一九三二年の春
宮本百合子



        一


 三月二十九日の朝、私は塩尻駅前の古風な宿屋で目をさました。雪が降っていた。この辺では、宿屋などは夜じゅう雨戸をしめず、炬燵こたつのある部屋の障子をあけると、もういきなり雪がさかんに降っている内庭が眺められる。松の枝につもる雪を見ながら朝飯をしまって、わたしはたった一つの荷物の小カバンを片手に下げ、外套の襟を高くたてて雪の中を駆けてステーションへ行った。宿屋は駅からそんなに近いのであった。宿屋の主人が差さない傘を手にもってやはり後から駆けて来、汽車が動き出したとき、

「じゃ失敬します、また来て下さい」

と右手にすぼめたままもっている傘をふって挨拶した。この人は宿屋をしているが塩尻町の全農に関係し、作家同盟から出ている文学新聞なども読んでいる。前日塩尻町に講演会があり、そこへ自分も来ていたのだ。

 下諏訪までゆく三等の汽車の窓から、雪ふりの山々が近く見える。一面白く雪が積り、黒く樹木の見える信州の山は、自分にハバロフスク辺の鉄道沿線の風景を思い出させた。

 モスクワから帰って来る時、丁度こんな風にたえ間なく雪が降り、黒い木が猪の背中の毛のように見える沿海州の山の間を通過するシベリア鉄道の車室で、わたしはタイプライタアを打っていた。宮本とまたハバロフスクの雪のふる山の間をシベリア鉄道で何日も乗って行って見たい心持がしきりにした。

 下諏訪には製糸女工さんを中心とする文学サークルがある。三月初旬に、作家同盟から江口渙その他三四人の講演団が行って、非常に愉快な講演会をもった。文学サークルの製糸女工さんが動員され、文学新聞に出ていた「セリプレン」という短篇小説を上手に実感をもって読んで喝采を博したという興味のある事実もあった。その時、わたしは皆と一緒に行けなかったので、塩尻まで来たついでに、サークルの人々に会って帰ろうと思ったのであった。

 ステーションにサークルの世話役の人が出迎えてくれ、牛肉屋をやっている○○君の店へ行ったら、そこは下諏訪警察の近くだし、「ここじゃあないよ。大通りから右へあっちを廻ってと云ったろう?」と云うことだった。今度は番傘をさして雪の中を案内の人について、諏訪神社近くの大きい料理屋へ行った。廊下をいく曲りかしたところにドアつきの小部屋がある。西洋風に壁で一方だけに窓がひらき、大炬燵がきってある。そういう部屋に落付くと、直ぐ○○君がやって来て「ここは私の同情者シンパでしてね、重宝ですよ」と笑った。

 サークルの女工さん達は七八人だが職場の都合で夜七時頃にしか集れないという話であった。寄宿にいる人は門限が九時までで、僅かしかおれないから残念がっているそうだ。大体下諏訪の製糸工場は大きいのが少く、女工さんも県内の出身が多く、通勤も相当あるので、文学サークルなども作れる。しかし文学サークルなどを企業の内部へ──工場寄宿舎の内へどんどん拡大してゆくことは相当困難である。どうしても、文学新聞や「働く婦人」を中心として、進歩的な生活気分をもっている女工さんは、工場の外で集り、企業のそとでサークルを持つ傾向がある。しかし、○○製糸工場を中心とする下諏訪のサークルに属する女工さんたちは活溌で、この前の作家同盟講演会の後、主催者であった青年団と町役場との間に問題が起った。作家同盟の誰だったかの話が、帝国主義侵略戦争反対にふれて中止をくい、一時講演者が検束された。それを口実に、町会の反動分子が自主的青年団に抗議を申込み、以来ああいう不埒ふらちな講演会をすることはならん、役員は引責辞職しろ、さもなければ年二百円の補助費を廃止する、とねじ込まれ、男子青年団の方は、まけて辞職し、反動にヘゲモニーをとられてしまった。ところが、共同主催者であった女子青年団の方では、悪い講演会であったとは思わぬという役員の決議で、辞職を承認せず、今もがんばっているという○○君の話であった。女子青年団の方では役員の八分が工場の女工さんで、ほとんどサークル員でしめられているというのは興味あることだった。

 ○○君は自身評議会時代から階級的闘士として立つ以前、製糸工場で「見番けんばん」をやっていた経験がある。私に製糸工場の組織を図解して説明してくれた。長野県だけでもおよそ九万人の婦人労働者がいる。もちろん繊維が主なのだが、製糸工場の組織をみて、わたしは、それがどんなに女工を搾取するためにだけ恥なく仕組まれているかということを痛感した。経営の内部にどんなことがあろうとも、女工は参与し得ないように組織されている。春になると、勧誘員に山の奥から二十人三十人と束にして、若い貧農の娘たちがつれて来られる。彼女たちはそのまま寄宿舎へしめ込まれ、十時間労働でしぼられ、用がなくなると、また勧誘員に追いたてられつつ故郷へと一団になって戻ってゆく。来年はそのときまた改めて契約される。慢性的な季節労働の性質と全然産業奴隷的な悪条件のために、製糸女工の水準は最も低いところにのこされているのである。

「奴等はなかなかうまく考えていますからね、女工さんたちに、毎月現金で賃銀を全部わたすようなことは決してやらない。帳面を一人一人に渡しておいて、字面で書き込むだけ。小遣いは五十銭、一円とかり出しの形式にしておくんです。何ヵ月か働いた賃銀は、勧誘員が女工さんたちをつれて村へかえった時、帳面と合わせて親に渡す。ですから、実質的な賃銀不払いが雑作なく出来るんです。その時になって見るまでわからないし、いよいよ不払いとわかって腹を立ててもとうに工場からは出て、ちりぢりになっているからストライキも出来ない。来年働けば、貰えると思って、ずるずるにまた契約をするというわけです。──今年はひどいね、養成工は十五銭になるやならずだからね」

 日本のプロレタリア文学は、紡績産業の婦人労働者の問題をとりあげている。窪川いね子にいくつかの作品がある。けれども、生糸製糸の婦人労働者のもっと劣悪な労働条件と困難な闘争については、現実があるように大規模な構図をもっては、プロレタリア文学の中に十分、まだとり扱われていない。安瀬利八郎の短篇があるに過ない。

「──いささかここにも立ちおくれがあると云えるかも知れませんね」

とわたしは笑った。○○君は向いあって炬燵に当り、茶うけの香のものをつまみながら、

「一つ『生糸』を書きなさい。大いに後援しますよ」

と云った。

「サークルで組織的に書くことはまだ出来ませんか?」

「そこまでは行っていないね。──だが、正直なところ、私はこの頃になってやっとプロレタリア文化運動のねうちが分りましたね、サークルというものはいいね。何にでもつかえる、やって見て実際驚いた。作家同盟でも、これまで大衆化の問題では、いろいろの経験をやったらしいけれどもサークル活動で本ものになりましたね」

