雑沓
宮本百合子
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一
玄関の大きい硝子戸は自働ベルの音を高く植込みのあたりに響かせながらあいた。けれども、人の出て来る気配がしない。
宏子は、古風な沓脱石の上に立って、茶っぽい靴の踵のところを右と左とすり合わすようにして揃えてぬぎ、外套にベレーもかぶったまま、ドンドンかまわず薄暗い奥の方へ行った。
電話のある板の間と、座敷の畳廊下とを区切るドアをあけたら、
「じゃあ、それもそっちの分だね」
と女中に何か云っている母親の声がした。行って見ると、瑛子は南に向った八畳いっぱいに鬱金だの、唐草だのの風呂敷づつみをとりひろげた中に坐りこんでいる。しかも、もう永いことそうやっていた模様である。
「たいへんなのね。あんまり森閑としてるからお留守なのかと思っちゃった」
片手で頭からベレーをぬぎながら、宏子はナフタリンのきつい匂いと古い下着類の散らかされている縁側よりのところへ坐った。
「いいえね、お父様のラクダの襯衣がどうしても見えないんで、さがすついでに少し整理しようと思ってさ」
瑛子は、お召の膝の上にのせてしばりかけていた一つの包みを、じゃあ、これにも達夫様古下着と紙をつけてね、と云って女中に渡した。
「お嬢さんもかえって来たし、きょうはこのくらいにしとこうよ。包みは一応戸棚へでも入れておくんだね」
開けた障子のところへ楽な姿勢で、よっかかり、その様子を眺めていた宏子の活々して、感受性の鋭さのあらわれている眼の中に、あったかい、だが極めて揶揄的な光が輝いた。彼女は、柔かい髪をさっぱりと苅りあげている首を、スウェータアの中でわざと大きく合点、合点させながら云った。
「そう、そう。そして、十日もたったら、又同じ包みをもち出して、ひろげて、日に当てて、あっちのものをこっちへ入れて、しばって戸棚へつんでおきなさい。包みは減りっこないし、きりもないし、大変いい」
「早速そうだ!」
「だってさ」
「もう、いいったら!」
瑛子も、その図星に思わず自分からにやにやしながら、若やいだ顔つきをして娘を睨んだ。流行からはずれているにかかわらず、瑛子はたっぷり前髪をふくらがした束髪に結っているのであったが、その結いかたは、特別な派手な似合わしさで彼女の面長に豊富な顔立ちを引立てている。くつろいで機嫌よくしている母を、宏子は美しいと思って心持よく眺めた。大抵毎週土曜から日曜にかけて、宏子は語学専門の塾の寄宿から、うちへ帰って来た。そういう生活になってから、自分が生れて育った家の生活というものが、だんだんその輪廓を浮立たせて宏子に映るようになりはじめた。日によって母が濃やかに美しく、日によっては、午後になって来て見ても肌襦袢の襟の見える寝間着の上に羽織を着たような姿でいることがある。それも、親たちの生活の一つの波として、宏子にまざまざと感じられるのであった。
「──じゃ、食堂へお茶の仕度をしてね」
瑛子について食堂のドアをあけるとき、宏子はうしろから軽く母親を抱くようにした。
「きょうは、母様綺麗だわ」
「おやおや、それはどうもありがとう」
食堂は北向きで、三分の二ぐらいまでの高さには凍った水のような模様の入ったガラス窓が閉められていた。上の、透どおしのところから、宏子が外套の上から照らされながら静かな屋敷町の通りを歩いて来た、十月の青空が見えている。隣の庭の銀杏の梢もすこし見えた。宏子は、
「すこしあけようじゃないの」
と窓へ手をかけた。
「却って外の方が暖いくらいよ、今日は──」
「私は御免だよ」
中央に大きいテーブルがあり、瑛子はその一番奥の端を自分の場所ときめている。宏子は、その右手にある父の座布団の上に坐った。
紅茶を半分も飲んだ頃、これで一息落付いたという風で、瑛子は、
「どうだったの?」
改めて娘の顔を見た。
「別に変りはなかったんだろう?」
そして、ベージュ色に細い赤線をあしらった地味なスウェータアに包まれている宏子の胸のあたりを眺めまわした。
変に幅のひろいような、ねばっこいようになったその視線を散らそうとするように宏子は覚えず身じろぎした。
「私の方は相変らずだわ。こっちはどう? 順ちゃんは?」
「ああ、あの人は相変らずでね」
二重瞼の切れ長な瑛子の眼ざしは再び変化した。東京高等の学生である次男の噂をする時にだけ現れる熱心な、愛着の色が燦いた。
「本当に、純真な人だ。──この頃はドイツ語の勉強で、よくやっているよ。夕飯にはかえるはずだけれど……」
「達ちゃん手紙よこして?」
「ああこないだ順二郎のところへハガキをよこしたようだよ、仙台辺はもう大分朝晩さむいらしいよ」
欠伸にならない欠伸を歯の奥でかみころしながらのような声の調子で、瑛子は、
「あのひとは、何ていうんだか、熱がないっていうものか、何しろ電気一点張りなんだから」
と、長男のことを云った。
鶴見の総持寺に在る墓地には、加賀山の四人の子供が祖父母の墓のよこに並んで埋められていた。その小さい墓碑の一つ一つの裏に瑛子は自分で和歌を書いて刻らせているのであった。
「何しろ、母様はこわい人だからね。おとなしければ、じりじりなさる人だし、余り熱があればあったでぶつかるんだし……わかっていらっしゃる? 自分で──」
「──どうも、そうらしいね」
瑛子は、濃い睫毛をしばたたき、年に合わせて驚くほど肌理の艶やかな血色のよい頬に微かな満足気な亢奮を泛べた。
実の母娘の間にある独特な遠慮のない自然さ。それと絡みあって親密な一面があるだけに却って消えることのなく意識される二人の気質の異いから来る一種のぎごちなさ、間隔の感じは、夕方、父親の泰造が帰宅してやっとしんから自由な、団欒の空気の中に解きはなされた。玄関の方で耳なれた警笛が鳴ったのをききつけると、宏子は、
「そら、ダッちゃんのお帰りだ!」
短いソックスで畳の上をすべるような勢でかけ出した。もう、沓脱ぎ石へ片足をかけて靴の紐をといていた泰造は、紺の襞の深いスカートをふくらませたままそこへ膝をついた宏子を見ると、
「ヤア、来たね」
茶色のソフトをぬいで娘に手渡した。
「どうしたね」
「父様は? お忙しい?」
「泊ってくんだろう?」
「ええ」
「どうだ、何か御馳走が出来ましたか」
瑛子は、食堂のテーブルのところへ坐ったままで、娘の肩へ手をかけながら現れた良人に、おかえんなさい、と云った。瑛子は、永年の習慣で、朝は何かのはずみで送り出すことはあっても、帰って来た時玄関まで行って良人を出迎えるということは殆どしないのであった。
着換えの手つだいはこまこまと宏子が父親のまわりをまわってした。洗面所へもくっついて行った。泰造は、いかにも精力的に水しぶきをあげて顔を洗う。宏子は、側にタオルをもって立ちながら、
「あひるの行水ね」
と笑った。宏子は、父の洗顔がすむと、もう髭にも大分白いものの見える父親の顔がブラシの動きと一緒に映っている鏡の横から自分の喜々とした顔をのぞかせ、宏子はそこにある台から母の白粉をとってつけた。
食卓についても、順二郎が帰らなかった。
「どうだね、そろそろはじめちゃ」
「そうしましょう。じゃ、お給仕をして」
瑛子は、
「順二郎さんの分をさめないようにね、おかえりんなったらあっためてお上げ」
と、念を押した。
順二郎は、夕飯が七分通り終りかけた頃、制服姿で現れた。
「おそかったねえ、おなかがすいただろう。小枝や、さっきのをすぐあつくして」
