朝の風
宮本百合子



 そのあたりには、明治時代から赤煉瓦の高塀がとりまわされていて、独特な東京の町の一隅の空気をかたちづくっていた。

 本郷というと、お七が火をつけた寺などもあるのだが全体の感じは明るい。それが巣鴨となると、つい隣りだのに、からりとした感じは何となく町に薄暗い隈の澱んだところのある気分にかわって、実際家並の灯かげも一層地べたに近いものとなった。兵営ともちがう赤煉瓦のそんな高塀は、折々見かける柿色木綿の筒袖股引の男たちの地下足袋と一緒に、ごたごたした縞や模様ものを着て暮している老若男女の生活に、一種の感じのある存在で、馴れながら馴れきれないその間の空気が、独特の雰囲気を醸してその町すじに漂っていた。

 大震災の後は市中の様子が大分変った。この町のあたりも、新市内に編入されると同時に市区改正がはじまって、池袋から飛鳥山をめぐって日暮里の方へ開通するアスファルト道路やそれと交叉して大塚と板橋間を縦断する十二間道路がついたりして、面目が一新した。

 数日前まではそっちの片側がごったかえされて通行止だったのが、きょうはここが通れなくなっているという塩梅の十幾月かがつづいて、ある年の春の日ざしが、やっと通行のきくようになった真新しいコンクリの歩道を一筋白く光らせた時、人々は胸の奥から息をつくようなおどろきの眼でその歩道から目前にぱーっとうちひらいた広い大きい原っぱを眺めた。昔からあった赤煉瓦の高塀は、跡かたもなくなっていた。トゲのついたざっとした針金の垣根で歩道との間を仕切られて、その垣根から歩道へ雑草の葉っぱを町はずれの景色らしくはみ出させながら、草原は広々と遠くまでひろがっている。いくらかむこう下りの地勢で、遠くの草の間に茶畑のあとらしいものが見えた。ちょいとした畑のようなものも見える。附近の子供らはその空地をすてておく筈がなく、遊ぶ声々はきこえているが姿はよく見えない。原っぱはそんなに広闊である。さえぎるものなく青空も春光を湛えてその上に輝いている。

 この原っぱの眺めの趣はしかしながら単調でなくて、暫く佇んでみているうちにこの原の風景としての面白さには、草原の右手よりの彼方に聳えている一つの小さい古風な、赤煉瓦の塔の緑青色の円屋根が重要なアクセントをなしているのがわかって来るだろう。その塔をかこんで灰色のコンクリートの塀が延びていて、その一廓の近代的な白い反射にひきかえて、そこにつづく原っぱの左手には、ひろい距離をへだてたこちらからもその古びかたや、がたがた工合のかくせない人家が黒くあぶなっかしく連っている。風雨にさらされつくしたせいだろう。晴れている日の遠目にも、それ等の家々の黒い色に変りがない。原っぱのはてのそういう二階家の一つで、何のはずみか表から裏まで開けっ放しになったりしていると、黒い四角い生活の切り穴のようなそこから樹の一本もない裏っ側の空までが素どおしに見えて、そこにある空虚の感が眺める人の心に沁みこんだ。

 原一帯に木がないかわり、左手の端れに桜の老樹が幾株か並木のようにあって、大きくひろがった梢の枝に花が咲き開くと、そちらは東だから朝日をうけた満開の様子が何とも云えず新鮮であった。そしてその桜の色が美しく瑞々しければ瑞々しいほど、その奥のあぶなっかしい長屋の黒さが鋭い対照をなして浮立って来て、そこには油絵具でなければうつせないような濃い人の心をうつ荒廃の美があった。何千坪あるのか、その原っぱに大体こういうようにして均衡が破れているために却って変に印象的になって景色がはまっているのであった。

 よくあるとおり、この原っぱを歩道から仕切っている針金の垣根にも、既にいくつかの破れがあった。そこから草の間を縫って、いつの間にやら踏みつけられた小道がある。初めはどれも同じように見えるその細い踏みあとを辿ってだんだんと歩いてゆくと、その一本はやがて次第に左へ左へと、原の端れを三角に走って町から町への近路となっており、中途からわかれた一本は辛うじてそれとわかるほど細まりながら、丁度例の緑青色の円屋根のついた赤煉瓦の塔の下へ出た。下まで来て見上げれば、その塔の中に見張人のいることもわかる。そのあたりの同じように建てられた家の塀は皆同じように赤煉瓦づくりで、それがどれもこれもメジをはがしたあとのそっくり見える古煉瓦でつくられていて、どうしてこんな煉瓦ばっかり集めたのだろうという疑がおのずとおこったとき、初めて人々は深くうなずくのであった。これらの古煉瓦こそ、あの明治時代からあった高塀からとって来られたもので、この一廓はもと占めていた敷地の四分の一ほどのところ迄退いているが、全然この土地から消えているのではなくて、愈々いよいよ新式に整備されて、あまたの人を養いながら、そこにたっていることを知るのである。