 一九三一年の大会を通じて、作家同盟は文学サークルを企業・農村のうちに組織する仕事をはじめた。音楽家同盟、演劇同盟、美術家同盟なども同じ活動を開始し、解放運動における政治闘争・経済闘争・文化闘争との間に必然的にある有機的な統一と、差別とがマルクス主義の立場からしっかり把握され、実践されはじめた。これは、日本の階級闘争の画期的進展を示すものであるし、同時にプロレタリア作家の階級的質を目に見えて向上させている。(作家同盟のサークル員は全国で四千五百名ある。東京、千四百三十八人中、婦人サークル員は百四十五人いる。)

 雪は午後になっても降りつづけている。I君が、自転車でもう一遍サークル員のところを動員にまわると云って出かけた。I君は二十歳ばかりの青年だが、岩波書店のストライキで首切られ、下諏訪へかえって来てから○○君と一緒にサークルの仕事を積極的にやっているのだ。ふと○○君が、

「あなた、平田良衛君を知っていますか?」

と私にきいた。

「知っています。……どうしたの?」

「つかまりましたね」

「ほんと? いつ?」

「知らないんですか、きのうの新聞に出ていましたよ。小川君、野村さんという人、窪川鶴次郎もやられた」

「その新聞ありますか、あったら見せて下さいな」

 わたしは三月二十八日の黎明に東京を立って塩尻へ来た。その日の新聞は見落しているのであった。女中が持って来た東京朝日新聞を見ると、三段ぬきの見出しで、プロレタリア科学研究所の山田勝次郎、平田良衛、野村二郎、寺島一夫、河野重弘等の同志たちが検挙されたこと、同時に、日本プロレタリア文化連盟書記長小川信一の家で書記窪川鶴次郎、出版所長壺井繁治がやられたことが報道されている。文化連盟の正体暴露という風に、日本共産党と結びつけ、正式の党員であることを承認したとか煽情的に書かれている。山田勝次郎の兄社会ファシストが、そういう活動をする弟をもつことに対して遺憾の意を表している。(!)日本プロレタリア文化連盟に対する反動支配階級の恐怖は、そもそも一九三一年の秋連盟結成の当初から顕著であった。それぞれ合法的な大衆文化団体、作家同盟、音楽家同盟、演劇同盟、美術家同盟等の十三団体を綜合的活動体として日本プロレタリア文化連盟を結成したものであるのに、官憲はその結成を承認しない。中央協議会を解散をもって威脅する。大衆的啓蒙雑誌「大衆の友」「働く婦人」などは毎号発禁つづきであった。それらの雑誌が文化連盟から出ているというだけが、発禁の理由である。封建的絶対主義日本帝国主義は、日本プロレタリア文化連盟結成と前後して満蒙侵略中国再分割の戦争を開始している。この侵略戦争は満州国のお手盛建設で終る性質のものではなく、ソヴェト同盟への侵略と第二次帝国主義世界戦争への口火であることは十分明らかである。しかも、列強ブルジョアジーの計画する第二次世界戦争は、彼等にとっては、不利な諸条件をもっている。社会主義国家ソヴェト同盟の確立と五ヵ年計画の成功。そして、インド、アフリカ、ラテン・アメリカ等の植民地大衆は、今日第一次世界戦争の時のように従順に、帝国主義戦争の尨大な予備軍として利用され殺戮さつりくされる事はがえんじないだろう。大衆の革命的組織は国際的に存在している。ヨーロッパ諸国の勤労大衆は、既にそれぞれ革命の経験をもっている。これらのいわゆる「内憂」が各資本主義間の利害の対立と微妙に絡んでいるのである。第二次帝国主義戦争は世界階級戦である。封建的資本主義国日本はこの戦争において、東洋における帝国主義の番犬をつとめつつある。日本プロレタリア文化連盟は文化活動を通じて常に正々堂々と日本の勤労大衆が現在経験しつつある政治的経験の深刻な階級的意味を啓蒙し、専制と恐慌、帝国主義戦争の重圧からの抜道はプロレタリアにとって何処にあるかということを明らかにして来ている。弾圧は決して無力な階級的組織に向って下されるものではないのである。

 炬燵の上に新聞をひろげて更に眺め、わたしはこの暴圧がどの位の範囲まで拡大するものか、或は終熄するものか見当がつかなかった。○○君は単純にまた例の意地わるが始ったというぐらいに理解している。

「やりますねえ」

と云って、炬燵の向い側から同じ新聞をのぞいている。けれども、記事はわたしの心持に何かもっと重い余韻をのこした。身重みおもな窪川いね子が小さいふくさ包をもって上落合の作家同盟の事務所の横にポンプ井戸がある、そのわきを歩いていた姿を思い浮べた。

 七時頃、若々しい中形模様の着物を着たサークル員の女工さんがやって来るまで、わたしはなお一二度、新聞をとりあげて見なおした。

 二人・五人・七人。男女サークル員がだんだんやって来てその炬燵のある和洋折衷の室はやがて一杯につまった。この前の講演会の結果から始って、女工さんたちの方が男のひとたちより元気にしゃべった。頬を上気させ、しかし手は行儀よく炬燵布団の下に入れたまま。

「そんなこと──嘘ずら!」

「誰が出すもんか。──誰が云ったの?」

「坂田が来たんだって」

「ふーん」

 女工さんたちが幹事をしている女子青年団ががっちりしているので、町会は、下諏訪町にあるもぐりの小新聞の主筆をつかって、組織がえをすれば年に百五十円とか補助金を出すと持ち込んで来ているのだそうだった。

「わたし達が役員に当選したら、先の女子青年団長が泣いてやめてしまったんです。」

「何故泣いたんです?」

「え? 工場へなんぞ出る人と一緒にされてはたまらないんだって」

 女工さんはみんな眼を輝やかせ、っと胸を張って坐り、仲間の一人が何か云うとそれを注意ぶかく聴き、彼女らの云いたい言葉が云われた時にはつよく賛意を示し、愉快そうにこだわりなく笑う。自信のあるみんなの物ごしが自分に感銘を与えた。ソヴェト同盟にいた頃、よく工場で婦人労働者たちの間に交り、喋った。そこの若い婦人労働者たちが示したと同じ性質の注意力、知識慾、階級闘争の実践への吸収力を下諏訪の文学サークルの女工さん達から感じたのであった。彼女らの実質的な明るさは注目に価した。

「働く婦人」はこのサークルでも好評で、重宝ノートなども実際の役に立てられていることが分った。例えば自分の袖口にリボンをつけて切れるのをふせぐという狭い範囲での利用ばかりでなく、一人の女工さんがそんな細工をしていると、ふらりと来かかった他の一人が「何してるの」というようなことになり、「それはこの雑誌に出ているのよ」と「働く婦人」が見せられる。そんな工合に利用されるのであった。サークルからニュースを出すことがそこで決定され、「働く婦人」への通信員も婦人から二人きめられた。

