北守将軍と三人兄弟の医者
宮沢賢治
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一、三人兄弟の医者
むかしラユーといふ首都に、兄弟三人の医者がゐた。いちばん上のリンパーは、普通の人の医者だつた。その弟のリンプーは、馬や羊の医者だつた。いちばん末のリンポーは、草だの木だのの医者だつた。そして兄弟三人は、町のいちばん南にあたる、黄いろな崖のとつぱなへ、青い瓦の病院を、三つならべて建ててゐて、てんでに白や朱の旗を、風にぱたぱた云はせてゐた。
坂のふもとで見てゐると、漆にかぶれた坊さんや、少しびつこをひく馬や、萎れかかつた牡丹の鉢を、車につけて引く園丁や、いんこを入れた鳥籠や、次から次とのぼつて行つて、さて坂上に行き着くと、病気の人は、左のリンパー先生へ、馬や羊や鳥類は、中のリンプー先生へ、草木をもつた人たちは、右のリンポー先生へ、三つにわかれてはひるのだつた。
さて三人は三人とも、実に医術もよくできて、また仁心も相当あつて、たしかにもはや名医の類であつたのだが、まだいゝ機会がなかつたために別に位もなかつたし、遠くへ名前も聞えなかつた。ところがたうとうある日のこと、ふしぎなことが起つてきた。
二、北守将軍ソンバーユー
ある日のちやうど日の出ごろ、ラユーの町の人たちは、はるかな北の野原の方で、鳥か何かがたくさん群れて、声をそろへて鳴くやうな、をかしな音を、ときどき聴いた。はじめは誰も気にかけず、店を掃いたりしてゐたが、朝めしすこしすぎたころ、だんだんそれが近づいて、みんな立派なチヤルメラや、ラツパの音だとわかつてくると、町ぢゆうにはかにざわざわした。その間にはぱたぱたいふ、太鼓の類の音もする。もう商人も職人も、仕事がすこしも手につかない。門を守つた兵隊たちは、まづ門をみなしつかりとざし、町をめぐつた壁の上には、見張りの者をならべて置いて、それからお宮へ知らせを出した。
そしてその日の午ちかく、ひづめの音や鎧の気配、また号令の声もして、向ふはすつかり、この町を、囲んでしまつた模様であつた。
番兵たちや、あらゆる町の人たちが、まるでどきどきやりながら、矢を射る孔からのぞいて見た。壁の外から北の方、まるで雲霞の軍勢だ。ひらひらひかる三角旗や、ほこがさながら林のやうだ。ことになんとも奇体なことは、兵隊たちが、みな灰いろでぼさぼさして、なんだかけむりのやうなのだ。するどい眼をして、ひげが二いろまつ白な、せなかのまがつた大将が、尻尾が箒のかたちになつて、うしろにぴんとのびてゐる白馬に乗つて先頭に立ち、大きな剣を空にあげ、声高々と歌つてゐる。
「北守将軍ソンバーユーは
いま塞外の砂漠から
やつとのことで戻つてきた。
勇ましい凱旋だと云ひたいが
実はすつかり参つて来たのだ
とにかくあすこは寒い処さ。
三十年といふ黄いろなむかし
おれは十万の軍勢をひきゐ
この門をくぐつて威張つて行つた。
それからどうだもう見るものは空ばかり
風は乾いて砂を吹き
雁さへ干せてたびたび落ちた
おれはその間馬でかけ通し
馬がつかれてたびたびペタンと座り
涙をためてはじつと遠くの砂を見た。
その度ごとにおれは鎧のかくしから
塩をすこうし取り出して
馬に嘗めさせては元気をつけた。
その馬も今では三十五歳
五里かけるにも四時間かゝる
それからおれはもう七十だ。
とても帰れまいと思つてゐたが
ありがたや敵が残らず脚気で死んだ
今年の夏はへんに湿気が多かつたでな。
それに脚気の原因が
あんまりこつちを追ひかけて
砂を走つたためなんだ
さうしてみればどうだやつぱり凱旋だらう。
殊にも一つほめられていゝことは