 原っぱの端れあたりからの遠見だと、コンクリートの高さはわからないから何かの大きい工場のように見えるその建物が落成したとき、新聞に記事がかかれた。設備万端が改善されて、人が自由に暮すアパートのようだと語られているのであった。そして近日内部を公開して一般に見せるという記事である。

 とある低い崖の上の小さな家の縁側で、サヨがその新聞記事に目をとめた。

「あら」

 膝をのり出すようにもう一度その記事の上へ視線をあつめた。

「ちょいと、これ……わたし達みられるのかしら。──見たいわ」

 いくらか上気したような頬をあげて、その新聞をわたした対手はこの家にいるべき筈の重吉ではなくて、編ものをもって一人暮しのサヨのところへ遊びに来ている友子であった。

「本当にどうなんだろ……でも行ってみましょうよ、ともかく」

「ねえ」

 サヨは友達の思いやりをよろこぶ表情で、

「私なんかには、ぜひみせてくれたっていいわけなんですもの」

 だって、家族なんですものという心持をあらわして笑った。

 ほんとにサヨはその内を一目みたい気がした。ああこんなところに暮して、こんな廊下も歩くのか。そうわかったら、どんなに重吉の一日も現実的に感じられて、こちらの気が楽になるだろう。

 勤め先の事務所で名簿の整理をしながらも、サヨは子供っぽいような熱心さで時々それを空想した。そのくらいのつつましいうれしいことは、妻である自分の身にあってもよさそうに思えた。

 当日になると、サヨは友子と池袋の駅で待ち合わせて、そこからバスにのった。そのバスも初めてであったし、ある学校の前で降りて呉服屋の角を曲る、その道も、まして原っぱは初めて見るから、サヨは物珍しさの抑えられない面持で歩いた。同じ方角へぞろぞろと人が行っていて、紋付の羽織姿の奥さん風の女も幾人かそこにまじっている。道端に自動車が二三台待っていた。紅白の布をまきつけたアーチが賑やかに立っている。サヨは、

「どこから入るんでしょう」

と、はずむ息をおさえるような顔をして、そのアーチの奥や、ずっと塀に沿った遠くの別な門をのぞいた。雨上りの日で、そこらあたりはサヨの靴が吸いとられそうに赭土あかつち泥濘ぬかっているのである。

「何だかわからないわねえ」

 靴をよごして、落胆した様子で戻って来るサヨを、友子が手をあげておいでおいでをした。

「ちょっと、一般に見せるっていうのはここなんですってさ」

「ここ?」

「ええ」

 二人は腑に落ちない顔つきでうしろのテント張の場所を見やった。足元をよくするためにコークスのもえがらを敷いた空地に天幕張があって、そこには共進会のように新しいおはちだの俎板まないたたらい、大ざる、小笊、ちり紙、本棚、鏡台などという世帯道具がうずたかく陳列されているのであった。新しい木肌の匂いは天幕の外へあふれている。腕章をつけた男がいて、即売されていた。サヨたちと一緒にバスを降りた紋付羽織の女づれは、それらの品物のやすいのに興奮したような手つきで、何か喋りながらいかにも気やすそうに買物をどっさりよっている。

 すこしわきへのくようにしてサヨと友子は暫くそういう光景を見物していた。ふと気がつくと、その往来の向う側に下駄の歯入れやだの古俵屋だのの並んだ前からこっちを見物している男女があった。そんなにひろい道幅でもないのに、町のひとたちは自分たちの軒下から離れないで、赤白のアーチとの間に動かせない距離を認めているような表情で、あっち側から見ているのであった。

 やがて、サヨが友子の手をそっととった。

「行きましょうか」

 友子は歩き出しながら半ば感服したように、

「よく売れているわねえ」

と云った。

「売れるにこしたことはないんでしょうけれど、……おはちなんかねえ」

 おはちは家庭の団欒だんらんのシムボルのようなものだから、何だかあたり前の町の桶屋さんの店にあるものの方が、そこからたべやすいという友子の感じかたは自然で実感があった。

 バスへのってからサヨは、

「ごめんなさい」

と云った。

「無駄足させて」

「いいわよ、そんなこと」

 二人は足を揃えてさも何か用事のところからのかえり路のようにサヨの家まで一気に戻ったが、格子の戸じまりをあけているうちに、サヨは滑稽でたまらなくなったように笑い出した。

「いやあねえ、まったく私何て頓馬なんでしょう」

 重吉にこのことを話したら、重吉は何というだろう。咎めはすまい。ばかだなあ、と少し鼻の頭に皺をよせるような笑いかたをしてサヨを見ることだろう。サヨはおとなしい優しい気になりながら笑いやめて締りをあけるのであった。


