心の河
宮本百合子
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一
庭には、檜葉だの、あすなろう、青木、槇、常緑樹ばかり繁茂しているので、初夏の烈しい日光がさすと、天井の低い八畳の部屋は、緑色の反射でどちらを向いても青藻の底に沈んだようになった。
ぱっとした、その癖何となく陰気なその部屋に独りぽつねんと坐って、さよは一つのことを考えていた。考えというのはオゥトミイルについてであった。彼女は、竹製の小さい朝鮮の塗台の上で、独りぎりの昼飯を詰らなくすました時から、そのことを頭に泛べているのであった。女中が十日ばかり国へ帰った。毎朝彼女は良人と自分との前に麺麭、紅茶、半熟玉子を並べた。同じ献立ばかり続いたので、さよ自身変化を求め出した。その頃久しく欠けているように思われる味をかれこれ詮索して行くうちに、彼女は急にオゥトミイルが食べたくて仕様がなくなって来たのである。
けれども、郊外の小店などで信用の出来るものは売っていない。呟きにもならず彼女は考えた。
「ちょっと帰りに廻って買って来て下さればいいんだけれども。──銀座までぐらいすぐだのに……」
然し、さよは、自分の良人が年に合わせてどんなものぐさかよく知っていた。また、彼が自分ほど食物に注文のないのも解っていた。彼は、近頃の恐ろしく混む電車をわざわざ乗り換えて迄下町に行き、一鑵のオゥトミイルを買う位なら、手近かで間に合う麺麭ばかりで半月辛棒する方が遙かにましだ、と云うだろう。
さよの庭を眺めている眼の奥には、さぞ溌溂とした色彩と活動と、同時に砂塵に満ちているだろう五月の銀座、日本橋辺の光景が、小さくはっきりパノラマのように映った。いつか天気のからりと晴れた日、日本橋の上に立って眺めた川面の漣、両岸に立てこんだ家の見通し、空の軟かな水色などが鮮やかに甦って来た。印象の絵の裡で、村井銀行の横手を軽快な仏蘭西風の自動車が駛り去り、西川布団店の赤い幟が静にはためき、一吹きすがすがしい微風が、東京の大路を貫いて吹き過る。──さよは、薄い着物に日傘を持って、当もなくその中を歩き廻って見たかった。平塚の奥から都会の真中に出かける用事は、どこかで一つオゥトミイルを買うというだけで彼女には充分であった。それだけの用件さえあれば彼女は殆ど半日を活々と、楽しく、東京では目抜きというべき街路の舗道を彷徨えた。──家が空だとあぶないというので、彼女は、この遠征も思いのままに出来ない。侘しい重苦しい心持が春の曇天のように罩めて来た。
さよは、立って行って編物袋を出した。
縁側の籐椅子にかけて、彼女は袋の中から銀鼠色の絹糸を出した。そして、先の尖った金属の針を濃く緑色に溶けた日光に燦めかせ、祖母の肩掛けを編み始めた。
良人は、その日いつもより少し晩く帰って来た。
四辺がとっぷり暮れると、独りでいるさよは、燈火の明るい自分の家ばかりたった一つ、広い田園の暗闇の中に、提燈のように目立っていそうな気がした。そして、ひどく不安を感じた。いくら戸をしめても窓を閉じても、すき透しに自分が真暗な戸外から覗かれているようにこわいのである。彼女は、台所で立てる自分の物音が、妙にはっきり四方に響くような気がした。ちらちら硝子に映る自分の顔が、見なれない疑わしいもののようにさえ思われる。彼女は神経をはりつめて簡単な炊事をするのである。
それ故、良人の声が玄関ですると、彼女はやっと危い綱渡りをすましたように吻っとした。彼女はいそいで格子の鍵をはずした。そして良人を歓迎した。
「おかえりなさい。──今日は少しおそかったのね」
朝から殆ど始めて人間と口を利くのであったから、さよはいくら喋っても喋りきれない暖い潮が胸一杯に流れるのを感じた。
「どうなすって?」
「今日はね、思いがけない用事で伊東屋へ行ったんでおそくなった。──ひどいよ今頃は。まるで喧嘩さ」
「銀座の?」
彼女は、靴をぬいでいる良人の背中を見下しながら、それは惜しいことをしたと思った。
「銀座へいらっしゃるんだったらお願いすることがあったのよ」
「ほう……何だね。また行けばいいが……然し」
彼は、今までさよに見えなかった一つの紙包みを黒皮のポートフォリオのかげから出した。
「こういうものがあるんだが……」
それは、明治屋の商標をもっている。さよは冗談の積りで云った。
「私当てて見ましょうか? 何を買っていらしったか」
保夫は、外套を掛け、居間に入りながら云った。
「あやしいものだぞ」
「大丈夫、きっと当てるわ」
さよは、勿論間違うものとして断言した。
「オゥトミイル──二鑵? それとも一つは何か別なもの?」
保夫は振向いてさよを見た。
「ずるいぞ、触ったな?」
「いいえ。そんなことはしないわ」
彼女は、逆に訝しそうに良人に訊いた。
「でも──当ったの?」
「珍しく直覚の出来がよかったね、オゥトミイルだよ二つとも」
「まあ……」
さよは、思いがけず、驚いた。彼女は「違うよ」と一言に否定されることを予期していた。彼女はそれをきっかけに、
「本当はあれが欲しかったのよ」と云う積りでいたのであった。彼女は自分がうまく当ったと思うより、良人がどうしてこれを、特に今日、買って来る気になったかと意外であった。
「私、今朝何とか云って? オゥトミイルのこと」
「いいや、云わないよ」
保夫は、さよの眼を瞠った顔から、自分の手柄を素ばしこく見てとった。彼は、さも自信ある良人のように云った。
「ちゃあんと判るさ、これ位のことは。顔に書いてあったのさ」
