赤い貨車
宮本百合子



        一


 そこは広い野原で、かなたに堤防が見えた。堤防のかなたに川があるのではなく、やはり野原で、わだちの跡が深く泥濘にくいこんだ田舎道が、堤防の橋の下をくぐったさきにつづいて見えた。工事のはじめから堤防は大きな空の下で弓なりに野をはい、多分愉快な自動車道にでもなるわけらしかった。革命の時、工事が中止された。それ以来いつになっても働く人間の姿は見えず、ある個所は橋をかけるように堤防と堤防とをきりはなしたまま、鉄橋はなかった。村に近いところでは、すでに堤防の砂がくずれた。未完成な堤防になれた子供たちがそこを駈けのぼったり駈け下りたりした。山羊が高いところで白い腹の毛を風に吹かせていることもある。

 ナースチャは、伯母の家へすむようになってから、ずっとこの堤防を見馴れていた。しかしナースチャ自身は、一度も堤防によじのぼったことはなかった。遠くから眺めて、時々、いい景色で心持がよいと思った。そういう気質は、ナースチャの死んだ親父が彼女のうちへのこして行ったものだ。

 野原のなかに、もう一つ動かず毎日ナースチャの目に映るものがあった。それは堤防とは反対側の野のかなたの果にある貨車の列だ。貨車は八台見えた。七月の太陽に暑そうな赫土色に光って見えた。一日じゅう貨車は動かないままでいた。それに気づいた時、ナースチャはなんだか楽しみな心持で、元気づいた。──あの貨車はいつ動き出すのだろう。このうねをきってしまうのとどちらが早いか。

 ナースチャは、ジャガいも畑でさくりをきっているのであった。畑は本物の畑とは云えなかった。少し深く掘ると腐った薬罐やかんの破片だの罐詰の空罐だのの出て来る原っぱの端だが、その地面の草を四角くむしって仕立屋の伯母がジャガいもを作っているのだ。

 鍬のいやに根っこのところを握って、白いプラトークを頭にかぶったナースチャは地面を掘りかえしつづけた。掘られた土は冷やりナースチャの裸足はだしの甲にかかり、あたりには暑い草いきれと微かな土の匂いとがした。ナースチャの桃色木綿のユーブカに風が吹いた。

 ナースチャは、わざと自分の腕の下から、そばかすのある頬ぺたを逆にして、ちょいちょい人気ない原っぱのかなたの空とその下の赤い貨車の列とをのぞいた。貨車は動かず、空の白雲が流れて、野原の半面と貨車とを大きくかげらした。


        二


 村道は埃っぽい。

 村道のはずれに並木道があった。その古い菩提樹リーパの並木道をあっちへ横切ると、石敷の歩道がはじまる。槭樹ヤーセンの影の落ちる歩道は八方から集って、緑のたまりのような公園となった。

 公園はほとんどロシアじゅうに有名だ。天気のよい日曜日、池のまわりのベンチの上に、あらゆる賑やかなプロレタリアの色彩と笑声があふれた。ギターと手風琴ガルモニカの音が木立の蔭から夜まで響いた。石橋の上で、赤いプラトークをかぶった工場の娘が兵卒と踊る。公園じゅうにアイスクリーム売りの手押車と向日葵ひまわりの種、糖果コンフエクトなどを売る籠一つ、あるいは二尺四方の愛嬌よき店がちらばった。市からは工場の見学団エクスクールシアが楽団を先頭にしてやって来る。見学団は停車場から一露里の道中でうっすり埃をかぶった大よそゆきのエナメル靴の上から、草鞋わらじのようなカバーを麻紐でくるぶしにくくりつけ、静かに力づよく押しあいながら、エカテリナ二世宮殿の毛氈の上を歩いた。彼らが、支那皇帝がこの精力的な女皇に贈ったという堆朱ついしゅ大瓶おおがめを眺めている間、そしてこのたいして美しいとも思えぬ瓶一つのために八十年間三代の工人が働いたという説明をきいて、ぼーっと頭のなかにその長い歳月についやされた工賃を反射させている時、別隊のプーシュキン見学団が、宮殿の外の往来で日にやけながら、ある家屋の軒を見上げていた。

諸君グラジュダニン! ここがわれらの大詩人プーシュキンの学んだ貴族学校長、エンゲルガルトが住んでいた家であります」

 十数人の男女があごをそろえて見上げたその水色石造建築物の外観は極めて平凡で、歩道に向った下の窓の奥に「下宿パンシオン・レオノヴォイ」という札が出してあった。白いカーテンの上からゼラニアムの赤い花が見える。

 見学団から見えぬその家のテラスで、五人の男女がカンバス椅子にかけていた。モスクワから一日おくれに到着する「イズヴェスチャ」が老教授の膝の上にあった。彼は、水っぽくしなびた婆さんみたいな鼻のある顔で目の前の槭樹ヤーセンの梢を眺めている。槭樹はいま七月で、葉かげに青塗りの木造飛行機模型のような実の房を一杯つけているのであった。革命後十一年目──生活……学士院アカデミー──「イズヴェスチャ」第六面にСССР学士院で会員候補氏名が発表された。特殊技術部の候補者には、ゴスプランのグレブ・マクシミリアノヴィッチ・クルジジャノウスキー、歴史部ポクロフスキー、哲学部の候補にはブハーリン。今秋四十何人か全然新しい会員が選挙されるということに老教授は歓喜を感じ得ないのだった。ペチカたきの男しかコンムニストはいなかったのだ。教授は色のわるい平手で、ぐるりとまばらに髯の生えた自分の顔をなでまわして云った。

「……ふむ、今日は埃っぽくて、あまりぞっとしない天気だ」

「そうですとも」

 隣のカンヴァス椅子から、ねずみ色の肩かけを胸の上であわせた肥った女が答えた。

「だいたいことしの天気はお話になりませんよ。気候まで昔とはなんだか様子がちがって来た。こんな寒い夏なんて! 聞いたことがあるでしょうか。十度ですよたった!」

 彼女は心臓病で、一日この下宿のテラスに坐り通しているのであった。

 プーシュキン見学団は、のろのろ往来を横切り、エカテリナ宮殿のバロック式窓の外で半円を描いた。彼らが立って一せいに見ている往来に一匹犬がいた。犬も立ち止って見学団を眺めた。人通りが往来にふと絶えたので、遠くからその様子を見ると、見学団はさながらその犬について説明を傾聴しているように見えた。

 テラスの手すりに深くのり出してもたれ、笑いながらこの光景を見おろしていた一人の女が、声高に、

「ウラジミール・イワノヴィッチ、ちょっとごらんなさい」

と叫んだ。はげのこった髪をくりくり坊主のように短くして、太短い眉、あから顔の電気技師が女のそばへ行った。

「昨日の先生でしょう? あのわれらの大詩人プーシュキンをやっているの」

「どれ?」

 技師は、見出すのがよほど困難とみえ白粉の濃くついている女の顔のごくそばへ自分の青く剃った頬っぺたをもって行った。

「どこに?」

「そら、あの黄色いプラトークの美しい人のまえ」

「ちがうらしいな。昨日の男は茶色のネクタイでしたぜ」

「かわいそうに!」

 女は、技師の肩にこてをかけた自分の頭をおっつけそうに喉を反らせ、やがてこごみ、大笑いした。

「まさかネクタイを茶色から黒にする勇気もない男なんてこの世にあるもんですか?」

 笑いながら、ひどく黒く光るながしめでウラジミール・イワノヴィッチの縁なし眼鏡をのぞいた。

「そうじゃありませんの──いかが?」

 女の口が白い顔から浮き出し宙で紅く開いたまま、一直線に技師の顔に向ってすべってくるような感覚であった。

 肩のひろくあいた白服の胸に三色菫イワン・ダ・マリアの造花をつけて笑っている女は、市の映画常設館ピカデリーのプログラム売りが職業であった。

「自分でおかしくなってしまいますわ、二つの外国語を知っていて、中学校を金牌で出た女がこんな仕事しかないなんて……」

 それは食卓でのことで、思わず彼女の顔を見なおした数人の年とった女には目をかけず、その時もやっぱり彼女は野菊の白い花越しに技師ばっかりを見つめ、いらだたしげに笑った。

「ねえ、こういうのがロシア語では機会均等と云うのでしょうか?」

 アンナ・リヴォーヴナその他の女たちは、黙って払い下げ品ロマノフ家紋章入りの皿から氷菓と一緒にこまこました思いを飲み下した。例えば、八十五ルーブリ──しかもそれがやっと歩合でとれる金で、どうして夏だからと云って下宿へ来て、二週間に八十四ルーブリ払えるであろう?(または)毎朝毎朝ああやって目先をかえて出て来る着物は、どういう工面で出来ることやら──

 女のいう二箇国語の知識や金牌やらが信じられぬ存在になるのであった。

 電気技師だってそれらを信じるというのではなかった。ただ一ヵ月に取れる金の八十五ルーブリと二週間に出せる金の八十四ルーブリとの間にある矛盾が、漠然と遠くない過去、資本主義時代のペテルブルグ生活を思い出させ、女が、わたしの夫、わたしの夫と云う職業も不明な夫が複数の感じで彼に映るのであった。その朝、タタール風な頭の電気技師は妻君より早く起きた。来年銀婚式をするべき妻君のユリヤ・ニコライエヴナが小さい義歯にブラッシをかけている間に、彼は今朝はバラ色のなりの女と公園の奥を散歩した。技師だけ妻君の室に戻り、再び夫婦で食堂へ降りた時、玄関から真直食堂に入っていたバラ色のニーナは待ちかねていたように立ち上って、まず妻君の手を握った。

「お早うございます。ユリヤ・ニコライエヴナ。なんていいお天気なんでしょう、今朝は! わたしじっとしていられなくなって散歩してまいりましたの、御一緒に──ねえ、アレキサンドル・ミハイロヴィッチ」

 女は可愛い自分の祖父おじいさんでも抱くように七十歳の、だぶだぶした麻の詰襟服を着たアレキサンドル・ミハイロヴィッチの肩にさわった。が、半中気で耳の遠い老人にニーナの言葉はまるできこえなかった。

 仕立屋タマーラは、同じ下宿のうちでもこんな具合な食堂にはなんの関係もなかった。黒と白の四角い石を碁盤形にしいた廊下がある。廊下は暗い。そのかなたの小部屋で、下宿の主婦の胴まわりにテープをまわして働いた。小部屋の窓の外にはにれの木が枝をひろげていた。でこぼこ石の中庭越しに、裏の長屋と家畜小舎が見えた。大鎌が二ちょう、白壁が落ちて赤煉瓦の出た低い小舎の外壁にもたせかけてある。牛の臭いが時々した。


        三


 雨が降りつづいた。やんでも太陽は出ず、風がつめたかった。

 大きな仕立台に向って、伯母のタマーラが田舎住居にしては白い、丸いおでこをふせて黒絹のユーブカへ飾紐をつけている。無口な娘にでも別にやさしい言葉などかけることのない、顔と手の小さい寡婦だ。向いあいでナースチャは不恰好な子供服の裾かがりをやっている。うしろの板の羽目へ黄色い編下げの頭をくっつけ、相手によっかかるようにしてシューラがナースチャの肱を二本の指で締めつけた。シューラは退屈だ。シューラは茶色の服を着た骨っぽい肩をブルブル震わせ、ナースチャの顔色をうかがいつつ指に力を入れる。