 夏になって、原っぱの草はそこを通り抜けて近道をゆく人の腰から下をかくすくらいの高さに繁った。バッタ捕りの子供たちが一日じゅうその草の間をわけて走った。原っぱの右側の遠くに日の丸の旗が風にはためくようになった、そこが自動車練習場になって、幌形のボロ自動車が前進したりバックしたりしているのが遙に見られた。噂さでは、原っぱはこのままにしておいて、やがて飛行公園にするのだということだった。樹木も何もない草地へいきなり飛行機が着陸できるようにしておくのだそうだ。そういう噂さも、戦争のはじまっている時節がら、根のないことばかりとも思われなかった。

 針金のきれめから入って原をつっきってゆくサヨの薄青いパラソルは、かーんと照りあがった夏草の上で上下にゆれながらだんだん小さくなって行った。

 人がとおると、バッタが急に足元から飛び立ったりして、目をとめてみれば赤のまんまの花も咲いている。その夏、原の端れの黒っぽい家々の一軒では、自然のうつりかわりなんぞに気を奪われている暇はないというように殺気だった意気組みで、姉さんかぶりに上っぱり姿の女も交えた数人の男が、トラックのまわりにたかって盛に襤褸ぼろのあげおろしをやっていた。

 草がすがれるようになって、やがて霜がおり、冬が来ると原っぱは霜どけがひどくて歩きにくくなった。近道を大きい三角形にぬける通行人の数もずっと減った。

 サヨはその季節になると、もう原は通らず改正通りの方から曲って来た。そして、計らずその通りにある下駄の歯入れやの爺さんと顔馴染になった。というのは、そこのところは道普請の前後で、猛烈なぬかるみが深くて犬でさえ行き悩む様子をみせた。その冬サヨは下駄の緒が切れたのが縁で、その歯入れやの店へよったのだが、奥行三四尺ほどの店の片隅を歯入れの仕事場にして、奥はいきなり横丁に沿ってなぞえになった四畳半もあろうかという構えだった。爺さんの顔も手足もかさかさと乾いているとおりその住居のなかも乾きあがって、僅か数本の古蝙蝠こうもり傘があるばかりの有様だ。

 東京ではごく生活の逼迫した区域にどうしてめでたいような派手なような名をつけるのだろう。たとえば富ケ谷だとか富川だとか旭とか、日の出町だとか。

 附近の地図でいうと、下駄の歯入れやはそこから斜めうしろに拡っている何百戸かの苦しい世帯の最前列で、真向いに建ったコンクリートの塀の内側へのめり込むことだけはやっと数尺の距離でもちこたえているという風な活計であった。扇の骨のような奥ひろがりの路地へ入ると、傘をさした人一人やっと通れるほどの間隔で、箱のような家々が密集していた。家々の庇合ひあわいにはあらゆる種類の洗濯ものと内地人や半島人のかみさんたちと子供たちと病人とが動いているのであった。

 空っ風がひどくその町を吹きまくった。向い風にさからって歩く女たちは云い合わせたように前かがみになって、ショールで口元を覆うた。改正道路まで戻ったとき、急に鋭い汽笛の音で顔をあげると、行き止りが線路の柵で、その下をごとごとと貨車がのろく動いて行った。貨車の屋根に雪が載っていることがあった。ちらりと見える雪のいくらか煤煙によごれた色は、鼠色に乾いた都会へほんとの冬がもたらされたように珍しく懐しくて、サヨはその瞬間激しく生活のよろこびへの郷愁で胸をしめられるのであった。

 ところがその年の暮ちかくなってから、歯入れやの店の様子がどことなく変って来た。世間一般に革草履だの本天の花緒だのが代用品になってゆく頃で、歯入れやの爺さんの店先は益々空っぽになって、がらん洞なガラス戸棚の奥に貼った緑色の模様紙のめたのがいきなりむき出しになった。それにもかかわらず客の体がやっと入るぐらいの店頭に何とはなしのうるおいが出来た。奥の方で紅い友禅のきれが動いているのが往来から見えた。それをいじっているのは爺さんとはちがって大柄で目鼻のきつい歯入れやの神さんであった。半纏をひっかけた近隣のかみさんがその前に坐って頻りに何か布をいじりながら相談している。奥いっぱいにひろげられた裁ち板の前で歯入れやの神さんは、大柄で体に或る権威を湛えながら、対手をしている。爺さんが軒下に立って冬の陽向ひなたで腰をのしているときの顔にも微かに油気がついた。毎日毎日神さんは裁物板に向って坐っていて、これまで何をたべているのか分らなかったような店の奥に人間がものを食う賑いの気配も動いた。

 この町にそうやって紅い友禅の色が見えはじめたということはとりも直さず、それにつづいてもっと大きな変化がおこって来る潮先の徴候であった。

 春になると、改正道路の裏にある腐れかけの四軒長屋の一区画がとりこわされて、そこへ機械工場が新しく建った。タイム・レコーダアをおして職工や女工が事務所口から入って行った。ダットサンがとまって中から役人風の男が出ると、運転していた国防服があわてて事務所口へ案内した。そこらに見ていた事務員たちが、道をよけて一斉に頭を下げた。そんな光景も界隈としては目新しい。

