街
宮本百合子
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一
一九一七年に、世界は一つの新しい伝説を得た。「ロシア革命」。当時、そのロシアに住んでいた者は、物心づいた子供から、老耄の一つ手前に達した年寄りまで、それぞれ一生の逸話を拾った。逸話は、いかにもこの国風な復活祭の卵のように色つきで、或る者のは白、或るもののは緑、或る者のは真赤だ。
レオニード・グレゴリウィッチ・ジェルテルスキーはやっと商業学校を出たばかりの青年であった。彼の父親は小さい町の工業家で、革命の時、理由あってか、多くの間違いのうちの一つの間違いによってか殺されて、河の氷の下へ突込まれた。ジェルテルスキーは、それから、母親を五日鶏の箱へ詰めた経験、真直自分の額に向けられた拳銃の筒口を張り飛したので、銃玉が二月の樺の木の幹へ穴をあけた陰気な光景などを、彼の逸話として得た。
一九二九年、ジェルテルスキーは彼の東京で二度目の冬を迎えた。勤めている或る週刊新聞社は、赤坂の電車通りに面して建っていた。水色のペンキで羽目板を塗り、白で枠を取った二階建ての粗末なバラックであった。階下が発送部で、階上が編輯室だ。誰かが少し無遠慮に階段を下りると、室じゅうが震えるその二階の一つの机、一台のタイプライターを、ジェルテルスキーは全力をつくして手に入れたのであった。
薄曇りの午後、強い風が吹くごとに煙幕のような砂塵が往来に立った。窓硝子がガタガタ鳴った。洋袴のポケットへ両手を突こみ、社長が窓から外を眺めていた。
「フッ! 何という埃だ。──こんなやつあニガリ撒いた位じゃ利かないもんかな」
「──…………」
誰も返事しなかった。編輯員の一人は、片手で髭を引っぱりながら熱心に露文和訳をしていた。向いの机で、邦字新聞から経済記事を他の一人が抄訳している。黒ビロードのルパシカを着たジェルテルスキーは、最も窓に近い卓子で露字新聞を読んでいた。彼は、社長の独言から、何という埃だ。利かないもんかな、などと云う言葉を理解した。小心なジェルテルスキーはその場合、一番彼に近くいる位置の関係から云っても、何とか一言親しみある言葉を与えたかった。然し、彼には適当な日本語が見つからない。──つまり彼も黙って、タイプライターを打ち始めた。
「最近地方図書館は著しき発達を遂げた。現在に於て地方図書館の数は六千五百を数えられている」
外の往来をトラックが通るひどい音がし、ブルルル新聞社の建物全体が震動した。一人が思い出したように立って、室の隅の水道栓のところで含漱を始めた。社長は次の室へ去った。──
階子口のところへ、給仕娘の顔が出た。
「ジェルテルスキーさん、御面会ですよ」
「だれです?」
「御婦人の方がお二人で下に待っていらっしゃいます」
ジェルテルスキーは長い椅子からたちながら、金髪をかき上げ、水のような碧い眼を訝しげに動かした。柱時計は二時十五分を示している。ジェルテルスキーは、靴をはいた足の長さの三分の一は確にあまる浅い階子段を注意深く下りて行った。
「来ます?」
「ええ直ぐいらっしゃいます」
腰をかがめてその声の方を覗き、ジェルテルスキーは意外さと漠然とした当惑とで、
「おお」
蒼白い顔を少し赧らめた。再び金髪をかき上げる暇もなく、彼はブーキン夫人の有名な饒舌に捕まった。
「ああ、レオニード・グレゴリウィッチ! お目にかかれて何て仕合せだったんでしょう。さ、どうか早く下りて来て私共の相談相手になって下さい」
交際で、ジェルテルスキーはもうブーキン夫人を取扱うこつを心得ていた。彼は、内気そうな、同時に頑固そうなところもある微笑を浮べながら、先ず黙って、さし出された対手の手を握った。
「いかがです」
次に彼は、傍に立っている、太ったマリーナ・イワーノヴナに挨拶した。いつも傲然と胸をつき出し、ジェルテルスキーを子供扱いにしているマリーナ・イワーノヴナが、今日はどうしたことか、彼の挨拶に、うなずいて答えるのだけがやっとらしい有様であった。それを、ブーキン夫人が尤もだ、尤もだというように、吐息をついて眺めた。
「ねえ、レオニード・グレゴリウィッチ、マリーナ・イワーノヴナが何ともお気の毒なことになりましてね、私、御相談を受けて友達甲斐にお見捨てすること出来なくなったんですよ、マリーナ・イワーノヴナ、よくレオニード・グレゴリウィッチに事情をお話しなさいませよ、若い人の心は寛大だから、きっと貴女の御満足の行くように計らってお貰いになれますよ」
発送掛の小僧や事務員、さっきの給仕娘まで今は一斉に仕事をやめ、深い好奇心に輝いて、ジェルテルスキー自身にもまだ訳の分らない話を眺めている。彼は、
「失礼ですが、此方に椅子がありますから」
と、二人の女を応接間に通した。がらんとした白壁の裾には、荒繩で束った日露時報の返品が塵にまみれて積んである。弾機もない堅い椅子が四五脚、むき出しの円卓子の周囲に乱雑に置いてあった。その一つを腰の下に引きよせるや否や、ブーキン夫人は新しい勢いで云いだした。
「レオニード・グレゴリウィッチ、どうか貴方、可哀そうなマリーナ・イワーノヴナの忠実な騎士になって上げて下さい、ね、お拒みなさりはしませんわね」
ジェルテルスキーは、黒い洋袴を穿いた脚を組みながら、丁寧に碧い眼を見開いて対手を見守った。
「失礼ですが、夫人、私はまだちっともお話の内容がわからないんですが」
「まあ本当に! 私、いつも熱中するとこうなんですの、そしては宅に驢馬っていわれるんですの──ホッホホホ」
何故この夫人ばかりは、ナデージュタ・ペトローヴナと呼ばれず、マダム・ブーキンと云うのか誰も理由を知らなかった。
