浮雲
二葉亭四迷
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浮雲はしがき
薔薇の花は頭に咲て活人は絵となる世の中独り文章而已は黴の生えた陳奮翰の四角張りたるに頬返しを附けかね又は舌足らずの物言を学びて口に涎を流すは拙しこれはどうでも言文一途の事だと思立ては矢も楯もなく文明の風改良の熱一度に寄せ来るどさくさ紛れお先真闇三宝荒神さまと春のや先生を頼み奉り欠硯に朧の月の雫を受けて墨摺流す空のきおい夕立の雨の一しきりさらさらさっと書流せばアラ無情始末にゆかぬ浮雲めが艶しき月の面影を思い懸なく閉籠て黒白も分かぬ烏夜玉のやみらみっちゃな小説が出来しぞやと我ながら肝を潰してこの書の巻端に序するものは
明治丁亥初夏
浮雲第一篇序
古代の未だ曾て称揚せざる耳馴れぬ文句を笑うべきものと思い又は大体を評し得ずして枝葉の瑕瑾のみをあげつらうは批評家の学識の浅薄なるとその雅想なきを示すものなりと誰人にやありけん古人がいいぬ今や我国の文壇を見るに雅運日に月に進みたればにや評論家ここかしこに現われたれど多くは感情の奴隷にして我好む所を褒め我嫌うところを貶すその評判の塩梅たる上戸の酒を称し下戸の牡丹餅をもてはやすに異ならず淡味家はアライを可とし濃味家は口取を佳とす共に真味を知る者にあらず争でか料理通の言なりというべき就中小説の如きは元来その種類さまざまありて辛酸甘苦いろいろなるを五味を愛憎する心をもて頭くだしに評し去るは豈に心なきの極ならずや我友二葉亭の大人このたび思い寄る所ありて浮雲という小説を綴りはじめて数ならぬ主人にも一臂をかすべしとの頼みありき頼まれ甲斐のあるべくもあらねど一言二言の忠告など思いつくままに申し述べてかくて後大人の縦横なる筆力もて全く綴られしを一閲するにその文章の巧なる勿論主人などの及ぶところにあらず小説文壇に新しき光彩を添なんものは蓋しこの冊子にあるべけれと感じて甚だ僭越の振舞にはあれど只所々片言隻句の穩かならぬふしを刪正して竟に公にすることとなりぬ合作の名はあれどもその実四迷大人の筆に成りぬ文章の巧なる所趣向の面白き所は総て四迷大人の骨折なり主人の負うところはひとり僭越の咎のみ読人乞うその心してみそなわせ序ながら彼の八犬伝水滸伝の如き規摸の目ざましきを喜べる目をもてこの小冊子を評したまう事のなからんには主人は兎も角も二葉亭の大人否小説の霊が喜ぶべしと云爾
第二十年夏
第一編
第一回 アアラ怪しの人の挙動
千早振る神無月ももはや跡二日の余波となッた二十八日の午後三時頃に、神田見附の内より、塗渡る蟻、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよ沸出でて来るのは、孰れも顋を気にし給う方々。しかし熟々見て篤と点撿すると、これにも種々種類のあるもので、まず髭から書立てれば、口髭、頬髯、顋の鬚、暴に興起した拿破崙髭に、狆の口めいた比斯馬克髭、そのほか矮鶏髭、貉髭、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡くもいろいろに生分る。髭に続いて差いのあるのは服飾。白木屋仕込みの黒物ずくめには仏蘭西皮の靴の配偶はありうち、これを召す方様の鼻毛は延びて蜻蛉をも釣るべしという。これより降っては、背皺よると枕詞の付く「スコッチ」の背広にゴリゴリするほどの牛の毛皮靴、そこで踵にお飾を絶さぬところから泥に尾を曳く亀甲洋袴、いずれも釣しんぼうの苦患を今に脱せぬ貌付。デモ持主は得意なもので、髭あり服あり我また奚をか覔めんと済した顔色で、火をくれた木頭と反身ッてお帰り遊ばす、イヤお羨しいことだ。その後より続いて出てお出でなさるは孰れも胡麻塩頭、弓と曲げても張の弱い腰に無残や空弁当を振垂げてヨタヨタものでお帰りなさる。さては老朽してもさすがはまだ職に堪えるものか、しかし日本服でも勤められるお手軽なお身の上、さりとはまたお気の毒な。
途上人影の稀れに成った頃、同じ見附の内より両人の少年が話しながら出て参った。一人は年齢二十二三の男、顔色は蒼味七分に土気三分、どうも宜しくないが、秀た眉に儼然とした眼付で、ズーと押徹った鼻筋、唯惜かな口元が些と尋常でないばかり。しかし締はよさそうゆえ、絵草紙屋の前に立っても、パックリ開くなどという気遣いは有るまいが、とにかく顋が尖って頬骨が露れ、非道く癯れている故か顔の造作がとげとげしていて、愛嬌気といったら微塵もなし。醜くはないが何処ともなくケンがある。背はスラリとしているばかりで左而已高いという程でもないが、痩肉ゆえ、半鐘なんとやらという人聞の悪い渾名に縁が有りそうで、年数物ながら摺畳皺の存じた霜降「スコッチ」の服を身に纏ッて、組紐を盤帯にした帽檐広な黒羅紗の帽子を戴いてい、今一人は、前の男より二ツ三ツ兄らしく、中肉中背で色白の丸顔、口元の尋常な所から眼付のパッチリとした所は仲々の好男子ながら、顔立がひねてこせこせしているので、何となく品格のない男。黒羅紗の半「フロックコート」に同じ色の「チョッキ」、洋袴は何か乙な縞羅紗で、リュウとした衣裳附、縁の巻上ッた釜底形の黒の帽子を眉深に冠り、左の手を隠袋へ差入れ、右の手で細々とした杖を玩物にしながら、高い男に向い、
「しかしネー、若し果して課長が我輩を信用しているなら、蓋し已むを得ざるに出でたんだ。何故と言ッて見給え、局員四十有余名と言やア大層のようだけれども、皆腰の曲ッた老爺に非ざれば気の利かない奴ばかりだろう。その内で、こう言やア可笑しい様だけれども、若手でサ、原書も些たア噛っていてサ、そうして事務を取らせて捗の往く者と言ったら、マア我輩二三人だ。だから若し果して信用しているのなら、已を得ないのサ」
「けれども山口を見給え、事務を取らせたらあの男程捗の往く者はあるまいけれども、やっぱり免を喰ったじゃアないか」
「彼奴はいかん、彼奴は馬鹿だからいかん」
「何故」
「何故と言って、彼奴は馬鹿だ、課長に向って此間のような事を言う所を見りゃア、弥馬鹿だ」
「あれは全体課長が悪いサ、自分が不条理な事を言付けながら、何にもあんなに頭ごなしにいうこともない」
「それは課長の方が或は不条理かも知れぬが、しかし苟も長官たる者に向って抵抗を試みるなぞというなア、馬鹿の骨頂だ。まず考えて見給え、山口は何んだ、属吏じゃアないか。属吏ならば、仮令い課長の言付を条理と思ったにしろ思わぬにしろ、ハイハイ言ってその通り処弁して往きゃア、職分は尽きてるじゃアないか。然るに彼奴のように、苟も課長たる者に向ってあんな差図がましい事を……」
「イヤあれは指図じゃアない、注意サ」
「フム乙う山口を弁護するネ、やっぱり同病相憐れむのか、アハアハアハ」
高い男は中背の男の顔を尻眼にかけて口を鉗んでしまッたので談話がすこし中絶れる。錦町へ曲り込んで二ツ目の横町の角まで参った時、中背の男は不図立止って、
「ダガ君の免を喰たのは、弔すべくまた賀すべしだぜ」
「何故」
「何故と言って、君、これからは朝から晩まで情婦の側にへばり付いている事が出来らアネ。アハアハアハ」
「フフフン、馬鹿を言給うな」
ト高い男は顔に似気なく微笑を含み、さて失敬の挨拶も手軽るく、別れて独り小川町の方へ参る。顔の微笑が一かわ一かわ消え往くにつれ、足取も次第々々に緩かになって、終には虫の這う様になり、悄然と頭をうな垂れて二三町程も参ッた頃、不図立止りて四辺を回顧し、駭然として二足三足立戻ッて、トある横町へ曲り込んで、角から三軒目の格子戸作りの二階家へ這入る。一所に這入ッて見よう。
高い男は玄関を通り抜けて縁側へ立出ると、傍の坐舗の障子がスラリ開いて、年頃十八九の婦人の首、チョンボリとした摘ッ鼻と、日の丸の紋を染抜いたムックリとした頬とで、その持主の身分が知れるという奴が、ヌット出る。
「お帰なさいまし」
トいって、何故か口舐ずりをする。
「叔母さんは」
「先程お嬢さまと何処らへか」
「そう」
ト言捨てて高い男は縁側を伝って参り、突当りの段梯子を登ッて二階へ上る。ここは六畳の小坐舗、一間の床に三尺の押入れ付、三方は壁で唯南ばかりが障子になッている。床に掛けた軸は隅々も既に虫喰んで、床花瓶に投入れた二本三本の蝦夷菊は、うら枯れて枯葉がち。坐舗の一隅を顧みると古びた机が一脚据え付けてあッて、筆、ペン、楊枝などを掴挿しにした筆立一個に、歯磨の函と肩を比べた赤間の硯が一面載せてある。机の側に押立たは二本立の書函、これには小形の爛缶が載せてある。机の下に差入れたは縁の欠けた火入、これには摺附木の死体が横ッている。その外坐舗一杯に敷詰めた毛団、衣紋竹に釣るした袷衣、柱の釘に懸けた手拭、いずれを見ても皆年数物、その証拠には手擦れていて古色蒼然たり。だが自ら秩然と取旁付ている。
高い男は徐かに和服に着替え、脱棄てた服を畳みかけて見て、舌鼓を撃ちながらそのまま押入へへし込んでしまう。ところへトパクサと上ッて来たは例の日の丸の紋を染抜いた首の持主、横幅の広い筋骨の逞しい、ズングリ、ムックリとした生理学上の美人で、持ッて来た郵便を高い男の前に差置いて、
「アノー先刻この郵便が」
「ア、そう、何処から来たんだ」
ト郵便を手に取って見て、
「ウー、国からか」
「アノネ貴君、今日のお嬢さまのお服飾は、ほんとにお目に懸けたいようでしたヨ。まずネ、お下着が格子縞の黄八丈で、お上着はパッとした宜引縞の糸織で、お髪は何時ものイボジリ捲きでしたがネ、お掻頭は此間出雲屋からお取んなすったこんな」
と故意々々手で形を拵らえて見せ、
「薔薇の花掻頭でネ、それはそれはお美しゅう御座いましたヨ……私もあんな帯留が一ツ欲しいけれども……」
ト些し塞いで、
「お嬢さまはお化粧なんぞはしないと仰しゃるけれども、今日はなんでも内々で薄化粧なすッたに違いありませんヨ。だってなんぼ色がお白ッてあんなに……私も家にいる時分はこれでもヘタクタ施けたもんでしたがネ、此家へ上ッてからお正月ばかりにして不断は施けないの、施けてもいいけれども御新造さまの悪口が厭ですワ、だッて何時かもお客様のいらッしゃる前で、『鍋のお白粉を施けたとこは全然炭団へ霜が降ッたようで御座います』ッて……余りじゃア有りませんか、ネー貴君、なんぼ私が不器量だッて余りじゃアありませんか」
ト敵手が傍にでもいるように、真黒になってまくしかける。高い男は先程より、手紙を把ッては読かけ読かけてはまた下へ措きなどして、さも迷惑な体。この時も唯「フム」と鼻を鳴らした而已で更に取合わぬゆえ、生理学上の美人はさなくとも罅壊れそうな両頬をいとど膨脹らして、ツンとして二階を降りる。その後姿を目送ッて高い男はホット顔、また手早く手紙を取上げて読下す。その文言に
一筆示し〓(「参らせ候」のくずし字)、さても時こうがら日増しにお寒う相成り候えども御無事にお勤め被成候や、それのみあんじくらし〓(「参らせ候」のくずし字)、母事もこの頃はめっきり年をとり、髪の毛も大方は白髪になるにつき心まで愚痴に相成候と見え、今年の晩には御地へ参られるとは知りつつも、何とのう待遠にて、毎日ひにち指のみ折暮らし〓(「参らせ候」のくずし字)、どうぞどうぞ一日も早うお引取下されたく念じ〓(「参らせ候」のくずし字)、さる二十四日は父上の……
と読みさして覚えずも手紙を取落し、腕を組んでホット溜息。
第二回 風変りな恋の初峯入 上
高い男と仮に名乗らせた男は、本名を内海文三と言ッて静岡県の者で、父親は旧幕府に仕えて俸禄を食だ者で有ッたが、幕府倒れて王政古に復り時津風に靡かぬ民草もない明治の御世に成ッてからは、旧里静岡に蟄居して暫らくは偸食の民となり、為すこともなく昨日と送り今日と暮らす内、坐して食えば山も空しの諺に漏れず、次第々々に貯蓄の手薄になるところから足掻き出したが、さて木から落ちた猿猴の身というものは意久地の無い者で、腕は真陰流に固ッていても鋤鍬は使えず、口は左様然らばと重く成ッていて見れば急にはヘイの音も出されず、といって天秤を肩へ当るも家名の汚れ外聞が見ッとも宜くないというので、足を擂木に駈廻ッて辛くして静岡藩の史生に住込み、ヤレ嬉しやと言ッたところが腰弁当の境界、なかなか浮み上る程には参らぬが、デモ感心には多も無い資本を吝まずして一子文三に学問を仕込む。まず朝勃然起る、弁当を背負わせて学校へ出て遣る、帰ッて来る、直ちに傍近の私塾へ通わせると言うのだから、あけしい間がない。とても余所外の小供では続かないが、其処は文三、性質が内端だけに学問には向くと見えて、余りしぶりもせずして出て参る。尤も途に蜻蛉を追う友を見てフト気まぐれて遊び暮らし、悄然として裏口から立戻ッて来る事も無いではないが、それは邂逅の事で、ママ大方は勉強する。その内に学問の味も出て来る、サア面白くなるから、昨日までは督責されなければ取出さなかッた書物をも今日は我から繙くようになり、随ッて学業も進歩するので、人も賞讃せば両親も喜ばしく、子の生長にその身の老るを忘れて春を送り秋を迎える内、文三の十四という春、待に待た卒業も首尾よく済だのでヤレ嬉しやという間もなく、父親は不図感染した風邪から余病を引出し、年比の心労も手伝てドット床に就く。薬餌、呪、加持祈祷と人の善いと言う程の事を為尽して見たが、さて験も見えず、次第々々に頼み少なに成て、遂に文三の事を言い死にはかなく成てしまう。生残た妻子の愁傷は実に比喩を取るに言葉もなくばかり、「嗟矣幾程歎いても仕方がない」トいう口の下からツイ袖に置くは泪の露、漸くの事で空しき骸を菩提所へ送りて荼毘一片の烟と立上らせてしまう。さて掙人が没してから家計は一方ならぬ困難、薬礼と葬式の雑用とに多もない貯叢をゲッソリ遣い減らして、今は残り少なになる。デモ母親は男勝りの気丈者、貧苦にめげない煮焚の業の片手間に一枚三厘の襯衣を縫けて、身を粉にして掙了ぐに追付く貧乏もないか、どうかこうか湯なり粥なりを啜て、公債の利の細い烟を立てている。文三は父親の存生中より、家計の困難に心附かぬでは無いが、何と言てもまだ幼少の事、何時までもそれで居られるような心地がされて、親思いの心から、今に坊がああしてこうしてと、年齢には増せた事を言い出しては両親に袂を絞らせた事は有ても、又何処ともなく他愛のない所も有て、浪に漂う浮艸の、うかうかとして月日を重ねたが、父の死後便のない母親の辛苦心労を見るに付け聞くに付け、小供心にも心細くもまた悲しく、始めて浮世の塩が身に浸みて、夢の覚たような心地。これからは給事なりともして、母親の手足にはならずとも責めて我口だけはとおもう由をも母に告げて相談をしていると、捨る神あれば助る神ありで、文三だけは東京に居る叔父の許へ引取られる事になり、泣の泪で静岡を発足して叔父を便って出京したは明治十一年、文三が十五に成た春の事とか。
叔父は園田孫兵衛と言いて、文三の亡父の為めには実弟に当る男、慈悲深く、憐ッぽく、しかも律義真当の気質ゆえ人の望けも宜いが、惜かな些と気が弱すぎる。維新後は両刀を矢立に替えて、朝夕算盤を弾いては見たが、慣れぬ事とて初の内は損毛ばかり、今日に明日にと喰込で、果は借金の淵に陥まり、どうしようこうしようと足掻き踠いている内、不図した事から浮み上て当今では些とは資本も出来、地面をも買い小金をも貸付けて、家を東京に持ちながら、その身は浜のさる茶店の支配人をしている事なれば、左而已富貴と言うでもないが、まず融通のある活計。留守を守る女房のお政は、お摩りからずるずるの後配、歴とした士族の娘と自分ではいうが……チト考え物。しかしとにかく如才のない、世辞のよい、地代から貸金の催促まで家事一切独で切って廻る程あって、万事に抜目のない婦人。疵瑕と言ッては唯大酒飲みで、浮気で、しかも針を持つ事がキツイ嫌いというばかり。さしたる事もないが、人事はよく言いたがらぬが世の習い、「あの婦人は裾張蛇の変生だろう」ト近辺の者は影人形を使うとか言う。夫婦の間に二人の子がある。姉をお勢と言ッて、その頃はまだ十二の蕾、弟を勇と言ッて、これもまた袖で鼻汁拭く湾泊盛り(これは当今は某校に入舎していて宅には居らぬので)、トいう家内ゆえ、叔母一人の機に入ればイザコザは無いが、さて文三には人の機嫌気褄を取るなどという事は出来ぬ。唯心ばかりは主とも親とも思ッて善く事えるが、気が利かぬと言ッては睨付けられる事何時も何時も、その度ごとに親の難有サが身に染み骨に耐えて、袖に露を置くことは有りながら、常に自ら叱ッてジット辛抱、使歩行きをする暇には近辺の私塾へ通学して、暫らく悲しい月日を送ッている。ト或る時、某学校で生徒の召募があると塾での評判取り取り、聞けば給費だという。何も試しだと文三が試験を受けて見たところ、幸いにして及第する、入舎する、ソレ給費が貰える。昨日までは叔父の家とは言いながら食客の悲しさには、追使われたうえ気兼苦労而已をしていたのが、今日は外に掣肘る所もなく、心一杯に勉強の出来る身の上となったから、ヤ喜んだの喜ばないのと、それはそれは雀躍までして喜んだが、しかし書生と言ッてもこれもまた一苦界。固より余所外のおぼッちゃま方とは違い、親から仕送りなどという洒落はないから、無駄遣いとては一銭もならず、また為ようとも思わずして、唯一心に、便のない一人の母親の心を安めねばならぬ、世話になった叔父へも報恩をせねばならぬ、と思う心より、寸陰を惜んでの刻苦勉強に学業の進みも著るしく、何時の試験にも一番と言ッて二番とは下らぬ程ゆえ、得難い書生と教員も感心する。サアそうなると傍が喧ましい。放蕩と懶惰とを経緯の糸にして織上たおぼッちゃま方が、不負魂の妬み嫉みからおむずかり遊ばすけれども、文三はそれ等の事には頓着せず、独りネビッチョ除け物と成ッて朝夕勉強三昧に歳月を消磨する内、遂に多年蛍雪の功が現われて一片の卒業証書を懐き、再び叔父の家を東道とするように成ッたからまず一安心と、それより手を替え品を替え種々にして仕官の口を探すが、さて探すとなると無いもので、心ならずも小半年ばかり燻ッている。その間始終叔母にいぶされる辛らさ苦しさ、初は叔母も自分ながらけぶそうな貌をして、やわやわ吹付けていたからまず宜ッたが、次第にいぶし方に念が入ッて来て、果は生松葉に蕃椒をくべるように成ッたから、そのけぶいことこの上なし。文三も暫らくは鼻をも潰していたれ、竟には余りのけぶさに堪え兼て噎返る胸を押鎮めかねた事も有ッたが、イヤイヤこれも自分が不甲斐ないからだと、思い返してジット辛抱。そういうところゆえ、その後或人の周旋で某省の准判任御用係となッた時は天へも昇る心地がされて、ホッと一息吐きは吐いたが、始て出勤した時は異な感じがした。まず取調物を受取って我坐になおり、さて落着て居廻りを視回すと、仔細らしく頸を傾けて書物をするもの、蚤取眼になって校合をするもの、筆を啣えて忙し気に帳簿を繰るものと種々さまざま有る中に、ちょうど文三の真向うに八字の浪を額に寄せ、忙しく眼をしばたたきながら間断もなく算盤を弾いていた年配五十前後の老人が、不図手を止めて珠へ指ざしをしながら、「エー六五七十の二……でもなしとエー六五」ト天下の安危この一挙に在りと言ッた様な、さも心配そうな顔を振揚げて、その癖口をアンゴリ開いて、眼鏡越しにジット文三の顔を見守め、「ウー八十の二か」ト一越調子高な声を振立ててまた一心不乱に弾き出す。余りの可笑しさに堪えかねて、文三は覚えずも微笑したが、考えて見れば笑う我と笑われる人と余り懸隔のない身の上。アア曾て身の油に根気の心を浸し、眠い眼を睡ずして得た学力を、こんなはかない馬鹿気た事に使うのかと、思えば悲しく情なく、我になくホット太息を吐いて、暫らくは唯茫然としてつまらぬ者でいたが、イヤイヤこれではならぬと心を取直して、その日より事務に取懸る。当座四五日は例の老人の顔を見る毎に嘆息而已していたが、それも向う境界に移る習いとかで、日を経る随に苦にもならなく成る。この月より国許の老母へは月々仕送をすれば母親も悦び、叔父へは月賦で借金済しをすれば叔母も機嫌を直す。その年の暮に一等進んで本官になり、昨年の暑中には久々にて帰省するなど、いろいろ喜ばしき事が重なれば、眉の皺も自ら伸び、どうやら寿命も長くなったように思われる。ここにチト艶いた一条のお噺があるが、これを記す前に、チョッピリ孫兵衛の長女お勢の小伝を伺いましょう。
お勢の生立の有様、生来子煩悩の孫兵衛を父に持ち、他人には薄情でも我子には眼の無いお政を母に持ッた事ゆえ、幼少の折より挿頭の花、衣の裏の玉と撫で愛まれ、何でもかでも言成次第にオイソレと仕付けられたのが癖と成ッて、首尾よくやんちゃ娘に成果せた。紐解の賀の済だ頃より、父親の望みで小学校へ通い、母親の好みで清元の稽古、生得て才溌の一徳には生覚えながら飲込みも早く、学問、遊芸、両ながら出来のよいように思われるから、母親は眼も口も一ツにして大驩び、尋ねぬ人にまで風聴する娘自慢の手前味噌、切りに涎を垂らしていた。その頃新に隣家へ引移ッて参ッた官員は家内四人活計で、細君もあれば娘もある。隣ずからの寒暄の挨拶が喰付きで、親々が心安く成るにつれ娘同志も親しくなり、毎日のように訪つ訪れつした。隣家の娘というはお勢よりは二ツ三ツ年層で、優しく温藉で、父親が儒者のなれの果だけ有ッて、小供ながらも学問が好こそ物の上手で出来る。いけ年を仕てもとかく人真似は輟められぬもの、況てや小供という中にもお勢は根生の軽躁者なれば尚更、倐忽その娘に薫陶れて、起居挙動から物の言いざままでそれに似せ、急に三味線を擲却して、唐机の上に孔雀の羽を押立る。お政は学問などという正坐ッた事は虫が好かぬが、愛し娘の為たいと思ッて為る事と、そのままに打棄てて置く内、お勢が小学校を卒業した頃、隣家の娘は芝辺のさる私塾へ入塾することに成ッた。サアそう成るとお勢は矢も楯も堪らず、急に入塾が仕たくなる。何でもかでもと親を責がむ、寝言にまで言ッて責がむ。トいってまだ年端も往かぬに、殊にはなまよみの甲斐なき婦人の身でいながら、入塾などとは以の外、トサ一旦は親の威光で叱り付けては見たが、例の絶食に腹を空せ、「入塾が出来ない位なら生ている甲斐がない」ト溜息噛雑ぜの愁訴、萎れ返ッて見せるに両親も我を折り、それ程までに思うならばと、万事を隣家の娘に托して、覚束なくも入塾させたは今より二年前の事で。
お勢の入塾した塾の塾頭をしている婦人は、新聞の受売からグット思い上りをした女丈夫、しかも気を使ッて一飯の恩は酬いぬがちでも、睚眥の怨は必ず報ずるという蚰蜒魂で、気に入らぬ者と見れば何かにつけて真綿に針のチクチク責をするが性分。親の前でこそ蛤貝と反身れ、他人の前では蜆貝と縮まるお勢の事ゆえ、責まれるのが辛らさにこの女丈夫に取入ッて卑屈を働らく。固より根がお茶ッぴいゆえ、その風には染り易いか、忽の中に見違えるほど容子が変り、何時しか隣家の娘とは疎々しくなッた。その後英学を初めてからは、悪足掻もまた一段で、襦袢がシャツになれば唐人髷も束髪に化け、ハンケチで咽喉を緊め、鬱陶しいを耐えて眼鏡を掛け、独よがりの人笑わせ、天晴一個のキャッキャとなり済ました。然るに去年の暮、例の女丈夫は教師に雇われたとかで退塾してしまい、その手に属したお茶ッぴい連も一人去り二人去して残少なになるにつけ、お勢も何となく我宿恋しく成ッたなれど、まさかそうとも言い難ねたか、漢学は荒方出来たと拵らえて、退塾して宿所へ帰ッたは今年の春の暮、桜の花の散る頃の事で。
既に記した如く、文三の出京した頃はお勢はまだ十二の蕾、幅の狭い帯を締めて姉様を荷厄介にしていたなれど、こましゃくれた心から、「あの人はお前の御亭主さんに貰ッたのだヨ」ト坐興に言ッた言葉の露を実と汲だか、初の内ははにかんでばかりいたが、小供の馴むは早いもので、間もなく菓子一を二ツに割ッて喰べる程睦み合ッたも今は一昔。文三が某校へ入舎してからは相逢う事すら稀なれば、況て一に居た事は半日もなし。唯今年の冬期休暇にお勢が帰宅した時而已、十日ばかりも朝夕顔を見合わしていたなれど、小供の時とは違い、年頃が年頃だけに文三もよろずに遠慮勝でよそよそしく待遇して、更に打解けて物など言ッた事なし。その癖お勢が帰塾した当坐両三日は、百年の相識に別れた如く何となく心淋しかッたが……それも日数を経る随に忘れてしまッたのに、今また思い懸けなく一ッ家に起臥して、折節は狎々しく物など言いかけられて見れば、嬉しくもないが一月が復た来たようで、何にとなく賑かな心地がした。人一人殖えた事ゆえ、これはさもあるべき事ながら、唯怪しむ可きはお勢と席を同した時の文三の感情で、何時も可笑しく気が改まり、円めていた脊を引伸して頸を据え、異う済して変に片付る。魂が裳抜れば一心に主とする所なく、居廻りに在る程のもの悉く薄烟に包れて虚有縹緲の中に漂い、有るかと思えばあり、無いかと想えばない中に、唯一物ばかりは見ないでも見えるが、この感情は未だ何とも名け難い。夏の初より頼まれてお勢に英語を教授するように成ッてから、文三も些しく打解け出して、折節は日本婦人の有様、束髪の利害、さては男女交際の得失などを論ずるように成ると、不思議や今まで文三を男臭いとも思わず太平楽を並べ大風呂敷を拡げていたお勢が、文三の前では何時からともなく口数を聞かなく成ッて、何処ともなく落着て、優しく女性らしく成ッたように見えた。或一日、お勢の何時になく眼鏡を外して頸巾を取ッているを怪んで文三が尋ぬれば、「それでも貴君が、健康な者には却て害になると仰ッたものヲ」トいう。文三は覚えずも莞然、「それは至極好い事だ」ト言ッてまた莞然。
お勢の落着たに引替え、文三は何かそわそわし出して、出勤して事務を執りながらもお勢の事を思い続けに思い、退省の時刻を待詫びる。帰宅したとてもお勢の顔を見ればよし、さも無ければ落脱力抜けがする。「彼女に何したのじゃアないのかしらぬ」ト或時我を疑ッて、覚えずも顔を赧らめた。
お勢の帰宅した初より、自分には気が付かぬでも文三の胸には虫が生た。なれどもその頃はまだ小さく場取らず、胸に在ッても邪魔に成らぬ而已か、そのムズムズと蠢動く時は世界中が一所に集る如く、又この世から極楽浄土へ往生する如く、又春の日に瓊葩綉葉の間、和気香風の中に、臥榻を据えてその上に臥そべり、次第に遠り往く虻の声を聞きながら、眠るでもなく眠らぬでもなく、唯ウトウトとしているが如く、何ともかとも言様なく愉快ッたが、虫奴は何時の間にか太く逞しく成ッて、「何したのじゃアないか」ト疑ッた頃には、既に「添たいの蛇」という蛇に成ッて這廻ッていた……寧ろ難面くされたならば、食すべき「たのみ」の餌がないから、蛇奴も餓死に死んでしまいもしようが、憖に卯の花くだし五月雨のふるでもなくふらぬでもなく、生殺しにされるだけに蛇奴も苦しさに堪え難ねてか、のたうち廻ッて腸を噛断る……初の快さに引替えて、文三も今は苦しくなッて来たから、窃かに叔母の顔色を伺ッて見れば、気の所為か粋を通して見て見ぬ風をしているらしい。「若しそうなればもう叔母の許を受けたも同前……チョッ寧そ打附けに……」ト思ッた事は屡々有ッたが、「イヤイヤ滅多な事を言出して取着かれぬ返答をされては」ト思い直してジット意馬の絆を引緊め、藻に住む虫の我から苦んでいた……これからが肝腎要、回を改めて伺いましょう。
第三回 余程風変な恋の初峯入 下
今年の仲の夏、或一夜、文三が散歩より帰ッて見れば、叔母のお政は夕暮より所用あッて出たまま未だ帰宅せず、下女のお鍋も入湯にでも参ッたものか、これも留守、唯お勢の子舎に而已光明が射している。文三初は何心なく二階の梯子段を二段三段登ッたが、不図立止まり、何か切りに考えながら、一段降りてまた立止まり、また考えてまた降りる……俄かに気を取直して、将に再び二階へ登らんとする時、忽ちお勢の子舎の中に声がして、
「誰方」
トいう。
「私」
ト返答をして文三は肩を縮める。
「オヤ誰方かと思ッたら文さん……淋しくッてならないから些とお噺しにいらッしゃいな」
「エ多謝う、だがもう些と後にしましょう」
「何か御用が有るの」
「イヤ何も用はないが……」
「それじゃア宜じゃア有りませんか、ネーいらッしゃいヨ」
文三は些し躊躇て梯子段を降果てお勢の子舎の入口まで参りは参ッたが、中へとては立入らず、唯鵠立でいる。
「お這入なさいな」
「エ、エー……」
ト言ッたまま文三は尚お鵠立でモジモジしている、何か這入りたくもあり這入りたくもなしといった様な容子。
「何故貴君、今夜に限ッてそう遠慮なさるの」
「デモ貴嬢お一人ッきりじゃア……なんだか……」
「オヤマア貴君にも似合わない……アノ何時か、気が弱くッちゃア主義の実行は到底覚束ないと仰しゃッたのは何人だッけ」
ト螓の首を斜に傾しげて嫣然片頬に含んだお勢の微笑に釣られて、文三は部屋へ這入り込み坐に着きながら、
「そう言われちゃア一言もないが、しかし……」
「些とお遣いなさいまし」
トお勢は団扇を取出して文三に勧め、
「しかしどうしましたと」
「エ、ナニサ影口がどうも五月蠅ッて」
「それはネ、どうせ些とは何とか言いますのサ。また何とか言ッたッて宜じゃア有りませんか、若しお相互に潔白なら。どうせ貴君、二千年来の習慣を破るんですものヲ、多少の艱苦は免れッこは有りませんワ」
「トハ思ッているようなものの、まさか影口が耳に入ると厭なものサ」
「それはそうですヨネー。この間もネ貴君、鍋が生意気に可笑しな事を言ッて私にからかうのですよ。それからネ私が余り五月蠅なッたから、到底解るまいとはおもいましたけれども試に男女交際論を説て見たのですヨ。そうしたらネ、アノなんですッて、私の言葉には漢語が雑ざるから全然何を言ッたのだか解りませんて……真個に教育のないという者は仕様のないもんですネー」
「アハハハ其奴は大笑いだ……しかし可笑しく思ッているのは鍋ばかりじゃア有りますまい、必と母親さんも……」
「母ですか、母はどうせ下等の人物ですから始終可笑しな事を言ッちゃアからかいますのサ。それでもネ、そのたんびに私が辱しめ辱しめ為い為いしたら、あれでも些とは耻じたと見えてネ、この頃じゃアそんなに言わなくなりましたよ」
「ヘーからかう、どんな事を仰しゃッて」
「アノーなんですッて、そんなに親しくする位なら寧ろ貴君と……(すこしもじもじして言かねて)結婚してしまえッて……」
ト聞くと等しく文三は駭然としてお勢の顔を目守る。されど此方は平気の躰で
