海流
宮本百合子



        一


 やっと客間のドアのあく音がして、瑛子がこっちの部屋へ出て来た。上気した頬の色で、テーブルのところへ突立ったままでいた順二郎と宏子のわきを無言で通り、黙ったまま上座のきまりの席に座った。

 そういう母に宏子も順二郎も何も云えなかった。それぞれ坐り、ちぐはぐな夕飯がはじまった。瑛子は箸をとると、型どおりお椀のふたをとったり、野菜を口へ運んだりした。けれどもその様子はただそうやってたべているというだけで、全く心は娘や息子のところに来ていないことが感じられる。宏子は胸がいっぱいで味も分らなかった。

 田沢は帰らないで、別な膳が一つだけ彼のために客間の方へ運ばれている。そんなにしてまで、一家の空気の中に彼の存在が主張される不自然な苦痛な緊張が、妙にごたごたした前後のいきさつの裡にあるのであった。

 一言も口を利く者もなくてこっちの食事が、落付かない雰囲気の中でどうやら終った。すると、瑛子はすぐ立ちかかって、

「お客間へお茶がいるよ」

と女中に云ったなり、息子と娘に言葉をかけず着物の衿元をつくろいながら、化粧を直すために洗面所の方へ行ってしまった。

 白堊の天井から頭の上に煌々と百燭光が輝いている。一輪插し、銀の楊枝箱、鋏、装飾用の寒暖計などがのっている飾盆を挾んで、再び順二郎と宏子とはテーブルのところにのこされた。隈ない光を浴びている順二郎のふっくりとした柔和な顔は幾分蒼ざめて、鼻の下に和毛の微かな陰翳はごみっぽいような疲れたような感じに見える。彼はさっきからひとことも云わず、ふだんより余計瞬きをするような表情で姉を見ているのであった。しばらくして、

「順ちゃん、これからどうする?」

と、宏子がやっとのことで出したようなあたりまえの声の調子できいた。

「僕?」

 嵩の高い膝をすこし揺るようにして、順二郎はその独特なふくらみで顔に表情を与えている上瞼の下から素直に姉をみた。

「僕はドイツ語の文典をやる」

「──順ちゃん。一円ばかりもってる?」

「うん、あると思う」

「かしてね。あとで母様に云って返してもらって。──いい?」

「ああ。今すぐ?」

「うん」

 弟から金をうけとると、宏子は玄関へ出て靴をはいた。

「すっかり帰っちゃうの?」

 うしろに立って姉が靴をはくのを見ていた順二郎がきいた。

「ええ。──だって……。平気だろう?」

「僕はいいさ」

 宏子は、お茶の水駅に向って本郷通りの夜店の出ていない側をよって歩いて行った。土曜日の晩らしく、むこう側の明るい書店に白線入りの制帽をかぶった数人の学生の姿が見えたり露店の花屋の前でむき出しの電燈に顔を近々と照らされながら並んで佇んで何か云っている夫婦づれの姿も見える。宏子は合外套のポケットへ手をさしこんで、自分にかかわりのない遠いところにある風景でも眺めるような眼付で、折々賑やかな方を見ながら歩いていた。苦しい気持は複雑な思い出で過去へまで拡がった。苦しい、口では説明しきれないような心持の絡み合いを、宏子は初めて母との間に経験するのではなかった。

 宏子が女学校の二年ばかりの時であった。父親の泰造が、滅多にないことだのに家で何か特別な報告の製作をしなければならないことになった。その仕事のために富岡という三十前後の技術家が通って来ることになった。宏子が学校からかえって来る頃は丁度富岡も休む時間で、彼には紅茶とトウストが出された。そして、初めは宏子が白いブラウズの上からつった紺サージのスカアトをひろげて、とんび足に坐って自分の茶碗をかきまわしている前で、女中がそれらのものを盆にのせて、仕事場になっていた客間へ運んで行ったが、いつか、富岡も食堂へよばれて一緒に休むようになった。子供は絶対に入ってはいけないことになっていた仕事場へ、宏子もたまに行って見るようになり、数ヵ月して、その仕事が終った時は、土曜日の夜というと加賀山の家へ富岡が現れるしきたりになった。

 泰造はいつも多忙で、かえりが十二時過ることはその頃も今も同じであった。順二郎は小さかったから、九時すぎの客間で喋っているのは富岡と瑛子と宵っぱりな宏子だけであった。濃茶色の布張りのソファにかけて、瑛子はその時も上気して、肌理きめの濃やかさの一層匂うように美しい風で喋っていた。時々亢奮したように白足袋の爪先をせわしく小刻みに動かしたり、あなたのおっしゃることには絶対不賛成です、と云うような切り口上を挾んだりして。──

 そのころの宏子はもとより母と富岡とが或る時はひどく抽象的な云いまわしで、礼儀をみださず交わしている話の内容には入って行けないのであったが、客間の中に徐々にかもし出されて、夜が更けるにつれて益々濃くなって行く、暖いような、燿くような、何かがかくされてでもいるような雰囲気に、宏子は早熟に敏感に全身でひきこまれた。何でもない。だが、何だかちがう。十五の宏子の心をひッぱって、わくわくさせるものがある。父親と話している時の母とは違う空気、父と母と富岡とが三人で喋っているときにもない何かが、父のいない土曜日の晩の富岡と母との話しの間には漂った。宏子の感覚はそれに刺戟されるのであった。

 そういう晩、その頃生きていた一番末の四つの弟が泣き出す。泣く声が客間まで聴えて来ると、宏子はいつも絶望的にがっかりした。瑛子は、

「おや、敬ちゃんが泣いているよ、宏子、ちょっと」

と云った。きまって、そうであった。宏子は客間を出て、二階の両親の寝室へ行って豆電燈がともっている薄暗い中で、目ざとい小さい弟をなだめて、眠るまで子守唄をうたっていてやらなければならない。宏子は、客間へとんでゆきたい自分の心をやっと押えながら、ああちゃーんと泣き立てる弟をおさえつけ、そんなに泣くと狼が来るわよとおどした。オカミいやーんと弟は泣く。弟が眠るまで、母の蒲団の上に横になってついている宏子の耳に、微かに客間から母と富岡の笑い声が響いて来る。その笑い声は楽しそうであった。いかにも活気が溢れていて、宏子はどきどきする心臓が口からとび出そうに切なかった。涙も出ない。やけつくように体じゅう苦しかった。

 敬が泣かない晩はまた別な忘られない思いがあった。十一時すぎて、もうやがて泰造が程なく帰って来るという刻限、それは丁度いつも客間の空気がその魅力の絶頂をなす頃であったが、瑛子はよく、そのときを待っていたように、

「お茶でも一ついれましょう」

と云った。

「さめてしまっているわね。宏ちゃんちょっとあつくしておいで」

 客間の裏の板の間に、お茶番のための瓦斯コンロがあった。宏子はそこの板の間に坐りこんで湯わかしを瓦斯にかけた。そこは電燈がつかなくて暗かった。闇の中で宏子の柔かい顎から頬っぺたへかけて瓦斯の焔の色がうつり、そのあまりで四辺が狭くぼーと照らし出されている。客間からの話声をききながら湯がやっとたぎり出して来てだんだん煮え立つ音がしずまって行き、まさにふきこぼれようとするところで瓦斯を消す迄の我知らず固唾をのんでいる間の心持。──

 余りこんでいない省線電車に腰かけて、郊外の夜を疾走する車体の動揺につれ、吊皮が並んで規則正しく白い環をあっちへこっちへとゆすられているのを眺めていた宏子の若い真面目で清潔な顔の上に、心の深いところから湧いて、音になって外へはきこえない呻きのような反抗の表情が通りすぎた。

 そこの座敷には綺麗な桜んぼを盛った硝子の鉢があった。庭に桜の大木があって、その青葉が陽に透けているのが窓から眺められた。母の使いを云いつけられた宏子が富岡の家へ来ていた。富岡はあぐらをかいた膝の中に宏子を抱いて、短いおかっぱの髪と頬っぺたとへ一どきに自分の髭を剃ってある顔を押しつけた。そして、耳のなかへ、

「宏ちゃん、僕が好き? 僕を愛している?」

と囁いた。宏子はこっくりと合点をした。「じゃ、その証拠をくれる?」宏子はこくりと合点した。

 それからよほど経った或る日の午後、宏子が学校からの帰り、家へ曲る蕎麦そば屋の角を入ると、むこうから富岡が同じ道をこっちへ向ってやって来た。宏子には遠くからそれが分ったが、地べたを向いて変にいそぎ足で来る富岡は殆どぶつかりそうに近づく迄、宏子に気づかなかった。本束の下にメリンス風呂敷の裁縫包を抱えている宏子は、立ち止りながら子供らしい調子で、

「何いそいでいるの、家へ来たの?」

と云った。地べたを見て歩いて来た富岡の顔色は宏子が見ても病気のように蒼くて、眼が血走った様子をしている。富岡は宏子もおちおち目に入れていられない風で、曖昧な意味のはっきりしない言葉をつぶやくと、はっきり宏子をよけるようにしてまた急ぎ足で行ってしまった。何事かがあった。そう感じられた。

 家へ入ってみると、客間のドアがあけっぱなしになっていた。そして、瑛子がソファの前にこちら向きに立っている。両手を後に組んで、白い顔をしゃんとこっちへ向けて、怒った気のたかぶりが現れたままの瞬きをして、入って行く宏子を見た。宏子は、

「どうしたの」

と云った。

「富岡って男は──実に下らない!」

 瑛子は、一人前の大人に向って云うように率直な大胆な言葉で娘に云った。

「今帰ったばかりなんだが──お金がどうしても二百円とかいるんだとさ。奥さん、何とかして下されば一生何でもあなたの云うとおりになりますって、跪いて、ひとの手にキッスをしたりして、馬鹿馬鹿しい!」

 早口にそう云いながら、瑛子は後にまわしている自分の手を一層うしろへ引っぱるように肩を動かした。

「何て男だろう、金を出してくれれば一生奴隷になるなんて。あなたが僕に特別な好意をよせていて下さることはよく知っている、だってさ! 私は、きっぱりそう云ってやった。あなたの云うことをきいたら、よしんばあるお金でも出したくなくなりました、って。──人を馬鹿にしている!」

 宏子には漠然とではあるが、富岡が母へは娘という態度でいたのが判った。さっき往来で逢ったときの血走ったようになっていた富岡の眼付や宏子から一歩どいて歩き出した時の身ごなしなどが、何とも云えず厭わしい気持で思い出された。宏子は、堂々と怒っている恰幅のよい母の前に立って、瞬きもしないで富岡に対する罵倒をきき終ると、唇をひきしめた顔付でおかっぱを振りさばき、客間を出て自分の部屋に入った。

 それから後は、土曜の晩も、再び冷静な平凡な夜々に戻った。

 秋になってからの或る夕方のことであった。その頃から一層沢山本を読むようになった宏子が、おそくまで図書館にいて、街燈が点きはじめた時分、帰って来た。池の端に向って坂になった歩き難い通りの端を、いそぎもしない歩調で歩いていると、うしろから静かに来た一台の自動車が少し宏子を追い抜いたところで、スーと左側へよって止った。車は宏子の鼻の先に止ったと同じだったので、思わず首をあげると、車の後窓から宏子の方を見ているのは泰造であった。泰造は、自分を認めた宏子に向って人指しゆびをちょっと挙げる合図をすると一緒に、短いいつもする口笛を鳴らした。すぐ無帽のまま腰をかがめて車を出ながら、運転手に、ぶらぶら歩いて帰るから行ってよろしい、と云った。