「オイ! シューロチカ!」

「痛い?」

 黙ってナースチャは肱を動かし、シューラの手をはらいのけた。シューラは蒼い顔でにやにや笑った。しばらく間をおきこんどは、おはじきでもするように首をまげ、狙いをつけ、ナースチャの肱の関節を弾きはじめた。これをやられるとなにかの機勢で腕がピーンと指の先までしびれ、心持が悪いと云ったらない。ナースチャは怒って悪態をついたり、追いまわしたりした。シューラは、だから退屈だとこのを使うのだ。ナースチャは、裾かがりの上にうつ向いたまま激しくシューラを小突いた。

「およしったら! シューロチカ」

「なぜさ」

「きこえないの? お、よ、しっていってるのが」

 ナースチャは、どんなにふざけたって笑ったって叱りもしない代り一緒に笑いもしない伯母の真向うに坐って、面白くなれないのだった。猫もいない空台所へシューラは出て行った。

 伯母が云った。

「もうどのくらいですむかい?」

「五インチばかり」

「すんだら畑みて来てくれないか」


 耕地で男が二三人水はけをやっている。

 原っぱの端のジャガいも畑は、悪い天気あげくで作物がちぢみ、かえってまわりの雑草が伸びたように感じられた。七月だのに、ジャガいもは花を開くどころではない。

 ナースチャは、鍬の根っこを両手で握り、空地のまわりの浅いくぼみをほじくりかえした。ここは土地が一帯低いのだから、ナースチャが畑のそとの雑草の根の間へちっとやそっと鍬目を入れたって、溜水は日が照りつけるまで大してひきはしないのだ。

 ナースチャは、熱心に鍬を動かしたり、ぼんやり原っぱを見渡したりした。灰色につめたく光る空が野の上にあった。堤防では、通る人もない。

 仔豚が一匹往来に出ていた。たんぽぽや馬ごやしの茂った往来端の柔かい泥へ鼻をつっこんだなり、一心不乱に進んで行く。ナースチャが振りかえってみると、かなり遠くからもぐらの掘りあげたような泥がつづいていた。きたない、おかしい畜生とならんで、ナースチャは歩いた。

 白樺が六本生えている。柵から空地へ入ったナースチャは思いがけず石の上にぱっとした若い女が立っているのでびっくりした。女は黄繻子きじゅすの頭巻きで、下から黒い髪の束をこぼし、家の外羽目に打ちつけてあるT・A・スミルノワ、黒で書いた白エナメルの表札を見上げていた。ナースチャを認め、女は眼尻でちょっと笑った。その眼は少し日やけした顔のなかでやはり黒かった。いい外套を着ている。

 長雨に降りこめられたのち、やっと人を見た感じで亢奮し、ナースチャは梯子を駈けのぼった。伯母のエナメル名札こそ屋根の下にうってあるが実際彼らの住んでいるのは二階の二間だけで、七家族が一つの木造二階建家屋に暮していた。階下は便所の臭いがひどくしていた。

 黒油布張りの扉を開けるなり入ったナースチャは、首をのばし、

「ヘーイ、シューロチカ!」と呼びかけた口をわれ知らず手でおおった。女の客が来ていた。仕立物台の前の床几にかけ、伯母と話している。ナースチャは百姓娘らしく静かにそっと室内へすべりこんだ。

「まあ! 昨日来なさったんですか、なんて残念なことをしたんだろう。おかみさん、あなたになにも云いませんでしたか」

「いいえ」

 ねずみ色と白のひだの多い服を着たその客は肩をすぼめた。シューラは蒼い顔に唇をきっと引きしめ、またたきもせず客の一挙一動を見守った。

「わたしんところになおしてお貰いしたいものがあるんですがね」

「へえ」

「一枚たけをつめるのと、一枚ちょっと胸の工合をなおしてお貰いしたいのと──ドイツにいたころ買ったんで、品がいいからすてるのももったいないと思ってね」

 仕立屋の伯母は、別にわざとでもない落着いた口調で、

「ようございます」

と答えた。

「直き出来ます?」

 女客は少し床几からのり出すようにして、つづけた。

「それで……なんですか、いつ来て下さいます?」

「明日あがります」

「わたしの室でやってお貰い出来ないかしら」

「それは出来ません」

 仕立屋の伯母は、落ちついて、しかしきっぱり断った。

「あなたのお仕事ばかりしているんでありませんから」

 客は、仮縫には自分がまた出かけてきてよいと云った。

「あなたよりはわたしの方が暇ですからね、とにかく……。で、どのくらいで出来るでしょうたいてい……下宿の前にも一軒あったんですが、おかみさんがあなたへ紹介して下さったもんだからわざわざ来たんですよ」

 ナースチャとシューラとは緊張した顔を仕立屋の伯母に向けた。伯母はなんと答えるであろう。どの客とでも話がここで最も白熱し、彼女らはかけ引をみるのであった。

 伯母は、シューラそっくりな声のない蒼白い笑いをうかべて黙っている。(昨日彼女が見つけなかった商売仇を、夏だけ来るこの人が下宿の向いに今日見つけたのだそうだ)

「あらましのところでいいんですよ。もちろん」

「まだ品物を拝見していないんですから……」

「勉強して下さるようなら、わたしの友達でおたのみしたいって云っている人もあるし、いくらでもお世話しますよ、ねえ」

 客はナースチャの方を見ていくぶんわざとらしく元気に笑った。ナースチャは笑わなかった。

「わたしは子供たちを食べさせて行かなけりゃなりませんですからね」

 伯母が云った。

「でも御心配はいりません。とにかく明日品物を拝見してからのことにしましょう」

 ナースチャとシューラが中庭を見下すと、黄繻子の頭巻きをした若い女は、さっきの石の上で小さく足ぶみしながらまだ待っていた。ねずみ色のショールを頭へかぶりながら彼らのところへ来た女客が足早に下から出て行き、直ぐつれ立って柵のそとへ去った。


        四


 隅の椅子にナースチャがかけて見ていた。

 アンナ・リヴォーヴナは髪に気をつけながら頭からゆっくり服をかぶって着かけている。のびた腋の下、レースの沢山ついた下着。

 すっかり裾をひきおろし、あっちこっち皺をなおし、アンナ・リヴォーヴナは長い鏡の前へ近づいて立った。

「どう?」

 ナースチャは、自分に云われたのかどうかわからず、黙っていた。

「なんて云うのお前さんの名──マーシェンカ?」

 横向きになって、袖のつけ工合を鏡のなかで眺めながらきいた。

「いいえ。ナースチャ」

「じゃ、ナースチャ、見てちょうだい。腋の下んところがつれてやしないかしら」

 ナースチャは立って絹紗のような紫の服を見た。

「なんともありません」

 その服をぬぎ、こんどは裾をつめた方を着こみ、小一時間ぐずぐずしている間に、アンナ・リヴォーヴナは、ナースチャにチョコレートを食べさした。そして、田舎娘の細そりした体に不釣合ながっしり大きい手を眺めながら、こんな問答をした。

「お前さん、丈夫?」

「ええ」

「もう一人いた娘さんと姉妹なの?」

「いいえ、あの娘は従妹です」

「へえ、じゃあ誰のお母さんなの、仕立屋さんは」

「シューロチカの」

「お前さんの親は? 田舎?」

「死にました」

 ナースチャは変にせつないように、不愉快なような表情をしてぶっきら棒に答えた。

「ふしあわせな! 二人とも死んだの? いつ?」

「饑饉の年。わたしどものところ、そりゃあ病気が流行はやったんです。はじめお母さんがねて、それからお父さんがわるくなって、お父さんが十日先に死んだ。棺が二つ出ました。わたしもやっぱりその時は病気で、熱くって熱くって……窓からどんなに飛出したかったか!」

 ナースチャは思い出すように室の窓の方を見たが、急に顔を近づけ、

「ごらんなさい。家じゃ兄さんが死んでから、なにもかもめちゃめちゃになっちゃったんですよ」

 熱心に、低い声でささやきはじめた。

「兄さんが生きているうちは、本当になんだってあったんです。パンだって、バタだって、麦粉だって。……兄さんが死んだ時は、泣いた。お父さんも泣いた。兄さんの金時計だけは友達が持って来てくれましたけど……それはいい時計だったんです」

「その兄さんて、なにしていたの?」

「食糧のことをしていたんですけど、なんて云うんでしょうか。……兄さんはボルシェビキだったんですよ。出かける時、お父さんがそれはしっかり兄さんを抱いて接吻してね、兄さんの唇から血が出るほどきつく接吻したんです。兄さんもお父さんに接吻してね、そして出かけて行ったんですよ」

 アンナ・リヴォーヴナは溜息をついて、しばらくしてきいた。

「伯母さん、親切にしておくれかい?」

 ナースチャは、白木綿の襯衣コフトチカの背中へ手を廻し、それを下へひっぱるような身振りをしながら短く、

「あたりまえです」

と答えた。

「どこかへつとめちゃいけないの? ナースチャ」

「村には仕事がないんです」

「……そうやって伯母さんのところにいつまでいたってしようがあるまいねえ……いくつ? お前さん」

「来月で十七です」

「モスクワへでも来りゃいいのに」

 なかばひとり言のように云い、アンナ・リヴォーヴナは立ち上って、仕立代をナースチャに渡した。

「じゃ、布地はこのつぎ伯母さんが見えた時、つもって貰いますからってね」


        五


 いままで知らなかった感じがナースチャの心に生じた。モスクワへ、自分でも行けるのであろうか。原っぱへ出て、夏空の下の長い堤防や遠くの動かぬ貨車の列を見る時、ナースチャの眼に涙が浮んだ。小学三年だけ行ったナースチャの頭に、アンナ・リヴォーヴナの言葉はつよくうちこまれ、彼女は忘れることが出来なかった。しかし、ナースチャは口に出してはなにも云わなかった。自分の心がこわかった。


 ある午後、市場ルイノクへ買い出しに出かけていると夕立がかかって来た。ナースチャはいそいで市場のアーチの下へ逃げこんだ。アーチは奥行が深く、その内壁に沿うて十六カペイキの耳飾や針を売る三文雑貨屋や、紐屋、古着売りなどの店が張られている。五六人の労働者と、子供をかかえた一人のツィガンカがやはりアーチの下へ雨宿りに来た。ツィガンカは裸足で、赤い更紗の重くひろいユーブカを蹴るように歩き、一人一人の労働者の前に手を出した。銭をやるものはない。風がさっと吹く。雨あしが白くけむって移った。労働者の濡れた体が乾きかける一種の匂いとタバコの匂いがアーチのなかにこもった。山羊が一匹、野菜店のさしかけた板屋根の横から雨をついてこちらへ向ってかけ出して来た。アーチの下へ入ると、山羊は壁によせて開けてある鉄扉と内壁との間へ頭だけつっこんだ。そうすると安心したように山羊は眼を細くし、時々短い白い尻尾をぶるるるとふるわした。ナースチャはむき出しな腕に籠を引かけ、その山羊のとぼけた鼻面を見ながら笑った。