「ですがネ、教育のない者ばかりを責める訳にもいけませんヨネー。私の朋友なんぞは、教育の有ると言う程有りゃアしませんがネ、それでもマア普通の教育は享けているんですよ、それでいて貴君、西洋主義の解るものは、二十五人の内に僅四人しかないの。その四人もネ、塾にいるうちだけで、外へ出てからはネ、口程にもなく両親に圧制せられて、みんなお嫁に往ッたりお婿を取ッたりしてしまいましたの。だから今までこんな事を言ッてるものは私ばッかりだとおもうと、何だか心細ッて心細ッてなりません。でしたがネ、この頃は貴君という親友が出来たから、アノー大変気丈夫になりましたわ」
文三はチョイと一礼して
「お世辞にもしろ嬉しい」
「アラお世辞じゃア有りませんよ、真実ですよ」
「真実なら尚お嬉しいが、しかし私にゃア貴嬢と親友の交際は到底出来ない」
「オヤ何故ですエ、何故親友の交際が出来ませんエ」
「何故といえば、私には貴嬢が解からず、また貴嬢には私が解からないから、どうも親友の交際は……」
「そうですか、それでも私には貴君はよく解ッている積りですよ。貴君の学識が有ッて、品行が方正で、親に孝行で……」
「だから貴嬢には私が解らないというのです。貴嬢は私を親に孝行だと仰しゃるけれども、孝行じゃア有りません。私には……親より……大切な者があります……」
ト吃ながら言ッて文三は差俯向いてしまう。お勢は不思議そうに文三の容子を眺めながら
「親より大切な者……親より……大切な……者……親より大切な者は私にも有りますワ」
文三はうな垂れた頸を振揚げて
「エ、貴嬢にも有りますと」
「ハア有りますワ」
「誰……誰れが」
「人じゃアないの、アノ真理」
「真理」
ト文三は慄然と胴震をして唇を喰いしめたまま暫らく無言、稍あッて俄に喟然として歎息して、
「アア、貴嬢は清浄なものだ潔白なものだ……親より大切なものは真理……アア潔白なものだ……しかし感情という者は実に妙なものだナ、人を愚にしたり、人を泣かせたり笑わせたり、人をあえだり揉だりして玩弄する。玩弄されると薄々気が附きながらそれを制することが出来ない。アア自分ながら……」
ト些し考えて、稍ありて熱気となり、
「ダガ思い切れない……どう有ッても思い切れない……お勢さん、貴嬢は御自分が潔白だからこんな事を言ッてもお解りがないかも知れんが、私には真理よりか……真理よりか大切な者があります。去年の暮から全半歳、その者の為めに感情を支配せられて、寐ても寤めても忘らればこそ、死ぬより辛いおもいをしていても、先では毫しも汲んでくれない。寧ろ強顔なくされたならば、また思い切りようも有ろうけれども……」
ト些し声をかすませて、
「なまじい力におもうの親友だのといわれて見れば私は……どうも……どう有ッても思い……」
「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ、ちょっと御覧なさいヨ」
庭の一隅に栽込んだ十竿ばかりの繊竹の、葉を分けて出る月のすずしさ。月夜見の神の力の測りなくて、断雲一片の翳だもない、蒼空一面にてりわたる清光素色、唯亭々皎々として雫も滴たるばかり。初は隣家の隔ての竹垣に遮られて庭を半より這初め、中頃は縁側へ上ッて座舗へ這込み、稗蒔の水に流れては金瀲灔、簷馬の玻璃に透りては玉玲瓏、座賞の人に影を添えて孤燈一穂の光を奪い、終に間の壁へ這上る。涼風一陣吹到る毎に、ませ籬によろぼい懸る夕顔の影法師が婆娑として舞い出し、さてわ百合の葉末にすがる露の珠が、忽ち蛍と成ッて飛迷う。艸花立樹の風に揉まれる音の颯々とするにつれて、しばしは人の心も騒ぎ立つとも、須臾にして風が吹罷めば、また四辺蕭然となって、軒の下艸に集く虫の音のみ独り高く聞える。眼に見る景色はあわれに面白い。とはいえ心に物ある両人の者の眼には止まらず、唯お勢が口ばかりで
「アア佳こと」
トいって何故ともなく莞然と笑い、仰向いて月に観惚れる風をする。その半面を文三が窃むが如く眺め遣れば、眼鼻口の美しさは常に異ッたこともないが、月の光を受けて些し蒼味を帯んだ瓜実顔にほつれ掛ッたいたずら髪、二筋三筋扇頭の微風に戦いで頬の辺を往来するところは、慄然とするほど凄味が有る。暫らく文三がシケジケと眺めているト、やがて凄味のある半面が次第々々に此方へ捻れて……パッチリとした涼しい眼がジロリと動き出して……見とれていた眼とピッタリ出逢う。螺の壺々口に莞然と含んだ微笑を、細根大根に白魚を五本並べたような手が持ていた団扇で隠蔽して、耻かしそうなしこなし。文三の眼は俄に光り出す。
「お勢さん」
但し震声で。
「ハイ」
但し小声で。
「お勢さん、貴嬢もあんまりだ、余り……残酷だ、私がこれ……これ程までに……」
トいいさして文三は顔に手を宛てて黙ッてしまう。意を注めて能く見れば、壁に写ッた影法師が、慄然とばかり震えている。今一言……今一言の言葉の関を、踰えれば先は妹背山、蘆垣の間近き人を恋い初めてより、昼は終日夜は終夜、唯その人の面影而已常に眼前にちらついて、砧に映る軒の月の、払ッてもまた去りかねていながら、人の心を測りかねて、末摘花の色にも出さず、岩堰水の音にも立てず、独りクヨクヨ物をおもう、胸のうやもや、もだくだを、払うも払わぬも今一言の言葉の綾……今一言……僅一言……その一言をまだ言わぬ……折柄ガラガラと表の格子戸の開く音がする……吃驚して文三はお勢と顔を見合わせる、蹶然と起上る、転げるように部屋を駆出る。但しその晩はこれきりの事で別段にお話しなし。
翌朝に至りて両人の者は始めて顔を合わせる。文三はお勢よりは気まりを悪がッて口数をきかず、この夏の事務の鞅掌さ、暑中休暇も取れぬので匆々に出勤する。十二時頃に帰宅する。下坐舗で昼食を済して二階の居間へ戻り、「アア熱かッた」ト風を納れている所へ梯子バタバタでお勢が上ッて参り、二ツ三ツ英語の不審を質問する。質問してしまえばもはや用の無い筈だが、何かモジモジして交野の鶉を極めている。やがて差俯向いたままで鉛筆を玩弄にしながら
「アノー昨夕は貴君どうなすったの」
返答なし。
「何だか私が残酷だッて大変憤ッていらしったが、何が残酷ですの」
ト笑顔を擡げて文三の顔を窺くと、文三は狼狽て彼方を向いてしまい
「大抵察していながらそんな事を」
「アラそれでも私にゃ何だか解りませんものヲ」
「解らなければ解らないでよう御座んす」
「オヤ可笑しな」
それから後は文三と差向いになる毎に、お勢は例の事を種にして乙うからんだ水向け文句、やいのやいのと責め立てて、終には「仰しゃらぬとくすぐりますヨ」とまで迫ッたが、石地蔵と生れ付たしょうがには、情談のどさくさ紛れにチョックリチョイといって除ける事の出来ない文三、然らばという口付からまず重くろしく折目正しく居すまッて、しかつべらしく思いのたけを言い出だそうとすれば、お勢はツイと彼方を向いて「アラ鳶が飛でますヨ」と知らぬ顔の半兵衛模擬、さればといって手を引けば、また意あり気な色目遣い、トこうじらされて文三は些とウロが来たが、ともかくも触らば散ろうという下心の自ら素振りに現われるに「ハハア」と気が附て見れば嬉しく難有く辱けなく、罪も報も忘れ果てて命もトントいらぬ顔付。臍の下を住家として魂が何時の間にか有頂天外へ宿替をすれば、静かには坐ッてもいられず、ウロウロ座舗を徘徊いて、舌を吐たり肩を縮めたり思い出し笑いをしたり、又は変ぽうらいな手附きを為たりなど、よろずに瘋癲じみるまで喜びは喜んだが、しかしお勢の前ではいつも四角四面に喰いしばって猥褻がましい挙動はしない。尤も曾てじゃらくらが高じてどやぐやと成ッた時、今まで憘しそうに笑ッていた文三が俄かに両眼を閉じて静まり返えり何と言ッても口をきかぬので、お勢が笑らいながら「そんなに真面目にお成なさるとこう成るからいい」とくすぐりに懸ッたその手頭を払らい除けて文三が熱気となり、「アア我々の感情はまだ習慣の奴隷だ。お勢さん下へ降りて下さい」といった為めにお勢に憤られたこともあッたが……しかしお勢も日を経るままに草臥れたか、余りじゃらくらもしなくなって、高笑らいを罷めて静かになッて、この頃では折々物思いをするようには成ッたが、文三に向ッてはともすればぞんざいな言葉遣いをするところを見れば、泣寐入りに寐入ッたのでもない光景。
アア偶々咲懸ッた恋の蕾も、事情というおもわぬ沍にかじけて、可笑しく葛藤れた縁の糸のすじりもじった間柄、海へも附かず河へも附かぬ中ぶらりん、月下翁の悪戯か、それにしても余程風変りな恋の初峯入り。
文三の某省へ奉職したは昨日今日のように思う間に既に二年近くになる。年頃節倹の功が現われてこの頃では些しは貯金も出来た事ゆえ、老耊ッたお袋に何時までも一人住の不自由をさせて置くも不孝の沙汰、今年の暮には東京へ迎えて一家を成して、そうして……と思う旨を半分報知せてやれば母親は大悦び、文三にはお勢という心宛が出来たことは知らぬが仏のような慈悲心から、「早く相応な者を宛がって初孫の顔を見たいとおもうは親の私としてもこうなれど、其地へ往ッて一軒の家を成ようになれば家の大黒柱とて無くて叶わぬは妻、到底貰う事なら親類某の次女お何どのは内端で温順く器量も十人并で私には至極機に入ッたが、この娘を迎えて妻としては」と写真まで添えての相談に、文三はハット当惑の眉を顰めて、物の序に云々と叔母のお政に話せばこれもまた当惑の躰。初めお勢が退塾して家に帰ッた頃「勇という嗣子があッて見ればお勢は到底嫁に遣らなければならぬが、どうだ文三に配偶せては」と孫兵衛に相談をかけられた事も有ッたが、その頃はお政も左様さネと生返事、何方附かずに綾なして月日を送る内、お勢の甚だ文三に親しむを見てお政も遂にその気になり、当今では孫兵衛が「ああ仲が好のは仕合わせなようなものの、両方とも若い者同志だからそうでもない心得違いが有ッてはならぬから、お前が始終看張ッていなくッてはなりませぬぜ」といっても、お政は「ナアニ大丈夫ですよ、また些とやそッとの事なら有ッたッて好う御座んさアネ、到底早かれ晩かれ一所にしようと思ッてるとこですものヲ」ト、ズット粋を通し顔でいるところゆえ、今文三の説話を听て当惑をしたもその筈の事で。「お袋の申通り家を有つようになれば到底妻を貰わずに置けますまいが、しかし気心も解らぬ者を無暗に貰うのは余りドットしませぬから、この縁談はまず辞ッてやろうかと思います」ト常に異ッた文三の決心を聞いてお政は漸く眉を開いて切りに点頭き、「そうともネそうともネ、幾程母親さんの機に入ッたからッて肝腎のお前さんの機に入らなきゃア不熟の基だ。しかしよくお話しだッた。実はネお前さんのお嫁の事に就ちゃア些イと良人でも考えてる事があるんだから、これから先き母親さんがどんな事を言ッておよこしでも、チョイと私に耳打してから返事を出すようにしておくんなさいヨ。いずれ良人でお話し申すだろうが、些イと考えてる事があるんだから……それはそうと母親さんの貰いたいとお言いのはどんなお子だか、チョイとその写真をお見せナ」といわれて文三はさもきまりの悪るそうに、「エ写真ですか、写真は……私の所には有りません、先刻アノ何が……お勢さんが何です……持ッて往ッておしまいなすった……」
トいう光景で、母親も叔父夫婦の者も宛とする所は思い思いながら一様に今年の晩れるを待詫びている矢端、誰れの望みも彼れの望みも一ツにからげて背負ッて立つ文三が(話を第一回に戻して)今日思懸けなくも……諭旨免職となった。さても星煞というものは是非のないもの、トサ昔気質の人ならば言うところでも有ろうか。
第四回 言うに言われぬ胸の中
さてその日も漸く暮れるに間もない五時頃に成っても、叔母もお勢も更に帰宅する光景も見えず、何時まで待っても果てしのない事ゆえ、文三は独り夜食を済まして、二階の縁端に端居しながら、身を丁字欄干に寄せかけて暮行く空を眺めている。この時日は既に万家の棟に没しても、尚お余残の影を留めて、西の半天を薄紅梅に染た。顧みて東方の半天を眺むれば、淡々とあがった水色、諦視たら宵星の一つ二つは鑿り出せそうな空合。幽かに聞える伝通院の暮鐘の音に誘われて、塒へ急ぐ夕鴉の声が、彼処此処に聞えて喧ましい。既にして日はパッタリ暮れる、四辺はほの暗くなる。仰向て瞻る蒼空には、余残の色も何時しか消え失せて、今は一面の青海原、星さえ所斑に燦き出でて殆んと交睫をするような真似をしている。今しがたまで見えた隣家の前栽も、蒼然たる夜色に偸まれて、そよ吹く小夜嵐に立樹の所在を知るほどの闇さ。デモ土蔵の白壁はさすがに白だけに、見透かせば見透かされる……サッと軒端近くに羽音がする、回首ッて観る……何も眼に遮るものとてはなく、唯もう薄闇い而已。
心ない身も秋の夕暮には哀を知るが習い、況して文三は糸目の切れた奴凧の身の上、その時々の風次第で落着先は籬の梅か物干の竿か、見極めの附かぬところが浮世とは言いながら、父親が没してから全十年、生死の海のうやつらやの高波に揺られ揺られて辛じて泳出した官海もやはり波風の静まる間がないことゆえ、どうせ一度は捨小舟の寄辺ない身に成ろうも知れぬと兼て覚悟をして見ても、其処が凡夫のかなしさで、危に慣れて見れば苦にもならず宛に成らぬ事を宛にして、文三は今歳の暮にはお袋を引取ッて、チト老楽をさせずばなるまい、国へ帰えると言ッてもまさかに素手でも往かれまい、親類の所への土産は何にしよう、「ムキ」にしようか品物にしようかと、胸で弾いた算盤の桁は合いながらも、とかく合いかねるは人の身のつばめ、今まで見ていた廬生の夢も一炊の間に覚め果てて「アアまた情ない身の上になッたかナア……」
俄にパッと西の方が明るくなッた。見懸けた夢をそのままに、文三が振返ッて視遣る向うは隣家の二階、戸を繰り忘れたものか、まだ障子のままで人影が射している……スルトその人影が見る間にムクムクと膨れ出して、好加減の怪物となる……パッと消失せてしまッた跡はまた常闇。文三はホッと吐息を吻て、顧みて我家の中庭を瞰下ろせば、所狭きまで植駢べた艸花立樹なぞが、詫し気に啼く虫の音を包んで、黯黒の中からヌッと半身を捉出して、硝子張の障子を漏れる火影を受けているところは、家内を覘う曲者かと怪まれる……ザワザワと庭の樹立を揉む夜風の余りに顔を吹かれて、文三は慄然と身震をして起揚り、居間へ這入ッて手探りで洋燈を点し、立膝の上に両手を重ねて、何をともなく目守たまま暫らくは唯茫然……不図手近かに在ッた薬鑵の白湯を茶碗に汲取りて、一息にグッと飲乾し、肘を枕に横に倒れて、天井に円く映る洋燈の火燈を目守めながら、莞爾と片頬に微笑を含んだが、開た口が結ばって前歯が姿を隠すに連れ、何処からともなくまた愁の色が顔に顕われて参ッた。
「それはそうとどうしようかしらん、到底言わずには置けん事たから、今夜にも帰ッたら、断念ッて言ッてしまおうかしらん。さぞ叔母が厭な面をする事たろうナア……眼に見えるようだ……しかしそんな事を苦にしていた分には埒が明かない、何にもこれが金銭を借りようというではなし、毫しも耻かしい事はない、チョッ今夜言ッてしまおう……だが……お勢がいては言い難いナ。若しヒョット彼の前で厭味なんぞを言われちゃア困る。これは何んでも居ない時を見て言う事た。いない……時を……見……何故、何故言難い、苟も男児たる者が零落したのを耻ずるとは何んだ、そんな小胆な、糞ッ今夜言ッてしまおう。それは勿論彼娘だッて口へ出してこそ言わないが何んでも来年の春を楽しみにしているらしいから、今唐突に免職になッたと聞いたら定めて落胆するだろう。しかし落胆したからと言ッて心変りをするようなそんな浮薄な婦人じゃアなし、かつ通常の婦女子と違ッて教育も有ることだから、大丈夫そんな気遣いはない。それは決してないが、叔母だて……ハテナ叔母だて。叔母はああいう人だから、我が免職になッたと聞たら急にお勢をくれるのが厭になッて、無理に彼娘を他へかたづけまいとも言われない。そうなったからと言ッて此方は何も確い約束がして有るんでないから、否そうは成りませんとも言われない……嗚呼つまらんつまらん、幾程おもい直してもつまらん。全躰何故我を免職にしたんだろう、解らんナ、自惚じゃアないが我だッて何も役に立たないという方でもなし、また残された者だッて何も別段役に立つという方でもなし、して見ればやっぱり課長におべッからなかったからそれで免職にされたのかな……実に課長は失敬な奴だ、課長も課長だが残された奴等もまた卑屈極まる。僅かの月給の為めに腰を折ッて、奴隷同様な真似をするなんぞッて実に卑屈極まる……しかし……待よ……しかし今まで免官に成ッて程なく復職した者がないでも無いから、ヒョッとして明日にも召喚状が……イヤ……来ない、召喚状なんぞが来て耐るものか、よし来たからと言ッて今度は此方から辞してしまう、誰が何と言おうト関わない、断然辞してしまう。しかしそれも短気かナ、やっぱり召喚状が来たら復職するかナ……馬鹿奴、それだから我は馬鹿だ、そんな架空な事を宛にして心配するとは何んだ馬鹿奴。それよりかまず差当りエート何んだッけ……そうそう免職の事を叔母に咄して……さぞ厭な顔をするこッたろうナ……しかし咄さずにも置かれないから思切ッて今夜にも叔母に咄して……ダガお勢のいる前では……チョッいる前でも関わん、叔母に咄して……ダガ若し彼娘のいる前で口汚たなくでも言われたら……チョッ関わん、お勢に咄して、イヤ……お勢じゃない叔母に咄して……さぞ……厭な顔……厭な顔を咄して……口……口汚なく咄……して……アア頭が乱れた……」
ト、ブルブルと頭を左右へ打振る。
轟然と駆て来た車の音が、家の前でパッタリ止まる。ガラガラと格子戸が開く、ガヤガヤと人声がする。ソリャコソと文三が、まず起直ッて突胸をついた。両手を杖に起んとしてはまた坐り、坐らんとしてはまた起つ。腰の蝶番は満足でも、胸の蝶番が「言ッてしまおうか」「言難いナ」と離れ離れに成ッているから、急には起揚られぬ……俄に蹶然と起揚ッて梯子段の下口まで参ッたが、不図立止まり、些し躊躇ッていて、「チョッ言ッてしまおう」と独言を言いながら、急足に二階を降りて奥坐舗へ立入る。
奥坐舗の長手の火鉢の傍に年配四十恰好の年増、些し痩肉で色が浅黒いが、小股の切上ッた、垢抜けのした、何処ともでんぼう肌の、萎れてもまだ見所のある花。櫛巻きとかいうものに髪を取上げて、小弁慶の糸織の袷衣と養老の浴衣とを重ねた奴を素肌に着て、黒繻子と八段の腹合わせの帯をヒッカケに結び、微酔機嫌の啣楊枝でいびつに坐ッていたのはお政で。文三の挨拶するを見て、
「ハイ只今、大層遅かッたろうネ」
「全体今日は何方へ」
「今日はネ、須賀町から三筋町へ廻わろうと思ッて家を出たんだアネ。そうするとネ、須賀町へ往ッたらツイ近所に、あれはエート芸人……なんとか言ッたッけ、芸人……」
「親睦会」
「それそれその親睦会が有るから一所に往こうッてネお浜さんが勧めきるんサ。私は新富座か二丁目ならともかくも、そんな珍木会とか親睦会とかいう者なんざア七里々けぱいだけれども、お勢……ウーイプー……お勢が往たいというもんだから仕様事なしのお交際で往て見たがネ、思ッたよりはサ。私はまた親睦会というから大方演じゅつ会のような種のもんかしらとおもったら、なアにやっぱり品の好い寄席だネ。此度文さんも往ッて御覧な、木戸は五十銭だヨ」
「ハアそうですか、それでは孰れまた」
説話が些し断絶れる。文三は肚の裏に「おなじ言うのならお勢の居ない時だ、チョッ今言ッてしまおう」ト思い決めて今将に口を開かんとする……折しも縁側にパタパタと跫音がして、スラリと背後の障子が開く、振反ッて見れば……お勢で。年は鬼もという十八の娘盛り、瓜実顔で富士額、生死を含む眼元の塩にピンとはねた眉で力味を付け、壺々口の緊笑いにも愛嬌をくくんで無暗には滴さぬほどのさび、背はスラリとして風に揺めく女郎花の、一時をくねる細腰もしんなりとしてなよやか、慾にはもうすこし生際と襟足とを善くして貰いたいが、何にしても七難を隠くすという雪白の羽二重肌、浅黒い親には似ぬ鬼子でない天人娘。艶やかな黒髪を惜気もなくグッと引詰めての束髪、薔薇の花挿頭を揷したばかりで臙脂も甞めねば鉛華も施けず、衣服とても糸織の袷衣に友禅と紫繻子の腹合せの帯か何かでさして取繕いもせぬが、故意とならぬ眺はまた格別なもので、火をくれて枝を撓わめた作花の厭味のある色の及ぶところでない。衣透姫に小町の衣を懸けたという文三の品題は、それは惚れた慾眼の贔負沙汰かも知れないが、とにもかくにも十人並優れて美くしい。坐舗へ這入りざまに文三と顔を見合わして莞然、チョイと会釈をして摺足でズーと火鉢の側まで参り、温藉に坐に着く。
お勢と顔を見合わせると文三は不思議にもガラリ気が変ッて、咽元まで込み上げた免職の二字を鵜呑みにして何喰わぬ顔色、肚の裏で「もうすこし経ッてから」
「母親さん、咽が涸いていけないから、お茶を一杯入れて下さいナ」
「アイヨ」
トいってお政は茶箪笥を覗き、
「オヤオヤ茶碗が皆汚れてる……鍋」
ト呼ばれて出て来た者を見れば例の日の丸の紋を染抜いた首の持主で、空嘯いた鼻の端へ突出された汚穢物を受取り、振栄のあるお尻を振立てて却退る。やがて洗ッて持ッて来る、茶を入れる、サアそれからが今日聞いて来た歌曲の噂で、母子二の口が結ばる暇なし。免職の事を吹聴したくも言出す潮がないので、文三は余儀なく聴きたくもない咄を聞て空しく時刻を移す内、説話は漸くに清元長唄の優劣論に移る。
「母親さんは自分が清元が出来るもんだからそんな事をお言いだけれども、長唄の方が好サ」
「長唄も岡安ならまんざらでもないけれども、松永は唯つッこむばかりで面白くもなんとも有りゃアしない。それよりか清元の事サ、どうも意気でいいワ。『四谷で始めて逢うた時、すいたらしいと思うたが、因果な縁の糸車』」
ト中音で口癖の清元を唄ッてケロリとして
「いいワ」
「その通り品格がないから嫌い」
「また始まッた、ヘン跳馬じゃアあるまいし、万古に品々も五月蠅い」
「だッて人間は品格が第一ですワ」
「ヘンそんなにお人柄なら、煮込みのおでんなんぞを喰たいといわないがいい」
「オヤ何時私がそんな事を言ました」
「ハイ一昨日の晩いいました」
「嘘ばっかし」
トハ言ッたが大にへこんだので大笑いとなる。不図お政は文三の方を振向いて
「アノ今日出懸けに母親さんの所から郵便が着たッけが、お落掌か」
「ア真にそうでしたッけ、さっぱり忘却ていました……エー母からもこの度は別段に手紙を差上げませんが宜しく申上げろと申ことで」
「ハアそうですか、それは。それでも母親さんは何時もお異なすったことも無くッて」
「ハイ、お蔭さまと丈夫だそうで」
「それはマア何よりの事た。さぞ今年の暮を楽しみにしておよこしなすったろうネ」
「ハイ、指ばかり屈ていると申てよこしましたが……」
「そうだろうてネ、可愛い息子さんの側へ来るんだものヲ。それをネー何処かの人みたように親を馬鹿にしてサ、一口いう二口目には直に揚足を取るようだと義理にも可愛いと言われないけれど、文さんは親思いだから母親さんの恋しいのもまた一倍サ」
トお勢を尻目にかけてからみ文句で宛る。お勢はまた始まッたという顔色をして彼方を向てしまう、文三は余儀なさそうにエヘヘ笑いをする。
「それからアノー例の事ネ、あの事をまた何とか言ッてお遣しなすッたかい」
「ハイ、また言ッてよこしました」
「なんッてネ」
「ソノー気心が解らんから厭だというなら、エー今年の暮帰省した時に、逢ッてよく気心を洞察た上で極めたら好かろうといって遣しましたが、しかし……」
「なに、母親さん」
「エ、ナニサ、アノ、ソラお前にもこの間話したアネ、文さんの……」
お勢は独り切りに点頭く。
「ヘーそんな事を言ッておよこしなすッたかい、ヘーそうかい……それに附けても早く内で帰ッて来れば好が……イエネ此間もお咄し申た通りお前さんのお嫁の事に付ちゃア内でも些と考えてる事も有るんだから……尤も私も聞て知てる事たから今咄してしまってもいいけれども……」
ト些し考えて
「何時返事をお出しだ」
「返事はもう出しました」
「エ、モー出したの、今日」
「ハイ」
「オヤマア文さんでもない、私になんとか一言咄してからお出しならいいのに」
「デスガ……」
「それはマアともかくも、何と言ッてお上げだ」
「エー今は仲々婚姻どころじゃアないから……」
「アラそんな事を言ッてお上げじゃア母親さんが尚お心配なさらアネ。それよりか……」
「イエまだお咄し申さぬから何ですが……」
「マアサ私の言事をお聞きヨ。それよりかアノ叔父も何だか考えがあるというからいずれ篤りと相談した上でとか、さもなきゃア此地に心当りがあるから……」
「母親さん、そんな事を仰しゃるけれど、文さんは此地に何か心当りがお有なさるの」
「マアサ有ッても無くッても、そう言ッてお上げだと母親さんが安心なさらアネ……イエネ、親の身に成ッて見なくッちゃア解らぬ事たけれども、子供一人身を固めさせようというのはどんなに苦労なもんだろう。だからお勢みたようなこんな親不孝な者でもそう何時までもお懐中で遊ばせても置ないと思うと私は苦労で苦労でならないから、此間も私がネ、『お前ももう押付お嫁に往かなくッちゃアならないんだから、ソノーなんだとネー、何時までもそんなに小供の様な心持でいちゃアなりませんと、それも母親さんのようにこんな気楽な家へお嫁に往かれりゃアともかくもネー、若しヒョッと先に姑でもある所へ往んで御覧、なかなかこんなに我儘気儘をしちゃアいられないから、今の内に些と覚悟をして置かなくッちゃアなりませんヨ』と私が先へ寄ッて苦労させるのが可憐そうだから為をおもって言ッて遣りゃアネ文さん、マア聞ておくれ、こうだ。『ハイ私にゃア私の了簡が有ります、ハイ、お嫁に往こうと往くまいと私の勝手で御座います』というんだヨ、それからネ私が『オヤそれじゃアお前はお嫁に往かない気かエ』と聞たらネ、『ハイ私は生一本で通します』ッて……マア呆れかえるじゃアないかネー文さん、何処の国にお前、尼じゃアあるまいし、亭主持たずに一生暮すもんが有る者かネ」
これは万更形のないお噺でもない。四五日前何かの小言序にお政が尖り声で「ほんとにサ戯談じゃアない、何歳になるとお思いだ、十八じゃアないか。十八にも成ッてサ、好頃嫁にでも往こうという身でいながら、なんぼなんだッて余り勘弁がなさすぎらア。アアアア早く嫁にでも遣りたい、嫁に往ッて小喧しい姑でも持ッたら、些たア親の難有味が解るだろう」
ト言ッたのが原因で些ばかりいじり合をした事が有ッたが、お政の言ッたのは全くその作替で、
「トいうが畢竟るとこ、これが奥だからの事サ。私共がこの位の時分にゃア、チョイとお洒落をしてサ、小色の一ツも掙了だもんだけれども……」
「また猥褻」
トお勢は顔を皺める。
「オホオホオホほんとにサ、仲々小悪戯をしたもんだけれども、この娘はズー体ばかり大くッても一向しきなお懐だもんだから、それで何時まで経ッても世話ばッかり焼けてなりゃアしないんだヨ」
「だから母親さんは厭ヨ、些とばかりお酒に酔うと直に親子の差合いもなくそんな事をお言いだものヲ」
「ヘーヘー恐れ煎豆はじけ豆ッ、あべこべに御意見か。ヘン、親の謗はしりよりか些と自分の頭の蠅でも逐うがいいや、面白くもない」
「エヘヘヘヘ」
「イエネこの通り親を馬鹿にしていて、何を言ッてもとても私共の言事を用いるようなそんな素直なお嬢さまじゃアないんだから、此度文さんヨーク腹に落ちるように言ッて聞かせておくんなさい、これでもお前さんの言事なら、些たア聞くかも知れないから」
トお政は又もお勢を尻目に懸ける。折しも紙襖一ツ隔ててお鍋の声として、
「あんな帯留め……どめ……を……」
此方の三人は吃驚して顔を見合わせ「オヤ鍋の寐言だヨ」と果ては大笑いになる。お政は仰向いて柱時計を眺め、
「オヤもう十一時になるヨ、鍋の寐言を言うのも無理はない、サアサア寝ましょう寝ましょう、あんまり夜深しをするとまた翌日の朝がつらい。それじゃア文さん、先刻の事はいずれまた翌日にも緩りお咄しましょう」
「ハイ私も……私も是非お咄し申さなければならん事が有りますが、いずれまた明日……それではお休み」
ト挨拶をして文三は座舗を立出で梯子段の下まで来ると、後より、
「文さん、貴君の所に今日の新聞が有りますか」
「ハイ有ります」
「もうお読みなすッたの」
「読みました」
「それじゃア拝借」
トお勢は文三の跡に従いて二階へ上る。文三が机上に載せた新聞を取ッてお勢に渡すと、
「文さん」
「エ」
返答はせずしてお勢は唯笑ッている。
「何です」
「何時か頂戴した写真を今夜だけお返し申ましょうか」
「何故」
「それでもお淋しかろうとおもって、オホオホ」
ト笑いながら逃ぐるが如く二階を駆下りる。そのお勢の後姿を見送ッて文三は吻と溜息を吐いて、
「ますます言難い」
一時間程を経て文三は漸く寐支度をして褥へは這入ッたが、さて眠られぬ。眠られぬままに過去将来を思い回らせば回らすほど、尚お気が冴て眼も合わず、これではならぬと気を取直し緊しく両眼を閉じて眠入ッた風をして見ても自ら欺くことも出来ず、余儀なく寐返りを打ち溜息を吻きながら眠らずして夢を見ている内に、一番鶏が唱い二番鶏が唱い、漸く暁近くなる。
「寧そ今夜はこのままで」トおもう頃に漸く眼がしょぼついて来て額が乱れだして、今まで眼前に隠見ていた母親の白髪首に斑な黒髯が生えて……課長の首になる、そのまた恐らしい髯首が暫らくの間眼まぐろしく水車の如くに廻転ている内に次第々々に小いさく成ッて……やがて相恰が変ッて……何時の間にか薔薇の花掻頭を挿して……お勢の……首……に……な……
第五回 胸算違いから見一無法は難題
枕頭で喚覚ます下女の声に見果てぬ夢を驚かされて、文三が狼狽た顔を振揚げて向うを見れば、はや障子には朝日影が斜めに射している。「ヤレ寐過したか……」と思う間もなく引続いてムクムクと浮み上ッた「免職」の二字で狭い胸がまず塞がる……芣苢を振掛けられた死蟇の身で、躍上り、衣服を更めて、夜の物を揚げあえず楊枝を口へ頬張り故手拭を前帯に揷んで、周章て二階を降りる。その足音を聞きつけてか、奥の間で「文さん疾く為ないと遅くなるヨ」トいうお政の声に圭角はないが、文三の胸にはぎっくり応えて返答にも迷惑く。そこで頬張ッていた楊枝をこれ幸いと、我にも解らぬ出鱈目を句籠勝に言ッてまず一寸遁れ、匆々に顔を洗ッて朝飯の膳に向ッたが、胸のみ塞がッて箸の歩みも止まりがち、三膳の飯を二膳で済まして、何時もならグッと突出す膳もソッと片寄せるほどの心遣い、身体まで俄に小いさくなったように思われる。
文三が食事を済まして縁側を廻わり窃かに奥の間を覗いて見れば、お政ばかりでお勢の姿は見えぬ。お勢は近属早朝より駿河台辺へ英語の稽古に参るようになッたことゆえ、さては今日ももう出かけたのかと恐々座舗へ這入ッて来る。その文三の顔を見て今まで火鉢の琢磨をしていたお政が、俄かに光沢布巾の手を止めて不思議そうな顔をしたもその筈、この時の文三の顔色がツイ一通りの顔色でない。蒼ざめていて力なさそうで、悲しそうで恨めしそうで耻かしそうで、イヤハヤ何とも言様がない。