十万人もでかけたものが
九万人まで戻つて来た。
死だやつらは気の毒だが
三十年の間には
たとへいくさに行かなくたつて
一割ぐらゐは死ぬんぢやないか。
そこでラユーのむかしのともよ
またこどもらよきやうだいよ
北守将軍ソンバーユーと
その軍勢が帰つたのだ
門をあけてもいゝではないか。」
さあ城壁のこつちでは、沸きたつやうな騒動だ。うれしまぎれに泣くものや、両手をあげて走るもの、じぶんで門をあけようとして、番兵たちに叱られるもの、もちろん王のお宮へは使が急いで走つて行き、城門の扉はぴしやんと開いた。おもての方の兵隊たちも、もううれしくて、馬にすがつて泣いてゐる。
顔から肩から灰いろの、北守将軍ソンバーユーは、わざとくしやくしや顔をしかめ、しづかに馬のたづなをとつて、まつすぐを向いて先登に立ち、それからラッパや太鼓の類、三角ばたのついた槍、まつ青に錆びた銅のほこ、それから白い矢をしよつた、兵隊たちが入つてくる。馬は太鼓に歩調を合せ、殊にもさきのソン将軍の白馬は、歩くたんびに膝がぎちぎち音がして、ちやうどひやうしをとるやうだ。兵隊たちは軍歌をうたふ。
「みそかの晩とついたちは
砂漠に黒い月が立つ。
西と南の風の夜は
月は冬でもまつ赤だよ。
雁が高みを飛ぶときは
敵が遠くへ遁げるのだ。
追はうと馬にまたがれば
にはかに雪がどしやぶりだ。」
兵隊たちは進んで行つた。九万の兵といふものはたゞ見ただけでもぐつたりする。
「雪の降る日はひるまでも
そらはいちめんまつくらで
わづかに雁の行くみちが
ぼんやり白く見えるのだ。
砂がこごえて飛んできて
枯れたよもぎをひつこぬく。
抜けたよもぎは次次と
都の方へ飛んで行く。」
みんなは、みちの両側に、垣をきづいて、ぞろつとならび、泪を流してこれを見た。
かくて、バーユー将軍が、三町ばかり進んで行つて、町の広場についたとき、向ふのお宮の方角から、黄いろな旗がひらひらして、誰かこつちへやつてくる。これはたしかに知らせが行つて、王から迎ひが来たのである。
ソン将軍は馬をとめ、ひたひに高く手をかざし、よくよくそれを見きはめて、それから俄かに一礼し、急いで、馬を降りようとした。ところが馬を降りれない、もう将軍の両足は、しつかり馬の鞍につき、鞍はこんどは、がつしりと馬の背中にくつついて、もうどうしてもはなれない。さすが豪気の将軍も、すつかりあわてて赤くなり、口をびくびく横に曲げ、一生けん命、はね下りようとするのだが、どうにもからだがうごかなかつた。あゝこれこそじつに将軍が、三十年も、国境の空気の乾いた砂漠のなかで、重いつとめを肩に負ひ、一度も馬を下りないために、馬とひとつになつたのだ。おまけに砂漠のまん中で、どこにも草の生えるところがなかつたために、多分はそれが将軍の顔を見付けて生えたのだらう。灰いろをしたふしぎなものがもう将軍の顔や手や、まるでいちめん生えてゐた。兵隊たちにも生えてゐた。そのうち使ひの大臣は、だんだん近くやつて来て、もうまつさきの大きな槍や、旗のしるしも見えて来た。
将軍、馬を下りなさい。王様からのお迎ひです。将軍、馬を下りなさい。向ふの列で誰か云ふ。将軍はまた手をばたばたしたが、やつぱりからだがはなれない。
ところが迎ひの大臣は、鮒よりひどい近眼だつた。わざと馬から下りないで、両手を振つて、みんなに何か命令してると考へた。
「謀叛だな。よし。引き上げろ。」さう大臣はみんなに云つた。そこで大臣一行は、くるつと馬を立て直し、黄いろな塵をあげながら、一目散に戻つて行く。ソン将軍はこれを見て肩をすぼめてため息をつき、しばらくぼんやりしてゐたが、俄かにうしろを振り向いて、軍師の長を呼び寄せた。