「ばか……」

 ナースチャの肩に後から触るものがある。

「お前さんもここへ逃げこんだの?」

 振返って見て、ナースチャは顔をあからめた。

 アンナ・リヴォーヴナが自分の体からはなして洋傘こうもりの滴をきりながら立っているのであった。

「気違いみたいなお天気じゃないの」

 ツィガンカが、目さとく彼女を見つけ、そばへよって来た。

可愛いお方ミールイ・モイ占いしましょうガダーチ・ワーム・ナードたった十カペイキトーリコ・グリヴェニク占いさせて下さいダワイ・ガダーチ

 アンナ・リヴォーヴナは手提袋をあけ、三カペイキの銅貨をツィガンカの黒い、爪だけ白い手の平にのせた。

 ツィガンカはおじぎし、アーチの端へ去った。

「わたしは占いがこわい」

 アンナ・リヴォーヴナがナースチャにささやいた。

「お前さんはどう?」

 ナースチャはわからなかった。彼女はツィガンカに一ぺんも物乞いをされたことがなかった。そのくらい、見すぼらしい村の娘なのであった。

 雨が小降りになって、アンナ・リヴォーヴナとナースチャはアーチの下を出た。

「お前さん急ぐの?」

「いいえ」

 歩道の横で女が三人ならび、いまの夕立で柔くなった石の間の地面で草取りをはじめている。その前を通り過ぎた時、アンナ・リヴォーヴナが云った。

「お前さん、本当にモスクワへ出る気はないかい」

 ナースチャは、顔や胸があつくなってなんと返事してよいかわからなかった。なんとなく心ひかれたからアンナ・リヴォーヴナについて来は来たのだが……

「もし来たいなら、わたしが帰る時、一しょに行ってもいいね」

 アンナ・リヴォーヴナはつづけて云った。

「わたしの家でも働いてくれる人がいるんだからどうせ」

「わたしにはお金がありません」

「そのくらいのことはわたしが立てかえといて上げてもいい。──お前さん、床の拭きよう知っているだろう?」

「知っています」

「洗濯出来るだろう?」

「ええ」

「スープのとりようだって知ってるわね、もちろん」

 ナースチャは、ほんの少し弱く、

「ええ」

と答えた。(伯母のところでは、一月に二度くらいしか肉入のスープなど食べなかった。)

「それごらん!」

 夕立の水たまり、そこにいまは日光と青葉のかげが爽やかにチラチラしている上を越しながら、アンナ・リヴォーヴナは陽気にナースチャに断言した。

「もうちゃんと立派な女中さんじゃないの!」

 主人は技師で、大きい娘はもうお嫁に行ってしまっていて、家は暇なこと、月給は十三ルーブリということをアンナ・リヴォーヴナは説明した。

「わたしはいまのようにしているよりいいと思うね」

「…………」

「どうしたのさ黙りこんで……ああ、別れたくない人がいるのね?」

「伯母さんに話して下さい、アンナ・リヴォーヴナ!」

 ナースチャはとびつくような本気さで云った。

「どうぞ伯母さんに話して下さい。わたしは行きたい! 本当に行きたいんです!」

 ナースチャのそばかすのある顔が急にみっともなくのぼせて、彼女は涙を頬っぺたの上に落した。

「泣かないだっていいのに、おかしなナースチャ!」

 モスクワでは職業組合プロフソユーズに入る女中が多くなった。職業組合員チレン・ソユーザの女中は、まるで役人でも頼むようにやかましい証書を交換したり、一つ間違うと訴訟を起したり、アンナ・リヴォーヴナにはひどく居心地わるかった。それにせっかく四五月経ってなれたと思うと六月目には出てしまうものも多い。職業組合員チレン・ソユーザになるには六ヵ月働いた上でなければならず、組合員になると、アンナ・リヴォーヴナの利益とは関係ない利益が彼女たちにあるのであった。ナースチャは職業紹介所ビルジャ・トルダから来る娘でなく、田舎の原っぱから真直ぐ自分の家へ来るというだけでも、アンナ・リヴォーヴナは満足だった。


「可愛いムーシェンカ」

 アンナ・リヴォーヴナは娘へ書いた。

「この間は手紙をありがとう。坊やの歯々はあはがとうとう生えたってね。おめでとう。わたしは本当にうれしいよ。ソヴェトのわたしの孫の歯もやはりキリストさまのと同じに前歯から生えることが確められて。

 イワン・ドミトリィッチさんは相かわらず会議ザセダーニエ会議ザセダーニエかい。昔の妻は良人に猟に出かけられてよく淋しい思いをしたものです。いまの妻は会議に良人を奪われる。会議が猟よりわるいところは、会議に季節セゾンがないことと、猟師小舎でのやき肉のかわりにお茶のぬるいのとサンドウィッチで夜の十二時五十分までタバコでもうもうした席に坐っていなければならないことです。まして猟には、あのあぶなかしいエナメル靴をはいた秘書役などと云うものはついていなかったんだからね! (だがイワン・ドミトリィッチには、くれぐれもよろしく伝えておくれ。わたしは母親の本能で、彼がそうざらにはないお前の良人なのを知っているんだからね)

 さて、わたしもいよいよ明日ここを引きあげます。例年の通り日やけと散歩でつぶした靴の踵のお土産のほかに今年はちょっとした掘出し物がある。あててごらん! 女中がつれて帰れるらしいのです。いまのモスクワで、身許のはっきりした田舎出の女中は、人造絹糸でない絹ものと同じくらい珍しいじゃあないか。大して気は利きそうもないが、お前も知っているサーシュカね、あれのように、またたく間に三本も赤葡萄酒のびんをひろくもないユーブカの間へちょろまかすような芸当のないのもたしからしい(孤児みなしごだから面倒でないし、辛棒もするでしょう)もし──

 アンナ・リヴォーヴナは、もしお前の方で欲しければと書きかけたのを消し、

 ──もし眼鏡ちがいでなかったら、どうぞお前もよろこんでおくれ」

と結んだ。

 下宿の夕飯後、大きな鏡のある客間の長椅子で、アンナ・リヴォーヴナは手紙のその部分を面白そうにニーナや技師の妻ユリヤ・ニコライエヴナなどに読んできかせた。(彼女の左の手首から下っている袋のなかにある、手紙のもう一枚の方には、ユリヤ・ニコライエヴナの夫である頭の禿げた電気技師が、妻の留守の夜、どんなにバタンと閉めた戸をまたそっと開けてニーナの部屋へ忍んで行ったか、翌日二人がどんなに人目をかまわず、食べかけたパイを皿ごととりかえっこして食べたか恐ろしい事実を書いてあるのであった)

 アンナ・リヴォーヴナの少しふるえを帯びた声の合間合間にニーナは、

「素敵! 素敵!」

と叫んだ。

「なんて愉快な機智にとんだお手紙なんでしょう! 本当にわたし母にきかせてやりたい。こんな面白い手紙をもらう娘さんも世間にはいらっしゃるんですものねえ。まったくゾーシチェンコと合作がお出来になるわ、ねえ、ユリヤ・ニコライエヴナ?」

 小さい白い布に刺繍をしながら、歯からもれる声でユリヤ・ニコライエヴナは、

「さあ」

 やや重く答えた。

「私はゾーシチェンコを知っているけれど、なんだかがさつなひとで……わたしは好きでありませんよ」

 下宿へ食事だけしに通って来る小柄な軍医が、下から議論の中心になったゾーシチェンコのとじの切れた短篇集をもって来た。彼は「恐ろしき夜」を女達に朗読しはじめた。


 この時間に、村端れの仕立屋タマーラの窓からランプの光が夜の村道までさしていた。

 ランプの真下で伯母がラシャの裁物をしている。明日立つナースチャが隣室からの光りで戸口のところだけ明るい台所で、大箱の蓋を開け、荷ごしらえをしている。わずかの下着と、二枚の冬服と一枚外套があるばかりであった。いままで、その上に毎晩ナースチャが寝て来た箱のなかには、まだいくらか古着があったが、どれも小さくなったり、きれていたり、役に立つのはなかった。

 シューラが、箱の底をほじくって、すり切れた、誰かの古い狐の皮を引ずり出した。

「いいもの! いいもの! さあ、ナーシェンカ、これもつめといでよ」

「おやめよ」

「なぜさ! モスクワは寒いよ、ホラ!」

 狐の皮を自分の頸にまきつけ、シューラはしなをしてナースチャのぐるりを歩きまわった。

「いい襟巻だよ」

 相手にならず、洗ってあるのや洗ってないのや靴下をつかんで麻袋につめこんでいたナースチャは、溜息をつき、手の甲で額をこすり箱にもたれて坐ってしまった。ややしばらくそのかたちのナースチャを眺めていたシューラは、狐の皮をぬぎ、うしろ手のままそろりと箱のふちへずりのぼった。ナースチャは動かぬ。シューラはよほど経ってからこごんで、小さい声でよびかけた。

「ナーシェンカ」

「…………」

「お前……ねえナーシェンカ、こわくない? 行っちゃうの……」

「…………」

「ね、ナーシェンカ、こわくない?」

 箱からぶら下っているシューラの骨っぽい少女の脛が、いきなりナースチャの若々しい腕で抱きしめられた。

「黙ってて! 後生だから」

 ナースチャはさっきからなんとも云えない心持なのであった。伯母の頭の上にある真鍮の吊ランプも、夜の台所の匂いも、なにもかにもふだんと変らないのに、自分だけが行ってしまって帰らないというのは、なんと妙な、切ない心持であろう。ナースチャは、暗いうちでさらにシューラの脛を抱きしめ自分の額を押しつけた。この世で、これだけしか抱けるものはなかった。

 その心持がシューラに通じた。シューラは、ナースチャの髪をなで、むせばないように口をあけて泣いた。

 隣室では、ランプの光がさし、はさみの音がする。ランプの光はぼろのかたまりのようにナースチャをかげにおき、シューラの金髪の一部分だけをせまく射るように照らしつづけた。


        六


 ソフィヤ村のナーシェンカはまちに出た。

 ナースチャは電車にのっている。電車は二台連結だ。ナースチャはひろげた脚の間に麻袋をおき、あとの車にのっている。アンナ・リヴォーヴナはナースチャの隣にかけ、かばんをそばにおき、その上に肱をついて眼をつぶっている。電車は午前九時すぎのモスクワを行くのだ。ナースチャは朝日のあたる窓に向って、顔をしかめながら外をみた。大きいまるで見知らぬ都会の景色のなかでナースチャになじみのあるのは向日葵ひまわりの種売りだけであった。朝のところどころの露店で、五カペイキのコップは向日葵を盛って厚ぼったく光った。

 電車の窓の下をトラックが通る。トラックには三人労働者がのっていて、あっち向きに電車を追いぬきながら、窓にあるナースチャの顔を見つけ、互になにか云って笑った。

「おーい、こっちへ乗ってきな!」

 怒鳴りつつ去った。紫と白の太い縞シャツを着た、若い男の笑顔を、ナースチャはいい男だったと思った。

 樹の枝でつくった平べったい檻に鶏を沢山入れ、山のように積んだ荷馬車が行った。下積みの檻は、上からの重みでひずんで、一羽雄鶏が苦しそうに檻のすき間から首を外へ突出していた。

 アンナ・リヴォーヴナの家では、どんな正餐アヴェードを食べるのであろうか?