「文さんどうかお為か、大変顔色がわりいヨ」
「イエどうも為ませぬが……」
「それじゃア疾くお為ヨ。ソレ御覧な、モウ八時にならアネ」
「エーまだお話し……申しませんでしたが……実は、ス、さくじつ……め……め……」
息気はつまる、冷汗は流れる、顔は赧くなる、如何にしても言切れぬ。暫らく無言でいて、更らに出直おして、
「ム、めん職になりました」
ト一思いに言放ッて、ハッと差俯向いてしまう。聞くと等しくお政は手に持ッていた光沢布巾を宙に釣るして、「オヤ」と一声叫んで身を反らしたまま一句も出でばこそ、暫らくは唯茫然として文三の貌を目守めていたが、稍あッて忙わしく布巾を擲却り出して小膝を進ませ、
「エ御免にお成りだとエ……オヤマどうしてマア」
「ど、ど、どうしてだか……私にも解りませんが……大方……ひ、人減らしで……」
「オーヤオーヤ仕様がないネー、マア御免になってサ。ほんとに仕様がないネー」
ト落胆した容子。須臾あッて、
「マアそれはそうと、これからはどうして往く積だエ」
「どうも仕様が有りませんから、母親にはもう些し国に居て貰ッて、私はまた官員の口でも探そうかと思います」
「官員の口てッたッてチョックラチョイと有りゃアよし、無かろうもんならまた何時かのような憂い思いをしなくッちゃアならないやアネ……だから私が言わない事ちゃアないんだ、些イと課長さんの所へも御機嫌伺いにお出でお出でと口の酸ぱくなるほど言ッても強情張ッてお出ででなかッたもんだから、それでこんな事になったんだヨ」
「まさかそういう訳でもありますまいが……」
「イイエ必とそうに違いないヨ。デなくッて成程人減らしだッて罪も咎もない者をそう無暗に御免になさる筈がないやアネ……それとも何か御免になっても仕様がないようなわりい事をした覚えがお有りか」
「イエ何にも悪い事をした覚えは有りませんが……」
「ソレ御覧なネ」
両人とも暫らく無言。
「アノ本田さんは(この男の事は第
六回にくわしく)どうだッたエ」
「かの男はよう御座んした」
「オヤ善かッたかい、そうかい、運の善方は何方へ廻ッても善んだネー。それというが全躰あの方は如才がなくッて発明で、ハキハキしてお出でなさるからだヨ。それに聞けば課長さんの所へも常不断御機嫌伺いにお出でなさるという事たから、必とそれで此度も善かッたのに違いないヨ。だからお前さんも私の言事を聴いて、課長さんに取り入ッて置きゃア今度もやっぱり善かッたのかも知れないけれども、人の言事をお聴きでなかッたもんだからそれでこんな事になっちまッたんだ」
「それはそうかも知れませんが、しかし幾程免職になるのが恐いと言ッて、私にはそんな鄙劣な事は……」
「出来ないとお言いのか……フン癯我慢をお言いでない、そんな了簡方だから課長さんにも睨られたんだ。マアヨーク考えて御覧、本田さんのようなあんな方でさえ御免になってはならないと思なさるもんだから、手間暇かいで課長さんに取り入ろうとなさるんじゃアないか、ましてお前さんなんざアそう言ッちゃアなんだけれども、本田さんから見りゃア……なんだから、尚更の事だ。それもネー、これがお前さん一人の事なら風見の烏みたように高くばッかり止まッて、食うや食わずにいようといまいとそりゃアもうどうなりと御勝手次第サ、けれどもお前さんには母親さんというものが有るじゃアないかエ」
母親と聞いて文三の萎れ返るを見て、お政は好い責道具を視付けたという顔付、長羅宇の烟管で席を叩くをキッカケに、
「イエサ母親さんがお可愛そうじゃアないかエ、マア篤り胸に手を宛てて考えて御覧。母親さんだッて父親さんには早くお別れなさるし、今じゃ便りにするなアお前さんばっかりだから、どんなにか心細いか知れない。なにもああしてお国で一人暮しの不自由な思いをしてお出でなさりたくもあるまいけれども、それもこれも皆お前さんの立身するばッかりを楽にして辛抱してお出でなさるんだヨ。そこを些しでも汲分けてお出でなら、仮令えどんな辛いと思う事が有ッても厭だと思う事があッても我慢をしてサ、石に噛付ても出世をしなくッちゃアならないと心懸なければならないとこだ。それをお前さんのように、ヤ人の機嫌を取るのは厭だの、ヤそんな鄙劣な事は出来ないのとそんな我儘気随を言ッて母親さんまで路頭に迷わしちゃア、今日冥利がわりいじゃないか。それゃアモウお前さんは自分の勝手で苦労するんだから関うまいけれども、それじゃア母親さんがお可愛そうじゃアないかい」
ト層にかかッて極付れど、文三は差俯向いたままで返答をしない。
「アアアア母親さんもあんなに今年の暮を楽しみにしてお出でなさるとこだから、今度御免にお成りだとお聞きなすったらさぞマア落胆なさる事だろうが、年を寄ッて御苦労なさるのを見ると真個にお痛しいようだ」
「実に母親には面目が御座んせん」
「当然サ、二十三にも成ッて母親さん一人さえ楽に養す事が出来ないんだものヲ。フフン面目が無くッてサ」
ト、ツンと済まして空嘯き、烟草を環に吹ている。そのお政の半面を文三は畏らしい顔をして佶と睨付け、何事をか言わんとしたが……気を取直して莞爾微笑した積でも顔へ顕われたところは苦笑い、震声とも附かず笑声とも附かぬ声で、
「ヘヘヘヘ面目は御座んせんが、しかし……出……出来た事なら……仕様が有りません」
「何だとエ」
トいいながら徐かに此方を振向いたお政の顔を見れば、何時しか額に芋蠋ほどの青筋を張らせ、肝癪の眥を釣上げて唇をヒン曲げている。
「イエサ何とお言いだ。出来た事なら仕様が有りませんと……誰れが出来した事たエ、誰れが御免になるように仕向けたんだエ、皆自分の頑固から起ッた事じゃアないか。それも傍で気を附けぬ事か、さんざッぱら人に世話を焼かして置て、今更御免になりながら面目ないとも思わないで、出来た事なら仕様が有ませんとは何の事たエ。それはお前さんあんまりというもんだ、余り人を踏付けにすると言う者だ。全躰マア人を何だと思ッてお出でだ、そりゃアお前さんの事たから鬼老婆とか糞老婆とか言ッて他人にしてお出でかも知れないが、私ア何処までも叔母の積だヨ。ナアニこれが他人で見るがいい、お前さんが御免になッたッて成らなくッたッて此方にゃア痛くも痒くも何とも無い事たから、何で世話を焼くもんですか。けれども血は繋らずとも縁あッて叔母となり甥となりして見れば、そうしたもんじゃア有りません。ましてお前さんは十四の春ポッと出の山出しの時から、長の年月、この私が婦人の手一ツで頭から足の爪頭までの事を世話アしたから、私はお前さんを御迷惑かは知らないが血を分けた子息同様に思ッてます。ああやッてお勢や勇という子供が有ッても、些しも陰陽なくしている事がお前さんにゃア解らないかエ。今までだッてもそうだ、何卒マア文さんも首尾よく立身して、早く母親さんを此地へお呼び申すようにして上げたいもんだと思わない事は唯の一日も有ません。そんなに思ッてるとこだものヲ、お前さんが御免にお成りだと聞いちゃア私は愉快はしないよ、愉快はしないからアア困ッた事に成ッたと思ッて、ヤレこれからはどうして往く積だ、ヤレお前さんの身になったらさぞ母親さんに面目があるまいと、人事にしないで歎いたり悔だりして心配してるとこだから、全躰なら『叔母さんの了簡に就かなくッて、こう御免になって実に面目が有りません』とか何とか詫言の一言でも言う筈のとこだけれど、それも言わないでもよし聞たくもないが、人の言事を取上げなくッて御免になりながら、糞落着に落着払ッて、出来た事なら仕様が有りませんとは何の事たエ。マ何処を押せばそんな音が出ます……アアアアつまらない心配をした、此方ではどこまでも実の甥と思ッて心を附けたり世話を焼たりして信切を尽していても、先様じゃア屁とも思召さない」
「イヤ決してそう言う訳じゃア有りませんが、御存知の通り口不調法なので、心には存じながらツイ……」
「イイエそんな言訳は聞きません。なんでも私を他人にしてお出でに違いない、糞老婆と思ッてお出でに違いない……此方はそんな不実な心意気の人と知らないから、文さんも何時までもああやッて一人でもいられまいから、来年母親さんがお出でなすったら篤り御相談申して、誰と言ッて宛もないけれども相応なのが有ッたら一人授けたいもんだ、それにしても外人と違ッて文さんがお嫁をお貰いの事たから黙ッてもいられない、何かしら祝ッて上げなくッちゃアなるまいからッて、この頃じゃア、アノ博多の帯をくけ直おさして、コノお召縮緬の小袖を仕立直おさして、あれをこうしてこれをこうしてと、毎日々々勘えてばッかいたんだ。そうしたら案外で、御免になるもいいけれども、面目ないとも思わないで、出来た事なら仕様が有りませぬと済まアしてお出でなさる……アアアアもういうまいいうまい、幾程言ッても他人にしてお出じゃア無駄だ」
ト厭味文句を並べて始終肝癪の思入。暫らく有ッて、
「それもそうだが、全躰その位なら昨夕の中に、実はこれこれで御免になりましたと一言位言ッたッてよさそうなもんだ。お話しでないもんだから此方はそんな事とは夢にも知らず、お弁当のお菜も毎日おんなじ物ばッかりでもお倦きだろう、アアして勉強してお勤にお出の事たからその位な事は此方で気を附けて上げなくッちゃアならないと思ッて、今日のお弁当のお菜は玉子焼にして上げようと思ッても鍋には出来ず、余儀所ないから私が面倒な思いをして拵らえて附けましたアネ……アアアア偶に人が気を利かせればこんな事ッた……しかし飛んだ余計なお世話でしたヨネー、誰れも頼みもしないのに……鍋」
「ハイ」
「文さんのお弁当は打開けておしまい」
お鍋女郎は襖の彼方から横幅の広い顔を差出して、「ヘー」とモッケな顔付。
「アノネ、内の文さんは昨日御免にお成りだッサ」
「ヘーそれは」
「どうしても働のある人は、フフン違ッたもんだヨ」
ト半まで言切らぬ内、文三は血相を変てツと身を起し、ツカツカと座舗を立出でて我子舎へ戻り、机の前にブッ座ッて歯を噛切ッての悔涙、ハラハラと膝へ濫した。暫らく有ッて文三は、はふり落ちる涙の雨をハンカチーフで拭止めた……がさて拭ッても取れないのは沸返える胸のムシャクシャ、熟々と思廻らせば廻らすほど、悔しくも又口惜しくなる。免職と聞くより早くガラリと変る人の心のさもしさは、道理らしい愚痴の蓋で隠蔽そうとしても看透かされる。とはいえそれは忍ぼうと思えば忍びもなろうが、面あたりに意久地なしと言わぬばかりのからみ文句、人を見括ッた一言ばかりは、如何にしても腹に据えかねる。何故意久地がないとて叔母がああ嘲り辱めたか、其処まで思い廻らす暇がない、唯もう腸が断れるばかりに悔しく口惜しく、恨めしく腹立たしい。文三は憤然として「ヨシ先がその気なら此方もその気だ、畢竟姨と思えばこそ甥と思えばこそ、言たい放題をも言わして置くのだ。ナニ縁を断ッてしまえば赤の他人、他人に遠慮も糸瓜もいらぬ事だ……糞ッ、面宛半分に下宿をしてくれよう……」ト肚の裏で独言をいうと、不思議やお勢の姿が目前にちらつく。「ハテそうしては彼娘が……」ト文三は少しく萎れたが……不図又叔母の悪々しい者面を憶出して、又憤然となり、「糞ッ止めても止まらぬぞ」ト何時にない断念のよさ。こう腹を定めて見ると、サアモウ一刻も居るのが厭になる、借住居かとおもえば子舎が気に喰わなくなる、我物でないかと思えば縁の欠けた火入まで気色に障わる。時計を見れば早十一時、今から荷物を取旁付けて是非とも今日中には下宿を為よう、と思えば心までいそがれ、「糞ッ止めても止まらぬぞ」ト口癖のように言いながら、熱気となって其処らを取旁付けにかかり、何か探そうとして机の抽斗を開け、中に納れてあッた年頃五十の上をゆく白髪たる老婦の写真にフト眼を注めて、我にもなく熟々と眺め入ッた。これは老母の写真で。御存知の通り文三は生得の親おもい、母親の写真を視て、我が辛苦を甞め艱難を忍びながら定めない浮世に存生らえていたる、自分一個の為而已でない事を想出し、我と我を叱りもし又励しもする事何時も何時も。今も今母親の写真を見て文三は日頃喰付けの感情をおこし覚えずも悄然と萎れ返ッたが、又悪々しい叔母の者面を憶出して又熱気となり、拳を握り歯を喰切り、「糞ッ止めて止まらぬぞ」ト独言を言いながら再び将に取旁付に懸らんとすると、二階の上り口で「お飯で御座いますヨ」ト下女の呼ぶ声がする。故らに二三度呼ばして返事にも勿躰をつけ、しぶしぶ二階を降りて、気むずかしい苦り切ッた怖ろしい顔色をして奥坐舗の障子を開けると……お勢がいるお勢が……今まで残念口惜しいと而已一途に思詰めていた事ゆえ、お勢の事は思出したばかりで心にも止めず忘れるともなく忘れていたが、今突然可愛らしい眼と眼を看合わせ、しおらしい口元で嫣然笑われて見ると……淡雪の日の眼に逢ッて解けるが如く、胸の鬱結も解けてムシャクシャも消え消えになり、今までの我を怪しむばかり、心の変動、心底に沈んでいた嬉しみ有難みが思い懸けなくもニッコリ顔へ浮み出し懸ッた……が、グッと飲込んでしまい、心では笑いながら顔ではフテテ膳に向ッた。さて食事も済む。二階へ立戻ッて文三が再び取旁付に懸ろうとして見たが、何となく拍子抜けがして以前のような気力が出ない。ソッと小声で「大丈夫」と言ッて見たがどうも気が引立たぬ。依て更に出直して「大丈夫」ト熱気とした風をして見て、歯を喰切ッて見て、「一旦思い定めた事を変がえるという事が有るものか……しらん、止めても止まらんぞ」
と言ッて出て往けば、彼娘を捨てなければならぬかと落胆したおもむき。今更未練が出てお勢を捨るなどという事は勿躰なくて出来ず、と言ッて叔母に詫言を言うも無念、あれも厭なりこれも厭なりで思案の糸筋が乱れ出し、肚の裏では上を下へとゴッタ返えすが、この時より既にどうやら人が止めずとも遂には我から止まりそうな心地がせられた。「マアともかくも」ト取旁付に懸りは懸ッたが、考えながらするので思の外暇取り、二時頃までかかって漸く旁付終りホッと一息吐いていると、ミシリミシリと梯子段を登る人の跫音がする。跫音を聞たばかりで姿を見ずとも文三にはそれと解ッた者か、先刻飲込んだニッコリを改めて顔へ現わして其方を振向く。上ッて来た者はお勢で、文三の顔を見てこれもまたニッコリして、さて坐舗を見廻わし、
「オヤ大変片付たこと」
「余りヒッ散らかっていたから」
ト我知らず言ッて文三は我を怪んだ。何故虚言を言ッたか自分にも解りかねる。お勢は座に着きながら、さして吃驚した様子もなく、
「アノ今母親さんがお噺しだッたが、文さん免職におなりなすったとネ」
「昨日免職になりました」
ト文三も今朝とはうって反ッて、今は其処どころで無いと言ッたような顔付。
「実に面目は有りませんが、しかし幾程悔んでも出来た事は仕様が無いと思ッて今朝母親さんに御風聴申したが……叱られました」
トいって歯を囓切ッて差俯向く。
「そうでしたとネー、だけれども……」
「二十三にも成ッて親一人楽に過す事の出来ない意久地なし、と言わないばかりに仰しゃッた」
「そうでしたとネー、だけれども……」
「成程私は意久地なしだ、意久地なしに違いないが、しかしなんぼ叔母甥の間柄だと言ッて面と向ッて意久地なしだと言われては、腹も立たないが余り……」
「だけれどもあれは母親さんの方が不条理ですワ。今もネ母親さんが得意になってお話しだったから、私が議論したのですよ。議論したけれども母親さんには私の言事が解らないと見えてネ、唯腹ばッかり立てているのだから、教育の無い者は仕様がないのネー」
ト極り文句。文三は垂れていた頭をフッと振挙げて、
「エ、母親さんと議論を成すった」
「ハア」
「僕の為めに」
「ハア、君の為めに弁護したの」
「アア」
ト言ッて文三は差俯向いてしまう。何だか膝の上へボッタリ落ちた物が有る。
「どうかしたの、文さん」
トいわれて文三は漸く頭を擡げ、莞爾笑い、その癖眶を湿ませながら、
「どうもしないが……実に……実に嬉れしい……母親さんの仰しゃる通り、二十三にも成ッてお袋一人さえ過しかねるそんな不甲斐ない私をかばって母親さんと議論をなすったと、実に……」
「条理を説ても解らない癖に腹ばかり立てているから仕様がないの」
ト少し得意の躰。
「アアそれ程までに私を……思ッて下さるとは知らずして、貴嬢に向ッて匿立てをしたのが今更耻かしい、アア耻かしい。モウこうなれば打散けてお話してしまおう、実はこれから下宿をしようかと思ッていました」
「下宿を」
「サ為ようかと思ッていたんだが、しかしもう出来ない。他人同様の私をかばって実の母親さんと議論をなすった、その貴嬢の御信切を聞ちゃ、しろと仰しゃッてももう出来ない……がそうすると、母親さんにお詫を申さなければならないが……」
「打遣ッてお置きなさいヨ。あんな教育の無い者が何と言ッたッて好う御座んさアネ」
「イヤそうでない、それでは済まない、是非お詫を申そう。がしかしお勢さん、お志は嬉しいが、もう母親さんと議論をすることは罷めて下さい、私の為めに貴嬢を不孝の子にしては済まないから」
「お勢」
ト下坐舗の方でお政の呼ぶ声がする。
「アラ母親さんが呼んでお出でなさる」
「ナアニ用も何にも有るんじゃアないの」
「お勢」
「マア返事を為さいヨ」
「お勢お勢」
「ハアイ……チョッ五月蠅こと」
ト起揚る。
「今話した事は皆母親さんにはコレですよ」
ト文三が手頭を振ッて見せる。お勢は唯点頭た而已で言葉はなく、二階を降りて奥坐舗へ参ッた。
先程より疳癪の眥を釣り上げて手ぐすね引て待ッていた母親のお政は、お勢の顔を見るより早く、込み上げて来る小言を一時にさらけ出しての大怒鳴。
「お……お……お勢、あれ程呼ぶのがお前には聞えなかッたかエ、聾者じゃアあるまいし、人が呼んだら好加減に返事をするがいい……全躰マア何の用が有ッて二階へお出でだ、エ、何の用が有ッてだエ」
ト逆上あがッて極め付けても、此方は一向平気なもので、
「何にも用は有りゃアしないけれども……」
「用がないのに何故お出でだ。先刻あれほど、もうこれからは今までのようにヘタクタ二階へ往ッてはならないと言ッたのがお前にはまだ解らないかエ。さかりの附た犬じゃアあるまいし、間がな透がな文三の傍へばッかし往きたがるよ」
「今までは二階へ往ッても善くッてこれからは悪いなんぞッて、そんな不条理な」
「チョッ解らないネー、今までの文三と文三が違います。お前にゃア免職になった事が解らないかエ」
「オヤ免職に成ッてどうしたの、文さんが人を見ると咬付きでもする様になったの、ヘーそう」
「な、な、な、なんだと、何とお言いだ……コレお勢、それはお前あんまりと言うもんだ、余り親をば、ば、ば、馬鹿にすると言うもんだ」
「ば、ば、ば、馬鹿にはしません。ヘー私は条理のある所を主張するので御座います」
ト唇を反らしていうを聞くや否や、お政は忽ち顔色を変えて手に持ッていた長羅宇の烟管を席へ放り付け、
「エーくやしい」
ト歯を喰切ッて口惜しがる。その顔を横眼でジロリと見たばかりで、お勢はすまアし切ッて座舗を立出でてしまッた。
しかしながらこれを親子喧嘩と思うと女丈夫の本意に負く。どうしてどうして親子喧嘩……そんな不道徳な者でない。これはこれ辱なくも難有くも日本文明の一原素ともなるべき新主義と時代後れの旧主義と衝突をするところ、よくお眼を止めて御覧あられましょう。
その夜文三は断念ッて叔母に詫言をもうしたが、ヤ梃ずったの梃ずらないのと言てそれはそれは……まずお政が今朝言ッた厭味に輪を懸け枝を添えて百万陀羅并べ立てた上句、お勢の親を麁末にするのまでを文三の罪にして難題を言懸ける。されども文三が死だ気になって諸事お容るされてで持切ッているに、お政もスコだれの拍子抜けという光景で厭味の音締をするように成ッたから、まず好しと思う間もなく、不図又文三の言葉尻から燃出して以前にも立優る火勢、黒烟焔々と顔に漲るところを見てはとても鎮火しそうも無かッたのも、文三が済ませぬの水を斟尽して澆ぎかけたので次第々々に下火になって、プスプス燻になって、遂に不精々々に鎮火る。文三は吻と一息、寸善尺魔の世の習い、またもや御意の変らぬ内にと、挨拶も匆々に起ッて坐敷を立出で二三歩すると、後の方でお政がさも聞えよがしの独語、
「アアアア今度こそは厄介払いかと思ッたらまた背負込みか」
第六回 どちら着ずのちくらが沖
秋の日影も稍傾いて庭の梧桐の影法師が背丈を伸ばす三時頃、お政は独り徒然と長手の火鉢に凭れ懸ッて、斜に坐りながら、火箸を執て灰へ書く、楽書も倭文字、牛の角文字いろいろに、心に物を思えばか、怏々たる顔の色、動もすれば太息を吐いている折しも、表の格子戸をガラリト開けて、案内もせず這入ッて来て、隔の障子の彼方からヌット顔を差出して、
「今日は」
ト挨拶をした男を見れば、何処かで見たような顔と思うも道理、文三の免職になった当日、打連れて神田見附の裏より出て来た、ソレ中背の男と言ッたその男で。今日は退省後と見えて不断着の秩父縞の袷衣の上へ南部の羽織をはおり、チト疲労れた博多の帯に袂時計の紐を捲付けて、手に土耳斯形の帽子を携えている。
「オヤ何人かと思ッたらお珍らしいこと、此間はさっぱりお見限りですネ。マアお這入なさいナ、それとも老婆ばかりじゃアお厭かネ、オホホホホホ」
「イヤ結構……結構も可笑しい、アハハハハハ。トキニ何は、内海は居ますか」
「ハア居ますヨ」
「それじゃちょいと逢て来てからそれからこの間の復讐だ、覚悟をしてお置きなさい」
「返討じゃアないかネ」
「違いない」
ト何か判らぬ事を言ッて、中背の男は二階へ上ッてしまッた。
帰ッて来ぬ間にチョッピリこの男の小伝をと言う可きところなれども、何者の子でどんな教育を享けどんな境界を渡ッて来た事か、過去ッた事は山媛の霞に籠ッておぼろおぼろ、トント判らぬ事而已。風聞に拠れば総角の頃に早く怙恃を喪い、寄辺渚の棚なし小舟では無く宿無小僧となり、彼処の親戚此処の知己と流れ渡ッている内、曾て侍奉公までした事が有るといいイヤ無いという、紛々たる人の噂は滅多に宛になら坂や児手柏の上露よりももろいものと旁付て置いて、さて正味の確実なところを掻摘んで誌せば、産は東京で、水道の水臭い士族の一人だと履歴書を見た者の噺し、こればかりは偽でない。本田昇と言ッて、文三より二年前に某省の等外を拝命した以来、吹小歇のない仕合の風にグットのした出来星判任、当時は六等属の独身ではまず楽な身の上。
昇は所謂才子で、頗る智慧才覚が有ッてまた能く智慧才覚を鼻に懸ける。弁舌は縦横無尽、大道に出る豆蔵の塁を摩して雄を争うも可なりという程では有るが、竪板の水の流を堰かねて折節は覚えず法螺を吹く事もある。また小奇用で、何一ツ知らぬという事の無い代り、これ一ツ卓絶て出来るという芸もない、怠るが性分で倦るが病だといえばそれもその筈か。
昇はまた頗る愛嬌に富でいて、極て世辞がよい。殊に初対面の人にはチヤホヤもまた一段で、婦人にもあれ老人にもあれ、それ相応に調子を合せて曾てそらすという事なし。唯不思議な事には、親しくなるに随い次第に愛想が無くなり、鼻の頭で待遇て折に触れては気に障る事を言うか、さなくば厭におひゃらかす。それを憤りて喰て懸れば、手に合う者はその場で捻返し、手に合わぬ者は一時笑ッて済まして後、必ず讐を酬ゆる……尾籠ながら、犬の糞で横面を打曲げる。
とはいうものの昇は才子で、能く課長殿に事える。この課長殿というお方は、曾て西欧の水を飲まれた事のあるだけに「殿様風」という事がキツイお嫌いと見えて、常に口を極めて御同僚方の尊大の風を御誹謗遊ばすが、御自分は評判の気むずかし屋で、御意に叶わぬとなると瑣細の事にまで眼を剥出して御立腹遊ばす、言わば自由主義の圧制家という御方だから、哀れや属官の人々は御機嫌の取様に迷いてウロウロする中に、独り昇は迷かぬ。まず課長殿の身態声音はおろか、咳払いの様子から嚔の仕方まで真似たものだ。ヤそのまた真似の巧な事というものは、あたかもその人が其処に居て云為するが如くでそっくりそのまま、唯相違と言ッては、課長殿は誰の前でもアハハハとお笑い遊ばすが、昇は人に依ッてエヘヘ笑いをする而已。また課長殿に物など言懸けられた時は、まず忙わしく席を離れ、仔細らしく小首を傾けて謹で承り、承り終ッてさて莞爾微笑して恭しく御返答申上る。要するに昇は長官を敬すると言ッても遠ざけるには至らず、狎れるといっても涜すには至らず、諸事万事御意の随意々々曾て抵抗した事なく、しかのみならず……此処が肝賢要……他の課長の遺行を数て暗に盛徳を称揚する事も折節はあるので、課長殿は「見所のある奴じゃ」ト御意遊ばして御贔負に遊ばすが、同僚の者は善く言わぬ。昇の考では皆法界悋気で善く言わぬのだという。
ともかくも昇は才子で、毎日怠らず出勤する。事務に懸けては頗る活溌で、他人の一日分沢山の事を半日で済ましても平気孫左衛門、難渋そうな顔色もせぬが、大方は見せかけの勉強態、小使給事などを叱散らして済まして置く。退省て下宿へ帰る、衣服を着更る、直ぐ何処へか遊びに出懸けて、落着て在宿していた事は稀だという。日曜日には、御機嫌伺いと号して課長殿の私邸へ伺候し、囲碁のお相手をもすれば御私用をも達す。先頃もお手飼に狆が欲しいと夫人の御意、聞よりも早飲込み、日ならずして何処で貰ッて来た事か、狆の子一疋を携えて御覧に供える。件の狆を御覧じて課長殿が「此奴妙な貌をしているじゃアないか、ウー」ト御意遊ばすと、昇も「左様で御座います、チト妙な貌をしております」ト申上げ、夫人が傍から「それでも狆はこんなに貌のしゃくんだ方が好いのだと申ます」ト仰しゃると、昇も「成程夫人の仰の通り狆はこんなに貌のしゃくんだ方が好いのだと申ます」ト申上げて、御愛嬌にチョイト狆の頭を撫でて見たとか。しかし永い間には取外しも有ると見えて、曾て何かの事で些しばかり課長殿の御機嫌を損ねた時は、昇はその当坐一両日の間、胸が閉塞て食事が進まなかッたとかいうが、程なく夫人のお癪から揉やわらげて、殿さまの御肝癖も療治し、果は自分の胸の痞も押さげたという、なかなか小腕のきく男で。
下宿が眼と鼻の間の所為か、昇は屡々文三の所へ遊びに来る。お勢が帰宅してからは、一段足繁くなって、三日にあげず遊びに来る。初とは違い、近頃は文三に対しては気に障わる事而已を言散らすか、さもなければ同僚の非を数えて「乃公は」との自負自讃、「人間地道に事をするようじゃ役に立たぬ」などと勝手な熱を吐散らすが、それは邂逅の事で、大方は下坐敷でお政を相手に無駄口を叩き、或る時は花合せとかいうものを手中に弄して、如何な真似をした上句、寿司などを取寄せて奢散らす。勿論お政には殊の外気に入ッてチヤホヤされる、気に入り過ぎはしないかと岡焼をする者も有るが、まさか四十面をさげて……お勢には……シッ跫音がする、昇ではないか……当ッた。
「トキニ内海はどうも飛だ事で、実に気の毒な、今も往て慰めて来たが塞切ッている」
「放擲てお置きなさいヨ。身から出た錆だもの、些とは塞ぐも好のサ」
「そう言えばそんなような者だが、しかし何しろ気の毒だ。こういう事になろうと疾くから知ていたらまたどうにか仕様も有たろうけれども、何しても……」
「何とか言ッてましたろうネ」
「何を」
「私の事をサ」
「イヤ何とも」
「フム貴君も頼もしくないネ、あんな者を朋友にして同類にお成んなさる」
「同類にも何にも成りゃアしないが、真実に」
「そう」
ト談話の内に茶を入れ、地袋の菓子を取出して昇に侑め、またお鍋を以てお勢を召ばせる。何時もならば文三にもと言うところを今日は八分したゆえ、お鍋が不審に思い、「お二階へは」ト尋ねると、「ナニ茶がカッ食いたきゃア……言ないでも宜ヨ」ト答えた。これを名けて Woman's revenge(婦人の復讐)という。
「どうしたんです、鬩り合いでもしたのかネ」
「鬩合いなら宜がいじめられたの、文三にいじめられたの……」
「それはまたどうした理由で」
「マア本田さん、聞ておくんなさい、こうなんですヨ」
ト昨日文三にいじめられた事を、おまけにおまけを附着てベチャクチャと饒舌り出しては止度なく、滔々蕩々として勢い百川の一時に決した如くで、言損じがなければ委みもなく、多年の揣摩一時の宏弁、自然に備わる抑揚頓挫、或は開き或は闔じて縦横自在に言廻わせば、鷺も烏に成らずには置かぬ。哀むべし文三は竟に世にも怖ろしい悪棍と成り切ッた所へ、お勢は手に一部の女学雑誌を把持ち、立ながら読み読み坐舗へ這入て来て、チョイト昇に一礼したのみで嫣然ともせず、饒舌ながら母親が汲で出す茶碗を憚りとも言わずに受取りて、一口飲で下へ差措たまま、済まアし切ッて再復び読みさした雑誌を取り上げて眺め詰めた、昇と同席の時は何時でもこうで。
「トいう訳でツイそれなり鳧にしてしまいましたがネ、マア本田さん、貴君は何方が理屈だとお思なさる」
「それは勿論内海が悪い」
「そのまた悪い文三の肩を持ッてサ、私に喰ッて懸ッた者があると思召せ」
「アラ喰ッて懸りはしませんワ」
「喰ッて懸らなくッてサ……私はもうもう腹が立て腹が立て堪らなかッたけれども、何してもこの通り気が弱いシ、それに先には文三という荒神様が附てるからとても叶う事ちゃア無いとおもって、虫を殺ろして噤黙てましたがネ……」
「アラあんな虚言ばッかり言ッて」
「虚言じゃないワ真実だワ……マなんぼなんだッて呆れ返るじゃ有りませんか。ネー貴君、何処の国にか他人の肩を持ッてサ、シシババの世話をしてくれた現在の親に喰ッて懸るという者が有るもんですかネ。ネー本田さん、そうじゃア有りませんか。ギャット産れてからこれまでにするにア仇や疎かな事じゃア有りません。子を持てば七十五度泣くというけれども、この娘の事てはこれまで何百度泣たか知れやアしない。そんなにして養育て貰ッても露程も有難いと思ッてないそうで、この頃じゃ一口いう二口目にゃ速ぐ悪たれ口だ。マなんたら因果でこんな邪見な子を持ッたかと思うとシミジミ悲しくなりますワ」
「人が黙ッていれば好気になってあんな事を言ッて、余りだから宜ワ。私は三歳の小児じゃないから親の恩位は知ていますワ。知ていますけれども条理……」
「アアモウ解ッた解ッた、何にも宣うナ。よろしいヨ、解ッたヨ」
ト昇は憤然と成ッて饒舌り懸けたお勢の火の手を手頸で煽り消して、さてお政に向い、
「しかし叔母さん、此奴は一番失策ッたネ、平生の粋にも似合わないなされ方、チトお恨みだ。マア考えて御覧じろ、内海といじり合いが有ッて見ればネ、ソレ……という訳が有るからお勢さんも黙ッては見ていられないやアネ、アハハハハ」
ト相手のない高笑い。お勢は額で昇を睨めたまま何とも言わぬ、お政も苦笑いをした而已でこれも黙然、些と席がしらけた趣き。