 そこらあたりから屑鉄屋、鋳物工場、機械工場といろんな下請工場がどっさりあって、その金網つきの真黒によごれた窓の下で日中働いている若い男たちの青春を撫でながらむしりとる触手のように、カフェー街が刺戟的な色をぶちまけて並んでいるのであった。

 正午のサイレンが鳴ると同時に、工場の裏口から馳け出して来る女工たちのエプロン姿にも活気があった。互に声をかけ合いながら女工たちはそれぞれ曲りくねった路地の間へ素早く消えた。昼飯には戻って来る亭主がある。そんな急ぎかたの女もいる。

 朝夕に映る町の変化をひきまとめて一本つよい線を引いたように、その町の裏を市電が開通した。


 電車がとおるようになって間もなくの或る日であった。

 サヨは、棒鱈と豆もやしの桶をならべた暗くしめっぽい店だの古綿打直しやの店だのの並んだ横丁をぬけて、開通したばかりの電車通りへ出てみた。ごたごたした狭い通りからそこへ出た目はおどろくほどあたりが閑静で、右手のずっと遠くの終点には商店の赤い幟旗なども見えるが、左は遙かな坂で、今は電車が一台も通っていない真昼の広々とした通りが、しん閑と白雲の浮んだ空へ消えこんでいる。雑木林がすぐそこにあった。雑木林では欅だの楓だののいろんな樹木が、次第に光と熱とをまして来る春の陽の下で芽立っている最中である。尖った緑の珠のような点々がこまかいあみめとなってよりあって、注ぎかかる日光を余念なく吸っている。

 サヨは心持もちあげた白い柔かな顎にこまやかな艶をうかせながら、暫く歩道からその雑木林をうっとり眺めていた。それから、白い裳をふくらませて大股にゆく半島人の婆さんと車道を横ぎって、向い側の小路へ入った。再びごたごたして不潔な通りがはじまった。そして、塵芥籠ごみかごが高くいくつも積まれている空地の横で、路は三またに岐れている。その角のところで、サヨはどの道を選ぼうかと迷った。一本一本の道がどっちの方角に行っているのかちっともわからないばかりでなく、もしこの時ふと親切心に動かされたひとが現れて、どちらへいらっしゃるのですかと訊かれでもしたら、サヨは我にもなく顔を赧らめて少しまごついたかもしれない。ゆくところがサヨ自身にわかっていなかった。というより、サヨは家を探す気でこっちの方へ歩いて来ているのであったが、そんな貸家がどこへ向ってどの道を行ったら在るのか、見当がついているわけでもないのであった。

 同じような三本の道筋だが、行手に高く見える欅の梢に心をひかれて、一番左の横丁を行った。

 東京じゅうに家が払底していた。サヨの住んでいる崖の上の小さい家は、重吉と一緒に世帯をもっていた家ではなくて、サヨが一人暮しになってから、友子やなんかと歩いてさがして越した家であった。その家が見つかったとき、

「あら、いいわこの家。寂しくないし、風とおしだっていいし」

とサヨは大変よろこんだ。そして、女主人なのに苦情も云われず借りられるときまったとき、

「ね、ここならいいでしょう? ほんとうによかったわね」

と狭い谷間の町一つへだてただけで、友子の住居に近いことも美点の一つとした。

 いそいそと快活に引越しをすることで、もとの家を去るようになった自分たちの生活の事情に積極の心もちもこめる思いで、サヨは元気よく転居した。

 こういうかたちの生活に、さっぱりとした感情をもって生きてゆくことも、女がそこまでおしすすめられて来ている愛情の姿なのだ。そう思ってサヨは暮した。

 引越した年の冬、或る寒い晩、寝いってほんの暫くしたとき、突然ドドーンと爆発したような音と同時に家じゅうが震えて、サヨは思わず床の上へ起きかえった。そして、スタンドをつけた。その灯をひとりで見守りながら体をかたくしていると、間をおきながら続けてドドーン、ドドーンと二度鳴って、その度にガラス戸がビリリビリリ震えた。見当は王子の方角である。もう爆発なことは明かであった。何処なのだろう。次の轟音を待ったがもうそれはやんで、今度は遠いすりばんが冬の夜らしく鳴り出した。そっちの空で犬の吠え声がおこった。

 急に寝間着一枚の肩にしみとおる寒気に心づくと一緒に、サヨには、自分のところをのぞいてあらゆる附近の屋根屋根の下で、この瞬間夫婦がぱっと床の上におきかえっていて、灯をつけていて、何なんでしょう! おびえたようによりあった気持で顔を見合わせている光景がありありと感じられた。なんなんでしょう! 囁き声はサヨの耳のはたできこえるようで、それは自分の声でもある。

 この時、サヨが身のまわりに感じた一人ぼっちの感じの鮮やかさは、畳の目を照らし出していたスタンドの明るさの孤独なさやけさとともに、実にくっきりとした異様な感銘であった。

