついていた。黒い絹服を上品に身につけて、泰造が立派な英語だとほめた言葉づかいのミセス・ステッソンが、淑女らしい権式で門限のことや日曜日の冷い料理のことを云いわたしながら、佐々たちが借りようとする室を見に二階へ行ったとき、その部屋にガスをつかっているということについては、ひとこともふれなかった。ミセス・ステッソンとすれば、ロンドンでは、そういうことは、借りての方からきくべきこととしているのだろう。ガス燈は、公然と、誰の目にも見えるように天井から下っているのであるから、と。

 工事費の三分の二を佐々の方で負担して、和一郎たちの室にも電燈がひかれることになった。ついでに、ラジオずきの和一郎はラジオもきけるようにした。毎晩オペラや音楽会で金を使うよりは、という和一郎の説に、多計代が賛成したのだった。


 二度めに帰って来たパリで伸子がひとりだということは、おのずからホテルの選びかたにもあらわれて、伸子は、親たちのいるペレールのアパルトマンからほど近いモンソー公園よりの小ホテルの七階に一部屋とった。「モンソー・エ・トカヴィユ」と気取ってつけたホテルの名にふさわしい入口の様子や食堂の雰囲気だった。七階の一つの部屋からは、パリのコンサヴァトアールへでも通っているらしい若い女のピアノ練習がきこえた。親たちがパリを去れば、自分もモスクヷへかえるのだけれども、ロンドンから帰って来た伸子の心の中には、何となし新しい活気が脈うっていて、短いパリののこりの日を、思う存分暮したかった。ロンドンで、伸子はその国の言葉がいくらかでもわかるということは、旅行者にとってどれだけ重大な意味をもっているかということを、しみじみさとった。前後では三ヵ月もいることになるのに、ちゃんと新聞もよめないままにパリを去る──それでは困ると思うのだった。

 伸子は、パリへついて二日目に「モンソー・エ・トカヴィユ」に寝るためと勉強のための室をとり、その次の日、クリシーの先のアトリエに住んでいる画家の風間夫妻を訪ねて、フランス語の女教師を紹介してもらった。泰造たちとマルセーユまで同じ船にのり合わせて来た風間夫妻が、便利なフランス語の出教授をうけているそうだと泰造からきいたのだった。

 はじめてマダム・ラゴンデールというその女教師が来て、一週二回の授業のうち合わせをしてかえったあと、伸子はしばらくぼんやりして、勉強室であるその屋根裏部屋のディヴァン・ベッドに腰かけていた。質素な身なりだけれども、どこともしれずあかぬけしていて、生活のためにたたかっているパリの、中年をこした女の柔かい鋭さをたたえているマダム・ラゴンデール。彼女が、大使館関係の夫人たちも教えているということや、英語を話すことなどを、伸子は会ってはじめて知った。自分の知っている日本婦人は、みんな実に親切な人たちばかりだと力をこめて云うマダム・ラゴンデール。伸子が、新聞をよめるようになりたいと云ったら、日本の植民地政策は成功しているのに、フランスはモロッコでもアルジェリーでも失敗つづきだ、と云ったマダム・ラゴンデール。彼女と、果して、稽古がつづけて行けるだろうか。

 考えこみながら、伸子が目をやっている室の露台窓からは、せまい裏通りのむこう側の建物のてっぺんにある室内が見えていた。ホテルからの目をさけるために、あっちの露台では木箱をおいて日よけをかねて、青いつる草を窓の軒まで這い上らせてあった。その窓奥で、女の姿がちらついている。花模様の部屋着のままで、掃除でもしているかと思うとそうでもないらしく、こっちの室の内から見ている伸子の視野のうちに暫く見えなくなったり思いがけず近いところに半身をあらわしたりして、音もなく動いている。

 見られていることに心づかないで動いている人の動作には、パリという大都会のなかにある孤独のようなものが感じられる。

 伸子は立ち上って、部屋の一隅についている粗末な洗面台で手を洗いはじめた。ペレールへ帰ろうと思って。──

 ノックの音がする。伸子は、それをとなりのドアだろうと思った。ここへ人の訪ねて来ることを予想していなかった。手を洗いつづけて水道の栓をしめたとき、それを待っていたように、こんどははっきり自分の室のドアの上がノックされているのをききつけた。

 伸子は、事務的な、いくらかいかついところのある声で、

お入りなさいアントレ

と云った。瞬間ためらうようにして、やがてドアがしずかにあいた。

 そこから出た顔をみると、

「あら」

 こわばった声を出した自分をきまりわるがりながら、伸子は、手をふいていたタオルをいそいで洗面台についているニッケル棒にかけた。

「どうしてここがおわかりになって?」

 そこに立っているのは、ホテルの男ではなかった。蜂谷良作だった。彼はぬいでいる帽子を片手にもって、

「ロンドンから帰られたってきいたもんだから」

 もう一遍伸子をたしかめるように見ながら云った。

「ペレールへよってみたら、あなたはこっちだということだったから」

「行きちがいにならなくてよかったこと。もうすこしで帰りかけていたところよ。ここは寝にかえるだけなんです、それと何かしたいときだけ」

 伸子は、こまった。マダム・ラゴンデールとは、ロンドンで買った大きい白い猿のおもちゃが枕の上に飾ってあるディヴァン・ベッドに並んでかけて話した。けれども、男のお客では、どこへかけてもらうにしても、自然なゆとりがないほど、部屋は狭かった。

 屋根裏の勾配が出ている低い天井の下に、たった一つディヴァンがあるきりの、枕の上におもちゃがマスコットのようにおかれている女の室へ、蜂谷良作もはいりかねる風だった。ドアのところに軽くもたれて立ったまま、

「吉見さんは、やっぱりロンドンからまっすぐ帰ってしまったんですか」

「あのひとは、たった三日ロンドンにいただけよ」

 あしたの朝素子がロンドンを立つという前の晩、ピカデリーを散歩していて、伸子は一つの明るいショウ・ウィンドウの中に白い猿のおもちゃを見つけた。下目をつかって、ちょっと沈みがちに考えている猿の表情は、どこか親切で賢いときの素子の顔つきに似ていた。いやしいところのない白い猿のおもちゃというのも珍しかった。伸子は半分ふざけ、半分は本気で、わたしの魔よけに、ね、と二人でそれを買ったのだった。

 伸子は、外出のために露台のガラス戸をしめながら、

「蜂谷さん、もしよかったら、またペレールへ逆もどりしましょうか」

 ほかに仕方もあるまいという風に伸子は自分のまわりを見た。

「──ここ、あんまりせまくて」

「それもいいが──」

 ドアに鍵をかける伸子の手もとを見ていて、蜂谷良作は、

「どうせ出るんなら、モンソーでも歩きませんか。あすこは秋のいい公園なんだ。去年もつたが赤くなりはじめた時分、なかなかよかったですよ」

 ペレールへ戻るのも気のすすまない様子らしかった。伸子は蜂谷とつれだってホテルを出かけ、ペレールへ行くとは反対のブルヴァールを横切って、モンソー公園へはいって行った。

 セイヌ河のむこうにあるリュクサンブールの公園が、大学やラテン・クォーターに近くて、広い公園の隅々まですべての人のために開放されて、詩趣がただよっているのにくらべると、モンソー公園は、そこへ来る人々は身なりもきまっているというような、細工のこまかい庭園の味だった。優雅でメランコリックな情趣をつくり出す樹木の配置。岩の置きかた。その美しさは、どの部分をとっても、そのままでオペラの背景になる美しさだった。伸子は、その美しさを人工的すぎると感じた。

「僕のいるところがあんまりあけっぱなしの田舎だもんだから、たまにこんなところを歩くと、気がかわる」

 蜂谷は、晴れた秋日和を気もちよさそうに、帽子をぬいだまま歩いた。

「ロンドンは、どうでした」

「三百万人もの失業者って、ただごとじゃないのねえ。鈴なりだったことよ」

「鈴なりって──」

「英蘭銀行のちかくに、セント・ポールって大教会があってね。そこの日曜礼拝の合唱が有名なんです。それをきこうと思って出かけたらね、ローマかどこかにあるセント・ポールをまねしてその通りにこしらえてあるっていう正面の大階段の左右に、びっしり失業者だか浮浪者だかがつまっているんです。幾十段あるのか、堂々と見上げるような大階段の一段ごとに、すき間なく三人ぐらいずつ並んで、下から頂上まで、びっしりなの。朝日がよくさしていてね。そのまんなかのところを、白手袋はめてバイブルをもった人たちが、行儀よく、わきめもふらないで登ったり下りたりしているの。ああいう光景って何て云ったらいいんだろう──ロンドンにしきゃないわ」

 いつも労働力が不足していて、ポーランドやチェッコから男女の労働者をフランスへ移住させ、それがあまって来ると、その労働者たちを、国へ追いかえしているフランスでは見ることのできない凄じい街の表情であった。

「そんなところで、何しているんだろう?」

「ただそうしているんじゃないのかしら」

 セント・ポールのその大階段では、きたないズボンの両膝を立てた上へ顔を伏せて眠っている男もあれば、肱枕で体をよこにしている男もあった。新聞紙をひろげて、パンの皮をかじっている男もあった。日曜日の朝日に正面からてらされながらその石段にすずなりになっているのは、よごれてぐったりした男たちばかりだった。

「金でももらっていましたか」

「いいえ。ロンドンでは、乞食でも、歩道の上に色チョークで色んな絵をかいて、その上に、ありがとうサンキューって書いて、じっと坐って待っているのよ」

 何と皮肉だったろう。歩道に描かれているそれらの色チョークの絵はいわゆるイギリス風の趣味で、ヨットの走っている風景だの、羊のいる牧場だの、サラブレッドのつもりの馬の首、立派な犬などだった。

「それほどかなあ」

 蜂谷は考えこんで歩いた。

「佐々さんは、マクドナルドの公約破棄の証人の一人だっていうわけだな」

「そうよ。『ワーカアス・ライフ』がおこって、書くはずなんです。『賃銀は低下しなければならない』ボールドウィン。『然りイエス。しかし仲裁裁判によって』マクドナルドって。──独立労働党と少数運動者は、盛にそんな仲裁裁判は不当だって云っていました」

「そんな風なんだろうなあ。イギリスの労働党や労働組合トレード・ユニオンは一九二七年のあれだけの炭坑ストをつぶして味をしめたから、今じゃ、国家経済会議の中で勢力を占めるのが目的だものね」

 伸子は、しばらくだまって歩いていて、

「蜂谷さん、わたし、つくづく変だと思うわ」

と云った。

「どうしてあなたは、どこへもいらっしゃらないんでしょう。イギリスだって見ておいていいと思うわ。モスクヷにいるとき、あれほどアムステルダム参加の黄色組合は、労働階級をうりわたしているって聞いたりよんだりしていたけれど、実際、ロンドンへ行ってみてそれが本当だっていうことが、しんからわかったわ。ロンドンにいる日本のえらい方たちは、まるでマクドナルドの従弟かなんかみたいに、第三インターナショナルを気ちがいあつかいにしていらっしゃるけれども、あんまり本当のことをはっきり云われるので、にくらしいのね、きっと」

 蜂谷良作もおとなしく左わけにしている茶っぽい柔かな髪を手の平で撫でながら、

「辛辣なんだなあ」

と笑った。

「ごめんなさい」

 こだわったところのない快活さで伸子も笑いながら、蜂谷を見上げた。

「わたし、つい、ここまでいっぱいだもんだから」

 藍色と白のまじった変り編みの毛糸ブラウスを女学生らしく着こなしている伸子は、ふっくりした顎の下へ自分の手の甲をあてて見せた。

 伸子と蜂谷良作が話しているところは、モンソー公園の最も美しい場所とされている池のわきだった。岸に柳が長く垂れて、睡蓮の葉が浮んでいる池のおもてに、円柱の列が、白い影をおとしている。木洩れ日でぬくめられている石のベンチに、二人はかけていた。日本で云えば、はじに似た高い樹の梢が金色にそまっていて、水にうつる影の中で大理石柱の白さや、そこに絡んでまだ紅葉には早いつたの葉の青い繁りを、あざやかにひきたてている。

 伸子はパリへかえって来る早々、こんなにして、蜂谷と話し込むことがあろうと思っていなかった。パリで蜂谷にまた会うことがあるかないか、それさえ伸子は気にしていなかった。けれども、偶然こうして会って話していると、素子と一緒に暮していたら毎日なしくずしに彼女に話さずにいなかっただろうと思われるロンドンでの印象を、伸子はみんな蜂谷にきかせることになった。素子がモスクヷへ立ってから、伸子はほとんど隔日にロンドンだよりを書いていた。ここで蜂谷と話しているようなことは、その中で一応みんなかかれたわけなのだけれども、声に出して、機智くらべになってゆくようなけわしさなしにもういっぺんそれが話せることは、人なつこい伸子にとって、自然で心地よかった。

 それにしてもロンドンで会った人たちは、どうしてあんなに伸子を負かそうとするように話す人たちだったのだろう。世界のあらゆる出来ごとについて、イギリスの支配的な階級の常識に準じて判断している自分たちだけが、現代で最も正しい分別をもっている人間なのだ、という風に。──

 おのずと考えの流れが一つの方向に動いたように、蜂谷は、

「ロンドンに、いったいどんな連中がいるんだろうな」

と云った。しいて返事を求めないようなその云いかたには、進んでは訊きにくいところもあるが、訊いても見たいという蜂谷の気分が感じられた。

「木村市郎──御存じ?」

「ジェネヷにいたんじゃないんですか」

「あのかたは顧問だから、ジェネヷには、国際連盟の会議のときだけ御出張なんですって」

 木村市郎は、数年前、債務整理のために表面上の破産をした小富豪だった。いくつかの銀行の頭取をしていたのをやめてから、夫婦づれでロンドンへ来て、閑静なマリルボーン通りのフラットに一家を構えていた。そして、彼ら夫妻が自家用自動車をもっているわけではないが、ロンドンのクラブ街として有名なペルメル街の自動車クラブの客員になっていて、ロンドン在住の日本人と一部のイギリス人の間に、一種の社会的存在であった。

「木村さんは、『公平な競争フェアプレイ』なんて言葉は、イギリスではもうフットボールのゲームのときにしかつかわないってお説でした。ジェントルマン(紳士)という字は、トイレット用にすぎないってイギリス人自身が云っているんですって──」

「ふーん」

「ほら、蜂谷さんも毒気をぬかれちゃった!」

 伸子はおかしそうに声をたてて笑った。

「そこが木村さんの話術なのよ。金持だった木村市郎って名を知っていて日本から訪ねて来るジェネヷ参りの人たちは、その一発で、木村さんを凄い急進派だと思ってしまうのよ。これは社会主義だ、と思うのよ。だから、あとから段々木村さんが、イギリスの商魂マーチャント・スピリットということを云い出してね。しまいに、労働問題でなやんでいる代表たちに、資本家が普通の金利七分から八分を得ようとするのは合理的で世界共通の当然のことなんだから、労働者に、その決算報告を公開して、それでも承知しないんなら、労働者の方がわるいんだ、と云うと、きいている人は、それも社会主義的な考えかただと思ってしまうらしいんです。木村さんは、こんなにわかりやすいことをききに、僕のところまで来るんだからって、あきれたように、お得意だったことよ」

 蜂谷良作は、大きな声を出し顔を仰向けて笑った。伸子がモスクヷからロンドンへ来ている者だということにこだわって、木村市郎は執拗なぐらい独裁ということへ非難をもって行った。イタリーのムッソリーニの独裁と、プロレタリアートの階級としての独裁をごっちゃにしていて、伸子がその点をさすと、木村は、どっちだって、独裁──ディクテーターシップというからには同じことさ、と云ってアーム・チェアの上に胸をはった。そして、そのころ話題になっていたオールダス・ハックスリーの「ポイント・カウンター・ポイント」という長篇小説を伸子によめとすすめた。日本では、ソヴェトのまねをしてプロレタリア小説だの何だのとさわいでいるが、よめたものじゃない。ハックスリーは、さすがに堂々とかいている。要するに、われわれの階級と労働者階級とは、ポイント・カウンター・ポイントだ、というのが真理だね。けっして、一本になることのない双曲線だというわけだ。ところが、そういう対立があるからこそ、互に協調してやって行こうとし、やっても行ける。というのがイギリスの商魂なんだ。お互がちがうから独裁ディクテーターシップがいるとわめくのは、第三インターナショナルのやりかたさ。債権者や預金者に対しては破産しても、私生活では小さいながら富豪である木村の見解はそういうものだった。

「木村さんていう方の専門はなになのかしら」

「さあ、大学では経済をやっていたんだが──ちょっと新人会あたりに首をつっこんだこともあったらしい」

 蜂谷は、考えていて、

「利根亮輔に会いませんでしたか」

と伸子にきいた。

「会いました」

「何していました?」

 研究は何をしていたか、という意味だろうということはわかったが、伸子にはすぐ返事ができなかった。

「これは失敬したかな。佐々さんにきいたって無理だろうなあ」

「そうだわね」

 ひどく素直に伸子が承認した。

「わたしにはわかっていないわ」

 研究の題目がわからないばかりでなく、利根亮輔その人全体が男としても、学者としても、伸子にはわかるようで、わからないのだった。

「あの方は、ある意味で、学問についても人生についても好事家ディレッタントなんじゃないのかしら」

 だまったまま、蜂谷良作は両方の眉をしかめるような眼つきで伸子を見た。

「利根さんてかた、何をしても、何かそこで味わうものを発見して、そういう風に味わえる自分の能力を味わうっていうタイプじゃないのかしら」

 利根亮輔は大英博物館の図書館に近いところにある下宿のようなホテルに住んでいた。そして、毎日、数時間、図書館で勉強していた。マルクスは、イギリス経済学の正統学派から彼の価値論を発展させて来ている。リカアドからマルクスが自分の説を展開させて行ったつぎ目のところに、まだひとが研究していない点がのこされていると、利根亮輔はいうのだった。マルクスと云えば、歯がたたないものときめてしまって、ろくに勉強しようとさえしないけれども、その後光にたえるつよい知性があってよく見れば、マルクスの価値説にはある種の独断もあり、すきもある。リカアドから強引にねじって、もって来られているところがある。それを一つほじくりかえして見てやろうと思って。──

 そういう利根の調子には、こんにちマルクス主義者とよばれている人々へのひそかな軽蔑が感じられた。利根は、彼独特の繊細な方法で、第三インターナショナルぎらいを表現している。伸子はそういう風に感じとった。

「しかしね、彼の場合はあながち、そういう意味からだけやっているんでもないと思える点もあるんだ。たしかにマルクスの理論は、学問として、もっと研究されていいのは事実なんだ」

 蜂谷自身、そういう研究題目にひかれているところもある声だった。

 かけている石のベンチにおちていたつたのわくらばを指の間にまわしながら、伸子はふと沈黙におちた。彼女の前には、傾きはじめた午後の日ざしに、大理石柱の白い影を光らせている池のおもてがある。髪を苅りあげている伸子のさっぱりした頸すじに、ななめよこから西日がさしている。気づかないでいるけれども、伸子の耳たぼは西日にすかれて、きれいに血色を浮かしている。落葉のあるベンチの前の土の上を、蜂谷は、往ったり来たりしていた。帽子を、伸子のわきに、ベンチの上においたまま。


 利根亮輔と伸子とのロンドンでのつき合い。──あれは、ほんとうは、どういうことだったのだろう。伸子は、モンソー公園の静寂の中で、それを思いかえしているのだった。

 丁度、「プラウダ」に出たブハーリンに対する日和見主義と偏向に対する批判が、各国新聞のニュースになって、伸子をおどろかしていたころだった。「史的唯物論」「共産主義ABC」とブハーリンの本をとおして共産主義に近づいて行った伸子にとって、「プラウダ」の批判は、正当だと思えるだけに、大きい衝撃だった。その衝撃は、自分の善意にしろ、理論的なたしかさをそなえていなければ、いつどこへ引こまれるかも知れないものだということについて、伸子に厳粛な警告を与えるのでもあった。

 利根亮輔は、その問題について、ブハーリンの理論そのものがもっている誤りと危険について知ろうとするよりも、彼らしく、ロシア共産党の機関の決定の独裁性ということにこだわった。

「伸子さんみたいな、芸術家でも、そうかなあ」

 女としての伸子を全体としてうけ入れながら、彼女の考えかたには、どこまでも自分の考えを対立させ、かみ合わせてゆく手ごたえの面白さを味うように、利根亮輔は云った。

「人間の本能というものが──この場合には主として権勢に対する欲望だろうが──『共産党宣言マニフェスト』の現実にどんな要因ファクターとして作用するかというようなことは考えませんか」

 彼のいうところでは、ソヴェト政権がこんにちまで保たれて来ているのは、そして、発展さえもしているように見えるのは、ロシア人民の文化の水準が、ヨーロッパ諸国に比べて低いからだというのだった。

「さもなければ、『プラウダ』一枚で、ああ完全に支配しきれるものではない」

「おかしなかた!」

 そのとき、二人が話していたチャーリング・クロスのカフェー・ライオンのテーブルの前で伸子はほんとにおこった顔と声になった。

「あなたのおっしゃることは、あんまり根拠がないわ。誰が、ソヴェト同盟を『プラウダ』一枚で動かしているでしょう。あすこの人たちには、自分たちで新しい暮しかたをやってゆく方法がわかったのよ。あなたが、その事実を見ようとしないなんて──」

 うそだわ、と言おうとしてちょっとためらった伸子を、利根亮輔は黒い怜悧さで輝いている眼で見つめながら、うながした。

「それで?──見ようとしないなんて?──」

 いくらか礼儀にかなう表現にかえて伸子は、

「知的怯懦きょうだだと思うんです」

と云った。

「──なるほど……」

 やがて、利根亮輔は、さも面白そうに笑った。

「ハハハハ。伸子さんは実に愉快な精神の原形をもっていられる。知的怯懦ねえ。──しかしね、伸子さん、あなたレオナルド・ダ・ヴィンチに懐疑がなかったと思えますか? 叡智はいつも懐疑から出発するんです」

 伸子は、

「もうおやめにしましょうよ」

 そう云って、テーブルから立つ仕度をした。

「日本は、ひどくおくれた国だから、それだけ男のひとは、女より特権をもっているんです。そういう意味で女は抑圧されている大衆なのよ。結婚して、そして離婚したっていうことは、これは女にとって何かのことなんです。わたしは、そういう女として、モスクヷに一年半暮したのよ。そして、生活そのもので、全体の方向としてあすこを肯定するんです。人々によろこびの生活の可能があるのを見ているんです。わたしのは、知的遊戯じゃないの」

 勘定書を手にとってカウンターの方へ歩きながら利根亮輔が云った。

「──伸子さんはエラスムスではなかったんですね」

 こういう会話そのものが、その本質では何をはっきりさせようとして、利根亮輔という男と伸子という女との間にかわされたのであったろう。

 伸子が、間もなくロンドンを去るというある曇り日の夕暮ちかく、利根亮輔と伸子とは人通りのまばらなバッキンガム宮殿前を、並木路沿いに歩いていた。歩きながら何気なく、利根亮輔が云った。

「あなたのようなひとを、思いきり自由に伸して、書きたいだけのことを書かしてみたら、さぞ愉快だろうなあ」

 その調子には、利根の一歩に自分の二歩を合わせて歩いている伸子の体を、つつんで流すような普通とちがう感じがこもっていた。しばらくだまって歩いていて、伸子がはっきり、

「駄目よ」

と、云った。

「駄目、そんなイリュージョン。本気にしたらどうするの」

 一人の人間を伸すということ。その人に書かせるというようなこと。そこにどういう方法があり、どういうことが起るのか、わかりもしないようなそんなことを、伸子が女だから、男の利根には、自分の力のうちでできでもしそうに思えるのだろうか。しかも、利根と伸子との間には、ことごとにと云えるほど、意見のちがいがあるのに。そんなことは、男と女との間であれば、とるに足りる何ごとでもないように利根亮輔には思えているのだろうか。伸子をひきよせる利根の話しかたが、伸子をおどろかせた。

「そうかなあ、イリュージョンかなあ。僕にはそう思えないんだが──」

「イリュージョンだわ!」

 伸子は、その雰囲気から身をもぎはなすように云うのだった。

「わたしの考えかたや気質があなたに興味があるというだけよ」

「じゃ、僕は、あなたにとって興味のない人間ですか」

「──まるで興味のない人と、話しながら歩いたりするかしら。──でも、それは別よ。そうでしょう? 別であり得るのよ」

 またしばらく黙って歩いて、バッキンガム宮殿のすぐ近くの角を曲るとき、伸子は、ひきこまれそうになっていた渦から解放されたほほ笑みで、

「利根さん」

とよんだ。

「わたしはね、ミス・マクドナルドでもないし、ミス・木村でもないの。だからね、対立があるからこそ協調してゆくっていうイギリスの流儀では、万事やってゆけないのよ」

「──そうか!」

 バッキンガム宮殿のまわりを、機械人形のように巡邏じゅんらしている華やかな服装の若い近衛兵ローヤル・ガイドが、そのとき伸子のすぐわきで、まじめな顔つきで規則正しいまわれ右をした。


 伸子は、モスクヷにいる素子へのたよりに、利根亮輔と話すいろいろのことを書いてやった。バッキンガムのまわりを歩いたことも。しかし、その散歩のとき短くかわされて、二人の間柄を決定した会話についてはふれなかった。

 今夜かあした、モスクヷへ書く手紙のなかで、伸子は、「モンソー・エ・トカヴィユ」の七階へたずねて来た蜂谷良作と出かけて、モンソー公園に、こんなにゆっくりしていることについて、どう書くだろう。

 秋の公園の日だまりのなかで、伸子はそんなことについて、考えてはいてもちっとも心を煩わされていなかった。伸子は、いまというひとときのもっている条件のすべてをひっくるめて、楽にくつろいだ会話や戸外の空気の快よさを感じているだけだった。

 そろそろまた歩きはじめようとして蜂谷良作はベンチの上から帽子をとりあげた。

「いずれにしても、佐々さんは生活的だなあ。この間の晩、はじめてゆっくり話してみて、僕が一番感じたのはそこだった。──吉見君は、あれで、よっぽどちがうでしょう? あなたとは──」

 伸子は、蜂谷との間で、そこにいない素子をそういう風に話すのはこのまなかった。

「あのひとは、わたしよりずっとものを知っています、あれだけ、ロシア語がちゃんとしているんだもの」

 素子がよくものを知っていながら、その知っているところまで自分の生活そのものを追い立ててゆかないことも、いま蜂谷に説明する必要はない素子の一つの特徴だった。

 伸子と蜂谷良作とは、公園の奥にある池のところから小道づたいに、来た方とは反対の道を出口に向った。

「こんどこそ、わたし、本気でパリを歩いてみなくちゃ」

「そう急ぐわけでもないんでしょう」

「親たちが帰れば、わたしはすぐモスクヷへもどります。だから──そうね、ひと月はあるでしょうね」

「そんなにさしせまっているのか」

 蜂谷は思いがけなさそうだった。

 二人は、モンソー公園の前にある広場めいたところのカフェーで休んだ。夕方になったら、にわかにうすらつめたくなった風がマロニエの落葉をころがしてゆく秋の公園前のカフェーには腰かけている人の数も少かった。

 公園の樹の間で街燈がともった。

 そのカフェー・レストランの内部にも同時に灯がはいって、パリの夜の活気が目をさました。

「佐々さん、ついでに、ここで夕飯をすまして行きませんか」

 ことわらなければならない理由もなくて伸子は、だまっていた。

「この間は、あんなにして不意に泊めてもらったりしてお世話になったし──いいでしょう?」

「──部屋をあけてあげたのは、わたしじゃなかったのよ、吉見さんよ」

「──じゃあ、その代表として。──ここなら、きっと、カキがうまいだろう」

 半ば公園のあずまやのように作られているそのレストランは、女づれで来るような客で段々賑わって来た。身なりも気のきいた中年のいきな組が多かった。

 運転して来た自動車に鍵をかけ、それをズボンのポケットにしまいながら、わきに立って待っているつれの女のひとの肱を軽くとってレストランのなかへ入ってゆく男の物馴れた仕草などを眺めていて、伸子は、

「蜂谷さん、大丈夫?」

と、いたずらっ子らしく笑った。

「少し、柄にないところなんじゃないの? こんなところ──」

「そんなことはないさ」

 蜂谷は、ぽつんとまじめに答えた。そして、そのまま顔を横に向けた。伸子は、夕飯にかえらないことをペレールのうちへ知らせるために、電話をかけに立った。



 もう二三日で九月が終ろうとしている風のつめたい夜の九時すぎ、モンマルトルの方から走って来た一台のタクシーがペレール四七番の前でとまった。ドアがあいて、なかから、つや子、多計代、泰造、しんがりに伸子という順でおりて来て、レースのショールをかけた肩を寒そうにしている多計代をとりかこみ、四七番の入口の大きいガラス戸の中へ一人一人消えた。八時すぎると、この辺のアパルトマンの入口はしめられた。ベルを押すと、門番が玄関わきにある自分たちの住居の中でスウィッチを入れ、その人が入る間だけ、入口のドアの片扉があくようになっている。佐々のものたちは、その僅の間をいそいでホールへすべりこんだ。みんなについてエレヴェーターのところへ行こうとしていた伸子は、門番の住居の小窓から、

「マドモアゼール」

とよびとめられた。

 玄関に向ってあいている門番の小窓には、背後からだいだい色のスタンドの光を浴びて、カラーなしのシャツ姿の爺さんが首を出していた。

「ヴォア・ラ! あなたへ、電報」

 細長くたたんである紙をさし出した。伸子は、不安なような、全く不安のないような変な気分で、それをうけとった。

「ありがとう」

 心づけを爺さんの手のひらにのせて、伸子はうちのものの佇んでいるエレヴェーターのところへ行った。

「──おや、電報かい?」

 多計代が、神経質にまばたきした。

「わたしのところへ来たのよ」

「吉見さんだろう」

 素子はモスクヷへ着いたとき、ロンドンのホテルあてに伸子に電報をよこしたし、伸子たちがペレールへかえってすぐのときも、電報をよこした。ぶこ、かわりないか、やど知らせ、と、ローマ字で書いて。手紙の往復の間をまちきれない素子のこころもちが、その電文に溢れていた。いまも、伸子は、七分どおりモスクヷからだろうときめて、おどろかずに電報をうけとったのであった。折りたたまれた紙をあけて見て、伸子はまごついた表情になった。

「変だわ、これ。──何のことなんだろう」

 ケサ六ジ、イソ、ザ、キキョウ、スケシス

 スケシスというギリシャ語みたいなローマ字つづりで、いきなり戸惑わされた伸子は、冒頭の、ケサ六ジという一句の意味が明瞭で動かしがたいだけに、よけい判断を混乱させられた。わかるのは、この電報が素子からではないということだけだった。イソ、ザ、キキョウ、スケシス Iso za kikyo Sukeshisu とは何のことだろう。

「みせてごらん」

 泰造が、すこし顔からはなして読む電報を、わきに立って、伸子ものぞきこんだ。

「ね、──わからないでしょう?」

 ややしばらく電文を見ていた泰造が、

「これは、綴りが、ちぎれちまっているらしい。上の字へつくはずだったんじゃないか。イソザキ、キョウスケっていう工合に。──そういう名のひとを伸子は知っているかい」

「知っているわ」

 そう云われて、目をすえてよみ直した伸子の頬から顎へ鳥肌だった。

 ケサ六ジ、イソザキキョウスケ シス──死す──

「まあ!」

 それは伸子の心からのおどろきの声であった。

「どうしたっていうんでしょう!」

 若い画家である磯崎恭介と、やはり画を描く若い妻の須美子は、伸子の友人であるよりも、素子の古い知り合いだった。パリへ来たとき、素子と伸子が心あてにしたのは、この二人であった。ヴォージラールのホテルへ移り、佐々の一行がパリへ来るまで伸子たちは、磯崎夫妻にいろいろ世話になった。佐々のものがマルセーユに着くほんのすこし前、磯崎は、サンジェルマンの方へ里子にあずけておいた上の男の子に死なれた。その葬式がペイラシェーズで行われたとき、伸子はいたましい思いにつつまれて、喪服姿の須美子の介添えをしたのに。──

 ロンドンから帰って伸子が磯崎の住居をたずねたのは、たった一週間ばかり前のことだった。そのときの恭介には病気らしいところはどこにもなかった。

 サロン・ドオトンヌに出す制作がもうすこしで終るところだと云って、むしろいつもより活気づいて張りきっていた。伸子のところへ、電報をよこした磯崎の妻の須美子の言葉かずのすくない美しい様子と、ひよわい白い蝶々ちょうちょうのような子供の姿を思うと、伸子は、とても、そのままあしたの朝まで待てなかった。

「お父様達、かまわずあがっていらして下さい。わたし、行ってくるわ」

 佐々の一家はモンマルトルの「赤馬」というレストランで、のんびりと居心地よく、長い時間をつぶして帰って来たところだった。電報は、午後二時発信となっている。伸子は、そのときから今まで自分たちが過した時間の内容を考えて一層切ないこころもちだった。ハンド・バッグをあけ、もっている金高をしらべた。

「わたし、多分こんやは、あっちへ泊りますから」

 泰造も外へ出て、伸子のためにタクシーをつかまえた。

「おそくなったら、あしたの朝になってから、かえりなさい、夜中でなく」

「そうします」

 そして、タクシーは走り出した。ロンドンへ立つまで、よく夜更けに、素子と一緒に通った道すじ──トロカデロのわきからセイヌ河をむこう岸にわたる淋しい道順を通って。

 デュト街へはいったとき、朝の早いこの辺の勤勉な住人たちの窓々はもう半ば暗くなっていた。寝しずまろうとしている街のぼんやりした街燈の光をはらんで何事もなかったように入口をあけている磯崎の住居の階段を、伸子は爪先さぐりにのぼって行った。磯崎恭介は死んだ。妻と子とをのこして。それだのに、彼の一家が住んでいる建物のどこにも、その不幸のざわめきさえ感じられない。人の生き死にかかわりない夜の寂しさが、一人で爪先さぐりに階段をのぼってゆく伸子にしみとおった。ペレールで見た電報が信じられないような感じにとらえられた。

 伸子は息をつめて、磯崎の室のドアをノックした。無言のまま、すぐ扉があいた。廊下に立っている伸子を見て、ドアをあけた見知らない日本の男のひとは、

「ああどうも」

と、あいまいに云って頭を下げ、体をひいて伸子を、室内に入れた。

 年配のまちまちな四五人の日本の男のひとたちが、いつものとおり無装飾なその室の長椅子のところにいた。伸子は何と云っていいかわからず、だまってそこにいる人々に頭を下げた。

「奥さんはあっちに居られますから──どうぞ」

 伸子は、丁寧なものごしで示された隣りの寝室の方へ歩いて行った。両開きのフレンチ・ドアのかたそでだけが開け放されている。足音をころしてその敷居のところへ立ちどまったとき伸子のひとめに見えた。ひろい寝室のむこうの壁につけておかれている寝台と、その上に横わっている磯崎恭介、わきの椅子にきちんとかけて、濃いおかっぱの頭をうなだれている須美子の黒い服の姿。──人の気配で須美子は頭をあげた。伸子を認めた瞬間、須美子の黒いすらりとした姿が椅子から立ち上ると同時に、はげしく前後にゆれた。伸子は思わずかけよった。

「佐々さん」

 ほそくて冷えきった須美子の指が、万力まんりきのように伸子の手をしめつけた。

「よく来て下さいました」

「ごめんなさい。電報、やっとさっき拝見したもんだから」

 伸子は、ささやいた。

 壁ぎわのベッドの上によこたえられている磯崎恭介の眠りをさますまいとするように。

「パリにいらっしゃりさえすればきっと、来て下さると思いましたわ。佐々さん。わたしも、こんどという、こんどは……」

 伸子の左肩の上に顔をふせた須美子の全身がわなわなとふるえた。伸子は両手でしっかり須美子を抱きしめた。須美子は、けさから、どんなにこうしてすがりつける者をもとめていたか。それを、身がきざまれるように伸子は感じた。ついこの六月下旬に、須美子は田舎にあずけていた上の子供に死なれたばかりだのに。

「なんていうことなんでしょう!」

 須美子の上にかさなる悲しみに対していきどおるように伸子が云った。

「歯です」

「──歯?」

「おととい、急に奥歯がひどく痛むって、お医者さまへ行きましたの。抜いたんです。そこから黴菌ばいきんが入ったんです」

「…………」

 ヴォージラールのホテルにいたとき、素子が歯痛をおこしてさわいだことを、伸子はおそろしく思い出した。あのとき磯崎から紹介された医者があった。あの医者へ、こんどは恭介自身が行ったのだろうか。その医者の、あんまり日光のよくささない診察室や、応接室にあった古いソファーが伸子の記憶によみがえった。

「ほんとに急だったんです。急に心臓がよわってしまって──磯崎は自分が死ぬなんて、夢にも思っていませんでしたわ」

 須美子の、濃いおかっぱの前髪の下に、もう泣きつくして赤くはれた両方の瞼がいたましかった。

 伸子は、須美子にみちびかれて、磯崎の横わっている寝台に近づいた。須美子が顔にかけてあるハンカチーフをのけた。その下からあらわれた磯崎恭介の顔は、目をつぶっていて、じっと動かないだけで、全くいつもの恭介の顔だった。贅肉のない彼の皮膚は、日ごろから蒼ざめていた。いくらか張った彼の顎の右のところに、直径一センチぐらいのうす紫色の斑点はんてんができていた。その一つの斑点が磯崎の命を奪った。

 磯崎のいのちのないつめたい顔を見つめているうちに、伸子は、自分の体も、さっき須美子の体がそうなったように、前後にゆれ出すように感じた。そして、壁がわるいんだ。壁がよくなかったんだと心に叫んだ。

 磯崎たちの住んでいるデュト街のこの家は、パリの場末によくある古い建物の一つで、入口から各階へのぼる階段のところの壁などは、外の明るい真夏でも、色の見わけがつかないほど暗く、しめっぽく、空気がよどんでいた。壁に湿気と生活のしみがしみついていることは、室内も同じことだった。磯崎たちは、がらんとしたその室内に最少限の家具をおいているだけで、意識した無装飾の暮しだった。この寝室も、磯崎の横わっている寝台が一つ、むき出しの床の上で壁ぎわに置かれているだけで、あとにはこの部屋についている古風な衣裳箪笥が立っているきりだった。寝台の頭のところの壁の灰色も、年月を経て何となしぼんやりしたいろんなむらをにじみ出させていた。その室の壁のぼやけたしみと、磯崎の右顎に出たうす紫のぼんやりした斑点。──伸子は、この建物に出入りするようになったはじめから、真暗でしめっぽいこの家の階段の壁やそこいらに、健康によくないものを感じていたのだった。でも、今になってそれを云ったところでどうなろう。

 須美子は、そっと、気をつけて、眠っている人がうるさがらないようにという風に、恭介の顔の上にハンカチーフをかけた。

「お仕事、どうなったかしら」

 先日あったとき、もうじき描き終ると云っていた恭介のサロン・ドオトンヌのための絵だった。

「あれはすみましたの。搬入もすまして──ひとつは、その疲れがあったのかもしれませんわ」

 二人は、磯崎恭介の横わっている寝台を見下しながら、小声で話すのだった。

「小さいひとは? マダムのところ?」

「ええ。けさ呼んだ看護婦さんが、親切な方で、ずっといてくれますの」

 少しためらっていて、伸子は須美子に云った。

「急なことになって、もしわたしのお金がお役にたつようなら、いくらかもって来ましょうか。わたしは少ししかもっていないけれど、借りることができるから──」

「ありがとうございます。今のところよろしいんですの。丁度、磯崎のうちから送って来たばかりのものが、まだ手をつけずにありましたから──」

 それをいうとき、須美子の顔の上にいかにも辛そうな表情がみなぎった。日ごろから、須美子は、磯崎の両親に気をかねていて、上の子に死なれたときも、それは、須美子の落度であるように云われた。突然の悲しみの中でも須美子は義理の親たちの失望が、自分に対するどんな感情としてあらわれるかを知っているのだった。

 四五人来あわせている人々のなかで、一番年長のひとが、和一郎の美術学校時代の美術史の教授だった。ひかえめに、ロンドンにいる和一郎の噂が出た。磯崎恭介に近い年かっこうのほかの人たちは、みんな画家たちだった。伸子がその人々と初対面であり、こういう場合口かずも少いのは自然なことであったが、磯崎恭介そのひとが、これらの人々との間に、果してどれだけうちとけた親しいつきあいをもっていたのだろうか。異境で急死した人の女の友達の一人としてその座に加っていて、伸子がそう思わずにいられない雰囲気があった。パリの日本人から自分を守って努力していたような磯崎恭介。その人の意志にかかわらず突然おこった死。ここにいる人たちは、ほかの誰よりちかしい友人たちではあろうけれども、そこに来ている四五人の人々の間で磯崎についての思い出が語られるでもなかった。友人たちの心から話し出されるような逸話をのこしている磯崎でもないらしかった。

 しばらくして、須美子も寝室から出て来てその席につらなった。彼女は半円にかけている客たちに向って、ひとりだけ離れて一つの椅子にかけた。

 だまってかけている人々の上から、夜ふけの電燈がてらしている。須美子は、日ごろから着ている黒い薄毛織の服の膝の上に、行儀正しく握りあわせた手をおいて、悲しみにこりかたまって身じろぎもしない。黒いおかっぱをもった端正な須美子の顔の輪廓は、普通の女のように悲しみのために乱されていず、ますます蒼白くひきしまって、須美子そのものが、厳粛な悲しみの像のようだった。

 須美子のそのような内面の力を、おどろいて伸子は眺めるのだった。須美子の純粋な精神が、悲しみのそのようなあらわれのうちに充実していて、彼女のあんまりまじめな悲しみようにうたれた人々は、なまはんかな同情の言葉さえかけるすきを見出さないのだった。

 沈黙のうちに、重く時がうつって行った。伸子は寒くなった。失礼いたします、と、ぬいであった外套を着た。

「須美子さんは、少し横におなりになったら?」

「ありがとうございます」

「さむくないかしら」

「いいえ」

 僕も失礼して、と二人ばかり外套を下半身にまきつけた人があった。須美子は動かない。そしてまた沈黙のときがすぎた。

 こんなに苦しく、こりかたまっている悲しみの雰囲気を、通夜をする客たちのために、もうすこししのぎよくするのが、いわば女主人側でたった一人の女である自分の役目なのではなかろうか、と伸子は思いはじめた。日本の通夜には、それとしてのしきたりもあって、伸子に見当もつくのだったが、フランスの人々は、こういう場合どうするのだろう。何かあついのみものと、ちょっとしたつまむものが、夜なかに出されて、わるいとは思えない。でも、それは、どうして用意したらいいのだろう。デュトの街では夜が早く更けて、カフェーが夜どおし店をあけているという界隈でもなかった。パリの生活になれず、言葉の自由でない伸子は、宿のマダムと直接相談することを思いつかないのだった。

 しばらくの間こっそり気をもんでいた伸子は、やがて、すべては須美子のするままでいいのだと思いきめた。彼女の深い悲しみに対して、伸子が、世間なみにこせこせ気をくばる必要はないのだ。彼女の悲しみを乱さなければ、それが一番よいのだ。磯崎と須美子は、恭介が生きていてこの人々とつきあっていたときの、そのままのやりかたで、今夜もすごしていいのだ。それが友達だ。

 須美子は、ときどき席を立って、恭介の横わっている隣室へいった。その室に須美子がいなくなると、客たちの間には低く話しがかわされるのだった。

 あけがた、宿のマダムがドアを叩いた。そしてあついコーヒーが運びこまれた。



 朝九時ごろに、伸子はいったんペレールへ帰った。朝飯がはじまろうとしているところだった。伸子はテーブルのよこに立って熱い牛乳をのんだだけで、まだ片づけてないつや子の部屋へはいって、午後二時までひといきに眠った。

 出なおして、伸子はこんや最後のお通夜につらなるつもりであった。つや子の室の隅においてあるトランクから、夜ふけてきるために、もう一枚のスウェターを出していると、アパルトマンの入口でベルが鳴った。マダム・ルセールが取次に出て何か云っている声がした。泰造と多計代とは出かけてしまっていた。入口のドアをそのままにして、マダム・ルセールが寝室の方へ来る。そのとき、つや子がそれまでひっそりして花のスケッチをしていた客間から、とび出して、伸子のいる室へ入って来た。

「ごめんなさい、忘れて。お父様が、これをお姉様に見せて、って──」

 一枚の名刺を伸子にわたすのと、マダム・ルセールが、

「マドモアゼル。ムシュウ・チグーサがおいでです。お約束してあるとおっしゃいます」

というのと、同時だった。千種清二と印刷されている名刺の肩に、泰造の字で、一昨日大使館にて会う。伸子にぜひ面会したき由。九月二十九日午後来訪の予定。と走りがきされている。千種清二というひとの住所には、日本大使館がかかれていた。

 名刺を手にもったまま伸子は、気がすすまなそうに、ちょっとだまって立っていたが、

「ありがとう、マダム・ルセール。わたしが彼に会います」

 伸子は入口に行ってみた。そこに立っているのは、二十四、五に見える、陰気そうな青年だった。伸子は、友達に不幸がおこって、すぐ出かけるところだからとことわって、客間へ案内した。つや子が、あわてて画架の上のカンヴァスをうらがえしている。伸子は、むしろつや子にいてもらいたかった。

「いいのよ、そのまんまで、つや子さんも失礼してここにいたら?」

 客間におちついたその青年を見ると、泰造がうけとって来た名刺と、そのひとからじかに伸子がうけとる感じとの間に、ちぐはぐなものがあった。パリ駐在の日本大使館の人たちといえば、書記官の増永修三だけがそうなのではなく、書類をあつかっている窓口の人々まで、なかなか気取っているのが特徴だった。ベルリンの日本の役人は官僚的に気取っていたが、パリのそういう日本人たちは、その人たちだけにほんとのフランスの洗煉がわかっているというように気取っているのだった。いま伸子の前で長椅子に腰をおろしている千種清二という青年は、そういう気風をもっている大使館員ごのみの服装でもなかったし、外交官めかしい表情もなかった。彼はごくありふれてごみっぽかった。それはパリにいる日本の画家たちや蜂谷良作の野暮さともちがうものだった。伸子は、

「何か御用でしたかしら」

ときいた。

「おいそがせするようでわるいけれど」

 千種というその青年は、がさっとしたところのある低い声で、

「実は、いろいろあなたの話をうかがいたくて来たんですが──」

 伸子に時間がないというのを、不機嫌にうけとっている表情をあらわにして、顔をよこに向けた。伸子の方は、千種のそんなものの云いかたや表情から、いっそう彼への冷静さを目ざまされた。伸子は反語的に、

「おうちあわせしてないのにおいで下すったものだから──失礼いたします」

と云った。そして、そのままだまりこんだ。

 千種は、長椅子にかけている上体を前へ曲げて開いている膝に肱をつっかい、髪の毛を指ですくようにした。その顔をあげて、

「僕はかねがねモスクヷへ行ってみたいと思っていたんですが」

と話しはじめた。

「あなたがパリへ来られたときいて、ぜひ一度、それについて、いろいろじかにおききしたいことがあって──それで実はお邪魔したんです」

 わきにいるつや子が、そういう話には妨げになるという素振りだった。それを伸子は無視した。

「──大使館のかたが、わたしに入国許可ヴィザの手つづきをおききになるのなんて、何だかおかしい」

 そういう伸子の声に、笑いにかくされている批評がこもった。

「そんなことはもちろんわかっているんです。そうじゃあなく──僕はそうじゃない方法でモスクヷへ入りたいんです」

 非合法の方法でモスクヷへ行きたいという意味らしかった。何のために、そんなことを伸子にきくのだろう。伸子にそんなことを訊くような組織的でない生活をしているひとに、非合法でモスクヷへ行く必要のあろう道理はない、と思えるのだった。

「わたしにおききになるのは、見当ちがいです。わたしなんか、ヴィザもヴィザ、大したヴィザで、モスクヷへは行ったんですから──藤堂駿平の紹介で……」

「それはそうでしょうが、ともかく一年以上モスクヷにいられたんだから、その間には自然いろんな関係が、わかられたはずだと思うんです」

 あいての顔を正視しないで長椅子の上に前かがみになり、心に悩みをもってでもいるらしい青年の姿態で、しつこくいう千種の上に、伸子の視線がきつくすわった。いまの伸子にパリで会っていて、モスクヷへは藤堂駿平の紹介で行ったのだったときけば、むしろ、そうだったんですか、と下げている頭も上げて、何となくびっくりした眼で伸子を見なおすのがあたりまえのような話だった。少くとも、伸子自身は、モスクヷへ行こうとしていたころの自分と、現在の自分との間にそれだけの距離を自覚しているのだった。ところが、千種とよばれるこの青年は、そういう点については、さものみこんでいるというように無反応で、それはそうでしょうが、一年以上も云々と話をすすめて行く、その調子は、伸子に本能的な反撥を感じさせはじめた。

「一年以上モスクヷに居りますとね、あなたの考えていらっしゃるのとは正反対のことがわかって来るんです。モスクヷに合法的にいる日本人と、非合法に行っている人たちの間には、橋がないってことが、はっきりわかるんです。ちっともロマンティックなことなんかありません──わたしは、ぴんからきりまでの合法的旅行者なんですもの」

「──」

 千種とよばれる青年は、しばらくだまって何かじりじりしているように、また髪を荒っぽく指ですいた。

「あなたの書いたものは、よんでいるんです。あなたが、ソヴェトに対してどういうこころもちをもっていられるかってことは、僕にはわかっているつもりです」

「それはそうでしょうと思うわ。わたしは、ソヴェトを評価しているんですもの。一人でもよけいにソヴェトについて、偏見のない現実をしるべきだ、と信じているんですもの。でも、わたしがそういう心もちでいるから、何か特別のいきさつがあるんだろうとでも思っていらっしゃるなら、つまり、それがもう、一つの偏見のあらわれよ」

「…………」

 伸子は、ちょっと小声になって、

「つや子ちゃん、何時ごろかしら」

ときいた。客間ととなりあわせてドアのあけはなされている食堂の旅行用の立て時計をつや子が見に行った。

「三時四十分」

 つや子はそのまま食堂の椅子にのこった。そして、テーブルの上へ船のエハガキのアルバムをひろげはじめた。

 千種とよばれる青年は、伸子の顔を見ない姿勢のまま、たしかめるようにカフスの下で自分の腕時計を見た。

 やがて、かえる挨拶がはじまるかと待っている伸子に、千種は、

「どうも、あなたの云われることが信じられない」

と云い出した。

「必ず、わかっていられると思うんだがなあ」

 ──伸子の心持が鋭い角度でかわった。伸子は、不愉快に感じたつよい声の表情をありのまま響かせて、

「あなたは、わたしから何をきかなければならなくて、いらしっているのかしら」

 何をきかなければならなくて、というところに、身のかわしようのない抑揚をつけて訊いた。

「大使館の方々って、大体、良識ボン・サンスだの好い趣味ボン・グーだのって大変むずかしいのに、あなたの社交術はまるで別ね。失礼ですけれど、あなたは、わたしのところへいらっしゃるよりも、フランスの共産党へいらっしゃるべきだったわ。そして、いまおっしゃったようなことを、おっしゃって見るべきだったわ。もし、あなたがわたしにわからない方法でモスクヷへ行くべき方なら、その理由からわたしのところへなんぞ決していらっしゃるはずがないんです。わたしに、それだけは、はっきりわかります」

「…………」

 伸子は、そろそろ椅子から立った。

「失礼ですけれど、わたし、もう行かなければならないから……」

 もう思いきったという風に、千種とよばれる青年も長椅子から立った。

「その辺まで御一緒しましょうか」

「……仕度いたしますから、どうぞおさきに」

 玄関で外套へ腕をとおしながら、千種は、

「日本じゃ、また大分共産党の大物がやられているらしいですね」

と云った。

「そうらしいことね」

 ロンドンにいたとき、国際新聞通信インターナショナル・プレス・コレスポンデンスのそういう記事が伸子の目にはいっていた。それには内容のこまかいことは報じられていなかった。

 いまの伸子は、この千種とよばれる男に早く出て行ってもらいたいばかりだった。

「とうとう佐野学もやられたらしいですね」

 それをきいて、伸子は、同じ緊張のない調子で、

「そうお」

というのに、意識した努力を必要とした。

「じゃ失敬します」

「さようなら」

 出てゆく千種のうしろに玄関の厚いドアをぴっちりしめると、伸子は、そこに立ったまま、羽ぶるいする鳥のように大きく両腕をふって、

「あ!」

と、息をつく声を立てながら、自分の両脇腹へ、おろした両腕をうちつけた。つや子が、

「お姉さま」

と食堂から出てきた。伸子はつい、

「お父様ったら、あんなひと、来させになるんだもん」

 客間の方へもどりながら、じぶくった娘の声で妹に訴えた。

「このひと、何だかこわかった──」

 話の内容からではなく、千種という見知らない男と伸子が応待していた間の、どこか普通でなかった雰囲気を、つや子は少女らしい敏感さで云っているのだった。

「お姉さまはもう磯崎さんのところへ行かなけりゃいけないんだけれど、つや子ちゃん、一人でいい?」

「──いいわ。おかあさま、きっともうじき帰っていらっしゃるから」

「ベルが鳴ったら、自分で出ないで、マダム・ルセールに出てもらいなさい、よくて。だれもいないときならそのままにしておいていいから」

「そうする」

 出かける仕度をしている間じゅう、つや子と口をききながらも、佐野学もつかまったという、さっきの言葉が伸子の頭からはなれなかった。佐野学という名は、日本共産党の指導者として、一般に知られている名だった。日本にいた間はもとよりのこと、モスクヷに来てからも、その人についての伸子の知識はごく漠然としたもので、理論的に理解が深められたというのではなかった。けれども、一つの国で共産党の指導者という任務が、どれだけ重要な意味をもつものであるかということは、モスクヷ暮しをしているうちに伸子の精神にうちこまれていた。佐野学がつかまったということは、非合法ながら成長しつつある日本の共産党にとって、打撃であることを、伸子は実感にうけとった。モスクヷで去年の三月十五日の大検挙を知ったときは、それが泰造から送られた赤インクのカギつきの新聞を通じてのことだっただけに、伸子は自分という個人にかけられる赤インクのカギの窮屈さの面だけを痛切にうけた。こんどは佐野学もつかまった、それが本当だとすると、いまの伸子は、それを日本の共産主義運動にとっての事件として感じた。共産主義に対する「弾圧」の真の意味、そういうことを行わずにいられない権力の本質的な非条理は、ヨーロッパへ来てから伸子にもまざまざとわかるようになった。

 考えこみながら出かけていた足を、伸子は急にとめた。もしこのまま磯崎恭介の葬式に参列するとすれば、スカートに毛糸のブラウスの服装では、失礼すぎた。伸子はつや子に、いそいで外出の仕度をさせ、ペレールを出た。そして、ほど近いワグラム広場のわきの服飾店で出来合いの黒い服を買った。ぬいだスカートとブラウスとをボールの小箱に入れさせて、それをつや子が散歩がてら家までもってかえるわけだった。同じ広場のカフェーでちょっと休んで、伸子は、

「そこをまっすぐ行けば、いやでも家の前へ出るから、いい? 気をつけて、ね」

 紺のハーフ・コートを着たつや子のうしろ姿が、人ごみの間に見えなくなってから伸子はタクシーをひろった。

 佐野学が捕まったことに連関して日本ではまた幾百人か幾千人かの労働者をこめた人々が、ひどい目にあっているに違いないのだ。

 それにまるでかかわりなく、デュト街の古びた建物の中では、しみのある壁の下の寝台で磯崎が死んでいる。パリで、子供を死なせ、重ねて磯崎に死なれた須美子の孤愁は、伸子の身までを刻むかのようだ。そのような須美子に向って伸子はひたむきな心でタクシーをいそがせているのではあったが、このパリでも七月末にそんなことがあったように、日本でも多くの人々が捕えられ、歴史のなかに古い力と新しい力とが対立してはげしくもみ合っているさなかに、それとは全く無縁に磯崎の生涯が終って、そこにつきない悲しみばかりがのこされてあることは、伸子にふかく物を思わせるのだった。画家としての磯崎恭介の努力と、自分をすててそれを扶けた須美子の骨折りとは、恭介の生涯の終点がここにあって見れば、旧いものがその極限で狂い咲きさせている新しさと云われるものに到達するまでに、使いつくされた恭介の短い生命だったと云える。

 デュト街の磯崎の住居は、葬式の前日らしい人出入りだった。伸子が着いた時、区役所からの埋葬許可証のことで、昨日は見かけなかった二十二・三の若い人が、すれちがいに出直すところだった。

「ほんとに、みなさまのお世話になって──」

 伸子が来るまでに、三時間ほどよこになったという須美子は、きのうからの黒い服で、自分で自分を支えようとするようにかたく両手を握りあわせて、客間の椅子にいた。

「あんまりみなさまが御心配下さいますから、横になって見ましたけれど、とても眠れなくて……」

 低い、とりみだしたところのない須美子の声だった。

「少しは何かあがれて」

「ええ、ちょっと」

 伸子がそこに来ているということは、葬式準備の事務的な用事のためには何の役に立つことでもなかった。伸子は、須美子の苦しい心の、折々の止り木としてそこにいるのだった。用事がすこし遠のくと須美子は、伸子のよこへ来て腰をおろした。

「気分は大丈夫?」

「ええ」

 かわす言葉はそれぐらいだったが、それでも二人がだまって互に近くいるそのことに、悲しくせわしい事務の間の、やすらぎがあるのだった。悲しみも一人の胸に、事務的な判断も一人の肩にかかっている須美子に、そういう瞬間が必要なのだった。

 その晩は八時すぎに、伸子ひとりだけ帰った。磯崎の客間で夜どおしをするのが男のひとたちばかりなら、又それとして男のひとたちにも、くつろぎかたがあり、したがって須美子にもくつろぐときがあるらしかった。



 磯崎の葬式がすんで二日めの午後、マダム・ラゴンデールの授業をうけるために帰ったホテルの屋根裏部屋で、伸子はながいこと一人でいた。

 ペレールのうちのものたちにとっては伸子の友達の磯崎恭介が、このパリで急死して、あとには小さい子供とのこされた若い妻がいるというようなことは、まるでかかわりない生活の気分だった。伸子は、この数日、ひとり痛む心をもって、デュト街の須美子の家とペレールの家、自分の屋根裏部屋と、まわって暮した。

 だまって、じっとしていたい心持になっている伸子は、往来越しに向い側の建物のてっぺんにある露台が見えるディヴァンの上で、おもちゃの白い猿を片方の腕に抱いてよこになっていた。

 このごろのペレールの家の空気には、何か伸子にわからないよそよそしさがあった。それは出立前のあわただしさというものとは、ちがったところがあった。たとえば、多計代の健康のためには、またインド洋の暑さをくぐって帰るよりシベリア鉄道で行った方がいいという説がこのごろになっておこっている、それについても、多計代の気持が伸子にわからなかった。ソヴェト同盟については、根づよい偏見にみたされている多計代だから、シベリアを通ってゆくということには、いろいろの不安があるわけだった。その話がもちあがってから、伸子に不思議と感じさせるのは、多計代がモスクヷまででも伸子と一緒に行こうと云わないことだった。

 一週間ばかり前、医師から忠告されて、ではロンドンで契約した十一月六日マルセーユ出帆の太洋丸の船室を解約しようかという話が出たとき、つや子は、

「ほんと? おかあさま。──つまらないなあ」

と歎息した。

「さわぐものじゃありません。まだきめてはいないんだから──」

 それ以来、みんなで相談するというよりも、多計代一人の頭のなかで、この問題は、伸子にわからない複雑さで扱われているらしかった。

 やがて五ヵ月をよその国々に暮して、モスクヷを出て来たときよりも、もっと深く、もっと現実的にソヴェト同盟の生活を理解し愛すようになって来ている伸子として、ソヴェトのわるくちを冗談のたねにして笑いながら、ポケット・ウィスキーをのむような旅行者一行と、モスクヷへ帰ってゆくことは、堪えにくいことだった。多計代に誘われても、伸子は、それをことわっただろう。伸子はひとりでモスクヷへ帰りたい、ひとりで。愛するモスクヷへ心と体をなげかけるように。──伸子としての気持はそうなのだったが、多計代が、その問題では伸子を避けていることに、自然でないものが感じられているのだった。

 伸子はやがてディヴァンの上へおきなおり、のばした脚の上にスーツ・ケースをのせて、その上でモスクヷの素子への手紙をかきはじめた。

「この前書いてから、たった六日しかたっていないのに、ここでどんなことが起ったか、あなたに想像できるかしら」

 伸子は、磯崎恭介死す、という電報をうけとった夜の情景から、恭介の葬式の日の模様を素子にしらせた。恭介の葬式が行われたペイラシェーズの式場の様子は、六月に素子がまだパリにいたとき、恭介の上の子供が亡くなって、素子もよく知っているわけだった。

「お葬式の日は、こんども雨でした。子供さんの葬式の日、雨はふっていたけれども、あれは若葉にそそぐ初夏のどこか明るい雨でした。さきおとといの雨は、つめたかった。もうパリの十月の時雨でね、ペイラシェーズの濡れた舗道にはマロニエの落葉がはりついていました。須美子さん、看護婦に抱かれている小さいあの白い蝶々のような赤ちゃん、そのほかわたしを入れて八九人の人のいるがらんとした礼拝堂のパイプ・オルガンは、こんどは恭介さんのために、鎮魂の歌を奏しました。正面扉についている小さいのぞき窓のガラスは、再びルビーのように燃え立ちました。パイプ・オルガンが、ゆたかな響を溢らして鳴りはじめたとき、わたしは、隣りにかけている須美子さんの美しい黒服の体が、看護婦に抱かれている子供のそばからも離れ、もちろん、わたしたち少数の参会者の群からも離れて、恭介さんとぴったり抱きあいながら、徐々に徐々にび去って行ったのを感じました。わたしにそれがわかるようでした。それから、須美子さんがのこった妻として、また悲しい雑事のなかに覚醒することを余儀なくされて、そのとき、それがどんなに彼女にとってむずかしいことだったかも。須美子さんは、でも、ほんとに立派に、苦しいこれらの瞬間をとおりました。

『骨の町』の柱廊のはじへ雨がふきこんで、あすこは濡れていました。子供のお骨のしまってあるとなりの仕切りに、恭介さんのお骨がしまわれて、その鍵が、須美子さんの手のなかにおかれたとき、わたしの脚がふるえました。一人の若い女が、外国で、こういう鍵を二つ持たなければならないということは、何たることでしょう。

 須美子さんはたいへん独特よ。この不幸を充実した悲しみそのもので耐えている姿は、高貴に近い感じです。あのひとには、何てしずかなつよい力があるのでしょう。わたしの方が、まごついたり、当惑したり、よっぽどじたばたです。きのうデュトへ行ったら、須美子さんは、わたくし帰ることにきめました、と、いつものあの声で云いました。須美子さんが日本へ帰るということは、片方の腕に生きている赤ちゃんを抱き、もう一つの腕に二つの御骨をもってかえるということなのよ。

 この四日間ばかり、あなたがパリにいたらと思ったのは、わたしだけではなかったろうと思います。わたしのように役に立たないものでも、須美子さんには必要だったのだもの。でも、いい工合に、実務的な面では親切にたすけてあげる若い方があるらしい様子です。いまの須美子さんに対して、人間であるなら親切にしずにはいられません」

 伸子は、そこまで書いて、しばらく休み、それから千種という男からきいたニュースにふれた。

「正直に云って、ペレールの人たちが、このことについて知っていないのは、おおだすかりです。でもわたしたちは、それについてもっと知りたい。知っていなければうそだと思うんです。日本の状態として、ね。そちらではきっと具体的にわかっているでしょうけれど」

 そう書きながら、伸子は、こんな事情は蜂谷良作には、いくらかわかっているかもしれないと思った。素子の手紙へは、それをかかなかったが──

「こんなに幾重ものことで心をつかまれているわたしだのに、マダム・ラゴンデールったら、きょうの稽古の間に、二度も、あなたは街へ出て、カフェーをのみたいと思いませんか、ってきくんですもの! テキストのどこにも、そんな問答はありはしないのよ。マダム・ラゴンデールは、ほんとにただそういう会話の練習をしているだけだという表情で、質問をくりかえしました。わたしは、二度ともノンで答えました。わたしは、それをのぞんでいません、て。心の中で笑いだしたくもあり、腹も立ち、よ。この女教師は『非常にトレ親切なジャンディ』日本婦人たちの先生というよりも、おあいてのような関係にいるのね、きっと」

 伸子は、そこでまたペンをとめた。ペレールのものが、シベリア経由で帰ることにきまれば、伸子は当然素子に、たとえ一日だけにしろ、モスクヷで世話をたのまなければならないわけだった。その上、もうじき雪がふり出すであろうシベリア横断の間で食糧に不自由しないように、とくに果物のかかされない多計代のために、十分ととのえた食糧籠の心配もして貰わなければならない。伸子自身がパリから動こうとしないで、そういう世話だけたのむとしたら、素子はそれを、どううけとるだろう。伸子には自信がなかった。この問題は、ほんとに決定してから、素子へ長文電報をうってもおそくないときめた。

 ところが次の日、伸子にとって思いがけない不愉快な事がおこった。朝九時すぎ、伸子がいつものようにペレールの家へゆこうとして屋根裏部屋からエレヴェーターでおりて来て、ホテルの玄関にさしかかったとき、うしろから、

「アロール、マドモアゼール」

 鼻にかかった大声でよびとめるものがあった。ふりかえると、肉桂色のシャツの上にチョッキを着て、厨房の監督でもしていたのか、ひろい白前掛をかけたホテルのマネージャーだった。

 男は、玄関のホールにあるカウンターのうしろへ入って来て、その前に立ちどまった伸子と向きあった。

「マドモアゼール、あなたは、いつ部屋をあける予定ですか」

 いきなり、粗末な英語でそうきいた。伸子ははっきりした期日をきめずペレールのうちのものが出発するまでと思ってそのモンソー・エ・トカヴィユ・ホテルの七階に寝とまりしているのであったが、そういうききかたをされるのは変なことだった。

「なぜ、あなたはそれが知りたいんですか」

 伸子は、相手の不確な英語と自分のよたよたした英語とがからまりあって、おかしい事態をひきおこさないようにと、ひとことひとことをゆっくり発音し、できるだけ文法にも気をつけてききかえした。

「いつ、あなたは部屋をあけますか」

 あっさりと学生風な身なりをしている伸子の顔の上にじっと眼をすえて、同じ言葉がくりかえされた。男のその眼の中には、日ごろ客たちに向ける愛想よさのうらをかえした冷酷ないやな感じがあった。

「まだきめていない」

 答えながら、伸子はカウンターにずっと近よった。

「しかし、あなたのその質問は、普通、ホテルのマネージャーとして、客に向って試みない質問ですよ」

 それに答えず、ぶっきら棒に、

「あなたは、うちの食堂で食事をしない」

 そう云った。

 一度昼食をたべたことがあったが、ここの料理は、こってりしたソースで肉や魚の味をごまかしてあって、伸子の気にいらなかった。

「それは別の問題です。あなたのホテルは、ホテルでしょう? 食事付下宿パンシオンじゃない。入口には、ホテル・モンソー・エ・トカヴィユとありますよ」

 五十がらみの男の胆汁質な顔に、むらむらした色がのぼった。

「わたしたちは、あの部屋からもっと儲けることができるんです」

 話は露骨で、強引になって来た。丁度ホテルは午前九時から十時の朝飯の刻限で、カウンターのすぐ横にある狭い食堂の中には、女客の方が多い泊り客たちが食事をしていた。カウンターのところで始ったおかしな掛け合いが、すっかりその人々に見えもすれば、きこえもする。エレヴェーターへの出入りも、一旦カウンターの横を通らずには出来なかったから、伸子は、そこでいわばさらしものめいた立場だった。

 伸子は、たくみにおかれた自分のそういう位置を意識するよりもよりつよく、白眼のどろんとしたマネージャーのおしかぶせた態度に、反撥した。

「あなたは、おそろしく率直です」

 伸子は、ちっとも自分の声を低めないで云った。マネージャーの男は、伸子に向ってほとんど怒鳴っている、と云っていいぐらいの大声をだしているのだった。

「あなたのホテル経営法は、どういう性質のものだかわかりました。しかしね、わたしはホテルの室代としてきまった料金を払っています、一〇パーセントのティップを加えて。──わたしは豪奢な客ではなくても、あなたのホテルにとってちゃんとした客です」

「わたしどもは、もっとずっと多く、あの部屋から利益を得ることができるんだ」

 まるで、カウンターのまわりに動いている人々に、自分のうけている損害を訴えかけでもするように視線をおよがせながら、マネージャーは大仰にこめかみのところへ手をあてがった。

「あなたのような若い女のくせに、わたしに損をさせるもんじゃない!」

 これは途方もない、云いがかりの身ぶりだった。

「わたしに責任はありません。あなたが食事つき下宿パンシオンと、入口にかき出しておかなかったのは、お気の毒です」

「別のところへ部屋を見つけなさい。もっとやすいところへ──やすいところへ」

 フランス人に特有な両肩のすくめかたをして、男は伸子にわからないフランス語のあくたいをついた。

「あなたが部屋をあけなければ、あなたの荷物を、道ばたへ放っぽり出すから!」

 伸子は腹だちを抑えられなくなった。

「あなたにそうする権利があると信じているなら、やってごらんなさい。──やってジャストごらんなさいトライ・イット わたしどもは、その結果を見ましょう。フランスは法律のない国ですか?」

 やっと男はだまった。

「わたしの承知なしで、あなたは何一つすることは許されません、荷物にさわることも、室をひとに貸すことも──」

 おこりきった顔と足どりで、伸子はさっさとホテルの玄関を出た。戸外には、天気のいい十月の朝の、パリの往来がある。小公園のわきをとおってペレールへの横通りへ曲りながら、伸子は、だんだん腹だちがおさまるとともに、あのホテル全体に対するいやな気持がつのって来た。

 伸子が云いあらそっているとき、わざとゆっくりカウンターのわきを通りすぎながらきき耳をたてていた男女や、必要以上ゆっくり食堂に腰をおろしていた連中の顔の上には、自己満足があった。学生らしい身なりをしていて、ろくな交際もないらしく、一人で出入りしている若い女、ホテルに余分な一フランも儲けさせない女。そんなこんなで、マネージャーにいやがらせを云われている女。小綺麗なモンソー公園の近くに、その名にちなんだしゃれた唐草模様ガラス扉をもっている小ホテルのカウンターでくりひろげられたのは、バルザックの小説のような場面だった。

 伸子は、たかぶった自分をしずめるためにペレールの家の前を通りすぎて、ペレール広場まで行って、そこからもどって家へ入った。

 ペレールの食堂では、泰造と多計代のジェネヷ行きについて、その小旅行につや子をつれて行くか、行かないかの相談最中だった。

「どうします? つや子」

 泰造らしく、末娘の意見をきいている。その調子のどこかに、重荷を感じている響があった。手荷物の多い多計代一人が道づれでも、税関その他での心労が、六十歳をこした泰造には相当こたえるらしかった。

「たった四五日のことだから、こんどは留守番しますか、姉さんにでもとまってもらって……」

 つや子にしても、またジェネヷへ行って、中途半端な自信なさで大人ばかりの客間から客間へひきまわされることは、気づまりらしかった。つや子は、

「お留守番する」

と答えた。

「伸ちゃん、泊ってもらえるんだろうね?」

「ええ……できると思うわ」

「おや、何だか御不承知らしいね」

 みんなにはだまっているが、けさのホテルでのことがあるから、伸子は、四五日こっちへとまるとしたら、と、ホテルの荷物がどうにかなってしまわないかしら、と思ったのだった。

「よくてよ、安心して行ってらっしゃい」

 何かおこれば、おこったときのことだと伸子は心をきめた。

「じゃあお父様、そうきまったんなら、切符をお願いいたしますよ」

 泰造は間もなく外出し、多計代は、ゆうべよく眠らなかったといって寝室へもどった。親たちの留守、姉とだけ暮すということが気にいったらしく、つや子は機嫌よく、客間の隅にかたよせてある絵の道具をもち出した。カンヴァスの上にはつや子の性格のあらわれた強いタッチで、前景に露台のある並木越しの風景が描きかけてある。ブルヴァールをへだてた遠くに、赤白縞の日よけをさし出した一軒のカフェーがここから見えていて、つや子の絵の中にそこも入れられているのだった。

「お姉さまあ、こっちへ来てみない?」

「うん」

「ねえ、いらっしゃいよう」

「ちょっと待って」

 片づけられた食堂のテーブルのところから伸子を気軽に立ち上らせないのは、やっぱり、けさのごたごたの、いやなあとあじだった。伸子は、きょうも夜になればいつもどおりモンソー・エ・トカヴィユへ帰ってゆくつもりだし、急に引越そうとも考えなかった。そんなことは、伸子としてくよくよ考える必要はないわけだった。伸子に何のひけめもあるのではないのだから。

 しかし、ホテルに対する抵抗の気分は、伸子をおちつかせなくさせた。ジェネヷ行きの間だけペレールにとまるのはいいとして、そのあと、つづけてここに暮さなければならないような事情におかれては、伸子は困るのだった。それに、ここは佐々のうちのものが出立すると同時に、あけわたす契約になっている。

 安定を求めて、あすこ、ここと考えめぐらしていた伸子の頭に、ふっと蜂谷良作にきいて見ようという考えが浮かんだ。その思いつきはあっさりしていて、伸子を躊躇ちゅうちょさせる何もなかった。

 伸子は、ハンド・バッグから小さい手帳を出して、そのうしろに蜂谷良作が書きつけて行ったクラマールの八四五という電話を呼び出した。蜂谷は在宅だった。伸子は、ごくかいつまんで、今朝のあらましを話した。

「ふらちな男だな。どういうんだろう。僕が行って談判してみてもいいですよ」

「ありがとう。でも、それはいいんです」

 今さら、男のひとに出てもらう気は、伸子になかった。

「ただね、もしかしたら、部屋の事でお心あたりがあるかしらと思って」

「──じゃこうしましょう、僕はどうせ、きょう午後から用事があって市内へ出るから、そうだなあ……二時ごろになるかな、そちらへよって見ましょう──ペレールでいいんでしょう?」

 よびたてたようで、伸子は気がひけた。

「そんなことは、かまわない。どうせ、ついでなんだから……」

 蜂谷良作は、その午後約束の時間に伸子をたずねて来た。



 蜂谷良作とつれだって、伸子はその日のうちにエトワール附近にある貸室をみに行った。ペレールのアパルトマンの古風さにくらべると、新式で軽快な建物の三階の一室だった。ウィーンの下宿パンシオンがそうであったように、ここも持主の住んでいる部屋の入口は別で、ひろやかで明るいエレヴェーターぐちをとりまいて、いくつかのドアのある建てかただった。

 灰色っぽい小粋ななりをした、賢い目つきの五十がらみの主婦が、あっさりした態度で、蜂谷良作と伸子にその室を見せた。貸室はエレヴェーターを出て、右手に両開きのドアをもった部屋だった。

 ドアがあいて、室内がひとめに見えたとき、伸子は、自分の住めるところではないと感じた。横長くひろびろとしたその室のヴェランダと、大きい二つの窓は、晩秋の色にそまった並木越しに凱旋門の一部を見晴らした。いかにもシャンゼリゼの近くらしい贅沢で逸楽的な雰囲気の部屋であった。この部屋のもち主は、能率よくこの部屋を働かせるために、これまで住んでいた人たちが立つと、すぐその日の午後であるきょうの三時から五時まで面談と新聞広告をだしたにちがいなかった。目を見はらせる室の眺望とともに、これまで住んでいた人の暮しのぬくもり、女がつかっていた香水ののこり香さえまだどこかに漂っている。

 もと住んでいた人たちというのは男と女であり、夫婦であって夫婦でないようなつながりで、この美しい眺めの一室に贅沢な拘束のない生活をしていた、そんな風に感じられた。

 蜂谷良作は、伸子の柄にもない部屋がまえについて何と感じているのか、表情に変化のない顔つきで、主婦と室代について話している。室代は場所がらと、二つの窓のすばらしい眺望が証明しているとおり高かった。

「御希望でしたら朝の食事だけお世話いたしてもようございますよ、牛乳入コーヒーのフランス風の朝飯なら、これこれ」

 ひろい室内をヴェランダや窓に沿ってぶらぶら歩きまわりながら、伸子は、借りないときまっている気持の楽さで、主婦と蜂谷の問答をきいた。

「もし、イギリス流の朝飯がおのぞみでしたら、お二人で、これこれ」

「マダム、部屋をさがしているのは、このマドモアゼルなんです」

 正確だが重くて平板な蜂谷のフランス語が主婦の流暢りゅうちょうで弾力のある言葉をさえぎった。

「彼女が一人で住むことのできる室が必要なんです」

「──では、ここはひろすぎますわ」

 機智のこもった主婦の視線が、ベレーをかぶって、パリ風というよりはイギリスごのみの学生風ななりをして窓から景色を見ている伸子をちらりと見直した。この主婦が、ひろすぎますわ、といったことは、とりもなおさず、この方には場ちがいなところですわ、という意味だった。伸子は、お愛想ばかりでなく、

「すばらしい眺めですこと!」

と、その部屋をほめた。

「この室は、ほんとの贅沢部屋です」

 伸子と蜂谷とをドアのところへ送り出しながら主婦は人をそらさない調子で、

「わたしどもも、この室の眺めは、ほんとに愛しているんです」

と云った。この景色があるばかりで、彼女のもっているこの一室はどんなにねうちがあるかということへ満足をこめて。

 往来へ出ると、伸子は笑って蜂谷良作に云った。

「あのマダム、まるで金の玉子を生む牝鶏めんどりのことでもいうように、あの部屋の景色のことを云ったわね」

「ハハハハ。金の玉子をうむ牝鶏か。なるほどね、彼女にとってみれば、そうにちがいないわけだ」

 蜂谷良作と伸子は、ペレールへ向って歩きながら、途中で休んだ。

「この辺でさがすとなると、どうしても、あんな風な部屋になってしまうんだな」

「ひまつぶしをおさせして、ごめんなさい」

「暇なんだから、一向かまいませんよ。僕も興味がなくもない」

 いやがらないで蜂谷が時間をさいてくれただけに、伸子は彼にだらだらと部屋さがしをてつだって貰うことは、押しつけがましいと思った。男のひとが若い女に示す好意に甘えて、何かをたのむというような習慣を伸子はもっていないのだった。

「もうひとところ、下宿パンシオンであるんだが、いちどきに二つはくたびれるでしょう?」

「それはどのへん?」

 蜂谷はポケットからノートブックをとり出して、アドレスをしらべた。

「僕も行ったことはないんだが、キャルディネ通りっていうんだから、どっかモンソー公園とワグラムの中間あたりじゃないのかな」

 パリのそんなこまかい通りを、日ごろ市外に住んでいる蜂谷良作が知っているとは思えなかった。凱旋門のそばの貸室を、彼は伸子の電話をきいてから新聞広告で見つけだした。下宿というのも、同様の方法で目星をつけたのだろう。伸子をつれてあんまり迷わないように、彼は地図を見て来たのかもしれなかった。

 伸子は、いつも持っている赤い表紙のパリ案内を出しかけた。そして蜂谷からキャルディネという町名の綴りを教わりながら頁をくると、それは親たちの住んでいるペレールと同じ第十七区だった。

「ああ、あった。ここだわ。ホラ、キャルディネ……。近いし、わかりやすいところなのね」

 桃色にぬられている地図を見ながらちょっと思案して、伸子は、

「番地教えていただいて、あしたでも、わたし自分で行って見ます」

と云った。蜂谷は、そういう伸子をいくらか解せなそうに、

「僕の方は、ほんとにかまわないんですよ」

 額によこ皺をよせるようにして伸子をみた。

「一人じゃ、交渉なんか、めんどうくさいでしょう?」

 伸子の言葉が不自由なのを、蜂谷はそういう表現で云った。

「ありがとう。──でも、また無駄足だとわるいから……」

 何となし伸子にはそんな予感があった。

「そんなことは、室さがしにつきものだ。ともかく、あした、あなたのいい時間によりましょう」


 キャルディネ通りの下宿の経営者はふるい軍人あがりらしい老人であった。彼が、ともかくうちの庭を見て下さいと、蜂谷と伸子とを、いきなり庭へ案内したのは、かしこいことだった。というのは、こぢんまりした三階の建物に沿ってしつらえられている生粋きっすいにフランス風の小砂利をしいた細長い庭こそ、その下宿パンシオン気質かたぎを語っていたから。奥が深いかわり間口が狭い庭に、夏の日をしのぎよくするための葡萄ぶどう棚がつくられていて、建物の入口の横から庭へはいる境は、低い植込みだった。手入れのゆきとどいた小砂利の上には、白く塗った鉄の庭園用テーブルと同じ椅子が三つ四つおかれて、その一つに、黒ビロードの部屋着を羽織った髭の白い老人が、小型の本を片手にもってよんでいた。老人の頭に、黒ビロードの室内帽がかぶられている。老人は、しずけさのうちにゆるゆるとすぎていく時間を居心地よく感じているらしく、低い植こみのかなたに現れた伸子と蜂谷の方へ、自然な一瞥を与えたきり、ふたたび読書に没頭して行った。

 パリの賑やかさのうちに静けさをたのしんで生きている恩給生活者を主な客としている下宿であることは、庭の様子に語られていた。そして、どこか武骨なところのある経営者は、自分の下宿パンシオンが、古いフランス流儀でとりまかなわれていることを、ほこりとしているにちがいないのだった。

 建物について入口の方へもどって行きながら、伸子は、

「何て、ことわりましょう」

 こまったように蜂谷良作を見上げた。

「面白いけれど、住めないわ。──あんまり巡回図書版のアナトール・フランスごのみで……」

 蜂谷良作は、入口の石段のところに立って彼らの戻って来るのを待っていた経営者に、

「非常に居心地よさそうで、ちゃんとした庭をおもちですね」

と云った。

「そうです、そうです、ムシュウ」

「ところで、あなたの下宿パンシオンは、外国人にあんまり馴れておいででないように見うけますが……」

「そうです、そうです、ムシュウ」

「わたしたちは、あなたの伝統に敬意を表しましょう。このマドモアゼルは、主に英語を話しますから」

「そうです、そうです、ムシュウ」

 年よりの角顔に、安心したような、気のいい微笑が浮んだ。

「さようなら、マドモアゼル」

 老人は、子供の時分から見なれて年月を経た大木をいつか愛しているように、自分の下宿の伝統を愛しているのだった。

 その日、伸子と蜂谷良作は、もうひとところの貸室を見た。セイヌ河のむこうにあるアトリエだった。古い寂しい横丁に面した一つの石門をはいると、そのすぐ右手に住みすてられたようなアトリエがたっていた。趣味のある大きい鉄の蝶番ちょうつがいつきの小扉をあけると、そこがもう煉瓦じきのアトリエの内部だった。なかくぼに踏みへらされた煉瓦の床に窓からの日かげが流れていて、高いガラス張りの天井から落ちる光線が、うっすり埃をかぶった中二階の手すりや、その辺のがんじょうな木組みを見せている。いつ舞いこんだか、床にマロニエの枯葉がころがっている。

 それは荒廃したアトリエだった。ほんとに仕事をする場所としては、もう役に立たないところかもしれなかったが、伸子の目にうつる廃屋めいた風情は、空想をそそった。一緒にくらす愛するものがあったら、こんなところに暮してみるのも面白かろう。町すじの寂しい人気なさ。見すてられているようなアトリエ。男と女とがむのでなければ、ここでの生活の愉しさはかもし出されようがない。

 蜂谷良作と伸子とは、小扉をあけてアトリエに入ったところにたたずんだまま、しばらく黙ってその辺を見まわしていた。

「──どう? そろそろ行きましょうか」

 そう云ったのは伸子だった。モスクヷで、あんなに部屋さがしをした。だけれども、モスクヷでの部屋さがしは、ほんとにいそがしい生活と生活との間に見出そうとする空間の問題のようで、そこに住むのが男であろうと、女であろうと、第一に考えられるのは、そこが健康に適しているかいないかということだけだった。いまこのアトリエを見まわしている伸子の心に湧いたような空想をおこさせた場所は、どこにもなかった。それは、モスクヷの生活そのものが、沸騰し、充実した活動にみたされているためにそうなのだろうか。それとも、伸子が素子と一緒に暮していた、そのせいだろうか。

 落葉のちっている古い歩道に、男の靴音と女靴の小さいかかとの音とをまじえて歩きながら、伸子は、

「なかなか住めるってところはないものなのね」

 複雑にゆすられたこころもちを、室さがしという話の幅におさめて、蜂谷良作に云った。こういう風に室さがしをやりはじめて、伸子は、二人でさえあれば、どんなところにでも住めるのに、と思うことが多かった。二人でさえあれば、と云って、その二人のうちの自分でないもう一人は、伸子にとって現実のどこにいるのでもないのだった。

「室さがしなんて、大体こんな工合のものなんですよ」

 蜂谷良作と伸子はセイヌ河の古本屋通りへ向ってゆっくり歩いた。

「たった二日歩いたぐらいで飽きたんじゃあ、室さがしは出来ない」

「飽きなんかしないけれど……」

 つまりは、現在いるところがあるからだ、と伸子は思った。

 伸子は、けんかしたあとも、夜はきちんとホテルへ帰って、そこで寝た。ペレールから伸子が歩いてホテルへ戻るのは大抵夜の十時か十一時で、マネージャーの親爺はその時刻に、帳場にいることもあり、いないこともありだった。いたにしても、伸子が正面のしゃれた模様入りのガラス扉をあけると、そこから入って来るのが伸子だということをとうに知ってでもいたように、決して入口に顔を向けず、帳簿つけのようなことをやっていた。伸子の荷物が往来にほっぽり出されることもなく、七階の屋根裏部屋を伸子のカギであけたとき、先ず目をやる枕の上の白い猿のおもちゃにも異状はなかった。

 だからと云って、彼らが伸子を出て行かせようとしていることは同じだった。マネージャーの細君である非常に肥った女が、捲毛をたらした頬に愛想笑いを浮べて、ある朝、伸子のそばへよって来た。

「こんにちは、マドモアゼル」

「こんにちは」

 マダムとつけるべきところだろうが、伸子にはそう云えなかった。

「マドモアゼル、お部屋は見つかりましたか?」

「いいえ」

 それをきくと細君は、自分の胸の厚さでおすようにして伸子をエレヴェーターのものかげへひきよせ、指環のはまっている片手を伸子の腕の上において、ひそひそ声で半ばおどすように云った。

「マドモアゼル、おわかりでしょう? お部屋を早くおみつけなさい。わたしは、毎日、うちのひとをなだめているんですよ、あのかたは教育のあるマドモアゼルなんだからって」

「ペレールに住んでいるわたしの家族が十月末にはパリから出発します、それと同時に、わたしも引越しましょう」

「おお! マドモアゼル、それは、わかっていますよ」

 アパルトマンの門番からでもききだしているらしく、ほんとにそのことは知っているくちぶりだった。

「でも──今月末!」

 細君は息を吸いこんだまま伸子を見つめて、かぶりをふった。

「マドモアゼル、部屋をおさがしなさい。あなたがいい方だということは、わたし、よくわかっているんです。ね? よございますか? マドモアゼル」

 それは、いい子だからねとくりかえして、いやがる使いに娘を出そうとするおふくろの言葉のようだった。



 伸子の部屋さがしの中途で、両親がジェネヷへ立つ日が来た。

 前の晩、おそくまで多計代の手伝いをして、つや子の部屋に泊った伸子が目をさましたとき、窓の外に雨が降っていた。

 こんな天気で立てるのかしら。伸子はそう思った。多計代は和服だから、雨降りだと不便なばかりでなく、また気分がわるくでもなるのではないかと思った。

 本来ならば、おととい、親たちはジェネヷへ行っていたはずだった。朝十時の列車にのる予定で出た泰造と多計代とは、ペレールの住居で伸子とつや子が、もう汽車にのりこんだだろうかと話しているところへ、不機嫌な顔を並べて戻って来た。多計代の気分がわるくなって、どうしても出発できなくなったのだった。

 泰造は、病弱な妻をつれて旅をしているためにおこるそういう不便にはなれて来ていても、多計代が云った何かのことで、ひどく傷つけられているらしく、

「伸子、おっかさんを見てやってくれ」

 びっくりして出迎えた娘たちにそう云ったなり、やっと客室の長椅子にたどりついた多計代の方は見ないで、外出してしまった。

 体のなかに苦しいところがあって、しゃんとかけていにくいらしく、多計代は肩をおとして、片手を長椅子のクッションの上につきながら、もう一方の手で、ものうそうに帯あげをゆるめた。

 伸子は、できるだけいそいで、その帯あげをとき、袋帯をほどき、その下の伊達巻や紐類をゆるめた。おはしょりがゆるんで派手な訪問着の前褄がカーペットの上にずりおちた。

 つや子がいれて来た熱い緑茶を、ゆっくりひとくちずつのみながら、多計代は、

「お前がたのお父様ってかたは、いったいどこまで見栄坊なんだろう」

 苦しさはそこにあるという風に、多計代は息をきらしながら云った。

「わたしの健康より、浅井さん夫婦に気がねをする方が先なんだから、あきれたもんだ。どんなに偉いのかしらないが、さきは、若い人たちじゃないか」

 浅井夫妻は、国際連盟関係でジェネヷに駐在している人々であり、泰造にとってはもともと儀礼的な知人でしかなかった。その人たちが、出迎えたり、ホテルの世話をひきうけてくれていることについて、人に迷惑をかけまいとする泰造が、出来るだけ予定を変更したがらなかったこころもちは、伸子に察しられた。

 伸子は、多計代のそういう言葉にあいづちをうつ心持がなかった。足が冷えないように白い足袋の足の下にクッションをおき、寝室からもって来た羽根ぶとんで、動くのも大儀そうな多計代の体をくるんだ。