「どうしましたね?」

「今日はお父様珍しいのね」

「ああ」

 泰造は宏子の片方の腕をとって自身は道の外側を暫くだまって歩いていたが、やがて、

「丁度いいところで逢ったから話すがね」

 おだやかな、圧しつけるところのない、寧ろ心配りで愁わしげな調子さえ響く声で云った。

「実は昨日、或る人をよこして富岡がお前へ結婚を申込んだ。富岡は、お前にもその心持がある事実をもっていると云っているそうだが──」

 セイラア服の宏子は、黙りこくって頑固に自分の前を見つめて歩いた。泰造は、軽い咳のようなものをして続けた。

わしは断ったよ。──あれはよくない。儂は来た男に、はっきり断った。いいだろう?」

 宏子は髪の根に汗のにじみ出すような心地で、

「ええ」

と云った。

「おっかさんには黙っていよう、また亢奮するといけないからね」

 泰造は片手で執っている宏子の腕のところを、もう一つの自分の手のひらで軽くたたいた。

「心配しないでいいよ。お前はいい娘だ。儂はお前を信じているよ。お前にはまだよく分るまいが、人間は自分のねうちというものを知らなけりゃいけない。そしてそれを大切にすることを知っていなけりゃいけない。いいかい?」

 それからは黙ったまま父娘が夕靄のかかりはじめた街路を家の方へ向ってゆっくり歩いた。もう家の門が見えるところまで来たとき、泰造が、もし煙草をふかしてでもいたなら、その吸殼をつよく地べたへたたきつける時の調子で

「あいつは、わざわざ第三者を入れてそういう話を持って来た。──」

と云った。

 その時から六年経った。宏子は今これらのことを複雑な感情で思い出すのである。

 学校前のバスの停留所のところは、片側が武蔵野らしい雑木林で、くぬぎの樹にまじって立てられている柱から燭光の弱い街燈が、白く埃をかぶった道端の笹を照らしている。厚く敷かれたばかりで、まだ踏みかためられていない門内の砂利が、宏子の靴の下でくずれて一足毎にザック、ザックと大きい音を立てる。門衛が、眼鏡越しの上目で、瞬間の明るみの中を横切って行った宏子の姿を見さだめた。

 同室の三輪は、外泊であった。宏子は、帽子を寝台の上に放り出すようにぬいで、先ず靴をはきかえた。それから、寝間着に着かえて、洗面所ですっかり顔と手とを洗った。机の前の椅子をずらして腰かけた。教科書が青銅のピイタア・パンの本立てで挾まれた背をこちらへ向けて机の上に並んでいる。視線をそれ等の赤や茶色の背表紙にやすめながら、宏子は教科書への興味は一向に動かされず、順二郎は今頃、何をしているだろう、としきりにそれが考えられた。順二郎の、どんなに明るい燈に照らされても冴えないようだった今夜の少年ぽい顔。母の異様な美しい程の集注、母であって母でないような心のそらなあの様子。──娘である宏子の感情は苦しまずにいられないものが漲っているのに、その擾乱の中には軽蔑をひき起すようなくずれたものは感じられないのであった。若い宏子たちと共通なような生一本なものが瑛子のとり乱した感情を貫いていたので、却って宏子の苦しさや動揺は切実なのであった。

 宏子はなお暫くそのままにいたが、やがて立ち上って寝台のところへゆき、壁際の方の掛物と敷蒲団とをめくって、下から一冊の小型な大して厚くない、ハトロン紙の覆いのかかった社会科学思想の発展の歴史を書いた本をとり出した。

 やっと読書に身がいりだした時、コンクリートの廊下にスー、スーと草履をひきずって来る跫音がきこえた。宏子は手をのばして、机の上のスタンドを消した。鍵をかけることの出来ないドアがノックなしにすこし外から開けられる気配がした。

「あら加賀山さん、おきていらしたんじゃなかったんですの」

という、寄宿舎の看護婦の沖のひきのばしたような声がした。

「寝ちゃったわ。──御用?」

「三輪さん外泊でしょう。お淋しかないかと思って……」

 宏子はむっと黙って、物音を立てずに沖の去るのを待っていた。お淋しかないかと思って! 寄宿では一応学生の感情をはばかって、舎監が自分から学生の部屋を歩き廻るようなことはしなかった。その実際上の代りを看護婦の沖がつとめた。彼女は中途半端な自分の立場をいいことにして、誰の部屋へでも時をかまわず、口実にならない口実で入りこんだ。皆に顰蹙ひんしゅくされ切っていながら、鈍感とも鉄面皮とも判断つかない笑顔で金とプラチナの歯を光らしながら、沖は依然として部屋部屋を歩いているのであった。


        二


 構内にある礼拝堂から、日曜日の朝礼を知らせる鐘の音が響いて来た。風がつよいと見えて鐘は余韻なく遠くに聞える。宏子は枕の下へ手を入れて時計を見た。朝飯には出ないことにして、毛布の下でまだ睡り足りなくて熱っぽい体をのばした時、誰かが宏子の部屋のドアのすぐ外のところへくっついて、

「ね、そんなに云わないで──一人で行って頂戴よ。私の勝手じゃないの、行ったって行かなくったって」

 初めは哀願するように、しまいには憤ったように飾りっ気のないふくれた調子で云っている。秋田訛のある杉登誉子の声であった。

「ですけれどね、きのうイー・エス・エスのときミス・ソーヤーがあなたのことをわざわざきいていらっしゃったんですもの。何故この頃礼拝に来なくなったのかって──私仕方がないから、アイ・ドント・ノウって云ったわ。そしたらミス・ソーヤーは、シイ・イズ・ア・ナイスガアルっておっしゃったんですもの……行きましょうよ!」

 困ったように杉は黙りこんでいたが、

「あたし、ちっともナイスガアルなんかじゃないわ」

 内気な中に譲歩しない口調で、やっぱり秋田訛を響かせてねばっている。宏子は、枕の上に片肱ついて半身起き上りながら、この不器用でいて、しかもこういう学校生活の間では相当な意味をもっている問答に聞耳を立てた。杉が断り切れるか、どうか心配のようでもあった。杉は地方のミッション・スクウルからの習慣でずっと礼拝に出ていたのだが、三週間ばかり前からそれをやめた。戦旗の読者になったばかりなのであった。

 礼拝に行くことをすすめているのは、宏子たちの級の幹事をやっていて英語会話会員イー・エス・エスの飯田満子の声であった。

「ここにいる以上ミス・ソーヤーに睨まれたら損よ。たった四十分じゃありませんか」

「……だから、あなた早く行っていらっしゃいって云うのに──」

「私またきかれたら何て返事したらいいの? あなたの行かない理由さえきかして呉れれば私一人でだって行くわ」

 短い沈黙の後、戸のこっち側で聞いていてさえその瞬間杉の小じんまりした顔がパッとあからんだのがわかるような調子で云った。

「あたし、あんな礼拝、ちっとも霊感インスピレーションがないから厭になっちゃったの。わかった? わかったら行ってよ」

「──困ったひとねえ」

 霊感という、よく説教の中にくりかえされるつかまえどころのない一言が逆な功を奏して、飯田は悄気しょげたような呟きをのこして行ってしまった。枕の上へ頭をおとして天井を眺めながら聴いていた宏子の口元がおかしそうにゆるんだ。

 形式的にノックして、ドアが勢よく開いた。

「聞いた?」

 杉が、目鼻だちのちんまりとした善良な顔に、自分の思いつきが成功したのさえいやだ、という表情を泛べて宏子の寝台の横へ来た。

「何てうるさいんでしょう、ひとのことまで」

「大変うまく行ったじゃないの」

「そうかしら」

 笑いもせず杉は、

「でも、内心きっとやっきなのよ。この頃随分出ない人が殖えたんですもの。正面から出なさいって云えないもんだから──いやねえ、飯田さんなんか使って」

 若い娘たちの或る時代の気分から聖書や礼拝に何となし感傷的な気分をきつけられていた学生の中にも、左翼の思想は浸潤して行って、目に見えず急速な分裂をひき起しているのであった。

「そう云えば」

 大きくはないがくっきりとした二重瞼の眼を見張るようにして杉が、

「あなたどっか工合がわるいの?」

ときいた。

「どうして?」

「食堂で沖がカキに何か云ってたから──」

 宏子は、黙ったまま肩をすくめた。

「本当はきのう泊るつもりで家へ行ったんだけれど、急に帰って来ちゃったもんだから」

「ふーん」

 一晩睡って眼を醒した今でも、宏子の心の中には家での印象が一杯に、重く複雑にのこされている。杉は真率で勝気なところもある可愛い娘であるが、その天性は、こうして相対している宏子がそんなこと迄うちあけたいと思うだけの何かの力を欠いているのであった。

 起き出して宏子は寝台を整え始めた。それをよけて窓を背にしてもたれながら杉は、

「あたし今日兄さんのところへ行こうかと思ってたんだけれど、やめよう」

 気落ちしたように云った。

「どうして?」

「つまんないんですもの──お洗濯ばっかりしてやって帰って来るなんて。──それでも少しはよろこんで呉れるんならいいけれど、まるで当然みたいな顔をしてるんだもの」

 杉の家は故郷で代々医者であった。後継ぎの兄はアパート住居で慈恵に通っていた。

「どうしてあんな謡曲なんか好きなんでしょう。若い癖して、ねえ。全くくさくさしちゃうわ、あたし……」

 杉と宏子は連立って部屋を出た。半分開けっぱなしになっているドアの隙間から、明るい室内の空気が照るように派手な友禅の羽織の後姿が見えたり、階段の中途で一人は上に一人は下に立ち止って顔を向けあって何か喋っている、両方ともが広幅帯をきっちり胸のところにしめていたり。ふだん主に洋服で暮しているここの学生は日曜日には半数以上着物になって、新しい足袋や袂をぎごちなさが珍しくうれしそうに、ざわめいているのであった。

 洗面所のところで予科の学生が、ふだん畳んでしまわれてばかりいるのできっちり折目の立った銘仙の長い二つの袂を肩の上へすくいあげて、

「あらあ、いやだわ、私。本当に大丈夫かしら、盲腸になんないかしら。──いやだわあ」

としきりに水をのんでいる。間違えて果物の種をのんだのである。

 社交室では、祇園小唄のようなレコードが鳴っていて、それに合わせて女同士六組ばかりがダンスをしている。

 一歩外へ出れば、晩秋の畑と雑木林とが地平線まで広闊に拡っていて、あたりには町並もなかったから、日曜日の午後の女学生たちのこういうとりとめない色彩の溢れたざわめきは、周囲と切りはなされて、無形の柵の中に囲われている一団のような感じを与えるのであった。

 奥庭の、ヒマラヤ杉のかげにある日だまりのベンチのところで演劇部のものがクリスマスにやる英語芝居の科白せりふを諳誦していた。

「おお! マリア! 見たか? お前は確に見たか?」

 一つの声が英語でそう問いつめよった。すると、その答えをするべきマリアが突然日本語になって、声を落しながらも十分聞きとれるように特別に抑揚をつけて、

「ええ見ましてすとも」

と答えた。

「上海へ着きますとねえ、マア支那人ばっかりいたんでございますよ」

 シーッ! 圧えても圧えても鎮まることの出来ない生気溢れる笑いが続いた。カキ、即ち柿内ナミという生徒監が先頃上海視察に行って、帰った時講堂に学生を集めて報告をした。その第一声がこの近頃の傑作である上海へ着きますとねえ、なのであった。