「それは戯談だがネ、全体叔母さん余り慾が深過るヨ、お勢さんの様なこんな上出来な娘を持ちながら……」
「なにが上出来なもんですか……」
「イヤ上出来サ。上出来でないと思うなら、まず世間の娘子を御覧なさい。お勢さん位の年恰好でこんなに縹致がよくッて見ると、学問や何かは其方退けで是非色狂いとか何とか碌な真似はしたがらぬものだけれども、お勢さんはさすがは叔母さんの仕込みだけ有ッて、縹致は好くッても品行は方正で、曾て浮気らしい真似をした事はなく、唯一心に勉強してお出でなさるから漢学は勿論出来るシ、英学も……今何を稽古してお出でなさる」
「『ナショナル』の『フォース』に列国史に……」
「フウ、『ナショナル』の『フォース』、『ナショナル』の『フォース』と言えば、なかなか難しい書物だ、男子でも読ない者は幾程も有る。それを芳紀も若くッてかつ婦人の身でいながら稽古してお出でなさる、感心な者だ。だからこの近辺じゃアこう言やア失敬のようだけれども、鳶が鷹とはあの事だと言ッて評判していますゼ。ソレ御覧、色狂いして親の顔に泥を塗ッても仕様がないところを、お勢さんが出来が宜いばっかりに叔母さんまで人に羨まれる。ネ、何も足腰按るばかりが孝行じゃアない、親を人に善く言わせるのも孝行サ。だから全体なら叔母さんは喜んでいなくッちゃアならぬところを、それをまだ不足に思ッてとやこういうのは慾サ、慾が深過ぎるのサ」
「ナニ些とばかりなら人様に悪く言われても宜からもう些し優しくしてくれると宜だけれども、邪慳で親を親臭いとも思ッていないから悪くッて成りゃアしません」
ト眼を細くして娘の方を顧視る。こういう眺め方も有るものと見える。
「喜び叙にもう一ツ喜んで下さい。我輩今日一等進みました」
「エ」
トお政は此方を振向き、吃驚した様子で暫らく昇の顔を目守めて、
「御結構が有ッたの……ヘエエー……それはマア何してもお芽出度御座いました」
ト鄭重に一礼して、さて改めて頭を振揚げ、
「ヘー御結構が有ッたの……」
お勢もまた昇が「御結構が有ッた」と聞くと等しく吃驚した顔色をして些し顔を赧らめた。咄々怪事もあるもので。
「一等お上なすッたと言うと、月給は」
「僅五円違いサ」
「オヤ五円違いだッて結構ですワ。こうッ今までが三十円だッたから五円殖えて……」
「何ですネー母親さん、他人の収入を……」
「マアサ五円殖えて三十五円、結構ですワ、結構でなくッてサ。貴君どうして今時高利貸したッて月三十五円取ろうと言うなア容易な事ちゃア有りませんヨ……三十五円……どうしても働らき者は違ッたもんだネー。だからこの娘とも常不断そう言ッてます事サ、アノー本田さんは何だと、内の文三や何かとは違ッてまだ若くッてお出でなさるけれども、利口で気働らきが有ッて、如才が無くッて……」
「談話も艶消しにして貰たいネ」
「艶じゃア無い、真個にサ。如才が無くッてお世辞がよくッて男振も好けれども、唯物喰いの悪いのが可惜瑜に疵だッて、オホホホホ」
「アハハハハ、貧乏人の質で上げ下げが怖ろしい」
「それはそうと、孰れ御結構振舞いが有りましょうネ。新富かネ、但しは市村かネ」
「何処へなりとも、但し負ぶで」
「オヤそれは難有くも何ともないこと」
トまた口を揃えて高笑い。
「それは戯談だがネ、芝居はマア芝居として、どうです、明後日団子坂へ菊見という奴は」
「菊見、さようさネ、菊見にも依りけりサ。犬川じゃア、マア願い下げだネ」
「其処にはまた異な寸法も有ろうサ」
「笹の雪じゃアないかネ」
「まさか」
「真個に往きましょうか」
「お出でなさいお出でなさい」
「お勢、お前もお出ででないか」
「菊見に」
「アア」
お勢は生得の出遊き好き、下地は好きなり御意はよし、菊見の催頗る妙だが、オイソレというも不見識と思ッたか、手弱く辞退して直ちに同意してしまう。十分ばかりを経て昇が立帰ッた跡で、お政は独言のように、
「真個に本田さんは感心なもんだナ、未だ年齢も若いのに三十五円月給取るように成んなすった。それから思うと内の文三なんざア盆暗の意久地なしだッちゃアない、二十三にも成ッて親を養すどこか自分の居所立所にさえ迷惑てるんだ。なんぼ何だッて愛想が尽きらア」
「だけれども本田さんは学問は出来ないようだワ」
「フム学問々々とお言いだけれども、立身出世すればこそ学問だ。居所立所に迷惑くようじゃア、些とばかし書物が読めたッてねっから難有味がない」
「それは不運だから仕様がないワ」
トいう娘の顔をお政は熟々目守めて、
「お勢、真個にお前は文三と何にも約束した覚えはないかえ。エ、有るなら有ると言ておしまい、隠立をすると却てお前の為にならないヨ」
「またあんな事を言ッて……昨日あれ程そんな覚えは無いと言ッたのが母親さんには未だ解らないの、エ、まだ解らないの」
「チョッ、また始まッた。覚えが無いなら無いで好やアネ、何にもそんなに熱くならなくッたッて」
「だッて人をお疑りだものヲ」
暫らく談話が断絶れる、母親も娘も何か思案顔。
「母親さん、明後日は何を衣て行こうネ」
「何なりとも」
「エート、下着は何時ものアレにしてト、それから上着は何衣にしようかしら、やッぱり何時もの黄八丈にして置こうかしら……」
「もう一ツのお召縮緬の方にお為ヨ、彼方がお前にゃア似合うヨ」
「デモあれは品が悪いものヲ」
「品が悪いてッたッて」
「アアこんな時にア洋服が有ると好のだけれどもナ……」
「働き者を亭主に持ッて、洋服なとなんなと拵えて貰うのサ」
トいう母親の顔をお勢はジット目守めて不審顔。
第二編
第七回 団子坂の観菊 上
日曜日は近頃に無い天下晴れ、風も穏かで塵も起たず、暦を繰て見れば、旧暦で菊月初旬という十一月二日の事ゆえ、物観遊山には持て来いと云う日和。
園田一家の者は朝から観菊行の支度とりどり。晴衣の亘長を気にしてのお勢のじれこみがお政の肝癪と成て、廻りの髪結の来ようの遅いのがお鍋の落度となり、究竟は万古の茶瓶が生れも付かぬ欠口になるやら、架棚の擂鉢が独手に駈出すやら、ヤッサモッサ捏返している所へ生憎な来客、しかも名打の長尻で、アノ只今から団子坂へ参ろうと存じて、という言葉にまで力瘤を入れて見ても、まや薬ほども利かず、平気で済まして便々とお神輿を据えていられる。そのじれッたさ、もどかしさ。それでも宜くしたもので、案じるより産むが易く、客もその内に帰れば髪結も来る、ソコデ、ソレ支度も調い、十一時頃には家内も漸く静まッて、折節には高笑がするようになッた。
文三は拓落失路の人、仲々以て観菊などという空は無い。それに昇は花で言えば今を春辺と咲誇る桜の身、此方は日蔭の枯尾花、到頭楯突く事が出来ぬ位なら打たせられに行くでも無いと、境界に随れて僻みを起し、一昨日昇に誘引た時既にキッパリ辞ッて行かぬと決心したからは、人が騒ごうが騒ぐまいが隣家の疝気で関繋のない噺、ズット澄していられそうなもののさて居られぬ。嬉しそうに人のそわつくを見るに付け聞くに付け、またしても昨日の我が憶出されて、五月雨頃の空と湿める、嘆息もする、面白くも無い。
ヤ面白からぬ。文三には昨日お勢が「貴君もお出なさるか」ト尋ねた時、行かぬと答えたら、「ヘーそうですか」ト平気で澄まして落着払ッていたのが面白からぬ。文三の心持では、成ろう事なら、行けと勧めて貰いたかッた。それでも尚お強情を張ッて行かなければ、「貴君と御一所でなきゃア私も罷しましょう」とか何とか言て貰いたかッた……
「シカシこりゃア嫉妬じゃアない……」
と不図何か憶出して我と我に分疏を言て見たが、まだ何処かくすぐられるようで……不安心で。
行くも厭なり留まるも厭なりで、気がムシャクシャとして肝癪が起る。誰と云て取留めた相手は無いが腹が立つ。何か火急の要事が有るようでまた無いようで、無いようでまた有るようで、立てもいられず坐てもいられず、どうしてもこうしても落着かれない。
落着かれぬままに文三がチト読書でもしたら紛れようかと、書函の書物を手当放題に取出して読みかけて見たが、いッかな争な紛れる事でない。小むずかしい面相をして書物と疾視競したところはまず宜たが、開巻第一章の一行目を反覆読過して見ても、更にその意義を解し得ない。その癖下坐舗でのお勢の笑声は意地悪くも善く聞えて、一回聞けば則ち耳の洞の主人と成ッて、暫らくは立去らぬ。舌鼓を打ちながら文三が腹立しそうに書物を擲却して、腹立しそうに机に靠着ッて、腹立しそうに頬杖を杖き、腹立しそうに何処ともなく凝視めて……フトまた起直ッて、蘇生ッたような顔色をして、
「モシ罷めになッたら……」
ト取外して言いかけて倏忽ハッと心附き、周章て口を鉗んで、吃驚して、狼狽して、遂に憤然となッて、「畜生」と言いざま拳を振挙げて我と我を威して見たが、悪戯な虫奴は心の底でまだ……やはり……
シカシ生憎故障も無かッたと見えて昇は一時頃に参ッた。今日は故意と日本服で、茶の糸織の一ツ小袖に黒七子の羽織、帯も何か乙なもので、相変らず立とした服飾。梯子段を踏轟かして上ッて来て、挨拶をもせずに突如まず大胡坐。我鼻を視るのかと怪しまれる程の下眼を遣ッて文三の顔を視ながら、
「どうした、土左的宜しくという顔色だぜ」
「些し頭痛がするから」
「そうか、尼御台に油を取られたのでもなかッたか、アハハハハ」
チョイと云う事からしてまず気に障わる。文三も怫然とはしたが、其処は内気だけに何とも言わなかった。
「どうだ、どうしても往かんか」
「まずよそう」
「剛情だな……ゴジョウだからお出なさいよじゃ無いか、アハハハ。ト独りで笑うほかまず仕様が無い、何を云ッても先様にゃお通じなしだ、アハハハ」
戯言とも附かず罵詈とも附かぬ曖昧なお饒舌に暫らく時刻を移していると、忽ち梯子段の下にお勢の声がして、
「本田さん」
「何です」
「アノ車が参りましたから、よろしくば」
「出懸けましょう」
「それではお早く」
「チョイとお勢さん」
「ハイ」
「貴嬢と合乗なら行ても宜というのがお一方出来たが承知ですかネ」
返答は無く、唯バタバタと駆出す足音がした。
「アハハハ、何にも言わずに逃出すなぞは未だしおらしいネ」
ト言ったのが文三への挨拶で、昇はそのまま起上ッて二階を降りて往った。跡を目送りながら文三が、さもさも苦々しそうに口の中で、
「馬鹿奴……」
ト言ったその声が未だ中有に徘徊ッている内に、フト今年の春向島へ観桜に往った時のお勢の姿を憶出し、どういう心計か蹶然と起上り、キョロキョロと四辺を環視して火入に眼を注けたが、おもい直おして旧の座になおり、また苦々しそうに、
「馬鹿奴」
これは自ら叱責ったので。
午後はチト風が出たがますます上天気、殊には日曜と云うので団子坂近傍は花観る人が道去り敢えぬばかり。イヤ出たぞ出たぞ、束髪も出た島田も出た、銀杏返しも出た丸髷も出た、蝶々髷も出たおケシも出た。○○会幹事、実は古猫の怪という、鍋島騒動を生で見るような「マダム」某も出た。芥子の実ほどの眇少しい智慧を両足に打込んで、飛だり跳たりを夢にまで見る「ミス」某も出た。お乳母も出たお爨婢も出た。ぞろりとした半元服、一夫数妻論の未だ行われる証拠に上りそうな婦人も出た。イヤ出たぞ出たぞ、坊主も出た散髪も出た、五分刈も出たチョン髷も出た。天帝の愛子、運命の寵臣、人の中の人、男の中の男と世の人の尊重の的、健羨の府となる昔所謂お役人様、今の所謂官員さま、後の世になれば社会の公僕とか何とか名告るべき方々も出た。商賈も出た負販の徒も出た。人の横面を打曲げるが主義で、身を忘れ家を忘れて拘留の辱に逢いそうな毛臑暴出しの政治家も出た。猫も出た杓子も出た。人様々の顔の相好、おもいおもいの結髪風姿、聞覩に聚まる衣香襟影は紛然雑然として千態万状、ナッカなか以て一々枚挙するに遑あらずで、それにこの辺は道幅が狭隘ので尚お一段と雑沓する。そのまた中を合乗で乗切る心無し奴も有難の君が代に、その日活計の土地の者が摺附木の函を張りながら、往来の花観る人をのみ眺めて遂に真の花を観ずにしまうかと、おもえば実に浮世はいろいろさまざま。
さてまた団子坂の景況は、例の招牌から釣込む植木屋は家々の招きの旗幟を翩翻と金風に飄し、木戸々々で客を呼ぶ声はかれこれからみ合て乱合て、入我我入でメッチャラコ、唯逆上ッた木戸番の口だらけにした面が見える而已で、何時見ても変ッた事もなし。中へ這入ッて見てもやはりその通りで。
一体全体菊というものは、一本の淋しきにもあれ千本八千本の賑しきにもあれ、自然のままに生茂ッてこそ見所の有ろう者を、それをこの辺の菊のようにこう無残々々と作られては、興も明日も覚めるてや。百草の花のとじめと律義にも衆芳に後れて折角咲いた黄菊白菊を、何でも御座れに寄集めて小児騙欺の木偶の衣裳、洗張りに糊が過ぎてか何処へ触ッてもゴソゴソとしてギゴチ無さそうな風姿も、小言いッて観る者は千人に一人か二人、十人が十人まず花より団子と思詰めた顔色、去りとはまた苦々しい。ト何処かの隠居が、菊細工を観ながら愚痴を滴したと思食せ。(看官)何だ、つまらない。
閑話不題。
轟然と飛ぶが如くに駆来ッた二台の腕車がピッタリと停止る。車を下りる男女三人の者はお馴染の昇とお勢母子の者で。
昇の服装は前文にある通り。
お政は鼠微塵の糸織の一ツ小袖に黒の唐繻子の丸帯、襦袢の半襟も黒縮緬に金糸でパラリと縫の入ッた奴か何かで、まず気の利いた服飾。
お勢は黄八丈の一ツ小袖に藍鼠金入繻珍の丸帯、勿論下にはお定りの緋縮緬の等身襦袢、此奴も金糸で縫の入ッた水浅黄縮緬の半襟をかけた奴で、帯上はアレハ時色縮緬、統括めて云えばまず上品なこしらえ。
シカシ人足の留まるは衣裳附よりは寧ろその態度で、髪も例の束髪ながら何とか結びとかいう手のこんだ束ね方で、大形の薔薇の花挿頭を挿し、本化粧は自然に背くとか云ッて薄化粧の清楚な作り、風格丰神共に優美で。
「色だ、ナニ夫婦サ」と法界悋気の岡焼連が目引袖引取々に評判するを漏聞く毎に、昇は得々として機嫌顔、これ見よがしに母子の者を其処茲処と植木屋を引廻わしながらも片時と黙してはいない。人の傍聞するにも関わず例の無駄口をのべつに並べ立てた。
お勢も今日は取分け気の晴れた面相で、宛然籠を出た小鳥の如くに、言葉は勿論歩風身体のこなしにまで何処ともなく活々としたところが有ッて冴が見える。昇の無駄を聞ては可笑しがッて絶えず笑うが、それもそうで、強ち昇の言事が可笑しいからではなく、黙ッていても自然と可笑しいからそれで笑うようで。
お政は菊細工には甚だ冷淡なもので、唯「綺麗だことネー」ト云ッてツラリと見亘すのみ。さして眼を注める様子もないが、その代りお勢と同年配頃の娘に逢えば、叮嚀にその顔貌風姿を研窮する。まず最初に容貌を視て、次に衣服を視て、帯を視て爪端を視て、行過ぎてからズーと後姿を一瞥して、また帯を視て髪を視て、その跡でチョイとお勢を横目で視て、そして澄ましてしまう。妙な癖も有れば有るもので。
昇等三人の者は最後に坂下の植木屋へ立寄ッて、次第々々に見物して、とある小舎の前に立止ッた。其処に飾付て在ッた木像の顔が文三の欠伸をした面相に酷く肖ているとか昇の云ッたのが可笑しいといって、お勢が嬌面に袖を加てて、勾欄におッ被さッて笑い出したので、傍に鵠立でいた書生体の男が、俄に此方を振向いて愕然として眼鏡越しにお勢を凝視めた。「みッともないよ」ト母親ですら小言を言ッた位で。
漸くの事で笑いを留めて、お勢がまだ莞爾々々と微笑のこびり付ている貌を擡げて傍を視ると、昇は居ない。「オヤ」ト云ッてキョロキョロと四辺を環視わして、お勢は忽ち真面目な貌をした。
と見れば後の小舎の前で、昇が磬折という風に腰を屈めて、其処に鵠立でいた洋装紳士の背に向ッて荐りに礼拝していた。されども紳士は一向心附かぬ容子で、尚お彼方を向いて鵠立でいたが、再三再四虚辞儀をさしてから、漸くにムシャクシャと頬鬚の生弘ッた気むずかしい貌を此方へ振向けて、昇の貌を眺め、莞然ともせず帽子も被ッたままで唯鷹揚に点頭すると、昇は忽ち平身低頭、何事をか喃々と言いながら続けさまに二ツ三ツ礼拝した。
紳士の随伴と見える両人の婦人は、一人は今様おはつとか称える突兀たる大丸髷、今一人は落雪とした妙齢の束髪頭、孰れも水際の立つ玉揃い、面相といい風姿といい、どうも姉妹らしく見える。昇はまず丸髷の婦人に一礼して次に束髪の令嬢に及ぶと、令嬢は狼狽て卒方を向いて礼を返えして、サット顔を赧めた。
暫らく立在での談話、間が隔離れているに四辺が騒がしいのでその言事は能く解らないが、なにしても昇は絶えず口角に微笑を含んで、折節に手真似をしながら何事をか喋々と饒舌り立てていた。その内に、何か可笑しな事でも言ッたと見えて、紳士は俄然大口を開いて肩を揺ッてハッハッと笑い出し、丸髷の夫人も口頭に皺を寄せて笑い出し、束髪の令嬢もまた莞爾笑いかけて、急に袖で口を掩い、額越に昇の貌を眺めて眼元で笑った。身に余る面目に昇は得々として満面に笑いを含ませ、紳士の笑い罷むを待ッてまた何か饒舌り出した。お勢母子の待ッている事は全く忘れているらしい。
お勢は紳士にも貴婦人にも眼を注めぬ代り、束髪の令嬢を穴の開く程目守めて一心不乱、傍目を触らなかった、呼吸をも吻かなかッた、母親が物を言懸けても返答もしなかった。
その内に紳士の一行がドロドロと此方を指して来る容子を見て、お政は茫然としていたお勢の袖を匆わしく曳揺かして疾歩に外面へ立出で、路傍に鵠在で待合わせていると、暫らくして昇も紳士の後に随って出て参り、木戸口の所でまた更に小腰を屈めて皆それぞれに分袂の挨拶、叮嚀に慇懃に喋々しく陳べ立てて、さて別れて独り此方へ両三歩来て、フト何か憶出したような面相をしてキョロキョロと四辺を環視わした。
「本田さん、此処だよ」
ト云うお政の声を聞付けて、昇は急足に傍へ歩寄り、
「ヤ大にお待遠う」
「今の方は」
「アレガ課長です」
ト云ってどうした理由か莞爾々々と笑い、
「今日来る筈じゃ無かッたんだが……」
「アノ丸髷に結ッた方は、あれは夫人ですか」
「そうです」
「束髪の方は」
「アレですか、ありゃ……」
ト言かけて後を振返って見て、
「妻君の妹です……内で見たよりか余程別嬪に見える」
「別嬪も別嬪だけれども、好いお服飾ですことネー」
「ナニ今日はあんなお嬢様然とした風をしているけれども、家にいる時は疎末な衣服で、侍婢がわりに使われているのです」
「学問は出来ますか」
ト突然お勢が尋ねたので、昇は愕然として、
「エ学問……出来るという噺も聞かんが……それとも出来るかしらん。この間から課長の所に来ているのだから、我輩もまだ深くは情実を知らないのです」
ト聞くとお勢は忽ち眼元に冷笑の気を含ませて、振反って、今将に坂の半腹の植木屋へ這入ろうとする令嬢の後姿を目送ッて、チョイと我帯を撫でてそしてズーと澄ましてしまッた。
坂下に待たせて置た車に乗ッて三人の者はこれより上野の方へと参ッた。
車に乗ッてからお政がお勢に向い、
「お勢、お前も今のお娘さんのように、本化粧にして来りゃア宜かッたのにネー」
「厭サ、あんな本化粧は」
「オヤ何故え」
「だッて厭味ッたらしいもの」
「ナニお前十代の内なら秋毫も厭味なこたア有りゃしないわネ。アノ方が幾程宜か知れない、引立が好くッて」
「フフンそんなに宜きゃア慈母さんお做なさいな。人が厭だというものを好々ッて、可笑しな慈母さんだよ」
「好と思ッたから唯好じゃ無いかと云ッたばかしだアネ、それをそんな事いうッて真個にこの娘は可笑しな娘だよ」
お勢はもはや弁難攻撃は不必要と認めたと見えて、何とも言わずに黙してしまッた。それからと云うものは、塞ぐのでもなく萎れるのでもなく、唯何となく沈んでしまッて、母親が再び談話の墜緒を紹うと試みても相手にもならず、どうも乙な塩梅であったが、シカシ上野公園に来着いた頃にはまた口をきき出して、また旧のお勢に立戻ッた。
上野公園の秋景色、彼方此方にむらむらと立駢ぶ老松奇檜は、柯を交じえ葉を折重ねて鬱蒼として翠も深く、観る者の心までが蒼く染りそうなに引替え、桜杏桃李の雑木は、老木稚木も押なべて一様に枯葉勝な立姿、見るからがまずみすぼらしい。遠近の木間隠れに立つ山茶花の一本は、枝一杯に花を持ッてはいれど、㷀々として友欲し気に見える。楓は既に紅葉したのも有り、まだしないのも有る。鳥の音も時節に連れて哀れに聞える、淋しい……ソラ風が吹通る、一重桜は戦栗をして病葉を震い落し、芝生の上に散布いた落葉は魂の有る如くに立上りて、友葉を追って舞い歩き、フトまた云合せたように一斉にパラパラと伏ッてしまう。満眸の秋色蕭条として却々春のきおいに似るべくも無いが、シカシさびた眺望で、また一種の趣味が有る。団子坂へ行く者皈る者が茲処で落合うので、処々に人影が見える、若い女の笑い動揺めく声も聞える。
お勢が散歩したいと云い出したので、三人の者は教育博物館の前で車を降りて、ブラブラ行きながら、石橋を渡りて動物園の前へ出で、車夫には「先へ往ッて観音堂の下辺に待ッていろ」ト命じて其処から車に離れ、真直に行ッて、矗立千尺、空を摩でそうな杉の樹立の間を通抜けて、東照宮の側面へ出た。
折しも其処の裏門より Let us go on(行こう)ト「日本の」と冠詞の付く英語を叫びながらピョッコリ飛出した者が有る。と見れば軍艦羅紗の洋服を着て、金鍍金の徽章を附けた大黒帽子を仰向けざまに被った、年の頃十四歳ばかりの、栗虫のように肥った少年で、同遊と見える同じ服装の少年を顧みて、
「ダガ何か食たくなったなア」
「食たくなった」
「食たくなってもか……」
ト愚痴ッぽく言懸けて、フトお政と顔を視合わせ、
「ヤ……」
「オヤ勇が……」
ト云う間もなく少年は駈出して来て、狼狽てて昇に三ツ四ツ辞儀をして、サッと赤面して、
「母親さん」
「何を狼狽てているんだネー」
「家へ往ったら……鍋に聞いたら、文さんばッかだッてッたから、僕ア……それだから……」
「お前、モウ試験は済んだのかえ」
「ア済んだ」
「どうだッたえ」
「そんな事よりか、些し用が有るから……母親さん……」
ト心有気に母親の顔を凝視めた。
「用が有るなら茲処でお言いな」
少年は横目で昇の顔をジロリと視て、
「チョイと此方へ来ておくれッてば」
「フンお前の用なら大抵知れたもんだ、また『小遣いが無い』だろう」
「ナニそんな事ちゃない」
ト云ッてまた昇の顔を横眼で視て、サッと赤面して、調子外れな高笑いをして、無理矢理に母親を引張ッて、彼方の杉の樹の下へ連れて参ッた。
昇とお勢はブラブラと歩き出して、来るともなく往くともなしに宮の背後に出た。折柄四時頃の事とて日影も大分傾いた塩梅、立駢んだ樹立の影は古廟の築墻を斑に染めて、不忍の池水は大魚の鱗かなぞのように燦めく。ツイ眼下に、瓦葺の大家根の翼然として峙ッているのが視下される。アレハ大方馬見所の家根で、土手に隠れて形は見えないが車馬の声が轆々として聞える。
お勢は大榎の根方の所で立止まり、翳していた蝙蝠傘をつぼめてズイと一通り四辺を見亘し、嫣然一笑しながら昇の顔を窺き込んで、唐突に、
「先刻の方は余程別嬪でしたネー」
「エ、先刻の方とは」
「ソラ、課長さんの令妹とか仰しゃッた」
「ウー誰の事かと思ッたら……そうですネ、随分別嬪ですネ」
「そして家で視たよりか美しくッてネ。それだもんだから……ネ……貴君もネ……」
ト眼元と口元に一杯笑いを溜めてジッと昇の貌を凝視めて、さてオホホホと吹溢ぼした。
「アッ失策ッた、不意を討たれた。ヤどうもおそろ感心、手は二本きりかと思ッたらこれだもの、油断も隙もなりゃしない」
「それにあの嬢も、オホホホ何だと見えて、お辞儀する度に顔を真赤にして、オホホホホホ」
「トたたみかけて意地目つけるネ、よろしい、覚えてお出でなさい」
「だッて実際の事ですもの」
「シカシあの娘が幾程美しいと云ッたッても、何処かの人にゃア……とても……」
「アラ、よう御座んすよ」
「だッて実際の事ですもの」
「オホホホ直ぐ復讐して」
「真に戯談は除けて……」
ト言懸ける折しも、官員風の男が十ばかりになる女の子の手を引いて来蒐ッて、両人の容子を不思議そうにジロジロ視ながら行過ぎてしまッた。昇は再び言葉を続いで、
「戯談は除けて、幾程美しいと云ッたッてあんな娘にゃア、先方もそうだろうけれども此方も気が無い」
「気が無いから横目なんぞ遣いはなさらなかッたのネー」
「マアサお聞きなさい。あの娘ばかりには限らない、どんな美しいのを視たッても気移りはしない。我輩には『アイドル』(本尊)が一人有るから」
「オヤそう、それはお芽出度う」
「ところが一向お芽出度く無い事サ、所謂鮑の片思いでネ。此方はその『アイドル』の顔が視たいばかりで、気まりの悪いのも堪えて毎日々々その家へ遊びに往けば、先方じゃ五月蠅と云ッたような顔をして口も碌々きかない」
トあじな眼付をしてお勢の貌をジッと凝視めた。その意を暁ッたか暁らないか、お勢は唯ニッコリして、
「厭な『アイドル』ですネ、オホホホ」
「シカシ考えて見れば此方が無理サ、先方には隠然亭主と云ッたような者が有るのだから。それに……」
「モウ何時でしょう」
「それに想を懸けるは宜く無い宜く無いと思いながら、因果とまた思い断る事が出来ない。この頃じゃ夢にまで見る」
「オヤ厭だ……モウ些と彼地の方へ行て見ようじゃ有りませんか」
「漸くの思いで一所に物観遊山に出るとまでは漕付は漕付たけれども、それもほんの一所に歩く而已で、慈母さんと云うものが始終傍に附ていて見れば思う様に談話もならず」
「慈母さんと云えば何を做ているんだろうネー」
ト背後を振返ッて観た。
「偶好機会が有ッて言出せば、その通りとぼけておしまいなさるし、考えて見ればつまらんナ」
ト愚痴ッぽくいッた。
「厭ですよ、そんな戯談を仰しゃッちゃ」
ト云ッてお勢が莞爾々々と笑いながら此方を振向いて視て、些し真面目な顔をした。昇は萎れ返ッている。
「戯談と聞かれちゃ填まらない、こう言出すまでにはどの位苦しんだと思いなさる」
ト昇は歎息した。お勢は眼睛を地上に注いで、黙然として一語をも吐かなかッた。
「こう言出したと云ッて、何にも貴嬢に義理を欠かして私の望を遂げようと云うのじゃア無いが、唯貴嬢の口から僅一言、『断念めろ』と云ッて戴きたい。そうすりゃア私もそれを力に断然思い切ッて、今日ぎりでもう貴嬢にもお眼に懸るまい……ネーお勢さん」
お勢は尚お黙然としていて返答をしない。
「お勢さん」
ト云いながら昇が項垂れていた首を振揚げてジッとお勢の顔を窺き込めば、お勢は周章狼狽してサッと顔を赧らめ、漸く聞えるか聞えぬ程の小声で、
「虚言ばッかり」
ト云ッて全く差俯向いてしまッた。
「アハハハハハ」
ト突如に昇が轟然と一大笑を発したので、お勢は吃驚して顔を振揚げて視て、
「オヤ厭だ……アラ厭だ……憎らしい本田さんだネー、真面目くさッて人を威かして……」
ト云ッて悔しそうにでもなく恨めしそうにでもなく、謂わば気まりが悪るそうに莞爾笑ッた。
「お巫山戯でない」
ト云う声が忽然背後に聞えたのでお勢が喫驚して振返ッて視ると、母親が帯の間へ紙入を挿みながら来る。
「大分談判が難かッたと見えますネ」
「大きにお待ち遠うさま」
ト云ッてお勢の顔を視て、
「お前、どうしたんだえ、顔を真赤にして」
ト咎められてお勢は尚お顔を赤くして、
「オヤそう、歩いたら暖かに成ッたもんだから……」
「マア本田さん聞ておくんなさい、真個にあの児の銭遣いの荒いのにも困りますよ。此間ネ試験の始まる前に来て、一円前借して持ッてッたんですよ。それを十日も経たない内にもう使用ッちまって、またくれろサ。宿所ならこだわりを附けてやるんだけれども……」
「あんな事を云ッて虚言ですよ、慈母さんが小遣いを遣りたがるのよ、オホホホ」
ト無理に押出したような高笑をした。
「黙ッてお出で、お前の知ッた事ちゃない……こだわりを附けて遣るんだけれども、途中だからと思ッてネ黙ッて五十銭出して遣ッたら、それんばかじゃ足らないから一円くれろと云うんですよ。そうそうは方図が無いと思ッてどうしても遣らなかッたらネ、不承々々に五十銭取ッてしまッてネ、それからまた今度は、明後日お友達同志寄ッて飛鳥山で饂飩会とかを……」
「オホホホ」
この度は真に可笑しそうにお勢が笑い出した。昇は荐りに点頭いて、
「運動会」
「そのうんどうかいとか蕎麦買いとかをするからもう五十銭くれろッてネ、明日取りにお出でと云ッても何と云ッても聞かずに持ッて往きましたがネ。それも宜いが、憎い事を云うじゃ有りませんか。私が『明日お出でか』ト聞いたらネ、『これさえ貰えばもう用は無い、また無くなってから行く』ッて……」
「慈母さん、書生の運動会なら会費と云ッても高が十銭か二十銭位なもんですよ」
「エ、十銭か二十銭……オヤそれじゃ三十銭足駄を履かれたんだよ……」
ト云ッて昇の顔を凝視めた。とぼけた顔であッたと見えて、昇もお勢も同時に
「オホホホ」
「アハハハ」
第八回 団子坂の観菊 下
お勢母子の者の出向いた後、文三は漸く些し沈着て、徒然と机の辺に蹲踞ッたまま腕を拱み顋を襟に埋めて懊悩たる物思いに沈んだ。
どうも気に懸る、お勢の事が気に懸る。こんな区々たる事は苦に病むだけが損だ損だと思いながら、ツイどうも気に懸ってならぬ。
凡そ相愛する二ツの心は、一体分身で孤立する者でもなく、又仕ようとて出来るものでもない。故に一方の心が歓ぶ時には他方の心も共に歓び、一方の心が悲しむ時には他方の心も共に悲しみ、一方の心が楽しむ時には他方の心も共に楽み、一方の心が苦しむ時には他方の心も共に苦しみ、嬉笑にも相感じ怒罵にも相感じ、愉快適悦、不平煩悶にも相感じ、気が気に通じ心が心を喚起し決して齟齬し扞格する者で無い、と今日が日まで文三は思っていたに、今文三の痛痒をお勢の感ぜぬはどうしたものだろう。
どうも気が知れぬ、文三には平気で澄ましているお勢の心意気が呑込めぬ。
若し相愛していなければ、文三に親しんでから、お勢が言葉遣いを改め起居動作を変え、蓮葉を罷めて優に艶しく女性らしく成る筈もなし、又今年の夏一夕の情話に、我から隔の関を取除け、乙な眼遣をし麁匆な言葉を遣って、折節に物思いをする理由もない。
若し相愛していなければ、婚姻の相談が有った時、お勢が戯談に托辞けてそれとなく文三の肚を探る筈もなし、また叔母と悶着をした時、他人同前の文三を庇護って真実の母親と抗論する理由もない。
「イヤ妄想じゃ無い、おれを思っているに違いない……ガ……そのまた思ッているお勢が、そのまた死なば同穴と心に誓った形の影が、そのまた共に感じ共に思慮し共に呼吸生息する身の片割が、従兄弟なり親友なり未来の……夫ともなる文三の鬱々として楽まぬのを余所に見て、行かぬと云ッても勧めもせず、平気で澄まして不知顔でいる而已か、文三と意気が合わねばこそ自家も常居から嫌いだと云ッている昇如き者に伴われて、物観遊山に出懸けて行く……