 道普請だ。電車はのろのろ進む。……ナースチャはなんだかちょっとぼんやりした。

 やがて教会の金の円屋根が光って見える広い通りへ出た。からりとして明るい往来の上に、一台柩馬車がいた。柩馬車は黒い。棺も黒い。花もなくひいて行く。後からプラトークをかぶった女が二人、年とった女を左右からかかえて歩いていた。柩馬車の御者台には、御者とならんで十一二の男の児が冬外套を着てのっかって行く。

 窓からのり出してナースチャはその葬式を見送った。その時ひろい街の上にあるのは朝日とその葬式ばかりで、いつまでもいつまでも馬車にのっかって行く男の児の外套を着た背中が黒くぽっつりとかなたに見えるのであった。……ナースチャは窓をはなれ、坐りなおし、帳簿つけをしている女車掌の胸につり下っている、テープのように巻いた切符を眺めた。切符は赤、黄、水色、白──電車はながい。


        七


 クレムリン城内と向いあって、四角にモスストロイ(モスクワ土木課)がある。

 パーヴェル・パヴロヴィッチは五年間、歩いてその三階へ通いつづけた。出かける前に、彼は火傷しそうに熱い茶を受皿にあけて飲んで、バタつきパンをたべて、タバコを吸いながら水色の技術制帽を外套の袖口で一二へんこすってかぶるのであった。

 ナースチャは一時間半前に、台所の寝台から起きた。ソフィヤ村の伯母の家でナースチャの寝床は大箱の上だった。ここでは箱でなく、台所の壁から一枚板が下りた。ナースチャはその上へ掛物にくるまって眠るのであった。

 パーヴェル・パヴロヴィッチが、茶をのんで窓越しに並木道の菩提樹リーパの梢を眺めている間に、ナースチャはニッケル盆にコップと薬罐とバラ模様の急須をのせ、食堂の隣室の戸をたたいた。

「入ってもよござんすか」

 直ぐ、

「お入り」

と返事のある時もある。いつまでも返事のない時、ナースチャは、ドンドン戸をたたいた。それはきっとそうやってたたかなければいけないのだ。鍵があく。

「おお眠い。一たい何時? いま」

 ナースチャは丁寧に腰をかがめてテーブルへ盆をおきつつ答える。

「八時十分です」

 リザ・セミョンノヴナは裸足のまま寝台の前の小さい古い絨毯布の上に立っていた。あくびをし、柔かい金髪のおかっぱを両手でもしゃくしゃにこねまわし、もう一つあくびをしつつナースチャの肩へよっかかった。

「ナースチャ、鬼よ、お前! たったいっぺんでいいからうんざりするほど寝かしといてくれればいいのに!」

 ナースチャ自身は黒い髪をたっぷり持って首の上に重く丸めていた。彼女には、この金髪の、足の裏まで柔いみたいなリザ・セミョンノヴナが好もしかった。リザ・セミョンノヴナはナースチャが来て半月後、アンナ・リヴォーヴナが出した貸間広告で来た銀行員である。

 リザ・セミョンノヴナは、

  脚をぶらぶらふりながら、

  わたしは樽にかけている。

  コンムニストだということは

  云ったげようか

  とても、陽気だ。

 流行歌をうたい出し、ナースチャの顔のなかになんともしれぬながしめを与え、麻の手拭を肩にかけて洗面所へ出かける。ナースチャもついて室を出て、おなじ廊下で一つ手前の台所へ帰る。

  籠をぶらぶら振りながら

  わたしは窓にかけている。

  女中になるということは

  云ったげようか

  とても、陽気ウェルショールイだ。

 陽気ウェルショールイだということに反語のこころをふくめてナースチャは、心のうちでいくつもかえ歌をこしらえ、調子をとりつつ、それが火曜日の朝ならばごしごしと洗濯だらいでアンナ・リヴォーヴナの下着をもむのであった。

 パーヴェル・パヴロヴィッチが出て行く。リザ・セミョンノヴナが赤い手提に身許証明書と八カペイキのパンとを入れて出て行く。アンナ・リヴォーヴナがそのあとで独り食堂で、桃色の夜帽子をかぶったまま茶を飲む。ナースチャは寝室と、リザ・セミョンノヴナのへや掃除をする。ナースチャはリザ・セミョンノヴナがそのうえで白粉もつけるし、手紙も書くたった一脚の、いつも一晩で散らかるテーブルの上を、彼女独特の原則にしたがって片づけた。ソフィヤ村で、ナースチャはいつこのような白粉箱、香水箱、新聞、古手紙、毛糸の黒坊人形まである小机を見たことがあろう。ナースチャはしかたがないから、あるほどのものを片ぱしから大きさの順で机の端につみ重ねた。したがって、新聞が基礎構造で、「週間ディー・ヴォッヘ」「アガニョーク」「エルマー・ガントリー」という英語の筋ばかり厚い小説、日記、字引、五月八日にキエフから来た手紙、もう一つ小さい端のめくれた古手帳、その上に、ナースチャはきまって黄色い円い白粉箱をおき、黒坊人形は手にとって一つ接吻して、その白粉箱によせかけ、片づけ終るのであった。リザ・セミョンノヴナは帰って来て──夕方か夜更けかに──興業銀行で百八ルーブリの月給をもらう代り、怠ることの出来ない英語勉強のために、音読用エルマー・ガントリーをとろうとすると、それがまた彼女の金髪らしい性質で、いつの間にか机一杯に白粉箱や古手紙が散らばってしまうのであった。

 カウカーズの上靴を寝台の下にしまって、ナースチャがリザ・セミョンノヴナの室に鍵をかけ終ると、アンナ・リヴォーヴナは廊下で黒麦わらの帽子をかぶっている。

「さあ、籠を持って」

ただいまシチャース

「牛乳びんを入れたかい?」

「ええ」

 戸に鍵をかけ、はしごを中途まで降りかけると、アンナ・リヴォーヴナは、

「ホラ、また忘れちゃった!」

と立ち止った。

「ナースチャ、忘れたろう?」

「なんです」

「ケフィールのびんさ」

 幸いナースチャが平然と腕に下げている籠からビール瓶くらいのケフィールの空瓶を出して見せられる時はよいが、さもないと、ナースチャはまたはしごをのぼって、鍵をあけて、台所へ行って瓶をとって、また表の戸を閉めて、念のためいっぺん引っぱって見て、アンナ・リヴォーヴナの待っているところまで戻らねばならぬ。悪い時は、どうかしてアンナ・リヴォーヴナが扉のしめようを信用せず、

「いい娘だから、もう一度しっかり見ておいで。モスクワはソフィヤ村じゃないんだからね、三分間扉を開けっ放しにしておいてごらん、壁のペイチカまでさらわれちまうから」

と云う場合であった。ナースチャは戻らねばならぬ。三階まで二度往復せねばならぬことを意味するのであった。

 市場ルイノクには、村の市場より数倍の店と群集と、いろんな匂いとがある。市場のモスクワ式ごろた石の通路では、花キャベジの葉っぱ、タバコの吸殻、わら屑、新聞の切れっ端が踏みにじられていた。魚売店からきたなく臭い水がごろた石の間を流れた。市場の古いごろた石道はきつい日に照らされて表面だけ白っぽくかわいて見えても、石と石との隙間の奥にはいつも黒いぐしゃぐしゃした泥濘がある。ナースチャは時々、そのごろた石と石との隙間に靴の踵をかまれてよろけながら、眼をつき出し、愉快そうにアンナ・リヴォーヴナのあとから店々をのぞいて歩くのであった。

 頭上の大板へ葡萄ぶどう林檎りんごを盛った男が、長靴を鳴らし人をかきわけてやって来た。女がその肩にぶつかった。

「ヘーイ、ヘイ! ばかやろうドゥーラ!」

 いそいでよけた女の顔の前へ、てのひらにのせた鶏をつき出して、横歩きをしつつ髯の大きな男が熱心につばきをとばしてしゃべった。

奥さんマーモチカ、じゃいくらならいいんだね。見なさい。こりゃ本当のヒナですぜ、けさつぶした」

 赤い羽根付の帽子をかぶった女は止らず歩きつづけた。

「だから、もう云ったよ。八十五カペイキ!」

「もう十カペイキだけ! あんたにとってこれっぽっち同じじゃないか」

「同じなら、お前さん負けとき」

「わたしのを買って下さいよ、ね奥さん」

 更紗のプラトークをかぶった女が、その時やっぱり手に毛をにぎったひどくひねた鶏をのせ、人かげから、歩いてゆく女の前に現れた。

「ねえ、奥さん、本当の主婦ハジャイカならこれを見落しゃしませんよ、たった九十五カペイキ、お買いなさい奥さん」

 二人の鶏売りにはさまれ、女は怒ったように、

「駄目! 駄目!」

と叫んで一そう早く歩き出した。

「わたしは買わないよ、いらないっていったら!」

 行手にはもう別の人だかりがあり、鮭の切売りを見物しているのであった。

「ナースチャ!」

 肉売り店の前に立って少し口をあけ、面白そうにその様子を見ていたナースチャは、びっくりしてうしろを向いた。

「さ、これ」

 アンナ・リヴォーヴナはこうしの骨付肉を新聞でつまんでナースチャの籠へ入れた。

「駄目だよ。さらわれちゃ」

 女が二人ならんで足許の箱に玉子をひろげていた。ナースチャが来かかった時、年よりの方の女が、急にあわてて箱をもち上げ、

「来たよ」

とささやいた。あわててもう一人の女も箱を持ち上げ逃げるかまえをしたが、そちらを見て、

「籠をもってる」

 安心して、再び玉子の箱を元のように足許に下した。直ぐ巡査が現れた。巡査も買物で、ほかの群集の男女と同じに籠をぶら下げ、玉子売の隣で胡瓜きゅうり漬売の前にたたずんだ。ナースチャは顔を上に向けて笑った。市場は、陽気だ。

 リザ・セミョンノヴナも陽気でなくはなかった。

 リザ・セミョンノヴナは時々は夜も、台所へ入って来ることがある。

「ナースチャ、ちょっとじりじりやらせてね」

 爪磨マニキュールした彼女の手にアルミニュームの小鍋がある。小鍋に二つの卵とハムが入っている。アンナ・リヴォーヴナとリザ・セミョンノヴナがとり交した契約書には、モスクワの借室がたいていそうであるように台所は利用せぬことになっているのであった。セミョンノヴナでも、しかし時には、夜、茶と一しょに熱いものが食べたかろうではないか。

 台所の隅の腰かけに、昼間のせてあった金盥の代りに、いまはナースチャ自身がかけている。ハムをあぶりながら、リザ・セミョンノヴナは綺麗な水色の瞳で、じろじろナースチャを眺めて、云うのであった。

「ナースチャ、なぜおかっぱにしないの」

「わたし似合わないんです」

 リザ・セミョンノヴナの小料理は手伝うこともないので、かえってナースチャは間がわるい表情だ。

「きったことがあるの?」

「いいえ、伯母さんも似合わないというし、シューラも似合わないって云うもんだから」

「ばかなナースチャ、おかっぱにしないのなんか禿げ頭の爺さんか豚だけよ──ごらん、わたしだってよく似合ってるじゃないの」

 ナースチャは、感嘆して、紫苑色のリザ・セミョンノヴナのすらりとしたスウェーター姿を眺めた。

「わたしだってあなたみたいな髪さえあれば……こんな黒い髪! あきあきしちゃう」

「ホウ、ホウ、ホウ」

 肩をすぼめ、唇を丸め、ホークで器用に小鍋をひっかけながら、

「そら出来た」

 リザ・セミョンノヴナはガスを消す。

「寝る? ナースチャ」

 ナースチャはもっといろいろのことをしゃべりたい。その心持をあらわす暇のないうちに、

「じゃおやすみ、ありがとうよ、ナースチャ」

 リザ・セミョンノヴナは裾の端を台所の戸がしめこみそうにひらり、小鍋を持って自分の室に行ってしまうのであった。

 ナースチャがお休みなさいと云う間もなかった。

 彼女は台所の隅の四本柱の腰かけの上で、両手を膝の間にはさみ、体を前や後に振りながら周囲の物音をききすます。廊下のあちらでリザ・セミョンノヴナの戸が閉った。食堂からこもった笑声が響いた。食堂の入口に厚いカーテンが下っているからあんなに遠く聞えるのだ。アンナ・リヴォーヴナ夫婦と夫婦づれの客が、カルタをやっていた。ナースチャがずっとさっきコーヒーを持って行ったら、アンナ・リヴォーヴナはカルタを手のなかで一心にそろえながら、