 お八つの時間に、日曜日らしくお汁粉が出された。食堂を出て、今日は店番をしている人のいない購買組合の店のところへ来かかった時、

「ちょっと! ちょっとってば!」

 はる子がうしろから小走りにかけて来て、宏子の肩をつかまえた。

「知ってる? 三田先生やめさせられるらしいのよ」

「ほんと?」

折からその食堂からの大廊下をぞろぞろと通りがかっていた学生たちが、

「三田先生がどうしたって?」

「なんなの」

「どこできいたの?」

 ぐるりと集って来てはる子のまわりを取巻いた。


        三


 三田敦子が校長の私宅へ呼ばれて辞職を勧告されたということ、その理由として、アメリカから帰ったばかりである三田が教室で学生にベン・ビー・リンゼイの友愛結婚の話をしたことが理事会の意見としてあげられたという噂は、初めはまさかという気分で受取られた。

 然し、月曜日の朝、それとなく待ちかねていた三田党の学生の目に、三田敦子の大学生っぽい白いカラアの姿が見当らなかったことは、成行きに関心を抱いていた学生達の感情に真面目な憂慮を生んだ。十時から三田の訳読があることになっている宏子たちの組がB教室に入った時、その危惧と憤慨との混りあった女学生たちの緊張は、頂点に達した。

 三田を尊敬している学生の多いこの組は、きっちり時間に席についた。そして、静かに、大部分のものが刻々に待ちながら、或る者は引きのこしていた二つ三つの単語を字引で調べたり、万年筆のインクの工合を直したり、宏子もそれ程三田に傾倒しているというのではなかったけれども、やはりその朝は特別な待ち心地でマンスフィールドの短篇集の今読みかけているところをぼんやりめくっていた。

 しーんとしている中でやがて、誰かが、

「どうしたんでしょう、もう十分すぎよ」

と云った。そう大きい声で云ったのでもなかったろうが、その声は朝の明るい不安な予期に充ち満ちている教室の空気を徹して、はっきりと響いた。

「──本当にもういらっしゃらないのかしらん」

 訴えるような声で云いながら徳山須賀子が自分の席から三田がしめていると同じ木彫りの丸いバックルをつけている細い胴をねじって、ぐるりを見まわした。

 後方の席にいるはる子が、その時、

「飯田さん、学務へ行ってきいて来なさいよ」

 平静な、確信をもっている言調で云った。

「だって──」

 飯田は、自分が三田党でないからと云うばかりでなく、その朝は何かをはらんでいるような組全体の空気を感じて漠然としりごみした。

「幹事さんていうものは、こういうときこそいるものなのよ」

 皮肉そうにそう云ったのは、三輪である。

「よ、聞いていらっしゃいよ、ただ待っちゃいられないもの」

 声々に後を押されるようにしてドアの外へ消えた飯田は、すぐ戻って来て、

「欠席ですって」教室じゅうを見廻しながら、告げられたことをただ伝えるという顔で云った。

「自習にして下さいって」

「じゃ、いよいよ本当なんだわ、まア! どうしましょう」

「何て滅茶なんでしょう」

「今更あんなことを口実にするなんて、卑怯だわ。生徒に人気があるのがいけないんなら、戸田先生なんかどうするの。リンゼイどころじゃないじゃありませんか。随分馬鹿にしてると思うわ!」

 三田がやめさせられるようになった真の原因が、教師間の勢力争いであることは、学生達にも推察された。第一代の校長の死後は、古参卒業生で教師をしている者の間から校長が就任するならわしで、現校長の沼田美子の派と次の校長を目ざす石川民子の派とは陰険に対立していた。石川がバッサア女子大学の学位しか持っていないのに、新帰朝の三田がバルティモア大学の学士を持っている。その三田は沼田の後輩である。それだけでも三田の立場が難しくて危いことは予想されるのである。

 学生たちにはそういう葛藤が日頃から不合理で不愉快に思われているのに、やめさせる理由としてリンゼイの説を三田が学生に説明したことがあげられたという一事が感情の激昂をつのらせた。教室には自習を始める気分など無かった。大半の学生が席にかけたまま体をねじって円をこしらえ、その事件について喋り出した。徳山のように女学生らしい崇拝から三田の不当な馘首を怒り悲しむもの。学校政治の内輪もめに、そんな思想的なような口実をこじつけようとする学校の遣り方を憤慨する者。いろいろではあったが、学校が学生たちや教師をこんな事でまで圧えつけようとする事に対する反撥は、それ等すべての感情を包括する学生生活というものへの一つの公の不満なのであった。

「私くやしいから石川民公の時間なんぞ、出てやらないからいいわ!」

 徳山が涙を指先で拭きながらそう云った。

「そんなことすりゃ、民公ホクホクだわよ。よろこんであなたを落すだけだわ」

 井筒が腹立たしそうに答えた。

「ねえ、だって、何とかならないのかしらん。どうして三田先生おとなしく引っこんでるんでしょう。ねえ、どうしてそんなことはいやだと頑張らないんでしょう。ねえ、三田先生だって私たちがこんなに思ってるのがわかれば、きっと何とかなさるわ」

「今日の放課後でも、三田先生のところへ行って見たらいいわ、そうすりゃ少し様子がわかるから」

 級の意志を代表するのだからと云って、この有志訪問に幹事の飯田も参加させられた。

 予科では、三田の出る筈だった時間に、カキがやって来て、三田先生は一身上の都合で地方へ転任するのだから、いろんな噂を信じないようにと云って、自習を暫く監督して行った。この彌縫びほう策は翌日になって予科全体をすっかり怒らせる結果になった。カキが公然と予科を騙したこと、子供扱いにしたことが予科のみんなをおこらせた。

 三年はその日は食堂などでも一般に妙に落付いていて、よそよそしい態度を示した。

 宏子は三田の家を訪問する仲間には入らなかった。それは相談の上のことであった。杉も残る組にまわった。はる子はグループをそういう風に分けた。前の晩に打合わせはされていた。

 門限ぎりぎりに、渋谷にある三田の家へ行った連中が戻って来た。宏子は緊張した期待をもって徳山の部屋へ行って見た。寝台の上に四五人、デスクの前の椅子のところに徳山とはる子、杉などがいて、どの顔の上にも昼間とは違う憤慨と当惑の色が漂っている。

「どうだった、会えた?」

と宏子は当らずさわらずに訊いた。

「会えたわ。三田先生だってやめたくなんか、ちっともないのよ」

 徳山が意気沮喪したように片手をあげて自分のおでこを擦った。

「でも──」

「そりゃ三田先生としては、自分の立場として皆おとなしく勉強してくれとしか云えないにきまっていますよ」

 はる子がつよい口調で云った。

「宗教問題が絡んでいるのよ。三田先生、あっちにいた時教会を脱退したんだって。それが問題になって、ミス・ソーヤーなんかが理事会でごねたらしい。勿論民公がたきつけているのさ」

「ここは神学校じゃないわ」

 激しく一人が云った。

「三田先生を惜しがるのがいけないんなら、もっとどしどしほかに新鮮な先生を入れてくれればいいじゃないの。お祈りしちゃいがみ合っているなんて、それこそ矛盾ムジンしてる!」

 皆苦笑いした。カキはいつも矛盾をムジンしているというのである。

 次の日は、予科が三田を訪問した。宏子の組では、その日の第一時間目が戸田だったので、十五分間貰って、三田を訪問した次第を教室で報告した。そして、この組として三田の留任を要求する意見をまとめた。

 水曜日の昼休みに校長の沼田が特別に学生たちを講堂に集めて学生の本分に就て訓話のようなことをやった。沼田は地味な束髪にセルロイドの櫛をさしたいつもの姿で、大講壇のところに立ち、声に力をこめようとする毎に、皮膚の薄い小さいままに萎んだ気力のとぼしい下顎を震わした。四方八方ひたすら事なかれとばかり気を使っている。その気づかいが体にいっぱいであった。その年は、男子の学校ばかりでなく、女子の専門学校にも紛擾があった年である。三々五々講堂から立ち去る時の大部分の学生の顔には或る焦立たしさ、語られない軽蔑の色があった。

 宏子が下を向いて、靴の先で砂利を蹴りながら中庭を来かかると、追いつきながら、

「加賀山さん」

 声をかけたのはふだん余り親密でもない塚元であった。塚元は、ひそめた声で、

「ねえ、どうなるんでしょう、私心配だわ」

と四辺を憚るように云った。

「何か始まるんじゃないのかしら?」

「──どうしてそんなこと私にきくの?」

 宏子はいぶかしそうな観察的な目をした。

「あなたのわかっていることしか知りゃしないわ」

「私困っちゃう。──私実は皆さんと違う境遇なの。私の学費は伯父が出しているんです、下の弟妹たちを私が見てやらなけりゃならないもんだから。卑怯かもしれないけれど、もし私どうにかされたりすると本当に困るわ」宏子は返事のしようもなかった。

「──大丈夫なのかしら」

「私にきいたって、無理だわ、そうでしょう?」

 塚元の言葉は、何だかねばっこい不快な感じを宏子に与えた。そんなことがあってから五日ばかり後、宏子は再び思いがけない上級の川原にタイプライタア練習室の外で呼びとめられた。川原は、

「ちょっと、加賀山さん『欅』のことで用があるんだけれど」

と、宏子を、レコードに合わして何台ものタイプライタアが鳴っている壁の外の不用なテーブルなどが重ねてある一隅へつれ込んだ。

「あのね、妙なこときくようだけれど、おととい、いつもの、やったんでしょう? はる子さん何故だか今度は私に知らして下さらなかったんですけど……」

 当惑を感じながら宏子は揺がない注意を集中した視線で川原の浅黒い顔を見守った。

「はる子さん、何故知らして下さらなかったんでしょう」

 偽りでない苦しげな表情が、頬骨の高いどっちかというと不器量な川原の面に湛えられた。

「私何だか……苦しいの! 私、何かしたんでしょうか、あなたに分らないかしら。分ったら教えて下さらない、ね?」

 苦痛を感じながら宏子は、

「おとといってのは私も知らないんですけど──何か都合があったんじゃないのかしら」

と事実とは多少違う答えをした。

 これらの細かいながらそれぞれの原因や内容をもった出来事は、学校内の動揺している空気と共に宏子の心に深く印象され、蓄積されて行った。はる子は、目立たないようにと苦心しながら屡々しばしば外出した。そして宏子は、その間にはる子のために作文の代作をし、教科書に書入れをしてやる。これらの時期を通じ、宏子は自分の性質とはる子の性格との相異と、相異しながらまたどんなに近いかということをこれ迄よりはっきりと自覚した。同じ経験に出会っても、はる子はそのことからじかに自分の感情を動かされることがないらしく、すっかり順序のきまっている考えかたに従ってそのことの性質、筋とでもいうようなものを抽き出して、その対策に何の躊躇もなく頭が向いて行く。学校の空気が動き出して以来、はる子のこの特長は緊張して目立った。宏子の方はそうでなかった。一つずつの印象が、その情景、眼付、響のまま鮮明に心にのこった。それ等が互に重なり、絡み、解ける間に、宏子の心の中にはおのずから包括的な結論が生じ、次第に複雑な生活の推進力のようなものに形成されて、はる子が理論で示す方向に心持から一致して行くのである。そして、一致したとなると、宏子の天性はいくらか子供らしいくらい自分の認めたものに対して誠意をもつのであった。


