宮本百合子



「──ただいま」

「おや、おかえんなさいまし」

 詮吉が書類鞄をかかえたまま真直二階へあがろうとすると、唐紙のむこうから小母さんがそれを引止めるように声をかけた。

「──ハンカチをかわかしておきましたよ」

「ああそうですか……ありがとう」

 詮吉は、母娘二人暮しのこの二階に、或る小さい貿易会社の外勤というふれこみで、もう三ヵ月ばかり下宿しているのであった。

 詮吉は唐紙をあけ、倹約な電燈に照されている茶の間に顔を出した。

「ひどい風でしたねえ、さあ、どうぞ一杯」

 古い縞銘仙のはんてんを羽織り、小さく丸めた髪に鼈甲べっこうの櫛をさしているお豊が、番茶をついで長火鉢の猫板の上へのせた。キチンと畳んだ二枚のハンケチが、これもまた猫板のところに揃えてある。

 詮吉は、外套の裾を畳にひろげて中腰のまま、うまそうに熱い番茶を啜った。

「きよ子さん、るすですか」

「ええ。おひるっから一寸五反田へやりましてね。──のん気なだから、いずれゆっくりして来るんでしょうよ」

 主人の本田権十郎というのは、詮吉のきいたところでは瓦斯会社の集金か何か勤め、娘三人のうち上二人を片づけただけで、先年死んだ。五反田は、二番目の雪の嫁入先であった。二つばかりの小枝という女の児を抱いてよく遊びに来るらしかった。詮吉とも顔を合わせ、藤製菓の工場へ出ている亭主が、朝早くて夜までおそく、一緒に御飯をたべるのは月に二度がせいぜいで詰らない。そんな話を気さくにして、笑ったこともあるのであった。

 鉄瓶の湯のたぎる音とボンボン時計のチクタクとを年の瀬の押しせまった冬の宵らしく聞きながら詮吉は番茶をのんでいる。するとお豊が、

「今晩もまたこれから御勉強ですか」

ときいた。足のところに置いてある書類鞄に、詮吉は、徹夜で書き上げなければならぬ文書の材料を一杯つめて帰って来ている。大体勉強家と思われているので、日頃そういう挨拶はきいているのだが、今夜の云い方には、何か平常と違って詮吉の注意をひくものがある。

 さて、これからひろげようと思っていた矢さき故、詮吉は用心深い心持になった。

「別に大したこともないけれど……何です?」

 複雑な推測が詮吉の頭に閃いた。留守に何か来たかな。──それで、家の者の態度がどこやら変になり始める。これはよく仲間の誰彼が経験する例であった。しかし、お豊が、伏目で長火鉢に艶ぶきんをかけている顔の表情には、気をとられたようなところこそあるが、どうもそれらしくはない無心な様子が見える。

 詮吉は、やがて冗談めかした調子で云った。

「──心配ごとでも出来ましたか」

「いいえ、心配ごとっていうのじゃありませんけれどね、もしあなたがお暇だったら、一つきいて頂きたいと思うことがあるもんで……」

 詮吉は自分の身に何か関りのあることを直覚し、

「小母さん、よかったら二階へ来ませんか」

 そう云いながら猫板の上からハンケチをとり、立ち上った。

「僕は着物きかえるから……」


 間もなくお豊がわざわざ買っておいたらしい近所の海老せんべいと茶道具とをもって、あがって来た。

 いけてあった瀬戸火鉢の火をほげながら、

「木村さんとこは、日数にすれば浅いおなじみなわけなのに、どういうもんか、私は他人と思えないような気がするんですよ」

 足で蹴るような恰好をして帯を巻きつけている詮吉を後から見上げ、お豊はしんみりした調子で云った。

「私もこれまでには、随分多勢の若い方を見て来ましたが、お世辞でなく、あなたのような方ははじめてですよ。私は、ただのおひとじゃないと思って見ておりますよ」

 とっさに言葉が出なかった。今の今まで、自分がごく平凡な一勤め人として母娘の目に映っている。そう詮吉は安心して、下の人たちの細かい親切をよろこんでいたのであった。言葉につまったような詮吉の顔を見ると、お豊はいかにもこだわりなく、

「そんな顔しなさらないでようございますよ」

 母親らしく声を立てて笑った。

「私はこういう生れつきで、腹にないことは云えない性分ですからね」

 永年二階をかして見て、下宿料をきちんと納めるひとは世間に数が少くはない。遊ばない若い者というのも考えているよりは多勢あるものだ。けれども、勤めの愚痴を一言も云わないで、どんなときでもいそいそと出かける人間というものはないものだ。

「それはねえ、木村さん、誰しも愚痴が出るもんですよ。雨でも降ると、靴をはきながら、ああいやんなっちゃうな、とか、ちっとくさくさしたことがあって帰って来ると、ああァあんなところはもう明日っからやめちゃいたいとかね。あなたばっかりは、うちへいらしてからこの方降ろうが照ろうが、本当にこれから先もこぼさず、勇んで出かけていらっしゃる。──なみのお勤めの方には出来ないことだと私は感服しておりますよ」