中学校が古風なフランス人の経営で、生徒に運動をさせなかった、その故もあるのか、順二郎の背の高い体は、どっちかというとぼってりした肉付であった。鼻の下に柔かいぼんやり黒い陰翳がある丸顔には、青年らしいものと少年ぽいものと混りあってのこっている。特に、姉の宏子と同じように父親似で、くっきり山形のついた上唇の線は、彼の顔にあっても印象的な部分をなしているのであったが、その唇のところに彼の子供らしさは主としてのこっているのであった。
実際の内容はちっとも知っていないが、世馴れた概念で大まかにつかんだものの云いかたでドイツ語の進み工合を訊く父親の言葉、一品の皿も自分の愛情で味を濃くしてすすめるような母親の素振りを、順二郎は格別うるさそうにもせず、
「そう?」
「いや僕いらないよ」
などと、ゆったり、いかにも素直に受けこたえしている。
姉弟の間だけで話が弾みはじめた。
「ドイツ語って、やっぱり田沢さんとこへ行ってるの?」
順二郎が高校を受験するとき、準備して貰った独逸哲学出身の人のことであった。
「ちがう。田沢さんが紹介してくれたドイツ人、カフマンての」
「この頃でも田沢さんに会う?」
「うむ、ちょいちょい」
「やっぱり蒼くって、深刻そうにしている?」
ふ、ふ、ふと、悪戯そうに笑う宏子につれて順二郎も、ふっくりした顔を笑いにほころばした、ただ声だけは出さないで。
親たち夫婦の間には、また別箇な話題がすすんでおり、宏子は三井とか某々さんがとか、新聞でよむような人々の名を小耳に挾んだ。丁度姉弟の間で、ドイツ語の発音やエスペラントの話が盛になって来た時であった。築地の土地が、とさっきから没落した実家の処理について話していた母親の声が、急に、おこった調子で高まった。
「お忙しいのは分っていますがね、あなたって方は、いつだって、その場では安うけ合いをして、決して実行なさらないんだから。築地のことでは松平さんだって、どうなったかって、おききになるんですからね、放っちゃおけないんです」
「わかってるよ、だから明日にも勧銀へ行って調べて来よう」
「あした、あしたって。──大体あなたは、建築家のくせに、事務的でいらっしゃらない、私の体の工合がわるくさえなければ、何にもあなたのお世話はうけないんだけれども……」
気まずい思いがひろがって、宏子も順二郎も黙り込んだ。お盆をもってお給仕がそこに坐っている。宏子は気がついて、
「もういいわ」
と云った。瑛子の気質の激しさは、いつもこういう形で爆発するのであった。食事を終って、横の腰かけに移った泰造に、なおも言葉で追いすがるように瑛子が云った。
「あなたって方は卑怯ですよ」
「──大変なことになったもんだね」
それは、やっと怒鳴るのを我慢している苦々しげな笑いで云った。
「俺は、自分ぐらい模範的な良人はないと思ってるがね」
「そこが卑怯だって云うんです──あなたはひとが来ていると、いつもそうだ」
「ひとって──ひとなんか別にいやしないじゃないか」
「宏子だっているじゃありませんか」
父親と向い合うところに腰かけていた宏子は思わずその言葉に頭をあげた。そして、父を見た。
「自分の娘を、ひとっていう奴があるもんか。とにかく、あした勧銀へ行きますよ、そうすりゃ何も云うことはないだろう」
「あなたは、自分のかたをもつものがいるときは、いつもそうやってごまかそうとなさる。私はそういうところがいやなんです」
宏子は、少し蒼ざめた顔をして瑛子を見、云った。
「私はひとじゃなくて、ここの子だと思ってるんだから、どうか安心して、いくらでも喧嘩して頂戴。その方がよっぽどいいわ。私が味方するのは、私がその人の云うことは本当だと思うときだけよ。私だって母様の子だからね、喧嘩は大しておそれないの」
父親と並んで腰をかけ、腕組みしていた順二郎が、制服の膝をゆするようにしながら憂いのあらわれた訴える声で云った。
「どうしてみんなそう怒るのさ。ねえ、母様もおこるのやめて。僕、苦しくなっちまう」
上気して滑らかな瑛子の頬っぺたの上を燈火に光って涙がころがり落ちた。
「ほんとに考えて見れば人生なんて寂しいものだ。結局はひとりさ」
袂から畳んだ懐紙をとり出し、瑛子は涙に濡れた眼をかわるがわるゆっくりと抑えた。天井からさす燈火の工合で、瑛子の手が動くたびに、右の中指から大きいダイヤモンドの、厚みのある、重い、焔のような紫っぽい閃きが発した。
泰造は書斎へ去り、宏子は暗い険しい目付で、凝ッとその光を見つめていた。
ダイヤモンドの冷たいギラギラした美しさも、母の言葉も、順二郎の柔和な訴えも、宏子には皆苦しいのであった。
二
雲のない真昼の空へ向って、真直午後のサイレンが鳴った。それに和して、あっちこっちでいろいろな音色を持ったボーが響きだした。今まで静かだった空と日光の中が一時賑やかのようになった。裏通りを、豆腐屋が急に活を入れられたラッパのふきかたをして通った。ちっとも風のない日であるが、それらの生活の音響に目を醒されでもしたように、突然庭の楓、樫、槇などの梢が軽くゆれ、銀杏の黄色い葉が、あとから、あとから垂直に下の黒い地面へ落ちて来た。
大都会の真中で、瞬間の自然にあらわれたこの身ぶるいを宏子は興ふかくカンヷス椅子から眺めた。
自然に結びついていると云えば、宏子がいる塾の寄宿舎はそれこそ武蔵野の桑畑と雑木林の只中に埋っていた。然し、そこには、数百人の若い女の声々を頭のすぐ上では澄みわたって反響させ、すこし高くとおいところでは一種異様な手応えなさで吸い込んでしまう宏闊な空と、濃い液体のようなその辺一帯の空気をかき乱して軍用飛行機練習のプロペラの唸りがあるだけであった。震災後のバラック建てを本建築にするとき、東京市内の多くの専門程度の学校が地価の差額を利用して、府下の遠いところへ敷地を買いなおし移転した。宏子の塾もその一つであった。市内からもまわりの村からも隔離されて雑木林の中にある環境は、学生生活にとって様々の不利、経営者には便宜である不便に満ちているのであった。
よそに行っていて不図わが家の情景が髣髴する、そんな鮮やかさで、西日を受け赤銅色に燃え立っている欅の梢や校舎の白い正面。単調に、遠くからポッツリ人の姿を見せる田舎道の様子などが、宏子の心に甦った。裏庭では、さっきから順二郎が植木屋と喋っている声がしている。ほかに呼びようがないから、私のうち、と宏子も呼ぶ家。そこに充満している両親の生活。それは宏子を引きつけ同時に惹きつけたよりもっと複雑なもので宏子を弾きのかす。だが、塾が云うところない生活というのではもとよりないのである。
この時、カンヷス椅子の背に頭をもたせかけ、スウェータアの胸の下でゆったり二つの腕を組み合わせている宏子の真面目な若い顔に、皮肉と無邪気な悪戯っぽい可笑しさの混りあった笑いが浮んだ。今朝になって、瑛子は昨夜むしゃくしゃまぎれに、宏子をひとも来ているのにと云ったことを少し後悔しているらしかった。洗面所の廊下で起きたばかりの宏子とすれ違った時、瑛子は優しさのある眼付で、
「どうだい? 眠れた?」
ときき、返事を待たず、
「お前、私の洗面器をつかいやしなかったかい?」
と尋ねた。宏子は、
「いやよ、今起きたばっかりじゃないの」
と答えたが、母の気持を考えると可笑しかった。何か宏子に言葉をかけようとした突嗟にやっぱり母らしい文句しか出ず、ただそれを今朝は、
「おや、ほんとうにそうだったねえ」
とおとなしく結んだ。そこを考えると宏子は滑稽で、また腹立たしいのであった。
裏庭のボイラー付温室は、順二郎が高等学校に入った祝いに瑛子が造ってやったものだ。土蔵との境の木戸があいたりしまったりして、やがて順二郎の友達らしい青年のやや癇高なところのある声がそこから聞えて来た。