        四


 夜なかの三時の古川橋へ向う大通りを、一台の自動車が落付いたスピードで進んで来た。ルーム・ランプに照らされて一方の隅に浮紋レースの肩掛をした瑛子が、背中にクッションを当てがって目を瞑っている。かさばらない縮緬の袱紗包を隔てた一方の隅に、泰造が左手を肱の下へかって折々右手の拇指と人さし指で唇の両端を押えるような摘むような恰好をしながら両脚を行儀よく前に並べかけている。その泰造の顔にも、疲労の色があらわれていた。

 古川橋の交叉点へ近づいた時、通行の途絶えた暗い、昼間より広く見える軌道のところに三つ四つ入り乱れている丸提灯の赤い灯かげが見えた。自動車は更にスピードを落して静かに近よって行くと、行手の途の上で一つの提灯が大きく左右にふられ前の車もそこで止っている。非常警戒であった。顎紐をかけた巻ゲートルの警官が一人は運転手の窓のところから内部をのぞき込み何か云った。運転手が、ハアそうですと答えている。同じ服装のもう一人の警官が車室のドアを外からあけた。

「失礼します」

 泰造は、元の姿勢のまま、挨拶するように軽く人指し指を動かした。瑛子は、白粉のある瞼を薄すりあけたが、またそれを瞑った。

 バタンとドアがしめられ、さっき左右にふられた提灯が、縦に大きく動いて、前のも動き出し、泰造夫妻の自動車は再び平らかな、むらのない、おとなしい速力で進みはじめた。

 東京もこの時間には短い眠りに入っている。市場へ野菜物を運び出すトラックなどが乱暴に弾みながら電車軌道の上を疾走してゆくのに遭う。

 瑛子が背中をよじってクッションの工合をなおしながら、

「おさわさんにも全く困りますねえ」

 眼をつむっていた間じゅう、そのことを考えつづけていたような声の表情で云った。

「夜よなか、こうして呼びつけるなんて──大体あなた、勇蔵さんにもっとちゃんとした態度をお見せにならなけりゃ駄目ですよ。さわ子もてきぱきした性質でないことは認めるなんて──勇蔵さんはああいう機敏な男だから、兄さんもそう思うならって、今更おさわさんを戻されたらあなたどうなさいます?──私は御免ですよ」

 その晩、十二時時分になって白金の井上から電話がかかった。夫婦の間がもめて細君のさわ子がどうしても兄さん達に話をきいて貰うと云って手に負えないからと、勇蔵自身が電話口に立って、当惑を音声の響に現した。

 何しろ子供たちまで皆寝かさないでいる有様だもんだから、と如何にも自身の社会的な地位に対しても笑止げに云った。勇蔵は日本で屈指な生命保険会社の常務その他をやっていた。

 瑛子はくたびれて引きあげて来る途々、りゅうとした大島の揃いをちっとも引立たせず衿元などじじむさく着て、顔を充血させ、むくんだように見えたさわ子のみっともない様子を思い起した。どこから見ても粋な身じんまくのよさで、髪を真中からキッチリとわけている世間で美男という勇蔵の遣りてらしい風貌と、何というはげしい対照だろう。

 この夫妻の悶着は今にはじまったことではなかった。勇蔵の容貌と職業と地位とは、さわ子と結婚してからこれまでの二十年間にも度々細君の嫉妬を刺戟した。今度の諍いは是迄より一層深刻であり性質も重大であった。自宅ではさわ子が少し気の利く女中は片端から出してしまったりして来客に対してさえ世間並の接待が出来かねる、客は一切よそですることにしたと云い渡した。それが去年ごろのことである。高輪の海を見晴す芝生のある家は四人の子供らと、それ以来益々感情をもつれさせたさわ子との生活場所となり、主人の勇蔵は夜から朝までをここで暮していた。一昨日の午後高島屋から大森、井上様とした女物のお召が届いた。それは、さわ子の注文したものでもなかったし、惣領娘の柄でもなかった。一見花柳界好みの品であった。それが、今夜加賀山夫婦に徹夜をさせる原因となった。

 さわ子は、泣く涙はもう流し切って半ば引攣ったような眼を勇蔵に据え、激しい愛着が体の顫える程の憎らしさにかわっている声で、

「さあ、兄さんや嫂さんが来たんだからのがしゃしません。何処にその女をかこったんです」

とむきだしに迫った。

「どうもこれなんだから困る」

 勇蔵は、敏活な表情の上に当惑の色を浮べているだけで、極めて平静にゆとりをもって加賀山夫婦を顧みた。

「だから云ってきかした通りさ。東京に井上という苗字の家は何百軒かある。電話帳を見なさい。くさる程ある。それが偶然間違ったからって、俺の知ったことではないじゃないか。第一そんな者がいるんなら毎晩どんなにおそくっても家へかえって来て寝るなんて奴があるか」

「ねえ、嫂さん、こういうずうずうしいことを云うんですよ。これまで何百遍高島屋からものを届けさせたか知れないけれど、一遍だって高輪の井上様とは書いてきませんでしたよ。あなたが、これは大森の方だよと云ったから、そう書いてあるんじゃありませんか」

「帳場でしらべて来なさい。そしたら気がすむだろう」

「帳場なんか!──自分でちゃんと口止めしといて……ああ、ああ」

 さわ子はぼってりとした肉付で重い体を捩るようにしてまた涙をこぼしはじめた。

「勇蔵ったら、御覧なさい、こうして私をどっちへも手も足も出ないようにしてしまって、死ぬのを待ってるんです」

 井上は、葉巻の先を切りながら加賀山に向って、

「君に云っては相すまんが、僕は女房には失敗した。加賀山にもこういう頭の悪い奴が出るんだね。──実は僕は子供らも母親が母親だから大して期待しないことにしたよ」

 勇蔵の言葉が子供のことに及んだ時、泰造は、非常に真面目な苦痛そうな表情を浮べた。そして、帰りに妻から彼女の心理的に微妙な理由によってその前半だけでねじこまれた言葉、

「そりゃ、おさわがてきぱきしていないから君のような活動家に不適当なところのあるのは僕もわかるが──」

 片手で例の唇の両端をさわりながら、泰造は真情をもって、

「だが、子供達には母がいる、父よりも母がいる、まあ考えてくれたまえ」

と云ったのであった。

 瑛子はさわ子に対する同情と軽蔑、勇蔵に対する不信用、どちらも隠さず面に出して、

「あなたがそんなに怪しいと思うんなら、私立探偵でも何でも勇蔵さんにつけたらいいじゃありませんか」と云った。「そして、あなたの気がすむように、社会的地位を傷つけるなり、法律上の手段をとるなりしたらいいじゃありませんか。私ならそうする!」

 それを云う瑛子の調子の中には、さわ子に向って云ってはいても、二人の男に向けられている威嚇がはっきり響いているのであった。泰造はチョッキのところで細いプラチナの鎖をいじりながら、妻の声と眼の中にもえている威嚇の意味を明瞭に感じて聞いていた。

 瑛子が本当にいざとなったらそんなことをもする女である。そのことを泰造はいろいろなことから知っている。勇蔵は、朝剃った頬のあたりが夜半になった今は少し蒼ずんで来ている顎のよく発達した顔へ苦笑いで云った。

「嫂さんにあっちゃかなわない。しかし日本の法律は御方便なもんでね。例えば財産についての告訴にしたって夫からは出来るが妻からは出来ない。──じたばたすれば結局損をするのは女なんだから、おとなしく母親として満足していればいいのさ」

「そういう男ばっかりだから、私は腹が立つ。損をしたって、人間はあなたのように損得だけで生きてやしないんだから。私がおさわさんで、あなたが妙なことをしようものなら、愚図愚図泣いてなんかいやしないから!」

 瑛子は肌理の美しい頬っぺたに血の色をのぼらして云った。

 井上は、瑛子が手洗に立った時後について、贅沢な蝶貝入りの朝鮮小箪笥などが飾ってある廊下まで出て来た。そして瑛子の常識に訴えるように云った。

「何しろああいう有様だから、万一子供たちをゾロゾロつれて、あの年で妙なことでもされると困る。一つよろしく願いますよ」

「それもあなたの体面上でしょう。──」

 瑛子は井上の眉目秀麗な中年の豊かな顔から胸へ穿鑿する視線を流しながら、声を落して辛辣に囁いた。

「あなたもいいかげんにするもんですよ。母親が母親だからなんて──揚ちゃんが赤坊の時分、耳の後がただれてつかなかったのは誰のせいだか分っていらっしゃる筈じゃありませんか」

 井上が自分で洋盃を取り揃えて食堂から運んで来て葡萄酒などが出され、最後には、若しこの次何かがあれば加賀山も何とか動くという、謂わば気休めで夫婦は帰途についたのであった。

 その明け方は、通夜からでも帰った時のようであった。外は真暗な寒い座敷で、眩しく電燈を反射させる鏡の面にワイシャツを真白く映しながら泰造が着換えをしている。こちらの小座敷でひろげた花莚の上へ、気むずかしげなのろい動作で、瑛子が帯止めを解きすて、帯あげをほどき、帯をたぐめて置いている。

 泰造は手早く歯をみがいて来ると、小座敷の方へ、

「先へ寝るよ」

 声をかけただけで、活動的な跫音を響かせながら二階へあがってしまった。

 その日泰造は或る大銀行の経営のことでそこの理事会と衝突した。新たに入った理事が自分の縁故を推薦していて、泰造に顧問格になってくれと云うのであった。泰造はそれは不可能であると拒絶した。新しく推薦されている人に、理事会の意見が一致しているならば全部委せたらよかろうと云って引上げたのであったが、そのことで、彼は明朝早々、その銀行を動かしている或る財閥を訪問しなければならなかった。小さいようでもこの出来事は、この二年間、日本の財閥間に生じた或る微妙な勢力の移動を語っていることを、泰造は永年の経験で勘づいているのであった。

 瑛子は、泰造の心の中の計画については何も知らなかった。良人の跫音をききながら、白い疲れた瑛子の顔に、今は誰憚るところのない倦怠と嫌悪の色が漲った。瑛子には、高輪の夫婦のごたごたそのものも不愉快であったし、それに対する泰造の態度も気にくわなかった。泰造には深いところがない。思索的なところがない。八方美人である。日頃瑛子は良人をそういう風に観てあき足りないでいるのであったが、今夜は、泰造が井上に対して一向圧しのきく態度を示さなかったことが二重にいやな気がした。そこには井上と泰造との男のきれ工合をおのずから比較して眺めた女の虚栄心めいたものと混って、瑛子らしく、男の勝手な振舞いは男の相見互のようなものでいい加減におさめようとする泰造が、はがゆく思われた。

 こんなことで夜半に帰って来たのに、泰造はああやって何も考えないで直ぐ寝てしまえる。妻としんみり話そうとする何の問題も感じて来ていない。泰造にはそういう味のある深みがないと焦立たしいのであった。瑛子には特に井上が、加賀山にもこんな頭の悪い奴が出るんだねと、さわ子を評して云った言葉が忘られなかった。若い嫁であった自分を苦しめた、かたくなな姑の伊勢子の顔がまざまざと甦った。あの血が或る時の泰造にもやっぱり流れている。そして、子供らの中にも恐らく不可抗的に流れこんでいるだろう。それで苦しむのは自分だけである。そして、そんな良人を持ちたいと、そんな子供を生みたいと、女としての自分がいつ願ったことがあるだろう!