「解らないナ、どうしても解らん」
解らぬままに文三が、想像弁別の両刀を執ッて、種々にしてこの気懸りなお勢の冷淡を解剖して見るに、何か物が有ってその中に籠っているように思われる、イヤ籠っているに相違ない。が、何だか地体は更に解らぬ。依てさらに又勇気を振起して唯この一点に注意を集め、傍目も触らさず一心不乱に茲処を先途と解剖して見るが、歌人の所謂箒木で有りとは見えて、どうも解らぬ。文三は徐々ジレ出した。スルト悪戯な妄想奴が野次馬に飛出して来て、アアでは無いかこうでは無いかと、真赤な贋物、宛事も無い邪推を掴ませる。贋物だ邪推だと必ずしも見透かしているでもなく、又必ずしも居ないでもなく、ウカウカと文三が掴ませられるままに掴んで、あえだり揉だり円めたり、また引延ばしたりして骨を折て事実にしてしまい、今目前にその事が出来したように足掻きつ踠きつ四苦八苦の苦楚を甞め、然る後フト正眼を得てさて観ずれば、何の事だ、皆夢だ邪推だ取越苦労だ。腹立紛れに贋物を取ッて骨灰微塵と打砕き、ホッと一息吐き敢えずまた穿鑿に取懸り、また贋物を掴ませられてまた事実にしてまた打砕き、打砕いてはまた掴み、掴んではまた打砕くと、何時まで経っても果しも附かず、始終同じ所に而已止ッていて、前へも進まず後へも退かぬ。そして退いて能く視れば、尚お何物だか冷淡の中に在ッて朦朧として見透かされる。
文三ホッと精を尽かした。今はもう進んで穿鑿する気力も竭き勇気も沮んだ。乃ち眼を閉じ頭顱を抱えて其処へ横に倒れたまま、五官を馬鹿にし七情の守を解いて、是非も曲直も栄辱も窮達も叔母もお勢も我の吾たるをも何もかも忘れてしまって、一瞬時なりともこの苦悩この煩悶を解脱れようと力め、良暫らくの間というものは身動もせず息気をも吐かず死人の如くに成っていたが、倏忽勃然と跳起きて、
「もしや本田に……」
ト言い懸けて敢て言い詰めず、宛然何か捜索でもするように愕然として四辺を環視した。
それにしてもこの疑念は何処から生じたもので有ろう。天より降ッたか地より沸いたか、抑もまた文三の僻みから出た蜃楼海市か、忽然として生じて思わずして来り、恍々惚々としてその来所を知るに由しなしといえど、何にもせよ、あれ程までに足掻きつ踠きつして穿鑿しても解らなかった所謂冷淡中の一物を、今訳もなく造作もなくツイチョット突留めたらしい心持がして、文三覚えず身の毛が弥立ッた。
とは云うものの心持は未だ事実でない。事実から出た心持で無ければウカとは信を措き難い。依て今までのお勢の挙動を憶出して熟思審察して見るに、さらにそんな気色は見えない。成程お勢はまだ若い、血気も未だ定らない、志操も或は根強く有るまい。が、栴檀は二葉から馨ばしく、蛇は一寸にして人を呑む気が有る。文三の眼より見る時はお勢は所謂女豪の萌芽だ。見識も高尚で気韻も高く、洒々落々として愛すべく尊ぶべき少女であって見れば、仮令道徳を飾物にする偽君子、磊落を粧う似而非豪傑には、或は欺かれもしよう迷いもしようが、昇如きあんな卑屈な軽薄な犬畜生にも劣った奴に、怪我にも迷う筈はない。さればこそ常から文三には信切でも昇には冷淡で、文三をば推尊していても昇をば軽蔑している。相愛は相敬の隣に棲む、軽蔑しつつ迷うというは、我輩人間の能く了解し得る事でない。
「シテ見れば大丈夫かしら……ガ……」
トまた引懸りが有る、まだ決徹しない。文三周章ててブルブルと首を振ッて見たが、それでも未だ散りそうにもしない。この「ガ」奴が、藕糸孔中蚊睫の間にも這入りそうなこの眇然たる一小「ガ」奴が、眼の中の星よりも邪魔になり、地平線上に現われた砲車一片の雲よりも畏ろしい。
然り畏ろしい。この「ガ」の先にはどんな不了簡が竊まッているかも知れぬと思えば、文三畏ろしい。物にならぬ内に一刻も早く散らしてしまいたい。シカシ散らしてしまいたいと思うほど尚お散り難る。しかも時刻の移るに随ッて枝雲は出来る、砲車雲は拡がる、今にも一大颶風が吹起りそうに見える。気が気で無い……
国許より郵便が参ッた。散らし薬には崛竟の物が参ッた。飢えた蒼鷹が小鳥を抓むのはこんな塩梅で有ろうかと思う程に文三が手紙を引掴んで、封目を押切ッて、故意と声高に読み出したが、中頃に至ッて……フト黙して考えて……また読出して……また黙して……また考えて……遂に天を仰いで轟然と一大笑を発した。何を云うかと思えば、
「お勢を疑うなんぞと云ッて我も余程どうかしている、アハハハハ。帰ッて来たら全然咄して笑ッてしまおう、お勢を疑うなんぞと云ッて、アハハハハ」
この最後の大笑で砲車雲は全く打払ッたが、その代り手紙は何を読んだのだか皆無判らない。
ハッと気を取直おして文三が真面目に成ッて落着いて、さて再び母の手紙を読んで見ると、免職を知らせた手紙のその返辞で、老耋の悪い耳、愚痴を溢したり薄命を歎いたりしそうなものの、文の面を見ればそんなけびらいは露程もなく、何もかも因縁ずくと断念めた思切りのよい文言。シカシさすがに心細いと見えて、返えす書に、跡で憶出して書加えたように薄墨で、
こう申せばそなたはお笑い被成候かは存じ不申候えども、手紙の着きし当日より一日も早く旧のようにお成り被成候ように○○のお祖師さまへ茶断して願掛け致しおり候まま、そなたもその積りにて油断なく御奉公口をお尋ね被成度念じ〓(「参らせ候」のくずし字)。
文三は手紙を下に措いて、黙然として腕を拱んだ。
叔母ですら愛想を尽かすに、親なればこそ子なればこそ、ふがいないと云ッて愚痴をも溢さず茶断までして子を励ます、その親心を汲分けては難有泪に暮れそうなもの、トサ文三自分にも思ッたが、どうしたものか感涙も流れず、唯何となくお勢の帰りが待遠しい。
「畜生、慈母さんがこれ程までに思ッて下さるのに、お勢なんぞの事を……不孝極まる」
ト熱気として自ら叱責ッて、お勢の貌を視るまでは外出などを做たく無いが、故意と意地悪く、
「これから往って頼んで来よう」
ト口に言って、「お勢の帰って来ない内に」ト内心で言足しをして、憤々しながら晩餐を喫して宿所を立出で、疾足に番町へ参って知己を尋ねた。
知己と云うは石田某と云って某学校の英語の教師で、文三とは師弟の間繋、曾て某省へ奉職したのも実はこの男の周旋で。
この男は曾て英国に留学した事が有るとかで英語は一通り出来る。当人の噺に拠れば彼地では経済学を修めて随分上出来の方で有ったと云う事で、帰朝後も経済学で立派に押廻わされるところでは有るが、少々仔細有ッて当分の内(七八年来の当分の内で)、唯の英語の教師をしていると云う事で。
英国の学者社会に多人数知己が有る中に、かの有名の「ハルベルト・スペンセル」とも曾て半面の識が有るが、シカシもう七八年も以前の事ゆえ、今面会したら恐らくは互に面忘れをしているだろうと云う、これも当人の噺で。
ともかくもさすがは留学しただけ有りて、英国の事情、即ち上下議院の宏壮、竜動府市街の繁昌、車馬の華美、料理の献立、衣服杖履、日用諸雑品の名称等、凡て閭巷猥瑣の事には能く通暁していて、骨牌を弄ぶ事も出来、紅茶の好悪を飲別ける事も出来、指頭で紙巻烟草を製する事も出来、片手で鼻汁を拭く事も出来るが、その代り日本の事情は皆無解らない。
日本の事情は皆無解らないが当人は一向苦にしない。啻苦にしないのみならず、凡そ一切の事一切の物を「日本の」トさえ冠詞が附けば則ち鼻息でフムと吹飛ばしてしまって、そして平気で済ましている。
まだ中年の癖に、この男はあだかも老人の如くに過去の追想而已で生活している。人に逢えば必ず先ず留学していた頃の手柄噺を咄し出す。尤もこれを封じてはさらに談話の出来ない男で。
知己の者はこの男の事を種々に評判する。或は「懶惰だ」ト云い、或は「鉄面皮だ」ト云い、或は「自惚だ」ト云い、或は「法螺吹きだ」と云う。この最後の説だけには新知故交統括めて総起立、薬種屋の丁稚が熱に浮かされたように「そうだ」トいう。
「シカシ、毒が無くッて宜」と誰だか評した者が有ッたが、これは極めて確評で、恐らくは毒が無いから懶惰で鉄面皮で自惚で法螺を吹くので、ト云ッたら或は「イヤ懶惰で鉄面皮で自惚で法螺を吹くから、それで毒が無いように見えるのだ」ト云う説も出ようが、ともかくも文三はそう信じているので。
尋ねて見ると幸い在宿、乃ち面会して委細を咄して依頼すると、「よろしい承知した」ト手軽な挨拶。文三は肚の裏で、「毒がないから安請合をするが、その代り身を入れて周旋はしてくれまい」と思ッて私に嘆息した。
「これが英国だと君一人位どうでもなるんだが、日本だからいかん。我輩こう見えても英国にいた頃は随分知己が有ったものだ。まず『タイムス』新聞の社員で某サ、それから……」
ト記憶に存した知己の名を一々言い立てての噺、屡々聞いて耳にタコが入ッている程では有るが、イエそのお噺ならもう承りましたとも言兼ねて、文三も始めて聞くような面相をして耳を借している。そのジレッタサもどかしさ、モジモジしながらトウトウ二時間ばかりというもの無間断に受けさせられた。その受賃という訳でも有るまいが帰り際になって、
「新聞の翻訳物が有るから周旋しよう。明後日午後に来給え、取寄せて置こう」
トいうから文三は喜びを述べた。
「フン新聞か……日本の新聞は英国の新聞から見りゃ全で小児の新聞だ、見られたものじゃない……」
文三は狼狽てて告別の挨拶を做直おして匇々に戸外へ立出で、ホッと一息溜息を吐いた。
早くお勢に逢いたい、早くつまらぬ心配をした事を咄してしまいたい、早く心の清い所を見せてやりたい、ト一心に思詰めながら文三がいそいそ帰宅して見るとお勢はいない。お鍋に聞けば、一旦帰ってまた入湯に往ったという。文三些し拍子抜けがした。
居間へ戻ッて燈火を点じ、臥て見たり起きて見たり、立て見たり坐ッて見たりして、今か今かと文三が一刻千秋の思いをして頸を延ばして待構えていると、頓て格子戸の開く音がして、縁側に優しい声がして、梯子段を上る跫音がして、お勢が目前に現われた。と見れば常さえ艶やかな緑の黒髪は、水気を含んで天鵞絨をも欺むくばかり、玉と透徹る肌は塩引の色を帯びて、眼元にはホンノリと紅を潮した塩梅、何処やらが悪戯らしく見えるが、ニッコリとした口元の塩らしいところを見ては是非を論ずる遑がない。文三は何もかも忘れてしまッて、だらしも無くニタニタと笑いながら、
「お皈なさい。どうでした団子坂は」
「非常に雑沓しましたよ、お天気が宜のに日曜だッたもんだから」
ト言いながら膝から先へベッタリ坐ッて、お勢は両手で嬌面を掩い、
「アアせつない、厭だと云うのに本田さんが無理にお酒を飲まして」
「母親さんは」
ト文三が尋ねた、お勢が何を言ッたのだかトント解らないようで。
「お湯から買物に回ッて……そしてネ自家もモウ好加減に酔てる癖に、私が飲めないと云うとネ、助けて遣るッてガブガブそれこそ牛飲したもんだから、究竟にはグデングデンに酔てしまッて」
ト聞いて文三は満面の笑を半引込ませた。
「それからネ、私共を家へ送込んでから、仕様が無いんですものヲ、巫山戯て巫山戯て。それに慈母さんも悪いのよ、今夜だけは大眼に看て置くなんぞッて云うもんだから好気になって尚お巫山戯て……オホホホ」
ト思出し笑をして、
「真個に失敬な人だよ」
文三は全く笑を引込ませてしまッて腹立しそうに、
「そりゃさぞ面白かッたでしょう」
ト云ッて顔を皺めたが、お勢はさらに気が附かぬ様子。暫らく黙然として何か考えていたが、頓てまた思出し笑をして、
「真個に失敬な人だよ」
つまらぬ心配をした事を全然咄して、快よく一笑に付して、心の清いところを見せて、お勢に……お勢に……感信させて、そして自家も安心しようという文三の胸算用は、ここに至ッてガラリ外れた。昇が酒を強いた、飲めぬと云ッたら助けた、何でも無い事。送り込んでから巫山戯た……道学先生に聞かせたら巫山戯させて置くのが悪いと云うかも知れぬが、シカシこれとても酒の上の事、一時の戯ならそう立腹する訳にもいかなかッたろう。要するにお勢の噺に於て深く咎むべき節も無い。がシカシ文三には気に喰わぬ、お勢の言様が気に喰わぬ。「昇如き犬畜生にも劣ッた奴の事を、そう嬉しそうに『本田さん本田さん』ト噂をしなくても宜さそうなものだ」トおもえばまた不平に成ッて、また面白く無くなッて、またお勢の心意気が呑込めなく成ッた。文三は差俯向いたままで黙然として考えている。
「何をそんなに塞いでお出でなさるの」
「何も塞いじゃいません」
「そう、私はまたお留さん(大方老母が文三の嫁に欲
しいと云ッた娘の名で)とかの事を懐出して、それで塞いでお出でなさるのかと思ッたら、オホホホ」
文三は愕然としてお勢の貌を暫らく凝視めて、ホッと溜息を吐いた。
「オホホホ溜息をして。やっぱり当ッたんでしょう、ネそうでしょう、オホホホ。当ッたもんだから黙ッてしまッて」
「そんな気楽じゃ有りません。今日母の所から郵便が来たから読で見れば、私のこういう身に成ッたを心配して、この頃じゃ茶断して願掛けしているそうだシ……」
「茶断して、慈母さんが、オホホホ。慈母さんもまだ旧弊だ事ネー」
文三はジロリとお勢を尻眼に懸けて、恨めしそうに、
「貴嬢にゃ可笑しいか知らんが私にゃさっぱり可笑しく無い。薄命とは云いながら私の身が定らんばかりで、老耋ッた母にまで心配掛けるかと思えば、随分……耐らない。それに慈母さんも……」
「また何とか云いましたか」
「イヤ何とも仰しゃりはしないが、アレ以来始終気不味い顔ばかりしていて打解けては下さらんシ……それに……それに……」
「貴嬢も」ト口頭まで出たが、どうも鉄面皮しく嫉妬も言いかねて思い返してしまい、
「ともかくも一日も早く身を定めなければ成らぬと思ッて、今も石田の所へ往ッて頼んでは来ましたが、シカシこれとても宛にはならんシ、実に……弱りました。唯私一人苦しむのなら何でもないが、私の身が定らぬ為めに『方々』が我他彼此するので誠に困る」
ト萎れ返ッた。
「そうですネー」
ト今まで冴えに冴えていたお勢もトウトウ引込まれて、共に気をめいらしてしまい、暫らくの間黙然としてつまらぬものでいたが、やがて小さな欠伸をして、
「アア寐むく成ッた、ドレもう往ッて寐ましょう。お休みなさいまし」
ト会釈をして起上ッてフト立止まり、
「アそうだッけ……文さん、貴君はアノー課長さんの令妹を御存知」
「知りません」
「そう、今日ネ、団子坂でお眼に懸ッたの。年紀は十六七でネ、随分別品は……別品だッたけれども、束髪の癖にヘゲル程白粉を施けて……薄化粧なら宜けれども、あんなに施けちゃア厭味ッたらしくッてネー……オヤ好気なもんだ、また噺込んでいる積りだと見えるよ。お休みなさいまし」
ト再び会釈してお勢は二階を降りてしまッた。
縁側で唯今帰ッたばかりの母親に出逢ッた。
「お勢」
「エ」
「エじゃないよ、またお前二階へ上ッてたネ」
また始まッたと云ッたような面相をして、お勢は返答をもせずそのまま子舎へ這入ッてしまッた。
さて子舎へ這入ッてからお勢は手疾く寐衣に着替えて床へ這入り、暫らくの間臥ながら今日の新聞を覧ていたが……フト新聞を取落した。寐入ッたのかと思えばそうでもなく、眼はパッチリ視開いている、その癖静まり返ッていて身動きをもしない。やがて、
「何故アア不活溌だろう」
ト口へ出して考えて、フト両足を蹈延ばして莞然笑い、狼狽てて起揚ッて枕頭の洋燈を吹消してしまい、枕に就いて二三度臥反りを打ッたかと思うと間も無くスヤスヤと寐入ッた。
第九回 すわらぬ肚
今日は十一月四日、打続いての快晴で空は余残なく晴渡ッてはいるが、憂愁ある身の心は曇る。文三は朝から一室に垂籠めて、独り屈托の頭を疾ましていた。実は昨日朝飯の時、文三が叔母に対て、一昨日教師を番町に訪うて身の振方を依頼して来た趣を縷々咄し出したが、叔母は木然として情寡き者の如く、「ヘー」ト余所事に聞流していてさらに取合わなかッた、それが未だに気になって気になってならないので。
一時頃に勇が帰宅したとて遊びに参ッた。浮世の塩を踏まぬ身の気散じさ、腕押、坐相撲の噺、体操、音楽の噂、取締との議論、賄方征討の義挙から、試験の模様、落第の分疏に至るまで、凡そ偶然に懐に浮んだ事は、月足らずの水子思想、まだ完成ていなかろうがどうだろうがそんな事に頓着はない、訥弁ながらやたら無性に陳べ立てて返答などは更に聞ていぬ。文三も最初こそ相手にも成ていたれ、遂にはホッと精を尽かしてしまい、勇には随意に空気を鼓動さして置いて、自分は自分で余所事を、と云たところがお勢の上や身の成行で、熟思黙想しながら、折々間外れな溜息噛交ぜの返答をしていると、フトお勢が階子段を上ッて来て、中途から貌而已を差出して、
「勇」
「だから僕ア議論して遣ッたんだ。ダッテ君、失敬じゃないか。『ボート』の順番を『クラッス』(級)の順番で……」
「勇と云えば。お前の耳は木くらげかい」
「だから何だと云ッてるじゃ無いか」
「綻を縫てやるからシャツをお脱ぎとよ」
勇はシャツを脱ぎながら、
「『クラッス』の順番で定めると云うんだもの、『ボート』の順番を『クラッス』の順番で定めちゃア、僕ア何だと思うな、僕ア失敬だと思うな。だって君、『ボート』は……」
「さッさとお脱ぎで無いかネー、人が待ているじゃ無いか」
「そんなに急がなくッたッて宜やアネ、失敬な」
「誰方が失敬だ……アラあんな事言ッたら尚お故意と愚頭々々しているよ。チョッ、ジレッタイネー、早々としないと姉さん知らないから宜い」
「そんな事云うなら Bridle path と云う字を知てるか、I was at our uncle's ト云う事知てるか、I will keep your……」
「チョイとお黙り……」
ト口早に制して、お勢が耳を聳てて何か聞済まして、忽ち満面に笑を含んでさも嬉しそうに、
「必と本田さんだよ」
ト言いながら狼狽てて梯子段を駈下りてしまッた。
「オイオイ姉さん、シャツを持ッてッとくれッてば……オイ……ヤ失敬な、モウ往ちまッた。渠奴近頃生意気になっていかん。先刻も僕ア喧嘩して遣たんだ。婦人の癖に園田勢子と云う名刺を拵らえるッてッたから、お勢ッ子で沢山だッてッたら、非常に憤ッたッけ」
「アハハハハ」
ト今まで黙想していた文三が突然無茶苦茶に高笑を做出したが、勿論秋毫も可笑しそうでは無かッた。シカシ少年の議論家は称讃されたのかと思ッたと見えて、
「お勢ッ子で沢山だ、婦人の癖にいかん、生意気で」
ト云いながら得々として二階を降りて往た。跡で文三は暫らくの間また腕を拱んで黙想していたが、フト何か憶出したような面相をして、起上ッて羽織だけを着替えて、帽子を片手に二階を降りた。
奥の間の障子を開けて見ると、果して昇が遊に来ていた。しかも傲然と火鉢の側に大胡坐をかいていた。その傍にお勢がベッタリ坐ッて、何かツベコベと端手なく囀ッていた。少年の議論家は素肌の上に上衣を羽織ッて、仔細らしく首を傾げて、ふかし甘薯の皮を剥いてい、お政は囂々しく針箱を前に控えて、覚束ない手振りでシャツの綻を縫合わせていた。
文三の顔を視ると、昇が顔で電光を光らせた、蓋し挨拶の積で。お勢もまた後方を振反ッて顧は顧たが、「誰かと思ッたら」ト云わぬばかりの索然とした情味の無い面相をして、急にまた彼方を向いてしまッて、
「真個」
ト云いながら、首を傾げてチョイと昇の顔を凝視めた光景。
「真個さ」
「虚言だと聴きませんよ」
アノ筋の解らない他人の談話と云う者は、聞いて余り快くは無いもので。
「チョイと番町まで」ト文三が叔母に会釈をして起上ろうとすると、昇が、
「オイ内海、些し噺が有る」
「些と急ぐから……」
「此方も急ぐんだ」
文三はグット視下ろす、昇は視上げる、眼と眼を疾視合わした、何だか異な塩梅で。それでも文三は渋々ながら坐舗へ這入ッて坐に着いた。
「他の事でも無いんだが」
ト昇がイヤに冷笑しながら咄し出した。スルトお政はフト針仕事の手を止めて不思議そうに昇の貌を凝視めた。
「今日役所での評判に、この間免職に成た者の中で二三人復職する者が出来るだろうと云う事だ。そう云やア課長の談話に些し思当る事も有るから、或は実説だろうかと思うんだ。ところで我輩考えて見るに、君が免職になったので叔母さんは勿論お勢さんも……」
ト云懸けてお勢を尻眼に懸けてニヤリと笑ッた。お勢はお勢で可笑しく下唇を突出して、ムッと口を結んで、額で昇を疾視付けた。イヤ疾視付ける真似をした。
「お勢さんも非常に心配してお出でなさるシ、かつ君だッてもナニモ遊んでいて食えると云う身分でも有るまいシするから、若し復職が出来ればこの上も無いと云ッたようなもんだろう。ソコデ若し果してそうならば、宜しく人の定らぬ内に課長に呑込ませて置く可しだ。がシカシ君の事たから今更直付けに往き難いとでも思うなら、我輩一臂の力を仮しても宜しい、橋渡をしても宜しいが、どうだお思食は」
「それは御信切……難有いが……」
ト言懸けて文三は黙してしまった。迷惑は匿しても匿し切れない、自ら顔色に現われている。モジ付く文三の光景を視て昇は早くもそれと悟ッたか、
「厭かネ、ナニ厭なものを無理に頼んで周旋しようと云うんじゃ無いから、そりゃどうとも君の随意サ、ダガシカシ……痩我慢なら大抵にして置く方が宜かろうぜ」
文三は血相を変えた……
「そんな事仰しゃるが無駄だよ」
トお政が横合から嘴を容れた。
「内の文さんはグッと気位が立上ってお出でだから、そんな卑劣な事ア出来ないッサ」
「ハハアそうかネ、それは至極お立派な事た。ヤこれは飛だ失敬を申し上げました、アハハハ」
ト聞くと等しく文三は真青に成ッて、慄然と震え出して、拳を握ッて歯を喰切ッて、昇の半面をグッと疾視付けて、今にもむしゃぶり付きそうな顔色をした……が、ハッと心を取直して、
「エヘヘヘヘ」
何となく席がしらけた。誰も口をきかない。勇がふかし甘薯を頬張ッて、右の頬を脹らませながら、モッケな顔をして文三を凝視めた。お勢もまた不思議そうに文三を凝視めた。
「お勢が顔を視ている……このままで阿容々々と退くは残念、何か云ッて遣りたい、何かコウ品の好い悪口雑言、一言の下に昇を気死させる程の事を云ッて、アノ鼻頭をヒッ擦ッて、アノ者面を赧らめて……」トあせるばかりで凄み文句は以上見附からず、そしてお勢を視れば、尚お文三の顔を凝視めている……文三は周章狼狽とした……
「モウそ……それッきりかネ」
ト覚えず取外して云って、我ながら我音声の変ッているのに吃驚した。
「何が」
またやられた。蒼ざめた顔をサッと赧らめて文三が、
「用事は……」
「ナニ用事……ウー用事か、用事と云うから判らない……さよう、これッきりだ」
モウ席にも堪えかねる。黙礼するや否や文三が蹶然起上ッて坐舗を出て二三歩すると、後の方でドッと口を揃えて高笑いをする声がした。文三また慄然と震えてまた蒼ざめて、口惜しそうに奥の間の方を睨詰めたまま、暫らくの間釘付けに逢ッたように立在でいたが、やがてまた気を取直おして悄々と出て参ッた。
が文三無念で残念で口惜しくて、堪え切れぬ憤怒の気がカッとばかりに激昂したのをば無理無体に圧着けた為めに、発しこじれて内攻して胸中に磅礴鬱積する、胸板が張裂ける、腸が断絶れる。
無念々々、文三は耻辱を取ッた。ツイ近属と云ッて二三日前までは、官等に些とばかりに高下は有るとも同じ一課の局員で、優り劣りが無ければ押しも押されもしなかッた昇如き犬自物の為めに耻辱を取ッた、然り耻辱を取ッた。シカシ何の遺恨が有ッて、如何なる原因が有ッて。
想うに文三、昇にこそ怨はあれ、昇に怨みられる覚えは更にない。然るに昇は何の道理も無く何の理由も無く、あたかも人を辱める特権でも有ているように、文三を土芥の如くに蔑視して、犬猫の如くに待遇ッて、剰え叔母やお勢の居る前で嘲笑した、侮辱した。
復職する者が有ると云う役所の評判も、課長の言葉に思当る事が有ると云うも、昇の云う事なら宛にはならぬ。仮令それ等は実説にもしろ、人の痛いのなら百年も我慢すると云う昇が、自家の利益を賭物にして他人の為めに周旋しようと云う、まずそれからが呑込めぬ。
仮りに一歩を譲ッて、全く朋友の信実心からあの様な事を言出したとしたところで、それならそれで言様が有る。それを昇は、官途を離れて零丁孤苦、みすぼらしい身に成ッたと云ッて文三を見括ッて、失敬にも無礼にも、復職が出来たらこの上が無かろうト云ッた。
それも宜しいが、課長は昇の為めに課長なら、文三の為めにもまた課長だ。それを昇は、あだかも自家一個の課長のように、課長々々とひけらかして、頼みもせぬに「一臂の力を仮してやろう、橋渡しをしてやろう」と云ッた。
疑いも無く昇は、課長の信用、三文不通の信用、主人が奴僕に措く如き信用を得ていると云ッて、それを鼻に掛けているに相違ない。それも己一個で鼻に掛けて、己一個でひけらかして、己と己が愚を披露している分の事なら空家で棒を振ッたばかり、当り触りが無ければ文三も黙ッてもいよう、立腹もすまいが、その三文信用を挟んで人に臨んで、人を軽蔑して、人を嘲弄して、人を侮辱するに至ッては文三腹に据えかねる。
面と向ッて図大柄に、「痩我慢なら大抵にしろ」と昇は云ッた。
痩我慢々々々、誰が痩我慢していると云ッた、また何を痩我慢していると云ッた。
俗務をおッつくねて、課長の顔色を承けて、強て笑ッたり諛言を呈したり、四ン這に這廻わッたり、乞食にも劣る真似をして漸くの事で三十五円の慈恵金に有附いた……それが何処が栄誉になる。頼まれても文三にはそんな卑屈な真似は出来ぬ。それを昇は、お政如き愚痴無知の婦人に持長じられると云ッて、我程働き者はないと自惚てしまい、しかも廉潔な心から文三が手を下げて頼まぬと云えば、嫉み妬みから負惜しみをすると臆測を逞うして、人も有ろうにお勢の前で、
「痩我慢なら大抵にしろ」
口惜しい、腹が立つ。余の事はともかくも、お勢の目前で辱められたのが口惜しい。
「しかも辱められるままに辱められていて、手出もしなかッた」
ト何処でか異な声が聞えた。
「手出がならなかッたのだ、手出がなっても為得なかッたのじゃない」
ト文三憤然として分疏を為出した。
「我だッて男児だ、虫も有る胆気も有る。昇なんぞは蚊蜻蛉とも思ッていぬが、シカシあの時憖じ此方から手出をしては益々向うの思う坪に陥ッて玩弄されるばかりだシ、かつ婦人の前でも有ッたから、為難い我慢もして遣ッたんだ」
トは知らずしてお勢が、怜悧に見えても未惚女の事なら、蟻とも螻とも糞中の蛆とも云いようのない人非人、利の為めにならば人糞をさえ甞めかねぬ廉耻知らず、昇如き者の為めに文三が嘲笑されたり玩弄されたり侮辱されたりしても手出をもせず阿容々々として退いたのを視て、或は不甲斐ない意久地が無いと思いはしなかッたか……仮令お勢は何とも思わぬにしろ、文三はお勢の手前面目ない、耻かしい……
「ト云うも昇、貴様から起ッた事だぞ、ウヌどうするか見やがれ」
ト憤然として文三が拳を握ッて歯を喰切ッて、ハッタとばかりに疾視付けた。疾視付けられた者は通りすがりの巡査で、巡査は立止ッて不思議そうに文三の背長を眼分量に見積ッていたが、それでも何とも言わずにまた彼方の方へと巡行して往ッた。
愕然として文三が、夢の覚めたような面相をしてキョロキョロと四辺を環視わして見れば、何時の間にか靖国神社の華表際に鵠立でいる。考えて見ると、成程俎橋を渡ッて九段坂を上ッた覚えが微に残ッている。
乃ち社内へ進入ッて、左手の方の杪枯れた桜の樹の植込みの間へ這入ッて、両手を背後に合わせながら、顔を皺めて其処此処と徘徊き出した。蓋し、尋ねようと云う石田の宿所は後門を抜ければツイ其処では有るが、何分にも胸に燃す修羅苦羅の火の手が盛なので、暫らく散歩して余熱を冷ます積りで。
「シカシ考えて見ればお勢も恨みだ」
ト文三が徘徊きながら愚痴を溢し出した。
「現在自分の……我が、本田のような畜生に辱められるのを傍観していながら、悔しそうな顔もしなかッた……平気で人の顔を視ていた……」
「しかも立際に一所に成ッて高笑いをした」ト無慈悲な記臆が用捨なく言足をした。
「そうだ高笑いをした……シテ見れば弥々心変りがしているかしらん……」
ト思いながら文三が力無さそうに、とある桜の樹の下に据え付けてあッたペンキ塗りの腰掛へ腰を掛ける、と云うよりは寧ろ尻餅を搗いた。暫らくの間は腕を拱んで、顋を襟に埋めて、身動きをもせずに静り返ッて黙想していたが、忽ちフッと首を振揚げて、
「ヒョットしたらお勢に愛想を尽かさして……そして自家の方に靡びかそうと思ッて……それで故意と我を……お勢のいる処で我を……そういえばアノ言様、アノ……お勢を視た眼付き……コ、コ、コリャこのままには措けん……」
ト云ッて文三は血相を変えて突起上ッた。
がどうしたもので有ろう。
何かコウ非常な手段を用いて、非常な豪胆を示して、「文三は男児だ、虫も胆気もこの通り有る、今まで何と言われても笑ッて済ましていたのはな、全く恢量大度だからだぞ、無気力だからでは無いぞ」ト口で言わんでも行為で見付けて、昇の胆を褫ッて、叔母の睡を覚まして、若し愛想を尽かしているならばお勢の信用をも買戻して、そして……そして……自分も実に胆気が有ると……確信して見たいが、どうしたもので有ろう。
思うさま言ッて言ッて言いまくッて、そして断然絶交する……イヤイヤ昇も仲々口強馬、舌戦は文三の得策でない。と云ッてまさか腕力に訴える事も出来ず、
「ハテどうしてくれよう」
ト殆んど口へ出して云いながら、文三がまた旧の腰掛に尻餅を搗いて熟々と考込んだまま、一時間ばかりと云うものは静まり返ッていて身動きをもしなかッた。
「オイ内海君」
ト云う声が頭上に響いて、誰だか肩を叩く者が有る。吃驚して文三がフッと貌を振揚げて見ると、手摺れて垢光りに光ッた洋服、しかも二三カ所手痍を負うた奴を着た壮年の男が、余程酩酊していると見えて、鼻持のならぬ程の熟柿臭い香をさせながら、何時の間にか目前に突立ッていた。これは旧と同僚で有ッた山口某という男で、第一回にチョイト噂をして置いたアノ山口と同人で、やはり踏外し連の一人。
「ヤ誰かと思ッたら一別以来だネ」
「ハハハ一別以来か」
「大分御機嫌のようだネ」
「然り御機嫌だ。シカシ酒でも飲まんじゃー堪らん。アレ以来今日で五日になるが、毎日酒浸しだ」
ト云ッてその証拠立の為めにか、胸で妙な間投詞を発して聞かせた。
「何故またそう Despair を起したもんだネ」
「Despair じゃー無いが、シカシ君面白く無いじゃーないか。何等の不都合が有ッて我々共を追出したんだろう、また何等の取得が有ッてあんな庸劣な奴ばかりを撰んで残したのだろう、その理由が聞いて見たいネ」