彼女は名刺にマダム・ブーキンと刷らせた。ジェルテルスキーが、上海で始めて彼女に紹介された時、彼女は、何か特種な称号でも云うように、
「ええ、私マダム・ブーキンと申しますの、どうぞよろしく」
と紅をさした頬で微笑った。髪の黒い、黒い眼のキラキラした痩せぎすの彼女にとって、マダム・ブーキンというのは頬に紅をさすのと同じに、一つの趣味に過ぎないのだろう。ジェルテルスキーは、蒲田でこの夫人の若い愛人になったことがあった。──撮映されたのだ。──
非常に豊富な間投詞と詠歎との間からジェルテルスキーが得た知識は、マリーナ・イワーノヴナが、夫のエーゴル・マクシモヴィッチと激しい夫婦喧嘩をしたこと、その原因はエーゴル・マクシモヴィッチがマリーナから借りて返さない三百円の金にあること、もう二度と帰らない決心で家を飛び出して来たと云う事実であった。
「もう絶望のどん底で私のところへ今朝いらっしったんですの、一緒に泣いてしまいましたわ。ねえ、マリーナ・イワーノヴナ、私も女ですよ、あなたの辛いお心がひとごととは思えませんわ。──それでね、レオニード・グレゴリーウィッチ、お願いと申しますのはね、あなた当分、この不幸な方を保護して上げて下さいませんこと?」
ジェルテルスキーは、咽喉仏を引き下げるようにして低い声で答えた。
「私の力にかなうことなら悦んでお力になります」
が、そう云い終ると同時に、彼の艶のない白っぽい眉毛の生えた額際を我にもあらず薄赧くした。たった一間しかない住居のこと、彼の衣嚢にある一枚の十円札のことなどが、瞬間彼の頭を掠めたのであった。
彼が赧くなると、マダム・ブーキンも一寸上気しながら、大仰に吐息をついた。
「私、出来ることなら切角来て下すったんですもの、家へ幾日でもいていただきたいと思いますわ。どんなにまた仕合せにおなりになるまで、傍にいて慰めてお上げしたいでしょう。──でも……」
マダム・ブーキンは若い娘のような身振りで膝の上に擦れた手提袋の紐を引っぱった。
「ああ、みんな元のようではないんですものね、それに私のところには小さいものもいますし──」
ジェルテルスキーは、これまで下手にばかり自分の身を置いてつき合って来た二人の年長の女たちの間に挾まれ、進退谷まった。彼は、二人のどちらにも、世話と云えば世話になったことがあるのであった。マダム・ブーキンは彼女の映画会社へ、餓死しそうになっていた彼を紹介して呉れた。マリーナ・イワーノヴナは夫婦とも裁縫師で、ジェルテルスキーは妻のための内職を、マリーナ・イワーノヴナのところから貰って来ていた。今もいる。──恐らく彼が、片手でルパシカの胸を抱え、右手で頻りに金髪を撫でつつ、決心しかねている今の瞬間、若いダーシェンカは、手ミシンを廻しながら、子供服の袖でもつけているであろう。
マリーナ・イワーノヴナは、殆ど一口も物を云わないでかけていた。物を云ったら太った体じゅうの悲しみと絶望が爆発するのを恐れて唇を結んでいるようであった。ただ、目をはなさずジェルテルスキーの顔を見守った。何とつよく見ることだ。充血した二つの目と蒼黄色く荒れた二つの頬とで、彼女は答を待っている。──マダム・ブーキンもすべて云うだけの事は云ってしまった。そして、彼の口許を見た。──ジェルテルスキーは、そのように押しづよい女の四つの目で見つめられる自分の口許に髭の無いことが、変に気になった程、沈黙は脅威的であった。彼は遂に、
「では兎も角私の家へお伴しましょう」
と云った。
「ダーリヤ・パヴロヴナに一度都合をきいて見ませんとどうも──若し彼女にさしつかえないようだったら、勿論私共は悦んでお宿致します」
マダム・ブーキンはちらりと素早い流眄をマリーナに与えた。が、気落ちしているマリーナ・イワーノヴナはそれを捕えず、ただジェルテルスキーが家へ行こうと云ったのをだけ理解したように、重々しく椅子から立ち上った。
二
数ヵ月のうちに母親になろうとする体のダーリヤ・パヴロヴナは、狭い部屋の中を悠くり隅から隅へ歩いていた。レオニード・グレゴリウィッチが電車賃を節約するために勤め先と同じ区内にこの貸間を見つけたのであった。主人は請負師であったが、この男は家にいない。妻らしい女も見えなかった。階下には六畳、三畳、台所とある、日光のよくささないところに六十余の婆と六つばかりの女の児が生活していた。
往来に面した窓の外を、ここでも今日は砂塵が、硝子を曇らして舞い過ぎた。ダーリヤは自分独りの時は石油ストウブを燃かないことにしていた。それ故室内は暖かではない。然し、決して居心地悪い場所とは云えなかった。窓には白地に花模様の金巾のカーテンが懸っていた。一畳ばかりの勝手を区切る戸の硝子は赤い木綿糸でロシア式刺繍をした覆いがかかっているし、二階から上って来る、ジェルテルスキー家の入口である襖の左右にも、アーチのように、海老茶色に白でダリヤの花の模様あるメリンス布が垂れ下っていた。柱にかけた鏡の上に飾ってあるバラの造花、ビール箱を四つ並べた寝台の頭上の長押に、遠慮深くのせられてある三寸ばかりのキリストの肖像。──それ等は、悠くり、隅から隅へ歩いているダーリヤのやや田舎風な、にくげない全体とよく調和していた。レオニード・グレゴリウィッチはひどく背が高い。ダーリヤも二寸位しか低くなかった。そして同じように、余り艶のない金髪である。