すっかり夕飯の後片づけがすむと、さよは明朝の準備に、碧色の二重鍋を火にかけた。中には、先刻のオゥトミイルが入っている。踏台に腰をかけ、料理台に両肱をもたせ、電燈の下で、煮える鍋の番をしながら、彼女は自分の気持を考えた。
もう半年も前であったら、こんなことでも自分はどんなに興奮しただろう。事柄はすっかり違ったが、矢張り小さなことで、良人と自分との気持がぴったり合っているのが判った時、さよは、愛はこんなに微妙なものかと、感歎しつくした自分を覚えていた。
今、彼女はそんなにじき上気せはしなかった。こういう偶然の暗合が、自分達にだけ授けられた天恵だとも思わなかった。家庭の瑣事の一つであろう。幾万とある屋根屋根の下で、しばしば起る日常茶飯のことではある。而も、彼女は、このありふれた出来事の裡に、何ともいえない一縷の優しさ、温かさを感じずにはいられなかった。人間と人間とが、高い天の上から瞰下したら、さぞさぞ小さく、然しながら一生懸命に生きてゆく間に、馴れた賢い本能が睦しく互に頷き合う。その頷き合いを、さよは快く良人と自分との心の底に認めたのである。
煮え立った鍋からは、陽気に湯気が吹出した。良人の書斎の方からは、歯切れのよいタイプライターの音が、彼の周囲を髣髴させる一定の調子で響いて来る。──
台所に働きながら、さよはふと、日頃からすきな
箱根路をわがこえくれば伊豆の海や
沖の小島に波のよる見ゆ
という歌を思い出した。自分達の生活が、この沖の小島を見晴すように、一点遙に情を湛え、広々と明るい全景の裡に小さく浮んでいるようで、さよは穏やかな悦びと懐しさとを覚えた。
二
それから間もない或る日のことであった。
さよは、良人と良人の友人と三人で晩餐の卓子についていた。彼女の隣りに良人が座った。彼女の真向には友人が。そして、箸をとりあげて暫くすると、保夫は、
「う? う? う?」
と口の裡で言葉にならない音を出しながら、何か訊くように彼女の方に顔を向けた。
さよは、良人の顔を見返したが、すぐ答えた。
「ああもういいの、すぐあがって──」
彼女は、保夫の箸の先が小鉢の浸しものに触れているので、何心なく猿の合図のような「う? う? う?」を、「これに、したじがかかっているのか」と翻訳して聞いたのであった。
友人は、ナスタアシウムの花越しに二人を見較べた。
「何だね、どうしたの?」
保夫の説明でいきさつが判ると、彼は、
「ふうむ」
とやや大仰に感服した。
「さすがに夫婦は違うな。僕はいくら考えようとしても、まるで見当がつかなかったよ。……ふうむ、うまい工合に行くもんだなあ」
さよは何とも云わずに微笑した。友人は独身者であった。ひやかしとも愛素とも羨しがりともとれる言葉にどう返事してよいか解らなかったし「うまい工合に行くもんだなあ」という感歎詞は、悪意のないことは明瞭であったが、彼女に自分の心がまるで試験された電熱器にでもなったような淋しさを与えた。
月の明るい頃であったので、彼女達はその友人を送って、五六丁ある停車場まで行った。帰りには、二人並んで来る正面に月があった。水蒸気がある故か、さやかな月のまわりには、大きな大きな金灰色の暈が眠げに悠たり懸っている。暈の端れに、よく光る星が一つ飾のようについていた。初夏の夜の精気を溶し、凝したような月と星とは、彼等の行く先々、いい匂いで繁っている栗の梢や、繊い欅の黒い枝のかげに先駆をする。さよは自分の足の運びが磁力に吸われて月へ月へと向って行くように感じた。帽子もかぶらず、軽い杖を手にしたぎりで保夫は、ゆっくり大股に彼女の傍を歩いて来る。彼が、平和な幸福を感じていること、心のどこかで、友人が喋りつづけた事柄を味い、かみなおしているのがさよによくわかった。友人は、来てから帰る迄、殆ど結婚生活のことばかり話して行った。自分自身の生活に対する希望や予想に就てでなければ、知人の結婚生活の成功、失敗等について、そして、一々の文句の句点のように、彼は「君達はいいさ。申し分なしだろう」とか、「何にしろ以心伝心だからな」とつけ足した。停車場で別れる時、彼は改札口を半分プラットフォームに出ながら体を捩って彼等の方を振向き、呼びかけた。
「この次来る迄に頼むよ。見つけて置いてくれ給え」
樫と栗の生垣に沿って曲ると、道は、両端に雑草の茂った田舎道になった。左側にはとろとろ月に輝いて流れる溝川があった。右手には、畦の低い耕地が、処々に杉森で遮られ、一面の燦く透明な靄のような月の光に覆われている。聖者の円光のように遙かな暈をもった月は、いよいよ彼等に近く見えた。一つの星はますますキラキラと美しく閃く。保夫は、こんなに夜が生命に満ち溢れているのに、あの友達が独りで麦酒に酔って帰るのが哀れだという風に呟いた。
「本当に誰かないものかな。──君の友達なんか大勢あるんだろうのに……戯談らしく云ってはいるが本気なんだよ、山岡のは──」
さよは、ぼんやり答えた。
「そうね」
保夫は、黙り込んだ。口笛を鳴らす気にもなれないほど、四辺の景色は静かで、夢のようである。さよは、草履の足元にまるで気をつけず、光の裡を泳ぐようにして歩きながら、頻りに一つことを思った。彼女の心は、山岡が面白そうに幾度も繰り返して云った以心伝心という言葉のまわりを、丹念に廻っているのであった。