ト真黒に成ッてまくし立てた。その貌を見て、傍を通りすがッた黒衣の園丁らしい男が冷笑した。文三は些し気まりが悪くなり出した。
「君もそうだが、僕だッても事務にかけちゃー……」
「些し小いさな声で咄し給え、人に聞える」
ト気を附けられて俄に声を低めて、
「事務に懸けちゃこう云やア可笑しいけれども、跡に残ッた奴等に敢て多くは譲らん積りだ。そうじゃないか」
「そうとも」
「そうだろう」
ト乗地に成ッて、
「然るに唯一種事務外の事務を勉励しないと云ッて我々共を追出した、面白く無いじゃないか」
「面白く無いけれども、シカシ幾程云ッても仕様が無いサ」
「仕様が無いけれども面白く無いじゃないか」
「トキニ、本田の云事だから宛にはならんが、復職する者が二三人出来るだろうと云う事だが、君はそんな評判を聞いたか」
「イヤ聞かない。ヘー復職する者が二三人」
「二三人」
山口は俄に口を鉗んで何か黙考していたが、やがてスコシ絶望気味で、
「復職する者が有ッても僕じゃ無い、僕はいかん、課長に憎まれているからもう駄目だ」
ト云ッてまた暫らく黙考して、
「本田は一等上ッたと云うじゃないか」
「そうだそうだ」
「どうしても事務外の事務の巧なものは違ッたものだネ、僕のような愚直なものにはとてもアノ真似は出来ない」
「誰にも出来ない」
「奴の事だからさぞ得意でいるだろうネ」
「得意も宜いけれども、人に対ッて失敬な事を云うから腹が立つ」
ト云ッてしまッてからアア悪い事を云ッたと気が附いたが、モウ取返しは附かない。
「エ失敬な事を、どんな事をどんな事を」
「エ、ナニ些し……」
「どんな事を」
「ナニネ、本田が今日僕に或人の所へ往ッてお髯の塵を払わないかと云ッたから、失敬な事を云うと思ッてピッタリ跳付けてやッたら、痩我慢と云わんばかりに云やアがッた」
「それで君、黙ッていたか」
ト山口は憤然として眼睛を据えて、文三の貌を凝視めた。
「余程やッつけて遣ろうかと思ッたけれども、シカシあんな奴の云う事を取上げるも大人気ないト思ッて、赦して置てやッた」
「そ、そ、それだから不可、そう君は内気だから不可」
ト苦々しそうに冷笑ッたかと思うと、忽ちまた憤然として文三の貌を疾視んで、
「僕なら直ぐその場でブン打ッてしまう」
「打ぐろうと思えば訳は無いけれども、シカシそんな疎暴な事も出来ない」
「疎暴だッて関わんサ、あんな奴は時々打ぐッてやらんと癖になっていかん。君だから何だけれども、僕なら直ぐブン打ッてしまう」
文三は黙してしまッてもはや弁駁をしなかッたが、暫らくして、
「トキニ君は、何だと云ッて此方の方へ来たのだ」
山口は俄かに何か思い出したような面相をして、
「アそうだッけ……一番町に親類が有るから、この勢でこれから其処へ往ッて金を借りて来ようと云うのだ。それじゃこれで別れよう、些と遊びに遣ッて来給え。失敬」
ト自己が云う事だけを饒舌り立てて、人の挨拶は耳にも懸けず急歩に通用門の方へと行く。その後姿を目送りて文三が肚の裏で、
「彼奴まで我の事を、意久地なしと云わんばかりに云やアがる」
第十回 負るが勝
知己を番町の家に訪えば主人は不在、留守居の者より翻訳物を受取ッて、文三が旧と来た路を引返して俎橋まで来た頃はモウ点火し頃で、町家では皆店頭洋燈を点している。「免職に成ッて懐淋しいから、今頃帰るに食事をもせずに来た」ト思われるも残念と、つまらぬ所に力瘤を入れて、文三はトある牛店へ立寄ッた。
この牛店は開店してまだ間もないと見えて見掛けは至極よかッたが、裏へ這入ッて見ると大違い、尤も客も相応にあッたが、給事の婢が不慣れなので迷惑く程には手が廻わらず、帳場でも間違えれば出し物も後れる。酒を命じ肉を命じて、文三が待てど暮らせど持て来ない、催促をしても持て来ない、また催促をしてもまた持て来ない、偶々持て来れば後から来た客の所へ置いて行く。さすがの文三も遂には肝癪を起して、厳しく談じ付けて、不愉快不平な思いをして漸くの事で食事を済まして、勘定を済まして、「毎度難有御座い」の声を聞流して戸外へ出た時には、厄落しでもしたような心地がした。
両側の夜見世を窺きながら、文三がブラブラと神保町の通りを通行した頃には、胸のモヤクヤも漸く絶え絶えに成ッて、どうやら酒を飲んだらしく思われて、昇に辱められた事も忘れ、お勢の高笑いをした事をも忘れ、山口の言葉の気に障ッたのも忘れ、牛店の不快をも忘れて、唯酡顔に当る夜風の涼味をのみ感じたが、シカシ長持はしなかッた。
宿所へ来た。何心なく文三が格子戸を開けて裏へ這入ると、奥坐舗の方でワッワッと云う高笑いの声がする。耳を聳てて能く聞けば、昇の声もその中に聞える……まだ居ると見える。文三は覚えず立止ッた。「若しまた無礼を加えたら、モウその時は破れかぶれ」ト思えば荐りに胸が浪だつ。暫らく鵠立でいて、度胸を据えて、戦争が初まる前の軍人の如くに思切ッた顔色をして、文三は縁側へ廻り出た。
奥坐舗を窺いて見ると、杯盤狼藉と取散らしてある中に、昇が背なかに円く切抜いた白紙を張られてウロウロとして立ている、その傍にお勢とお鍋が腹を抱えて絶倒している、が、お政の姿はカイモク見えない。顔を見合わしても「帰ッたか」ト云う者もなく、「叔母さんは」ト尋ねても返答をする者もないので、文三が憤々しながらそのままにして行過ぎてしまうと、忽ち後の方で、
(昇)「オヤこんな悪戯をしたネ」
(勢)「アラ私じゃ有りませんよ、アラ鍋ですよ、オホホホホ」
(鍋)「アラお嬢さまですよ、オホホホホ」
(昇)「誰も彼も無い、二人共敵手だ。ドレまずこの肥満奴から」
(鍋)「アラ私じゃ有りませんよ、オホホホホ。アラ厭ですよ……アラー御新造さアん引」
ト大声を揚げさせての騒動、ドタバタと云う足音も聞えた、オホホホと云う笑声も聞えた、お勢の荐りに「引掻てお遣りよ、引掻て」ト叫喚く声もまた聞えた。
騒動に気を取られて、文三が覚えず立止りて後方を振向く途端に、バタバタと跫音がして、避ける間もなく誰だかトンと文三に衝当ッた。狼狽た声でお政の声で、
「オー危ない……誰だネーこんな所に黙ッて突立ッてて」
「ヤ、コリャ失敬……文三です……何処ぞ痛めはしませんでしたか」
お政は何とも言わずにツイと奥坐舗へ這入りて跡ピッシャリ。恨めしそうに跡を目送ッて文三は暫らく立在でいたが、やがて二階へ上ッて来て、まず手探りで洋燈を点じて机辺に蹲踞してから、さて、
「実に淫哇だ。叔母や本田は論ずるに足らんが、お勢が、品格々々と口癖に云ッているお勢が、あんな猥褻な席に連ッている……しかも一所に成ッて巫山戯ている……平生の持論は何処へ遣ッた、何の為めに学問をした、先自侮而後人侮レ之、その位の事は承知しているだろう、それでいてあんな真似を……実に淫哇だ。叔父の留守に不取締が有ッちゃ我が済まん、明日厳しく叔母に……」
トまでは調子に連れて黙想したが、ここに至ッてフト今の我身を省みてグンニャリと萎れてしまい、暫らくしてから「まずともかくも」ト気を替えて、懐中して来た翻訳物を取出して読み初めた。
The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political parties threatens to become more formidable with the increasing influence of what has hitherto been called the Radical party. For over fifty years the party……
ドッと下坐舗でする高笑いの声に流読の腰を折られて、文三はフト口を鉗んで、
「チョッ失敬極まる。我の帰ッたのを知ッていながら、何奴も此奴も本田一人の相手に成ッてチヤホヤしていて、飯を喰ッて来たかと云う者も無い……アまた笑ッた、アリャお勢だ……弥々心変りがしたならしたと云うが宜、切れてやらんとは云わん。何の糞、我だッて男児だ、心変のした者に……」
ハッと心附て、また一越調子高に、
The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political……
フト格子戸の開く音がして笑い声がピッタリ止ッた。文三は耳を聳てた。匇わしく縁側を通る人の足音がして、暫らくすると梯子段の下で洋燈をどうとかこうとか云うお鍋の声がしたが、それから後は粛然として音沙汰をしなくなった。何となく来客でもある容子。
高笑いの声がする内は何をしている位は大抵想像が附たからまず宜かッたが、こう静ッて見るとサア容子が解らない。文三些し不安心に成ッて来た。「客の相手に叔母は坐舗へ出ている。お鍋も用がなければ可し、有れば傍に附てはいない。シテ見ると……」文三は起ッたり居たり。
キット思付いた、イヤ憶出した事が有る。今初まッた事では無いが、先刻から酔醒めの気味で咽喉が渇く。水を飲めば渇が歇まるが、シカシ水は台所より外には無い。しこうして台所は二階には附いていない。故に若し水を飲まんと欲せば、是非とも下坐舗へ降りざるを得ず。「折が悪いから何となく何だけれども、シカシ我慢しているも馬鹿気ている」ト種々に分疏をして、文三は遂に二階を降りた。
台所へ来て見ると、小洋燈が点しては有るがお鍋は居ない。皿小鉢の洗い懸けたままで打捨てて有るところを見れば、急に用が出来て遣にでも往たものか。「奥坐舗は」と聞耳を引立てれば、ヒソヒソと私語く声が聞える。全身の注意を耳一ツに集めて見たが、どうも聞取れない。ソコで竊むが如くに水を飲んで、抜足をして台所を出ようとすると、忽ち奥坐舗の障子がサッと開いた。文三は振反ッて見て覚えず立止ッた。お勢が開懸けた障子に掴まッて、出るでも無く出ないでもなく、唯此方へ背を向けて立在んだままで坐舗の裏を窺き込んでいる。
「チョイと茲処へお出で」
ト云うは慥に昇の声。お勢はだらしもなく頭振りを振りながら、
「厭サ、あんな事をなさるから」
「モウ悪戯しないからお出でと云えば」
「厭」
「ヨーシ厭と云ッたネ」
「真個か、其処へ往きましょうか」
ト、チョイと首を傾げた。
「ア、お出で、サア……サア……」
「何方の眼で」
「コイツメ」
ト確に起上る真似。
オホホホと笑いを溢しながら、お勢は狼狽てて駈出して来て危く文三に衝当ろうとして立止ッた。
「オヤ誰……文さん……何時帰ッたの」
文三は何にも言わず、ツンとして二階へ上ッてしまッた。
その後からお勢も続いて上ッて来て、遠慮会釈も無く文三の傍にベッタリ坐ッて、常よりは馴々しく、しかも顔を皺めて可笑しく身体を揺りながら、
「本田さんが巫山戯て巫山戯て仕様がないんだもの」
ト鼻を鳴らした。
文三は恐ろしい顔色をしてお勢の柳眉を顰めた嬌面を疾視付けたが、恋は曲物、こう疾視付けた時でも尚お「美は美だ」と思わない訳にはいかなかッた。折角の相好もどうやら崩れそうに成ッた……が、はッと心附いて、故意と苦々しそうに冷笑いながら率方を向いてしまッた。
折柄梯子段を踏轟かして昇が上ッて来た。ジロリと両人の光景を見るや否や、忽ちウッと身を反らして、さも業山そうに、
「これだもの……大切なお客様を置去りにしておいて」
「だッて貴君があんな事をなさるもの」
「どんな事を」
ト言いながら昇は坐ッた。
「どんな事ッて、あんな事を」
「ハハハ、此奴ア宜い。それじゃーあんな事ッてどんな事を、ソラいいたちこッこだ」
「そんなら云ッてもよう御座んすか」
「宜しいとも」
「ヨーシ宜しいと仰しゃッたネ、そんなら云ッてしまうから宜い。アノネ文さん、今ネ、本田さんが……」
ト言懸けて昇の顔を凝視めて、
「オホホホ、マアかにして上げましょう」
「ハハハ言えないのか、それじゃー我輩が代ッて噺そう。『今ネ本田さんがネ……』」
「本田さん」
「私の……」
「アラ本田さん、仰しゃりゃー承知しないから宜い」
「ハハハ、自分から言出して置きながら、そうも亭主と云うものは恐いものかネ」
「恐かア無いけれども私の不名誉になりますもの」
「何故」
「何故と云ッて、貴君に凌辱されたんだもの」
「ヤこれは飛でも無いことを云いなさる、唯チョイと……」
「チョイとチョイと本田さん、敢て一問を呈す、オホホホ。貴方は何ですネ、口には同権論者だ同権論者だと仰しゃるけれども、虚言ですネ」
「同権論者でなければ何だと云うんでゲス」
「非同権論者でしょう」
「非同権論者なら」
「絶交してしまいます」
「エ、絶交してしまう、アラ恐ろしの決心じゃなアじゃないか、アハハハ。どうしてどうして我輩程熱心な同権論者は恐らくは有るまいと思う」
「虚言仰しゃい。譬えばネ熱心でも、貴君のような同権論者は私ア大嫌い」
「これは御挨拶。大嫌いとは情ない事を仰しゃるネ。そんならどういう同権論者がお好き」
「どう云うッてアノー、僕の好きな同権論者はネ、アノー……」
ト横眼で天井を眺めた。
昇が小声で、
「文さんのような」
お勢も小声で、
「Yes……」
ト微かに云ッて、可笑しな身振りをして、両手を貌に宛てて笑い出した。文三は愕然としてお勢を凝視めていたが、見る間に顔色を変えてしまッた。
「イヨー妬ます引羨ましいぞ引。どうだ内海、エ、今の御託宣は。『文さんのような人が好きッ』アッ堪らぬ堪らぬ、モウ今夜家にゃ寝られん」
「オホホホホそんな事仰しゃるけれども、文さんのような同権論者が好きと云ッたばかりで、文さんが好きと云わないから宜いじゃ有りませんか」
「その分疏闇い闇い。文さんのような人が好きも文さんが好きも同じ事で御座います」
「オホホホホそんならばネ……アこうですこうです。私はネ文さんが好きだけれども、文さんは私が嫌いだから宜じゃ有りませんか。ネー文さん、そうですネー」
「ヘン嫌いどころか好きも好き、足駄穿いて首ッ丈と云う念の入ッた落こちようだ。些し水層が増そうものならブクブク往生しようと云うんだ。ナア内海」
文三はムッとしていて莞爾ともしない。その貌をお勢はチョイと横眼で視て、
「あんまり貴君が戯談仰しゃるものだから、文さん憤ッてしまいなすッたよ」
「ナニまさか嬉しいとも云えないもんだから、それであんな貌をしているのサ。シカシ、アア澄ましたところは内海も仲々好男子だネ、苦味ばしッていて。モウ些しあの顋がつまると申分がないんだけれども、アハハハハ」
「オホホホ」
ト笑いながらお勢はまた文三の貌を横眼で視た。
「シカシそうは云うものの内海は果報者だよ。まずお勢さんのようなこんな」
ト、チョイとお勢の膝を叩いて、
「頗る付きの別品、しかも実の有るのに想い附かれて、叔母さんに油を取られたと云ッては保護して貰い、ヤ何だと云ッては保護して貰う、実に羨ましいネ。明治年代の丹治と云うのはこの男の事だ。焼て粉にして飲んでしまおうか、そうしたら些とはあやかるかも知れん、アハハハハ」
「オホホホ」
「オイ好男子、そう苦虫を喰潰していずと、些と此方を向いてのろけ給え。コレサ丹治君。これはしたり、御返答が無い」
「オホホホホ」
トお勢はまた作笑いをして、また横眼でムッとしている文三の貌を視て、
「アー可笑しいこと。余り笑ッたもんだから咽喉が渇いて来た。本田さん、下へ往ッてお茶を入れましょう」
「マアもう些と御亭主さんの傍に居て顔を視せてお上げなさい」
「厭だネー御亭主さんなんぞッて。そんなら入れて茲処へ持ッて来ましょうか」
「茶を入れて持て来る実が有るなら寧そ水を持ッて来て貰いたいネ」
「水を、お砂糖入れて」
「イヤ砂糖の無い方が宜い」
「そんならレモン入れて来ましょうか」
「レモンが這入るなら砂糖気がチョッピリ有ッても宜いネ」
「何だネーいろんな事云ッて」
ト云いながらお勢は起上ッて、二階を降りてしまッた。跡には両人の者が、暫らく手持無沙汰と云う気味で黙然としていたが、やがて文三は厭に落着いた声で、
「本田」
「エ」
「君は酒に酔ッているか」
「イイヤ」
「それじゃア些し聞く事が有るが、朋友の交と云うものは互に尊敬していなければ出来るものじゃ有るまいネ」
「何だ、可笑しな事を言出したな。さよう、尊敬していなければ出来ない」
「それじゃア……」
ト云懸けて黙していたが、思切ッて些し声を震わせて、
「君とは暫らく交際していたが、モウ今夜ぎりで……絶交して貰いたい」
「ナニ絶交して貰いたいと……何だ、唐突千万な。何だと云ッて絶交しようと云うんだ」
「その理由は君の胸に聞て貰おう」
「可笑しく云うな、我輩少しも絶交しられる覚えは無い」
「フン覚えは無い、あれ程人を侮辱して置きながら」
「人を侮辱して置きながら。誰が、何時、何と云ッて」
「フフン仕様が無いな」
「君がか」
文三は黙然として暫らく昇の顔を凝視めていたが、やがて些し声高に、
「何にもそうとぼけなくッたッて宜いじゃ無いか。君みたようなものでも人間と思うからして、即ち廉耻を知ッている動物と思うからして、人間らしく美しく絶交してしまおうとすれば、君は一度ならず二度までも人を侮辱して置きながら……」
「オイオイオイ、人に物を云うならモウ些と解るように云って貰いたいネ。君一人位友人を失ッたと云ッてそんなに悲しくも無いから、絶交するならしても宜しいが、シカシその理由も説明せずして唯無暗に人を侮辱した侮辱したと云うばかりじゃ、ハアそうかとは云ッておられんじゃないか」
「それじゃ何故先刻叔母やお勢のいる前で、僕に『痩我慢なら大抵にしろ』と云ッた」
「それがそんなに気に障ッたのか」
「当前サ……何故今また僕の事を明治年代の丹治即ち意久地なしと云ッた」
「アハハハ弥々腹筋だ。それから」
「事に大小は有ッても理に巨細は無い。痩我慢と云ッて侮辱したも丹治と云ッて侮辱したも、帰するところは唯一の軽蔑からだ。既に軽蔑心が有る以上は朋友の交際は出来ないものと認めたからして絶交を申出したのだ。解ッているじゃないか」
「それから」
「但しこうは云うようなものの、園田の家と絶交してくれとは云わん。からして今までのように毎日遊びに来て、叔母と骨牌を取ろうが」
ト云ッて文三冷笑した。
「お勢を芸娼妓の如く弄ぼうが」
ト云ッてまた冷笑した。
「僕の関係した事でないから、僕は何とも云うまい。だから君もそう落胆イヤ狼狽して遁辞を設ける必要も有るまい」
「フフウ嫉妬の原素も雑ッている。それから」
「モウこれより外に言う事も無い。また君も何にも言う必要も有るまいから、このまま下へ降りて貰いたい」
「イヤ言う必要が有る。冤罪を被ッてはこれを弁解する必要が有る。だからこのまま下へ降りる事は出来ない。何故痩我慢なら大抵にしろと『忠告』したのが侮辱になる。成程親友でないものにそう直言したならば侮辱したと云われても仕様が無いが、シカシ君と我輩とは親友の関繋じゃ無いか」
「親友の間にも礼義は有る。然るに君は面と向ッて僕に『痩我慢なら大抵にしろ』と云ッた。無礼じゃないか」
「何が無礼だ。『痩我慢なら大抵にしろ』と云ッたッけか、『大抵にした方がよかろうぜ』と云ッたッけか、何方だッたかモウ忘れてしまッたが、シカシ何方にしろ忠告だ。凡そ忠告と云う者は──君にかぶれて哲学者振るのじゃアないが──忠告と云う者は、人の所行を非と認めるから云うもので、是と認めて忠告を試みる者は無い。故に若し非を非と直言したのが侮辱になれば、総の忠告と云う者は皆君の所謂無礼なものだ。若しそれで君が我輩の忠告を怒るのならば、我輩一言もない、謹で罪を謝そう。がそうか」
「忠告なら僕は却て聞く事を好む。シカシ君の言ッた事は忠告じゃない、侮辱だ」
「何故」
「若し忠告なら何故人のいる前で言ッた」
「叔母さんやお勢さんは内輪の人じゃないか」
「そりゃ内輪の者サ……内輪の者サ……けれども……しかしながら……」
文三は狼狽した。昇はその光景を見て私かに冷笑した。
「内輪な者だけれども、シカシ何にもアア口汚く言わなくッても好じゃないか」
「どうも種々に論鋒が変化するから君の趣意が解りかねるが、それじゃア何か、我輩の言方即ち忠告の Manner が気に喰わんと云うのか」
「勿論 Manner も気に喰んサ」
「Manner が気に喰わないのなら改めてお断り申そう。君には侮辱と聞えたかも知れんが我輩は忠告の積りで言ッたのだ、それで宜かろう。それならモウ絶交する必要も有るまい、アハハハ」
文三は何と駁して宜いか解らなくなッた、唯ムシャクシャと腹が立つ。風が宜ければさほどにも思うまいが、風が悪いので尚お一層腹が立つ。油汗を鼻頭ににじませて、下唇を喰締めながら、暫らくの間口惜しそうに昇の馬鹿笑いをする顔を疾視んで黙然としていた。
お勢が溢れるばかりに水を盛ッた「コップ」を盆に載せて持ッて参ッた。
「ハイ本田さん」
「これはお待遠うさま」
「何ですと」
「エ」
「アノとぼけた顔」
「アハハハハ、シカシ余り遅かッたじゃないか」
「だッて用が有ッたんですもの」
「浮気でもしていやアしなかッたか」
「貴君じゃ有るまいシ」
「我輩がそんなに浮気に見えるかネ……ドッコイ『課長さんの令妹』と云いたそうな口付をする。云えば此方にも『文さん』ト云う武器が有るから直ぐ返討だ」
「厭な人だネー、人が何にも言わないのに邪推を廻わして」
「邪推を廻わしてと云えば」
ト文三の方を向いて、
「どうだ隊長、まだ胸に落んか」
「君の云う事は皆遁辞だ」
「何故」
「そりゃ説明するに及ばん、Self-evident truth だ」
「アハハハ、とうとう Self-evident truth にまで達したか」
「どうしたの」
「マア聞いて御覧なさい、余程面白い議論が有るから」
ト云ッてまた文三の方を向いて、
「それじゃその方の口はまず片が附たと。それからしてもう一口の方は何だッけ……そうそう丹治丹治、アハハハ何故丹治と云ッたのが侮辱になるネ、それもやはり Self-evident truth かネ」
「どうしたの」
「ナニネ、先刻我輩が明治年代の丹治と云ッたのが御気色に障ッたと云ッて、この通り顔色まで変えて御立腹だ。貴嬢の情夫にしちゃア些と野暮天すぎるネ」
「本田」
昇は飲かけた「コップ」を下に置いて、
「何でゲス」
「人を侮辱して置きながら、咎められたと云ッて遁辞を設けて逃るような破廉耻的の人間と舌戦は無益と認める。からしてモウ僕は何にも言うまいが、シカシ最初の『プロポーザル』(申出)より一歩も引く事は出来んから、モウ降りてくれ給え」
「まだそんな事を云ッてるのか、ヤどうも君も驚く可き負惜しみだな」
「何だと」
「負惜しみじゃないか、君にももう自分の悪かッた事は解ッているだろう」
「失敬な事を云うな、降りろと云ッたら降りたが宜じゃないか」
「モウお罷しなさいよ」
「ハハハお勢さんが心配し出した。シカシ真にそうだネ、モウ罷した方が宜い。オイ内海、笑ッてしまおう。マア考えて見給え、馬鹿気切ッているじゃないか。忠告の仕方が気に喰わないの、丹治と云ッたが癪に障るのと云ッて絶交する、全で子供の喧嘩のようで、人に対して噺しも出来ないじゃないか。ネ、オイ笑ッてしまおう」
文三は黙ッている。
「不承知か、困ッたもんだネ。それじゃ宜ろしい、こうしよう、我輩が謝まろう。全くそうした深い考が有ッて云ッた訳じゃないから、お気に障ッたら真平御免下さい。それでよかろう」
文三はモウ堪え切れない憤りの声を振上げて、
「降りろと云ッたら降りないか」
「それでもまだ承知が出来ないのか。それじゃ仕様がない、降りよう。今何を言ッても解らない、逆上ッているから」
「何だと」
「イヤ此方の事だ。ドレ」
ト起上る。
「馬鹿」
昇も些しムッとした趣きで、立止ッて暫らく文三を疾視付けていたが、やがてニヤリと冷笑ッて、
「フフン、前後忘却の体か」
ト云いながら二階を降りてしまッた。お勢も続いて起上ッて、不思議そうに文三の容子を振反ッて観ながら、これも二階を降りてしまッた。
跡で文三は悔しそうに歯を喰切ッて、拳を振揚げて机を撃ッて、
「畜生ッ」
梯子段の下あたりで昇とお勢のドッと笑う声が聞えた。
第十一回 取付く島
翌朝朝飯の時、家内の者が顔を合わせた。お政は始終顔を皺めていて口も碌々聞かず、文三もその通り。独りお勢而已はソワソワしていて更らに沈着かず、端手なく囀ッて他愛もなく笑う。かと思うとフト口を鉗んで真面目に成ッて、憶出したように額越しに文三の顔を眺めて、笑うでも無く笑わぬでもなく、不思議そうな剣呑そうな奇々妙々な顔色をする。
食事が済む。お勢がまず起上ッて坐舗を出て、縁側でお鍋に戯れて高笑をしたかと思う間も無く、忽ち部屋の方で低声に詩吟をする声が聞えた。
益々顔を皺めながら文三が続いて起上ろうとして、叔母に呼留められて又坐直して、不思議そうに恐々叔母の顔色を窺ッて見てウンザリした。思做かして叔母の顔は尖ッている。
人を呼留めながら叔母は悠々としたもので、まず煙草を環に吹くこと五六ぷく、お鍋の膳を引終るを見済ましてさて漸くに、
「他の事でも有りませんがネ、昨日私がマア傍で聞てれば──また余計なお世話だッて叱られるかも知れないけれども──本田さんがアアやッて信切に言ておくんなさるものを、お前さんはキッパリ断ッておしまいなすッたが、ソリャモウお前さんの事たから、いずれ先に何とか確乎な見当が無くッてあんな事をお言いなさりゃアすまいネ」
「イヤ何にも見当が有ッてのどうのと云う訳じゃ有りませんが、唯……」
「ヘー、見当も有りもしないのに無暗に辞ッておしまいなすッたの」
「目的なしに断わると云ッては或は無考のように聞えるかも知れませんが、シカシ本田の言ッた事でもホンノ風評と云うだけで、ナニモ確に……」
縁側を通る人の跫音がした。多分お勢が英語の稽古に出懸るので。改ッて外出をする時を除くの外は、お勢は大抵母親に挨拶をせずして出懸る、それが習慣で。
「確にそうとも……」
「それじゃ何ですか、弥々となりゃ御布告にでもなりますか」
「イヤそんな、布告なんぞになる気遣いは有りませんが」
「それじゃマア人の噂を宛にするほか仕様が無いと云ッたようなもんですネ」
「デスガ、それはそうですが、シカシ……本田なぞの言事は……」
「宛にならない」
「イヤそ、そ、そう云う訳でも有りませんが……ウー……シカシ……幾程苦しいと云ッて……課長の所へ……」
「何ですとえ、幾程苦しいと云ッて課長さんの所へは往けないとえ。まだお前さんはそんな気楽な事を言てお出でなさるのかえ」
トお政が層に懸ッて極付けかけたので、文三は狼狽てて、
「そ、そ、そればかりじゃ有りません……仮令今課長に依頼して復職が出来たと云ッても、とても私のような者は永くは続きませんから、寧ろ官員はモウ思切ろうかと思います」
「官員はモウ思切る、フン何が何だか理由が解りゃしない。この間お前さん何とお言いだ。私がこれからどうして行く積だと聞いたら、また官員の口でも探そうかと思ッてますとお言いじゃなかッたか。それを今と成ッて、モウ官員は思切る……左様サ、親の口は干上ッても関わないから、モウ官員はお罷めなさるが宜いのサ」
「イヤ親の口が干上ッても関わないと云う訳じゃ有りませんが、シカシ官員ばかりが職業でも有りませんから、教師に成ッても親一人位は養えますから……」
「だから誰もそうはならないとは申しませんよ。そりゃお前さんの勝手だから、教師になと車夫になと何になとお成なさるが宜いのサ」
「デスガそう御立腹なすッちゃ私も実に……」
「誰が腹を立てると云いました。ナニお前さんがどうしようと此方に関繋の無い事だから誰も腹も背も立ちゃしないけれども、唯本田さんがアアやッて信切に言ッておくンなさるもんだから、周旋て貰ッて課長さんに取入ッて置きゃア、仮令んば今度の復職とやらは出来ないでも、また先へよって何ぞれ角ぞれお世話アして下さるまいものでも無いトネー、そうすりゃ、お前さんばかしか慈母さんも御安心なさる事たシ、それに……何だから『三方四方』円く納まる事たから(この時文三はフット顔を振揚げて、不思議そうに叔母を凝視めた)ト思ッて、チョイとお聞き申したばかしさ。けれども、ナニお前さんがそうした了簡方ならそれまでの事サ」
両人共暫らく無言。
「鍋」
「ハイ」
トお鍋が襖を開けて顔のみを出した。見れば口をモゴ付かせている。
「まだ御膳を仕舞わないのかえ」
「ハイ、まだ」
「それじゃ仕舞ッてからで宜いからネ、何時もの車屋へ往ッて一人乗一挺誂らえて来ておくれ、浜町まで上下」
「ハイ、それでは只今直に」
ト云ッてお鍋が襖を閉切るを待兼ねていた文三が、また改めて叔母に向って、
「段々と承ッて見ますと、叔母さんの仰しゃる事は一々御尤のようでも有るシ、かつ私一個の強情から、母親は勿論叔母さんにまで種々御心配を懸けまして甚だ恐入りますから、今一応篤と考えて見まして」
「今一応も二応も無いじゃ有りませんか、お前さんがモウ官員にゃならないと決めてお出でなさるんだから」
「そ、それはそうですが、シカシ……事に寄ッたら……思い直おすかも知れませんから……」
お政は冷笑しながら、
「そんならマア考えて御覧なさい。だがナニモ何ですよ、お前さんが官員に成ッておくんなさらなきゃア私どもが立往かないと云うんじゃ無いから、無理に何ですよ、勧めはしませんよ」
「ハイ」
「それから序だから言ッときますがネ、聞けば昨夕本田さんと何だか入組みなすったそうだけれども、そんな事が有ッちゃ誠に迷惑しますネ。本田さんはお前さんのお朋友とは云いじょう、今じゃア家のお客も同前の方だから」
「ハイ」
トは云ッたが、文三実は叔母が何を言ッたのだかよくは解らなかッた、些し考え事が有るので。
「そりゃアア云う胸の広い方だから、そんな事が有ッたと云ッてそれを根葉に有ッて周旋をしないとはお言いなさりゃすまいけれども、全体なら……マアそれは今言ッても無駄だ、お前さんが腹を極めてからの事にしよう」
ト自家撲滅、文三はフト首を振揚げて、
「ハイ」
「イエネ、またの事にしましょう、と云う事サ」
「ハイ」
何だかトンチンカンで。
叔母に一礼して文三が起上ッて、そこそこに部屋へ戻ッて、室の中央に突立ッたままで坐りもせず、良暫くの間と云うものは造付けの木偶の如くに黙然としていたが、やがて溜息と共に、
「どうしたものだろう」
ト云ッて、宛然雪達磨が日の眼に逢ッて解けるように、グズグズと崩れながらに坐に着いた。
何故「どうしたものだろう」かとその理由を繹ねて見ると、概略はまず箇様で。
先頃免職が種で油を取られた時は、文三は一途に叔母を薄情な婦人と思詰めて恨みもし立腹もした事では有るが、その後沈着いて考えて見るとどうやら叔母の心意気が飲込めなくなり出した。