──二十度近くも室内散歩を繰返えすと、ダーリヤは、窓の前の卓子へ戻った。その辺の畳へ、細かい羅紗の裁ち屑が沢山散らばっていた。彼女はさっきまで子供外套の裁断をしていたのだ。産科医の注意で、彼女は一日のうちに幾度かそうやって、かけていれば立って歩く、たっていればかける、或は体を長くのばして横わる。いろいろ姿勢をかえる必要があるのであった。それが書き物机にもなるし食卓にもなる机から布をかたづけているうちに、ダーリヤは少し疲れを覚えた。頬杖をつく。──風が吹きすぎる毎に思わず顰め顔をしながら外の景色を眺める。バラックのスレートの屋根屋根、その彼方に突立つ葉のない巨大なる焼棒杭のような樹木。……遠くの物干へ女が出て来て、真白なシイツらしい布を乾した。女は去る。風が吹く。白い洗濯物は気違いのようにはためいた。曇った空とその砂塵の中で真白い一枚の布は何かを感じているように動く。ダーリヤ・パヴロヴナは、ぼんやりした一種の物思いに捕われた。それは悲しみではないし、苦しみとまで鋭いものでもない。何か広い、果しない、目的の定まらないものの中に混りこみ、生きている自分達──そんな感じだ。いろいろな場所で種々な習慣言葉を持つ民衆の中に生活して来たダーリヤは、東京で、不便な言葉で、その上きりつめて暮さなければならないことに驚きはしなかった。レオニード・グレゴリウィッチが彼女の夫であると同じそれは不変の事実だ。ああ、リョーニャ! ダーリヤ・パヴロヴナの素朴な顔はその名に燃える。彼と、今自分の体の中で次第に重く、何とも云えぬ可愛いさで重く重くと育って来る嬰児とに向って、彼女の心臓は打っている。
「神よ、護り給え──」
然し、愛するリョーニャと自分の可愛い可愛い子と三人の暮し、その行末──その先の行末──。ダーリヤの妻から母になろうとする若い胸には、こう考えて来ると、いつも、永久に消え去る一条の煙の果を眺めるような当途もない心持が湧くのであった。彼女には、レオニード・グレゴリウィッチがこれ以上立身をして、自分達の生活に変りが起ろうとも思えなかった。一生のうちに、また故郷の草原を見、丸木小屋に坐って温まって来る壁の匂いをかぐ懐かしい冬の夜にめぐり合うことも無いであろう。それでも、生活は続いている。自分達の死んだ後、けれども、国籍をも持たぬ子孫は、どこで、どうやって生きるであろうか。彼等の生活も、自分達二親の生活がそうであるように、苔のように根のついたところで、根を切られぬ限り、その日その日つづいていくのであろう。然し、自分達の墓のある土地で彼等が生きつづける──どうしてそんなことが夢見られよう! ダーリヤ・パヴロヴナ自身にさえ、彼女の一生は地球儀のどの色で塗られている場所で終るのか、予想もつかないではないか。地球の面の広さ、そこに撒かれた自分達の生活の何とも云えず拠りどころなき立場──。ダーリヤ・パブロヴナは、今日のような曇った空の下によせている一つの海を想い出した。
彼女は敦賀行汽船の最低甲板から海を眺めていた。海はあの埃をかぶったスレート屋根の色をしていた。タブ……タブ……物懶く海水が船腹にぶつかり、波間に蕪、木片、油がギラギラ浮いていた。彼方に、修繕で船体を朱色に塗りたくられた船が皮膚患者のように見えた。鴎がその檣のまわりを飛んだ。起重機の響……。
ダーリヤの、どこまでも続く思い出を突然断ち切るように、階下で風に煽られたように入口が開いた。
「あら、これ、家の娘さんですの、悧口そうな眼つきだこと……何ていう名なのお前さん」
「我々の言葉を理解しないんですよ、ちっとも」
レオニード・グレゴリウィッチのそれは声だ。ダーリヤは、いそいで階子口の襖をあけて下を覗いた。ブーキン夫人が真先に靴をぬいで階段に足をかけ、彼女に向って身振沢山に手を振った。
「おお、おお、あなたは本当に仕合せものよ、可愛いダーシェンカ! こんな天気に外を歩いて来て御覧なさい」
次いで、マリーナ・イワーノヴナ、最後にジェルテルスキーの長い脚が、左右、左右、階段の上に隠れるのを見届けると、下の小さい娘は自分達の部屋へかけ込み、息を殺して、
「お婆ちゃん、三人、異人さん」
と報告した。
三
長火鉢をはさんで姪の志津と話し込み、せきは孫の報告をききつけなかった。
「だからさ、そりゃ私みのるさんの覚悟が悪いって云ったのさ。義理にもせよ阿母さんだと思えばこそ、善ちゃんが自分の稼ぎで寒いめもさせないんだからね。孫の看病位お前……」
「おばあちゃん!」
うめは、祖母の黒繻子の衿にハンケチをかけた肩にもたれかかって押した。
「三人ですってば、異人さん」
「分りましたとさ」
長火鉢の向う側から、志津が云った。
「いい門番さんがいるのねえ、おばあさんとこ」
せきは、長火鉢の縁で煙管をはたき、大人の女でもみるような風に六つの孫娘をじろりと見た。
「おかしな子ったらないのさ、異人さん異人さんって大騒ぎさ。もうちっと大きかったらとんだ苦労だ」
「ふふふ、まさか!──珍しいんだわねえ、うめ坊」
うめは、祖母の横に坐り、上眼づかいで伯母を見上げながら、にっとはにかみ笑いをした。おかっぱで、元禄の被布を着て、うめは器量の悪い娘ではなかったが、誰からも本当に可愛がられることのない娘であった。蒼白い顔色や、変にませた言葉づかいが、育たないうちにしなびた大人のような印象を与えた。年寄りの祖母に、遊び仲間もなく育てられているうちに、うめは、六つで、もう年寄りになりかけているのであった。志津は、甘えて横座りしているうめを愛情と焦立たしさの混った眼で眺めながら、
「うめちゃん、何て名? お二階の異人さん」
と訊いた。
「ジェリさん」
「──本当? お菓子みたいな名なんだねえ」
「違うんだよ、ジェル何とか云うんだそうだけえど、あんな長い名覚えられるもんじゃあない、名なんぞ呼ぶ用がありゃしないよ」
「──二階に人がいると、でも淋しくなくっていいわ。そろそろ下駄片づけちゃどう」
せきは、薄い苦笑いを洩らした。いつか志津が遊びに来た時、