「ベッドに入っていらした方がいいんじゃない?」

 しばらくして伸子がすすめると、多計代は故意に顔をそむけるようにした。

「さあさあ、とんだ御厄介をかけてすまなかったね、伸ちゃんも行くところがあるんなら、さっさと出かけておくれ」

「…………」

 みんなが苦しむのは、多計代の不健康よりも、こういうこじれかただった。多計代の体がわるいことについて、家族のみんながもっている同情や心づかいの優しいこころに、多計代はいつも自分からつっかかってとげをたてた。

「──病気が事務的に解決できるものなら、わたしだって、何もこんなに苦しみやしない」

 なか一日休養して、けさ、ようやく出直しの出発だというのに──。

 窓の外にふる雨を見ながら、伸子は身じまいをした。そして、廊下へ出ると、寝室から浴室へ行こうとしている泰造に出会った。

「おはようございます」

「ああ、おはよう」

「──雨ね、お父様」

 泰造は、白い短い髭のある上唇を、むくりと動かすようにして、

「ああ」

 めずらしく、ぶっきら棒な返事だった。

「だまっているんだ。また問題がおこるから」

 伸子によけいなお喋りをするな、ということなのか、それとも、うるさいから俺はだまっているんだ、というわけなのか。どっちにしろ、それは伸子に、普通でない泰造の気分を感じさせた。浴室に入ってドアをしめる父親のうしろつきを、廊下にたって伸子はじっと見送った。

 おととい、多計代から傷つけられた泰造のこころもちは、いやされていないのだ。

 伸子は、まだ仕度されていない食堂へ行って、ぼんやり立っていたが、やがて、寝室のドアをノックしてあけた。多計代はもう起きていて、電燈をつけた鏡に向って髪を結い終ったところだった。

 雨が降っていることについては、多計代は何とも云い出さなかった。食堂のヴェランダからは、雲の低いパリの空がひろく見はらせ、目の前のヴェランダはすっかり濡れているのだから、多計代にも雨がふっていることはわかっているにちがいない。伸子のはらはらする気持は、多計代をジェネヷ行の列車の車室にかけさせてしまうまで、休まらなかった。みんなが気をそろえて、天気のわるいことにはふれないで自分をたたせようとしている。そこにこだわって、多計代がおこりだすことはあり得たし、そういって多計代がおこれば、伸子は自分として何と云いつくろうのか知らなかった。浴室へゆく廊下で泰造のああ云った言葉がなければ、伸子は、母の顔を見た最初に、あいにく雨ね、というたちなのだったから。

 格別の苦情も云わず、それかと云って旅だつ楽しそうなところもなくて、両親が並んで乗っている列車が発車してから、伸子は寂しいきもちで、モンソー・エ・トカヴィユまでタクシーをはしらせた。

 十時半にホテルへ磯崎須美子が来るはずになっていた。十一月はじめにマルセーユを出帆する太洋丸で日本へかえる須美子は、伸子とおちあって百貨店プランタンへ子供の旅仕度のための買物に行く手筈にきめてあったのだった。

 ロンドンできめた予定どおりに運べば、同じ船で、泰造、多計代、つや子も帰国するわけだった。パリへ来てから、多計代の健康上、シベリア経由をすすめられて、佐々の方は、まだきまらないままである。

 ホテルへ着いてみたら、須美子のノートがのこされていて伸子が留守だから、一足先にプランタンへ行っている、子供部に居ります、とある。思いがけない行きちがいで、伸子は、びっくりしながらカウンターの上の時計を見あげた。ここの時計はもう十時四十五分になっている。どうしてこんな時間になったろう。列車は十時発車ということで、発車と同時に伸子はリオン停車場前からタクシーにのったのに。途中に四十分かかったとは信じられない。しかし、伸子がおくれた証拠には、約束どおり十時半にここへ来た須美子のノートがのこされているのだ。

 パリで子供を亡くし、つづいて良人の恭介に死なれ、二人の骨をつれて日本へ帰って行く須美子との約束をないがしろにしたような成行を、伸子はそのままにしておけなかった。

 プランタンへかけつけて、二階の子供もの売場をさがして行くと、いいあんばいに須美子の一行が見つかった。須美子は、恭介が急に亡くなったときからいる中年の看護婦に、下の子供を抱いてもらって来ていた。いそいで陳列台の間を近づいてゆく伸子を認めると、須美子は手にとりあげていた白い子供ものを下において、

「ああよく!」

と云った。

「おいそがしいのに、ごめんなさい」

 ブルターニュ生れらしい、実直な看護婦が、抱いている子供の体のかげから、

「こんにちは、マドモアゼル」

というのに答えながら、伸子は、少し息をはずませた声をおさえて、

「ごめんなさい、行きちがってしまって。両親がジェネヷへ立つのを送っていたもんだから……。でも列車は十時に出たはずなのに、どうしておくれたのかしら──」

「あなたに忙しい思いをおさせしてわるうございましたけれど、わたしは、うれしいわ、来て下すって──」

 須美子は、伸子の手をとったまま、唇をひらかないほほえみを泛べた。恭介が亡くなってから、ほほえみらしいものを浮べた須美子の顔を伸子は、はじめて見た。

 須美子は、そこで、看護婦の腕にだかれている子供のいまの小さい体に合うような、そして、いくらかあとまで使えるような形や布地の下着を注意ぶかくいくつか選び出した。それから別の陳列台のところで、歩けるようになったときのために可愛い白鞣の靴を一足買い、船のなかで使うために桃色の子供用毛布とフードつきのマントを買い求めた。ちゃんと計画を立てて、須美子は買うべき物を選び、布地の丈夫さについてはときどき看護婦と相談した。あたりまえのなりをしていて、普通のパリのおばさんのように見える看護婦は、須美子から相談をうけると、世帯もちのいい女らしくその布地を指の間でためしたりして親身に相談にのっている。あらゆる角度から、女の購買欲をそそりたてるマガサンでの須美子の買ものぶりは、伸子を感服させ好意を誘った。須美子にはものを買うにも、ほんとに須美子らしいつつましさと清らかさがあって、山とつまれ、色とりどりに飾られた品物の山の中から、正直な小鳥が、自分にいるものだけを謙遜にくちばしでひき出すように、おちついて選びだすのだった。

「お疲れになったでしょう、こまかいものばかりいじっていて」

 須美子は子供品売場から出ながら云った。

「もうひとところ、つきあっていただかなければならないんですけれど。鞄売場はどこかしら……」

 六階の鞄売場はプランタンのほかの売場より人気がなくて、棚の上まで大小さまざまのトランクの金具が光り、鞣や塗料の匂いがただよっているなかに男の売子が立っていた。

 須美子は、ゆっくりとそこを見て歩いた。

「手に下げられるような形の鞄の方がいいと思うんですけれど」

 船室で使うスーツ・ケースがいるのかと思ったが、須美子のさがしているのはそういう種類のものでなく、婦人向の気のきいた手まわり入れでもないらしかった。

「何というんでしょう、両方へくちが開く鞄がありますでしょう、すこし深くて──昔からある形だと思うんですけれど」

 陳列の間をさがして歩く須美子の足どりにも、眼つきにも、子供売場での須美子とちがった熱心さがあらわれていて、ほかの型ではどうしても彼女の役に立たないことが、はっきりしている風だった。

「きっと、はやりの型じゃないんでしょうね」

 根気よく売場を隅々までひとまわりして、おしまいに棚の上の方でやっと須美子の求めているらしい形の鞄が発見された。

「ああ、あれですわ、そうらしいわ」

 須美子は、背広を着た若い店員に、その鞄をおろさせた。茶色皮で、どちらかというと野暮くさい両開きの鞄を台の上へおいて須美子は丁寧にうち張りと縫めをしらべ、幾度も鍵のしまり工合をためした。そうしながらも、須美子はその鞄の容積を気にして内外から調べる様子だったが、その結果彼女は、もう一つ同じ型の鞄を買うことにした。

「とどけさせるの?」

 伸子がきくと、

「もてますでしょう、看護婦さんがいますし、どうせタクシーですから……」

 軽いけれどもかさばるカバンを両手に下げて、須美子は、やっときょうの買物の予定はすんだ、という表情になった。伸子たちはプランタンのなかの食堂で、あまりおいしくもない昼食をすました。そして、十四日の午後二時に須美子のデュトのうちへ行く約束をして、百貨店の前からタクシーにのった須美子の一行とわかれた。佐々の両親がパリを立つのもいずれ月末のことになっているし、双方の出発の日がせまらないうちに、伸子は須美子のために小さい計画を思いついたのだった。



 今夜からは、両親のいないペレールの家の寝室につや子とねることになった。そこへ入って行ったとき、伸子は、何となしはじめて案内されたホテルの室でも見まわす時のような視線で、古風にどっしりとした室内を眺めた。

 このアパルトマンの四つの部屋のうち、伸子にとっていちばんなじみのないのが、両親の寝室であった。片隅に重々しく衣裳箪笥が立っていて、窓よりの壁の前では、化粧台の鏡の面に電燈に照し出されて室内の一部が映っている。大形トランクやスーツ・ケースが壁の下におかれていることは、日頃見ているとおりだったが、二つ並んでいる寝台の間にはさまれて立っている枕もとの小テーブルの上は、スタンドのほか何もなく、きちんととりかたづけられている。いつもはその上に、狭いばかりごたごたと、ものがおいてあるのに。

 多計代が、そのように始末して出かけたのはめずらしかった。そろそろ着ているものをぬぎながら、何となしその枕もとの卓のあたりに目をやっているうちに、伸子は、あ、と思いついて、頭からぬぎかけているスウェターの、毛糸の匂いのするなかで目を見ひらいた。いつもはそこに保の分骨を納めた例の錦のつつみものが置かれていたのだった。そして、そのまわりにセイロンの象牙でつくった象の親子だの、金糸とビロードでこしらえた花かごだのが、飾られていたのだった。

 そういえば、多計代はけさ家を出るときコバルト色に朱を細い縞にあしらった自分の旅行バッグを手からはなさなかった。多計代はジェネヷへ保をつれて行ったのだ。あすこに保がいれられていた。

 それにつれて、須美子が買った二つの同じ型のカバンの用途が、いちどきに伸子にのみこめた。一つは恭介のために。もう一つは子供のために。須美子は二つのカバンを買ったのだった。しきりに大きさを気にしていたわけもわかるように思えた。彼女は、夫と子供とを一つのもののなかに入れ日本までの旅をしたかったのだ。そういう買物であったから、須美子は伸子でも、わきについていてほしいこころもちであったのだ。

 天井の電燈をつけたまま寝室に姉とならんで横になり、つや子はとなりの寝台からたのしそうにしゃべっている。

「お姉さま、真暗のなかだと、空気が重くなって息が苦しいようにならない?」

「そうかしら。──わたしは小さいとき、真暗ん中で目をあいていると、体がだんだん四角く小さくサイコロみたいになって行くようで、こわかった」

「ふーん」

 話しながら伸子は考えつづけた。きょうプランタンで須美子がきまった型のカバンをさがして、いつもの須美子に似合わず執拗に陳列の間を歩きまわっていたとき、伸子が、おせっかいな口をさしはさまなかったのは、せめてものことであった、と。須美子の熱心さには何かあたりまえでないところがあった。それが伸子をおさえたせいだった。そのカバンを二つも買うことについて、用途を説明させるような物云いをしなかったのも、伸子は、せめてもだったと思った。あのカバンを届けさせず、自分でまっすぐに持って帰った。そこにも須美子の心の疼きがうらづけられている。不仕合わせな須美子の感情の動きにくらべると、そのような痛みにおかれていない自分の心が、大まかにしか働らかないのを、伸子は自分の卑しさを発見したに近い感じで自覚するのだった。

 つや子は、しばらくしてまた、

「ねえ、お姉さま」

とよびかけた。

「お兄様たち、ロンドンでいまごろ何していると思う?……動坂ではね、このひと、お兄様と寝ていたのよ。お兄さま、いつもおそくかえって来てねるでしょう、だからこのひと、先へねるとき、お兄様の枕をだいてねることにしていたの。いつだったか、一所懸命枕だいてねていたつもりだったら、目がさめたとき、ほんとにあきれちゃった。枕だと思ってたの、お兄様の脚だったんですもの」

「まあ、いやだ!」

 風呂ぎらいだった和一郎の毛脛けずねを考えて、伸子は笑い出した。

「さかさになったのはどっちなのよ」

「このひと──」

 少女のつや子が、このごろは多くひとりぼっちのこころもちで暮していることが、たまのこういう会話で伸子に察しられるのだった。末娘のつや子が両親に愛されていないと云ってしまえば、それは、長女の伸子がちっとも愛されていないというのと同様に、真実ではなかった。けれども、何かにつけて冷酷だという多計代の非難に伸子がけっして承服していないように、つや子は、自分が多計代から石のような子だ、と云われるたびに、そうじゃあないのに、という悲しさは感じているだろう。

 スタンドを消そうとするとき、つや子は、

「お姉さま、いい? あしたの朝は、このひとがコーヒーこしらえてあげる、よびに来るまで起きないで。いい?」

 そう云って、ベッドの上で弾むようにねがえりをうってあちら向きになった。



 姉と二人きりになったつや子のくつろぎかたは、ほんものだった。

 おかっぱの髪の上に、指をくみ合わせた両手をのせて、短いスカートをふるようにしながら部屋から部屋へぶらぶら歩きまわったり、ヴェランダによりかかって飽きずに外を見ていたり、そうかと思うと、いきなり、

「ねえ、お姉さま、このひと、帰ったってもうあんな学校へなんか行きゃしないから!」

 誓うように云ったりした。

「フランスでも姉妹マ・スールって、意地わる?」

 こんど親たちにつれられて旅行に出るまで、つや子は東京にある三種類の尼僧女学校の一つに通っていた。その学校の在る通りが、泰造が事務所へ行く通路に当っていた。小児喘息でつや子は弱いから、自動車のついでのあるところがいいし、泰造の友人の娘たち三人もその女学校を卒業したり在学中だったりしているということで、つや子は小学校からずっとそこの女学校へ通わされていたのだった。

 カソリックの尼僧学校だったから、尼僧の校長はマ・メールとよばれ、これも尼僧の教師たちは姉妹マ・スールとよばれ、服装もきびしくて、夏でも黒い長靴下をはいていなければならなかった。あんまり暑い日、つや子はソックスをはいて行って、ひどくマ・スールに怒られ、早びけして来たことなどあった。課外のピアノ教授を申しこんでも、つや子の番はとばされて、あとからたのんだ女の子が教わるようになった。日本人のマ・スールは、ピアノがおうちにあるのなら、よその先生にならったらいいでしょう、と云うのだそうだった。級のなかで、そういう立場におかれているつや子のために、多計代はバザーの特別な援助をすることもなく、クリスマスのおくりものをすることも考えなかった。伸子の女学生時代に多計代がそうであったとおりだった。

「お母さまだって、あなたをまたあすこへかえそうと云っていらっしゃりゃ、しないでしょう」

「──もしお母さまが相談したら、お姉さま、どこか別のところを考えてよ、ね?」

「わたしは、はじめっから尼さん学校は賛成じゃなかったんだもの」

「あんなところへまた行くんなら、このひと、不良少女になっちゃう」

 不良少女というものを、つや子は晩熟な女の子らしく、わるい女の子というほどの内容で云っているのだったが、それをいうとき、つや子の、がっしりと四角い顎をもっているきつい顔の上に、旅券パスポートに貼ってある小型写真にうつっているような、けわしく、暗い、一途な表情があらわれた。

 休日らしい暮しがつづいたのは、二日か三日のことであった。

 マダム・ラゴンデールの授業をうけにホテルへ戻っていた伸子がかえって来ると、ひとりで留守をしていたつや子が、

「こまっちゃった!」

 伸子の前へ来て立った。

「どうしたの」

「マダム・ルセールったら、洗濯にやってくれって、はっきり云ってたのんでたのに、メルシ、メルシってこのひとのスリップをもって帰っちゃった」

「どんなスリップ?」

「いちばん御秘蔵の」

 うすいピンクのクレープに、幅のひろいきれいなレースつきというものだった。

「このひと、ちゃんと字引きひいて、云ったのに──」

 つや子は、文法ばかりやかましくしつけられた尼僧女学校のフランス語で、洗濯ラヴェという言葉や、やるドネという単語を四角四面にならべて、すばしっこいマダム・ルセールに、かえって、やるドネというひとことを、都合いいように解釈されてしまったらしかった。

「自分で行かなかったばちよ。──わたし流に、どうぞシルブプレ洗濯屋ア・ブランシセリへ、ってでも云えばよかったかもしれない」

 マダム・ルセールが特別ずるい女というのではなかった。何かよぶんな用事を云いつけたとき、多計代が心づけをわたしたりすると、彼女は、いかにも感謝にたえないように片膝をかがめて礼をのべた。マダム・ルセールのそういうとりなしは、言葉の通じない多計代の気分をとらえるのだった。

 生活によって鋭くされているフランスの女の眼はしに、つや子は鈍重な少女のようにうつっているでもあろう。その娘と二人きりしかいない、しんとした午後、マダム・ルセールが、わたされたピンクのスリップをふし高な両手の間にたくしこむようにしながら、メルシ、メルシ一点ばりにひき下って行った情景を想像すると、伸子はおこる気もちもしなかった。

「マダム・ルセールも、きっとそのスリップが気にいったんでしょう。『むくつけき小羊』にはもったいないと思ったのかもしれない」

 悄気しょげていたつや子が笑いだした。「むくつけき小羊」というのは、和一郎が小枝の気をそこなうようなことをしたとき、小枝の前で自分をせめ、へりくだる言葉として使ったのがはじまりで、家族の若いものたちの間にはやっているのだった。

 親たちが留守になっても、マダム・ルセールは通って来て、伸子とつや子のために食事の仕度をしているのだったが、伸子は、いつとはなしに、献立がかわって来ているのに心づいた。おいしい小粒青豆プティ・ポアがひっこんで、ふと気がついたとき皿に出ているのは、ありふれたさや豆アリコベールだった。前菜からサーディンやソーセージという類のものが消えた。伸子は、僅かの間のことはそれでもいいという気だった。その分だけをマダム・ルセールとその家族が食べているなら、結局無駄ではないのだから。マダム・ルセールが通って来て働くようになってから、泰造は一日およそいくらと見つもって、三日分ほどずつまとまった金を、マダム・ルセールに自分でわたしていた。そして、精算書を出させていた。マダム・ルセールの計算書は、肉類いくら、野菜いくら、という風に金額でかかれていて、何の肉をどれだけという分量は記入されなかった。自分たち夫婦が一週間の予定でジェネヷ旅行に出発するとき、留守の台所の入費を、泰造は、いつもどおりまとめてマダム・ルセールに手渡して行ったのだった。

 マダム・ルセールが用意しておいた料理を運んで、姉妹が夕飯のテーブルについたある晩のことだった。つや子が、フォークを手にとったまま、じっとテーブルの上にのっている大皿に目をこらして、いつまでも自分の皿へとりわけようとしない。

「どうしたの? 何かへん?」

 姉としていくらか責任のあるこころもちになって、伸子は大皿をひきよせて調べるようにそこに盛られている料理を見た。茶色のこってりした煮汁をかけてシチューされた肉が、ジャガイモや人参のとりあわせで出されている。

「おいしそうじゃないの」

 のぼせたような顔で、もじもじしていたつや子が、訴えるような小さい声で姉にきいた。

「これ兎じゃない?」

 伸子は皿をひきよせて、たしかめた。

「そうだわ」

 あとじさりするような眼つきになって、つや子は手にとっていたフォークをそっと下においた。

「きらい?」

 つや子は、かぶりをふった。

「だめなの──」

 そう云えば、つや子はパリの肉屋で、兎のむいたのをつるし売りしているのを、ひどくいやがった。このひとの生れ年だから、いやだ。本気になってそう云っていた。

「玉子があったわね、あれで何かこしらえてあげよう」

 兎料理は、みんなのいるときの食卓には出たことのないものだった。伸子は、手をつけないままの大皿のふたの上に「どうぞ、牛肉か、こうしか、羊肉を」と書いた紙きれをのせて、台所へおいた。



 早くて一週間、すこしのびれば十日の予定でジェネヷ旅行に出かけた両親が、一週もたたない六日目に、突然パリへ帰って来たことは、それが須美子と約束のある十四日の午後だったために、伸子を苦しいはめにおくこととなった。

 磯崎恭介が急に亡くなってから、彼と須美子と子供とが三年の間暮していたデュトの住居は、もう家庭ではなかった。それは難破船だった。難破した船がしずみきらないうちに、須美子はパリでの生活をとりまとめて、日本へ帰る仕度に忙殺されている。須美子が恭介の死去につづいて、葬式、帰国準備と、自分に暇を与えないように暮している気持がわかるだけに、伸子はせめてなか休みの一日を計画して、須美子にデュトでない環境を与えたかった。家庭であって、しかも、そこには須美子のいたみやすい気持を刺戟するような夫婦生活の雰囲気のないところ。──つや子と伸子しかいないペレールの家こそ、そのような休息にふさわしい場所だと思えた。

 伸子は、その午後、デュトまで迎えに行って須美子をペレールへつれて来た。そして、一休みしてから、ガスに火をつけて、風呂をつくった。

 日本流の、こんなもてなしかたを須美子は心からよろこんだ。

「きょうはいい日ですわ。こんなにして頂くし、入選のこともわかりましたし……」

 恭介が死ぬ一日二日前に、自分で搬入した静物がサロン・ドオトンヌに入選した。そのことがけさわかった。同時に、須美子の作品も入選していることがしらされたのだった。

「わたし、磯崎が描いたお古の花を窓ぎわにおいて、描いてみただけだったんですのに……こんどはめずらしく磯崎がしきりにすすめて、自分でもって行ってくれましたの」

 だまっていようとしてもつい須美子の話題はそこにたちかえるという風だった。

「どうしてだったんでしょう。わたし、あの花を描いていたとき、ちょくちょく、ホノルルのころを思い出しましたわ」

 須美子は、いつだったか伸子に、ホノルルの一ヵ月が生涯で一番幸福なときだったのかもしれないと云ったことがあった。恭介と自分が偶然に同じ花を描き、それが最後となった恭介の仕事とともに自分も入選したことを、須美子はただ偶然と思えないらしかった。

「磯崎も、これでいくらかくにの御両親におめにかけるものができましたわ」

 こんな風で、その日はなお更、ペレールへ来ているのが須美子ひとりではないようで、伸子は心をくばって、しんみりしたまどいの主人役であろうとねがっていた。

 湯あがりで、大きい目の上にきりそろえた厚い前髪が、一層黒く輝いている須美子をかこんで緑茶をのんでいるときだった。玄関のベルが、短く、力のはいった響きかたでリ・リ・リと鳴った。伸子は、おや、と耳を立てた。泰造のベルのならしかたそっくりだった。

 つづいて、

「オ、ラ、ラ! ムシュウ、エ、マダーム!」

 賑やかなマダム・ルセールの歓迎の声がおこった。

「ちょっと失礼、ね」

 やっぱり父と母とだった。多計代は伸子の顔を見ると、

「お客さまかい?」

 そう云いながら、持っていた例のコバルト色の旅行用バッグをわたした。

「つや子さん来ておくれ」

 多計代は、客室の外の廊下を素通りして寝室へ行った。泰造は、客間で須美子にあいさつし、寝室と食堂の間を、落付かなそうに出入りしている。

「わたし、おいとまいたしますわ、お加減がわるくてお帰りになったんでしょう?」

「まあ、もうちょっとそうやっていて」

 多計代もこの調子では夕飯のために外出はできまいから、いっそ、みんなうちで、日本弁当をとどけさせてすませるのも一つの方法だと伸子は思いついた。デュトの家の食事ばかりしている須美子に、日本風のさしみでも御馳走したいと計画していたのだった。

 伸子は泰造に相談してみた。

「それもいいだろう。──だがおっかさんに一応きいてからの方が無事だよ」

 寝室へゆくと、伸子が何とも云い出さないうちに多計代が枕の上から白眼がちの眼づかいで娘を見上げた。

「だれをお湯へいれたんだい」

 ベルの音をきいたとき、まっさきに伸子の頭に閃いたのは、浴室にまだこもっているにちがいない湯気やシャボンの匂いのことだった。多計代は、つや子からきいて、もうわかっていないはずはないのに、伸子にそれをきくのは、悶着の口火のためなのだ。

 しずかに友愛のただよっていた雰囲気は、いちどきに変った。多計代の状態のわるいとき、佐々の家族をおしつつむ不安な空気がみなぎりだした。それが、病気そのものについての不安ではなくて、神経的なものであるだけ、つましい気立ての須美子をいたたまらなくさせ、伸子も、気の毒でとめようがなくなった。

「ごめんなさい。あいにくなことになってしまって」

「いいえ、いいえ。あなたのお心もちは、ほんとにうれしく頂きましたわ」

 伸子はこまりきって、恥しさと苦しさのまじった心で須美子を送って出た。途中で日本料理店により夕食のためのちょっとしたみやげをわたした。


 ジェネヷの五日間は、多計代をたのしませるよりも多く、そこにいる日本人たちの暮しぶりに対して神経をたかぶらせたらしかった。

 来年早々ロンドンで開かれる軍縮会議の下相談に、イギリスから労働党首相のマクドナルドがワシントンへ出かける計画が発表された折からであった。こんどのマックの旅行の本質が、英米帝国主義間の増艦競争に妥協点を見出すためであることは、すべてのひとに明瞭であった。国際連盟を中心とするジェネヷの、狭くて見栄坊な国際社交界での日本人たちの気分は、そんなことからも刺戟されていて、おそらく多計代のかたくるしくて、外国の風に順応しない性格は、客として来られた人たちにとっても、客として行った多計代にとっても、しっくり行かなかった模様だった。

「大使でも公使でもないものが、おおやけの金を湯水のようにつかって、ああいう景色のいいところであれだけの暮しをしていられるんだから、津田さんが、日本よりジェネヷがいいというわけさ。留守番ばかりさせられている奥さんが見たら、どんな気がしなさるだろうね」

 しかし多計代の鬱憤には、微妙なニュアンスがひそんでいた。社会医学という専門から津田博士がジェネヷで暮しているように、万一泰造が、建築という専門から、同じところでああいう風に暮すとしたら、多計代はいまと同じ批評を、その生活に対してもつだろうか。

「民間人ていっても、たいしたものだ」

 それを聴かないふりで薪のたいてある客室の煖炉の前で泰造は手帖を見ている。父と母との間に、くいちがった気持の流れがあることを伸子は感じるのだった。泰造がもっていない博士号のねうちや、いわゆる民間人が官僚機構にくいこんだとき、どういう工合にやれるものかという光景がジェネヷへ行った多計代の前に展開されたのだった。

 どこか、いらいらした印象で、ジェネヷ旅行が終ってから、佐々のみんなは、いそがしくなった。

 太洋丸を解約しシベリア鉄道で日本へ帰ることが決定した。十月二十七日モスクヷ発のシベリア鉄道で帰れば、ジェネヷから津田博士ともう一人、彼の門下生である若年の医博とも同道できる、そのことで多計代の決心がきまったのだった。

 伸子は、モスクヷにいる素子にそのことを知らせるために、電報をうった。ペレールの家は十月二十四日、うちのものが出立すると同時に、持主にかえすことが通知された。どこかに住む場所をきめることが伸子にとって緊急の必要になって来た。

 帰らない晩が数日つづいたことは、伸子とホテルとのいきさつを一層わるくした。その日伸子は、蜂谷良作のもっているアドレスの最後の一つとしてソルボンヌ大学附近の、昔からラテン区と云われている一廓に、部屋をみに行くことになっていた。旧い歩道のようにすりへった石の階段を蜂谷良作とつれだって五階までのぼりつめてその一室のドアをあけて内部を見たとき、伸子は身ぶるいした。街のほこりでよごれていつ拭かれたともわからないたった一つの窓から、うすぐもりのパリの日ざしがやっとさしている室内の壁は、ソルボンヌ大学の歴史とともに古びよごれていて、ラテン区でむしばまれたあまたの青春をかたるように、あらゆる壁のすき間に結核菌を繁殖させているようなところだった。その室には電燈がひかれていなかった。ここに住んでいたのが学生なら、何の燈で夜をすごして来たのだろう。こわれかかって歪んだ木製の洗面台が片隅にたっている。粗末な鉄の寝台から、どういうわけか布団マトレスがはぎとられていて、不潔な床に、つめ藁のはみ出た肱かけ椅子が二つあるきりだった。そこには、まともなものが、なに一つなかった。歪んだもの、こわれかかったもの、そして、恐ろしげな壁があるだけだ。

 そこにはおとといまで、ハンガリア人の学生が住んでいたということだった。不潔というより病菌の巣のような感じだった部屋の光景と、布団マトレスをはがされていた鉄寝台の異様な印象は、いつまでも伸子につきまとった。

「それにしても、ああいうのが広告を出すとは、おどろいた」

 パリの生活には少しなれているはずの蜂谷良作もあきれた風だった。

「──おとといまでいたっていうハンガリア人の学生、もしかしたらあすこで死んだのね」

「まさか」

「だって、──じゃ、どうして寝台の布団マトレスがはがれているの? ほかに何か思いあたること?」

「そう云われれば、そうかな」

 しかし、いつまでも気持わるがっている伸子にこだわらず、蜂谷は、

「その辺で休みましょう」

 人通りの絶え間ないサン・ミッシェルへ出た。

「きょう、僕は一つ提案があるんだ」

 蜂谷がいまいるクラマールの部屋をかわるから、そのあとへ伸子が来ないか、というのだった。

「あなたはどこへいらっしゃるの?」

「僕は、その家のじき近所で、勉強にはもってこいの室を見つけたんです。画家の未亡人の二階で。そっちの方がずっと勉強するには落ちつける。もっとも部屋そのものは粗末だが、かえって僕にはいいんだ」

 伸子は、きくような眼で蜂谷をみた。いつから蜂谷は引越すことを考えたのだろう。この間うち伸子の部屋さがしがはじまったとき、あちこち歩いたり、あれこれ喋ったのに、そんな話はひとこともされなかった。

「──ちっともお話に出なかったのね。急にそういうことになったの?」

「そうじゃない、僕は、前からさがしていたんだ」

 クラマールの家の室代は、パリの物価があがるにつれて、蜂谷が住むようになってからも二度あがった。今年の冬は、燃料が急にたかくなったからという理由で、十一月からあとは新しい価を請求されているのだそうだった。室代ばかりがかさんで、本が買えない。

「それに僕がわるい習慣をつけちゃったんで、実はこのごろになってへこたれているわけもあるんです」

 年齢にあわせて、どこかかたまらないところのある蜂谷の顔の上に善良な苦笑があらわれた。

「あすこへ行った当座、退屈だったもんだから、つい土曜日なんかにうちの息子や娘をさそって映画を見に行ったりしたんでね、やっこさんたち、映画と支那飯は僕におごられるものときめてしまって、昨今は僕としちゃ相当の負担になって来たしね」

 蜂谷の気質としてありそうなことであった。

「女学校へ行っている娘は、英語も少しはわかるし、あすこなら、きっとあなたもいられると思うな」

 伸子がだまっているのを不承知ととって、蜂谷は、

「僕は、でまかせで云っているんじゃない」

 眉をしかめたようにして見る表情で伸子を見て云った。

「あすこなら、僕が責任をもつ、──きめるでしょう?」

「──見もしないで?」

 音のないほほえみが伸子の口元をゆるめた。

 クラマールというところが、パリの中心からどのくらい遠いところに在るのかさえ伸子は知っていなかった。ヴェルサイユ門からクラマール行の郊外電車が出ている。それだけ、わかっている。そのヴェルサイユ門のところで、夏のころ、終電車をつかまえようとして走ってゆく蜂谷を、素子と伸子とで見ていたことがある。

「クラマールに住むと、時々、いつかのあなたみたいに、かけ出さなけりゃならないことになるんでしょう?」

 マダム・ラゴンデールを、稽古のためにひどく遠方まで来て貰うことになるのかもしれない。永年の暮しの習慣から伸子は、自分ひとりで出歩き、夜もひとりで帰るものとして、クラマールではあんまり遠いと感じたのだった。そんなにクラマールの遠さと、その不便とを感じながら、伸子の心には、蜂谷のすすめる室をことわる、はっきりした気持が湧かなかった。

 伸子と蜂谷良作のかけているカフェーから、サン・ミッシェルの歩道の並木の一本に貼られているセンセーショナルな黄色いビラが見えていた。フランス共産党代議士二名と、中央委員三十二名が誰にもはっきりしない理由で突然検挙された。それはきのうのことだった。「共産党を禁止しろ」「『リュマニテ』は労働者の敵だ!」「農工銀行は人民の金を盗んでいる!」「フランスを売る共産党と共産党代議士を裁判しろ!」その黄色いビラは、火の十字架運動クロア・ド・フウの署名だった。いつかの夜蜂谷良作がヴォージラールのホテルのテラスで伸子に説明してきかせたように、クロア・ド・フウはフランスで、最もよく武装されたファシスト団体だった。フランス共産党の内部に悪質なトロツキストの秘密組織があるらしいことは、八月一日の反戦示威の直前、サン・ジョルジュで中央部の会合が一斉に検挙されたことにふれて蜂谷も云っていたことだった。こんどの検挙も怪しいものだ。蜂谷がそういう意味は、党を混乱させ、指導権を握っているために、労働組合の統一戦線を主張している人々をふくむ中央部に対してその一味が企んだ挑発と内通であるという意味なのだった。

 伸子の視線を追って、黄色いビラを見ていた蜂谷良作は、やがて、

「ね、佐々さん」

 伸子をゆりうごかすような口調で云った。

「ともかく、あしたクラマールの家をごらんなさい。そして、クラマールへ来ることにおきめなさい。一緒に勉強しよう」

 彼はつづけて云った。

「少くとも僕は、佐々さんと話するようになってから、実に刺戟をうける。この勢で、僕もひとつがんばるんだ」

 蜂谷良作のパリ滞在も、あと一年はないのだった。



第三章




 みつきのあいだに、そこの棚、あの隅とひろがっていたペレールでの生活をたたんで、佐々のうちの者たちは荷造りし、約束の日に家の持主であるやせぎすな中年夫人が来て、台帳とひき合わせながらアパルトマンに備えつけの家具、食器類、台所の鍋類までの引き合わせをした。紛失しているものはないか、新しく破損された箇処はないかを調べ、多計代が寝ていた寝室だけのこしてそのほかのすべての室の戸が順々にあけたてされた。

 その朝になって、つや子がこわしたままになっている二つの朝食用のコーヒー茶碗が思い出された。それを思い出したのは、つや子でも多計代でもなく、泰造であった。伸子はおおいそぎでタクシーをひろって百貨店へかけつけ、家具しらべがはじまるまでにセーブル製の似よりの品を買って補充した。

 多計代がもって帰るフランス人形のことでも悶着がおこった。つや子が欲しいと云って、黒と赤ふた色でカウ・ボーイのなりをした大きいフランス人形を伸子が買って来た。それを見て、多計代もほしいということになり、また伸子は百貨店へ出かけた。そして、母のために、優美だし清楚だとも思った羊飼い娘の人形をもとめて来た。桃色のリボンで飾られた金色の杖をもって、あっさりと可愛らしい小花模様の服をつけて足をなげ出している羊飼い娘の姿は、それだけ見ていても、その背景に花盛りのリンゴ樹やえにしだのしげみが想像されるようだった。ところが、上機嫌でボール箱をあけて人形をとりだした多計代は不満で、やがて目に涙を浮べて伸子の冷やかさをせめた。わざわざパリから買って帰るのに、なにも羊飼い娘の人形でなくたっていいじゃないか。よりによって木綿の服をきた人形を買って来るなんて。──そんな当てこすりをされるおぼえは多計代にない、というのだった。伸子は、予想もしないことだった。十八世紀の婦人扇の絵に描かれてでもいるような羊飼い娘だということや、その服が木綿だということが、多計代の感情にこういう風に映ろうとは思いもよらなかった。伸子はすぐその人形をボール箱にしまって、百貨店へもどった。そして、こんどはポンパドール風に着飾った貴婦人人形をえらび出した。杏色がかったフランス独特のピンクの絹服の裾に、幾重もかさねられた純白のレースのペティ・コートが泡立つようにのぞかれて、同じ杏色の日よけ帽から、白い仮髪かつらの捲毛がこぼれている。細い手に黒いすかしレースの指なし手袋まではめているこの人形は、その服装の約束どおり、左の頬の下にかき黒子ほくろをつけている。その人形は、多計代の気に入った。さて、きょう、午後三時二十七分に北停車場から立つという昼ごろになって、そのかさばる人形をどうやって手荷物の一つとしてもってゆくかが問題になった。伸子は外へ出た。そして柳製の長方形の軽い大籠を見つけて来た。この間磯崎須美子とプランタンで鞄をさがしていたとき、その売場のどこかに、そういう籠のつんであるのを見たことを思い出したのだった。モスクヷでも似たような大籠がつかわれている。かすかな郷愁をもって伸子は目をひかれたのだった。

 あれからこれへとごたついて、そのごたごたはどれも下らないことばかりだった。けれども、それらはどうしても出発までに何とか解決されなければならないことで、解決するのは伸子の役目だった。まだ多計代が寝ている寝室だけよけて、台帳をもった家主夫人がアパルトマンの室から室へ調べて歩く事務的なやりかたも、多計代にとっては、パリ生活の最後の日を追い立てられているような感じを与えるだけだった。それぞれ用事にかまけて働いている泰造や伸子が、しんみりと多計代の話し相手になっていられないことも、冷淡な雰囲気として多計代をいらだたせ、そういう気分はみんな一つ流れとなって伸子にそそぎかけられるのだった。

 出発の数時間前、蜂谷良作と、哲学の勉強をしている野沢義二とがペレールへ来て、最後のばたばたに泰造をたすけた。北停車場の広いプラットフォームで、見送りに来ている人々の一人一人に万遍なく挨拶をし、握手している泰造の帽子をぬいだひろい額から気づかわしげな緊張の表情が去らなかった。

 多計代とつや子とは車窓の前に立って、光線の足りないガラスの内部から、プラットフォームを見ている。伸子は、父が、こんどの家族同伴の旅で疲れたのをはっきり感じた。多計代もやつれている。けれども、やつれて自身の病弱を主張し、気がむずかしくなっている妻をつれている泰造には、別な深い疲労のあることが感じられ、それは伸子にぼんやりした不吉感を与えるのだった。疲れにうちかってよそめには快活にさえ見える父の素振りに目を凝らしていた伸子は、泰造が自分の前へ来て、

「じゃ、気をつけるんですよ」

と握手したとき、喉の奥から急にかたまりがこみあげて来て、やっと、

「お父様も。どうぞ」

 つまった声で云った。

「モスクヷへお着きになれば、万事吉見さんがとりはからってくれるはずですから」

 泰造はもう一度伸子の手を握りなおし、立っている人々一同に挨拶すると、列車のステップに立って、こちら向きに立った。ほとんどそれと同時に列車がすべりだした。つや子があわててステップへ出て来た。そして泰造のうしろからのり出して、伸子に向っていくども手を振った。

 ──埃っぽい小さい旋風が遠ざかってゆくように佐々のうちのものはパリを出て行く。伸子を一人のこして。目の前から去ってゆくほこりっぽい旋風はこの三ヵ月の間、伸子の皮膚をちくちく刺しつづけた。そのかすかなみみずばれや、痛みが、伸子にのこされた佐々の家庭の風変りな情愛のしるしだった。

 けさ、もう家主の帳簿の上では返却記載ずみの食器で朝の食事をしていたとき、バルコンに向ってテーブルについていた泰造が急に半白の髭のある顔を上気させ、

「このガキ、ひとりのこして帰ると思うと可哀そうだ」

 早口にそう云って、クッという音を立てながら涙をこぼした。三十歳になっている伸子を、わざとガキという表現で冗談まぎらしにいう泰造のこころもちが、伸子の心の底にまで徹った。

「だってお父様、志願してそうしたのよ、わたし」

 晴れ晴れした声でそう答えた伸子は、父の感傷を深めまいとしたのだった。

「ほんとにねえ。……折角、こうやってみんなで暮したのに──」

 多計代がナプキンをとりあげて瞼にあてた。

「お母様、もらい泣きしないでよ、ね」

 そう云ったのも、伸子とすれば、一座を元気づけ明るくしようとするためだった。しかし、結果は逆になり、多計代は、伸子がもらい泣きと云った言葉にこだわった。

「他人のマダム・ルセールでさえ、わたしの手に接吻して泣いたのに──伸ちゃんは、ちがったもんだよ、よくもよくも、もらい泣きだなんて云えたものだ」

「お母様、でも、お父様がさきだった」

 少女らしい几帳面さで云い出したつや子の膝を、つついて、伸子はだまらせた。

「そういうもんじゃありませんよ。伸子だって、われわれを機嫌よく立たせたいと思って、いろいろやっているんだ」

 いま、それを云い出すのが真実の思いなら、多計代はどうしてきょうになるまで、伸子にとってはわけのわからなかった用心ぶかさで、パリに残ってあとからモスクヷへ帰ろうとする伸子のプランと、自分たちだけでシベリア経由で帰るときめたプランとの間に、けじめをつけて来ただろう。むしろ情愛的に云われたもらい泣きという表現は、多計代につきもどされて伸子の心に帰ったとき、とげとなって伸子を刺した。多計代と伸子とは、そのこころもちのままペレールの家を出て北停車場へ行き、その心のまま、プラットフォームの上と下とで、うすぐらいガラス越しの顔を見合った。そして多計代はパリを去った。良人につれられて、というよりも良人と末娘とをひきつれて。


 その日の、午後七時に、磯崎須美子もリオン停車場から出発してマルセーユへ向った。

 空屋になったペレールの家へ、伸子は、蜂谷良作と野沢義二の三人づれで戻った。親たちがけさまで使っていた敷布類やテーブル・クローズなどが洗濯に出すために畳まれて、人気ない食堂のテーブルの上にきちんと置かれていた。マダム・ルセールは、もう帰ってしまっていない。

 伸子がこれから引越してゆくクラマールの下宿は、住居とは別に、かなり大きい洗濯屋をやっているのだそうだった。そちらへ帰る蜂谷良作が、シーツ類を包んだ重い紙包みをあずかった。野沢義二とはペレール広場で、蜂谷良作とは、デュト街へ曲るヴォージラールの角でわかれて、伸子は、磯崎須美子の住居へ行った。もう門口にタクシーが待っていた。下宿のマダムが、白ずくめのなりをした、ひよわそうな小さい子供を抱き、毛皮のハーフ・コートの下に明るい灰色の服をつけた須美子が、両方の手に一つずつ、伸子と一緒にプランタンで買った茶色の真新しい鞄を下げて、タクシーにのった。須美子のスーツ・ケース二つをあずかっている青年は、磯崎の葬式の折も内輪にはいって須美子の介添えをしていた人であった。

 国際列車が出発する北停車場のプラットフォームは閑散で、気の利いた旅行具を手押車につんで運んでゆく赤帽が目立っているくらいだった。国内旅行者のためのリオン停車場では、パリ市民の日常に溢れている生活のこみあいがそのままそこにあった。マルセーユ行の夜行列車の明るい車内で立ったり動いたりしている人影は、伸子が親たちの出迎えに立った五月末の夜のとおりに賑やかだった。

 須美子は、三年前、恭介と一緒にホノルルからフランスへ来てこのリオン停車場におりた。今夜、一人のこった赤坊をつれて、一方の腕に恭介を、もう一つの腕に子供のはいっている鞄を下げて、日本へ向って立って行こうとしている。須美子の姿は、それが車室の棚に鞄をおいているときも、それがすんでプラットフォームにおりたときも、一人の悲しみに耐えているいたましさで伸子を落付かせなかった。先刻、北停車場から立って行った佐々の人々は、つや子までをこめて、何とそれぞれに人生への要求の多い人々だったろう。彼らは、その要求の一つを行動するかのようにパリから出発して行った。伸子が、パリにのこるということで伸子としての要求をあらわしているように。

 須美子が、ね、というように車室の荷物棚の上におかれた二つの茶色鞄を目でさして、

「船では、ごくあたりまえの手荷物のようにして来てくれということですの。──喪服もおこまりなんですって」

 しずかにそう云って、須美子がおかっぱの濃い前髪と美しい調和をもっている銀灰色の絹服に目をおとしたとき、伸子は、うちのものを送ったあとの心もちと須美子への同情とでみだれる感情を抑えきれなくなった。

「ね、須美子さん、わたし何だか、あなたをこのまんま一人で立たせられない」

 須美子の手をとった。

「マルセーユまで行きましょう。まだ切符は買えるわ」

 小さい腕に赤坊を抱いてわきに立っている青年に、伸子は、

「おそれ入りますが、切符買って来て頂けますかしら」

とたのんだ。青年は曖昧に答えて、どうしようという風に須美子を見た。

「そんなにまでして頂いてはすみませんわ、ほんとに、わたくし、大丈夫ですから……」

「だって、疲れきっているのがわかっているのに──一人でやるなんて……」

 須美子は、ためらうようにしていたが、

「この方がマルセーユまで来て下さることになって居りますから……」

 彼女のわきに立って赤坊を抱いている青年に顔を向けた。

「──ああ、それなら、どんなにかいいわ──どうぞ、くれぐれもよろしくね」

 言葉すくなに、しかしゆきとどいて用意されている出発。それも須美子らしかった。


 発車がせまって、細っそりステップに立っている須美子のうしろから、プラットフォームの人々に挨拶しようとする二つ三つ外国人の顔が重なった。

「何だか、あぶないわ、うしろから押されそうで。──こっちへ行きましょう、窓のところへ」

 やがて動き出した窓について、伸子は暫くの間いそぎ足にプラットフォームを進んだ。列車の速力はまして、手をふっている須美子のおかっぱの頭もやがて前方の人むれに遮ぎられた。



 その一日のうちに重なった二度の見送りは、どちらもパリにのこる伸子に悲しさや、寂しさをのこした。

 翌日、伸子は終日ひとりで、余韻のふかいこころもちのうちに暮し、市内ですましておかなければならない用事を果した。文明社から伸子あてに送られて来ている金を日仏銀行でうけとり、ロンドンにいる和一郎たちのために父がのこして行った金を同じ銀行から送り出した。ペレールあてで来た一番しまいのエハガキに、和一郎は、小枝と二人で、一週一時間、英語の稽古をはじめたことを報告してよこしていた。

「まあ、そんなところでしょう」

 そう書いている和一郎の文句には、和一郎と小枝のロンドン生活のなまあたたかい空気を感じさせる印象があった。

 その日の換算率は一フランが十二銭だった。文明社から来た金と、泰造が使いのこりだからと伸子にくれたその半額ほどの金とを合わせたものが、これからの伸子の生活費だった。仕事をしなければならない。伸子は経済の点からもそう思い、仕事そのものの点からもそう思った。モスクヷを出てから、伸子は一つの旅行記さえ書いていなかった。文明社は、伸子が臨時に送る原稿に対しては原稿料を別計算で送って来た。それは、モスクヷにいたうちも伸子の経済をたすけて来た。パリへ一人のこって、仕事のしたくなる心持になりたい。伸子はそれをのぞんでいたのだった。

 クラマールの下宿代は、敷布類の洗濯代はむこうもち、一週に一度の入浴つきで一ヵ月一九五〇フランだった。パリの労働者が一日平均六〇フランの収入だとすれば、マダムは、伸子をおくことで、一人前の労働者がとるよりもすこし多い稼ぎをするわけだった。

 モスクヷまで帰る旅費をとりのけると、伸子の手許には、クラマールに二ヵ月足らずいて、その間に少しは次の収入になる書きものをする費用と、絵の本をいくらか買う金がのこるだけだった。冬のシーズンに、新らしい服を買うゆとりはなかった。

 モンソー・エ・トカヴィユ・ホテルの屋根裏部屋で、伸子はそのようなこまかい計算をした。それから、翌日、伸子は迎えに来た蜂谷良作とクラマールへ引越したのだった。

 クラマールの新しい室で、手軽な荷物の片づけが終ったとき、伸子は思わず、

「こまった!」

 頬へ手を当てて棒立ちになった。伸子は、ホテルへ白い猿をおいて来てしまったのだった。ちょっとほこりをよけて、と思って衣裳棚へ入れた。そのままおいて来てしまった。素子の親切なときの顔つきに似ているからとロンドンで買ったおもちゃの白い猿。それをホテルの戸棚へしめこんで忘れて来たことは、伸子に生きものを忘れて来たようないやな心持をおこさせた。自分につながる素子の存在までを、そのことで何だか無視してしまったようで。──

 伸子は階下の客間へおりて行った。ほう、きょうは客間があいている、珍しいんだな、と蜂谷がそこへ伸子を案内しながら云った、その客間では、十五歳になった娘のフランシーヌが、ひとりまえの若い婦人として蜂谷に応対されることをよろこんで、誰か日本人の描いた彼女の肖像画のことを話していた。洗濯工場を経営しているベルネ夫婦は、兄息子のジャックに店を手伝わせ、ましな結婚相手をさがそうとしている母親の考えで、フランシーヌだけは、パリの比較的上流の娘たちが集る女学校へ通学させられているのだった。

「こまったわ、忘れものをして来てしまった」

 まじめな心配を顔にあらわして伸子は白い猿のことを話した。

「──どうせ、おもちゃでしょう」

「それはそうだけれど……」

 おもちゃ一つのためにそんなにさわぎたてる伸子がわからないという風に、ぷすりとした表情をしている蜂谷と、椅子の背に手をかけたまま立っている伸子とを見くらべて、フランシーヌが、

「ムシュウ・アチヤ」

 Hの音をフランス流のアに発音して、きいた。

「マドモアゼルは何と云っていらっしゃいますの?」

「わたしは、マスコットをホテルへ忘れて来てしまったんです」

「まあ。どんなマスコット?」

 フランシーヌの英語は、ぎごちなくて、ひどく鼻にかかった。

「白い猿」

 フランシーヌは、ちらりと蜂谷を見た。おとなぶった娘の眼づかいだった。すぐにも一人で戻って行って、忘れものをとって来ようとする気持、それもあわただしすぎると思う気持。伸子はその二つの気持で迷った。

「そんなに気になるんなら、もう少したったら、どうせみんなで市内へ出ようと思っていたところだから、そのついでによって見たらいいじゃないですか」

 伸子が引越して来たおちかづきに、ジャックが店から帰って来たらフランシーヌと四人づれで、支那料理をたべに出かけようというのだった。

 支那料理ということで、伸子はまた困った。日貨排斥がはじまってから、伸子はパリの中華人たちが、日本の帝国主義にひっくるめて、日本人一般に反撥をもっていることを当然だと考えていた。料理店を開いているからには、客として誰が行こうとそれでいいのだろう。けれども、伸子としては、平気でなかった。赤いれんのかかった帳場の奥の小さい椅子にかけて談笑していた店のものが、入ってゆくこちらを見て、瞬間に表情がかわってゆく。そういうところで、自分のすきなものを、たべる──伸子は支那料理が非常にすきだったから、店の人々の間にある、一種の空気を押しきって、それを食べるということを、よけい動物的に感じるのだった。

 しかしフランシーヌはもうその計画を話されているらしくて、

「ジャックがそろそろ帰る時間ですわ、ちょっと失礼いたします」

 着がえするらしく、二階の部屋へあがって行った。

 ベルネ一家の家政を見ているのは、細君の母親だった。その人にことわって、四人はソルボンヌ大学のそばの、横丁にある中華飯店へ行った。背のひょろりとしたジャックは今年十九歳だった。十七のとき、家に雇っていたおない年の娘を身もちにさせ、それが問題になって家出しようとしたジャックを、どうやら落付けて、店を手つだうようにしたのは蜂谷だった。

 はじめてクラマールへ行って、ベルネの部屋を見たかえりの話だった。伸子は、

「それで、娘の方はどうなったのかしら」

ときいた。

「日本のやりかたと全く同じだな。そっちはおふくろがひきうけて、金で解決したらしい」

 ジャックは、初対面で、言葉の自由でない伸子には、ひとことも口をきかなかった。武骨な、頭がおそく働くような青年だった。フランシーヌは、興奮していて、顔のよこにたらしているつやのない栗色の捲髪をときどき手で払いながら、テーブルに片肱をかけ、鼻にかかる声を一層ひっぱってできるだけ大人の女のように蜂谷と話している。ルーマニア人を父にもっているフランシーヌの顔だちには、東洋風な特徴があった。彼女は、物憂げな優美さを自分につよく添えることがその特徴をいかすために洗煉されたポーズだと信じているようだった。

 伸子の中にいる、白い猿はますます生きたものになり、その存在を主張した。それがなくなれば、伸子は何かを自分の中から失うことだという感じが抑えられなくなった。何のために、自分はあんなにせき立って──猿をうっかり忘れるほど──クラマールへ来ることをいそがなければならなかったのだろう。蜂谷は、伸子が来てさえしまえば、そのあとに伸子が何を忘れて来ようと、それについて伸子がどんなに心苦しく感じていようと、たかがおもちゃ一つときめて、無頓着でいるのも、心持よくなかった。全体としてそんなことを思う自分がいやなのだった。

 伸子は、

「フランシーヌ、ごめんなさい」

 そう云って、テーブルから立った。

「わたしの猿が呼んでいるの。わたしは行ってつれて来なければならないわ」

 ヴェルサイユ門のところで、四十分後に皆とおち会うことにして、伸子は、モンソー・エ・トカヴィユへタクシーを走らせた。風のようにホテルの表ドアをあけて入って、鍵をかりて、伸子は七階の屋根裏部屋へのぼって行った。衣裳棚をあけた。居た。白い猿は無事にまだそこにいた。

「猿さん!」

 伸子は白い猿をトウィードの秋外套の胸に抱きとって一分ばかりそこのディヴァン・ベッドに腰をおろしていた。猿さん! 声に出してそう呼んだとき、伸子の心につよく素子の存在が感じられた。白い猿は、おこった眼をしているようだった。伸子は、なだめるように白い猿の、長くて真白い毛なみをなでた。おととい、佐々の一行が北停車場からモスクヷへ立ってゆくとき、伸子はつや子に水色繻子しゅすで縫った袋を一つことづけた。伸子は、あわただしいペレールの家の客間で、ひまを見ては素子のためにその袋を縫った。金色のリボンで口をしめられた出来上りまずいその袋の中には、素子がブラウスにするだけの白いフランスちりめんと、素子が泊っている宿の娘たちへの御愛嬌になりそうなねりものの頸飾り二つ、ネクタイずきの素子のために変り織のネクタイを入れておいた。



 パリの秋は深く、クラマールの生活は季節のただなかにあった。

 伸子が引越して行った翌日は日曜日だった。こんな日に、このクラマールで、とじこもっているなどということはありえなく美しい秋日和だった。伸子は蜂谷良作とこの土地に住んでいる画家の柴垣弘三と二人に誘われて、クラマールの浅い森をぬけ、ムードンの丘の、ほんものの森を通って、夕方までの長い散歩をした。

 目抜き通りといっても、そこには小さい商店が並んで間遠な単線の郊外電車が一本とおっているきりの小さいクラマールの町。電車通りから、だらだら坂をのぼって住宅地があった。こぢんまりした中流風の住宅のぐるりは云い合わせたように鉄柵でかこまれ、門から玄関までの間に前庭をもっていて、どこの家にも果樹が植っていた。ゆるい坂の片側にある小学校の日曜日で人気ない広い入口の、一方には「女児フィユ」もう一方には「男児フィス」と書かれているのも、伸子におもしろかった。パリの市内にも小学校はあったろうのに、伸子は、クラマールへ来て、はじめて、そんな古風な区別をしているフランスの小学校の入口を発見した。

 町では一番というカフェーは日曜日の午前中は店をしめていて、テーブルの上に、足をさかさにした椅子が片づけられたままだった。そのカフェーの広場のマロニエの樹の下に、ゆうべ夜ふけまで祭の人を集めて賑っていた小さい舞台が、ひなびた造花の花飾りをつけたままきょうは忘れられている。

 町を出はずれて、平らに畑のつづく道になった。その道をすこし行くと、いつかクラマールの森へ入った。森の小道には、クラマールの子供たちもひろい飽きたというように栗がおちていた。伸子がめずらしがって、よろこんで、その栗を拾おうとして体をかがめると、程よく伸びてまばらな樹の間をとおして、すこしはなれたところでシャンピニオンを採っているどっかのお婆さんの水色エプロンの姿が見えたりした。

 ムードンの森は、堂々として黒い大きなかつらのように威厳があった。町の生活に近いクラマールの森は、フランスの平民の森だった。深まってゆく秋の夜ごとの大地の湿りと、昼間じゅうつよい日光に乾かされている鋼色はがねいろの樹の葉のかおりがとけあって、落葉ですべりかけたり、踵の低い散歩靴のさきでわざと落葉をかき立てるようにしたりして伸子が歩いてゆく森の小道には、こころよいシャンパンに似た匂いが漂っていた。

「ああいい気もち!」

 クラマールの森が浅くて、そこに生えている樹の枝々をよく日光がさし透し、落葉樹の多いことも秋の美しさだった。

「みなさん、毎年こんないい十月を、ここで暮していらしたの?」

「そうですよ。うそでなく素晴らしいでしょう」

 画家らしく瞼の上に表情のあるすばしこい眼で柴垣弘三が答えた。

「ですからね、ここへこして来ると、誰でも二年目ぐらいにはぼーっとしちゃうんです」

「ほんと?」

 伸子は蜂谷良作をかえりみた。蜂谷良作は、いつもの黒いソフトをかぶって伸子のわきを重く歩いていた。

「そんなこともないだろう」

 柴垣は、とぎれとぎれの口笛をふいて歩きつづけていたが、やがて蜂谷のまともな返事を諷刺するように、ひとりごとめかして云った。

「──君はおそらく非常に健康な人なのかもしれないな、クラマールの気候に影響されると感じるのは、われわれみたいな、ひよわい人種だけなのかもしれない」

 それは、伸子に向って、蜂谷良作は鈍重な男であると告げているのにひとしかった。蜂谷良作は、柴垣の言葉にふくまれている刺すようなものを感じたのか感じないのか、軽い風の中にとけて輝いている西日をぼってりした顔の真正面からうけたまま歩いている。柴垣という人は、どんな絵を描くのだろう。伸子は好奇心をもった。

「いつか柴垣さんの作品を見せていただけるかしら」

 すると蜂谷が、

「フランシーヌの肖像かいたのは、柴垣君だ」

と云った。伸子はそれを見ていなかった。

「ありゃ仕様がない! 僕もうまくはないが、モデルにてんで性格ってものがない。われわれとしちゃ、ただでモデルになってくれる人は、誰でもありがたいもんですからね。ところが、彼女、あれで、すっかり背負っちまったね」

 クラマールに住んでいる日本人は、蜂谷、柴垣のほかに、もう一組の画家夫妻、フランス農村の研究をしているという吉沢準造などだった。蜂谷は散歩の道すがら、これらの人々の住居の戸口へ立ちよって、新参の伸子をひき合わせた。伸子の気が向いたとき自由に訪ねられるように、と。吉沢準造が部屋をかりている家というのは、クラマールの端れで、庭の小道づたいに裏へまわって行くと、広々とした畑に向って葡萄棚のあるいかにも田舎づくりの二階だった。亀田夫妻は、どこかの裏庭のようなところに建っているかなり大きくて清潔な物置の二階を、画室兼住居にして暮して居り、蜂谷が引きうつった住居は一番電車通りに近くて、サン・トアンの九八番地だった。伸子の下宿のあるサン・クルー街からは、それらのどの住居も五分から十分の距離にちらばっていた。すべての家々と人とがクラマールの生活のなかにはまりこみ、一九二九年の秋のさなかにあるのだった。


 十月二十九日のウォール街の恐慌は、クラマールでマダム・ベルネの庭の梨の木の下にいた伸子のところへ、きわめて穏やかな形であらわれた。

 朝、八時半にベルネのお婆さんが、

お早ようボン・ジュールマドモアゼル」

 おきまりの、快活な響をもった声ではあるが、ごく事務的な様子で朝の茶を運んで来た。白いナプキンのしかれた盆の上には、黄色い瀬戸ものの牛乳入れと急須とがのせられている。小さい円いパンのふたかたまり。小皿の少量のジャム。球にした四つのバタ。

 あまりひろくないその部屋の大部分を占めて、寝心地のいい大きな寝台がおかれている。その裾の方に、胡桃材くるみざいで作った古風な衣裳棚と並んで左の壁まできっちり机がはめこまれている。伸子は、そうすることでその隅に自分を馴らそうとするようにして、窓から景色を眺めながら、その机の上で意識してゆっくりと味のうすい朝の茶をのんだ。蜂谷が二年越し、この部屋に生活したということは、伸子を不思議がらせた。彼はどこに本を置いていたのだろう。炉棚の上だろうか。もしかしたら衣裳棚をつかっていたのかもしれない。壁と衣裳棚とにはさまって、どっちの肱もつかえた感じのこの机で、蜂谷が落付いていられたとすれば、それは彼の仕事が経済学というものだったからだろうか。この部屋では、伸子に自分のいるだけの空気さえたりない感じがするのだった。

 伸子は、新聞をもって、庭へおりて行った。伸子が表玄関のドアから出て、小砂利をしいた庭の小道を奥の方へ歩いてゆくと、反対の方から灰色の大前掛をかけたベルネのお婆さんが、両手に五つばかり梨をもって出て来た。ベルネのお婆さんは、毎朝自分で庭をまわって梨をあつめ、それをガラス張のヴェランダの床へきちんと四列に並べて乾しているのだった。梨はもう四十二個あって、冬の間たべる乾果物コンポートがつくられるのだそうだった。伸子とフランシーヌとをつれて最初の庭まわりをしたとき、お婆さんは、ヴェランダに乾してある梨を伸子にみせて、

「マドモアゼル、あなたも、散歩しているとき、落ちている梨を見つけたら、ひろってここへおいて下さい」

と教えた。そして、皺のよった唇を接吻するようにとがらせて、

「それはそれは、おいしい乾果物コンポートですよ」

と云った。色つやのよくないフランシーヌは、いかにもさげすんだように、肩をすくめ、鼻声で、

「とても酸っぱいの」

 伸子を横目で見た。

 梨の木のあるわきに、コンクリートの壁に、鉄扉がさびついたベルネの庭の裏門があった。よこに石のベンチがおかれている。そこは伸子に気に入りの場所だった。庭のその隅は、玄関や台所の窓々から、また表通りを通る人目からもかくされているのだった。

 伸子は気持よい秋の朝の外光のなかで、英字新聞をひろげた。インクの匂いとともに、特大の活字で印刷されている数行が目を奪った。「ウォール街の大恐慌。一千万株市場に投げ出さる」「取引所閉鎖」「一夜に破産したもの数百万。自殺者続出」「モルガン指揮の下により深い恐慌をくいとめるべく大銀行努力中」「ウォール街の恐慌は、世界経済界に甚大な衝撃」──。

 伸子の目が見開かれた。あのウォールストリート。金銭の慾のあぶらと埃で真黒によごされたリンカーンの像が立っている取引所前。まだ満二十歳にもなっていなかった伸子が、第一次世界大戦休戦の日の午後、気のちがったようなニューヨークの大群集にもまれて、カイゼルの藁人形に火がつけられるのを目撃したあのウォールストリート。あの日、聳え立つ左右の建物の窓という窓から色さまざまの紙きれが投げられ、株式電報のテープの房がウォール街のすべての窓々からうすよごれた白髪のように垂れ下っていた。あんなに云いはやされて来て、アメリカ人自身本当だと思いこんでいたアメリカばかりは不景気しらずの「永遠の繁栄」。それは、十月二十九日というきのうの一日のうちに、うちくだかれた。ウォールストリートの暴落──けわしい高層建築の谷間を、山高帽をかぶってせかせか歩く人波でうずめられているウォールストリートをおそったであろうとめどのない混乱の想像は、伸子に血の気を失った人々のパニックの絵図を思いやらせた。

 目を見開いたまま、伸子は、やっぱり正しかった、と思った。「アメリカの好景気は一九三〇年を包括しないだろう」ヴァルガの言葉は的中した。緊張した伸子の瞳のなかに焔がもえた。「アメリカの好景気は一九三〇年を包括しないだろう」この見とおしは事実によって示された。七月のコミンターンの第十回執行委員会総会でブハーリンの「組織された資本主義の安定」論が欺瞞であるとして痛烈に批判されたのは、正当であったということが、感動をもって伸子の心をしめつけた。ブハーリンの理論をもつ人々はアメリカの共産党の中にもドイツの共産党の中にもいた。彼らは組織の圧力でブハーリンを支持し、コミンターンとコミンターンの批判を承認する同志たちを誹謗ひぼうし、フランスの党におこっているようにうりわたしさえやっていたのだった。しかし、世界の前に現実は示された。経済について、政治について初歩の理解しかもっていない伸子にさえも、ブハーリン派の誤謬は偶然なものではないと指摘された意味がわかるようだった。

 晴れた秋の朝の庭にいる伸子の心の前を、いくつもの情景が重なって通りすぎた。夏の日曜日、朝日に照らされるセント・ピーター寺院の正面大階段には、その一段ごとにロンドンの失業者が鈴なりだった。血のメーデーにベルリンの労働者が射殺された。その記念の白い大きい輪じるしのついていたベルリンの広場。ワルシャワのメーデー。雨あがりの薄ら寒く濡れた公園の裏通り。ピストルのようだった一発の音。伸子と素子とが逃げこんだカフェーのショウ・ウィンドウのガラスに押しつけられて、変に薄べったく血の気を失って見えた無帽の若い男の横顔。──情景は次から次へゆっくりと伸子の心の前を過ぎた。そのようにしてゆっくり過ぎて行きながら、そのひとこま、ひとこまが、それらの光景から伸子のうけとった感銘、伸子の抱いた判断の誤っていなかったことを、伸子にしっかりと確めてゆくのだった。

 ──みんな、ほんとだった。──

 この確認は、伸子の精神をまじめにした。同時に、この理性の確認は、段々つよくなるよろこびの鐘の音のようなものを伸子の裡に鳴りたたせた。

 ──みんな、ほんとだった──

 この中には、伸子がモスクヷで暮した二十二ヵ月がほんとであり、いま、伸子の喉をつまらせている感動が、人間としてほんとのものであるという思いがこめられている。

 伸子は英字新聞「エクセルショア」をもったまま、梨の木の下をあちらからこちらへ、こちらからあちらへ、と幾度も歩いた。伸子は素子と抱きあって、きつく互をしめつけたかった。ウォール街が曾て知らなかったという恐慌は突発したのではなくて、より理性的な人々によって予告されていたものであった。この事実は、世界の歴史の上に新しい智慧の力がもたらされているという現実を告げることだった。伸子は、そこに、きわめて現実的であって、そのために一層たしかで美しいものの存在していることを、感じずにいられないのだった。



 午後四時に蜂谷良作が訪ねて来たとき、二階までそれを知らせに来たベルネのおばあさんが、一段一段階段を降りてゆくそのあとについてゆくのが、伸子にはまどろしかった。

 蜂谷は、食卓として使うときのほかは掛布クロースのとられている食堂の楕円形のテーブルのよこに立って、何だかいそいで歩いて来たような顔つきだった。

「こんにちは」

 彼らの間の習慣になっている握手なしの挨拶で、伸子は、

「いかが?」

 誇らしいような、いたずらっぽさで輝やく眼をした。

「『組織された資本主義』は、いかが?」

「──相当のものらしいね。読みましたか」

「よんだって、わたしには分らないところだらけだけれど──でも当ってよ、『一九三〇年は包括しないであろう』が……」

 夏のころ、コミンターンのブハーリンに対する批判の出たあと、蜂谷と伸子とは、ヴァルガのその予告について話したことがあった。蜂谷は革命や経済の諸段階は具体的だからその一つ一つについて見られるべきで、飛躍した断定は保留つきでよむべきだ、と云っていたのであった。

「……もうすこしはもつだろうと思っていたんだが……」

「早くて残念?」

「そんなこと。──スタンダード・オイルの株主じゃあるまいし……」

 少しおこったように蜂谷は煖炉側の椅子をテーブルへひきよせてかけた。そして、ポケットから一冊の仮綴かりとじの本をとり出し、表紙を下にして、自分の前においた。

 その日は、伸子と蜂谷の二度目の勉強日であった。クラマールへ越して来た伸子をあいてに、蜂谷はその火曜日から資本論の講義をはじめた。彼は、伸子を電車通の文房具兼雑貨店へ案内し、そこで新しくベルネの家へ届ける英字新聞と「リュマニテ」を注文したとき、伸子にすすめて二冊の学生用の帳面を買わせた。そして、いかにも学生をあいてに教壇から講義した経験の長い教授らしい扱いかたで、伸子に「資本の生産行程。商品及び貨幣。I、商品」とノートさせはじめた。「商品の二因子、即ち使用価値と価値(価値の実体と価値の大小)」「資本制生産方法が専ら行われる社会の富は『尨大なる商品集積』としてあらわれ、個々の商品はその成素形態としてあらわれる。故にわれわれの研究は、商品の分析をもってはじまる」

 伸子の茶色堅表紙のノートのうしろには、幾何を習いはじめる学生のために線、面、立体とわけて、直線、曲線、円、平面、球体、円錐体などの基本図がついていた。それぞれの頁の左に、見出しを書くためだろう、牡丹色の縦線がひかれている。伸子は、蜂谷のいうままに、その帳面をひろげてノートしはじめたが、そこの一区切りへ来たとき、鉛筆をもっていない左の手の先をちょっとあげるように合図して、

「待って下さらない?」

と云った。

「何だか、わたし、こういうやりかた、変だ」

 顔をあからめながら、伸子は困った視線で蜂谷を見上げた。蜂谷は、第一日から自分の席は伸子のかけている場所と正反対の煖炉側ときめていて、火の気のない煖炉を横にしてテーブルへ片肱かけ、仮綴の本から、伸子がノートしている文句をよんでいるのだった。

「蜂谷さん、その本にかいてあるとおりを読んで下さっているの?」

「──そういうわけでもないが……」

 伸子は自分の率直な質問が蜂谷に与えたショックに気づかず、遠慮するように云った。

「すみませんけれど、わたし、経済の勉強って、これまでしたことがないでしょう? だから、専門語かもしれないけれども成素形態なんて言葉、考えてみなけりゃ意味がわからないんです。あたりまえに云えば、エレメンタルな形態ってことじゃないのかしら」

「大体そういう意味だといってもいい。しかしこまかくいうとドイツ語では英語のエレメンタルというよりも、もっと複雑で有機的な内容なんだが……」

「あたりまえの言葉でノートさせていただけないかしら。どうせ経済学者になるんじゃないんですもの。たとえば、『資本主義社会の富は、集積された商品の形であらわれるから、一つ一つの商品は、その富のエレメントにあたる。故に』っていう工合で間違っていなければ、その方がわかりいいんだけれども──」

 蜂谷は苦笑して、柔らかい自分の髪を撫で、椅子の上で脚をくみ直した。もし蜂谷がもっている本をそのまま読んでノートするのなら、それは二重の手間だ、と伸子は考えたのだった。じかに、その本を借りて読んで、解釈してもらえばいいのだから。──でも、そこまでいうのは蜂谷を侮辱するように思えた。

「あなたは、案外せっかちなんだな」

 冷静な意志で、はねる馬をくつわで導いて行こうとしているように、蜂谷が云い出した。

「こういう厄介なものの勉強は、直感的な文学とちがってね、どこまでも理詰めにやって行くしかないんだ。ある区切りまで先ずノートして、それから細部の解釈に入るのが、普通のやりかたなんです、平凡だけれどもね。これから、使用価値とは、どういうものか、というような説明もはじまろうというわけだ」

 伸子は、おとなしくなって、蜂谷の言葉をきいた。

「佐々さんの理解力はおどろくほど範囲がひろいけれども、こういう分野は、云ってみれば未開墾だから──しばらく辛棒してごらんなさい。あなたのようなひとには、やっぱり理詰めの分析に興味が湧くにちがいないんだ」

 そういうわけで、第一日の四時──五時半のうちに、伸子は、使用価値とか交換価値とかいうものの本質について、混同しぼんやりしていた理解をいくらか整理させられたのであった。

 第二日目は「そこで商品をその使用価値から離れてみるとき、残るところはただ労働生産物たる一性質のみである」からはじめられた。いろいろな労働の有用性だの具体的な形態だのから「すべてが等一なる人間労働、即ち抽象的人間労働に約元され」人間労働力の支出の凝結が価値である、ということを、伸子は、一歩さきはどうなっているのか見当のつかない嶮岨けんそな山道をのぼって行くような困難さで、のみこもうとするのだった。

 それにしても、と伸子はノートしながら考えずにいられなかった。ウォール街の恐慌は、どうしておこったのだろう。そもそも恐慌とは? 十月二十九日のウォール街で一千万株投げ出されたという株とは何だろう。伸子は恐慌ということは、もとよりあらましは知っているつもりでいた。株についても。ジェネラル・エレクトリックが一九二九年最高四〇三だったのに十月二十九日には二五〇に下って低落三八%、スティール・トラスト二六一3/4が一八五1/2、クライスラー自動車一三五3/4が三九3/4で七一パーセント惨落した。これが株をもっている人々に損をさせる事実であることもわかる。「リュマニテ」は書いていた。「ヒルファーデングの仮面ははがれた」「『組織化された資本主義の計画的経済』は二百五十億ドルの損失によって、労働者・技師・勤人・中小企業者・農業家・数百万の小投資者の生活を破滅させつつある」と。

 このパニックで、真に破滅させられたのは小さい投資家たちとその家族──働いてためた金を株にかえた数百万のあたりまえのアメリカの人たちとその家族であり、億万長者のモルガン一家はおそろしい混乱を通じて益々富を集中しつつある。ここに血が引いてゆくような資本主義の非人間性があった。字として、恐慌や株やを知っていたはずの伸子の眼の中に、きつい火を点じさせ、全身にいきどおりを伴った探究欲を刺戟しずにいない社会生活のうめきがあるのだった。

 伸子は、ノートを早めに切りあげてもらった。そして、けさのニュースについて話しはじめたとき、まるで、日本語がわかりでもするように、台所と食堂との境のドアがあいて、ベルネのおばあさんが愛嬌よく入って来た。そして、蜂谷に、夕飯をみんなと一緒にたべて行くようにすすめた。

「ムシュウ・アチヤ、お引越しになっても、あなたがわたしたちの御親切な友達であることに変りはございませんよ」

「ありがとう、マダム。おことわりする理由をもちませんよ」

 ベルネの家の夕飯は七時だった。

「しまりやのお婆さんが招待するなんて、めずらしいな。何かあるんだろうか」

 食卓の用意がされる間、伸子と蜂谷とは家を出て、前の通りを畑の方へ散歩した。ベルネの家で客間がつかわれるのは一年のうちにいくたびだろう。閉ったドアの内部の様子はわからなかったが庭に面した鎧戸がしめられている客室のヴェランダの床には梨が並べられるきりで、伸子のところへ蜂谷が来ても、マダム・ラゴンデールが来ても、その応接は食堂だった。伸子が来てからベルネへ訪問客というのはなかった。



 食事が終りに近づくにつれて、ベルネ一家のものが知りたがっていること、とくに、クラマールでは一流の洗濯工場の経営主であるアルベール・ベルネの知りたがっているのは、ウォール街の恐慌がフランス経済にどう影響するだろうかという点であることが、伸子にもわかって来た。

 ジャックの家出をとめてベルネ一家に信用を得ている蜂谷良作は、ウォール街恐慌の問題では、明らかに教授として、その言葉を家内一同から期待されているのだった。

 その晩のベルネ家のテーブルのまわりは興味ある光景だった。節だって赤い四角い手をしたベルネのおばあさんは、その手の指を組みあわせて祈祷台へ置いているようにテーブルの上におき、灰色がかってあおい瞳を蜂谷良作の上にすえている。そのとなりで、ジャックは、十九歳の長い脛をもてあつかうようにいくらかずりこけて椅子にかけ、うつむいて、ポケットに入れていない方の片手の指さきでパン屑をこねている。

 憂鬱そうな顔をして、ときどき細い指で捲毛をいじっているフランシーヌ。むしろ骨太にがっちりとした大柄の体格を、刺繍飾りのある平凡なサージのワンピースにつつんで、姿勢正しく主婦の座について、はげしい関心をかくしているマダム・ベルネ。主人のアルベールは、故郷のルーマニアから兵隊になってフランスへ来ているうちに、どうしたことからか、この細君と結婚するようになった。それというのも、と、アルベール自身が伸子に話してきかせたところによると、いまこそ短く苅りこまれて見事なつやも消えてしまっているけれども、アルベールの金色の髭と云えば、その絹のような美しさで近隣の娘たちを魅惑したものだったからだそうだ。そしてその話も半分は本当らしかった。クラマールで庭のある石造りの家をもち、工場ももっている一家の基礎が、赤くて四角い手をもった母親とその娘である細君につながるものであり、ムシュウ・ベルネは主人であって、同時に、一家の稼業は手の赤いおばあさんと骨太で実際的な細君との注意ぶかい目の下に運ばれているわけなのだった。フランシーヌが洗濯工場ときりはなして育てられているそのことにも、おばあさんと母親との計画がある。

 アメリカの市場ではこの数年来、投機によって証券の価格がつりあげられ、最近の一年半だけでさえ平均一倍半にあがった。配当もスティール株などは二割五分以上であったからアメリカ全土のいくらかでも貯蓄をもてるようになったすべての人々は、誰も彼も、投資熱にまきこまれた。これは当然危険を意味する現象だったけれども合衆国銀行の頭取ミッチェルその他財界の大立物たちは、株の高いのは将来もっと利潤が多くなるという確かな期待に立ってのことであるし、配当も将来もっと多くなると期待される、と云いつづけた。アメリカじゅうの「素人しろうと筋」は完全にそれにだまされたのだった。

「事実を冷静に観察する専門家の中には、市場は、人工的に押し上げられて来た自身の重さで潰れるだろうと、警告していた者もあります。すでに九月に恐慌の波頭が見えたときに」

「一度も二割五分の配当なんかにあずかったことのないフランス人は、アメリカの恐慌のおつき合いを欲していません。少くとも、わたしはそうだね」

 ベルネのその言葉は、彼と蜂谷との会話に注意を集めている家族に対して、主人としてやや特殊な立場にある彼の見識を示すために云われたように伸子は感じた。

「フランスは、フランの切下げ以来ヨーロッパのどこよりも経済事情が安定している。いますぐ恐慌でかき乱されることはないでしょう。しかし、こんどの大規模なアメリカの恐慌が世界経済に影響しないということは、絶対にあり得ない」

「──絶対に?」

 正しい姿勢で椅子にかけたまま、細君がテーブルのむこうの端から訊きかえした。

「フランスに対する影響は、ゆるやかに、或は一番最後にあらわれるかもしれない。だが、さけるということは出来ますまい」

「ふむ。天然痘だってね、最後にかかった奴のあばたはいつも深くのこるもんなんだ」

「ほんとうにみんな戦争ですよ。戦争ってものは、一つだっていいことはのこさないもんですさ」

 おばあさんは、肩にかけている薄い毛糸の肩かけを、一層赤くなったように見える両手で胸の前へひっぱりつけながら、ためいきした。

「ご覧なさい。戦争で儲けたのはアメリカでしたよ。景気ブーム 景気ブーム!」

 ベルネのおばあさんは、がんこものらしく、ブーム、ブーム、と口をとがらせて蒸気が噴くように云った。

「あげくに、こんどは恐慌パニク! それで世界中を震い上らせるんです」

 パ、ニ、クとひとこと、ひとこと、唇の間からにがい種でもほき出すようにおばあさんは云った。

「しかし、お宅の職業は安全率が多いですよ」

 蜂谷はパンをたべない民衆はないし、現代では洗濯は日常の必要になって来ていると云った。

「民衆生活の必要に結びついた職業は、いつもつよいです」

「そこですよ! 教授プロフェスール、アチヤ」

 主人のベルネは満足そうに、椅子の背にぐっともたれて両方の脚をテーブルの下にぐっとつき出しながらうなずいた。フランシーヌが今にも鼻声の出そうな眼つきをして頸をくねらせ、母親へ目まぜした。細君はとりあわない。フランシーヌは日ごろから、親が洗濯屋だということを、いやがっているのだ。

「われわれの商売は、そりゃ正直な商売ですさ」

 食卓のまわりの話題は、いつか、燃料がたかくなって洗濯業の儲けはいよいよ減って来るという話に移って行った。それからまたアメリカの恐慌にもどって、日本の生糸、絹織物の輸出は当然大きい打撃をこうむるだろう。ヨーロッパで最も直接の混乱におかれるのはドイツであるという蜂谷の話になった。ベルネの一家は幸いドイツ人でないし、アチヤは教授であり、マドモアゼルは作家であって、日本の絹の輸出商でなかったことは何よりだった。ベルネ家の、味のよくない葡萄酒つき晩餐は、そういうところで終りになった。


 ともかく自分たち一家に急な打撃が来ないとわかると、ベルネの人たちは、赤い手のおばあさんからフランシーヌにいたるまで、恐慌に対して全く平静になった。おばあさんが梨をひろって、ヴェランダのガラスの中へ乾しているいつもの前掛姿。晩餐のテーブルへつきながら伸子の食慾までそこなうような物懶ものうさで、鼻声を出すフランシーヌ。

 伸子は、朝ごとの新聞の報道によって、こんどのウォール街の恐慌は、ウォール街の歴史がはじまって以来最大のものであるということを学びつつあった。四十階の建物の上からウォール街へ身を投げて死ぬのは、暴落のショックによって錯乱した女仲買人だけではなかった。ニューヨーク市カウンティ・トラスト会社の社長がピストルで自殺した。しかし大銀行家たちとフーヴァー大統領とは、どうかして愚図ついていた。やっと「資本・労働協約キャピタル・レーバア・パクト」が発表されたが、それは結果において、アメリカの大資本たちに(鉄道王・石油王・自動車王などに)銀行利子の引下げと、一年一億六千万ドルの所得税免税を許しただけのことであり、労働者はグリーンやウールのおかげで賃上げのたたかいを禁止され「労働者はあらゆる自分たちの問題の解決に際して、あらゆる途を講じて産業側と協同」することを約束させられただけのことであった。この協約パクトは、経済安定のために新しく八〇億ドルの新事業に着手することを予約しているけれども、これは当座の見せかけで実現しないであろうし、恐慌は救われず、単によりゆるやかな形に変ってそれを引きのばすにすぎない。なぜならば、フーヴァーと大資本家の計画が実現するものとすれば、このたびの恐慌によって暴力的解決をよぎなくされた原因そのもの──社会の生産力と消費力との不釣合──が、八〇億ドルの生産増進によって、ますますその不釣合を鋭くすることにしかならない。「リュマニテ」は「フォードのデマゴギー」という大きい見出しで、自動車王フォードの厚かましい声明を分析した。フォードは恐慌の進行していた十一月二十一日、いきなり、フォードの会社は、十五万人の従業員に対して賃銀を引下げるどころか、むしろ賃銀を引上げるだろう、そして自動車の価格も下げるだろうと発表した。フォード自動車会社は、労働者の初給五ドルを六ドルに、これまで働いている労働者たちの最低賃銀を六ドルから七ドルまで引上げる、と。しかし現実におこったことは次のようだった。フォードは、よりやすい新型自動車をつくるために模様がえをするという口実で、大部分の工場の作業を中止した。そして、もう必要のない職場の労働者数万をほうり出した。世界に名のひびく殺人的な合理化で四、五年間働かせられているフォードの労働者は、次の雇いてを見出すのがむずかしい。彼らがすっかり搾りあげられてしまっていることは周知であるから。

 フォード自動車がやすくなるのは、フォードにくっついて生きている何万人という販売者たちの手数料が二〇パーセントから一七・五パーセントに切下げられたからであった。たとえば二五ドルやすくなったフォード一台について、手数料のやすくなった販売者たちの負担はその二五ドルのうち一七ドル半。フォード会社はただの七ドル半を背負うにすぎない。販売者たちの負担で、これまでより貧しくなった人々の財布から、フォードはこれまでよりも儲けようとしているのだった。十一月に入ると失業者は四十万人を越した。

「これらすべてのことは何を告げるか? 世界市場の争奪は一層はげしくなるであろう。それは、とりも直さず、第二次世界戦争の危機を増大するであろう」

 ──三十日の晩、ベルネのうちでの会話にしろ、「リュマニテ」が告げているこれらの事実にしろ、蜂谷良作のたすけなしには言葉の不自由な伸子にわかることでなかった。

 伸子の夕食前の散歩は、少しずつ時間を早められた。クラマールの畑の道を森へ歩きながら、ある午後はサン・クルーの通りから、蜂谷の住居のあるサン・トアンのしずかな通りを通りぬけ、また戻って来て、妙に空屋のような感じのするその家の二階の、蜂谷の質素な部屋で話したりした。

 佐々のうちのものが、十月二十四日にパリを立っていたことはよかった。建築家として大規模な仕事に関係している泰造は、この恐慌の間接な余波を、何かの形でうけずにすまないことは明瞭だった。多計代が自家用の自動車にのり、伸子が少女時代にすごした佐々の家庭とはまるでちがった空気の中でつや子の少女期が送られているのも、第一次大戦中日本の船会社が莫大な利潤を得たことと無関係ではないのだ。

 ウォール街の恐慌が、世界の資本主義そのものの上にあらわれた不吉な斑点であって、それは次々の矛盾のばくろ、ファシズムへの結集、戦争、やがてはそのような全体制の崩壊を予告しているものであるということを、伸子は承知しないわけに行かないのだった。

 散歩のとき伸子は、蜂谷良作に、

「これをあげるわ」

と、一つの白い封筒をわたした。

「なに?」

 半信半疑で伸子の顔を見ながら、蜂谷は、手のひらの上におかれた封筒を眺めた。

「いやに軽いんだな」

「きれいなものよ」

 ゆっくりした歩調で歩きつづけながら蜂谷は、封のしてない封筒をあけて、その中から、白い小さい紙につつんだものをとり出した。

「何だろう」

 なかみが出て来る段どりを面白がりながら、伸子はまた、

「すてきなものよ。きっとあなたは持っていらっしゃらないものだと思う」

「──わからない」

 蜂谷は、太い指さきで、小さくて白くて全く薄べったい長方形のつつみを大事にひろげて行った。

「ホウ!」

「きれいでしょう?」

 伸子は、思いがけないもので蜂谷良作をおどろかした愉快さと、ほんとにそれは美しいと思っているこころの満足から、無邪気に笑った。

「もっていないでしょう?」

「もっていない」

 それは、ソヴェト同盟の三〇カペイキの郵便切手だった。さっぱりした長方形の水色地に、アジアとヨーロッパの地図が白く出ていて、そこに地球の六分の一を占めるソヴェト同盟の全領域が、いきいきと目にとびついて来るように鮮やかな赤で刷り出されているものだった。

「こういうものまで持って旅行しているのかな」

「これはほんとに気に入っているの。だからペン箱に入れてもっているんです」

 小さい美しい一枚の切手を見ている蜂谷の顔は大きく見え、それをのせている手のひらも大きく見えた。

「ちょっとみてもきれいでしょう? よく見るともっといいのよ。こまかいところまで、ほんとの地図よ」

「なるほど、こんなところの、でこぼこも、ちゃんと出ている」

 中国の海岸線の部分を、蜂谷良作はそこを実際に知っているものの興味を示して検査した。その切手にあらわされているヨーロッパの東の部分から先にあるフランスはぬけているのだった。

「日本よ、お前は海にはられた一本のつる。どっちから風が吹いても、鳴らずにいられない。──ほんとにそう思うでしょう?」

 伸子は、また紙の中にしまわれてしまう前に、往来に立止って、蜂谷良作の手の上にのせられているそのきれいな切手をのぞきこんだ。



 伸子はモスクヷから思いがけない手紙をうけとった。佐々の一行は、予定どおり十月二十七日の朝、モスクヷへ到着した。電報でその時刻を知らされていた素子が、停車場へ出迎えた。そして、モスクヷを通過する旅客がそうするように、その日の夜シベリア鉄道にのりつぐまでの時をすごすために佐々一行を、大使館へ案内しようとした。ぶこちゃんの予定も、そんな風に云ってよこしていたから、と素子はその手紙に書いているのだった。ところが停車場にはどういう手筈てはずになっていたのか、素子のほかに大使館づき陸軍武官の藤原威夫が来た。

 国際列車が北停車場セーベルヌイ・ボクザールのプラットフォームにとまると、背広を着た陸軍少佐の藤原威夫は素子の先にたって、佐々一行の乗っている車室を見つけ、手まわりの荷物の世話をやき、モスクヷでは数が少くてつかまえるのに困難なタクシーまで、あらかじめ準備した。こんなあんばいで、わたしのしなければならなかったはずのことをみんなやって貰えて、大いにたすかったわけだけれども、と素子のこまかいペンの字が、原稿用紙の枠をはずして語りつづけていた。お母さんは、初めっからモスクヷでは大使館へ行かず、藤原氏のところへ行く予定でいられたのだろうか。多計代だけが大使館へ行く佐々泰造やつや子その一行の人々と停車場でわかれ、藤原威夫の自動車にのって、彼の住んでいる室へ行った。そして、その夜、シベリア鉄道へのる日本人の一行がボリシャーヤ・モスコウスカヤ・ホテルで会食する時間が来るまで、多計代はずっと藤原のところにとどまっていた。多計代の行動について素子は言葉すくなく報告を結んでいる。お父さんがついて居られてのことなのだから、わたしが、とやかく、くち出しすべきでもないと思ったから、と。

 その手紙をうけとったのは、クラマールに晩秋の雨がふっている昼だった。赤銅色の秋の梢にかかる明るい雨脚を眺めながら、伸子はベルネの家の二階の室で、壁と衣裳箪笥との間に置かれて肩のつまるような気持のする机に向って、くりかえしその手紙をよんだ。

 素子のかきぶりは、簡明で、一つも余分な感想はつけ加えられていなかった。多計代のモスクヷでの行動が、それだけ語られている。クラマールという遠くはなれたところでそれを読む伸子にとっては、素子が冷静に書いているというそのことのうちに、息をつめていた彼女の顔つきが見えるのだった。ぶこちゃんが一緒に帰って来たがらなかったのもわかるような気がする。しかしね、ぶこちゃんがかりに一緒にモスクヷへ帰って来たとしたら、果して同じことが起っただろうか。そこのところは、わたしにもわからない。──素子のこの表現もデリケートだった。伸子がみんなと一緒にパリを立たず、あとから自分だけでモスクヷへ帰ろうときめたことについて、素子は前後して書いている手紙のどこにも、その問題に触れて自分のはっきりした意見は示していないのだった。