全くそう云われて見ると、自分達の生活にはそんなことが少くない。さよは、つい先日のオゥトミイルのことを思い出した。あのことのみならず、日常のこまごました用件は大抵のとき、二言三言の受け渡しですぐ片づけられている。その二言三言も、言葉としては決して完全なものでない。ほんの心持を仄めかすだけの役目しかつとめないのだが、何方かでそれこそ「工合よく」補充し、直覚したことは大した行違いもなく運ばれて来ているのだ。──さよは、考えていくと、今日といい明日という太陽が、互に交錯し反響し調和しつつ流れて行く二つの心の河の上に、出たり沈んだりするように思われた。自分達の生活の実体が、一緒に食事をしたり、散歩したり、眠ったりする形象のもう一重奥に在るらしい神秘的な心持にさえなる。彼女は、まるで言葉というものがなくなった時の自分達はどうであろうかと思った。自分の直覚はどの程度まで真実なものだろう。また、良人は、彼の心の眼で、自分の心のどの辺までを見とおし、同じ感情や意慾を反射するだろうか。
さよは、これまで持たなかった自覚を以て、深く深く自分と良人との心の風景を跋渉して見たく思い始めた。云いかえると、今まで我知らず勢にのって流されて来た二つの心の河の河底まで潜って、満干の有様、淀の在場所、渦の工合を目のあたり見たら、と思い出したのであった。
月の光に馴れたさよの瞳に、戻りついた家の電燈の色がひどく赤黄く、暑く、澱んで見えた。
保夫は、
「家へ入るといやに蒸すね」
と、ひやした麦湯を所望した。さよは、盆にのせてそれを良人にすすめ、彼が仰向いてすっかりコップを空にする様子を見守った。彼女はひとりでに微笑んだ。彼女は、良人の知らない心の望楼を、今夜のうちに拵えた。そこの覗き穴から見ると、麦湯を呑みながら彼の心が何と呟いているか、はっきり判るように思ったからであった。然し、保夫が、
「何? 何を笑っているの」
と尋ねると、彼女は子供が玩具をかくすように、新しい計画を心の奥にたくしこんだ。そして、猜く、嬉しそうに、黙って頭を振り眼の裡で笑った。
三
保夫の側から見ると、さよは近頃特に濃やかに気の利く妻となって来た。
彼女は、一つでも、未だ口に出して云われない彼の希望や要求を察して、仕とげたのを発見すると、ひどく忻んだ。普通妻が、良人の満足を見て自分も好い心持になるという以上のものが、さよにはあった。彼女にとって、そのことが出来たのは──保夫が、
「ほう、あるね。実はもうそろそろ買って来なければいけないと思っていたんだが」と、新しいオー・ド・コローンの瓶を手にとるのを見るのは──つまり自分の感じが間違ってはいなかった証拠であった。さよはそこから二重の嬉しさを得たのである。
時によると、また、彼女は何か云い出そうとする保夫の口先を、
「あ、一寸待って。云わないで、云わないで」と、あわてて遮ることがあった。夕飯後、彼等は定って八時頃まで雑談した。夕暮の気持よい日には縁側に並んで腰をかけたり、庭をぶらついたりしながら。──そういう時、話の続きを中絶させて、さよは熱心に、
「あ! 一寸待って」
を叫ぶのであった。保夫は、兵児帯の後に両手をさし込んだまま、訝しそうに彼女を顧る。
「何故?」
「──その先は私が云うの」
さよは、良人の顔から眼を離さず説明した。
「私がね、貴方がきっとこうおっしゃるだろうと思うことを云うの。当ったか当らないか、正直に教えて頂戴」
そこで、さよはもったいぶり、場合によっては、
「──省──課書記官谷保夫は、今、彼の従弟の就職について云々」
と、冗談を混ぜて良人の考えや心持を話した。保夫は本気にならず、
「莫迦」
と苦笑しながらも、さよによって読みあげられる彼の考えというものに耳を借した。さよは、妙に真剣で、頭の奥から糸でも繰り出すような眼付で話しながら、少しあやふやなところに来ると、
「そうじゃあなくって? 違って? まるで違うこと?」
と念を押す。全然見当の脱れた時、保夫はさも面白そうに高笑いした。そして、遠慮なく、
「莫迦」
を連発して彼女を揶揄した。さよは、額の隅を掻いて敗亡を示した。当がはずれても、結局食後の座興として決して不適当なものではない。然し、十中七八まで保夫は彼女の言葉を正面から否定はしなかった。その代り、はっきり承認もしない。彼は、にやにやしながら、
「まあそう思うならそうして置くさ」
と云うのであった。
この当て役が反対に保夫に振りつけられると、二人の会話は、さよがその役を持った時ほど快活に、熱をもっては進まなかった。
彼女は良人に注文するだろう。
「きのう吉村さんがいらしった時ね、私、あの方について感じたことがあるのです。何だとお思いになって? 鈴木さんと比較して──当てて頂戴」
保夫は、気も乗らなそうに煙草の烟を吹いた。
「何の稽古が始るのかい。──吉村について感じたって……漠然としすぎて問題になりゃあしないよ」
さよは、良人に興味を持たせたく、一生懸命に云った。
「吉村さんと鈴木さんとは同じ実業家でしょう。実業家といっても二人は実業につく動機がまるで異うと思ったの、そのこと──」
「厄介なことになったな」
保夫は間に合わせな答をした。
「第一、男の見た男と、女の見た男とは大分違うよ」
「いやな方!」
さよは、酸いような笑いを笑った。
「違うからこそ当てて頂戴と申上るのよ。あの二人は性格が随分異っているでしょう、その違いを私がどう感じたかということなのよ」
「さあ──大体何だろう、鈴木は神経質で、考え出すと眠れないという方だが、吉村はずっと太っ腹だろうな。大損をしてハッハッハッと笑うのは、吉村でなけりゃあ出来ない芸当だろうな」
さよは、詰らなそうに良人を見た。彼女は諦めきれない風でつけ足した。
「私の云った要点とまるで違ってよ、それは」
「だって彼奴の性格はそうだよ。事実だから仕様がない」