 詮吉は思わず唸るような気持になり、

「──なるほど……そういうもんですか」

と云った。周密なつもりでも、詮吉はそこまでは思い及ばなかったのである。あらそわれないものだ。実にそう思った。仕方なく詮吉は、

「まア、お互にやれるうちは元気で暮す方がいいですよ」

 あっさり、笑いにまぎらした。

「そうですとも!」

 お豊は湯呑を両手のなかにもってうなずき、

「ですからね、私は五反田のにもよく云うんですよ。木村さんを御覧てね、ズボンの折目にあんなに泥のたまるのを見れば、決して楽な勤めはしていなさらないらしいのに、ああも暮せるもんだよってねえ」

 誠意のあらわれているお豊の顔を眺め、詮吉は殆ど閉口した。実は、泥のことも自分ではうっかり暮していた──

「どうも……小母さんには──かなわない」

 一緒に笑った。が、お豊はすぐ真顔にかえり、

「木村さん、御迷惑でも、こればっかりは見込まれたが因果と思って、聞くだけ聞いて下さいまし」

 詮吉は、余り思いがけないことなので、次第に眼を大きくしてお豊の顔をうち守った。

 末娘のきよ子が、年が改まると二十はたちになる。不束者ふつつかものだが、おひとを見込んでの相談がある。どうか聟になってやってはくれまいか。そういうのであった。

 ひたむきのお豊の心持は、一言一句のうちに溢れ、詮吉は益々返答に窮した。

 窓に向けて置いてある机に肱をかけていた、それをいつかきっちり腕を組んで坐り、詮吉は、余り突然でどう返事していいか分らない、ありのままを云った。

「──あんまり、あせりなさらない方がきよ子さんのためでしょう」

 それは詮吉の実感であった。詮吉はお豊母娘の勤労者らしい地味な親切をよろこび、いい下宿を見つけたとは思っていたが、きよ子に対しては、自身の困難な毎日の活動条件から、全然問題にしていなかった。

 お豊の方はそうとは知らず、ひたすら自分の目がねの違わなかったのをよろこぶ風で、

「あなたがそうおっしゃることは、わかっておりましたよ。ですからね、猶更私の身にして見れば、ああこんなお方をと思うんですよ」

 そして、両眼に涙をうかべながら、

「あなたのような息子が一人あってくれたらねえ」

 信じきった眼つきで詮吉を見て笑った。

 昔から小糠三合もったら養子に行くなというくらいだから、御覧のとおり何一つないうちへ来てくれとは決して云わない。ただ、生れた子に後をつがせて貰えれば満足だ。きよ子さえあなたに頼めば、もう自分は安心して目がつぶれる。お豊は娘ばかり持った親の苦労を訴えた。

 それやこれやから、話は故郷のことに移った。その場合も詮吉は謂わば一つのたしなみで、生れた故郷ではない、育った第二の故郷について、物を云っているのであった。

 階下でボンボン時計が、いかにも時代ものらしくゼンマイのほぐれる音を立てながらゆっくり十時を打った。

「──もうこんなですか?──とんだお邪魔してすみませんねえ」

 そう云いながらなお未練げにお豊が立ちかねていると、格子が、高い音をたててあいた。

「──きよちゃんかい?」

「ええ」

「二階だよ……ちょっとよせておいただき」

 また、ええという声がし、階子段はしごだんの下で気配がするのに、なかなか上って来ない。

「何してるんだい」

 ふ、ふ、ふ。ひとりで含み笑いしている声が軽い跫音あしおとと一緒に聞え、カラリと唐紙をあけるなり白いショールを手にからめたきよ子が、

「ただいま!」

 見違えるように艶やかな桃割に結った頭を電気の下へ下げた。

「ほほう」

 詮吉は珍らしげな声を出した。

「まア……どれ?」

 横を向かせて見て、お豊は、

「いいじゃないか」

と云った。

「駄目なのよ。姉さんたら、自分が髷に結うもんだから私にも結え結えって。──洗いもしてないんですもの」

 暫らくすると、お豊は娘を先へおろし、やや声を低めて詮吉に念を押した。

「──どうぞ考えておおきなすって下さい。身勝手ですみませんが、気を悪くなさらないで下さいね」

 下から睦じそうに喋っているきよ子とお豊の声がする。詮吉は、書類鞄から大小様々の印刷物をとり出し、机の上へひろげ、煙草に火をつけた。

 詮吉の仲間の男で、それは下宿していた家の娘に信用され、直接結婚を申し込まれたという話があった。その男は、個人的な関係から大事が壊れるといけない、三十六計逃げるにしかずと、怱々そうそうに引越してしまった。

 詮吉は、きよ子に対する心持が恋愛から遠いだけ、寧ろ、お豊が自分を信用するようになったその点から、何とかしてこの母娘にも自分達の活動の性質を間接にわからせてやる法はないものかと思った。それが順だし、よしんばきよ子と結婚しないにしろ、そのことにはそれとしてのねうちがある。

 詮吉は新しい未完成な計画の一つとしてそれを楽しみなくはなく心の一隅に収め、坐り直して書きものにとりかかった。

底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年920日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房

   1951(昭和26)年12月発行

初出:「読売新聞」

   1934(昭和9)年17日、9日、11日号

入力:柴田卓治

校正:松永正敏

2002年422日作成

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