 高窓をあけて、ぼんやり焔の色を反射している雲の多い空を見て、床に入って横わっても、サヨは眼を見ひらく心地で、夜のなかにくっきり照らし出されたようなその感銘にいた。何という溢れるばかりなさびしさだろう。いっぱいで、まぎれもなくて、そのまぎれない純粋さから不思議な美しさの感情へまでつきぬけて行くような、何という寥しさであったろう。

 東京のどのくらいのひろさでそのとき人々が目をさましていたかは知らないが、同じ夜の驚駭のなかに自分という女のそんな思いも目ざめて加わっていることを、サヨは現代のいとしさとして愛着するのであった。

 日ごろは、そんな気分で暮している。サヨがその春の昼、棒鱈やの横丁から現れて、開通したばかりの電車通りを眺め、旺盛に芽立つ雑木林に目をひかれ、やがて再びごみごみした横丁へ辿り入ったときの気持は、一種名状しにくい乱れ心であった。

 重吉と暮したい心の激しさがサヨをつきうごかして、落つかせないのだけれど、その方法のない余り、発作のように何とか暮しの形でも極端に変化させたら気が休まりそうな思いがして、サヨはそういう刹那アパート生活などを描くのであった。

 欅の梢の見える横丁を行くと、青々としたしきびの葉が何杯も手桶に入れてあって、線香の赤い帯紙が妙なにぎわいを店頭に与えている花屋の角へ出た。そのつき当りは雑司ケ谷の墓地である。墓地といってもここはちっとも陰気でなくて、明るい日が往来ばたの木戸に照っている。花屋の方へ裏の羽目を向けてそこにアパートがあった。偶然そこへ出たサヨは半ば本気なような、半ば自分のそんな気持に抵抗しているような複雑な気持のまま、外の明るみに馴れた目にはあなぐらの入口のように思える三和土たたきの玄関を入ってみた。

 もっと薄暗く見える廊下の奥にドアがいくつか並んでいて、バケツを下げたシャツ姿の男がそっちから格別いそぎもしないで出て来た。サヨは空室があるかどうかきいた。

「さあね、ここ当分動く人はありますまいよ」

 元は職人ででもあったような管理人はあっさりした口調で答えた。

「ここはやすいからね。新学期でどうっとふさがりましたからね。やすい代り、台所が共同なんでね」

 すこし笑い顔になって、その不便もみとめている。礼を云ってそこを出て、動揺した切ない心持のままサヨは、元来た三つまたの方に向って歩いた。この界隈に執着してうろうろとあるきまわっているのであったけれど、近くなればなるほど近さが強調して感じさせる重吉との距離の不自然さが生々としてサヨを苦しますのであった。苦痛とたたかって、自分の心と体とをそれから引はがそうとするような気力をあつめて、サヨは省線に乗った。

 竹藪のよこの足場のわるい石ころ坂道をのぼり切ると、更に石段があって、古びた門にかぶさるようにアカシヤの大木が枝をのばしている。その門のなかに友子夫婦の住居があるのであった。八つ手の植った格子をあけようとしたが、建てつけが歪んでしまっていて容易に動かない。幾度かやってみて、遂にサヨは、

「友子さアーん」

と大声で呼んだ。気をつけながらいそいで二階から下りて来る友子の気配がした。この古い家は梯子段の間がなみよりも遠くて、もう何年も棲んでいる友子でも気がゆるせないのであった。

「ほんとに、この家ったら!」

 自分のうちの生きものでも叱るような口調で友子が内から格子をガタガタさせた。

「こないだなんか、わたしが出て、あとをしめたら、もう入れないんだもの」

 まあこの主人の私がよ、というその調子にはこの夫婦の暮しにある独特な諧謔かいぎゃくがひとりでに溢れていて、サヨは気分が転換されるのを感じた。

 こんな時刻に現れればサヨがどこからの帰りだということを説明する必要も二人の間にはないのであった。

「お茶いれましょうね」

 湯のわく間、友子は内職の編物をまた膝にとりあげている。この夫婦も、もう久しく家をさがしていた。家が古くなりすぎて、風のきつい夜なんかはおちおち眠っていられない。でも、ここで探しているのはただ家だけであった。家の見つかるまでは、つい足をふみはずして準助が二階からパイプをくわえたままころがり落ちて、ひどく腹を立てたりしながらも二人でやって行っている。自分がこうやって時々瞳の中に小さい火をもやしたような顔つきになってさがしまわるのは何だろう。家ばかりのことでない。それはサヨも知っている。