「小田んところの兄さんも温室やってるんだね、こないだ小田と見物して来た、とてもデカイや」
「本職なんだろう?……ああ、そうそう、こないだ有難う。お父さんもう帰った?」
「ああ電報が来て帰っちゃった」
きっちり襟元を合わせて絣の角袖を着、袴をつけた吉本も一緒に、茶を飲んだ。瑛子は、
「お父様、この方が吉本さんですよ、この間順ちゃんをホテルに呼んで下さった──」
と改めて紹介したりした。泰造が吉本の家庭の様子などを、いつとはなし地になっている社交的な口ぶりで訊ねると、吉本は、滑らかな調子で、別にばつをわるがりもせず、一定の社会的地位が対手に推察されるように、要領よい返答を与えている。
瑛子には、順二郎のこの交友が気に入っている、それは瑛子が吉本の一寸した言葉にも愉快そうに笑う、その華やいだ調子で分るのであった。
女中が、そこへ入って来た。丁度宏子のよこのところへ膝をついてとりついだ。
「奥様、ただいま築地の雄太郎さんがお見えになりましたが……」
「あなた」
瑛子が、いかつい声になって云った。
「雄太郎が来ましたそうですよ、この間っから云っている学費の明細書を、今度こそ出すようにおっしゃって下さい。ようございますか?」
そして、こっちへ向いたまま、
「日本間へ通して」
と云いつけた。
「ほんとにどこでもいろいろな身内の厄介がありましてねえ。──おうちなんかでもお世話でしょうねえ」
吉本は、きちんと坐ったままただ笑っている。程なく紅茶茶碗を一つだけ盆にのせ、お砂糖を、と入って来た。その茶碗を瑛子が見た。
「おや、レモン入れたのかい?」
不服そうに、居あわす者にきこえる位の声で云った。その場の皆の前にあるのはレモン入りの紅茶である。瑛子は顰蹙した声で云った。
「レモンなんぞ入れないだってよかったのに──」
偶然、自分の茶碗からレモンの切を受皿へどけていた宏子は、茶碗の中を見たまま顎のところまであかくして、暫くは顔をあげなかった。
間に二人ほど泰造の事務的な来客があった。四時頃、宏子が腕時計を見ながら階段下を来かかると、畳廊下のところに、中途半端な立姿で、羽織だけ着更えた瑛子が佇んでいる。隅の衣裳箪笥の戸をあけて、泰造がこちらへ細かい大島の背中を向け、中に吊ってあるモーニングの内ポケットから紙入れを出しかけているらしいのであったが、その手つきは焦立ったように動いているにかかわらず、いかにもしないでもいいことを手間どってしているような風である。瑛子が、声を低め、熱心に云っていた。
「だってあなた、そんなことは出来ませんよ、失礼じゃありませんか」
「いや失礼じゃない」
「これまで家庭的にやって来ているのに、今急に──」
傍を通りぬけようとする宏子を、
「ちょいと、宏ちゃん」
瑛子は、当惑と抑えた腹立ちと更に際立って一種のつややかさが動揺している仄白い顔の表情で宏子を呼びとめた。
「お父様にゃ困ってしまう。折角田沢さんが見えたのに、どうしても会わないっておっしゃるんだよ」
「…………」
唐突ではあるし、その場の空気はただならないし、若い宏子には、何と云ってよいのか分らなかった。
「あなたのようにそういきなり感情的になったって──わけが分りゃしないじゃありませんか」
「訳はよく分ってるじゃないか。俺は彼奴が不愉快だから、会わん」
「そんな大きい声を出して」
「聞えてもよろしい。俺は絶対に会わん。そういってくれ」
その畳廊下からは、八つ手の花の一粒一粒が刺さるような白さで見え、暗くなりかかった植込越しに、隣の家の子が腰につけて部屋の中を馳けているらしい鈴の音も、聞きとれるのであった。
三
殆どこれと同じ時刻に、有楽町の駅を出た一団の人群にまじって、一人の若い女が朝日新聞社の横から、トラックをよけながら数寄屋橋の方へ出て来た。
橋の上の広くもない歩道は、青や赤のゴム風船を片手に子供の手をひいてそろそろ歩いている夫婦ものや、真新しくそりかえった足袋に派手な草履をはいた若い女づれの一組などで日曜日らしく混雑している。
日本服を着なれないぎごちなさで、白襟をきつく合わせているその娘は、大股に、すこし右肩をよけい振るような膝ののびた歩きつきで人通りの間を尾張町へ出た。そして、少し行って右側にある大きい文房具店へ入った。地階で、帳面を一冊とペン先とを買い、段々をのぼって、いろんな種類の舶来おもちゃが並べられている陳列棚を眺めはじめた。赤い頸飾りをちょこなんと結んだ一匹の黄色い仔猫が、日向ぼっこをしている自分の背中へとまった蠅を、びっくりした目で見かえっている陶器の置物があった。その蠅がいかにも精巧に本物らしいので小さい猫の驚きに実感がこもり、同時に本物なのかしらと思わず見直すところに、製作者の軽い笑いがかくされているらしい。その娘も、白粉をつけていない、真面目な顔つきに、瞬間おやという表情を浮べて、その蠅に注意をひかれた。
この時、陳列棚のむこう側から、年に合わせては地味な縞背広を着た一人の背の高い青年が、やはり並べられている品物を眺める風でぶらりと現れ、娘が仔猫を眺めていると同じ棚の横手に佇んだ。
硝子に映った人影で娘は顔をあげた。しかし、近づいた青年を別に見直すでもなくその棚の前をはなれ、今度は急がぬ歩調ながらどこへも立ち止らず出口の方へ向った。
つづいて、その店の大きい紙包みを下げた女連れがゆき、あとから背広の青年もそこを出た。シーソー遊戯の玩具を売っている露店の前で娘はその青年と肩を並べ、二人はどちらからともなく新橋の方角へ動きだした。数間歩いて、一つの横通りを突切るとき、青年がはじめて口を切った。
「寄宿の方はいいのかね」
「土曜日曜は平気だわ」
「相当みんなこの辺をぶらつくんだろう?」
「大抵新宿」
青年はこれも目立たぬ鼠色のソフトをかぶった頭を心もち右へ傾けるような癖で娘の方は見ず暫く黙って歩いていたが、やがて、ゆったりした口調で、
「ここを曲ろうか」
人通りの劇しい表通りを左に折れた。娘も素直にそれにつれ、羽織と対の大島絣の裾を学生っぽくさばきながら並んで足を運んでいるのであったが、いかにもよそ行きという風に、ほんのすこし紅をつけている彼女の口許には、何か云おうとしてうまく言葉の見つからない焦燥のようなものがあらわれた。山本はる子という本名のかわりに、背が割合高いから高井がいいだろうと笑いながら仕事の上での呼名を彼女に与えた兄の静岡高校時代の親友、佐藤重吉という代りに太田と呼ぶような全く新しい組織的な関係でこうして折々会うことになった重吉に対して、はる子は一つの聞いて貰いたい自分の感情をもっているのであった。
赤い毛糸の腹巻きをして上体を左右にふりながら岡持ちを片手に鮨屋の出前が狭い鋪道を縫って走って来た。それをよけるはずみのように、はる子は熱心な顔つきのまま、
「でも私うれしいんです」
いきなり、率直に並んで歩いている重吉に云った。
「東京へ来たら、きっとこういうことがあるだろうとずーっと思っていたんだから……」
当時左翼の波はひろく深く学生生活の内部へ滲透していた。はる子は兄の「戦旗」を女学校の上級で読んだ。意識をもって兄のために使いの役をした。塾へ来てから研究会の積極的な一員で、救援会と「戦旗」配布の活動を受持つようになったのであった。
はる子は、気象のあらわれた一種の早口で更に自分の云った言葉を補足した。
「勿論個人的な意味じゃなしに──わかるでしょう?」
そして、顎のふっくりくくれた、割に上瞼のくぼみめな顔を微かに赧らめて微笑した。その修飾のない言葉と笑顔とが、重吉の大きく緊った口元をもゆるめた。彼は、
「──よくわかるよ」