 生活に対する瑛子の怨恨はいつもここまで遡った。揺蕩たる雰囲気に包まれて書かれ、語られる新婚の生活も、瑛子の現実ではまるで違ったものであった。恋をせずに母とならされて来た一人の女の情熱と肉感とが、成熟の頂点、将に老年が迫ろうとする隠微な一生の季節、最後の青春の満潮時である今、猛然と瑛子をいためつけるのであった。

 いけてあった火鉢の火をかき立てて、自分用の九谷の湯呑に注いだ茶を飲みながら、凝っとテーブルの一点に据えている瑛子の睫毛の濃やかな眼から、一滴ずつの涙があふれて来てしずかに頬っぺたを顎の方へ流れた。それは、からい、冷たい二筋の涙であった。

 勇蔵たちのごまかしだらけの夫婦の生きかたも、彼等の社会的地位にかかわらず瑛子の心に軽蔑をよび起した。自分たち夫婦の生活、これまた何であろう。そして、女には法律上の権利さえ十分に与えられていない。その絆にしばりつけられて、終に自分の女としての一生は空費されなければならないのだろうか。自分はそれを望んでいるだろうか。決して望んでいない! 望んではいない! 瑛子の心の中には足ずりをするような絶叫がある。その絶叫の端に、二十九歳の田沢の俤が浮んでいた。彼は多血性な泰造とはまるで反対な骨格と皮膚をもっていた。瘠せ形でどちらかというと蒼い田沢の青年の顔が、瑛子の大柄な、既に衰えをあらわしながらなお豊満で芳しい全存在をひっぱりよせるように招くのである。

 瑛子はいつしか自分の思いのうちにとらわれて、永い間沢山の涙をハンケチに吸わして泣いた。


        五


 学校内の空気は、不安を含んで動揺しながら、はる子がそれを予想していたように急速な一般の変化はおこらなかった。二学期の試験が迫っていたこともある。そこへ、学校側が、三田先生の送別会を来る土曜日の放課後、通学生食堂で開催、会費十五銭という予告を出した。

 各幹事ハ打合セノタメ至急庶務ヘオ出デ下サイ。

 告知板の前で、はる子が目立たない程のつよさで傍にいた宏子を小突いた。宏子にははる子の気持が通じた。それを読んで立ち去る学生の中で、

「でもまあ少しは良心があるのね、送別会だけはやらせるんだから……」

 些か憂さの晴れたように云っているものもある。

 第一時間目の終りのベルが鳴って、宏子の組が立ちかけた時幹事の飯田が、

「あの、ちょっと」

と、今日は自分から教壇の横へ出て、

「あの、土曜日の放課後、三田先生の送別会のあることは御承知と思いますが、三田先生のお気持で、もう級別の送別会はおことわりになるそうですから、どうか皆さん御出席下さいということです」

と爽かに述べた。

 前列にいた一人が、思わずも口に出た調子で、

「誰がそう云ったの」

ときいた。

「カキさんよ」

 飯田は、相手の級友の顔を眺めて自分も気取りをなくしたふだん声にかえって云った。級じゅうに不満と皮肉とがぼんやり感じられた。

「あのそれから、送別会では各級の幹事が挨拶するんですって。級の心持としてしたいと思うんですが、どんなことを云ったらいいかしら」

「分ってるじゃないの。そんな送別会なんてつまらないと思っていますって、はっきり云ってよ」

 三輪が薄く紅をつけている唇を尖らして云った。

「全くだわ、形式じゃないの、ただうわべだけの。各級から幹事だけなんて、──そんなのあるもんか」

 がやがやしはじめた中で、宏子が自分の手を叩いて注意をあつめた。視線があつまると少しはにかんだ顔付になりながら、宏子は熱心に、

「級で云ってもらうことをきめておきましょうよ」と云った。「私は、飯田さんに是非このことだけ云ってほしいんです。それは、三田先生が、教科書以外のことについて話してくれたのが、どんなに本質的に私たちの学問になっているかっていうこと。そして、三田先生がこれからどこで教えても、学生は活きた知識を求めていることを決して忘れないでくれるように。学生は先生が考えているより判断力をもっているから、リンゼイの説だって私たちは鵜呑みにしてはいない。だから安心してくれるように、って。だから、学生はそういうことを理由に先生がやめさせられるとすれば、それには心から反対ですって、どうかそれだけは云って頂戴」

「本当にそうだわ、飯田さん、しっかり云ってね」

 徳山が、首をまげるようにして力を入れた。

「私たちの級では、三田先生に留任してもらうようにって要求を出したんだから、そのことも云った方がいいわ」

 土曜日の会には全学生の三分の二ぐらいが出た。学校の側からは柿内が出ている。三年の幹事が司会をした。窓際から三列目のテーブルに杉と並んでかけている宏子の眼のうちには、会の進行につれて消えてはまた燃える小さい火のようなものが閃いた。会場全体には、尊敬する三田を公然とテーブルの中央に眺めている単純な安堵の気分と、幾らか儀式っぽい皮肉な冷静さが交流していて、自分の心にある憤懣、学生の胸にあるいろんな気持が、そのままちっとも真直ぐあらわされていない。宏子にそれがもどかしかった。

 下の級から順に挨拶をして、飯田の番になった。飯田は大体たのまれた通りの意味を云ったが、言葉づかいは彼女流に角を削られた。「心から反対だわ」と云ったところが、「まことに残念でございます」と言われている。司会をやっていた三年生が挨拶のあとにつづいて、このほかに各級には一言ずつでも直接三田先生に感謝やお訣れの言葉を述べたい人があると思うが、もし三田先生が御迷惑でなかったら許してもらえまいかとつけ足した時には、満場が歓ばしい動揺と拍手とで鳴りわたった。杉は上気して、

「珍しいわね、三年のひと!」

と宏子に囁いた。宏子たちは遠方の席から眼を放さず張りきった期待で三田先生の挙止に注目した。三田は少し不意打の態で、どっちとも答えない。再び促したてるような待ち切れないような拍手が盛りかえして来た。その中で三田先生はテーブルの前に立った。そして学生の好意を丁寧に謝した。それから言葉を改めて、

「ただいま三年の方からお話しの出たことは、私としてまことにうれしいことですが、人数も多勢でいらっしゃるから、幹事の方々がそのお気持を十分代表していて下さるものとしてお受けして置いた方がよろしいと思います」

 終りを外国流に「ありがとうございました」と結んで席に復した。

 はじめの生彩は失われた。拍手が起った、宏子は拍手をする気になれなかった。三田先生はものごしで、やはり自分たち学生のそういうつよい表現を求めている気持を避けているのであった。

 散会になって、部屋へ戻って来ると、三輪が靴のまんま寝台の上にどたんと仰向けになりながら、

「あーあ、三田先生、か!」

と何かを自分の心から投げすてたような声の表情で呟いた。

「要するに先生なんだなあ」

「あの先生は、ああいうところがあるわよ、自分のものわかりのいいところが自分ですきなんだもの」

 宏子も、むしゃくしゃしている早口で云った。

「友愛結婚の話のとき、私たちの質問をあの先生は分ってなかったわよ。リンゼイは折角キリスト教道徳の偽善に反対しながら、なぜ子供を生むことも出来ないようなアメリカの社会の事情まで研究して行かないんでしょうって私たちきいたでしょう? あの先生は、リンゼイがアングロサクソンだからそういう気質なんでしょうって云ったでしょう? そこなのよ!」

 徳山のような学生は溜息をついて、

「私、涙が出そうんなったわ」

と云った。

「三田先生、本当はあんなこと云いたかなかったのよ。……カキが頑張ってるんだもの、……なんて口惜しかったんでしょう、ねえ、そう思わない?」

 宏子にはそういう感じかたは出来ないのであった。

 夕飯後に、はる子が部屋へ来た。上瞼の凹んだまるで白粉っけのない顔で、癖で少し右肩を振るようにしながら、

「──惜しかった、やっとこさ三年があすこまでのり出したのに」

と云った。

「…………」

 今の場合でも、はる子は事柄全体を初めから終りまでひっくるめてそう云っているのであって、宏子も勿論その点では同感なのだが、三田の態度に対する不満な気持は、それとして在るのであった。腕組みをして、むっつりしている宏子の顔をはる子は暫く眺めていたが、やがて黙って宏子の肩を一つ情をめてたたいて出て行った。今にも始りそうで遂に始らずに終った学生たちの感情と行動の流れ。しかもそのかけひきでは学生たちがはぐらかされたという気分が、その夜は寮全体にぼんやりと漂っていた。

 宏子が手洗から部屋へ戻ろうとすると、

「あ、ちょっと! ちょっと、加賀山さん電話よ!」

 舎監室の横から学生の一人が手招きした。電話は家からであった。瑛子が出ていて、

「どうしているの」

と云った。

「きょうは夕方でも来るかと思って待っていたんだよ」

 では、今夜は田沢は来なかったのかもしれない。宏子はその瞬間軽くなって行く自分の心を感じて、嬉しさと悲しさの交った気持になった。この間の夜以来強いてもうちのことから心をはなそうとして暮していたのであった。

「来ないのかえ?」

 時計をのぞいて見た。七時すぎたばかりである。

「行こうかしら」

「おいでよ。そしてね、もしお友達にシュタイン夫人への手紙っていうのを持ってる人があったらちょっと借りて来ておくれ」

 宏子は、よく透る甲高い声を廊下に響かせながらききかえした。

「なあに? シュタインて──ゲーテの何か?」

「そうだろう。──じゃ、待っているからね。さよなら」

 瑛子はいろいろ文学の本を読むのである。宏子はシュタイン夫人への手紙というような本はどこでも見た覚えがなかったし、友達が持っているとも思えなかった。宏子はその足で柿内の部屋へ外泊許可を貰いに入った。


        六


 順二郎に金をかりて、宏子が黙って寄宿舎へ帰ってしまった夜からは二週間たっていた。

 動いていた学校の気分に一段落がついたことと、さっきの母の声にふくまれていたやさしい調子とで、久しぶりに敷石を踏んで我家の門を入ってゆく宏子の心持には、自分の靴音も何か新しく聞かれるような感じがあるのであった。

 部屋の重い扉をあけると、瑛子が、

「ああ、やっと来た」

 遠くからきいた声に響いていた暖かさのままにほぐれた笑顔で、いつもの正面の場処から娘を迎えた。

「ずいぶん、かかるんだねえ」

「すぐ出たのよ、あれから」

 順二郎が、傍の腰かけのところにいた。宏子は、この間の晩、自分たち姉弟が味った気持の記憶の上で、順二郎に向って首をうなずけながらちょっと表情をした。順二郎は、上瞼のふっくりした落付いた顔の表情を目につかないくらいかえたが、さりげなく、

