海浜一日
宮本百合子



 発動機の工合がわるくて、台所へ水が出なくなった。父が、寝室へ入って老人らしい鳥打帽をかぶり、外へ出て行った。暖炉に火が燃え、鳩時計は細長い松ぼっくりのような分銅をきしませつつ時を刻んでいる。露台の硝子ガラス越しに見える松の並木、その梢の間に閃いている遠い海面の濃い狭い藍色。きのう雪が降ったのが今日はうららかに晴れているから、幅広い日光と一緒に、潮の香が炉辺まで来そうだ。光りを背に受けて、露台の籐椅子にくつろいだなりで母がいる。彼女は不機嫌であった。いつも来る毎に水がうまく出ないから腹を立てるのであった。

「──今度は私がその何とか云う男にじかに会ってみっちり言ってやる。いくら計算は計算でも水が出なけりゃ迷惑をするのは私達ばかりだ」

 編物をしながら、上の娘の佐和子が、

「計算て何なの」

と訊いた。彼女は結婚して親たちとは別に暮していたから、この別荘に来たのもそれが二度目であった。

「いいえね、理論の上からではここの水は半馬力の発動機できっと上る筈だと云うんだよ。自分がそう主張して半馬力のを据えつけたんだから、どうしてもそれでやらなけりゃ面目がつぶれるって云うんで、幾度も幾度もなおすんだがね──無理なのさ」

「──一馬力ならいいんだって、ね……」

 長椅子の隅に丸まって少女雑誌を読んでいた晴子が、顔をもたげおかっぱの髪を頬から払いのけながら、意を迎えるように口を挾んだ。

「そうなのさ」

 母は益々不機嫌に、

「だから始っから、父様さえちゃんとしてとりかえさせておしまいになればいいのに──もう二年だよ、来るたんびに水が出ない、水が出ないって」

 母は糖尿病であった。それ故じき癇癪かんしゃくが起り、腹が減り、つまり神経が絶えず焦々いらいらしている気の毒な五十三の年寄りであったけれども、彼女の良人は、健康でこそあれもう六十で、深く妻を愛している矢張り一人の老人だ。佐和子は、結婚生活をする娘の独特な心持で両親の生活を思い、

「まあそう癇癪をお起しなさらない方がいいわ」

となだめた。

「父様だってああやって一生懸命やっていらっしゃるんだから──この次までに一馬力のにさせとけばいいじゃあないの」

 発動機が動きだしたと見え、コットン、コットン水を吸い上げる音が聞えて来た。二三分して、再び止ってしまった。もう動かないらしい。扉をあけ、父がやめて来たかと思ったら、それはみわであった。

「まあ旦那様本当に恐れ入りますでございますね、お寒いのにあんなお働きいただきましては……」

「駄目かい?」

「はあ──どうしたんでございましょう。一寸動きましてやれうれしやと存じましたら、またとまってしまいまして」

 みわは、そう言いながら煎じ薬を茶碗についで母にすすめた。

「なに、御自分がわるいのさ──お前にはとんだお気の毒だね、こんなとこまで来て水汲みまでさせちゃ」

 みわは、小作りな女で何だか見当が違っているような眼つきであった。

「まあとんでもございません。ちょこちょこと致せば何のこともありは致しません。──私も北海道なぞとあんな遠いところへつれてっていただきましたが、東海道は始めてでございますから──こんな結構なところ拝見させていただきまして」

 佐和子は、それをきき、みわや両親が憐れになった。みわは十七位のとき、まだ赤坊であった佐和子の世話をして、これもまだ若夫婦であった両親と任地の北海道まで行った。三十年位の歳月は一方に別荘を作らせたが、みわには額の皺とただ一枚の白い前掛を遺したに過ぎぬように感じられた。しかもみわは、もっと若々しく、貧乏であったが健康で怒ることの尠い妻だった母を見て来たのだと思うと、佐和子はしんとした寂しい心になった。

 父が、手袋のごみをはたきながら戻って来た。

「どうも仕様がない。×へ電話かけさせよう」

 ──母は黙っていた。父は、大半白い髭をいじりつつ、背をかがめ暖炉の火をかき立てた。


 二月の海浜は、まして避寒地として有名でもない外海の浜はさびれていた。佐和子は、妹と並んで防波堤兼網乾し場の高いコンクリートのかげで、日向ぼっこをしていた。正月に、漁師たちが大焚火でもしてあたりながら食べたのだろう、蜜柑みかんの皮がからびて沢山一ところに散らかっているのが砂の上に見えた。砂とコンクリートのぬくもりが着物を徹していい心持にしみとおして来る。

「いい気持!」

「お母ちゃまもいらっしゃればいいのにねえ」

「……お迎えに行こうか」

「駄目駄目! どうせいらっしゃりはしないわよ、寒いって」

 ピーユ。ピーユ。口笛が聞えた。

「あら」

「呼んでらっしゃる」

 二人は急いで風よけの蔭からかけ出した。

「ピーユ」

「ここよ、ここよ」

 浜へ下りる篠笹の茂みのところに父の姿が見えた。

「こっちにいらっしゃーい!」

 佐和子は大きく手を振っておいでおいでをした。風が袂をふき飛ばした。晴子も手を振った。が、父は動かず、却ってこっちに来い、来い、と合図している。佐和子と晴子は手をひき合い、かけ声をかけて砂丘をのぼって行った。