「おまへはすぐに鎧を脱いで、おれの刀と弓をもち、早くお宮へ行つてくれ。それから誰かにかう云ふのだ。北守将軍ソンバーユーは、あの国境の砂漠の上で、三十年のひるも夜も、馬から下りるひまがなく、たうとうからだが鞍につき、そのまた鞍が馬について、どうにもお前へ出られません。これからお医者に行きまして、やがて参内いたします。かうていねいに云つてくれ。」
軍師の長はうなづいて、すばやく鎧と兜を脱ぎ、ソン将軍の刀をもつて、一目散にかけて行く。ソン将軍はみんに云つた。
「全軍しづかに馬をおり、兜をぬいで地に座れ。ソン大将はたゞ今から、ちよつとお医者へ行つてくる。そのうち音をたてないで、じいつとやすんでゐてくれい。わかつたか。」
「わかりました。将軍」兵隊共は声をそろへて一度に叫ぶ。将軍はそれを手で制し、急いで馬に鞭うつた。たびたびペたんと砂漠に寝た、この有名な白馬は、こゝで最後の力を出し、がたがたがたがた鳴りながら、風より早くかけ出した。さて将軍は十町ばかり、夢中で馬を走らせて、大きな坂の下に来た。それから俄かにかう云つた。
「上手な医者はいつたい誰だ。」
一人の大工が返事した。
「それはリンパー先生です。」
「そのリンパーはどこに居る。」
「すぐこの坂のま上です。あの三つある旗のうち、一番左でございます。」
「よろしい、しゆう。」と将軍は、例の白馬に一鞭くれて、一気に坂をかけあがる。大工はあとでぶつぶつ云つた。
「何だ、あいつは野蛮なやつだ。ひとからものを教はつて、よろしい、しゆう とはいつたいなんだ。」
ところがバーユー将軍は、そんなことには構はない。そこらをうろうろあるいてゐる、病人たちをはね越えて、門の前まで上つてゐた。なるほど門のはしらには、小医リンパー先生と、金看板がかけてある。
三、リンパー先生
さてソンバーユー将軍は、いまやリンパー先生の、大玄関を乗り切つて、どしどし廊下へ入つて行く。さすがはリンパー病院だ、どの天井も室の扉も、高さが二丈ぐらゐある。
「医者はどこかね。診てもらひたい。」ソン将軍は号令した。
「あなたは一体何ですか。馬のまんまで入るとは、あんまり乱暴すぎませう。」萌黄の長い服を着て、頭を剃つた一人の弟子が、馬のくつわをつかまへた。
「おまへが医者のリンパーか、早くわが輩の病気を診ろ。」
「いゝえ、リンパー先生は、向ふの室に居られます。けれどもご用がおありなら、馬から下りていたゞきたい。」
「いゝや、そいつができんのぢや。馬からすぐに下りれたら、今ごろはもう王様の、前へ行つてた筈なんぢや。」
「ははあ、馬から降りられない。そいつは脚の硬直だ。そんならいゝです。おいでなさい。」
弟子は向ふの扉をあけた。ソン将軍はぱかぱかと馬を鳴らしてはひつて行つた。中には人がいつぱいで、そのまん中に先生らしい、小さな人が床几に座り、しきりに一人の眼を診てゐる。
「ひとつこつちをたのむのぢや。馬から降りられないでなう。」さう将軍はやさしく云つた。ところがリンパー先生は、見向きもしないし動きもしない。やつぱりじつと眼を見てゐる。
「おい、きみ、早くこつちを見んか。」将軍が怒鳴り出したので、病人たちはびくつとした。ところが弟子がしづかに云つた。
「診るには番がありますからな。あなたは九十六番で、いまは六人目ですから、もう九十人お待ちなさい。」