「今そと風吹いてる?」

ときいた。

「少し吹いてるわ。なあぜ?」

「僕温室の窓をすこしあけすぎているかもしれないんだ」

 部屋には、今夜の瑛子の身のまわりにあると同じ平明な気分が湛えられている。宏子は母の横のところに坐って、テーブルの上へ両腕を組み合わせた上へ自分の顎をのっけた。

「何だろう、この人ったら。犬っころ見たいに──」

 瑛子はいかにも大きい娘を話相手としている調子で高輪の井上の悶着の話をしたりした。

「行って見ると、高山がいるっきりで、麗子ちゃんが台所をしている有様なんですもの、お話にならないよ、全く」

 元大臣をしていた人の細君が天理教に凝って、同級生であった瑛子を勧誘しに来たそうである。

「ああいう迷信がああいう階級へ入りこんでいるんだからねえ。──ラスプーチンだよ」

 真面目に慨歎してそう云ったので、宏子も順二郎も笑い出した。瑛子は父親が専門は文学であったが井上円了の心霊術に反対して立ち会い演説をやったという話をした。

「私は宗教なんか信じないね」

 瑛子は断言するように云ったが、その調子にはしんから冷静な性格でそれを信じないというには余り熱がありすぎて、却って宏子には一種の不安が感じられるのであった。

 そんな話をしているうちに、宏子は、電話口でさっき云われた本のことを思い出した。

「ああ、あのシュタイン夫人への手紙って何なの? そんな本があるの?」

「あるんじゃないのかえ?」

と逆に瑛子がききかえした。

「私、知らないなあ。ゲーテの伝記や何かのほかにあるのかしら──順ちゃん、知ってる?」

「僕しらないんだ」

「そりゃそうだわね、フランス語なんだから」

 そう云うと同時に、宏子は、母にそんなドイツの本のことを告げた人物が誰であるか判った気がした。田沢という名と結びつけられるとゲーテの有名な愛人であったシュタイン夫人へやった恋愛の書簡を集めたものに違いない本そのものが、何となくいや味っぽい光に照らし出されて来て、宏子は腹立たしいような気持になって来た。

「その中に、ゲーテが自分はカルヴィン派の聖餐で満足しなければならないって云っているんだって。──カルヴィン派って……どういうのかしらね」

「どうせキリスト教だわよ。母様は今も宗教なんか信じないっておっしゃるんだから、そんな聖餐なんかどうだっていいじゃないの」

 喉の中へかたまりがこみ上げて来るような感情で宏子は意識した意地わるさで云ったのであったが、瑛子は、普通でない娘のその調子に気づかない程自分の話題に気をとられていて、

「父様は、こういう話がまるでお分りにならないもんだから、田沢さんと話しているのがお気に入らないんだよ」

と親しみの口調でゆっくり云った。宏子は何となし唇を軽くかんだ。

「話しかただっていろいろあると思うわ」

「若い人ってものは率直だからね。……父様の分らない話でも何でもかまわずその場ではじめるもんだから」

 宏子は、

「あの人、率直なもんですか!」

 覚えず父親をかばって、田沢の顔を手でつきのけるように遮った。

「あの人は、父様が専門違いでそういう話には仲間に入れないのを知っているくせに、わざとやるのよ」

「千鶴子さんも、文学的な話の相手にはなれないんだってさ。──どっかに写真があったっけ」

 瑛子は手箱をひっぱり出して、封筒やハガキの間から、むき出しで入っていた小さい素人写真を出した。自分でちょっと眺めた後、唇の上に微かな軽蔑に似た表情を現しながら宏子の前によこした。手にはとらず、テーブルの上へ斜かいにおかれたままの写真へ宏子は暗い眼差を落した。

 夏草の中に佇んでいる田沢と細君とが撮っていた。背広を着てカンカン帽をかぶっている田沢の眼鏡の隅がキラリと日光に反射しているところが、宏子が好きになれないその人物の性格を表現しているようで不快であった。麻か何からしい少しだぶっとした単衣を着た小柄な、二十をほんのすこし出たばかり位の瘠せぎすな細君が、重心を片方の脚において、並んで立っていた。口許や額は淋しいひとのようだが、こもったような情熱が肩の落ちたその躯つき全体に溢れているのである。瑛子がわきから見ながら、

「貧弱なひとだねえ」

と云った。宏子はその言葉から残酷さを感じた。宏子は、やっぱり写真を手にとらないで、

「これ──誰がとったの」

「僕が田沢さんとこの裏でとってあげた」

「じゃ自分のとこへ置いときゃいいじゃないか」

 怒ってるような姉の声に順二郎は黙っている。

「──田沢さんたら、千鶴子さんに、お前と結婚さえしていなかったら奥さんと結婚したのになんて云うもんだから、この頃は田沢さんが出かけようとすると、泣いて格子に鍵をかけたりするんだってさ。──どうしてそんな夢中になれるんだろうね。私なんかとてもそんな気持にはなれないがねえ……」

 そう云っている瑛子の眼と声の艶とは、それ等の言葉を全く裏切って、熱っぽい興味と亢奮と、宏子が知りつくしている独特の成熟したエネルギッシュな光彩を放っているのである。それらの言葉と顔付との間には瑛子が自覚していない貪婪なものが潜められていて、宏子は思わず母の手の上に自分の手をおいて、

「ねえ、母様、母様も少しは小説を読んでいるかたなんだからね」

と、低い呻くような響で云った。

「そんな風に話すのおよしなさいよ、ね──何故嘘つくのよ!」

 瑛子は心外らしく顔付をかえて大きい声で云った。

「いつ私が嘘をつきました──嘘は大嫌だよ」

「だってそうじゃありませんか。そんな気持になれないなんて──母様が……」

 宏子は、弟がいるので意味深長な、鋭く悩みのこもった一瞥を母に与えた。

「私には云えないけど──現にそうじゃないの、自分でわかっていらっしゃる癖に。私にも母様のいろんな気持、わからなくはないのよ。そう世間並にだけ見てもいやしないわ。それだのに何故そうやって嘘をおっしゃるのよ。何故冷静ぶったりするのよ。そんなの偽善だわ──だから……」

 宏子は自分を抑えて沈黙した。宏子は田沢と母との所謂いわゆる文学談そのものも、想像すれば、まざまざ同じ拵えものの偽善めいたものにしか思われないのであった。

「こんな暮しをしていて」

 宏子は室内を視線でぐるりと示した。

「社会的には体面も満足させる良人をもっていて、自分の気持に対してまで偽善的だったりしたら、あんまり通俗小説だわ」

 若くて青年ぽい良心の自覚やそれを譲るまいとする荒々しさから宏子は、溢れそうな涙を無理やりのみ込んだ猛烈さで、飛びかかるように云った。

「もし母様がそんなんなら、私、もう本当に、本当に、同情なんかしやしないから!」

 宏子は女の歴史的な苦しみの一つとして母がこのことで苦しむのならば、娘である自分も堪え、皆も堪えさせようと心をきめて見ているつもりであった。どうなるのか、どんな破局がおこるのか。そこには恐怖がある。それでも母は本心に従ってやったらいい。宏子は一生懸命で気力を集めてその考えに到達していた。だのに瑛子自身が、妙に体をねじくらしたような態度でいいかげんな風に喋るのを見ると、宏子は我慢がならない気がした。瑛子は瑛子で、自分の本心を素直に掴むことを知らず、同時に粗暴な形であらわされる娘の健全なものも分らず、ただ自尊心を傷けられたという憤怒を、偽善というような言葉の上に集中した。

「お前もこの頃はやりの物質論者だ」

 到るところで耳目に触れるようになって来ている唯物的という言葉を、瑛子は間違った内容にとりちがえて云った。

「大方私が不自由なく食べていられるのがいけないとでも云うんだろう。父様に食わして貰っているくせにと云うんだろう。この家を今日までにしたのが父様一人の力だとでも思っているんなら、念のために云っておくがね。大間違いだよ」

 思いやりと洞察とでこういう風に焦点がずって来たのを喰いとめて母を納得させ得るだけに宏子はあらゆる点で成長していなかった。いつしか地盤の移っていることは分っていても勢におされて母娘は、益々広汎な、根本的な問題に触れながら諍った。

 間で一二度温室を見に行ったきり順二郎はずっと傍で、自分からは一言も口を挾まず、母と姉との嶮しい問答をきいていた。宏子がやがて急に気づいたように、

「さあさあ、順ちゃん、もうお休み」

と、置時計の方をすかすようにしながら云った。

「あしたはまたドイツ語だろう」

 瑛子は、

「いいよ、いいよ。たまだもの、おきといで」

 愛情と押しつよさをもって裾をひき据えるようにとめた。

「順二郎だってもう子供じゃないんだから、よくどっちが正しいかきいといで」

 腰かけのところは灯のかげになっている。順二郎はふっくりした瞼の上を誰にも見咎められずかすかに赧らめた。


        七


 温室は床が煉瓦で、左右には、その中でこまかい芽のふき出している培養土の棚がある。順二郎は古い三脚をその煉瓦の通路のところへ持ちこんで休んでいた。この三脚へ腰をかけて、去年の秋姉の宏子が、高校へ入学した祝に温室一つ貰うなんてと非難めいて云った。その三脚であり、その温室である。

 きのうから、二月という季節に稀なひどい南風であった。庭の敷石がびっしょり濡れて、嶮しい空を暗い雲が叢立って北へ北へと飛んでいる。アンテナを張っている線のガイシが、暗澹として凄く美しいその空の色との対照で油絵具の白をぬたくって描いたように異常に目立っている。

 さっきから温室の前に立った順二郎が仰向いて眺めているのは、この荒天に、風にさからい、流されつつ舞っている一羽の鳶である。灰色の雲の走る中空で鳶は或る時は一枚の薄い板片のように見えた。それが或る角度へ変ると真黒に翼の形や、躯の形が浮立って見える。ずっと南の方の空にもう一羽翔んでいた。それはもっと強情に正面から風にさからっていて、暫く空の同じ点にやっと浮いていたと思うと、そのまま垂直に空の高みまで舞い上った。そして、見えなくなってしまった。そっちの空にサイカチの裸の梢が揺れていて、風は益々迅く雲を飛ばしている。荒れている早春の自然の風景の中には、順二郎の心に名状の出来ない喜悦と苦悩の混りあった感動を与える力が漲っていた。鳶が忽然として舞いあがってしまった。その後に雲ばかり走っている空の寂しさにさえ、彼の感情を牽きつけて陶酔させるようなものがあるのである。

 絣の筒っぽに黒メリンスの兵児帯を巻きつけている順二郎は、温室の床の三脚に腰をおろし嵐の音に耳を傾けた。風の音は順二郎の心の中にもある。自然の嵐は威厳をもって圧倒的に正々堂々と、順二郎の内部の旋風はやや臆病に、逡巡をもって、しかも避け難い力に押されて、互に響き合い、ひきよせ合っているようだ。その年の順二郎と宏子の短い正月休暇は奇妙な工合に終った。或る晩、温室用の石炭の話が出た。台所の横にある炭小舎からいちいち運ぶのは面倒くさいから、温室の横へトタンのさしかけを作ろうと順二郎が云い出したのであった。

「じゃ大川へ電話をかけて人足でもよこさせなきゃなるまい?」瑛子が云った。

「いいえ。僕自分でやる。何でもないもん。──それに──僕温室のことではなるたけお金つかわないことにしたんだ」

 順二郎の節倹なことは家じゅうに有名であった。植物の種を植木会社からとりよせるにしても二つ三つカタログを照らし合わせて、抜萃ばっすいをつくって、瑛子に書きつけを示し、これが一番いいから幾ら幾らと二円三円の金でも出して貰う。順二郎のは、しわいのではなくて、気質から来る周密なやりかたなのであった。そのときも瑛子は愛情と満足とを面に湛えて、息子を眺めた。