そう答えて、非常に印象的な笑顔をした。彼の一見いかつい眉つきを破って、内部に湛えられている情感的なものが輝いて流露する、そんな笑いであった。
はる子は、歩いている足はゆるめず黒地に赤をあしらったハンドバッグをあけ、小さく半紙にくるんだ金を出して、重吉に渡した。
「mの方は、まだあんまり大衆的に行かなかったんだけれど。──誌代はちゃんとあります」
腕の大きい動かしかたで重吉は左手で帽子を深くかぶり直すようにしながら、黙ってその金包みをズボンのポケットに入れた。
「──この前のとき、配布の助手を見つけることになっていたが、どうなった?」
「一人はあるんです」
「メンバアかい?」
「ええ、割かた近ごろ入って来たひと。同級なんです。市内にうちのあるひとがいいんだけれど、私たちんとこ、通学のひとは比較的むずかしいんです。きっと、学校とうちと生活が別々で、うちへ帰ると家庭の気分にまぎらされちゃうのね。大体云うと、私なんだか東京で生れて、ずっと学校も東京でやって来た学生って、あんまりがっちりしてないみたいな気がするんだけれど」
「…………」
重吉は濃い眉と睫毛とを一緒くたにして一寸しばたたくようにして考えながら、黙って歩いていたが、はる子の云ったことには直接戻らず、
「新しく見つけたのは、どういうのかね、通学?」
と訊いた。
「いいえ、やっぱり東寮のひと。でもうちは向ケ丘辺にあるんです、加賀山宏子って──うちは中ブルだわ」
「──よさそうかい?」
はる子は首を傾け、考え考え、
「ああいうの、どういうんだろう」
と云った。
「学校では文芸部に入っているんです。文学少女みたいなんだけれど、どっかちがうところもあるし、とても読書力はあってね、こないだゴールスワージーの小説の批判を書いたのなんか、みんな面白がったわ。──でも、政治的には大して高くないと思うんです。……誠意はあるからいいと思うんだけど」
表通りには夜店の手車が集りはじめた。デパートの買物包を下げてバスの停留場に急いでいる人むれ、または、これから日曜の一晩を楽しもうと新しい勢でくり出して来た連中で、鋪道の上は益々混雑した。はる子は、例の右肩をよけいに振る大股な歩きつきで人波をよけながら、それでもうっかりすると重吉から引離され、人ごみにまぎれそうになるのであった。交叉点のところで、重吉は後から来たインバネスの男に押されるようにしながら歩みをとめ、腕時計を見た。
「一寸腰かけようか」
はる子が頷くと、重吉はすぐそばの硝子戸を押して、ひろい真直な視線で繁華な店内のざわめく光景を見わたしながら、派手なチョコレート製の塔が大きい飾窓に出ている喫茶店に入って行った。入れ違いに人が立ったばかりで、まだテーブルの上にソーダ水のコップが並んでいる一つのボックスを見つけ、重吉は自分の方から、出入口が見られる側に席をとった。
「御註文は──」
「君なに?」
「私コーヒー」
「じゃコーヒーを二つ」
「ツー、コーヒー」頭のはじに白い帽子をのっけたボーイが機械的に声をはりあげて呼んだ。はる子は重吉と顔を見合わせ、何ということなくにやりとした。
「ああこないだ話していた本ね──書翰集、一冊あったからまわしとく」
それはローザがリープクネヒトの妻にあてて監禁生活の中から書いた手紙の集であった。初歩的な女の学生の間にそれは愛情と亢奮とをもって読みまわされていた。はる子が一冊持っているのは、綴が切れるほど手から手へうつっているが、それだけでは足りないのであった。ポケットから本屋の包紙に包んだのを出して、重吉はそれをテーブルの上に置いた。
「もし目に入ったら、君の方でも買っとくといいね。──あれも入ってるからそのつもりで」
「ええ」
はる子は羽織の片肱をテーブルの上に深くかけ、片手でコーヒーをかきまわしている。そうしながら、桃色と白のカーネーションが活かっている花瓶のわきに置かれたその紙包を、短いような、さりとて決して淡白ではない眼差しでちらりと見た。
重吉は簡単な言葉で、渡した文書について説明した。それから、もう一度腕時計を見て、
「じゃこの次はいつにしようか?」
「私の方は土曜か日曜なら」
「毎週じゃいけないだろう。──定期は一週間おきにということに大体きめておこうか。それでいいだろう?」
「ええ」
「いろいろいそがしいだろうけれど授業はやっぱりちゃんと出るようにね、やっぱりそういう点でも信頼がなくちゃいけないから……」
重吉はこまごまとした注意を添えて、次に会う場所と時間とをはる子に教えた。最後に勘定書をとりあげて重吉が立ち上ろうとした時、はる子はあわてたように、
「ああそれはいいんです」
と云った。
「私が払うから」
さっき往来で歩きながら浮べたと同じような自然な微笑が再び重吉の顔の上をてらした。彼は青年らしく健康な歯並を輝やかしながら云った。
「いいよ。この位平気だよ」
「──じゃ、これ」
はる子は、カーネーションの花かげに置かれた薄い本包をしっかり脇にはさんで自分も立ち上りながら、自分の分のコーヒー代を出し、着物のゆきたけから伸び伸びした腕がはみ出ているようなぶっきら棒ななかに、若い娘らしい袖口の色を動かして重吉に渡した。
四
灰色っぽい漆喰壁のところに横木が打ってあって、そこから小型黒板が下っている。白墨を丁寧に拭きとらない上から、乱暴に、渋谷、谷田様より午後一時電話と書生の字でかいてある。その横の壁のうんと高いところに銀三四九〇とアラビア数字で白墨書きがあり、気がついて見ると、その電話のまわりには、謂わばところきらわず、がさつな事務所にでもありそうに番号変更の紙を貼りつけたり、番号をかきちらしたりしてある。板の間の天井から燭光のうすい電燈がついていて、その下を行ったり来たりしている宏子の姿を、鈍く片側のガラスの上に映している。宏子の心持の九分は、電話のかかって来るのを待っているのであった。休日にかえって来る時、はる子が、今日夕方の六時までに万一電話をかけなかったらばと云って頼んだことが二つあった。電話がかからなければ宏子は大急ぎで寄宿へ戻らなければならなかった。そして、はる子と約束したことを、必ず果さなければならないと思っているのであった。はる子は、それを頼んだ時、同輩ではあるけれども、或る方面での経験では先輩であるという確信をはっきり瞼のくぼみめな顔にあらわして、
「あなた、割かた自由に家の出入りをやってるらしいから頼むのよ、いいでしょう?」
と、もとより宏子が拒まないことを信じている口調で云った。行きかけたのを小戻りして、
「──責任もってね」
更めて小声で囁いて去ったのであった。
宏子は、ベージュ色のスウェータアの下のところを、組み合わせた手へ巻き込むような工合にして、頭を下げ板の目かずを数えるように靴下の上にソックスを重ねてはいた自分の足のたけだけを一直線の上にかわるがわる踏んで狭い場所をゆきつ戻りつしている。扉一枚の彼方の台所は忙しい最中であった。物を刻む庖丁の音に混って、
「アラア、ちょいと八百金まだなのオ」
という声がする。
電話を待つ緊張と、畳廊下での親たちの諍いの印象とが宏子に人と喋るのがいやな心持を起させているのであった。宴会があって、泰造は一時間ばかり前出かけた。それより前に田沢は帰った。瑛子は、田沢が来たとき着かえた観世水の羽織を着て、食堂兼居間のおきまりの場所に、大きい座布団を敷いて坐っている。何だか宏子は、そのわきに坐っていたくないのであった。非常に漠然とした、だが重い後味が宏子の胸にのこされた。父親がむき出しに娘の前もかまわず憤っていたことより、母が理窟はともかく平常のように堂々と正面からそれへ怒りかえさず、変に滑らかになって、わきの方からどっかを下へひっぱるように物を云っていた。あの時の美しく艶やかだった眼差しやひきのばした声の調子などが、宏子には、何か卑屈さに似たものとして感じられ、それと母とを結びつけると、感覚的にいやな心持がするのであった。華やかな電燈の下で、今その母がゆったりと正面に座をかまえ、白い顔に何もなかったような風で女中に物を命じたりしている。それも宏子を板の間に出す気分である。