「まあ、どうしたのあの上り口の下駄ったら、何人家内です、こちらさん」
と云ったことがあった。するとうめが、とても声をひそめて伯母に説明してきかせた。
「あの下駄はね、本当は誰にも云っちゃいけないんですけれどね、わざと置いとくの。うち、おばあちゃんとうめだけで不用心だから」
志津は、田丸屋のかき餅をつまみながら、
「いくらで貸してるの」
と尋ねた。
「二十四円さ」
「おばあさん一人のお小遣いだもん結構だわ」
暫く黙っていたが、せきは軈て、
「作も仕様のない人間さ」
と呟いた。仕事の為とは云いながら、小さい孫を押しつけて旅先に暮らすことの多い作造に不満を抱いているのだろうと志津は思った。全く、婆さんだけの家というのは、何故変に湿っぽいようで、線香のような煎薬のような一種の臭いが浸みついているのだろう。志津は、或る人の世話になって、退屈勝な毎日を送っていた。他に身寄りもないので、彼女は喋りに来るのであったが、天気のどんなによい日でも、この長火鉢の前にいると戸外に日が照っていることを忘れてしまうようであった。
「作さんも、おかみさん貰えばいいのに──」
「ふん──何してるんだか──なに、この家だって、第一変てこれんな洋館まがいになんかしないで、小気の利いた日本間にしといて御覧、いくらバラックだって、この界隈のこったもの、女一人位のいい借り手がつくのさ。──仕様がありゃしない、半年も札下げとくの、第一外聞が悪いやね」
「だって書生さんなんかより異人さんの方がよかないの、金廻りがいいそうだもの」
せきは、
「どうして!」
と、顔じゅう顰めて首を振った。
「とてもだよ。出たり入ったりにうめの顔飽きる程見てたって、キャラメル一つ買って来るじゃないからね」
間をおき、更に云った。
「第一、気心が知れやしない」
志津は、
「ほーら、そろそろおばあさんの第一が始まった」と笑った。
「本当だよ、嘘だと思ったら見て御覧、我々なら大抵まあその人の眼つきを見りゃ、腹で何思ってるか位、凡その見当はつくじゃないか。二階の異人さん、こないだも私、どんな気でいるのかさぐってやれと思って、台所へ水汲みに来た時、世間話してやったのさ。喋りながら一生懸命眼を見てやるんだが──困ったねあのときばかりゃ、お前ただ変てこりんに碧いばっかりでさ──本当に──余り碧いんでおしまいにゃ気味が悪くなって引下っちゃった」
「ふふふふ、おかしなおばあさん、二階で嚏してるわよ、今頃」
凝っと二人の話をきいていたうめが、その時、いかにもませた調子で、
「ちょっと! 来ますよ」
と警告した。成程、誰かが階子を一段ずつ念入りに降りて来る跫音がする。志津は、一寸肩をすくめるようにして舌を出す真似をした。
「ふふふふ……」
婆さんも釣込まれて薄笑いしながら、新しい煙草をつめ始めた。うめは、障子の隙間から板敷を覗いている。その後姿を見、志津はやがて、
「あーあ」
小さい欠伸をしながら、
「もう何時?」
と云った。
「日が短い最中だね、四時一寸廻った頃だろう」
うめが、二人の前に顔をさしつけて、
「女の異人さんですよ、よその」
と云った。が、誰も答えず、志津が、立ち上って腰紐を締めなおしながら、
「どう、おばあさんお鮨でもおごろうじゃあないの」
と云った。せきは、上の空で、
「そうさねえ」
と応じながら、熱心に志津の八反の着物や、藤紫の半襟を下から見上げた。
「──その着物、さらだね」
「おばあさんにゃ、十度目でもさらだから始末がいいわ──ね、本当にどうする? 私これからかえったって仕様がないから、冷たくってよかったらお鮨でも食べようじゃないの」
「いつもお前にばっかり散財かけてすまないようだね」
「水臭いの。──じゃ一寸云って来るわよ」
ごたごた、主のない下駄まで並んでいる上り口で、自分の草履をはきながら、志津は珍らしそうに、そこにぬいである女靴を眺めた。
「まあ、細い靴、よくあの体でこんな靴はけるもんね」
「子供んちから締めてあるのさ──見かけばかりでは仕様がありゃしないよ」
せきは、軽蔑するように囁いた。
「はばかりから出ても手を洗うこと一つ知らないんだからね」
「──……いい塩梅に風が落ちた……」襟巻をきゅっと引きつけ志津は街燈のついた往来へ出て行った。
四
明るい冬の日光が窓からさし込んで室内に流れた。土曜日だ。もう往来で遊んでいる子供の声が、彼等の二階まで聞えた。ダーリヤ・パヴロヴナはゆったり長い膝の上に布をたぐめて、縁とりをしている。向い側に、髪をもしゃもしゃにしたままのマリーナ・イワーノヴナが茶色のスウェタアに包まれ、頬杖をついてダーリヤの指先の動きを眺めていた。彼女の前に、白と桃色の毛糸で編みかけの嬰児帽が放り出してある。彼女がこの二階に来てから五日経った。ダーリヤも、マリーナも、その五日を実にはっきり数えて過して来たのだ。──
「アーニャ、何ぐずぐずしているんだろう」
マリーナが、その日何度目かにぶつぶつ云い出した。
「あの娘には、どんなに教えたって物を手取早くするということが解らないんだから──エーゴルの姪に違いないわ」
ダーリヤは落付いた調子で答えた。
「子供ですものまだ何と云ったって──でも本当に年より役に立っていますわ」
マリーナは朝から、養女のアーニャが麻布の夫の家から使に来るのを待っているのであった。
「私に充分正当の理由のある衝突でこうやっているのに、顧客まで失くしちゃいられないわ、ねえ」