「黙れ、きさまは我輩に、七十二人待てつと云ふか。おれを誰だと考へる。北守将軍ソンバーユーだ。九万人もの兵隊を、町の広場に待たせてある。おれが一人を待つことは七万二千の兵隊が、向ふの方で待つことだ。すぐ見ないならけちらすぞ。」将軍はもう鞭をあげ馬は一いきはねあがり、病人たちは泣きだした。ところがリンパー先生は、やつぱりびくともしてゐない、てんでこつちを見もしない。その先生の右手から、黄の綾を着た娘が立つて、花瓶にさした何かの花を、一枝とつて水につけ、やさしく馬につきつけた。馬はぱくつとそれを噛み、大きな息を一つして、ぺたんと四つ脚を折り、今度はごうごういびきをかいて、首を落してねむつてしまふ。ソン将軍はまごついた。
「あ、馬のやつ、又参つたな。困つた。困つた。困つた。」と云つて、急いで鎧のかくしから、塩の袋をとりだして、馬に喰べさせようとする。
「おい、起きんかい。あんまり情けないやつだ。あんなにひどく難儀して、やつと都に帰つて来ると、すぐ気がゆるんで死ぬなんて、ぜんたいどういふ考なのか。こら、起きんかい。起きんかい。しつ、ふう、どう、おい、この塩を、ほんの一口たべんかい。」それでも馬は、やつぱりぐうぐうねむつてゐる。ソン将軍はたうとう泣いた。
「おい、きみ、わしはとにかくに、馬だけどうかみてくれたまへ。こいつは北の国境で、三十年もはたらいたのだ。」
むすめはだまつて笑つてゐたが、このときリンパー先生が、いきなりこつちを振り向いて、まるで将軍の胸底から、馬の頭も見徹すやうな、するどい眼をしてしづかに云つた。
「馬はまもなく治ります。あなたの病気をしらべるために、馬を座らせただけです。あなたはそれで向ふの方で、何か病気をしましたか。」
「いゝや、病気はしなかつた。病気は別にしなかつたが、狐のために欺されて、どうもときどき困つたぢや。」
「それは、どういふ風ですか。」
「向ふの狐はいかんのぢや。十万近い軍勢を、たゞ一ぺんに欺すんぢや。夜に沢山火をともしたり、昼間いきなり破漠の上に、大きな海をこしらへて、城や何かも出したりする。全くたちが悪いんぢや。」
「それを狐がしますのですか。」
「狐とそれから、砂鶻ぢやね、砂鶻というて鳥なんぢや。こいつは人の居らないときは、高い処を飛んでゐて、誰かを見ると試しに来る。馬のしつぽを抜いたりね。目をねらつたりするもんで、こいつがでたらもう馬は、がたがたふるへてようあるかんね。」
「そんなら一ペん欺されると、何日ぐらゐでよくなりますか。」
「まあ四日ぢやね。五日のときもあるやうぢや。」
「それであなたは今までに、何べんぐらゐ欺されました?」
「ごく少くて十ぺんぢやらう。」
「それではお尋ねいたします。百と百とを加へると答はいくらになりますか。」
「百八十ぢや。」
「それでは二百と二百では。」
「さやう、三百六十だらう。」
「そんならも一つ伺ひますが、十の二倍は何ほどですか。」
「それはもちろん十八ぢや。」
「なるほど、すつかりわかりました。あなたは今でもまだ少し、砂漠のためにつかれてゐます。つまり十パーセントです。それではなほしてあげませう。」
パー先生は両手をふつて、弟子にしたくを云ひ付けた。弟子は大きな銅鉢に、何かの薬をいつぱい盛つて、布巾を添へて持つて来た。ソン将軍は両手を出して鉢をきちんと受けとつた。パー先生は片袖まくり、布巾に薬をいつぱいひたし、かぶとの上からざぶざぶかけて、両手でそれをゆすぶると、兜はすぐにすぱりととれた。弟子がも一人、もひとつ別の銅鉢へ、別の薬をもつてきた。そこでリンパー先生は、別の薬でじやぶじやぶ洗ふ。雫はまるでまつ黒だ。ソン将軍は心配さうに、うつむいたまゝ訊いてゐる。
「どうかね、馬は大丈夫かね。」
「もうぢきです。」とパー先生は、つゞけてじやぶじやぶ洗つてゐる。雫がだんだん茶いろになつて、それからうすい黄いろになつた。それからたうとうもう色もなく、ソン将軍の白髪は、熊より白く輝いた。そこでリンパー先生は、布巾を捨てて両手を洗ひ、弟子は頭と顔を拭く。将軍はぶるつと身ぶるひして、馬にきちんと起きあがる。