「そりゃ結構だけれど──」

 不図、疑問を感じたらしく、

「でも何故──何か特別にそう思うわけがあるのかい」

 そして、ふざけて、

「何か野心があるんじゃないのかい、こわい、こわい」

と云った。

「大丈夫よ母様。僕、何にも欲しがりゃしないんだから──温室だって僕考えなしでこしらえて貰ったけど、本当はこしらえない方が正しかったのかもしれないんだし」

 順二郎が余り真面目にそう云ったので、瑛子の警戒心が目醒めた。

「誰かがそんなこと云ったのかい?」

「姉ちゃんといつか話した。そして僕、姉ちゃんの云うことが本当だと思った。──でも、折角こしらえて頂いたんだから僕出来るだけ無駄づかいしないようにして使うよ」

 瑛子は、我知らず坐蒲団の上に坐り直して、羽織の袖口から袖口へと腕をさし交しにして暫く黙って考えていたが、やがて呼鈴を押した。

「宏子さんを呼んでおいで」

 風呂から上ったばかりだった宏子が、珍しく元禄袖の飛絣を着て、羽織の紐を結びながら、

「なアに」

と入って来た。

「まあちょっとお坐り」

 瑛子は、宏子を残酷だと云って攻めて、仕舞いには涙をこぼして怒った。

「この順二郎ってひとが、ほかに何か無駄なことでもしているんならともかく、花をつくるしか楽しみのない人じゃないか。それだのによくもお前は姉としてたった一つの弟のよろこびに毒を注げる! 私は順二郎を守るよ! 何処までもこの純なひとを母として守って見せる!」

 宏子は大変当惑した。二人きりになったとき、宏子は真心からの心配を弟を見守る目にあらわして云った。

「ね順ちゃん、あなたしっかりしなくちゃ駄目よ。純だ純だって──本当に何だか心配だわ」

 順二郎は、柔毛でうっすり黒い上唇と下唇とをキッと結び合わせて、宏子の云うことをきいていたが、

「僕、みんなの云うこと僕として考えて聞いているんだから心配しないで」

と云った。

「そりゃそうだわね、順ちゃんは軽薄じゃないわ。だけど……」

 この休みの間に、宏子は弟と自分とのために学課以外の勉強の計画を立てて来ていた。そして、二人でふだん順二郎の机の周囲にはない雑誌や本を少しずつ読んだり、そのことについて喋ったりしたのであったが、啓蒙を目的に編輯されている一つの雑誌の表紙を凝っと眺めていて、順二郎が、

「僕、こういう絵、わからないなあ」

と云った。それは赤い大きいドタ靴が、ビール樽のような恰好のシルクハットに金鎖の髭男を踏まえようとしている絵であった。

 宏子はすこし照れた表情で黙っていた。芸術品としての意味から順二郎が云っているのかと思った。そうだとすれば、画材は素朴にあつかわれていることを宏子も認めざるを得なかったから。しかし順二郎の意味は別のところにあった。

「僕、こういう気持がわからない。何故残酷なことをこっちからもしなきゃならないのか、そこがわからない。だって理論は人間の社会に正しいことをもって来ようとしているのに、何故そのために旧い悪いことをまたやらなけりゃならないんだろう。僕実に疑問だ」

 弟の意味がはっきりして来るにつれ、宏子は、困ったような愕いたような目をだんだんに見開いて、

「だって順ちゃん」

と呻いた。

「だってさ、順ちゃん、右の頬っぺたをぶたれれば、左も、はいって出すと思える?」

「ちがう。僕だってきっとぶち返すんだと思う。だけど、僕には僕がそうしていいのかどうかが分らない。殴るってことがわるいならどっちが先だって後だって、わるいにきまってるのに」

 順二郎は苦痛をもって云った。

「人間の理窟って、考え出されたようなところがある。絶対じゃないんだもの」

「──変だわ、順ちゃんの考え方、変だわ。目的だの意味だのがちがえばちがうじゃないの」

 宏子は、彼女の及ぶ限り現実的な例で、順二郎のそういう実際の生活関係から物事を抽象してしまって考える傾向からひっぱり出そうとした。順二郎は従順であるが、宏子は愕然とさせる執拗さをもっている。今また彼が僕として考えて云々というのをきくと、再びその危険が宏子にひしひしと感じられるのであった。

「ね、順ちゃん、あなた、誰かしっかりした友達ないの? 何でも話せる友達ってないの? そういう人がいると思うなあ」

 宏子がそう云っているとき、女中が来て、順二郎を階下へよんだ。思ったより手間がかかって書斎へ戻って来た。

「何だったの?」

「母様が、姉ちゃんと何話してるって──」

「…………」

 宏子はいやな顔をした。

「姉ちゃんと話したこと、みんな聞かせろって……」

「そいであなた何て云ったの?」

「僕たち、正しいこと話してるんだから、誰にかくす必要もないと思う」

 宏子はやや暫く黙っていた。

「とにかく順ちゃんは一風あるわ」

 順二郎がほんとの友達というものを持っていないように思える、その原因もこんなところと関係がありそうにも思える。

 宏子は、次の日から時間をきめて本をよんでいたのをやめ、休暇が終る前の日、寮へかえってしまった。

 温室の中で、三脚にかけて風の音をきいている順二郎の心に、憤ったようにして自分を見つめていた姉の顔が泛んだ。それと重り合うようにして、小田だの、山瀬、桂という同級の連中の嘲弄的な声や目や肩つきが泛んだ。上唇に薄すり柔毛のかげがある順二郎の丸い顔は心持蒼ざめた。四日ばかり前、昼休みの丁度前学生集会所へ撒かれた。順二郎も拾った。読み始めていたところへ、

「拾ったものは、こっちへ出したまえ! 持ってちゃいかん。出した、出した!」

 あんぺ渾名あだなのある体操教師が怒鳴りながら駆けつけて来た。

「おい、出した!」

 順二郎は、素直に手にもっていたものをあんぺに渡した。傍にいてそれを見ていた小田が、腰につけている手拭をやけにパッとぬきながら、

「おい加賀山、君の公明正大論もいいかげんにしろよ」

 いかにも軽蔑したように云った。きちんと制服に靴をつけ、手拭を腰に下げる趣味も持っていない順二郎は、態度は崩さぬながら顔を赧くした。まわりにいた学生たちも持っていた筈だったのに、あんぺに渡したのは順二郎一人なのであった。

 順二郎は、学校ではこの頃次第に一種の変り者と見られるようになりかかって、幾分それを自覚してもいた。山瀬などは、

「僕は加賀山のいるところで議論するのはいやだよ」

と、順二郎に向って率直に非難した。

「君はいいかげんのところへ行くと、いつも対立をぼやかす折衷論ばっかり出すんだもの、発展がありゃしないや」

 シクラメンの細かい発芽の上にとどまっている順二郎の動かない視線のなかには孤独な、思い沈んだ表情があった。順二郎から見れば、まわりの人々はみんな母だって姉だって友達たちも、何かシーソーの両端にのって、上ったり下ったりしているように思えた。結局は五分五分だのに、賛成したり諍ったりしているように思えた。そういう騒々しい、そして不確定に思える波立ちのどっかの底に、人間全体をひっぱって行く絶対な真理というものは無いだろうか。正義を愛し、平和を愛すのが人間の本性だとすれば、どうしてそれを純粋に愛と正義とによってだけこの世にもたらす真理や手段がないのだろうか。どっかにある筈なのに、人間の探求心がそこまで真剣につきつめられていないのではないだろうか。順二郎の懐疑は社会の矛盾や対立の関係に対する理解が深まるにつれて、反動的にこの点で深まって来るのであった。利害の対立で社会が苦しんでいるならば、更にそれを強調して見たところで、どうして心の解決があるのだろう、と順二郎は、歴史を後がえりさせて抽象の世界へ迷い込むのであった。この模糊として光明のない境地へ歩み込んでしまうと友達は勿論彼にとって親密な姉の宏子さえも、順二郎にとっては別の世界で自分の道を歩いて行く人としか思えないのであった。

 純なわが息子の、ふっくりとした若い面ざしの上に、このような凄まじい色が漲ることを、ただの一度だって瑛子は思い及んでいなかったであろう。暗鬱な、内部圧迫が高度に達した容貌で、順二郎は暫く季節はずれの南風に吹きあおられている庭の竹藪を眺めていた。

 部屋へ戻って、順二郎はきっちりと制服を着た。

「母様、僕ちょっと田沢さんところへ行って話して来る。よくって?」

 宏子は、彼に、順ちゃんあなた田沢さんの真似なんかしちゃ大変よ、と寮にかえる前の晩云った。田沢さんの血はひやっこい。順ちゃんの血は重くて、熱いんだもの。真似したら不幸になるだけよと云った。姉が本気にそう云った顔をも順二郎は今はっきり思い出すことが出来るのであったが彼の見かたはまた別であった。田沢がどういう性格であろうと、自分より学識の点では豊富なのだから、その学識の面でつき合うことは正しいと、ここでも亦抽象して順二郎は自分に公平だと信じられる行動の理窟を立てているのである。

 順二郎は帝大の横門から入って、田沢の研究室の方へ風や砂塵と闘いながら歩いて行った。


        八


 図書館のところを順二郎が通っているとき、そこから二人連の学生が出て来た。

「ひどいなア」

 一人が顔をそむけて風にさからいながら帽子の庇をおさえた。もう一人は、重吉であった。彼はいきなり真向から吹きつけた砂塵に顔をくしゃくしゃとさせたが、そのまんま黙って同じように心持上体を前へかがめて大股に表通りの方へ歩いて行った。

 電車の停留場まで行ったとき連れの山口が、

「今晩出て来るかい」

と云った。

「ああ。六時半からだったろう」

「創作方法をやるんだそうだ」

「そうかい」

「光井も来るそうだ。是非来いよ。今夜は一つ大いに蘊蓄うんちくを傾けて見せるぞ」

 週一回、本屋の二階でやっている文学研究会が今夜あるのであった。

「じゃ」

「うん」

 重吉は、東京でも有名な寺のある町角のところで電車を降りた。そして、二三丁先の、いつ見ても客のいたことのない印判屋の横丁を入って、古びた小さい二階家の格子をあけた。

 大工の後家である下の婆さんが襖の中から丁寧に重吉の挨拶にこたえながら、

「お手紙が来ていますよ、お机の上にのせておきました」

 重吉は、肩を左右にゆするような体癖で重い跫音を立てながら部屋へあがった。山口が、対にこしらえさせた白木の大本棚が六畳の壁際に置かれている。机の右手には三段になった飾りのない落つきのいい低い本棚がある。重吉は白キャラコの被いのついた薄い坐蒲団の上に制服のまんまあぐらをかいた。そして、左の掌でほこりっぽい顔を一撫でした後、机の手紙をとりあげた。一通は重吉の見馴れたハトロン紙にマル金醤油株式会社宇津支店と印刷した傍に、佐藤ケイとぎごちなく万年筆で書いた手紙。母親からの手紙であった。もう一通は、水色の西洋封筒が珍しいが弟の悌二の字である。封をすぐは切らないで、重吉は、二通の手紙に目をつけたまま肩をゆすってあぐらをかき直すような動作をした。

