毛の指環
宮本百合子
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その家は夏だけ開いた。
冬から春へかけて永い間、そこは北の田舎で特別その数ヵ月は歩調遅く過ぎるのだが、家は裏も表も雨戸を閉めきりだ。屋根に突出した煙の出ぬ細い黒い煙突を打って初冬の霰が降る。積った正月の雪が、竹藪の竹を重く辷って崩れ落ちる。その音を聴く者も閉めた家の中にはいない。煤で光る棰の下に大きな炉が一つ切ってあって、その炉の灰ばかりが、閉め切った雨戸の節穴からさし込む日光の温みにつれ、秋の末らしく湿り、また春の始めらしく軽く乾く。──微かな生きものだ。
侘しい古い家も、七月になると一時に雨戸という雨戸を野外に向って打ち開き甦った。東京から、その家の持ち主の妻や子供達や、従兄従妹などという活発な眷属がなだれ込んで来て部屋部屋を満した。永い眠りから醒まされて、夏の朝夕一しお黒い柱の艶を増すような家の間で、華やかな食慾の競技会がある。稚い恋も行われる。色彩ある生活の背景として、棚の葡萄は大きな美しい葉を房々と縁側近くまで垂らして涼風に揺れた。真夏の夕立の後の虹、これは生活の虹と云いたい光景だ。
由子は、独りで奥の広間にいた。開け放した縁側から、遠くの山々や、山々の上の空の雲が輝いているのまで一眸に眺められた。静かな、闊やかな、充実した自然がかっちり日本的な木枠に嵌められて由子の前にある。全く、杉森をのせ、カーバイト会社の屋根の一部を見せ、遠く遠くとひろがる田舎の風景は、手近いところで一本、ぐっと廊下の角柱で画される為、却って奥ゆきと魅力とを増しているようだ。
由子は、樟の角机に肱をつき目前の景色に眺め入っていた。樟は香高い木だ。その芳ばしさは如何にも八月の高燥な暑さや澱みなき日の光と釣り合って、隈なき落付きというような感情を彼女に抱かせる。
──そうやっていると、彼方の庭までずっと細長く見徹せるやや薄暗い廊下をお清さんがやって来た。白地の浴衣に襷がけの甲斐甲斐しさだ。彼女は由子の傍へ来ると、
「ちょっと、こんなもの」
と云って膝をつきながら、笑って両手の間に小さい紫のメリンスの布をひろげて見せた。
「何なの」
「あなたのでしょう」
「あら? 前かけね」
「長持ちのお布団の間から出たんですよ」
由子は漠然と懐しささえ感じて、そのメリンスの小っぽけな前掛に触って見た。前掛と云っても、袷の膝をよごさない為ほんの膝被いのつもり故、紫の布は僅か一尺余りの丈しかなかった。もう虫が喰っていた。ぽつぽつ小さい穴や大きな穴の出来たその古前掛は、並はずれて丈がつまっているだけどこやらあどけない愛嬌さえある。
「あら感心にまだこの紐がちゃんとしている」由子は一種の愛惜を面に表して、藤紫の組紐をしごいたりしたが、やがて丁寧にそれを畳んで、お清さんの前へ置いた。
「あなた大働きだから、勲章にこれさし上げます」
「おやまあ」
お清さんは、笑いながらそれを戴いた。
「恐れ入ります。じゃ、いただいといて家宝にでも致しましょう」
真面目腐って立ち上ったが、座敷を出ながら、
「でも本当に可愛いんですね、しまっときますよ」
ただ虫が喰っただけだとは思ったが、由子はそのまま黙っていた。
その紫の小さい前掛に特別な連想や思い出がある訳ではなかった。ただ、平常前掛をしない由子が、何年か前、気まぐれに拵えた紫前掛、その色の古風なところも、そのまま偶然虫に喰われながら出て来て見ると憎らしい心持もしない。ホホウ! そして何だか微笑まれる。紫の布ッ端とばかり感じられない親密さがあるのであった。