 今日は、下諏訪から満州へ出征させられて戦死した兵士の遺骨が到着したので、青年団の連中は停車場前の奉迎に強制動員されたのだそうだ。

「ここへ来る前塩尻が本籍地だって云うのでもう一度そっちで奉迎やって来たずら。骨をわけて持って来て、またこっちで奉迎だ。雪っぷりに傘もささせぬ。新規の羽織台なしずら」

 ばかばかしそうな口ぶりで農民の君が話した。

「どうだ? 女子の方も行ったかね?」

「行くもんで! 話して来ないもん」

 それから、みんな砂糖豆をたべながら、サークル員がこしらえた「職場の歌」をうたった。「トラム」の歌もうたった。初め一つの歌を大きい声で揃って歌ったら、外は雪の夜だのに温くなっていい心持になって、もう一つ、もう一つと歌った。しまいに暑がって×子が立って窓をあけた。

 その夜十一時すぎの上りで自分は東京へ向った。新宿へ降りたのは省電の初発が出てまだ間のない早朝であった。駅のプラットフォームのまだどこやら寒く重たい軒のかなたに東雲しののめが見えた。東京の夜があけて間もないらしいボロ円タクで走っているうちにだんだん家が気になりだした。角の交番を曲ったところから五十銭だまを握っていて止るとすぐ降り、家までの横丁をいそいで歩いて玄関をあけようとしたら閉っている。戸があいてまだ寝間着ねまきの家のものの顔が出るとすぐ訊いた。

「宮本さんは?」

「いらっしゃいます」

 それで安心して、のろのろ顔を洗っているところへ宮本が降りて来た。

「どうだった?」

「よかったわ、行って……」

 暫く黙っていて、彼はやがて、

「──よく帰って来たね」

と云った。

 日本プロレタリア作家同盟は三月十五・六・七と三日間にわたって第五回大会を開くことになっていた。常任中央委員会から出される報告の一部として婦人委員会の報告、議案が書かれなければならず、その執筆者は、窪川いね子と自分とに決定されていた。婦人委員会は、作家同盟内の婦人作家の世界観と技術とを高め、優秀なプロレタリア婦人作家として成長するために役立てるばかりでなく、作家同盟が一九三一年からの著しい文学活動の発展として拡大したサークル活動に独自的な積極性で参加し、企業・農村における勤労婦人の文学的自発性を鼓舞・指導し、プロレタリア文学の影響のもとに組織する任務をもっている。一九二九年の世界経済恐慌以来、日本の農村と都会との勤労婦人は、労働条件の悪化、日常生活の困窮化によって急速なテンポで階級性に目ざめつつある。これらの勤労婦人たちが、解放に向って闘う階級の半身として熱烈に現実生活の細部で行っている闘争の実践、そのいろいろな姿は隈なく日本プロレタリア文学の中に活かされなければならない。同時に、そういう勤労婦人たちが、工場の職場、寄宿舎の片隅、或は村の農家の納戸なんどの奥で鉛筆を永い間かかって運びながら丹念に書く通信、小説は、たとえ現在では片々として未熟なものであろうと、大胆にプロレタリア文学の未来の苗床として包括されて行かなければならない。下手であろうとも、それらの文章はまず勤労婦人達が自分たちの毎日の生活を通じて階級的な主張を表現してゆく画期的な端緒であり、それこそ正しい階級の武器としてのプロレタリア文学の萌芽である。そしてまた、それはいつも下手であるとは決していえない。主題は自ら階級的見地で扱われていて、或る場合はひどく上手でさえあるのだ。今日真に創造的な婦人作家を生み得る可能をもった階級は、崩壊に向うブルジョア・インテリゲンチャ層ではない。新社会の建設に向って擡頭するプロレタリア・農民層である。

 下諏訪の女工さん達の文学サークルの活動ぶりなどは、この事実を雄弁に語っている。

 下諏訪のサークルから三月三十日に帰京し、その次の日であったか自分は下十条へ出かけた。窪川いね子は数年来下十条に住んでいた。三月二十五日頃日本プロレタリア文化連盟の関係で検束された窪川鶴次郎はまだ帰らず、出産がさし迫っているいね子は風邪で動けないという話である。

 二階へ登ってゆくと、もう数人作家同盟の婦人作家たちが来ている。いね子は床の間よりに敷いた床の上にどてらを羽織って半身起き上り、顔を見るなり、

「ああ、よく来てくれました」

と云った。

「どうなの?」

「もう大抵いいんだけど、ひどい熱が出ちまった。こないだ雨の中をビシャビシャに濡れて歩いたもんだから……」

「窪川さんは? 出られるの?」

「出られるんじゃないかしら。きっとしらみだらけになって来ると思って、ちゃんと着物を用意しているんだけれど……こないだ行って親子丼をたべさせて来た」

 姙娠のためにやつれ、また風邪でやつれながら、窪川いね子は持ち前の落着きと微かなユーモアを失わず、おいしいお茶を入れてくれた。

「戸台さんがゆうべから帰らないのよ。どうしちゃったのかしら……」

 同志戸台は日本プロレタリア文化連盟で働いている。大体「コップ」に対する官憲の妨害は書記長や同志窪川が捕えられた時に始ったのではなかった。ほとんど今年の始めから、絶えず書記局は襲われ、一人や二人、短期の犠牲者は順ぐりであった。それと闘ってやっと来ていたのだが、昨夜からまた戸台の帰らない事実は皆をやや不安にした。二十八日にブルジョア新聞が発表した「コップ」への暴圧が、逆宣伝的に報道された範囲には止まっていず、沈黙のうちに、陰険に各参加団体内部へと拡大されて行っていることが感じられた。

 わたしたちはアンパンをたべながら、婦人委員会の報告、議案の内容について打合わせをした。婦人委員会の一般的任務、組織活動、創作活動について報告し、議案としては、満蒙における日本帝国主義侵略戦争以来激化したファッシズム、社会ファッシズム文化・文学に対する、婦人の独自的抗争の問題、植民地被圧迫民族婦人に向っての積極的働きかけの問題などが課題とされた。

 手帳へそれらを箇条書きにしていると、きっと口を結ぶようにしてそれを見ていた窪川いね子が、急に、

「ねえ、私もう、いやんなっちゃった」と云った。「親父がどうも気が変になったらしいのよ」

 彼女の父親は大森に住んで電燈会社だかに勤めていた。わたしにはすぐ彼女の心持がわかった。夫は敵に奪われ、出産を目前にひかえている彼女が、そのことにも責任を負ってやらなければならぬ立場にあるのだった。

「……中気なの?」

「早発性痴呆とかいうんじゃないかしら……私の風邪もそのおかげなのよ。帝大病院へつれて行ったんだけれど、電車を降りてずっと歩き出すとそのまんまどこまででも真直に行っちまうんですもの。──傘をひろげると、すぼめることが分らなくなるんですもの……とても骨を折っちゃった」