 重吉は、流し元へ下りて行って、ザブザブ顔を洗って来ると、制服の襟ホックをはずしたまま、今度は一気に二つの手紙を読んだ。商業へ通っていた悌二の汽車の定期が前学期で切れた。新しく買う都合がつかなかったので、毎日切符で通うことにして暫く辛抱して貰っていたところ、悌二がそれを苦にして学校へ行き渋りこの頃は学校をやめると云い出している。将来御許の片腕となって家運挽回をはげむにも今の世の中に小学きりではと思い、私は泣いて行ってくれと申せど、悌二は兄さんには僕の心持がきっと分ってもらえると申して承知しません。一応御許とも相談いたした上でと思い云々。父親の源太郎が、そんなことを云う意地気のない奴は学問なんどせんでええ! 馬車ひいておれ! と憤激している姿も、母親の手紙の文面に髣髴ほうふつとしているのであった。

 悌二の方は、いかにも永くかかって下書きしたのをまた次の晩電燈の下で永い時間かけて清書したらしく、消しの一つもない手紙に、ありどおりのいきさつと自分の心持とを披瀝していた。父上が意気地無い奴と罵られるのも無理はないと思います。けれども、僕には正直なところ、家が苦しい中からそんな思いをしてまで学校をやってゆくだけ自分の頭に自信がありません。幸僕も体の方は兄さんに負けないつもりだから、僕は兄さんの手足となって家のために働くつもりです。僕のようなたかの知れたものが、現在の家の事情でいくらかでも学資をつかうよりは、その分も兄さんにつかって貰った方が有意義だと信じるのですが如何でしょう。兄さんの将来の目ざましい成功は故郷の何人も期待して疑いません。中央の最高学府の生活は金もいるでしょうから、僕は兄さんが少しの金でも有益につかって下さると思えばうれしいです。

 重吉の刻みめの深い、しっかりした顔だちの上で優しさと苦しげな表情とが混った。家運挽回と結びつけて、少年時代から重吉にかけられているこの期待のために、重吉は決して単純な学生気質で暮せなかった。重吉の思い出のはじまりの情景には、或る午後ドタドタと土間に踏みこんで来た執達吏、家財道具や家の鴨居にまで貼られた差押えの札、家の前の往来で真昼間行われた競売とそのまわりの人だかりがやきつけられていた。

 高校時代、重吉は既に貧困の社会的な理由を理解していたし、それを踏んまえて立っていたが、不規則な食事のために旺盛な肉体は不調和を起して、奇妙な神経痛に苦しんだりした。

 親たちが、昔広国屋と称した名主の家名に愛着している心持や家運を挽回させようと日夜焦慮して、重吉を唯一の希望の門としていることも、競売を目撃し、その時の親たちの感情を幼いながら共にわかちあった彼には無理ないこととして思いやられているのであった。重吉が経済学部に籍をおいていること、傍ら文学の仕事に心を打ちこみ、なお進歩的な青年らしい社会の動きに参加している気持の裏には、これらの事情を悉く慎重に思いめぐらしての上での決意がこめられているのであった。今に重吉が井沢郡から代議士にうって出て見ろ、最高点をとるにきまっとる、と云う周囲の焙りつくような待ち遠しい目を身に受けながら、重吉は寡黙に、快活に温い頑強さで、自分がそれらの人々の希望している通りの者には決してならないことを自覚して暮しているのであった。

 重吉は、故郷の家の有様を思いながら、白カナキンの日よけのかかっている窓越しに外を眺めた。表通りの紙屋と豆腐屋の裏が重吉の窓に向っている。豆腐屋の裏二階の羽目はどういうわけかあくどい萌黄色のペンキで塗られていた。何年もの風雨でさらされ、もはやはげかかっているその色が今日の荒々しい灰色の空の下では、佐伯祐三の絵にあるような都会の裏町の趣を見せている。同じ都会の或る庭では竹藪を吹きざわめかせる季節はずれの南風は、重吉の部屋の在る町あたりでは、時々どっかでガワガワとトタンの煽られる音を立てている。表通りから細かい砂塵がガラスに吹き当てられた。重吉の故郷の家も、思えばこんな荒天に難航している小舟に似ていた。父親の源太郎が中央に突立って叱咤しているのであるが、その人自身絶望から希望へ、希望から絶望へと絶えずつきころがされて来た。そして、先ず家内の者が自分の命令に服さなければどうして他人を従えることが出来るかという熱烈な肉親の情と焦慮とで、源太郎は家族や使用人に暴力をふるった。その前に先ず酔っぱらってから──。

 それは大抵夜であったから、源太郎の暗い店の前に町とも村ともつかないその近所の連中がたかって来て、面白そうにどたんばたんの騒ぎを見物した。重吉は、そういう時自分の頬っぺたを流れ落ちた涙の味を刻みつけられている。善良な、一本気な父親に狂態を演じさせる力を憎悪した。

 重吉は、考えに沈んだときの癖で頭を心持右へかしげ、ゆったり大きいあぐらの片膝をゆすっていたが、やがてあり来りの馬蹄形の文鎮をのせてあった原稿紙をひきよせて万年筆をとり、母親と悌二とへの返事をかきはじめた。

 重吉には自分より気の弱い悌二が、友達どもに気をひける気持も察しられた。しかし悌二も、卑屈でなく生きてゆくためには、貧困が恥辱ではないことを知らなければならない。重吉は思いやりをこめた兄らしさで悌二の心持に元気を与え、学校をあながち無理につづける必要もないと考える彼の意見を書いた。だが、もとよりそうしたからと云って僕はその金をまわして貰うことなどは考えてもいないよ。僕は今でさえ心苦しく思っているんだから。僕も自分の満足のためだけならば或は学校をとうにやめていたかもしれないくらいだ。三分の二ほど進んだ時、

「おう、いるかい」

 二階に向って呼ぶ声がした。重吉は万年筆を持ったまま立って縁側から下の往来を見た。

「どうした」

「いいか」

「ああ」

 今日は、口んなかまでじゃりじゃりだねと云いながら、階段をあがって来たのは光井である。光井は高校が重吉と同じで今は英文学にいた。

「今夜会えるだろうと思っていたよ」

 重吉が机の上の原稿紙を片づけながら云った。

「山口が云ってたんだろう? きのう会った。例によって例のごとしだね、未来のプラウダ主筆だっていうんだから意気は壮とすべしさ」

 煙草に火をつけて、光井は腹の下に坐蒲団をいれて畳へ腹這いになった。

「そう云えば、交叉点のところで各務の娘に会ったよ。むこうじゃ気がつかなかったらしいけど──」

「そうかい」

 母方の遠縁で、重吉は暫くそこの家にいた。電気会社の重役のその家では、重吉に書生の仕事をさせるのを当然のことと考えていた。

 光井はいくらか好奇心を動かされた表情で、

「こっちの方へ来ることなんかあるのかい」

ときいた。

「音楽の教師が、どっか、寺の裏の方にいるらしいんだ」

「ふーん。よらないのかい。ここにいるのは知ってるんだろう」

「よるもんか!」

 重吉は健康な白い歯を見せて拘泥もしていないように笑い出した。

「年ごろんなって来たら、どうも傾向がわるいよ」

 その言葉に光井も笑い出した。同級の、やはり研究会へ出たりしている学生の中には、美校の女学生と同棲している者などもある。光井自身は、女学校へ通うようになった妹と一軒もって暮しているのであった。光井は、腹の下にしいていた坐蒲団を今度は頭の後ろに枕にして、仰向きにころがりながら、

「女は影響するなあ」

 真面目に感情をもって呟いた。

「塩田の生活なんて、何か暗いものがあるよ。あいつが研究会に割合出たりしているの、そういう暗いものからの反撥が作用していると思うね」

 下宿している家の主婦の末っ子が、うしろから見ると塩田そっくりの歩きつきをする。そのことを光井はストリンドベリイの小説のように云った。

「俺は、あのちびが出て来ると何だかぞっとするね」

 重吉自身は、少年らしい淡々とした初恋の思い出や、地方の中学生らしい汽車の乗降りのロマンティックな恋心や、高校時代のマントの翼の下に娘の肩を大事に入れてやって雪の夜道を歩きまわったような、責任感と少年ぽい恋着の錯綜した感傷をも通って来ていた。先輩に当る文芸批評家が、新しい時代の黎明と青春の愛惜と重吉の才能への傾倒を、恋愛的な情熱で表現して重吉を深く考えさせたこともあった。重吉は彼らしい率直さと誠意と熱情とで或る女と性的な経験をも持ったが、現在は彼の内部でそれがひとまず落着を得ていた。現在のところ重吉のそういう方面は単純化されていて、彼が自分の恋愛や結婚に対して、はっきり認めるようになった新しい社会的意義と一緒に、急がず、注意をもってしかも青年らしい溌剌とした自然な関心で異性を眺める状態にいるのであった。

 光井は、

「一本松の山本ね、あいつの妹がやっぱり東京へ来ているらしいんだが──知らないかい」

と云った。重吉は二つ三つ瞬きをしたがさり気なく答えた。

「どっか専門学校へ行ってるらしいよ」

 特別な関心をはる子にもっているというのではなく、重吉は、はる子の活動の便宜や安全を保護したのであった。

 二人の間には、文学談が栄え、やがて光井が、

「きのう、これも主筆にきいたんだが東高へ誰かが撒いたんだってね。講堂まで入ったんだってさ。仕様がないもんだね、みんなぽけーんとしているばっかりだったってさ」

 重吉は唇を結んで、黙ったまままたちょっとあぐらの片膝をゆすった。程なく時計を見て、

「どうだい、飯をくって行かないかい」

 光井は、両脚を揃えて一ふり振って起上りながら、

「もうそんな時間かい」

と髪を直した。

「どうせ例によって、はま鍋だろう?」

「あんまり馬鹿にしたもんでもないよ、この間読売にカロリー料理って出ていたよ」

「まあ何でもいいや。飯はあるのかい?」

「あるだろう。なけりゃ下から貰って来る」

 七輪を机のわきに持ちこんで食べ終ると、重吉は戸棚をあけて、田舎風に青い綴じ糸が表に出ている褞袍どてらをぐるぐると畳んで新聞紙に包んだ。その下にハトロン紙で被いのある本を重ねて抱えて、階下へ降りた。靴をはきながら、重吉は膝をついて見送っている婆さんに、

「きょうは、宿直ですか?」

ときいた。

「ええ、そうなんでございますよ。何ですかお友達にたのまれましたそうでしてね、あなた」

「じゃ、おそくっても帰って来ますから」

「そうでございますか、いつもすみませんですねえ」

 一足先へ格子の外へ出ていた光井が、

「宿直って──ほかに誰かおいてるのかい」

ときいた。

「ここの娘だ。──いくらかになるもんだからね、ひとの分もやってやるらしいんだ」

 二人はやや風が落ちたかわりに時雨模様になって来た夜の街へ出て、大きい銀杏の樹が路の真中にある急な坂道を、本郷台に向って行く人混みの中にとけ込んだ。

底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年1220日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房

   1951(昭和26)年5月発行

初出:「文芸春秋」

   1937(昭和12)年8月号

入力:柴田卓治

校正:原田頌子

2002年422日作成

2003年720日修正

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