さよは黙り込んだ。彼女は何ともいえない物足りなさと淋しさとを感じた。せっかく一心に矢を射いても、いざというところで的がくらりと斜かいになり、徒に流れ矢となって落ちてしまう。さよは、せめてかっちり、要点だけは受けとめて欲しかった。返事は間違ってもよいから「お前のことだからこうでも思っただろう」というところから発足しなければ、焦点が合わないということ位、鋭く感じて欲しかった。
「この空虚な喰い違いを、何とも感じないのだろうか!」さよは、心の裏に寒さを覚えながら、愕き慍って良人の顔を見なおした。
最初は、相当愛嬌をもって始められた当てっこ、さよの云う心の跋渉は、時が経つにつれ、次第に感情の複雑さを増した。同時に、幾分残酷なものにもなって来た。彼女は、これ迄、好い人というぼんやりした一つの型にはめて安心していた良人の性格を、自然細かに調べる機会を与えられた。そして、親達が、配偶として第一の条件のように云って聞かせてくれた好い人というものが、決して性格として頼れる面白いものでもなければ、まして自分が描いているように、溌溂と熱意ある生活の幸福などは、到底期待出来そうもなく思われ出したのであった。
さよは、当てっこの奥に暗く凄い何かが募って来るのを感じた。彼女は、何気なく夕飯後、夕刊を見ている良人に云いかける。
「今日沢口の伯母様がいらっしゃってよ」
「ほう。何だって?」
「また幸雄さんのことをこぼしていらしったわ。あの人にも困るって。先達っての話は、自分から行って断ったのですって……」
さよは、注意深く保夫の返事を待った。幸雄は従弟で、彼はその兄役をしていた。
「贅沢だな。この就職難のとき自分からいいくちを断るなんて……」
保夫が、自分の予期通りのことを、呑気に云うのを見ると、さよは焦立たしさと悲しさとを同時に感じた。彼女は、複雑に、意地悪く動く自分の心持を、惨めに自覚しながら云った。
「伯母様に申上て置いたわ。今度幸雄さんがいらっしゃったら、きッと保夫がよくお話しするでしょうって。──そうでしょう? 貴方幸雄さんに、伯母さんを早く安心させるもんだよっておっしゃるでしょう?」
保夫は、機械的に答えた。
「云わなくちゃあなるまい。──せっかく理財科まで出て遊んでいるのももったいないからな」
さよは、「何故そんな上っ面で安心? どうしてもう一皮、幸雄さんの心持の下まで切り下げないで安心なのだろう!」という、歯痒い歯痒い心持を、やっと、
「幸雄さんはいい従兄を持って仕合わせね」
という皮肉に洩した。
けれども、保夫は、彼の傍で、さよが、どんな感情に煮え立ち、それをどんな心持で制しているかは、まるで感じないように見えた。彼は苦労も不安もないらしく、艶の好い、型通り青年紳士の顔を、悠々居間の灯の下に浮上らせているのだ。──
彼女が指先に絡めて編んでいた絹糸のように、慎ましく輝き、滑らかであった生活は、少くともさよの心の内で変化した。彼女は、良人と自分との調和ある沈黙の頷き合いは、散歩に出ようか出まいかということ、二人共が丁度同じ時番茶を飲みたいと思うこと等以外に、果してどこまで深く連絡があるかひどく疑わしい心持に、結婚後始めて逢着したのであった。
四
四辺はもう六月であった。
さよは、独りになると、いよいよ濃い青葉のちらちらする縁側に出、鮮やかな紫陽花の若葉の色だの、ガラス鉢の水を緋や白に照して泳ぎ廻る金魚だのを眺めながら、種々な考えに耽った。
これほど心を捕われることから見ても、さよは、自分がどの位良人に執着しているか、はっきり解った。けれども、何故執着しているのか。愛しているから。それなら彼のどこを何を愛しているのかと自問自答して行くと、彼女は、苦しい心持になった。良人と切りはなせない絆を感じる心持と、彼の物足りなさ、詰らなさ、自分の求めるものが決して彼の裡にはないという事実とは、彼女の心の裡で厳然と対立した。さよにとって悲しいことは、これ等の気持を、洗いざらい良人に打ち明けられないことであった。黙って、独りで何か解答を見出さなければならない。それも、二人でではなく、自分だけが何とか変化しなければならない──さよは、保夫が彼自身の平々凡々にはまるで気がつかないのを知っていた。また、彼女が何とか云ったところで、決して素直に十七八の青年のように自らを顧みて涙を落すような質でもないのを知っていた。保夫は、さよから見ると、かんじきを足につけて生れて来た人のように思えた。かんじきは、どんな深い雪の上を歩いても、決して彼を溺らせたり立往生をさせたりはしない。彼女は、自分の足にそんな重宝なものがついていないことを見出した。それ故、彼の行く道を跟いて行こうとすると、あがきがつかない程、ずぶりずぶりと潜り込む。最後の目当ては一つとしても、さよは、自分の道具がついていない足にかなう路をさぐり出さなければならないのを感じた。これが無形な心の問題であるだけ、良人は、彼女がもう二進三進も行かなくなって、泣きかけで佇んでいるのを知らなかった。彼女がよしそれを訴えたとしても、かんじきのある彼は、彼女がそれを持たないことを思わず「そんなことがあるものか。来る気さえあれば来られるのだ」と云うだろう。
「だって駄目よ、私には駄目なのよ」と云っても、さよは、良人に出して示すべきものは、手近かな視覚に訴えることの出来ない、形象のない、自分の生れつきであるのを侘しく、途方にくれて感じたのであった。
入梅前のせいか、よく半透明な白い磨硝子を張りつめたように明るい空から、光った細い雨が、微かな音を青葉に濯いで降った。さよが、椅子の腕木に頬杖をついて眺めると、古風に松の下に置かれた巨い庭石の囲りに、濃茶をかけたような青苔が蒸していた。天から、軽く絶え間なく繰りおろす細い雨脚は、苔の面に触れたかと思うとすっと消える。後から来たのも、すっと消える。いくらでも、いくらでも、青苔は凝っと動かず降る程の六月の昼の雨を吸い込んで行く。──