「どうです、せいせいしたでせう。ところで百と百とをたすと、答はいくらになりますか。」
「もちろんそれは二百だらう。」
「そんなら二百と二百とたせば。」
「さやう、四百にちがひない。」
「十の二倍はどれだけですか。」
「それはもちろん二十ぢやな。」さつきのことは忘れた風で、ソン将軍はけろりと云ふ。
「すつかりおなほりなりました。つまり頭の目がふさがつて、一割いけなかつたのですな。」
「いやいや、わしは勘定などの、十や二十はどうでもいいんぢや。それは算師がやるでなう。わしは早速この馬と、わしをはなしてもらひたいんぢや。」
「なるほどそれはあなたの足を、あなたの服と引きはなすのは、すぐ私に出来るです。いやもう離れてゐる筈です。けれども、ずぼんが鞍につき、鞍がまた馬についたのを、はなすといふのは別ですな。それはとなりで、私の弟がやつてゐますから、そつちへおいでいただきます。それにいつたいこの馬もひどい病気にかかつてゐます。」
「そんならわしの顔から生えた、このもじやもじやはどうぢやらう。」
「そちらもやつぱり向ふです。とにかくひとつとなりの方へ、弟子をお供に出しませう。」
「それではそつちへ行くとしよう。ではさやうなら。」
さつきの白いきものをつけた、むすめが馬の右耳に、息を一つ吹き込んだ。馬はがばつとはねあがり、ソン将軍は俄かに背が高くなる、将軍は馬のたづなをとり、弟子とならんで室を出る。それから庭をよこぎつて厚い土塀の前に来た。小さな潜りがあいてゐる。
「いま裏門をあけさせませう。」助手は潜りを入つて行く。
「いゝや、それには及ばない。わたしの馬はこれぐらゐ、まるで何とも思つてやしない。」
将軍は馬にむちをやる。
ぎつ、ばつ、ふう。馬は土塀をはね越えて、となりのリンプー先生の、けしのはたけをめちやくちやに、踏みつけながら立つてゐた。
四、馬医リンブー先生
ソン将軍が、お医者の弟子と、けしの畑をふみつけて向ふの方へ歩いて行くと、もうあつちからもこつちからも、ぶるるるふうといふやうな、馬の仲間の声がする。そして二人が正面の、巨きな棟にはひつて行くと、もう四方から馬どもが、二十疋もかけて来て、蹄をことこと鳴らしたり、頭をぶらぶらしたりして、将軍の馬に挨拶する。
向ふでリンプー先生は、首のまがつた茶いろの馬に、白い薬を塗つてゐる。さつきの弟子が進んで行つて、ちよつと何かをさゝやくと、馬医のリンプー先生は、わらつてこつちをふりむいた。巨きな鉄の胸甲を、がつしりはめてゐることは、ちやうどやつぱり鎧のやうだ。馬にけられぬためらしい。将軍はすぐその前へ、じぶんの馬を乗りつけた。
「あなたがリンプー先生か。わしは将軍ソンバーユーぢや。何分ひとつたのみたい。」
「いや、その由を伺ひました。あなたのお馬はたしか三十九ぐらゐですな。」
「四捨五入して、さうぢや、やつぱり三十九ぢやな。」
「ははあ、たゞいま手術いたします。あなたは馬の上に居て、すこし煙いかしれません。それをご承知くださいますか。」
「煙い? なんのどうして煙ぐらゐ、砂漠で風の吹くときは、一分間に四十五以上、馬を跳躍させるんぢや。それを三つも、やすんだら、もう頭まで埋まるんぢや。」