成程叔母は賢婦でも無い、烈女でもない、文三の感情、思想を忖度し得ないのも勿論の事では有るが、シカシ菽麦を弁ぜぬ程の痴女子でもなければ自家独得の識見をも保着している、論事矩をも保着している、処世の法をも保着している。それでいて何故アア何の道理も無く何の理由もなく、唯文三が免職に成ッたと云うばかりで、自身も恐らくは無理と知り宛無理を陳べて一人で立腹して、また一人で立腹したとてまた一人で立腹して、罪も咎も無い文三に手を杖かして謝罪さしたので有ろう。お勢を嫁するのが厭になってと或時は思いはしたようなものの、考えて見ればそれも可笑しい。二三分時前までは文三は我女の夫、我女は文三の妻と思詰めていた者が、免職と聞くより早くガラリ気が渝ッて、俄に配合せるのが厭に成ッて、急拵の愛想尽かしを陳立てて、故意に文三に立腹さしてそして娘と手を切らせようとした……どうも可笑しい。
こうした疑念が起ッたので、文三がまた叔母の言草、悔しそうな言様、ジレッタそうな顔色を一々漏らさず憶起して、さらに出直おして思惟して見て、文三は遂に昨日の非を覚ッた。
叔母の心事を察するに、叔母はお勢の身の固まるのを楽みにしていたに相違ない。来年の春を心待に待ていたに相違ない。アノ帯をアアしてコノ衣服をこうしてと私に胸算用をしていたに相違ない。それが文三が免職に成ッたばかりでガラリト宛が外れたので、それで失望したに相違ない。凡そ失望は落胆を生み落胆は愚痴を生む。「叔母の言艸を愛想尽かしと聞取ッたのは全く此方の僻耳で、或は愚痴で有ッたかも知れん」ト云う所に文三気が附いた。
こう気が附て見ると文三は幾分か恨が晴れた。叔母がそう憎くはなくなった、イヤ寧ろ叔母に対して気の毒に成ッて来た。文三の今我は故吾でない、シカシお政の故吾も今我でない。
悶着以来まだ五日にもならぬに、お政はガラリその容子を一変した。勿論以前とてもナニモ非常に文三を親愛していた、手車に乗せて下へも措かぬようにしていたト云うでは無いが、ともかくも以前は、チョイと顔を見る眼元、チョイと物を云う口元に、真似て真似のならぬ一種の和気を帯びていたが、この頃は眼中には雲を懸けて口元には苦笑を含んでいる。以前は言事がさらさらとしていて厭味気が無かッたが、この頃は言葉に針を含めば聞て耳が痛くなる。以前は人我の隔歴が無かッたが、この頃は全く他人にする。霽顔を見せた事も無い、温語をきいた事も無い。物を言懸ければ聞えぬ風をする事も有り、気に喰わぬ事が有れば目を側てて疾視付ける事も有り、要するに可笑しな処置振りをして見せる。免職が種の悶着はここに至ッて、沍ててかじけて凝結し出した。
文三は篤実温厚な男、仮令その人と為りはどう有ろうとも叔母は叔母、有恩の人に相違ないから、尊尚親愛して水乳の如くシックリと和合したいとこそ願え、決して乖背し睽離したいとは願わないようなものの、心は境に随ッてその相を顕ずるとかで、叔母にこう仕向けられて見ると万更好い心地もしない。好い心地もしなければツイ不吉な顔もしたくなる。が其処は篤実温厚だけに、何時も思返してジッと辛抱している。蓋し文三の身が極まらなければお勢の身も極まらぬ道理、親の事ならそれも苦労になろう。人世の困難に遭遇て、独りで苦悩して独りで切抜けると云うは俊傑の為る事、並や通途の者ならばそうはいかぬがち。自心に苦悩が有る時は、必ずその由来する所を自身に求めずして他人に求める。求めて得なければ天命に帰してしまい、求めて得れば則ちその人を媢嫉する。そうでもしなければ自ら慰める事が出来ない。「叔母もそれでこう辛く当るのだな」トその心を汲分けて、どんな可笑しな処置振りをされても文三は眼を閉ッて黙ッている。
「が若し叔母が慈母のように我の心を噛分けてくれたら、若し叔母が心を和げて共に困厄に安んずる事が出来たら、我ほど世に幸福な者は有るまいに」ト思ッて文三屡々嘆息した。依て至誠は天をも感ずるとか云う古賢の格言を力にして、折さえ有れば力めて叔母の機嫌を取ッて見るが、お政は油紙に水を注ぐように、跳付けて而已いてさらに取合わず、そして独りでジレている。文三は針の筵に坐ッたような心地。
シカシまだまだこれしきの事なら忍んで忍ばれぬ事も無いが、茲処に尤も心配で心配で耐られぬ事が一ツ有る。他でも無い、この頃叔母がお勢と文三との間を関ような容子が徐々見え出した一事で。尤も、今の内は唯お勢を戒めて今までのように文三と親しくさせないのみで、さして思切ッた処置もしないからまず差迫ッた事では無いが、シカシこのままにして捨置けば将来何等な傷心恨事が出来するかも測られぬ。一念ここに至る毎に、文三は我も折れ気も挫じけてそして胸膈も塞がる。
こう云う矢端には得て疑心も起りたがる。縄麻に蛇相も生じたがる、株杭に人想の起りたがる。実在の苦境の外に文三が別に妄念から一苦界を産み出して、求めてその中に沈淪して、あせッて踠いて極大苦悩を甞めている今日この頃、我慢勝他が性質の叔母のお政が、よくせきの事なればこそ我から折れて出て、「お前さんさえ我を折れば、三方四方円く納まる」ト穏便をおもって言ッてくれる。それを無面目にも言破ッて立腹をさせて、我から我他彼此の種子を蒔く……文三そうは為たく無い。成ろう事なら叔母の言状を立ててその心を慰めて、お勢の縁をも繋ぎ留めて、老母の心をも安めて、そして自分も安心したい。それで文三は先刻も言葉を濁して来たので、それで文三は今又屈托の人と為ッているので。
「どうしたものだろう」
ト文三再び我と我に相談を懸けた。
「寧そ叔母の意見に就いて、廉耻も良心も棄ててしまッて、課長の所へ往ッて見ようかしらん。依頼さえして置けば、仮令えば今が今どうならんと云ッても、叔母の気が安まる。そうすれば、お勢さえ心変りがしなければまず大丈夫と云うものだ。かつ慈母さんもこの頃じゃア茶断して心配してお出でなさるところだから、こればかりで犠牲に成ッたと云ッても敢て小胆とは言われまい。コリャ寧そ叔母の意見に……」
が猛然として省思すれば、叔母の意見に就こうとすれば厭でも昇に親まなければならぬ。昇とあのままにして置いて独り課長に而已取入ろうとすれば、渠奴必ず邪魔を入れるに相違ない。からして厭でも昇に親まなければならぬ。老母の為お勢の為めなら、或は良心を傷けて自重の気を拉いで課長の鼻息を窺い得るかも知れぬが、如何に窮したればと云ッて苦しいと云ッて、昇に、面と向ッて図大柄に「痩我慢なら大抵にしろ」ト云ッた昇に、昨夜も昨夜とて小児の如くに人を愚弄して、陽に負けて陰に復り討に逢わした昇に、不倶戴天の讎敵、生ながらその肉を啖わなければこの熱腸が冷されぬと怨みに思ッている昇に、今更手を杖いて一着を輸する事は、文三には死しても出来ぬ。課長に取入るも昇に上手を遣うも、その趣きは同じかろうが同じく有るまいが、そんな事に頓着はない。唯是もなく非もなく、利もなく害もなく、昇に一着を輸する事は文三には死しても出来ぬ。
ト決心して見れば叔母の意見に負かなければならず、叔母の意見に負くまいとすれば昇に一着を輸さなければならぬ。それも厭なりこれも厭なりで、二時間ばかりと云うものは黙坐して腕を拱んで、沈吟して嘆息して、千思万考、審念熟慮して屈托して見たが、詮ずる所は旧の木阿弥。
「ハテどうしたものだろう」
物皆終あれば古筵も鳶にはなりけり。久しく苦しんでいる内に文三の屈托も遂にその極度に達して、忽ち一ツの思案を形作ッた。所謂思案とは、お勢に相談して見ようと云う思案で。
蓋し文三が叔母の意見に負きたくないと思うも、叔母の心を汲分けて見れば道理な所もあるからと云い、叔母の苦り切ッた顔を見るも心苦しいからと云うは少分で、その多分は、全くそれが原因でお勢の事を断念らねばならぬように成行きはすまいかと危ぶむからで。故に若しお勢さえ、天は荒れても地は老ても、海は枯れても石は爛れても、文三がこの上どんなに零落しても、母親がこの後どんな言を云い出しても、決してその初の志を悛めないと定ッていれば、叔母が面を脹らしても眼を剥出しても、それしきの事なら忍びもなる。文三は叔母の意見に背く事が出来る。既に叔母の意見に背く事が出来れば、モウ昇に一着を輸する必要もない。「かつ窮して乱するは大丈夫の為るを愧る所だ」
そうだそうだ、文三の病原はお勢の心に在る。お勢の心一ツで進退去就を決しさえすればイサクサは無い。何故最初から其処に心附かなかッたか、今と成ッて考えて見ると文三我ながら我が怪しまれる。
お勢に相談する、極めて上策。恐らくはこれに越す思案も有るまい。若しお勢が、小挫折に逢ッたと云ッてその節を移さずして、尚お未だに文三の智識で考えて、文三の感情で感じて、文三の息気で呼吸して、文三を愛しているならば、文三に厭な事はお勢にもまた厭に相違は有るまい。文三が昇に一着を輸する事を屑と思わぬなら、お勢もまた文三に、昇に一着を輸させたくは有るまい。相談を懸けたら飛だ手軽ろく「母が何と云おうと関やアしませんやアネ、本田なんぞに頼む事はお罷しなさいよ」ト云ッてくれるかも知れぬ。またこの後の所を念を押したら、恨めしそうに、「貴君は私をそんな浮薄なものだと思ッてお出でなさるの」ト云ッてくれるかも知れぬ。お勢がそうさえ云ッてくれれば、モウ文三天下に懼るる者はない。火にも這入れる、水にも飛込める。況んや叔母の意見に負く位の事は朝飯前の仕事、お茶の子さいさいとも思わない。
「そうだ、それが宜い」
ト云ッて文三起上ッたが、また立止ッて、
「がこの頃の挙動と云い容子と云い、ヒョッとしたら本田に……何してはいないかしらん……チョッ関わん、若しそうならばモウそれまでの事だ。ナニ我だッて男子だ、心渝のした者に未練は残らん。断然手を切ッてしまッて、今度こそは思い切ッて非常な事をして、非常な豪胆を示して、本田を拉しいで、そしてお勢にも……お勢にも後悔さして、そして……そして……そして……」
ト思いながら二階を降りた。
が此処が妙で、観菊行の時同感せぬお勢の心を疑ッたにも拘らず、その夜帰宅してからのお勢の挙動を怪んだのにも拘らず、また昨日の高笑い昨夜のしだらを今以て面白からず思ッているにも拘らず、文三は内心の内心では尚おまだお勢に於て心変りするなどと云うそんな水臭い事は無いと信じていた。尚おまだ相談を懸ければ文三の思う通りな事を云って、文三を励ますに相違ないと信じていた。こう信ずる理由が有るからこう信じていたのでは無くて、こう信じたいからこう信じていたので。
第十二回 いすかの嘴
文三が二階を降りて、ソットお勢の部屋の障子を開けるその途端に、今まで机に頼杖をついて何事か物思いをしていたお勢が、吃驚した面相をして些し飛上ッて居住居を直おした。顔に手の痕の赤く残ッている所を観ると、久しく頬杖をついていたものと見える。
「お邪魔じゃ有りませんか」
「イイエ」
「それじゃア」
ト云いながら文三は部屋へ這入ッて坐に着いて
「昨夜は大に失敬しました」
「私こそ」
「実に面目が無い、貴嬢の前をも憚らずして……今朝その事で慈母さんに小言を聞きました。アハハハハ」
「そう、オホホホ」
ト無理に押出したような笑い。何となく冷淡い、今朝のお勢とは全で他人のようで。
「トキニ些し貴嬢に御相談が有る。他の事でも無いが、今朝慈母さんの仰しゃるには……シカシもうお聞きなすッたか」
「イイエ」
「成程そうだ、御存知ない筈だ……慈母さんの仰しゃるには、本田がアア信切に云ッてくれるものだから、橋渡しをして貰ッて課長の所へ往ッたらばどうだと仰しゃるのです。そりゃ成程慈母さんの仰しゃる通り今茲処で私さえ我を折れば私の身も極まるシ、老母も安心するシ、『三方四方』(ト言葉に力瘤を入れて)円く納まる事だから、私も出来る事ならそうしたいが、シカシそう為ようとするには良心を締殺さなければならん。課長の鼻息を窺わなければならん。そんな事は我々には出来んじゃ有りませんか」
「出来なければそれまでじゃ有りませんか」
「サ其処です。私には出来ないが、シカシそうしなければ慈母さんがまた悪い顔をなさるかも知れん」
「母が悪い顔をしたッてそんな事は何だけれども……」
「エ、関わんと仰しゃるのですか」
ト文三はニコニコと笑いながら問懸けた。
「だッてそうじゃ有りません。貴君が貴君の考どおりに進退して良心に対して毫しも耻る所が無ければ、人がどんな貌をしたッて宜いじゃ有りませんか」
文三は笑いを停めて、
「デスガ唯慈母さんが悪い顔をなさるばかりならまだ宜いが、或はそれが原因と成ッて……貴嬢にはどうかはしらんが……私の為めには尤も忌むべき尤も哀む可き結果が生じはしないかと危ぶまれるから、それで私も困まるのです……尤もそんな結果が生ずると生じないとは貴嬢の……貴嬢の……」
ト云懸けて黙してしまッたが、やがて聞えるか聞えぬ程の小声で、
「心一ツに在る事だけれども……」
ト云ッて差俯向いた、文三の懸けた謎々が解けても解けない風をするのか、それともどうだか其所は判然しないが、ともかくもお勢は頗る無頓着な容子で、
「私にはまだ貴君の仰しゃる事がよく解りませんよ。何故そう課長さんの所へ往のがお厭だろう。石田さんの所へ往てお頼みなさるも課長さんの所へ往てお頼みなさるも、その趣は同一じゃ有りませんか」
「イヤ違います」
ト云ッて文三は首を振揚げた。
「非常な差が有る、石田は私を知ているけれど課長は私を知らないから……」
「そりゃどうだか解りゃしませんやアネ、往て見ない内は」
「イヤそりゃ今までの経験で解ります、そりゃ掩う可らざる事実だから何だけれども……それに課長の所へ往こうとすれば、是非とも先ず本田に依頼をしなければなりません、勿論課長は私も知らない人じゃないけれども……」
「宜いじゃ有りませんか、本田さんに依頼したッて」
「エ、本田に依頼をしろと」
ト云ッた時は文三はモウ今までの文三でない、顔色が些し変ッていた。
「命令するのじゃ有りませんがネ、唯依頼したッて宜いじゃ有りませんか、と云うの」
「本田に」
ト文三はあたかも我耳を信じないように再び尋ねた。
「ハア」
「あんな卑屈な奴に……課長の腰巾着……奴隷……」
「そんな……」
「奴隷と云われても耻とも思わんような、犬……犬……犬猫同前な奴に手を杖いて頼めと仰しゃるのですか」
ト云ッてジッとお勢の顔を凝視めた。
「昨夜の事が有るからそれで貴君はそんなに仰しゃるんだろうけれども、本田さんだッてそんなに卑屈な人じゃ有りませんワ」
「フフン卑屈でない、本田を卑屈でない」
ト云ッてさも苦々しそうに冷笑いながら顔を背けたが、忽ちまたキッとお勢の方を振向いて、
「何時か貴嬢何と仰しゃッた、本田が貴嬢に対ッて失敬な情談を言ッた時に……」
「そりゃあの時には厭な感じも起ッたけれども、能く交際して見ればそんなに貴君のお言いなさるように破廉耻の人じゃ有りませんワ」
文三は黙然としてお勢の顔を凝視めていた、但し宜しくない徴候で。
「昨夜もアレから下へ降りて、本田さんがアノー『慈母さんが聞と必と喧ましく言出すに違いない、そうすると僕は何だけれどもアノ内海が困るだろうから黙ッていてくれろ』と口止めしたから、私は何とも言わなかッたけれども鍋がツイ饒舌ッて……」
「古狸奴、そんな事を言やアがッたか」
「またあんな事を云ッて……そりゃ文さん、貴君が悪いよ。あれ程貴君に罵詈されても腹も立てずにやっぱり貴君の利益を思ッて云う者を、それをそんな古狸なんぞッて……そりゃ貴君は温順だのに本田さんは活溌だから気が合わないかも知れないけれども、貴君と気の合わないものは皆破廉耻と極ッてもいないから……それを無暗に罵詈して……そんな失敬な事ッて……」
ト些し顔を赧めて口早に云ッた。文三は益々腹立しそうな面相をして、
「それでは何ですか、本田は貴嬢の気に入ッたと云うんですか」
「気に入るも入らないも無いけれども、貴君の云うようなそんな破廉耻な人じゃ有りませんワ……それを古狸なんぞッて無暗に人を罵詈して……」
「イヤ、まず私の聞く事に返答して下さい。弥々本田が気に入ッたと云うんですか」
言様が些し烈しかッた。お勢はムッとして暫らく文三の容子をジロリジロリと視ていたが、やがて、
「そんな事を聞いて何になさる。本田さんが私の気に入ろうと入るまいと、貴君の関係した事は無いじゃ有りませんか」
「有るから聞くのです」
「そんならどんな関係が有ります」
「どんな関係でもよろしい、それを今説明する必要は無い」
「そんなら私も貴君の問に答える必要は有りません」
「それじゃア宜ろしい、聞かなくッても」
ト云ッて文三はまた顔を背けて、さも苦々しそうに独語のように、
「人に問詰められて逃るなんぞと云ッて、実にひ、ひ、卑劣極まる」
「何ですと、卑劣極まると……宜う御座んす、そんな事お言いなさるなら匿したッて仕様がない、言てしまいます……言てしまいますとも……」
ト云ッてスコシ胸を突立して、儼然として、
「ハイ本田さんは私の気に入りました……それがどうしました」
ト聞くと文三は慄然と震えた、真蒼に成ッた……暫らくの間は言葉はなくて、唯恨めしそうにジッとお勢の澄ました顔を凝視めていた、その眼縁が見る見るうるみ出した……が忽ちはッと気を取直おして、儼然と容を改めて、震声で、
「それじゃ……それじゃこうしましょう、今までの事は全然……水に……」
言切れない、胸が一杯に成て。暫らく杜絶れていたが思い切ッて、
「水に流してしまいましょう……」
「何です、今までの事とは」
「この場に成てそうとぼけなくッても宜いじゃ有りませんか。寧そ別れるものなら……綺麗に……別れようじゃ……有りませんか……」
「誰がとぼけています、誰が誰に別れようと云うのです」
文三はムラムラとした。些し声高に成ッて、
「とぼけるのも好加減になさい、誰が誰に別れるのだとは何の事です。今までさんざ人の感情を弄んで置きながら、今と成て……本田なぞに見返えるさえ有るに、人が穏かに出れば附上ッて、誰が誰に別れるのだとは何の事です」
「何ですと、人の感情を弄んで置きながら……誰が人の感情を弄びました……誰が人の感情を弄びましたよ」
ト云った時はお勢もうるみ眼に成っていた。文三はグッとお勢の顔を疾視付けている而已で、一語をも発しなかった。
「余だから宜い……人の感情を弄んだの本田に見返ったのといろんな事を云って讒謗して……自分の己惚でどんな夢を見ていたって、人の知た事ちゃ有りゃしない……」
トまだ言終らぬ内に文三はスックと起上って、お勢を疾視付けて、
「モウ言う事も無い聞く事も無い。モウこれが口のきき納めだからそう思ってお出でなさい」
「そう思いますとも」
「沢山……浮気をなさい」
「何ですと」
ト云った時にはモウ文三は部屋には居なかった。
「畜生……馬鹿……口なんぞ聞いてくれなくッたッて些とも困りゃしないぞ……馬鹿……」
ト跡でお勢が敵手も無いに独りで熱気となって悪口を並べ立てているところへ、何時の間に帰宅したかフと母親が這入って来た。
「どうしたんだえ」
「畜生……」
「どうしたんだと云えば」
「文三と喧嘩したんだよ……文三の畜生と……」
「どうして」
「先刻突然這入ッて来て、今朝慈母さんがこうこう言ッたがどうしようと相談するから、それから昨夜慈母さんが言た通りに……」
「コレサ、静かにお言い」
「慈母さんの言た通りに云て勧めたら腹を立てやアがッて、人の事をいろんな事を云ッて」
ト手短かに勿論自分に不利な所はしッかい取除いて次第を咄して、
「慈母さん、私ア口惜しくッて口惜しくッてならないよ」
ト云ッて襦袢の袖口で泪を拭いた。
「フウそうかえ、そんな事を云ッたかえ。それじゃもうそれまでの事だ。あんな者でも家大人の血統だから今と成てかれこれ言出しちゃ面倒臭いと思ッて、此方から折れて出て遣れば附上ッて、そんな我儘勝手を云う……モウ勘弁がならない」
ト云ッて些し考えていたが、やがてまた娘の方を向いて一段声を低めて、
「実はネ、お前にはまだ内々でいたけれども、家大人はネ、行々はお前を文三に配合せる積りでお出でなさるんだが、お前は……厭だろうネ」
「厭サ厭サ、誰があんな奴に……」
「必とそうかえ」
「誰があんな奴つに……乞食したッてあんな奴のお嫁に成るもんか」
「その一言をお忘れでないよ。お前が弥々その気なら慈母さんも了簡が有るから」
「慈母さん、今日から私を下宿さしておくんなさいな」
「なんだネこの娘は、藪から棒に」
「だッて私ア、モウ文さんの顔を見るのも厭だもの」
「そんな事言ッたッて仕様が無いやアネ。マアもう些と辛抱してお出で、その内にゃ慈母さんが宜いようにして上るから」
この時はお勢は黙していた、何か考えているようで。
「これからは真個に慈母さんの言事を聴いて、モウ余り文三と口なんぞお聞きでないよ」
「誰が聞てやるもんか」
「文三ばかりじゃ無い、本田さんにだッてもそうだよ。あんなに昨夜のように遠慮の無い事をお言いでないよ。ソリャお前の事だからまさかそんな……不埒なんぞはお為じゃ有るまいけれども、今が嫁入前で一番大事な時だから」
「慈母さんまでそんな事を云ッて……そんならモウこれから本田さんが来たッて口もきかないから宜い」
「口を聞くなじゃ無いが、唯昨夜のように……」
「イイエイイエ、モウ口も聞かない聞かない」
「そうじゃ無いと云えばネ」
「イイエ、モウ口も聞かない聞かない」
ト頭振りを振る娘の顔を視て、母親は、
「全で狂気だ。チョイと人が一言いえば直に腹を立てしまッて、手も附けられやアしない」
ト云い捨てて起上ッて、部屋を出てしまッた。
第三編
浮雲第三篇ハ都合に依ッて此雜誌へ載せる事にしました。
固と此小説ハつまらぬ事を種に作ッたものゆえ、人物も事実も皆つまらぬもののみでしょうが、それは作者も承知の事です。
只々作者にハつまらぬ事にハつまらぬという面白味が有るように思われたからそれで筆を執ッてみた計りです。
第十三回
心理の上から観れば、智愚の別なく人咸く面白味は有る。内海文三の心状を観れば、それは解ろう。
前回参看﹆文三は既にお勢に窘められて、憤然として部屋へ駈戻ッた。さてそれからは独り演劇、泡を噛だり、拳を握ッたり。どう考えて見ても心外でたまらぬ。「本田さんが気に入りました」それは一時の激語、も承知しているでもなく、又いないでも無い。から、強ちそればかりを怒ッた訳でもないが、只腹が立つ、まだ何か他の事で、おそろしくお勢に欺かれたような心地がして、訳もなく腹が立つ。
腹の立つまま、遂に下宿と決心して宿所を出た。ではお勢の事は既にすッぱり思切ッているか、というに、そうではない、思切ッてはいない。思切ッてはいないが、思切らぬ訳にもゆかぬから、そこで悶々する。利害得喪、今はそのような事に頓着無い。只己れに逆らッてみたい、己れの望まない事をして見たい。鴆毒? 持ッて来い。甞めてこの一生をむちゃくちゃにして見せよう!……
そこで宿所を出た。同じ下宿するなら、遠方がよいというので、本郷辺へ往ッて尋ねてみたが、どうも無かッた。から、彼地から小石川へ下りて、其処此処と尋廻るうちに、ふと水道町で一軒見当てた。宿料も廉、その割には坐舗も清潔、下宿をするなら、まず此所等と定めなければならぬ……となると文三急に考え出した。「いずれ考えてから、またそのうちに……」言葉を濁してその家を出た。
「お勢と諍論ッて家を出た──叔父が聞いたら、さぞ心持を悪くするだろうなア……」と歩きながら徐々畏縮だした。「と云ッて、どうもこのままには済まされん……思切ッて今の家に下宿しようか?……」
今更心が動く、どうしてよいか訳がわからない。時計を見れば、まだ漸く三時半すこし廻わッたばかり。今から帰るも何となく気が進まぬ。から、彼所から牛込見附へ懸ッて、腹の屈托を口へ出して、折々往来の人を驚かしながら、いつ来るともなく番町へ来て、例の教師の家を訪問てみた。
折善くもう学校から帰ッていたので、すぐ面会した。が、授業の模様、旧生徒の噂、留学、竜動、「たいむす」、はッばァと、すぺんさあー──相変らぬ噺で、おもしろくも何ともない。「私……事に寄ると……この頃に下宿するかも知れません」、唐突に宛もない事を云ッてみたが、先生少しも驚かず、何故かふむと鼻を鳴らして、只「羨ましいな。もう一度そんな身になってみたい」とばかり。とんと方角が違う。面白くないから、また辞して教師の宅をも出てしまッた。
出た時の勢に引替えて、すごすご帰宅したは八時ごろの事で有ッたろう。まず眼を配ッてお勢を探す。見えない、お勢が……棄てた者に用も何もないが、それでも、文三に云わせると、人情というものは妙なもので、何となく気に懸るから、火を持ッて上ッて来たお鍋にこッそり聞いてみると、お嬢さまは気分が悪いと仰しゃッて、御膳も碌に召上らずに、モウお休みなさいました、という。
「御膳も碌に?……」
「御膳も碌に召しやがらずに」
確められて文三急に萎れかけた……が、ふと気をかえて、「ヘ、ヘ、ヘ、御膳も召上らずに……今に鍋焼饂飩でも喰たくなるだろう」
おかしな事をいうとは思ッたが、使に出ていて今朝の騒動を知らないから、お鍋はそのまま降りてしまう。
と、独りになる。「ヘ、ヘ、ヘ」とまた思出して冷笑ッた……が、ふと心附いてみれば、今はそんな、つまらぬ、くだらぬ、薬袋も無い事に拘ッている時ではない。「叔父の手前何と云ッて出たものだろう?」と改めて首を捻ッて見たが、もウ何となく馬鹿気ていて、真面目になって考えられない。「何と云ッて出たものだろう?」と強いて考えてみても、心奴がいう事を聴かず、それとは全く関繋もない余所事を何時からともなく思ッてしまう。いろいろに紛れようとしてみても、どうも紛れられない、意地悪くもその余所事が気に懸ッて、気に懸ッて、どうもならない。怺えに、怺えに、怺えて見たが、とうどう怺え切れなくなッて、「して見ると、同じように苦しんでいるかしらん」、はッと云ッても追付かず、こう思うと、急におそろしく気の毒になッて来て、文三は狼狽てて後悔をしてしまッた。
叱るよりは謝罪る方が文三には似合うと誰やらが云ッたが、そうかも知れない。
第十四回
「気の毒気の毒」と思い寐にうとうととして眼を覚まして見れば、烏の啼声、雨戸を繰る音、裏の井戸で釣瓶を軋らせる響。少し眠足りないが、無理に起きて下坐舗へ降りてみれば、只お鍋が睡むそうな顔をして釜の下を焚付けているばかり。誰も起きていない。
朝寐が持前のお勢、まだ臥ているは当然の事、とは思いながらも、何となく物足らぬ心地がする。
早く顔が視たい、如何様な顔をしているか。顔を視れば、どうせ好い心地がしないは知れていれど、それでいて只早く顔が視たい。
三十分たち、一時間たつ。今に起きて来るか、と思えば、肉癢ゆい。髪の寐乱れた、顔の蒼ざめた、腫瞼の美人が始終眼前にちらつく。
「昨日下宿しようと騒いだは誰で有ッたろう」と云ッたような顔色……
朝飯がすむ。文三は奥坐舗を出ようとする、お勢はその頃になッて漸々起きて来て、入ろうとする、──縁側でぴッたり出会ッた……はッと狼狽えた文三は、予て期した事ながら、それに引替えて、お勢の澄ましようは、じろりと文三を尻眼に懸けたまま、奥坐舗へツイとも云わず入ッてしまッた。只それだけの事で有ッた。
が、それだけで十分。そのじろりと視た眼付が眼の底に染付いて忘れようとしても忘れられない。胸は痞えた。気は結ぼれる。搗てて加えて、朝の薄曇りが昼少し下る頃より雨となッて、びしょびしょと降り出したので、気も消えるばかり。
お勢は気分の悪いを口実にして英語の稽古にも往かず、只一間に籠ッたぎり、音沙汰なし。昼飯の時、顔を合わしたが、お勢は成りたけ文三の顔を見ぬようにしている。偶々眼を視合わせれば、すぐ首を据えて可笑しく澄ます。それが睨付られるより文三には辛い。雨は歇まず、お勢は済まぬ顔、家内も湿り切ッて誰とて口を聞く者も無し。文三果は泣出したくなッた。
心苦しいその日も暮れてやや雨はあがる。昇が遊びに来たか、門口で華やかな声。お鍋のけたたましく笑う声が聞える。お勢はその時奥坐舗に居たが、それを聞くと、狼狽えて起上ろうとしたが間に合わず、──気軽に入ッて来る昇に視られて、さも余義なさそうに又坐ッた。
何も知らぬから、昇、例の如く、好もしそうな眼付をしてお勢の顔を視て、挨拶よりまず戯言をいう、お勢は莞爾ともせず、真面目な挨拶をする、──かれこれ齟齬う。から、昇も怪訝な顔色をして何か云おうとしたが、突然お政が、三日も物を云わずにいたように、たてつけて饒舌り懸けたので、つい紛らされてその方を向く。その間にお勢はこッそり起上ッて坐舗を滑り出ようとして……見附けられた。
「何処へ、勢ちゃん?」
けれども、聞えませんから返答を致しませんと云わぬばかりで、お勢は坐舗を出てしまッた。
部屋は真の闇。手探りで摺附木だけは探り当てたが、洋燈が見附らない。大方お鍋が忘れてまだ持ッて来ないので有ろう。「鍋や」と呼んで少し待ッてみて又「鍋や……」、返答をしない。「鍋、鍋、鍋」たてつけて呼んでも返答をしない。焦燥きッていると、気の抜けたころに、間の抜けた声で、
「お呼びなさいましたか?」
「知らないよ……そんな……呼んでも呼んでも、返答もしないンだものを」
「だッてお奥で御用をしていたンですものを」
「用をしていると返答は出来なくッて?」
「御免遊ばせ……何か御用?」
「用が無くッて呼びはしないよ……そンな……人を……くらみ(暗黒)でるのがわかッ(分ら)なッかえッ?」
二三度聞直して漸く分ッて洋燈は持ッて来たが、心無し奴が跡をも閉めずして出て往ッた。
「ばか」
顔に似合わぬ悪体を吐きながら、起上ッて邪慳に障子を〆切り、再び机の辺に坐る間もなく、折角〆た障子をまた開けて……己れ、やれ、もう堪忍が……と振り反ッてみれば、案外な母親。お勢は急に他所を向く。
「お勢」と小声ながらに力瘤を込めて、お政は呼ぶ。此方はなに返答をするものかと力身だ面相。
「何だと云ッて、あんなおかしな処置振りをお為だ? 本田さんが何とか思いなさらアね。彼方へお出でよ」
と暫らく待ッていてみたが、動きそうにも無いので、又声を励まして、
「よ、お出でと云ッたら、お出でよ」
「その位ならあんな事云わないがいい……」
と差俯向く、その顔を窺けば、おやおや泪ぐんで……
「ま呆れけえッちまわア!」と母親はあきれけエッちまッた。「たンとお脹れ」
とは云ッたが、又折れて、
「世話ア焼かせずと、お出でよ」
返答なし。
「ええ、も、じれッたい! 勝手にするがいい!」
そのまま母親は奥坐舗へ還ってしまった。
これで坐舗へ還る綱も截れた。求めて截ッて置きながら今更惜しいような、じれッたいような、おかしな顔をして暫く待ッていてみても、誰も呼びに来てもくれない。また呼びに来たとて、おめおめ還られもしない。それに奥坐舗では想像のない者共が打揃ッて、噺すやら、笑うやら……肝癪紛れにお勢は色鉛筆を執ッて、まだ真新しなすういんとんの文典の表紙をごしごし擦り初めた。不運なはすういんとんの文典!