彼女は、自分のところへ来た注文はどんな小さいものでも、洩れなくアーニャにダーリヤの二階まで運ばせた。彼等夫婦の間には他人の理解出来ない特別の諒解があると見え、そんな持続的の喧嘩をしつつ、エーゴル・マクシモヴィッチの方も、妻の稼ぎに対しては咳払い一つしないらしかった。そんなことは、ダーリヤの常識には変に思えた。喧嘩が本気なのかどうか疑わしい心持になった。マリーナにとっても、夫のそういう態度は不満であった。自分一人の口過ぎさえしていれば、エーゴル・マクシモヴィッチにとって自分はどこに暮していようとかまわない存在なのか。三百円返す気はないのか。異様な不安が、彼女の厚い、ややじだらくな胸を掻き廻すのであった。ダーリヤは、彼女の自信のない心の底を見透して、或る時は哀れに、或る時は若い女らしい皮肉を感じた。けれども、何も見ないつもりにしている。マリーナも、それについては沈黙を守っている。騒ぎやのマリーナ・イワーノヴナに対して、ダーリヤは私かに自分の平静な気質に誇りさえ感じているのであった。
ダーリヤが、縁取りの三分の二も進んだ頃、やっと下で、
「叔母さん」
と呼ぶ、アーニャの細い、神経質な声がした。
「やっと来た!」
ずしり、ずしり降りてゆき、マリーナが、
「迷児にでもなったんだろう? 馬鹿だから……ふーむ、まあいい、いい。──それで?」
切れ切れに云う声が聞える。突然彼女は大声で笑い出した。
「ハハハハ何ておかしいんだろう! ダーシェンカ! まあ一寸来てこの様子を御覧」
その叫びで、十三の痩せて雀斑だらけのアーニャは、生え際まで赧くなった。彼女は憤ったように垂髪を背中の方へ振りさばいて、叔母を睨んだ。彼女は、リボンのかわりに叔母の裁ち屑箱から細い紫繻子の布端を見つけ出した。彼女はそれを帽子を買って貰えない栗色の垂髪の先に蝶々に結び、道々も掌の上で弾ませながら歩いてきたのであった。
「とんだお嬢さんだね、ハハハハハ貴女の親切な叔父さんが似合うと仰云いましたか?」
例によって、入口が開くと同時に顔を出したうめが、階子のかげから異常な注意をあつめて、この光景を観ていた。アーニャの色艶のない小さい顔が泣きそうに赧くなる。元通りそれが白くなる。やがて、片脚をひょこりと後に引く辞儀をして土間から出て行く迄、うめは動物的な好奇心とぼんやりした敵意とを感じながら見守った。
「どうでした?」
マリーナは答えのかわりに、両腕を開いて見せた。当にしていた注文が流れたのであった。彼女は、元の椅子にかけた。が、
「あああ」大きな吐息をついた。
「あんたなんぞ本当に仕合せだわ、ねえ、ダーシェンカ、ちゃんとリョーナにたよって暮していられるんだもの。私なんぞ惨めなものだ、仕事がなくなって御覧なさい、どうして生きられて?」
「だって──貴女お金持じゃありませんか」
何心なく云ったダーリヤの言葉は、思いがけない反響を呼び起した。マリーナは、
「ね、後生だからダーシェンカ」
心臓でも搾られるように云って、ダーリヤの手頸を捕え、自分の胸に押しつけた。
「どうか私がただの吝嗇坊で、お金のことをやかましく云うのだと見下ないで下さいね? 私あなたがたが黙ってても心でさぞ賤しい女だと思っているだろうと思うととても辛いの。ね! ダーシェンカ、親切なダーシェンカ、あなただけは私を分ってくれるでしょう?」
ダーリヤは唐突真情を吐露された間の悪さと一緒に少なからず心を動かされた。
「それは、マリーナ、あなたにはあなたの十字架があるのはお察ししています」
マリーナは嬉しそうにダーリヤを見て合点合点をした。
「本当にそうよ、十字架!──ね、ダーシェンカ、あなたにはまだまだ私位の年になった女がどんな恐しい心持で将来を見るか想像も出来やしないわ。保護して呉れる国もない、若さもない、夫もない。──エーゴルは、死んだって、生きかえった時を心配して墓まで金を縫い込んだ襯衣を着て行く人ですよ──ああ、その時のことを想って御覧なさい。何が力? その時死から私を守って呉れるのは金だけですよ、その金も、もう新しく蓄められる金ではない、一哥ずつ消えて行く金、二度と我が手にはとりかえせない金です。私にはその一哥を出さなけりゃならない時の恐しさが今からありあり、目に見える程わかっている。──だからね、ダーシェンカ、三百円は、私にとってただの金ではないんですよ、命の一部分なの、それを、ね、ダーシェンカ、そんな思いでためている金を、私より技量のある、丈夫なエーゴルに騙りとられて黙っていられるでしょうか、ね、ダーシェンカ」
ダーリヤは思わず優しく静脈の浮き上った指先の短いマリーナの手を撫でた。
「きっと今にエーゴル・マクシモヴィッチはお返しなさいますよ、ただ約束の日にかえせなかったというだけですよ」
「──エーゴル・マクシモヴィッチは、どうしてああ慾張りなんでしょうねえ、私が殺すと思ってこわがるなんて──ダーシェンカ、あのひとは、アーニャに飲ませてからでなけりゃ珈琲も飲まないんですよ」
それは、エーゴル・マクシモヴィッチの家庭を知っている者の間に評判の事実であった。
五
「エーゴル・マクシモヴィッチだって、元からあんなではなかったのにねえ」
マリーナは、追想に堪えぬように云った。
「私共だって、あんた方のように若い気軽な夫婦だった事もあるのよ、ダーシェンカ。大きな裁板の前でエーゴルが裁つ。私が縫う。これにエーゴルが仕上をして顧客へ届ける。少しずつお金をためる。飾窓へやっと一つ着付人形を買う──あの時分の楽しかったこと……その時分からエーゴルはマンドリンが上手くてね、町で評判だった。自分が弾いては私によく踊らせたもんだわ。……そうこうしてやっとまあ食うに困らない目当がつくようになったかと思うと、どう? 機関銃が兵隊と一緒に家へ舞い込んで来た。『貴様等は出ろ! 俺達が今日からここの主人だ』」
マリーナの、下瞼の膨れた眼に涙が滲み出た。