見守っているうちに、さよの瞳がだんだんうるんで来た。涙が蓮の葉の露のように藤色のセルの胸をころがり落ちた。彼女は、自分達が何のために、何を目当てにその日その日を一つ屋根の下で生きて行くのかと思った。保夫は、外側からだけ見れば、疑いもなく毎朝出掛けて行くべき役所と、判を押す書類と、ふかすべきウェストミンスタを持っていた。けれども、しんのしんの生きる目的、意味と思うものはどこに持っているのだろう。それ等の一つ一つに小分けにこめられているのか。または、釜しきか何かのように、そういう外廓だけは如何にも確り、ちゃんと出来ているが、中心はすぽ抜けなのではなかろうか。自分は、彼との生活のどこに安心し倚りかかる場所を見つけられるのだろう。……
或る考えに脅かされ、さよは殆ど椅子から立ち上りそうにした。彼女は、落付きのない眼を動して、救いでも求めるように、濡れきった庭や、廊下や、仄暗い庭を見廻わした。外には、自然も人間も圧しくるむような雨が煙って降っている。点滴の音が単調に聴え出した。──さよは、立って廊下の端まで歩いて行った。何かに押し戻されるように柱の下まで来、彼女はそこに佇んだまま、燈火の光が庭の水たまりに写ってチラチラし始める頃まで動かなかった。夜、彼女は出来るだけ平和に良人の抱擁を拒んだ。ひとりにされると、彼女は暗闇の裡で声を殺し劇しく泣いた。さよは、自分がこういう気持で対している良人の子を孕むことを想うと、恐怖と愧しさとで手足が氷のようになった。彼女は闇に瞠った眼尻からぼたぼた涙をこぼしながら、自分で何故ともわからない緊張を以て、良人の穏やかな寝息に注意を凝した。
五
若し人間というものが、布で作った着物のように、人の手で解けるものであったら、さよは良人を今こそ熱心に解体し始めたろう。
そして、一つ一つの部分を、自分に納得の行くまで眺め、触り、引かえして見て、また元の形に纏めあげ、心から安おうとしたに違いない。けれども、これは空想に於てさい不可能なことである。彼女の前や横には、その点からは手のつけようのない良人が、外見には親しく近く、さよの心から見ると距離が近いだけ一層増す寂寞さで引添うている。
その寂しく苦しい心持は、一ヵ月ばかり前、彼女が独りぽっちで家にいた時のとは全然異ったものであった。ある時は、良人さえ帰れば彼女は忽ち救われた。一日中の圧迫されるような陰気さは、彼の顔を見た刹那に消散した。が、今度のは正反対といえた。さよは、保夫が自分のすぐ傍に坐って、天地の間に唯一つの疑問も不安もないという風に湯上りの濃い髪を艶々させているのを見ると、却って絶望に近いほどの寥しさ、野蛮な焦躁に煽り立てられるのであった。
彼女は、あばれる獣をやっと押えつけているような幾日かを送った。とうとう、辛棒がしきれなくなった。彼女は憐れに一心な顔付で良人につっかかって行った。
例によって、それは夕食後のことであった。さよがひとりでに黙り込み、卓子に眼を落してばかりいた故か、保夫は早めに書斎に引取った。彼女は暫く後に残って、女中に口を利いたが、軈て良人の後を追うように書斎に行った。六畳の部屋は、短い鍵の手の廊下で離れのように庭に突出ている。保夫は、正面の濡れ縁に向って机を据えていた。夜の、何か濃い液体のような闇は、冴えた電燈が煌々と漲る敷居際でぴたりと押し返されている。彼の後姿は、光を浴びる肩の辺をしろじろと、前方の闇に浮上って見えた。
さよは、静に机の傍に行った。保夫は、右手に青鉛筆を持ち、薄い仮綴じのものを読んでいる。──細かな横文字を無意味に眺め、さよは声をかけた。
「──おいそがしいの?」
保夫は、背を延し、パラパラと頁を翻した。
「そういうわけでもないが……何故?」
「…………」
さよは、夜気が身に迫るとでもいうように、単衣の袖を抱き合せた。保夫は、彼女の顔付を見、微かに表情を変えた。彼女は、藁半紙のようにごく粗末なパムフレットに目を据えたまま、思い込んだ調子で云い出した。
「ね、貴方──安心?」
「何が?──君のような出しぬけでは、返事に困るよ」
保夫の言葉つきの裡には、充分な用意と、それを包んだ平静さ、子供扱いの気軽さを装う響きがあった。
「何だい?……地震」(一九二三年東京、湘南地方に大震があり、翌年になってもしばしば余震があった。)
「そんなことじゃないわ、地震なんか──私共のこと。──」
さよは、顔を擡げて良人を正視した。
「貴方ちっともそんな心持はなさらないの? しんから安心?」
保夫は煙草の煙をよけるように瞼をせばめた。
「何か僕達の生活に不安があるというの?」
さよは、合点をした。
「私この頃堪らないの」
「……何も不安な処なんかないじゃあないか。僕はこんなに貞節のある良人だ! 君は君で一日じゅう眠ろうが起きようが自由な身の上だ!──僕は不安どころか、大いに幸福だと思う。特に、君なんかユートピア以上の生活だな」
さよは、不愉快に良人の軽口の先を折った。
「冗談はあと。私は真面目よ。──貴方本当に私共の生活が充実しているとお思いになること? 大丈夫、完全なものだとお思いなさる? 私は、この頃、そう呑気でいられなくなったわ。……ひどく不安なの」
「……我儘だろう?」
保夫は、さよの笑いを釣り出そうとして、誇張した表情までつけ足した。さよは、真剣で否定した。