 伸子のこころもち、というより考えは、素子からの手紙によって、ふたとおりにも、みとおりにも動かされた。多計代がモスクヷへつくなり、停車場から自分だけ藤原威夫の住居へ行って、一日じゅうそこにとどまっていたということは、伸子に、意外というよりも複雑なニュースだった。何の意味があって多計代は、モスクヷでそんな、こと更らしいふるまいをしたのだろう。

 ことしのはじめ、伸子が肝臓炎になってモスクヷ大学の附属病院に入院していたころ、モスクヷ駐在の日本大使館づき陸軍武官は、二人に増員された。酒のみで、いつも豪放磊落らいらくらしくふるまっていた木部中佐を補佐する意味で新しく赴任して来たのが陸軍少佐の藤原威夫だった。そういうことについては何にも知らず、一月はじめから入院生活をしていた伸子は、病気がのろのろと恢復しつつあった二月末のある日、突然、藤原威夫の訪問をうけた。彼は初対面の伸子に、自分を全く個人の資格で紹介した。昔から佐々の家庭に出入りしているある男の長男が、偶然藤原の細君の妹にあたる娘と結婚することになったことから、その披露の席で藤原威夫も佐々泰造と多計代とにちかづきとなった。彼がモスクヷへ赴任すると知って、ぎりぎりの出立前夜、多計代が藤原威夫の家を訪ね、モスクヷへ行ったらぜひ伸子の様子を見て、こまかに知らせてほしい、とたのまれたので、と。

 藤原威夫の禅坊主のような骨の高い頭のてっぺんは、まじめな軍人として、軍帽ばかりかぶりつづけて来た男らしく、年に似合わず薄くなっている。万事が周密で、粗大なところのない口調だった。そのなにげない話しぶりで、彼は、そのとき、伸子に、日本の天皇についてどういう考えをもっているかと質問した。一九一七年にロシアはツァーを廃した。フランス革命はルイ十六世をギロチンにかけた。伸子は、ソヴェトの社会に共鳴しているときいているが、日本の天皇というものは、どう考えているか、というのだった。伸子は、本能的な警戒を感じた。自分の思想が、軍人によってしらべられている、その事実をはっきり感じた。

 革命の理論として日本の天皇についてまとまった認識をつかんでいない伸子は、はげしい警戒心に刺戟されて、むしろ逆襲的な反問をした。日本とロシアとは、それぞれ別の条件に立っているのに、なぜ天皇について、ここで論じなければならないのか、と。藤原自身、日本の天皇はツァーと等しい悪い存在だと認めているのだろうか、と。

 藤原威夫は、冷静に伸子の云いかたを計ってきいていたが、やがて、あなたが社会についてどう考えられるのも自由だが、天皇の問題だけは慎重に扱われたがいいですよ、と云った。そして、改正される治安維持法では、第一条に国体の変革ということをおいて、きわめて重刑である、と告げたのだった。

 モスクヷで生活しはじめてから十五ヵ月たつうちに、おのずから会得されて来ているソヴェト社会の常識から、伸子は藤原威夫の訪問を、迷惑に思った。多計代が、わざわざたのんで、藤原威夫に自分を見舞わせたりする、その心配を迷惑に思った。そして、彼が忙しいと見えて、病院へ一度来たきりであったことを、──下宿へ訪ねて来たりしなかったのは、たすかったと思ったのだった。

 藤原威夫がモスクヷへ赴任して来たのは、東支鉄道の問題で、中国の蒋介石政府とソヴェト同盟との間に紛争がきざしはじめた折からだった。佐々の一行がパリでペレールに住んでいたこの夏に、ソヴェト同盟と中国とは国交断絶した。東支鉄道問題で蒋介石政府を支援して、ソヴェト同盟との紛糾を長びかせているのは、中国のそとの帝国主義の国々であることは、パリにいてモスクヷの外からそのいきさつを見ている伸子に、はっきりわかった。パリに「プラウダ」はなくても、事実は「リュマニテ」が語った。

 多計代が、シベリア鉄道へのりつぐためにモスクヷで過す十二時間を、藤原威夫のところで過した、ということは伸子の予想さえできなかったことだった。パリの生活で、伸子は、藤原威夫の存在をほとんど忘れていた。けれども、多計代は、モスクヷ、そこに藤原威夫がいる、と、その一つに焦点を合わせたようにして、彼と連絡したのだ。

 伸子には母のやりかたがおそろしかった。多計代は、いつの間にモスクヷの藤原威夫とそんなうちあわせをしていたのだろう。シベリア鉄道で帰るときめてから、多計代は、伸子に一緒に帰ろうとすすめなくなった。いろいろの手伝いはさせながら。伸子と自分たちとは、わけるように、わけるようにした。伸子はそれを不思議に思いながら、結局自分がひとりでモスクヷへ帰ろうと思っている計画がたやすくなったとしか、考えなかった。けれども、多計代は伸子をパリにおいておいてモスクヷの藤原威夫に会う計画だったのだ。それは何のためだろう──。

 明るい昼の雨にぬれて赤銅色にそまっている秋の梢を眺めながら、伸子は、指先のつめたくなるような思いに考えしずむのだった。自分がモスクヷでもパリでも、どんな政治的な団体にも連関をもっていないことは、何とよかったろう。さもなければ、パリで毎日数時間ずつ伸子と一緒に暮していた母親が、モスクヷへ着くなり、日本の諜報者としての任務を帯びて駐在している藤原威夫のところへ自分だけ行って、午後じゅうそこに留まっていたなどということは、第三者として伸子がきいても単純に解決されにくい、おかしな動きかただった。多計代は多計代らしく考えまわして、泰造はたよりにならないと思い、これだけはわたしひとりで、と思いこんだことがあったのだろう。素子からの手紙で、思いがけないことをはじめて知った伸子は、モスクヷで母親をそんな度はずれに行動させたひそかな動機は何なのだったのだろうと、考えこまずにいられないのだった。

 伸子はくりかえしてはじめから素子の手紙へ目をとおした。つや子にことづけてやったお土産袋を、素子はうけとっているのだろうか。半ペラの原稿紙五枚に、こまかくつまっている素子の手紙のどの行にも、伸子が自分で縫って金色のリボンでくちをしめたお土産ぶくろについては書かれていなかった。



 四、五日たった日の午前も、もうおそい時間のことだった。日仏銀行の表口から伸子が蜂谷良作とつれだって人通りのはげしいカンボン街へ出て来た。

 伸子のハンド・バッグにはたったいま、九十九円七十五銭という小切手をフランにかえたばかりの現金がはいっている。マデレーヌの広場へ向う歩道のはずれに立って、自動車の流れをつっきろうとしているひとかたまりの男女にまじりこみながら、伸子は蜂谷良作に、

「おひるは、わたしが御馳走いたします」

と云った。

「でも、すこし風変りなのよ、日本のお金で七十五銭だけの御飯をたべるの、それでもよくて?」

「七十五銭?──六フランとちょっとだな。……しかし、どこからその七十五銭てきまりが出たんです?」

「吉見さんが、九十九円七十五銭の小切手をくれたんです。そのしっぽの七十五銭というわけなの」

 伸子がおもしろがって、二人で六フランという粗末なひるめしを計画するには、わけがあった。吉見素子はこれまで翻訳ではいくつかの仕事をして来ていたし、その力量にも一定の評価をうけていた。けれども、自分で書いた創作も評論もなかった。わたしは、翻訳だけしか出来ない人間なのかい、そんなのいやだよ。駒沢に暮していた時分にも、折々素子がそう云うことがあった。ぶこちゃんが書くひとなのが、その点ではよし、あしだ。知らず知らず、わたしはすくんじまう。

 モスクヷへ来てからも、素子は何もかかなかった。どうして? それほど文学ニュースを知っていて、もったいないのに。書けば、みんなの役に立つのに。ロシア語がよく出来ない伸子は、時には素子の雑談さえ、日本へしらせればいいのに、とすすめた。それでも何一つ書かなかった素子が、この夏、伸子といっしょにロンドンへ行って、そこから先に一人でモスクヷへ帰って来てのち、ソヴェト文学の最近の動向についての評論をかいた。それが文明社の綜合雑誌にのった。そしてモスクヷの吉見素子へ原稿料がおくられて来た。九十九円七十五銭は、その原稿料なのだった。これはおはつだから、みんなぶこちゃんに進呈する。素子の手紙にはそう書かれていた。いつも書くことをすすめていてくれたのは、ぶこだから。そして、ぶこがそっちにいて、わたしは一人だもんだから、話しあいてもなくて、ついそんなものを書いてみる気にもなったんだろうから、と。

 伸子は、はじめどこか上の空のような視線でその小切手を眺めた。その小切手が送られてきた手紙が、同時にモスクヷへ着いた日の多計代の行動を知らしていたのだった。

 伸子は、ベルネの二階のせま苦しい机の上で、絵入りの礼手紙をモスクヷの素子にあてて書いた。中央にはモスクヷの小さい四角な換気窓フォルトチカのついた二重窓に向って、あちら向きに机についている素子の後姿がある。伸子は首を曲げまげ、素子の特徴である撫で肩の工合が、そっくりのように描いた。そのぐるりの、ふち飾りのようにして、いろんなものを描いた。クレムリンの城壁とその城壁の上空にひるがえっている赤旗。素子がパリにいたころ、ヴォージラールのホテル・ガリックの七階の暑い部屋のテラスから二人で見晴したパリの屋根屋根。そこに林立している無数のパリ独特の細い煙突。はるかなエッフェル塔と、それに加えて伸子は、もらった小切手で買おうと思っているマチスの素描集の表紙の絵をかき添えた。そして、地図の丸い目玉をかいてヴェルサイユ門と註したところから、おもちゃの電車が走ってクラマールへついたところに、ベルネのお婆さんのふくらんだ大前掛の姿が現れ、でこぼこの大きい西洋梨があり、「資本論」がある。それらは、伸子がこれまで書いているたよりの中で、みんな素子に知られているはずのものばかりだった。

 弱い、不確なペンの線で、次から次へとそんなものを描いているとき、伸子の心は涙ぐんで、最初の九十九円七十五銭を自分にくれた吉見素子のこころもちと、絶えずいかめしく、娘である自分を警戒している母の多計代のモスクヷでの仕うちとを、思いくらべたのだった。

「ですからね、わたしは、きょうの八百五十六フランは特別大切に使うの」

「ふーん。きみたちの間には、そういうこころもちがあるのか」

 蜂谷良作は、

「吉見君にも、あれでなかなかいいところがあるんだな」

 むしろ感慨ふかそうに云った。

「そうでなくて、どうしてこんなに長い間暮して来られるもんですか」

「そういうわけだな。──そりゃ、たしかにそうだ」

 深く会得するように、蜂谷良作はうなずいた。素子が、あれで、思いもよらないとき急におこり出したり、おこると、そのおこりかたがひどくて、妙にぐらんと居直るような切ないところさえないなら……。たとえ、こういう小切手をもらい、それを心からうれしいと思っても、そういうときの素子に、伸子がついて行けないことに変りはなかった。そのついて行けなさは、モスクヷ生活の間に伸子の側で強くなって来ている。あいてが誰であるにしろ、ひとからおどかされて泣いたりするような自分、そういう自分を軽蔑することを伸子が学んだからだった。

 伸子と蜂谷良作とは、商業街の小商人たちが食事兼用談をする町角のカフェー・レストランで、簡単な昼食をとった。

「きょう、わたしは、ほんとすごいけちなのよ。アントレまでは、さっきのきまりどおりよ」

「じゃ僕が葡萄酒とデセールをうけもつ」

 つましい献立ながら、商談をしながら、それでもパリ市民らしく、昼飯を味っている中年の男女がこみあっている店内には、やすものの葉巻の匂いが立ちこめていた。伸子は、蜂谷良作につれられて、得体のしれないこんなごたついた場所で食事をしたりするのを面白がった。まだ佐々のうちのものがパリにいたころのある日曜日に、蜂谷は伸子を、有名な「のみの市」へつれて行った。伸子は、正体のわからないような古ものの間をのぞきこんで、いわゆる掘り出しものをすることに熱中するたちの女でなかった。それよりも「のみの市」からすこしはなれて、一廓を占めているパリ郊外の、労働者の日曜日の遊び場の光景が、伸子をその活気と無頓着さでよろこばせた。蜂谷と伸子とは、自働ピアノの鳴っているレストランの粗末な椅子にかけ、むき出しの木のテーブルに向って、そこで食べている人々のとおりに、生カキをたべた。あたりの人のたべかたをまねして、カキの貝殼を手にもち、そこにたまっている汁を吸ったとき、それはつめたくさわやかで、海の香がした。帰りしなに、そのレストランの裏口のところを通ったら、日本の烏貝のような大きな黒い貝殼が山とすてられていた。

 白い石の卓をさしはさんで蜂谷と向いあわせにかけながら、いまも、伸子は興味をそそられた顔つきで、まわりの光景を見まわしているのだった。こういう場所では伸子自身も見られているわけだったが、こだわらない楽な気分だった。

「──お金の話ばっかりのようね」

 帽子かけには、パリの小市民の男がかぶっている黒い山高帽がかかっていて、ウェイタアの前掛も純白とはゆかないその店内では、伸子の耳もとらえずにいないほど活溌に数字をあげて金の話がかわされていた。しかし、伸子の小耳にはいる金高は、そのようなレストランにふさわしく、日常的な額だった。十月二十九日におこったウォール街の恐慌はその最悪の状態がまだ収拾されなくて、数日のうちに何百万という人々が五百億ドルから六百億ドル貧乏になりつつあった。ニューヨークの質屋が未曾有の大儲けをしていると報じられている折からだった。クラマール洗濯工場主ベルネが、十月三十日の夜、彼の商売のなりゆきについて心配したように、このレストランの帽子かけに、ずらりと山高帽をかけ並べている男たちとそのつれの女たちは、平凡な昼食をとりながら、フランスの経済と政治とを支配している十二人の大資本家たちの大釜から流し出される不安定な利潤について、議論しているのだった。

 食後のアイスクリームがすんでしばらくすると伸子は、

「出かけましょうか?」

 落ちついてタバコをくゆらしている蜂谷良作をうながした。恐慌がはじまってからのパリの目抜き通りは、どんなに変化しただろう。伸子はそれが見たかった。



 シャンゼリゼーをとおってオペラへつきあたる大ブルヴァールの一つの角に、婦人靴専門店のピネがある。夏のころ、何心なく伸子が通りがかりにのぞいたら、「ピネの靴」を買っているアメリカの婦人客が、しゃれた肉桂色のカーペットがしきつめられている店内に群れていた。白い小さいカラーとカフスつきの黒い服をつけた若い女店員たちは、それぞれうけもちの婦人客の前におかれた足台に向ってひざをついて、とりかえ、ひっかえ新しい靴をためす客のあいてをしながら、忍耐づよく小間使いのように立ったり居たりしていた。

 ガラス扉を押して入り、そのピネの店内を見て、伸子は、やっぱりそこに予期した光景を見出した。女が、きばって帽子や靴を買おうとするとき独特ののぼせかたで、足台を前にして群れていたアメリカの婦人客は、ピネの店から姿を消していた。気のきいた陳列棚、柔かい緑のビロードで張られている足台。閑散な店内で行儀よい売子たちは、ふらりと入って来た伸子のベレーをかぶった身なりと、そのあとについている蜂谷良作の服装を見て、格別、彼女たちの立っている場所から近づいて来ようともしない。

てきめんなものねえ」

 店を出て伸子はむしろ感歎するようだった。

「ここでみごとな靴を買ってどこにも苦労の無さそうだった奥さんたち、いまごろアメリカでどうしているんでしょうね……」

 マロニエの青葉かげの濃いころ、昼飯後のブルヴァールと云えば色彩的で、パリの午後をぶらつく各国からの安逸な人々によってかもし出される雰囲気に溢れていたものだった。きょう伸子と蜂谷良作とが、観察的にあたりを眺めながら歩いてゆくブルヴァールには、晩秋という季節のしずけさばかりでない沈静がただよっていた。歩道の人通りもぐっとへってはいるが、それより、伸子をおどろかしたのはブルヴァールに向っている有名なカフェーのテラスが、ほとんどがらあきなことだった。いつも空席が見つけにくいほど立てこんでいて、腕にナプキンをかけたギャルソンが軽快に陽気にその間をとびまわっていたオペラの角のカフェー・ド・ラ・ペイにしろ、ずっとはなれてエトワールに近いクポールにしろ、往来を眺めて椅子にかけているような人は、ほんの数えるしかなかった。その人たちのなりは、黒っぽく、大半が壮年を越した年輩の人だった。ブルヴァールせましと歩いていたあの薄色の派手なスーツの若い連中、享楽こそモラルだというような眼つきをしてソフトを斜めにかぶって歩いていた連中は、みんなどこかへ行ってしまった。

「パリがパリの人たちのところへ還って来たのね」

「しかし、こんな風じゃ、やっぱり困るんだろうな。何て云ったってフランスは遊覧客のおとす金とアメリカが買う贅沢品で、バランスをとって来ているんだから」

 リボリやブルヴァールの高級装身具店は、恐慌などに浮足たたない誇りをもって豪奢な店飾りをしている。

 ブルヴァールを中心として、伸子はあの通りからこの街すじへと、思いつくままに曲ったり、つっきったりして歩いてゆく。蜂谷良作は、あきる様子もなくそれにつきあっているのだったが、

「佐々さんと歩くのは、おもしろいね」

と云った。

「出たらめみたいなくせに、こうしてみると、一種のかんで歩いている」

「──わたしが読めないからだわ。眼と足とで見るしかないからよ」

「そうばかりじゃないな。──部屋をみて歩いていたときね、あのとき僕は気がついたんだ」

 伸子は、ぼんやり、

「そうお」

と答えた。クラマールへ引越してゆくことがきまる前、伸子の部屋さがしを蜂谷がたすけた。二人づれで歩いて、いくところ見ても、伸子の住めるような場所が見つからなかったとき、伸子は、蜂谷をいつまでもきりのない仕事にひっぱっておいてはわるいと思って彼のたすけをことわろうとしたことがあった。そのとき、蜂谷良作は伸子のことわろうとしている意味をさぐるように伸子をみて、ゆっくりと、

「僕は、あなたのように事務一点ばりには考えていないんだがな」

と云った。蜂谷のその言葉を、伸子はその日の会話の全体のなかへ流しこみ、とかしてしまった。いまも、伸子は、忘れていないそのときの蜂谷の言葉を忘れたように、そうお、と答えたぎりで、歩いているのだった。


 ソヴェト映画の「アジアの嵐」を見おわって、伸子と蜂谷良作が往来へ出たのは、その日の宵も、やがて九時近い時刻だった。

「ああ、おもしろかった!」

 映画館内の空気から解放されると、伸子は、秋の外套をきている体をのばすようにして歩きながら云った。

「面白かったわ。『アジアの嵐』をああいう風にカットしなければ、フランスでは観せられないのねえ。何てお気の毒!」

「フランスは植民地問題じゃ、いつも神経質なんだ。──よく蒙古独立なんか扱ったものを公開したと云えるぐらいだ」

 蜂谷良作が、「アジアの嵐」へ伸子を誘ったのであったが、スクリーンを見てゆくうちに、伸子は、いくども、

「あら。また飛ばしちゃった!」

 並んでかけている蜂谷に注意した。エイゼンシュタインが製作した「アジアの嵐」は、蒙古人民が植民地としての隷属に反抗して、独立のために奮起する物語がテーマだった。「十月オクチャーブリ」につぐエイゼンシュタインの代表作と云われていて、モスクヷ第一ソヴキノ映画館で伸子がそれを観たとき、彼一流の辛辣な諷刺が、画面をきもちよくひきしめていた。西洋式の寝室の大鏡の前に立って、どこにも美しさのない大柄な老夫人が、小間使にコーセットの紐をしめさせている。鏡の中の自分を見つめながら、もっとかたく、もっと細く、と口やかましく指図しながら。するとそのとなりの室のこれも大鏡の前で、大きい髭をはねあげた老紳士が、侍僕あいてに、だぶつく腹に黒繻子の布を巻きつけて威厳ある容姿をこしらえている。「野蛮な蒙古」のわるくちを云いかわしながら、ダライラマの謁見式に出かけるために、身仕度をしている外国使節夫妻の寝室の情景は、一方、かれらに観せるために準備中のラマの踊りの原始的でありグロテスクである扮装の次第とたくみに対置されていて、観衆は、ヨーロッパの野蛮、について感銘をうけずにいられなかった。

 シャンゼリゼー映画館のふっくりした坐席で、場内のうすら明りに緊張した顔をてらされながらスクリーンを観ている伸子の唇から、

「あ、とばしちゃった!」

 鋭いささやきが洩れたのは、「アジアの嵐」の印象づよいその部分が、完全にカットされてしまったからだった。帝国主義のもつ未開とのコントラストを消されてしまったラマの踊りは、ただ未開アジアの異国風景だった。「アジアの嵐」という一篇の物語の筋は、場面場面の変化につれてのみこめるけれども、エイゼンシュタインが、ひとこま、ひとこまを、強烈に構成して、観衆の実感を湧き立たせたアジアの嵐への呼びかけは、全く気をぬかれてしまっているのだった。

 伸子は、蜂谷良作に向って熱心に、パリの「アジアの嵐」ではカットされている部分の面白さや意味について話すのだった。

「エイゼンシュタインは、『十月オクチャーブリ』でも、そういう手法をつかっているんです。パッ、パッと、ツァーの写真と日本のおかめの面なんかが、かわりばんこに出たりするの。すこし観念的みたいなところがあるけれども、でも、雄弁よ。あんなに切りこまざいた『アジアの嵐』では、まるでアジアに嵐がおこって来る必然性を消しちまってあるんだもの──自然現象みたいに、まるで、ひとりでそんなことが蒙古では起るというお話みたいにごまかしてあるわ、民族の独立ということを──」

 話の内容にふさわしい元気な、比較的速い足どりをそろえて、二人はコンコード広場をセイヌ河にかかった橋の方へつっきっているところだった。

「しかしまあ、パリでは、ああいうものも見られるだけいいとするのさ」

 蜂谷良作の分別くさい云いかたが、ふと伸子の反駁を誘った。

「……蜂谷さんのような、学者っていうものは、何にでもあんまり感動しない習慣?」

「そんなことあるもんか」

「そうかしら。──わたしからみると、あなたがたは、何となし、自分にわかったことの範囲でおちついているみたいなんだけど」

「たとえば、どういう場合?」

「いまみたいな場合。──あなたは、肝心のところがカットされていても、ともかくここで『アジアの嵐』が見られればまあいいって、おっしゃるでしょう? わたしなら、そういうとき、きっとどうかしてカットのないのが見たい、と思うと思うわ。カットは、映画にされているばかりじゃないんだもの。そして、その気になれば、見られるんだわ」

「どういう風にして?」

 モスクヷへ行ってみればいいのだ。けれども、伸子はそのことについてはだまった。二年以上もパリにいる蜂谷良作が、まじめにそれを希望すれば、モスクヷへ行けないわけはなかっただろう。しかし、伸子がベルリンであった日本の医学者たちがそうであり、ロンドンにいる利根亮輔がそうであるように、蜂谷良作も、絶えずソヴェト同盟というものの存在を意識におきながら、じかに自分でそこの生活にふれることは微妙にさけて来ている人たちの一人なのだった。

「わたしは、こんどの恐慌についても感動なしにいられない。アメリカの繁栄は一九三〇年を包括しないであろう。そう云ったとき、世界の随分たくさんの人たちがフンと思ったろうと思うんです。また、はじまったって。でも、いまは現実でそれが証明されているわ。本質をつかむってことは、ほんとに凄いとわたしは思うの。実につよい、云うに云えない美しさがあるわ」

 足早に歩きながら伸子は、ベレーをかぶったおかっぱの頸すじをちょいとちぢめるようにした。

「──もっとも、ちょっと、こわくもあるけれども……」

 しばらく黙って歩いてゆく二人の靴音がセイヌの河岸通りの静かな夜に響いた。

「僕は、このごろになってちょくちょく思うんだ。……佐々さんに会うのがおそすぎた」

 伸子は思わず、並んで歩いている蜂谷良作の体温が急に自分に近くなったように感じた。

「僕が佐々さんから、どんなに新鮮にされているか、とても佐々さんにはわからないだろうな」

「ものの見かたで?」

「そうばかりじゃなく、万事のやりかたで、……こないだ、クラマールの往来のまんなかで、佐々さんはソヴェトの切手を僕にくれたろう、ああいうやりかた」

 蜂谷の会話の調子にひきこまれそうになってゆく自分と、それを知って抵抗する自分とを、伸子は同時に一つ自分のうちに感じた。

感傷的な旅行センチメンタル・ジャーニー

 伸子はそう思った。そして歩いてゆく夜の街の灯かげを黒いソフトのふちで遮られている蜂谷良作の横顔を見た。蜂谷のぽってりとして、不明確だけれども正直そうな表情を見たら、伸子はかえって気持が自由になり、責任感のようなものを目ざまされた。

「蜂谷さん、少しホームシックなのかもしれないことよ」

 ほんとに伸子はそう思った。

「そろそろ、メトロへのりましょうよ。その方が無事よ」

「僕は無事でなんかなくていいんだ」

「だめ! そんな駄々っ子みたいなこと云って……」

 伸子は、こだわりの去った笑いかたをした。すると蜂谷良作は、しんからむっとしたような顔を伸子に向けた。

「僕は、決してホームシックなんかじゃない。僕の結婚生活って、そういうんじゃないんだ」

 じゃあ、どういうの? 誘われそうになる言葉を、伸子は自制した。日本に暮している蜂谷良作の妻は小児科の女医だった。蜂谷は、いろいろの場合、細君と子供の生活は、彼にかかわりなく自立してゆける方がいいと考えて、そのひとと結婚した。少くとも進歩的な立場で経済学なんかをやってゆこうとすれば、一生のうちに、いつ、どんなことで失職するかもしれない。日本のようなところではもっとわるいことさえ起るかもしれない。それでもいいという人とでなければ、いざというとき、財産もない自分に結婚なんかできない。いつだったか伸子は蜂谷良作からそういう話を、きいたことがあった。

「トミ子は、しっかりものかもしれないけれど、時によるとやりきれないぐらい経済主義なんだ」

「もしそうなら、それはあなたの責任じゃない?」

 伸子は、蜂谷良作のわきからはなれ、彼と足をあわせるのをやめて歩きだした。

「そういう話はおやめにしましょうよ──賛成して頂戴」

「…………」

「こんなこと話していつまでも歩いているの、なんだかいや」

 デピュテの角で地下電車の停車場へゆっくり石段を降りてゆきながら、伸子は、

「蜂谷さん、約束して」

と云った。

「わたしたち、センチメンタルにならないって約束しましょうよ、その方がいいわ」

 電車が出て行ったばかりのところと見えて、プラットフォームにはまばらに乗客が待っている。蜂谷良作は伸子の前を往ったり来たりした。

「こんやの佐々さんは、いやに何でも避けるんだなあ」

 彼は伸子の前にぴったり立ちどまった。

「僕は第一ホームシックで云っているんじゃない。それから、あなたのいうようにセンチメンタルになっているんでもない。それだけは承認して下さい」

「──むずかしい註文だわ」

 云っている言葉のがんこさに似あわず、伸子は優しい目つきだった。

「わたしは、そう感じないんですもの」

 ベルネの家の、鉄門のくぐりの外まで蜂谷良作は伸子を送って来た。

「じゃ、さようなら、どうもありがとう」

 門を入って行こうとする伸子のあとを追って、

「あした、五時、やるんでしょう?」

 蜂谷が声をかけた。資本論の講義のことだった。

「あなたは?」

「僕はもちろんつづける」

「じゃ、どうぞ。わたしもいいわ」

 門から玄関までの、小砂利をしきつめた爪先のぼりの小道をふんでゆく伸子の足音の中で、蜂谷良作の重い靴音が往来の彼方へ遠ざかった。



 蜂谷良作は伸子と歩くことを迷惑がらなすぎる──

 一日外を歩いて来て、ほこりっぽくなった顔をすっかり洗い、おかっぱの髪にブラッシュをかけ、体も拭き、さっぱりした寝間着姿になって寝床によこたわりながら、伸子は天井を見ていた。室内には電燈が明るくついていて、枕元の小テーブルの上では白い猿の前肢に、伸子が手くびからはずしてかけた腕時計がかがやいている。

「僕は無事でなんかなくていいんだ」

 そう云った蜂谷良作のおしつけられた声と、そう云いながら自分のわきを歩いていた蜂谷良作の重い体の感じが、伸子の感覚に印象されている。でも、どうして彼は、伸子が柔かくこまった気持になりながら、同時にその半面で批評的にならされたほど感情的だったのだろう。

 素子がパリにいた夏のころ、クラマールの終電車にのりそこなった蜂谷が、ヴォージラールのホテルで素子の部屋へ泊ったことがあった。夜なかまで三人は露台のところで話していた。何でもなく、さっぱりとあれこれのことを話していた。

 伸子ひとりがロンドンからパリへ帰って来て、モンソー公園を一緒に散歩したりしたとき、蜂谷には、格別なところがなかった。伸子は、そういう彼に安心して、親しいこころもちをもった。

 伸子が彼との間に求めているのは、あぶなっかしいところのない友達としての感情だった。女同士の友達で女が感じあうものとは、自然どこかちがった趣のある男の友達としての蜂谷良作を、伸子は親しく感じているのだった。クラマールへ越して来る前後から、蜂谷良作は伸子の日常生活の習慣のなかに、きまった場所を占めるようになった。伸子はそれを拒絶していない。だからと云って、伸子は蜂谷に魅せられているのではないのだった。蜂谷良作は、伸子にとって、魅力があるというたちのひとではない。きわだった魅力というようなものがなく、誰の目にも彼の人柄として映っているあたりまえの身なり、あたりまえの向学心、そのすべての彼のあたりまえさが、伸子にとっての親しさであった。

 こんやは、そのあたりまえの蜂谷良作から、ちらり、ちらりと、低く揺れている焔の舌のようなものが閃いた。その焔は伸子がかきたてたのだろうか。伸子はそう思えなかった。クラマールの往来のまんなかで、伸子が、きれいなソヴェトの切手を蜂谷にやった。そして、二人は往来に立ちどまって、その小さくていきいきとしたきれいなものをのぞきこんだ。蜂谷良作だから、伸子はそうしたのだったろうか。伸子は、自分の気に入っているものをやりたいと思うような人に対してだったら、誰にでも、あんな風に感興をもって行動するたちだった。蜂谷が、そういうたちの女として伸子を理解しないで、特別彼にだけ、彼がすきだから伸子があんな風にしたと解釈しているとすれば、それは彼のあたりまえさのうちの、乙下の部分で、凡庸だ、と伸子は思った。理づめな蜂谷は、ともかく伸子が自分を好きなのにはちがいないだろうと、つめよるかもしれない。もし彼がそんなことを云ってつめよったら、あんまり中学生だ。いたずらっぽい眼をして、伸子は明るい寝台の上に仰向いたまま素直に笑った。きらいでない、という線からはじまるひろくぼんやりしたこころもちの、どの地点に蜂谷良作はおかれるのだろう。伸子の感情に、恋のかげはちっともさしこんでいないのだった。自分の心が恋にとらわれていないことをはっきり知っている伸子は、おちついて、こまかい景色のあらわれはじめた感情の小道について、吟味をつづけた。その過程で無意識にあまやかされながら。

 蜂谷良作が、細君にふれて話したのは、伸子をいやに感じさせることだった。蜂谷の細君と伸子とは互にあったことさえなくて、まるで別なものなのだし、蜂谷にとっても全く別な角度で存在しているもののはずだのに、細君と伸子とをおきならべ見てでもいるような比べかたで彼が話した。そのことは、伸子を傷つける。伸子にとって、蜂谷良作の細君であるという女の立場は、全然関心がないのだ。──

 永い間大きい寝台の真中で仰向いていた伸子は、清潔なシーツの間で勢よく寝がえりをうって体をよこにした。あした、もしそんな折があったら、蜂谷良作にはっきりそう云おう。伸子はゆっくりと辿っていた考えに、しめくくりをつけた。伸子の気持を誤解しないように、ということを。もう一つは、彼が伸子に興味をひかれている点を分析してみれば、そこには伸子の生れつきそのものよりも、伸子がモスクヷで暮して来ている女であるということからつけ加えられている、さまざまの要素があるという事実に着目して、蜂谷が現実的な気分になるようにしようと思うのだった。それらの要素が、伸子を蜂谷の細君とちがう一人の日本の女にしているのはほんとうであるかもしれないし、また蜂谷がフランスへ来てから知って来ているに相異ないどこかの女とも、当然、ちがう伸子であらせているだろう。そこには、微妙ないりくんだものがある。伸子が蜂谷にソヴェト同盟の切手をやる気持になったのも、彼がすき、という動機からだとばかり考えるとしたら、それは二人の間にある事実ではないのだから。──一九二九年の十月二十九日という恐慌の日がなかったら、そして、伸子が、ソヴェト同盟を中心に目ざめはじめている人類の理性のたしかさに感動することがなかったら、蜂谷は、あの一枚の水色と赤と白の切手を伸子からもらう機会はなかっただろう。そのことを、彼は理解しなければいけない。伸子はそう思うのだった。そういう機会に、そんなやりかたで感動をつたえるのが伸子のたちだということは、もう一つ別の事実にちがいないけれども。


 翌日の夕刻、おきまりの講義に来たとき、蜂谷良作は、いつもよりいくらか自分自身に対して気むずかしげな表情だった。昨夜の気分は明らかに遠ざけようとされていた。彼は幾分ぎごちなく伸子の質問に答え、ブリアンにかわって新しく組閣されたばかりのタルデュー内閣がもっている困難について説明した。フーヴァーの資本・労働協約キャピタル・レーバア・パクトは、現にアメリカ国内生産の矛盾と対立とを鋭く意識させる役に立っているばかりであり、フランスの資本主義は、自動車生産の部門から恐慌の影響を示しはじめている。毎土曜と日曜の夜エッフェル塔にイルミネーションをきらめかせて、6シリンダー・6・6・シトロエン・6とせわしく広告しているシトロエン自動車会社、エッフェル塔の上に火事のまねを描き出しその火の上へ滝のように水が落ちかかる仕掛けイルミネーションをつかってまで人目に訴えているシトロエンはじめ、フランスの自動車会社は、フォードの価下げによる深刻な打撃をさけられない。日本生糸のアメリカ向輸出はがた落ちだが、浜口内閣は、来年一月に金解禁をするという公約を実行しようとしている。金解禁とともに浜口内閣は、日本の小企業者と労働大衆にとってはっきりと失業を意味する産業の合理化を示している。しかし同じ産業の合理化が、大資本家にとっては、国営企業を名目だけの価格で個人の大資本家たちの所有にふりかえてゆく、という仕事になって現れている。そして、少数の大資本は強められる。しかし、世界恐慌からのぬけ道は、結局彼らの前にもふさがれている。

 蜂谷良作が、ぶっきら棒に、そういう、必要な時事解説だけしかしまいと決心しているのはいいことだった。伸子も女学生のように、自分の前にひろげられている帳面の幅だけに、雰囲気をせばめるのだった。



 野沢義二の暮しぶりを見たら、蜂谷良作のおちつけなさ工合が、伸子にまざまざとわかるようになった。

 パリの郊外に国際学生会館が建って、そこには日本からの留学生も何人か滞在している。ある日、伸子は蜂谷良作と一緒に、それらの人々に招かれた。郊外列車が、原っぱのなかに急造されているバラック風の駅へとまると、そこが国際学生会館を中心として、一つの町になろうとしている地域だった。トロッコのレールが掘りかえされた地面の上を走っていて、人々の歩くところだけやっと歩道ができている。そこに、木造の、粗末だけれども清潔なキャフェテリア(自分で給仕する方式)の大食堂や、簡単な日用品の売店があって、本建築の仕上った本館は、すこしはなれたところに灰色と白で、清楚な四角い姿を浮き上らせていた。アトリエのようにガラスの面がひろくて、天井の低い新様式の室の窓から、建設のためにごったかえしている敷地を眺めながら、渋い結城紬ゆうきつむぎあわせとついの羽織を重ねた日本の学者が、宗教哲学の話などをしている。伸子は、それらの人々から、ガラスの中にはいっている翼の大きい黒い鳥というような印象をうけた。留学生と云っても、その日その室に集った人たちは、みんな相当の年配で、日本には家庭があり、子供のある人たちだった。国際学生会館の一室にかたまって、これらの人々は論理的に、あるいは頭脳的に、愉しくあろうとしている風だった。けれども、ただ一人の女としてその座に加っている伸子の直感は、そこにかもしだされている空気に、みんなのもちよっている無意識のかわきがあることを、感じずにいられなかった。この人たちには、誰にとっても家庭がないという状態が自然でないのだ。伸子はそう思った。日本の男のひとたちは、何と家庭になれているだろう。国際学生会館の人々は、蜂谷良作と似た三十五から四十歳の間の年ごろであり、どこか晴れやらぬ空といったところのある気分においても彼と似ている。

 伸子の父の泰造がロンドンに留学していたのは、丁度いまここに集っている人々と同じ年ごろであり、五つだった伸子の下に小さい二人の男の子がいたという事情も似ていた。ここにいる人たちの、ふっきれない神経の複雑さが理解されるように感じたとき、伸子は、父親のロンドン生活の、いままでは見えなかった側面にふれたように思った。そこには、多計代ばかりでなく、多くの妻が嫉妬をもって想像したりするよりも、もっと人間らしい何かの飢渇があるのだ。そして、伸子は、年月はいつの間にかあのころ五つだった娘の自分が、そんな風にも考える女の年ごろになってパリに一人いることにおどろくのだった。


 郊外からサン・ラザールの停車場まで帰って来たとき、蜂谷が伸子を誘った。

「思ったより早かったな。──ここからだとつい近くだから、野沢君のところへよって見ませんか」

「よってもいいわね」

 佐々のうちのものがパリを立つとき、ペレールの家へ来あわせた蜂谷良作と野沢義二が、荷づくりの手つだいをして北停車場まで送ってくれた。それから伸子は野沢に会っていなかったし、手紙も書いていなかった。

 夜のパリの裏通りをいくつか折れて、空倉庫かと思われる薄暗いがらんとした入口から、伸子は一つの建物に案内された。

 狭くて賑やかな裏通りの錯綜した光の中を来た伸子の眼には、ぼんやり何か大きく積みあげられている物の形しか見えない埃っぽいコンクリートの床から、じかに幅のひろい鉄製の階段が通じていた。がらんとした入口がほとんど暗かったように、その鉄製の幅ひろい階段も、やっと足もとの見当がつく暗さだった。だまって蜂谷良作に肱を支えられながら、そこをのぼり、伸子は、上へ出たらそこは明るいのだろうと思った。ホテルらしい帳場のようなところもあるのだろうと思った。

 ところが、二階のおどり場には電燈こそついているけれども、燭光の弱い光にぼんやり照し出されて、無味乾燥に何ひとつなく、そこに面していくつかの戸が無愛想にしまっている。

 めずらしいのと、多少気味がわるいのとで足音をしのばせるようにしている伸子の先に立って、蜂谷が一つのドアをノックした。語尾が澄んでいて、そこにきき覚えのある野沢の声が、

お入りなさいアントレ

 部屋のひろさを思わせて響いた。

 ドアを入った伸子の最初の一瞥にうつったのは、正面に夜の空を映している二つの大きい窓と、紙や書籍のとりひろげられている大きいデスク。いくつか椅子のあるひろくて古びた、茶色っぽい室内だった。

「やあ、これはめずらしい」

 その室の小壁のでっぱりで、ドアからかくされている寝台の上で野沢義二が起きあがった。

「ようこそ、この辺へ来たんですか?」

 それは伸子に云って、

「かぜひきなんだ」

 野沢は寝台の裾にぬいであった部屋着をとって羽織った。

「いつぞやは、ありがとうございました」

「いいえ。──クラマールへ越したんですって?」

「そうなんです」

「いまごろの郊外はいいな」

 伸子は、手近にある椅子をひきよせてかけた。

「じき失礼いたしますから、ていらした方がいいわ」

「いや、もういいんです。熱もないし」

 蜂谷は、最近ここへよったらしく、

「あれから、ずっとかい?」

ときいた。

「うん。僕はいくらか慎重すぎるのかもしれないんだ。しかし、すっかりなおそうと思ってね」

 野沢は喉熱を出して数日来臥ているのだった。ホテルとよばれているけれども、どこにもホテルらしい設備も見当らないこんな建物の中で、臥たきりの野沢のために食事を運ぶ誰かがいるのだろうか。野沢の生活ぶりには、万事について一定の節度があった。伸子はそこを立ち入ってふれにくいのだった。

「お大事にね。わたしはフランスで病気したくないと思っているわ」

「特別フランスでというのは?」

「いつか、夏のころ、吉見さんがひどい歯いたを起して大さわぎしたことがあるんです。そのときわたしたち何も薬をもっていないでね、薬屋へ行ったら、三色菫パンジーの花の乾したのを煎じてのめってよこしたのよ。──あなたも、何かの葉っぱを煎じて、のまされていらっしゃるんじゃないのかしら」

 野沢は、おもしろそうに笑った。

「僕は、さいわい、バイエルのアスピリンをのみましたがね」

「佐々さんのいう葉っぱってのは、カモミユのことだろう」

 蜂谷良作は、笑いもしないで註釈した。

「ああ──カモミユ──あれはよくのむものらしいね」

 次の日の午後六時ごろ、また伸子と蜂谷良作とは、野沢義二の住んでいる建物の埃っぽい鉄製の階段をのぼって行った。蜂谷良作は片手に紙包みを下げ、伸子はそれより小形のやっぱり紙の包みをもって。前の日、かえりぎわに、ふと野沢が云った。あしたは僕の誕生日だから、臥てさえいなければ、三人で御飯でもたべたいところなんだがな、と。──残念そうな野沢の声には、ひとりきりで臥ていなければならない彼の、単調さにあきた響があるようだった。立ちかけていた伸子は、その感じにひかれた。ちょっと足をとめて思案していた伸子は、わきの蜂谷に、

「蜂谷さん、あしたの夕方、お忙しい?」

ときいた。

「いいや」

「じゃあ、こうしてはどうかしら」

 三人で輪になって協議するという風に伸子が提案した。

「野沢さんは動いちゃいけないんだから、わたしたちで動いて来ましょうよ、その案はどう? そして三人で、お誕生祝のおかゆをたべましょうよ、わたしがここでこしらえるわ」

「誕生祝のおかゆっていうのは──風変りな思いつきだな。しかし御迷惑をかけちゃいけない」

「平気だわ」

 伸子は、

「ね、蜂谷さん」

 あいまいに立っている蜂谷にたしかめた。

「そうしましょう、ね」

 次の日の四時半に伸子がクラマールの停留場に近い蜂谷のところへよって、それから来る約束になった。

 鍋とくみ合わせになっているアルコール・ランプ。小さいコーヒーわかし、日本の茶、海苔のりなどというものを二つの包みにこしらえて、伸子は約束の時間に、マダム・ベルネの家を出て、サン・トアンの蜂谷の室へよった。すると宿の女主人である画家の未亡人が、黒繻子の大前掛をかけた姿で、いぶかしそうに伸子を出迎えた。

「ムシュウ・アチヤは、たった今、出かけましたよ」

 伸子は、腕時計を見た。四時半という約束の時間には、まだ五分もあった。早かったとしても、伸子はおくれて来ているのではなかったのに。──

 蜂谷の下宿はクラマールの山の手にあたる住宅区域のだらだら坂を下りきったところに在って、電車の停留場まで、二三分の距離だった。伸子は短いその距離を、いそがず、一人で歩いて行った。伸子の時計がおくれていたのかもしれない。だけれども、三分や五分おくれたと云って、彼のところへよると約束している伸子をおいてきぼりにして、蜂谷良作が先へ出かけてしまった意味が、伸子にのみこめなかった。伸子は野沢義二の住所をはっきり知っていない。そのことは蜂谷によくわかっている。もしきょう病気をしている野沢の誕生日のために、おかゆをこしらえてみんなでたべようなどと興じている伸子に彼が不同意なら、あっさりぬけていいのだ。伸子はとめはしないのに。──待ち合わせる約束をしておきながら、一人で先へ出かけてしまったりして、そのことで蜂谷が伸子に何かの意味をさとらせようとするなら、伸子は、そんなおかしくすねたようなやりかた、絶対にわかってやらない。そう思った。彼は、じぶくりたいように、ひとりでじぶくればいいのだ。

 停留場のところへ来てみると、そこで蜂谷が、十一月の夕風に吹かれて面白くもなさそうに立っているのを見出した。彼は伸子を見ると、むっつりした顔のまま、包みをうけとるために手をさしのばした。

「──どうして先へ来ておしまいになったの?」

「ここでおち合うことになっていたんじゃなかったのかな」

「あなたのところへ四時半ていう、お約束だったわ」

 蜂谷良作は、

「──僕がおぼえちがいしていたかなあ」

と云いながら、なぜか、黒いソフトをぬいでかぶり直した。

 伸子と蜂谷良作とは、途中、あんまり口をきく気分にならずに野沢義二の下宿へついた。

 野沢義二の古びた茶色のひろい室、それはゆうべ伸子が見たままの様子だった。とりたててどこが片づけられてもいず、彼は、やっぱり片隅のバネのゆるんだようなダブル・ベッドの上におきかえっていて、そのありのままの様子が、クラマールからひっかかっていた伸子の気分をのびやかにした。

「ほんとにおかゆだけよ」

「結構ですとも。──久しぶりだなあ、日本のおかゆなんて」

「わたしは、モスクヷで三ヵ月入院していて、なおりかけのとき、それは、それは、つめたい、そうめんをたべてみたかったわ。それから、日本の海の、つよい潮のかおりね、波がさあっと来たとき匂う──あの匂いへ顔をつっこみたかった」

「そう云えば、日本の海辺ぐらい、潮のにおいがつよいところって、ほかにないんじゃないかな」

 野沢の部屋には、入口と別の隅にもう一つドアがついていた。その外にうす暗い廊下があって水道栓とちょっとした流しがついていた。そこで伸子はボール箱からカロリン米を鍋にうつして洗って来た。そして野沢の大きいデスクのはじへアルコール・ランプをおいて鍋をかけた。玉子、果物が、紙袋のままそのわきに置かれている。鍋の番をする伸子は、デスクへ横向きの位置にかけていて、はなれたところに蜂谷と、寝台の上の野沢と、ゆったりした三角形の二つの点になって話している。

 男二人は、ソヴェト同盟の五ヵ年計画について話していた。「リュマニテ」は、アメリカの恐慌、世界の資本主義生産の矛盾とするどく対照する新事実として、ソヴェト同盟の五ヵ年計画第一年度の成績が、ソヴェトの人々にとってさえ予想よりはるかに好成績であったことを告げている。ソヴェト同盟の経済年度は、十月で区切られる。一九二八─九年の経済年度に、新事実として公表された生産向上の五ヵ年計画を、資本主義の国々では、例のソヴェトの誇大な計画だとか、実力のない共産主義者のこけおどしの妄想だとか批評していた。重工業の生産技術がおくれているソヴェト同盟が、おとくいの国家計画ゴス・プランなるものの、自己陶酔で描き出した「巨大な光栄ある計画」を実現する現実の根拠をもっているとは思われない。外国の専門家たち、実業家たちの意見はおおむねそういう風であった。

 伸子は、五ヵ年計画について、ぼんやりした理解をもったまま、モスクヷから来てしまっていた。ソヴェト同盟の生産は、本来いつも国家計画ゴス・プランにしたがって行われて来ている。それぞれの生産部面は、映画制作でさえも、ゴス・プランを検討して、行っている。年々に実行されて来ている生産計画が二八─二九年経済年度から一九三三年までの五年間に、特別五ヵ年計画として意義をもつのは、この五年間に生産各部門が、これまでの平均生産額を、倍から二倍以上に上昇させる計画であるという点であった。そのことによって、ソヴェトの人民は自分たちの社会主義社会を、一層現実的に強固な基礎におくことが出来る。資本主義生産の破綻にうちかって、社会主義国家の独立と自由をまもり、戦争挑発をうちやぶることができる。

 新しく企てられる五ヵ年計画についてどの論説も、演説も強調している点は同じであった。モスクヷでそれらをたどりたどりよんでいたころ、伸子は、声に出して「わかっているパニャートノ」ということがあった。そのくらい、五ヵ年計画について語られるすべての言葉は一致していて、この計画の意味は明瞭である。と、伸子は当時思っていたのだった。

 文学的な角度からモスクヷの生活にはいった伸子は、世界経済について全く貧弱な知識しかもっていなかった。階級的生産の知識が不足なところへ、伸子はいきなり彼女流の率直さでソヴェト同盟の計画生産の方式を肯定した。その肯定のしかたも伸子流に単純で、しかし具体的であった。工場、労働者クラブ、産院、託児所、子供の家、学校、劇場、映画製作所、ソヴェトの運営などと、見学しつづけた伸子は、労働者男女が互にわけあっている社会保障の現実を社会主義の社会というもののよさとして、うけいれずにはいられなかった。伸子は、そういう現象から逆に帰納して、社会主義の計画生産の意義をうけいれているのだった。

 一九二七年の十二月に初雪のふるモスクヷへついたときから、十数ヵ月の間、伸子はいたるところに──首府であるモスクヷ市内ばかりでなく、石油のバクー市でも、石炭のドン・バス地区でも──そこに工業化インダストリザーチヤ電化エリクトリザーチヤというスローガンがかかげられてあるのを見つづけた。農村の集団化コレクティヴィザーチヤとともに。伸子のあいまいな知識に「五ヵ年計画ピャチレートカ」は、それらのスローガンの延長のようにも映った。或は、いくつかの連続したスローガンが順次にかたまって、その一点へ来て強い光りを放ち出した、という風にもうけとれていたのだった。

 茶色に古びたパリの大きい部屋の隅に漂着したふる船の中から小柄な上半身をおきあがらせているようなどことなくユーモアのある姿で、野沢義二は蜂谷良作と話している。

「僕なんかにでも、今のような国際経済の事情になってみると、五ヵ年計画の意味ってものが、いくらかのみこめて来るようだな」

 頭に黒いキャップをかぶって部屋着をきた野沢の話しかたは、せき立たない考えの展開にしたがって、言葉を一つ一つ、それぞれの場所に置いてゆくような静かな的確さがあった。彼の日頃からのそうした話しぶりに伸子は野沢の天質の特色を感じているのだった。野沢義二の専門は哲学であったが、彼は詩作もした。フランスの有名な反戦作家のルネ・マルチネの家の私的な団欒だんらんに伸子をつれて行ったのも野沢であった。

「ソヴェトが、こんどの五ヵ年計画をほんとに実現できれば、たしかに大した仕事だな。──おそらく、やるんだろう」

 蜂谷良作は、チューブからねっとりした何かが押し出されて出て来るような風に話した。

「しかし、大体、世界じゅうが第一次大戦後は計画経済の方向に向ってはいるんだがね──資本主義を何とか救おうとすれば、その方向しかないのは、誰にもわかって来ているんだ」

 書物や紙ばさみや新聞がその上にちらかっている野沢の大型デスクのはじにもえているアルコール・ランプのよこで、伸子は、ズボンのポケットに両手を入れて話している蜂谷良作を見つめた。そんなのって、おかしい! 伸子の心が異議をとなえた。社会主義の計画生産と資本主義を救うための計画生産とが、どうして同じ本質の「計画生産」であり得るのだろう。

「蜂谷さん、この間、資本・労働協定キャピタル・レーバー・パクトの話のとき、あなたは、資本主義生産に、ほんとの合理性はあり得ないんだって教えて下さったことよ」

「それはそうさ」

 同じ姿勢のまま、はなれたテーブルのわきにいる伸子を、蜂谷は例の、眉をしかめるような見かたで見て云った。

「それはそうにちがいないんだ。しかし、実際には、資本主義の枠の内でも過渡的に、部分的に計画性をもち得る面もあるわけなんだ。資本主義だってやっぱり生きているもんだし、生きようとしてあらゆる方法を求めるのは必然なんだから、……」

「すると、それは、資本主義の生態の必然てわけなんだろうか、それとも生きようとする資本主義のたたかいの方法の一つなんだろうか」

「あとの方だね」

「そんなら、つまり改良主義じゃないの。それは『偽瞞的な社会民主主義』であるって、あなたが教えて下さる、そのものじゃないの」

 蜂谷良作は、椅子にかけている片膝をゆすりながら、ややしばらくだまっていた。それから、おもむろに云った。

「本質はそういうものであるにしろ、資本主義も自由主義時代がすぎて、計画性をもたなくちゃならなくなって来ているという事実そのものが今日の歴史の因子ファクターなんだ。社会主義へ発展すると云っても事実資本主義の中をぬけて行かなけりゃならないんだし、その過程でいま改良主義と云われている方法にもプラスとしての価値転換を与えるべきだと思うんだ。国によってみんな具体的な事情がちがう。したがって社会主義へ向うことは疑いないにしたって、一つ一つの過程はどこも同じコースというわけもあり得ない」

 蜂谷良作のいうことをきいているうちに、伸子は見えない精神の扉がすーとひらいて、そのすき間から、彼の考えの遠い奥が見えたように感じた。彼は伸子に資本論の講義をはじめ、アメリカの恐慌についてマルクス主義の立場から解説する。その面だけみると蜂谷はマルクス主義者のようだけれども、彼の存在の底には、しつこく絶えず触覚をうごかして、マルクス主義とは別の、何かの道を見出そうとしているものがあるらしい。そういうことができるものなのだろうか。だが現実として彼は、たしかに何かさがしている。蜂谷の生活感情を不安定にしているものの本質は、内心のごくふかいところにあるそのさぐりではないだろうか。もしそうだとすればホームシックなんかではないと彼が伸子に云ったのもうそでない。

 三人がいる古ぼけて大きい室の中にこそ静かな夜があるが、往来へ出ればごたついて喧噪なパリの裏町のがらんとしたホテルに、がたついたダブル・ベッドも気にならなそうに納っている野沢。さらにそこですごされるたのしい時間をものがたるように書物や紙のとりちらかされているデスク。彼としての秩序で統一されている野沢の生活の雰囲気においてみると、蜂谷の不安定さは、これまで伸子が気づいていたどのときよりも明瞭に性格づけられてわかるようだった。

 野沢のベッドのところへ、玉子のおかゆを運んだり、蜂谷と自分とはチーズをはさんだパンをかじってコーヒーをのんだりしながら、伸子は、モスクヷの下宿にでもいるようにくつろいだ気持になった。

「来てよかったわね、おかゆだってわるくないでしょう」

「久しぶりに煮えたての熱いものをたべるっていいきもちなもんだな。体のなかが清潔になってゆくようだ」

 伸子が野沢の室でらくらくした気分なのは、その室が十分歩きまわれるだけ広くて、言葉の心配のいらない三人のひとがいて、そこにはベルネの家族の間にはさまっているときのような裏表のひどい、うざっこさがないからだけではなかった。──伸子がいない今ごろ、ベルネのうちのものは、おおっぴらに葡萄酒の瓶を食卓の上に立てて、念入りのオールドゥブルをたべているのだろう。伸子が酒類をのまないことがわかると、ベルネの一家は、食卓から全く葡萄酒をひっこめてしまった。伸子を二階からよんで食卓へつく前に、一家のものは自分たちだけで食堂のうらの台所で、食事の前半をすますらしかった。家のものは気もちよさそうにほんのりあからんだ顔をならべていて、テーブルの上には、伸子のためにほんの申しわけのかたいソーセージが前菜として出されているような食卓は、酒をのまないからと云って、伸子に親しみぶかいこころもちを与えるやりかたではなかった。

 伸子はフランシーヌの英語を通じてベルネの細君にそのことをどう云っていいかわからなかったし、蜂谷にも告げていない。今夜はベルネの食卓をぬけ出して来ている気軽さばかりでなく、蜂谷と伸子との間にある心理的なひきあいが、彼女の側として恋愛的でないことの自然さが段々会得されて来て、伸子は快活になっているのだった。

 C・G・T・Uの本部で、ゴーリキイの「小市民」の公演をすることになっていた。野沢はその切符を伸子と蜂谷とに一枚ずつくれた。マルチネの家へつれて行ってくれたのが野沢であり、C・G・T・Uの芝居の切符をくれるのが、蜂谷でなくて野沢であり、その野沢は、伸子とまるで別なところで自身の生活を統一させている。

 天体は、宇宙そのものの力で充実しているから運行しながら互にぶつかりあうことが少い。──野沢義二はそんな風に生きようとしている人なのかもしれない。伸子はそう思った。それにくらべると、蜂谷良作は、全体が柔かくてふたしかで、潰れると液汁が出る。自分はどうなのだろう。ぼんやり考えながら、メトロにゆられていた伸子は急に目がさめたように、ああ、そうだ、こんやこそ忘れずに、帰ったら、手紙を書かなければ、と思った。最近になって伸子は、マダム・ラゴンデールの稽古をことわろうと思っているのだった。パリにいるのもあと半月たらずだったから、マダム・ラゴンデールの稽古のために、観たいものの多いパリの十一月の午後のまんなかの時間をうちにいなければならないことは、伸子にとって不便になって来ている。市内から遠くはなれたクラマールまで来るマダム・ラゴンデールのためには、月謝もよけい支払われている。

 あと半月でパリにいなくなる──それは伸子にとってわかり切った計画だった。それがそんなにわかりきっていて、動かせないようにきまっているということが、伸子に奇妙に思えた。


十一


 人々の眠りをさまさないように、伸子はそっと部屋のドアをあけて、廊下へ出た。階段のところに、やっと白みかかったばかりの初冬のつめたい光が漂っている。伸子は足音を立てないように階段をおりて食堂へはいり、そこを通りぬけて更に台所へ出た。ゆうべ、きちんと後片づけされたまま、けさはまだ誰にも触れられていない台所道具は、煉瓦じきの床の一方にどっしりとすわっている料理用炉だの、並んでぶら下って、磨かれたアルミニュームの光を放っている大小の鍋類だの、ひっそり人気ない中で、不思議に生きものめいた感じだった。鍵穴をのぞいて台所口のドアをあけている伸子のうしろから、それらの台所の生きものが無言で見はっているようで、外の踏石へのったとき、伸子はやっとほっとした。そして、いつの間にかかくれんぼでもしているように、われ知らず緊張していた自分に、声を立てないひとり笑いをした。

 おかしいこと! けさ、みんなが起きないうちに家を出て、伸子がヴェルダン見物に行くということは、ベルネ一家にゆうべから告げられていることだった。ベルネのおばあさんが、昨夜ねる前に、自慢半分、よく整頓されている台所へ伸子をつれて行って裏口の錠のあけかたを教えた。一つの秘密もないしわざだけれども、人々がそれぞれの部屋で寝しずまっている家の中で、いくつものドアをそっとあけたてしたり、静かに一人で出てゆくそのことが、どこかの部屋では誰かが目をさまして耳をすましていそうに思えるだけ、伸子の胸をかすかにどきつかせるのだった。

 門まで爪先下りの砂利道を、伸子は遠慮なく歩いて、うすら寒い明けがたの通りをサン・タントワン街の方へ下りて行った。陽が出れば、これでいい天気になるのか、それとも曇天なのか、見当のつかないつめたい早朝の往来で、タバコを吸いながらこちらへ向ってゆっくり歩いて来る蜂谷良作に出逢った。

「おはよう」

 伸子は、遠足へ出かける朝の快活さで声をかけた。

「早かったんだな。僕は、あやしいもんだと思っていたんだ」

「わたしが寝坊だから? でも、わりあいしつけがいいのよ、起きなけりゃならないときには、目をさませるんです」

 二人は、電車通りへ出て、街角のカフェーへはいった。店内はまだ暗く電燈に照らされているカウンターのところで三四人の労働者がコーヒーをのんでいた。人の眠っている時間に起きて一日の働きに出かけようとしている労働者たちの体つきには、どことなくはらいきれない眠気ののこりがあった。伸子のわきでコーヒーをのみ終った一人が、何か考えごとをしているようにゆっくりマッチをすってくわえているタバコに火をつけ、手首をやっぱりゆっくりと動かしてそのマッチを消し、やがて、気をとり直したように、ボタンをかけた上着の裾を左右両手で下へひっぱってから、カウンターの上においてある長方形の新聞包を脇の下にはさんで出て行った。

「──いそがなければ、いけないかしら」

 蜂谷良作は、コーヒー茶碗をもっているもう一方の手首の時計をのぞいた。

「大丈夫でしょう、七時四十分までにモンパルナスへ行けばいいんだから」

 ヴェルダン行の近距離列車はモンパルナス停車場から発車した。別の線をとおって行く国際学生会館の日本留学生の人たち四人と、ひるごろヴェルダン駅前のホテルの食堂で落ちあう約束だった。この間、蜂谷と伸子とが国際学生会館へその人々を訪ねたとき、誰もまだヴェルダン見物をしていないことがわかった。ちょいちょい話には出ているんだが、四人で、六人分の自動車代を払う勇気がないんでね。そういう話だった。そのとき、伸子はすぐ、わたしをつれて行って頂けないかしら、とたのんだ。一九一七年から八年、第一次ヨーロッパ大戦の終局に、ヴェルダンという名、ソンムという名は、畏怖なしにはふれられない二つの名であった。ドイツ軍にとって、それらのところは果しない潰滅の谷を意味し、連合軍にとって、そこは、果しない犠牲の谷であった。ヴェルダンをもちこたえた、その沈勇が連合軍の勝利を決定したと語られていた。休戦のとき、はたちにならない娘として偶然ニューヨークにいあわせた伸子は、ヴェルダンという名に対して無関心でいられない感銘を与えられているのだった。

 この夏、ロンドンで数週間すごしたとき、イギリスではルドウィッヒ・レーンの「戦争」が非常によまれていて、チャーチルも「戦争」を読む、と、イギリスの政治家らしく雨傘を腕にかけたチャーチルがその本を手にもっている写真が広告につかわれたりしていた。

 親たちはつや子をつれて五階にひろい部屋をとっていた。同じホテルの七階の小部屋で、伸子は毎晩その小説の、全く新しい理性と心情とにひき入れられながら数頁ずつ読みつづけた。レーンはドイツ軍の特務曹長として、音楽と花と国歌とで戦線に送り出された兵士たちとともにフランスへ入り、マルヌの戦闘、ソンムのたたかいを経験し、自身負傷した。遂に一九一八年ドイツに革命がおこってカイザーはオランダに亡命し、彼の属していた部隊をこめてドイツの全線が壊滅する。それまでを、レーンは冷静に、即物的に、ヒューマニズムとはどういうものか、戦争とはどういうことなのか、考え直さずにはいられない透徹した筆致で描いているのだった。ヴェルダンときいて、とっさに自分も観たいと思った伸子のこころもちは、レーンの小説がそのなまなましい描写とともに、いつかのこして行った、何かの問題の疼きが、計らず目をさまさせられたからだった。

 ヴェルサイユ門からモンパルナスまで、パリを南から北へ走る午前七時の地下電車にのりこんで、伸子はしばらくの間、息のつまるようなおどろきにうたれた。車内は労働者の群でぎっしりこんでいる。それはとりたててどんな混雑もない代りにもうこの上三人のひとのはいりこむ余地はどこにもないという事務的な詰りかたで、小柄な伸子の肩は隣りに立っている労働者の荒いしまの上衣の腕の辺にぴったり押しつけられているのだった。伸子が心からおどろいたのは、車内につまってそれぞれ工場へ運ばれている労働者たちが、手に手にひろげているのは「リュマニテ」であるという発見だった。早朝のメトロにのりこんでいるこれらの人々はみんな鳥打帽をかぶっている。カラーをしていない頸筋のところを、パリの労働者らしい小粋な縞のマフラーできちんとつつんで上衣のボタンをかけている。弁当の新聞包みを脇の下にはさんで「リュマニテ」をよんでいる人々の間に、話声はなかった。轟音をたて、パリの地底を北へ北へと突進しているメトロの中で、つめこまれ、かたまって揺られている労働者たちは、無言で、ひとりひとりの生活につながる注意ぶかさで共産党の機関紙をよんでいる。そこには労働者である人々の、階級の朝の光景があるのだった。

 朝出の労働者の黒い林と、うちつづく「リュマニテ」の波の下に、背の低い伸子の体がうずまった。動揺につれて隣りの労働者がよんでいる新聞の端が伸子のベレー帽をかすめる。そのたびに伸子は、印刷されたばかりの真新しいインクの強いにおいをかぎとった。

 いつも十時ごろのメトロにのって、腹の太くなりはじめた年輩の山高帽の男たちが、云いあわせたように「人民のアミ・デュ・プープル」をひろげている光景ばかりを伸子は見なれて来た。そして、「マ・タン」をよむような階級の男女は、大抵自動車をつかって居り、メトロにのるにしても一等車にのり、伸子がいつものっている並等には入って来ないことをも知っていた。だけれども、朝七時のメトロがこんなにも壮観な労働者階級の生活を満載して走っていようとは。──

 モンパルナス停車場は、パリ市内へ向ってはき出されて来る通勤人でこみあっているけれども、その時刻にパリから出てゆく人は少くて、伸子と蜂谷良作の乗った車室は、ほとんどがらあきだった。働きに出る多勢の人をつんで、いそいでやって来た汽車は、こんどはゆっくり市外へ引かえしてゆくという風に、一つの駅に停るごとにバタンと重い音を立てて狭いドアを開閉させながら、上天気になった郊外の朝景色の間をだんだん東へ、丘陵の重なるロレーヌ地方へとすすんでゆく。

 車窓には、まぶしくない方角からの朝日がきらめいた。伸子は、窓ぎわへかけて飽かず外の景色を眺めた。蜂谷良作は、車体いっぱいの幅にはられている奥ゆきの深い板の座席の、伸子からはなれたところに脚をくんで、ポケット地図をひろげている。伸子は何か云いたそうにして、一二度蜂谷の方を見た。すがすがしい初冬の朝の景色、閑散な汽車のなかは伸子を遠足の気分にくつろがせ、ものを云いたい気持にさせている。トロカデロを長く歩いた夜以来、蜂谷良作はそれまでのように伸子のために資本論を講義し、つれだって出かけもしているが、二人きりになると、とけないぎごちなさがのこった。それは蜂谷の正直なぎごちなさからだと思われ、ときには、彼として伸子に傷つけられた感情のあることを知らしている態度かとも思われた。同じ座席にはなれてかけて、地図を見ている蜂谷良作の沈黙をやぶって自分のおしゃべりにまきこんで行くほど、伸子は天真爛漫でもないのだった。

 ヴェルダンの駅へおりて、伸子はあまり深いあたりの静けさと、その静けさにつつまれて輝いているステーションの建物の白さにおどろいた。どこからどこまで真白いステーション。それは目に馴れない宗教的な清潔さだった。ほんのちらり、ほらり駅前広場へ散ってゆく人々にまじって、伸子と蜂谷良作とは、国際学生会館からの人たちと落ち合う約束になっているホテルへ行った。小規模なそのホテルの食堂も、白と金とレースカーテンのほのかなクリーム色に飾られて、喪服の年とった婦人がひとり、むこうのはじの小食卓についている。すらりとしたその黒い姿も、クリーム色のレースのひだに柔らげられて、あたりは寂しい昼間の明るさにみちている。伸子は思わず小声で、

「しずかねえ」

と云った。

「何て、どこにも音がしないんでしょう」

 注文をききにきた給仕に、

「町はどっちの方角にあるのかね」

 蜂谷良作が訊いた。

「ムシュウ」

 給仕は、ナプキンを下げている左腕を心臓のところへあてて重々しく答えた。

「われわれのヴェルダンは、市そのものが記念塔です。ヴェルダンは、沈黙の都です。ここで暮している住民はごく少ししかいません」

 伸子たちの今いるところが、もう、その生きている者は少ししか住んでいないというヴェルダン市街のどこかなのだった。

「ほかのかたたちも来てから、みんなで御飯にした方がよくはないかしら」

「──あっちの連中の着くのはどうせ十二時すぎだし、もしすましてでもいたら却って厄介なことになる。僕らは僕らだけですませておきましょう」

 むしろ二人だけで食事をすることをいそいでいるように、蜂谷良作は、簡単な昼食を命じた。

「見物にどの位時間がかかるのかしら」

「さあ……四五時間のものだろう。しかし、佐々さんはここを見たら、きっとセダンやメッツへも行って見たいって云い出すんだろうな」

「そうお?」

 セダンもメッツも第一次大戦史のなかで有名な地名であった。

「ここから行けるの?」

「メッツは、二時間もかからないんじゃないかな、ここからなら──セダンはランスの北だから、シャロン、ね、さっき通って来た、あの辺で乗換えになるかもしれない」

 ランスといえばそこにあるフランス中世期の、美しいことで知られているサン・ルミ寺院の尖塔形が伸子に思い出された。

 それにしても、ヴェルダンというここの静けさ! どんなにしずかに話しても、その声が自分に耳だつほどしんからひっそりとして、しかも明るいヴェルダン。

 澄明な静寂を、いちどきに肉体の影でかき乱すように国際学生会館の小さい一団があらわれた。

「やあ」

「お待たせした」

「食事は?」

「すませた」

「じゃ、コーヒーの一杯ものんで、すぐ出かけるか。──みんな観るには大分時間がかかるらしい話だよ」

 ひとくちにヴェルダンとよばれているけれども、見物すべきいくつかの要塞は互に数マイルずつはなれて、国境よりの丘陵地帯に散在しているということだった。


十二


 ヴェルダンをまもっているものは人間ではない。獅子である。これは第一次大戦の終りごろ、はげしい十ヵ月間の包囲をもちこたえていた不落のヴェルダンについて云われた言葉だった。その言葉をかたどって、ホテルから一丁ほど歩いた往来の右手にきりたった崖のようにつくられている記念碑の頂には、堂々とよこたわっているライオンが置かれている。

 せまいその通りをぬけて、六人の日本人をのせたオープンの自動車が家もなければ、人通りもない道の上を快速ですすんでゆくにつれ、ヴェルダンという、かつて一万三千余の人口をもって繁栄していた都市が、今は全くの廃墟であることがわかった。ヴェルダン市役所の跡は、よく整理されている廃墟にいくらかの土台石と数本の太い迫持せりもちの柱列が、青空をすかして遺っているばかりだった。第一回の砲撃をうけた月日。そののちそこが野戦病院として使われていたとき蒙った最後の砲撃とそこで二百人の負傷者が殺された日と月。白いところに黒くよみやすい英語とフランス語で書かれた説明板が、空の下に残っている柱列の間に立てられているのだった。学校のあったところ。病院のあったところ。六人の日本人は、ポンペイの廃墟の間を行くように、すべてそれらの建物のあったところを辿って歩いた。天井をとばされくずされた壁の一部をのこしているところに、ぽっかりあいている窓からは、晴れた空の青さが一段と濃く目にしみる。案内する自動車の運転手のたっぷりした声が、人気ない空気の遠くまで響いた。そのあたりは砂地のような地質になっていて、その上に黒い影をうつしてゆく少人数の靴音も、高い虚空までつたわる感じだった。四十がらみの世帯もちらしい運転手は、廃墟らしい無人境を、何か弁明でもするように、

「週日はこんなに静かですが、土曜、日曜はいつもかなりの人出です。休戦記念日にはホテルも満員です」

 誰かが、

「ここを、ぞろぞろ人通りがあったんじゃ興ざめだ」

と云った。

 市の中心部であったところをぬけて、一望に遠くの丘陵を見晴らす場所へ出た。そこはヴェルダンで戦没した兵士の墓地だった。七千の墓は、白い十字架の列をそろえて、彼らが生きていたとき、鉄兜の庇を並べ、になえ銃をして整列していたままの規律で、果てしなく林立しているのだった。白い沈黙の林の彼方には陽にぬくもった山並がかすみ、墓地の境界に幾本かの糸杉がみどりを繁らし、すこし離れた右手に思いがけなく人の住んでいるらしい一軒の小家があって、その横手に白い洗濯ものが微風にふくらんでいる。あたりには、日がうつる音のきこえそうな明るい暖い寂寞がある。あたりがひろびろといい景色で、明るくて、遠くで洗濯ものが生活の光をまきながらふくらんでいることは、伸子の胸に、七千の人々の墓へのいとしさをかきたてた。伸子は、近くの十字架の一つをかがんで見た。白い十字架が、兵士の不動の姿勢をとって並べられているように、その墓標の上で第一に目につくように記されているのは、彼らの生きていたときの兵士番号であった。626・アレクサンドル・550R──フランスのために死せりモルト・プール・ラ・フランス


 自動車は速力を増して、丘陵に向う一本の広い道をのぼって行った。ヴェルダン市の廃墟からは東北にあたって、ルクセンブルグの国境とアルザス地方につづく丘陵地帯に大小三十数箇所かの要塞がつくられていて、第一次大戦時代、フランスの一等要塞をなしていたのだった。

 ここが戦場であったときから十数年の星霜を経ている。それだのに、伸子たちの乗っている大型セダンがエンジンのうなりをどこか遠い空のかなたにふるわせながら疾走してゆく道路の左右は、うちつづく砲弾穴にすすきのような草が高く生えている傷だらけの地面だった。あたりに一本の立木ものこっていない。荒涼とした道がつづいて、いつとはなしみんなのこころに感傷がしのびこんだころ、行手に、黒と白の大理石で建てられた壮大な建物があらわれた。ギリシアの神殿になぞらえた納骨堂であった。柱列の間に高くはめこまれている白大理石の板に、おびただしい名前が金で象嵌ぞうがんされている。その一つ一つの姓名の前に、軍隊での階級がついていて、殿堂の内壁に名を記されているのは、みんな将校の身分だった。その身分の中にも階級の区別が守られている。少尉、中尉、大尉。その階級の人々は一方の壁に。少佐から大佐は他の壁の大理石板の上に。そして、少将、中将の階級の軍人の名は、その殿堂の一番天井に近い位置に、特別誰の目にもよみやすい大文字で金象嵌されているのだったが、その大文字階級の軍人の名の数は、その殿堂の大理石板の面をうずめている戦死将校の数の千分の一にも満たないかと思われた。

「このヴェルダンでは四十万人のフランス人が死にました。ドイツ軍は六十万の損害でした」

 だが、大文字の金象嵌は、殿堂の頂き近く文字のとおり暁の星のまばらさできらめいているのだった。

 殿堂の正面からは、ヴェルダン市の廃墟をふくむ豊沃なシャムパーニュの地平線が平和に展望される。納骨堂はさながらその豊沃なフランスの平野に君臨しているようだった。同時に二万の兵士をヴェルダンの風雪の中にさらしたまま、永久の閲兵式を行っているようでもある。殿堂に正面を向けて二万の白い十字架が整列しているのだった。彼らが何を考えて生き、そして何を苦しんで死んだかということについては語らず、彼らの番号と名だけを十字架の上にしるされて。

 伸子の眼の中に悲しみとはちがう涙がにじんだ。一行の人々は、天井へ仰向いて有名な将軍の名をよんでいる。一人はなれて佇んでいる伸子の唇からうめくようにロシア語がもれた。何のためにドリヤ・チェヴォー じっさい、何のために? これらの人々は死に、死んでまでものこる階級による殿堂がつくられ、風光明媚なジェネヷで、贅沢な道具だてにかこまれながら快適に軍縮会議が演じられている。

フランスのために死せりモルト・プール・ラ・フランス」しかし、それはフランスの誰のためだというのだろう? フランスの政治がひとにぎりの人々パリ・オランダ銀行の重役たちに支配されていることは周知の事実である。そのパリ・オランダ銀行はドイツの軍需会社クルップ──そこでこそ一九一八年にパリを砲撃した長距離砲ベルタが製造されたクルップと、毒ガスのイーゲー染料工業と結んでいる。国際連盟リーグ・オブ・ネーションズの提唱者はウイルソン大統領であった。けれども、そうしてできた連盟にアメリカは参加しないでいる。一方で国際連盟は、ソヴェト同盟の参加を拒みつづけている。あらゆる機会をうかがって、反ソヴェト十字軍が準備されている。──ふたたび戦争をしまいとする意志。番号順に整列させられているこの二万の白い十字架こそは、マクベスの城のぐるりにあった森のように動いて、シルクハットをかぶって平和を語っている人々をとり囲み、その真実を問いつめる権利をもっているのだ。


 スーヴィユの要塞。それからヴォー要塞。伸子たち一行の自動車が、ヴェルダンで最も苛烈な戦闘の行われたというドゥモン要塞への道にかわったとき、よく晴れていたその一日も終りに近く、傾いた西日に山容が黒く近く迫って見えた。朝夕のうす霜で末枯すがれはじめたいらくさの小道をのぼって行くと、思いがけず茶色の石でつくられた祭壇風の建造物のよこへ出た。二メートルほどの高さで斜面から数本の柱が立っている。そのかげはもうたそがれて薄暗い。そこでは三四十本の銃剣が、いらくさの間から地上に突き出ているのだった。

 銃剣は赤くさびている。この斜面に密集して進もうとしていたフランスの歩兵が、隊列のまま土の下に埋められた。

 どこか人工の加えられた記念物という感じがしなくもないその「歩兵の塹壕ざんごう」から一ヤードほどのぼった前方の草むらの間に、伸子は何かキラリと光って落ちているものを発見した。近よって、かがんで、いらくさの蔭に小さく光っている金色の輪のようなものの正体を見さだめたとき、震えが伸子の背筋を走った。それは、一つの銃口であった。地面にのぞいているその小さい一つ口は、そこに在った命を訴え、彼が生きていたことを訴え、だが今は死んで久しくなったことについて訴えている。伸子は、おもわずその金色の口を撫でた。金色の口は小さく、円く、あわれにかたかった。

 伸子は、しばらくそこにかがんでいた。この金の口が光っているわけがわかった。ここへ来て、いらくさの間におちているこの一つの輪を見つけたとき、おそらく、どこの国の女でも、彼女が平民の女であるならば、思わずかがんでそれを撫でずにはいられないであろう。

 ドゥモンの砲台のわきから細い裏道づたいに下ってゆくと、すすきに似た草の穂がゆらいでいる砲弾穴に、さびた鉄兜や空罐あきかんがころがっている。朝の霜にゆるんだまま程なくふたたび夕闇に沈みこもうとしている丘かげの、足許のあやうい赫土あかつちの小道の上に伸子は一つの女靴の踵の跡が、くっきりと印されているのを見た。


十三


 伸子の瞳のなかに、ドゥモンのいらくさの間の金の小さい輪が光っている。彼女の額の上には、女靴の踵のあとが銀杏いちょうの葉のようについている。伸子は自分の瞳であっていつもの自分の眼ではないような視線で、運転手とその三人の仲間が近くのテーブルのまわりでカード遊びをしている光景を眺めていた。

 六人の日本人が要塞見物を終って、ヴェルダン駅前の出発点へ戻って来たのは、日がとっぷり暮れてからだった。ホテルは、昼間つかっていた正面入口わきの正食堂をしめて、横通りから入るカフェー・レストランだけあいていた。そこの一隅で六人がちょっとした夜の食事をすませた。案内役をかねた運転手も、その店の一方の隅のテーブルで食事をし、いまはタバコをくわえて男たちばかりの仲間でカード遊びをしている。

 同行の男のひとたちをタバコの煙のなかにおいて、伸子はすこしはなれた長椅子のところで脚をのばしているのだった。タイルで床をはられた店内に、あまり十分でない明りにてらされている十三四人の人間がその夜ヴェルダンで生きている人間のすべてであるようだった。

 マース河の河岸よりにひとかたまり旧ヴェルダン市の破片がのこっていて、そこに土産物を売る店があった。ごたごたしたその小店とその内に動いていた人々の姿を思い浮べることができるが、その河岸の店の灯の色と伸子がいるカフェー・レストランの内部との間には、深い沈黙の夜がひろがっている。

 生きているもののない夜の沈黙の深さは、何と独特な感じだろう。六人の日本人はみんな口かずの少い一日をすごした。一日の周覧を終って、いくらか葡萄酒のほてりが顔色にあらわれていても、男のひとたちのテーブルから笑声は立たなかった。どこでも同じことだなあ。一将功なって万骨枯る、というのはまったくだ。ドゥモンの要塞から下って来るとき、一行のうちの誰かが感じふかそうにつぶやいた。その感慨は、六人の、みんなの心に流れているのだったが、伸子には、疲労ともつかない肉体と心の苦痛の感覚があった。その感覚は、とらえどころなく伸子の内心にひろがっている激しい抗議の感情に通じた。そしてしずかにカード遊びをしている四人の男を見まもっている彼女の瞳のなかに、黒い、きつい焔をもえたたせているのだった。

 午後じゅう、ひき裂かれた戦跡をめぐって来た伸子の体と心を、いま貫いてらだたせているのは率直な、譲歩のない生への主張だった。巨大な死への抗議だった。ヴェルダンというところは「フランスのために」という言葉で現実を欺瞞する人々の作品だと、伸子には思えて来るのだった。悲壮に、英雄的な行動の記念としてしつらえられているすさまじい破壊の跡は、戦争の罪ふかさとそれが誰のためにたたかわれたものであるかということを考えるより先に、破壊力の偉大さで人々をおどろかせる。おどろいて心をうごかされた善良な人々は涙もろくなり、戦争そのものと、それをおこす者どもがあることをいきどおり拒むよりも、そこで命をおとした人々をいとおしみ、神よ、彼らに平安を与えたまえ、と祈ってヴェルダン発の汽車につみこまれてゆくにちがいなかった。

 西日のさすドゥモン要塞のいらくさの中に光っていた小さいあの金の口は、伸子の瞳に重かった。やけついたこの思いが、「ヴェルダン記念」に予定されている効果に終らせられることを伸子は自分に許せなかった。生命感が伸子の内部にせきあげた。人生は生きるためにあるのだ。レーンの「戦争」は、奥歯をかみしめた戦争への憎悪と、それを男らしい意志で制御した観察によって書かれていた。その実感の幾分かが伸子にわかった。──

 国際学生会館の人々は、帰りも線のちがう汽車で、伸子と蜂谷良作の二人は、五十分ばかりあとから出発することになった。

「佐々さんは大分疲れているんじゃないのかな」

 蜂谷良作が、伸子のいる長椅子の方のテーブルへ移って来た。

「そうでもないわ」

「かえってすこし葡萄酒でものんで見た方がいいんじゃないか」

 伸子は首をふった。

「疲れているんじゃないのよ──ね、蜂谷さん、わたし考えていることがあるの」

「云い給えよ。きみは、きょう、まるで口をきかなかったみたいだ」

「わたしが考えているのはね、モスクヷがああして、うるさいほど帝国主義戦争の罪悪、帝国主義戦争の欺瞞と云っているのは、ほんとだった、ということなの」

「…………」

「わたしが、ときどき、どうしてこんなにくりかえすんだろう、もうわかっているのに、と思ったりしたのは、生意気至極のことだったと、わかったの」

 蜂谷良作は、だまったまま、身じろぎをして灰皿の上でタバコをもみ消した。

「そしてね、もう一つわかったのはね、なぜソヴェトでは今でもレーニン廟へ参る人が絶えないかということ」

 ロンドンの夏の日曜日、セント・ポール寺院の、その一段ごとに失業者が鈴なりになっていた正面大階段を見あげる石だたみの広場のはずれに、第一次大戦で戦歿したロンドン市民の記念塔がたっていた。「祖国のために死せる人々の名誉のために」と鋳つけられた記念塔は、セント・ポールに棲んでいるどっさりの鳩の糞をあびて、いかにもきたなかった。ロンドンの晴れた日曜日の風景の中で鳩の糞にまびれていたその記念塔を伸子は思い出した。生きている人は忙しい。痛切に社会のエゴイズムを感じた、その感じも思い出される。伸子のロンドン風景をつづっているのは利根亮輔の怜悧な黒い二つの眼と気のきいた形の鼻ひげの下で伸子に向ってほほ笑んだ独特の微笑である。もしも彼が、こんやこのヴェルダンでおそろしく深い沈黙の中にカルタをしている数人の人間を見ていたとしても、彼はリッチモンド公園の鹿の遊んでいる草原によこたわって、伸子に云ったようにモスクヷのレーニン廟をああ皮肉に批評することができただろうか。利根亮輔は云った。レーニン廟は未開なロシア民衆の聖物崇拝を、共産主義に利用したものだ、と。民衆はそのことを意識していないであろう。民衆がその程度の知的レベルだから、ロシアではソヴェト政体がなりたっているのだ、と。

 伸子はそのとき、民衆を無知なものとしていう利根亮輔の言葉をその一人としての自分に加えられた侮辱のように感じた。そして彼と云いあらそった──彼をその一人として自分を知的優越者だと認めている人々の、ソヴェトは未開だ、ときめて置こうとする偏見に反抗した。利根には、一生、民衆の歴史の扉を生に向って開いた指導者への感動というようなものは実感されないのかもしれない。──彼はおそらく伸子より幾倍か聰明であるのだろう。しかし彼の聰明さは批評しかしない聰明さのようだ。そこに伸子が感じたいらだたしさがあった。いらだたしさは、現在、タイルばりの床に明るくない光のさしている夜のヴェルダンのカフェーで、レザー張りの長椅子の上にいる伸子の感情のどこかに通じている。一日の戦跡周覧の果てに感じている広汎な根ぶかくゆれる抗議、それがどのようにあらわされるのかわからないためにおこっている内部の圧力の高まり。

 沈黙の裡に時々トランプの投げられる音がしている。

 伸子が不意に、

「わたし、今夜ここへ泊ってみたい」

と云った。蜂谷良作は、急にどこかを小突かれたように目をあげて伸子を見た。

「一つぐらい、あいた部屋あるでしょう?」

 伸子は、今夜の異様に苦しく、反抗にかりたてられるような激情をそのまま、沈黙のヴェルダンに過してみたかった。眠れない夜ならば、その眠れないひと夜というものを、ヴェルダンで経験してみたいのだった。

「──ここへ泊るって──」

 そういう蜂谷の額の上に、ぼんやりした混乱のあらわれているのに伸子の視線がひかれた。

「あなたは、お帰りになって下すっていいのよ、もちろん」

 ながいこと黙っていて、蜂谷良作は決論するように、

「きょうは帰りましょう」

と云った。──きょうは? このヴェルダンへ二度来ることは考えられない。

「帰りましょう」

 一層決論をつよめるように蜂谷はくりかえした。

「──帰った方がいい」

「ベルネのうちのひとたちに対して?」

 その心づかいなら、今夜クラマールへ帰ってから、蜂谷がちょっとベルネの家へまわって伸子が泊ることを知らせてくれたらそれでいいと、伸子は考えているのだった。しかし、蜂谷は、がんこに伸子が一人でヴェルダンにのころうとするのをさえぎった。

「僕には、佐々さんをひとりここへおいて帰るなんて、出来ないことなんだ」

 もうあと十分でパリへ帰る列車が出るというとき、

「さ」

 蜂谷が伸子のハンド・バッグをとりあげてわたした。

「出かけましょう」

 旅行用のいくらか大型のそのハンド・バッグには、マース河岸の土産屋で伸子がベルネの細君のために買った銀の記念スプーンがはいっているのだった。


 朝来たと同じ道を、パリへ向って進んでゆくのだけれども、沿線の風景が濃い闇に包まれている夜ふけの汽車は、いかにもカタリコトリと寂しかった。一つの箱に乗客もまばらで、伸子たちのいる仕切りは、伸子と蜂谷きりだった。坐席にかけている人の背たけ越しにベンチの背板がずっと高くつけられているから、外の景色を見ることの出来ない夜汽車で伸子の視野は古びた茶色の板仕切りにはばまれて何となし家畜運搬車にはいっているような感じがするのだった。

「あら、この汽車! ランプよ」

 車内がひどくうす暗く思えたわけがわかった。丁度伸子たちがかけている後の羽目の高いところにガラスのおおいのついたランプがおかれている。同じ箱のあっちの端にも同じあかりがついているが、その光りでものを読むことは不可能だった。

 ひろい闇の中に小さく電燈をきらめかせているいくつかのステーションをすぎたとき、伸子が、

「すこし寒くなって来たようじゃない?」

と云った。蜂谷が自分の合外套をぬいで、伸子に着せかけようとした。

「それじゃあなたが風邪をひくわ」

「僕はいいんだ」

「ほんとに?」

 蜂谷はうなずいた。

「じゃ、かして」

 その外套を羽織って伸子は窓とうしろの羽目の隅に肩をよせかけるようにして目をつぶった。

「眠るとほんとに風邪をひくから駄目だ」

「眠りゃしないわ」

 背中は少しぞくぞくするようなのに、頭のしんはあつくて、それは、一日じゅうオープンの自動車にのって風をつっきって走ったからだ、と伸子は思った。

「気分がわるい?」

「いいえ」

 シャロンのステーションは、この地域でもいく分大きい町らしく、明るい駅頭に乗り降りする人影が黒く動いたが、伸子たちの車室へは入って来る乗客も降りてゆくものもなかった。もしかすると、伸子たちのところからは見えない仕切板のあっち側には、誰ものっていないのかもしれなかった。

「何だか僕もすこし寒くなって来たみたいだ。もっと近くに坐ろうよ」

「この汽車ったら、あんまり、がらあきなんだもの……」

 伸子は、窓ぎわの隅からはなれて、ベンチのまんなかにいる蜂谷のわきにかけ直した。

 夜に響く単調な車輪の音にひきこまれたような沈黙を破って蜂谷がぽつんときいた。

「佐々さん、ほんとに十一月いっぱいでパリをひきあげるつもりなのかな」

「そうよ」

「──ぜひもう一遍、どこか近いところへ行きましょう。ね、こんなに長い汽車にのらないでいいところへ」

「どんなところ?」

「そりゃ、いろいろある」

「だって、わたしたち、どっちもろくにお金をもってないくせに」

 伸子は、笑いだした。

「わたし、モスクヷへ帰る旅費だけは、大事にとっておくんだから」

 眉をしかめるような斜かいの見かたで、蜂谷は、彼のかたわらに笑っている伸子を見た。

「僕は、きょうだって、外の連中と来たのは失敗だったと思っていたんだ」

「どうして?」

 ぼんやりしていた伸子の注意がめざまされた。伸子は、はっきりした声の調子にもどった。

「丁度六人で、きっちり、都合がよかったと思うわ」

「そんなことじゃない……佐々さんは、きょうは、いつものきみじゃあなかった」

 たしかに、ヴェルダンの一日、伸子は口数が少なかった。伸子の受けた感銘がそうさせたのだった。

「それは、わたしが感じたことは、言葉にすると、どれもこれもセンチメンタルみたいだったから……」

「ほかの連中がいなけりゃ、佐々さんはもっと自由だったにちがいなかったんだ。僕はそれが残念だというんだ」

 伸子にものをいうひまを与えず、

「僕には、大体わからないんだ。伸子さんともあろうひとが、どうして、そんなにいつもセンチメンタルになることをおそれていなけりゃならないのか」

 蜂谷の云いかたは腹をたてているように、圧しつけられた声だった。

「センチメンタルであるにしたって、それは感情の真実であり得る」

「それはそうね。──でも……感情の真実であっても、情熱の真実とはちがうことだってあるわ。感情と情熱とはちがうんだもの──感情を情熱といっしょくたにするのが、いやなの。──」

「僕にそんな区別はない」

「あら!──変だ」

 云いかけた伸子の腕が並んでかけている蜂谷の手にとらえられた。

「──こんなひとが──もうじき行ってしまう」

 体をしざらせようとして蜂谷の方へ向いた伸子の顔の上に、蜂谷の重い頭が急に落ちかかって来た。息をつめて仰向かげんにすこし開いていた伸子の二つの唇の上に、蜂谷の唇が重なった。そしてきつく圧しつけられたとき、蜂谷の唇は不意で全くうけみでいる伸子の歯にふれた。悲しそうに、ゆっくり蜂谷の唇がどいた。

「ああ。伸子さんは、接吻のしようもしらない!」

 ひき裂かれるような苦痛の感覚と屈辱の感覚が、伸子をさし貫いた。伸子は低くうめいた。蜂谷の頭が伸子の手の間にとらえられた。そして、伸子の顔の上へひき下げられた。


十四


 まったく不安定なものになった蜂谷良作とのつきあいに伸子は抵抗しないで、自分をただよわせた。

 二人の生活の外見には変化がなかった。ベルネの家の食堂へ蜂谷が来て、そこのテーブルで「資本論」を講義し、つれだって散歩し、市中で映画や芝居を観た夜は、十二時すぎてねしずまったクラマールの通りに男女づれの足音がきこえ、やがて伸子の靴音だけがベルネの門から玄関までの小砂利道に響いて来る。

 そのようにして流れる時間のうちに、川の水が何かにあたって思いがけない時、白い波の小さい、しぶきをあげて行くように、伸子と蜂谷との間に短いはげしいもつれがおこった。

「だめよ、ね、ほんとにだめ!」

 伸子は蜂谷の顔をさけ、ときには、手で蜂谷の顔を柔かくおしのけながら、自分の顔をそむけたり、暫くの間離れて歩いたりした。蜂谷良作はそういうとき、伸子を名でよんだり姓でよんだりした。

「あんまり無理だ。いっぺんきりなんて──それなら、僕がはじめて接吻したとき、どうして君は、自分からしかえしたんだろう」

 あの夜の瞬間の感情の激発を伸子は蜂谷にどうわからせることができただろう。伸子さんは、接吻のしようもしらない! そのひとことがあれほどひどく伸子をさしつらぬき、そのために伸子は火花になって蜂谷の唇をとらえた。蜂谷に向ってほとんどとびかかったと言えるように動いたせつな、しんから傷けられ怒っていた自分の感情を伸子は忘れることができない。それは女の動物が襲ってゆくときの感情だった。あれが、接吻だと云えるだろうか。

 伸子は、考えこんでいるためにふだんよりちんまりした顔つきで蜂谷を見た。

「あれは、やけどだったんだわ。だからくりかえしはないの」

「や、け、ど? そんなことを云って──」

 二人がそのとき歩いていたクラマールの森と町との間にある畑道の上で、蜂谷は立ちどまった。

「僕はそう思わない。──僕が思わないんじゃなくて、実際にそんなもんじゃない。──佐々さん、何をおそれているんだろう、僕にはわからない」

 蜂谷は伸子の腕をとって歩きはじめた。

「佐々さんは全く自由なんじゃないか」

「そうよ」

 自分の心を見張っているように、伏目になって歩きながら、ゆっくりした二人の歩調にあわせて伸子が答えた。

「それは、わたしは自由だわ……だけれど、わからないことは、やっぱりわからない」

「何がわからなくちゃならないのさ」

「──わたしにはわたしの気持。あなたには、あなたのきもち」

「そんなことは、もうわかりすぎてる。僕は毎日毎日考えつづけたんだ」

「──なんて?」

「佐々さん、どうしてきみはそんなにいつものきみでなくなろうとしているんだろう」

 恋とはちがう衝動、むしろ憎みに近かったとっさのふるまいが自分と蜂谷との間にある──接吻という形にあらわされて──。蜂谷良作に会うことを拒まず、肩を抱かれるようにして田舎道を歩いているけれども、伸子の心のどこかはいつも目を明いていて、これは恋でない、と云っている。ああ、伸子さんは接吻のしようもしらない! そのひとことが、あんなに自分を猛々たけだけしくした。蜂谷に深い傷をつけようとするように唇を圧しつけさせた──そこに伸子のおどろきがある。わからなさがある。ヴェルダンの夜、死の都のうす暗いカフェーで、あのように自分を苦しくしていた抗議の感情、欺瞞にいきどおっていた感情、それらの激情の底まで浸りたいと願っていた感情──ヴェルダンへ泊りたいと云った伸子のこころもちと、それをきいてひそかにあわてた表情になった蜂谷良作の気持との間に、くいちがいがあった。蜂谷良作と伸子の要求はくいちがいのまま、その流れを流れて、瀬におちかかろうとしている。男と女の瀬に──。だけれども、これが恋だろうか。愛でない恋──伸子には、わからない。

 蜂谷良作が、感情の投げ繩を投げることにだけ熱中していて、しきりに繩を投げながらも動こうとしないで立っている自身の位置──彼の生活と思想がたっているところ──に目を向けないでいることも、伸子をわからなくする。しかし、蜂谷の投げ繩は伸子の体すれすれにとどいたし、蜂谷の知らない瞬間に全く伸子の感覚をとらえていることがある。たとえばこんなとき──

 ベルネの食堂のテーブルで、例の煖炉よりの側に蜂谷良作が、ドアよりに伸子がかけておきまりの勉強がはじまっている。蜂谷はもち前のチューブから圧し出す声で伸子にノートさせる。

「先ずロビンソンをその島に出現させよう。ロビンソンは本来質素な男であったとは云え、充足させるべき諸種の欲望を有し、したがって種々な有用労働をしなければならなかった。彼は道具や什器じゅうきをつくったり、騾馬らばを馴らしたり、漁をしたり、狩をしたりせねばならなかったのである」

 ああ、これが有名なロビンソン物語──伸子は鉛筆を働かせながらそう思った。利根亮輔をロンドンで、大英博物館図書館にかよわせていたロビンソン物語──

「彼の生産的機能は種々異っていたとは云え、いずれも同一なるロビンソンの相異った活動形態にすぎず、換言すれば人間労働の相異った様式にすぎないことは、彼の知るところであった」

 それは当然そうであろう。ノートの手を止めず伸子はうなずく。難破船から時計、帳簿、インク、パンなどを救い出すことのできたロビンソンは、やがて種々な生産物の一定量を得るについて平均的に必要な労働時間を示す表をつけはじめるようになった。ロビンソンは、彼自身の必要のために働く時間を、それぞれの働きの間にわりふらなければならず、

「いずれの機能が彼の全活動の上により大なる範囲をしめ、又いずれがより小なる範囲を占めるかは、所期の利用上の効果を得るにあって、うちかつべき困難の大小にかかるものであった」

 何とおそろしく四角ばった云いまわしだろう!