「会社の方はどのくらい休めるの?」

「今は欠勤だけれども、どうせもう駄目だわ」

「そんなに遊んだことがあるのかしら……」

 第一次世界戦争が終り、日本に気違い景気があった頃、彼女の父親は丁度妻を失った時であった。気違い景気のいく分のおこぼれにあずかり、彼も小市民らしい遊蕩をやった。相当ひどくやって、九年の恐慌とともに、その放埒は終結したが、今その不運な成果が現れたという訳なのであった。

「ね、だからマルキシズムは嘘じゃない! こんなことにまでもちゃんと日本資本主義発展と崩壊の過程が現れているんだもの」

 わたしがひどく力をこめて素朴に云ったので、いね子も笑い出し、

「全くね!」

と雄大な腹の上の紐を結びなおした。

「わるいことに悪いことが重るって云うけれど、ちゃんとそれだけの客観的或は歴史的理由があるんだものね」

「そうさ! 窪川鶴次郎がもってゆかれたこと、いね子が一人で赤坊を生まなければならないこと、大森で気が変になったこと、みんな一連の問題で根もとはたった一つなんだもの……。がんばろうよ、ね」

 組合の仕事をしている人との間では、仕事の関係上、結婚生活が従来の型では行われない場合が多いらしい。プロレタリア文化活動の分野でも、運動が高まるにつれ、家庭生活も当然変化して来て、だんだん夫婦がいつも必ず一つ屋根の下に暮すことは出来ない場合がふえそうだという話が出た。

「一緒に暮せる間、万々遺憾ないように大いに積極的に暮すべきだわね」

「そんなことになると、作家同盟の婦人作家が片っ端から『愛情の問題』の傑作ばかり書いてやりきれなくなっちゃうかもしれないね」

 これには思わずみんな笑い出し、云った当人の窪川いね子も床の上に座ったなりハアハアと笑った。笑いながら、この問題はみんなの心につよく刻まれたのである。


        二


 大会が迫っていること。「働く婦人」の締切期日が来ていること。「婦人之友」に連載していた小説を書かねばならないこと。それ等でわたしは毎日忙しい。宮本もさらにいそがしく、一つの家におりながら、廊下で顔を合わせたりすると、

「どう?」

「どうしたい」

という風な言葉を交した。けやきの木の下にある二階家は活動的な空気でいっぱいである。


 四月三日の晩、小林多喜二が来た。そして、中野重治が戸塚署へ連行されたことを話した。作家同盟の事務所できいて来たのだそうだ。

「原泉子は知っているだろうか?」

とわたしがきいた。中野の妻は左翼劇場の女優として働いているのである。

「さあ、どうだろ、まだ知らないんでないか」

 小林が特徴のある目つきと言葉つきとで云った。

「電話をかけてやるといいな」

 わたしは駒込病院前の、背後から店々の灯かげをうける自働電話で築地小劇場を呼んだ。原泉子はすぐ電話口へ出てきた。てきぱきとした調子で、

「知ってます。××さんの細君が知らしに来てくれた」

と云った。

「今夜、あたし十一時すぎでなくちゃ帰れないんです」

 何のために、どの位の予定で中野重治が引致されたのか、それは原泉子にも不明であるらしかった。わたしは電話をきり、動坂の中途で紙袋に入れた飴玉とバットを買って戻った。小林多喜二は元気にしゃべって十時すぎ帰りがけに、玄関の格子の外へ立ったまま、内から彼を見送っているわれわれに向い、

「どうだね、こんな風は」

と、ちょっと肱を張るようなかっこうをして見せた。彼は中折帽子をかぶり、小柄な着流しで、風呂敷包みを下げている。宮本が、

「なかなかいいよ。非常に村役場の書記めいていていいよ」

と云った。

「つまり小樽むきということだね、……じゃ、失敬」

 夜気に溢れる笑声に向って格子をしめ、小林は下駄の音を敷石に響かせて去った。

 村山知義が召喚されたのはその翌日である。


 四月七日の午後六時すぎごろであった。街燈はついたがまだすっかり暗くはなっていない夕暮の通りをわたしは一人鞄を下げて歩いて来て、家の格子の外に立った。ふだんのとおり、静かに格子は閉っている。ベルを鳴らすと、誰かがすぐ出て来て格子の錠を内からはずしたが、その時、後からさす電燈で、男の頭のかげがくもり硝子にちらりと映った。おや誰が来ているのかしら。そう思った時、もう格子が開き、こちらを向いて家の中にむんずと立ちはだかっているのは、真黒い顔をした警視庁の山口であった。

「警視庁です」

 威圧的に云った。黙って靴をぬいで玄関に入り、

「いつからいたんですか」

とわたしは訊いた。

「今朝七時からお待ちしていました。──はりこみです」

 わたしが非常に不愉快な気持で、ずんずん廊下を茶の間の方へ行くと、後から、

「お一人ですか」

と山口が云った。

「一人です」

「どこへ行っていたんです」

「親の家です」

「×町の方ですか?」

 意外そうにききかえした。

「いや、田舎に家がある……」

 台所のわきの四畳半の茶の間へ行くと、入ったばかりの所に小娘のヤスとその姉とがかたまって、息を殺した目つきをして、鞄を下げたなり入って来たわたしを見上げた。その脅やかされた様子を見ると、侵入者に対する憤りがこみ上げ、わたしは、できるだけあたりまえの調子で、

「お茶を入れておくれ」

と云った。帽子をぬぎすてて、チャブ台の前に坐った。熱い茶をゆっくり飲みながら、家がこういう状態になったことを、何とかして宮本に知らす方法はないかと考えた。

 わたしたちは仕事をもって海岸にある親の家に行っていて、自分ひとり帰って来たところであった。宮本とはステーションでわかれたぎりである。彼は、それから広い東京の中で、どこへ用たしに行ったか、わたしには分っていない。だが、それでも知らす法はないものか。ぜひ知らせたい、と思った。ここはわが家で、しかも今は敵に占領されたのだ。わが家と思って、彼が帰って来ることがあってはならぬ。──

 わたしが時間をかけて茶を飲んでいる次の部屋の前にある縁側の方から、もう一人別なスパイが首から先に上って来て、山口とこそこそ話し、しかも抜け目なく襖一重のこっちの気勢を監視しているのがわかる。連れてゆかれるものと思い、わたしは生卵を二つのんだ。やがて、電話か何かかけに山口が出て行った。わたしは家の者に耳うちして二階へ上らせた。そして若しかすると何かの合図になるかと思い、窓や、電気スタンドの工合を平常と違うようにさせた。山口がすぐ戻って来ると、入れ違いにもう一人のスパイが足音を盗んで二階の階段をのぼって行った。窓も、スタンドも元のとおりにして来たと見え、間もなくまた足音を忍ばして二階から下りて来た。それがすむと山口が、