「お砂糖もいるよ」

と云った。主人のパーヴェル・パヴロヴィッチがその前に台所へ顔を出して、

「ナースチャ、コーヒーおくれ、苦くしちゃいかんぜ」

と云って直ぐ引っこんだ。夜の間にナースチャにかけられた言葉のそれが全部である。

 膝の間にはさんでいた片方の手をのばして、ナースチャはかたわらの棚の下をさぐった。いろんな紙屑のなかから、手当り次第に引っぱり出してみると、パーヴェル・パヴロヴィッチが役所から持って来た製図の切れ端であった。もう一遍やって見ると、新聞が出た。ナースチャは太い活字をひろって読んだ。パホード・プロチフ・エストラノドノイ・ハルツールイ……これはなんのことだろう。別のところには細かい字がうんと書いてあってカリーニンとかルジュタクとか人の名がある。

 再び両手を膝にはさみ、体をゆすり、ナースチャはシューラを恋しく思い出すのであった。寂しい……。明るい……明るい……そして一人ぼっちの台所は寂しい。夜はいつしか進んでナースチャはねむたくなる。大きなあくびをして立ち上り、彼女はギーと板を下し、その上にのって高い棚から掛物をひきずりおろした。

 便所で誰かが灯をつける度に、高窓のガラスを越してナースチャの寝顔に光がさした。ナースチャは口をあけ、うなりながら眠った。


        八


 細い肱を蟹のように張って、ナースチャは火のしをかけた。二人寝台用の大敷布はたたむにも、伸すにもナースチャ一人の手にあまった。アンナ・リヴォーヴナが新聞の上へ出して行った木炭は少しだから、火の気の強いうちに、急いでかけてしまわねばならぬ。力がいるのと木炭のガスとでナースチャの顔はほてり、頭痛がした。しかしナースチャは、肱を蟹のように曲げ一生懸命火のしをかける。

 ジジーン!

 呼鈴がクワルチーラじゅうに響いた。火のしを平ったい金びしゃくにのせ、ナースチャは入口へ行った。

「どなた?」

 いきなり開けるなと、ナースチャはきびしく云いつけられているのであった。

「開けて下さい。部屋を見に来たんですから」

 それは全然聞きおぼえのない男の声であった。ナースチャは、戸に手をかけたなり怒った声で、

「誰です、そこにいるの?」

と云った。部屋を見る人間がいるなんて、ナースチャは聞かされていなかった。

「心配なさるな、アンナ・リヴォーヴナのクワルチーラでしょう?」

「ええ」

「部屋を拝見に来たんです。開けてくれればいいんです」

 午後二時半で、家はナースチャひとりであった。そればかりか建物全体が一日じゅうで一番しんとして人気のない時刻だ。ナースチャはだんだん気味悪くなり、戸の外の気配をきき澄した。

 外の男は足をふみかえたり、もそもそしていたが、こんどは拳でトントン戸をたたいた。ナースチャは、内から前垂の端をつかんで叫んだ。

「行って下さい。知らない人に戸を開けることなんて出来ないんだから。アンナ・リヴォーヴナはお留守ですよ」

「強情ぱり」

 そう云う声がし、つづいてコンクリートの階段を降りる足音がした。──悪魔奴チヨルト、どいつを連れていったんだ!──ナースチャは台所へ戻り、火のしに木炭を足し、サモワール用の小煙筒をしかけた。ナースチャは、満足を感じながら、ふつふつと小さいおきの落ちたのを一枚の仕上った敷布の上から吹きはらった。アンナ・リヴォーヴナは、ナースチャが洗濯上手だと云って、ひどくほめた。ナースチャもほめられれば嬉しかった。ナースチャが来たては中国人の洗濯屋に出していたこの大敷布までいつか彼女が洗うようなことになった。洗濯屋に負けず綺麗だと云われるために、若いナースチャは過分に労力を費すのであった。

 十五分もたったころ、アンナ・リヴォーヴナの声が入口でした。

「さあさあ、どうぞこちらへ」

 ナースチャは台所の戸からのぞいた。アンナ・リヴォーヴナのうしろから、バンドつきの外套を着て書類入ポルトフェリを抱えた山羊髯の小男が、すべるような足どりで入って来た。男はナースチャを見つけると、ちょっと鳥打帽子のひさしに指をかけ、いやに丁寧に、

「こんにちは」

と云った。さっきの男だろうか。ナースチャがまごついていると、その山羊髯の男は唇だけで薄く笑いながら、

「アンナ・リヴォーヴナ、あの娘さんがさっきわたしを入れませんでしたよ」

と云った。

「まあ、どうしたのさお前、御挨拶をおし。田舎のお嬢さんですが、それはよく働きますの」

 アンナ・リヴォーヴナは愛嬌よくナースチャに近よって肩をたたいた。

「お互に仲よし、ね。親子のようにやっています」

 ナースチャは、つっ立ったまま二人が食堂に入るのを見送り、肩をしゃくり、台所へ戻った。男の水のように冷たくて、ねばっこい瞳がナースチャを不快にした。男は唇で笑ってアンナ・リヴォーヴナに話しながら、眼でじっと睨んだのであった。

 男は本当に部屋を借りるらしかった。パーヴェル・パヴロヴィッチが書斎のようにしていた小室へ、先週大工が来て棚を作った。その室をアンナ・リヴォーヴナは男に見せた。壁をとおしてナースチャのところへ話が聞えた。

「ちょっと失礼、この寝台はこっちの壁へつけた方が勝手なように思われますな」

「それはどうぞ御勝手に、わたしどもあなたが居心地よくていらっしゃればなによりなんですから」

 床の上をすべるような気ぜわしい靴の音。

「ごめん下さい、こっちは台所ですか」

「ええ、ですけれど」

 アンナ・リヴォーヴナがいそいで答えた。

「決しておじゃまはさせません。朝はどうせあなたと御一緒時分ですし、わたしども夜だって早いんですから」

それは結構ラードノ。……もう一分間どうぞおじゃまさせて下さい。あなたんところに大きな絨毯はありませんか」

 男を送り出すとアンナ・リヴォーヴナは頭をふりふり食堂へ戻った。夜、リザ・セミョンノヴナのところへ茶を運んだ時、ナースチャは、

「聞いて下さい。リザ・セミョンノヴナ」

 例の、もう散らかりかけている小机の隅へ膝をついた。

「今日、なんて男が室を借りに来たか! なにか云うたんびに一々ちょっと失礼だの、ごめんなさいだのくっつけるんですよ、そのくせ、机が二寸長すぎてもいけないんだって!」

 肌の綺麗な顔を少し反らせ、湿っぽくて臭そうなナースチャの綿繻子の前垂を眺めながら、リザ・セミョンノヴナはきいた。

「もうきまったの」

 ナースチャは田舎女らしく目まぜをしてささやいた。

「アンナ・リヴォーヴナはちっともその男を好いちゃいないんです。ちゃんとわかってる。──でもお金があるんですよ、半年分払うんですって」

「ふうん」

「あの山羊髯!」

 リザ・セミョンノヴナは無頓着に云った。

「いいさ、そんな男の細君になる女だってあるんだから」

 出がけにナースチャが戸を開けると、廊下で鋸の音がした。

「なにがはじまったの」

「ごらんなさい、パーヴェル・パヴロヴィッチが机を二寸ちぢめているんですよ」


 男は越して来た。台所に引っこんでいたナースチャが風呂場へ行って見たら、風呂場の壁へ特別彼用のニッケル製手拭掛と、歯磨ブラシ、コップなどのせるやはりニッケルの道具が取りつけられていた。男は自分用の茶碗を持って台所へ行こうとして小熊の剥製や帽子掛のある廊下でリザ・セミョンノヴナに出喰わした。猫背ですべるように歩いていた彼は、素早く歩を横に移して壁ぎわにより、ぴったり脚をそろえて立った。

「こんにちは」

「こんにちは」

 行きすぎようとするリザ・セミョンノヴナを遮って、

一分間ミヌートノおじゃまさせていただきます。あなたもここにお住いですか」

「ええ」

それは結構ラードノ。どうぞあなたの美しいお手を──わたしはオルロフ、経済をやっています」

 リザ・セミョンノヴナは手の甲を接吻させ、自分の名は云わず室に入って勢よく戸を閉めた。

 オルロフはこれまでアンナ・リヴォーヴナの食堂にあった家で一番いいスタンドも借りて自分の部屋へ据えた。彼は二つの葡萄酒コップを持っていた。葡萄酒コップは茶がかった緑色で台にグリグリ飾のついた玻璃はりであった。朝ナースチャが、彼の茶碗に茶を入れて運んで行くと、「バルザック」とレッテルの貼ってある白葡萄酒の瓶の横にそのコップがあって、オルロフ自身は山羊髯をなで、布張の椅子にいる。彼は目を離さずナースチャの顔を見て云った。

「ナースチャ、コップを洗ってくれるね」

よろしいハラショー

「もしお前がこわしたら、くびり殺すからそのつもりでいなさい」

「…………」

「わかったか」

「わかりました」

 ナースチャは、ぷりぷりしてコップを盆にのせるのであったが、心のうちでは恐怖を感じた。それを洗って元に戻すまで、オルロフの水のように冷たいねばっこい眼付がつけて来るような気がした。

 リザ・セミョンノヴナとオルロフはすべてに正反対であった。例えばリザ・セミョンノヴナは室掃除のことでいつか小言を云ったことがあるだろうか。南京虫がくった朝だけ、リザ・セミョンノヴナは、

「ごらん、ナースチャ」

 柔らかなあしでも手でも、赤くふくれたところをナースチャにつきつけて云うのであった。

恥しくないかいニエ・ストィドノ

 アンナ・リヴォーヴナが寝室の戸棚へしまっておくミヤソニツカヤ通のおそろしい臭いの南京虫退治薬をまけと云うだけのことなのであった。

 オルロフのいるうちに、なるたけ彼の部屋は掃除しなければならない。オルロフは室を去らず、ナースチャが机の上をいじっている時に、椅子の上から、椅子の下をはくときは衣裳棚の前に立って監視した。

「どうぞ御親切に、ナースチャ、その暦はインキ壺の右の肩のところへおいて下さい」

 または、

「あれが見えないかね、可愛いナースチャ」

 猫背のオルロフが水のような眼で見ているところは寝台の下で、鞄の端に一条の糸屑が引っかかっているのであった。


        九


 十二月になった。日が短くなって、モスクワには毎日雪が降った。

 頭からショールをかぶったナースチャは脚の間に石油罐をおき、歩道に立っていた。石油販売所はまだ売りはじめない。雪の積った燈柱の下にトラックが一台いた。そのトラックと石油販売所の入口にかけて歩道を横切り階子はしごのようなものがかけられていた。トラックの上の男が石油の大きな樽をその階子にのせた。歩道にいる男がそれをころがして店へ運びこむ。石油販売所の内部は暗くがらんとしている。陰気な石の壁の上にも石の床にも石油のしみと臭いがある。トラックからおろす石油の樽も油じみて黒い。その樽に雪がついていた。

 雪は細かく、しきりに降る。

 石油販売所の石段から、買いての列は町角のタバコ売店キオスクの前まで連った。女ばかりであった。ナースチャの後には石油焜炉プリムスを下げた婆さんが立っていた。ナースチャの前には、若い娘が繩でつるしたガラス壜を歩道において、壁にもたれ、一心に本を読んでいる。ショールからはみ出した娘の前髪に雪がちらちらついた。粉雪をとおして遠くに、アルバート街の赤と白で塗った大教会の塔が美しく眺められる。