 友子の編棒からは、一段一段と可愛い桃色の毛糸の赤坊ケープがつくり出されていた。それを眺めながらサヨは、ふとある婦人作家の小説の中に描かれていた一つの情景を思い出した。それは、何年も一緒に暮した良人と愛の破綻からわかれなければならないことになった若い女が、女友達とつれだって、秋の西日のさす丘の上の町を家さがしに歩きまわっている場面であった。一つ角を曲って新しい道へ出たと思うと、やっぱりそこには西日の照る前のつづきの通りがある。散々歩いても一人の若い女が子供をつれて新しい生活を営むべき貸家は見つからないで、夕暮木犀もくせいの花の下をくたびれて歩いているとき、その若い女が覚えず洩らした深い歎息は、ああ、こんな思いまでしなくちゃならないものなのかしらという謙遜なひとことであった。しかしそのひとことには、女が生活の中で負ってゆかなければならないすべての意味がこめられているようで、その情景からはサヨの心に刻まれたものが深くあった。女が自分から自分の生活への態度として一軒の家をも持ってゆくようになるその過程で女は実にどれほどのことを学ばなければならないだろう。

 友子が、

「ああそうそう、乙女さん、あなたのところへよりましたか」

ときいた。

「いつ?」

「ゆうべ」

「来なかったわ」

「──あのひと、田舎へ行って来たって、本当かしら……」

 サヨは不安げな表情になった。

「何とか云ってた?」

「云わなさすぎるんですよ、行って来たにしては。勉さんの三周忌だったのに。ひょっとしたら、うっかり忘れてしまったんじゃないのかしら」

 みんなの友達であった勉が、真面目で辛酸な若い生涯を終ったとき、あとにのこされた乙女と小さい娘の生活に対しては、親しかった何人かの友達が、誰からも求められてはいないがぼんやりした責任のようなものを感じて来ていた。

 勉の年とった親たちは、亡くなった息子の代りに、嫁の乙女を一家の稼ぎ手として離すまいとしていた。乙女はそれが重荷で、娘をつれてマージャン倶楽部へ住込みでつとめたりしていた。気のいいコックの男がいて、それが乙女を散歩にさそっては、一緒になりたいと云っているということが乙女の口から友達たちに話されたりした。亡くなった勉は詩人になろうとしていた。だけれども、気のいい男だというのなら、乙女にとってコックという商売はそんな困った職業だったろうか。

 ところがその話はそれなりになって、サヨが今度の家をもったとき、乙女も来て暮したらどうだろうかという案が友子から出された。そのとき乙女は、相変らず小柄な体に派手ななりをして、長い両方の眉毛をつりあげるようにして下唇をなめる昔の癖を出しながら、そりゃ一緒に暮して行ければ、あたいもいいと思う、と云った。そして、もう一度上唇と下唇とを丁寧になめると、けんどね、と力をこめて目を据えるように、もしあたい一人になったりしちゃって、困らないだろうか。サヨ子さんたちは、そういうときでもちゃんと成長してゆけるけど、あたいはやっぱり普通の女で、そうやっていたっていつまでたっても、普通の女としてのこるばっかしだろう。

 野兎のおどろいた時のような素朴な美しい感じの顔をしていた乙女が、いつ友達の女たちと自分の一身との間にそんな区別をおいて身をしさらすことを覚えたのだろう。そう思ってサヨはその時大変悲しかった。

 その時分に、勉が生前知り合いだった画家との間がどうこうという話があった。

「勉さんがあんまりストイックだったから、乙女さんの気持もわかるようなところもあるけれど……でもね」

 その画家を勉がしんからすいていたとはいろいろな事情から考えられなかった。勉が善意に生きて死んだ熱心さが、妻である乙女の躯でどうでもいいものとされているとすれば、それは、死んだひとにとっても生きている自分らにとっても一つのむごたらしいことだとサヨには思えるのであった。


 初夏が来て、新緑の雑木林は、夜も昼も捲きひろがろうとする若葉の勢で幹も黒く軟くひきのばされて揺れているような眺めとなった。

 その夏は、原っぱのトンボ釣りの子供らがずーっと活躍の範囲をせばめられた。飛行公園になるとか云われていた原っぱに梅雨があがると、トタン葺きの大きな作業場が拵えられ、土工の飯場が出来た。一日じゅう掘りかえされたり、木材を満載したトラックがひどい音でエンジンをふかしたりした。

 サヨはもう原っぱを抜けるのはやめた。そこばかりでなく、原っぱへ入る針金のやぶれのそばでも、地割りをしたところに地鎮祭の御幣が白い紙を風にひるがえしていた。釘がない。材木がない。そういう世間をよそに原っぱでは同時にいくつもの建築が着手された。遠くの自動車練習場の日の丸の旗は見えなくなっていた。ガソリンが払底だった。

 秋がすすむにつれて、原っぱの工事場のごったがえした堆積の人間の動きの中から、徐々に建てられているものの輪廓がせり出して来て、きょう作業場の小屋掛けがとり払われたかと思うと、いつか飯場の露天竈も見えなくなって、後に長いコンクリート塀に囲まれた幾棟かの建物が完成した。そこには造幣局が出来たのであった。

 そうなると、改正道路から見る原っぱの眺望も初めの頃とはすっかりちがって来た。左手にあの桜の並木の側に四角く建ったのは小学校である。それから、そのすこし奥に真新しい造幣局が出来て、それは以前そこまであとしさりして行ったもっと長いコンクリートの高塀と、黒い道一筋をへだてているだけである。草っ原は今やひろびろとした一帯の印象を失って、途切れ途切れの空地にすぎないものとなった。それでもそこから秋の更けるまで頻りに虫がすだいた。