「じゃ、これから任意出頭という形で、駒込署まで来ていただきます。多分今夜かえれると思いますが……」

 わたしは、ゆっくり服を温い方のに着かえ、外套をも裾の長い方のにとりかえた。家のものと留守をどうするということを話していると、

「あまり話されちゃ困ります」

と云った。

「家のものだもの、話があるのは当りまえですよ」

「──家のものだからいけないんだ」

 ハンケチを二枚持ったら、

「それより、手拭の方が便利でしょう」

と山口が注意した。

「──じゃ行って来るからね、気をつけておいでね。心配しないでいいんだから──」

 その時外はすっかり夜で、細かい雨が降り出していた。寒さの用心にスウェーターを包んだ風呂敷包みをかかえ、傘をさし、もう一人のスパイと人通りのない雨の横通りを歩いて駒込署へ行った。

 二階の狭い高等室に誰もいず、カサのないむき出しの電燈が、机の上のさまざまな印形の詰った箱だの「自警」という雑誌の表紙だのを照らしている。あたりは埃っぽく、きたなく見えた。椅子にかけて見廻していると、

「──どうした」

 瘠せぎすで神経質な顔に一種の笑いを浮べて中川が入って来た。警視庁の芸術運動係りとして、プロレタリア文化活動をする者にとって忘れる事の出来ない暴圧係りの中川成夫という警部だ。口先を曲げ、にらむようにしながら、

「君ひとり様子を見に帰ったというところか」

といった。

「あなたがたの方からいうと、そういうことになるんですか」

「そうさ」

 日本プロレタリア文化連盟に関し、今度は君の態度を明らかにしてもらおう。文化団体の資金関係。うえとの関係。

「それに、こういうものもある」

 書類入鞄から中川は「大衆の友」の附録、選挙特輯号を出して見せた。

「『働く婦人』の問題もある。……」

 黙っていると、中川は、

「どっちみち大したことはないさ。二三年行って来りゃいいんだ。──気の毒だが君もこれからは不安な生活をしなければならないね」

 自分の顔から目をはなさずそういって煙草の煙を何度にも口からはいた。

 わたしは自分が日本プロレタリア文化連盟の関係によって引致されたものであること、そして、官憲は、他の文化団体の同志たちに対してと同様に、合法的な日本プロレタリア文化連盟を潰し、合法的な階級的文化活動者としての活動を妨害するための、陋劣ろうれつな作業を、私に向っても開始したことを理解したのであった。

 中川は宮本の行先について訊いた。私が何を知っていよう。中川は私の所持品を調べたのち、

「さ、留置場へ行こう」

 先に立って高等室を出、警察の正面玄関横から登る階段とは違う狭いガタガタした裏階段を下り、刑事室の前に出て、右手つき当りの鉄格子入りのくもり硝子の戸をコツコツと叩いた。戸の高いところにその部分だけ素どおしのガラスで小さい円い「覗き」がついている。一対の目玉がそこからこっちを見、すぐ掛金をはずした。中川は開けた戸の外に立っている。わたしだけ内の廊下に入ると、正面に二つ並んでいる鉄格子のなかが、その中でぞっくり伸び上った沢山の男のいろいろな形の顔と囁きで充満した。脂くさい、不潔な臭気とむれ臭い匂いが夜の空気を重くしている。ここは上の高等室よりなおなお薄暗かった。頑丈な鉄格子のすき間から体は動かせないまま何ともいえない熱心な好奇心をあらわしてこちらを見ているどっさりの眼と、そうやって人間を詰めた檻の外に、剣を吊って制帽をかぶった警官が戸に掛金をかけて入っている光景は、野蛮な、常態を逸した第一印象をわたしに与えた。看守は板壁に下っている下足札のようなものをとって私の風呂敷包みをしばり、

「二号というのが君の番号だから」

といった。身体検査をし、靴をぬいでアンペラ草履とはきかえた。便所に行くために左端れの監房の前を通ったら、重りあってこっちを見ている顔の間に一つ見馴れた顔を認め、わたしの目は大きくひろがった。文化連盟出版所の忠実な同志今野大力が来ている。角を曲りながら小声で、

「きょう?」

と訊いたら、今野は暗い檻の中からつよく合点をし、舌を出して笑いながら、首をすくめて見せた。

 女のいれられている第一房は三畳の板敷で、垢光りのするゴザが三枚しいてある。鈍い電燈の光を前髪にうけ、悄然として若い女給らしい女のひとが袖をかき合わせてその中に坐っていた。ここへわたしも入れられ、向い合って坐った。三方の壁は板張りである。天井を見上げると薄青いペンキ塗だが、何百人もの人間が汗とあぶらとをこすりつけた頭の当る部分、背中でよりかかる高さのところだけ、ぐるっとよごれて、黒くなっている。女給らしいひとは、わたしの様子をそれとなく見ていたが、しばらくして、

「冷えますわねえ。……私おなかが痛くて」

と堅く冷たいゴザの上で体を折りまげた。

 八時になると留置場の寝仕度がはじまった。留置場独特の臭気を一層つよく放つ敷布団一枚、かけ布団一枚。枕というものはない。廊下についている戸棚から各監房へ布団を運び入れるところをみていると、女の方はどうやら一組ずつあるが、男の方は一房について敷が四枚、かけ四枚。それに十人近い人数が寝るのだった。

「旦那。今夜もう一枚ずつ入れさせて下さい。お願いします。冷えると夜中に小便が出たくなってやり切れないんです」

 切れた裾が襤褸ぼろになって下っている絹物の縞袷を着た与太者らしい目のギロリと大きい男が、そういって小腰をかがめ、看守の返事を待たずさっさと布団を出している。卑屈な要領のよさというようなものが、その男の挙止を貫いている。わたしは、監房の戸にくっついて立ち、そこに張ってある目の細かい金網をとおして、二尺とはなれぬ廊下での光景を見ているのだ。九時になり、十時になり、十一時頃になるまで、ガラガラと留置場の入口があく毎に、わたしは臭い布団の上におきなおり、誰が入って来るかと廊下の方をみた。宮本が、もし今夜家へ帰るとすれば、九時頃帰るといった。留置場の戸が開くと、万一と、思わず頭がはね上るのであった。

 ぐっすりと一息に眠った。午前五時頃に目が醒めた時は、もう隣の房、その隣の房でも起き仕度をしている。まだ夜はあけきらず、暗い。巡ぐり戸棚に布団をしまい、洗顔にとりかかる。

 監房の外の一間幅に四間の板廊下の右端にトタン張の流しがあり、そこに水道の蛇口が一つ出ている。半分にきった短い手拭はその横の板壁に並べてかけてある。石鹸はつかわせない。歯ブラシもつかわせない。水で顔をぶるんとするのであるが、二つあるトタンの洗面器は床にかける雑巾を濯ぐのと共同である。その床は留置人がアンペラ草履で便所の往復に歩き、看守は泥靴であるく床である。そこへかけた雑巾を洗うのが、顔を洗う洗面器である。留置場でヒゼンが流行はやる話をきき、またこの不潔なやり方を見て、何よりわたしは淋毒が目にでも入っては大変だと恐怖を感じた。