下げていた頭をもち上げ、若い馬が何かをうるさがって鬣をふるうように宏子が柔かい断髪をふるった途端、電話のベルが鳴り立った。
待ちかねていたので、却ってどきりとした顔で、宏子は電話口にとりつき少し背のびをし、
「もし、もし?」
地声より低い声を出した。
「ア、もしもし、そちらは小石川三三七五番ですか、公衆電話です」
遠くの方でジリーンと音がし、お話し下さいという交換手の声が終るや否や、
「もしもし」
早口に云う宏子の声と、
「あ、あんた?」
そういうはる子の稍々ざらっとした重みのある声とが両方から一度にぶつかった。
「ふ、ふ、ふ」
はる子はうれしいことがあるように見えない電話の中から笑った。宏子は、
「どうだった?」
と、送話口へ一層近よった。
「これから帰るところなの?」
「ええ、これから省線へのるところ。そっちはどうしているの?」
「──ふーん」
「じゃ、あした」
はる子が事務的な調子をとり戻して電話をきりかけた。
「あしたまでに、あれ、書くもの、忘れないでね」
順二郎が立ち上ると、宏子は、
「ちょっと、くっついて行ってもいい?」
下から弟の顔を見上げながら訊いた。
「勿論、いいよ」
絣の筒袖を着て、黒メリンスの兵児帯を捲きつけた大柄な順二郎が、一段ずつ階子をとばして登ってゆく。うしろから、宏子は片手で手摺を握り、わざとその手に重心をもたせて体を反らせるような恰好をしながら、ゆっくり、ゆっくり跟いてゆく。順二郎の部屋として特別なところがあるのではなかった。二階の客間の裏に水屋がある、その北向きの長四畳を使っているのであった。
手前の座敷を暗がりで抜けて、順二郎は小部屋のスウィッチをまわした。左光線になるような位置にデスクが置かれている。うしろの壁にオリーヴ色の絹を張った硝子戸つきの本棚があり、今、狭い室の内を照し出した電燈の白い笠には、眩しいと見えて、ノートの紙を丁寧に長方形に截ったのが短く下げられてある。
宏子は閾のところへ立ったまま、
「少しさむいけど、落付くね」
と、珍しげに四辺を眺めた。電燈を紐でひっぱってある鴨居の釘のところに、スケッチ板に油で描いた曇天の海浜の絵が額縁なしに立ててある。デスクから目をあげた時いい位置ではあるが、宏子にはその絵の灰色と淡い黄と朱の配色が寂しく思われた。
「その絵だれの?」
「さあ、よく分らないけれど和訓さんのじゃない?」
「北向なんだから、もっと暖い色のを見つけりゃいいのに。──あるんだろう? 探せば」
「刺戟が少ない方がいいから、これでいい」
宏子は、隅によせかけてあった古い三脚椅子を見つけて、その上に腰かけた。
自分用の廻転椅子に姿勢よくかけた順二郎の顔は灯の真下にある。宏子はすこし翳をうけて、ずっと低いところにその顔を浮き出さしている。おそ生れと早生れの二つ違いである姉弟の顔だちは、そうやって一つ灯の下に並んだところを見ると、その間におのずから微妙な違いがあった。同じような丸顔で、同じように特色のある上唇の線をもっていながら、順二郎の表情全体には快活さにかかわらずどことなく奥へ引こもった印象が漂っていた。宏子の碧っぽく澄んだ眼や口許には、見たいものは見、云いたいことは云わして欲しいというような一種熱っぽいものが、さっぱりした皮膚の血行とともに湛えられているのであった。今晩は、宏子のその眼の裡に苦しげな色がある。
ノートや辞書がきちんと整理され、デスクの向板のところには高校の時間表を細長い紙に書いて貼りつけてある有様を宏子はしげしげと眺めていたが、
「順ちゃんは几帳面だなあ」
と、歎息と感服とを交えたような声で云った。そして、
「ね、順ちゃん」
弟の顔を見上げ、訊ねた。
「あなた何故寄宿へ入らないの?」
順二郎は、体の大きさに合わしてどっちかというと子供っぽすぎて見える柄の紺絣の膝をゆすりながら、
「──家から通えるんだもん」
「そりゃそうだけどさ──順ちゃんは寮生活をして見たいとは思わない」
「特別やって見たいとは思わない」
宏子は暫く黙って、自分の断った髪のうしろを撫でていたが、
「私はそとへ出てよかったと思う」
はっきりとした調子で云った。
「自分が生れて、育って来た中にばっかりいたんじゃ、そこがどういうところか見えないもん──私はその点で大変よかったと思ってるわ」
宏子の顔に、幾分遠慮がちな、しかし知りたい気持を制しかねる表情があらわれた。
「順ちゃんのようなひとは、これまで一遍も家から出たいなんて思ったことはないのかしら……ここの生活がそんなに自分と調和してる? そこが私には不思議なの」
「どっからどこまで調和してるなんて、そんなことないさ。だって……」
言葉をかえて、順二郎は続けた。
「そんなこと云や寮だって同じじゃない? やっぱり人間がいるんだもん──僕、場所より自分の気持が主だと思う」
「じゃあね、順ちゃん、こういうことはどう? 順ちゃんは東京高等へ入ったお祝に、あんな温室をこしらえて貰ったわね。そういうことはどう考えてる? そういう扱い、そういう扱いをされている自分、それをどう考えている?」
順二郎は灯の下で首をねじって、凝っと自分に注がれている姉の眼を見まもった。やや暫くして、低い沈痛なところのある声で、
「そんなに悪いことだろうか」
とききかえした。宏子は、愛情と歯がゆさとが交り合って、苦しく自分の胸の中に沸るのを感じた。
「悪いって──善悪という言葉のまんま悪いって云えるかどうかしらないけど、とにかく、そういうことは、この社会では千に一にもない特別なことだけは確かだ。そういう特別な温室、生活の温室の中に順ちゃんがいることも確かだ。あの温室を建てた金で月四五十円稼ぐ人間が、女房、子供をくわして、ざっと一年半暮せるよ」
なお、姉の顔から視線をはなさず、順二郎は、
「僕あの温室についてそういうことはこれまで考えたことなかった」
素直に、余り謙遜にそう云ったので、宏子は、この自分より遙かに大きい体をした弟が可哀想のようになった。宏子は、慰め、はげますように云った。
「順ちゃんが正しく暮したいと思っている気持は実によくわかってるさ。ねえ、だけれども……」
そう云っているうちに、宏子はまた一つの疑問に出会い、自分ながらびっくりしたような眼の動かしようをした。
「順ちゃん、学校のグループには入ってないの?」
簡単率直に訊いた。
「学生のやってる……。そういうもの勿論在るんだろう?」
すると、順二郎は微に口元の表情をかえ、再び膝をゆすり始めた。
「…………」
「知らないの?」
直接それには答えず、順二郎は、若々しく柔い顔の上に、真率な、苦しげな表情を泛べて云った。
「──僕、議論のための議論みたいなの、いやなんだ。めいめいが自分の利口さを見せようとして喋ってるようなのきいてると苦しくなる」
宏子の心にも、この言葉は触れるものをもっていた。どこかでは、宏子自身の或る面について、つかれた感じもあるのであった。しかし──
「それっきりだろうか」
「…………」