「ロビンソンと彼自身の手で造り出された富を構成する諸物件との間における一切の関係はこの場合きわめて単純明瞭である」

 伸子の理解の段階にあえて必要でない引用の固有名詞をとばして、蜂谷良作はつづける。

「しかも価値決定の上のあらゆる本質的要素は、この関係の中にふくまれているのである。今、ロビンソンの明るい島から陰暗な中世ヨーロッパに目を転じよう。ここには独立した人間はいないで──」

 伸子はノートから頭をあげた。

「ちょっと──ごめんなさい。ロビンソンはそれでおしまい? いきなり中世ヨーロッパとなるのかしら」

 中断されて、蜂谷は手にもっているテキストへ視線をおとし、伸子を見ずに答える。

「それでいいんだ」

「『金曜日フライデー』は出て来ないの?」

 伸子は、こちらを見ようとしない蜂谷の顔を見て訊いている。

「価値の原形を分析しているこの部分は、フライデーの出現からきりはなして扱われているんだ」

 視線をさけ、まじめな表情で答えている蜂谷の顔に向って、突然伸子の感覚がかきたてられた。その唇にひきつけられて。──だが、蜂谷は心づかない。伸子がどんな渦巻にまきこまれかかったか。──伸子はノートの上に瞼をおとし、自分の動悸とともに蜂谷の声を、すこし遠いところからきく。

「いかなる人も農奴と領主、家臣と藩主、俗人と僧侶という風に相倚存──存のるという字ね、ニンベンの──相倚存していることが見出される」


 クラマールの朝と夜は冬らしい寒さになって来た。

お早うボン・ジュール、マドモアゼル」

と、朝の八時すぎに伸子の室のドアをノックしてはいって来るベルネのお婆さんの手はますます赤く、彼女は煖炉の火種を運んで来た。

 伸子がまだ寝台にいるわきのジュータンの上へ大前かけの膝をついて、彼女は上手に火をおこした。ベルネの家庭では、朝と夜しか煖炉の火をこしらえなかった。ベルネの家の煖炉を見て伸子はパリの屋根屋根に林立している煙突のどれもが細いわけをのみこんだ。パリの人々は、豆炭を煖炉につかっているのだった。豆炭の熱は、カッときつく顔ばかりのぼせるようで、こころもちがわるかった。煖炉の豆炭がすっかりおこるまで、皮膚をさすような匂いがなくなるまで、伸子は洗面所の窓ぎわで新聞を見ていることがある。

 アメリカの恐慌は、十一月にはいり、月の半ばに進んでも、たしかな安定は見出していなかった。これまでウォール街で働かせられていたヨーロッパの金が、大量に逆流して、ヨーロッパへ戻って来つつあった。ヨーロッパでアメリカの資本輸出とはりあうことのできるのはイギリスとフランスだけであることが明瞭だった。ベルネの一家は恐慌の打撃にたえたフランスの手堅さに満足して、食卓で息子のジャックをはげましながら洗濯工場の燃料泥棒をつかまえなければならないことについて相談している。

 伸子の生活は、ベルネのおばあさんやアルベール夫婦にとって興味をひく特別の何もないようだった。ヴェルダンから伸子がおみやげに買ってかえった記念スプーンを、

「──銀ですよ!」

 おばあさんが目顔でうなずいて、

御親切にねトレ・ジャンティ

とあらためて伸子に礼を云いながら、娘であるベルネの細君にわたし、細君はそれをベルネの主人にまわして一同が見たほかには。

 だがそんなベルネの一家のなかで、十六歳のフランシーヌのそぶりは、伸子に何かを感じさせた。

 伸子はある午後、クラマールに住んでいる画家の柴垣とモンパルナスの美術書籍の店と、いくつかの画廊を見に行く約束をしていた。その店にマチスのデッサン集があった。そのデッサン集を伸子は見飽かなかった。マチス自筆の署名いりで、番号のはいった限定版であった。パリを出発する準備にいくらかずつ画集をあつめていた伸子は、他の三四冊あきらめてもそのデッサン集がほしくて、柴垣にも見てもらいたかった。

 約束の午後、どうしたわけか柴垣は誘いに来なかった。待ちぼけになった伸子は、日ぐれがたモスクヷへ出す手紙をポストしに町へ行って、思いがけず郵便局のわきで柴垣に出会った。

「あら」

 柴垣と伸子とは互に目を大きくして眺めあった。

「きょう、御都合がわるかったの?」

「いいや」

 いぶかしそうに、そしてしらべるように柴垣は伸子を上下に見た。

「あなた午前中から留守だったんじゃなかったんですか」

「いいえ」

「うちにいたんですか?」

「いたわ。あなたがいらっしゃらないから、これを書いたわ」

 素子あての厚い角封筒をふってみせた。

「ふーん」

 考える目つきで伸子を見つめながら、柴垣は片腕を大きく肩からふって指をはじき鳴らした。

「いっぱい、くったかな」

 約束の時間にベルネの玄関へ行ったら出て来たのはフランシーヌで、伸子はひる前から出かけていると告げたのだそうだった。二階にいて伸子は知らなかった。

「ちょいとしたことをやるんだな、あの娘。──僕はそうとは思わないでね、急に何かの都合で、あなたの予定が変更されることもあり得るんだろう、と思ってね」

 ほほ笑みとも云えないしわが、柴垣の口辺によった。このごろ蜂谷良作とばかり歩いている伸子への感想が、総括してそこに意味されているのだった。

「おめにかかってよかったわね」

 強いて何も説明しないが、誤解をのぞんでいない者の表情で伸子が云った。

「どなたとでも、お約束はお約束よ」

「いや、それで僕もさっぱりしましたよ」

 伸子はベルネの家の方へ柴垣は郵便局のある電車通りを先へ、わかれた。

 その秋の展覧会サロン・ドオトンヌには、パリで客死した磯崎恭介の作品と遺骨をつれて日本へ帰って行った須美子の作品が入選している。ほかに、石井柏亭の「果樹園」が二科から特別出品されて注目をひいていた。アマンジャンのシャボン箱の絵のようにただきれいな翡翠ひすい色と瑠璃るり色の効果を重ねた婦人像と同じ壁の一方にかけられて「果樹園」は現代古典のおもむきを示した。日本の展覧会場でその絵を見たとき、伸子は「果樹園」の画面に線がこれほど特色のある役割をもっているとは心づかなかった。サロンの出品画が多くが、気がきいて警抜な色の効果、コムポジシォンなどばかりを目ざしているので、「果樹園」の正統派のつまらなさが面白かった。そのころパリに滞在していた日本のある漫画家も、支那靴をはいた足で鬼を踏まえている鍾馗しょうきの大幅絹本を出品したりもしている。その墨絵は伸子に五月節句の贈りもののようにしか見えなかった。

 もう一度、みんなで観ておこうという話がクラマールに住む日本の人々の間にきまった。

 その午後、伸子は早すぎると思ったが、定刻より三十分も早く、物置の二階をアトリエにしている画家の亀田夫妻のところへ行った。蜂谷良作も来るはずだった。それで伸子も早めに来たと思われはしまいか。伸子はめずらしくすこし気をひけてアトリエをあけたら、意外にも、そこには一座の顔ぶれがそろっていたのだった。

「みなさん、たいへんお早かったのね」

「ええ。ですから、お迎えにあがったんですわ」

 絹の外出着の上からはでな色模様のゴム製エプロンをかけた亀田の細君が若々しくさえずるような調子で料理兼用のストーヴのわきから伸子に云った。

「おもったより、早くいらっしゃれてよかったわ、ねえ、あなた」

「うん」

 むかえに行ったって──誰が、誰を、迎えに行ったのだろう──伸子は誰からも迎えなどうけなかった。まだ早いかな、と白い猿の腕にかけておいた時計を見ながら考え考え出かけて来たのだった。

「いやですわ、伸子さんたら!」

 短い刈りあげにしているおかっぱの頭を愛嬌よくかしげて亀田の細君は笑った。

「フランシーヌのおことづてで、お約束の時間よりも早くは来られないっておっしゃったじゃない?」

「わたしが?」

 あんまり思いがけなくて、伸子は茶の冬外套を着ている自分の胸のところをおさえた。

「しらないことよ」

 格子縞の毛布のひろげられている長椅子にねころがっていた柴垣が、

「じゃ、例のだ」

 パイプの灰をはたきおとしながら、塩から声で云った。

「彼女はこのごろ、何かのイマージュにつかれているらしいよ。僕も経験ずみだが──イマージュが答えさせるんだ」

「いやだ──どういうことなの?」

「いいさ、いいさ」

 良人である画家の亀田が細君をおちつかせるように彼女の肩をたたきながらあっさり云った。

「きみが行ったことはたしかなんだし、伸子さんも早く見えたんだから、それでもういいさ」

 細君の好奇心は消えないで、伸子とつれだって電車の停留場へ行く道、彼女は低めた声できいた。

「ね、伸子さん、教えて下さってもよくはない? わたし気味がわるいわ、イマージュなんて……」

「わたしにもよくわからないんだけれど、蜂谷さんがベルネのところにいらしたときは柴垣さんや皆さん、ちょくちょくあすこへ遊びにいらしてたんじゃないの?」

「ええ、宅もフランシーヌを描いたりしていましたわ」

「わたしが社交的でないからフランシーヌ淋しいんでしょう……」

 細君は、ちょっと考えるようにして、

「ああ、ね。若い娘さんとしてはそうかもしれないわね」

 そのまま数歩行って、彼女は急に、

「だって、あの娘さん、まだ子供じゃありませんか、柄こそ大きいけれど……こっちのひと、早熟だわ」

 抗議をふくんで、体にあわせては太いような声を出した。それで伸子は感じるのだった。柴垣や亀田たちは、もしかしたら細君をつれてよりもより度々、男たちだけでフランシーヌを訪問したこともあったのだろうと。

 フランシーヌの小さい細工を蜂谷良作は不快がった。

「ああいう陰性でしめっぽい娘は、にがてだ。困るな、どうも。──混乱ばかりおこって」

 ひとくみの男女の感覚の嵐が彼女の身ぢかいところでそよいでいるとき、どうしてフランシーヌに冷静がもとめられよう。フランシーヌのつやのわるい十六歳の顔の上にはそばかすがあった。このごろ、そのそばかすが濃さをましたように見える。その頬にたれている捲髪と同じように、長すぎるルーマニア風の鼻から、彼女は、

「だって──寒いんですもの」

 寒い、ということにあたりまえでない意味がふくまれているような鼻声と目つきで母親を見ながら食卓に向っている体をくねらせた。ベルネの細君は、娘の血色を美しくさせようとして、食後自転車にのって、すこし外をまわって来るようにとフランシーヌにすすめているのだった。

「ジャック、彼女といっしょに行きなさい」

 兄息子のジャックは、だまって長い膝をゆすっている。

「二人でいっておいで。ね、少し運動した方がいいんですよ」

「──寒くて」

 やがてベルネのおばあさんが、両肩から何かを払いおとすようにまずテーブルから立ち上る。つづいて細君も、主人も。彼らには午後から工場の仕事がある。そして、伸子も。奇妙なとりつぎについて伸子は、ひとこともフランシーヌにふれないのだった。

 一日が一日とすぎてゆく。伸子のパリを去る時が近づいている。蜂谷と伸子との間にある緊張はつよまるばかりだった。蜂谷良作は感情の投げ輪を一層つよく投げ、伸子は、なるたけ蜂谷以外のひとたちと行動をともにしようと考えながら、実際につれ立って出歩くのは蜂谷ばかりであったし、しかもその間に伸子は一度ならず蜂谷の投げ繩にとらえられた。彼女自身のうちにわきたつはげしさと同じ分量の疑わしさの間にいつも中途半端にたたずんだまま。伸子はもう自覚していた、自分が正気を失えないことを。そのように正気でありながらも、官能というものはほだされるものだということを。伸子の本心は恋を求めているのだった。愛にまでふかまる恋を。──ほだされている自分。伸子は手鏡をとってしげしげとそこに映る自分をながめた。そこに何か新しい美しさの添えられた顔が見出されるのだろうかと。


十五


 ある晩、伸子は三人ぐらいならんで臥られそうな大きい寝台の真白いシーツのまんなかに上半身おき上って、煖炉の白くなった豆炭の奥にのこっているかすかな赤い光をじっと見つめていた。

 世帯もちのいいベルネのおばあさんは、葡萄酒をのまない伸子のために、いくらか食卓のたのしみがあるような心づかいをすることはなかったが、クラマールの夜が寒くなってからは、毎晩、白いナプキンできちんとくるんだゆたんぽを伸子の寝床の裾へ入れておいてくれた。

 あつい湯でさっぱりと洗った足さきに伸子はこころもちよくゆたんぽのあたたかみを感じている。伸子が部屋へかえって来るまでに、のぼせるような豆炭の火気をはきつくした煖炉は適度に部屋をあたためて、夜更けらしい余燼よじんを見せている。おだやかな夜の室内の光景だが、白地にほそいピンク縞丸形カラーのねまきを着て起きている伸子の顔はけわしかった。寝台のかけものの上にのばしている手のところに、二つに裂かれた手紙がある。手紙はわりあいあつくて、原稿用紙が四五枚重なったままをまんなかから、さかれたときの紙の重りのずれをそのまま、そこにある。

 モスクヷとロンドン。モスクヷとパリ。素子と伸子とが別々に暮すようになってから二ヵ月あまりたつ。わりあいに筆まめな伸子は、気がむくと随分細かく長い手紙をモスクヷへ書いて来た。素子も一週に一通のわりぐらいでロンドンにいた伸子、パリへかえって来てからの伸子に、たよりをよこしているのだった。

 でも、今夜の手紙は、混乱した表情に口もとをゆがめ、白いブラウスの左方の肩をつきあげたような素子が、こわい眼つきで、伸子の前に迫って来るようだった。一ヵ月もひとに無駄な手紙をかかせるひとだということがやっとわかった。もうぶこがモスクヷへ帰って来ることなんかちっともあてにしていない。全く帰って来なくなったっていい。──きみというひとは、どっちみち、自分のしたいようにしかしない人なんだから、わたしがここからこんな風に云うのさえ、云わば滑稽なことだろうがね。

 ──一ヵ月も無駄な手紙をかかせた、と素子は云って来ているけれども、それはどういうことなのだろう。伸子は、自分が素子のよこしたどの手紙かに返事をしなかったことでもあったろうか。素子のどんな手紙やハガキに対しても、必ずこたえて来ていたという確信が伸子にある。佐々の家のものがモスクヷ経由で先へ帰ってから、パリにのこった伸子の滞在は、クラマールへ移ったりして長びいてはいるけれども、それだって、素子に無断でずるずるのばしにしているのではなかった。ベルネの家へ引越したとき、あらましの予定は伸子から告げてあった。パリには十一月いっぱいぐらい居たいからと。

 素子の手紙は、くりかえし伸子の不実をせめた。そして、終りに、わたしは、このごろちょくちょく徹夜して弄花する。これも、二晩つづけて、帰って来て、部屋で書いている。とかかれているのだった。

 その晩、伸子は蜂谷良作といっしょに、パリ東南部の労働者地区のあるところで行われた集会へ行って、おそく帰ったところで、白い猿によせかけておかれている素子からの手紙を見つけたのだった。

 その夜伸子と蜂谷とが行ったところはセーヌ河の停車場河岸とよばれているあたりだった。倉庫のような建物が並んでいるその界隈は、すれちがう通行人の顔も見定められない暗さだった。掘割の上に板の橋がかけられている、それもそこを通ってゆく足音できき分けられるほど暗いところをぬけると、空倉庫を集会所に直したような建物があって、そこで、パリにいるポーランド人労働者を中心に、ファシズム反対の集会がもたれた。ポーランドのファシスト政府は、十月三十日に、軍隊の力で議会を襲い、議事中止をさせた。翌日それに抗議した社会党主催の大会は解散させられ、社会党代議士と労働者八名が傷を負わされた。社会党の機関紙「労働者ラボートニク」は発行停止をうけた。フランスには、ポーランドからの移民労働者が多数働きに来ている。ファシズムに対して労働戦線の統一を努力しているC・G・T・Uは、祖国ポーランド人民の自由を守ろうとする労働者の熱情を統合して、C・G・T・Uのみならず、どんな組合に属している労働者も、どんな政治的立場に立つ労働者も、それにかかわらずその夜のファシズム反対の集会に集るように、よびかけた。

 夏のころから、フランスの共産党への弾圧がひどくなっていた。C・G・T・Uが提唱した集会だということから、警官がふみこむかもしれず、また雑多な会衆の間にどんな挑発者がまぎれこんでいるかもしれないというので、会場の空気は緊張していた。何かのつてで、蜂谷良作はその夜の入場券を手にいれた。ピルスーズスキー政府に窒息させられたその年のワルシャワのメーデーの印象は、伸子に忘れられず、四五百人の男たちばかりの会衆にまじるたった一人の外国人の若い女であることも頓着せず演壇に近いベンチにかけていた。

 人々は、次々に立って演説した。ほんとに工場から来た労働者らしい若者。職長ぐらいな年配と恰幅かっぷくの労働者。組合事務所の役員らしいカラーにネクタイをした男。なかに、黒いボヘミヤン・ネクタイをふっさり下げた長髪の男さえ混った。みんなフランス語の演説だった。伸子のために蜂谷がかいつまんでつたえる演説の主旨は、どれも同じファシズムへの抗議とポーランドの人民の自由のためのアッピールであった。が、やがて、伸子は、一つの興味ある事実を演説者たちの上に見出した。伸子に言葉そのものがよくわからないということが逆に作用して、演説者の身ぶり、会衆へアッピールする表情などの一つ一つを注意ぶかく見ているうちに、いま演壇で話しているのは、どんな傾向のもち主か、あらましが推察されるようになった。発言は注意ぶかく整理されているらしくて、演壇をみつめている伸子の特別な関心をひく、無駄のない身振りジェスチュアで、理性的に話す演説者は三、四人の間に一人ぐらいの割ではさまれていた。

 開会前の物々しい警戒の雰囲気にかかわらず、集会はことなく終った。最後に、全会衆が起立してインターナショナルを合唱した。背の小さい伸子の体をつつんで、倉庫めいた会場に歌声が満ちた。この間の朝早いメトロの中で、「リュマニテ」の白い波が伸子をそのインクの匂う波の下にかくしたように。伸子は、ロシア語で歌にあわせた。フランス語もロシア語も、ああインターナショナル、というひとふしのなかではすべてが一つの高まるメロディーのうちにとけあって、歌い終ったとき、伸子のとなりにいた五十がらみの労働者が、

非常にいいですトレ・ビアン

 きつく伸子の手を握って、ふった。

 そのようにしてインターナショナルが歌われた間、蜂谷良作は、まじめに口をつぐんだまま立っていた。蜂谷はインターナショナルの歌を知っていないのだった。知らない歌は、うたわずに起立している。そこにうそもなく、彼として不自然な態度でもなかった。しかしある程度の危険をおかして今夜この寂しい場所に集っている会衆の高揚した共感が歌声となって溢れているときに、ひとり口をむすんで重く立っている蜂谷のありかたは、腕と腕とがふれ合うほど身近に立っているだけよけいに、いつも蜂谷と自分とについて伸子が感じている奇妙な感じを、きわ立たせた──蜂谷と自分がときに唇をよせるほどこんなに近くあるという意外さと、その意外さをよそよそしいものにする、互の生活の本質のところにあって消えない距離の感じ──そのくいちがった感じが伸子の心につよめられた。

 やっとクラマール行の終電車に間に合ってベルネの家のあるサン・クルー街の並木の下を歩いているとき、蜂谷良作は、

「実際、佐々さんは、理論だけじゃない火をもっているんだなあ」

 長い道中、かんがえて来たことのように云った。

「ああいう場所へ、すぐぴったりできるんだから。──僕なんかには、つくづくいくじがないインテリ根性があると思った。──てれちゃうんだ」

 会場で伸子が感じたことが、蜂谷の側から語られているのだった。

「ここまで来ればもうついそこなんだから、ちょっと休んで行きましょう、いいでしょう?」

 冬の並木の裸の枝々を照している灯かげからすこしはなれて、石のベンチがあるところだった。伸子は、またまた、彼にほだされながら意気銷沈する自分を見とおし、それに抵抗するように、

「十一月の夜って、石のベンチにいい季節?」

 はじめから、いそいで歩いているのでもない二人の歩調をゆるめなかった。

「僕は、実のところ、伸子さんに会ったのがおそろしいんだ」

「…………」

「僕に、新しい人生が見えはじめている。それを追求しずにはいられなくなってしまった。──だのに、佐々さんは、パリからいなくなろうとしているんだ……ね、伸子さん、僕は、どうしたらいいんだ」

 ファシズム反対の労働者集会からのかえり路に、自分と蜂谷という男女の間には、こうした会話がかわされる。それは、伸子をばつのわるい思いに赤面させ、また悲しくさせる蜂谷の甘えだった。

「ね、蜂谷さん、ほんとに、お願いだから、甘ったれっこなし──。折角、ああいう集会へつれて行ってくれたのに……」

 ベルネの門の、小さいくぐりへ手をかけようとする伸子をおさえて、蜂谷は、

「ひとつだけ」

 顔を近づけた。伸子は、頬っぺたと耳との間をかすめた蜂谷の唇を感じたまま、門のくぐりへ入ってしまった。

 寝しずまっているベルネの家の階段を、伸子は滅入めいった気持でしずかにのぼって行った。蜂谷に抵抗することは、伸子の内に揺れかかる何かにさからうことだった。それは伸子の神経をつからせる。落付かない眼色で部屋の電燈をつけたとき、伸子は枕元の小テーブルの上におかれているマスコットの白い猿によせかけて、素子からの手紙があるのを見出したのだった。

 はじめその手紙を見つけたとき伸子のおもざしがうれしさに輝いた。わざと手をふれずにおいて手紙を眺めながら、伸子は着がえをした。それから浴室で顔と手足を洗った。寝間着にかわって、寝台に入って、足の先でゆたんぽのありかをたしかめてから、伸子は、たのしみに、ゆっくりロシアのスタンプ、フランスのスタンプがいくつも押されている素子からの封筒をひらいたのだった。この前のたよりに、素子は五ヵ年計画第一年度の生産予定に成功したモスクヷの様子を活々した筆で知らせてよこした。ぶこちゃんは、きっとおどろくだろうな。モスクヷは変ったよ。アホートヌイ・リャードの闇露店は、すっかり影をひそめたし、いたるところで大建築が開始されている。街は起重機のつき立っている風景だよ、と。

 素子は、この手紙でどんなモスクヷの話をしているだろう。この期待は、今夜のような伸子の感情に一層切実だった。ところが、封をきられた素子の手紙から伸子に向って立ちのぼったのは、もうもうとした黒煙であった。伸子が勝手にパリに滞在しているということにたいする非難と怨みごとの末に、このごろまたちょくちょく花をひいている、二晩つづけて、帰って来た部屋でこれを書いているという文句をよんだとき、伸子は、思わずぎゅっとつかんだ素子の腕を、自分の手の下に感じるような激情にとらえられた。吉見素子! 何といういやさだろう。わざと伸子の大きらいな昔の花遊びをしていることを書くなんて──。

 伸子が、そういう遊びごとをきらうことを素子はよく知っている。ところもあろうにモスクヷにいてそんなことにまた耽りはじめるとすれば、そのみじめさの動機は、伸子がパリに勝手に暮しているからだ、素子はそう云おうとしている。伸子にはそうとしかとれなかった。だけれども、吉見素子はれっきとした一人前の人間であり、三十をこした女ではないか。伸子の気のよわさで、冷淡でいられない下らない習慣にたよって、はらはらさせて、それで伸子をパリから帰らせようとするのだったら──伸子は、声に出しておこった。悪魔チョルト

 手のなかに感じる素子の腕を、ブラウスごとつかんではげしくゆすぶるように、伸子の心は素子をせめつけた。これまでの手紙で、一度でも伸子に早く帰れと云ってよこしたことがあったろうか。佐々のうちのものがモスクヷ経由でシベリア鉄道にのりかえ、日本への帰途についたとき、素子がよこした手紙に、伸子のパリ滞在についての素子の意見は示されていなかった。同時に、モスクヷへの土産に伸子がおくったこまごました土産袋についても、素子はひとこともふれなかった。ことづかって行ったつや子から、果して素子がその袋をうけとったのかどうか。それが気に入ったのか、いらなかったのか。土産ぶくろが黙殺されていることで、伸子は自分がパリにのこったことについて素子の不賛成を感じとったのだった。

 伸子は、あてこすりで自分の行動が支配されるのをこのまなかった。年を重ねた素子との生活のうちに、そういう場合がなかったからではなく、反対に、伸子はいまは自分の卑屈さとして、そういう場合をうけ入れすぎていたと思いかえしているのだった。伸子は妻というもののそういう立場に堪えがたくて佃と離婚した、それと同じような素子からの暗黙の制約を素子が女だからということでうけいれるというのは、おかしなことだった。

 いま、こんな手紙をかく素子が、それならロンドンから、どうしてあんなにあっさり伸子をのこして立って行ってしまったろう。はたと思いあたるという、その字のとおりに思いあたって、伸子は息のとまるような気がした。あのとき、ロンドンには佐々の一行がみんないた。その家族的な環境を伸子の安全保障のように素子は考えたのだ。だから、親たちがパリにいた間は、伸子がパリにいることも、素子を不安にすることではなかったのだ。

 ──伸子は、ゆっくりと、だが決定的な手つきで素子からのその手紙をひきさきはじめた。五年くらした二人の生活ではじめて、こうして素子からの手紙をやぶいている自分を意識し、そして、これは素子との生活における新しい何ごとかであるということを意識しながら。


 暗く燃え乾いた眼を、煖炉のおきに据えている伸子の指は、やがて、自働的に動きだし、大きく二つに裂かれたままになっていた素子の手紙を、更にほそいたてにさき、またそれを、もっとこまかいきれにちぎって行った。舞台にふる紙雪のような手紙のきれは、伸子の手にすくわれ、指の間からチラチラと寝台のかけものの上におとされる。また掬われ、またおとされ、手紙のきれは伸子の心に、初冬のモスクヷの街の上に、そして、アストージェンカのかし間の、一つきりしかない内庭に面した窓にふるのだった。一つしかない窓いっぱいにデスクがおかれている。ダッタン人の男の外着のような太い縞の室内着をきた素子が、そこに向ってかけている。パイプをくわえているだろう。刈上げたかぼそいぼんのくぼを見せ、厚ぼったい部屋着が、大人のかり着めいて見えるなで肩で──。彼女が送って来た九十九円七十五銭の為替と、それをもらってよろこんだ伸子が、素子にかいた下手ながら愉しい絵入りの手紙が思い出された。すすり泣きにかわりそうなふるえが伸子をつらぬいて走った。伸子のパリの生活は、素子をだましていることになるのだろうか。

 モスクヷへかく手紙から伸子は、最近おこっている蜂谷良作とのふたしかな感覚のひきあいについて省略している。それが一つのうそであるというならば、伸子は素子に対して正直ではなくなっている。けれども、三十歳になっている一人の女として、素子の立ちいらないどんな感情の小道も経験してはいけないとされても、それは伸子に出来ないことだった。佐々の家のものがみんなでロンドンにいたことで、伸子のロンドンでの生活感情の全部が素子に確保されていたと思うなら、素子はひとの心というものを知らなすぎる。利根亮輔の、人生と学問との上に機智をたのしんでいる態度に、伸子が多くの批評をもったからと云って、それが伸子の意識の底にどんな地位も彼が占めなかった証拠ではなかった。

 伸子は、たしかに、ひとりになってからの生活に起伏する何ごとかについては沈黙して来ている。長年かくしだてなくいっしょに暮して来ている素子が、モスクヷにいて、パリの伸子がよこす手紙の下から、何か語られていないものがある感じをうけるのは、当然だと思わなければならなかった。ほんとに、このごろの伸子は素子に話さないこころの揺れにゆられているのだから。

 それを字にかいてしまえば、もうそれは現実なものとなってしまいそうに不安だものだから、水が渦巻くように怨みごとをつらねながら、なお率直に、きみは、おおかたわたしのいないところで恋愛でもしているんだろう、ときめつけることもできずにいる素子の、素子らしい苦しみかた。──

 素子にうちあけていないのはよくないとして、でも、このごろの蜂谷との微妙な格闘を、伸子は何と素子にしらすべきなのだろう。寝台のかけものの上で掬ってはおとしていた手紙のきれを、伸子は少しずつつまんで傍の封筒へいれて行った。結局蜂谷良作は蜂谷良作であり、伸子は伸子としてのこるだろう。その予感が、こんなにはっきりしているのに。その予感にかかわらず、伸子のこころは、あるところまで決して退場することなしに、この経験を追求しようとしているかたい決心のようなものがあるとき。──伸子は、このすべてがここであるままに、素子に話せようと思えないのだった。

 あくる朝、ベルネの家の朝飯がすむとすぐ、伸子はクラマールの郵便局へ行った。そして、モスクヷの素子へ電報をうった。ブ コアヤマル キゲ ンナオセ モスクヷデ オコツテイルトアタマニワルイ。素子の不安の動機には伸子の責任がある。伸子はそれをすなおにみとめずにいられない。だけれども、素子が苦しんでいるからといって、伸子はどんな風に自分のコースを曲げるとも考えられないのだった。それらの点について、伸子は素子にごめんなさい、というこころもちだった。


十六


 ことわりなしで、蜂谷良作がおきまりの講義に来なかった。あくる朝になっても、おとさたがなかった。

 伸子は、どうしたものだろう、と思った。考えてみれば、彼の下宿先は、年をとって孤独な画家未亡人の二階で、ちょっと気軽に使いをたのめる人も、そこの家にはいないわけだった。そとでは、冬のはじめの雨が降っている日だった。散歩がてら、蜂谷の下宿へよってみる気で、伸子はひる前にベルネの家を出た。

 雨にぬれて人通りのないパリ郊外の街は静かで、日ごろから門の扉もあけはなされたまま荒れるにまかされている蜂谷の下宿の前庭には、浅い水たまりが出来ている。伸子は、誰も住んでいない一階の隅から、二階への階段をのぼって行った。ぬれた靴が、階段に跡をつけるのを気にしながら。

 伸子は、下宿の未亡人が暮している一つの室のドアをノックした。

「おや、マドモアゼル」

「こんにちは、マダム。蜂谷さんはおいででしょうか」

「ええ、ええ、おいでですよ。彼はすこし工合がわるいようです、ゆうべも、けさも食事をなさいませんでしたよ」

 いまは、どうしているかしら、という風に下宿の未亡人は、先にたって階段ぐちの廊下の右手にある蜂谷良作の室をたたいた。

「おはいり」

 ぐったりした蜂谷の声だった。

「マドモアゼル・サッサですよ」

 戸口に伸子と並んで立って寝台によこになっている蜂谷を見、茶色のエプロンをかけた未亡人は頭をふって戻って行った。

「どうなすったの?」

 伸子は寝台に向ってふたあしみあしすすみよった。

「かぜ?」

「──どうしたんだか、わからない」

「きのうから?」

 枕につけている頭で、蜂谷はこっくりするようにした。彼のその頭の髪が、いかにもきちんとととのえられていて、きのうから気分をわるくして寝床にいる男のようでなかった。そう気がついてみると、胸から下へ毛布をかけてねている蜂谷のパジャマも、うすいクリーム色にグリーン縞の洗濯したてのさっぱりしたものだった。とりちらされた寝床にいる彼を見るよりも、それは目に楽であるけれど、伸子は何となし瞬きをした。

「熱がでたの?」

「熱はないんだろう」

 行儀よい姿で、枕の上からいつもの彼の、額に横じわをよせて眉をしかめるような見かたで自分を見つめている蜂谷の顔を眺めているうちに、伸子の気持は、女らしい母親めいたあたたかさで柔らいで来た。煖炉のよこから質素な椅子をもって来て、伸子は蜂谷のベッドのわきにかけた。

「工合がよくなければ、早くちゃんとしなくちゃ」

「うん」

「ここのマダム、誰か、ちゃんとしたお医者を知っていないかしら」

 磯崎恭介が歯をぬいたばかりで敗血症になり、一晩のうちに死んでから、伸子は行きずりのパリの医者のすべてに信用がもてないのだった。

「もしかしたら、ベルネのうちできいて来てあげましょうか。──亀田さんのところでも知っているかもしれない」

 蜂谷は、こざっぱりしたパジャマの中で、胸がつまって息がほそくしか通わないような声を出した。

「いいんだ、伸子さん」

「ほんとに、放っといていいの?」

 うなずくといっしょに、蜂谷は強いひと息を内へ引いた。

「僕は、きっと佐々さんは来てくれると思っていたんだ」

 涙の出ないすすり泣きのようなものが、枕についている蜂谷の顔を走った。

「佐々さん、僕は苦しいんだ」

 片手をつかまえられたまま、伸子は、蜂谷の体のどこかが工合わるくて苦しいという意味と、二人の間にある緊張が苦しいという意味とを、ごっちゃにうけとった。

「伸子さんがいま入って来て、僕を見たときの、あんな優しさ」

 伸子の手をはなして、蜂谷は、小さい子供がやるように、両方の腕を伸子に向っていっぱいにのばした。

「僕はくるしいんだ、伸子さん」

 いつの間にか伸子は椅子から立ちあがっていた。そして、首をかしげ、目鼻だちのぱらりとした顔の上に不思議なかがやきを浮べながら、黙って、まじめに枕についている蜂谷を見おろした。いつ、靴がぬがれたとも知れず、伸子の体が、軽く、なめらかに、蜂谷の寝台のかけものの下にすべりこんだ、厳粛な、そしてやさしい表情で蜂谷を見つめたまま。──

 シーツごしに蜂谷の全身がふるえ、てのひらいっぱいの力が、伸子の背中を撫でおろした。それと同時に、伸子は、破れたような一つの声をきいた。

「ああ、伸子さんは、すっかりきものを着ている!」

 すっかりきものを着ている──? 何のことだろう。すっかりきものをきている。…………

 伸子は、そのかけものの下へすべりこんだと同じ軽さとしなやかさで、いつの間にか蜂谷の寝台からぬけ出た。そして、そばの椅子につかまった。蜂谷から目をはなさず。

「なんてひとだろう! そんなに僕を苦しめなくたっていいじゃないか」

 伸子は蜂谷を苦しめようと思ったことは一度もない。だけれども、すっかりきものを着ていない自分というものは、伸子に考えられない。

「僕ははじめからよくわかっているんだ、僕が佐々さんを愛しているように愛していてはくれないんだ……だからって、侮辱しなくたっていい」

 侮辱──? それも伸子におぼえのあることではない。

「こっちへ来て」

 そういう蜂谷の顔は、伸子に見なれないものだった。

「…………」

 反対に伸子は椅子のむこう側にまわって、寝台と自分が立っているところとの距離を大きくした。

「ね、来て」

「だめ」

 混乱して、かすれた伸子の声だった。

「どうして?」

「だって……ちがうんだもの」

「何が」

「──タワーリシチじゃないもの」

 むっくり、蜂谷の上体が寝台で起きあがった。

「じゃ、タワーリシチなら、君にはどんな男でもいいわけか」

「どうしてそういうことになるのかしら……」

 まだすっかり自分をとり戻していない伸子が、不自然にゆっくりした口調で反問した。

「だって──そういうわけでしょう」

「わたしはコロンタイストではないわ」

「僕は君にとってタワーリシチじゃないってわけなのか」

「それはそうじゃないの」

 伸子の答えは抵抗しがたくものやわらかで、同時にはっきりしていた。伸子は急に自覚しはじめるのだった。自分でさえ思いがけずに云ったタワーリシチであるということと、そうでないということの区別を説明することは、何とむずかしいことだろうか。と蜂谷良作も予期しない瞬間に、感情の焦点を移されたようだった。彼は壁にもたれて立っている伸子をめずらしいものをしらべるように、眺めた。

「じゃ、吉見素子は、どうなんだ、佐々さんにとって。──彼女は、同志なのか」

 しばらく考えていて、伸子は、答えた。

「そうだと云えると思うわ──あなたよりも」

 蜂谷はおきあがっていた上体を倒して枕の上に頭をおとした。伸子は、やがて外套をきた。そして、パジャマの両腕を目の上にさしかわして顔を覆っている蜂谷を寝台の中にのこして、廊下へ出た。


十七


 翌朝、ベルネの家の朝飯が終って、伸子が二階へあがろうとしているところへ、蜂谷良作が来た。

 彼は、伸子を見ると、

「きのうはほんとに失敬した」

 手をさし出した。

「おこって、もうパリを立つ仕度でもはじめているんじゃないかと思った」

 伸子は、だまったまま眼をしばたたいた。

「すこし歩きましょう、僕はどうしても、きみにわかっておいて貰わなければならないことがある」

「──だって、病気は?」

「かまわない──いいんです」

 雨あがりの快晴で、ベルネの家の落葉した庭も初冬の趣をふかめた。伸子と蜂谷とは、クラマールの人々がそれぞれに働いている午前の街なかをさけて、畑へ出てから森へ向う道をえらんだ。

「僕はあれから、ずっと考えていて、やっとわかったことがある。僕は、佐々さんというひとの本質を、実はきのうまでちっとも理解していなかったんだ。そういうことが、つくづくわかった」

 伸子は、三四間さきの、枯れた草道の上を見たまま歩きつづけた。

「もう決して、あんな陳腐な思いちがいなんかしない。こんどこそ、よくわかった。伸子さん、許してくれるでしょう」

 たやすく口のきけないのは、伸子も自分がわるかったと考えているからであった。きのうは、あれから帰って来て、伸子も起きていられなかった。体の下で揺れているような寝床の中で、伸子は自分への思いがけなさを鎮めかねた。どうしようとして伸子は、蜂谷の寝台のかけものの間へはいったろう。自分に、はっきり思い出されるのは、枕の上にある蜂谷の顔を見まもっているうちに、伸子の気持をやさしく、やさしくみたした不思議な明るさ、透明の感じだけだった。それは愛のこころもちに似ていた。伸子は、これまで一度も彼に対して、あれほど自分を忘れた状態になったことはない。

 蜂谷は、伸子の動作の意味をとりちがえた。それは二人にとって、ばつのわるいことだった。けれども、伸子は、このことではむしろ自分がわるいと認めることができた。男であり、考えかたや感じかたの大部分が常識的である蜂谷に、伸子があのときそうであったような状態──全身一つの光ったものになって、肉体が昇華されてしまっているようなあんな状態が、かんちがえされたのは無理もない。だけれども、あれが蜂谷のかんちがえだけだったと云えるのだろうか。蜂谷は伸子より率直に、伸子を光りもののようにした欲望を、ありのままに解釈したのではなかったろうか。

 自分へのおどろきとともに、伸子は自分自身のわからなさへ、わけ入った。人間のこころの不思議さ。あのとき、欲望を欲望として自覚していなかった伸子が、そういうものとして行動したことを、伸子はやっぱり自分に許すしかなかった。でも、あのタワーリシチ、という言葉。──考えれば考えるほど伸子を考えこませる言葉──伸子の欲望とともに自覚されない奥底に育っていて、あのとっさに、動かしがたく作用したこのひとこと。──

 これらはどれも、みんな伸子自身にとって不意うちだった。だれをどうとがめるよりも、蜂谷と自分との間に起って、そのどちらをもはねとばした電撃のあとを、伸子はびっくりして見直しているのだった。

 伸子は歩きながら、いつもより疲れの感じられる声で蜂谷に云った。

「わたしも、ごめんなさい」

「僕は、伸子さんがそんな風にいうのは、いやだ。伸子さんてひとは、僕なんぞからみると、おどろくほどヒューマニスティックなんだ。僕を心から可哀そうに思って、きみは、あんなにやさしくなっていたのに──僕が全く野卑だったんだ」

 自分に対してきびしくあることに、蜂谷の安定が見出されているらしかった。

「わたしだって、そんなに聖なるものみたいな者じゃないわ」

 伸子は、現実にあるままの自分を見失いたくないのだった。

「蜂谷さん、でもあなたどうしてあんなにおこったの? わたしが、あなたはタワーリシチじゃないと云ったとき──それは、ほんとのことだのに」

 黒いソフト帽をぬいで、またかぶって、蜂谷良作は、苦しい表情をした。

「僕は嫉妬を感じたんだ。どうにもできないほど烈しく嫉妬したんだ。いつかそういうタワーリシチがあらわれたら、自信をもって伸子さんのその全部を自分のものにするんだろうと思うと……」

 その全部を自分のものにする──タワーリシチでも? ぼんやりして、しかしつよい疑いの色が伸子の瞳に浮んだ。

「もう今は、ちがう。もしそういう選手があらわれたら、僕は彼を祝福することができる」

「──わたしの全部を自分のものにした、ということで?」

「それもあるだろう。けれども、それよりももっと、きみ自身のために。僕としては、水火すいかをくぐったようなもんだから、これからこそほんとの友情でやって行けると思うんだ。それは否定しないでしょう?」

「そうかしら……」

 あのことは、そんなに二人の間で、もうすんでしまったことなのだろうか。二人が別の新しい道の上に出たということが、伸子によくわからなかった。伸子の感覚は、まだどこかゆれている。こんなにして、朝からクラマールの森道へ歩いている二人が、なみな感情だと云えるだろうか。伸子をプラトニックな存在のように自身に思いこまそうとしているような蜂谷、その蜂谷の気もちもふたしかだった。その蜂谷の気もちのふたしかさに対して、伸子ははっきり地上的な自分を対置させて感じている。そこに伸子は自分のふたしかさを感じる──だまって歩きつづけている伸子の腕を、蜂谷がきつく自分の方にひきよせた。

「佐々さんは、まるで天使みたいに無邪気でやさしい時があるかと思うと、悪魔みたいにつめたくて鋭い時がある。どうして? そうかしら、なんて──」

 伸子は、息がとまったような気がした。蜂谷の訴えをこめた批評は、つきなみな表現そのもので、じかに伸子のつきなみさをついた。あいまいなまま何かにひかれている伸子の態度のよくなさが、悪意も計画もない蜂谷の言葉でまざまざそこに描かれた。

「僕はもう決して佐々さんの困るようなことはしない。それだけは自信がある。──だから、せめてことしいっぱいパリにいることにして」

 それは伸子にできないことだ。それよりも、蜂谷に、自分が、そんな女としてあらわれているということの恥しさ。──恥しさは、このひとつきほどのパリ生活間に、蜂谷ともたれたさまざまな情景における伸子自身の姿を、全く別の光で照し出すのだった。


十八


 モスクヷの素子から、伸子の手紙への返事が来た。「ブジシンパイスルナ」と。うすいグリーンの用紙に、クラマール郵便局の電信係がかきつけたローマ綴の電文は、いかにもフランス人らしいおかしなまちがいで区切られている。スルナのはじまりのSの字を、パイPaiのおしまいへくっつけて、Paisとかいてある。まだ佐々のうちのものがパリにいた時分、ペレールの家へ磯崎恭介の死去をしらせた電報をうけとったとき、ギリシャ語のようにスケシスと綴りちがえされていたように。

 素子からの電報がベルネの二階の伸子の机の上におかれてある。そのわきに、茶色のノートが重ねられている。蜂谷良作の講義は、モスクヷへ立とうとしている伸子の意志とはりあうようにつづけられている。伸子は、合図のドラが一つ鳴れば、出帆するばかりになっている船のように自分を感じる。ドラが鳴らされなければならない何が自分と蜂谷との間にあるのだろう? ほだされから自分を解くのが自分の責任だと、これほど明瞭にわかって来ているのに。──しかし伸子はドラの鳴るのを待っている。自分の心のどこかで、ドラが高く鳴るのを待っている。

 そういう一日のことだった。亀田夫妻が、手軽な御飯の会を催した。クラマールやパリ市内に独身ぐらしをしている友達たちのある人々に、日本風のお香物や番茶の味をたのしましてやろうという、夫妻のもてなしであった。伸子と蜂谷もよばれた。野沢も来ているし、ほかに二人ほど、日ごろ伸子のつき合っていない画家たちも来あわせた。毎日数時間は亀田のアトリエですごしているような柴垣は、そこが気に入りの場所と見えて長椅子の上にパイプをくわえてころがっている。野沢はマルチネの家でそんな風にかけていたように、室の隅によって低い椅子の上にまとまりよく、中央のストーヴのまわりに主人夫妻や伸子、パステルを描く豊岡という画家などがかたまっている。

 亀田のアトリエには、主人公である亀田という画家そのひとについている一種のゆとりの雰囲気があって、クラマールの生活で伸子のいちばん心やすい場所だった。亀田の細君は、夫の芸術を理解し、それをたすけようとしているこころもちを、やすくて、うまい手料理の上手さや生れつき器用な洋裁の稽古にあらわしている。

「どうせ、うちのようにおとなしい人は佐賀多さんみたいな巨匠になれっこはないんですもの」

 その晩も、男連中の間にかわされている話の中にいながら、女たちだけの話題で、彼女はそのころ日本人画家としてパリで名声を博していたひとの名にふれた。

「貧乏画家ぐらしは一生つづくとかくごしていますわ。だから、わたしは、かえってのんきよ。いまの生活をわたしなりにたのしんでいますの──幸福ってそういうもんじゃなくて? ありあわせでも、おいしくたべる術だわ」

 格別伸子の返事をもとめるわけでもなく、さえずるような調子で云って、亀田の細君はフランス女をまねてちょっとコケティシュな身のすくめかたをした。亀田の細君の膝の上では、縫いかけの婦人帽の蕊がいじられていた。

「感心でしょう? わたしはこれでもうじき一人前の裁縫師になれますのよ、三年つづけたんですもの。ですからね、そろそろ帽子の方も、ものにして置こうと思いますの、そうしたら心づよいですもの、ね」

 亀田の細君は、おかっぱの前髪を伸子の方へ低めておかしそうにささやいてくすりと笑った。

「とのがたは、なんにんいらしても指をタバコのやにで茶色にするか、売れない絵の油でしみだらけにするしか能がおありなさらないけれど、その間にこうやってわたしの可愛い指は稼いでいる──それは一向御存じなしなのよ」

 デュト街の古びた家の壁の間で、痛々しい生命を芸術の焦躁のうちに削ってしまった磯崎恭介と須美子の自分というものを最後までおさえた暮しぶりと、クラマールのここにある亀田たちの暮しかたは何というちがいだろう。亀田の細君は、あるときは意識してそうしているかのような小猫めいた賑やかさ、暮し上手の女がもっている笑声、いつも身のまわりにとりちらされている柔かくて色彩のきれいな布きれなどの雰囲気で、夫である画家の絵の精神を女の陽気な仕事部屋へひっぱりこんでいることが気づかわれるようでさえある。

 みんなでサロン・ドオトンヌを観に行ったとき、パリで亡くなった磯崎恭介の「花」や須美子の「花」の絵は、亀田たちの格別の注意をひかなかった。──というよりも、ひろいパリという都の中でたたかわれている生の間では、磯崎という一日本人画家の運命について、それが巨匠的に成功していない限り、嫉妬も同情も刺戟するものではないらしかった。

 中指のさきにはめた西洋指ぬきに針を当て、かたい婦人帽の生地を縫いつけながら、亀田の細君は、

「わたしにはね、ひとつ大願がありますのよ」と云った。

「お笑いなさらなけりゃ、云いましょうか。どうかして、わたしは亀田をイタリーへやりたいんです、そして、思いっきり才能をのばさせてやりたいわ」

 あらまし形のつきはじめた帽子を左手にかぶせて、それを自分からすこしはなして亀田の細君は、注意ぶかくしらべた。

「伸子さん、あなたなら云って下さるわね、亀田の絵、どれも暗いでしょう」

「暗いって云えるかしら──地味なのじゃなくて?」

「──どっちみち沈んでいるでしょう?」

 伸子は、そういうところに亀田のじたばたしない人柄を感じているのだった。

「亀田のようなたちの絵はね、どこへ出しても損なのよ」

 経験による確信と心配とのある内助者の調子で、彼女は云うのだった。

「わたしたち貧乏でしょう、だから亀田の絵もああいう風にくすんだ色ばかりつかうんじゃないかと思うわ──マチスの生活なんて、すばらしいもんですってねえ。佐賀多さんなんかも、いまめきめきうり出していらっしゃる最中だから、相当派手にやっていらっしゃるんですって」

 カリエールは? モジリアニは? あの人々のところにあるのは何だろう? デュト街のよごれた壁の色をみたとき、伸子は、ああここにカリエールの色があると感じた。寂しいセピアと白いチョークのような光の消えた白さ。そこにパリの貧しい人々の人生の思いが語られている。「モンパルノ」というモジリアニを主人公とした小説がよまれているころであった。モジリアニの素晴らしい才能を独占するために──あとで価の出ることを見とおした画商が、彼の生活の破綻につけこんで、紙屑同然のはした金を与えては、モジリアニから制作をまきあげていた。モジリアニの生涯のいつ、うり出したときがあったろう。

「お金のいくらでもつかえるかたは、いいわねえ」

 いくらでもお金のとれるかた、とこの細君が云わないところに伸子は、クラマールに住んでいる人々らしさを感じた。パリの市民からはなれてクラマールに住んでいるということは、その人たちがモンパルナスの流行カフェーに出入りしようとしていないということであったし、巨匠たちと顔見知りになって置こうとする欲望や野心をすてている人たちであることを語っているのだった。同時に、ここの人たちには、十月末から世界を不安にしているアメリカの経済恐慌も、同じクラマール住人であってもベルネの夫婦やおばあさんがそのニュースをうけとった現実的な表情とは全く別のうけとりかたをされていた。描いている絵に、パリの市価をもたないというそのこころやすさ……ここの人たちは、どっちみち、われわれにたいした関係はないさ、と、自分たちの超然をたのしんでいるのだった。

 伸子がクラマールへ引越して来た秋のころ、それからひとつきたって、冬が来て、伸子の心にモスクヷへ! と絶えずささやくものが生れても、このままじっと年を越そうとして、降誕祭ノエルの酒の品評をしている人々。酒の話から、ひき出されてパリでアルコール中毒にかかっているある男の噂をしている人々。

「仕事の方は、どうなんだね、すこしは変ったのかい?」

「どうだかな──むしろ益々救いがたいんじゃないか」

「そいじゃ、彼はただのアル中にすぎないじゃないか」

「僕がいつも云っているとおりさ。かんじんのものをもち合わさないくせに、中毒ばかり模倣したって、どんな画家も生れちゃ来ないんだ。さか立ちしてディフォルメだけまねたってそれでピカソになれた奴は一人もいないんだ」

 そう云っているのは長椅子によこになっている柴垣だった。

「どういう自分が生れて来るか、そのおれの誕生を待ちきる辛抱が修業第一課さ」

 そう云う間も柴垣は唇からはなしたパイプを宙にうかせて持ったまま、視線に注意をあつめて、亀田の細君の手もとを見守っている。ストーヴのよこに立って、彼女はコーヒーを入れかけているところだった。親友の家庭で、そこの主人よりも細君の料理に関心を示す男がある。いつかそういう習慣になっている友達の目つきで、柴垣は、亀田の細君の手もとを見ているのだった。

 去年の冬もおそらくここでこんなにして、柴垣は、自分の誕生を待っていたのではなかったろうか。ほとんどすべてのひとはしばしば行動的に考える。だけれども、ほとんどすべての人が考えるように行動的には行動しない。──いまこの亀田のアトリエのはてしない雑談にまじっている自分に、伸子はそれを感じるのだった。

「ああこりゃうまい!」

 パステルの研究をしているというひとが、亀田の細君のコーヒーの腕前をほめた。

「これだけにのませるところは、少くともここいらにはないだろう」

「実のところ万更まんざら自信がなくもありませんのよ。かえりましたら、いずれ店を出すことになりましょうから、どうぞよろしく」

「──うまい、で思い出したが、気がすこしどうにかなると、女の手がうまそうに見えるものだろうかね」

 柴垣が、もちまえのポーズをくずさず云った。

「耳が気になったという例は、美術史にある」

「ゴッホだろう? 俺の話は手なんだ、女の手なんだ」

「くった奴があるのか」

 みんなが笑い出した。

「都久井俊吉、ね」

 それはひろく知られている作家の名であった。

「あのひとが、すこし頭の調子をおかしくしたときのことだがね、何しろ普通の病人じゃないから、家のひとも医者も、ひととおりならない苦心なんだ。本人を不安にしたり絶望させたりしないために、すこし強度の神経衰弱ということにして、静養が第一、まあ、おなかをすかせないようにするんですな、って云ったんだな。だもんだから、先生ひとすじに、おなかがすいたらもう駄目だと思いこんでしまったわけなんだ。いま食べたばっかりだのに、すきやしまいかと心配になると、たしかに空いて来た気がするんだ」

 伸子はその話に耳をすまさせられた。そのひとの作品を知っている伸子には、彼が医者のいうことをひとすじに信じた、ということもうなずけるのだった。

 その都久井をつれて、家族のひとと彼とが箱根へ行く途中、小田原へ降りた駅の前で、いつの間にか、都久井の姿を見うしなった。どこをさがしても見当らない。あわてていると、そのあたりに客待ちしている俥夫が、旦那、なんですかい、帽子をかぶってない、ちょいと変った旦那をさがしているんじゃないんですか、ときいた。

「うんそうだ、ってわけさ。きいてみるとたった今その俥夫が、待合へおともしたっていうんだ。じゃあ、そこへ行こうってわけで、行ってみると、都久井先生、座敷でのたうちまわっている。腹がすいてたまらんから、ここへ来たのに、何もくわさんと云って、苦しがっていたんだ」

 そこで下へ行って、あの男はすこし病気だから、何でもいい、たべるものがありさえすればいいんだからとたのんで、二階へあがって来て見ると、

「おどろいたね」

 床の間にきれいなバラがいけてあった。

「先生その前へ行って、両手でその美しいバラを食っているじゃないか」

 そこまできいて、伸子ははっとした。すべてのいきさつは、何とその作家らしいだろう。バラが美しくて、そんなに美しいものなら、命のたしに食べていいものだと思えてバラを両手でたべたところ。同じ作家について同じころにいくつかの話もつたえられたが、都久井俊吉とバラの花のこの物語は、この作家のこころの精髄をしぼり出している。常識の平均は失われていて、しかも美しさを感じる心がそのように切なく発露する都久井らしさに、伸子はうたれたのだった。

 この切実な逸話が、話しては美術家だというのに、ただバラをくった、というところから語られているのは何としたことだろう。人々の笑いが伸子に堪えがたかった。笑わない伸子に蜂谷の視線が向いた。伸子はそれを感じる。だが、伸子はこたえない。蜂谷に笑える。──それは彼の生活のことなのだった。

 都久井は花柳界のある土地に、一人の情人をもっていたが、日ごろからはにかみやで、親しい友人であるその美術家と一緒でも、決して人前でその情人の手をにぎったり、接吻したりはしない。箱根へ行っての帰りその女と来て、山の手にある都久井の家の近くで、その女のひとが自動車をおりた。

「じゃ、ここで失礼するわ、そう云って女がおりるとね、都久井先生、日ごろになく物も云わないで女の手をぎゅっと握った。何しろ五年の間、ただのいっぺんもそんなことをされたことがないんだから、万感交々さね。涙ぐんでしまった。すると、都久井、いきなりその女のきれいな白い手をかじりはじめたんだ──。はらが空いたんだ」

 こんどの話では人々はあまり笑わなかった。それは、愛情の表現だという議論がおこった。

「そう思うのは、常識さ。断然、そうじゃない。彼ははらがすいたんだ」

 話してを非難するのでもなく、話題に興じている人々を批評するのでもない。自分として苦しい気もちが、伸子の内に渦まきたった。はらが空いたというひとことに云われている感じ。だが美しいもの、いとしいもの、それを自分の口からたべようとする人の心。この社会に、渇望をもって生きているということに関連して、都久井の話には伸子の心をつかむものがある。晩秋のヴェルダンの日暮、ドゥモン要塞の霜枯れはじめた草むらの中に、落ちている小さな金の輪のように光っていた一つの銃口。その無言の小さな金の口が伸子に訴えた、そのような生の訴えが、常識のつりあいのこわれた芸術家のふるまいのうちにも疼いているように思われて、伸子は苦しいのだった。

 伸子は椅子から立ちあがった。そして、二三歩自分のいたあたりを歩いた。蜂谷の視線が、アトリエの対角線のところから、伸子を追った。それを無視して、同じところを伸子は一、二度往復し、アトリエのドアの前で向きなおったとき、伸子は、そこに立ちどまった。そして瞬きをとめた目で、蜂谷を見つめた。長椅子の奥にかけている蜂谷と、ドアのところに立っている伸子との間にはそこに人々の顔がある。タバコの煙とコーヒーの匂いと声がある。蜂谷はあまりじっと伸子から見つめられて工合わるそうに身じろぎした。伸子の眼はそれらを見ている。けれどもほんとに見えてはいない。伸子は耳をすましているのだった。伸子の心で、微かにドラが鳴りだしていた。伸子がモスクヷへ、いよいよ出発するときが来た、そのドラが段々はっきり鳴りはじめているのだった。



第四章




 七ヵ月前にモスクヷからのって行ったとき、国境はやっぱりこんな風にして通過されたにちがいなかった。けれども、どうしてだか伸子には、そのときの模様は思い出せない。

 いまベルリン発モスクヷ行きの列車はポーランドの国境駅をあとにして、十二月にも緑の濃いもみの原始林に沿って、ゆっくり進んでいるところだった。国境駅を出たときから列車の速力はぐっとおちている。車窓に迫って真冬の緑をつらねている樅の樹の梢に白い煙が前方から吹きなびいて来てからみつき、それが消え、太い枝、次に細い枝と現れる。伸子の視線がそれを追っかけられるのろさで列車は進行をつづけているのだった。

 伸子は、踵のひくい靴をはいている脚を男の子のようにすこし開いて窓に向って立ち、手をうしろにまわし、ベージ色のスウェターの胸に派手なネッカチーフをたらして、目をはなさず窓外の景色を見ている。伸子は熱心に国境沿線の景色を見ながら、ベルリンへついたとき、あわてて降りて、パリからの列車の中に置き忘れて来てしまった絵の具箱とおもちゃの白い猿のはいったボール箱のことを思い出しているのだった。

 ああ、ほんとに眠って、来てしまった! パリを出る最後の十二時間は、伸子をそれほどくたびれさせた。

 簡単に考えていた荷づくりが案外ごたついた。親たちがパリを引きあげるときペレールのアパルトマンの食堂のテーブルの上へ、敷布類だのテーブル・クローズ類をのこして行った。伸子の数少い手まわりのどこにもそれらを入れる余地がなくなって、蜂谷良作が下宿へもどって伸子のために中型鞄を一つもって来てかしてくれた。そんなごたつきの合間合間に、蜂谷は、自分ひとりパリにのこされる事情になったことを歎いた。

 ベルネの家の二階の、伸子の室の床の上で画集をつめた紺色のトランクに鍵をかけながら、蜂谷は訴えた。

「こんなに、きみを離したくない僕が、誰よりもきみの出発を手つだっているなんて──」

 きのう百貨店ルーヴルへ一緒に行って、伸子がそのトランクを買う手つだいをしたのも蜂谷だったし、モスクヷまでの切符をととのえたのも蜂谷だった。

「これから、僕はひとりで、パリで、どうして暮していいのか、わからない」

 伸子は、一旦平らにして入れた敷布を又とり出して、こんどはくるくるまいて借り鞄のよこへつめこむ手をやすめずにいうのだった。

「だって、蜂谷さんはもう二年もパリで暮したんじゃないの、わたしのいたことの方が偶然だったんです。あなたはちゃんと暮せてよ」

「だから、佐々さんには分っていないんだ、きみがいなかったときはいなかったときだ、まるで、今とはちがう」

「じゃあ、どうすればいいと思うの?」

 おこった瞳になって、伸子は蜂谷の、悲しげなしかめ顔を見据えた。

「あなたは、わたしをパリにひきとめようとばかりなさるけれど、いっぺんだって、モスクヷへ行こうとはおっしゃらなくてよ、知っていらっしゃる? そのこと。──」

 窓に向って衣裳箪笥と壁との間に、窮屈にはさまれているデスクの上から伸子はこまごまとした手帳、文房具、手紙の束などをもって来て、女持ちの旅行ケースにつめはじめた。ケースには、パリ、ロンドン間の飛行機でとんだときの赤と白とのしゃれたラベルが貼られている。

「ね、わたしたちは、ぎりぎりまでお互を知りあったのよ、それはそう思えるでしょう? そして、わたしはもうモスクヷへ帰る時だということが、はっきりしたんだわ──惰勢で、お互を妙なところへ引きずりこむなんて──それは、わたし、したくないの」

「そうだ、きみは──そうなんだ」

 二人の間に荷づくり仕事のごたごたをおいて、伸子と蜂谷とが床の上にかがんだり、椅子においたトランクの前に立ったりしてそういう会話をとりかわしたのは、夜なかの二時すぎであった。ベルネの家族たちはねしずまり、少くとも寝しずまっているように見え、あけはなしたドアから明るい燈の流れ出しているのは伸子の室だけだった。

 伸子と蜂谷は、そうして夜明しした。伸子は意識して、夜なかじゅうくつろぐ空気をつくらなかった。朝早く北停車場から出発するベルリン行列車の車室はうす暗い、そのうすら寒さとうす暗さの裡で、蜂谷良作はしびれるようにきつく、外套の上から伸子の腕をつかんだ。

「佐々さん!──最後なんだから──少くとも僕にとって、これが最後なんだから……」

 蜂谷との間にそういう機会をもつようになってはじめて、素直に、自発的に、伸子は蜂谷の顔を両手の間にはさんで接吻した。彼と自分とのために、いい生活の願いをこめて。クラマールの生活で二人が経験したことの中に、蜂谷を軽蔑し、伸子自身を軽蔑すべき何があったろう。二人はそれぞれに、これまで知らなかった男と女とを知り、そのように存在する男である自分、女である自分を見出した。微妙で、はげしく、限界のきまっていない男と女のひきあいの間で、伸子と蜂谷とは、きわどく近づき、またはなれ、舞踊のように自身をためしながら格闘した。その格闘は、ひきわけに終りつつある。格闘のなかには、幾世紀もの間、男と女とが互の上にくりかえして来た征服の意欲とはちがった互格のはりあいがあり、それは何かの新しい意味をもっている。結論として、伸子が、断然モスクヷへ向って出発するという形をとって表現されるような。──

「じゃ、ほんとうに、さようなら。いろいろありがとう、よく暮しましょう、ね。きっと、ね」

 伸子の言葉を縫って発車のベルが響いた。蜂谷は、うめくような喉声といっしょに伸子をつよく抱擁して背骨がくじけそうにしめつけた。そして、あとを向かず車室を出て行った。

 伸子は、眠りはじめた。くたびれきって、同時に云いようのない自身からの解放の感じにつつまれながら。フランスとドイツの国境を伸子は夢中ですぎた。ベルリンの数時間は、伸子が眠りと眠りとの間に目をあいて、たべて、日本語を話して、ファイバーのスーツ・ケースを買った数時間であった。ネオンが夜空に走っていた。更に東へ、東へ。大きい窓をもった国際列車の車室のなかでは座席の隅の外套かけで質素なイギリス製の茶色外套が夜から朝へ、朝から昼へと無言に揺れ、その下で、伸子は眠りつづけて来たのだった。

 眠りたりて新鮮になった伸子の感覚の前を、国境の伐採地帯がゆるやかに過ぎた。数十ヤードの幅で、自然にはないくっきりとした規則正しさで樅の原始林がきりひらかれている。彼方に、北の国の地平線がある。遠くに、木をくみたててつくった哨所が見えている。

 しばらくの間樅林に沿って走って来た列車は、車室のなかへまで緑っぽい光線がさしこんで来る林のそばで、一時停車した。そこで一分間ほど停っていて、また動き出した。列車の速力は一層おちていて、機関車はあえぎあえぎ、ゆっくり草地にかかっている。まぎらわしいというところの一点もない風景がそこにあった。草地も、それを左右からふちどっている樅林のきりそろえられた直線の出口にも。人気ない、北方の自然のうちに、約束がきめられてあって、どんな信号も人影もないのに、列車が約束にしたがってある地点で停り、改めて速度をきめ、そして一定の地点を通過するとまたそこで停る。その行程、その小停止、小発進は、不思議に伸子の心をゆすった。ヨーロッパで、伸子はいくつもの国境を通過した。あるところで、国境は彼女にとって、そこから、役に立たなくなった数箇の銀貨と、それに代って食堂車の真白いテーブル・クローズのはじに並べられた、別の銀貨の数片としてあらわれた。それらのところにはいつも気ぜわしい人々があった。屋根と屋根との間に、国境があった。

 こんなにひろく無人で、樅林と草地と地平線しかない地帯、その地点をこうして列車は、儀式をもってのろのろとすぎつつある。機関車の重苦しいひと喘ぎごとに、旧いヨーロッパはうしろになる。前方から新しい土地、ソヴェト・ロシアがひろがって来る。きりひらかれた草地の上で樅林の右側の出口が緑の壁のようになって遠ざかった。左側の樅の林の入口が近くなって来る。伸子は、窓に向って立ったままいつの間にかネッカチーフの前で握りあわせていた両手をきつく胸におしあてた。伸子は、ひびきとして感じたのだった、舞台がまわる、と。──その舞台を選択してかえって来ている自分。パリをはなれて来た自分。その自分というものが確信されるのだった。

 ストルプツェの国境駅についたとき、北方の夜の木造建物の中は、赤っぽい電燈にてらされていた。粗末な板張りの国境荷物検査所。白樺板の間仕切りの上に「五日週間ピャチ・ドニエフカ」とはり紙されている。「五ヵ年計画を四年で!」とかいた発電所のポスターがある。粗末な机、粗末な床几しょうぎ。すべては粗末で無骨だが、荒けずりなその建物に漂っている木の匂いも、そこに働いている女のプラトークで頭をつつんでいる姿も、すべては他のどの国の、どの国境駅にもなかったものだ。ここにロシアがあった。七ヵ月前ここを通ったときには、伸子の知らなかった建設のスローガンが新しく響いているソヴェト同盟の国境駅があるのだった。

 両手にさげて運んで来た手荷物を、体ごと検査所の台の上におろしたとき、伸子は思わず、

とうとうナコニエーツ!」

と云った。

帰ってダモイ来ましたプリィエーハラ!」

 水にぬれると紫インクのように変化して消えない鉛筆を手にして、偶然伸子が立った荷物置台の前にいた係りの若い金色の髪の男が快活に訊いた。

「どこから来たんです?」

パリからイズ・パリージャ

 パリから──? 伸子は旧いヨーロッパから帰って来たところだった。モスクヷにいた間の伸子は知らなかった自分の動揺から、一つの選択から帰って来たところなのだった。



 素子の下宿の部屋が、かわっていた。

 モスクヷじゅうの並木の若芽がまだ尖がった緑の点々だった頃、伸子が旅立ちの仕度に、灰色アンゴラのカラーを自分で合外套の襟に縫いつけていたのは、ルケアーノフのクワルティーラの裏側の部屋だった。モスクヷ大学病院を退院して、伸子は、たった一つの窓の幅だけに細長くつくられているその素子の部屋へ帰って来た。一つきりの窓は建物の内庭に面していた。素子と伸子とが同時にそこで動くということは不可能なほどせまくるしかった。

 同じクワルティーラの中で、こんど素子が移った部屋は、ほんものの一室だった。アストージェンカの広場に向ってたっぷり開いた二つの窓をもち、清潔に磨かれている床に二つの単純なベッド、一つの衣裳箪笥、素子用のデスクと本箱、食事用の小テーブル一つが、おかれている。

 ステーションで、迎えに来ていた素子と抱きあって、伸子が、

「どうしていた?」

ときいたとき、素子は、

「──まあ、かえって御覧」

と云った。

「こんどは、いい部屋だよ、ひろいよ」

 ルケアーノフの上の娘に許婚者ができて、彼女たちだけの室がいるようになった。そこでこれまで二人の娘がいたひろい方へ素子がうつり、ヴェーラがうなぎの寝床へはいることになったのだそうだった。

「うちの連中にとっちゃ、一挙両得さ。なにしろこんどは、室代が倍だもの」

 素子はカンガルーの毛皮をつけた新調の外套を着てきていた。めずらしい毛皮の柔かくくすんだ色が、十二月のモスクヷの外気の刺戟で活気づけられている素子の顔の小麦肌色と、似合った。

 伸子は、国境駅の白樺板の上にまで進出している「五ヵ年計画ピャチレートカ」をすぎてゆく街々の角に発見しようとするようにタクシーの窓から目をはなさないのだった。素子がひろい室に移っている、そのことに自分のいる場所の安定も約束されている。それ以上をもとめないこころもちで、伸子は、アストージェンカの、板囲いをはいって行き、太った住宅管理人が、山羊外套の肩にトランクをかついで運び終るのを待って、ルケアーノフのクワルティーラへのぼって行った。ところどころささくれているようなむき出しのセメント階段のふみ心地。あたためられている建物の内部に、かすかに乾いたセメントのにおいがただよっている。これがモスクヷの新しい足ざわりであり匂いだった。

 ルケアーノフのところでは食堂の両開きのドアも台所のドアもしまっていて、食堂の隣りの素子の部屋があいている。何の予想もなしにその入口に立って室内をぐるりと見た伸子は、

「あら」

 信じかねるように、一つの窓の下へ目をとめた。

「わたしの場所?」

 外套を着たまま、大股に右手の窓べりによって行った。広場に面した二つの窓の、左側が素子の勉強場になっていた。デスクの上に、ウラル石の灰皿やよみかけの本、新聞がちらばっている。もう一つの窓との間を仕切って、八分どおり詰った本棚が立てられていて、そのかげに、もう一くみデスクと椅子がおかれているのだった。

 デスクの上には何もなく、がらんとしている。しかし、緑色の平ったい円形のシェードのついたスタンドが、いつからでもつかえるようにして置いてある。

「──すごいわねえ、わたしの場所があるなんて……」

「──ぶこが、ひっかかっていつまでも帰らないもんだから、一ヵ月無駄に払っちまったじゃないか」

 とがめる云いかたのなかに、伸子がもうそこに帰って来ているという安心がひびいた。

「なにを、ぐずついていたのさ」

「なにって──」

 直接素子のその質問には答えないで外套を壁にかけている伸子。見なれた部屋着にくつろいだ伸子。顔を洗って来て、ルケアーノフの細君が用意しておいてくれたジャム入りの油あげパンピロシュキをおいしがって、茶をのみはじめている伸子。伸子のそのこだわりのない食慾や、もうどこへ行こうとも思っていない人間の無雑作さで寝台の上にとりちらされているパリ好みのネッカチーフやハンド・バッグなどは、その部屋に自分以外の者が住みはじめた目新しさと同時に、やっと永年なじんで来た生活がそっくりそこに戻った感じを素子に与えているのだった。伸子は、自分の動きを追う素子の一つ一つのまなざしからそれを感じた。そして、伸子自身も、アストージェンカへ帰って来て、もうどこへ行こうとも思っていない自分を感じるのだったが、素子の視線には、何か伸子の意識の陰翳にあるものをとらえようとしているようなところがある。伸子の、何かに向って、配られている詮索がある。

 ひと休みしてからの伸子は荷物の整理にとりかかった。画集のトランクは、ちょくちょくあけて見られるようにドアの左手の壁際へ、いくらもない着換え類は、素子とおもやいに衣裳箪笥にかけた。そして、空になったスーツ・ケースを自分の寝台の下へ押し込んでいると、横がけにかけている椅子の背に両腕をおき、その上へ顎をのっけた姿勢で伸子のすることを見守っていた素子が、

「見なれない鞄があるじゃないか」

 ふりかえった伸子に、茶色の中型鞄を目でさした。それは伸子が荷物をしまいきれなくなって蜂谷良作からかりて来た鞄だった。

ぶこのもんじゃない」

 伸子は、素子の神経におどろいた。

「蜂谷さんにかりて来たのよ、入れるものがなくなっちゃって」

「──かえさなけりゃならないのか?」

「そんな必要ないでしょう」

 かりた鞄をどうするかというようなことについて、蜂谷も伸子も考えていなかった。もし、かえさなければならないことになっていたとすれば、それはどういう意味をもつものとして素子にうつるのだろう。パリでの生活については自分を素子の前に卑屈にしまいときめて、伸子は帰って来ているのだった。

 だまって伸子は荷物整理をつづけた。しばらくして素子が気をかえたように、半ば自分を説得するように、

「まあいいだろうさ!」

と云った。

「蜂谷君も、せめて鞄ぐらいサーヴィスしたっていいところだろう」

 鞄ぐらい、と目の前にある物についていうのがおかしくて、伸子は笑い出した。

「どうしてぐらいなの?」

「だって──そうじゃないか」

 素子は、すーっと瞳孔を細めた視線を伸子の顔に据えた。眼の中にこの数ヵ月の間、折にふれて燃えた暗い焔がゆれている。伸子は暫く素子の視線を見かえしていた。素子のうらみが伸子にわかるのだった。だけれども、ほんとうには、素子がうらむような何一つないのだ。しずかに素子のそばへ歩いて行った。そして自分の頬っぺたと喉の境のところを素子の鼻さきにすりつけた。

「ね、よくかいでみて──別のにおいがする? 何か、ぶことちがうにおいがする?」

「──ぶこちゃん」

 トランクをいじっていた両手はうしろにはなして、顔だけさしよせている伸子を、柔かな部屋着の上から素子が抱きしめた。

「──半分だけ帰って来たなんていうのじゃないのよ」

「わかるよ、わかるよ」

 二人はその晩おそくまでおきていた。

 夜がふけるにつれて、パリとモスクヷとをへだてている距離の絶対感が、真新しい刃で伸子の心を一度ならず掠めた。いまは安心して伸子にまかせきっている素子の、こんなにもかぼそい女の手。ウィーンのホテルで自分をつねったり、ぶったりしたこともあるこの指の細い手。自分が帰って来たのは、やっぱりこの手そのものへではない。その意識があんまりまぎらしにくくて伸子は素子の前に瞼をふせた。


 モスクヷが変りはじめている。その変り工合は、見たものでないと信じられないかもしれない。素子がそう書いてよこしたのは真実だった。

 モスクヷは変りはじめた。伸子たちの住んでいるアストージェンカの角から猟人広場アホートヌイ・リャードまでゆく道の右側、モスクヷ河岸に、少くとも七階か八階建てになりそうな巨大な建築工事がはじまっていた。それはソヴェト宮殿だった。中世紀的なクレムリンの不便な建物の中から、落成したらソヴェト政府が移るべき近代建築が着手されはじめていた。

 猟人広場アホートヌイ・リャードそのものの光景も一変している。一九二七年の初雪の降りはじめたころモスクヷに着いた伸子と素子とが──とくに伸子が、その広場を中心にトゥウェルスカヤ通り、赤い広場、劇場広場、下宿暮しをするようになってからはアストージェンカと、モスクヷの中に小さい行動半径を描いているその猟人広場アホートヌイ・リャードの名物であった露店商人の行列が、七ヵ月留守して帰ってみたら、ほとんどなくなっている。そのかわりに、春のころは、協同販売所という看板をかけてあるぎりで、入口の赤錆色の鉄扉がしめられていた店舗が二軒並んで開かれていた。店内は品物不足だった。買物籠を腕にかけ、プラトークで頭をつつんだ女が一つの売場の前にのり出してきいている。

「バタはいつうけとれるんですか」

「一週間あとに」

「どうして? おかしいじゃないの。わたしが一週間前に来たとき、お前さんは一週間あとに、って云ったくせに」

「もう一遍、一週間あとに、なんです」

「いつだってそうなんだ! うちには子供がいるんですよ」

 わきに立って問答をきいていた白髪の肥った婆さんが、古風なモスクヷの口調で云った。

「ごらん、これだからね、おっかさんマームシュカ。主婦たちが協同組合のウダールニクをこしらえなけりゃならないってわけなのさ」

 多くの生活を知って、まだまだ老耄していない年よりの大きい眼が、そばにいる伸子をちらりと見た。

「あの人たちには分らないさ。まだ、自分の口ひとつを心配していればすむ年頃だもの、よ」

 ソヴェトの人々は五ヵ年計画の第一年に、工作機械やトラクターや、或いは、それらを製造するいくつかの工場都市をつくった。けれどもバタや石鹸の不自由は当分つづけなければならない。

 あらゆる食料品を並べてぎっしり列をつくっている露店商人と、その前をぞろぞろ往復していた男女の通行人の姿が消えて、猟人広場アホートヌイ・リャードから劇場広場の方角へ、見とおしがきくようになった。赤い広場へ出る街角にも、春までは、買物籠に玉子、バタ、自家製のチーズ、鶏などを入れて立っている女や年とった男が多勢いたものだった。ここで、伸子もたまにはバタを買ったこともあるし、玉子も買った。そんな物売りもいない。モスクヷの個人商人は二パーセントに減った。それは事実に近いだろうということがトゥウェルスカヤ通りを歩いてみるだけで、感じられるのだった。

 伸子は、ホテル・パッサージの近くへ行って見た。ホテルへ曲る少し手前に、中央出版所と看板を出したきりで、この間までいつみても、陰気にがらんとしたショウ・ウィンドウにレーニンの写真と人間と猫の内臓模型を並べていたところがある。「モスクヷ夕刊」がそこへ越して来て、面目一新だった。入口に、少し田舎っぽいけれども堂々とした電気看板が「ヴェチェールナヤ・モスクヷ」と豆電球を並べていて、人の出入りも活気がある。なぜ猫と人間の内臓模型がレーニンの写真の下におかれているのか、いつもわけのわからない気がして見て通っていたショウ・ウィンドウの中に、のこされているのはレーニンの写真だけだった。白塗りの図案化された書棚に、五ヵ年計画に関するパンフレットが陳列されている。その背景として、赤地に白で五ヵ年計画を四年で! と書いたプラカートが張られている。「モスクヷ夕刊」の編輯局のほかに印刷労働者のクラブも出来ているらしく、入口から左手の奥、棕梠しゅろの鉢植ごしに軽食堂ブフェートがある様子だった。

 中央郵便局グラーブナヤ・ポーチタが落成している。中央郵便局と云えば、伸子たちが旅行に出るころまでモスクヷで最も人気をあつめている建造物だった。二年前、伸子と素子とが、モスクヷへ着いた第一日の朝から、目にしたのはこの建築場の板囲いだった。雪の上についた荷橇の跡、そこに落ちている馬糞。厳冬マローズに雪を凍らしている見張所のキノコ屋根。ホテル・パッサージの入口と建築場の入口とが、ひろくない道をはさんで斜めに向きあっていた。今は、その横通りに五階の宏壮な建物の側面が規則正しく各階の窓ガラスを見せている。トゥウェルスカヤ通りに郵便局としては儀式ばりすぎているぐらい威容のある車よせがあって、内部へはいってみると、広々とした窓口で事務をとっている人々の姿も、滑らかなウラル大理石で張られている床を、こころもちすり足で用を足しているまばらな人群れも、いちように小さくなって見えるほど、白い天井は高く、間接照明にてらされて明るい。窓口の真鍮がパイプ・オルガンのように光っている。どこにも群集の匂いがまだしみていない建物の内部のめずらしさ! モスクヷにおいて、それを見るめずらしさ。ニスの匂うガラスの大扉を押して出ようとしたとき、力まけした伸子の体がスーとドアごとウラル大理石の床をすべって、あっち側へ出た。つき当りのうす茶色の壁に貼られている。「五日週間ピャチ・ドネエフカ間断なき週間ニエペレルィヴナヤ・ネデーリヤ

 ソヴェトの人々は、すべての生産と執務とが間断なく能率的にはこばれてゆくために、一日八時間基準の労働日を、五日ごとに区切って、これまで二交代だったところを三交代にした。日曜日と云えば、全市の活動がとまって、開いているのは薬局と食堂、劇場ばかりというヨーロッパの一週間制が廃止された。丁度、伸子がモスクヷへ帰って来る前、ソヴェト経済年度のかわりめである十月一日から新しいシステムが採用されることになった。パリの外字新聞は、五ヵ年計画第一年目の成果についてソヴェト政府が発表した数字について、異口同音に、うさんくささを公言していた。同じ筆法で、五日週間という「アメリカでさえやっていない方法」を採用するソヴェト政府は、世界のキリスト教徒の習慣に挑戦するものであるし、強制労働が全住民に拡大されることであると非難していた。ソヴェト同盟に五ヵ年計画がはじまってから、失業は急速に減りつつある。一九二九年は、伸子でさえロンドンであのような失業者の大群を目撃した年であったから、ソヴェト同盟だけで、五十万あった失業がなくなりつつあるという事実、その上、賃銀が七一パーセント増大するだろうという事実は資本主義の国の主権者たちの気にいりようがなかった。ソヴェト同盟のことは何につけても宣伝が八分。そうきめて不安と羨望が偏見によってまぎらされていた。

 失業と乞食は、たしかに減った。伸子はこんど帰って来て食堂ストローヴァヤの中をうろついている男女や子供がいなくなったことに気付く。並木道のベンチにあてのない表情で腰かけている男女がなくなった。失業者が吸収されずにいない現実の根拠が、伸子の目にもまざまざと見えているのだった。モスクヷ河岸の大建造物の足場を往復している労働者の姿にも、クズネツキー橋のわきで、赤旗を立てた起重機が鉄のビームをつり上げている轟のかたわらにも、工業生産高は戦前の水準にくらべると三倍以上に拡大されようとしているのだった。