 ともかく顔を洗い、監房に戻って坐ると、寒さが身にこたえはじめた。七時すぎになると、小使が飯と味噌汁を運んで来た。塗りがげ得るだけ剥げきった弁当箱に、飯とタクアンが四切れ入っている。味噌汁は椀についでよこすが、これがまた欠け椀で、箸はつかい古しの色のかわった割箸をかき集めたものである。こういう食いものを、監房の戸の下に切ってある高さ四寸に長さ七八寸の穴から入れてよこす。

 駒込署の弁当は、三度とも警官合宿所の賄から運ぶものであるが、請負制らしく、一食八銭の規定が実質的に守られてはいなかった。八十日の間味噌汁はいつも、昨日の昼或は夜のあらゆる残物をぶち込んで煮なおしたものであった。それだから一椀の汁の中から、葱のこわい端が出る。豆腐が煮くたれてこなごなになったものが出る。キャベジの根を切ったものが出て来る。穢い食物である。

 昼飯十一時すぎ。夕食は四時過であった。副食物は、粗悪なヒジキ。刻み昆布の煮つけ。大根と悪臭を放つ魚のあら骨とのごった煮。ジャガ薯煮つけ、刻み牛蒡ごぼう等で、昼、夜と二食同じ副食物がついた。そして、それは大抵二日ずつ繰返される。「がんもどき」を八十日に一度、粗悪な魚のきりみ一度。食いかけの入った干物一度、稀に豚のコマ切れのまざった牛蒡の煮ものは、御馳走である。食物の粗悪なことは留置場の一般的不平であった。弁当が配られると、

「チェッ! 何と思ってやがるんだ。出たら一つこの弁当屋にあばれ込んでやるから!」

などという声がした。しかし当時駒込署には左翼の同志が少数で、その一般的不平をとりまとめ、例えばメーデーの監房内闘争にまで高めるというようなことはされなかった。大体、駒込署の弁当が実質以下であることには理由があった。検束拘留された者の弁当代は留置期間警察もちである。ところが拘留があけても官僚的警察事務の関係で、その朝釈放されず、さらに一日または二日と引っぱられる者がしばしばある。署の会計係は帳面づらにしたがって賄いに支払ってゆくから、賄は警察の形式主義によって年に何百本かの弁当を食い倒されていなければならない実情にある。警察の賄などこそ零細な利潤目あての営業であるから、一食八銭のうちから利潤と食い倒される分の埋め合わせとを差し引き、留置人には五銭にも足りないような劣悪な弁当を食わせることになっているのである。留置場第一日において、わたしは先ずそのような味噌汁で朝はやや体を温め、昼をすましだんだん落着いた心持になって来た。何日留置されるかは知らないが、わたしにとって検束は始めての経験である。三畳の監房の中をゆっくり歩きながら考えた。日本プロレタリア文化連盟に関する問題でわれわれのとり得る態度は一つしかない。日本プロレタリア文化連盟は、合法的な文化団体であり、発展する人間社会の歴史性にしたがって文化活動を行う団体である。プロレタリア婦人作家として、自分は卓越した多くの同志とともにそのために働くことを名誉ある任務と信じている。日本における一人のインテリゲンツィア出身の婦人作家として、最も当然な必然な歴史的発展の道に立っていることを信じて疑わない。われわれのなすべきことは、解放運動の重要な一環としてのプロレタリア文化運動の必然性を明らかにし、当然の合法性とその活動とを主張し擁護、拡大することだけなのだ。支配階級が自身の崩壊を守ろうとして、革命的大衆と、その文化組織に向って投げる狡猾で卑劣な投繩は、綿密に、截然と切りとかれなければならない。わたしは、ソヴェト同盟の文化活動の発展と実績とを自分の目で見ている。地球の六分の一を占める社会主義社会では、婦人大衆にとってもどれ程合理的な生活が営まれているかという事実を目撃し、その社会的事実を生活してきているのである──。

 ごく小声で歌をうたいながら、わたしは監房内の穢れた板壁に刻みつけられているらくがきを見た。らくがきの数は少く、それも削ったり、字を潰したりしてあるのが多い。高いところに原政子様と書いてある。食物を出し入れする切穴のわきに「党」と深く刻まれ昭和三年八月十日と書いてある。「万歳」と薄くよめた。「日本共産党」と左側の板壁に大きく刻まれ、その字の上を後から傷だらけにしてある。

 自分一箇についてわたしは何の心配をも感じず、深い客観的な自信というようなものに満たされてあったが、昨夜以来の同志たちの消息が気にかかった。夕方になるにつれ不安な期待が生じた。四月八日の夕刻、日本プロレタリア文化連盟婦人協議会の婦人たちが動坂の家へあつまる予定になっているのだった。その家は今最も危険な場所となっているのであった。

 果して六時過ぎ演劇同盟の沢村貞子とプロレタリア産児制限同盟の山本琴子とが、留置場へつれられて来た。沢村貞子が動坂の家の方へ歩いて行くとむこうから妙な男と連れ立って山本琴子がやってくる。これはいけないと思い、そのまますれ違いかけたら山本琴子が、

「アラ!」

と声を出して立ちどまりかけた。それでスパイが沢村貞子に気づき、

「ホ、君も同類か。じゃ一緒に来い」

とつれて来られたのだそうである。

 沢村貞子はその夕方すぐ四谷署へまわされ、山本琴子だけが自分と一緒に駒込署に検束された。


 監房の中はわたしひとりになった。

 四月に入ってはいるが、毎日雨が降る。じかに床に坐っているので冷える。ヤスが和服と暖い下着をさし入れてくれたのを着て、綿ネルの襤褸ぼろになった寝間着を畳んだものの上に坐っている。留置場へ入れられた翌日も雨で寒かったから、多勢の男のいる保護室の誰かがその上に座っておれと云ってその古ネマキを貸してくれたのであった。

 トタンの雨樋を流れる雨の音のあい間に、

「ねえ、旦那やって下さいよ、お願いします」

と、保護室でいっている。

「さっきの交代の時、次の時間まで待てと云ったからおとなしく待っていたんですから……ねえ、旦那」

 便所へやってくれというのである。わたしは腹立たしい心持と観察的な心持とでそれを聞いている。

 わたしのところからは見えないが、看守は保護室の真前のところをぶらついているらしく、

「……だから行けよ、戸をあけて」

と太い低い声でいっている。四畳半の保護室はやはり板敷であるが、戸は木の縦棧が徳川時代の牢のようにはまっているだけで、やせた腕なら棧の間から手先をさし込み、太い差し錠の金具をひっぱり出すことが出来るのである。今もそれをやってみる金具の音がした。

「──駄目だ!」

 錠が下してあるのだ。看守はそれを知っていっている。留置場じゅうがそれを聞いている。雨つづきと、板敷へじかに何日も坐りつづけているのと、粗食とで体は冷えこみ、少し寒い日は誰でも小便がひどく近くなる。それを一々看守にたのみ、監房をあけて貰って、小便に行かなければならないのだ。