「どう思う? それっきりだろうか。そりゃたしかにそういうのもいる。だけれど、本気に自分たちが書くべき新しい歴史というものを考えて努力している者だっている。そうじゃない? もし旧い時代から一歩も出ないで生きるのなら、何のために私たちは子として生れて来たのさ。何処に親より二十年も三十年もあとからこの世に出て来た意味があるのさ。キプリングがダブリン大学へ行ったときね、学生に向って第一に云ったことは、私は君等を嫉妬する。そう、深く嫉む。何故なら君達は、若いから。そう云う言葉を云ったんだって。──本当に未来は我等のものなり、だし、我らは未来のものなり、なんだと思う。だから、妥協しちゃいけない」
やっぱり膝をゆすりながら、順二郎が、
「姉ちゃんは、よく考えている」
と云った。
「よく勉強してる──」
宏子の爽やかな顔に赧みがのぼった。
「勉強じゃないわ。──ただね、私のここんところに」
左の手のひらを宏子はきつく自分の胸に押しあてた。
「何かが在る。それがじっとしていないの。分るだろう?」
姉弟は、さっきと同じ灯の下ではあるが、暗と光とが一層濃さを増したように感じられる夜の小部屋の雰囲気の中に、暫く黙ってかけていた。
「──でも私たち三人、何て、面白いんだろう」
人のいい笑顔になりながら宏子がその沈黙を破った。
「達兄さんはああいう人だし──順ちゃん知ってる? 達兄さんにね、いつだったか、兄さんはどんな友達がつき合いいいのってきいたら、そうだね、生活のレベルが同じのがいいなって云っていた。──順ちゃんは順ちゃんで、何しろ天使まがいなんだから、逆さで生まれた私なんかともしかしたらちがうのかもしれないね」
二人は声をあわせて笑った。順二郎は父親の泰造が数年外国暮しをした後に生まれた子であった。瑛子は彼を懐姙したとき、丁度良人が外国から買って帰った聖母子の油絵が気に入って、その絵にあるような男の児を生みたいと朝夕眺めていたという話を、皆は半信半疑に覚えているのであった。
寄宿へ行ってから、もと宏子の使っていた部屋が仙台の電気会社へ就職して行った達夫の荷物置場になった。今、家じゅうにきまった自分の居場所を持たない宏子は、弟の部屋を出ると、父の書斎へ入って行った。
柱に女の能面をかけ、隅に陶器をしまった高い飾棚など置いてある室内には、泰造が消して二階へあがった瓦斯ストウブの微かなぬくもりが残っている。父用の文房具が並んだ細長い大卓とは別に、古い大理石のテーブルが屏風のところによせて置かれている。宏子はそこへ陣どった。そして、小型の原稿紙をひろげた。塾では、語学が専門であったから、西洋史なども英語で外国人の女教師が受持った。ところが、その教えかたは昔流儀の暗記一点張りで、内容が貧弱であるのと暗記の努力がばからしいのとで、学生一般から不評判であった。宏子としては、文学が好きで語学の勉強にも入ったのであったが、宣教師の女教師が、語学は地の言葉で出来るというだけで真の教養や感受性をもっていず、而も自分を何か格段のもののように振舞うことに、軽蔑を感じていた。寮でそんな話が栄えた時、はる子が、
「加賀山さん、あんた書いてよ」
と云った。
「『欅』にのせるから」
原稿紙のまま綴じたそういう名の回覧雑誌のようなものを、特に文学好きの十五六人でこしらえているのであった。電話で、はる子が書くもの、と云ったのはこのことなのである。
宏子は、スタンドの灯かげで気持をだんだんまとめた。自分の云いたいことが次第にはっきりして来る。それにつれ、一方で、弟の気持、考えかたというようなものが、自分のそれと何処かでひどく違っていること、或は全く別種なものかもしれないという不安なような珍しいような気が益々つよくした。順二郎の部屋を出て来る時、何心なく見たら入口の鴨居の上に紙を貼って、それにMという字の山形をきつく聳え立たせたような字で Meditation と書いてあった。それも宏子の頭にのこった。自分に一つの標語を与え、それで生活をきびしく律して行こうとする気持は、宏子にも理解されるのである。だが Meditation──そんなものは、夏休み前の順二郎の部屋の鴨居には貼られていなかった。
三枚あまり書いた時、外からそっと書斎の扉をあけた者があった。
「誰がいるのかと思ってびっくりした」
思いがけなく、それは瑛子の声であった。宏子は、自分の書きかけていたものを、テーブルの上でそれとなく裏返し、振かえった。
「──寝てらしったんじゃないの?」
瑛子は曖昧に、ああと云い、
「お前こそ、どうしたの? 寒くないかい」
卓子によって来て見て、
「おや、何か書いてたんだね」
と云った。
「うん……何しろノーベル賞金だからね」
まだ心の半分はあっちにある風で、宏子がそう答えた。瑛子は、どうして女に医学博士はあるのに文学博士は出ないだろう。お前も文学をやる位なら、ノーベル賞金をとる位の意気でおやり、とよく云っているのであった。
瑛子は、娘の冗談に笑おうともせず、両方の袂を胸の前でかき合わせるようにしてストーヴの前のソファにかけた。浴衣をかさねた寝間着の裾が足袋の上にやや乱れかかっていて、古い棒縞糸織の羽織をきている。スタンドの遠い光線からも少しはずれると闇へとけ込む場所に、黙って腰かけている母の姿には、宏子の注意をひきつける、真実なものがあった。暫くその様子を眺めていて、宏子はやさしく、
「ストウヴつけましょうか」
と訊いた。
「そうだね」
つづいて天井の燈をつけようとしたら、瑛子は、
「眩しいからおやめよ」
と止めた。母は涙をこぼして泣いているのではなかった。けれども、何か苦しそうである。心が苦しそうに思われる。その苦しさが肩や頸のあたりに現れている。それは、一種肉体的な苦痛の感じを宏子の中にもよびさますのであった。
「──眠れなかったの?」
「──お父様のやきもちには困ってしまう……」
瑛子は、考えにとりこめられている口調で、床の上に目を落したまま云った。
五
駅はごく閑散で、たまに乗り降りする客の姿が、改札口からプラットフォームの上にまですいて見えるようなところであった。朝夕だけ、どっと混み合い、田舎っぽいバスが頻りに駅前を出たり止ったりした。そして、一つの学校の遠足のような趣に、同じような年頃の、同じような通学服姿の女学生達の、おとなしい、だが圧力のこもった波をその辺に溢れさせた。その時刻がすぎると、バスまでも緊張をゆるめ、僅かの乗客を車内にいれて、かるい後部をのんきにふりながら、短い駅前の町を抜け、軽鋪装をほどこされた道を桑畑と雑木林の間へ進んで行った。
町を出てからは、塾の前に停留場があるきりであった。近辺には人家がない。一本道を更に余っぽど進んだころ、畑中に赤いエナメル塗の看板を下げた自転車屋の新開の店が目に入り、バスは右に折れた。そこで左右に年経た欅、樫、杉の大木が鬱蒼と茂り、石垣の上に黒板塀、太い門柱には改良蚕種販売、純種鶏飼養販売などの看板の出た川越街道へ合するのであった。
この街道の古風な、用心ぶかい表情は、洋服を着た四百人ほどの娘が営んでいる生活とは全く没交渉であるように見えた。僅に地主の次男が出した文具店が一軒あり、その店からは主家に非常ベルがついていた。古くからの駐在所も角にあり、紫メリンス着物に白エプロンをした細君が、縞の敷布団を裏の空地で竹竿にほしているのが、往還から見えた。そういう界隈にまでは、塾の鐘の音も響かないのであった。
二日の休みの後なので、月曜は、どことなくちがった気分がある。発音記号での書取りの時間に、宏子はその機械的な録音作業をいつもより沢山間違えた。
「ミス・加賀山、私はあなたがもっと注意ぶかく出来るのを知っていますよ」
栗色の服を着たミス・ソーヤーに云われた。時間が終ると、隣りの席にいる杉登誉子が、