「そうではなくてよ。決してそうではありません。二人で暮して行く以上、大事なことだから本気で聞いて下さる方がいいわ。
私はね、この頃貴方が判らないの。貴方の心持の中心が、生きて行く蕊が、私とまるで別な、遠い処にあるようで苦しいの。それは勿論」
彼女は、気を入れて聞き始めた保夫に説明した。
「同じような処もあってよ。同じに考えたり思ったりする事もあります。けれども、それは些細なことで、結局お互がどちらでもいいから、無意識に譲り合って行くのでそうなので、大元の処へ行くと、二つがすうっと離れねばならないようなの。お判りになる? 私の云うことが……。例えば、今、私がこんなことを云うまで、貴方一寸もそういう心持は感じていらっしゃらなかったでしょう? 自分が感じないばかりでなく、私が感じていることも、まるでお感じにならなかったでしょう?──それが離れていると私が云うところです」
「ふうむ。……然しそれは、君が僕の気持をよく理解しないからだろう。まだ──」
「そうか知ら。──私は逆のように感じてよ。貴方は、私共が世間で認める通り夫婦で、外から見た条件がちゃんと調っているのだけ知って安心していらっしゃるのじゃあないこと? 自分達の心の問題を放ぽり出して、他人のように外側だけ見て好い気になっているのは嫌よ。──私は根から安心したいのです。貴方と私とが、本当にこここそというところを確り持ち合って行きたいの」
「──いやに懐疑的だね」
保夫は、手入れの好い髭の辺に、不似合な曖昧な迷惑げな表情を泛べて、さよを見た。
「こうやって生活しているという事実以外に、僕等の生活のあるべき訳がないじゃないか。それに……君の言葉は捕えどこがまるでない。遠いとか寂しいとか云わずに、どこか悪いところがあるなら明瞭に指摘すべきだ。それが君に出来ないなら、僕は、君の云うことに、はっきりした土台がないとしか思えないよ」
「悪いというものではないのです。なおすというより、もっと心の底に入るの。もっとむき出しで、鋭く感じる心が私は欲しいの。私に遠慮なく云わせれば、私のこの心持を論理の上で正しい形をとって説明させようとなさる、それが淋しいのです。判ったでしょう? 心のことよ。心直接感じるべきことなのよ!」
「じゃあ堂々廻りで結局、僕に云っても駄目だということじゃあないか!」
保夫は、さよの胸を一杯にした冷やかな事務家的態度を示した。彼女は、辛うじて自分の涙もろさに打ち勝った。
「私は、駄目だと云って澄していられないのよ! 二人で生きて行くのなら、生きてゆくようにして行きたいのです。だから──」
「ね、さよ」
保夫は、煙草を灰皿の上に揉み消し、熱くなってつめよるさよを遮った。
「生活の幸福というようなものは、愛と同じで、一種の信仰だよ。信仰次第でどうともなる。──君なんか、まだまだ生活がどんなものだか知らないのだ。……君だって僕の愛だけは、信じられるだろう? それがお互の生活の万事ではないか」
彼は、何か云おうとするさよの手を執った。そして、
「さあ、理窟はやめて、可愛いさよにおなり」
と云いながら、彼女をひきよせて愛撫しようとした。彼女は、赧くなって、遂に涙をこぼした。
「そういう風に片づけては駄目。──貴方は、狡いわ!」
彼女は、手を引こめて、きちんと坐りなおした。
「私だってお互が大切だと思うからこういうことも云い出すのです。愛している、愛しているって、百万遍お互に誓い合ったって、心の観音開きがいつでも行き違ってプカプカしていて、貴方平気? 平気でいらっしゃれるの?」
さよは、せめてここで「いや、そんなことでは堪らない。そんなことをしては置けるものか!」と云って欲しかった。彼女は、その一言で、心半分は助かっただろう。彼女は、どこかでぴったり、率直な、むき出しな保夫の心にぶつかりたかった。それを願うばかりに、多くの言葉も費すのに、彼は、驚くべき冷静さで云った。
「それは君の想像だよ。──君ばかりが、閑にあかして捏ねあげたものの証拠には、見給え」
彼は、凱旋者のような眼に微笑さえ湛えて云った。
「現にこうやって一つ家に生活している僕が一寸も感じていないことじゃあないか」
さよは、我知らず、
「独断家!」
と叫んだ。
「貴方、よくそんな! 自分の判るだけしか人生は、人間の心はないと思っていらっしゃるの?」
「亢奮しない方がいい。──而も、僕は君にとって、決してあかの他人だとは思っていない。少くとも良人だ。良人である自分に、君の……妻である者の大切な心持が判らない筈がないじゃあないか。それだのに、低能でもない僕に感じられないとすれば、気の毒だが、君の方が根拠が薄弱だ」
さよは、心の歯を喰いしばった。彼女は、出来ることなら擲りつけて、良人を独善的な、紳士的な、冷血な頑固さから突き出したかった。彼は、さよの心が、どんなに苦しんでいるか思い遣ろうともせず、卑俗な自分の頭の正確さに、寧ろ愉快を感じてさえいるではないか? さよは、獣のように呻いた。ホッテントットの女のように、良人に噛みつき擲り合って、しんまで事がさっぱりするのだったら、どんなに晴ればれするだろう。脳髄の皺がほんの少し多いばかりで、さよは、自分の指一本動かせなかった。彼女は、この苦しさが、擲り合いで片づかないものであるのを知っていた。また保夫は、打たれて打ち返す男ではなく、心に氷のような侮蔑を含んで眉毛も動かさないであろうことを知っていた。彼女は、燃え顫える激情を、ただ熱い数滴の涙にだけ溶して、淑やかに教養ある日本女性の典型のように、二つの手を膝に重ねていなければならないのだ。──彼女は、様々に思い乱れた。「夫婦というものは、どこでもこんな味気ないものなのだろうか。どうかして、体も心も安心して一つになってしまいたい、その判り切った願さえ、黙って堪えて行かなければならないのか」