「ははあ、それではやりませう。おい、フーシユ。」プー先生は弟子を呼ぶ。弟子はおじぎを一つして、小さな壺をもつて来た。プー先生は蓋をとり、何か茶いろな薬を出して、馬の眼に塗りつけた。それから「フーシユ」とまた呼んだ。弟子はおじぎを一つして、となりの室へ入つて行つて、しばらくごとごとしてゐたが、まもなく赤い小さな餅を、皿にのつけて帰つて来た。先生はそれをつまみあげ、しばらく指ではさんだり、匂をかいだりしてゐたが、何か決心したらしく、馬にぱくりと喰べさせた。ソン将軍は、その白馬の上に居て、待ちくたびれてあくびをした。すると俄かに白馬は、がたがたがたがたふるへ出しそれからからだ一面に、あせとけむりを噴き出した。プー先生はこはさうに、遠くへ行つてながめてゐる。がたがたがたがた鳴りながら、馬はけむりをつゞけて噴いた。そのまた煙が無暗に辛い。ソン将軍も、はじめは我慢してゐたが、たうとう両手を眼にあてて、ごほんごほんとせきをした。そのうちだんだんけむりは消えてこんどは、汗が滝よりひどくながれだす。プー先生は近くへよつて、両手をちよつと鞍にあて、二つつばかりゆすぶつた。
たちまち鞍はすぱりとはなれ、はずみを食つた将軍は、床にすとんと落された。ところがさすが将軍だ。いつかきちんと立つてゐる。おまけに鞍と将軍も、もうすつかりとはなれてゐて、将軍はまがつた両足を、両手でぱしやぱしや叩いたし、馬は俄かに荷がなくなつて、さも見当がつかないらしく、せなかをゆらゆらゆすぶつた。するとバーユー将軍はこんどは馬のはうきのやうなしつぽを持つて、いきなりぐつと引つ張つた。すると何やらまつ白な、尾の形した塊が、ごとりと床にころがり落ちた。馬はいかにも軽さうに、いまは全く毛だけになつたしつぼを、ふさふさ振つてゐる。弟子が三人集つて、馬のからだをすつかりふいた。
「もういゝだらう。歩いてごらん。」
馬はしづかに歩きだす。あんなにぎちぎち軋んだ膝がいまではすつかり鳴らなくなつた。プー先生は手をあげて、馬をこつちへ呼び戻し、おじぎを一つ将軍にした。
「いや謝しますぢや。それではこれで。」将軍は、急いで馬に鞍を置き、ひらりとそれにまたがれば、そこらあたりの病気の馬は、ひんひん別れの挨拶をする。ソン将軍は室を出て塀をひらりと飛び越えて、となりのリンポー先生の、菊のはたけに飛び込んだ。
五、リンポー先生
さてもリンポー先生の、草木を治すその室は、林のやうなものだつた。あらゆる種類の木や花が、そこらいつぱいならべてあつて、どれにもみんな金だの銀の、巨きな札がついてゐる。そこを、バーユー将軍は、馬から下りて、ゆつくりと、ポー先生の前へ行く。さつきの弟子がさきまはりして、すつかり談してゐたらしく、ポー先生は薬の函と大きな赤い団扇をもつて、ごくうやうやしく待つてゐた。ソン将軍は手をあげて、
「これぢや。」と顔を指さした。ポー先生は黄いろな粉を、薬函から取り出して、ソン将軍の顔から肩へ、もういつぱいにふりかけて、それから例のうちはをもつて、ばたばたばたばた扇ぎ出す。するとたちまち、将軍の、顔ぢゆうの毛はまつ赤に変り、みんなふはふは飛び出して、見てゐるうちに将軍は、すつかり顔がつるつるなつた。じつにこのとき将軍は、三十年ぶりにつこりした。
「それではこれで行きますぢや。からだもかるくなつたでなう。」もう将軍はうれしくて、はやてのやうに室を出て、おもての馬に飛び乗れば、馬はたちまち病院の、巨きな門を外に出た。あとから弟子が六人で、兵隊たちの顔から生えた灰いろの毛をとるために、薬の袋とうちはをもつて、ソン将軍を追ひかけた。
六、北守将軍仙人となる
さてソンバーユー将軍は、ポー先生の玄関を、光のやうに飛び出して、となりのリンプー病院を、はやてのごとく通り過ぎ、次のリンパー病院を、斜めに見ながらもう一散に、さつきの坂をかけ下りる。馬は五倍も速いので、もう向ふには兵隊たちの、やすんでゐるのが見えてきた。兵隊たちは心配さうにこつちの方を見てゐたのだが、思はず歓呼の声をあげ、みんな一緒に立ちあがる。そのときお宮の方からはさつきの使ひの軍師の長が一目散にかけて来た。