「あんた、きょう青い月曜日ね」
小さく赤い唇で、秋田訛を云った。宏子は、唇をへの字のようにしてうんうんと頷き、連立って図書室の方へ行った。廊下の突当りの迫持窓から一杯の西日がさし込んでいる。そこで、はる子を中心に三四人かたまっていた。
「あなたどこんところ使うの? かち合っちゃうと駄目だから」
「あら、私そこをねらってたのに……」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
ぷっつり切った髪の切口を青いスウェータアの背中で西日にチカチカさせながら、忍び声をして押しあっている。宏子が近づくと、はる子は黙って手にもっていた本の表紙を伏せて見せた。何とかいう文学士の「詩歌にあらわれた自然観」という題であった。宏子は首をすくめた。
学生に一番苦手なのは英作文の宿題であった。こまると、誰かが日本文の種本を見つけたのを、ひっぱりあってところどころ利用して翻訳し、間に合わせることがあった。外国人の教師は日本語の本はよまなかったから、通用しているのであった。
宏子は、図書室へ入り窓際のところに坐って、暫く仕事をした。帰りかけると、はなれた机にいた登誉子もその様子を見て一緒に出て来た。
「……これから伯母さんの家へかえったってつまらないし……あなたのお部屋へでもよって行きたいナ」
「いらっしゃいよ、かまやしないから」
「うるさいんだもん……」
砂利の敷いてあるところを寮の方へゆっくり歩いて来る途中で、訳読を受持っている戸田がむこうから来た。何かの帳簿を二冊ばかり交織スーツの脇の下にはさみ、大きい鉢植のシクラメンを両手でもっている戸田は、宏子たちが目礼すると、ひどく砕けた口ぶりで、
「どうです、綺麗でしょう?」
そう云いながら手の鉢を持ち上げて見せるようにし、眼尻でにっと笑って、力のある足どりで行きすぎた。
「…………」
「──でも、なぜあの先生、いつもああ、お愛想がいいんだろう、妙で仕様がない」
「…………」
「三年の川原さんての、親類なんだってね」
それは宏子に初耳であった。
「そうお?」
「そうだってことだわ。川原さん、あすこの家から通学しているんですもの、それでいてなかなかあのひとやってるでしょう?」
門の外まで喋りながら宏子は登誉子を送って出た。バスを待っていると、西寮の舎監が、着流しに帯つきの姿で、四五人の予科の生徒と一緒に出て来た。かたまってバスを待っていて、
「よく気をつけて行ってらっしゃいね」
と繰返し云っている。
宏子は部屋へ戻った。同室の三輪が、衣裳箪笥の内側についている鏡を上目で見ながら、湯上りのしめった髪に丁寧なわけ目をつけていた。
「──お風呂へ入るならいそがなけゃ駄目よ」
「ありがとう、いいわ。家で入って来たから」
三輪は隅から桃色フェルトの上靴を出して穿きかえた。そうした上でもう一遍鏡の中の自分を振かえってそこを閉めると、机のところへ来て腰かけた。ずーっと腰をずらして、頭を低くかけ、
「ねえ、加賀山さん、わたし憂鬱になっちゃった!」
持ち前のすこし鼻にかかる声で云った。
「ふーん、また?」
「またってなにさ」
「だってあなたって人は朝昼晩と憂鬱がっているんだもの……」
室内に点されたばかりの灯の色が、窓硝子に美しく映って見える時刻であった。
「だって仕様がないわ、そうなんだもの。きのう環さんとシネマ見て来たのよ。あっちの学生生活を見たら、つくづく私たちなんて詰らないもんだと思っちゃった。何処に我等の青春の歓びありや」
最後の一句だけを、三輪は詩でも諳誦するような調子で英語で云った。宏子は、おこったような眼付をして、肌理のすべっこい、小鼻をつまんでつけたような三輪の顔を見た。彼女は顎をしゃくって、不機嫌に、
「そこに、ある」
フランス語で短くなげつけるように云った。
「そうよ、ここにあるにはあったって──一体ここの先生たち、みんなあっちで勉強して来たくせして、舎監学ばっかしやって来たみたいね。本当に愉快なカレッジライフなんて、きっとしたことがないのね。みんな先生になるひとばっかりでもないんだから、もうすこし感じよくしたっていいのに──学校だって、謂わばお客なんだもの、私達が……」
宏子は、この言葉で、殆どその日になってはじめて大笑いをした。
「本当よ! 私、若い時代に味えることは何だって味わいたいと思う。地方から来る学生が、みんなただ学問だけを求めて来るんだなんて思ったら随分単純だ」
「あなた、グループに入っているの、その気持から?」
三輪はそういう質問を出した宏子の顔を暫く黙って見守っていたが、やがて艶のいい桜色の顔を窓の方へ向けて、
「大丈夫よ」
と云った。
「あなたがたを裏切るようなことはしなくてよ」
間をおいて、
「私は、あなたやはる子さんと違うの。エゴイストなの。だから自分の誇りのためにだけでもそういうことはしないわ、良心のためじゃないの」
自由時間のとき、三輪はテーブルの上から新しく買って来たらしいレコードをとりあげ、
「ちょっと踊って来ない?」
と宏子を誘った。
「登誉子さんでも誘いなさいよ」
小一時間ばかり経つと三輪が、はる子と連立って来た。
「あなた、特別ここへかけさせてあげるわ」
三輪は、枕のところへフランス人形を飾ってある寝台の上に、片脚体の下へ折りこんだ形で坐っている自分のわきのところをたたいた。
「ありがと」
そのまま宏子のところへよって来て、はる子が、
「ちょっと、ハードル、ね」
と云った。
「──じゃ、都合わるかったらブラインドを下げて置く。いい?」
「三十分ばかりよ」
はる子は、骨組みのしっかりした肩を動かして窓をあけると、框へ手と足とを一どきにかけるような恰好をし、もう身軽く外の闇へ消え込んでしまった。宏子は、変な空虚の感じられる開っ放しの夜の窓の前に佇み、闇に向ってきき耳を立てた。はる子が目ざして行った西寮のあたりから、井戸のモータアの音がして、四辺はまとまりのない低いざわめきに満ちている。三輪が寝台の上にトルコ女のように坐ったなり、両方の眉を上の方へ高く高くもち上げ、唇を丸めて下手な口笛でワルツを吹き出した。
六
次の週、宏子は家へ帰らなかった。その次の土曜が、丁度父親の誕生日であった。
宏子は、途中で花屋へまわって茎の長い薔薇の花を買い、それを持って行った。
玄関がしまっていた。ベルをならしたが誰も来ない。宏子は敷石の上に靴の踵の音をさせて、内庭の垣根沿いに台所の方へまわって見た。ゴミ箱のふたがあけっ放しになっていて、その下のところに黒い雑種の飼犬がねている。犬は宏子を見ると、寝そべったまま、房毛の重い尻尾を物懶そうにふった。その途端女中部屋から、声をあわせて笑声が爆発した。宏子たちに物を云う時とはまるで違う、二重にわれたような手放しの笑声なのであった。
宏子は、そんな声で笑った今の今、自分に対して急にとりつくろった発声で物云いをされるのが苦しかった。そのまま、炭小舎の横をまわって、庭の木戸をあけた。人影がない。庭へ立って、二階の方を見上げながら宏子は手を筒のようにして、
「アウーウ」
と大きく抑揚をつけ呼んで見た。順二郎もいないらしい。そこの硝子をあけて、宏子は家へ上った。台所へ行って、
「今晩お父様御飯におかえりなの」
と訊いた。泰造は、一昨日から山形の方へ出張しているのであった。
「母様は?」
「晩御飯におかえりになりますそうです」
持って来た薔薇の花を、宏子は独りで活け、父の書斎へ持って行った。西洋間へ行ってレコードを暫くきいていた。それでも、宏子の心には何か落付かないものがある。宏子は、いつもより小さく緊ったような顔付をして、家じゅうをぶらついて歩いた。