さよは、すすりあげながら、親子より親しい夫婦の中などという云いならわしを、絶望を以て思い起した。
六
永い、張りつめた沈黙が、森と明るい小部屋に充ちた。
さよが、時々微に短い身じろぎの音を立てる。──前後の寂寞は、戸外の闇とともに、いよいよ圧力ある深さを増すように思われる。……
軈て、保夫が身動きをした。そして、濡れているさよの顔を見なおした。
「──顔でも洗っておいで」
さよは、保夫が、いかにももう峠は過ぎた、という風に云い出した調子に不快を覚えた。彼女は動かなかった。
「……行ってちゃんと顔でも洗っておいで。だいなしじゃあないか。──」
それでも、彼女が返事もしなければ、立とうともしないのを見ると、保夫は、さよの急所を刺すように辛辣な調子で独言した。
「余程、今晩は調子が妙だな。……」
彼は、煙草の烟を故意に長く、二ふきばかり電燈に向ってふきかけた。そして、曰くありげにじろじろとさよを視、質問した。
「あれは、いつかい」
さよは、横を向いたまま、低い涙声できき返した。
「なに?」
「君のあれさ──判るだろう」
さよは、首を廻して保夫を見た。彼の視線は心得顔に彼女に向って注がれている。さよは、本能的に意味を覚った。それと同時に、彼女は体中の血が、一時に逆流するような憤ろしい衝動を感じた。「何ということだろう! 彼は、自分の云うことを皆ヒステリックな発作だときめているのか。気に入らないことは、皆病的とする男性の暴虐を、この良人まで持っているのか!」さよは、唇に鮮やかな血色を失った。彼女は、努めて声に力を入れ、眼球が強ばるほどせき上げる激情をやっときれぎれな言葉に表した。
「そんな、生半可なフィジオロジなんか……すてておしまいなさい。そんな下らない智識で、貴方、私の心全体、判断出来るとお思いなさる……何故真心でいきなり、真心でぶつかっていらっしゃらない! 卑怯です。──卑怯というのは……そういう」
さよは、言葉が喉に塞って、熱病に患ったように体中を戦慄させた。
「貴方は……私が──自尊心を傷けられて黙ると……思っていらっしゃる。私の哀れな見栄や己惚れを──……利用しようと……思って」
彼女は、激しい悪寒と熱とが一緒くたに体や頭の中を貫いて奔流するように感じた。彼女は、両手で確かり顔を押えた。そして、保夫の机の端に肱をついた。体は、畳から浮上って気味悪く高い庭へつり上ったかと思うと、眩暈につれて、低い低い、底なしの暗闇に沈み込むようだ。──
彼女は、静かに泣き出した。なま暖い涙は、掌を洩れ、手の甲を伝って、ぽたり、ぽたりと机の上に大きな滲みを作る。彼女は、その涙の奥に、幾年か忘れていた一つの光景を思い出した。
それは、彼女が生れて二十年育った家の湯殿であった。
四畳半ばかりの板敷きに畳表を置いた脱衣室の一方は、竹格子の窓になっている。下に、母の鏡台が置いてあった。鏡には、鼠色の地に雨と落花と燕の古風な模様がついた被いをかけてあった。その前で、夜の二時頃、ただならない気勢でぴたぴた素足のまま起きて来たさよに、彼女の母が、
「さよちゃん、お父様と私と、何方が間違っているかよく聞いておくれ。私がどんな道理を云っても、お父様は、そらまた歇私的里だと相手になさらない。……何故、女になんか生れて来ただろう、どうせ一度しか生きもされない世の中だのに」
と泣いて訴えた有様であった。
母はあの頃三十四五であった。さよは、やっと十二三であった。彼女は、途方にくれ、泣きむせぶ母の肩を自分の胸に抱きしめて、
「泣かないのよ、お母様。泣かないのよ。ね、私お父様によく云ってあげるから……泣くのをやめて、よ!」
と、波打つ鬢の毛に口をつけて囁いた自分の稚い姿をまざまざと覚えている。──
父に何を云おうと思ったのであろう? 今になってさよは、母の切な涙を自分が流しているのを知った。そして、若し自分が小さい子供の母であったら、その娘か息子かは、きっと、自分が感じたと全く同じ当惑、悲しさ、当のない義侠心に繊い指を震わせて、「云ってあげるから! ね、泣かないでよ」と云うだろう。然し彼等も、また自分の通り、その涙を眼から流す時が来るまで父に向って何を云うべきかはちっとも理解しないのだ。……
彼女の精神はだんだん鎮って、母と自分との間に過ぎた十数年が、女性の一生にどういう意味を持つか、考えなおすだけの余裕を持って来た。
結婚するまで幾度か、さよは形こそ異え、同様の訴えを母からきかされた。その度毎に、彼女が母に与えた慰安の言葉も、考えて見れば、僅に語彙が年と共に幾分豊富になったきりで、内容は、十二三の時と同じ「泣かないで、よ!」というだけのものであった。彼女は、自分が、実際母の苦痛を軽めるには、何の足しにもならなかったのを回想した。ただ母にとっては、無意味に近い言葉を繰返す彼女が、自分の娘であると云うところにだけ、確に、心からの当惑や気の毒さを感じられているというところにだけ、彼女の言葉の価値はあったのだ。
母は、殆ど一生、老いて激しい情熱の失せるまで、解決されない苦労を負うて生きた。
彼女の満されなかった若々しい一心さ、理想的な生存を希う、哀切な人としての願望は、皆消極的な悲しみ、煩悶に精力を消耗されて鎮められた。それだのに──さよは、新たな駭きを以て考えた。──彼女の母は、あれほど勇み立って、女性の天国へは保夫が案内でもされるように、華やかに自分等二人を結婚させたではないか!