 伸子のデスクの端に、五ヵ年計画に関するパンフレットが一冊一冊とつみかさねられた。大量に出版されるそれらのパンフレットにも出版五ヵ年計画が実現されているわけだった。それらの中に特別伸子の気に入っていて、よくくりひろげて眺める「子供のための五ヵ年計画」という絵本があった。大判の四角い本で、頁をひらくと、革命前のロシアの石油、石炭、鉄などの生産と文化の状態が、当時それらの経営に君臨していた外国資本と、ひどい労働者小舎に住んで働いていたロシア労働者の対照的な姿とを描き出しながら石油櫓の数、石炭の山の大小のダイアグラムで示されている。頁は折りたたみ式になっていた。たたまれた頁を開くとそこから、子供の好奇心をもえたたせるような簡明な線と、美しい色彩で五ヵ年計画が完成したときのソヴェト石油の豊富さ、そこにある労働者住宅と労働宮。子供たちの子供の家と学校が描かれているのだった。ソヴェト石炭の見事な黒い山。炭坑地区の電化がどの位進むかということは、ずらりと並んだ電球の数で、小さい子供にものみこめるように説明してある。バルダイ連丘から源を発して数千キロの間を白ロシアからウクライナへとうねり流れて、増水期には耕地にあふれ牛や子供を溺らしたりしていたドニェプル河の下流に、大水力発電所がつくられようとしていた。ドニェプル大発電所が完成すれば、その電力は、ソヴェトの穀倉であるウクライナ地方の農業機械作製所セル・マシストローイで、これだけのトラクターをつくらせ、ソヴェト・フォードで幾台の自動車を生産させ、粉挽き工場は、古風な風車の翼が風のない空に止っているのを心配しなくてもパンにする小麦粉をこんなにどっさり製粉するようになるだろう。雄大なドニェプルの流域にひらけようとしている生産の諸能力が、子供の生活にぴったりした小麦袋だの耕作機械だの、学校だの、統計図で描かれているのだった。画家はデニカだった。ソヴェトの若い画家の中でもきわだって明快で動的な才能をもっている彼が、これだけ力をこめて五ヵ年計画の絵物語を描いてゆくときには、彼のこころにも新しい希望があったろう。去年の冬のように、ウィンター・スポーツの絵ばかり描いているより、張りあいもあっただろう。

 デニカは、反ソヴェト・カンパニアに反撃するためのポスターにも、効果的な諷刺を描いていた。長大な砲身が、ぬっとソヴェト同盟の赤い地図に向ってのびている。黒光りする砲身の先端に、法冠をかぶった法王がまたがっている。彼は法笏ほうしゃくをふって指揮している。その背後にくっついて、あらいざらいの勲章を下げて双眼鏡と地図をもっている軍人。さかまんじのしるしをつけたイタリーとドイツのファシスト。しんがりにはシルクハットをかぶった燕尾服姿の太った男が砲身にまたがっている上体をかがめて足もとにつみあげた金袋に手をかけている。五ヵ年計画を四年で! というスローガンのあるところには、きっとそのポスターも貼られていた。二つのものがひと組みとなって、モスクヷのあらゆるところで伸子の目にふれる。それにはそれだけの必然があった。反ソヴェト・カンパニアは、国境の八方から五ヵ年計画が水泡に帰すことを切望していた。五ヵ年計画は不可能事だと喧伝しながら、ソヴェトの社会主義建設を破壊するためには、最高政治指導部のなかにまで、世界反革命の組織がはいりこもうとしているのだから。──ブハーリンの問題はパリにいた伸子を衝撃した。

 七ヵ月という時は、モスクヷで平たく経過したのではなかった。その時間に、ソヴェトの人々は、自分たちの社会主義社会の本質を決定的に高めるために奮闘した。伸子が二年の間モスクヷで見聞して来たもの、その中に生きて身につけて来た細目の全面が立体的にもち上って、一層組織的に、一層計画的に展開される時にはいった。僅かのうちに伸子に耳新しい新造略語がたくさん出ている。それらのどれもが、五ヵ年計画と生産経済計画プロフィンプランに関連していた。伸子が初めて経験するばかりでなく、おそらくソヴェトの人にとって初めての経験であるに違いない数字に対するつよい感受性が、一般感情のうちにあらわれていた。数字はケイ紙の間にかきつけられてだけいるものでなくなった。数字はエネルギーの生きている目盛りであり、そこに人々は自身の努力の集積を見守っていた。ある数字は、はっきりしたよろこびでよまれた。ある種の数字に対してはきびしい批判がよびおこされた。そして、ソヴェトに暮しているかぎり、どんな人でもそれらのあつい数字からのがれることは不可能なのだった。



 ソヴェトのそとで暮した七ヵ月は、伸子を成長させた。ロンドン。パリ。ベルリン。ワルシャワ。そこにあった生活とモスクヷの生活との対照は、あんまり具体的であった。さまざまな粗野と、機械的なところがあるにしろ、総体として一つの社会の人間がよりましな条件で生きる可能は、どちらにあるか──資本主義と社会主義と──それは最も下積みの生活をよぎなくされている多くの人々のこころに、希望をもたらすのは、どちらであるか、ということだった。それについての伸子の理解は深まった。理解から生活の情熱となった。伸子がただ一人の若い女にすぎないのは何といいことだろう。ロンドンやパリで暮している人々は気がねなく彼女の前にソヴェト社会についての態度を示し、資本主義列国の外交政策の本質を教えるように話してきかせたことは、何とよかったろう。伸子はパリやロンドンにいるうちに、モスクヷにあるものの価値をよりたしかに自身の内容にしたのだった。

 そのような成長にかかわらず、伸子は、他の一面でおくれた。一九二九年という特別に歴史的だった十二ヵ月のなかば以上を、ソヴェト同盟の外の世界に暮していたということで。──モスクヷへ帰って二三日たつと、伸子は自分のおくれを痛切に感じはじめた。素子は、そういう伸子を注意ぶかく見守っていた。伸子のおくれは、伸子自身でどうなり解決すべき性質のものだということを、無言のうちに示していた。本棚一つのあちら側と伸子のいるこちら側との間に、少くとも1/4半期を意味するでこぼこがある。はっきりと、その差があらわれていること、そこに素子の悪意のない復讐のこころよさがあるようであった。伸子は語学の許すかぎり、新しいソヴェトについての勉強をはじめた。モスクヷのそういう生活に戻って思いかえすと、ロンドンにあった巨大なうちかちがたい貧富の裂けめと、イースト・サイドに溢れて親から子につづいている歴代の惨めさが、ひとしお伸子の心に迫って来る。伸子は、出歩き、よみ、出歩かない日には、ロンドン印象記をかきはじめた。

 ルケアーノフの下宿では、木曜日の夜が伸子たちの入浴日だった。伸子は、きょうこそ風呂の前に、ほこりっぽい仕事を片づけてしまおうと思って、正餐アベードがすむと、素子の本棚の下から、束のままつくねてあった日本からの新聞・雑誌類をひっぱり出した。

 デスクに向っていた素子が、

「そうそう、それをやる前に、ぶこによませるものがあったっけ」

 椅子から動かず、うしろ手で、封のきられている二つの封筒を伸子にわたした。一通は、河野ウメ子からの手紙だった。もう一つの方は、めずらしく浅野蕗子から来ている。蕗子は伸子たちがモスクヷで暮すようになってからたまにエハガキをよこすぐらいで、口数のすくない人らしく筆数も多くなかった。伸子は、何となく二つの手紙を見くらべていて、蕗子の手紙からよみはじめた。

 まじめな字が、蕗子の、ちょいとながしめで伸子を見て笑うときの口元のようなふくらみのある文章で語っていた。お二人がパリから下すったエハガキはうれしく拝見いたしました。あれから、いくたびもおたよりをしようとしながら、つい書けませんでした。私のところでは、思いがけないことがおこったのでした。弟が急に亡くなりました。急に──おわかりになりますでしょうか。伸子さんには分って頂けることと思います。

 伸子さんには分って頂ける──弟が急に死んだ。それは保が急に死んだように死んだと解釈するしかない文面だった。蕗子の弟──どうして自殺したのだろう。伸子さんには分って頂けるという、ふくみの中には、その原因がやっぱり保のように思想的なものだということもほのめかされていると思える。伸子は、喉もとへこぶがあがって来て、声がつまった。

「あなた、蕗子さんに何とか云ってあげた?」

「書きようないじゃないか。二人にあてて来ているのに──ぶこは帰っていないなんて書けるもんか」

「別のことだわ、それとこれと」

 素子は、何とこまかく、伸子への懲罰を用意していたことだろう。伸子は二重におどろきを感じながら蕗子の手紙をよみつづけた。蕗子の弟は洋画の勉強をしていた。姉のひいき目からばかりでなく嘱望されて居りました。彼にも現代の芸術家の苦悩が襲ったのでした。芸術上の理論について。彼は芸術至上主義でいられない自分と、他の理論との間で、墜落いたしました。蕗子は、モスクヷへ送られる手紙は必ず、日本のどこかで、誰かの目を通るであろうことをおもんぱかって、ぼんやり語っている。だが、蕗子の弟が画家として、自分をどこに置くかということを考えつめた結果、いわゆるプロレタリア階級のための美術という理論やその作風に納得できなかったために、むしろ死を選んだということは察しられるのだった。蕗子は、書いている。彼は誠実な青年でした。私は彼にたいしていい姉ではありませんでした。あんまり自分のことにかまけていたことが、今になって悔まれます。蕗子のいまもふっくりしているであろう手をとって伸子は、そうよ、そうなのよ、という気持だった。そうかいているとき震えた蕗子の唇が感じられた。去年レーニングラードで保が死んだしらせをうけとったとき、伸子を幾日も普通のこころもちに立ちかえらせなかったのは、同じ思いで蕗子の手紙にたたえられている、亡くなった弟への限りないいとしさと自責だった。

 歴史はこのようにしてすすめられてゆくのでしょう。そう読んだとき、伸子の視線が涙でぼやけた。四月ごろ、彼の友人であった優秀な人々の間に多くの犠牲を生じました。そのことは弟が芸術家として生きるということについて、一層懐疑的にしたのでした。当時私はうかつでした。それほどの影響だと思いませんでした。──念のために申し添えますが、この点について私と弟との考えは必しも同じではありません。随分考えましたが私が間違っているとは思えません。こういう細かしいことは、いずれまたお目にかかれます折に。私は一所懸命元気であろうとして居ります。彼の良心を思えば、私は最善の生きかたをしずに居られません。

 ──四月と云えば、日本で多数の共産主義者が検挙された四・一六事件のことであった。伸子はパリでちょっと、そのことをきいた。日本の新聞は、事件から七ヵ月も経った十一月二十日すぎに記事解禁になって、伸子は、モスクヷへ帰って来てから、きのう素子の本棚の下から引き出した新聞でよんだ。

 蕗子の弟は、伸子たちがモスクヷへ来てから後、上京して、姉と暮しながら研究所へ通って洋画の勉強をしていた模様だ。蕗子は、伸子を共通な悲しみの先輩として語っている。しかし、蕗子の切なさは、伸子の経験よりも深い独特なものだと考えられた。保は、絶対の真理とか、絶対の善・公平さという存在し得ないものを求めて、敗北した。保は、主観的にはげしく真実を求めながら、現実の生活の中では自分の絶対のとりでに立てこもって歴史の流れに抵抗し、破れたところがある。蕗子の弟である若い画学生の生きかたとその苦悩は、彼女の手紙によれば、保とは全く反対のように思えた。その青年は、プロレタリア芸術の必然を認めた。しかしそこにある理論と芸術作品の実際に納得しきれないものを発見して、その否定面をのりこせない自分を歴史にとって無価値な者として一図に死なしてしまったのだった。

 蕗子の手紙は、計らずも伸子に一つの記憶をよびさました。一九二三年の初夏、進歩的な人道主義作家として知られていた武島裕吉が軽井沢で自殺した事件があった。武島家の所有であった北海道の大農場を農民に解放したりしたその作家が苦しんで、破滅した自身の内と外との複雑な矛盾は、個性的なものでもあったが同時に、そのころの日本を風靡していた社会思想と無産者文学理論の素朴さからのもつれもあった。武島裕吉は、ある婦人との死によって、その錯雑から逃れたのだった。武島裕吉に弟がいくたりかあって、その一人が文学者だった。その文学者である弟を中心として武島裕吉を回想する座談会がもたれた席上、弟である作家が、こんな意味のことを云った。兄貴も、もう一年がんばり通せば、死のうとなんか思わなくなったにちがいないんだ。あの震災を通れば、死のうとなんか思わなくなったにちがいないんだ、と。ある文芸雑誌でその談話を読んだとき、伸子は、いつまでも忘れることの出来ない印象をうけた。弟である作家がそう云ったのは、震災火災であれだけの人死にをみれば、生きていることのよさが身にしみて、自分から命をすてるようなことは考えなかったろうという意味かもしれなかった。この弟である作家は、日常生活もその文学の出発も兄である武島裕吉が西欧のヒューマニズムに立っているのとは対照的で、日本式な花柳放蕩のうちにも仏心の多情を肯定するという人生態度であった。彼は兄の死を敗北として、事件当時から肯定していなかった。震災を通りぬければ死になんぞしないですんだんだ、という言葉を、きわめて異常に利用された天災ののちの空気のなかで、そこに生じたのはただの天災であったように云われるのをきくと、伸子は実に妙な気がした。武島裕吉が死んだ三ヵ月のちにおこった関東地方の大震災では、混乱に乗じて各地に大量の朝鮮人虐殺がおこり、亀戸署では平沢計七のほか九名の労働運動者が官憲によって殺され、しかばねを荒川放水路に遺棄された。アナーキストの首領であった大杉栄・伊藤野枝夫妻と六歳だかの甥宗一の三人が、憲兵隊で甘粕大尉に扼殺やくさつされ、古井戸へ投げこまれたのも、このときだった。震災を機会に政府は永続する残酷な左翼弾圧の方針を確立した。その空気は、左翼について知識も乏しく、何の関係を持たない伸子にさえも、野蛮な権力は、いつ自分の気に入らない者の生命をおびやかすか分らないという危険を感じさせた。弟である作家の言葉は、そういう当時の憤りには無関心に、個人個人の生物的な生の肯定に安住していられるひとのひびきがあった。その人が意識していないところに、日本の多数の人に特有の「なにもいっとき」風の処世態度が感じられた。

 佃と離婚するばかりの頃で、伸子の一日一刻のうちには、生に対して主動的であろうとする欲求がたぎっていた。すべての人が、この弟である作家の人生態度にしたがって、自分としての内面の動機を外界の事情と和解させつつ、そこに臨機のモラルを見出してゆけるなら、生きるということは何と楽だろう。伸子は、もとより自分だって生きる組だ、と思った。けれども、その生きかたは、弟である作家のようにでは、なく。──

 武島裕吉の死に対して、ああ云ったその作家が、蕗子の弟である画学生の死を批評したらば、彼は何というだろう。いまモスクヷの下宿で、伸子は湯加減をみるためにガス湯わかしの匂いがかすかにする浴室へ立って行きながら考え沈むのだった。ふくよかに、おっとりして、赤い小さい唇をしていた蕗子の生のなかにもこうして一つの切実な思いからの死が包括された。伸子が自分の生涯のなかに保の死をうけいれたように。蕗子にとって弟の死は、いつも彼女の前に立つだろう、なぜなら、その青年は自分ののりこせないものから逃避したのではなくて、そこへ身を投げ入れたのであったから。

 石鹸の泡を体じゅうに立てこすりながら伸子は尾を長くひく考えの継続から自由になれなかった。ある立場に自分を据え、その立場によりたっていろいろ議論することに熱中している人たちと、その議論によって考えさせられ、自分をきびしく吟味し、生命の価値さえ自分の責任で決定してゆこうとする正直な、ごまかしのない人々の存在。──伸子は、自分たちは、はたとの関係においてどんな風に生きて来ているかと思ってみずにいられなかった。二人の友人である河野ウメ子は、おそい結婚──どこか偶然めいた不安を感じさせる結婚だが、その結婚をすることに心をきめた、と云ってよこしている。あいてのひとは、哲学者であり、ウメ子の小説をよんで、彼女の文学を成長させてやりたいと云っている人だとのことだった。お二人にお目にかかることもなくなってまる二年ちかくになります。このごろは私も自分ひとりの暮しの中で何となし新しく展開するものをもとめるようになって来て居ります。──

 モスクヷで暮していた日ごろ、それからまたパリへ行って生活していた日々、伸子はウメ子にときどき便りはかいていた。だけれども、ウメ子に会わなくなってもう二年たったという風に互の友情を感じたことがあったろうか。



 十二月の雪がモスクヷに降りはじめた。全市が美しい白と黒の雪景色にかわった。アストージェンカの広場からはじまっている並木道の遠い見とおしの上に、ひとすじの黒いふみつけ道が出来た。

 雪は毎日根気よく降りしきり、人々は惜しげなく雪の白さをよごして活動し、陽気で混雑したモスクヷの冬がはじまった。

 ことしの雪景色は、去年とちがった。モスクヷのあちらこちらの広場に出ていた露店商人が消えたから、雪降りの歩道に物売りが立ち並んでいて、漬水の凍った塩漬け胡瓜きゅうり入りのバケツに雪花が舞いこむ市場風景はなくなった。そのかわり、ことしのモスクヷの雪は、五ヵ年計画を四年で! という赤いプラカートの上に降り、国立銀行ゴスバンクの建物の高い軒にはり出されている「われわれはウ・ナス清掃を行っているチーストカ・イジョット」という機構清掃のプラカートをかすめて降っている。

 ソヴェト全機構にわたって官僚主義の批判は、伸子たちのモスクヷ暮しのはじめから絶えず行われていた。漫画雑誌の「クロコディール」は、いつも官僚主義を諷刺していた。ビュロクラティズムという言葉は、伸子がモスクヷで最も早くおぼえた用語の一つだった。五ヵ年計画の実行が進んで、官僚主義の害悪は、あらゆる職場の大衆からきびしく指摘されるようになった。ボルシェビキがまだ非合法の政党であったころ、検挙されてひそかに同志を売った者、将校だの憲兵、警察関係の非人民的な職業についていた前歴をかくしたり、偽ったりして、現在政権をもっているロシア共産党の内部にもぐりこんでいる者。いかがわしい分子も、ソヴェト生産や官庁の諸機構に官僚主義がはびこっていさえすれば、比較的安全に、温存されることができた。ブハーリンが国際的な指導者の一人であるという盲目的な信頼の多い立場を利用して、自分にゆだねられていたコミンターンの機関を専擅しつづけた。その事実はすべての人の前にばくろされた。彼は反社会主義理論である富農の社会主義化、世界資本主義の再編成された安定論を主張して、迫る第二次大戦の危険──この地球から社会主義を絶滅させようとする企図──への防衛をおくらせようとした。ブハーリンは各国の共産党の中に彼の連絡員をもっていた。アメリカにもドイツにもフランスにも。それらの国では、党の機関を握っているブハーリン派が上から下までの組織の力をつかって、少数の人々によって提起される正当な情勢の判断を、無視し、圧迫し、機関の名によって誹謗しつづけた。

 官僚主義こそ、不潔分子のかくれ場所である。官僚主義は、反革命の最も居心地いい温床である。詩人のマヤコフスキーが、官僚主義排撃をテーマにした戯曲をかいているという記事が新聞に出たりしている。

 伸子は興味をもって「プラウダ」や「コムソモーリスカヤ・プラウダ」の清掃チーストカについての記事をよむのだった。ある経営で清掃を行うときには、それを公告する義務があった。ウ・ナス・チーストカ・イジョット、と。その経営のそとの大衆から、不潔分子についての責任ある投書が許された。そこには様々の重大な発覚があり、また滑稽で素朴なばくろもあった。職場の全員があつまって清掃大会が開かれる。その席上、日ごろ官僚的なことでみんなからきらわれている技師ゴルレコフが、妻があるにもかかわらず、婦人労働者のムーシャを口説いて、はねつけられ、ムーシャの友達のマルーハをくどいて彼女からも、はねつけられた、彼の自己批判を求めた、というような例も報告されていた。そういう記事は、経営の中の労働通信員から送られて来るのだった。

 モスクヷの粉雪の降る空の下に、ウ・ナス・チーストカ・イジョットと白字を浮き立たせている赤いプラカート。それを、無心に見る通行人というものはない。

 国立銀行ゴスバンクの軒にはりめぐらされた鮮やかな清掃公告のプラカートは、やがて協同組合本部の高い蛇腹じゃばらのまわりにもかかげられた。

 ことしのモスクヷの雪景色には例年にない意気ごみがある。伸子は自分の鼓動も、そのテンポにひき入れられるような共感を感じた。ソヴェトは、たしかに一つの偉大な事業のために真剣になっている。──

 そういう雪の日の或る午後のことだった。伸子はアストージェンカの下宿のデスクの前で、これから書かなければならない一通の手紙について思案していた。

 その手紙をかき出すについて、まず伸子は、癇癪かんしゃくをしずめなければならないと考えているところだった。文明社の社長、木下徹は、案外な男だった。素子があのとき駒沢の家の客間で、彼に警告した通りになった。伸子が文明社からうけとれる金額は一万円までの約束であった。その約束は木下との間にかわされていて、伸子はモスクヷへ来てから現在までに半分ばかりつかった。夏の終りに伸子はパリから手紙をかいて、モスクヷへまた一定額の金を送っておいてくれるようにたのんだ。帰ってみると、金は来ていないで、社名での親展書が伸子あてに着いていた。社長の木下が去年の総選挙に失敗して社の経営に大損害を来したから、伸子への送金は中止のやむなきに至った。右の事情何卒なにとぞあしからず御承知下さい。そして、いつも小切手に書かれていた書体で、木下の弟である会計係の署名がされているのだった。

 伸子たちのモスクヷ滞在も、あらまし三年ぐらいと予定されていたことだった。伸子が、帰って来たとき、素子は、大体、ことしいっぱいというところかな、と云った。

 伸子は、ぼんやり云い出されたその帰国の考えに賛成もしず、不賛成もあらわしていないのだったが、木下が、自身で責任を負った金を送れないというときになって、会計係の弟に事務一片の手紙を書かせてすましていることが不愉快だった。体裁やで小心な木下の性格があらわれている。その手紙に添えて、会計から送金明細書が送りつけられているのも、伸子をいやな気持にした。その明細書によると伸子が三千幾円かを借りこしていることになっているのだった。

 伸子はデスクのわきにある一冊の綜合雑誌を手にとった。その頁のあちこちを開きながら、伸子は実際的に考えているのだった。現在、どの位の金があるかわからないが、金が送られなくなったからと云って、モスクヷにいたいだけ居ることを止めようとは思えなかった。ウィーンで買ったあの外套を売ったって──伸子はライラック色の表に、格子の裏をつけたトレンチ・コートを考えた。あの薄色のドレッシーな短靴を売ったって──絹の靴下と靴を売れば、質素な伸子たちのモスクヷ生活の三ヵ月はもてた。そんなことをしなくても、もしかしたら東洋語学校で日本文学の講義ぐらい、できるようになるかもしれない──

 考えながら雑誌をいじっていた伸子は、ふと、そこにのせられている一つの文芸評論に目をひかれた。相川良之介の生涯と文学とにふれて書かれている評論であった。その主題が、伸子の関心をひいた。これまで一度もその名を見たことのない石田重吉というその評論の筆者は、文章のはじめに書いていた。この作家の「透徹した理智の世界」に、私は漠然、繊細な神経と人生に対する冷眼を感じただけであった、と。伸子は、相川良之介について自分が感じたように、いわゆる野暮に感じる人もいたことをおもしろく思った。「私は『余りにも人工的な、文人的な』という漠然とした印象より外のものを多く持っていなかった」ところが「一九二七年度に著しかったこの『文人』の切迫した羽搏きとその結論としての自殺は」この評論の筆者が相川良之介を見るめを変えさせた。石田重吉は、率直な心をあらわして、私はこの時、此の自殺が私を感傷的にしたのではないかと一応考えてみたと書いている。だが、新しく厳粛に相川良之介を見直したとき、そこには相川良之介が、一生脱ぐことの出来なかった重い鎧を力一杯支えながら、不安に閉された必死の闘いを見せているのだった。過渡時代の影を痛々しく語りつつ相川良之介を襲って来る必然的な結論に慟哭どうこくしていることが発見されたとして、石田重吉は、相川良之介の生活と文学とがもっていた矛盾の諸相を追究しているのだった。

 フリーチェの言葉が、今私の前にある、と書いているところや、明瞭に資本主義社会とそのインテリゲンチアの矛盾として相川良之介の悲劇にとりくんでいるところをみれば、この評論の筆者である石田重吉という青年は──伸子は好奇心から、何心なく論文の終りをめくって、そこにのっている、あまりゆたかな生活ではなさそうな、カラーなしの制服姿の筆者の写真を見、私は自分のことについて多くを語りたくない、と結ばれている簡単な東大経済学部在学中という経歴をよんだのだったが──プロレタリア文学運動について無縁だとは思われなかった。けれども、この相川良之介についての評論は、伸子が最近の二三年の間によんだ、どの文芸評論ともちがった趣をたたえていた。若々しい真摯しんしさでひた押しに構成されている推論とともに情感を惜しまず、率直に人生と文学に関する自分の思いの一部をもこめて語っている文章からは、精神の強靱さと、そういう精神のもっているつやも閃き出ている。石田重吉という青年が、評論の強固な論理のおしすすめのうちに自身の若々しさを流露させていることは、伸子に珍しかった。

 伸子は、その評論につりこまれた。文明社へかく手紙のことを暫く忘れた。

「──ぶこ!」

「え?」

「なにしてる」

「──うん」

 素子が、しばらくすると立って来て、伸子のデスクをのぞきこんだ。

「何だ! 手紙、書いてたんじゃないのか。いやにひっそりしているから、蜂谷君へラヴ・レターでも書いてるのかと思った」

 伸子のわきにおきっぱなしていた文明社からの明細書を、素子は手にとって見た。

「木下も、世間が思っているより、土精骨のない男だ。──自分では、よう、ことわりの手紙も書かへんやないか」

 伸子は、それに答えず、わきに立っている素子に仰向いて、ひろげている雑誌の頁を示した。

「あなた、これ、読んだ?」

「──何かあるだろう?」

 素子の心にも止る何かがあったのだ。

「まだ学生だね」

 学生であるにしろ、石田重吉は「大導寺信輔の半生」にふれて、伸子に自分の浅い批評をきまりわるく思わせる分析をしていた。相川良之介の特色であった知識に対する貪欲とも云い得る強烈な欲望、伸子が衒学的だと感じて、常に反撥したその欲望は、日本の中流下層階級に属して、この社会に何の伝統的な生活手段も持っていなかった彼の、個人的特性であるとともに、知識は相川良之介にとって生活上の武器であり、生活手段であり、享楽であったと、評論は語った。そこには、筆者のなみなみならず切実な理解がこめられているようでもあった。

 石田重吉の評論には、モスクヷでそれをよんでいる伸子としてかすかな居心地わるさを感じさせられるところもないではなかった。それは、プロレタリアートは時代の先端を壮烈な情熱をもって進んでいる。という文章につづいて、しかも我々の前には、過渡時代の影がなお巨体を横えている。長い過去を通じて、我々に情緒上の感化を与えて来た「昨日の文学も」というあとにつづく一句だった。「わがコムソモールの机の上には『共産主義のABC』の下にエセーニンの小さい詩の本が横わっている」と云われている暗示ふかい言葉は、ソヴェト同盟においてのことばかりであろうか。「プロレタリアートの戦列に伍して、プロレタリアートの路を歩もうとしているインテリゲンチアの書棚に、党の新聞とともに、相川氏の『侏儒の言葉』が置かれていないと誰が断言し得よう」

 そう書かれている評論のその部分を、伸子はくりかえし自分の感情をさぐりながら読みかえした。エセーニンの詩は、いわゆる母なるロシアの感覚そのものから歌い出されていて、その憂愁とロシアへの愛はイサドラ・ダンカンのような外国の舞踊家までを魅した。「母への手紙」を素子が抑揚うつくしくよめば、伸子の胸にもエセーニンの魂の啜泣すすりなきがつたわった。去年あたりからソヴェトの一部の人々はやかましく、エセーニンへの愛好を批判している。現在ソヴェトの青年がエセーニンの詩に心をひかれるなどということは、時代錯誤であり、反社会主義的だという議論だった。しかし、すべての、「ABCアーズブカ、コンムニズマ」の下にエセーニンがあるときまっていない。伸子のところにアーズブカがある。でも、その下にエセーニンはない。よしんばエセーニンの詩の一巻があるとして、それがABCと同じ比重で感情のうちに対立するということは伸子の実感ではわからなかった。伸子はソヴェト社会そのものの力におされて、いつしか感情統一におかれている自分を自覚しないのだった。

 だが、石田重吉は、ABCアーズブカとエセーニンとの間に自分の存在をおいて語っているのではなかった。「我々は相川氏との間におかれた距離を明かにしなければならない」「いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向ってツルハシを打ちおろさなければならない」「敗北の文学を──そしてその階級的土壌を我々はふみ越えて往かなければならない」一九二九年四月。──これが石田重吉の論文の結語だった。

 伸子は、その評論をよみ終っても、なおじっと考えこんでいた。それから、もう一度、頁をあけて、最後にのっている小さい石田重吉の写真を見た。眉の濃い、肩幅のひろい、スマートと云われることから遠そうな青年だった。私自身については多くを語りたくない──伸子は、思わずほほ笑んだ。もうこんなに、語ってしまっているのに! そして、石田重吉という青年の生年月日にあらためて目がとまったとき、伸子は、心臓の鼓動が一瞬急にはやまって、やがてつまずいてとまるような気がした。自殺した伸子の弟、保と同いどしなのだった、その石田重吉というひとは。──



 きのうの雪の上にけさの雪が降りつもり、また明日の新しい雪がその上に降りつんで、モスクヷの十二月は、厳冬マローズに向ってすすんでいる。

 伸子の毎日にも、あたらしいことが次から次へとおこった。そして、絶え間なく降る雪が、ソコーリスキーの自然林公園のどこかで、やがて雪どけと同時に一番早く花を咲かせる雪のしたの根を埋めて行っているように、雪景色を見晴らすアストージェンカの下宿の室では、伸子の新しい日々の下に石田重吉という一人の青年の名とその青年のかいた文芸評論についての印象がうずめられて行った。

 一月二十一日の「赤い星クラースナヤ・ズヴェズダー」に、スターリンの「階級としての富農クラーク絶滅の政策に関する問題について」という論文が出た。

 モスクヷ全市は真白い砂糖菓子のようになって、厳冬マローズの太陽の下に白樺薪の濃い黒煙をふきあげながら活動している。そのモスクヷが、外国人であり、何の組織に属しているのでもない伸子にさえ、それとわかる衝撃を、この一つの論文からうけた。

 富農クラークがソヴェトの穀物生産計画を擾乱じょうらんしている事実は、おととし、一九二八年の穀物危機とよばれた時期から、誰の目にもはっきりした。この実情が、レーニングラード、モスクヷその他の都市の労働者に、集団農場コルホーズ化へ協力しなければならないという関心をよびさました。翌年の春の種蒔き時をめざして、モスクヷの「デイナモ」工場や「槌と鎌工場」その他からコルホーズを組織するための協力隊がウクライナ地方を主とする各地の農村へ出かけて行った。伸子が肝臓の病気になって入院する前の秋から冬にかけてのことだった。

 工場の仲間におくられて賑やかに都会を出発したコルホーズ協力の労働者たちは、やがてあちこちの農民の間で予期しない経験をするようになった。工場からの労働者たちは、多くの場合その危害からとりのけられたが、コルホーズ指導のために村へ先のりした若い政治部員たちや、村ソヴェトの中でその村の有力富農やぐずついている中農に反対して集団農場化を支持する少数の貧農の青年たちなどが、富農に殺されることが少くなくなった。

「コムソモーリスカヤ・プラウダ」には、そういう事件の内容が、わりあいこまかに報道されていて、なかには伸子の忘れられない、いくつかの物語があった。

 ある村へ、二人の若い集団農場コルホーズ化のための指導員が行った。その辺は富農たちの勢力のつよい地帯で、二人の若者は警戒して行った。ところが実際着いてみると、村ソヴェトでの集会も思ったよりはるかに集団農場コルホーズ化を支持している空気であったし、村の富農は非常に丁寧に二人の若い指導員たちをもてなした。正式の集会のあと、富農の家で村の多勢が集って活溌な討論をつづけ、「二人の客」が疲れて眠りについたのは、もう大分の夜更けだった。ロシアの村でよくもてなされた、というからには、二人の若い指導員たちは、話すことと同量にたっぷり食べ、また、たっぷり飲んだことだったろう。「二人の客」は特別のもてなしの一つとして、柔かくて、いい匂いがして、最も寝心地のよいところとされている乾草小舎に泊められたのだった。

 すると、夜あけ前に、その乾草小屋から火が出た。「村の連中は何しろ、おそくまでうちこんで討論したあげくだから、疲れていた」と、その通信員は村の誰かれの話を引用していた。「主人も、ぐっすり寝こんで、火が乾草小舎をつつんでしまうまで気づかなかった」。やがて火事が発見され、村のスリばんがうちならされた。村人たちが現場へかけ集った。焔はすでに乾草小舎をつつんでいる。勇敢な一人の若者が火をくぐって小屋にかけよったが、錠がかけられていて手の下しようがなかった。「二人の客」は完全な二つの焼死体となって焼跡から発見された。地方の警察につれてゆかれるとき、その主人である富農は、こう呟いて地面へつばをはいた。「ウフッ! 指導員! 乾草小舎でタバコは禁物だってことさえ知りやがらねえ。奴らのもって来るのはいつだって災難きりだ」。しかし、その晩、「二人の客」を乾草小舎へ送りこんだ連中の中の一人の農民は次のことを目撃していた。タバコを吸っていた一人の指導員は、小舎に入る前に戸の手前でタバコをすてて、それをすっかりふみ消した。「二人の客」は酔っているというほどではなかった。どうして、乾草小舎に錠をかけたかという質問に対して、富農は答えた。ヘエ、訊きてえもんだ。お前のところじゃ、乾草どもが、自分で内から小舎の戸じまりでもしているところなのかね。俺は客人に間違ねえように、と願っただけだった。自分でやけ死んで、こんな迷惑がおころうとは思わなかった。──

 この物語や、討議しているうしろの窓から狙撃されて死んだ政治部員の話。橇で林道を来かかった地方ソヴェトの役員の上へ、大木が倒れかかって来てその下につぶされて死んだ話。それらは、みんな伸子に、二十歳を越したばかりだったゴーリキイが、人民主義者ナロードニクのロマーシンといっしょに暮したヴォルガ河の下流にある村での経験を思い出させた。ゴーリキイとロマーシンとはその村で、農民のための雑貨店を開きながら「人間に理性をつぎこむ仕事」を試みたのだった。しかし、二人の外来人に敵意をもつ村の富農のために店に放火され、そのどさくさにまぎれて、包囲されたロマーシンとゴーリキイとは、もうすこしで殺されるところだった。シベリアの流刑地で様々の場合を経験して来ているロマーシンが、ゴーリキイにささやいた。ぴったり背中と背中をくっつけるんだ。このまんまで輪をつっきるんだ。ゴーリキイとロマーシンに好意をもって日ごろ仕事を助けていた貧農のイゾートは、この事件が起る前ヴォルガ河のボートの中で頭をわられて殺された。それは一八〇〇年代終りのことであった。ツァーの時代のことであった。

 一九二八年に、富農がコルホーズ化を進行させまいとしてとった手段は、やっぱりそのころとちがわない兇暴さだった。

「話のわかる指導者」ブハーリンの一派に庇護されて、一九二一年このかたソヴェト社会の間で一つの階級にまで育って来た富農に対して「赤い星クラースナヤ・ズヴェズダー」にのったスターリンの論文は「これまでのように、個々の部隊をしめ出し克服する」のではなくて、「階級としてのクラークを絶滅させる新しい政策へ転換」したことの宣言であった。「階級としてのクラークをしめ出すためには、この階級の反抗を、公然たる戦いにおいて撃破し、彼らの生存と発展の生産上の諸源泉(土地の自由な使用、生産用具、土地の賃貸借、労働雇傭の権利等々)を彼らから剥奪してしまうことが必要である。これが即ち、階級としてのクラークを絶滅する政策への転換である」

 この論文は、新しくつもったばかりの雪の匂いが、きびしい寒気とすがすがしさとで人々の顔をうつ感じだった。伸子が帰ってきたとき、狩人広場アホートヌイ・リャードから消えていたモスクヷの露天商人──闇市の、その根が全国的にひきぬかれようとしている。「生産の諸源泉を彼らから剥奪する」ほかに何と解釈しようもないこの決定的な表現は、それが必ず実現されるものであることを伸子にも告げるのだった。伸子がモスクヷへ来てからの経験では、スターリンの名で何ごとかが発表された場合、それはもう既に実現されてしまったことか、さもなければ、これから必ず実現されるべき何ごとかなのだった。そして、この論文に示されているのは、まさに、一つの画期的な決意であった。ソヴェト社会の確保と建設のために一層はっきりとした方向にそのハンドルがしっかり握られたことを告げる。──

 ロンドンで行われる軍縮会議は、とことんのところではソヴェト同盟の存在をめぐっての軍備拡充のうちあわせのようなものだったから、ソヴェトの人々が自身の社会を護るために、その社会を内部から崩壊させようとしている階級を、とりのける決意をしたことは当然だった。

 雪につつまれた厳冬マローズのモスクヷが新しい雪の匂いよりもっと新鮮できつい雪の匂いをかいだように感じたのは、スターリンの論文がもっている理論の明確さのせいばかりではなかった。論文を支えている階級的な決意の動かしがたさが、その身はもとより富農ではなく、日々モスクヷの工場や経営で働いているすべての人々にまでなまなましく迫って自分を調べなおさずにいられないこころもちにさせた。そのころ、誰かが誰かと会って「読みましたかチターリ?」ときけば、それは「赤い星」の論文のことであった。

 伸子がパリにいた間に、素子はオリガ・ペトローヴァという、語学上の相談あいてになってくれる女友達を見出した。素子は一週に一度、数時間ずつ彼女の部屋で過すのだった。オリガの住んでいるのはモスクヷの町はずれに近いところで、まだ五ヵ年計画の都市計画がそこまではのびて来ない昔風な大きな菩提樹のかげの門の中だった。古びたロシア風の丸木造りで小さい家の下には誰も住んでいず、二階に、三十をいくつか出ている年ごろのオリガが石油コンロ一つ、ブリキのやかん一つという世帯道具で暮していた。食事は、つとめ先の組合食堂ですますのだった。

 素子の勉強がすんだころ、散歩がてらに伸子もそこへ行くことがあった。

 オリガの故郷は、ミンスク附近のどこかの村だった。田舎には母親と弟妹たちがいるらしくて、弟の四つばかりになる息子を、オリガは「私の英雄モイ・ゲロイ」とよんで、可愛がっているのだった。ソヴェトでは、まだ珍しいその甥のスナップ写真が伸子たちに見せられた。

「あなたがたに、ほんとうのロシアの田舎というものを見せてあげたい!」

 長年の勤人生活になれたオリガの丸っこくて事務的な頬と眼の中に、あこがれが浮んだ。

「あなたがたがどんなに夢中になるか。わたしによくわかる!」

 シガレット・ケースをあけてオリガにもすすめながら素子が、「外国人」である自分を自分でからかうように、

「わたしたちだって、いくらかは『ロシアの田舎』を見ていますよ」

と云った。

「すくなくとも、タガンローグの蠅は、ワタシの鼻のあたまを知っている」

 アゾフ海に向って下り坂になっている大通りのはずれに公園をもっているタガンローグの町は、チェホフの生れたところだった。タガンローグの町に唯一のチェホフ博物館があって、そこにはチェホフに直接関係があってもなくても、とにかく町の住人たちにとって見馴れないもの、あるいは日常生活に用のないものは、みんなもって行って並べることにしてあるらしかった。昔、アイヌがイコロとよんで、熊の皮やにしんの大量と交換に日本人からあてがわれていた朱塗蒔絵大椀や貝桶が、日本美術品として陳列されていた。伸子と素子とは、タガンローグの住人にとってめずらしい二人の日本婦人として子供に見物されながら町を歩き、メトロポリタンという堂々とした名前のホテルに一晩泊った。

 田舎の町やホテルの面白さ。──だが、タガンローグの町で、チェホフが一日じゅう蠅をつかまえて暮している退屈な男を主人公にして小説をかいたわけだった。その蠅のひどいこと! 少しおおげさに云えば、伸子と素子とは蠅をかきわけて食堂ストローヴァヤのテーブルにつき、アゾフ海名物の魚スープといっしょに蠅をのみこまないためには、絶えずスプーンを保護して左手を働かせていなければならない程だった。

「タガンローグの五ヵ年計画には、必ずあの蠅退治がはいっているだろうと思いますね」

「わたしたちの村では清潔ですよ」

 オリガが、ほこらしげに、単純な満足で目を輝かした。

「村のぐるりに森があって、森は素晴らしいんです。大抵の家で手入れのいい乳牛をかっていてね──クリームで煮たキノコの味! あなたがたが、あすこを見たら! 彼らは生活しているんです」

 オリガのむき出しな四角い部屋の一方に寝台があり、その反対側の壁によせておかれているテーブルの上に三つのコップが出ている。三人は茶をのみながら話しているのだったが、伸子はオリガの話しかたをきいていて彼女の郷愁と村自慢にしみとおっているモスクヷ生活の独特さを感じた。オリガの善良な灰色の瞳は、森や耕地の景色をそっくりそのまま浮べているような表情だった。いまにも、村の家の暮しの物語があふれて出そうだった。けれどもオリガは決して必要以上に田舎の家族についておしゃべりでなかった。くりかえして、伸子たちがあれを見たら! と村の自然のゆたかさを語りながら、彼女は決して、わたしの田舎へいっしょに行きましょう、とは云わない。そこにモスクヷの節度があった。オリガがまじめな勤め人であり、伸子たちが私的にモスクヷに暮している外国人である以上、その節度は当然であり、いわば、それがソヴェトの秩序でもあるのだった。

「赤い星」の論文について「読みましたかチターリ?」と伸子にきいた最初のひとが、このオリガだった。

「彼は、非常に決定的に書いていると思います」

 伸子は、そう答えた。

「ええ。それは全くね」

「わたしには、読んでわかる範囲にしかわかっていないんだけれども──でも大きな恐慌がおこっていることだけはたしかよ」

恐慌パーニカ?」

 意外そうに、同時に突然何かの心配がおこったような眼でオリガが伸子を見た。

どんなカカーヤ恐慌パーニカ?」

「もちろん、富農のところによ。それは、あきらかでしょう? それから、すべての外国新聞の通信に。──見ていらっしゃい。あのひとたちは『五日週間』についてさえ強制労働が全住民へ拡大したってかいたんです、わたしはパリでそれを読んだわ」

 オリガは非常に考えぶかく、自分のひとことひとことに責任をとっているようにつぶやいた。

「それが彼らの習慣なんです」

「オリガ・ペトローヴァ、わたし、思うとおりを云って、いいでしょうか」

どうぞパジャーリスタ

 パというところで一旦区切って、オリガは力を入れてジャーリスタと云った。

「わたしは、富農を気の毒だと思えないんです、それは、わたしが田舎を知らないからじゃないわ。彼らは、もう十分若い指導員たちを殺したし、牛や豚も殺しました」

 集団農場化が、ソヴェト権力としてあとへひかない方針だとわかると、それをよろこばない村々で、破壊的な家畜殺しがはやった。一匹の牛馬豚などというものは、集団農場化されても自分のところで飼育していていいという規定だった。それを、わずかの鶏まで農場の資産として出さなければならないように宣伝して、農民のやぶれかぶれな気持をそそったのは、程度のちがいこそあれ、二人のお客を「乾草小舎でもてなした」ような者たちの仕業だった。

 自分できり出した話だったのに、オリガは「赤い星」の論文について、特別言葉すくなだった。

「あのひとの田舎のうちって、どういう暮しをしているんだろうな」

 雪の夜道に淋しくアーク燈の光の輪がゆれている。アストージェンカに向って足早に歩いてきながら、素子がひとりごとのように云った。

「あの様子じゃ、貧農じゃないね」

 こんな工合にして、伸子たちにさえ触れて来る深さと鋭さとで「赤い星」の論文はソヴェト全市民の生活感情の隠微な部分へまで浸透して行った。



 クロコディール(わに)の漫画の取材が、かわって来た。官僚主義に対する諷刺や、自分の経営に「清掃チーストカ」がはじまると決定した翌朝から、人が変ったように下のものに対して愛想よく謙遜になる上級勤人。カールした髪をにわかに赤いプラトークで包みあげて、カルタだのコニャックの瓶だのをいそいでとりかたづけているその妻などが、新しい哄笑のテーマとなっているほかに、鰐の頁に、テカテカ光る長靴をはいた富農が登場して来た。集団農場加入資格審査委員会というものが、あらゆる村々で組織されていた。資格審査委員会は、村びとたちの財産調査をして、中農、貧農を集団農場加入の資格者とするのだった。審査委員たちが一軒の富農の内庭へやって来た。日ごろ太っているエルフィーモフが、きょうは一層肥えふとって、息づかいもくるしそうにしている。エルフィーモフのかみさんのユーブカが、きょうはまた何とふくらんでいることだろう。気転のきく頓智ものの審査委員の一人が、頬っぺたを赤くして入って来た連中を睨みつけているおかみさんの手をむりやり執って、踊り出した。両手をつかまえられて元気よく円くふりまわされて逃げるに逃げられないかみさんのユーブカの中から、おかしい落しものがはじまった。都会風に、にせ宝石で飾られた婦人用夜会靴。白い毛皮のついた寝室用スリッパの片方。コーカサス細工の女長靴。エルフィーモフの腹のまわりから十ヤールの羅紗地があらわれた。その上に、彼は金モールつきの宮廷礼服の上着を一着して、ルバーシカのボタンをしめていたのだった。

「農民新聞」や「コムソモーリスカヤ・プラウダ」「モスクヷ夕刊」などに報道される富農の隠匿物資の目録は、伸子に笑止なようなその暗い貪婪が苦しいような心持をおこさせた。それらの品目は、一九一七年から二〇年の飢饉の年に、都会の没落した上流生活者や小市民が、ひとかたまりのパンのためには、銀のサモワールからはじめてどんなにありとあらゆるかさばった品物を、農村へ向って吐き出したかを語っていた。家畜について、富農たちはずっと実際的に狡猾にふるまった。この何年間かいつも一頭の乳牛と二匹の豚しか飼っていなかった「中農」が、実は十頭ちかい牛と馬とをもっていて、それらの家畜はみんなそれぞれ遠くの村々の貧農たちに、わけてかしつけられていたというような事実も調査された。

 審査委員会は、村の情実にしばられないようなしくみで「持たない者」たちの側からの調査であった。おびただしい量の穀物も発見されて行った。

 あらゆる農村に二度めの「十月」が進行していた。モスクヷではモスクヷ地方プロレタリア作家同盟の大会がはじまっていた。未来派の詩人であったマヤコフスキーが、これまで同伴者風な詩人たちの組織としてもっていた「左翼戦線レフ」を発展させて「革命戦線」とし、ロシア・プロレタリア作家同盟に参加した。十七年以来「大胆な表現とほとばしる情熱の輝き」とで支持されて来ているマヤコフスキーは、この冬の演劇シーズンに「風呂」という諷刺劇をメイエルホリド劇場で上演していた。

「風呂」の演出は、いかにもメイエルホリドという才人とマヤコフスキーという才人との考案らしかった。舞台の中央に動かない円形がのこされ、そのまわりにいくつかの小型まわり舞台がつくられていた。小型まわり舞台は、その上にそれぞれの場面をのせてまわりながら、チュダコフという労働者出身の若いソヴェト・エジソンを主人公とする六幕の芝居を運んで行くのだった。小型のまわり舞台は、ある瞬間、急にグルリ、グルリと一廻転二廻転して、群集の心理激動を表現したりした。メイエルホリド劇場専属のよく訓練されている人体力学ビオメカニズムの一団が始終舞台の上に活躍して、主人公である発明家チュダコフとその仲間のすべての動作──大発明であるところの何かの機械──実体は舞台に現れない──の組立て、運搬などを、統一されたリズミカルな体操まがいの身ぶりで表徴した。

 大詰は、社会主義国の首府からチュダコフを迎えの飛行機がやって来る。飛行機は、未来の社会では滑走路を必要としないほど進歩して、高層建築のてっぺんにとまるのだそうだった。舞台の奥の高いところから、銀と赤との飛行服をつけた婦人使節スワボーダ(自由)が迎えに来て、チュダコフ一行は、見物の目には見えない重大な発明品をビオメカニズムの行進で運搬しつつ、一歩一歩と舞台の高みへとのぼってゆく。チュダコフの光栄にあやかって社会主義の社会へ飛ぼうとして、高いやぐらによじのぼりはじめた俗人男女、チュダコフの発明を妨害していた反社会主義の人物は、一つの爆音と煙とで、やぐらから舞台へおっこちてしまう。そして、飛行機は、見物に見えないところからプロペラの響をきかせて、社会主義の社会へとび去ってしまうのだった。

 演劇であるというより「風呂」はメイエルホリド流の「見るものスペクタークル」だった。そして、大詰では、労働者である観衆が、やぐらから舞台の上へふりおとされて来る邪魔者たちととりのこされて、チュダコフそのひとは、煙と爆音のかなた高くに消え去ってしまうというのも、考えようによっては、皮肉だった。立派な外套を着た外国人と見ると、つべこべする国際文化連絡協会ヴオクスの案内人などはマヤコフスキーによって鋭く諷刺された。伸子は、立派な外套を着ていないモスクヷの外国人の一人として、その事実を感じている。でも、そういう鋭さはむしろ小さな部分としての成功だった。

「もしかしたら、マヤコフスキーにもメイエルホリドにも、何となし脚本の空虚さがわかっていて、心配だったのかもしれないわね。だから、せいぜい目先の新しいまわり舞台を工夫したり高い櫓をくみ立てたりしたのかもしれない。──でも、結局、それだけじゃ……」

 例のメイエルホリドのこけおどしにすぎなかった。そして、メイエルホリドのこけおどしは、この場合ソヴェトの演劇の弱さとして現れかかっている。雪の凍っている並木道の間を、素子と橇に合い乗りで帰りながら、伸子はひと晩つまらない芝居を観てすごした不満というにしては、こだわるところのある、いらだたしさのようなものを感じた。

「ここで社会主義があんな象徴主義シンボリズムで扱われるなんて──」

 伸子が腹立たしいような抗議を感じるのは、そこだった。モスクヷの生活に、社会主義は目に見えるものであり、触れ得るものであり、生きている現実であるからこそ、伸子はこんなにモスクヷの沸騰を愛しているのに。この冬が最後のモスクヷ暮しと思えばこそ、こうしてすべってゆく橇のかたいバネを通じて体につたわる並木道の凍った雪のでこぼこさえ、忘れがたく思っているのに。──

「『射撃ヴィストレル』の方が、あれでまだ芝居になっている」

 素子が劇通らしく云った。

 登場人物が善玉・悪玉に固定されているような点に難があったが、ベズィメンスキーのその詩劇は、五ヵ年計画から出現した工場の突撃隊ウダールニキの活動を主題としたものだった。「射撃」を上演しているのもメイエルホリド劇場だった。

「メイエルホリドも目下あれをやって見、これをやってみというところなんだろうな」

 素子がいうとおり「射撃」の方は、全くリアリスティックに演出されているのだった。リアリスティックになったメイエルホリドの舞台は、しかし革命劇場の舞台にくらべて、どれだけの特色があると云えたろう。


 伸子は、あれこれを考えながら、デスクに向って黒表紙の帳面に、ゆうべ観て来た「風呂」のプログラムと切符とを、はりつけていた。パリから帰ってから、伸子は、モスクヷの最後のシーズンに観るすべての芝居の記念を保存しているのだった。

 上演目録の選定のやかましい芸術座は、このシーズンもことさら五ヵ年計画を題材にした脚本を追いまわしていなかった。ドストエフスキイの「伯父の夢」と「オセロ」と「復活」などを上演している。「復活」を芸術座は全くこれまでにない演出でやっていた。カチャーロフが、カチューシャの裁判の場面では舞台の袖に立ち、ネフリュードフの苦悩の場面では、さながらネフリュードフの良心の姿のように、ネフリュードフの背後に迫って、この上なく印象的に小説の中から原文のままを朗読した。短い鉛筆を、右手にもち左手は上衣のポケットにおさめ、黒ずくめのカチャーロフが、舞台の下に立って、錆びのある声で、吹雪の中を去ってゆくネフリュードフを追って遂に失神するカチューシャの歎きを物語ったとき、満場の観客はひき入れられて、カチャーロフと一身一体のようだった。あの充実した見事さ。──だが、モスクヷではどんな芸術家も、破綻のない「完成」にだけおさまってはいられないのだ。「風呂」が失敗であるにしろマヤコフスキーは、自分をひろい地帯へと押しだした……

 考えこんでいた伸子を我にかえらせて誰かがドアをノックした。

「どうぞ」

 デスクに向いたまま伸子は返事した。

「よろしいですか」

 ドアから半身あらわしたのは、伸子たちのいる下宿の主人であるルケアーノフだった。伸子は、ちょっと瞬きした。彼女たちが越して来てから、主人のルケアーノフが自身で室へ訪ねて来たという前例がまだなかった。

「おはいり下さい、どうぞ」

 デスクの前から立って伸子はドアのところへ出て行った。ルケアーノフは、ドアのノッブに片手をかけたまま、

「あなたおひとりですか」

ときいた。

「吉見さんは、正餐アベードに帰って来ます」

 ルケアーノフは、栗色の髪がうす禿になっている顔をすこしかしげ、何か考えたが、

「よろしいです」

 いそいでいるが、待とうと決心した口調で云った。

「では、正餐アベードのあとで──」

「御都合がよかったら、わたしたちが、あなたのところへ行きましょうか」

「わたしが来ます、では、のちほど」

 ドアをしめて去ったルケアーノフの靴音が、食堂につかわれている隣室のむき出しの床の上に暫くきこえて、やがてクワルティーラじゅうがひっそりとした。

 何かがおこっている。──ルケアーノフと伸子たちとにとって、何か愉快でないことが。その予感を疑うことは出来なかったが、伸子には、たしかに愉快でないにちがいないことの内容が、推察されなかった。

 ことしから必要とされるようになった居住証明の書付。それは伸子がモスクヷ・ソヴェトのその係へ行って、つい先日、三ヵ月間の証明をもらって来てある。食糧の配給切符──それはルケアーノフの細君に二人分そっくり渡して伸子たちは賄つきで暮しているのだった。

 素子が帰って来る。その踵を追うようにしてルケアーノフの細君がはいって来た。

「正餐をお出ししていいでしょうか」

「どうぞ」

 伸子は、

「ね」

と、素子を見た。

「何かでしょう?」

 いつも落付いて、皿を運んで来て、ときには、

「いかがです? お気に入りますか」

とテーブルのわきに立っていることもあるルケアーノフの細君は、正直で親切な主婦が、ざっと一年悶着なしに暮して来た下宿人に対して急におこった気まずさをかくしているときのかたくるしさで、振舞っているのだった。

「まあ、いいや。話があるなら聞こうじゃないか」

 正餐がすんでからの十五分を待ちかねていたように、ドアがノックされた。

 ルケアーノフは、食事の片づけられたあとの円テーブルに向って伸子が出しておいた椅子にかけた。椅子のなくなった伸子は、自分のベッドにかけた。

「用事というのは、こういうことなんですが」

 こんど住宅管理法がかわった。従来一つの建物は、そこに住んでいる人たちの間から選出された管理委員会で管理していて、たとえばこのアストージェンカ一番地の住宅は、ルケアーノフ自身も委員の一人である管理委員会が見ていた。新しい管理法では、ライオンの住宅委員会が各町々の住宅を綜合して管理することになった。この建物の管理委員会からライオンの管理委員会への代表が選定された。そして、いままで個人的に部屋がしをしている者は、その室をあけて、各組合の住宅難で困難している人々の間にふりかえることに決定された、というのだった。

「決定された」という言葉が、ルケアーノフと伸子にとってどういう実行力をもつものであるかということはモスクヷに二年いる伸子たちによくわかった。そういう決定があった以上伸子たちはもうルケアーノフの借室人であることは不可能になったのだ。

「事情は、わかりました。けれども、わたしたちは歩道に暮すことは出来ないんでしてね」

 素子が云った。

「少くとも、別のところを見つけるまでは、あなたも待って下さるでしょう」

 当惑した、というより、にっちもさっちも行かなくなった混乱がルケアーノフの、実直な勤め人らしく小心な顔にひろがった。心臓が弱いそうで、タバコをのまない彼は、途方にくれて、くみ合わせた脚の膝小僧をこするようにした。

「期限が十日間しかないんです」

「たった?──わたしたちが区の住宅管理委員会へ行って話してみましょう、そして諒解してもらいましょう、モスクヷで十日間で室を見つけるなんて!」

 うっすり顔をあからめておこり出した素子を、ルケアーノフは恐慌的な灰色の眼で見つめた。そして、出どころのない場所へ追いこまれたように、

「新聞に出ていた布告をよまれませんでしたか」

 それまでだまって話をきいていた伸子をかえりみて訊くようにした。

「どんな布告だったかしら──」

 ああそう云えば。──伸子は思い出した。布告アビヤブレーニエなどという性質のものだとは思わずに読みすぎたのだが、一週間ばかり前「イズヴェスチア」に一つ小さい記事があった。モスクヷ在住の外国人は個人のクワルティーラに住むことは許されなくなる。外国人はホテルに住むことを求められる。そんな意味だった。伸子は、そういう外国人のうちに自分たちが数えられるとは感じなかった。全く、いろんな外国人がモスクヷにいる。──たとえば藤原威夫のような。ああいう人が、立派なクワルティーラにいる。だからそういう処置も当然考えられることだ。そう思って読んだだけだった。

「外国人は一般に個人のクワルティーラではうけいれないことにきめられました」

 ルケアーノフがそう云ったとき、伸子は、自分で予想もしていなかった悲しさにうたれた。深く傷つけられた感じだった。伸子たちは外国人にちがいないけれども、それならば、と、トランクをいくつも橇につんでボリシャーヤ・モスクヷ・ホテルへ納るような、そういう種類の外国人ではなかったし、ソヴェト生活に対して、そういう気分をもって暮してもいないのだった。

 素子も黙った。黙ってタバコの煙をはいている。

 こわい顔をして口をきかなくなってしまった二人の女を見ながら、ルケアーノフは不安にたえないようだった。彼はくりかえして、

「よろしいですか。わたしはあなたがたが事情を完全に了解されることを期待しています」

と云った。

「全然、個人的な理由からではありません──全然……」

「それは十分わかりますよ」

 タバコの赤いパイプを口からとって素子が重々しく答えた。「もし個人的な理由ならば、わたしたちは、一年以上あなたがたに何一つ迷惑をかけなかったということを主張するでしょう。部屋を出てゆかなければならない個人的理由なんか、一つもありはしない!」


 ルケアーノフが去ってから、伸子も素子もややしばらくものを云わなかった。

 やがて素子が、自嘲もふくむいろいろな気持を、ともかくその一点へ集めてあらわすというように、

「なんだ! びくびくして!」

 口のはたに皮肉な笑いをうかべた。

「こっそり儲けて来ているもんだから、今更、おっかなくてたまらなくなったんだろう」

 ルケアーノフについて、何と云ってみたところで、十日後に伸子と素子に住むところがなくなるという事実がどう変化するだろう。

 ぐるりの人々からの民族的な偏見がちっともないために自分たちが外国人であることを忘れたように暮して来た月々について、伸子は思いかえした。「赤い星」にスターリンの富農絶滅の論文が出るすこし前、レーニングラードで大規模の陰謀が発見されていた。ドン・バス炭坑区の生産破壊計画の間にも、外国人は主役を演じた。「外国人」に対するソヴェトの人々の警戒と立腹とには、よその国の人たちが外国人に対してもっている偏見や先入観などとまったくちがう理由があるのだった。ソヴェトの人々の警戒と立腹とは、一人一人の外国人の誰彼についていうより、もっと大きく、ソヴェト社会を毒害しようとする帝国主義一般にむけられている。

 伸子は、ソヴェト社会の根本からのちがいについて感動をもって実感しながら、ストルプツェの国境駅を通過し、パリからモスクヷへ帰って来た。ここの者と自分を感じて伸子は帰って来ているのだった。しかし、外面にあらわれている伸子たちのアストージェンカでの暮しには、心のうちにある善意がどれほど行動されていると云えたろう。伸子の精神のなかに熟しかけていて、ひそかに期待するところのある未来の人生も、それは、素子にさえもうちあけてはいない伸子の心のうちでだけの変化だった。

 いまのモスクヷで、伸子の主観にまで事こまかにたちいっている暇のない人々の必要から生れた処置。──そのことは伸子によくわかる。

 伸子は、悲しさを抑えた眼で素子を見た。

「どうする? パッサージできいてみる?」

「あわてなくったっていいさ」

 強いて椅子の上で体を重くしている声で素子が云った。

「でも、そのときになって、部屋がないと困ることよ」

「あすこは、そんなことないさ」

「どうしてわかる?」

 モスクヷで何か全ソヴェト的な規模で集会がもたれるような時、ホテル・パッサージは、一室に四つの寝台を入れて人々を泊めていることさえあった。

「われわれが、何をしたっていうんだ、ばかばかしい!」

 白眼がつよく光る視線で素子は伸子を見た。

ぶこまで一緒になって、あわてる必要がどこにあるんだ」

 不安が伸子の心を掠めた。素子は、いつものでんで、ルケアーノフに対して居直れば、引越しがのばせるような気でいるのではないだろうか。ソコーリスキーのところで伸子たちが借りたばかりの室を急に居どころを変えた保健人民委員にとられて、ルケアーノフへ来た時の事情と、このさし迫った引越しとでは、全然たちがちがう問題なのだった。

「──ともかく、あしたパッサージへ行ってみるわ」

「そりゃ、御勝手ですがね」


 そりゃ、御勝手ですがね──伸子の防寒靴の下に昼間はゆるみ出した早春のモスクヷの雪がきしみ、素子のその言葉もきしむ。

 ホテル・パッサージの入口のドアの上には、伸子たちがいたころのとおり、紫インクで書いた正餐アベードの献立がはり出されていた。防寒靴ガローシをあずかる階下の玄関番が、はじめて見る若い男にかわっている。伸子は赤や緑で小花模様を出した粗末な絨毯の上を事務所カントーラへのぼって行った。

 事務所カントーラの椅子は、ちっとも変っていなくて「五日週間、間断なき週間」と、壁にはり出されているのは、隣りの中央郵便局の内部と同じだった。葡萄色のルバーシカの上に背広の上衣を着た四十がらみの男が事務机の前にいる。それが、もとからいる人かどうか伸子には思い出せないのだった。

 伸子は、事務机のこちら側に立った。そして、あっさり切り出した。

「こんにちは」

「こんにちは」

「部屋があるでしょうか」

いっぱいですポールノ

 簡単で、実にはっきりした答えだった。伸子は思わず瞬きした。いまは満員かもしれないけれども、絶えずひとの動いているホテルのことだから、一つの室も決して空かないということはあり得なかった。

「わたしたちは、一つ室がほしいんです、七四番のような室でもいいし、七〇番のように小さい室でもいいんです」

 葡萄色のルバーシカの男は、新しい注意でデスクの向う側に立っている伸子を見あげた。伸子が、これまでもこのホテルに泊っていたことのある者だという意味が通じた。

「部屋はいついるんですか」

「早いほど結構です」

 伸子は、事情を説明した。

「とにかく、きょうは満員です。あした来て見て下さい」

「何時ごろ来ましょうか」

「いまごろでいいです」

 伸子は、まっすぐアストージェンカの下宿へ帰って来た。ベルにこたえて入口のドアをあけたのはルケアーノフの細君だった。伸子を見て、ほほえんだ細君のまじめな碧い瞳にかすかな不安がある。伸子たちが果してどこかに部屋を見つけられるだろうか──期限に部屋をあけられるだろうか。モスクヷの住宅難は決して緩和されていないのだった。

 素子も、やっぱり落付けずにいて部屋へ入って来た。伸子を見ると、すぐ、

「どうだった」

ときいた。

「いっぱい!」

「いっぱい?──あすこで、そんなことがあるのかな」

 だまって外套をぬいでいる伸子に、

「まあいいや。どうせ、まだ十日もあるんだから……」

 自分は交渉に出かけず、何か心当てでもありそうにいう素子の楽観を、伸子は背中をかたくしてきいた。伸子は、ホテルでも、自分たちが困っていることをよくはっきり説明した。どうしてもパッサージ以外に室を見つけるあてを持っていないことを説明した。モスクヷの生活では、ホテルと云ってもそれはよその国での個人営業の客商売と同じ性質のものではなかったから、今の場合パッサージが伸子たちに室を与えるかどうかということは、つまりは、伸子たちがソヴェトに滞在している可能性があるかないかという客観的な条件までを間接に反映する事なのだった。きょう満員だったということは、偶然のことだったのか。或いはそうでない性質をふくむ返事だったのか。伸子は、そこがわからないで帰って来ているのだった。

 伸子は、自分のその懸念を素子に話すことが出来なかった。

 翌日、同じ時刻に、伸子はパッサージの事務室に現れた。きょうはきのうより混んでいて、三人の男が事務所のデスクを囲んでいた。三人の誰もが、サインやスタンプの押されている紙きれを出して部屋の交渉をしている。組合の用事で地方よりモスクヷへ派遣されて来る人々のための室だった。

 三人の用がすむのを待って、伸子は事務室の木の長椅子から立って行った。

 事務員は、伸子を見た。そして、だまって頭をふり、目の前に開いてある室割りの大帳簿の上で右の手のひらをひろげて見せた。御覧のとおりという、しぐさであった。満員だというのは、ほんとうに室そのものがいっぱいなのだ。八分どおりまでそのことが明瞭になった。伸子は、むしろ陽気になった。

じゃヌーいいですハラショー。こわがらないで下さい。あした来ましょう」

 伸子は、日課にしてパッサージへ通った。五ヵ年計画は首府であるモスクヷとソヴェト同盟各地方の活動とを一層緊密にした。モスクヷへの用事をもった旅行者が急にふえている。

「これが、わたしたちへの五ヵ年計画だったっていうわけね」

 大国営農場ギガントの広大な美しい写真を眺めたり、富農からの没収品目を新聞でよんで、五ヵ年計画の奮闘に触れているように感じていた自分たち──少くとも自分というものを、伸子は段々自分の責任において批評し、滑稽を感じて笑えるようになって来た。

わたしたちの課題なんだわナーシャ・ザダーチャ

 引越さなければならなくなったことは、外国人一般としてわたしたちの課題だと伸子は考えはじめた。その課題を、自分たちとしてどんな風に解き、どういう答えをそこから引き出すか。伸子が、近づいて来る国境の森の入り口を眺めながら心に抱きしめて感じた思いの、真実の力をためされる機会の一つだと考えるようになった。問題は、素子がおこっていうように、伸子たちが個々の生活でソヴェトに対して害のある何をした、というところにあるのではなかった。帝国主義のやりかたを、ソヴェトの社会はどうみているか、その必然を、伸子たちがどの程度理解するか、そこに、伸子たちの課題のときかたがあるわけであった。素子が感じているように、ソヴェトの役に立つ外国人か、そうでない外国人か、という目安からだけひとが計られるとすれば、モスクヷは遂に卑屈な外国人、ひそかなたくらみをもっているために外見は共産党員になっているかもしれないような積極的な外国人ばかりしかいなくなってしまうだろう。ソヴェトがそれでいいのなら、どうしてベズィメンスキーの「射撃」に対してああいう大衆の批評がおこっただろうか。この芝居の登場人物が、工場のウダールニキの善玉と、五ヵ年計画に反対する悪玉にわけられていて、善意をもっているが中間の立場にいるより多数の労働者に働きかけるモメントを見出していないという点が、きびしい不満をよびおこしているのだった。

 こういう考えにゆきついたとき、伸子は新しいよろこびのある見とおしと確信から思わず椅子を立ち上った。そして三度目に、また満員だとことわられてホテルから帰って来たその日の落胆を忘れた。どんな誇張も卑下もなしに、伸子はありのままの自分をモスクヷに止ってよい者として確認することができた。なぜなら、伸子は社会主義に向って変りつつあるのだから。ほかならぬソヴェトの社会が、より高い社会主義にすすみつつあるその日々の生活の中で伸子もそのなかみとして。──

 オリガ・ペトローヴァのところで、素子と三人の間に部屋の話が出たとき、伸子は、おぼつかない言葉ながら熱心に云った。

「わたしたちは住むところを見出す権利があると信じているんです。わたしたちにはえらい人からの『書きつけ』はないけれど、わたしたちがソヴェトに対してもっている支持と、それによってわたしたちが話したこと、書いたものを持っているんですもの。そしてね、オリガ・ペトローヴァ、一般に、もし『書きつけ』がそれほど絶対の価値をもっているなら、モスクヷはこんなに到るところで清掃チーストカをやる必要はなかったでしょう」

 そういう点から考えると、伸子たちの今までいるアストージェンカの組合住宅の内容というものも、問題があるのだろうと思える。鉄道関係の従業員組合の住宅建設委員会が建てたその建物の中には、一番はじめに伸子たちが部屋がりしたルイバコフのように、いつも緑色の技師帽をかぶって出勤する者も住んでいたが、何か政治的な理由で保健人民委員をかくまって伸子たちを追い出したソコーリスキーが、鉄道のどんな従業員だったろう。それから、カール・ラデック。ラデックはポーランド革命をあやまって指導した政治家であり、「プラウダ」の論説員の一人であった。最近の数年間はトロツキストとの連関で問題になっている人物だった。門番の肥った男にたのんで素子がルケアーノフのクワルティーラへ本をつめた木箱を運びあげて貰っていたとき、もう一つ上の階から、タタタタというはやさで瘠せぎすの、鞣外套の男が降りて来た。その男は、

「重そうだね」

と門番に声をかけてゆっくりわきをすりぬけ、また同じような早さにかえって建物の出入口へ下りて行った。伸子が一目みたその顔の特徴から、それと思われた人の名を頭に浮べたのと素子が、

「ラデックだろう」

と云ったのと同時だった。その後、どうしてだか、素子はラデックの細君はすらりとして美しい、ごく内気そうな婦人だと云ったことがあった。ラデックの最初の妻は、ラリサ・レイスネルだった。レイスネル博士の娘であったラリサは、一九一七年から二一年ごろまで、国内戦の前線で政治指導員として働いた。決して、疲れたと云ったことのないラリサとして人々に記憶された。そのころ彼女が書いた興味ふかい報告、感想集があって、素子は、いつかそれを訳そうとしていた。レイスネルは、ジョン・リードを殺したチブスの年、同じ病で死んだのだった。そういう興味もあって素子は、たまに見かけるラデックやその現在の妻であると思われる婦人に目がとまるのだった。

「ラデックって男は、器量ごのみだね。写真でみるとレイスネルも美しかったが、いまのひとだってモスクヷでは珍しいぐらいきれいだ。ちっとも政治的なところのないひとだけれど」

 伸子は、どうしてだか、その美しい人というのに出会ったことがなかった。けれども、素子から噂をきき、ラデックの政治的な立場を思いあわせると、同じくらい美しいにしても、いまの細君がレイスネルとは全くちがった性格の婦人であるだろうということは推察がつくのだった。

 そのようにして、その内部ではさまざまな種類の生活が営まれているアストージェンカ一番地の建物から伸子たちの荷物が運び出されたのは、十日という期限、ぎりぎりの前日だった。その日伸子は午前に一度、午後早くに一度とパッサージへ出かけた。二度目に行ったとき、伸子は三時間事務所の壁ぎわの長椅子で室のわりあてられるのを待った。



 毎晩十二時に、クレムリンの時計台からインターナショナルの一節がうち出される。その響きがまた夜空を流れて伸子たちの室の窓辺にきこえるようになった。

 パッサージに住めた伸子の安心は、思いがけない楽しさでゆたかにされた。偶然、もと住んでいた七四番の、ひろい部屋がとれたのだったが、一九二八年の冬から春にかけてそこに暮したとき、伸子が最初のモスクヷの冬景色としてみていたのは、荒涼とした廃墟の鉄骨とそこに降る雪の眺めだった。

 パッサージ・ホテルという名の由来は、このホテルをこめてトゥウェルスカヤ通りの角に大きく建っている建物の下に、物産陳列をした勧工場パッサージがあったかららしかった。おそらくそこへの取引に出て来た各地方の商人たちが定宿としていたのがいまのホテル・パッサージであるのだろう。

 陳列場パッサージの裏側を見おろす位置にある伸子たちの室の窓の下に、ガラス張りだったパッサージの屋根が破壊されたままで鉄骨をむき出していた。モスクヷの雪は、きのうもきょうも絶え間なく降って、降る雪は、廃墟の鉄骨の上につもり、更にその間の黒い底知れない穴へ消えてゆく。窓に佇んで降っては消え、降っては消える雪片を眺めていると、伸子は軽いめまいを感じた。狭い往来をへだてた場所では大規模な中央郵便局の建築工事が進行中だった。夜中もプロジェクトールの強い光が雪の吹きだまりのある足場を照し出している。その対照は、いかにも強烈に、きのうときょうのモスクヷを語っているようだった。

 こんど七四番の室のドアをあけた刹那、伸子は、そこがまるで別なところになったような感じがした。キラキラした明るさが、うす青い壁にかこまれた室じゅうに反射している。パッサージの屋根に、いつかすっかりガラスがはいっているのだった。トゥウェルスカヤ通りからみると「モスクヷ夕刊」と重々しく派手な電気看板がついた、そこの屋根にあたるのだった。

 夜になると、伸子はわが目とわが耳とをうたがった。ガラス屋根は、内部にともされるどっさりの燈火をうつして柔かくガラスのランターンのように輝きはじめた。柔かな明るさの奥から、音楽がきこえた。伸子たちの室の窓は、パッサージの屋根より高いところにあったから、そのガラス屋根の輝きやそこから微かに湧いてきこえる音楽は、ホテルの夜の単調さをやわらげる役にこそ立て、伸子たちの生活の邪魔にはならないのだった。

 並木道ブリヷールにつづいたアストージェンカの、しんとした夜々が、モスクヷの活気にみちた夜にかわった。

 そして、或る日の午後、伸子はふと窓の下のガラス屋根に何かを認め、そっとデスクの前を立って窓へよって行った。

 もう日蔭にしか雪ののこっていない早春の、乾いたガラス屋根のところに、三人の青年と二人の娘が出て来ている。二人の娘は並んで前列に、二人の青年は、そのうしろに、几帳面に並んでポーズしている。こっちに──伸子の見おろしている窓の側に横顔を見せて、金髪の若ものが、写真機を両手の間にもって、一心にファインダーをのぞいているところだった。

 去年まで、写真機をもっているモスクヷの若ものたちを見かけるというようなことはなかった。春から夏の間、並木道ブリヷールの散歩道で菩提樹のかげに写真屋が出て、繁昌していた。伸子は、心から、まあ! と思った。この人たちが写真機をもつようになった!

 若者たちの様子には、何とも云えない新鮮さがあった。ファインダーをのぞいている金髪の青年が、何か云って、右手で合図した。うしろに立っている二人の青年が、一歩ずつよりあって互の距離をちぢめ、その工合を互にたしかめあった上で、また正面をむいて、ポーズしなおした。ファインダーをのぞきこんでいた青年は、しきりに苦心中らしかったが、遂に彼がその顔をあげて何かいうと、娘たちは、ひどく笑い出した。声はきこえないけれども、その嬉々としている様子は手にとるように見えて、こちらの窓の中から見ている伸子に笑いが感染した。それほど彼女たちは愉快に笑うのだった。写真は、まだとるところまでこぎつかない。

 タバコを一服すると、金髪の青年は、こんどこそシャッターをきる決心らしく、上衣をぬいで、伸子がおどろいたことには、まだ雪がのこっている気候だというのに夏の紺と白との荒い横縞のスポーツ・シャツ一枚になった。四人はまた前のとおりの型で、自分たちをこりかたまらした。そして、こっちで見ている伸子の体までこわばって来るような数秒の緊張ののち、シャッターがきられた。

 よほどフィルムが大切にちがいなかった。スナップのためにはたった一度シャッターがきられたきりだった。なおしばらく若者たちは、ガラス屋根の上にのっていることを楽しんで、やがて降りて行った。

 それらは、ほんの些細な光景にちがいないのだ。が、伸子の心に、いちいち触れた。触れて何かの響きを感じさせた。

 伸子の目の下にふとあらわれるこんな光景と、素子が銀製のスプーンを買ったりすることとの間に、伸子は、体が何かにはさまれているような矛盾を感じるのだった。

 パッサージへ引越して来ると間もない日、素子は正餐まえの散歩に伸子を誘い出した。

「めずらしいのね、どこへ行くの?」

「行って見りゃ、わかるよ」

 素子は芸術座の前の通りを真直に行って、商業地区の方へ歩いた。伸子は、国立交換所へ行こうとしているのかと思った。文明社が、もう金を送ってよこさないことはたしかになった。いま国立銀行にあずけてある金がきれれば伸子はウィーンで買った外套や靴を売ることにきめていた。去年まで着た黒い外套とその裏についている猿の毛皮も売っていいと考えていた。そういう物品を正直な市価で交換するために、モスクヷの人々は国立交換所を利用しているのだった。

 ところが、素子が開けてはいった立派なドアは、国立貴金属販売店だった。案外の思いで、のろのろとついてはいった伸子にかまわず、素子は陳列台の前にかけて、銀製のスープ用大型スプーン、中型スプーン、コーヒー用小型スプーンを店員に出させた。外交団関係の婦人だと思ったのだろう。店員は、丁寧なものごしで、素子の選び出した簡素なデザインのスプーンを三とおり、半ダースずつ、わきへとりのけた。そこまできまってから、素子は伸子に、

「やっぱりイニシァルをつけといた方がいいだろう、ね、ぶこちゃん」

と云った。伸子は、全体としてそんな買物の意味がのみこめなかった。素子の横に腰かけたまま沈んだ眼色で、美しく光っている大小の銀の匙を見つめた。はきはき返事をしない伸子をゆすぶるように、

「ね、ぶこはどう思う? きいているんだよ」

「さあ、つかい道によるんじゃない?」

「いずれわれわれが使うのさ」

 銀のスプーンを? その生活は、どこで、どんな生活だというのだろう……伸子にとってあんまり現実ばなれした感じだった。伸子は、

「あなたのをつけたら」

と云った。

「そんな気のない顔をしなくたっていいじゃないか。どうせ自分だってつかうときがあるのに──どっちにも通用するのを見つけなくちゃ」

 吉見素子・佐々伸子。ローマ字綴りで二つの名を書いたとき共通なのはまずエスの字だった。それはロシア文字ではСだから、それ一つを飾り文字としては淋しすぎるのだった。店員と素子とは、飾文字の様式を集めたカタログをひろげて見ている。銀のスプーンそのものに興味をもてずにいた伸子の気持が、飾文字のデザインにひかれた。鉛筆をとっていろいろ書いてみているうちに、二つのСが、一つは大きく、もう一つは小さく、大きいСにひっかかって鎖の破片のように組合わされている形を見つけ出した。

「ふーん、これは、愛嬌があっておもしろいや」

 頭文字にはそれを彫りつけることにきまった。一週間たってまた来ることにして伸子たちは店を出た。

「──えらく良心的なんだな」

 ぎこちなく並んで歩いている伸子を素子が眼のよこから見ながら、からかった。

「きみだって、プラーグじゃ、ボヘミヤン・グラスは美しいって灰皿だのリキュールのセットを買ったんだよ」

 いま、モスクヷで自分がスプーンを買うのはそれと同じことだと素子はいうつもりなのだった。外国ではそういう買ものもした伸子が、モスクヷだと何かに気をかねている、素子はそこを辛辣に指摘したいらしかった。しかしプラーグで買った僅の品は、伸子のスーツ・ケースには入っていない。素子がしまって、もっている。それについていうよりも、ともかく伸子にとっては、周囲に動いているモスクヷの生活と銀のスプーンを買いこむということ。何かわからないけれども絶えずぼんやりした予感のそよぎのうちにある不確定な自分の未来と銀のスプーン。その連関に、何かつよく錯誤しているものが感じられて、気分がおかしいのだった。


 マヤコフスキーが、ピストルで自殺した。そのニュースが人々をおどろかしたのは、伸子と素子とが銀のスプーンのことから気分をこじらせて、口をきかないで床についたあくる朝のことである。



 ──わたしの愛の小舟は難破した──

 マヤコフスキーが死ぬときに書きのこした詩のなかに云われている、その、愛の小舟というのは、何の愛の、小舟だったのだろう。

 マヤコフスキーは大きい誤りをおかした。しかし彼が、彼の最後の日まで革命とプロレタリアの詩人としてつくした功績は、そのために消されることはない。──プラウダにそういう言葉がかかれていた。そして、その夜伸子と素子がさっきまで──十一時ごろまでいた工芸博物館の大講堂では、うしろの高い席までびっしりつまって明るい演壇に注目している聴衆に向って、「レーニングラード作家の文学の夕べ」の司会者はおなじ言葉をのべ、詩人への哀悼のために一同の起立をもとめた。くまなく照明されている演壇のうしろの高いところにレーニンの胸像とСССРの赤い旗が飾られている。その下に故人となったマヤコフスキーの大きい写真が数百人の視線をうけている。特別に大きい額、特別に大きい目玉をもったマヤコフスキーの写真の下にグランド・ピアノがあった。その黒いふたの上に、赤い切り紙でつくられているВ・В・マヤコフスキーという詩人の名の、二つの頭字が、はっきりさかさに映っていた。無言でさかさに映っている赤い二つのВの頭字を見まもりながら、伸子は聴衆の一人として、マヤコフスキーは大きい誤りをおかしたと云われる言葉をきいたのだった。マヤコフスキーの誤りとして云われているのは、彼が自殺という方法で、突然彼の人生をしめくくってしまったことに対する社会主義の社会としての批判だった。

 だけれども、批判は批判として、会場の雰囲気を支配しているのは、マヤコフスキーへの親愛の感情であり、彼の死に対してぼんやり人々の胸の底にわき出ている惻隠そくいんの情だった。

 伸子と素子とが、工芸博物館の前から19の電車にのって来て、クードリンスカヤの街角までつづいている告別式の列の最後のしっぽについたのは、かれこれ十二時ちかかった。マヤコフスキーの告別式は、その夜、午後九時から午前一時まで作家クラブで行われるはずだった。間遠な街燈の光をうけて沈黙がちの黒い列がそろそろ動いている歩道の外側に、モスクヷの四月の、よごれた雪のかたまりがあった。車道のところを、数丁さきの作家クラブの正門まで、列にそって三騎の騎馬巡査が、しずかに行ったり来たりしている。列は、一歩ずつ動いていて、昔ソログーヴの邸宅であった作家クラブの建物をとりかこむ低い塀のそとまで来たとき、一番びりだった伸子たちのうしろに新しい列がつづいて、クードリンスカヤの角までのびていた。

 段々列は動いて、作家クラブの正面に入りかかったとき、伸子たちの前にたった一人で来ている若い娘が、迫って来る感動をおさえかねたようにため息をついた。そして伸子たちをふりかえり、哀傷と追慕で柔かく沈んだ声音で、

「あなたマヤコフスキーの詩をよんだでしょう?」

ときいた。

「ええ」

「彼はすばらしい詩人でした」

 そう云って、鈍い色のプラトークで頭をつつんでいる若い娘は胸のいっぱいになった眼を門内の光景にひきつけられた。

 作家クラブの建物の正面真白な大玄関の柱列には、十数流の黒と赤との長旗が飾られている。今夜の告別式のために二ヵ所にとりつけられた照明燈の強い光が、黒い列のうねっている冬枯れの内庭をてらし出した。列が内庭にはいると、むこうの建物の広間に燈火がきらめいているのが見え、ガラス越しに、明るい燈の下を粛然と動いている列までが見える。

 伸子は、うすら寒い早春の夜のなかで息のしにくい気持になって来た。伸子は顔をあげて空を見た。星の多い晩だった。夜のふけた星空のところどころに、春の白い雲がある。

 列は、正面入口の長旗に飾られた柱列の間を通って、ひとところ開かれている大扉から建物の内部にはいった。扉の左右に赤軍の兵士が守護している。

 列は、伸子と素子とをそのなかにつれて大階段をのぼり、まだ防寒靴をはいている人々の、遠慮がちではあるが重い跫音をつたえて広い廊下を徐々にすすんだ。廊下には紫陽花あじさいだの、大輪の菊の花だの、モスクヷでは貴重な花の鉢が飾られている。高い窓と窓との間の壁にプラカートがはられていた。──自分のすべての詩をお前に、たたかう階級に与える──マヤコフスキーの詩からの言葉だった。

 作家クラブの建物の、この大廊下の部分は伸子にとってはじめてだった。一九二七年の十二月にここで「日本文学の夕べ」がもたれたとき、伸子と素子とが案内された入口は、正面の横についている小門からつづいた石じき道の奥の出入口だった。そこからは「夕べ」のもたれた小講堂ばかりでなく、作家組合の事務所へも通じていて、だんだんモスクヷをひとり歩きするようになった伸子は、一度ならずその入口から組合事務室へ行った。そこで、作家の扶助金庫の組織とその活動についてきき、ノヴィコフ・プリヴォーイが「日本海海戦」を仕上げた「創作の家」のことについてきき、そこの狭い廊下の掲示板に、作家組合で共同購入する石炭についての告知をよんだのだった。作家組合には、ロシア・プロレタリア作家同盟(ラップ)ばかりでなく、マヤコフスキーが死ぬ二ヵ月ほど前まで属していた左翼戦線レフのグループも全露農民作家団体も、構成派の鍛冶クーズニッツァも参加していた。裏口からのぼって行ったところの狭い廊下に向って、それらの文学団体が、めいめいのドアの上に名札を出してつまっていた。

 マヤコフスキーの遺骸は、日ごろ彼の足がふみなれ、その声を響かしていたこの作家クラブに運びこまれて、左の翼にある広間の一つに安置されているらしかった。

 大廊下をつきあたり近くまで進んだとき、列は左へ曲った。そこが、遺骸の安置されている広間だった。列からは、広間の左手の壁に沿って並べられている空の椅子と、それに対する右側の黒い幕を頭にして、赤旗と花とに飾られた棺に横わっているマヤコフスキーの背広服の姿が見えた。棺の頭の左右に、赤軍の兵士が一人ずつ儀仗の姿勢で侍立している。若い詩人らしい人が三人ばかりいる。マヤコフスキー夫人かと思われる黒衣の婦人は、棺からはなれて椅子の並べられている側の壁の前に立っていた。告別の列は、そこで一層重い流れとなり、静粛に、きわめてゆるやかなすり足で棺の足もとを通過しつつ、遺骸に注目し、哀悼の表情のまま、やがて広間のむこうの出口から順々に退出するのだった。

 広間の、そのような光景が目にはいった丁度そのとき、伸子のところで、二人ずつ並んで進んでいる告別者の列が、一区切りされた。

 伸子は思いもかけない場所──広間の敷居を越した、棺の足もとで、停止した。停止した伸子の目のさきに、棺からぬっとはみ出すように突立っているマヤコフスキーの大きな靴の裏があった。生きていないひとのはいている靴の底をまともに見ているというのは異様な感じだった。大きな靴の底は、その不動の位置でひとしお大きく目にうつるのだった。伸子が思わず一旦そらすようにした視線をふたたび、大きな靴の裏にもどしたとき、伸子の瞳に、かすかな衝撃の色と、何かをいそいで理解しようとする表情が浮んだ。大きい大きいマヤコフスキーの黒い靴の底に、二つのへりどめ金がうちつけられて光っているのだった。日本でも、学生だの実直な通勤者たちが、靴の底のへるのを防ぐために打たせる三角形の鋲。まぎれもないその鋲が、マヤコフスキーの靴の裏にうたれている。鋲は、いつもそのひとの歩きぐせで、ほかよりも早くへらされる踵のはじとか、踏みつける平ったい部分の右側とか左側に打たれるものだ。マヤコフスキーの靴裏で鋲のうたれているところは、踵でもなければ、拇指の力がはいる個所でもなかった。へりどめの鋲は、マヤコフスキーの大きな靴の爪先きりきりのところにうたれているのだった。

 爪先にうちつけられている実用一点ばりのへりどめの金は、うちつけられてからいくらか日数がたっていると見えてもうへりはじめ、まるでついさっきまで働いていたようによく光っている。

 広間じゅうは、数々の光によっておごそかに照されて居り、告別の人々の注意は、すべて型どおり遺骸の顔へと向けられている。偶然、自分のところで列が区切られてとまっているばかりに、っとマヤコフスキーの靴の裏を見た伸子は、マヤコフスキーという詩人の生と死との物語を、じかに、その大きな靴の爪先に光っている小さいへりどめ金からききとるように感じた。マヤコフスキーは、特別大きい額と特別大きい燃えるような眼をもって、こんなにいつも先をいそいで歩いていたのだ。爪先がへって、鋲をうちつけなければならないほど。──

 一九一七年から十年の間、マヤコフスキーはおそらく一刻もおくれまいといそいで歩みつづけたのだった。革命の速度におくれまいとし、社会主義の建設におくれまいとして。マヤコフスキーは、おくれないばかりか、常に歴史の先頭に立つことを自分にもとめて来たのにちがいなかった。自分のすべての詩が、たたかう階級の詩であるという確証をもって生きようと欲していたのだったろう。

 だけれども──伸子は、メイエルホリド劇場で観た彼の諷刺劇「風呂」の空虚さを想いおこした。モスクヷには、幾足もの靴をもっている人というのはない。おそらくマヤコフスキーのこの靴が、爪先にうたれている鋲の音をかすかにカタカタさせながらメイエルホリドの舞台の上を、精力的に歩きまわったことだろう。「左翼戦線レーヴィフロント」を「革命戦線レヴォルチョンヌイ・フロント」とし、ロシア・プロレタリア作家同盟に参加するために、この靴はどんなにいそいでモスクヷの冬から春への鋪道を歩いたことだろう。──

 ──わたしの愛の小舟は難破した──

 そのすべての意味が、伸子の心を貫いて閃くようにのみこめた。マヤコフスキーが、こんなにいつもいそぎつづけて、はげしく進むソヴェトの事業の第一列よりも猶先へ立とうと力をつくして生きたにもかかわらず──いいえ、そうではない、彼が詩人らしい正直さと情熱で自分により高い任務をさずければさずけるほど、彼の革命的抒情詩の骨格であるシムボリズムとロマンティシズムが、重荷になって──いそいでもいそいでも、あるいは、いそげばいそぐほど自分から抜け出ること、自分を追いぬくことのまどろっこしさに辛抱しきれず、マヤコフスキーは、革命への愛、民衆の建設への愛の小舟を難破させてしまった。