「世の中のことは、何だって訳なしに起るもんじゃないから、店位とられたことは私も諦めますさ、自分の知らない罪で雷に打たれて死ぬ人さえあるんだものね。でも、私たった一つ諦められないのは、エーゴルをあんな恐しい男にしてしまってくれたことよ、ダーシェンカ。……元を知っている私にはやっぱり離れられない……私共はね、ダーリヤ・パヴロヴナ、二十二年一緒に暮して来たんですよ……」
しんみりしたマリーナの話をきいているうちに、ダーリヤはこれまで知らなかった深い悲しみがマリーナの心にあるのを知った。彼女はそうとも知らず他の友達と茶をのみながら、
「さ、アーニャ、お前のみなさい」
「はい、叔父さん」
エーゴル・マクシモヴィッチと哀れな姪の真似をして大笑いした自分達を私かに恥じた。ダーリヤは、真心から動かされて、対手の手を執った。
「マリーナ・イワーノヴナ、だあれもあなたがそんなに悲しい方だとは知らないでしょう、きっと。──若し、私、あなたに思いやりのないことをしていたら許して下さいね」
マリーナは、合点合点をし、ダーリヤの滑らかな血色のよい頬を情をこめて撫でたたいた。
「可愛いダーシェンカ、あんたは優しいいい娘さんですよ、──どうか立派な児供が生れますように」
妊娠のために感じ易くなっているダーリヤはマリーナを擁きしめたい程感動した。彼女は、立って室内を歩き出した。マリーナは吐息をつき、頭を振り、編物をとり上げた。往来に遊んでいた子供はどこへか去り、あたりは暫く静かであった。向い側の店々が正面から午後の斜光を受けている。ダーリヤが窓のそばへ歩きよる毎に、日除けの下に赤いエナメルの煙草屋の商牌が下っているのが見えた。タバコ。コバタ。バタコ。──それは色々に読むことが出来た。──
三時過て、レオニード・グレゴリウィッチは勤め先から帰って来た。先ず帽子を脱ぎ、マリーナ・イワーノヴナに挨拶をし、彼は、ダーリヤの手ミシンの蓋をはずして畳に立て、跨った。彼等の生活には、椅子が二脚しかないのであった。ダーリヤは茶の仕度に立った。
「どうです? 何か面白いことでもありまして?」
金髪をかき上げながら、ジェルテルスキーは喉音で、
「なんにも。毎日同じ顔──同じ仕事です」
と答えた。彼は妻だけであったら、その後へ、
「相変らず碌なことはない」
とつけ加えたかったのを堪えたのだ。今日、昼食を食べて煙草を吸っていると、不意に松崎が上って来た。
「やあ、どうです、やってますね」
編輯員の誰彼に愛嬌を振りまきつつ、彼はジェルテルスキーの机の横へ椅子を引張って来た。
「大分暖いですね、今日は。奥さんお達者ですか? 一寸通りかかったもんで、どうしていられるかと思ってね」
松崎はちらちらジェルテルスキーがタイプライターで打ちかけている草稿を覗いたり、積みかさねてある新着の露字新聞を引き出して目を通したりしていたが、
「ああ、近頃何でもルイコフ君の細君が貴方のところへ行っているそうじゃありませんか」
と云った。彼は、全体小柄で丸い胴の上にのっている健康らしい顔に、他意なさそうな笑いを漲らしながら続けた。
「一体どうしたんです? ルイコフ君迎えにも来ないんですか?」
「……マリーナ・イワーノヴナが考えている程に重大に思っていないんでしょう。大方」
「へえ──何でそんなに衝突したんです? ルイコフ君、浮気でも始めたかなハハハハ」
ジェルテルスキーは、聞き手がもうすっかり知り抜いているに違いないのに、改めて、極めて自然に質問するので、礼儀上からでもそれに答えなければならない不愉快を忍びつつ、大略を話した。猫背に見える程ベルトを高いところで締めたアメリカ型の外套を着たまま椅子にかけている松崎は、陽気にふき出した。
「なあーんだ! ハッハッ愚にもつかないことでいい年をしながら啀み合っているんだな──それにしても、君んところ、狭いのに大変ですね」
「大変です、寝床低い、それだけ石油沢山いります」
日本語で云って、ジェルテルスキーは額を赧らめ、内気に笑った。マリーナが来てから、寝台を二人の女に譲って、彼は畳の上で寝ていた。布という布をかけても、冬のとっつきの寒さで眼が覚めた。誰が代を払えるのか当のつかない石油がそれ故夜中、ストウブの中で燃やされるのであった。
「いつまで置くんです?」
「さあ──今に帰るでしょう」
「どうも、何だな、そういう点が日本の女と外国の女との偉い違いだな、君、日本の女だったら自分の夫に立て替えた金が返らないって、友達の家へころげこむ者は無いですよ、それに、置いてやるものもまあ無いね、私だったら、どやしつけて帰してやる。ハッハッハッハ、君は、義侠心が豊富だとでも云うのかなハハハハ」
「──私は頼まれると断れない気質です──弱い──気が小さいです」
──外事課高等掛を友人に持つというのは、然し、何と鬱陶しいことか! ジェルテルスキーは、故国にいる間絶えず種々な頭字を肩書に持つ友人に煩らわされた。外国へ来ると、その土地によって、長かったり、短かったり、兎に角何等かの肩書ある知友を得ない訳には行かないのだ。
ダーリヤが、ビスケットの皿や砂糖を卓子に出すのを眺めながら、ジェルテルスキーは、
「今日、松崎さんが来たよ」
と云った。
「へえ──」
「うるさいこと!」
マリーナ・イワーノヴナが、大仰に顔を顰め、両手をひろげた。
「もう私がこちらにいることでも嗅ぎつけたんですよ」
六
三人は茶を飲み始めた。
「リョーニャ、明日お休み?」
「ああ」
「二週間ぶりね」
マリーナは黙って砂糖をかきまぜ、その匙を受け皿の端へのせ、悠くり一杯飲み干した。彼女は、自分が決して他の多くの者のように匙をコップにさしたままなど飲まないのが自慢なのであった。ジェルテルスキーは、窓枠にのせて置いた黒鞄から、露字新聞を出して、マリーナに与えた。