 十分ばかり沈黙の後、今度は別な声で、

「旦那。一つ便所ねがいます」

とやや威勢よくいった。

「…………」

 それは黙殺された。

「──ねえ、旦那」

 再び元の中年寄の声だ。

「あけてやって下さいよ。洩れちゃいますよ」

「いいからそこへやっちまえよ」

「穢くってそんなことが出来るもんかね。ねえ旦那、お願いします、わたしゃ病気なんですよ」

「──嘘つけ!」

「本当ですよ。見せましょうか。淋病なんですヨ」

 看守はやや暫く経ってから、留置場の入口近く置いてある小テーブルの裏から鍵束をとり、ゆっくりと、さっきから頼んでいる保護室ではなく、わざと第二房の戸の方を先にあけた。

 留置場の看守は二人一組。午前八時から翌日の午前八時迄二十四時間勤務で、一日交代であった。一時間留置場の内に看守すると、次の一時間は外へ出て休む。交代の時は二人の巡査が互に挙手の礼をし、

「二十九名。二人出ています」

という風に報告し合うのである。

 同じ看守の日であった。第二房にいるそわという青年が薬を買って貰いたいと看守に要求した。

「すみませんがオリザニンを買わして下さい。ずっと飲んでいたのが切れて困ってるんですから」

 その看守は監房の前に立ってチラリと留置場入口の戸についている覗き穴の方を振りかえり、それからこっちを向いてニヤニヤ笑いながら、

「うむ、よし。買ってやる」

といった。

「本当にお願いします。僕はこれからもう二十九日ぐらい蒸されるだろうし、未決へ行かなくちゃならないから脚気になると実際困るんです」

「だから、買ってやるっていってるじゃないか」

 東北訛のある発音の低声でその若い看守は答え、一つところに立ってニヤニヤしている。本当に買うのなら、看守は、留置人の番号によって保管している金を出し、小使に命じなければならないのだ。

「──お願いします」

「うむ」

「……この前猿又を頼んだ時にも、あなたは返事ばかりして結局買ってくれなかったじゃないですか。──頼みますよ」

 爪先だった大股で入口の覗き穴のところから外の様子を見て、誰も来そうもないとわかると看守はまた落付きはらって、お前の方がとるべき態度をとれば、こっちもきいてやるという意味のことをいった。

「六十日もいて、原籍をいわないじゃないか」

「われわれ共産党員には鉄の規則がある。それは守らなけりゃならないのです。……だが、そんなことはあなたに直接関係ないじゃないですか。買って下さい」

 彼は広島で青年同盟の中心的活動をして、東京へ出て間もなく捕えられたのだそうだ。二十一歳の労働者出の革命的な青年である。岨と看守との押し問答がだんだん嵩じて来て、六十日間にすっかり頭髪の伸びてしまった岨は、腹立たしそうに、

「なんだ! それで君の任務がすむと思ってるのか!」

といった。

 頬骨の出た看守の顔が紅くなった。

「おい!」

 呻るようにいうと看守の相恰が変った。

「こっちへ出て来い」

「出ないだっていい!」

でえろというのに」

 ガチャンと監房の戸をあけた。たちまち、取組み合って、くんずほぐれつする凄じい物音が監房内部で起った。

「旦那! ね、旦那! 若いんだから勘弁してやって下さい。ね、旦那!」

 ひどい音がしたと思うと、どっちかが監房から仰向きに転り出して留置場入口の戸にぶつかり、はじきかえった。留置場は声こそ出さないが総立ちである。コツ、コツ。入口の戸を叩いて、休み番の看守が入って来た。ただならぬ物音をききつけてきたのだ。が、入って来た看守は一言も訳をきかず、格闘した看守の方も息を弾ませながら何事も説明しない。黙ったまま腰に吊っている剣をバンドごとはずすと改めて監房の内へ泥靴のまま突進していった。再び激しい格闘が起り、今度は岨が完全に組敷かれたらしく、幾度も、幾度も力の限り頭を監房の羽目板にたたきつけられている。一度うちつけられる毎に、わたしが息をつめて坐っている第一房の羽目の間からもうもう埃が立ち舞った。そんなにひどくぶつけられ、やがて頸でも締められたらしく変な喉音が聴えた。亢奮して看守が監房から出て来た。

 後から来た方の看守が黙って自分のいる第一房の監房へ入って来、羽目のところを調べ、手でなでて見た。それから二人の看守はやはり黙ったまま、協力して金棒から脱れ加減になった入口の戸の工合をなおし、すっかりすむと獣のようにつかみかかった方が出て行った。

 わたしはそれから直ぐ便所へ行き、通りすがりにとなりの第二房を見た。まるで何事もなかったようだ。岨も入れて七人の男がキチンと三畳の監房の羽目を背負って向い合いに並び、二三の者がうなだれている。保護室の前を通ると、眼の大きい与太者が、

「──どうです、先生!」

と声高に、消極的な抗議をこめた調子を表していった。黙ってわたしは便所に行って帰った。留置場内の出来ごとというものが、入口の戸一重のこちらに限られ、世間から遮断され、警察内部でさえ特別地帯とされているという事が、実際にはどんな事実を意味するものであるかを知った。また監房内で正座させる規則というものが、いかにブルジョア形式主義による偽善的効果をもつものであるかを知った。

(留置場へは署内のいろいろな警官が頻繁に来る。廊下においてある小卓子テーブルの上に特別なケイ紙が備えつけてあり、そこに時間その他が刷ってある。それへ認印を押しにちょっと顔を出すのである。或るものは監房の方へ顔を向けズーと一通り廊下を歩いて視察した。だが、彼等は、たった今看守がどんなに岨に惨虐を加えたかということは表面何の変りもなく正座しているところから見てとることはしないのだ。形式的見まわりは夜中でも来た。看守は夜中も昼と同じように挙手の礼をし、『二十九名、内女一名です。異常ありません』と報告した。)


 四月十一日頃であった。朝九時頃、便所へ行きがけに保護室の角を曲ろうとしたら、第一房の錠が開く音をききつけて、待ちかねていたらしく、今野大力がすっと金網ぎわで立ち上り、