 マヤコフスキーは、大きい誤りをおかしたと公的に云われていて、しかも伸子はその言葉に冷酷な非難を感じなかった。今夜工芸博物館にレーニングラードから来た作家たちの「文学の夕べ」が開かれ、会場ではフェーディンが心をこめてマヤコフスキーの詩を朗読した。その詩は、エセーニンが自殺したとき、マヤコフスキーが書いた作品だった。詩は、なまなましい傷心と生の確信とが不思議な激情となってまじりあっているようだった。時代が詩人にとって苦しいものであることをマヤコフスキーはその詩の中で大胆率直に承認していた。しかし、たゆみない社会主義の前進とともにある生の力によって、何とかなってゆくものだ、とおおまかに、抽象的に──彼のすべての革命と社会主義とが華々しい火花であるにかかわらず、いつもシムボリックであったとおり──生活と詩人の任務を肯定しているのだった。フェーディンは、マヤコフスキーの告別の今夜、特にその詩を読んだ。同じ時刻に、場所をへだてて行われている作家クラブの告別式に、これらの作家や詩人たちが列席していないという事実も、伸子を考えさせた。リベディンスキーは、こっちへ来ないで、「文学の夕べ」の会場で、彼の近作であって、自然主義と心理主義がこねまわされている点からさまざまの議論をまきおこしている「英雄の誕生」について大衆質問に答えていた。

 アレクセイ・トルストイが執筆中である「ピョートル大帝」の一節を朗読しているとき、伸子と素子とはそっと席をぬけて、告別式へ来たのだった。伸子たちばかりでなく、その夜の「文学の夕べ」の会場は、いつものとおり超満員であったけれどもいつものような落つきがなく、大講堂の側面のドアは絶えずそっと開いたりしまったりして、人々を出入りさせていた。おおかたの人々は、同じ時刻の九時からはじまった「文学の夕べ」とマヤコフスキーの告別式と、二つの場所の間で、その夜をくらしたのだった。告別式へ来て、伸子は列の中にやっぱり19の電車で来た若い男女の顔を見わけた。

 棺の左側に高く一台の照明燈が据えられていて、そこからふりそそぐ強い光線に掠められ、伸子の目の前にあるマヤコフスキーの大きな靴底の鋲は鋭く光りつづけている。最後の最後まで、モスクヷの鋪道で磨りへらされ、みがかれていたことを語る光りかたで──。

 その光るものを見つめている伸子は、眼玉がこわばって瞬きしにくいような切ない心持になって行った。ヴェルダンのドゥモン要塞で、霜枯れた叢の中に落ちている一つの金の輪──嬰児の円くした唇のように西日をうけて光っていた小さな銃口。限りなく寂しい訴えをもっているその円い小さい金の輪は、伸子の瞳のまわりに、はまりこんで、もう伸子は、戦争という文字を、その金の輪をとおしてでなければ読むことができない者となった。自分では生きることをやめてしまったマヤコフスキー。しかしソヴェトの社会とその人々の生きることをひとしおつよく肯定したマヤコフスキーの硬直した靴の裏に、なお生あるように光っている小さい鉄の三角鋲は、伸子の柔かい胸の肌に、痛みをもって、赤紫のあざになってうちこまれたようだった。伸子は目の中に涙をうかべながら、再びそろそろ動きはじめた列について棺の裾を通過し、いかめしいマヤコフスキーの顎と額とを瞥見した。列に運ばれて広間の裏廊下から、階段を下りて白い雲のある星空の下に凍っている内庭へ出た。暗い内庭のなかほどに佇んで、出て来た建物をふりかえり、明るい大窓の中をまだ黒く動いている列の影を見たとき、伸子は深い顫慄せんりつにおそわれた。伸子は生きているうちは会ったこともないマヤコフスキーの靴の裏から今夜秘密な小さい貴重なおくりものを手のひらのなかにもらって自分はそれをにぎりしめたことを感じるのであった。



 マヤコフスキーの告別式があってから一週間ばかりのちに、メイエルホリド劇場で、故人の「南京虫」の初演があった。

 五〇年後の社会主義の社会では、現在のソヴェト生活の日常につきもののようなわずらわしい南京虫、すなわち官僚主義だの、小市民根性だの、陰謀、利己心だのというあらゆる「害虫」は絶滅されて、わずか一匹の「南京虫」が過去の時代の記念物として、社会主義動物園に飼育されている。段々教室に腰かけた五〇年後の社会主義的青年男女学生は、合唱風におどろいたり、ふき出したり、罵ったりしながら、珍奇で醜悪な過去の棲息物を観察するという舞台だった。

「南京虫」の第四場までは一九二九年現在の反社会主義への諷刺的な場面であり、第五場からが五〇年後の社会主義社会での場面ということになっている。

 舞台へ、巨大なつくりものの「南京虫」が大警戒のもとに運搬されて来る。

「南京虫」は大衆の現実のなかで珍しい棲息物であるどころか、云ってみれば、しらみと同じ日常の虫だから、スターリングラードのホテルの寝台で伸子をおちおち眠らさなかったぐらいのものだから、五〇年後の社会ではその虫が、たった一匹保存標本として存在しているというような仮定そのものが、観客を笑わせずにおかないのだった。南京虫をきわめて有害なものとして、警戒するおかしみ。その虫のいかがわしい習性についてことこまかに説明する博物教師の科白せりふの諷刺的なおもしろさ。

 メイエルホリドの機智とマヤコフスキーの言葉の魔術は、この舞台にもおしみなく発揮された。そして「南京虫」の一場一場は、機械的にわりきられた明快さと、観客の哄笑のうちにすすんでゆくのだった。

 伸子と素子とは、ときどき大波のように場内をゆすぶる笑声の中に漂いながら、或いは笑いの波をかいくぐりながら、奇妙なものうさを制しきれなかった。観客の笑いそのものが、伸子に苦しかった。その晩、メイエルホリドの観客席は、まるで笑いのためにそこに来ていて、爆笑を準備しているようだった。ある諷刺的な科白や場面へ来ると、待ちかねていたように、どっと笑った。しかしその数百の笑いは、笑いどよめくという風なたちの笑いかたではなくてどっと笑ってしまうと、それっきりぷつんと笑いの尾はきれてしまう、余韻のない笑いかただった。人生のユーモアがあって、思わず笑う心の笑いではなくて、伸子が感じるままに云えば、それは五ヵ年計画というものによって示される神経反射の一つのようだった。

 芝居ずきの素子は、腹立たしそうに、残念そうにつぶやいた。

「こんなに見物にもたれこんじゃって──芝居になりっこありゃしない!」

観るものスペクタークルでもいいのかもしれないわ。労働組合は、ここの切符だけをくばっているんじゃあないから」

 だけれども、やっぱり伸子とすれば「南京虫」の空虚さは居心地わるかった。観客は、「南京虫」へ向けられている諷刺を笑っているつもりかもしれなかった。しかし、五〇年後の社会主義社会の青年男女が十度も五ヵ年計画をしあげたのち、南京虫一匹に対してこんなに大仰にさわいで、目玉をむいたり、両腕をつきあげたりするだろうか。現に南京虫にくわれながらたたかっている人々はそうとは意識しない現実からの批判を笑いにこめて、南京虫への諷刺のうちに社会主義の坊ちゃん、嬢ちゃんのおかしさをも笑っていると思わずにいられなかった。

 伸子はほとんど笑わず、舞台を見ている。その目の中に、マヤコフスキーの遺骸の靴の底に光っていたへり止めの鋲がきらめいた。「風呂」そして「南京虫」。マヤコフスキーは、自分のこの二つの作品をどう思って舞台の上に観たろう。どんな思いをもって、夜更けのモスクヷの道を自分の書斎へ帰ったろう。思いの多い道々に、彼の爪先には益々力がはいり、へり止めの鋲は一層光らせられ──最初のぼんやりした自分への疑問が、段々心のうちにつもって行って、ある瞬間に、否定できない明瞭さで自身の限界が自分に見えたとき──埋葬の夜までもなおいま歩道から来てそこに横わった人の靴裏でもあるかのように、マヤコフスキーの鋲はなまなましく光りを放った。


 伸子は、デスクの上に文学新聞をひろげたまま、肱をついた手にかしげている頭を支えて、まだ二重窓は開かれていないホテルの窓のガラス越しに、「モスクヷ夕刊」の屋上を眺めていた。

 この間、この屋上で写真のとりっこをしてたのしんでいる二組の若ものたちがあった。あれから、もう一度、二人づれの青年が屋上にあらわれた。その連中は、何かの書類にはりつける必要でもあったのか、ひどく事務的に、立って、焦点をあわせて、シャッターを切って、そして降りて行った。伸子が、屋上にのぼっている青年たちを見つけたのは、それぎりだった。きっと建物管理委員会が禁じたんだろう。そう素子が推察した。だって、いくら厚いガラスだって、バタバタ、元気な連中にあがって来られたんじゃたまるまいもの。屋上へ出て来るのは、「モスクヷ夕刊」に働いている若者ではなくて、同じ建物の中にある印刷労働者クラブへ出入りする青年たちのようだった。

 伸子にすれば、屋上をたのしんでいる若い人たちを遠く高いところから眺めているのもいいこころもちだったし、又きょうのようにガラス屋根をいたわって人影の出ていない屋上を見ているのも気もちよかった。モスクヷの三つの停車場からは、春の活動のはじまった各地方のコルホーズ協力と見学とのために、工場から、演劇団体から、作家の団体から、毎日何人かずつがグループとなって出発している。伸子のデスクの上にひろげられている文学新聞にも、その記事があり、全露農民作家同盟のアッピールが発表されている。農民作家の団体は、四角四面に書いていた。農民作家の間に、いつからか「機械化の職場ツエハー・インダストリザーチー」という名をもつ一つの集団が出来ていた。そのグループの農民作家たちは、農村の機械化のために宣伝し協力することを建てまえとしていた。春の播種期にそなえて一月から各地で行われた富農クラークの排除を通じて、「機械化の職場」の思いがけない本質があらわされた。「機械化の職場」は、農村の機械化のためにたしかに協力したが、それは、農村がコルホーズになってゆくためにではなく、富農たちが一つの地方で彼らの勢力の下にトラクターを集め使用を独占するために協力している事実がわかった。

 全露農民作家同盟は、熱心な自己批判を公表した。文学新聞にのっているアッピールは、来るべきメーデーのために、コルホーズの農民通信員からのルポルタージュのコンクールを告げたものだった。

 マヤコフスキーは、どうして社会主義を「南京虫」の象徴でとらえなければならなかったろう。

 パッサージ・ホテルの内部の暮しかたにあらわれているいろいろな変化をみても、飛躍そのものがリアリスティックだった。

 伸子と素子とがはじめてモスクヷについて、窓から降る初雪を眺め、胸をときめかせてクレムリンの時計台がうち出すインターナショナルの一節に耳を傾けた一九二七年の夜、パッサージの二人の給仕たちは、全く忙しかった。伸子たち数人の日本人のいるタバコの煙のたちこめた室に、夜十時すぎてからサモワールを運びあげ、夜食の茶道具を運び上げて、二つの急な階段を上下したばかりでなかった。注文があればパッサージのどの室へでも正餐の料理を運ばなければならなかったし、一本の鉱泉水のために、もう若くない給仕のボリスが、あら毛の生えた太った頸すじをあからめ、額に汗の粒を浮せながらうすよごれたナプキンをふってのぼって来るのに出くわしたりすると、伸子は気の毒な気がしたものだった。廊下のどこかでドアの一つが開けはなされていて、そこから無頓着な男の大声が、

「ダワイ・ナルザーン(ナルザン水をもって来な)」

と叫び、その声の主よりずっと年をとっているボリスの不機嫌な喉声が、昔の召使が主人に対してつかっていたとおりの言葉づかいで、

「スルーシャユ・ス(かしこまりました)」

と答えているのをきくと、伸子は時代錯誤を感じた。かつて人につかわれたものが、人をつかうようになったときの、人使いの荒さを感じさせられた。

 三年たって、また、伸子と素子とがパッサージで暮すようになった今、伸子たちの間で海坊主とよばれたボリスはもうパッサージにいなくなっている。洒落ものの、小指に指環をはめて、栗色の美しい髭にこてをあて、まき上げているノーソフだけが働いていた。しかし、おしゃれのノーソフは、もう三年前のように、サモワールをもったり、黒い大盆を肩にのせてたりして三階をのぼりおりし、はずむ息でスルーシャユ・スと云わないでもよかった。モスクヷのホテル経営管理委員会は、五ヵ年計画による一つの改善として、パッサージのような内国旅行者のためのホテルでは、宿泊人は茶をのむことも食事も食堂でするようにとりきめた。そのかわり、宿泊人はいつでもホテルの台所へ行って、旅行者がステーションで熱湯をもらって来るように、熱湯をもらえるようになった。

 伸子は、この新しいホテル生活の日常的な変化を心から歓迎した。ハルビンからモスクヷへ来るとき、知人がもたせてくれた大きい籐籠から、伸子は、これもハルビンで買った空色エナメルのかかったヤカンをとり出した。底が小さくて、胴のふくらんだ空色エナメルのヤカンは、湯のわきがおそいので下宿の主婦からはよろこばれない品だった。朝と夜、伸子はその空色ヤカンをさげて、台所へお茶のための湯をとりに行った。そのとききっと通らなければならない廊下の一番はずれの小部屋が、従業員たちの休憩所だった。その室の一隅から、廊下をゆっくり通ってゆく伸子の空色ヤカンに赤いかげがうつるかと思うほど、賑やかに飾られた「赤い隅」がつくられた。そして、その室の上に「ホテル・パッサージ細胞」と書いた紙がはり出された。

 これらのことは、伸子たちの室をうけもっている掃除婦カーチャの生活にも新しい局面をひらいた。たっぷりした美しい声と、ふくよかな胸をもつ若い母親であるカーチャは、伸子たちの室の床を、柄の長い油雑巾でこすりながら、云った。

「この節は、すっかり暮しが新しくなりましてね、わたしたちの隅でも政治教育ポリト・グラーモトがはじまりましたよ」

「それは結構だわ、カーチャ。──あなたにはこと更結構よ。わたしの夫は外交官です、だけれども、わたしは彼の仕事について知りません。そんな風だったら不幸だもの」

 カーチャの夫は──彼女の言葉によれば──外交官になるために勉強しているのだそうだった。

 カーチャは、ゆたかな胸を波うたせながら油雑巾をつかい、

「全くですよ、女はいつだってとりのこされてしまうんだから」

 そして、前歯が一本ぬけている口元で、彼女の働きぶりを見物している伸子に笑いながら、

「教える者のあるうちに学べ」

 急ごしらえの格言のようなことを云って、バケツをさげて出て行った。

 伸子が住んでいたアストージェンカの建物が直接区の住宅管理委員会に属すようになったとおり、パッサージのホテル経営も、これまでより緊密にモスクヷの人民食糧委員会に管理されることになったらしかった。ある朝、お茶の湯をとりに台所へ出かけた伸子は、台所の入口と食堂の入口との中間の廊下へテーブルを出して、そこへ帳簿とソロバンとをそなえつけている若い婦人を見出した。正餐アベードに食堂へ行ったとき、白いブラウスをつけ、白いプラトークで髪をつつんでいる彼女は熱心にソロバンを置きながら、サーヴィスされる正餐アベードの勘定をしていた。

 外部からそういう監督的な立場の婦人が通って来るようになって、ホテルの廊下──従業員休憩室、事務室、食堂、厨房の間を流れていた小ホテルの、のんきな雰囲気が、どことも知れず変った。食堂でノーソフは正餐アベードのサーヴィスをしても、心づけを全然うけとってはならないことになった。ノーソフにとって、このことは、僅かな金の問題よりも、むしろ、長年給仕として保って来た彼なりの職業上の誇りというか、生活の習慣にかかわる問題であるらしかった。というのは、伸子は、一週間ばかりして、ノーソフの上にあらわれたいくつかの変化に心づいたのだった。いつの間にか、ノーソフは御自慢の巻き髭にコテをあてなくなった。ある日の正餐のとき見たら、巻き上っていた彼の栗毛の髭は、平凡なチョビ髭にきりちぢめられていた。サーヴィスする手の小指にはめられている指環はもとのままであったけれど、彼のものごしにあった給仕独特のリズミカルな軽やかさは失われた。男給仕の水商売めいた曲線と弾力がノーソフの全部から急速に消えた。そのうちに廊下のテーブルへ通って来ていた婦人が交代して、年ごろは同じ二十五六歳だが、商業学校でも出たらしい亜麻色の髪の青年にかわった。台所と休憩室にまた話し声がしはじめた。その青年は、水色ヤカンを下げて台所へ湯をとりにゆく伸子にも、くちをきいた。

 伸子は、パッサージで暮していた間、これまでも毎朝バターの切れを一つ、一ルーブル半で買っていた。湯だけもらって来て、朝の茶を、自分の配給で買って来たパンや胡瓜漬でたべるようになっても、伸子はバターだけ食堂から買った。アホートヌイ・リャードの闇市はなくなった。トゥウェルスカヤの外交団のための食糧店は伸子たちの出入りしたくないところであったし、またそこのものは特別価格でもあった。伸子たちは工場にも経営にも勤務していなかったから、素子の友達のオリガをはじめ大部分のモスクヷ市民が便宜を得ているように、勤め先の食糧販売所を利用することもなかった。そういう伸子たちにとって、バター、チーズは、パッサージの食堂からしか買いにくいものだった。

 廊下に机を出してひとがつめて来ているようになってから、伸子には、折々、バターが買えない日があった。そのひとの目をはばかってノーソフが売らないというのではなく、何かの都合で、パッサージにわり当てられる一日のバターの総量が、一日平均のサーヴィス予定とぎりぎりであるというような日、伸子が買えるバターはないのだった。バターのない日、伸子たちはパンの上へうすく切った塩づけ胡瓜だのイクラだのをのせて、すました。朝飯や夜食を食堂でたべれば、当然バターはとれた。しかし、文明社が伸子へ送る金をことわってよこしてから、伸子たちは、ひきしめたやりかたをしていて、正餐だけしかホテルの食堂ではとらないのだった。

 文明社が社長の立候補で損をしたという理由で金を送ってよこさなくなったことは伸子の手もとをつまらせたし、ソヴェト同盟が、ウラジボストークにある極東銀行を閉鎖したことは、東京の従弟を通じて素子がうけとる自身の金の取り扱いを複雑にした。

 伸子も素子も金につまっているのだった。伸子は、いまのモスクヷで、自分たちが不如意にいるのは、いいことだと思った。五ヵ年計画の壮大な図取りと、異常な努力で遂行されているその成果について、人々は「プラウダ」でよむことができ、労働者クラブのパノラマと統計で見ることが出来、すべての集会の演説できくことが出来た。化学労働者クラブに、ドニェプル発電所建設のほんとにみごとな模型がつくられていた。そのまわりを囲んで立つ男女労働者たちは、何というまじりけない感歎と、期待とほこりをもって「われらの成果」たるドニェプルの模型にスウィッチを入れ、赤・青の豆電気が、かわりがわり、大きい模型の重要地点にきらめく様に見入っていることだろう。

 うっとりするほど壮大で美しい、そしてほこりたかい五ヵ年計画を完成するために、努力の日々の中でソヴェトの人々はどんなに各自の生活を重点的に整理しているか。その現実を伸子が身に添えて理解するのは、パッサージで買えない日のあるようになったバターの問題であり、ノーソフの意気銷沈の意味であり、台所と食堂のその廊下に据えられた一台のテーブルとそこへ来た婦人──その人のいる間、なぜホテルの階下は陰気になっていたか。それから代った青年になって、カーチャの笑声をきくことができるようになったのは、何故かの問題だった。


 伸子のささやかな存在は、生活そのもので五ヵ年計画のすべての壮大さと、同時に、うけとらずにいられない日常的なこまかい現象の一つ一つを味わいかみしめて感じとっているのだった。

 ある晩、芝居から帰って来て、伸子はのどが乾いてたまらなくなった。外套をぬいだばかりで、伸子が、

「お湯をとって来る」

 空色ヤカンをとりあげた。

「もう、しめてるだろう」

「ともかく、行ってみるわ」

 十二時すぎた裏階段を、伸子は階下まで駆けおりた。そして、大いそぎで台所への廊下をゆくと、従業員休憩室はとうに暗いが、いいあんばいにつき当りの台所のドアはまだあいていた。奥から、食器類を洗っている音がする。伸子は、ドアから入った。そんな時刻にかかわらずニッケルの大湯わかしのコックから熱湯の湯気がふいていた。

「まあ、運がよかった! お湯を下さい」

 大流しに積まれた皿類を洗っている女は、伸子が見たことのない四十がらみのひとだった。骨ばった、力のありそうな体つきで、たった一人、皿洗いしていたその女は、洗い桶のところから伸子を見た。

「どうぞ」

 彼女はパジャーリスタとは云わないで、よく街頭の物売女がいうようにぞんざいにパジャーリチェと云った。ざらっとした声だった。顔だちや髪に荒れたところのある、だが身をもちくずしたというのでもないその女は、パッサージでは見かけることのすくないたちの女だった。

「どうして、こんなにおそくまで、お皿を洗っているの?」

 ニッケル湯沸しのコックに空色ヤカンをあてがいながら、湯気の間から伸子がきいた。

「ドイツから代表がついたんです。彼らは、ついてから食べたんです」

「あなたは、臨時?」

「そうですよ」

 皿を洗いながら、女は、

「臨時ってのはがわるくてね、仕事がいつだって多いんだから……」

 ぬれ手をあげて腕で、額をこすった。

「臨時は、臨時の手当てがあるんでしょう? あなた、いくらとるの?」

 女は、すばやい視線で、伸子の質素な白いフジ絹のブラウスを見た。

「いくらでもありゃしませんよ」

 だまっている伸子に、その女は、ざらっとした声で、あたりまえに云った。

「いくらにもなりゃしないけれどもね、この頃じゃ、ずっとつづけて仕事があるんでね。それが大きいんですよ。並木道ブリヷールをぶらつかないでも食べて行けるってことだから……分るでしょうパニマーエッシ?」

 モスクヷで、並木道ブリヷールをぶらつく、と云えば売笑をすることだった。──

 伸子は、モスクヷの生活の深みをさぐっている自分の理解の石づきが、この女の言葉で、ごく底のたしかなところへ触れたと感じた。五ヵ年計画。社会主義建設。何かしら上へ上へと聳え立って行くような立派さとしてだけうけとられがちだけれども──「風呂」を見ればマヤコフスキーも、そう感じていたにちがいなかった。あるいは、そう感じるべきだと考えさせられていたのかもしれないが──社会主義の最も強固で広い基底は夜勤の臨時皿洗いの女が、もしかしたらいくらか病毒におかされている彼女のざらっとした声で云った数語の上にあった。「──ずっとつづけて仕事があるんでね、それが大きいんですよ。並木道ブリヷールをぶらつかないでも食べて行けるってことだから。──」

 彼女が、伸子にへだてのないお前よびトウィカーチでパニマーエッシと云ったとき、その響きのなかには、生きてゆくということはどんなことかを知っている女同士としてのいつわりなさがあった。



 モスクヷ生活において、伸子はその力づよい活動の表面にひろくひろがってゆくよりも、底へ底へと自分をひきこんでゆこうとする、はげしい欲求に導かれていた。

 やがて二人はモスクヷを去るわけだった。その方向に金もつかいはたされつつある。一二ヵ月の先に迫ったことではないにしろ、遠からずモスクヷにいなくなる準備として、素子はほしいと思う本を、順序だててぜひいるものから買い集めている。民芸博物館へ行ったときは、伸子も美しい刺繍の飾手拭やテーブル・センターなどを買った。そんなものを帰国の用意のように買いながら、伸子は半ば自分を信じていない気持なのだった。ほんとに自分はモスクヷからいなくなるのだろうか。──日本へ帰らなければならない、という必然が、伸子にはっきりしなかった。

 素子は、ソヴェトへの旅行を決心したとき、かたわらでぐずついている伸子にかかずらわないで自分の出発の準備をすすめた。伸子はついて来た。

 素子は日本へ帰ろうという計画を、伸子がパリにいた間に、きめたようだった。彼女の日常の万事がその方向に進められている。伸子は、やっぱり窮極には素子についてモスクヷを去るのだろうか。それは伸子自身にわからなかった。伸子にわかっているのは、モスクヷがなおつよく自分をひきつけているという事実だけだった。素子と伸子とは、もう幾年間も一緒に生活して来たものの毎日で、とりたててそのことについて議論するというのでもなく、その問題をもって来ているのだった。

 ある午後、素子は大学へ行っていて、伸子がひとりホテルの室にいたときだった。窓から、晴れた早春の空を眺めていた伸子はふっと、これから行って見よう、という気になった。この間から、伸子はしきりにトゥウェルスカヤ通りのかみにあるリュックス・ホテルのことを考えていたのだった。そこに日本のふるい革命家である山上元が住んでいた。山上元がそこにいることは公然の秘密のようなもので、新聞記者である比田礼二が会ったことをきいていた。

 伸子はホテル・リュックスに電話をかけた。そして、山上元と話せるかどうかをきいた。じき、山上元の声がした。

「あーあ。もし、もし」

 いくらかせっかちな、元気のある年よりの声だった。

「わたしは佐々伸子ですが──」

 くどくど自己紹介をしていたら、まどろっこしがられそうで、伸子は直接法に、

「お目にかかることができるでしょうか」

ときいた。

「いいよ。来なさい。いつ来るね」

「これからでもいいんです。いま、パッサージからかけているんですけれども」

「じゃあーと、二時四十分に待っていることにしよう」

 伸子は、あわてたようにおっかけて、すこし声をつよく念を押した。

「わたしが上るのは、なにも特別な用じゃないけれども、かまいませんか」

「そんなことは、かまわない。──二時四十分。わかったね」

 山上元は、伸子がリュックス訪問について知っていなければならない一つ二つのことについて教えて、電話をきった。

 受話器をかけてから、伸子はちょっとの間その廊下の角にたたずんでいた。何と簡単だろう。幾日も考えていたことが、あんまりあっさり運ばれたので、伸子は自分ひとりがもたついたのこそ下らない躊躇だったと思った。

 室へかえって、伸子は五分おきぐらいに時計を見ていた。パッサージとリュックスの間は、ゆっくり歩いて十五分かかるかかからないかだった。

 伸子は早めにホテルを出て、ゆるやかな登りになっているトゥウェルスカヤ通りを、のぼって行った。革命まえまで、モローゾフの店だったところが外交団専用の食糧品店になっている。そのすこし先の右手に、ホテル・リュックスがある。約束の時間きっちりに伸子はその入口のガラス戸を押して、大理石のしきつめられた奥ゆきのあるホールへ歩みこんだ。

 ホールは人影がない。両側の大理石の腰羽目の上に張られている鏡の上に、伸子は自分の姿を映されながら、つきあたりにデスクをひかえている受付に、旅券をわたした。小さい紙に自分の姓名と、会おうとしている山上元の名をかいた。受付の男の眼つきは、落ちついていて、しかし見たものはよく記憶することができるという眼つきだった。

 多勢の人がその中に住んでいる建物の内廊下は、どちらかというと光線が不足で、近くに食堂があるのかあったまっている空気に煮えているシチ(キャベジ入スープ)のにおいがした。人々が忙しそうに行き交う廊下をとおって、アルミニュームの鍋をはこんでゆく婦人がある。事務的であるが家庭的でもあるような雰囲気を、伸子はものめずらしく感じた。リュックスには、国際共産党関係の人たちばかり住んでいるはずだった。コミンターンという名から伸子がうけて来ているいかめしい感じは、廊下にまでただよっているシチのにおいで、ひどく人間ぽいものにされた。

 肩の力が和らげられた気分で、伸子は大廊下を左に曲り、一層光線の足りないわき廊下に向って、しまっている両開きの大扉の上を見ながら進んだ。白いペンキでドアの上にじかに318と書かれている。そこが山上元の室であるはずだった。

 伸子は、割合力を入れてノックした。

「おい」

 そんなような返事がした。さっき電話できいた山上の声であった。伸子は、ドアをすこし開き、室内の見えない位置に自分をおいたまま、

「入ってもようございますか」

「おはいり」

 古びた、大きな、ごたついた室の右手のデスクで山上元はタイプライターをうっているところだった。

「もうじきすむから、そこへかけて待っていなさい。──どうせ、いそぎゃしないんだろう?」

 その云いかたは、どこかいっこくらしく「自伝」で伸子が感じている率直な親しさがあった。

「どうぞ、ごゆっくり。いそがないから」

 イタリー風の出窓とよばれる三面ガラスのひろい出窓のよこに、白布のかかった角テーブルがあり、その奥の壁につくりつけて二人がけの長腰かけがある。伸子は、その隅っこへ自分をおちつけた。

 もちよく着古された柔かな皮のジャンパーを着た山上元は、はじめっからタイプライターの前から立たずに伸子と口をきき、それなりまた仕事に没頭してタイプをうちつづけた。伸子の口元が思わずゆるんだ。山上元のタイプのうちかたは、どうやら指のはこびがぎごちないような響をもっているくせに、いかにも力がはいっていて、紙のうしろへ字がぬけそうにパチ、パチ、パチパチと大きな音でうたれるのだった。

 出窓のところに、形のはっきりしない、そこに何がはいっているのか、何のために必要なのか外来者にはわからない品々が、いろいろ置いてあった。それは、どれも事務用のものではなくて、家庭的な用途をもっていることだけは察しられる。出窓に一本綱がはりわたされていた。そして、無頓着な風で、そこに婦人用の靴下がほしてあった。窓のまん前にぶら下っていて伸子がおさまっている場所から左手に、見あげる婦人靴下はひどく長いもののように見えた。ああ娘さんが来ているのだ。伸子は山上元のためによろこぶきもちで考えた。

 山上元が日本を去ってからもう十五六年たっていた。一年ばかり前、彼の一番末の娘が、モスクヷへ来たという噂があり、伸子は日本の新聞でも日本脱出という角度からのニュースをよんだ。彼の家族は、山上元の家族であるという理由だけで、迫害されつづけ、三人の子供たちと細君とには、子供の世界にさえ安らかな朝夕がないばかりか、生きてゆくために働くくちさえ与えられなかった。幾代という、こんどモスクヷへ来た娘は、日本でわたしたちはあんなにいじめられた、おそろしいところへ、二度と住みたいと思っていない、という談話があった。その娘さんの上の舞踊家である娘も、来たようだったが、そのひとはどうしたのか、父のもとへのこったのは、幾代という十七八歳のひとだけらしかった。

 だらりとのびて、ぶら下っている婦人靴下は、伸子に、気のおけない父と娘とのこの室での生活を思わせ、大杉栄の妹であるひとの身の上を思いうかばせた。

 さつきというそのひとは、結婚して、宗一という息子をもっていた。六歳の少年である宗一は、一九二三年の九月二十日に、大杉栄、伊藤野枝といっしょに憲兵隊でくびり殺された。自分の編輯で個人雑誌を出していた三島しづ子という婦人が、さつき夫人をなぐさめる集りをしたことがあった。その集りも、内輪にひっそりと、三島しづ子の住居の二階で行われた。さつき夫人は、髪のあげようからしてごくおとなしい中流の主婦のものごしで、その人として生れもって来たものも、大杉栄の妹であるということから、すべてをころし、ありふれた意味で一点非のうちどころない妻であり母であろうとして来たひとの姿だった。さつき夫人の口からは、ひとことも、憲兵の惨虐な行為に対するいかりは洩らされなかった。つましく膝の上に手をかさね、それまでうつむいていた顔をあげて、わたくしも、こんどのことで、もう生きている意味がなくなりました。静かにそう云った。大杉栄と妹のさつきとは別なのだからと云って、夫であるひとは彼女と結婚したのだそうだった。互の理解で幸福な家庭がもてて行くと思った夫婦の考えは、単純すぎたということが段々わからせられた。或る会社につとめて有能な彼女の夫は、栄達の機会が来るごとに、大杉栄の妹を妻にしているということから、もうちょっとのところでその地位をひとに奪われた。結婚してから、三四度、そういうことがくりかえされて来ている。口には何とも云わない夫の心のうちを思うと堪えがたくて、さつき夫人は、幾たびか、身をひこうとした。そのたびに、幼い宗一が母を失うということが夫婦の結びめとなっていた。その宗一までも、大杉栄の甥であるということのために殺された。わたくしがどんなに努力して、まわりの幸福をねがっていても、それは決して許されない運命なんでございます。

 その席にいた伸子の体は、さつき夫人の語る言葉で巻きにされるように苦しかった。佃との結婚生活におちつけなくて、三島しづ子の活動的な日常に近づいていた伸子は、一途な思いで、さつき夫人夫婦の考えかたは、被虐的すぎる、と思った。世間並でない事情をもって愛しあって行こうとする夫婦なら、どうしていつまでも世間並の会社づとめやそこでの出世などにかかずらっているのだろう。それこそ、手鍋下げても、いいであろうに、と。しかしさつき夫人にとって、自分さえいなければいいのだ、という考えを変えることは、彼女の全コースをくずすことらしかった。その日の席へも、さつき夫人は、いくたりかの婦人たちになぐさめられようなどと考えて来ているのでないことは、明瞭だった。

 伸子がさつき夫人にあったのは、あとにもさきにもそのとき一度であった。大杉栄には、魔子という娘もいた。その少女は、何か偶然のことで、田舎のおじいさんのところへ行っていたかで、生きのこった。思えば、その魔子もモスクヷへ来てしまった山上の娘が、リュックスの出窓の前へ、誰はばからず悠々と洗濯した靴下をぶら下げて暮しているようには、生きていないわけだった。

 元気のいいタイプライターの音がやんだ。印刷された紙が機械からはずされ、クリップでとめられた。

「さあ、すんだ」

 山上元の、背の高くない、がっしりとした体が、伸子のおさまっているテーブルの向いの使いふるされた肱かけ椅子へ移って来た。

「えらく、お待たせした」

 そして、去年の十二月、彼の七十回の誕生祝賀のときプラウダにのった大きい写真で伸子がよく見知っている山上元の特徴のある三白眼が、まっすぐ伸子を見た。亡命生活をつづけている老革命家であり、その晩年に計らず父親としての生活ももつようになった山上元の、遠慮のない、観察的な視線を、伸子もかえして、山上元を見た。年よりの柔かくなった筋肉につつまれていても、短くて四角い山上元の顎は、何と強情で、まけじい魂をあらわしているだろう。節のたかい太い指。剛い眉。山上元の住んでいる室内にも彼自身の体にも、新しいと云えるものは一つも見あたらなかった。けれども、日向の古い石が確りしていて清潔であるとおり、七十歳の山上元は、強情にしっかりしていて、さっぱりしていた。年とった大きい犬と、仔犬とが、かぎあって、互に不満足でなかったときのような親しい感じが伸子の心に湧いた。

「──『自伝』を、ずっと前、拝見しました。それから、この間うちインプレコールへ出たようなものも──」

「世界的経済恐慌の軌道における日本」という山上元の論文は、日本共産党の事情を知らない伸子に、その任務や、目下たたかわれている闘争の状況、党内の偏向は右翼日和見の清算主義であることなどを教えた。ウォール街のパニックと連関する日本の経済恐慌と戦争準備の事情についても伸子は非常に多くのことを学んだ。

「そうか。僕も、よっぽど前、何かの雑誌で、きみの書いた小説をよんだことがある、何だったかもうおぼえちゃいないがね」

 山上元が、僕というとき、それは紺がすりを着た老人という感じだった。

「きみがモスクヷへ来ていることは、きいていた。とにかく、よく来たよ」

 論文などをかくとき山上元は英語を使用していた。伸子がこの室へ訪ねて来たとき、彼のうっていたのも英文タイプだった。けれども、彼の話す日本語は、ちっとも錆びついていないで、いきいきしていた。ソヴェトの生活をどう思うかという質問が出たとき、伸子は、ありのままに話した。

「七ヵ月ばかり、あっちこっちして、ロンドンやベルリンをちょっとでも見て来たのは、わたしのために、ほんとによかったと思います。日本で、わたしは何にも知らないで来ているから、ロンドンなんか見ると、しんから資本主義の社会ってものがわかったんです。ドイツにしても──ドイツってところは、ベルリンをちょっと見ただけだけれども気味がわるかった。ソヴェトというものの価値が、しっかりのみこめてしまったんです」

「ハハハハ、のみこめてしまった、か。そういうもんだ。僕が一八九四年にロンドンやエジンバラの貧民窟を見て、社会主義についてまじめに考えはじめたようなもんさ」

 山上元は暫く話していて、

「一つ、僕のつくったジャムをごちそうしてやろう」

 身軽に立って、伸子があんまりそっちへ目をやらないようにしていた室の一隅へひっこんだ。その一隅にバネのよわくなった寝台がおかれていた。寝台の裾にちょいとした衝立ついたてがあって、そのかげに、水のつかえるところがあって、顔を洗ったり、茶を入れたりする場所になっているらしかった。山上元は、衝立のむこうから、相当はなれた窓のわきにいる伸子に向って、大きな声で喋った。

「僕は、きみなんかより、ずっと料理がうまいよ。若い時分、アメリカでは、ケチン仕事を何でもやったもんだ。ジャムをつくることなんかは、なかんずく得意だね」

 伸子は、笑い出した。

「じゃ、モスクヷでは、ようございますね。苺やいろんなベリーがどっさりあって、やすいから」

「ところがいそがしくて、ジャムもあんまり煮ていられない」

 せっかちらしく、指先の太い両手にコップについだお茶をもって、山上元は衝立のかげから現れた。伸子は、自分が動かずにサーヴィスさせては、わるいと思った。

「おてつだいしましょう」

 席から立ちかけた。

「もう何もすることはありゃしない。ジャムをもって来るだけだ」

 ガラスの小さい入れものにはいった、つやつやした色の黄苺のジャムが出された。

「たべて見なさい、うまいよ」

 云われるとおりに、ジャムを小皿にとって、ロシア流に茶をのみながら、伸子には、そのジャムがお愛想でなしにおいしかった。たしかに上手に煮られているし、伸子たちは、正餐につく乾果物の砂糖煮のほかには、甘いものなしで暮しているのだった。

「きみは、酒をのまないのかい」

「いいえ」

「ローザは、酒のつよい女だったよ」

「ローザって、ルクセンブルグですか」

「ああ。アムステルダムの会議では、ローザが僕の通訳をしてね──あれは素晴らしい女だった。火みたいな女だった。朝っぱらから葡萄酒をのんで、いつもほろよいきげんなんだが、そういう時のあの女の頭の冴えようときたら、男がたじたじだった」

 面影がよみがえってそこにあるというような、話しぶりだった。

「わたしたちは、ひさし髪に結って、白いブラウスを着たローザの写真しか知らないけれど」

「あの女はたいしたものだった。クララもそのとき会ったが、ローザにくらべるとクララの方は、ずっと常識的な女だ」

「ツェトキンですか?」

「ああ。あれは常識的な女だ」

 伸子は、山上元の話しぶりを軟かにニュアンスの深いこころもちできいた。たたかいのうちに七十歳になったこのひとが、こんな新鮮さでローザを思いおこしていることに、伸子は心にふれて来るものを感じた。クララ・ツェトキンとのくらべかたも、男として山上元のうちにある婦人への好みが知らず知らずあらわれている。おそらく多忙なこの人にとって、まれなくつろぎのひととき、どんな公の関係もない伸子のようなものをあいてに、こういう昔話も出る、それら全体の雰囲気を伸子はよろこびをもって感じた。

「そのアムステルダムのとき、プレハーノフにもお会いになったんでしょう?」

「そうだ、そうだ」

 山上元は、両方の下瞼にふくろの出来ている三白眼で、自分の前にちょこなんとかけている伸子を、思いがけなそうに見直した。

「よく、そんなことまで知っているね」

「だって」

 おかしそうに伸子は笑った。

「書いてあるんですもの」

「そんなはずはない」

 とがめるような鋭いまっすぐな視線が山上元の瞳から射出された。伸子は山上が、「自伝」のこととごっちゃにしたのを感じた。

「『自伝』じゃありません。ほかのひとが、あなたについて書いているもののこと」

「ああ、そうか。わかった」

「アムステルダムの会場で、ロシアへの侵略戦争反対のアッピールをなすったことや、大会が戦争反対の決議をしたことや、平民新聞が戦争反対したことや──古いことは、割合しられているんじゃないでしょうか」

「うむ」

 ほんの瞬間だが、山上元の皺のふかい顔の上に遠い、とらえどころのなくなったどこかを思い出そうとするような表情が浮んだ。そのかげには、数十年の月日がたたまれているその表情は、すぐ消えた。

「きみは、日本平民新聞を見たことがあるかい」

「いいえ」

「見せてやろうか」

「ほんとに? 持っていらっしゃるんですか?」

「見せてやろう」

 再び寝台の置かれている隅へひっこんだ山上元は、伸子が予期したよりずっと短い時間で、窓ぎわのテーブルのところへ戻って来た。

「創刊号からちゃんと揃っている」

 テーブルに置かれた平民新聞のとじこみは、二十六年の古びを帯びながら、実によく保存されていて、新聞紙の端さえめくれあがったり、やぶけたりしていなかった。

「まあ、何てちゃんとしているんでしょう!」

 伸子は心から感歎した。昔、自分たちが日本で出した平民新聞をこんなに丁寧に今もなお保存しつづけている山上元の気持がわかるように思った。たまに山上元とのインタービューに成功した日本人の新聞記者は、いつも、山上元の郷愁について語った。彼が世界的な日本の革命家としてコミンターンのうちに重要な地位をしめながら、やはり心の底には日本への郷愁をもっていると書いていた。新聞記者などに会ったとき、山上元は、やっぱり伸子とのように、現在の活動にふれない話題をもつだろう。そして、平民新聞の話も出るだろう。山上元が、これほど平民新聞を可愛がっていて、云ってみれば、長年よくも世界じゅうもって歩いて来たものだが、それを日本恋しさからという風に解釈されたら、いかにも笑止千万であるだろうと思えた。このとじこみは、山上元という最も適切な解説者つきで、モスクヷに移動して来ている在外日本革命小図書館とでもいうべきものなのだった。

 伸子は、腰かけから立って、明治三十六年十一月という日づけからはじまる日本平民新聞を見て行った。幸徳秋水、堺利彦、西川光二郎、河上清、木下尚江、高野房次郎、沢田半次郎。そのほか、あるものは伸子が歴史上の名として知っているものであり、あるものは全く知っていない人の名だった。

「これが、日本ではじめて出た階級的な新聞さ。相当仕事をしたんだ。この発刊宣言をかいたのは幸徳秋水だよ」

 一枚一枚とめくって見て行くうちに、伸子は、歴史の流れのうちに、いろいろな人が押し流され、やがて漂流して行ってしまった姿を、まざまざと感じた。

「西川光二郎というような人が、ここに書いているなんて──不思議のようだわ。わたしの小さかった頃、西川光二郎と書いた白いたすきをかけた、髪の長い人が、何だか道ばたに立って演説しているのを見たことがあります。その西川光二郎なんでしょう?」

「そうだ。この男もしまいには無政府主義者になって妙なことになってしまった。堺も、はじめは、増税反対の社説をかいたり、幸徳秋水と共訳の『共産党宣言マニフェスト』の翻訳をのせて、ぶちこまれたりしていたが、根が小悧口者だから、俗化してしまった。もったいないことをしたのは、幸徳秋水だ。あの男はほんものだったね。日本で、はじめて帝国主義ということを云い出した男だ」

 山上元は、とくに伸子に見せておきたい号があるらしく、自分で平民新聞のとじこみをめくった。

「ほら、これを見なさい。面白いだろう、これが、例の有名な、レーニンが『イスクラ』で返事をかいてよこした平民新聞の『露国社会党に与える書』だ」

 ロシアへの侵入に反対している日本の社会主義者とロシアの社会党とは協力して、たたかわなければならないとアッピールしている文章だった。

「黒岩涙香や内村鑑三なんかも、日露戦争には反対したことがあったんでしょう?」

「それは、平民新聞を出す前のことだ、黒岩が万朝報で非戦論をとなえたのは。半年ばかりで、へこたれて、青年会館で演説会をやる頃には、すっかり豹変しちまった」

「内村鑑三は? あのひとは、もったんでしょう?」

「これは、大戦グレートワアでだめになった」

 どう駄目になったのだろう。伸子が質問のくちを開こうとしたとき、山上元の室のドアがノックされた。そのノックは、ノックしているのが日本人だと直感されるようなノックのしかただった。音と音との間にリズムのない、つづけて叩くという感じのノックだった。伸子は、もしここへ出入する日本人の誰かが入って来たらば、と当惑気味になった。

「わたし帰りますから」

と云った。

「いや」

 ドアのところまで出て行った山上元は、そのままテーブルへ戻って来た。

「もう十五分ばかりいてもかまわない」

 週刊で出されていた日本平民新聞は、一年つづいて、一九〇五年一月に廃刊されていた。最終号は赤刷りで出されているのだった。

 伸子は、はじめ考えていたよりもずっと長い時間この室にとどまっていたことを、心ないことだったと思った。

「どうもありがとうございました。めずらしいものが拝見できて──」

 もう、もとの隅っこへかえって納まろうとはせず、伸子はそろそろ帰り仕度しながらきいた。

「平民新聞には、女のひとで参加していたかたがあったんでしょうか」

「事務の方には女もいた、編輯にはなかったね」

 山上元は、自分も立ったまま、伸子が外套をきるのを、年よりの三白の眼で見守った。

「文学の方ではどうかね、日本にも少しは見どころのある女が出るようになって来たかね」

「──『文芸戦線』だの『戦旗』だの、ごらんですか」

「『戦旗』は見ている」

「若いひとはああいうところから出かかっているんじゃないでしょうか」

「うん。そりゃ、そういう道理だ」

 それから十五分たたないうちに、伸子は山上元の室を出た。そして、入口の受付けから旅券をかえしてもらい、トゥウェルスカヤをまっすぐ赤い広場の方へくだって行った。

 ホテル・リュックスから出て、一、二丁の間、伸子は、我知らず亢奮した早足で歩いた。その足どりが、次第にしずまってゆるやかになった。山上元から、伸子は複雑な感銘をうけて出て来たのだった。彼が日本の社会主義運動の長老であるということ。各国のひろい運動の経験で長年鍛えられていること。それにみじんもまがいなかった。彼の理論。動作。どれも世界のものだのに、たとえばローザについて、彼が、あれは素晴らしい女だった、と云うとき、山上元のそのまじりけない褒め言葉にかかわらず、どこかに、若い女である伸子の感覚が抵抗する微妙な明治初期の日本の男があった。山上元の日本語は活溌だけれども、語感は明治のものだった。モスクヷにおける山上元の存在とその周囲の日本の人たち、男のひとたちにとっては、そんなことは問題にもならない仕事があり、生活感情があるわけだった。

 途中から並木道ブリヷールへ出て、伸子は、メーデー前のまだかたい芽立ちの菩提樹の下を歩いた。ああいう人たちにとって、すべては、何とくっきりとして、ああか、こうか、とはっきりしているだろう。そして彼の七十歳という年齢にかかわらず、山上元の特徴ある三白眼や強情な顎、短兵急なものの云いぶりから独特な精気が射出されて、伸子のなかに日本の女をめざめさせ、彼の明治の男を感応させたというのは、何とおもしろいことだろう。

 山上元のくるみのようなかっちりさ。パリで近く暮した蜂谷良作が、すももか何かのように思い出された。そして、自分にも水っぽくって、くされがはいるかもしれない果肉がくっついている。山上元がそれを見ていないとは伸子には考えられなかった。


十一


 メーデーに、伸子と素子とは、おととしのように広場の中、クレムリン外壁に沿うて設けられている観覧席に場所をとらず、赤い広場に向ってつめかけている行進の列の間を、街から街へ歩きまわった。

 去年のメーデーは、ワルシャワだった。ワルシャワのメーデーは無気味な圧力でけちらされた。行進して来た人々の頭のむこうで赤い旗は何と不安に揺れたろう。その赤い旗のゆれとともに、インターナショナルのひとふしが突然きこえ、すぐ千切れて、やがて、赤旗さえどこか全く消え去ってしまった。

 ベルリンでは「血のメーデー」だった。カール・リープクネヒト館前の広場で、労働者の血が流された。その抗議の白い大きい輪が、広場の石の上にしるされていた。かたわらの建物の黒い粗石の腰羽目に、いく箇所か白ペンキで掠られているところがあった。それはメーデーに労働者の子供までをきずつけた警官隊の弾痕のめじるしであった。

 おととしモスクヷの赤い広場の、外国人のための観覧席で、行進を見ていたときの伸子は持っていなかった一つの小さい金の輪が、ことしは伸子の黒い瞳の底に沈んで光っている。それは一つの銃口であった。ヴェルダンの霜枯れそめたいら草のかげにすっかり埋められた口金のところだけを金色の小さい指環のように見せていて、あるおそい午後の西日に光り、思わず片膝をついてそこに指先をふれた伸子に、生きたい、とささやいて告げた銃口だった。

 ソヴェトのそとの国から、伸子の心と体とのなかに刻まれて来たそれらの印象は、モスクヷにメーデーのよろこばしい準備がすすむにつれて、伸子の精神を奇妙なかわきにおいた。モスクヷのなかにだけ生活し、ソヴェトの状態の中で明日を展望して生きている人たちが知っていないよその国の人々の苦しく生きている眼つき、けてゆく労働者の背広の後姿、イーストエンドの公園じゅうに漂っていた不潔でしめっぽい変な臭いなどが、伸子の方から、その眼つきそのもので、その体つきそのもので、ある生活の臭いを甦らせながら、そのはげしいコントラストをたえがたいまで訴えるのだった。

 さあこれがモスクヷのメーデーよ。よく見なさい。ああ、ここにモスクヷのメーデーがあるんです。目には見えないで自分といっしょにいるどっさりの者にいちいちたしかめるような思いで伸子は、素子と腕をくみ合わせ、雑沓につき当ったり、押しつけられたりしながら音楽と赤旗とプラカートの林に埋った街々を歩いた。

 伸子たちは、暫くトゥウェルスカヤ通りを上下してから、劇場広場を迂回し、モスクヷ河岸の公園へ行ってみた。一方にクレムリンのダッタン風の外壁が高く聳え、モスクヷ河のひろやかな流れに臨むその公園は六月に咲きみちるリラの茂みの美しさと、モスクヷには珍しい水の眺めのある公園として、人々から愛されている。

 伸子たちは、公園の人波にさからう方角からはいって行った。というのは、赤い広場の行進を終ったすべての列は、必ず一応、この公園の側へおりて来て、そこからめいめいの方角へ散るのだったから。

 赤い広場の方からは、絶え間なく湧きたつウラーがとどろいて来る。ことしは、この河岸の公園にもラウドスピーカーがとりつけられているから、赤い広場のスタンドの上から送られるメーデーの祝賀と激励の挨拶の声は、ウラーのどよめきとまじりあって埃っぽくなった公園の空に響きわたり、ぬくまった正午のモスクヷ河の水面にまでひろがって行く。

 リラの茂みのわきに立って、タバコをつけ、輝く河面、動いてゆく色とりどりの人波、空と地上に鳴っている音響のあらゆる高低に耳をすますようにしていた素子はやがて、

「おととしと、ちがうなあ」

 その感想をおさえられないようにつぶやいた。

「あなたも、そう思う?」

 伸子は、うれしい! という云いかたをした。

「どこが、ちがうと思う?」

 伸子は、けさホテルを出て、トゥウェルスカヤの大通りを埋めている行進の列をひとめ見わたしたとたん、おととしとちがうことしのメーデーを直感した。何と大小の旗の数がふえているだろう。そしてその旗の布地も図案も旗竿も、おととしとはうって変ってしっかりした品だった。それに、ブラスバンドが殖えている。行進のはじまりをまつ間ガルモーシュカを弾いて、そのまわりで歌ったり、踊ったりしている組も吉例どおりあるにはあるが、いかにもメーデー目ざして揃えたらしいテラテラ光る楽器を肩にかけた工場の音楽隊が、うれしそうな、ほこらしそうなきまじめさで、先頭に立っている。それらの変化に目をひかれると同時に、伸子は、行進する人々の身なりは、たいしておととしとちがっていないことに気づいた。人々は、女も男も、やっぱりズック靴をはいている。それが、清潔に洗ってあるか、さらであるかというちがいだけで人々はおととし、伸子が見たとおり、てんでんばらばらに、つましいメーデーの晴着をつけているのだった。

 行進で陽気に溢れている歩道にそって歩きながら、伸子の胸はしめつけられた。これらの人々は、自分らの身なりは二の次として、ことしのメーデーには組合の旗、細胞の旗をよくし、プラカートも念入りにこしらえ、ブラスバンドまでもって行進に出て来ている。その雰囲気には、労働者階級としてのほこりと、一人一人が生きていることについて抱いている確信が語られていた。失業者が多いメーデーとは、どんなものか。伸子はワルシャワの広場の陰惨な空気を、カフェーのガラスに押しつけられていた男のしなびた蒼黒い横顔を思い出した。

 素子の指さきをきつく握りしめたまま、伸子は熱心に行進を見ていて、そういう感想については、云わなかった。伸子にとってそういう思いは、心の奥底からの真実の思いであり、素子の賢くて皮肉な唇の歪めかたを見たいと思わなかったのだった。

 でも、素子もやっぱり、感じるものは感じている。──

「ね、どこがおととしと、ちがうと思う!」

「いろんなことがちがうさ。──」

 素子は、左手で肱を支えるようにしてタバコをもっている手はそのまま、顎を出すようにした。

「こうやって歩いている連中の様子からしておととしとまるっきりちがう」

「どうちがう?」

 伸子にも素子が目をとめたところはわかるようだった。けれども伸子は素子からききたかった。

「この連中の体も気分も、ちっともくずれてない。おととしみたいに、行進がすんだら、それだけで、足もとまでずるつかして遠足がえりになっちゃう、あれがない。たいしたちがいだ。しゃんしゃんしているじゃないか」

 リラのわきに立ちどまって見ている伸子たちの前後を、通ってゆく、というよりも公園いっぱいに流れて来ては流れてゆく男女は、大小の群れになって、笑ったり喋ったり、いまはもう巻かれている重い旗を肩から肩へかつぎかえたりしながらも、ほんとに素子がいうとおり、これで年に一度の行事がすんだという、ゆるんだ表情はどの顔の上にも見出せなかった。人々の気分の密度が変っていない。

「はりあいがあるんだわ。どのひとも、自分の背骨はちゃんと立っているっていう気分なんだわ」

 モスクヷのメーデーは年ごとに行われて来たが、こういう気分は、おととしのメーデーになかったというばかりでなく、やはり五ヵ年計画第二年目に特別な調子だった。

 伸子たちが見ている前を、旗やプラカートをかついだ男女の大きなひと群れが通った。出版労働の連中だった。五ヵ年計画を四年で! とスローガンを題字にした赤い表紙の本のつくりもの。文盲撲滅! その下に二四六三七万ルーブリと五ヵ年計画が支出する文盲撲滅費を書き出したもの。ことしは、どの組合のプラカートも、四つに一つは自分の職場での五ヵ年計画生産の増大指数を書き出しているのも特徴だった。ひとかたまりの若い婦人労働者たちがおそろいに赤いプラトークで髪をしばっている。円い顔、すこし色のわるい細おもて。いろんな顔だち。彼女たちの金髪は赤いプラトークにてりはえてひとしお金色にかがやいている。ズックの運動靴、薄色の粗末な靴下。歩いているうちにすこし下ってそれがよじれはじめているのにも心づかないで、活溌な足どりで河ぷちを行く。

 その群れの中に、伸子は、一つの変ったプラカートを発見した。コルホーズの風景を遠見に描いたそのプラカートには、農民新聞をよめ! とある。それから丁度、見事に波うっている(はずの)麦の耕地の空のところに──というのは、あいにく絵が下手で、そのプラカートの上に描かれた麦の穂波は、一面の黄色っぽい絵の具の洪水にすぎないのだったが──「成功に眩惑するな」スターリン。集団化! 機械化! 農村の五ヵ年計画! とかかれている。プラカートをになっているのは、もう年配の男だった。モスクヷの労働者が、いつもメーデーからかぶりぞめをするクリーム色、夏のハンティングで、すこし猫背の小柄な体に、これもモスクヷではおきまりの葡萄色のレイン・コート兼合外套を着ている。

「──ちょっとあのプラカート見てごらんなさい」

 伸子は、素子の注意をうながした。素子も小さな興味を目に浮べて見ていたが、

「ありゃ、おっさん御自作らしいな」

「──そうかしら……」

 メーデーのためには、どこの職場の準備委員会も、プラカートには新機軸を出そうと趣向をこらしているわけだった。しかし、五ヵ年計画を四年で! と、帝国主義戦争反対という当面の大きいテーマは共通だし、その上準備委員会はどこでも、スローガンをえらぶとなると、絶滅せよダロイ というような文句が先へ来る言葉をこのんだ。その結果、伸子たちが歩いた街々に波うっているプラカートは、幾千、幾万つらなる赤い旗が、その中にどんな別のひと色もまじえない赤旗ばかりであるように、スローガンも似たりよったりのくりかえしだった。絶滅せよダロイ につづいて、あるものは帝国主義戦争、あるものは買占人スペクリャント。絶滅せよ! 官僚主義。という風に。──

 たっぷりした日光をうけながら、埃っぽい公園の河岸っぷち道をゆっくり帰ってゆくプラカートの「成功に眩惑するな!」という黒い文字は、不思議に新鮮で、生活感をよびさましながら伸子の心をひきつけた。

 プラカードに気をとられながら伸子の頭の中に、ホテル・パッサージの従業員の部屋の「赤い隅」の光景がうかびあがった。伸子たちがアストージェンカから越して来た時分、その部屋のうす青い壁の上に、プラウダから切りぬかれたスターリンの論文が、壁新聞にして貼ってあった。その論文の題が「成功の眩惑」だった。スローガンは、まぎれもなく、そこからとられている。

 農村のコルホーズ化が急速に成功して、二月下旬にはソヴェトじゅうの農家の五〇パーセントが集団化され、春の蒔きつけ用の種子がもう計画の九〇パーセント集められたと、各新聞は賑やかに報告して間もないころだった。スターリンの論文はそのような「成功」のかげに行われているいろいろな無理なやりかたについて、おそろしく率直に実例をあげて自己批判をもとめたものだった。コルホーズの成功は一部の指導者たちの間に「一挙にして社会主義の完全な勝利に駆けつけることができるのだから」「吾々はどんなことでもできる」という気分を生じさせた。トルケスタン地方では、農民を武力で脅し、コルホーズに加入したがらない者の耕地には灌水してやらないとか、工業製品を供給してやらないとか脅した指導員があった。伸子は、噂が事実あったことだったのを知った。スターリンの論文は、トルケスタン地方とウクライナ地方とそれぞれちがった条件の見境いもつかないで、「役人風な法令による命令主義、下らない脅迫」紙の上だけの決議や「存在してもいないコルホーズについて自慢たらたらの決議」など巧名をあせる指導員の「政策」を、チェホフの諷刺的な小説の主人公、下士官ブリシベエフ的な「政策」として、批判した。批判の鋤は力づよくごみの山をすきかえしていて、伸子はそこに、おかしな虫けらや、臭い汚物が掘りかえされ、日光にさらされたのを見た。コルホーズ組織の「『容易な』、そして『思いがけない成功』という雰囲気においてのみ発生することのできた」「だらしのない愚劣な気分、即ち『吾々はどんなことでもできる!』」という気分は、「成功で有頂天となって、明確な理智と冷静な見解をしばしば失ってしまった結果としてのみあらわれた」という点を、論文はその冷静な分析のために一層ぬけ道のない印象で追究していたのだった。

 伸子が空色ヤカンを下げて通りがかるパッサージの従業員室の壁新聞の上でも、このスターリンの論文は、ずいぶん古びるまで皆からくりかえしよまれていた。論文は、人々の生活感情につよい信頼をよびさましたのだった。なぜなら、コルホーズ化のやりかたにあらわれれて、口から口へつたえられていた無理は、一月の、階級としての富農絶滅のための論文以来、漠然と予感されていたものだった。形のかわった何かの無理、或は馴れない新方式は、たとえばパッサージの経営に人民食糧委員会が新しく人を派遣してよこすような細部にもあらわれて、市民の気持には、何か日々に晴れやらぬ圧迫感めいたものがたまっていた。

「自分自身を飛び越えようとする笑止千万な企図」をスターリンの論文が根本から批判したことは、すべての正直なソヴェト市民に、良心のよりどころを与えた。コルホーズ組織という一つの階級的事業の進行について、この論文が、はっきり「実際的な結果」と「党そのものの内部生活にとって、党の教育にとって」重大な意味をもつ論点とを、互に一体のものとして念入りに解明している態度が、伸子にまでも、信頼とよろこびとを感じさせた。ひどい手間をかけて、二日がかりでその論文をよんでいた伸子は、最後の一節を終ったとき、太い赤鉛筆の線をひきながら、深い満足をもって、その通りトーチノ とつぶやいた。「指導の技術は、重大である」「二つの戦線に対して、即ち、落伍しているものに対しても、先っ走りしているものに対しても、たたかわなければならない」そのとおりだと伸子は思ったのだった。

 いま、思いがけず「成功に眩惑するな!」とかかれたプラカートを見つけ、伸子は、それらのすべてを思いおこした。長いことその論文の上に肱をついて、これやあれやのいきさつを考えしめていた自分。これというのはその論文だった。あれというのは、その数日前に第二芸術座で観た「チュダーク」(変りもの)というアフィノゲーノフの四幕もののことだった。舞台にのぼる五ヵ年計画の英雄の型がきまって来て、意義ある活動をするのは共産党にきまっているようになった。アフィノゲーノフの喜劇は、その型をやぶって、共産党員でない「変りもの」が彼の流儀で成就する階級への協力をとらえた。「変りもの」をそんな風に活躍させるゆとりを知っていた職場細胞の指導者へ、観客の関心をほどよくひきつけながら。──

「チュダーク」(変りもの)はあたたかい笑いで観られていた。

 マヤコフスキーの「風呂」の主人公、プロレタリア発明家はチュダコフという名だった。それはチュード(奇蹟)からもじられた名だった。彼は、幕切れで、妙な高いところへ姿を消してしまった。チュダークはその字のままに変り者で、だがチュダークの本質は決してへんくつな変りものではなかった。陽気な舞台で、軽くちを云いながら、痛烈に官僚主義と石頭とをやっつけ、人々を笑わせている本心は地道なチュダークを眺めながら、伸子は、マヤコフスキーと全くちがったアフィノゲーノフの人生における、しなやかで、もちのいい智慧のようなものを感じた。同時に、五ヵ年計画によって変化している現実は、こういう共産党員でないあたりまえの人々の存在とその活動の評価についてこれまでとちがった考えかたを肯定しはじめて来ているとも感じたのだった。

「成功に眩惑するな!」プラカートのスローガンは、きょうのメーデーの華々しさのすべてをその底で支えている冷静なつよい力のあることを伸子にあたらしく感銘させながら、だんだん人波のかなたに遠ざかって、やがては、のび上っても、もう伸子の立っている場所からは見えなくなってしまった。

 暫くの緊張からとかれた伸子のぐるりに、ふたたび、群集のどよめきと、赤い広場からのウラーが甦って来た。

「ことしのメーデーって、何だかいろいろ内容があるようだわ」

 人の流れにしたがって、もと来た道をトゥウェルスカヤ通りの方へ戻りながら、伸子は、複雑なことを単純にしか云いようがない風でつれだっている素子に云った。

「そう言えばそうだな」

「元気がいいっていうばかりじゃなく。──さっきのプラカートみたいなところ──元気よさに、新しいたての深みみたいなものが出ているでしょう?」

 その底のたしかさを、伸子は、胸のうちにうけとったように感じるのだった。


十二


 このメーデーに、日本では川崎に武装した労働者の行進が行われた。

 プラウダに次々報道される各国のメーデーのニュースのなかに、そういう記事を見出したとき、伸子は、衝撃をうけた。伸子は、日本がどういうことにか成ったかと思った。

「革命的な数百名の労働者が武器をもって行進したってあるけれど──でも、なぜ?」

 一九一八年の米騒動のときのような意味があるわけではないらしかった。武装するということも全国的に行われたのではなくて、そんなことのあったのは川崎市でだけのことらしかった。

「武装したなんて、変なみたいな話だな。どうせおまわりとぶつかるのが関の山なんだろうのに、武装なんて──」

 伸子たちの部屋の入口よりにおかれている補助ベッドに腰かけている若い画家の蒲原順二が、素子の不審を註釈するように、

「このごろ、とてもひどいですよ」

 伸子たちの知らない日本を説明した。

「市電のストライキのときだって、従業員はしずかにしていたのに、いきなり催涙弾をぶっぱなしたんですから」

「あなた、ごらんになったの?」

「僕は去年の暮にもうベルリンだったから、現場は見ません、『戦旗』に出ていた写真、みませんでしたか」

 伸子たちは、メーデーの半月ばかり前から思いもかけず、ベルリンからモスクヷへ来た若い画家の蒲原順二と、一つホテルの部屋に雑居生活をしているのだった。

 蒲原は気をくばって、夜着物をぬいで寝るときとか、朝起きて女二人の身じまいする間、場をはずして、伸子や素子の迷惑にならないようにふるまった。そのかぎりでは、一人の男が、二人の女の中にまじった生活も大した煩わしさではなかったが、そもそも、蒲原順二が伸子と素子の生活に出現したいきさつは唐突だった。

 ある午後В・О・К・С(対外文化連絡協会)から伸子に電話がかかって来た。このごろは、あまりВ・О・К・Сへ出かけない伸子に、是非たのみたいことがあるから、すぐ来てくれるように、というのだった。

「何の用なのかしら」

 また日本から、芝居か映画関係の人が来て、その交渉の助手のような用でもあるのかと思った。

「あなたをよべばいいのに」

 仕度をしながら、伸子はいくらかこぼす口調だった。

「あなたなら、言葉もちゃんとわかるんだのに」

「わたしは、いやだよ。ぶこちゃんがいいのさ。わたしのつっかえつっかえの正しいロシア語より、ぶこの一斉射撃の方が、結局役に立つんだろう。数の中から、必要な言葉をひろうこつさえわかれば、結構ぶこちゃんのロシア語がてっととりばやいんだ」

「ともかく行って見よう。わたしに出来ないことだったら、ちゃんと、ことわるわ」

「そうさ、もちろん、それでいいさ」

 В・О・К・Сの二階にノヴァミルスキーを訪ねると、彼の机のわきにまだ若い一人の日本の男が腰かけていた。その青年は、入って行った伸子を見ると、すこし腰をうかすようにして伸子を見知った表情を浮べた。ノヴァミルスキーは、

「おお、サッサさん」

 立ち上ってひどく背の高い上体を机ごしにこちら側の伸子の方へ折りまげ、伸子の手を握った。

「どうぞ、おかけ下さい」

 伸子がかけると、彼は、机に両肱をついてぐっと体をもたせかけ、例の、喉仏が一オクターヴも下ってついているようなめずらしいバスの声ではじめた。

「こういうわけです、佐々さん。ここにいる日本の青年は、さっきベルリンから来た画家です。ヘル・ジュンジ・カンバーラ」

 ノヴァミルスキーは、伸子に蒲原順二を紹介した。

「彼は、ドイツ語を話します。しかし、ロシア語は全然知りません。いかがでしょう、何とかあなたとヨシミさんとで、彼を落付けるようにしてやって頂けますまいか」

 伸子は、何だか話がさかさなような気がした。В・О・К・Сは、こういう人にモスクヷ滞在の便宜をはかる、組織であるはずなのだ。

「──わたしには、ことがらがよく理解されないんです。どうして、わたしたちが彼を、世話しなければならないんでしょう──個人的に──」

 そう云っているうちに、伸子には、いろいろ具体的な疑問がわいた。

「わたしたちは、ベルリンで彼に会っていません。いまはじめて会ったばかりです」

 蒲原順二が、ほんとにちっともロシア語を知らないのか、あるいは少しはわかってきいているのか、伸子はそういうことにかまわず、文法のあやしいロシア語で、ためらわず話した。

「彼がどんな画家であるか、わたしはそれを知りません。ベルリンで彼がどのように生活して来たか、わたしたちは、それも知らないんです。あなたに、それらのことがわかっていらっしゃるんでしょうか」

「わたしも知りません。だが、彼はベルリンで描いた絵を数点もって来ています、それは今、美術部のものが見ていますが──ちょっと待って下さい」

 ノヴァミルスキーは席をたって大股に机の角をまわり、廊下の方へ出て行った。ノヴァミルスキーのいるところは接客室とも云うべきところで、美術・宣伝部は、階段の反対側にある広間だった。

 二人きりになると、蒲原順二という青年画家は日本人同士のくつろぎのあらわれた表情になって、

「どうも、すみません」

 伸子に世話になることがきまっているように挨拶した。

「いいえ。──でもいきなりで。──いつおつきになったの?」

「二時間ばかり前、停車場からタクシーでまっすぐここへ来たところなんです。日本へ帰る前、是非いちどモスクヷへ来たかったし、モスクヷで知っているところと云えばВ・О・К・Сしかないもんですから」

 蒲原順二は、去年の十二月はじめからベルリンにいたということだった。伸子がその同じ十二月にパリからモスクヷへ帰るとき、列車を乗りつぐ時間、ベルリンにいた。往きにベルリンで暮した数日の間つきあった川瀬勇にも会ったが、蒲原という名は話に出なかった。蒲原は、一ヵ月はモスクヷに滞在して、ロシア画家の作品ばかりを蒐集してあるトレチャコフスキー美術館や新しいプロレタリア画家たちの仕事について知りたいというのだった。

「僕のドイツ語はたよりないんですが、僕の画を見た上で、こっちのプロレタリア美術家連盟へ紹介してもらえるかもしれないらしいんです。もしそういうことになれば、僕がここで何か描いて、モスクヷにいる間の費用ぐらいは出そうなんですが──」

 蒲原と伸子とが、待ちあぐねかけたとき、ノヴァミルスキーが部屋へ戻って来た。

「およろこびします。ヘル・カンバーラ」

 彼はドイツ語でそう云いながら、安心と戸惑いで若い顔をうすくあからめた蒲原の手を握った。

「サッサさん。カンバーラさんの絵の技術は、美術部で承認されました。すぐ、プロレタリア美術家同盟への紹介を彼におわたしします。同盟は彼に仕事を与えます。そして、経済上の援助もいたします」

「ようございましたこと!」

 伸子は、ノヴァミルスキーが云ったとおりを蒲原につたえた。

「深く感謝します」

 礼をのべながら、蒲原順二は、まだ知りたいことがのこっているという風な瞬きをした。伸子もその気もちは同じだった。

「それでは、同盟の事務所へ彼を案内すれば、彼の宿を紹介してもらえるでしょうか」

「そのことです、サッサさん」

 ノヴァミルスキーは、バスの声を一層低いバスにして、

「あなたの御親切に期待しなければならないところです。われわれは彼に仕事を与えることは出来ます。しかし残念ながら宿の世話は困難です。──彼はモスクヷへ来るまでの金をもっていたので、目下のところ宿のために支出することができないんです」

「そうなの? 蒲原さん」

「小遣いぐらいは何とかなるんですが……」

 ノヴァミルスキーは、

「そういう次第なんです」

 おおきくうなずいて、伸子の眼を見た。その灰色の眼をじっと見かえしながら、伸子は、ひとこと、ひとこと考えてみながら云った。

「御存じのとおり、モスクヷでは外国人に個人の室をかさないことになっているから、わたしは、彼をどう落付けていいのかわかりません」

「──さてね──」

 そのことは、ついノヴァミルスキーの念頭にもなかった風だった。

「全然知っていないひとをつれてゆくのなら、ヨシミさんに、電話しなければよくないでしょう」

「その通りです!」

 素子は、案外あっさり蒲原順二がホテル・パッサージへ来ることを承知した。

「よござんすよ、そんなわけなら、長いことでもないんだし、この室へもう一つの補助ベッドを入れさせましょう。朝のお茶はどうせ大したことないんだから一緒にして、正餐アベードは別。いいでしょう? あなたは補助ベッドの代を自分で払って下さい。二ルーブリ、ちょっとだから」

 濃くてこわい日本人の髪の毛を、あっさり左わけにして、いくらか反っ歯の、頬骨の高い蒲原順二は、こうして伸子たちの部屋の一隅で臥起きすることとなったのだった。

 日本の画家がモスクヷへ来たのは蒲原がはじめてであった。プロレタリア美術家同盟は、労働者クラブに飾るため、日本のメーデーの絵を彼にもとめた。百号で、画布とアトリエが提供された。

 蒲原は、朝の茶がすむと伸子たちの室を出かけて、毎日光線の許すぎりぎりまで、共同アトリエで制作した。大体出来あがって、その下見したみが行われたとき、伸子もついて行った。プロレタリア美術家同盟の書記局の仕事をしているミチェンコという大男の画家は、板壁にたてかけた蒲原の作品をじっと見ていて、

「あなたには、相当の技術がある」

 暫くとぎれて、

「これだけ描けるならもっと、日本の労働者らしい顔や体つきの特徴がつかめるはずだと思うがな。東洋人一般の顔でなく──」

 伸子は、そこだったのか、と蒲原の画面に対して感じていた、ぼんやりした不満の正体を理解した。蒲原の描いた日本のメーデーの絵は、赤旗やスクラムを組んだ男女労働者や、ひっこぬき検束をしようとして一人の労働者のまわりにおそいかかっている黒服、サーベル、あご紐をかけて巻ゲートルをした警官隊と、それに抵抗してもみ合う行進者一群を描いて、日本のメーデーの性格を示そうとしていた。その状況は説明されているけれども、全体の画面は弱くてリアリスティックな熱っぽい雰囲気や量感に欠けていた。

「きいてごらんなさい、タワーリシチ」

 ミチェンコは、すこしおどけて、大きいのひらを片方の耳のうしろにあてがって眼玉を大きくし、画面に向って耳をすます様子をした。

「きこえない、わたしにはきこえない。この画からはメーデーの跫音がきこえて来ない。彼らは眉毛で憤っている」

 左手の指さきで、自分の眉毛をつき上げた。

「彼らは口でおこっている」

 画面の労働者が叫んで開いている口つきをまねた。

「しかし、声がない。どよめきがない──真実の感情が不足しています」

 伸子が自身の同感をふくめてとりつぐそれらの批評を、蒲原順二は、こだわりなくうけいれた。

「やっぱり、そうかなあ。こわいもんだなあ」

 蒲原はこういう制作に必要な、日本のメーデーのスケッチやクロッキーをモスクヷへはもって来ていなかったのだった。そういう条件をありのままに告げて、新しく協議した結果、蒲原は、主題をかえて、二月の東京市電のストライキのときに、男女従業員が催涙弾で襲撃された事件を描くことになった。

 プロレタリア美術家同盟の事務所から伸子とつれ立ってかえりながら、蒲原順二は、

「こっちの画家って、率直ですねえ」

 自分の制作がパスしなかったことについて、彼は格別しょげてもいず、意外に感じてもいない風だった。

「こっちの画家は、大衆の目そのもので、絵を見ようとしているらしいですね。よその国の画家たちみたいに、メチエなんかに、あんまりひっかかっていないんですね」

 美術学校の教育をうけた日本の青年画家として、ドイツの左翼美術家の仕事を見た上でモスクヷへ来た蒲原は、ソヴェト画家のめざそうとしている新しいリアリズムの方向について、自分の制作がうけた批評そのものから、何かを理解しようとしているようだった。

「こんどの仕事では、僕、いくらケチをつけられても、いやな気がしない。ソヴェトでは絵画というものを、どう考えているか、そのうってつけの実験ですからね、僕にとっちゃ千載一遇です」

 そして朝のおそい伸子たちと一緒に茶が終るのを待ちかねて、プロレタリア美術家同盟の共同アトリエへ出かけて行った。

 これは、みんなメーデー前のことだった。一九三〇年のメーデーには、いろいろな労働組合のクラブが、五ヵ年計画第一年の成功の記念として、それぞれに、クラブの壁を飾る絵をおくられた。蒲原順二は、その一つに加わる制作として、日本のメーデーを、もとめられたわけなのだった。

 コムソモーリスカヤ・プラウダでその記事をよみ、化学労働者クラブがもらった職場の絵の下で、そこのウダールニクたちが、うれしそうに笑って写真にとられているのを見ると、蒲原順二にも、自分の制作のパスしなかった残念さが実感されるらしかった。

 彼は、じっとその新聞写真に出ている化学工場の内部を描いた画を見ていたが、何か考えが湧いたらしく、

「佐々さん」

 自分のベッドのところから伸子をよんだ。

「なあに」

 伸子は、茶テーブルの上で、ロシア語文法を勉強しているところだった。

「僕のこんどの絵ですがね、大体下絵だけは出来たんです。こんどのやつは、この前のように、仕上げてから批評してもらうのではなく、今のところでいっぺんあのひとに見て貰うのは、どうでしょう」

「その方がいいとお思いになれば、わたし、またついて行くことはかまわなくてよ」

「すみませんが、じゃ、あしたでも時間をくりあわせてもらえませんか。実は、僕として折角モスクヷへのこしてゆく作品なんだから、出来るだけ変色なんかしない絵の具がつかいたいんです。前の一枚がふいになってしまったから画布はもらえたんですが、またしくじると、絵の具の方がちょっと痛いんです」

 伸子も素子も、蒲原自身も笑い出した。

「なるほどね、われわれの知らない苦労があるわけなんだな」

「ひとつお願いします」

 木炭で下絵の出来ているカンヴァスをもって、伸子と蒲原順二は、ふたたびプロレタリア美術家同盟の書記局を訪ねた。

「おお、タワーリシチ・カンバーラ」

 ミチェンコが、立って来た。蒲原の下げているカンヴァスを見ると、

「お見せなさい、おみせなさい」

 せっかちに、待ちどおしそうにせきたてた。カンヴァスが、板壁に立てかけられた。伸子がなぜ下絵で見せに来たかという理由を説明した。絵の具の心配について蒲原が伸子たちにうちあけたことにはふれないで。

「わるくないじゃないですか」

 彼自身一人の画家として、外国の画家の仕事を、下絵から見るということには、おもしろさがあるらしかった。

「まじめに努力してある」

 蒲原にタバコをとらせ、自分もくわえ、火をつけて、煙をふかく吸いこみながら、なおカンヴァスから目をはなさずにいたミチェンコは、突然、

「タワーリシチ・カンバーラ」

 蒲原の名をよんだ。そして、自分でもその発見に目をみはる声の調子で、

「どうして、君は、人物の肉体をすっかり描かなかったんですか」

 例の手まねで、

「足もとから、体をすっかり頭まで」

 自分の体の線をたどって足から頭まで人さし指を動かした。

 蒲原の画面では、催涙弾をうけた瞬間の市電従業員の群が左側に大きく迫った八分身で描かれ、早くも倒れた一人の婦人車掌の体をこして、むこうに、警官隊の例が見えている。

「全体の物語をお描きなさい。労働者たちが、こういう野蛮な襲撃をうけたとき、彼らは、いつだって全身でたたかわなければならないんです。ごらんなさい、こんな風に」

 蒲原の画面にあるとおり、ガス弾をうけてはっと両手で顔をおおい、肩をねじった労働者の、腰、脚、足元が、その瞬間どんな運動をおこすか、画家ミチェンコは、自分の体でやって見せた。

「ごらんなさい。体全体がこういう風に動くんです。体全体で抵抗するんです。肉体でたたかうんです」

 大きい掌で、蒲原の肩をたたいた。

「あなたには技術があります。やってごらんなさい。僕は君の成功を疑いません」

 こんどの批評は、蒲原順二を、長いこと彼の下絵のよせかけてある板壁の前から身動きさせないものをもっていた。ミチェンコの批評は、一枚の下絵について話された技術批評をはみ出して、労働者は彼らを搾取する権力のもとではどのように生きなければならないか。その真実についての物語の一節なのだった。

 伸子はミチェンコの批評の実感にうたれた。蒲原順二はポケットに手をさしこみ、両脚をひらいて立ち、浅ぐろい日本青年の顔をたれて、上目に自分の仕事に見入っている。彼のその様子には、モスクヷへ来てからきょうはじめて、正直に、参った、というところが見えた。美術上の問題の底が、ミチェンコが直截に描き出したような労働者生活の現実に根ざしている。そのことを、蒲原順二はみとめずにいられなかったのだ。そして、この理解は、彼がいくらか批判をこめた語調で、こっちの画家は大衆の目そのもので、絵を見ようとしているらしいですねと、その素人しろうとっぽい素朴なリアリズムの態度にふれた、彼の言葉の一部にある浅さをも、蒲原に自覚させているらしかった。

 画家らしさからというよりも、青年らしさから、ミチェンコの批評をまともにうけた蒲原順二を、伸子は親愛の感じをもって眺めた。


十三


 プロレタリア美術家同盟は、蒲原順二の二度目のやりなおしを支持して、制作が完成したときに支払う予定の金の一部を、早く彼にわたしてくれた。


 その金で、蒲原は、同盟の事務所で知りあった若い画家の親戚という家の一室をかり、パッサージ・ホテルをひきはらった。モスクヷ河岸のあっち側で、ごろた石じき道の上に馬糞や藁くずの散っている倉庫通りから入った、裏町の一隅だった。

 ペンキのはげた木造の門が傾いて立っている。乱雑にがらんとした内庭をかこんで、いくつか建てられている古びた木造家屋の中には、幾組もの家族がこみあってすんでいるらしく、内庭に面してほしもののある出入口の階段に、子供たちがかたまって遊んでいた。

 蒲原のかりた室は、ひどく脂じみていて床の一部は腐っていた。

「モスクヷには、むずかしい規則があるんだそうで、僕はここで借室人ではないんです、泊り客というわけなんです」

「なるほどね。お客をとめるにしちゃちょっとひどすぎるけれど、絵をかく人なんだから、ホテルになんぞいるよりずっといいですよ。ホテルじゃ画なんか描けっこないさ。雰囲気がないんだもの」

「そうなんです」

 蒲原は、伸子たちのところを出た動機が、素子にも自然に理解されていることを満足そうにうなずいた。

「おまけに、僕自身、少々、まとまりよく出来すぎているんです。──芸術家として、マイナスだと思うけれど、生れつきかなあ」

「ふ、ふ」

 素子が好意とからかいとを交ぜて若者を見る、年かさの女の眼で蒲原を見た。

「それできみが芸術家きどりだったりしたら、一日でわれわれのところはおはらいばこさね」

 蒲原は、意識してか意識しないでか、伸子と素子と、どちらに対しても、中性的な存在として暮したのだった。


 補助ベッドがとりはらわれて、伸子たちの部屋は久しぶりにひろびろした。何もなくなった床のそのところに窓からの朝日がさしこんでいる。気がねなしに、ぬいだり着たりすることは伸子にとって新鮮なくつろぎだった。

 そういうある朝、二人きりの、のんきな時間で伸子と素子とが茶テーブルに向いあったとき、ドアがノックされた。何となし、ききなれないノックの音だった。伸子と素子とは、目を見合わせた。

「お入りなさい」

 素子の声といっしょにドアがあいて、姿を現したのは、ベルリンの川瀬勇だった。

「やあ──いま、お茶かい?」

 まるで、ついそこから来たひとのような調子で、川瀬は、あいている長椅子のところへ行ってかけた。

「その後、いかがです?」

「そっちこそ、どうなのさ」

「うん、まあ、相変りつつ、相変らずってところだな」

「中館君は日本へかえったらしいね」

「ああ。結局帰ることにしたんだ。──その方がいいと思うだろう?」

 伸子たちがベルリンに滞留した去年の初夏、中館公一郎は川瀬勇などのグループにまじっていて、映画監督として新しく生きる方法について、いろいろの問題を悶んでいた。モスクヷへ歌舞伎が来たとき、中館もモスクヷにいてソヴキノの仕事ぶりを研究したりもした。

「あのころもずいぶん、迷っていたようだったが……」

「みんな、それぞれ迷うんだな。しかし、あれでよかったんだろう」

 川瀬勇は、彼流に、説明をぬいた話しかたをした。

「ところで、君自身は、どうしているのさ?」

 長い脚をくんで、長椅子にかけている川瀬勇の頭から足の先までを、素子はわざと、じろじろ調べるように見た。

「例のひとの方は、どうなった?」

「結婚したよ」

 中国青年にみまがう眼のおおきな川瀬勇の顔の、耳の下がすこしあからんだ。

「じゃ、わたしたちも何かお祝いしなくちゃいけないわ」

 会ったことのない川瀬の新妻のために、伸子は何をおくったらいいだろうと思った。

「それもそうだが──大体、きみはいつまでここにいるのさ」

「きょうの午後、帰る」

?──ほんとかい?」

「ほんとさ」

「あきれたひとだ、じゃ、モスクヷへはいつから来ていたのさ」

 川瀬は、だまったまま素子の顔を見て組んでいる脚をぶらぶらふりはじめた。彼として、素子の質問は答えるに不便なことらしかった。

「そんなことは、まあいいとして……午後立つというんじゃ御飯によぶわけにも行かないし……」

 ベルリンで毎日世話になっていた川瀬がモスクヷへ来たのに、何のもてなしもするひまがなくなってから会うことになったのを、素子はひどく残念そうだった。

「──ひとこまらせだよ、こんなの……」

「出かけてしまっているかとも思ったんだが、ひとめ会おうと思ってね」

 もうやがて十一時になる時刻だった。伸子は、ひとのいい若い女らしい気のもみかたで、素子に相談をもちかけた。

「ねえ、川瀬さんに、なにをお祝いする? もって行かせなけりゃ。こっちから品物は送れないんだから」

「何にもいらないよ」

「そうは行かないがね」

 考えていて、伸子と素子とは、いちどきに口をききかけた。

「この間クスターリヌイ(民芸美術館)へ行って買って来たものを出して、見てもらおう。その中から気にいったものをよってもらうのがいいだろう」

「わたしもそう思ったところだった。じゃ、すぐ出す」

 床の上にひざまずいて、伸子は自分の寝台の下におしこんである籐の大籠をひき出した。そして、ロシア刺繍のほどこされた数枚のテーブル・センターと、まだ仕立ててない婦人用ルバーシカを、テーブルの上に並べた。

「ホウ。──こりゃ、きれいだ」

 ロシアの民芸として刺繍は世界に知られていた。色どりも図案もいかたも多種多様で、北方地方のものと、ウクライナ辺の作品とでは配色も模様も、全くちがった。

 伸子は、ルバーシカ地をひろげた。

「これにしましょうよ、川瀬さん、これはきっと、奥さんに似あうと思うわ、どう?」

 ざんぐりした麻の布地に、水色と空色金のようなレモン色、それにところどころ濃いブルーをちりばめて、小花のようにつづいた幾何模様が繍いとりされている。ドイツの女のひとであれば、ゆたかな金髪であろう。そして、川瀬の妻であるひとならば、きっと、さっぱりとした頬の色のひとであろう。そういう金髪と自然な頬の色に、このルバーシカを仕立てて着たら、夏のころには、なかなか眺める川瀬の眼にもたのしかろう。伸子は、そう思って、すすめた。

「だって、誰かが着るために買ったんだろう」

「あながちそうでもないんだから、いいよ。黒い髪よりは金髪のひとが着た方がひき立つ」

「そりゃあそうかもしれないね、この色どりは……」

 伸子は布地をひろげて、これはカラーの部分、これはカフス、これは胸前のたての襟になるところ、と、ルバーシカが仕立あがったときの形に、刺繍された布を並べた。

「ああそうか、その布は、そこへ行くわけか」

とひとりごとを云いながら、伸子の手もとを眺めていた川瀬は、ふと、あたりまえの話し声で、

「おやじさんが、是非また会いたいそうだぜ」

と云った。

 伸子は、顔をあげて川瀬をみ、ひどく当惑した表情をした。メーデーの前に山上元のところへ訪ねて行ったことは、素子に話してなかったのだった。困った伸子の顔つきを見て、川瀬は、

「そうだったのか、失敬した」

 しかしそのまま、やはりあたり前の声でつづけた。

「きょうの三時に来てくれっていうことだ」

「ふーん」

 素子が、不快そうな口元の表情で、タバコの煙をはいた。

「そういうことだったのか」

「失敬した。僕は、どっちも知っていることなのかと思ったもんだから」

「わたしは何にも知らないよ。しかし君の関係したことじゃない」

 この場は気をとり直そうとする声の調子で、

「まあいいさ。──どっちみち、わたしの用じゃないんだから。──こっちの方をきめようじゃありませんか」

 結局、川瀬はルバーシカを伸子たちからの祝いとしてうけとった。

「貰い立ちしてもいいかい?」

 立つ前に、モスクヷでまだすましておかなければならない用事があるからと、川瀬は、それから三十分もいないで、伸子たちの室を去って行った。

 伸子は、二人きりになって、ますます困惑した。だまったまま、テーブルの上にひろげられている刺繍を片づけはじめた。ゆっくり動いている伸子の上に、素子の視線が釘づけになっている、それを伸子は重苦しい疼痛の斑点のように、自分の肉体に感じた。

 とりちらされたテーブルの上が殆んど片づいたとき、素子が伸子にきいた。

ぶこ、行くんだろう」

 きょう三時に来るようにという山上元のことづてをまもって、行くのだろう、という意味だった。

「行こうと思う」

 素子の不快そうな、こわい顔におじけづかないように、自分をはげましつつ、伸子は、テーブルのわきに立って、返事した。

「話をしなくて、ごめんなさい」

 ──しかし、この間、ひとりで山上元に会いに行ってしまったことが、ほんとうの意味で素子にあやまらなくてはならないことなのかどうか、伸子にはっきりしなかった。伸子が、山上元に会って見ようと思いはじめ、それをひとりで実行した、その心もちの過程には、何か伸子だけのひそかな動機──伸子自身にさえ明瞭になっていない動機が熟していたのだった。マヤコフスキーの自殺や、第二芸術座の「チュダーク(変り者)」や、その刺戟のほかに、素子の日々の生活の感情そのものの中に、伸子を素子にはだまって山上元のところへ行かせるものがあるのだった。