「ああどうも有難う。──この頃の新聞は電報みたいですね、略字で端から端まで一杯だ」
マリーナは、それを拡げた。ダーリヤは、ゆるやかな紅がちな縞の部屋着姿で、卓子にゆったり両肱をのせ二杯目の茶を啜っている。コップを持ち上げる毎に、寛い紅い袖がずって深く白い腕が見えた。彼女の部屋着はもう着くずされている。それが却って可愛ゆく、覆われている肉体の若々しい艶を引きたてるようであった。──レオニード・グレゴリウィッチは、愛情をこめ、素早く妻を目がけ接吻を送った。ダーリヤは、さっと肌理のこまかい頸筋を赧らめた。夫を睨んだ。が、娘っぽい、悪戯らしい頬笑みが、細い、生真面目な唇にひろがった。──マリーナは、彼女の顔の前にまだ新聞をひろげている。
皆が飲み終る頃、二階じゅうを揺り動かして、羅紗売りのステパン・ステパノヴィッチが、巨大な、髭むしゃ顔を現わした。
それを見るといきなり、マリーナ・イワーノヴナが飛びかかるように、
「いかがです、貴下の五十三人目の恋人の御機嫌は」
と云って笑い出した。
「いや、どうも──マダム。──いつも貴女のお口は鋭い」
ステパン・ステパノヴィッチは、先ずダーリヤの手を執ってその甲に恭々しく接吻し、次いでマリーナにも同じ挨拶をした。
彼は絶えずけちな情事ばかり追い廻していると云うので、皆の物笑いになっている独り者の男であった。羅紗を売るのを口実にして、よその細君のところへ入り込むことも有名だ。マリーナ・イワーノヴナは、彼がどんな女にでも惚れるのを馬鹿にしながら、憎んでいないのは明らかであった。彼女の浮々した毒舌に黙って微笑しつつ、ダーリヤは、新しく来た客のために茶を注ぎ、寝台の上へ引込んだ。彼女は、自分の前で跪いたり上靴へ接吻したりした男に、部屋着姿を見られるのを工合わるく感じたのだ。
「ねえ、ステパン・ステパノヴィッチ、この頃、どなたか、私共の仲間の奥さんにお会いでしたか」
「一昨日、マダム・ブーキンにお目にかかりました──いつも美しい方だ──実に若やかな夫人です」
マリーナは肱で、ダーリヤの横腹を突いた。
「あの方は一遍、活動写真に映されてから、御自分の美しさに急に気がつきなすったんですよ」
一つの角砂糖を噛んでステパン・ステパノヴィッチは三杯の茶を干した。
「ああ結構でした」
彼は、ジェルテルスキーに向って頭を下げながら何か小さい声で云った。するとジェルテルスキーは、例の手つきで髪をかき上げ、間の悪い曖昧な笑いを浮べてちらりと妻の方を見た。マリーナが忽ちそれを捕えた。
「え? 何ですって? ステパン・ステパノヴィッチ、古いキャベジがいるからお茶が不味かったんですって?」
「まるで反対です、美しい夫人がたとこの幸福な御家庭に祝福あれと云ったのです。然し、神はこの頃の流行でないから小さい声で云わなければなりません」
ステパン・ステパノヴィッチは暫くもずもずしていたが、軈てジェルテルスキーを引っぱって台所へ入って行った。
「何だろう、え? 何だろう」
立って覗きそうにするマリーナを、ダーリヤは苦々しげに止めた。
「あとで、リョーニャが話してくれますよ」
障子の彼方側の板の間で、石油鑵に足をぶつけながら、ひどく恐縮してステパンが上衣の内衣嚢から一通の手紙を大事そうにとり出した。彼は、ジェルテルスキーの耳に口をつけて囁いた。
「──実に恐縮です、実に厚かましい願いですが、今朝この手紙を受けとったまま悲しいことに読めません。貴下にすがって一つ読んでいただくわけには行きますまいか」
ジェルテルスキーは、意外な秘密に引きこまれる苦笑を洩しながら手を出した。封筒は桃色で四つ葉のクローヴァの模様が緑色で浮き出している。ジェルテルスキーはその模様を指した。ステパンは髭面を動かして頷く。……中に、ステパンの会話の力で判断してだろう、片仮名で、
「オナツカシキペテロフサマ、
ソノゴオカワリモアリマセンカ、ユウベ、マテイタノニキテクダサイマセン、ナゼデスカ、シドイシト、ワタシノココロモシラナイデ。アナタ、ホントニアタシガカワイイナラ、コノテガミツキシダイ、ヨルノ七時マデニ、イツモノトコロヘキテチョウダイ、キット、キットヨ、デワ サヨナラ
コイシキコイシキ
それは、いかにも滅多に手紙など書く必要のない女の字であった。それも長いことかかってひどい万年筆で書いたと見え、桃色の、やはり四つ葉のクローヴァのついた書簡箋が、ところどころ皺になってさえいる。ジェルテルスキーの読む間、心配を面に表わして待っていたステパンは、愈々一字一字意味を説明されると、見るも気の毒なほど感動した。最後のゟまで指して貰うと(尤もこのよりだけはジェルテルスキーの日本語の知識でも判読出来ず、トヨ子の自署の一種だろうと説明したのだが)ステパンは、幾度も幾度もその手紙に唇を押しつけ、再び自分の内衣嚢にしまった。そして、やはり囁き声で、ジェルテルスキーの耳の中へ云った。
「レオニード・グレゴリウィッチ、どうぞこのことだけは誰にも云わないで下さい。──実に馬鹿気たことだ。私のようなこんな男が今更若い娘に夢中になるなんて──実に馬鹿気たことです! けれども、レオニード・グレゴリウィッチ、我々は、キリストを追放しつつレーニンの肖像を祭る。私にもマドンナがいる──マドンナ……ね、貴下は私の心がわかって下さる」
ジェルテルスキーは、自分にぴったり喰いついて熱心に光っているステパンの眼をさけるようにして頷き、境の障子をあけた。彼はステパンをどう扱ってよいか決心がつかず、いつも自分が彼とは全くかけはなれた者だと対手に思わせるような態度をとるのであった。
寝る前、マリーナが厠へ降りた間にダーリヤはレオニードを擁き、云った。