さよは、殆ど愚に近い矛盾をそこに認めた。が、猶考えて行くうちに、彼女は、母のいとしさにひしひしと迫られた。母は、自身の一生で実現されなかった更に沢山の夢、人の夢、女の夢を、自分にこそ味わせこの世に持たせようと、結婚もさせ、世に送り出しもしたのではなかろうか。母の母が、明治の始め、長い絹房の垂れた插頭花をかざした自分の娘に希い望んだ通りに。
宿題は、代々解かれきれず、彼女にまで伝えられた。
さよは、自分が受けとったままの白紙で、或は半端な数行で、力の足りなさを示したままで、次の娘の代に譲りたくなかった。何とか答を見つけ出し、祖母や母の感傷なしに、
「私はこれをこう解いた。──お前は何と思う? どう解きますか」
と云い得たかった。
彼女は、自分の一生までが、祖先の女性達同様、一つ涙、同じ苦情、生きたいだけ生ききれない思いで過るかと思うと、安心して良人と論判してさえいられない心持になった。
さよは、顔を押えていた手をどけた。そして、深い溜息をつき、額に乱れかかった後れ毛をかきあげた。
見ると、保夫は、机の一方の端に頬杖をつき、人さし指と中指との間にはさんだ煙草から、香もない煙を張り合いなく立ち昇らせたまま、当もなく前方の庭の宵闇を凝視している。が、さよは、一目で、彼の注意は見かけによらず、怠りなく自分に向って注がれているのを直覚した。彼は全態で「ああ、すっかり不愉快にさせられた。仕事も何も出来はしない。お前のせいだぞ」と語っている。而も、その陰から、彼女がそれを感じて気の毒がり「わるかったわ。──御免遊ばせ」と媚さえすればすぐ許し更に優しい数言を添えて額に一つの接吻を与える心持のあることは、これもありありと示している。
さよは、一旦鎮った感情がまた擾れるのを感じた。彼女は、保夫が上手に見せびらかしているものが、真実欲しかった。けれども、その欲しさに、うっかり負け、彼が暗に望んでいる通り、これまで云った総てを「御免なさい」と云うべきものと承認することは、彼女として堪らなかった。彼女は、自分に当然この戦いが起るのを知りながら、彼によって目醒まされたばかりの新鮮な、感じ易い本能を先ず誘おうとする保夫の無慈悲さに、憎しみさえ感じた。
彼女の裡で、再び野蛮人があばれだした。さよは心の中で呻いた。「死んじまえ! 死んじまえ! 意地わる。貴方はどこまで私を苦しめるか」……
暗く瞳を燃して良人の横顔を見据えていたさよは、ふと、彼が、何ともいえず陰鬱な陰を頬に浮べたのを見とがめた。彼女の神経に、きらりと或るものが閃いた。さよは、引つりとも薄笑いともつかない歪みを口辺に漂わせながら、のろのろ低声で保夫に尋ねた。
「何を思っていらっしゃるの。──同じこと? 私と同じこと?」
愕然としたように、保夫が眼を大きくして、さよの顔を視た。
「──馬鹿!」
彼は四辺の静寂な光を乱して、はげしく座布団の上に座りなおした。さよは、掌一杯冷汗を掻いた。彼女は、動悸が苦しく強く搏って、口をつむんでいられないようになった。「彼も同じことを思っていたのか。──そうでなくてどうしてあの意味深い馬鹿! が出よう。……自分達二人が一どきに、一緒に思えることは……互に──」
さよは、座に堪えなくなった。彼女は立って縁側に出た。外も暗い。心の中の通り暗い。彼女の前には、はびこったねばりづよい薄闇に、こんもり幾重にも茂り合った常磐木の樹立と、片よって一本、細い電柱があった。縁側に近い八つ手の滑らかな葉末が、部屋から溢れる赤みがかった光線で陰気に一部分照されている。上に、電柱が、斜に空間を貫き、これも光の工合と見え、片側ばかり異様に白っぽく気味わるい生き物のように抽んでている。
さよは、ひやひやになった指先で、幾度も無意識に自分の額を擦った。「この夜の裡にばかりもう百年も棲んでいるようだ」彼女は思った。「この永い、重い、苦しい夜は本当に明日あけるのだろうか……」
さよは、清らかな明るい朝が、堪らず恋しくなった。黎明の微風の爽やかさ、戦ぐ樹や草のあのよい薫り。だんだん明るくすき透り、森や家や道傍の石粒まで燦めかせて昇って来る太陽の涼しいぱさぱさしたあつさ。──然し、さよは、それ等の晴やかな、歓びに満ちた心の朝あけを、どこか、もう二度と見出されないところへ、とり落して来たような、暗い暗い恐怖に捕えられた。
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
1979(昭和54)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「改造」
1924(大正13)年6月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月24日公開
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