ぶこが行くのは自由さ。わたしにだまって行ったのも、自由だろうさ。だけれど、もし……」

 素子の声が震えて途切れた。素子の眼に涙がいっぱいになった。

「もし、わたしも、行きたかったんだとしたら、ぶこ、どうしてくれる」

 そういうことがあろうと感じられていなかったからこそ、伸子は素子にだまって、リュックスへ出かける気持になったのだった。伸子は、赧くなって、涙を目にためた。

「ごめんなさい」

 心からあやまった。

「わたしには、そう思えなかったもんだから……」

 やっと、一つの道を見つけて、伸子は素子に云った。

「あなたも行っていい心持なら丁度いいわ。きょう、いっしょに行きましょうよ。この前だって、何にも用という用はなかったんですもの、いっしょに行って見ましょう」

「そんなことが出来るかい!」

 いつの間にか火の消えたタバコを咥えたまま素子は、明るい窓の外に顔をむけた。

「きみに、来い、と云ってよこしたんじゃないの。わたしも来い、とは云ってよこしちゃいないよ。子供のおともじゃあるまいし、用もないのに、のこのこ、くっついて行かれるもんかどうか、考えてみればわかるじゃないか」

 それはそうだけれども、と伸子は考えるのだった。

「御馳走によばれるのとはちがうんだから、わたしは、かまわないと思うけれど……」

 ことの順序として、リュックスに電話し、きょうは素子もいっしょに行くことを、山上元に知らして、承諾を得ればいい。伸子はそれが不可能だと考えなかった。

「ね、そうしていいでしょう? この間のとき、あなたの話もでたのよ、だから……」

「まっぴらだよ。わたしが会いたければ、自分で勝手に行くだけだ」

 素子の気分をやわらげようとつとめる自分に、伸子は抵抗を感じた。素子は自分から一度でも山上元に会おうと思ったことがあったのだろうかと。


十四


 からりと晴れた、人通りの賑やかなトゥウェルスカヤ通りの角に立ったとき、伸子は思わずベレーをかぶっている頭をふって、深く息を吸いこんだ。

 素子の前にひきすえられていたような、ホテルの室での気分は、何と苦しかったろう。外へ出ると、こんなに気持がはればれする。そのことが伸子を悲しくするのだった。

 ゆっくりと、しかし確実な目的をもっている者の歩きつきで、伸子はトゥウェルスカヤのゆるやかな傾斜を、かみへのぼって行った。そして、リュックスの表ドアをはいった。受付の男は、はじめて伸子が来たときにいた男だった。彼は、事務的に伸子の旅券をあずかった。

 二階の廊下に、きょうもかすかにシチのにおいが漂っている。けれども、アルミニュームの鍋をもって通りがかる女のひとに出会わず、伸子は、もう一つ曲ったところにあるうす暗い廊下で山上元のドアをたたいた。

 きょうはタイプライターが片づけられている。出窓のところに干されている婦人靴下もなかった。出窓は、そろそろ六月になろうとする季節に向って二重ガラスの内側があくようになって、この前そこいらにあったごたついた品は、さっぱり整理されている。

 山上元は、伸子を見るとすぐ、

「けさ、川瀬がよったろう?」

ときいた。

「よって下さいました。それで上ったんですけれど……」

「うん。──まあ、そこへかけなさい」

 山上元は、伸子と向いあってかけ、ズボンのポケットへ両手をいれて、テーブルの下へずっと両脚をのばした。初夏めいた明るい光線で、山上元の下瞼についているふくろが、伸子にはっきり見えた。

 社交的な無駄ばなしに馴れていない人の、ぶっきら棒な調子で、

「『戦旗』で、きみの書いたものをほしがっているそうだよ」

と云った。

「書けたら送ってやるといいね」

「わたしの書くものでも役に立つならば送ります」

「役に立つどころか、必要だよ。出来るだけルポルタージュでも何でもかいてやんなさい」

 伸子は、ふとユーモラスな気になった。山上元の「自伝」の中に、クリスチャンだった青年時代の彼が、小説はみだりがましいものだと感じたという一節があったのを思い出したのだ。そして下宿先の主婦に、文学のねうちというものを説明されたが、どうも納得しかねた、という感想が書かれていた。それからのち、革命家として変転の多い生涯を送りつづけて、七十歳になった山上元が、果して日本のどんな小説をよんでいることだろう。伸子がソヴェト同盟へ来るまでにかいていた小説を、山上がよんでいないことだけは、最も確実だと思えた。それなのに、どこから彼は伸子に「戦旗」にかけとすすめるのだろう。「戦旗」にのっているベルリン通信のような、階級的な角度のつよい文章が自分にかけるとも伸子に思えないのだった。伸子は笑いながら、

「わたしの書いたものなんか、これまでおよみになったことないでしょう」

と云った。

「書かせてみたら、こんなもの、じゃ、わるいと思います」

「いや読んだよ」

 小さいけれども角ばっていて強情そうな年よりの顎をつき出すようにして、山上は、例の三白眼で伸子を見た。

「何だっけ、──こっちへ来てから、モスクヷのことを書いているのを、何かで読んだよ」

「──『文明』に出ていたんでしょうか」

「そうだ、そうだ。──結構おもしろかったよ」

 伸子は、体がぽっとあつくなった。山上がよんだというモスクヷ印象記は、伸子がモスクヷへ来て最初に書いたものだった。あのころから二年以上たって、しかも現在のソヴェト生活にくらべると、伸子の印象記は、ロシアの民族性という興味にひっかかりすぎていた。そして、伸子が現在理解しているよりも一層未熟にしか、階級の問題をとらえていなかった。

 しかし、山上は、その印象記については、それをよんだ、という事実以外に、こまかいことは記憶していない風だった。おおまかに、

「あんなのだって、送ってやればいい」

と云った。

「太陽のない街」が、ドイツ語からロシア語に翻訳されるということだった。「一九二八年三月十五日」も近々ロシア語になるということだった。

「いまに、日本のプロレタリア文学の作品はどしどし翻訳されるようになるよ、東洋語学校の日本語科の卒業生が急速にふえているからね」

 山上元は、しばらく言葉をきって、伸子の存在をもこめて前方の壁を見ていたが、

「どれ、またジャムを御馳走しようか。この間のは、うまかったろう?」

 椅子を立って、ベッドの裾のついたての蔭にはいった。そして、間もなく、全くこの前のとおりの、無骨なくせに、何でもできる手つきで両手に茶のコップをもって現れた。とりつくろわないそのかっこうに伸子はつよい親愛感をもった。若い女が、ふとしたときに老人に対して抱く暖かい好感が伸子の胸をみたした。伸子は、その室の隅にとりつけられている二人がけの小長椅子にかけたまま、この前のように遠慮せず、両手にコップをもって運んで来る、ずんぐりした山上元の様子を、うれしそうに眺めていた。来るたんびに、御自慢のジャムを御馳走になり、それを自分も面白がってよろこんでいる。伸子は、きっと自分ではいま子供っぽい顔つきになっていることだろうと思った。

「あら、これは何かしら、めずらしいこと」

 お茶のコップの次に運び出されたのは、桜んぼぐらいの大きさで、リンゴのような皮の果物のジャムだった。

「リンゴの一種だね」

 山上は、そう云ったきり、ロシア流にひとさし指と中指との間にサジをはさみこんで、コップの茶をのんだ。

 伸子が、丁寧にジャムをたべてしまうと、山上は、しばらく、伸子の前のガラス小皿の上にのこった幾粒かの果物の種を見ていたが、いきなり、

「どうだね、君は、こっちへのこる気はないの」

と云った。

 ──伸子は、顔をあげて山上の眼を見た。

「モスクヷへ?」

「ああ」

 自分がかけている椅子ごと、部屋じゅうがぐるりと一つまわったような感じだった。

「のこるって──」

「日本へ帰らないで、こっちにずっといてしまうのさ。こっちで仕事をするんだ」

 伸子は、山上のいうことが、どうかしてひどくわかりにくかった──言葉そのものではなく、そういう考えかたそのものが──

「仕事って何ができるのかしら」

 政治的な活動をする女になるということを、考えたことがなかった。だけれども、伸子が日本人で、モスクヷへのこり、日本へ帰らなくなるとすれば、モスクヷでその立場は、政治的である以外にありようないわけであった。伸子がこれまで、トゥウェルスカヤの通りや並木道ブリヷールですれちがったとき、こっちから行く伸子を目に入れるとにわかに日本人だか中国の人だか区別のつかない表情をよそおって通りすぎて行った日本人らしい人たち。その仲間にはいること以外に、伸子がモスクヷにとどまっての生活は考えられない。

 伸子は、亢奮して来た。自分がモスクヷにとどまってもいい者として判断されているということ。伸子の心臓はこの申出によって、口からとび出しそうにはげしく波うった。思ってもいないことだった。自分がそのようにみられていた、ということは。──でも、

「わたしに出来ることがあるのかしら」

 心配そうに、伸子はいくらか声をおとした。伸子のような者がその仕くみのなかに参加するにしては、山上元という名につながるすべての機構が、あんまり巨大であり、権威にみたされている。

「いくらだってすることはあるさ」

 山上元は、ふたたびテーブルの下へ、ずっと両脚をのばした姿勢で、こんどは真正面から、動顛した伸子の、上気して、ほてっている顔を見つめた。

「何も心配することは、ありゃしない。こっちにいて、いくらでも日本の小説を書けばいいんだ。外国の作家でも、こっちにいて小説をかいているのは珍しくも何ともないよ」

 ベラ・イレッシュは亡命してモスクヷに来ているハンガリーの小説家だった。彼の写真と作品が小説新聞ロマン・ガゼータの特輯として発行されているのを伸子も買った。イレッシュは亡命して来ている小説家だった。イレッシュは小説だけを書いていた人ではなかった。故国のハンガリーで革命のために活動して、その結果、その収穫をもって、モスクヷへ来た。自分は、日本でどういう風に生活していただろう。

 伸子は、山上元が、何かの思いちがいをしているならばわるいと思った。彼が、伸子について何かを知っているとすれば、それがむしろ不思議だと云えるくらいだった。伸子は日本のプロレタリア文学運動にさえ無関係だったのだから。

「本国で、何かちゃんと活動して来たのなら、こっちで、小説をかいても役に立つかもしれないけれども──御存知だと思うんですが、わたしは、そうじゃないんです」

「そりゃよくわかっているさ。しかし、きみぐらいの技術と経験があれば、何もここにいたからって、日本の小説が書けないと、きまったものでもないだろう。僕を見なさい。僕は、もう二十年日本をはなれているよ。しかし、日本の現実について、ちゃんとわかることができるし、情勢の判断も出来ている。──」

「そりゃ、報告をもっていらっしゃるから」

 伸子は思わず高い声を出した。

「もちろん、そうさ。報告によって書くんだが、小説だって大してちがいはしない」

 はげしい動揺と混乱の間で、山上元のこの言葉は、伸子に自分というものが、立つ、小さな場所を与えた。山上には、文学の作品がどんな工合にしてうまれるものか、全然理解されていない。

「あなたが、報告によっていろんな問題を具体的に判断おできになるのは、何と云ったって、日本で、自分で、労働運動をやっていらしたからじゃないでしょうか」

「うん、それはそうだ」

 しばらく、二人の間に話がとぎれた。やがて山上が伸子にきいた。

「日本では、いま本をどの位発行しているかね?」

「部数ですか?」

「うん」

「文学書は、千か二千ぐらいじゃないでしょうか。大菩薩峠なんてものは、何万でしょうが」

「そんなものか。君の本なんかは、どうかい」

「わたしのなんか、少いですよ」

 伸子は、いくらかくつろいだ笑顔をした。

「こっちへ来る前にかいた長篇は、千と二千の間だったようです」

「そんなことじゃ仕様がない!」

 白髪の頭を山上元はきつくふった。

「プロレタリア作家の本も、日本じゃそんなに少ししか売れないのかい?」

「それはもっと多いでしょう。『戦旗』だって、かなり出ているらしいし、『太陽のない街』や『蟹工船』は、もちろんもっと出ています」

「それだって日本じゃどうせ高がしれたもんだろう。こっちじゃ、ファジェーエフの作品なんか百万部よまれているよ」

 それはそのわけだった。図書館、労働者クラブ、学校・工場・役所の図書室、ソヴェトじゅうの公共施設は、あらゆる古典と現代の代表的な作品をそなえつけようとしているのだから。それが五ヵ年計画の文化計画の一部であった。

「日本の読者は、めいめいの懐で、一冊の本だって買わなければならないんですから、つらいんです」

「それもそうだな」

 山上元は、ちょっと考えこんだ。彼も、青年時代には、一冊の本を買うことも出来にくい生活だったのだ。

「ところで、どうだい、ほんとに、こっちで暮す気はないかね」

「それは、うれしいけれど」

「けれど、どうなんだ」

「あんまり思いがけないから」

「まさか、親に相談しなくちゃならないわけでもないんだろう?」

 このままモスクヷに居ついてしまうということは、形の変った亡命だった。佐々の両親に、何を相談するべきことであるだろう。

「そんなら、きみのはらひとつじゃないか」

「わたしは、こっちにいてしまってもいいけれど、仕事がわからないんです」

 伸子の心は、山上元がモスクヷにとどまるようにと云った瞬間から、もう九分どおり決ってしまったようなものだった。伸子が、最後の一分でわからないでいるのは、モスクヷに止ったとして、それからの伸子がするべき仕事は何かという実際上の問題だった。伸子は、年齢にくらべると、早くから文学上の仕事で働き、それで生活しつづけて来た。

「何も心配することはない。きみの能力ですることはいくらもある。ありすぎるぐらいだ。いくらいい小説を書いたって、日本じゃせいぜい千単位なのにくらべりゃ、こっちで、十万部読まれた方が、どんなに作家としたって気持がいいかしれなかろう。ソヴェトじゃ、どんな本だって、少くとも出版されるからには十万が最低だよ」

 それは、大きい部数がよまれるのは作家にとってうれしいことに相異なかった。しかし、それにしても、いい作品をかく、ちゃんとした作品が書ける、ということが先決問題であることに疑いない。伸子には、その点が、わからないのだ。そして、話しているあいての山上元が、そういうこまかい実際の点を理解していない──というよりも、国際的な革命家として、そういう面に直接ふれる必要のない生活を送って来ているひとだということが、伸子に切実に迫った。出版される部数の多寡だけに、文学の意味はないと思われる。──

「こうしてはどうでしょう」

 こんどは、伸子から提案した。

「一週間たったら、考えをきめた上で御返事に来ます。それでは、どうかしら」

「そうしよう!」

 山上元も、このまま問答をつづけているのは、時間のむだだと感じはじめていたらしかった。

「それでいい。じゃあ来週のきょう。いいね。やっぱり三時」

 山上からみれば自分はどんなに不決断でまどろっこしい女だろう、と伸子は、きまりわるく思った。

 帰りかけようとする伸子を山上が、

「あ、ちょっとたのむものがある。待ってくれ」

と、とめた。彼は、寝台と反対の壁ぎわにつくりつけられている高い書棚から二冊の本をもって来た。

「これは、きみにやる」

 ヴェーラ・フィグネルの伝記であった。ロシア革命家叢書のうちの一冊で、革命から間もない一九二二年に出版されているその本は、そのころの窮乏をものがたってわら半紙のように粗末な用紙に印刷されている。

「フィグネル、知っているんだろう? 人民の意志ナロードノ・ヴォレツ党の婦人闘士だった女だ」

 石版刷されているヴェーラの細面でりんとした写真を見ている伸子に、山上は、

「こっちは、翻訳してもらいたいんだ」

 同じような装幀の一冊を示した。ネチャエフの伝記だった。

「組織へはいりこんでいたスパイを制裁した男だ。レーニングラードの薬学校の裏の洞窟で──」

 ずっと昔よんだドストイェフスキーの「悪霊」の一場面が、急にはっきり思い出された。同じようなレーニングラードの何かの専門学校の裏山の洞窟、そこで制裁される背信の若者。それらがドストイェフスキー独特の暗さと蒼白さとで描かれていた。

「ドストイェフスキーが小説にかいている事件かしら」

 それにとりあわず、山上元は、

「ネチャエフという男は、大した男だ」

と云った。

「つかまって、牢屋へぶちこまれて、いくど法廷へひっぱり出されても何一つ組織については云わなかった。それをよんで、きみが適当だと思う部分だけ翻訳すればいいんだ」

 いや応ない山上の口調であった。

「それは、いそがないから、ゆっくりでいい。もっとも六月の半ばになれば、僕はクリミヤへ行ってしまうがね。日本のインテリゲンツィアは、あんまりいくじがないから、ひとつ、ネチャエフみたいに、しっかりした男もあるってことを教えてやる必要がある」

 ネチャエフは、ヴェーラと同時代の人だった。一八〇〇年代の終りの革命家たちであり、ロシアの革命がテロリズムからマルクス主義の革命の方向に発展してゆく過程の人たちなはずだった。日本のインテリゲンツィアが、いくじがない、と云う山上の批判の内容が伸子にわからなかった。同時に、革命の歴史のちがう人民の意志ナロードノ・ヴォレツ党の英雄の伝記が、きょうの日本の人たちにどんな直接の影響をもつのかということも、伸子にのみこめなかった。

 のみこめないままに伸子は紙の端々の黄ばんだ二冊の本をかかえて、リュックスを出た。


十五


 伸子は街の景色をすっかり瞳にうつしながら、しかしそのどれをも見ているとは云えない状態で、トゥウェルスカヤ通を下って行った。

 モスクヷにこの自分が止ることができる。──思いがけず伸子に示された可能性は、リュックスの建物を遠ざかるにつれて、ますますその信じがたい事実で、伸子を圧倒した。山上元を通じて、いつか自分がそのようなものとして見られていたということ。それは、伸子が人生に対して抱いている良心と善意の努力のすべてを、そっくり大きい歴史の前に肯定されたにひとしいことだった。

 山上元の立場として、まったく彼ひとりの意見で、伸子にああいう提案がされるとは考えられなかった。愛するソヴェトにとって、自分が役に立つ何者かであり得るという確認は、トゥウェルスカヤを歩いている伸子の心と体とを感動でふるわせた。伸子は、それがわがことと信じきれないほどの感激をもって、その承認の上に身を投げかけて行っているのだった。もうすべては決定したも同然に思える。自分はモスクヷにとどまるのだ。──だが、どうしてだろう。さっき、山上元の部屋でその話が出たとき、あまりの思いがけなさとうれしさで動顛した伸子のどこかで、その同じ瞬間に意識されたあのつよいわからなさ。そのわからなさは、トゥウェルスカヤを歩いて来る伸子の感動が大きくなればなるほど、やはり同じ量でひろがって来るのだった。

 通行人がいくたりか、けげんそうな眼ざしで、伸子を見た。伸子は考えにとらわれて我を忘れ、おそい午後の大通りを足早にすぎてゆく人群れにまじって、たったひとり、のろのろとみんなに追いこされながら歩いて来た。

 半ば無意識にホテル・パッサージの入口のドアを押した伸子は、リュックスを出てからトゥウェルスカヤを歩いて来た、そのままの歩きつきで、自分たちの部屋へ戻って行った。

 素子が、すばやく自分のデスクの前からふり向いた。

「どうした、ぶこ

「ただいま」

「どうした」

「うん」

 伸子はベレーをぬぎながら、自分のベッドの上に腰をおろした。素子は、ふだんとは全く別人のように何かに心をとられ、ぼっとしている伸子をじっと見た。そして心配と不快さのいりまじった声でとがめるように云った。

「何か云われてきたんだろう」

 伸子がだまっている前へ来て立った。

「何を云われて来たのさ! ぶこ」

「──モスクヷにのこらないかっていう話だったんだけれど」

 それだけいうのに伸子は息苦しく声がかすれた。それほど胸がいっぱいだった。その上、伸子は、そういうとき、素子の眼を見ず、ベッドにかけている自分の斜横の空間に視線をそらした。伸子は、素子の顔が見られないような気持がし、また、自分のなかで煮えたぎりはじめたばかりのことを、すぐ素子に告白しなければならないこともいやなのだった。

「──それで、ぶこ、何て返事したんだ」

「返事はしないわ──来週」

 ふん、という素子の鼻音が、伸子の耳にかすかにききとれた。

「どうせ、そんなこったろうと思った」

 素子は、ベッドにかけている伸子の前の床の上をあっちこっち歩きはじめた。

「いいじゃないか。ぶこにとっちゃ願ったりかなったりじゃないのか」

「…………」

「わたしに遠慮はいらないよ」

 突然素子は、は、は、と短く、神経質に笑った。

「わたしに遠慮するような佐々伸子じゃなかったわけか」

 なお口がきけないでいる伸子に背を向けて、素子は自分のデスクの前へもどった。そして片手でガタンと音をたてて椅子をおき直し、そこにかけながら、二人の間にのこされているのは、もう事務的なそのこと一つだ、とでもいうようにむこう向きのまま云った。

「ぶこが、どうしようと勝手だがね。きみのおっかさんの説明役はごめん蒙るよ、手紙でも何でも、書いといてくれ」

 おどろきとよろこびの感動が、苦悩ひとつにかわった顔をもたげて、伸子は窓の逆光に浮びあがっている素子の後姿を見まもった。椅子の背にぴったり背中を押しつけ、腕ぐみをして断髪の頭をあげている素子の両肩が、ふるえているように見える。素子は泣いているのだった。

 しばらくして、素子が涙のしめりの残っている声で、窓を見たまま云った。

「わたしは、どうせ、そういうことは云われっこない人間にできているさ。そりゃ、重々わかっちゃいるがね」

 素子の声が途切れて、ふたたび続いた。

「二人はいっしょにモスクヷへ来たんだぜ」

 悲しさが湧きたって、伸子の腹の底をふるわした。けれども、伸子のまばたきしない眼は乾いていて、全心に渦巻く考えがある。モスクヷにとどまる自分。けれども、このわからなさ。──それは何なのだろう。

 おそい正餐アベードのためにホテルの食堂へおりてゆくとき、素子は伸子に云った。

「わたしはね、きみが、どうきめようとも、もうひとこともこの問題にはふれないことにしたよ。こうなりゃ、いよいよ、わたしとしちゃ、帰る仕度をする以外にないじゃないか」


 習慣のつよい力が、それだけで伸子と素子との日常生活を支配するようになった。二人はいつもと同じ時刻に前後して目をさまし、一つテーブルに向いあって茶をのみ、夜食のためにイクラや塩漬胡瓜を買いに出るのは、やっぱり伸子の役だった。

 伸子のデスクの上に、ネチャエフの伝記がおかれた。素子は、ちょいと粗末なその古い本を手にとってみて、

「へえ」

と云った。

「こんな本、どうするのさ」

「その中から一部分を訳すってわけ」

「なるほどね、早速テストってわけか」

 当惑げな伸子を素子は皮肉な目で見て、なつめ形の彼女の顔をうっすりあからめた。

「まあせいぜい奮励しなさい」

 伸子の語学のおぼつかなさを、素子は知りすぎるくらい知っているのだった。

 ネチャエフの伝記は、幼年時代の彼の生いたちから物語られていた。彼が人民の意志ナロードノ・ヴォレツ党員として従事した活動の詳細。スパイの発見とその処分。逮捕。ペテロパヴロフスク要塞における彼の生活。法廷におけるネチャエフのたたかい。伸子は、山上元が、この伝記のどの部分をとはっきり指示しないで、伸子に翻訳をたのんだことに困った。山上元は、どこを、日本のインテリゲンツィアによませなければならないと考えたのだろうか。

 机の前で、全巻の小見出しをしらべながら、伸子は、素子の皮肉な言葉が当っているのかもしれないと思った。伸子が、日本の読者のために果して適切な一章を選ぶかどうかということは、伸子の政治的な理解力とその実際の分別を示すのだから。

 そうだったとしても、伸子は、山上元のそういうやりかたにずるさだの人のわるさだのを感じることは出来なかった。そういうことはどうであれ、自分に与えられた新しい仕事を力いっぱい果すこと。それだけが義務だと伸子は考えた。

 長い時間しらべた上、伸子はネチャエフの法廷での陳述の部分だけを訳すことにきめた。その部分だけでも、伸子がつかっている半ペラの原稿紙で四五十枚になりそうな分量だった。

 法廷の用語、法律上の言葉。そうでなくても伸子の知らない実におびただしい数の言葉。そしてわら半紙のような用紙に印刷されている字体は古風で、パンフレットをよみなれている伸子をおびやかす。

 右手にもっているペンよりも、左手で辞書をめくる時間の方が多かった。伸子は、ほんの一句ごとに、ぽつり、ぽつりと日本語へ書き直して行った。──被告ネチャエフが出廷した。彼は被告席についた。裁判長は彼の姓名、出生年月、家庭の状況について質問をはじめた──と。

 来週の木曜日までに──川瀬のことづけで伸子がリュックスへ行ったきのうは木曜日であったから──とても出来あがらないのは明らかだとしても、どだい、伸子にやりとげられる仕事なのかどうか。翻訳という仕事の経験をもたない伸子は、最初の一行から読んでわかっただけずつ日本語にうつしはじめているのだった。

 辞書の頁をくっているとき、ふと、さがしている字が、どこかへ流れ去ってしまうことがあった。いつか伸子の注意は字からそれて、考えこんでいるのだった。モスクヷにとどまる。だが──と。あの奇妙なわからなさについて。山上にとっては一向問題になっていない、けれども、伸子にはまぎらせられることのできないわからなさについて。

 モスクヷにとどまってのちの伸子は、日本に関する報告から小説が書けでもするように、山上元は考えている。でも、それは、不可能なことだった。不可能であるばかりでなく、伸子にはそこに堪えがたい空虚さが予感されるのだ。そんな状態というのは、どんな生活なのだろう。

 予測のつかない生活の内容について思いやりながら、伸子は、書きつぶしの原稿紙の上に、わけのわからない幾何模様をかきつづけた。伸子が、ソヴェトにとどまっていいと云われたこと。それは、うれしいという表現より、もっとうれしく、ほこらしかった。このようにして前進しているソヴェトの人々に役立つことのできる自分。そこには、自分の胸を自分の両腕で抱きしめずにいられないような生き甲斐と感動とがある。ソヴェトの人々に役立つということは、伸子がソヴェトの生活について本質的には常に好意的な理解にみちた報告を日本の読者にかいて送るというだけのことに止るだろうか。それだけのことであるならば、それはジャーナリストの仕事の範囲であるようだった。またそれだけならば、進歩的なすべての旅行者に可能なことだった。

 ソヴェトの人々のために、日本の女であり、日本の作家である伸子が真実の確信をもって自分を役立つものと感じることができるのは、やっぱり伸子が真実日本の文学者であり、日本の人々の辛苦とたたかいの語りてであるからこそだと思う。

 ゴーリキイに、伸子は日本語で署名し、日本語で献辞をかいて、一冊の自分の長篇小説をおくった。つたない作品であったにしろ、レーニングラードでの五月のある朝、そうすることに伸子が、自分のまごころを現わせたのは、その小説が、ゴーリキイの文学にはない日本の社会の現実の一面を描いているからだった。その社会の中に生きる日本の女の、よりよく生きようとするはげしい願望の物語だからこそだった。そして、日本の社会や日本の家というものの重圧から、解かれて成長しようと欲する女の願いのはげしさこそ、こんにちのソヴェト社会の建設につながる一本の道に立つものであることを、伸子はふかく信じて疑わなかったからこそ、ゴーリキイが自分では決してよむことのない日本文の小説を、伸子は彼に献呈したのだった。

 長い将来の年月にわたって──伸子は、紙の上につよく三角形をかいた──文字でかかれた報告から小説をかく自分──伸子は、紙の上の三角形から三方に長い線をひっぱった。──そんなことができるとはどう考えても思えない。あり得ない生活。仕事なんか、いくらでもある。そう山上元は云った。仕事はいくらでもある。──それはそうにちがいなかった。現にこうして、ネチャエフの法廷記録を訳すことだって、伸子のする仕事の一つであるのだから。

 伸子は手をのばして、デスクのむこう隅においてある小説新聞をとった。イレッシュの小説特輯だった。イレッシュの代表的作品と紹介されているこの小説は、イレッシュが故国のハンガリーで書いたものだった。この事実のなかに、伸子の執拗なわからなさをひきつける何かの暗示がある。

 伸子は、ソヴェトに来た翌年の夏、レーニングラードにいたとき、九十枚ばかりの小説をかいた。ソヴェトの生活に取材して、モスクヷのアストージェンカに暮していた期間の印象や、レーニングラードの下宿パンシオン生活をはじめてからの見聞を組立てた作品だった。

 伸子は、あのころ、ほんとうに階級というものの歴史を理解していなかった。それぞれの国の革命の過程というものも理解していなかった。

 あれから満一年たって、ベルリンやロンドンの生活からモスクヷの社会を観てふたたびモスクヷへ帰って来たいまの伸子には、かえって小説が書きにくくなっている。伸子は、もうおととしの夏のように、自分の目の前に過ぎてゆく生活風景のいくこまかを、そのまま、切りとった小説はかけなかった。階級社会というもの、ロシアの人々が革命をとおしてたたかいとり、それを確固とした世界の現実としつつある社会主義。伸子は、ソヴェト社会をより深く具体的に理解するようになったにつれて、文学的なお喋りの無意味さと、真実を語ることのむずかしさを感じている。

 ソヴェトの作家たちでさえ、そういう困難に向っているように考えられた。マヤコフスキーの、「難破した愛の小舟」は、恋愛のボートではなかった。

 きょうリベディンスキーは「英雄の誕生」のややふるくさい肉感的な心理主義で、若い読者から批判されているけれども、彼には「一週間」がある。それは、十三年前にリベディンスキーが民衆の一人として、「十月」をまともに生きたという証明だった。この事実にも何かの意味がある。伸子は、日本の何を生きたろう。伸子のいろいろのもがき、その飾らない表現、そこに階級の歴史は無自覚に露出されたにすぎなかった。

 伸子の顔の上を一つの暗い蔭がおおった。その暗いかげは、彼女の眉根の間にとどこおって、伸子が人前で見せることのない、けわしい表情をつくった。

 伸子の心の前に一つの新聞写真があった。それは神戸についた欧州航路の優秀船の上甲板に仲よく並んで写真班に撮影された若夫婦の帰朝姿だった。ロンドンでわかれた弟の和一郎と小枝の、そういう帰朝写真を、日本から送られて来る新聞の上に発見したとき、伸子は、姉らしく苦笑した。若い夫婦の生活のなかで、のびやかに美しくなりまさっている小枝。日本の男は外国に生活しているとき、だれでも内地にいるときよりは表情がひきしまって、ましに見える、そのような表情で小枝のよこに立っている和一郎。その写真に、短いインタービューの記事がついていた。その文章をよんだとき、伸子は、体じゅうが腹立ちでほてるようだった。和一郎の談話として書かれているのは、ともかくも、建築家である彼ら若夫婦が、なけなしの旅費を工面してイタリーの建築や美術を見て来たということでもなければ、フランスのコルビュジエの新しい建築「前衛」の室内装飾についてでもなかった。和一郎は、何のつもりか、「姉のすすめにしたがって、イギリスの家庭生活を見ならって来ました」と語っているのだった。イギリスの家庭生活! それを見ならって来た! 姉のすすめ、という姉の上にはカッコをつけて作家佐々伸子と、註までしてあるのだった。

 伸子は、眼にくやし涙をうかべるばかりだった。

「まあ、ちょっと見て!」

 その新聞をふりまわして、素子に見せた。

「ハハハハ」

 素子は、椅子にのけぞるようにして笑った。

「のんびりしていて、しごく結構じゃないか。姉のすすめにしたがっては、傑作だ。この調子なら、きみのおっかさんも安心だろうさ」

「──察して頂戴!」

 和一郎の明日の人生にとって、この答えは何たることだろう。伸子はそう思わずにいられなかった。

 その談話が、はたして和一郎の話したとおりかどうかは、伸子にわかりようもなかった。しかし、そっくりそのままでなかったにしても、和一郎のインタービューの気分は、若い和一郎夫妻の、のんびり工合に焦点をおいた記事をかかせる種類のものであったことに、ちがいはなかった。和一郎に、期待するというほど明瞭な感情ではないにしろ、ぼんやり伸子が抱いていた好望のこころは、くずれた。結局、和一郎は気まかせな人生を送るだけの男だろうか。そのようにも社会の現実からはなれた和一郎を肯定して小枝にはきびしく内助の力量にかけている若妻として多計代が見ているような佐々の家庭内の姿。そこは伸子にとってちっとも帰りたい場所ではなかった。

 日本では共産党がたびたび狩り立てられている。二月にもおおぜいの人々がとらえられた。街では市電の男女従業員が催涙弾でうち倒されている日本。佐々のうちを、徐々に、徐々に崩壊させながら、日本の歴史は佐々のものたちの知らない軸の上で、動いている。

 その動いている歴史の、あのこと、このこと、いっさいの細かいいきさつの何について伸子は知っていると云えるだろう。──急速に旋回しながら伸子の考えはある一点に舞いおりて、そこにとどまった。そこには、ヴェルダンの秋の叢に光っていた円い金色の輪がある。伸子がそこを歩いているとき失神したパンシオン・ソモロフの、黒と白の石だたみ廊下がある。死んだ保の思い出がある。悲しみに耐えてふるえている浅野蕗子の、清らかな小さい赤い唇があり、彼女の弟も、日本の苦しみの中で命を絶った。わたくしは彼のためによい姉ではなかったと思います。──

 たたみかかる思いの切なさで、伸子は頭をあげ、息の通りを楽にしようとするように白いなめらかな喉をのばした。伸子はそっとデスクの前を立って、部屋の外へ出て行った。


 伸子の全存在が、苦しい疑問符だった。例の翻訳をしていること、文章の中で変化する前の原体げんたい──それで辞書をひかなければならないのに、その原体のわからない言葉がよく出て来た。伸子はつい素子に質問しかけた。

「訳せると思ったからひきうけて来たんだろう」

 素子はそう云って、伸子のあいてにならなかった。

「ひとりで探したらいいじゃないか」

 モスクヷへのこるかもしれない伸子。そういう提案をされている伸子。しかし、自分はちがう。日本へ帰る。素子は二人の生活の方向がちがった、ということを、現在共同につかっている部屋の床の歩く領分のけじめにまで示そうとするようだった。素子は、木曜日以来、伸子のデスクに近づかなくなった。二人共同の衣裳箪笥が、その部屋では伸子の寝台のおかれている壁のわきに立っている。素子は、その衣裳箪笥に用があるとき、自然に歩いて伸子の寝台に近より、その上にとり出した衣類を一時おくこともしなくなった。そういう変化のすべては意識的であり伸子に苦しかった。

 素子も苦しいのだった。二人がいっしょに暮さなくなるそのことも、たえやすいことではないけれども、こんどのことで素子を最もさいなむのは、傷けられた自尊心とでもいうべきものだった。木曜日に、素子は、二人はいっしょにモスクヷへ来たんだぜ、と云った。それは素子が伸子に向って訴えたただ一度の言葉だった。一緒にモスクヷへ来た伸子と素子とが、或る日、素子ひとり戻って行く。佐々のうちのものは、伸子をのこして、ひとり帰って来た素子に向って何というか、それは伸子に想像されることであり、そしてまた、それが素子を根本的に動じさせることでないことも想像された。素子をたえがたくしているのは、伸子がモスクヷにのこるようになったという結果を反射して、自分に向けられるにちがいない軽しめのようなものの予感だった。彼女がモスクヷで収穫した学問への軽蔑ではないにしろ、伸子はモスクヷに残った、という事実は、一方に、どっさりの本をもって、ロシアの現代古典に通暁し帰って来た素子の生活態度と、つよく対照するのは当然であった。ソヴェト同盟や他の国の街々で三年暮して来た間に、伸子の生活感情と、素子の生活態度との上につもったちがいは、何ときびしくえがたいものになったろう。それは、伸子からはじまったことだろうか。伸子は、切なさに身をよじりながら、そこを素子に考えてほしいと思うのだった。モスクヷへ着いて、伸子がまだロシア語を知らず、パッサージの玄関番が、ホロドノワータというのをきいて、びっくりして素子に云ったものだった。あの玄関番、しゃれているのねえ、雪のことを、つめたい綿と、云ったのね、と。それをきいて素子は大笑いした。冷たいホーロドノ綿ワータではなくて、玄関番は、ちょっと寒いめですね、と云ったのだった。

 伸子は、そんなに言葉がわからず、素子にたよろうとしていた時期に、素子は伸子を、どういう風に仕込んだろう。紙きれにプーゴヴィッツァ(ボタン)。カリーチネヴィ(茶色)ニトカ(糸)とかきつけさせて、買いものをさせたのは、素子だった。食物の買いもの。ВОКСの用事。部屋さがしとその交渉。素子は、勉強しなければならなかった。だから、そういうことは、みんな伸子のするべきことになった。そして、伸子は、片輪なままのロシア語で、どこへでもゆき、いろいろな場所と場合を経験し、自分の見たいものを見て、歩きたいところを歩くようになった。そして、ソヴェト生活の日常の現実が、どれほど立派な資本主義の社会とどこでどのようにちがい、五ヵ年計画で生産される農業機械が、よその文明国では五十年前から使っていて、珍しくも何ともないものだとけなされようとも、その単純な農業機械が、ソヴェトの人々にとってどういう別個の意味をもつかということを、実感で区別するようになってしまったのだった。

 ほんとうに、伸子は、いつの間にか、自然にそうなってしまったのだった。素子が、大学の教室に坐り、プーシュキンの詩の韻律の分解をし、書籍のリストを整理し、それをふやしていたうちに。長い過程の上におこったこういう状態として、二人の間に生じた問題を扱ってくれたら。──伸子たちの苦痛を複雑にしているのは、二人の生活について来ている素子の側からのなみはずれな感情の要素のせいだった。素子の傷つきやすさ。伸子の動きのすべてを、自分に対する献身かさもなければ裏切りの、そのどちらかとしてしかうけとれないような、激しい感情の習癖。

 素子自身、その苦しさに圧しつけられながら、伸子に対して懲罰的な、つきはなした態度をかえないのだった。


 伸子は、一日のうち、一定の時間だけ、翻訳の仕事をすると、あとは多く外出しているようになった。素子のかわりに、雑誌の予約をするというような用事のあることもあった。全然用事のないこともある。それでも、伸子はやっぱり外出した。本棚で仕切られた部屋の、一つ一つの窓に向って、伸子は素子の身じろぎに気をくばり、素子は伸子の、揺れて不決定な考えの方向の変化に絶えず神経を働かせていることは、どちらにとってもたえにくかった。

 伸子は、もとから出入りの賑やかな性分だった。子供らしい几帳面さで、ただいま、行ってまいります、ホテルのドアが玄関でもあるように快活に声をかけた。けれども、いま伸子は、心の奥に気をとられている人間の、うっかりした物静かさでドアを出入りした。自分でどこへ行くのかわからないような顔つきで、ゆっくりベレーをかぶり、机の上から赤いロシア皮の小銭入れをポケットへ入れただけで水色ブルーズ姿のまま、だまって出て幾時間も帰らなかった。

 モスクヷ。モスクヷ。愛するモスクヷ。だが、わたしにわからない。伸子は、メーデーにいたモスクヷ河岸の公園へ行った。河に向った公園のリラの花房は、三分どおり開きはじめて白や紫紅色の豊かな花房のまわりに熊蜂がとんでいた。

 パン販売店の列に立ち、石油販売店の列にならび、焼きたてのパンの芳しいにおいにつつまれながら、あるいは石油のツンと鼻をさすにおいをかぎながら、伸子は、ときどき、目をさまして訊くような眼で、自分のまわりにいる買物籠を腕にかけた女たちの群を見た。ソヴェトの社会。それをきょうまでつくり上げて来たのは、伸子ではない。伸子はそれを確認しないわけには行かなかった。どんなに心をひきつけられるにしろ、それがきょういるために伸子はどんな辛苦もなめなかった。伸子が、ここまで出来あがって来た今のソヴェト生活を、ほめるのは何とたやすいことだろう。革命の仕事をして来たことのない伸子の賞讚がどんなに真心からのものであったにしろ、そのために飢え、そのために土曜労働をし、モスクヷ・ソヴェトの第一回集会にあつまった人々は、伸子の賞讚によって賞讚されつくせない自分たちの歴史を生きて来ている。そしていまもそのつづきを生きつつあるのだった。こういう人々に向って、報告から日本の小説をかいて、十万部も印刷されるかもしれないモスクヷでの自分。その考えには、伸子を生理的に嫌悪させる卑俗と空虚がある。伸子としては、ほとんど欺瞞と感じられるものがあった。

 伸子は、考えの重さのために、われ知らず足音をしのばすような歩きつきで、ホテル・パッサージの階段をのぼり、ノックするのを忘れてそっと自分たちの部屋をあけた。

 素子が、びくっとして、デスクからふり向いた。

「どうした、ぶこ!」

「どうしもしない」

 幾日ぶりかで、素子が素子らしい顔と声とで伸子のそばへよって来た。

「ほんとに、どうもしないか?」

 伸子は、合点した。

「ぶこ、バスなんかにかれなや」

 伸子はまた合点した。口をきいたら声がふるえて泣きそうだった。


 モスクヷに、そろそろ白夜がはじまった。自分のするべきことは何だろう。思いつめて、伸子は、自分は日本へ帰るべきだ、と考えるようになった。素子とつれだって伸子がそこから出て来た日本ではなく、モスクヷの三年で、伸子に新しい意味をもって見られるようになって来た、その日本へ。それは佐々のうちのものの知らない日本であった。百万人の失業者があり、権力に抵抗して根気づよくたたかっている人々の集団のある日本へ、伸子は全くの新参として帰ろうと決心した。そこで伸子の生活はどんな関係の中におかれるか、それは伸子に何にもわからない。けれども、伸子が、三年の間に何かの成長をとげたことが確実ならば、伸子にとって、これまで知らなかった日本を生きて見ようと願う思いがあるのは真実だった。日本へ帰ることにした、という返事は、山上元をよろこばせないであろう。軽蔑される返事かもしれない。だけれども、伸子は、ほかにどんな答えも見出せなかった。伸子は、そこをはなれる可能を示されたとき、ひとしお深く日本の苦悩に愛着したのだった。もしかしたら自分の挫折があるかもしれないところ。もしかしたら自分がほろぼされてしまうかもしれないところ。しかし、そこに伸子の生活の現実がある。そして、伸子が心を傾けて歌おうと欲する生活の歌がある。

 伸子は、きつく両手を握りあわせながら、自分のデスクの前に立ちつくした。伸子は、帰る。けれども、その言葉を声に出していうことはおそろしかった。

資料


第一章




 いま、伸子はパリの街を歩いている。

 素子と。素子のわきには、白い服を着せられたひよわそうな女の児の赤坊を腕の上に抱いて歩いている若い画家とその妻とがひとかたまりになって。

 左手に高く停車場の円屋根が見えるモンパルナス通のプラタナスに六月の日光が降りそそいでいる。街上には色彩と動きと音響とが溢れている。柔かい新緑の並木と歩道との間に赤と白との縞や、黄と藍縞の日よけが張り出されている。地下鉄メトロの入口には、桃色だの黄色だの白だののもういらない切符が紙屑となってすてられていて、大きく白黒に抜かれた字と派手な図案の広告がいっぱい貼りめぐらされた広告塔そっくりの共同便所の下から流れ出した穢水が陽気なさわがしい街の一隅にかすかなアンモニアのにおいをただよわせた。

 パリのこの一角で、生活は率直な活気と気分をもって溢れている。車道へ大きい枝をのばしたプラタナスの下の共同便所へ、ひっきりなしに出入りする者があり──それは男たちばかりだった──メトロからあがって来た人々は、いらなくなった桃色や白の切符を無頓着にその辺へすてて、さっさとそれぞれの方向に散っている。午後一時すぎから二時すぎにかけて昼飯時刻のモンパルナス通の喧騒は、並木の新緑やその下へ色とりどりに張り出された日除けなどでやわらげられている。パリでタクシーはたった一つの合同会社に独占されていた。どのタクシーも、その車がタクシーだということの証拠として重苦しい濃い葡萄酒色に塗られている。これは賢い方法だった。こんなに自動車のどっさりはしっているパリの街で、すべてのタクシーがすぐ見わけのつく一色に塗られているということは、自家用をもっているものの満足をそれと気づかせずにくすぐることであったし、同時に、昼も夜も大並木道グラン・ブルヷールをぞろぞろ歩いているアメリカ人たちに、「パリでの」自家用車を買わせるきっかけをつくっている。行き交う自動車の流れをよけて、伸子たちが歩いている歩道とすれすれのプラタナスの下を、一台の自転車が動いていた。その自転車の横には短い脚立がしっかりとくくりつけてある。ハンドルのところから、いくつもペンキ壺がぶら下っている。労働用のベレーをかぶって、ブルーズを着た三十がらみの男は、歩道にくっついて鼻唄まじりにゆっくりペダルをふんでいたが、ちらりと伸子たちの日本語を小耳にはさんで顔をこっちへふり向けた。その顔の上に並木ごしの日光がおどる。

 歩きながら、伸子の視線は折々、つれの若い画家の腕にだかれている子供にひかれた。昼飯どきの六月の歩道にあふれる人波の間で、マズレールが彼の白と黒との版画の中で、鋭く刺すようにきり出して見せている黒い山高帽の連中の、ずんぐりした黒服の肩と、強情で貪慾に重い眼ざしの林の間で、まだ若い父親の腕の上でじっとしている小さな子の白服の軽やかさは、思いがけない樹の幹にまだ羽根のしめっぽい稚い白い蝶々がとまっているのを見つけだしたときのような感情を伸子に抱かせるのだった。シャツの上から古びた緑色と茶色の縞ビロードのチョッキを着て、白い大前掛をかけた小僧が、人ごみの間をすりぬけながらすべるような歩きつきでわざと伸子に向ってまっすぐにやって来た。一歩のところで、小僧は巧みに両脚をくねらせて上目使いに伸子を見、身をかわし、通りすぎ、三歩ほどうしろで口笛を鳴した。

 このモンパルナスをさかのぼって伸子たちは歩いて行っているのだった。人波が段々遠ざかった。広い歩道の灰色と新緑の調和が街すじの上に遠く見とおせるところへ出て来た。その辺で黒い山高帽はごくまばらになった。ショウ・ウィンドウを見ると、その内部の壺にミモサの花がふっさりと活けてあって、そこは額ぶちや絵具を売っていた。店さきに親しみぶかく新聞や雑誌をつるして、小さい書籍店もある。ステーションのまわりのモンパルナスが中どころ以下の取引の金銭でほこりっぽくされているとすれば、この辺は絵描きや文学者のモンパルナスだった。パリの黒い山高帽に象徴されている小市民のすべてのみみっちさと常識と金銭についての野心を軽蔑して生きようとしている人々のモンパルナスだった。

 右側に大きいキャフェ・ラ・ロトンドがある。そのすこし先にやっぱり大きいキャフェ・ドームが歩道いっぱい日除けをつき出している。どちらもモンパルナスに集る芸術家や芸術愛好者たちの中心なのだそうだ。しかし、どういうわけか、この一二年、ドームよりもラ・ロトンドの方がはやっていて、パリの有名な芸術家やパリへ来た世界の有名な芸術家たちの姿をよそながらにも見たければ、ラ・ロトンドへ行けと云われているということだった。いかにも定連らしい男たちがくつろいだ様子でパイプをふかしていて、青い玉飾を頸にまきつけたおかっぱの女が朱塗りの柄の長い婦人用パイプでタバコをくゆらしたりしている。小さい子供づれの家族的な伸子たち一行は、そのラ・ロトンドのテラスにかけて往来を見ながらコーヒーをのんだ。昼飯は、きょうもメトロのわきのブルガリア人の小料理店RIJOリジョですました。黒いさっぱりした鼻髭をもっているRIJOリジョの主人は、あんまり金のなさそうな、そして、大したひきもなさそうなパリの外国人は、とくに彼らが女づれの場合、羽根ののびきらない雛のようなもので、一度そこに満足すればあんまり遠くとびまわらないということを知りぬいているらしかった。彼は伸子たちの注文はいつも自分できいた。きょうは、うまい小海老をたべさせた。フラスコ型のガラス瓶に入れて来るおきまりのうすい赤い葡萄酒のかわりに、コップに一杯ずつの白葡萄酒を四人にすすめながら、

いい味ですよセ・ボン素晴らしいですトレ・ビアン!」

 何で伸子がそれを知っているのか自分でもわからないながらよく知っている一つの身ぶり──セ・ボン、と云いながら、さもかわゆいもののことをいうように三つの指さきでつまむような形をこしらえ、ちょいと肩と首をすくめる身ぶり──を添えて。

 伸子と素子がとまっているホテルは、モンパルナス停車場の円屋根を望むところにあった。誰も、それがどんな人だったか知りもしないエドワード六世ホテルという名だった。


 ベルリンから来た列車が、ほこりで醜くなった暗緑色の車体を北停車場ガール・デ・ノールの巨大なガラス天井の下でプラットフォームに横づけにしたとき、伸子は最後の車体のショックを体にうけながら胸にこみあげて来る漠然とした苦しさを感じた。パリの大さ。見知らない大都会の生活のつかみどころない複雑さ。北停車場ガール・デ・ノールの雰囲気が伸子をうった。ウィーンのようでなく、またベルリンのようでもなく、パリでは生活しようと思いこんで来た伸子は、それだけに、行く先も知らないで北停車場ガール・デ・ノールのプラットフォームへおりる自分たちを、たよりなく感じたのだった。伸子たちはわざといそがず、一番あとから出口に向って歩いて行った。めいめいが、荷物の全部であるスーツ・ケースを一つずつ下げて。──

 若い画家の磯崎恭介と妻の須美子とが、白い服を着せた子供を抱いて伸子たちを迎えに来ていた。その若い家族の光景は、伸子につよい感銘を与えた。小さい子供の白い柔かな服のふくらがりが、北停車場ガール・デ・ノールの煤煙のしみこんだ黒くて太い鉄柵のところで異様に真白く、花弁のように見えたばかりではなかった。小さい子供がほとんど若すぎるようにさえ見える父親の腕にだかれてステーションの出迎えに来ていることは、パリでの磯崎恭介夫妻の暮しぶりをそのままに語ることだった。同時に磯崎夫妻をそのように生活させているパリそのものの生活断面でもある。伸子は、何の躊躇の感情もなく、まだ三十にもなっていない、夫婦で絵の勉強をしている磯崎恭介夫妻のつましいみちびきによって自分たちの前にひらかれた厖大なパリの生活のわれめへふみこんだ。

 磯崎夫妻がパリの倹約な生活の四年間でどこよりも知っているのはモンパルナスであり、そこに彼らの生活の熱情がかくされていた。でも、彼らは伸子たちのためにふさわしいと思えるホテルがどこにあるかしらなかった。果してどういうホテルなら、伸子や素子に適当なのか、それもわかっていなかった。素子は、少女のころから須美子を知っていた。須美子は、素子がある大学のロシア文学科にいたころの教授登坂の娘であったから。しかし、伸子は初対面だった。若くて正直な人々は、パリへ着く伸子たちのために、ともかくできるだけ少く金をつかわせるようにと思ったのだった。

 伸子、素子、磯崎夫妻の一行四人は、白い服の小さい女の児をしべのようにかこんでモンパルナス通までタクシーで来て、エドワード六世ホテルの部屋へはいって行った。表の入口はモンパルナスの通に向っているが、ホテルの部屋部屋は、その大きい石造建物の一部分を縦に狭く区切ってわり当てられているらしく、伸子たちがのぼってゆく階段は暗かった。三階のその一室には、コバルトと黄色のほそい縞の壁紙がはられていて、どこやら古びた紙ばりの箱のなか、という感じだった。一方の窓から西日がきつくさしこんだ。

 部屋のまんなかに立ってぐるりを見まわしながら、須美子がおとなしくおかっぱを若い良人に仰向けながら、

「わるかったわねえ。──こんなお部屋しかなくて」

 当惑したように云った。

「電報を拝見するとすぐ一つ二つ心当りをしらべたんですが、あいにくどこにも部屋がなくて」

 磯崎は、永い間腕に抱かれて背をまるめていた子供を、ベッドの上へ柔かにおろしてやりながら云った。この箱のような部屋の中でも、子供の白い服を着せられている姿は、何か特別に伸子の目をひくのだった。

「この部屋も、実は、まだ人がいて見られなかったんです」

「これで結構ですよ──もし何なら追々考えりゃいいんだから──お手数かけました」

 伸子も、

「ほんとに面白いことよ」

と、実感から云った。表側の窓からはモンパルナスの騒音と西日がつよくさし込んでいるが裏側の窓は暗く、何かの建物に密接している。伸子はパリでとまるはじめてのホテルがこういうところで、西日をうけて光る子供の白い服がそこでたった一つの美しいものであるような部屋であることに満足だった。浮いたら浮いたっぱなし、沈んだら沈みっぱなしという風なこの大きい都会で、意識をもって下積みから暮しだせるのは何といいことだろう。七月になると佐々の親たちが家族づれでここへ来る。それまでに、伸子はパリで自分たちのパリ生活というものを経験しておきたかった。それはパリのあたりまえに暮している人々の間にまじりこんだ生活であり、サンティームまでをこまかく計算する倹約な生活への共感であり、しかもパリがパリとして歴史のなかに生きて来ているパリにしかないある精神をとらえようとする生活なのだった。

 磯崎夫妻は伸子たちとはじめての夕飯をRIJOリジョですますと、子供がくたびれすぎるからと、まだ夜がふけないうちに帰った。この人たちは、モンパルナスから歩いてじきのデュトという街に住んでいるのだった。伸子たちは、一冊のパリ地図を買った。赤い表紙に銀色の活字で「区別パリ」と書いてある。磯崎恭介は、そのときみんなで休んでいたキャフェの円卓の上でその地図の第六区の頁をあけた。そのとき伸子たち一行がいる地点はひろくて長いモンパルナスの通りのほぼなかほどのところだった。モンパルナスは、天文台オブザヴァトアールの角でサン・ミシェルの大通と出会っていて、その左側にルュクサンブール公園があり、ずっとセイヌ河よりの右にソルボンヌ大学があった。

「われわれの住んでるのはこの辺なんですがね」

 膝にのせている子供の白い服のわきから須美子も若々しくおかっぱの前髪をさし出して地図をのぞきこんだ。

「あった、ここです」

 磯崎は、

「どうせ、あした又ホテルへは来てみますが──線を引いておきましょうか」

 DUTOTデュトと書かれている短い街の上に画家らしく軟い鉛筆の線を引いた。

「へえ、これでデュトですか。フランス語って、だからいやさ。わたしならデュトットと読んじまう。そう書いてあるんだもん」

 じぶくるような素子の言葉で、笑いながら磯崎が、

「佐々さんは、お話しなさるんでしょう?」

ときいた。

「そうねえ、わたし、いくつフランス語をしっているかしら──まず、こんにちはボン・ジュール、ね。それから、ありがとうメルシわたしはフランス語を話しませんジュ・ヌ・パーレ・パ・フランセ

「ところが、それを云っちゃ駄目なんです。それ、そのとおり話しているじゃないかってやられるから」

 生れつき言葉かずのすくないたちの若い女が物を云うときのゆっくりした口調で、須美子が、

「でも、パリのなかでなら英語で御不自由はありませんわね」

 半ば磯崎の同意をもとめるように云った。

「それに、どの店でもたいてい正札つきでものを売って居りますから」

 結婚したばかりでパリ生活がはじまり、主婦と同時に母親になった須美子のとりなしには、なに気ないなかに伸子や素子に通じる女同士の思いのようなものがあるのだった。正札つきと云えば、伸子たち一行がのみほして円卓にのせているコーヒーの受皿にも黒く1F50サンティームと書いてある。

 磯崎たちとわかれてからも、伸子と素子とは暫く午後十時から十一時の人通りの賑やかなモンパルナスを下手しもて通りへ歩いた。ベルリンの夜は、異様に鮮やかな赤、青、橙、菫色のネオン・サインが動かない焔のリボンとなって闇空をつんざいていて、その光のリボンをたどって行くと視線の果にひろがる闇がかえって生動して無気味だった。モンパルナス通は昔ながらのイルミネーションで、ちらつく光を互の黒い影で乱しながら、無数の男女があからさまな快楽への欲望を示しあいながらぞろぞろ往来しているところだった。その光景は地上的でそこに捉えられる夢も現実的な夜景だった。



 四日して、伸子と素子とは、ホテル・ガリックへ移った。そこも磯崎恭介がしらせてくれたところだった。市の西南のはじのヴェルサイユ門からパリで一番長い街すじであるヴォージラールがはじまってモンパルナスやラスパイユをつっきり、ホッケーの打棒のようにカーヴした先が、サン・ミシェル通りでソルボンヌ大学につきあたる。ガリックはヴォージラールのヴェルサイユ門に近いところにあった。伸子たちがモスクヷときけばそこを思い出さずにいられないトゥウェルスカヤ通りがモスクヷ大公の時代からトゥウェリの市とクレムリンの城壁をつなぐ一本のほこりっぽい街道であったように、ヴォージラールは、ヴェルサイユとテュイルリー宮の間を貫くパリの石じき道だった。ヴェルサイユ門を境に、そとの広場はまだ昔ながらのパリのすりへった角石じき道──フランス人民の歴史のなかでは、一度ならず民衆の味方となり、女にもつかめる武器となって来た角石のしかれた道だが、ヴォージラール街へ入ると滑らかな近代の鋪装道路になっている。古くからの街並みの間にはさまって、七階の新しい建物が突立っていた。ホテル・ガリックはその一部を占めていた。新式になりすぎず、さりとて旧いパリ市内のその程度のホテルにはない明るさとゆとりを特色にして、入口のわきの往来に面した部分はかなり広いキャフェ・レストランになっていた。

 ガリックに泊っている人のところへ客があって、じかに自分の部屋に通したくない方は、どうぞキャフェの方で、というわけか、白い石張りの入口のホールには腰をおろして喋るような場所がなくてじかに自動エレヴェーターにつづき、エレヴェーターがとまってしまう夜の十時からあとはエレヴェーターのうしろから、白い清潔な石の階段を、伸子たちなら三階まで歩いてのぼってゆくわけだった。

 ガリックへ移った日の夕方、伸子は一つの発見をして興がった。それは、パリのエレヴェーターはほんとの上昇機アッサンスールだということだった。ガリックのエレヴェーターは三階でよんでもあがって来なかった。パリの人々は電力を無駄にはつかわないことにしているのだった。

 モスクヷで暮していた一年半ちかくの間、伸子は実によくひとりで、あっちこっちと歩きまわった。用事があってのときも、そうでなくてのときも。パリでは素子も一緒になって歩いた。表紙の赤い「区分パリ地図」をハンド・バッグの下にもって。ある日はエトワールの凱旋門をふりだしに、あるときはルーヴルの美術館からリヴォリ・マデレーヌへと。ブルヷールの午後は、どこもかしこも外国人で溢れていた。六月はじめのマロニエの木蔭のこころよい歩道の上にも、キャフェのテラスも。

 グラン・ブルヷールの角のキャフェ・ド・ラ・ペイのテラスに休んで街を眺めていると、伸子たちの前を、濃い新緑につよいコントラストで異国的な情緒を漂わせながら、アラビア人が純白の寛衣のかげから黒檀の皮膚を輝やかせて歩いて行った。柔かなココア色のソフトを粋にかぶって、淡い肉桂色の背広を着たスペイン人の男が、ヷレンチノ風の長いもみあげを見せびらかすように気取ってゆく。シュ、シュと特徴のある語尾を響かせながら早口に喋りつづけて二人のアメリカ婦人が通りすぎた。多彩な織るような人波にまじって、お仕着せのメッセンジャー・ボーイ。黒服に白前掛のブルターニュ風の婆さん。犬をつれてアイ・シャドウと口紅の濃い女。二人ともそっくりおそろいの白い毛皮ファーをはすかいに肩にかけ、つばの深い帽子のかげから隈どられた眼でキャフェのテラスへながしめをくれながらしなやかな体をなおしなやかそうにねってゆく女づれ。やがて歩道の、テラスから遠い側を三人の尼さんが、黒い大きい服と糊のこわい白い塔のような頭巾を一列にそろえて足早にやって来る。キャフェのテラスでは、若い給仕ギャルソンたちが高くささげた大盆をたくみに肱であやつりながら、絶えず動いて、雑沓している客たちの前へ、盃を、コーヒーの茶碗をくばり、飲みもの代と一割の心づけをおいたまま行ってしまった客のテーブルに残っている受け皿から、器用に片手のひらへ心づけをあけてズボンのポケットにしまいこむ。

 グラン・ブルヷールは金のある外国人のためのブルヷールとされているのに、これらの外国人たちは男も女も何と居心地よさそうにここでのパリをたのしみ、その味わいに疑いをもたずに浸っているだろう。伸子は、自分たちも新緑の美しい午後のブルヷールでは一つの東洋からの点景となっているド・ラ・ペイのテラスで、心ひそかにおどろくのだった。パリの人々は何と生気にみちていて、同時に冷静だろう。と、あいての気をちっともわるくさせないで、グラン・ブルヷールの外国人たちのたのしみのための生活とパリの市民である自分たちの現実とを、まぜこぜにしないで独特に生きている。

 つい二三日前、伸子と素子とは、商業区域にある日仏銀行へ行った。道幅がせまくて忙しいリュウ・カンボンがもう一つの町筋と合流してマデレイヌへ出るあたりの雑沓は激しくて、歩道を足どりの速い男女が互に追いぬきながら往来しているばかりか、車道のこみあいかたがひどかった。自家用車にまじってそれより更に沢山の、例の濃い葡萄酒色のパリ・タクシーが、前の車のバンパアにくっつくようにして、ふたすじの狭い街の奥から押し出されて来る。そして、マデレイヌへ出る三つまたへさしかかった途端、今までさきづまりでのろのろ動いていた自動車という自動車はいちどに生きかえったような速力をとりもどして、右に左に素早くカーヴを切って疾走してゆくのだった。が、その一隅の光景はみものだった。ベルリンだったらどんなにか赤・橙・青と三色の交通信号が気やかましく明滅して、車の流れを一方で止め一方で進行させ、歩道の人の歩みもそれにつれて規制しずにはおかない場所だろう。パリのその交通劇甚の三つまたにあるのは、マデレイヌからふたすじの街通りへ向って三角州のようにつくられている安全地帯一つきりだった。二つの街ぐちからあふれて来る自動車の密集した流れはその三角州をめぐって、たくみに互を牽制し、かわし合い、六月のパリの燕の群がとび交うようにそれぞれの流れのリズムですー、すーと軽快にカーヴを描いて走り去る。その地点を、どちらかへ横切ろうとする通行人たちは車道のまんなかの三角州に立っていて、数人かたまったところで、これもパリ人らしいかんで、絶え間ない自動車の流れの間にちょっとしたいきの切れめを見つけ、一団になったままさっと車道をのり切って行く。自動車の流れの大きい力強いカーヴ。そこを、鮎のひとむれのように柔かくかたまってすっ、すっとつっきる通行人。鈴懸の若葉の下に動いてやまないその街の光景には引しまったリズムが躍った。

 同じような光景は、もっと街上の壮麗さに飾られて凱旋門の周囲にも眺められた。パリを貫く十二の大通りが凱旋門を中心にこの星の広場プラース・ド・レトアールから放射している。それら十二のブルヷールから絶えず流れ出して来る自動車の群は、互の環にとけこみながら遠心力のこころよさを味うように凱旋門をぐるっとまわって、やがてそれぞれの街の入口へかかると、大きな円周ではしって来たリズムそのままふっ、ふっ、とそちらの方へ吸いこまれてゆく。伸子は、シャンゼリゼーとエトワールの角に立って、しばしばそのリズムに見とれた。この運動の感覚──正確なリズムと線の伸縮。そこには、音楽があり、舞踏の感覚があった。そしてパリでは、こういう感覚を描き出しているのが鳥打帽をかぶっている人々だということについて、伸子は云いつくされない感銘を与えられるのだった。パリの労働者たちは山高帽をかぶってはいなかった。

 凱旋門のどっしりとした内壁の中央の地上には、ヨーロッパ大戦の無名戦士の墓があった。昼も夜も、そこは無名戦士に捧げられた一つの燈が燃えつづけ、墓の左右に一人ずつ今も当番の兵が立っていた。エトワールのこの光景は、グラン・ブルヷールの生に飽和した雰囲気に対して、きわめて独特な効果を与えるようだった。壮重に、美しく、様式化されている無名戦士の墓の悲傷の象徴は、ブルヷールの外国人たちに、あらわな戦争の惨禍を見せつけることはしない。生にまじる死さえ、パリでは一つの忘れがたいニュアンスであるかのように風景のうちに織りこまれている。ロンシャンの競馬場をふくむブーローニュのボアに通じる公園通りは、パリでよりぬきの金もちの邸宅を街すじの左右に構えさせながら、このエトワールからはじまっているのだった。

 伸子は素子とつれだって、あらかた毎日をあちら、こちらの街なかで暮した。モスクヷがそうであったように、パリも、全く別の極点で伸子を熱中させずにおかないものをもっていた。でもそれは何なのだろう。パリの何が伸子をそんなに刺戟しているのだろう。伸子たちがブルヷールのまわりにいるのは夕方までだった。プラタナスの若葉を梳いていた西日が、細くふるえる金の線になって、マデレーヌ寺院の裏側のせまい石じき道に昼間の紙くずが、うすよごれたごみに見えはじめるころ、伸子たちは、セイヌの河岸むこうへかえるのだったが、気のむくままに歩いてゆく夕方の街で、二人はよく一日の仕事がえりの娘たちに会った。裁縫店だの、帽子店だの仕事場からはき出されて来る娘たちは、偶然ゆき合った伸子たちに専門家らしいすばやい目をくれながら、すぐ無頓着にかえって陽気に喋って通りすがるのだった。とある横通りではじめてこういう娘たちの群にゆき合ったとき、伸子は深く心に刻まれるものを見た。それは、パリのお針娘たちは、仕事日には、黒い、絹ではない紡績の靴下をはいてつとめに出るということだった。云いあわせたように黒い紡績の靴下をはき、黒い服を着た若い彼女たちは、一重むこうの通りでは貴婦人めかした娼婦が綺羅をつくしてねり歩いているブルヷールの夕暮の裏通りを、さっさと粋に、しかも道草をくわない足どりで通って行くのだった。

 パリではブルヷールの大きい百貨店マガザンの売子たちもいちように、気の利いた白の小さいカラーとカフスつきの黒いなりだった。リュクサンブールやモンソー公園で、内気さとわがままさのまざりあったような顔つきの身なりのいい男の児や女の児を犬やマリで遊ばせているのも、白いカラーに黒い服の女たちだった。大百貨店の婦人靴の売場や、グラン・ブルヷールの有名な婦人靴店の内で、こみ合って亢奮し、よりよいサーヴィスを嫉妬ぶかく求めている一人一人の婦人客の足もとにひざまずいて世話をしているのも白いカラーに黒服しなやかな娘たちだった。次から次と試みの新しい靴をはかせ、それをぬがせ、思いつきの註文にしたがって棚から別の靴の箱を腕いっぱい運んで来る。彼女たちの黒い服につつまれた若い体は贅沢なカーペットの上で、労働時間じゅううむことのないそのしなやかさ、敏捷さを使役されるのだった。婦人靴を買うためにこみあっている老若の婦人客と背中をいためつけている若い売子たちとの対照的な光景は、モスクヷの売りこに馴れている伸子をおどろかせた。伸子が、ついそのとき自分の靴を買いそびれたほど買いての横暴な風俗だった。

 パリジェンヌは、いつも黒を上手につかうことを知っている、とそれが日本の花柳的な粋に通じるパリ女の粋な趣味のように語られるのを伸子はきいたりよんだりして来た。だけれどパリには、パリの男の鳥打帽と同じ意味の女の黒い服もある。──彼らが利子生活者ではなくて、日々の労働で生きているものであることを示す男女の身なりとして。

 一九二九年の三月から以後フランスでは生計費があがって、物価のやすい、暮しいいパリでなくなった。

「肉類や玉子、バタのようなもの、お豆やじゃがいもなんかが随分、ここのところであがりましたわ、ね」

 磯崎須美子が、若い良人に賛成を求めるように、おだやかないつもの云いかたで云うのだった。

「わたしたちには不思議に思えますけれど──小麦なんか、かえってことしはやすくなっているっていうんですのにパンもあがって──。ここでとれるものの方が高くなりましたのよ」

「われわれみたいな、貧乏画描きにはどうして、こたえますよ。家族というものがありますしね」

 恭介たちはこんどの子供が生れたについては、四つになる上の子を、デュトの家のマダムの世話でフォンテンブローの近所の田舎家にあずけているのだった。須美子の、日本人ばなれのした輪廓の端正な若い顔の上を無言の苦しげなかげがすぎた。

「──でもこの節は、どこもですわ。マダムでさえこぼしますもの」

 恭介たちの家の主婦は親切な寡婦で、二人の息子は郊外の工場へつとめているのだった。

 数年このかたフランスはアメリカについで、ヨーロッパでは金保有量の最も多い国として、景気が安定し、ドイツのような失業はないし、ストライキもなかったのだそうだった。いまでも労働力は不足していて、ポーランドやベルギーから労働者をよんで来ているぐらいだけれども、労働賃銀が、暮しよいパリ時代のままだから、物価が世界のよその国なみにあがって来てしまうと、パリの市民の大部分は、ますます肉類ぬきの食物で生きてゆかなければならなくなって来ているのだった。

「ここでも、このごろは労働者の男や女が、賃銀値上げの要求を書いた札を立てて示威行進デモンストラシオンするようになりましたよ」

「そうお?」

 伸子は、自分たちをあやしむように、

「どうしてだか、わたしたち、まだいっぺんもそういうデモンストラシオンに出会ったことがなくてよ」

と云った。

「そりゃそうでしょう」

 おかしそうに恭介が笑った。

「労働者たちのデモンストラシオンは、滅多にブルヷールなんかまで出て行きませんからね。たいていパリの東部の労働者地区だけでやるから」

「──それじゃ効果がないじゃありませんか」

 素子も意外らしかった。

「できるだけ賑やかなところはねりまわないデモなんて──妙なんだな、パリ式って──」

「なにしろ、フランスでは毎年歳入の幾割かが外国人のおとしてゆく金なんです。ことしなんかは、イタリーとスペインが観光客あらそいにのり出して来て、フランス政府は外国人の買い上げる贅沢品に特別関税をかけようとしているなんてうその宣伝したもんだから、──あなたがたの来られるちょっと前ごろでしたがね。政府はうちけしに大童でしたよ。パリで金をつかう連中は、みんな自分の国の失業や自分の会社のストライキなんか忘れるために来ているんですからね。パリでみたがっているのは、デモじゃ無いでしょうよ」

「なるほどねえ」

 吸いくちに噛みあとのつくまで駒沢の家でつかっていて、それをモスクヷでつかってパリまでもって来た赤いすきとおる短いパイプをしまって、素子は、新しく買ったばかりの黒くて長い、ほそく金と銀の線飾りのついた婦人用のシガレット・ホルダーでタバコをふかしている。

「賃銀値上げのかけ合いのようなことは、お客の前へもち出すまでもないというわけか」

「でも、みんな真剣な顔つきでしたわ」

 須美子が、どこかで見た真剣な男女の顔に感じた自分としての同感をあらわした。

「そりゃ、真剣だよ。僕はただ、いまのところ東部ル・エストが中心だというだけだよ──いざとなれば、シャンゼリゼーへだってどこへだって出かけるだろうさ」

「そりゃそうでしょう。パリのペーヴメントはあのひとたちのもんだもの」

 伸子はそう云ったがその話とは別に、若い恭介と須美子のやりとりのなかに、ぼんやりと流れる生活感情の擦れあいを感じとって伸子は、しばらくだまった。

「ほんとのパリがわかるのは、むずかしいことなのねえ」

 伸子は、パリへ来てから、ちょいちょい心を掠める一つの疑問をもちはじめていた。フランスの貨幣には小さな十サンティームの銭にまで、自由リベルテ平等エガリテ博愛フラタニティという三つの人類的な標語が鋳出されていた。フランスの人々は大革命このかたこの標語をかかげている。この重大で力のこもった三つの標語も一九二九年のパリの人々の生活のなかではいつの間にか本源的な発酵力をぬかれて、みんながそれを知っていてそれを誇りにしている一つのフランス的なものとして様式化されてしまっているのではなかろうか、とさえ思われることがあった。自由リベルテ平等エガリテ博愛フラタニティと三つの偉大な文字の鋳出されているサンティームの小銭には、何とすりへらされたのが多かったろう。ときどき伸子は、自分のひとさし指の腹ぐらいの小さいサンティームの銅貨の半円がまるで砥石ですったようにひどくすり減らされてそっち側のふちだけが薄く薄くなっているようなのを受取った。また全体が平らに磨滅して、鋳出されている自由も平等も博愛もとうに消えうせてしまって、小さい火傷のひきつれのような銅色に光っているのをもったこともある。

 モスクヷで、赤いロシア皮の財布に入れて伸子がつかっていた貨幣にも、標語が鋳出されていた。ロシアらしく厚手で大きい銅貨にも銀貨にも「万国の労働者、団結せよ」と鋳てあった。これは野暮だが、理論と実行の方向の示された言葉だった。その字が鋳出されている銅貨は、まだソヴェトの十年では新しかった。たとえそれがどんな形にすりへらされたにしても、そこに鋳出されている字は、その磨滅への絶えざる抗議を組織するようだった。自由・平等・博愛という言葉の響きは、愛ということばのように伝統の力でいきなり人々の情感にふれるからパリのすりへった小銭はそれを見るものにまざまざと厖大なパリに営まれている生活の、こまかい辛酸を生々しく感じさせるのだった。

「パリの人たちは、よっぽど皮肉な感情で、お金のああいう字を見ているのかしら」

 自由・平等・博愛という字のことにふれながら、伸子が云った。磯崎恭介は、

「さあ──」

と、格別そんな話題に興味をひかれる様子はなかった。

「どんな字をかいてあったって、十フランで買えるものが減って来るのにかわりはない、と思っているさ。パリの人たちは夢想家じゃありませんからね。そうでしょう? 須美子さん」

 素子に問いかけられた須美子は、まんじゅう頭のおかっぱの前髪の下に、黒くてきれの大きい眼を真面目に見ひらいて黙っている。パリへ来てから伸子のこころに印象されるものは、素子の解釈ではつくしきれないのだった。



 ある日の午後三時ごろ、伸子と素子とはグラン・ブルヷールの一軒の宝石商のショウ・ウィンドウの前にたたずんで、長いこと、その中に飾ってある一つの腕環を見ていた。堂々としたその宝石店のショウ・ウィンドウは高い石の腰羽目の奥にきりこまれていて、瀟洒な銀灰色の絹びろうどで覆われた窓のゆかが背の低い伸子の視線と平らな高さにあった。六月のブルヷールの光線が日除けでやわらげられている窓の中で、若葉の緑や建物の黒く滑らかな石の肌と絹びろうどの銀灰色とはそれだけで一つの階調をつくっている。そのなかにたった一つ、見ていればいるほどデザインが面白くなって来るサファイア色の透明な石にダイアモンドをあしらった腕環が飾られているのだった。

 ブルヷールに面して大きな入口のあるこの宝石商の黒く滑らかな石の外壁には、適宜な間隔をおいて三つ最新式な飾窓があって、いつも高価そうな品が飾られていた。通りすがりに一瞥していただけで、伸子たちがその前に立ちどまったのは、その日がはじめてだった。伸子は、ぶらぶら歩いて来た足を、

「こう威風堂々としていると、まがいものでも十分圧しがきくわね」

と、笑ってわるくちを云いながら、ふと止って、腕環を眺めはじめたのだった。

 その年、女の服装は頭から爪先にまでなだらかに流れる線を主張した流行で、主だつ色も柔らかな肌色、しゃれた朽葉色を中心としていた。その代り、その色のきりかえや女の身につける飾りの小物類は、アクセントの強い直線の図案が多かった。その飾窓にある腕環は、そういうモードの極限をとらえていて、伸子に名のしれないそのサファイア色のどっしりした長方形の石は鋭い十五面体に截られ、質のいい小粒なダイアモンドにつながれている。女の体にそって柔らかく流れおちる線を、快い抵抗でうけとめるように、その年の女の手套てぶくろは、西洋剣術フェンシング用の手套のように高く、さき開きになった装飾のふちをもっていた。この腕環も、柔らかく胸から背へとむき出された女の体の線を、しなやかな手頸で重く強烈にひきしめてアクセントづけようというのだろう。贅沢に暮す女の手頸のほそさ、白さ、しなやかさを逆に強調するように、サファイア色の腕環はほとんど過分な重みをもち、渋さをもち、同時に豪華さをもっている。

 しばらく眺めていて伸子が、はげしく興味をとらえられたのは、女の肉体とかその線とかいうものに対するパリのデザイナーの感覚だった。こういうデザインをするのは女ではない。伸子は感興をつかまれてそう考えた。男が、その感覚の上ではっきり女というものを肉体と精神で意識して、その女を活かし、発揮させ、変化あらしめ、より女として表現するために、こういう腕環のような女の装身具は、重々しく、つよく、むしろ女の外から、女の柔かさをひきたてるものとしてつくっているのを、面白く思った。パリの婦人用家具が女の体の曲線にそっていて、装身具の小物類は女の曲線へのアクセントとして対照的な角度から、美しさをひきたてるように考えられている。日本の有名な真珠商のデザインが、日本の女の服装との関係もあってだろうが、いつも女の線にくっついていて、頸飾りや指環などのようなものには、線のしまりのなさと調子の鈍さが目立っていた。フランス人の趣味と日本人の趣味とは似ていると云いならわされていることへの不承知が、また伸子の心に湧きおこった。そこには、女として、日本の男への不承知の感情もひそんでいるのだったけれども、何と妙だろう──伸子は、銀灰色の絹びろうどのさざ波の上に耀かがやいている一個の腕環を見つめながら思った。フランスでは女がこんなに美しかるべき生物として理解されていると云っても、それは幾百万もいるフランスのどの女のことなのだろうと。

 黒人の舞姫のジョセフィン・ベイカアは素晴らしい裸で、そのはだかの輝きをより甘美にするために葡萄の房の中に体をひたすそうだが、彼女にそうさせているのは香水王のコティであり、コティの財閥はフランスのファシストの親分の一人だった。パリへ来て間もないとき伸子たちはメトロのなかで、買物籠を腕に下げた黒人女とパリ女とが喧嘩をはじめて、パリの女がいきなり平手で黒人の女の頬をぶったのを目撃した。走っている地下鉄メトロのよごれた車内をてらすレモン色の昼間の電燈と動揺の中で、水色のエプロンをかけた黒人の女の艷のぬけた煤色の顔は、白眼を血走らせて怒った。紫っぽい灰色の厚い唇が、黒人のフランス語をほとばしらせた。誰がその女の喧嘩をまじめにあいてにしていたろう。次の駅でドアがあいたとき、腕組みをしてドアのわきに立って喧嘩を見ていたソフトの若い男が、伸子にわからない言葉を大きい声で早口に云いながら。

そらヴォア・ラ!」

 黒人の女を、開いたメトロのドアからプラットフォームの上へつき出した。かなり手荒に。喧嘩のはじまったわけを知らず、口論のなりゆきもわからないでただ観ているばかりの伸子にとって、黒人の女が顔をぶたれても、誰一人それをとめるもののないメトロの中の光景は苦しかった。その黒人の女だって、メトロの切符は、自由・平等・博愛、と鋳出されている銀貨を出して買ったのに。

 黒人の女の血走っていた白眼と、出来るだけの早さで動いていた灰色っぽい紫の唇が伸子の頭のしんに浮んだ。また、そのなりで、彼女たちが金のない若い女であり勤労で生きていることを語っているパリの無数の黒いなりの若い女たちが。その上、いまこの六月のブルヷールを歩いているどこの国のどういうものだか分らないどっさりの女の群のなかの誰が、実際にこんな腕環を買ってその身を飾るというのだろう。

 こういう見事な腕環をする女も、パリなればこそどこかにはあるのだろう。これを見るひとはそう思って通りすぎてゆくことは、腕環が当然のことのようにほのめかしている見事な女というものへ幻想をかきたてられる。そういう女が生存するどこかにある生活環境を幻想させる、と伸子は思った。一つの美しい腕環は、所有主のきまらない間に何と多くの通行人にパリのかきたてる幻想を売っているだろう。いつか、どこからか現れる買いては、人々に売られた幻想の分量をふくむ金をそのために支払い、そのことで自分の夢までも買うのだ。

 じっと腕環を眺めていて動こうとしない伸子に、素子が、

「えらい御執心ぶりだね」

と、短く笑った。

「もういいだろう? 行こうよ」

「まって。──もうちょっと」

 さきへ行かれてしまわないように素子の片手をつらまえながら、伸子がたのんだ。

「『わたしの巴里モン・パリ』ができかかりなんだから。──なんだか、わかりかかって来ているんだから。──動かないで」

 それは複雑で、うまく説明しにくいことであった。腕環を眺めているうちに、伸子の心の中ではいくつもの渦がまきしまり、巻きほぐれて、何となし世界の人が、パリ、パリ、と特別なものをもっていう感情の機微が自分にわかって来たように思えたのだった。

「ね、世界の人たちは、何のためにこれだけ毎年パリへお金をおとしに来るんだと思う?」

 熱中した眼つきで素子の腕をとってマロニエの下を歩きながら伸子が話しはじめた。

「──ね。世界の人は、パリのもっている表現力のために、フランス政府の歳入をふやしてやっているんだわ──ちがう?」

「…………」

「パリは、いろいろ表現したくてされなかった人の気持を、あらゆる表現で表現してやっているんだわ、表現の最大限、表現の多様なおもしろさを示して……。パリでは、だから、きっと贅沢そのものより贅沢の表現がより贅沢なんだろうし、快楽そのものより快楽の表現の方がきっともっと快楽的なんだわ。そう感じない? 表現を創りだしている人たちって、みんなきっとこのパリで、しらふで、地味で、鋭いんだろうと思うわ。それは仕事なんだもの……」

 芸術というものは表現に立っている。その意味で、パリが芸術の都であるというのは、事実だった。

「でもね、パリの人たちは、何に向って表現しているのかしら──大戦からこっち。ねえ。あんな激しい表現の行くさきは、どこなんでしょう」

 磯崎夫妻につれられて行った画商の店にあったドランの、壁いっぱいの大さの、赤松林の風景の印象が、ベレーをかぶった額に青葉かげをうつしながら歩いている伸子の心を横切った。つづいて、別の壁にかかっていたキリコの石膏色の円柱の折れたかたまりと非現実な馬と、人間が。マチスとピカソの年と云われて、伸子たちが歩いた二三軒の画商には、マチスの、溶けるように甘美な調和と休憩の諧調にあふれる作品と、ピカソの奇異なコンポジションが陳列されていた。それらの画商のドアを押してはいり、そのとっつきから陳列されている絵の前に立つごとに、伸子は、鋼鉄はがねのようにつよく容赦なく互の独自性を主張して存在しようとしている個性のそばだちを感じた。これらの画家たちは何と強烈に意欲的に、自分の破壊とくみたてを行っていることだろう。それぞれに嶄新な創造を発見しようとして、そのためには野蛮であろうとし、過去の伝統から身をふりもぎって追求しようとしている。その光景は、壮観だった。しかしながら、現代フランスの才能ある画家たちの独自性は、何と独自性のための独自性だろう。フランスの現代美術にはもう流派エコールというものはなくなった、と云われている。その現実を、こうして画家たちの個性の林立において眺めると、そこにあるのは着想の嶄新さであり、その嶄新さは一人一人の画家の主観の超現実的な凝集と分解、ディフォーメーション、するどく計量されている不調和の調和の上に約束されているものだった。

 フランスで、文学は、大戦後も崩れてはしまわなかった。はげしく動く人間の歴史の中からしっかりと能動的に精神の骨格をそびえさせている。大戦によって社会主義の社会にならなかった国々の進歩性と、より高い聰明への省察、人間性の探究として立っている。それを伸子は、ロマン・ロランにおいて見出し「クラルテ」の作者によって知り、マルチネによって感じることができた。

 絵が、文学より先にフランスでこんなに砕け、感覚の中へ分散してしまっているのは何故だろう? フランスの絵が、リアルな現実をこういう形にくだいて実体を失わせ平面にしてしまうしか出道のないことについていまパリで絵を勉強している人々は懐疑がないのだろうか。きょうフランスで絵画的と云われることは何を意味するのだろう。現実分解や図解、きそってのディフォーメーションは、それが新しい美への試みであるという諒解、そのために現代が忍んでいる寛容さの上になりたっているもののように伸子には思えるのだった。視覚をとおして来る美の感受よりも、より多量に認識の問題であり、そこからの試作のようにも思える。画家のほんとの心情的なものは、こういう飛躍のうちに疲れるだろう。画家の主観より、現実は常により強固であり実体的であるのだから。伸子は、血をぬかれ、平べったく透明なきれぎれにされていない新しい美を欲するのだった。でも、そういう美はどこから生れるのだろう。新しい社会であるソヴェトから、というのは簡単であるけれども、ソヴェトの十年は、文学よりも絵画の新生のむずかしさを示していると、伸子は考えしずむのだった。これらのことが磯崎恭介と率直に話せたら、面白いことだったろう。だが、磯崎恭介は、伸子たちに、自分の制作をまだ一枚もみせていなかった。そのことは、おのずから彼とのつきあいのなかに画された一線となっていて、伸子たちは絵について全く素人である自分たちを、絵の問題からはしめ出しておかなければならない形だった。

 ガリック・ホテルに向って長いヴォージラールの通りを二人で帰って来ながら、伸子は、しきりに、ロシアの絵のことを考えた。トゥレチャコフスキー画廊を埋めている古典的ロシア写実派の絵。色がみんな壁のなかに封じこまれているそれらの絵の世界はレーピンによって解放されている。文学で云えばトルストイの時代に。ゴーリキイとともに歩いて来た画家というのは誰だろう。それから一九一七年後ファデェーエフやフールマノフの時代になってからのソヴェト画家。伸子はデニカの絵を、実感の上に思い出すばかりだった。幾十万のポスターや諷刺画はあふれているが。ソヴェトの新しい絵画の広野はまず人跡まれだった。文学にくらべると、おどろかれるぐらい。

 ここにも、フランスで絵画が文学より砕けてしまったという現象を、反対の方向から考えさせる芸術のジャンルの特質についての秘密がかくされている。伸子のつきたい点がそこにあった。モスクヷで見た三人の若いソヴェト画家たちの帰朝展の混迷を思い出した。

「無理もないわ」

 若い彼らがうちこまれた混乱と抵抗とに同感し、伸子は、それをひとごとと思わなかった。

「ルーヴルへ行けば、あの有様だし……」

 ルーヴルでは紀元前五〇〇〇年のエジプトの彫刻が広間の床をみたし、ジオットから後期印象派までの画家の作品が、壁という壁を、二段三段に埋めていた。

「現代の画家の仕事はこうだし……」

 ディフォーメーションの感覚そのものが、ソヴェトの社会生活には必然でないのだった。パリの運転手たちが、あの快速と身についたリズムで衝突をさけつつエトワールの凱旋門をぐるり、ぐるりとまわって、的確に街角から消え去るように、現代のフランスの才能は、ゆずらず個性をとぎすましながら、決してめまいのしない神経で、つみ重っている古典の山と、きょうの色まばゆい破片と思い思いのディフォルメとの間をすりぬけすりぬけ、自分の絵を追究しているのだろう。

 きょう、ブルヷールの宝石商の飾窓の前に立って腕輪を眺めているうちに、パリは、美とされているものの国際市場なのだ、という判断が伸子の心の中でますます動かしがたくなって来た。マチスそのほかパリの有名な画家たちの名は、伸子がその名も知らないパリ一流の服飾家の名とともに世界に知られていた。そういう画家たちの市場価値は、きんそのものと全く同じに国際相場だった。

「ね、フランスは、自分の金を輸出資本にしているだけじゃないのよ。『表現力』も輸出目録にかきだされているんだわ。パリは、表現というものの国際市場よ、そう思わない?」

 伸子は、言葉をきったが、その沈黙をまた自分からやぶった。

「だから、アメリカから一番ひとが来るのよ。あすこに物はありすぎるほどあるんですもの。でも、その物は、出来ているだけで──どんなに品質がよくても、それは生産品なんだわ。その生産品が、贅沢の表現となり、繁栄の表現となるためには、多分、ちょっと足りないものがあるってわけなんじゃないかしら。──物といっしょにそういう雰囲気までを商品にもとめる金もちのお客の心理を満足させるために、パリはお師匠さんなんだわ、きっと──」

 だまっている素子の手を、ひっぱって伸子は、

「ね、賛成しない!」

と云った。

「そうでないんなら、モディリアニは、あんなに貧乏で死ななくてよかったんだわ。彼を愛していた奥さんが親のうちの窓から身を投げて死ななくてよかったんだわ。そう思わない? モディリアニの絵は、装飾以上なんだもの、人生があるんだもの。──ゴーギャンだってさ──あんなひどい一生だったのに。世界の金もちだけよ、いま、ゴーギャンを買えるのは」

 伸子と素子とはメトロのステーションの段々を降りて行った。例によって改札口のあたりには、白く、黄色くすてられた切符が散乱している。

 午後の中途半端な時間で、プラットフォームはきわめて閑散だった。伸子たちは、壁にモザイクで、新橋ポン・ヌフとステーションの名を書いてあるあたりで立っていた。素子がタバコでもつけたそうに、ちょいと落付のない表情を目の中に浮べたときだった。不意に、

「畜生!」

 小声で、歯と歯の間から叫んで、素子は素早く自分のうしろをふりむいた。同時に、片手をうしろにまわして、何かを払うようにスカートを撫でおろした。

「しりなんか撫でやがって!」

「?」

 滑稽さと意外さとで、伸子は、自分もうしろをふりかえって見た。誰が、そんなことをしたんだろう。伸子たちの近くにはそれらしい者は一人もいなかった。すこしはなれたところにソフトを斜かいにしてかぶった中年の背の高い男が二人づれで佇んでいた。二人とも、タバコをふかして、全く何気なくこっちを見ながら話している。