 ナースチャはバタも買わなければならなかった。彼女は四十分も待っているのだ。ナースチャは、うしろの婆さんに、

「わたしちょっと買物をしてくるから、番おぼえてて下さいね」

と頼んだ。

「罐おいてくから、どうぞ見てて下さい、お婆さん」

 石油焜炉プリムスを片手に下げながら婆さんは、往来から拾った吸いのこりのタバコをふかしていた。

「よしよし、見ててやるよ」

 バタとジャガいもを籠に入れ、籠は腕にひっかけ、外套のかくしから向日葵の種を出して食べ食べナースチャが戻って来ると、石油販売所の人だかりは一そうひどくなっていた。ただの通行人は、そこまで来ると、車道へおりて行った。ナースチャが自分の番の場所へ立とうとすると、さっきはいなかった太った紫のプラトークの女がそばにいて、

女市民グラジュダンチカ! どうぞ順にならんどくれ、わたしはお前さんより前に来ているんだよ」

と叫んだ。

「なぜさ。わたしはさっきからここにいたんですよ」

 石油焜炉を下げてタバコをのんでいた婆さんもどこかへ行って見えなかった。ナースチャはもう一つうしろの女を証人にしようとした。

「ね、お前さんだって知ってるねえ」

 茶色の帽子をかぶった女は、外套の高い襟の間から鼻先だけ出し、つまらなそうに答えた。

「知らない」

「うしろへおいで。ごまかしたって駄目だよ、女市民さんグラジュダンチカ

「お前ここへ立っといで、いいから」

 そう云ったのは、ナースチャの前で本を読んでいた娘であった。

「この人は、はじめっからここにいたんです。わたしが知ってる。罐もある──ごらん」

 ナースチャは再び罐を足にはさんで立った。娘も本を読みつづけた。

 ナースチャは、向日葵の種を前歯で破って殻を唇の間からほき出しつつ、娘の本をのぞいた。読んでいるページの上に、どこか図書館の紫のゴム印がおしてあった。ナースチャはしばらく眺めていて、きいた。

「面白い、その本」

「うん」

 ナースチャは、吐息をつくように云った。

「わたしんとこにはなにもない」

 指をページの間にはさんで本をとじ、娘はナースチャを見た。

「なぜ?」

「なぜだかそうなんです」

 ナースチャは規則正しく、速く向日葵の種の殻をほき出しつづけた。娘は、石油販売所の入口の群集を見た。

「どうしたんだろう、今日は」

 往来を映画の広告車が五台つづいて通った。赤塗のゴム輪の上に、赤坊を抱いた女の顔の大写しと、火事場の焔のなかに働いている消防夫の写真が掲げてある。車を押す男たちは、降る雪にさからって首を下げ、ならんで電車路を横切った。

 娘が、

「あれは面白いよ」

と云った。

「みた? お前」

「いいえ。……わたし映画キノ大好きだけれど高くって──それにわたしいつも独りで行かなけりゃならないんです。みな友達づれだのに、はじめっからおしまいまでわたし黙って坐ってるんです」

「どこかに働いてるの」

「ええ」

組合ソユーズに入ってないの、お前」

 ナースチャは、拇指のつけ根みたいなところで口のはたをふきながら娘を見た。ナースチャはきかれたことを理解しなかった。

組合ソユーズ……どんな」

「ナルピット」

「そこへ入ると映画がやすくなるんですか」

「わたしいつだって十五カペイキか二十カペイキでみている」

 やっと石油が売り出され、列は少しずつ前進しはじめた。娘は繩で壜をつるし上げながら云った。

「わたしもう二年組合に入って、夜は勉強しているし、朝九時から夕方五時ぐらいまでの働きだし、満足してるわ」

 壜へ石油をつめてもらうと、娘は、外套に雪をつけたまま、ナースチャの横を通りぬけて先へ出て行った。


 村での話とはちがって、ナースチャがいつくと、直ぐ二人も借室人クワルチラントが入った。その一人が、直接の主人よりナースチャになんだかおっかぶさって(悪魔チヨルトさらわれろヴァジミー)泣きたい気持にさせるのも仕方がないとする。洗濯物のふえたことも、このごろは食物ごしらえをほとんど一人でしなければならなくなったこともまあいいとする。ナースチャを苦しめるのは、この森の樹より人間の多いモスクワで自分が、まるっきりの独りぼっちだという事実であった。

 アンナ・リヴォーヴナは不親切ではなかった。しかしそれはアンナ・リヴォーヴナが、親切にしようと思っている間だけのことであった。もし自分が病気になって働けなくなったらどうなるか、ナースチャは感じていた。アンナ・リヴォーヴナは自分を彼女の借室クワルチーラの台所の隅においてはおかないであろう。頭のなかにはるかに小さくソフィヤ村のひろい原っぱや、原っぱのかなたに動かぬ赤い貨車の景色などが浮んだ。白樺の生えたあの二階家で、伯母がよくも自分を養っていてくれたといまは思われた。働きがなくなったと云ってそこは帰れるところではない。ナースチャは仲間がほしかった。その仲間のほしい心持を話す友達さえないということが、このモスクワであり得るだろうか。

 モスクワだから、それはあり得た。ナースチャがたまに夜映画から帰ると、アルバートの広場で通りすがりの若い男が耳のそばで、

行こうよパイディヨム

とささやいた。ナースチャがその若ものの顔を見定めずに通りすぎるように、その男もナースチャの顔をはっきり見もせず、麦酒屋ピブナーヤの窓から片明りのさす歩道でささやくのであった。


        十


 入ったばかりのところは、がらんとした室だ。木の床の上に大机が一脚あった。その机の上に数冊パンフレットがおかれている。赤い布で飾ったレーニンの肖像が左側の壁にかかり、その下に壁新聞がはってあった。壁新聞に赤いプラトークをかぶって手を振っている若い女の笑い顔の插画がある。

 上靴ガローシをぬぐのか脱がないのか、ナースチャは、迷って、誰もいぬその室に立ち、見まわした。室の境に戸がなく、奥が見えた。上靴をはいたまま、女がある机の前に立っている。ナースチャは腕にかけた買物籠がゆれぬように片手で押え、そろそろ奥へ歩いた。

 暗い室だ。大机が三つあって、三人の女が働いていた。白タイルがところどころ欠けて、燃き口のくすぶったペチカが室の隅にある。

 入口に立っていると、ナースチャに一番近い机の前に坐っている女が、

「お前さんはなに用」

ときいた。藍縞の男ものシャツを着て、紺と黄色のさっぱりしたネクタイを胸の上にたらしている女であった。

「わたし組合ソユーズに入れましょうか」

「なぜいけない? まあ掛けなさい」

 アンナ・リヴォーヴナの台所にあると同じ腰かけにナースチャは坐った。他の机の前では、さきに来た女が小さい帳面を出して、なにか計算してもらっていた。「お前さんは、いままでに二十二ルーブリ五十カペイキしか受けとっていないことになるね」「ええ」──「あまりがいくらあることになる?」女は二十六ルーブリ近くだと答えた。──「よく見といで、二十五ルーブリと五十カペイキだよ」好奇心と不安とをもってナースチャはその問答をきいた。

「デリ」と赤地に金文字つきの平ったい箱から巻タバコを出し、吸いつけながら、紺と黄色のネクタイの女が云った。

「さて、と……お前さんどこで働いている?」

「アンナ・リヴォーヴナのところです」

「番地は」

 ナースチャのそばかすのある顔がだんだんひどく赤くなった。

「知りません」

「じゃいい。いままでいっぺんも、どこでも組合員だったことはない?」

「いいえ」

「そのアンナ・なんとかさんの家へ来るまで勤めていたかい」

「いいえ、はじめてです」

「いく日もう勤めた?」

「去年の八月からです」

「八、九、十、十一、十二、一、二──と。月給はいくら」

「十三ルーブリ」

 ナースチャは正直に金額を答えてから、心配になって女の顔をじっと見た。女はしかしあたり前な顔で、机の引出しから二枚、大きい紙を出した。

「さ、これを持って帰ってすっかり書きこんでもらっといで」

 ナースチャは、きき間違え、また赤くなった。

「わたし、書けません」

「お前さんは主人じゃないだろう」

 タバコの煙をふっと口のすみからふきながら、陽気に云って、笑った。

「ごらん、すっかりこの項目に、主人の名、職業、お前さんの名、パスポルトの番号、月給、働く条件、休日まで書きこんでもらって、それから組合に入るんだ、わかったろう?」

「ありがとう」

「主人が書いてくれたら、住宅管理人に裏書きしてもらって、またここへおいで」

 ナースチャが、紙を手にもって立ちかけた時、女がきいた。

「クラブへ行ったのかい、お前さん」

「いいえ」

「誰にこのメストコムをきいた?」

「リザ・セミョンノヴナが教えました」

 椅子の背にタバコを持った手を廻してかけ、女は立っているナースチャを見上げた。

「誰だい……それは」

「家にいるお嬢さんバーリシュニャーです」

「ふむ……よしよし」

「さよなら」

 女はうなずいて、こむらで椅子を押しながら自分の場所から立ち上った。


 凍って白い並木道ブリワールでは大勢の子供がスキーで遊んでいる。母親や子守のいるベンチの前を中国の女が、ゴムでつるした色つきまりを売って歩いた。雪の長い並木道を纏足てんそくで中国の女は黒く、よちよち動いた。並木道の外れの電車路に、婆さんと男の子供がいた。転轍手と遊んでいた。

おくれよダワイおじいちゃんデードシュカ

 転轍に使う金棒を男の子はほしがった。白い髯で山羊なめし外套の転轍手は笑いながら、金棒をうしろにかくした。

いけないよニエ・ナードいけないよニエ・ナードおくれよダワイ

「ワロージャ!」

 婆さんが叱った。転轍手は男の子に金棒を渡した。男の子はたちまちその金棒にまたがって、雪の上を駈け、あっちへ行った。転轍手は子供の方と、かなたの電車線路の上とをかわるがわる眺めた。電車が見えはじめた。転轍手はいそいで子供のところへ走って行った。

 ナースチャは自分の村にあった鉄橋の景色を思い出した。鉄橋の両端には見張所があった。銃を肩から逆さにつった平服の番人が橋桁にならべた板の上をいつもぶらぶら歩いていた。ナースチャの死んだ親父も赤いルバシカを着て番人したことがある。鉄橋から見下す河水のひろやかな大きさ……。汽車が通る時は鉄橋じゅうがふるえた。

 欄干らんかんにしがみついて、顔にかかるあつい息や、頭がしびれそうに轟然とたくさんの輪が重って目の前をころがり通るのを見送ってしまうと、子供らは一せいに橋桁の上へ躍り出して、手をたたき笑った。ナースチャもほかの子供も裸足はだしであった。鉄橋のかなたは原で、村の共同物干場があった。いろんな色のぼろが、原のおっぴらいたなかに見えた。


 メストコムからもらって来た紙をもって、ナースチャは食堂へ入って行った。夕食後であった。パーヴェル・パヴロヴィッチがシャツだけで長椅子の上に長くなって、パイプをふかしている。アンナ・リヴォーヴナは第二回工業化インダスリザーチア株券のことを話していた。