宏やかな自然の風景を写している由子の意識の上に暫く紫の前掛が鄙びた形でひらひらした。段々その幻影がぼやけ、紐だけはっきり由子の心に遺った。紐は帯留めのお下りであった。あの帯留は母が買って来た。「まあこんな廉いものがあるんだね」そう云って由子の前へ出して見せた。「するのならあげよう」由子が平常にしめているうちに、真中に嵌っていた練物の珠みたいなものが落っこちてしまった。珠みたいなものは薄紅色をしていた。……
由子は、今も鮮やかにぽっくり珠の落ちた後の台の形を目に泛べることが出来た。楕円形の珠なりにぎざぎざした台の手が出ているのが、急に支える何ものも無くなった。それでもぎざぎざは頑固にぎざぎざしている。掴んでいるのは空だ。空っぽの囲りで、堅い金具が猶もそのような恰好をしているのを見るのは厭な気持であった。
それで自分は前かけの紐にしてしまったのだ。
ふっと、由子は心の隅に、更にもう一つの紅い玉を思い泛べた。帯留の練物のような薄紅色ではない。その玉は所謂紅玉色で、硝子で薔薇カットが施こされていて、直径五分ばかりのものだ。紅玉色の硝子は、濃い黒い束ね髪の上にあった。髪の下に、生え際のすんなりした低い額と、心持受け口の唇とがある。納戸の着物を着た肩があって、そこには肩あげがある。
目で見る現在の景色と断れ断れな過去の印象のジグザグが、すーっとレンズが過去に向って縮むにつれ、由子の心の中で統一した。
*
由子はお千代ちゃんという友達を持っていた。由子の唯一の仲よしであった。由子が小学校の六年の時、お千代ちゃんは五年で、仲よしになったのはどんな動機からであったか、由子はもう思い出せない。六年と五年の女生徒が連合で四組舞踏を踊った。先生も無心、生徒も無心、少し退屈を感じながら藤の花の散る下で、オルガンに合わせ、
一二三四、五六七八
一二三四、五六七八
先生は男で白縮の襯衣だ。そのような伸びたり縮んだり輪になる間に、お千代ちゃんと親しくなったのか。
由子はお千代ちゃんと一緒にかえる為に、女学校が退けると小学校まで廻った。お千代ちゃんが当番で、二人並び東片町の大通りを来ると、冬など、もう街燈が灯っていることもあった。
*
由子とお千代ちゃんは歌をうたった。
阿蘇の山里秋更けて
眺め淋しき冬まぐれ
…………
お千代ちゃんは内気らしく、受け口を少しあいて、低い声で歌った。由子は自分の肩をお千代ちゃんの肩にぴったりつけ、顔を上に向け、恍惚と声張り上げてうたった。
お千代ちゃんは、地味な白絣の紡績の着物に海老茶袴をつけている。
小学校を最優等でお千代ちゃんは卒業し、日比谷公園へ行って市長の褒美を貰った。その時、お千代ちゃんはやっぱり地味な紡績の元禄を着て海老茶袴をつけて出た。新聞が、それを質素でよいと褒めた。由子は、そうは思わなかった。いい着物をお千代ちゃんに着せたかった。あって着ないのではない。お千代ちゃんの家は貧しいのを、由子は知っていた。
お千代ちゃんが、由子の家から三町もない処へ越して来た。家じゅう引越して来たのではなく、お千代ちゃんだけ、お祖母さんのところへ来たのであった。いきなり木戸で、入ると花が一杯縁側まで咲きこぼれていた。縁側から油障子のはまった水口が見え、その障子が開いていると、裏の生垣、その彼方の往来、そのまた先の×伯爵の邸の樫の幹まで三四本は見られる。
*
お祖母さんの家はそのような家なのであった。二階があった。そこに叔父さんがいた。その人は絵描きであった。
お千代ちゃんは、由子の入った女学校の試験を受ける積りであった。由子はどうかして入って欲しいと思った。女学校をずっと二人で通えたら、それは素晴らしいことだ。由子は勿論お千代ちゃんは容易く試験を通るとその学力を信頼していた。そうでもなければ、市長からわざわざ御褒美を貰い、新聞で紡績の装を褒められたとて何になろう。