「──変ね。──誰もいやしないのに」

「なに、あいつらのどっちかだ」

 はなれたところにいる男たちをにらむように、素子が云った。

「うしろを通りぬけたと思ったら、もう撫でやがった」

 素子は、おこった表情で、けんかでもしかけたように下顎をぐいと掬い出して、また男たちの方を見かえった。

「見ないでおきなさいよ」

 伸子が、半ばおかしさをこらえたまじめさで注意した。

「なお面白がることよ」

「パリの男って、何て器用な撫でかたしやがるんだろう。さわったかさわらないで、ちゃあんと撫でてやがる」

 メトロが来た。伸子がさきに乗りこんだ。つづけて乗りこもうとしたとき素子が、伸子にもきこえたほどきつく、

「チェッ!」

と舌うちした。

「どうしたの?」

「また撫でやがった」

 しかし、男たちは、伸子と素子の乗ったその車室のなかへは、はいって来ていないのだった。



 二つ並んでおいてある寝台の一つに、素子がている。シーツを体の上にかけて、左の頬っぺたへ当てている氷嚢がずり落ちないように、白い布でくくった蝶むすびがつったっている。頭を、高く重ねた二つの枕の上において。激しい歯痛がおこって、昨夜ちっとも眠れなかった素子は、氷を当ててからやっと落ついた。素子は、これで眠れるのかもしれない。──

 伸子は、ホテルのせまいその一室の寝台から離れた、──フランス風の露台のところに、クッションをしいて坐っていた。伸子も、くたびれていた。

 歯の痛くなったのが、日曜日のきょうだったのはほんとに途方にくれることだった。ゆうべ、すこし怪しいと云って食塩水でうがいをしてねた素子は、けさ、七時ごろ、

「ぶこちゃん、おきておくれ」

と、自分の寝台から伸子をおこした。

「歯が痛んでやりきれない。明け方から待ってた。──もう磯崎君のところだって起きただろう。医者をきいてきて──」

 伸子は、おこされた途端、その日が日曜日だということを思い出さなかった。いそいで着換えをして、ヴォージラールの通りへ出た。朝がまだ早いと云ってももう間もなく八時だから、いつもなら歩道を足早に行く通勤人が多い時刻だった。けさは、どうしたのかひろい通りを下手へヴェルサイユ門の方へ見わたしても、上手を見やっても、プラタナスの緑の並木の梢に朝の光がちらついているばかりで、街はひっそりしている。伸子はホテルの前の歩道にたたずんで、タクシーの通りかかるのをまった。あいにく、そのタクシーも、けさは一台も走っていない。そのときも、まだ伸子は日曜日なのを忘れていた。待ちかねて、朝かげのゆれている通りをデュトの方へ向って歩いてゆくと、はじめての角から、二人のよそゆきのなりをした少女が白い手袋をはめた手に聖書をもって歩いてくるのに出会った。それを見て、伸子は、ほんとに! きょうは日曜日だった、と気がついたのだった。そうわかると、伸子は一層困惑した。日曜日なら、どこの医者でも休日であろう。磯崎へ歯医者をききにゆくということがそもそも、あてずっぽうなのだった。

 やっと一台のタクシーをつかまえて伸子はそれにのった。そして、デュト五八番地と磯崎の住居のある行くさきを告げた。タクシーが、どの通りもしんかんとして人通りもまばらな朝の町を走るうちに、伸子は、ふと妙に思いはじめた。ガリック・ホテルの前からでさえデュトまではタクシーで五分ぐらいのものだった。五分は経った。けれどもタクシーの伸子の目にうつる町すじは見馴れない風景ばかりだった。デュトの附近に似たところと云えば、それらの街すじの貧しげなところや、古くてせまい歩道の向ってに青い鎧戸が寂しくしまっている窓が見えているような景色だった。こういう街どおりにある荒物屋やパン屋の店も、日曜日のけさはしめられている。自分がデュトではない街の間を運ばれていることが伸子に疑いようもなくなって来た。何かの間違いだろうか。それとも、運転手に意図があるかしら。不安がつよくなった。どっちにしろ、あの角へ行ったら、タクシーを止めさせて、降りてしまおう。そう決心してつき当りに見えている古い壁を見つめながら伸子が緊張して座席からのり出したとき、ほとんど乱暴に伸子ののっているタクシーが、そこでとまった。運転手が伸子の方へ鳥打帽をかぶっている首をひねって、

さあ、ここヴォア・ラ・ジッシがディト街ですぜ」

と声をかけた。

「ディト?」

 けげんに思って伸子はとまったタクシーの窓から首をさしのばして歩道のつき当りの塀にうってある円形の町名票を見た。そこにDITOTと書かれている。ほんとにディトという街もあったのだ。

間違いよセ・エレール

 伸子は、あわてながらやっと英語に近いフランス語の単語を見つけ出して、それらをきれぎれにつぎあわせながら云った。

正しくないパ・コレクト。わたしはあなたに告げた。デュト街と。デュト街へ行きなさい」

 Rの音もUの発音も正確にできない伸子はベレーをかぶっている頭をふるように舌へ力を入れて、せめてめりはりの調子で運転手に自分の云う街の名をのみこませようとした。行先のきき間違いとわかったことは、伸子を安心させた。

 運転手は、あっち向きのまま、雨だれのような伸子の言葉を背中できいていたが、

「あなたは、デュトへ行くのかね」

 くるっと太い首をひねって伸子を見かえった。

そうウイ! そうウイ!」

 坐り直してぐいとクラッチをふみながら、運転手は見えない唾をはくように悪態をついた。

悪魔チョルト!」

 チョルト! それをききつけたとき伸子の顔があからんだ。モスクヷの「チョルト」! 自分にわかるロシア語。運転手は、偶然にもパリに沢山来ているという亡命ロシア人の一人だったのだ。伸子は、いきなり座席の上からのり出して、鳥打帽の運転手の縞背広の背中に向って喋り出した。

「多分、あなた、ロシア語がわかるでしょう。わたしはデュト街の五八番へ行かなければならないんです。病人があって、医者を迎えに行くんです」

 運転手は、伸子のいうことには、ひとことも返事しなかった。しかし、やがて止ったのは、見覚えのある磯崎の住居のがらんと四角くあけっぱなしの薄暗い入口だった。

 タクシーから降りながら、伸子はまたロシア語で云った。

「ここから医者のところまで、わたしは又タクシーにのるんだけれど、あなた、待っていていいなら待っていなさい。──まち賃は出す──どう?」

 運転手は、感情をあらわすまいとする無愛想さで、

よろしいビアン

と云った。この白系ロシア人の運転手は自分ではフランス語しかつかわないのだった。

 磯崎でおそわったジャコブ街の角の「アメリカン・デンティスト」は日曜日でしまっていた。そこがだめだったらと、ドフィネの二〇番の五階に住んでいる芝村という日本人を紹介されていて、伸子はそこへも行った。日曜日の朝の九時すぎたばかりに、寝床にいる若い男のひとを起して歯医者のことをきくのは、伸子によくよくの思いだった。派手なパジャマ姿のそのひとは、

「弱ったなあ」

と、頭のうしろを掻いた。

「何しろ日曜ですからねえ」

 月曜になったら、何とでもするがということだった。月曜日になれば、その「アメリカン・デンティスト」も、日本の人の経営している歯医者もあくのだった。困りはてたその人は伸子とつれだって、サン・ラザールにあるアメリカン・デンティストの支店へ行ってくれた。そこにも、宿直の年よりが窓口に顔を出したきりだった。その年よりは困っている伸子と、もっと閉口している男の人に同情して伸子に、一つの鎮痛のための薬の名を書いた紙きれをくれた。それをもって、伸子は寝床からひきずり出された若いひとにあやまりながらまっすぐヴォージラールまで戻って来た。薬屋だけは、一つの街に何軒という風に日曜でも店を開けている。伸子はホテルのすこし手前で薬屋が目にはいったところでタクシーを降りた。ロシア語のわかる、しかし自分からは決してその言葉を話さない運転手のタクシーにのって、日曜日には、すべてが休んでいるパリで歯医者をさがして、一時間あまり伸子は空しくかけまわったのだった。

 うすよごれた白い上っぱりを着て、老眼鏡を鼻の上にずりおとした薬屋の年よりが渡してよこした袋の中をのぞいて見たら、そこには三色菫パンジーの花の乾したのが少しはいっていた。そのとき、伸子はその薬屋のほこりっぽい店つきとともにフランスの庶民生活にある伝統の古さを、身にしみとおるばかり感じた。風邪にはカモミユの煎薬。鎮痛には三色菫の乾した花。これもいずれは煎薬だろう。伸子は、カトリーヌ・ド・メディチの時代からパリの男や女が煎じてのんでいたにちがいない三色菫パンジー乾花ほしばなの袋をもって、ゆっくりそれを煎じるような設備はどこにもない近代式なホテルの部屋に帰って来た。

 素子は、枕のよこに時計をおいて伸子を待っていた。日曜日にたのめるような医者は見つからず、月曜まで何とか二人でしのがなければならないことを告げながら、三色菫の袋を出すとき、そういう事態を自分の無力さからのように困って、伸子は腋の下を汗ばました。素子は、歯の痛さと、もどかしさとから、逆上しそうだった。

「ベルリンにいたのに、うっかりしていたわねえ、アスピリンぐらい買っておけばよかったのに。──何かそういう薬、きいてみましょうか」

「やめてくれ」

 素子は涙をこらえている眼つきで、苦しそうに総毛だちながら伸子を見あげた。

三色菫パンジーなんかよこすところをみちゃ、とても安心できやしない。ごめんだよ」

 寝台のわきに坐って、ぐったり投げだしている素子の手をとってしずかに撫でながら、伸子は、素子の歯痛が、たちのよくないものでないように、と絶えず不安だった。パリへ来て、やがて半月になろうとしているのに、二人の交際範囲は相変らず磯崎夫妻にとどまっていた。このパリでの極端なつき合いのせまさが、きょうのようなときに途方にくれる状態をひきおこしているとも云える。伸子はちょくちょく素子の額にさわってみた。

「熱がでていないから、化膿性のものじゃないことだけはたしかよ──大丈夫だわ、──でも、痛い?」

「きまってるじゃないか、ばかだなあ」

 素子は、痛さに気をとられていて、そのことに思い及ばないらしかったが、伸子の心には自分の気持についての不安があった。パリにいる日本の人たちとの社交的なつき合いを意識的にさけているのには、伸子の意見がつよく影響していることであったから。──

 ガリック・ホテルへ移って間もない或る日のことだった。外出から帰って来た伸子たちは、帳場で室の鍵といっしょに一枚の名刺をわたされた。それは、もう数年間パリに生活しているある新聞社のパリ特派員の名刺だった。この人によってその新聞の文芸欄に折々パリの文壇、画壇、楽壇の消息がのせられるのを伸子は日本にいたころから読んでいた。パリに滞在している年月が長い上に、その人に特有の気質が加ってか、彼のパリ通信は、多くの場合、ただの報道ではなかった。フランスの著名な芸術家たち、パリへ行っている日本の知名人たちとの交遊の雰囲気、友達づきあいの空気がただよう通信だった。その特徴から、いつとはなし伸子は、その人の名や特徴を記憶するようにもなっていたのだった。

 帳場でわたされた名刺には、あっさりと、訪問の主旨が一行に書きつけられていた。その年は、最近の数年間に最も多く日本の作家たちがパリで落ちあったと云われているときだった。伸子がその金を旅費にして先ずモスクヷへ来たと同じ文明社の大規模な文学全集からの収入が、日本の作家の何人かを夫婦づれで、または友達づれで、その夏のパリに来させているのだった。

 もし電話をかけるならば、そのパリ特派員の名刺には、電話番号もちゃんと刷られてある。だが、伸子は、その名刺を、ホテルの室の化粧台の上においたまま日をすごした。その人に会うことから、いつとはなしひろがってゆくいわゆるコスモポリタン風な、そして、それがパリ風だと思われている文壇的社交的なつき合いを伸子は避けたい気持があった。日本にいてさえ伸子にとってなじみにくいものだった文壇というところのつき合いが、パリにおける日本人という面から単純にされようとも、伸子はやっぱり、自分は自分だけで、野暮なまま、追究心にかられたまま──心にやすみのない状態でいたかった。それらの人々が、パリの生活や気分をどうたのしみ、どのように居心地よく友人をつくり自分たちの日常をはこんでいるにせよ、伸子はモスクヷの一年半の生活の中からパリへ来ているのだった。その間には弟の自殺ということもあった。伸子の心には、その人たちの気持とちがう多くの要素がある。伸子がパリの生活を経験することでもし何かを学ぶことができるとすれば、それはつづまるところ、伸子が伸子として生活と心のなかにもって来ているそのみんなとちがうと自覚されている何かを追究すること以外にありようなく思えるのだった。

 名刺をもらって二三日たった晩、素子が化粧台のところで、

「これ、ほったらかしといて、いいのかい?」

 名刺を指にはさんで、伸子にふってみせた。紫がかった臙脂色にこまかい模様のある、やすものの部屋着をきて、寝台に腰かけている伸子は、

「──どうする?」

と、素子を見てききかえした。

「わたしは失礼しちゃおうかと思うんだけれど、わるいかしら……」

 素子は、そういう伸子の顔を暫く眺めていたが、

「ぶこちゃん次第さ」

と云った。

「わたしね、反抗しているのよ、日本の人がこれまでパリとかフランスとかいうと、いやにディレッタントになっちゃって、それがつうみたいになっているでしょう。わたし、それじゃちがうと思うの。曲線一つくらべてみたって、フランスははがねの唐草だと思うわ。そのつよさに、はじきのけられて、ディレッタントというポーズが出来るんだと思う、わたし、そういう修正は、ほしくない」

 そう云って、伸子は考えていた。

「それにパリにはフランス料理のほかに妙なムソリニ式マカロニ料理だの、何とか大公式羊の焙肉シャシュリーク(コーカサス料理の名)だのっていう料理があるでしょう。こっちの文学者のなかにだって、案外そういうものが御愛好って人もあるにちがいないのよ。わたしには、とてもその見わけがつかないもの」

 伸子は肩をすくめて、

「わたしは、やっぱり、ぶきっちょうで、足くびの太いモスクヷからの小熊でいい」

と云った。

 一九一七年以来、パリには象徴派の女詩人ギッピウスやバリモント、ブーニンその他の亡命作家がいた。もとの大公だの貴族だのと云われるグループとこれらの亡命文学者たちのして来たことは、ソヴェトの新しい社会建設への誹謗と、しつこい反革命運動しかなかった。自分からすてた故郷に対してたちきることのできない執着を、現実にたった理解へ高めるかわりに、これらの人々はあらゆる熱情や条理を失った猜疑や怨み憎みに表現していた。そういう発言は、パリを中心にますます盛に活動しはじめている各国のソヴェト同盟への侵略計画、ソヴェト社会を崩壊させようという意図へのうってつけのたきつけとなっているのだった。一昨年の秋、革命十週年記念日のために、国賓として招待されたが、来られなかったロマン・ロランはモスクヷ夕刊へ挨拶を送った。ロマン・ロランのこのソヴェト承認はパリの亡命作家やソヴェトに悪感情をもっている知識人たちを逆上させ、ブーニンとバリモントの署名によるロマン・ロランへの抗議が発表された。それに答えたロランの詳細な手紙が翻訳されてモスクヷの「文学新聞」へのせられていたのを、伸子は翌年になってから長いことかかって読んだ。ロマン・ロランはその手紙の中で何と懇切に、しかし確乎と云っていたろう。「あなたがたは、何物をも知ろうと欲しないし、またこの新社会については何も見ようとしていない。あなたがたは、あなたがたが包囲されている環境の中では、そうすることができない」そして、具体的な実例でソヴェトの社会にすべての文化が成長していることを説明していた。文学においては「若い作家たちは輩出し、彼らは以前よりも多く、フランスにおいて出版されるよりも遙に多く出版され、読まれている」伸子は、ロマン・ロランのその文章で、デュアメルがソヴェト訪問をしたことも知ったのだった。そして、デュアメルがソヴェトの子供や青年たちの明るい生活の姿に心をうたれたと語ったということも。高踏的な詩人だと思っていたデュアメルが、心をうたれたのが、ソヴェトの子供や青年の生活であったということは、伸子にデュアメルという詩人への親しさを感じさせた。

 伸子がそうして黙りこんでいるうちに、もう一度、その新聞の人がホテルへよって名刺を置いて行った。やっぱり伸子たちが外出していた間のことだった。伸子と素子とは、帰って来てうけとったその名刺を両方から眺めて、しばらくだまっていた。伸子が、

「ねえ、黙っているのも一つの表現でしょう」

と素子に云った。

「わたしやっぱり黙ってる」

 そして、日が過ぎた。だが、いま素子の日曜日の歯痛で二人ながら途方にくれていると、伸子は、自分の云いだしたパリでの暮しかたが、へんくつすぎたようにも思われて来るのだった。そのとばちりをうけて素子が、よけいに長く苦しんでいなければならないのではないかと思えて。

 氷で痛む歯の上を冷やすということを思いついて、伸子はやっと救われた。

「氷なんて──どこで売ってるかわかりゃしないじゃないか」

「大丈夫よ、下のレストランにきっとある。まさか冷蔵庫はつかっているもの」

 伸子は、日用英仏会話の頁をくった。そして三色菫パンジーの薬屋で氷嚢を買い、それからホテルの下のレストランで氷を二フランだけわけて貰った。はじめ氷のつめたささえ感じなかった素子は、やがて、氷嚢の下にハンカチーフを二つ折りにして敷かせた。そのころから、素子にねむけがさして来た。

 伸子は露台と部屋との境のところにクッションをしいて坐っている。そのすぐわきから部屋の壁がはじまっていた。その壁は流行のマチスばりの配合で、藍色地に黄色で大まかな模様をおいた壁紙で貼られている。床には灰色のカーペットがしかれている。調度は、衣裳棚、化粧台、二つの寝台という単純さなのだが、パリへ来て伸子は、このホテルの室もそうなのだが、寝台に占められている空間の大さにおどろいた。いまは素子がその一つに臥て、うとうとしている大きい寝台は、二つ並んでその部屋の三分の二以上の場所をしめていた。歩くすき間だけをのこして、衣裳棚と化粧台が置かれているから、伸子が素子のとなりの寝台の上にころがるか、さもなければ鏡のついている化粧台に向って腰かけているかしたくなければ、こうやって、ひろく両開きになっているフレンチ・ドアと露台との境のところに、クッションをおいて坐っているしかなかった。

 三階にある伸子たちの室のバルコンからは、繁ったプラタナスに半ばかくされている古びた石塀ごしに隣りの内庭が面白く眺められた。その小庭は誰のもので、どういうところなのかわからなかったが、大きく枝をはったプラタナスの樹の下に、緑色に塗った東屋あずまやのようなものがあって、その屋根は麦藁ぶきだった。小さな窓に黄色いカーテンがかかっている。お伽噺めいた麦藁屋根の緑色に塗られている小屋に好奇心をうごかされて、露台へ出るたびに伸子はきっとそこを見おろすのだったが、人影をとらえたことは一度もなかった。人がいることのあるのは確かなのに。ほとんど、いつも緑の小屋の窓はあいていて、そこから黄色いカーテンがのぞいているのだから。

 ヴォージラールのその裏側は、昼間でも静かに、ひっそりとしていて、たくみに出入口をかくされている緑の小屋のぐるりは石塀に囲まれている。その壁のそとに、フランス風に砂利をしいた小道がひとすじ通っていた。その小道をへだてて、鉄の手摺りがついた五段の入口をもった三階の家があった。伸子のところから見える側の各階に五つずつの窓が開かれていて、屋根裏部屋の窓も小さいのと、大きいのと二つきられている。いまはどこにも姿を見せていないが、そこが少女のための孤児院だろうと思われるふしがあった。ある朝、起きぬけに伸子が、露台へ出るフランス風の窓をあけて何心なく隣の小庭を見たらせまいコンクリートの内庭へ台を出して、十一二歳の少女が二人、洗濯をしていた。少女たちの洗いざらした灰色木綿の上っぱりは、伸子にベルリンの未決監獄で見た灰色木綿の服の色を思い出させた。二人の少女は、互にお喋りもしなければ、歌もうたわず、どう見ても洗濯日の仕事といういや応なしの働きぶりだった。伸子と素子とはしばらくその様子を眺めていて、いつも静かなその三階の建物は少女たちのための孤児院だと思うようになったのだった。

 伸子は、露台からひっこみながら、

「あの子供たち、自分たちが洗濯をしている壁のむこうに、どんなものがあるか知っているのかしら」

と云った。そういう伸子の眼のなかに苦い憐憫が浮んだ。ホテルの三階の露台からこそ、石塀の左右の景色がひとめのうちにみおろせて、一方に淋しい孤児院があり、となりには同じ界隈のしずけさにつつまれながら、大人のお伽噺めいた麦藁屋根の緑の小屋が、黄色いカーテンをもって建っているのが眺められる。だけれども、同じ平面のこっちで洗濯をしている少女たちの視線は、せまく石塀によってかぎられているし、孤児院の方の窓々からそのおもしろい内庭も見えないらしかった。塀のそちら側にプラタナスがしげっていて、緑の小屋はその蔭によっているから。

 こういうパリの片隅にある生活の情景は伸子の心をつよくとらえた。塀の灰色、こってりとしたプラタナスの緑の枝。そこに色調があり、緑色に塗られた小屋や黄色いカーテンや淋しそうな孤児院とその少女の姿に絵がある。パリへ来ると、どんな画家でもその人の一生にとって何か絵らしい絵を描く、そうさせる刺戟の半面がこあじな気分や調子に満ちている。しかし伸子は灰色と緑に、その淋しさをもって調和しているような少女たちの姿を見ると、そういういわゆるフランスらしい調和を突破して溌溂と生活そのもので生きているモスクヷの野営地ラーゲリの少年少女を思わずにいられないのだった。彼らは洗濯する。彼らはジャガイモの皮むきをする。食器洗いをする。つくろいものもする。きまった時間に学習し、水浴し、遊びして暮している。野営地ラーゲリには、親のない子供たちの「子供の家」からもどっさりの少年少女が来た。そういう孤児たちの笑声。働きかた。クロッキーにしか描けないくらいあの連中の生活は動的だった。彼らの肉体のとおり精神も。十一二歳の少年少女の観念のなかには、国際情勢というような言葉がその内容のあらましをもって生きていた。

 パリというところについて、固定した見かたや感じかたをそのままうけいれている人にとっては、伸子のこういう連想と比較は、モスクヷから来た人はああだから、と敬遠的に云われることなのかもしれなかった。磯崎恭介がソヴェト・ロシアの新しい絵や画家の生活、その集団が絵画上に提出している問題について、伸子たちから積極的にきこうとしないことは、伸子たちが絵画についての素人だからというためばかりだろうか。そして、伸子たちに自分の制作を見せたがらないのも。──伸子は、このことを別様に感じとっているのだった。磯崎恭介は、パリで絵を勉強している自分に、ソヴェト・ロシアの絵はどこか別のところのものと、考えているのだ。

 予想される感じかたのくいちがいは別のことにもありそうに思えた。たとえば伸子が、パリへ来たら、ホテルの部屋にベッドばかりかさばっていて、わたしたち二人がゆっくり坐れるところは露台のわきしかないのよ、と云ったとしたら、それをきいた人たちは、おそらくそういう伸子を気の毒がって笑うだろう。寝台というものを、その上に体をよこたえて眠るところとしてしか使いみちのない、女二人の味気なさとして。ねるセ・クーシェ、というひとことに、いつも男と女の複雑なニュアンスをこめてにおわせることが、パリ風な気分として通用しているのだから。

 伸子の生活の現実には、モスクヷのホテルの特色がうけいれられているという事実を、どうできよう。きょうの日曜日、朝から素子の歯痛でかけまわったあげく、やっと病人も伸子もくつろいで、一方はまどろんでいるところ。伸子はこうやって三階の露台から隣りの塀の中の人気ないプラタナスの繁みと、麦藁屋根の東屋あずまやと孤児院らしい建物を眺めているとき、さまざまの往来が心に湧きおこって、伸子はホテルのその室に、鏡つきでない仕事机さえあったらと思っている。それは伸子の実感なのだった。モスクヷのホテル・パッサージの、一日じゅう日光のささない小部屋でも、仕事机とその上に電気スタンドは備えつけられていた。ホテルが、先ず仕事をもっている人間の住む必要を基礎にして設備され、寝台の快適さはその上でのこととされているのは、伸子には、あたりまえで単純な人間らしいものわかりのよさ、として、うけとられているのだった。子供は保護されるべきものであり、人間が働いて生きるからには、より仕合わせな勤労にならなければならないという事実と全くおなじに。生活のそのように単純で、わかりやすく、そうにちがいないことを、それがそうであるべきように実現しようとして居り、ある部分では実現されつつあるということで、ソヴェトの社会が、ぐるりから絶え間もなく蒙っている邪魔や誹謗や意地わるはどうだろう!

 ピカソの勇気、ということが驚異をもって云われている。でも彼は、新しいものをさがしているときなぜアフリカ土人の作った原始的な木偶でくへかえったのだろう。それから、現実をバラバラにして置く図解へ。──人間は歴史の前進において、未開の克服において新しさを創り出しているのに。同じ国の文学の世界では、数こそ少ないけれども優秀な数人の人たちが、歴史の上にあらわれた人間の新しい現実を現実としてうけいれ、そこに粗野なものと同時に人間にとってよりよいものを発見しはじめているとき、絵画が、ピカソの最も果敢な精神においてさえ、未開にひかれ、現実の分解図解の方向にばかり向けられている。その角度が、一九一八年からのちはいわば衆目の目ざすところとなっていて、その歴史との奇妙なくいちがいや、文学との奇妙な離反の状態に、公然の疑問はかけられていないように見える。伸子はその状態に質問を感じずにいられないのだった。文学と絵画との頂点の向きがあんまりちがっていた。パリでは絵画の芸術至上性が誇大されていてその世界的な市場性が懐疑されなさすぎるようだった。

 伸子はパリへ来てから、モスクヷにいたときより素子との心のへだたりを忘れた。素子はパリへつくとすぐ、ベルリンにいたときそうであったようにタバコに興味を示した。つうの吸うものとされている「マリラン」を試みたり、「ばらの花びらローズ・ペタルという名をつけられていて、吸口の金箔の上へ深紅色のばらの花びらを巻きつけたエジプト・タバコ──それは、素子のあっさりしたスーツ姿には似合うところがなかった──を見つけ出したりしているのだった。ウィーンで、鞣細工店のショウ・ウィンドウを見おとさなかったように、パリで、素子の金をかけない道楽は柔かい絹のネクタイの、気に入った意匠のものを見つけて、一本二本と買うことだった。それらのネクタイのあるものは素子が自分でつかおうとする分であったし、あるものはモスクヷの友達や教師にみやげにするために見つくろわれた。素子のために送金そのほか連絡係をしていてくれる東京の従弟の分として選ばれることもあり、時にはまるで誰にというあてもなく、しかし、いつか、どこかにそれをおくるひとが現れでもするかのように、気の利いた水色と白のこまかな市松織のネクタイが買われたりした。素子のネクタイ蒐集は、ウィーンで買ったオリーヴ色の小鞄にしまわれていた。パリの六月の長い金色の夕暮が、あけはなしたバルコンから斜かいに三角の光のよどみを壁紙の裾にとどめているような刻限、また夕飯に出てゆくまでのひとときを素子はよくベッドの上にころがって、ネクタイを眺めなおしていた。だまって、あれからこれへと手にとって、仰向いている目の前にかざして眺めたり、そのうちに起きかえって、自分がそれまでかけていたのをとって、新しい一本ととりかえてみたり。──それは、男のパイプ趣味とはちがった。女が半襟だの紐類だの小物に示す愛情の情景だった。

 道楽のない伸子は、となりに並んだ自分のベッドに腰かけてその様子を見ていたり、ときには、上着をとって、ブラウスとスカート姿で、ころがっている素子にくっついて同じベッドにかけ、素子の蒐集の中から伸子に気に入るのをよりわけたりした。そんなとき、伸子は熱心に、たった一人の相手として、素子に、あれやこれやの野暮な疑問を溢らせるのだった。伸子とすれば素子だけが一番自然に話せる相手だった。少くとも素子は、伸子と同じモスクヷの一年半のなかから来ていることだけは確実だったから。

 氷を当てて、素子はいい心持そうに熟睡していた。そっとしてバルコンのところに坐っていた伸子は、上体をひねって、眠っている素子を見た。素子は、おたふく風をひいた患者のように、頭の上に白い布の結びめを立てて、こっち向きに眠っている。熟睡している素子の顔つきはあどけなかった。軽く顎をだすようにして、氷嚢をくくりつけている白い布と純白のシーツの間から痛みがやわらいでほんのり赤みのさして来た目鼻だちをのぞかせて眠っている。それは、かたい眠り、と云われている深い眠りかただった。そんなにして眠っている素子をしげしげと眺めることは伸子に珍しかった。清潔に、無心に眠っているものを見ているときのやさしさで、伸子は何となしほほ笑んだ。

 そのほほ笑みは、しかし、段々本式の笑いにこみあげて来て、伸子は体をバルコンへ向け直しながら声をしのんで大笑いした。こんなにして眠っている素子が、メトロのステーションで「畜生!」と舌うちしたときの表情や「尻を撫でやがった!」とまるで自分に女の後つきがあることをそれで発見したように言った言いかたを思い出すと、伸子は滑稽でたまらなくなった。その滑稽さのなかには伸子の気をくつろがせるものがある。パリの物ずきな男が、素子のなかに女を感じて奇襲したやりかたは、げびているが、伸子はそこにいやらしさというよりむしろ諧謔的な、風のいたずらめいたものを感じた。素子が自分の女であることに衝撃ショックされたのは何とおかしくて、然し、自然なことだろう。

 素子が目をさましたときは、静かな日曜日の午後ももう夕方に近い時間だった。

「ぶこちゃん」

「どうした? すこしは、よくなった?」

 伸子は寝台へよって行って、とけてしまった氷嚢をどけながら、素子の鼻のあたまにちょっと接吻した。



 六月なかばのパリでは、マロニエの若葉をうってときどき軽い雨が降った。その日も、朝から間をおいて通り雨のような明るく光る雨が降った。伸子と素子とはホテルの室にいて、素子は化粧台の上にベルリンで買ったロシア語のタイプライターを置き、練習をしていた。伸子は、まだ外出したくない素子と部屋でたべるために、玉子、桜んぼ、サラダ菜、チーズなどを買って来た。伸子はそういう買物をめずらしがって、フロマージュ(チーズ)六ヶ四フラン四〇サンティーム、クッキー一二五グラム三フラン五五サンティーム、玉子二ヶ(上)一フラン七〇サンティーム、桜んぼキロ四フラン、など、手帖にかきつけるのだった。為替相場は一フランが日本の十二銭強で、ベルリンの一マークが三十五銭ばかりだったのからみるとずっとやすかった。モスクヷではチーズ類や玉子が払底でたかかった。けれども出盛りの桜んぼや苺などはいかにも季節のおくりものという風に道ばたの手押車の上でもたっぷり売られていて、一キロ八十五カペイキぐらいしかしなかった。それは日本の金にするとわずか十銭足らずだった。

 去年の夏の末に、ヴォルガの河をニージュニ・ノヴゴロドからスターリングラードまで下って、ウクライナとコーカサスを旅行したとき、伸子たちの乗っている白い遊覧船は、一日のうちに必ず二度三度はカスピ海にそそぐ河口のアストラハンからヴォルガをさかのぼって来る西瓜船とすれちがった。河を下ってゆく伸子たちのマクシム・ゴーリキイ号は、船艙いっぱいに上流の森林地帯から生産されたベニヤ板を積みこんでいた。高く積み上げられたベニヤ板と船艙の天井との間にヴォルガ沿岸地方の多勢の農民がねころがって、ニージュニからカザンまで、カザンからサマラまでという風にのっていた。しめっぽくて強い木の香のみちた船艙にサパギーをはいた農民たちが、黒ラシャの外套一枚を毛布がわりに積荷であるベニヤ板の上にころがって河を下ってゆく光景は「夜の宿」の舞台めいているようだけれども、その船艙の一隅には「赤い隅」と「図書部」があって、素子はそこから本をかりた。夜になると、もう秋の落潮のはじまったヴォルガの水脈を求めてゆるく航行する船の舷側から、ギターがきこえ、若い男の唄声が水の上に流れた。伸子は甲板の椅子によって、ちりばめるという字そのままに美しく、大きく黒い空にきらめいている星を見まもりながら、流れ下る若い男の唄声にとかされてそのまま眠ってしまったこともあった。

 西瓜船にすれちがうのはきまって午後だった。ヴォルガの洋々とした水の面が今を最後の夏の光と暑気とにまばゆい午後になると、アストラハンを出発して上流に向う遊覧船にひかれて、山もりに西瓜をつんだ平底船が来た。西瓜船に人がのっていることもあり、西瓜ばかりのこともある。舳に白波を立てて広い流れをさかのぼって来る遊覧船には人が満載だった。甲板の手摺りに鈴なりになって、こっちの船をみている白い開襟シャツ、黒と黄色の横ダンダラの運動シャツなど一人一人の姿が手にとるように見える間隔で二つの船はすれちがった。下から来る船の乗客にはコーカサスやウクライナの「休の家」から一ヵ月ぶりでモスクヷへ帰ろうとするひとが多いらしくて、すれちがうとき伸子たちの船に向って、モスクヷのなつかしさをこめて歓声をあげるのは、うしろに西瓜船をひっぱっているその船の方だった。同じように午後のうちにすれちがう上りの船でも、吃水を深くしずめて円塔形の上部ばかりを水面にあらわした石油船であると、それを眺めている伸子たちの船の甲板には一種の尊敬の感じが流れた。石油ネフチと白くかかれている特殊な輸送船が川波の間をさかのぼってゆくのをみると伸子にしろソヴェトの生産計画の生きた姿を感じずにいないのだった。

 ロシアで西瓜はドゥウィニヤとよばれているけれど、それは日本の西瓜のとおりなかみの赤い、種の黒い西瓜だった。または、種が茶色で、なかみはクリーム色の汁気の多い種類だった。

 スターリングラードからウクライナ地方を横切る列車の中で、伸子たちは、偶然、黒ずくめのなりをした一人のフランス婦人と乗り合わせた。かなりの年配に見うけられるその人は、黒い趣味いい服につつまれたしなやかな体に細くてつよい力をもっていて、あかぬけした足のさばきやその軽やかさが、雪で重くされているモスクヷの婦人たちのもっていない風情で、伸子の目をひきつけた。

 言葉の通じない三人の女は、列車の廊下にたたずんで、ところどころにまだ一九一七年国内戦時代の廃墟がのこっているウクライナの野や耕地が窓外をすぎてゆくのを眺めていた。曠野のなかにたった一つぽつんと立っている小さな駅を、列車がすぎてしばらくしたら、いきなりその品のいいフランス婦人が、

あら、ヴォア・ラ!たくさんの西瓜ボークー・ド・ムロン!」

 わきにたたずんでいた伸子をかえりみて、窓外にとんでゆく畑の面をさした。

「ボークー・ド・ムロン!」

 伸子は、いそいで、

そうですウイ! そうですウイ!」

と答えた。

非常にトゥレたくさんボークー

 そのフランス婦人にとっては、一見荒涼としたウクライナの耕地に、そんなにどっさりの西瓜が無雑作にころがって、みのっているのがひどく意外であったらしく、窓から外を眺めているやせがたの顔の上に愉快におどろかされた人の、かすかに笑う表情があらわれた。しばらく黙って見ていて、そのフランス婦人はまた伸子に、

おいしいボン?」

ときいた。

「ええ、おいしいボン

 それだけでは何だかものたりなくて、伸子はおいしい口つきをして見せながら、

たいへんヴェリー甘いですスウィート汁気がたっぷりアンド・ジューシー

と云った。フランス婦人は、通じたのか通じないのか、伸子の英語にうなずいて、伸子たちが車室へ入ってしまってもなお一人廊下にのこって、外の景色を眺めていた。

 何の目的で、どこに向ってソヴェトの中を一人旅しているのかわからないその五十がらみのフランス婦人は、夕飯の弁当に雛鳥の丸焼をもっていて、それを少しずつ食べながら、金の小さいコップを出して、葡萄酒をのんだ。相当の年の優美な女のひとが、繊細な指さきを器用につかって鳥の肉をさき、ちっとも粗野な感じを与えずに、それを口へ運んで、葡萄酒をのんでいる様子も、伸子には印象にのこった。彼女が、ほんの少量しかたべなかったこととともに。

 ヴォージラールの通りの店で、桜んぼうを買って帰って来る途中で、伸子は、ふっとそういう去年の一情景を思い出した。と、いうのは、伸子が桜んぼうを買ったその店ではガラスのショウ・ケースの中にムロン、一キロとだけ書いて、価を入れてない正札がニッケルの正札ばさみの上に立っているばかりで、ムロンそのものは無かったから。──パリへ来てみると、鶏は高価なものとされていて一般家庭の食卓へ出されるものでなかった。伸子も今はそれを知った。ムロンと云えば、それは日本でメロンをいうときと同じに、カンタロープその他の高級品をさすこともわかった。ヴォージラールあたりのちょっとした店では、ごく新鮮とは云えない桜んぼうを売っているが、ムロンはおいてはいないのだった。

 タイプライターのおいてあるホテルの室の化粧台の上に、チーズや桜んぼうをひろげて二人で食べながら、伸子は、フランス婦人が、ウクライナの畑にころがっている西瓜を見て、あんなに愉快そうに、おどろいた顔をしたときのことを素子に思い出させた。

「そう云えば、ほんとにあのひとは感動したと云えるぐらいの顔つきだった」

「わたし、いま、わかったようだわ。あのひと、もしかしたら、あの畑の西瓜を、パリのムロンと同じものだと思ったんじゃないかしら。夕方だったし……」

「なるほどね」

「ここじゃ、鶏って相当の贅沢でしょう? ロシアではもっと日常性をもっているわ。丸やきの鶏をあのひとお弁当にもっていて、それもロシアの田舎風のゆたかさと思っていた上に畑ではデザートのムロンがごろごろしているって、心をうたれたのじゃないかしら。──無理もないわねえ。ソヴェトのゆたかさ、たっぷりさ。それと同じくらいきびしい欠乏。毎日、そのコントラストだから」

 伸子は、桜んぼうの種を手のひらにほきだしながら、笑って、

「ああ、わたし、あの女のひとが、いまフランスが先棒の反ソ十字軍に加っていないことを希望するわ」

と云った。

「わたしたち、あのひとは、どこでしたっけ、あの乗換駅。──あすこでわかれちゃったでしょう。もし、あのひとがあとでムロンを買ってたべようとして、ただの西瓜だったとわかって、ひどくがっかりでもしようものなら、危険だわ。ロシアもこれだから幻滅だなんて思うかもしれなくてよ。共産主義の国は、なんて、天気のわるいことも西瓜のことも、何からでも悪口を云うんだもの」

 伸子は好奇心をおこして、字引をひきはじめた。

「ムロンはムロンだろう?」

「そうかしら。でも西瓜はスイがつくもの」

 西瓜ウォーター・メロンという字からひいたら、そこには水の瓜ムロン・ドウあるいはパステクと植物の学名のような字があった。



 マロニエの若葉に明るく光って降っていた午後のとおり雨は、日暮れに近くなってからあがった。

「いい気持の夕方になったねえ」

 バルコンに立って、素子は西空を眺めながら爽やかな空気を吸いこんだ。

「すこし歩きに出たくなっちゃった」

「気分は大丈夫?」

「大丈夫さ、もう三日もとじこもっていたんだもの。──磯崎君とこへ行ってみようよ、医者のとき騒がしたんだし」

 素子は、パリ案内をバルコンへもちだして、ヴォージラールからデュトの間の、いりくんだ町すじをしらべた。

「こういう風に行くと、近いんだねえ。よし、と! さあ、ぶこちゃん、出かけるよ」

 二人は、ヴォージラールの通りをすこし行ったところで右へ曲り、やがてその裏町を左へ折れてつき当りをまた右の横丁へという工合に、ほそい道を縫って歩いて行った。

 そのあたりは、ほんとにパリの裏町で、倉庫ばかり続いた、人気ない古いごろた石じきの道だったり、界隈の古さをしのばせて、どういうわけかそこにだけのこっている十七八世紀ごろの厚い漆喰のかけた石壁に蔦がからんで葉をしげらせているところなどがあった。雨あがりのうすら明るい午後九時の裏町に人通りは全く絶えていて、一人はベレーを左へまげてかぶり、一人はベレーを右へ傾けてかぶった伸子と素子とが歩いてゆくゆっくりした靴音ばかりが、あたりに響いた。とある横丁で、強烈な黒灰色にぼけた四角い小家があり、それにかみつくような対照で煉瓦色の壁が突っ立っていた。その風景はブラマンクの絵そっくりだった。古い、狭い歩道にくっついて伸子たちが通りすがってゆく左手に、昔風にふるびた木造の入口が開いていた。その奥に枝をひろげているプラタナスの下を一人の男が両手に水桶をさげて遠ざかってゆくところだった。プラタナスの木蔭にはもう木下闇が迫りかけている時刻だったから、男のゆるやかな白いシャツの背中は、くらい緑の下のジンク・ホワイトのひとはけのような印象だった。

 どの通りも横丁も、人気なかった。歪んで、表情のある二階建の家なみがあった。その壁と壁との間に三尺ばかりのすき間が見えて、奥が内庭らしく、洗濯物が下り、そのわきに猫のような小娘がお下髪さげを垂してむこう向きに立っていた。それは、もうじきデュトの通りへ出る横丁での景色で、少しゆくと、急にやすもののラジオのラウド・スピーカアがソプラノの歌を送り出して来た。ラジオの流れだす低い二階の窓を見上げたら、あかりをつけない窓から半身のり出させて、若い男と女とが通りを見ていた。その通りの上で動いているものはと云えば、伸子と素子二人づれの通行人だけだった。六月のパリの夕暮は長かった。そのしずかで長い夕暮れいっぱい、人々は次第に濃くなる夜につつまれながらうすらあかりのなかにいるのだった。

 デュトの通りへ出ると、街上の気分はずっと陽気で小さい雑貨店だの食料品店がならんでいる。町角で、二三人のおかみさんが立ち話をしたりしている。

 伸子たちは、いつもその入口は明けっぱなしでドアがあるのかないのかわからないようで戸口番コンセルジュもいないデュト通五八番地の木の階段を、ことことと音をたてて登って行った。入口に電燈はなく、厚く古い壁に沿った階段はもう足もとが暗かった。二階のつき当りのドアが磯崎恭介夫妻の室の入口だった。ノックすると、奥の部屋から靴音がして、

どなたですかキ・エ・ヴー?」

 須美子の声がした。しっとりと、端正な発音だった。

「わたしですよ」

 すぐドアが開かれた。

「まあ、もうおよろしいんですの?」

 それは素子の歯痛のことだった。

「よく、おいで下さいましたこと」

「ちょっと──かまいませんか。おさわがせしたからお礼かたがた散歩に出て来たんです」

「どうぞ。──丁度かづ子も眠ったところでようございましたわ」

 須美子は、装飾らしいもののまるでないその室の椅子にかけた素子の頬を見ながら、

「もうはれていらっしゃいませんのね」

と、ほほえんだ。

「こちらでは、日曜に何かおこると、ほんとに困りますわねえ」

 はじめての子を、須美子は日曜日に生んだのだそうだった。

「でも、お産の方がよろしいわ。日曜日でもお産だけは格別で、かえってみなさん親切にたすけて下さいますから……」

 無装飾な鈍い壁の色をむきだしたその室のなかで、大きい静かな眼の上まで前髪のきり下げてあるおかっぱと、東洋風に小さいたてカラーのついた黒い服をすらりとつけている須美子の姿は、独特に美しく、また、いつみても伸子の心に伝わるある淋しみがあるのだった。

「磯崎君は?」

 素子がきいた。

「今晩はお友達の会だって、出かけて居ります。めずらしいことですわ」

「あなた、行かないんですか」

「──子供がおりますから……」

 そう云ったあとで、須美子は、ちょっと顔をうつむけた。彼女のうなじを、黄昏たそがれの光がかすめた。カーテンのない窓が、こみあったデュトの通の内庭に面してあいている。

「ここのマダムにおたのみになれないの?」

 良人の留守、ひとりでいなければならない若い須美子が伸子に哀れに思えた。

「そのくらい、駄目?」

「たのめば、それはして下さいますけれど、……やっぱり、お気の毒で」

 素子は須美子の父の門下生で、須美子が幼い女の児だった時分からのなじみだから、パリで、磯崎のところと伸子たちとは、もっともっと内輪のつき合いがはじまりそうだった。が、それはそうでなく、はじめモンパルナスで一二度食事を一緒にしたぐらいのもので、磯崎のところでは伸子たちを食事によぶこともなかった。子供をつれた若い夫婦が、うちの食事にひとを招いたりするゆとりはない、という手間や入費の問題ではなく、磯崎は、パリの日本人たちのだらだらしたつき合いを余りのぞんでいないらしかった。何の気もなく訪問しているうちに、伸子と素子とは、磯崎のそういう感情をある程度自分たちにもわかる気持として理解した。しかしその感情では、磯崎と須美子とが必しも一つではないらしかった。須美子は、生れつき言葉のすくない心のなかにたたまれている現在のパリ生活のさまざまの思いにつれて、少女時代から知っている素子とパリで会ったことを懐しく思っているらしかった。あるとき、須美子が、

「ほんとに、何のおもてなしもできなくて」

 まんじゅう頭のおかっぱの眼をあげて、伸子たちを見まもりながら残念そうに云ったことがあった。

「そんな心配をされちゃあ、かえって困っちゃう」

 例の調子で素子があっさり云った。

「それよりか、たまには、わたしたちをひっぱりだしてもらって、うまいものでも一緒にたべましょうよ。それで結構だ」

 須美子は、まじめな表情できいていたが、いくらか唐突に、

「磯崎は、とても勉強家なんですの」

と云った。

「日本のかたが、こっちへいらっしゃって、随分無駄に時間もお金もつかっていらっしゃるのを見ているもので、磯崎は、それをひどくきらって、勉強のことしか考えていないんですの」

 パリできまった勉強の目的をもたない伸子や素子が、しげしげ磯崎の家庭に出入りすることで、夫婦の生活のこれまでの気分や調子が乱されはしまいかということを、須美子よりも恭介の方がよりつよく意識し、それをさけようとしている気分のあることが、そういう須美子の話しのかげから感じられるのだった。

「あれじゃ須美子さんがかあいそうだ」

 あとで二人きりになったとき素子が伸子に云った。

「磯崎君は神経質すぎるよ。エゴイスティックだ。もうすこし須美子さんものびのびさせてやらなくちゃ。いくら子供があるったって、須美子さんだって絵をやろうと思って結婚したんだろうし、パリへだって来ているんだろうのに、あれじゃ、あのひととしては、日本にいるより苦しいにきまってる」

 佃との家庭生活で、人をさけたがる良人をもつ若い妻の世の中をふさがれた思いを経験している伸子は、自分たちに訪ねられたときの須美子の表情に敏感だった。須美子が、ひとりでに自分の心もひらかれるような明るい顔つきで伸子たちの前に入口のドアをあけるとき、次の瞬間には、もっと複雑なかげが彼女の頭の中をかすめるのがわかってから、伸子は素子に云った。

「磯崎さんのところへはあんまり行かない方がいいのかもしれないわね。須美子さんが、気をつかうらしいもの」

 しばらく黙っていて素子は、やがて伸子の顔を横目で見ながら、

「磯崎君、不安なのさ」

と云った。そして、うすく顔をあからめて、片手で自分の顎をなで上げるしぐさをした。伸子には、素子のいう意味がすぐのみこめなかった。内面的な波だちを映す素子の癖の一つであるそのしぐさの理由もわからなかった。伸子はだまっていた。説明するように素子がつづけた。

「何しろあたしは、須美子さんを子供の時分から知っている人間だからね」

「──だから?」

「あんまり生活に立ち入られて、登坂氏に、ここでの自分の亭主ぶりを喋られたくないんだろう」

「それもあるかもしれないけれど……」

 伸子は、素子をじっと見つめた。でも、どうして素子は顔をあからめたのだろう。どんな考えが素子の心を通りすぎて、彼女の顔をあからめさせたのだろう。伸子の眼のなかが段々暗くなった。

「ね、ちょっと。あなた、須美子さんたちの生活は、あのままにしておくほか仕様がないって、知っている?」

 こんどは、素子が黙って伸子をじっと見た。

「わたしたちは、どうせじきモスクヷへ帰ってしまうんだし……なまじっか、ゆすぶったりしちゃわるいわ」

 素子は、なおだまってじっと伸子を見つづけた。伸子は、素子から作用をうけた自分の場合をはっきりと思い出して云っているのだった。佃との結婚生活がもてなくなって、佃との家庭にも居たたまれず、さりとて、まだ離婚してしまう決心もできず、ふらついていたとき、素子が伸子の前にあらわれた。それは全く偶然のめぐり合わせであったけれど、ふらついて苦しみ、喘いでいた伸子は、素子が男の友達でないということに心をゆるして、急速に素子に影響されて行った。素子が、伸子から佃をつきはなそうとする強いつっぱりの間に自分の身をかくまわれて。

 伸子は、自分の場合は、ああしかありようがなかったと思った。誰よりも自分が佃から去ることをのぞんだのだから。そのために、必死に、はたをかまわずもがいたのは自分であり、責任は、伸子にあるのだから。しかし、素子と暮すようになってから足かけ六年の時がたち、伸子はいろいろな場合、素子が友人夫婦につき合う感情に、微妙な角度があることを理解して来た。素子は、友人夫婦の間を多くの場合シニカルに見た。それは、細君びいきの形であらわれることもあったし、素子から見るとあんな男の妻でいる女への批評となってあらわれることもあった。また男がそのしかつめらしく自信にみちた妻にしかつめらしく嘘をついているのをだまって目撃してる皮肉な笑いとして現れたりした。

 良人としても二人の小さい子の父親としても若すぎ画家としても未完成でパリの生活に神経質になっている磯崎恭介に対して、須美子びいきの形からにしろ彼に嗜虐めいた感情をもつことを、伸子はこわく思ったのだった。

 そのとき、二人はながいことだまって、ホテルの室のバルコンのところに坐っていた。やがて、素子が、うす明りのなかで大きい猫のように白いブラウスの胸をはってしなやかにのびをしながら、

「わかったよ。ぶこちゃん」

と云った。

「あのひとたちの感情にまで立ち入ろうなんかと思っちゃいないんだから」

 そういうわけで、日曜日に素子が歯痛をおこすまで、伸子たちは、その週は一遍も磯崎のところを訪ねていないのだった。



 パリの初夏の雨あがりの黄昏たそがれは、賑やかなところではそろそろ眠りを知らない賑わいがはじまっていながら、灰色に静かな界隈ではそのしずけさがひとしお深く、物思わしいような時刻だった。一人だった須美子は、伸子たちに訪ねられて、うれしさをおさえられないようだった。

「磯崎がいないから、わたし、内緒でわるいけれどお二人に絵を見て頂きたいわ」

 そう云って、須美子は、子供をねかしてある隣室へ行った。須美子の絵は、まとめて衣裳棚の上にでも上げられているらしかった。椅子を動かす音がした。手間どって、須美子は三枚のキャンヷァスをもってもどって来た。彼女は電燈をつけた。そして、その新しい光の下に、八号ばかりの自分の絵を置いた。空いている椅子の一つを、伸子たちから適当な距離にはなして、その上に。

「ホノルルの景色です」

 須美子も、伸子たちのわきに立って一緒にその風景を眺めた。

「いいじゃないですか」

 素子がほめた。

「ホノルルって、こんなに、きれいなところなのかな。みずみずしいんだなあ」

 須美子が描いているのは、風景としては奇抜なところのない自然のひとすみだった。けれども、あおい遠くの海のきらめき、その上の白雲のある空。ちらりと見えている砂地と前景の樹木。龍舌蘭のような草の大きい白い花房。軟かく、みずみずしく、光にあふれてそのひとすみの自然の美しさがとらえられている。伸子はその絵を見て、おどろいた。エジプトの彫刻にある女のように、まじめで端正な表情をうごかさない、口かずのすくない須美子に、こんなに柔軟自在で生命感のつよい表現力があり、大胆な色彩の感覚が潜んでいることをおどろいた。

「これは、やっぱりホノルルですけれど──街の方」

 棕梠の並木に沿って、明るい岱赭色の道がなだらかに彎曲しながらのびていて、そこを走り去っている自動車のうしろが見える。近いところの白壁の家、その窓々の日除け、単純な筆致の画面からも、伸子をうつのは愉悦の感情だった。その光の下に、それらの物体が存在し、それを見ていることのたのしさに鳴っている須美子の感受性がある。最後の一枚はホノルルの公園のベンチのあたりを中心にした風景だった。遊んでいる子供。ベンチにかけている黒服の老婆。花の咲いている花壇。画面には、その色のまま手にすくわれて来そうに明るくて芳醇な空気があった。どの絵も、須美子の第一印象がそれらの景物をとらえた瞬間の実感的なディフォルメがあった。

「須美子さん、あなた、もっともっとお描きにならなけりゃ!」

 伸子が、須美子の背中へ手を当てて前へ押し出すように心をこめて云った。

「あなたは、描ける方なのに。──こんなに表現なさるのに──ホノルルでお描きになったきり?」

「ええ。こっちへ来て、いろいろえらいひとの作品をみたら、わたしなんか、こわくなってしまって──」

「えらいひとはえらいひとよ。あなたはあなたじゃないの、須美子さんは、たった一人しかいないのよ」

「──」

 ふと思いついて、四年前に描いた絵をもち出した須美子は、久しぶりで再びながめる自分の作品から、新しく今ある生活に迫って来るものを見出している風だった。

「いま思うと、ホノルルの二週間が、わたしの一生のうちでは一番幸福なころだったのかもしれませんのね」

 そこにすごした日の思い出のなかへひき戻されている須美子の声の響だった。

「わたしたちは結婚したばかりで、磯崎もあすこではまだ本式な勉強をはじめていませんでしたし、わたしには子供がなかったから。……ホノルルで、わたしは子供のようでした」

 須美子が、表情も声の調子もかえないいつもの静かさで自分の絵に見入りながら、ホノルルの二週間がわたしの一生のうちで一番幸福なころだったのかもしれない、と云ったことは、伸子の心の底をはげしくついた。まだはたちを少しでたばかりの、こんな美しさと能力をもっている須美子が、四年前にすぎたホノルルの日を、そんなにはっきり、一生で一番幸福だった時かもしれない、と、パリの灰色の室の中で云うとは、どうしたことだろう! 伸子は、須美子のために非常に切ない心地がして来た。須美子よりいくつか年上の伸子は、自分が須美子のように隠された不幸感を毎日のうちに持たずに暮していることを、鋭く自覚したのだった。

「どっちみち、須美子さんは絵をお描きにならなくちゃいけないわ。赤ちゃんを描いておあげなさいよ、きっと素晴らしいわ」

 この生活にさらされたようなパリの室のむき出しの壁を背にして、ふわりとした白い服の赤坊が須美子の筆致で描かれたら、どんなにおもむきが深いだろう。伸子は、しんからそう感じて云ったのだった。けれども、須美子は、いくらか体をかたくしているような静けさのまま、

「わたくしは駄目よ」

と、つぶやいた。

「磯崎が、いつも申しますわ。わたしの絵は、まるで理論がなくて描くから仕様がないんですって──まだ絵じゃないんですって」

「それで、あなた描くのをやめているんですか」

 素子がそういう調子のうちに、伸子は自分も磯崎に対して感じる漠然とした苦々しさがふくまれているのをきいた。

「じゃあ、わたしも絵と云えない絵のすきな人なんだわ。わたしはたいへん須美子さんの絵が好きよ」

「それでいいじゃないか」

 意味のふかい一瞥で伸子を見て、素子が云った。

「誰だって、可能性からはじめるんじゃありませんか。わたしのみるところじゃ、現代の巨匠と云われる人たちことごとく、可能性に立って試みをしているというか、或は、試みの可能性の限界をためしているとでもいうしきゃないと思いますがね。──どうして、須美子さんが、自分なりに描いていちゃいけないのかな」

 須美子は黙っていたが、また子供を寝かしてある隣室へ行って、八号ほどの一枚の絵をもって来た。縁なしのキャンヷァスを自分の絵に重ねて椅子の上に立てかけた。

「──磯崎の絵です。──この間大体仕上げたばかりです」

 うちで磯崎が、画の道具をひろげているところを、伸子たちは見たことがなかった。画架さえ立てられていなかった。磯崎はどこかに友人と共同のアトリエを借りていて、デュトの家からそこへ通って仕事をしているのだった。住居の部屋の壁に、どんな絵も複製も飾らず、殺風景なむき出しのままにしているところにも、伸子たちは磯崎がどんなに自身の画境の確立に神経を緊張させているかをうかがいとっていたのだった。磯崎の絵を、はじめて見て、伸子はふっと悲しさに心を掠められた。恭介と須美子は贅肉というもののない体つきから、鼻梁の高すぎるほど高い端正な顔だちから、夫婦というよりも兄妹のように互が似ていた。それだのに、須美子の絵と恭介の作品とのちがいのいちじるしさはどうだろう。まるきり二人の世界は別のものだった。須美子が自然発生的に、感覚のままに、よろこびとして描いたホノルル風景の上に、重ねられた恭介の作品は、極端に冷静で、探究的な様式の草花の絵だった。物体としての花の立体面と角とが頭脳的に分解されている。その絵をみて、伸子は、恭介が須美子の絵に理論がない、と云う意味をさとった。須美子の感受するのは、自然のうちに存在するものそのものの生命の訴えであり、恭介は、そういう風に感じとられるものを、もう一つ近代絵画の技法の上で唱えられている一定の方法論のプリズムを通し、分解されたものを、更に意志的に構成しているのだった。

 とくに、日本人の生活では見のがせない男と女のちがいというようなものが、柔かい体へ切りこんで来る刃のように伸子に実感された。率直に云ってよければ、伸子は恭介の作品からどんな本源的な独創力も魅力も感じることはできなかった。花の分解や構成の方法、そこにある配色。どれもどこかでいつかどっさり見たこの頃のフランスの絵の一つの感じだった、朱の色のしゃれた置きかたそのものまで。しかし、こういう理性的な絵を描いている恭介は、パリの日々のなかで、より自然発生の、より感性的な妻の須美子に、君の絵は絵以前だと云って画架を立てさせずおくことができているのだ。二十七歳と二十五歳の若い夫婦であるだけ、その間にはもう子供が二人生れている若い夫婦であるだけ、恭介がどうでも、自分の絵をものにしようとあせる気分のあることが、伸子にまざまざとわかった。

「──磯崎さんも、たいへんねえ」

 伸子が我知らず重い息といっしょにそう云ったのは、この現代絵画の常識ともうけとられる境地から、磯崎が彼自身の世界をつかみ出して来るためには、これから先の幾階程があるだろう、という感想だった。それを、須美子は、すらりと日常的なたいへんさに解釈した。

「磯崎も気の毒ですわ」

 まっすぐに正直な視線で、画面にこめられている努力と、その進境をはかろうとするように眺めながら須美子は、

「あちらの御両親がもうすこし、わたしたちの生活を理解して下さると、磯崎もよっぽど楽なのでしょうけれど」

と云った。

「生活費は来ているんでしょう?」

 そうきいたのは素子だった。

「それはどうにか来ていますけれど……こちらの生活を御存じないから、どうしても若いもの二人がパリですきなことをして暮しているとお思いになりがちですのね」

 返事のしようなくて伸子たちはだまってしまった。

「あちらの御両親は、わたしがお金をつかいすぎる女だとお思いになっているんです。それが、せつないんですの。あいにく、子供が二人もつづけて生れてしまいましたし──絵の具なんかも一年一年と高くなって来ていますのよ、磯崎だってどの位買いたい絵の具や額ぶちのようなものを辛棒して買わずにすましているかしれないんですのに──それを思うと、何だかわるくて……」

 須美子は、素子を目の前に見て話しているうちに日本の生れた家や気だてのおとなしい親たちを身近に感じるらしかった。

「あちらの御両親に、わたしがおわかりになっていないのも無理はありませんわ。わたしたち結婚してたったひとつき、磯崎の田舎の家にいたきりなんですもの」

「田舎って──どこなんです?」

 関東地方の、織物の中心地とされている小都会が磯崎の生家の所在地だった。彼は、そこの長男だった。

「わたしは、はじめっから御辞退しましたの。折角言って下さっても自信がないんですもの──でも……」

「磯崎さんがどうしてもって云うわけですか」

 そう云って素子がほほえんだ。

「二人で行く方が、絵の勉強だって必ずよくできるってあんまりつよく云うもんですから──わたしもあのころは、絵だけはやれるものなら続けたいと思っていたものですから」

 恭介と須美子とは、ある金持ちが、自分の娘たちの自由教育のために創立した学院の同窓生だった。二人を結婚させ、絵の修業にパリへよこしはしたものの、磯崎の田舎の両親は、須美子が出産の度に入院することもパリ風の特別な贅沢の染ったやりかたという先入観をもって見るらしかった。二人しかない子供の一人を、ひとにあずけてそのために里扶持を払っていることも、若い母である須美子が身がるでいたがるせいとしか理解していないのだった。

「磯崎が云いだして、ここのマダムにたのんだことですのに──」

「自分の親なんだもの、磯崎君が、がんばって、よくわからせたらいいじゃありませんか。いわば自分の責任じゃないか」

「そういうときには磯崎も、気の毒なほど、骨を折って居りますわ、何とかわかって頂こうとして──でも、むずかしいものですわね、わたし、ときどき、おそろしくてたまらないようになりますの」

 須美子の濃いおかっぱの少女っぽいまんじゅう頭がすらりとした体つきのわりに、しっかりと張っている両肩の間へひっこんだようになった。きれの長い二つの眼は、ますます見ひらかれて、話している相手の素子の顔を見つめながら。

「わたしだけが、どうしてこんなにあちらの御両親から悪く思われていなければならないんでしょう」

 若い夫婦がパリへ絵の勉強に来ているという現実が、こんなにもきつく日本の嫁姑の苦しさにしめつけられていると想像するものがあるだろうか。少女っぽいというより、少年ぽく見えるほどすらりとした体つきの須美子が、純潔なきまじめさで、子供が二人もつづけて生れてしまいましたし、というのをきいたとき、伸子の心はつきうごかされて、須美子を胸に抱きしめてやりたいようだった。

「登坂先生たちは、そういうことをみんな知って居られるんですか」

「このごろは、もう何も云ってやりませんの。無駄に心配させるばかりで気の毒ですし、かえって磯崎の御両親との間がむずかしくなりますから」

 それぞれの椅子の上でだまりこんでしまった三人の女を、古風なその室の電燈が頭の上から照し、キャンヷァスののせられている椅子の影が、はだかの木の床の上に黒く落ちている。そとはすっかり夜だった。そこには人々の生活が営まれているが、須美子の孤独や苦痛にはかかわりない遠くの灯が窓から見えている。

「ごめんなさい。ついわたし、こんなことまでお話してしまって……だから磯崎にしかられるのですわ」

「わたしたちは一向かまいませんがね」

 親身な懸念のあらわれた顔つきで素子は、

「こまったこったなあ」

と云いながら、タバコをとり出した。

「わたしたちがさし出る場合でもないし──」

「……それでもこのごろは、わたくしもいくらか心が落付いて参りましたの。わたしまで一緒に絵をやろうとするから、万事が無理なんですもの。──ともかく、今のところは磯崎の勉強を中心にして居りますの、あのひとだけは、どんなことがあっても、しっかり勉強しなければなりませんわ」

 磯崎恭介の須美子に対するエゴイズムのように見えた面も、こまかい事情がわかってみると、若い恭介と須美子とが互にたすけあって磯崎の両親の、本人たちの心づかないがんこな偏見とたたかっている一つの姿なのだった。旧い重い親と子のしきたり、その生活や修業のために金を出している親たちが若い夫婦に対するときの眼角のきびしさ。恭介と須美子が若い愛で互を護りあいながら、それに対して奮闘していると云っても、そのいきさつのなかでは、女である須美子の献身が自然の帰結として求められている。須美子はしずかな決心でその現実をうけとっているらしいけれども、六つ年上の伸子は、佃との生活でもがいていたときの自分が、二十五歳という女の年を、どんな心で惜しんだか思い出さずにいられなかった。若くて能力をひそめた美しい一人の日本の女のひとが、日本のなかで暮しているよりもひとしおその矛盾が身をかむパリの環境で、良人と子供のために画架をたたんだまま暮している。伸子にとってそれは、やさしく、美しいものに絶えず犠牲をもとめているおそろしい人生に思えるのだった。

「ああ、わたし何だか苦しくて変な心もちがする」

 夜が更けると、そこで夜を明かすものが来そうなベンチがおいてあるデュトの暗い通りを、素子の腕につかまってホテルの方へ帰って来ながら伸子が訴えた。

「須美子さんの、あのいい恰好のおかっぱが肩へめりこんだようになったときの様子や、あの眼を思うと、切なくなって来てしまう。何てこってしょう! ねえ。話をきいているうちに、わたし、幾度もナターシャのこと思い出してよ。モスクヷの、あのはたん杏の頬っぺたの、みもちのナターシャ。あんなにたのしく赤坊を生もうとしてはりきっていたナターシャ。須美子さんの苦しさと何てちがいでしょう。この世界には、そういうたのしさや新しい美しさがあらわれはじめた、って話したとしたら、須美子さん何と思うかしら。──ねえ、どう思うと思う?」

 だまって歩いている素子の返事を求めて、伸子は自分の腕のなかにある素子の腕をゆすぶった。

「わたしは、もうちょっとで唇から出かかったのを、やめたのよ。須美子さんがナターシャの話は、もう、自分の苦しさと関係ないよそのことのような眼をしたら、わたし、いよいよ、須美子さんがせつなくなってしまう。それに、磯崎さんに話すにきまっているでしょう。須美子さんが本気で話したにしても、磯崎さんが、宣伝だろう、なんていうかもしれないと思うと、なお云えなくなっちゃった」

 しばらくして、素子は、実際的な口調で、

「いずれにせよ、田舎へやってある子供の病気ってのが、何でもなくすめばいいがね」

と云った。帰りしなに、上の子供をあずけてあるフォンテンブローの田舎の主婦から、手紙で、この二三日すこし子供の調子がわるい、と告げて来ていると云ったのだった。ドアのところで、二人の手を握りながら須美子は、

「こんやは、ほんとにありがとうございました」

と、云った。

「おかげさまで、わたし、元気がでましたわ」

 そして、黒いおかっぱと、黒い眼のなかで、ほほえんだ、そのとき、田舎からの手紙のことが簡単にふれられたのだった。



第二章




 七月一日にマルセーユに着く予定の佐々の一家五人は、少女のつや子までをふくめて五月二十五日ごろ神戸を出帆する郵船の船にのったはずだった。

 そのことについては伸子と素子とが四月二十九日にモスクヷを立って来る前、東京と打ち合わせたきりであった。カトリ丸の出帆は汽車と同じように日どりを狂わせない。さぞ大騒動であろう佐々の全員の出発も、船の出帆ばかりはのばさせられないという条件から確実にされている感じで、特別な連絡のないかぎり、旅程は順調にマルセーユに向って進められているものと伸子は信じていた。

 六月も末になるとパリにも夏らしい暑さがはじまった。メーデーがすぎると急に乾きあがって昼間は埃っぽくなるモスクヷの夏とちがって、パリの空気は乾いて燃えはじめても、埃っぽさは少なかった。ガリック・ホテルの伸子の室は、午後になるとこれまでよりずっとひろく深く西からの日に照りつけられて、夜更けまで露台へのドアをあけておくようになった。建物の内庭に面した素子の室では西日はささないかわり、朝早くその内庭へ来るボロ買い男の調子のいいよび声や、内庭で自働オルガンをならしながら、窓々から小銭のなげられるのを待っている物乞いの唄、ラジオだかレコードだか小刻みなフランス風のダンス曲など、さまざまの響が窓からはい上って来た。二人はガリック・ホテルの三階から、七階のてっぺんの部屋に移ったのだった。

 長逗留の準備のために、七階へうつった伸子と素子とは、屋根裏部屋へ引越したかわりに、めいめい一つずつの室をもった。露台から遠くエッフェル塔が見えて、眺望のひらけた室であるかわりに伸子は西に面した室を。廊下をへだてた素子の室は、東側のかわり、内庭を見おろして、いくらかやかましかった。内庭に面した室の天井はあたりまえの高さだったが、伸子の室では、寝台のおかれている側と反対の一隅で斜かいに屋根の勾配が見えていた。藍と黄のマチスごのみの壁紙ではってあるその勾配の下に、三階の室にあったものより粗末な化粧台が、三面鏡のかわりに単純な一面の鏡をもって置かれている。一人室のここでも寝台はやっぱりかさばって室の大きな部分を占めているのであったが、屋根裏の勾配や簡単な化粧台はその室の気分を、伸子のおちつきいい程度の学生っぽさにしているのだった。

 七階には、ほかの室にも伸子たちのように贅沢につかう金はもっていないがその夏をパリで暮そうとしているアメリカ人の若い女が二組ほどとまっていた。そのうちの一組は伸子たちのように向い合わせた室を別々にもっていた。ホテルじゅうに人気がすくなくなっていて、室にいるものは昼寝でもしたい午後の時刻、廊下のどんづまりに向い合った室をもっている伸子と素子とは、涼しくいるために、互の室のドアをあけはなしていた。そんな時刻には、三つ四つさきに向いあっているアメリカ娘たちの室のドアもあけはなされていて、内庭に面した側の室にいる娘はエリザベスとでもいう名でもあるのだろうか、西側の室の開けはなしたドア越しに、遠慮ない声で、

「ベス! あのひとのところへ電話をかけた?」

と云っているのがきこえて来たりした。あのひと、は男性で云われている。ベスとよばれた女の声が、平板に無味乾燥に、

ええエア

と返事している。はなれたところからきいていると、それは、手紙をかくとか、物を縫おうとしているままで返事する声であった。無関心さがその声にあらわれている。あのひとに電話をかけた? という言葉からちょっとかきたてられそうになった伸子の好奇心がさまされた。伸子は部屋着のまま寝台の上にころがっている。揃えてのばしている爪先に力をいれてぐっと体をのばすと、赤坊がはだかにされたときそれをよろこび、膝小僧をひっこめて伸びをする、あんな風な気持よいこきざみなふるえが伸子の全身を走った。七月になろうとするパリの日盛り、空気は暑く灼けている。内庭にきこえている辻音楽師の自働オルガンの響。伸子は少しねむたい。精神も肉体も軟かく開放されてくつろいでいる。

 そのとき素子は、クリーム色地に水色とさっぱりした緑色の縞のパジャマ姿で、自分の室の窓から内庭の辻音楽師を見下していた。内庭をかこんだ建物の窓は大部分あいていて、その一つの窓から赤いブラウスを着た女が、いつかの夕方デュトへゆく途中で見たように、大きく窓から半身のり出させて、同じように内庭を見下している。辻音楽師はさっきから、もう三度もくりかえしてワルツだのタンゴだのを鳴らしていたのだった。どうしたのかどこの窓からも小銭を投げるものがない。素子は、自分が小銭をやろうかという気になった。テーブルの上においてあるハンド・バッグに目をやった。が、そのまままた内庭を見下した。年とった乞食音楽師は、古びたソフトをかぶって、ごみっぽいシャツの胸にダラリと赤いネクタイをたらし、忍耐づよく内庭のコンクリートへ目をおとしたまま、一本脚の上に立っているオールゴールのハンドルをまわしているのだった。

 素子には、七階の高いところから、井戸の底のように見える内庭に立っている一人の人物に向って、小銭を投げてやる、という動作に、不自然があった。猿にでも物をやるように、投げてやる。それができにくかった。

 去年の夏、レーニングラードのパンシオン・ソモロフにいたとき、同じ宿に重い心臓病の元看護婦長ペラーゲア・スチェパーノヴァという女がとまっていた。青ぶくれて、ときによると夜眠れないほど息苦しい大柄のペラーゲア・スチェパーノヴァは、幾日もつづけて自分の部屋から出て来られないことが多かった。ある日、彼女がめずらしく正餐アベードに列席した。同じ食卓についていた高級技師の細君であるリザ・フョードロヴナがそのときペラーゲアの病気に同情をしめして、部屋にとじこもっていなければならないのは退屈なものだ、と云った。すると、ペラーゲア・スチェパーノヴァは、蒼くむくんだ顔の上で薄い眉毛をもち上げるような表情になりながら、

たまったものじゃありませんウジャースノ

と云った。

「わたしは、窓から子供たちに菓子を投げてやるんです」

 わきできいていた素子や伸子に、すぐにはその意味がのみこめなかったほど、ペラーゲア・スチェパーノヴァの云いかたには、愛情もやさしみもなかった。投げてやる菓子そのものへの軽蔑があるかのような調子だった。伸子はそのときおどろいて素子に云った。

「窓の外の雀にパン屑をやるんだって、人は、もっとちがった云いかたをするものだと思うわ。あのひとは、心の底には憎悪をもって、子供たちに菓子を投げているのね、きっと。ソヴェトになったって、貧乏人の子供は、ほれ、この菓子をひろうじゃないか、あのひとは、そう思って、凄い顔つきで、お菓子を投げてやって、ひろうのを眺めるんだわ」

 ペラーゲア・スチェパーノヴァは、革命やソヴェトや、地方で地主に反抗した農民に対してはげしい、病的な憎悪をもっている女だった。伸子と素子とは、反ソヴェト的な市民というもののいくとおりかのタイプを、芝居でみるよりも近く、会話一つ一つのこまかい心理にふれて、パンシオン・ソモロフのひと夏の生活のうちに観察した。

 素子は、自分にむかって皮肉なうす笑いをもらして、窓のそばをはなれた。内庭でオールゴールを鳴らしている辻音楽師にとって、必要なのは十サンティームであり、それが投げて与えられる、ことが問題でないのはわかりきっていたから。わかりきっていても、何となしそうできにくくなっている自分の、人間として人間に対する感情を、素子は、思いがけない自分を見出したように眺めるのだった。

 ふらりと伸子の室へはいって来た素子を見て、

「ひるねしていたんじゃなかったの」

 寝台のまんなかに仰向けに臥て、頭の下に両手をかっている伸子がきいた。

「ぶこは? ねたのかい?」

「ねたというほどはねないわ。──でも、暑いわねえ」

「七階だからさ。屋根からやきつけてくるんだもの。涼しかろうはずはないさ」

 伸子は、五月二十日ごろ神戸を出た欧州航路の船はいまごろ、どの辺を通過しているだろうと考えていたのだった。地中海に、はいっているだろうか。それともその手前のスエズ辺だろうか。母の多計代は日本服で旅行に出て来ているから、帯がどんなに厄介で、暑いだろう。夏になると毎年東京をはなれて暮していた多計代のことを思い出し、いくら乾燥していてしのぎよいと云っても夏のヨーロッパへ出かけて来たことについて、伸子は、はじめてまじめな心配を感じもするのだった。

「わたし、うちの連中のことを考えていたの。──やがてもうそろそろよ」

 伸子は、寝台の上におきあがって、坐って、小さな苦笑を唇の上に浮べながら素子に云った。

「えらいさわぎになるでしょうが、どうかあしからずね」

 ちらりと眼をそらすようにして素子が、

「そう云えば、本当に来ているんだろうね?」

と云った。

「一向音沙汰がないけれども──」

「大丈夫でしょう、ここの大使館の増永修三ってひとが、連絡してくれることになっているから。着いてからのホテルのことや何かも、父は直接そちらにたのんでいるし」

「増永って──増永謹の息子ででもあるのかい?」

 佐々泰造の同時代人で、増永謹は有名な銀行家だった。

「そうよ。こっちへはもう三四年いるんじゃないかしら。大した秀才なんですって……」

 素子がまたふらりと自分の室へもどって行って、まだ下手なタイプライターの音をさせはじめたとき、廊下をこっちへ近づいて来る男の靴音がした。どこかのドアのところで止るだろうと思ってきいていた靴音は、そのまま隣りも通りすぎようとしているので、伸子は、いそいで寝台からおりて、自分の室の開け放されているドアをしめようとした。そこであやうく、鉢合わせしそうに顔を合わせたのは、磯崎恭介だった。

「あら! あなただったの!」

 その声で、向いの室から素子も顔を出した。

「めずらしいじゃありませんか」

 磯崎がガリックへ伸子たちを訪問に来たのははじめてなのだった。

「一人ですか? ま、入って下さい」

 素子は、磯崎と一緒に伸子の室の方へはいりかけた。ベレーをかぶったまま、蒼い顔をしていた磯崎は、

「ええ」

と、曖昧に返事したが、若向きの縞の背広につつまれているやせぎすの体をこわばらして廊下に立ったきり、

「実は、思いがけないことがおこったもんで」

と云った。

「田舎にあずけてあった子供が、けさ、急になくなったんです」

「なくなった?──死んだんですか?」

「それほど悪いとは医者も思っていなかったらしいんですが……」

 磯崎の瞼の下にそがれたようなやつれが見えた。

「──つい、四五日前じゃありませんか。わたしたちが夕方、あなたの留守にデュトへ行ったのは。──あのとき、須美子さんがちょっとそんなことを話していられたけれど」

「あの次の日須美子と二人で、行って見たんです。そして、あっちのマダムもすすめるもんでパリへつれてかえって来て、そのまま病院へ入れたんです。医者もただの消化不良だって云っていたんですが」

「──子供なんて、こわいなあ。それで、どういうことになるんです? 出来ることがあったら云って下さい、何でも手伝うから……それにしても急なんだなあ」

 話の中途から、伸子は半開きにした衣裳箪笥の扉のかげにかくれて、外出のできるなりに着かえはじめた。伸子たちは、その亡くなった子供には一度も会っていなかった。ただ、フォンテンブローにあずけられている上の子と、話にきいていただけだった。あのデュトの家で、あのおかっぱの須美子が、パリにいてさえ絶えることのないああいう姑たちへの気がねの間で、子供に死なれた様子を思うと、伸子はたえがたかった。蒼白く蝋のようにかたまった小さい死んだ赤坊の顔。とじられている瞼や鼻のまわりに、紫がかったかげがあった。黒い小さい口がすこしあいている。その顔は花に埋まっている。それは伸子が十七歳の初夏に死んだ赤坊の弟の死顔だった。消化不良と云われていた美しいその赤坊は、多計代が鏡台に向って髪を結っていた、そのうしろのほろ蚊帳のなかで、眠っているうちに息がとまっていたのだった。

「子供のことなんかでおさわがせしちゃわるいと思ったんですが、須美子がたっていうもんですから。──明日の朝、十時から葬式しますから、それだけでもお知らせして置こう、と思って」

「そりゃ、わたしには知らしてもらわなくちゃ!」

 須美子の父の登坂教授に対してもすまないという風に素子は云った。

「ちょっと待って下さい。すぐ仕度しますから」

 磯崎につづいて、素子、伸子がデュトの家へ着いたとき、ドアをあけた須美子は、泣きたい涙はもう一人でいるうちにすっかり流したという疲れた蒼い顔だった。

「ごめん下さい。おさわがするようなことになってしまって」

 一人一人、素子と伸子の手を握った須美子の握手に、しずかな言葉づかいのうちに抑えられている悲しさの力がこもった。磯崎が、子供の棺のおかれている隣室へ去ったとき、須美子は、黒い服の膝の上においている両手の指をかたく組み合わせ、くい入るようにつぶやいた。

「こんな思いもかけないことになってしまって──。あちらの御両親は、何とお思いになるでしょう」



 磯崎の子供の葬式の日は雨だった。

 ペイラシェーズの墓地のなかに建てられている礼拝堂のような火葬場の祭壇風の大扉のむこう側で、子供の屍をやく焔が燃えた。とけるように赤い焔の色が、そのかげに棺がはいって行った祭壇風の高いところにある扉のガラスからのぞかれるのだそうだった。磯崎恭介は、はじめて子をなくした若い父親の感情と芸術家の追究心と二つに心を奪われている表情で、その扉に顔をよせている。

 伸子と素子とは、黒い服を着た須美子をまんなかにおいて、壇の下のベンチに並んでかけていた。左手の弓形窓から、ペイラシェーズの新緑の色が、雨にぬれてうすらつめたい礼拝堂のコンクリート床の上に流れていた。ベンチのかげや、壇のかげや、そこにあるすべての物の影は、長くのびていた。自働パイプ・オルガンの鎮魂の祷りの曲が、悲しみにつつまれながら泣いていない四人の男女のいる礼拝堂の天井に響きわたった。

 一時間ばかりたったとき、僧服のような黒いなりの男が素焼の骨壺に納められた子供の骨を捧げて現れた。磯崎がその壺をうけとって、その黒衣の男の案内で礼拝堂の外廊づたいにしばらく行った。寺院めいた柱列のある一つの場所へ出た。丁度骨壺の入るだけの四角さに区切られてペイラシェーズの庭に向った一方の高い大きい壁面の全体が納骨所になっている。中央に、十字架のキリストが飾られている。その前に花束が三つ四つそなえられている。ささやかな花束は、壺を抱いている磯崎にしたがって須美子、伸子、素子がゆく外廊の煉瓦の通路の根がたにも、ところどころに置かれていた。高いアーチ形の天井の真下までアパルトマンの高層建築のようにつまっている四角い箱の壁の、花束のおかれている列の上のところのどこかの一つに、その人が愛したものの骨壺が納められているのだろう。

 磯崎恭介の子供の骨は、その納骨都市のずっとはずれの、ほとんど天井にすれすれの一区切りの中にしまわれた。2568という番地だった。黒衣の男は、脚立きゃたつを片づけて、ちょっと黙祷すると、みんなをあとにのこして去った。磯崎恭介、須美子、伸子と素子。四人は一列に立って首をあおむけ、小さい子の骨のしまわれた高い高い場所を見上げた。恭介が、かすかな辛辣さで、

「これなら、順坊も昇天うたがいなしでいいや」

と云った。

 伸子は小さい声で素子に、

「花を買ってくればよかった」

とささやいた。パリの、ヴォージラール街のホテルの七階の屋根裏部屋にいた伸子は理解したのだった。磯崎の子供も、この納骨都市のアパルトマンでは、やっぱり七階にいるようになったのだと。

 伸子と素子とは、磯崎夫婦を送ってデュトの家へよった。そのタクシーでホテルまで帰って来た。帳場で、室の鍵といっしょに、一枚の紙きれをうけとった。ちらりと電話番号の書かれてあるのだけを見て、伸子と素子とは、ノートの紙切れをもったまま、室へあがって来てしまった。

 パリで、雨の日に、淋しい子供の葬式につらなることが起ろうとは、伸子も素子も思っていなかった。二人も、ふだんの服装のままであった。二人ともベレーをかぶって。磯崎もそうだった。金のあるものなら赤坊のために教会で行うだろうような儀式は一切ぬきに、磯崎の子供は、メトロに乗せられたように火葬場の自働パイプ・オルガンの昇天のうたに送られて、何の渋滞もなくあの天井にくっついた一区切りの中に、はいって行った。その手っとり早い簡単さのなかには、伸子の心の涙を乾きあがらせる生活の容赦なさがある。

 伸子は、帰って来た着もののままベッドに体をのばして、ペイラシェーズでの須美子の横顔を思いかえした。窓から流れ込むぬれた緑の光線をうけて、須美子の黒くて濃いおかっぱの上に青みがかった光があった。端正な横顔の輪廓が、悲しみにかたく鋭くされて、痛いような線だった。パイプ・オルガンが人気ない礼拝堂の空気をふるわして鳴りはじめたとき、伸子は、思わずはっとして、須美子を支えるために手をのばしそうにした。深く顫えるようなパイプ・オルガンのひと鳴りといっしょに、体をすり合わせるくらい並んでかけていた若い母である須美子の全身から一時に血がひいたように感じられたのだった。須美子は、やっと感動の打撃にたえた。そしてますますきつく両手の指を膝の上でからみ合わせながら、かたく目をつぶった。厚い美しいおかっぱのきりそろえられている頸すじを、苦痛に向ってもたげたまま。──

 柔かくてひろいベッドの上に背中をのばして、伸子は須美子のことを思った。ホノルルにいた二週間が、わたしの一生のうちでは、一番幸福なときだったのかもしれませんわ。デュトの家でそう云った須美子。こんな思いがけないことになってしまってあちらの御両親は、何とお思いになるでしょう。自分の歎きよりも先にそう云った須美子。──

「ちょっと! こっちへ来られる?」

 伸子は、向いの自分の室で、横になっているらしい素子に声をかけた。

「何さ」

「こっちへ来て」

「自分で来りゃいいじゃないか」

 そう云いながら、やがて入って来た素子は、もうパジャマに着かえていた。

「何だ! まだそのまんまか。ぬぎなさい、ぶこ。だめだよ、いつまでも亢奮していちゃ」

 伸子は、ねたまま寝台のわきへ来て立った素子の手をとった。

「ね、磯崎さんて、これからも花なんかしきゃ描かないつもりなのかしら」

「どうだか……。なぜさ、またいきなり──」

「考えていたら、妙な気がして来てしまった──磯崎さんにはあの須美子さんが見えないのかしら」

 伸子は、あのというところに力をこめて云った。

「須美子さんは、あんなに人生をもっているのに──」

 ペイラシェーズの、つましい花束が通路のわきにささげられているあの納骨都市の下に、小さく低く並んだ四人の人間が、首を仰向け、子供の骨が、高い脚立の上に立っている黒衣の男の手で天井の下の一区切りにしまわれてゆくのを見上げていた光景、伸子がこれまで見たいろいろな画集の、どこにも描かれていないパリの生活の絵だった。

 磯崎の子供の寂しい葬式のあんまり鮮やかな印象と、須美子の悲しみの真新しさは、伸子自身の悲しみの上をおおいかけていたうす皮をむくのだった。

 去年の八月一日に、保は東京の家の土蔵の地下室で自殺した。伸子は、その夏、レーニングラードのデーツコエ・セローにいた。あの当座、伸子は、思いもかけない瞬間、宙にささやかれる声をきいたように八月一日、と思い出し、保は死んだ、とかみそりで切られたきずがいつまでもつかないように傷のうずきを感じた。

 磯崎の子供の寂しいきょうの葬式の次第は、淡彩の鉛筆画のように目の前にあったが、保の葬式について伸子は何ひとつ描くべき画をもっていなかった。彼が自殺した。その衝撃があんまり大きくて、父の泰造が自筆でモスクヷにいる姉娘の伸子のために書いてよこした手紙にも、葬式のことはわれしらず省略されていた。保は死んだ。ただ一つの動かすことのできない事実。しかも、伸子にとっての保は、きょうも二十歳の高校生で、ぽってりとした上瞼をもち、口ひげのある上唇をもち、あどけなく両手でふとり気味の膝をたたいて笑う生きた保である。

 愛するものが死ぬと、そのおもかげから、年月の間にかさねられているさまざまのやさしい思い出までが、いっしょに死んで、生きのこったものの心から消えてしまうものだとしたら、人間にとって死は、どんなに動物の生き死めいた、たやすいことになるだろう。死んでしまった。どこに求めても、もうその生きた姿は、その人を忘れない者の心のなかにしかない。そこがつらい。

 子供をなくした須美子の手をかたく握って、伸子はやっと、

「しっかりしてね」

ということができただけだった。

 死が窮極には、生のなかにしか──生きているものにとってしか存在しないという事実は、何と意味ふかいだろう。伸子はしみじみと、その点について考えるのだった。死んでしまったものにもう死はない。死が生きられているものであるということ、生の価値にかえられて生きつづけられるものだということ。死にようということが、つまりはその人の生きようでしかない。死さえもそのうちにつつむ生の事実は何と豊富であり、厳粛だろう。その生のうちに、社会が存在し、階級が存在する。伸子は、生の厳粛さとして、もし神を信じるものなら、人間のよりよい人生への奮闘を肯定しないではいられないはずだと思うのだった。事実はそうでない。イタリーの法王は、現代の十字軍として反ソ十字軍をよびかけている。そして、キリストの甦りという、彼らにとって基本的な奇跡が、マグダラのマリアというイエスを熱愛した一人の女のはげしい生の欲望を通じてでなければ伝説として生れることさえできなかったのだという、そのきびしい生の肯定を、人さし指に指環をはめた自分たちの手でけがしている。

「さ! ぶこ! 下へ行ってコーヒーでものんで来よう。こんなにしていちゃ、しかたがない」

 素子は、伸子の両手をひっぱって、寝台からひきおこした。伸子は、すなおにされるままになった。

「着かえて来るから、その間に顔でもあらっておきなさい。いいかい?」

 伸子は浴室へはいって、水でゆっくり顔を洗って来た。そして、口紅のスティックを出そうとしてハンド・バッグをとりあげたら、その下から、さっき帳場でうけとって来たままだった紙片があらわれた。ああ、忘れていた、と伸子は思った。そして、フランス風の曲線的な書体で、大きく書かれている鉛筆の字をよんだ。

「ムシュウ・マスナガ。電話、エトワール2957──61。十時──十六時。」

 何のことだろう。マスナガ──増永──

「ああ、そうか!」

 いよいよ佐々のうちのものがマルセーユにつく日がわかったのだ。伸子は、こうしていられないという気になった。紙きれをもって、素子の部屋へはいって行った。

「ちょっと。いよいよよ。さっきの紙きれね、増永さんが連絡しろ、ということだったわ」

 伸子の顔の上に、開けようのわからないドアの前へ立たされた人のような表情があらわれた。

底本:第一部、第二部「宮本百合子全集 第七巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年1020日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

   第三部、資料「宮本百合子全集 第八巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年1120日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:第一部、第二部「宮本百合子全集 第十三巻」河出書房

   1951(昭和26)年9月発行

   第三部、資料「宮本百合子全集 第十四巻」河出書房

   1951(昭和26)年11月発行

初出:第一部「展望」筑摩書房

   1947(昭和22)年10月号~1948(昭和23)年8月号

   第二部「展望」筑摩書房

   1948(昭和23)年9月号~1949(昭和24)年5月号

   第三部「展望」筑摩書房

   1949(昭和24)年10月号~1950(昭和25)年2月号、1950(昭和25)年4月~12月号

   資料「展望」筑摩書房

   1949(昭和24)年8、9月号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※enダッシュ(1-3-92)は全角のハイフン「‐」(1-1-30)で代替入力しました。

※筑摩書房からはじめて単行本化されるに際して削除された、第三部のはじめの二回分を、このファイルには「資料」としておさめました。

入力:柴田卓治

校正:松永正敏

2002年1124日作成

2014年619日修正

青空文庫作成ファイル:

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