「リョーニャ、月曜日に行けたらエーゴル・マクシモヴィッチのところへ行ってらっしゃいよ、ね?」
七
ジェルテルスキーの二階から、ギターとマンドリンの合奏が聞えている。マリーナは、寝台の上で膝に肱をつきその手で頭を支えながら、陰気にマンドリンを弾くエーゴル・マクシモヴィッチを眺めていた。卓子は室の中央へ引出されて、上にパンや、腸詰、イクラを盛った皿が出ていた。底にぽっちり葡萄酒の入っている醤油の一升瓶がじかに傍の畳へ置いてある。ルイコフが、彼のマンドリンと一緒に下げて来たものだ。ルイコフとマリーナはさっき大論判をしたところであった。栗色の髪の薄禿げた、キーキー声を出すエーゴルは、ジェルテルスキーの言葉で、妻を迎えに来たのであった。
「レオニード・グレゴリウィッチにもお気の毒だから、一先ずお帰り、──これこの通り、騙しゃしない、半分だけ兎に角かえして置くから」
エーゴルはジェルテルスキー夫婦の前で卓子の端から端へ十円札を十五枚並べた。
「いやです、あんたのてですよ、誰がだまされるもんか、これだけで、あと半分はふいにしようと云うんです」
「返す、きっと来月中にはかえす」
「じゃそれまで待ちましょう。本当に、抑々あなたの云うことを真に受けたばっかりにこんなことになってしまった。──金はあるんですとも! 勿論あるのさ。それをかくして置いて私のをへつるんでしょう」
「じゃあ、どうでもするがいい」
エーゴルは憤ってマンドリンをとり上げ、彼の声のように甲高な絃を掻きならした。
「さ! レオニード・グレゴリウィッチ、久しぶりでどうです」
ジェルテルスキーは、戸棚からギターを出し一つ一つの響きを貪欲にたのしみながら調子を合わせ始めた。間に、エーゴルは妻に向って呟いた。
「あとの責任は私の知ったことじゃないぞ」
マリーナが、夫の意味を諒解して、はっとする間もなく、
「さ一つ『雪の野はただ一面』」
雪の野はただ一面白い……白い
灰色の遠い空の下まで。
──灰色の遠い空の下まで……
ボロン、ボロン、ギターの音の裡から、身震いするように悲しげなマンドリンの旋律が、安葡萄酒と石油ストウブの匂いとで暖められた狭い室内を流れた。
私はきのう窓から見た
一人の旅人が、黒く行く姿を
足跡が深く雪に遺るのを……
階下の六畳では、行火に当りながらせきがその音楽を聴いていた。うめはもう寝ている。厠へ通う人に覗かれないように、部屋の二方へ幕を張り廻してあった。継ぎはぎな幕の上に半分だけある大きな熨斗や、賛江と染め出された字が、十燭の電燈に照らされている。げんのしょうこを煎じた日向くさいような匂がその辺に漂っていた。
長く引っぱって呻くように唄う言葉は分らないが、震えながら身を揉むようなマンドリンの音と、愁わしげに優しい低い音で絡み合うギターの響は、せきの凋びた胸にも一種の心持をかき立てるようであった。下町の人間らしい音曲ずきから暫く耳を傾けていたせきは、軈て、顔を顰めながら、艶も抜けたニッケルの簪で自棄に半白の結び髪の根を掻いた。
「全くやんなっちゃうねえ」
思案に暮れた独言に、この夜中で応えるのは、死んだ嫁が清元のさらいで貰った引き幕の片破ればかりだ。
「全くやんなっちゃう」
今日風呂へ行くと、八百友の女房が来ていた。世間話の末、
「おばさんところの異人さん、いつお産です? なかなかこれで二階をお貸しなさるのもお世話ですねえ」
そう云われた時、せきは自分の耳を信じられなかった。
「え?」
「あの様子じゃいずれ近々お目出度でしょうねえ。──でも西洋人の赤坊、キューピーさんみたいで可愛いそうだから、おばさん却ってお慰みかもしれませんよ」
せきは、自分の迂闊さに呆れて、そこそこに湯をきり上げて来た。間借人に対してはいつもあれ程要心深い自分がどうしてそれに目をつけなかっただろう。日本服さえ着ていたら、どんなに隠したって見破ってやれたのに! せきは、異人の女のあの大きな白い体と、異人臭さ、手を洗わない事等を思うと、お産が、人間並みのお産で済まなそうに厭わしかった。しかも、自分の頭の上で──フッ! フッ! それこそ七里けっぱい。七里けっぱい。
──けれども、せきの困るのはここであった。どうして体よく追い払おう。せきは、始めて言葉の通じない不便を痛感した。日本語でなら、うまく気を損ねないように何とでも云う法がある。男の異人の眼の碧さ、あの通り碧い眼をして、ひよめきをヒクヒクさせるだろう赤児を思うと、せきは異様な恐怖さえ感じるのであった。
もう締めて横になろうとした時、計らず一つ妙案が浮んだ。自分の家の物干だあもの、洗濯物の金盥を持って、水口から登ろうと、二階から出ようと誰に苦情を云われる義理はない訳ではないか。五月蠅がって出るのは彼方の勝手だ。──決心に満足を感じ、せきは誰憚るところない大欠伸を一つし、徐ろに寝床へ這い込んだ。
二階から聞えて来る合奏は、いつか節がかわった。葡萄酒が少し廻って来たジェルテルスキーとエーゴルは、互の楽器から溢れる響に心を奪われ、我を忘れてマズルカを弾いていた。ダーリヤとマリーナの頬は燃えた。二人の女は寝台に並び、足拍子を踏みつつ、つよく情熱的に肩を揺って手をうった。
底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第三巻」河出書房
1952(昭和27)年2月発行
初出:「女性」
1927(昭和2)年7月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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