「なんだい、ナースチャ」

 ナースチャはアンナ・リヴォーヴナが肱をついているテーブルのそばに立った。

「これに書きこんでいただきたいんです」

 アンナ・リヴォーヴナは自分の腕越しにナースチャの差し出している紙を見下し、けげんそうにのっそり二つの肱をテーブルからおろした。

「……なんなのさ、一たい」

「わたし、組合ソユーズに入りたいんですけれど、組合へはこの書付ドクメントがないと駄目だって云われたんです」

組合ソユーズってお前……神よボージェ・モイ なにを考え出したのさ、急に」

 ナースチャを見上げ、それから夫をアンナ・リヴォーヴナは眺めた。パーヴェル・パヴロヴィッチは故意としか思われぬ無邪気な眉のひらきようをして、窓の外に見とれている。アンナ・リヴォーヴナは、頭をふり、紙をひろげて、項目に眼をとおしはじめた。

 その場の空気から、ナースチャは変に不安な居心地のわるい心持になり、立ちつづけた。これはそんななにごとかなのであろうか。

 待ち遠しくなったほど丁寧に読み終って手を紙の上におき、アンナ・リヴォーヴナは、

じゃヌーよろしいハラショ

とおだやかに云った。

「書いたげよう。──だがいそぎゃしないんだろう? ナースチャ」

 ナースチャはいそぐと云えなくなって、

「ええ」

と答えた。

「じゃ、紙おいときますから」

 はっきりしない気持でナースチャが去ろうとすると、アンナ・リヴォーヴナが彼女をよびとめた。

「ちょっと、ナースチャ、この紙、たしかに書いたげるには書いたげるが、お前、組合ってどんなもんだか、よく知ってるかい」

 食堂の戸口のカーテンのところに立ち止って、ナースチャはまごつきを感じ、むっつり答えた。

「知ってると思います」

「そりゃ素敵だ! 説明してごらん」

 ナースチャは、前垂をひっぱりながら、野性なきつい眼付で主人たち夫婦をみた。ナースチャは主人たちの前で長い文句で自分の考えを述べることなどに、てんからなれていない。アンナ・リヴォーヴナはからかうように、

「きまりわるがることはないじゃないか」

と笑った。

「お前の組合のことをお前が話すんじゃないか」

 腹が立って来て、ナースチャは云った。

「組合へ入れば、映画がやすくなるんです」

 爆発するような口をあけてあおむきに寝ころんだパーヴェル・パヴロヴィッチが笑った。

上出来ブラボ! 上出来ブラボ!」

「父さん! たら……それから? ナースチャ」

 ちっとも云いたくない心持をこらえて、ナースチャは、

「クラブもあります」

と云った。

「夜ひまなとき、わたし、クラブのクルジョークで勉強したいと思ったのです。わたし、ここでほんの一人ぼっちだけど、そこへいけば沢山仲間タワーリシチがあります」

 だんだん自由に話せるようになり、ナースチャはいつか再びテーブルのそばまで戻って力づよく云った。

「ごらんなさい。アンナ・リヴォーヴナ、もし明日でも、いらなくなれば、あなたはわたしを出すことが出来ます。でも、わたしはどうしたらいいでしょう?──それはわたしの苦しみです。あなたの苦しみではない」

「……そりゃ本当だ。……でも、ナースチャ。お前、どのくらい沢山組合ソユーズに入ってる娘たちが失業で淫売婦になってアルバートをうろついているか知ってるかい」

 ナースチャは知らなかった。アンナ・リヴォーヴナは、舌を鳴らした。

「ごらん!」

 人さし指を立て、ナースチャの顔の前でふった。

「自分の胡瓜を売ろうとする人間は、それが苦いとは云わないものさ。第一、組合ソユーズへ入ればお金とられるんだよ」

「それは知ってます」

「いくら払わなけりゃならないって云ったい」

「…………」

 確かな歩合をナースチャは知らなかった。

 アンナ・リヴォーヴナはしばらく頑固に黙っているナースチャの顔を見まもり、やがて捨てるように云った。

「わたしのことじゃないから、どうでもいいけれどね。つまらないようなもんじゃないか。沢山お金とったって、とっただけの割で組合へとられてさ、おまけに失業積立金まで出して、ひとを食べさせてやるなんて」

 ナースチャの頭が、ゆっくり、農民らしくこんがらかりはじめた。アンナ・リヴォーヴナに云われてみると、自分がはっきり知らぬいろいろのことのどこかに、なにか自分に損の行きそうなことが隠れているように感じられ出した。ナースチャは、アンナ・リヴォーヴナを信用はしなかった。同時に、組合も全部信用出来ない心持になって来たのであった。陰気な眼付をして、ナースチャはテーブルの上の紙を眺めた。

「心配おしでない、いいようにして上げるから」

 アンナ・リヴォーヴナは、しょげたナースチャの肩を押し出してやりながら云った。


        十一


「どうした? ナースチャ」

 リザ・セミョンノヴナが舶来の、十五ルーブリ出して買った絹靴下の穴をつくろいながらきいた。

組合ソユーズのこと」

 両手を腰にかって立ち、リザ・セミョンノヴナの手許を見下していたナースチャは、隣の食堂へ目まぜして、小さい声を出せと合図した。

「行きました。この間」

「すんだの」

「アンナ・リヴォーヴナがまだ書付ドクメントを書いてくれないんです」

 リザ・セミョンノヴナはちょっとだまりこんだのち、云った。

「なんとか云われたら、こうお云い。じゃなぜパーヴェル・パヴロヴィッチは自分の組合へ入っているんですかって──いい?」

 ナースチャはつよく合点合点した。

 けれども、ナースチャの本心はもうかわっているのであった。アンナ・リヴォーヴナにほのめかされた疑いが彼女の頭からのかなかった。ナースチャは主人をせきたてなかった。

 十日ばかりして、またリザ・セミョンノヴナに同じことをきかれた時、ナースチャはむしろ不意に体のどこかを突かれたような感じをうけた。(まだ忘れないでいたか)ナースチャはとっさに不自然な熱心さでリザ・セミョンノヴナへこごみかかり訴えた。

「聞いて下さい。リザ・セミョンノヴナ、アンナ・リヴォーヴナは返事だけして承知しないつもりなんですよ。どんなにわたしが毎日毎日頼んでるか! 昨日だって、わたし一時間も云ったんです。そりゃあ一生懸命云ったんです」

 だがリザ・セミョンノヴナは、彼女の綺麗で怜悧な水色の横目でナースチャの喋べくるのを眺めながら、膝を抱えて体をふりふり、彼女の鼻歌をうたいつづけた。

  船が行く──

  渦巻く水は

  じきに気ずいに

  魚を飼うだろう

 ナースチャは、リザ・セミョンノヴナが自分を信じないことを感じた。

「どうしましょう? リザ・セミョンノヴナ」

 リザ・セミョンノヴナは黙っている。

「ね、リザ・セミョンノヴナ」

 自分の虚言うその見破られた意識から、ナースチャは困って泣きそうになった。

「ね、リザ・セミョンノヴナ」

 ナースチャは不器用に手をのばして、リザ・セミョンノヴナの膝にさわって云った。

「悪く思わないで下さい」

 リザ・セミョンノヴナは、それでもやっぱり黙っていた。

 ナースチャがもらって来た書類は、二つ折になって食堂の棚の上にのったまま受難週間になった。

 建物の中庭へ荷馬車が入って来た。そして、雪の下から現われた去年の秋からのごもくたを運び去った。黒い湿った地面が出た。人はまだ冬外套を着て往来を歩いていたが、日が当ると、中庭の黒い地面からはものの腐る温いにおいがした。それは春の匂いであった。日に数度借室のだれかが、中庭で絨毯をたたいた。張り渡した綱にたたいた絨毯を干して、建物のそばのベンチに子供をかけさせておいた。子供は犬と戯れつつ、あるいは建物の四階の窓からリボンをつき出している友達と声高にしゃべりつつ、絨毯の番をした。中庭の光景のあちらの空に芽ぐんだばかりの緑色に煙る菩提樹リーパの大きな頂が見えた。煉瓦の赤い建物がそこにあるので、菩提樹の柔い緑色は一そう柔く煙のように見える。

 アンナ・リヴォーヴナは借室クワルチーラへ床磨きをよんだ。復活祭パスハまで床磨き人は、権威ありげに口をきいた。ナースチャは洗濯をした。ふだんの洗濯のほかに、アンナ・リヴォーヴナが去年の復活祭から枕にかけたレースや、食卓覆い、カーテンを洗った。台所の外についている露台に石油焜炉プリムスを持ち出し、洗濯物をにては盥のなかでもむ。オルロフが、すべるように猫背でやって来た。台所の戸は、箒をつっかって開け放しだ。そこから露台に向って彼は、例の口調で、

「ナースチャ、いつお前の手がすくだろうかね」

 ナースチャは、背を向けたまま答える。

「三時間かかります」

 一年じゅうの洗濯をしてしまわなければならぬ。働きながら、時々ナースチャは石鹸水でふやけた手を露台の上からふって笑った。露台の上から、下の中庭越しに塀が見えた。塀のじゃかじゃか出た針金越しに別の建物の平屋の翼が見下せた。パン屋の仕事場がそこにあった。開いた窓に向ってパンこね台があった。白帽をかぶり、帽子ほどは白くない仕事着をきた職人が四人働いていた。ナースチャが去年の夏来た時にもそのパン工場がやっぱり見えた。間もなく永い冬が来てその窓は閉まり、やがて凍ってなにも見えなかった。

 再び春だ。職人の顔ぶれが少しちがったとしても、それがなんであろう。彼らの一人は、露台にいるナースチャに向って手を振った。ナースチャは笑う。彼はそれを見て笑って、ナースチャにききとれぬことをなにか云う。ナースチャはまた笑う。一人別の職人が、パンのこね粉をむしって、なにかこしらえ、ナースチャに見せるように高くさし上げる。その時はみなの職人が仕事をやめた。笑って、がやがや云いながらナースチャの方を見上げた。仕事場の方は暗いし、第一遠いし、なんの形だかナースチャに見わけられない。彼女は手を振った。職人たちはまるではしゃいで笑いつづけた。

「ヘーイ、娘っ子ジフチョンカ

「ヒュー! ヒュー!」

 畜生チヨルト! ナースチャはむっとして露台から引きこむ。しかし、翌朝戸をあけ、露台へ出る時、ナースチャは挨拶を用意しているのだ。

 ナースチャは、夜十一時半までひのしかけをした。最後のハンカチを終ったが、まだ火があった。ナースチャは今朝ほしたアンナ・リヴォーヴナの下着にひのしをしてしまいたいと思った。けれども、建物の物干場は五階の屋根裏だ。しんとした階段と、物干場のがらんどうな湿っぽい大きさがナースチャを恐れさした。

 ナースチャは、忍び足でリザ・セミョンノヴナの戸へ近づいた。戸から燈火が洩れている。ナースチャは、そっとたたいた。

「お入り」

 リザ・セミョンノヴナは、まだ着物もぬがず、新聞から切抜をしていた。

「リザ・セミョンノヴナ、ごめんなさい、邪魔して。──わたし、物干場へ行かなけりゃならないんです」

 ナースチャは云った。

「でも……こわいんです」

「なぜさ」

「一番てっぺんなんですもの、それに、もう夜で、暗くて」

「アンナ・リヴォーヴナにそうお云い」

神よボージェ・モイ! わたしぶたれます」

 リザ・セミョンノヴナは急に両足で立った。

「さ、早く、早く!」

「ああ、ありがたい! リザ・セミョンノヴナ、あなたは本当に」

「いいから鍵とっといで、早く!」

 ナースチャがさきに立って階段をのぼって行った。足音が、夜のコンクリートの壁に反響した。小さい夜間電燈が各階の踊場についているだけであった。

「ごらんなさい、リザ・セミョンノヴナ、こわいでしょう、わたし、この間、あっちの建物の翼へ泥棒が入ったって聞いているから、一人じゃ来られないんです」

 夜じゅう、借室の下の入口の戸が開いているのは事実であった。木戸口は十二時にしまった。

 リザ・セミョンノヴナは、

「なんでもない」

と云った。

「陽気じゃないだけさ」

 物干場は五階目の登りきったところで、一つ、物干場の戸があるきりであった。上へ行く路はない。下へ、もと来た階段を下りられるだけであった。夜は凄い感じがした。ナースチャは、スイッチをひねってから鍵で、そのたった一つの戸を明け、自分とリザ・セミョンノヴナを入れたのち、堅くとざした。