 もう一つ夏がめぐって来たとき、界隈の様子はまたこまかくうつりかわっていて、そこの小さな女の児が背負って遊ぶ赤い人形が、おから桶の上に転がっていたりする豆腐屋のガラス戸に、原料不足につき月二回休業のすり紙がはり出された。

 棒鱈屋のさきの米屋に、米の御註文は現金で願いますと刷ったビラと並んだ黒板に、内地米二割、外米八割と書かれていた。マッチ配給イタシマス。そういう貼紙が荒物屋にあった。そして、短い町すじの共同水道をはさんだこっちとあっちとに、町会が建てた二本の建札があって、それにはその前に建札の立った家からの戦死者の名が記されているのであった。

 パッカードとかハドソンとかいう高級車が時々その長い高塀に開いている門の横にとまっていることがあるようになった。

 その年の春ごろから、世の中が愈々鋭い角度で推移しはじめていることがそんな光景にも語られているようであった。

 幾度か苦しい気持になりながら、それでもサヨは一つ住居に住みとおして、時間のゆとりのあるつとめの傍ら少しずつ洋画の修業をやり直しはじめていた。

 重吉に対するサヨの妻としての感情は、云ってみれば純粋でしかあり得ないような条件で、サヨはその感情の純粋な単一さとでもいうようなものにこりかたまることを、重吉の心の成長のためにも自分のゆたかさのためにも警戒した。自分でも気づかないでいたような様々の感情を、自分に向って表現する手だてがあるとすれば、サヨとしては好きな画を描くことによるしかなかった。サヨが自分で自分のいろんな到らなさや鬱屈や感情の上すべりした所を絵のなかでは割合発見してゆけるように、重吉もサヨのそういう実際を、サヨの下手なスケッチ絵ハガキからつかむだろうし、そのことから、重吉自身が自分の心の明暗を濃やかに活々とさせ得ることがあったとしたら、うれしいにちがいなかった。

 絵に表現されてあるものについては、ともかくぐるりの友達が遠慮なく感想を云ってくれる。それもサヨにはよろこびであった。絵をやりはじめてから、いつかの春、雑司ケ谷の墓地のあたりを切なさいっぱいでふらついて歩いた。ああいう衝動も、サヨは情熱の潜勢力のようなものにかえて暮せるようにもなった。

 八月はじめの或る夕方、サヨは妹夫婦の家に行った。ゆき子が初産で、予定の日が来ていた。母親が早くなくなっている姉妹で、そういうときゆき子は姉を心だよりにするのであった。

 重々しく充実した体にちょいと可愛くサロン前かけをつけて、上瞼に薄く雀斑そばかすのある顔を傾けながら、ゆき子はいやに断定するように、

「今夜あたり、どうもあぶなっかしいわよ」

と云い出した。進一は縁側にねころんで食後の煙草をつけている。

「またおどかしだろう」

「ずるいわ、御自分はこわいもんだから」

 サヨがあわてたように二人を見くらべながら、

「ねえ、ちょっと。自動車大丈夫なの? 私いやよ」

と云った。

 病院へはサヨがついて行く約束になっているのであった。

 ほんとに夜なかの二時すぎたころ、サヨはひどく甲高な声で何か云っているゆき子の声と格子のあく音とではっと目がさめた。茶の間へおりて行ってみると、ゆき子は煌々とした灯の下で、もうさっぱりした浴衣にきかえて、立ちながら手くびにつけた時計を柱時計と合わせている。

「ああ、めをさまして下すって、よかった!」

 幾分ふだんと変った声で云って、腕時計の面を見守りながらねじをまいている。

 サヨはいそいで着物をきかえ、進一が運転台にのって来た自動車にゆき子をのせた。ゆき子はサヨの手を握っていて、痛みがよせて来るたびに握っている手に力をこめて息をつめるのであった。

「大丈夫? もつ?」

 そう云いながらサヨも我知らず人気ない街を疾走している自動車の中で草履の爪先に力をこめた。痛みの間がだんだん短くなって、サヨの心配が絶頂になった時、車はやっと病院に着いて、ゆき子はすぐ産室につれられた。

 二階の室で、閉めてあった窓をすっかり開け、サヨはそこにあった籐椅子を二つ並べてその上へ脚をのばした。生れるのは早くて朝になるということであった。風のない蒸し暑い夜で、廊下の向い側のドアをあけたままの部屋部屋にぼんやりした灯かげと産婦たちの寝息がみちている。その人達の目をさまさせないように椅子のきしみにも気をかねて、落つかない窮屈な気持でサヨは団扇うちわをつかっていた。