然し、お千代ちゃんを助けるつもりで、由子は自分の家で、一つ机でお千代ちゃんと一緒に勉強した。書き取りを読んだ。母に頼んでお千代ちゃんの為に歴史や地理の問題を出して貰った。
*
試験の日、由子はお千代ちゃんを試験場の、青い小さい席のところまで送って行った。
「勿論大丈夫だけれど、確かりね」
お千代ちゃんは、受け口の唇に笑を浮べながら合点をした。昼になった時、由子はパンを買って来て、二人で食べた。そこは花壇の隅の狭い芝生の上であった。ニコライの鐘楼と丸屋根が美しく冬日に輝いて、霜どけの花壇では薬草サフランと書いた立札だけが何にも生えていない泥の上にあった。由子はうっとり──思いつめたような恍惚さで日向ぼっこをした。お千代ちゃんは眩しそうに日向に背を向け、受け口を少しばかり開け、煉瓦の際まで押しよせてその上に這い上ろうとしている芝の根を眺めていた。
実に思いがけずお千代ちゃんは試験に通らなかった。
*
学校から帰ると、由子は出かけて行ってお千代ちゃんを呼び、大抵自分の方へつれて来た。一つ机で、由子は方丈記を写した。向い側でお千代ちゃんが木炭紙へ墨で幾枚も絵を描いた。女の絵であった。
「──お千代ちゃん絵うまいのね」
「そーお。──私絵やろうかしら」
由子は頭をふり上げ、
「いいわ、そりゃいいわ」
と熱心に賛成した。
「お千代ちゃん絵はきっといいわ、お遣んなさい、ね? する? きっとする?」
*
けれどもお千代ちゃんは絵もやらず、そのうち、祖母さんの家からいなくなった。木戸を入って行って由子は訊いた。
「お千代ちゃんどこへ行ったの」
「神戸のおばさんのところへ行ったんですよ」
「いつ帰るの?」
「もう半月ばかりで帰りますよ」
「神戸のどこなの?」
「……ああ、由子さん、そのコスモスお持ちなさい、今剪ってあげましょうね」
お祖母さんという人は、親切な人であったがそういう風な返事をした。
再びお千代ちゃんの顔を見た時、由子は「ひどいわ、黙って行っちゃうなんて!」
と云った。
「御免なさいね。──あのね──誰にも云わないでね……私本当は神戸で小母さんなんかのとこにいたんじゃないのよ。嘉久子のところにいたの、手伝いしながら見習いしていたの。──何にも、まだ教えてくれないけれど……」
「──女優になるの?」
お千代ちゃんは黙って頸を下げた。その時、由子は、紅玉色の、硝子の、薔薇カットの施こされた簪をお千代ちゃんのたっぷりした束ね髪の横に見たのであった。
是非お千代ちゃんは神戸へ行かなければならなかった。由子は自分の髪の毛で、小さい三つ組を拵え、指環のような形にし、餞別にそれをお千代ちゃんにやった。
二三年後お千代ちゃんに再び会った時、彼女は銀杏がえしに結った芸者であった。──
稚かった自分に全然解らなかった生活の力が、お千代ちゃんを動かしていたことを理解し、由子は、高燥な夏の真昼の樟の香が鼻にしみるような心持になった。
由子は遠く山巓に湧き出した白雲を見ながら、静かに心の中で愛する紅玉色の硝子玉を撫で廻した。
後 記
この一篇を書き終った時、私の胸は別れて久しいお千代ちゃんの懐かしさで一杯であった。我が小さく拙い毛の指環よ。ひろい世の中へ出て行って、どこかで、どのようにか、彼女の生活を送っているだろうお千代ちゃんにめぐり遇え。
底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第三巻」河出書房
1952(昭和27)年2月発行
初出:「若草」
1927(昭和2)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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