 床には砂がしいてある。いく条も繩が張り渡され、その三分の二ばかりに物が干してあった。天井は低い。隅になにかの樽があった。ナースチャは、裾飾りのついたアンナ・リヴォーヴナの下着を腕にかけて外へ出た。あとに麻の大敷布三枚、台覆い、パーヴェル・パヴロヴィッチの下着、さらに奥のところにナースチャの前垂、更紗の服、桃色の股引パンタルーンがさかさに繩からつる下っているのが、薄暗い電燈で見えた。

「それだけでいいの」

「ええ、あとは明日でいいんです。左側のは、よその人のです」

 ナースチャは永いことかかって戸の鍵をしめた。


 リザ・セミョンノヴナは、廊下の物音で目をさました。復活祭に、あと三日という朝だ。女の声がした。アンナ・リヴォーヴナの声がした。泣き声が聞えたような気がした。

 顔洗いに行くと、台所の戸が開いていた。ナースチャがその真中に立って、しゃくり上げて泣いている。リザ・セミョンノヴナは、

「なにをこわしたの、ナースチャ」

ときいた。ナースチャは立っている場所を動かず、前垂をつかんだまま、顔から手をはなして答えた。

「干物をすっかり盗まれちゃったんです」

 云ううちに、涙が眼からころがり落ちて、怯えたナースチャの頬を流れた。

「昨夜、あなたも見たあの干物を今朝までに誰かが盗んだんです」

 リザ・セミョンノヴナは、腹立たしそうに、

「いつだって復活祭の前って云うと、ろくなことはありゃしない」

と云った。モスクワで一番盗難の多い季節なのであった。

「お泣きでない、ナースチャ、泣いたって出て来やしない」

「オイ! オイ! リザ・セミョンノヴナ、恐ろしい、わたしがいつ悪いことをしたのでしょう、アンナ・リヴォーヴナやマリア・セルゲエヴナは、わたしが盗んだって云うんです」

「お泣きでない、お前に二人寝台の敷布なんぞいらないのはみな知ってるんだから」

 閉めきった食堂から、電話の音がした。ナースチャはしゃくりながらそれをきき澄した。

「アンナ・リヴォーヴナが警察へ電話をかけているんです。わたしのところへ犬をよぶんです」

 リザ・セミョンノヴナが室へ戻ると、ナースチャは茶を運んで来た。彼女はもう泣いていなかった。リザ・セミョンノヴナが机の前に坐り、茶を飲んでいる間、ナースチャは、いくたびか黙ろうとしながら黙り切れず、訴えた。

「あの人たちは盗まれたものがあまり惜しいので、わたしが盗んだなんて云うんです。犬が来たって、わたしどこの隅でも、靴の底まで嗅がせます。平気だ」

 ナースチャの涙がとまったが、昂奮でいまはかすかに胴ぶるいしているのが見えた。

「ただ、ね、リザ・セミョンノヴナ、わたしはもう八ヵ月近くアンナ・リヴォーヴナのところで働いた。アンナ・リヴォーヴナはわたしが不正直でもおいたでしょうか? それだのに、いまになって盗んだなんて云われるの、口惜しいんです」

 リザ・セミョンノヴナは、苦笑いして、

「じゃ、わたしも犬に嗅がせなけりゃなるまい」

と云った。

「ゆうべ、一緒にあんなところへ行ったんだから」

「あなたは知らないけれど、オルロフは、いつだって机の上に細かいお金をばらで出しとくんですよ。なぜ? わたしは知っています。オルロフはわたしを試しているんです。わたし、指の先だってそんなお金にさわったことはありゃしない。──そんなにしたって、ふしあわせな人間には、ふしあわせしか来ないんです。──オイ! いまにどんなふしあわせが来るだろう──」

 夕方リザ・セミョンノヴナは、鈴蘭の花束と、金色で細いリボン飾りのついた卵を買って帰って来た。狭い借室での復活祭の仕度だ。廊下で、アンナ・リヴォーヴナに出会った。すると挨拶もせず出しぬけに彼女は、リザ・セミョンノヴナに云った。

「今朝警察からあなたのことをききに来ましたよ、どうしたんでしょう」

「……そんなことをわたしが知るもんですか、アンナ・リヴォーヴナ」

 リザ・セミョンノヴナは、ナースチャが茶を持って来た時、

「アンナ・リヴォーヴナは、盗まれた敷布が惜しくて、頭をおっことしてしまったよ、ナースチャ」

と云った。

「どうしたい、可愛い犬はよくお前を嗅いでってくれたかい?」

「ええ、アンナ・リヴォーヴナとマリア・セルゲエヴナは、わたしが盗まなかったのが不満なんです。ねえ、リザ・セミョンノヴナ。いまにどんなふしあわせが来るんでしょう。ちょうどわたしのところに鍵のあった晩に盗まれるなんてねえ。……盗んだ人間は、安全でわたしだけがこんな辛い思いをするなんて」

 ナースチャは、急に憎悪に燃えた眼をして叫んだ。

「悪人奴! 悪人奴!」

 往来では粉雪が降り出した。歩道の上を花売り男が両手に鈴蘭の束を持ち、

「新しい鈴蘭、きりたての鈴蘭、お買いなさい、五十カペイキ」

 通行する年よりの女に近づいて、花束をつきつけた。老婆は買物籠の経木製の二本の百合の花を指さした。「ごらん! これを。いりゃしないやね」──アルバートの広場の赤白塗の古い大教会では、二人の男が鐘楼で受難金曜日の鐘を鳴らした。教会の外壁をまわって通る電車の窓ガラスと、向う側の食堂ストローバヤの扉が、ガーン、ガーン重くけたたましく鐘の音響によって絶えずふるえた。上衣の左右のかくしへウォツカ瓶を突こみ、一本からは時々ラッパのみしつつ、労働者が一人ならんでいる客待ちタクシーのかげを通った。いろんな方角から射出す明りで通行人の顔が歪んで見える広場の辻を、警笛を鳴らしつづけ、赤十字の応急自動車が走り去った。夜のうちで赤い十字が瞬間人々の目をかすめ、光った。

 粉雪はますます降り、鐘の音波はやや雪にこもり、下方から光線をあびる教会の尖塔は雪の降る空の高みでぼやけはじめた。しかし、食料品販売所コンムナールでは、床にまいた大鋸屑おがくずを靴にくっつけて歩道までよごす節季買物の男女の出入が絶えない。

 アンナ・リヴォーヴナは夫と「鷲の森ソコールニク」の娘のところへ行った。そこには、ガスでない白樺薪をたく本物のペチカがあって、アンナ・リヴォーヴナは、例年復活祭のクリーチは、うちのと、娘たち家族の分と、そこで焼くのであった。リザ・セミョンノヴナは芝居へ行ったし、ナースチャの台所では、水道栓からしたたる水の音がきこえるだけであった。

 ナースチャは、踏台をして高い棚の奥から、古びた樺細工の鞄をおろした。布団やなにかと一緒にこれも今朝コンクリートの床の上で警察の犬に嗅がれたものだ。膝の上に鞄をおき、ふたをあけ、ナースチャは、縁に赤い水玉模様のついたけちなハンカチづつみをとり出した。死んだ母親がナースチャにくれた聖像イコーナであった。聖像は、ほんの小さい二寸角ばかりのもので、なんだかわからない古い厚い板に、金もののキリストと聖者がついていた。キリストも聖者も目鼻はなかった。金属板の上に簡単な直線で体と顔面の輪廓だけ刻まれている。ナースチャは片手でその聖像を持ち、片手で自分の胸の上に十字を切った。

 明日早朝焼かなければならぬ肉入パンの種がこしらえてある鉢を料理台の上で片よせ、ナースチャは、その小さい聖像を壁にもたせておいた。三カペイキの小蝋燭の燃えさしをさがし出し、ボール紙の切端に蝋をおとして立て、二本の蕊に火をつけた。自分の大さにつり合った蝋燭の焔を受けて、聖像のキリストと聖者とはうれしげに台所のなかで輝いた。ナースチャは、本当の聖壇の前でするように、聖像の前に立ち、いくども胸に十字をきっては低く叩頭した。

 それがすむと、台をもって来て、ナースチャは料理台にぴったりくっついて架けた。台の上で両腕を深く組み合わせ、その上に顎をのせ、自分の顔と同じたかさにある小さい聖像をナースチャはしげしげと眺めはじめた。──どうして、このキリストや聖者に眼も口もないのであろう。右の方に立っているのが、自分の聖者だと、ナースチャは子供のときから教えられた。だが、どこでこれが聖者ナデージュダだとわかるのだろう。目もなく、口もなく、それで自分を護ってくれることが出来るであろうか。ああ、しかし、キリストにだって眼や口がないではないか。

 ナースチャは祈の文句も正式には知らず、不断信心しているというのでもなかったが、そうして、蝋燭の光に照らされる古馴染の小聖像を眺めていると、親しい休まった心持になった。思いがけない出来事で疲れ、泣いた心が、和らいだ。蝋燭の燃える微かな匂いも、いい心持だ……ふっと腕に押しつけている口の隅からよだれが出そうになった。ナースチャはいそいでそれを吸いこみ、また頭を下して頬ぺたを腕にのっけた。またたきする度にナースチャの睫毛まつげをとおして、蝋燭のしんのまわりと聖像の面から短い後光が細かく一杯八方へさした。一つずつナースチャのまたたきがゆっくり重くなった。それにつれて後光は、蝋燭のまわりと聖像の面の上から次第に長く、明るく、顔の上にさして来るような気がする。ナースチャは溜息をついた。彼女の手足から感覚がぬけ、いつか閉じた瞼をとおし頭のうちまで光で一杯になった。

 いびきで、ナースチャは愕然と目を開いた。彼女は自分の周囲を見まわした。かっちりと電燈が台所じゅうを照らしている。蝋燭は三分ほどともりのこっている。ナースチャは蝋燭を吹き消した。煙がゆれて、強い匂いが漂った。さっきとはまたちがう淋しい心持がナースチャに起った。ナースチャは伸びをし、肩をかいた。

 ベルが鳴って、オルロフが帰って来た。彼は廊下で外套をぬぎながら、水のような眼でじっとナースチャを見つめ、

「いい娘さんだね、お前は」

と云った。ナースチャは、自分の顔になにかがついているんだと思って、あわてて手のひらで口のまわりをこすった。オルロフは、やっぱり水のような眼でナースチャを見まもり、命令した。

「どうかわたしに熱い茶を一杯持って来てくれないかね」

 ナースチャが台所へ行くうしろから、彼はもういっぺん叫んだ。

「ごく熱いのでなけりゃいけないぞ」

 ナースチャは、台所の戸をばたんと閉めて、薬罐をガスにかけた。夜業しているパン工場の燈火が、降る粉雪を射て、ナースチャのところから低く下に見えた。

底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年920日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房

   1951(昭和26)年12月発行

初出:「改造」改造社

   1928(昭和3)年11月号

入力:柴田卓治

校正:松永正敏

2002年56日作成

2003年720日修正

青空文庫作成ファイル:

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