「あゝ、王様は、すつかりおわかりなりました。あなたのことをおききになつて、おん涙さへ浮べられ、お出でをお待ちでございます。」
そこへさつきの弟子たちが、薬をもつてやつてきた。兵隊たちはよろこんで、粉をふつてはばたばた扇ぐ。そこで九万の軍隊は、もう輪廓もはつきりなつた。
将軍は高く号令した。
「馬にまたがり、気をつけいつ。」
みんなが馬にまたがれば、まもなくそこらはしんとして、たつた二疋の遅れた馬が、鼻をぶるつと鳴らしただけだ。
「前へ進めつ。」太鼓も銅鑼も鳴り出して、軍は粛々行進した。
やがて九万の兵隊は、お宮の前の一里の庭に縦横ちやうど三百人、四角な陣をこしらへた。
ソン将軍は馬を降り、しづかに壇をのぼつて行つて床に額をすりつけた。王はしづかに斯ういつた。
「じつに永らくご苦労だつた。これからはもうこゝに居て、大将たちの大将として、なほ忠勤をはげんでくれ。」
北守将軍ソンバーユーは涙を垂れてお答へした。
「おことばまことに畏くて、何とお答へいたしていゝか、とみに言葉も出でませぬ。とは云へいまや私は、生きた骨ともいふやうな、役に立たずでございます。砂漠の中に居ました間、どこから敵が見てゐるか、あなどられまいと考へて、いつでもりんと胸を張り、眼を見開いて居りましたのが、いま王様のお前に出て、おほめの詞をいたゞきますと、俄かに眼さへ見えぬやう。背骨も曲つてしまひます。何卒これでお暇を願ひ、郷里に帰りたうございます。」
「それでは誰かおまへの代り、大将五人の名を挙げよ。」
そこでバーユー将軍は、大将四人の名をあげた。そして残りの一人の代り、リン兄弟の三人を国のお医者におねがひした。王は早速許されたので、その場でバーユー将軍は、鎧もぬげば兜もぬいで、かさかさ薄い麻を着た。そしてじぶんの生れた村のス山の麓へ帰つて行つて、粟をすこうし播いたりした。それから粟の間引きもやつた。けれどもそのうち将軍は、だんだんものを食はなくなつてせつかくじぶんで播いたりした、粟も一口たべただけ、水をがぶがぶ呑んでゐた。ところが秋の終りになると、水もさつぱり呑まなくなつて、ときどき空を見上げては何かしやつくりするやうなきたいな形をたびたびした。
そのうちいつか将軍は、どこにも形が見えなくなつた。そこでみんなは将軍さまは、もう仙人になつたと云つて、ス山の山のいたゞきへ小さなお堂をこしらへて、あの白馬は神馬に祭り、あかしや粟をさゝげたり、麻ののぼりをたてたりした。
けれどもこのとき国手になつた例のリンパー先生は、会ふ人ごとに斯ういつた。
「どうして、バーユー将軍が、雲だけ食つた筈はない。おれはバーユー将軍の、からだをよくみて知つてゐる。肺と胃の腑は同じでない。きつとどこかの林の中に、お骨があるにちがひない。」なるほどさうかもしれないと思つた人もたくさんあつた。
底本:「新修宮沢賢治全集 第十三巻」筑摩書房
1980(昭和55)年3月15日初版第1刷発行
1983(昭和58)年6月30日初版第5刷発行
初出:「児童文学 第一冊」
1931(昭和6)年7月20日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2003年9月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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