 やっぱり籐で作った円テーブルがその室の隅にあって、下の棚に何か雑誌のようなものがおいてある。サヨは片脚ずつ椅子からおろして、立って行ってそれをもって来た。一冊は映画雑誌であった。もう一冊は大阪の方から出ている半社交娯楽の雑誌で、カットなどに力をいれた編輯がされていた。知っている婦人画家の描いたのもあったりするので、暇つぶしに頁をくってゆくうち、サヨは我が目を信じかねる表情になって一つのカットを見直した。そこに描かれている女は乙女であった。乙女でなくて、ほかの誰が、こんなに特徴のある弓形の眉だの、黒子ほくろがあってすこし尖ったような上唇の表情だのをもっていよう。二字の頭文字は、昔乙女の良人が知りあいだった例の画家の姓と名とを示していた。絵の乙女は、その体に何一つつけていないはだかであった。粗い墨の線で、やせて小さくそびえた肩が描かれていて、その肩つきはまぎれもなく乙女の肩であった。はだかの乙女は生真面目に真正面を向いて、骨ばった片膝を立てた姿勢で坐り、両腕はそのまんまだらりと垂して、二つの眉をつりあげて今にも唇をなめたいところをやっと堪えていると云いたげな表情であった。そのまるむきな小さい女を画家は荒い筆触で、二つの目の見開かれた大の腕のつけ根や腹の暗翳だのを誇張して表現しているのである。

 乙女。乙女。サヨは計らず再会したこのいじらしい昔馴染の名を心で切なく呼んだ。はだかになったところをこの画家が描いている。いかにも乙女らしく媚びることも知らず描かれているが、そこに語られている意味が何をあらわしているか、乙女は思って見たのだろうか。画家が何を現わそうとしているにしろ、乙女がそこにそうやっているそのことに、切ないものがある。それを知っているのだろうか。

 雑誌をとじて、サヨは椅子の背に頭をよせかけていた。

 蒸し暑いまま夜が明けはなれて来た。窓のすぐ外のプラタナスの街路樹がだんだん緑の葉色を鮮やかに見せて、朝日の条がその上に燦き出した。

 突然どこか階下の方で、一声高く赤坊のなき声がした。サヨは反射的に椅子から立ち上ったが、割合しっかりした男の子の声だったように思えて躊躇していると、看護婦が廊下を走って二階の階段をこっちへのぼって来たのがわかった。急に動悸しはじめたのを感じながら、サヨは丁度看護婦が階段をのぼり切ったところへ出会い頭に出て行った。

「生れました?」

「おめでとうございます。立派なお嬢ちゃんです」

 サヨは膝の力が抜けてゆくようなよろこびの感じを、初めてこの時経験した。階下へおりるまでに、こんどは続けて赤坊のなき声がして、それはまだ見ない自分たちの赤坊の精一杯の生への呼びかけで、サヨは可愛さがほとばしって喉へこみあげた。

 傍の電話室へ入って、進一を呼び出した。サヨは興奮した声で、

「いま、安産よ」

と告げた。

「女の児よ。盛にないているの、きこえますか?」

 進一は曖昧な返事をした。サヨは、

「ちょっとお待ちなさい、きかしてあげるから」

 そう云って電話室のガラス戸をあけて、受話器を紐の長さいっぱいに廊下へ向けて引っぱった。

「ほら! ないている。いい声でしょう?」

 しかし、電話でいま生れたばかりの赤坊の声をきかせるのは無理なことだった。すぐ進一が来るということで、切った。

 そこは産室につづいた廊下の端れで、二枚のドアが市内らしく狭い内庭に向ってあいていた。朝露に濡れた平石の上に石菖せきしょうの大きな鉢がおいてあって、細く茂りあった葉もまだ露を含んでいる。綺麗にしめりけを帯びた青い細葉の色が夜じゅう眠らなかったサヨの瞳にしみ入った。

 非常に深い安らかなよろこびがサヨの心を満していた。そんなよろこびと安心の感情は予想していなかった。それほど大きかった。そのうれしさや安心とはまた別に、さっき雑誌の頁の中に見た乙女の姿がサヨの心の裡にある。

 雀の囀りが活々と塀のところに聞えたと思うとやがて、ラジオ体操のレコードがどこかで鳴り出した。ピアノの単純なメロディにつれて「ヨオーイ、始メッ」というあの在り来りのレコードだが、もたげた顔に朝日をうけて凝っとそのピアノのメロディを聴いているうちに、サヨの体は小刻みに震えて、忍びやかな嗚咽おえつがこみあげて来た。

 このメロディは、重吉とサヨが結婚して間もなかったころの初々しい朝の目覚めの中へ、どこか遠くから響いて来た単純なメロディであった。

 メロディとともにその部屋をふきぬけて、二人の体の上をわたった夏の朝の風の思い出で、サヨは泣けて来るのであった。

 今のよろこびに通じるまじりけのないよろこびの思い出のため、サヨは涙をおとした。

底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年1220日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房

   1951(昭和26)年5月発行

初出:「日本評論」

   1940(昭和15)年11月号

入力:柴田卓治

校正:原田頌子

2002年422日作成

2003年720日修正

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