「何御用」

「Kへ行きませんか」

「行ってもよくてよ」

 Kは九八丁へだたった昔からの宿しゅくであった。

「電報を打たなけりゃならないから」

「じゃちょうどいいわ」

 晴子が勢こんで手を叩いた。

「お姉ちゃま、晩の御馳走買って来ない?」

「よし! じゃ行こう」

 彼等は街道を右にそれ、もう実をいだ後の蜜柑畑の間を抜けたり、汽車の線路を歩いたりして宿に入った。休日であったから、家々の子供等が皆往来で遊んでいる。そういう一群の子供達の横を通る時、晴子は極り悪そうな真面目な顔をした。宿には洋服の子供が一人もいなかったから、皆が遊びをやめて、晴子の制服と外套をじっと見るのであった。

 親子はにぎやかにいろいろ買物した。

「さあどっちの道を行こう、また山の方を廻るか?」

「海岸だめ?」

「海岸! 海岸!」

「それで歩けまい?」

 佐和子の下駄は、朴歯ほおばだから平気であった。

「どうせ歩くのなら海岸を行きましょうよ」

 父を真中に挾み、彼等は愉快に波打ちぎわを進んだ。太陽が二子山のかげに沈もうとしていた。いつか雪雲が浮んだ。それに斜光の工合で、蜃気楼のようにもう一つ二子山のいただきが映っている。広い、人気のない渚の砂は、浪が打ち寄せては退くごとに滑らかに濡れて夕焼に染った。

「もう大島見えないわね」

「──雪模様だな、少し」

 風がやはり吹いた。海が次第に重い銅色になって来た。光りの消えた砂浜を小急ぎに、父を真中にやって来ると、白斑しろぶちの犬が一匹船の横から出て来た。

「こい、こい」

 晴子が手を出すと、尾を振りながらいて来た。

「何だお前の名は──ポチか? え?」

 そして、父が短い口笛で愛想した。

「ポチかもしれないわ。なんだかポチ的表情よ平凡で」

 浜は遠い箱根の裾までひろがっているのに見渡す限り人影もない。犬も淋しそうであった。頻りに尾を振り、前になり、後になり、真白な泡になってサーと足許に迫って来る潮を一向恐れず元気に汀を走るのが海辺の犬らしかった。父がやがて、

「気をつけなさい。狂犬だといけないよ」と注意した。

 晴子が、

「狂犬だって!」

と、大笑いに笑って、一層犬に来い、来い、した。

「狂犬じゃないわ、お父様これ」

「舌出してないから大丈夫よ」

「あら狂犬て舌出すの?」

「ああ。晴子みたいに」

「ひどい!」

 散々晴子や佐和子とじゃれ、斑犬は今父の靴の踵にくっついた。父は風呂敷包みを下げている。中に鶏肉が入っていた。歩くにつれて包みを振る手が前、後、前、後。それにつれて斑犬もひょいと駈け、鼻面を引こめ、またひょいと駈け跟いて来る。佐和子がおかしがって、

「やあ父様についちゃった、かぎつけた」とはやした。

「ほんと! ほんと! お父ちゃまについちゃった!」

 父が振かえった拍子に、犬の鼻へ包が擦りついた。犬は、砂をとばして素速く数歩逃げた。父は、ひどくびっくりしたらしく、娘達が思い設けぬ真面目な声で、

「ゲッタアウエー! シッ! シッ!」

と犬を叱った。娘達は傍で笑って見ている。斑犬は、その二つの笑顔を眺めているから、父のおどしを本気にしないらしかった。だんだん、彼も遊ぶ気になったと感違いさえしたらしく見えた。千切れそうに益々尾を振り、父が追うのを断念して歩き出すと、忽ちくっついて来る。佐和子はふざけて言った。

「お父様、毛皮の外套なんか召すからこの犬、同類だと思うのよ」と、その間にも、父は時々、

「シッ! シッ!」

と言ったり、砂を抓んで投げつける振りをしたりする。何か本気で不安を感じているらしいのが佐和子に分った。父は、元から犬など嫌いな人であったのだろうか?

 行手に、そろそろ二本アーク燈の柱が見え始めた。松林がその辺で少し浜へ辷り出している。数艘、漁船が引上げられ、干されている。彼等はその辺から村の街道へ登るわけだ。跟いて来た犬は、別れが近づいたのを知ったように、盛にその辺を跳ね廻った。父の手許にとびつくようにする。父は周章あわてて包みを高くさし上げ体を避けようとする拍子に、ぎごちなく蹣跚よろめいた。その身のこなしがいかにも臆病な老人らしく、佐和子は悲しかった。彼女は急いで、

「ポチ! ポチ!」

出鱈目でたらめの名を呼び立てた。ポチは、砂を蹴って父の傍から離れると、一飛び体をくねらせ、傍の晴子の頬の辺をめた。父がまるでむきな調子で、

「晴子、嘗められた」

と嫌悪を示した。それらが何だかしきりに佐和子の心を打った。平常一緒に生活していないうちに、いつか父は犬の友達ともなれぬ父となっている。

 坂の上に、彼等の明るい露台が現れた。母がこっちを見て立っている。父が真先その方に向って帽子を振った。晴子は手を振った。佐和子も同じように挨拶をし、一番後から訴えどころない生活の過ぎ行く哀愁を感じつつ坂路を登って行った。

底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年320日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房

   1953(昭和28)年1月発行

初出:「若草」

   1927(昭和2)年4月号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2002年925日作成

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