「蔵原がやられた」とささやいて坐った。

「いつ?」

「二三日前らしい」

 このニュースから受けた印象は震撼的なものであった。帰りしなに、

「ひとりでやられたの?」と訊いて見た。

「そうらしい。しかし分らないよ」

 今野の、口の大きい顔は、そういいながら名状出来ない表情である。わたしは蔵原惟人には個人的に会ったことはない。けれども、日本におけるプロレタリア文学運動の発展の歴史と彼の業績とが、切っても切りはなせない関係にあることは、プロレタリア文学について一言でも語るものは一人残らず知っている事実である。日本におけるプロレタリア文学運動の当初から、その当時にあった客観的条件を、マルクス主義芸術理論家としての立場からたゆまず積極的にとりあげ、階級的文化運動を押しすすめて行った彼の努力は普々なみなみならぬものであった。蔵原惟人自身の芸術理論家としての発展の跡を辿って見ても彼が生活態度そのもので混り気ないマルクス主義者であったことは明らかである。彼は書斎的に、実践とは分裂させてソヴェト同盟のプロレタリア芸術論を日本に翻訳し紹介したのではなかった。解放運動の一環としてのプロレタリア文化運動、芸術運動を、常に革命運動の全体性との関係において実践して行きつつ、客観的現実に対する正しい政治的把握から芸術理論の発展の萌芽を敏速にとらえ、その展開、押しすすめのためにあらゆる国際的な経験を精力的に摂取し、批判し、具体的な文化闘争の実践の中に活かした。だから芸術理論家としての蔵原惟人は、日本におけるプロレタリア解放運動全体の必然的発展とともにその前衛として発展している。資本主義日本における激化した階級対立と、その革命性の見とおし、その政治的方向を国際的見地からはっきり掴んでいたからこそ、同志蔵原はプロレタリア文化闘争において頼もしい実践的理論的指導者であり得た。彼が一九三一年六月の「ナップ」に古川荘一郎という筆名でのせた「プロレタリア芸術運動の組織問題」及八月同誌掲載の「芸術運動の組織問題再論」等の論文の検討をとおして、作家同盟の画期的な方向転換が行われ、文学の基礎が工場、農村の「真にプロレタリア的な基礎」におかれるようになり、サークル活動が勤労大衆の生活にくい入るようになった。

 蔵原惟人はすべての革命的勤労大衆に親しい存在であった。

 アンペラ草履をあっち向きにそろえて脱いで、後じさりに監房へ入る顔の前で、看守はガチャリ錠をおろした。だがわたしは坐らず、両手をうしろに組んで、穢い、つめたい羽目板にもたれて立ちながら、感動に満たされた心持であった。

 このようにしてわれわれは鍛えられていく。何よりもその感じが深くあった。敵は中野重治を奪い、窪川をとらえ、壺井繁治をとらえ、蔵原までひっとらえて活動を妨害する。が、それで日本の湧き上るプロレタリア革命とその文化的欲求が根だやしに出来るとでもいうのだろうか。例えばわたしひとりについてみてさえも、この暴圧はプロレタリア婦人作家としての新たな決意を与えるにすぎない。みんながそうだ。プロレタリアの世界観をもつ者は敵の襲撃をも、それを受けた以上は必ず発展的に摂取する。闘いを通して、中野重治はさらに確乎たる革命詩人と成長するであろう。村山知義も鋭さを加えるであろう。捕えられた同志に代って、新たな部署についた同志たちは、また複雑な闘争を経て急速に政治的にも文学的にも発展せずにはいられない。このように敵が集中した襲撃を加えて来ることは、とりも直さずプロレタリア文化運動の拡がりと深さを意味するのだから、やがて工場、農村のプロレタリア文学通信員の中から、じりじり優秀な革命的芸術家が出て来るだろう。敵はこの力を止めることが出来るか? プロレタリアなしで彼らの資本主義生産が一日でもやって行けるか? 彼等が半封建的な資本主義的・地主的権力である限り、プロレタリアはプロレタリアであることをやめない。闘争をやめぬ。資本主義の矛盾はここにも現れて、数人の前衛をうばったことは、逆にこれの何倍かの活動家たちを生み出す結果となっているのだ。

 洋々とした確信が胸にみち、自分は思わず立ったまま伸びをし、空に向いて笑った。声を出さず、ひろく唇をほころばして順々に笑った。

 午後二時ごろになると、特高係が留置場へやって来てわたしを出し、二階の一室へつれ込んだ。墨汁だの帳簿だのの、のっかっていたテーブルの向う側に、黒い背広を着、顔の道具だてがみんな真中に向ってすり詰ったような表情の警視庁の特高が腰かけている。

 帝大の学生の東というのを知っているだろう。その学生は青年同盟の出版物へわたしの原稿を貰っているのだといった。

「そんな学生は知らない。またそんな原稿もきいたこともない」

「そんなことはないでしょう。現にあなたの家へ行ってつかまっているんですよ」

 目をじっと据え、癖のある嘲弄的な口元で、しつこく繰返した。押し問答の後、その特高は書類鞄の口をあけ、数枚の写真をとり出した。手札形の大さで、髪にコテをあてた派手な若い女の写真などがある中から一枚ぬき出して、

「これを知っているでしょう」

と、こっち向きにして見せた。大島らしい対の和服で、庭木の前に腕組みをして立っている三十前後の男の七分身である。色白で、おとなしいひげが鼻の下にある。──

「──誰です?」

「知ってるでしょう」ニヤニヤしている。

「知らない」

「そんな筈はない」

「だって、知らないものは仕方がありませんよ」

「──知らないかナ。蔵原ですよ」

 わたしは我知らず顔を近づけ、さらに手にとりあげてその写真を見た。洋服姿の古い写真をいつか見た覚えはあるが、こんなのは初めてであり、本物かどうかさえよく分らない。写真の裏をかえして見たら、白いところに蔵原惟人、当年三十二歳と書いてある。

「つかまったんですか?」

「あんなに新聞にデカデカ書き立てたじゃないですか」

「新聞なんか見せないから分らない。──見せて下さいな、それを」

「見せてもいいですが」

 そういうぎりである。特高は椅子から立とうともせず、モスクワで会っているだろうなどといった。それにしても、一体この蔵原の写真は、どこでどんな時撮ったものだろう。わたしはもう一遍その写真を見直しながら、

「この写真、どこでとったんですか」と訊いた。

「捕まると直ぐとったんだ」

「うちで?」

 特高は曖昧に合点のようなことをした。彼らが同志たちをその家へ捕えに行くとき、あらゆる武器をもってゆくことは聞いているが、写真班を同伴していったという話は、ついぞ聞かない。

 警察で写真をとられる。そうだとするとこの蔵原の写真の背景は妙だと思った。閑静そうな庭の様子が納得出来ない。どうして庭らしいところでとった写真があるのだろう? みているうちに疑はますます深くなり、口の中が渋いような、いやな心持になってきた。誰が、いつ、この写真をとった? 蔵原は果してこの写真がこんなところにあることを知っているだろうか。留置場へ戻されがけに特高は後について段階子だんばしごを下りて来ながら、

「着物をきましたね、その方がいい。長くなるから」

といった。わたしには見当のつかないその東という学生のためだということだ。印袢纏をきてゴム長をはいた弁当屋の若衆が、狭い段階子の中途で立って待っている。そこのところに「階段の昇降は静粛にすべし。司法室」と書いた貼紙が、角のめくれたところに塵をかぶってはりつけられている。

底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年920日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房

   1951(昭和26)年12月発行

初出:「改造」改造社(はじめの約15枚分)

   1932(昭和7)年8月号

   「プロレタリア文学」(残りを追加して再掲)

   1933(昭和8)年1~2月号

入力:柴田卓治

校正:松永正敏

2002年422日作成

青空文庫作成ファイル:

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