自分の部屋になっていた小部屋の襖をあけて見たら、そこは雨戸がしめきりで、積み上げられている帽子の古箱の形が朦朧と見えているばかりであった。客間の障子をあけて見て、宏子は、驚きを面にあらわした。いつの間にか実生で軒をしのぐ程斜かいに育っていたパジの若木の黄葉が石の上に散りかさなっている。それはよいとして、はじめは燈籠の下あたりにだけあったに相違ない低い笹が、根から根へひろがって、左手の円いあすなろうのところまで茂っている。冬がれのきざしで、それらの笹の葉は小さいなりに皆ふちが白ずんでいる。荒々しさが地べたから湧いて迫って来るような眺めである。
宏子は、呻るような喉声を出して、腕組みをし、庭を眺め入った。子供だった時分のこの庭は、燈籠と楓との裏に狭い小石をしいた空地があり、茶室の前栽も檜葉がしげって、趣があった。自動車をつかうようになって、泰造は庭の仕切りを前へ押し出させたと同時に、庭は昔のような落付きをなくし、荒れはじめた。宏子は親たちの生活ぶりというものを考え、深い興味を感じた。彼等は、一時大勢になりそうであった子供たちのためや何かで、住居も明治三十何年かに買ったままの部分へ、どしどし新しく洋間だの二階だのをつぎ足さして行った。一つの家だが入口と奥とでは東洋と西洋との違いがあり、またその東洋式に様式のちがいがあり、二つある洋間はまたそれぞれこしらえられた年代によって、流儀がちがっている。必要のために、平気で父は庭をちぢめてしまっている。そこには、家の中におさまって磨き立てている趣味とは全く反対のもの、年から年へとうつりかわる自分たちの生活で家をつかんで持っているような、傍若無人さのような、精力的ながさつささえ感じられるのである。加賀山の人たちは生活力の旺盛な人々である。その熱気は宏子によく分った。だが、会うとあれ程よろこびで輝くような父が、誕生日を楽しんで宏子が祝おうと思っていることなど自分から忘れて、すっぽかして行ってしまったところ、母もすっぽかして留守にしているところ、そういう点で、宏子は何か両親とは一致し切れない感情の肌理をもっているのであった。
なお、あっちこっちしていた宏子は、やがて入って来た廊下のところから、脱いだ時のまんま片方庭土の上へ倒れていた靴をはいて外へ出た。台所の外から声をかけた。
「夕飯にはかえりますからって──」
宏子は、本屋へ行く気になったのであった。
一高の横手の通りは、本郷を貫く横縦の通りの中でも最も不便で不愉快な路の一つである。宏子は、歩道のない路を行き交う自動車に悩まされながら、大通りへ出て、三丁目の方へ向って行った。本屋のある側にうつろうとして、宏子が車道の空くのを待っている時であった。むこうの側の車道をつづいて二三台来たタクシーの一番前の横窓から、ほんの一瞥母によく似た女の顔が目を掠めた。見直した時にその車は、もう遠のいてしまった。
宏子は、本屋へ入ると、そのことなどは忘れて、少し上気せた顔付になり、熱中して見て行った。この前、手あたりばったりのように買ったトルストイの新しい角度からの評伝が面白く、文学というものが別な光りに照らされて宏子の前にあらわれた気がした。そういう、文学についての本が欲しい。それには、はる子も大して知識がなかった。宏子はプレハーノフ「文学論」ファジェーエフ「壊滅」という二冊の本を買った。
今度は玄関があいていた。沓ぬぎの上に、母の草履と並んで男靴が揃えられてある。
「お客様?」
「田沢さんが奥様と御一緒にいらっしゃいました」
「…………」
「あのお客様と西洋間にいらっしゃいますから」
そっちへ行かず、宏子は居間の方へ入った。
「申上げましょうか」
「いい、いい」
さっき往来で見たように思った母の横顔の印象が甦って来た。田沢の来ているのが田沢の側からの偶然というばかりではないように思え、宏子は自分の推測がそんな風に動かされるのが辛かった。この間の晩、夜中に起きて物を書いている宏子のところへ来た時瑛子は泰造が田沢の出入りについて感情を害していて困ると娘に訴えた。瑛子はその時、
「父様だって、正田さんの細君が来た時は、一遍入ったお風呂にまた入ったりなすった癖に」
と、何年か前、宏子がうろ覚えに知っている外国帰りの夫人の名をあげたりして、苦笑した。父様だってというのは変よ、その時宏子はそう云った。
瑛子はどちらかというと大きい声で物を云うたちであった。それだのに、今客間は、ひっそりしていた。宏子は、不自然な気がして、苦しい心持がつのり、いっそ帰ってしまおうかと置時計の方を見た。その時間からではもう寄宿の食事もなかった。
洗面所へ行って、宏子は髪をかきつけながら、明るい鏡の面に映っている沈んだ自分の顔を検べるようにじろじろと永い間眺めた。自分は嫉妬しているのであろうか。宏子にはそう考えられなかった。宏子は田沢が始っから好きでなかった。宏子さんがどうこうと田沢が云ったと批評らしい言葉を瑛子がつたえると、宏子はよく、
「ふうむ」
と云ったきりであった。田沢はたしかに泰造とも、順二郎とも、宏子とも、瑛子自身とも違った部類の人間であったが、その違いは、ましなもので異っているのだと宏子には思えなかった。ドイツ語だの、哲学だので外側から身ごしらえしている。人為的人間。宏子は日頃そう思って、自分から進んで会おうとさえしなかった。寧ろ軽蔑を感じているものに、瑛子が、惹かれているように見える。そして、父の留守の父の誕生日に来ている。宏子には、それも苦しいのであった。しかも、この心持を、田沢が知ったら、蒼白い頬を歪めて、それは宏子さんが何と云っても嫉妬しているのです、と穿ったように云うであろう。宏子は二重に腹立たしかった。
硝子戸をあけようとすると出会い頭に、
「おや、姉ちゃん来てたの」
入って来たのは、順二郎であった。
「──順ちゃんいたの?」
「いたさ」
「どこに」
「僕の部屋に──何故?」
「田沢さんが来てる」
「ふーん……僕ちっとも知らないよ。──なアんだ、そうか」
と云った。食卓の仕度が出来ていた。大きいテーブルの上へ、二人分だけ寂しく片すみによせて並べてある。宏子と順二郎とはそれを見おろして、何となくそこへ突立ったままであった。
「お母様はどうなさるの?」
宏子がそこにいる女中にきいた。
「さあ」
「伺っといで」
戻って来て、
「お客様とあちらで召上りますそうです」
順二郎が、ふっくりした素直な顔の上に乱れた表情を浮べ、姉を見た。
「変だな──何故……」
突ったったままで宏子が、非常にきびしい声で云った。
「奥様はこちらであがっていただきます、と云っておいで。おいでになりますまで、順二郎さんと二人で待っておりますから、って──」
女中が去ると、宏子は涙が出て来て堪らなくなった。なお突ったったままでいる順二郎にくるりと背を向け、宏子は全く食慾をそそらず冷めてくる食卓のまわりを歩きはじめた。
底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
1979(昭和54)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
1951(昭和26)年5月発行
初出:「中央公論」
1937(昭和12)年1月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年5月4日作成
2003年7月13日修正
青空文庫作成ファイル:
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