表紙が大方真青になッたころ、ふと縁側に足音……耳を聳てて、お勢ははッと狼狽えた……手ばしこく文典を開けて、倒しまになッているとも心附かで、ぴッたり眼で喰込んだ、とんと先刻から書見していたような面相をして。
すらりと障子が開く。文典を凝視めたままで、お勢は少し震えた。遠慮気もなく無造作に入ッて来た者は云わでと知れた昇。華美な、軽い調子で、「遁げたね、好男子が来たと思ッて」
と云わして置いて、お勢は漸く重そうに首を矯げて、世にも落着いた声で、さもにべなく、
「あの失礼ですが、まだ明日の支度をしませんから……」
けれども、敵手が敵手だから、一向利かない。
「明日の支度? 明日の支度なぞはどうでも宜いさ」
と昇はお勢の傍に陣を取ッた。
「本統にまだ……」
「何をそう拗捩たンだろう? 令慈に叱られたね? え、そうでない。はてな」
と首を傾けるより早く横手を拍ッて、
「あ、ああわかッた。成、成、それで……それならそうと早く一言云えばいいのに……なンだろう大方かく申す拙者奴に……ウ……ウと云ッたような訳なンだろう? 大蛤の前じゃア口が開きかねる、──これやア尤だ。そこで釣寄せて置いて……ほんありがた山の蜀魂、一声漏らそうとは嬉しいぞえ嬉しいぞえ」
と妙な身振りをして、
「それなら、実は此方も疾からその気ありだから、それ白痴が出来合靴を買うのじゃないが、しッくり嵌まるというもンだ。嵌まると云えば、邪魔の入らない内だ。ちょッくり抱ッこのぐい極めと往きやしょう」
と白らけた声を出して、手を出しながら、摺寄ッて来る。
「明日の支度が……」
とお勢は泣声を出して身を縮ませた。
「ほい間違ッたか。失敗、々々」
何を云ッても敵手にならぬのみか、この上手を附けたら雨になりそうなので、さすがの本田も少し持あぐねたところへ、お鍋が呼びに来たから、それを幸いにして奥坐舗へ還ッてしまッた。
文三は昇が来たから安心を失くして、起ッて見たり坐ッて見たり。我他彼此するのが薄々分るので、弥以堪らず、無い用を拵えて、この時二階を降りてお勢の部屋の前を通りかけたが、ふと耳を聳て、抜足をして障子の間隙から内を窺てはッと顔﹆お勢が伏臥になッて泣……い……て……
「Explanation(示談)」と一時に胸で破裂した……
第十五回
Explanation(示談)、と肚を極めてみると、大きに胸が透いた。己れの打解けた心で推測るゆえ、さほどに難事とも思えない。もウ些しの辛抱、と、哀む可し、文三は眠らでとも知らず夢を見ていた。
機会を窺ている二日目の朝、見知り越しの金貸が来てお政を連出して行く。時機到来……今日こそは、と領を延ばしているとも知らずして帰ッて来たか、下女部屋の入口で「慈母さんは?」と優しい声。
その声を聞くと均しく、文三起上りは起上ッたが、据えた胸も率となれば躍る。前へ一歩、後へ一歩、躊躇ながら二階を降りて、ふいと縁を廻わッて見れば、部屋にとばかり思ッていたお勢が入口に柱に靠着れて、空を向上げて物思い顔……はッと思ッて、文三立ち止まッた。お勢も何心なく振り反ッてみて、急に顔を曇らせる……ツと部屋へ入ッて跡ぴッしゃり。障子は柱と額合わせをして、二三寸跳ね返ッた。
跳ね返ッた障子を文三は恨めしそうに凝視めていたが、やがて思い切りわるく二歩三歩。わななく手頭を引手へ懸けて、胸と共に障子を躍らしながら開けてみれば、お勢は机の前に端坐ッて、一心に壁と睨め競。
「お勢さん」
と瀬蹈をしてみれば、愛度気なく返答をしない。危きに慣れて縮めた胆を少し太くして、また、
「お勢さん」
また返答をしない。
この分なら、と文三は取越して安心をして、莞爾々々しながら部屋へ入り、好き程の所に坐を占めて、
「少しお噺が……」
この時になッてお勢は初めて、首の筋でも蹙ッたように、徐々顔を此方へ向け、可愛らしい眼に角を立てて、文三の様子を見ながら、何か云いたそうな口付をした。
今打とうと振上げた拳の下に立ッたように、文三はひやりとして、思わず一生懸命にお勢の顔を凝視めた。けれども、お勢は何とも云わず、また向うを向いてしまッたので、やや顔を霽らして、極りわるそうに莞爾々々しながら、
「この間は誠にどう……」
もと云い切らぬうち、つと起き上ッたお勢の体が……不意を打たれて、ぎょッとする、女帯が、友禅染の、眼前にちらちら……はッと心附く……我を忘れて、しッかり捉えたお勢の袂を……
「何をなさるンです?」
と慳貪に云う。
「少しお噺し……お……」
「今用が有ります」
邪慳に袂を振払ッて、ついと部屋を出しまッた。
その跡を眺めて文三は呆れた顔……「この期を外しては……」と心附いて起ち上りてはみたが、まさか跡を慕ッて往かれもせず、萎れて二階へ狐鼠々々と帰ッた。
「失敗ッた」と口へ出して後悔して後れ馳せに赤面。「今にお袋が帰ッて来る。『慈母さんこれこれの次第……』失敗ッた、失策ッた」
千悔、万悔、臍を噬んでいる胸元を貫くような午砲の響。それと同時に「御膳で御座いますよ」。けれど、ほいきたと云ッて降りられもしない。二三度呼ばれて拠どころ無く、薄気味わるわる降りてみれば、お政はもウ帰ッていて、娘と取膳で今食事最中。文三は黙礼をして膳に向ッた。「もウ咄したか、まだ咄さぬか」と思えば胸も落着かず、臆病で好事な眼を額越にそッと親子へ注いでみればお勢は澄ました顔、お政は意味の無い顔、……咄したとも付かず、咄さぬとも付かぬ。
寿命を縮めながら、食事をしていた。
「そらそら、気をお付けなね。小供じゃア有るまいし」
ふと轟いたお政の声に、怖気の附いた文三ゆえ、吃驚して首を矯げてみて、安心した﹆お勢が誤まッて茶を膝に滴したので有ッた。
気を附けられたからと云うえこじな顔をして、お勢は澄ましている。拭きもしない。「早くお拭きなね」と母親は叱ッた。「膝の上へ茶を滴して、ぽかんと見てえる奴が有るもんか。三歳児じゃア有るまいし、意久地の無いにも方図が有ッたもンだ」
もはやこう成ッては穏に収まりそうもない。黙ッても視ていられなくなッたから、お鍋は一とかたけ煩張ッた飯を鵜呑にして、「はッ、はッ」と笑ッた。同じ心に文三も「ヘ、ヘ」と笑ッた。
するとお勢は佶と振向いて、可畏らしい眼付をして文三を睨め出した。その容子が常で無いから、お鍋はふと笑い罷んでもッけな顔をする。文三は色を失ッた……
「どうせ私は意久地が有りませんのさ」とお勢はじぶくりだした、誰に向ッて云うともなく。
「笑いたきゃア沢山お笑いなさい……失敬な。人の叱られるのが何処が可笑しいンだろう? げたげたげたげた」
「何だよ、やかましい! 言艸云わずと、早々と拭いておしまい」
と母親は火鉢の布巾を放げ出す。けれども、お勢は手にだも触れず、
「意久地がなくッたッて、まだ自分が云ッたことを忘れるほど盲録はしません。余計なお世話だ。人の事よりか自分の事を考えてみるがいい。男の口からもう口も開かないなンぞッて云ッて置きながら……」
「お勢!」
と一句に力を籠めて制する母親、その声ももウこう成ッては耳には入らない。文三を尻眼に懸けながらお勢は切歯りをして、
「まだ三日も経たないうちに、人の部屋へ……」
「これ、どうしたもンだ」
「だッて私ア腹が立つものを。人の事を浮気者だなンぞッて罵ッて置きながら、三日も経たないうちに、人の部屋へつかつか入ッて来て……人の袂なンぞ捉えて、咄が有るだの、何だの、種々な事を云ッて……なんぼ何だッて余り人を軽蔑した……云う事が有るなら、茲処でいうがいい、慈母さんの前で云えるなら、云ッてみるがいい……」
留めれば留めるほど、尚お喚く。散々喚かして置いて、もう好い時分と成ッてから、お政が「彼方へ」と顋でしゃくる。しゃくられて、放心して人の顔ばかり視ていたお鍋は初めて心附き、倉皇箸を棄ててお勢の傍へ飛んで来て、いろいろに賺かして連れて行こうとするが、仲々素直に連れて行かれない。
「いいえ、放擲ッといとくれ。何だか云う事が有ッていうンだから、それを……聞かないうちは……いいえ、私しゃ……あンまり人を軽蔑した……いいえ、其処お放しよ……お放しッてッたら、お放しよッ……」
けれども、お鍋の腕力には敵わない。無理無体に引立られ、がやがや喚きながらも坐舗を連れ出されて、稍々部屋へ収まッたようす。
となッて、文三始めて人心地が付いた。
いずれ宛擦りぐらいは有ろうとは思ッていたが、こうまでとは思い掛けなかッた。晴天の霹靂、思いの外なのに度肝を抜かれて、腹を立てる遑も無い。脳は乱れ、神経は荒れ、心神錯乱して是非の分別も付かない。只さしあたッた面目なさに消えも入りたく思うばかり。叔母を観れば、薄気味わるくにやりとしている。このままにも置かれない、……から、余義なく叔母の方へ膝を押向け、おろおろしながら、
「実に……どうもす、す、済まんことをしました……まだお咄はいたしませんでしたが……一昨日阿勢さんに……」
と云いかねる。
「その事なら、ちらと聞きました」と叔母が受取ッてくれた。「それはああした我儘者ですから、定めしお気に障るような事もいいましたろうから……」
「いや、決してお勢さんが……」
「それゃアもう」と一越調子高に云ッて、文三を云い消してしまい、また声を並に落して、「お叱んなさるも、あれの身の為めだから、いいけれども、只まだ婚嫁前の事てすから、あんな者でもね、余り身体に疵の……」
「いや、私は決して……そんな……」
「だからさ、お云いなすッたとは云わないけれども、これからも有る事たから、おねがい申して置くンですよ。わるくお聞きなすッちゃアいけないよ」
ぴッたり釘を打たれて、ぐッとも云えず、文三は只口惜しそうに叔母の顔を視詰めるばかり。
「子を持ッてみなければ、分らない事たけれども、女の子というものは嫁けるまでが心配なものさ。それゃア、人さまにゃアあんな者をどうなッてもよさそうに思われるだろうけれども、親馬鹿とは旨く云ッたもンで、あんな者でも子だと思えば、有りもしねえ悪名つけられて、ひょッと縁遠くでもなると、厭なものさ。それに誰にしろ、踏付られれゃア、あンまり好い心持もしないものさ、ねえ、文さん」
もウ文三堪りかねた。
「す、す、それじゃ何ですか……私が……私がお勢さんを踏付たと仰ッしゃるンですかッ?」
「可畏い事をお云いなさるねえ」とお政はおそろしい顔になッた。「お前さんがお勢を踏付たと誰が云いました? 私ア自分にも覚えが有るから、只の世間咄に踏付られたと思うと厭なもンだと云ッたばかしだよ。それをそんな云いもしない事をいって……ああ、なんだね、お前さん云い掛りをいうンだね? 女だと思ッて、そんな事を云ッて、人を困らせる気だね?」
と層に懸ッて極付る。
「ああわるう御座ンした……」と文三は狼狽てて謝罪ッたが、口惜し涙が承知をせず、両眼に一杯溜るので、顔を揚げていられない。差俯向いて「私が……わるう御座ンした……」
「そうお云いなさると、さも私が難題でもいいだしたように聞こゆるけれども、なにもそう遁げなくッてもいいじゃないか? そんな事を云い出すからにゃア、お前さんだッて、何か訳が無ッちゃア、お云いなさりもすまい?」
「私がわるう御座ンした……」と差俯向いたままで重ねて謝罪た。「全くそんな気で申した訳じゃア有りませんが……お、お、思違いをして……つい……失礼を申しました……」
こう云われては、さすがのお政ももう噛付きようが無いと見えて、無言で少選文三を睨めるように視ていたが、やがて、
「ああ厭だ厭だ」と顔を皺めて、「こんな厭な思いをするも皆彼奴のお蔭だ。どれ」と起ち上ッて、「往ッて土性骨を打挫いてやりましょう」
お政は坐舗を出てしまッた。
お政が坐舗を出るや否や、文三は今までの溜涙を一時にはらはらと落した。ただそのまま、さしうつむいたままで、良久らくの間、起ちも上がらず、身動きもせず、黙念として坐ッていた。が、そのうちにお鍋が帰ッて来たので、文三も、余義なく、うつむいたままで、力無さそうに起ち上り、悄々我部屋へ戻ろうとして梯子段の下まで来ると、お勢の部屋で、さも意地張ッた声で、
「私ゃアもう家に居るのは厭だ厭だ」
第十六回
あれほどまでにお勢母子の者に辱められても、文三はまだ園田の家を去る気になれない。但だ、そのかわり、火の消えたように、鎮まッてしまい、いとど無口が一層口を開かなくなッて、呼んでも捗々しく返答をもしない。用事が無ければ下へも降りて来ず、只一間にのみ垂れ籠めている。余り静かなので、つい居ることを忘れて、お鍋が洋燈の油を注がずに置いても、それを吩咐けて注がせるでもなく、油が無ければ無いで、真闇な坐舗に悄然として、始終何事をか考えている。
けれど、こう静まッているは表相のみで、乞の胸臆の中へ立入ッてみれば、実に一方ならぬ変動。あたかも心が顛動した如くに、昨日好いと思ッた事も今日は悪く、今日悪いと思う事も昨日は好いとのみ思ッていた。情慾の曇が取れて心の鏡が明かになり、睡入ッていた智慧は俄に眼を覚まして決然として断案を下し出す。眼に見えぬ処、幽妙の処で、文三は──全くとは云わず──稍々変生ッた。
眼を改めてみれば、今まで為て来た事は夢か将た現か……と怪しまれる。
お政の浮薄、今更いうまでも無い。が、過まッた文三は、──実に今まではお勢を見謬まッていた。今となッて考えてみれば、お勢はさほど高潔でも無。移気、開豁、軽躁、それを高潔と取違えて、意味も無い外部の美、それを内部のと混同して、愧かしいかな、文三はお勢に心を奪われていた。
我に心を動かしていると思ッたがあれが抑も誤まりの緒。苟めにも人を愛するというからには、必ず先ず互いに天性気質を知りあわねばならぬ。けれども、お勢は初より文三の人と為りを知ッていねば、よし多少文三に心を動かした如き形迹が有ばとて、それは真に心を動かしていたではなく、只ほんの一時感染れていたので有ッたろう。
感受の力の勝つ者は誰しも同じ事ながら、お勢は眼前に移り行く事や物やのうち少しでも新奇な物が有れば、眼早くそれを視て取ッて、直ちに心に思い染める。けれども、惜しいかな、殆ど見たままで、別に烹煉を加うるということをせずに、無造作にその物その事の見解を作ッてしまうから、自ら真相を看破めるというには至らずして、動もすれば浅膚の見に陥いる。それゆえ、その物に感染れて、眼色を変えて、狂い騒ぐ時を見れば、如何にも熱心そうに見えるものの、固より一時の浮想ゆえ、まだ真味を味わぬうちに、早くも熱が冷めて、厭気になッて惜し気もなく打棄ててしまう。感染れる事の早い代りに、飽きる事も早く、得る事に熱心な代りに、既に得た物を失うことには無頓着。書物を買うにしても、そうで、買いたいとなると、矢も楯もなく買いたがるが、買ッてしまえば、余り読みもしない。英語の稽古を初めた時も、またその通りで、初めるまでは一日をも争ッたが、初めてみれば、さほどに勉強もしない。万事そうした気風で有てみれば、お勢の文三に感染れたも、また厭いたも、その間にからまる事情を棄てて、単にその心状をのみ繹ねてみたら、恐らくはその様な事で有ろう。
かつお勢は開豁な気質、文三は朴茂な気質。開豁が朴茂に感染れたから、何処か仮衣をしたように、恰当わぬ所が有ッて、落着が悪かッたろう。悪ければ良くしようというが人の常情で有ッてみれば、仮令え免職、窮愁、耻辱などという外部の激因が無いにしても、お勢の文三に対する感情は早晩一変せずにはいなかッたろう。
お勢は実に軽躁で有る。けれども、軽躁で無い者が軽躁な事を為ようとて為得ぬが如く、軽躁な者は軽躁な事を為まいと思ッたとて、なかなか為ずにはおられまい。軽躁と自ら認めている者すら、尚おこうしたもので有ッてみれば、況してお勢の如き、まだ我をも知らぬ、罪の無い処女が己の気質に克ち得ぬとて、強ちにそれを無理とも云えぬ。若しお勢を深く尤む可き者なら、較べて云えば、稍々学問あり智識ありながら、尚お軽躁を免がれぬ、譬えば、文三の如き者は(はれやれ、文三の如き者は?)何としたもので有ろう?
人事で無い。お勢も悪るかッたが、文三もよろしく無かッた。「人の頭の蠅を逐うよりは先ず我頭のを逐え」──聞旧した諺も今は耳新しく身に染みて聞かれる。から、何事につけても、己一人をのみ責めて敢て叨りにお勢を尤めなかッた。が、如何に贔負眼にみても、文三の既に得た所謂識認というものをお勢が得ているとはどうしても見えない。軽躁と心附かねばこそ、身を軽躁に持崩しながら、それを憂しとも思わぬ様子﹆醜穢と認めねばこそ、身を不潔な境に処きながら、それを何とも思わぬ顔色。これが文三の近来最も傷心な事、半夜夢覚めて燈冷かなる時、想うてこの事に到れば、毎に悵然として太息せられる。
して見ると、文三は、ああ、まだ苦しみが甞め足りぬそうな!
第十七回
お勢のあくたれた時、お政は娘の部屋で、凡そ二時間ばかりも、何か諄々と教誨せていたが、爾後は、どうしたものか、急に母子の折合が好なッて来た。取分けてお勢が母親に孝順する、折節には機嫌を取るのかと思われるほどの事をも云う。親も子も睨める敵は同じ文三ゆえ、こう比周うもその筈ながら、動静を窺るに、只そればかりでも無さそうで。
昇はその後ふッつり遊びに来ない。顔を視れば鬩み合う事にしていた母子ゆえ、折合が付いてみれば、咄も無く、文三の影口も今は道尽す、──家内が何時からと無く湿ッて来た。
「ああ辛気だこと!」と一夜お勢が欠びまじりに云ッて泪ぐンだ。
新聞を拾読していたお政は眼鏡越しに娘を見遣ッて、「欠びをして徒然としていることは無やアね。本でも出して来てお復習なさい」
「復習ッて」とお勢は鼻声になッて眉を顰めた。
「明日の支度はもう済してしまッたものを」
「済ましッちまッたッて」
お政は復新聞に取掛ッた。
「慈母さん」とお勢は何をか憶出して事有り気に云ッた。「本田さんは何故来ないンだろう?」
「何故だか」
「憤ッているのじゃないのだろうか?」
「そうかも知れない」
何を云ッても取合わぬゆえ、お勢も仕方なく口を箝んで、少く物思わし気に洋燈を凝視ていたが、それでもまだ気に懸ると見えて、「慈母さん」
「何だよ?」と蒼蠅そうにお政は起直ッた。
「真個に本田さんは憤ッて来ないのだろうか?」
「何を?」
「何をッて」と少し気を得て、「そら、この間来た時、私が構わなかったから……」
と母の顔を凝視た。
「なに人」とお政は莞爾した、何と云ッてもまだおぼだなと云いたそうで。「お前に構ッて貰いたいンで来なさるンじゃ有るまいシ」
「あら、そうじゃ無いンだけれどもさ……」
と愧かしそうに自分も莞爾。
おほんという罪を作ッているとは知らぬから、昇が、例の通り、平気な顔をしてふいと遣ッて来た。
「おや、ま、噂をすれば影とやらだよ」とお政が顔を見るより饒舌り付けた。「今貴君の噂をしていた所さ。え? 勿論さ、義理にも善くは云えないッさ……ははははは。それは情談だが、きついお見限りですね。何処か穴でも出来たンじゃないかね? 出来たとえ? そらそら、それだもの、だから鰻男だということさ。ええ鰌で無くッてお仕合せ? 鰌とはえ? ……あ、ほンに鰌と云えば、向う横町に出来た鰻屋ね、ちょいと異ですッさ。久し振りだッて、奢らなくッてもいいよ。はははは」
皺延ばしの太平楽、聞くに堪えぬというは平日の事、今宵はちと情実が有るから、お勢は顔を皺めるはさて置き、昇の顔を横眼でみながら、追蒐け引蒐けて高笑い。てれ隠しか、嬉しさの溢れか当人に聞いてみねば、とんと分からず。
「今夜は大分御機嫌だが」と昇も心附いたか、お勢を調戯だす。「この間はどうしたもンだッた? 何を云ッても、『まだ明日の支度をしませんから』はッ、はッ、はッ、憶出すと可笑しくなる」
「だッて、気分が悪かッたンですものを」と淫哇しい、形容も出来ない身振り。
「何が何だか、訳が解りゃアしません」
少ししらけた席の穴を填るためか、昇が俄かに問われもせぬ無沙汰の分疏をしだして、近ごろは頼まれて、一夜はざめに課長の所へ往て、細君と妹に英語の下稽古をしてやる、という。「いや、迷惑な」と言葉を足す。
と聞いて、お政にも似合わぬ、正直な、まうけに受けて、その不心得を諭す、これが立身の踏台になるかも知れぬと云ッて。けれども、御弟子が御弟子ゆえ、飛だ事まで教えはすまいかと思うと心配だと高く笑う。
お勢は昇が課長の所へ英語を教えに往くと聞くより、どうしたものか、俄かに萎れだしたが、この時母親に釣られて淋しい顔で莞爾して、「令妹の名は何というの?」
「花とか耳とか云ッたッけ」
「余程出来るの?」
「英語かね? なアに、から駄目だ。Thank you for your kind だから、まだまだ」
お勢は冷笑の気味で、「それじゃアア……」
I will ask to you と云ッて今日教師に叱られた、それはこの時忘れていたのだから、仕方が無い。
「ときに、これは」と昇はお政の方を向いて親指を出してみせて、「どうしました、その後?」
「居ますよまだ」とお政は思い切りて顔を皺めた。
「ずうずうしいと思ッてねえ!」
「それも宜が、また何かお勢に云いましたッさ」
「お勢さんに?」
「はア」
「どんな事を?」
おッとまかせと饒舌り出した、文三のお勢の部屋へ忍び込むから段々と順を逐ッて、剰さず漏さず、おまけまでつけて。昇は顋を撫でてそれを聴いていたが、お勢が悪たれた一段となると、不意に声を放ッて、大笑に笑ッて、「そいつア痛かッたろう」
「なにそン時こそ些ばかし可怪な顔をしたッけが、半日も経てば、また平気なものさ。なンと、本田さん、ずうずうしいじゃア有りませんか!」
「そうしてね、まだ私の事を浮気者だなンぞッて」
「ほんとにそんな事も云たそうですがね、なにも、そんなに腹がたつなら、此所の家に居ないが宜じゃ有りませんか。私ならすぐ下宿か何かしてしまいまさア。それを、そんな事を云ッて置きながら、ずうずうしく、のべんくらりと、大飯を食らッて……ているとは何所まで押が重いンだか数が知れないと思ッて」
昇は苦笑いをしていた。暫時して返答とはなく、ただ、「何しても困ッたもンだね」
「ほんとに困ッちまいますよ」
困ッている所へ勝手口で、「梅本でござい」。梅本というは近処の料理屋。「おや家では……」とお政は怪しむ、その顔も忽ち莞爾々々となッた、昇の吩咐とわかッて。
「それだからこの息子は可愛いよ」。片腹痛い言まで云ッてやがて下女が持込む岡持の蓋を取ッて見るよりまた意地の汚い言をいう。それを、今夜に限て、平気で聞いているお勢どのの心持が解らない、と怪しんでいる間も有ればこそ、それッと炭を継ぐ、吹く、起こす、燗をつけるやら、鍋を懸けるやら、瞬く間に酒となッた。
あいのおさえのという蒼蠅い事の無代り、洒落、担ぎ合い、大口、高笑、都々逸の素じぶくり、替歌の伝受等、いろいろの事が有ッたが、蒼蠅いからそれは略す。
刺身は調味のみになッて噎で応答をするころになッて、お政は、例の所へでも往きたくなッたか、ふと起ッて坐舗を出た。
と両人差向いになッた。顔を視合わせるとも無く視合わして、お勢はくすくすと吹出したが、急に真面目になッてちんと澄ます。
「これアおかしい。何がくすくすだろう?」
「何でも無いの」
「のぼる源氏のお顔を拝んで嬉しいか?」
「呆れてしまわア、ひょッとこ面の癖に」
「何だと?」
「綺麗なお顔で御座いますということ」
昇は例の黙ッてお勢を睨め出す。
「綺麗なお顔だというンだから、ほほほ」と用心しながら退却をして、「いいじゃア……おッ……」
ツと寄ッた昇がお勢の傍へ……空で手と手が閃く、からまる……と鎮まッた所をみれば、お勢は何時か手を握られていた。
「これがどうしたの?」と平気な顔。
「どうもしないが、こうまず俘虜にしておいてどッこい……」と振放そうとする手を握りしめる。
「あちちち」と顔を皺めて、「痛い事をなさるねえ!」
「ちッとは痛いのさ」
「放して頂戴よ。よう。放さないとこの手に喰付ますよ」
「喰付たいほど思えども……」と平気で鼻歌。
お勢はおそろしく顔を皺めて、甘たるい声で、「よう、放して頂戴と云えばねえ……声を立てますよ」
「お立てなさいとも」
と云われて一段声を低めて、「あら引本田さんが引手なんぞ握ッて引ほほほ、いけません、ほほほ」
「それはさぞ引お困りで御座いましょう引」
「本統に放して頂戴よ」
「何故? 内海に知れると悪いか?」
「なにあんな奴に知れたッて……」
「じゃ、ちッとこうしてい給え。大丈夫だよ、淫褻なぞする本田にあらずだ……が、ちょッと……」と何やら小声で云ッて、「……位いは宜かろう?」
するとお勢は、どうしてか、急に心から真面目になッて、「あたしゃア知らないからいい……私しゃア……そんな失敬な事ッて……」
昇は面白そうにお勢の真面目くさッた顔を眺めて莞爾々々しながら、「いいじゃないか? ただちょいと……」
「厭ですよ、そんな……よッ、放して頂戴と云えばねえッ」
一生懸命に振放そうとする、放させまいとする、暫時争ッていると、縁側に足音がする、それを聞くと、昇は我からお勢の手を放て大笑に笑い出した。
ずッとお政が入ッて来た。
「叔母さん叔母さん、お勢さんを放飼はいけないよ。今も人を捉えて口説いて口説いて困らせ抜いた」
「あらあらあんな虚言を吐いて……非道い人だこと!……」
昇は天井を仰向いて、「はッ、はッ、はッ」
第十八回
一週間と経ち、二週間と経つ。昇は、相かわらず、繁々遊びに来る。そこで、お勢も益々親しくなる。
けれど、その親しみ方が、文三の時とは、大きに違う。かの時は華美から野暮へと感染れたが、この度は、その反対で、野暮の上塗が次第に剥げて漸く木地の華美に戻る。両人とも顔を合わせれば、只戯ぶれるばかり、落着いて談話などした事更に無し。それも、お勢に云わせれば、昇が宜しく無いので、此方で真面目にしているものを、とぼけた顔をし、剽軽な事を云い、軽く、気無しに、調子を浮かせてあやなしかける。それ故、念に掛けて笑うまいとはしながら、おかしくて、おかしくて、どうも堪らず、唇を噛締め、眉を釣上げ、真赤になッても耐え切れず、つい吹出して大事の大事の品格を落してしまう。果は、何を云われんでも、顔さえ見れば、可笑しくなる。「本当に本田さんはいけないよ、人を笑わしてばかりいて」。お勢は絶えず昇を憎がッた。
こうお勢に対うと、昇は戯れ散らすが、お政には無遠慮といううちにも、何処かしっとりした所が有ッて、戯言を云わせれば、云いもするが、また落着く時には落着いて、随分真面目な談話もする。勿論、真面目な談話と云ッたところで、金利公債の話、家屋敷の売買の噂、さもなくば、借家人が更らに家賃を納れぬ苦情──皆つまらぬ事ばかり。一つとしてお勢の耳には面白くも聞こえないが、それでいて、両人の話している所を聞けば、何か、談話の筋の外に、男女交際、婦人矯風の議論よりは、遥に優りて面白い所が有ッて、それを眼顔で話合ッて娯しんでいるらしいが、お勢にはさっぱり解らん。が、余程面白いと見えて、その様な談話が始まると、お政は勿論、昇までが平生の愛嬌は何処へやら遣ッて、お勢の方は見向もせず、一心になッて、或は公債を書替える極簡略な法、或は誰も知ッている銀行の内幕、またはお得意の課長の生計の大した事を喋々と話す。お勢は退屈で退屈で、欠びばかり出る。起上ッて部屋へ帰ろうとは思いながら、つい起そそくれて潮合を失い、まじりまじり思慮の無い顔をして面白もない談話を聞いているうちに、いつしか眼が曇り両人の顔がかすんで話声もやや遠く籠ッて聞こえる……「なに、十円さ」と突然鼓膜を破る昇の声に駭かされ、震え上る拍子に眼を看開いて、忙わしく両人の顔を窺えば、心附かぬ様子、まずよかッたと安心し、何喰わぬ顔をしてまた両人の話を聞出すと、また眼の皮がたるみ、引入れられるような、快い心地になッて、睡るともなく、つい正体を失う……誰かに手暴く揺ぶられてまた愕然として眼を覚ませば、耳元にどっと高笑の声。お勢もさすがに莞爾して、「それでも睡いんだものを」と睡そうに分疏をいう。またこういう事も有る﹆前のように慾張ッた談話で両人は夢中になッている﹆お勢は退屈やら、手持無沙汰やら、いびつに坐りてみたり、危坐ッてみたり。耳を借していては際限もなし、そのうちにはまた睡気がさしそうになる、から、ちと談話の仲間入りをしてみようとは思うが、一人が口を箝めば、一人が舌を揮い、喋々として両つの口が結ばるという事が無ければ、嘴しを容れたいにも、更にその間隙が見附からない。その見附からない間隙を漸やく見附けて、此処ぞと思えば、さて肝心のいうことが見附からず迷つくうちにはや人に取られてしまう。経験が知識を生んで、今度はいうべき事も予て用意して、じれッたそうに挿頭で髪を掻きながら、漸くの思で間隙を見附け、「公債は今幾何なの?」と嘴を挿さんでみれば、さて我ながら唐突千万! 無理では無いが、昇も、母親も、胆を潰して顔を視合わせて、大笑に笑い出す。──今のは半襟の間違いだろう。──なに、人形の首だッさ。──違えねえ。またしても口を揃えて高笑い。──あんまりだから、いい! とお勢は膨れる。けれど、膨れたとて、機嫌を取られれば、それだけ畢竟安目にされる道理。どうしても、こうしても、敵わない。
お勢はこの事を不平に思ッて、或は口を聞かぬと云い、或は絶交すると云ッて、恐喝してみたが、昇は一向平気なもの、なかなかそんな甘手ではいかん。圧制家、利己論者と口では呪いながら、お勢もついその不届者と親しんで、玩ばれると知りつつ、玩ばれ、調戯られると知りつつ、調戯られている。けれど、そうはいうものの、戯けるも満更でも無いと見えて、偶々昇が、お勢の望む通り、真面目にしていれば、さてどうも物足りぬ様子で、此方から、遠方から、危うがりながら、ちょッかいを出してみる。相手にならねば、甚機嫌がわるい﹆から、余義なくその手を押さえそうにすれば、忽ちきゃッきゃッと軽忽な声を発し、高く笑い、遠方へ迯げ、例の睚の裏を返して、ベベベーという。総てなぶられても厭だが、なぶられぬも厭、どうしましょう、といいたそうな様子。
母親は見ぬ風をして見落しなく見ておくから、歯癢ゆくてたまらん。老功の者の眼から観れば、年若の者のする事は、総てしだらなく、手緩るくて更に埒が明かん。そこで耐え兼て、娘に向い、厳かに云い聞かせる、娘の時の心掛を。どのような事かと云えば、皆多年の実験から出た交際の規則で、男、取分けて若い男という者はこうこういう性質のもので有るから、若し情談をいいかけられたら、こう、花を持たせられたら、こう、弄られたら、こう待遇うものだ、など、いう事であるが、親の心子知らずで、こう利益を思ッて、云い聞かせるものを、それをお勢は、生意気な、まだ世の態も見知らぬ癖に、明治生れの婦人は芸娼妓で無いから、男子に接するにそんな手管はいらないとて、鼻の頭で待遇ッていて、更に用いようともしない。手管では無い、これが娘の時の心掛というものだと云い聞かせても、その様な深遠な道理はまだ青いお勢には解らない。そんな事は女大学にだッて書いて無いと強情を張る。勝手にしなと肝癪を起こせば、勝手にしなくッてと口答をする。どうにも、こうにも、なッた奴じゃない!
けれど、母親が気を揉むまでも無く、幾程もなくお勢は我から自然に様子を変えた。まずその初を云えば、こうで。
この物語の首にちょいと噂をした事の有るお政の知己「須賀町のお浜」という婦人が、近頃に娘をさる商家へ縁付るとて、それを風聴かたがたその娘を伴れて、或日お政を尋ねて来た。娘というはお勢に一ツ年下で、姿色は少し劣る代り、遊芸は一通り出来て、それでいて、おとなしく、愛想がよくて、お政に云わせれば、如才の無い娘で、お勢に云わせれば、旧弊な娘、お勢は大嫌い、母親が贔負にするだけに、尚お一層この娘を嫌う﹆但しこれは普通の勝心のさせる業ばかりではなく、この娘の蔭で、おりおり高い鼻を擦られる事も有るからで。縁付ると聞いて、お政は羨ましいと思う心を、少しも匿さず、顔はおろか、口へまで出して、事々しく慶びを陳べる。娘の親も親で、慶びを陳べられて、一層得意になり、さも誇貌に婿の財産を数え、または支度に費ッた金額の総計から内訳まで細々と計算をして聞かせれば、聞く事毎にお政はかつ驚き、かつ羨やんで、果は、どうしてか、婚姻の原因を娘の行状に見出して、これというも平生の心掛がいいからだと、口を極めて賞める、嫁る事が何故そんなに手柄であろうか、お勢は猫が鼠を捕ッた程にも思ッていないのに! それをその娘は、耻かしそうに俯向きは俯向きながら、己れも仕合と思い顔で高慢は自ら小鼻に現われている。見ていられぬ程に醜態を極める! お勢は固より羨ましくも、妬ましくも有るまいが、ただ己れ一人でそう思ッているばかりでは満足が出来んと見えて、おりおりさも苦々しそうに冷笑ッてみせるが、生憎誰も心附かん。そのうちに母親が人の身の上を羨やむにつけて、我身の薄命を歎ち、「何処かの人」が親を蔑ろにしてさらにいうことを用いず、何時身を極めるという考も無いとて、苦情をならべ出すと、娘の親は失礼な、なにこの娘の姿色なら、ゆくゆくは「立派な官員さん」でも夫に持ッて親に安楽をさせることで有ろうと云ッて、嘲けるように高く笑う。見よう見真似に娘までが、お勢の方を顧みて、これもまた嘲けるようにほほと笑う。お勢はおそろしく赤面してさも面目なげに俯向いたが、十分も経ぬうちに座舗を出てしまッた。我部屋へ戻りてから、始めて、後馳に憤然となッて「一生お嫁になんぞ行くもんか」と奮激した。
客は一日打くつろいで話して夜に入ッてから帰ッた。帰ッた後に、お政はまた人の幸福をいいだして羨やむので、お勢はもはや勘弁がならず、胸に積る昼間からの鬱憤を一時に霽そうという意気込で、言葉鋭く云いまくッてみると、母の方にも存外な道理が有ッて、ついにはお勢も成程と思ッたか、少し受大刀になッた。が、負けじ魂から、滅多には屈服せず、尚おかれこれと諍論ッている。そのうちにお政は、何か妙案を思い浮べたように、俄に顔色を和げ、今にも笑い出しそうな眼付をして、「そんな事をお云いだけれども、本田さんなら、どうだえ? 本田さんでも、お嫁に行くのは厭かえ?」という。「厭なこった」、と云ッて、お勢は今まで顔へ出していた思慮を尽く内へ引込ましてしまう。「おや、何故だろう。本田さんなら、いいじゃないか、ちょいと気が利いていて、小金も少とは持ッていなさりそうだし、それに第一男が好くッて」「厭なこッた」「でも、若し本田さんがくれろと云ッたら、何と云おう?」、と云われて、お勢は少し躊躇ッたが、狼狽えて、「い……いやなこッた」。お政はじろりとその様子をみて、何を思ッてか、高く笑ッたばかりで、再び娘を詰らなかッた。その後はお勢は故らに何喰わぬ顔を作ッてみても、どうも旨くいかぬようすで、動もすれば沈んで、眼を細くして何処か遠方を凝視め、恍惚として、夢現の境に迷うように見えたことも有ッた。「十一時になるよ」と母親に気を附けられたときは、夢の覚めたような顔をして溜息さえ吐いた。
部屋へ戻ッても、尚お気が確かにならず、何心なく寐衣に着代えて、力無さそうにベッたり、床の上へ坐ッたまま、身動もしない。何を思ッているのか? 母の端なく云ッた一言の答を求めて求め得んのか? 夢のように、過ぎこした昔へ心を引戻して、これまで文三如き者に拘ッて、良縁をも求めず、徒に歳月を送ッたを惜しい事に思ッているのか? 或は母の言葉の放ッた光りに我身を縈る暗黒を破られ、始めて今が浮沈の潮界、一生の運の定まる時と心附いたのか? 抑また狂い出す妄想につれられて、我知らず心を華やかな、娯しい未来へ走らし、望みを事実にし、現に夢を見て、嬉しく、畏ろしい思をしているのか? 恍惚とした顔に映る内の想が無いから、何を思ッていることかすこしも解らないが、とにかく良久らくの間は身動をもしなかッた、そのままで十分ばかり経ったころ、忽然として眼が嬉しそうに光り出すかと思う間に、見る見る耐えようにも耐え切れなさそうな微笑が口頭に浮び出て、頬さえいつしか紅を潮す。閉じた胸の一時に開けた為め、天成の美も一段の光を添えて、艶なうちにも、何処か豁然と晴やかに快さそうな所も有りて、宛然蓮の花の開くを観るように、見る眼も覚めるばかりで有ッた。突然お勢は跳ね起きて、嬉しさがこみあげて、徒は坐ッていられぬように、そして柱に懸けた薄暗い姿見に対い、糢糊写る己が笑顔を覗き込んで、あやすような真似をして、片足浮かせて床の上でぐるりと回り、舞踏でもするような運歩で部屋の中を跳ね廻ッて、また床の上へ来るとそのまま、其処へ臥倒れる拍子に手ばしこく、枕を取ッて頭に宛がい、渾身を揺りながら、締殺ろしたような声を漏らして笑い出して。
この狂気じみた事の有ッた当坐は、昇が来ると、お勢は臆するでもなく耻らうでもなく只何となく落着が悪いようで有ッた。何か心に持ッているそれを悟られまいため、やはり今までどおり、おさなく、愛度気なく待遇うと、影では思うが、いざ昇と顔を合せると、どうももうそうはいかないと云いそうな調子で。いう事にさしたる変りも無いが、それをいう調子に何処か今までに無いところが有ッて、濁ッて、厭味を含む。用も無いに坐舗を出たり、はいッたり、おかしくも無いことに高く笑ッたり、誰やらに顔を見られているなと心附きながら、それを故意と心附かぬ風をして、磊落に母親に物をいッたりするはまだな事、昇と眼を見合わして、狼狽て横へ外らしたことさえ度々有ッた。総て今までとは様子が違う、それを昇の居る前で母親に怪しまれた時はお勢もぱッと顔を赧めて、如何にも極りが悪そうに見えた。が、その極り悪そうなもいつしか失せて、その後は、昇に飽いたのか、珍らしくなくなったのか、それとも何か争いでもしたのか、どうしたのか解らないが、とにかく昇が来ないとても、もウ心配もせず、来たとて、一向構わなくなッた。以前は鬱々としている時でも、昇が来れば、すぐ冴えたものを、今は、その反対で、冴えている時でも、昇の顔を見れば、すぐ顔を曇らして、冷淡になって、余り口数もきかず、総て仲のわるい従兄妹同士のように、遠慮気なく余所々々しく待遇す。昇はさして変らず、尚お折節には戯言など云い掛けてみるが、云ッても、もウお勢が相手にならず、勿論嬉しそうにも無く、ただ「知りませんよ」と彼方向くばかり。それ故に、昇の戯ばみも鋒尖が鈍ッて、大抵は、泣眠入るように、眠入ッてしまう。こうまで昇を冷遇する。その代り、昇の来ていない時は、おそろしい冴えようで、誰彼の見さかいなく戯れかかッて、詩吟するやら、唱歌するやら、いやがる下女をとらえて舞踏の真似をするやら、飛だり、跳ねたり、高笑をしたり、さまざまに騒ぎ散らす。が、こう冴えている時でも、昇の顔さえ見れば、不意にまた眼の中を曇らして、落着いて、冷淡になッて、しまう。
けれど、母親には大層やさしくなッて、騒いで叱られたとて、鎮まりもしないが、悪まれ口もきかず、却ッて憎気なく母親にまでだれかかるので、母親も初のうちは苦い顔を作ッていたものの、竟には、どうかこうか釣込まれて、叱る声を崩して笑ッてしまう。但し朝起される時だけはそれは例外で、その時ばかりは少し頬を脹らせる﹆が、それもその程が過ぎれば、我から機嫌を直して、華やいで、時には母親に媚びるのかと思うほどの事をもいう。初の程はお政も不審顔をしていたが、慣れれば、それも常となッてか、後には何とも思わぬ様子で有ッた。
そのうちにお勢が編物の夜稽古に通いたいといいだす。編物よりか、心易い者に日本の裁縫を教える者が有るから、昼間其所へ通えと、母親のいうを押反して、幾度か幾度か、掌を合せぬばかりにして是非に編物をと頼む。西洋の処女なら、今にも母の首にしがみ付いて頬の辺に接吻しそうに、あまえた強請るような眼付で顔をのぞかれ、やいやいとせがまれて、母親は意久地なく、「ええ、うるさい! どうなと勝手におし」と賺されてしまッた。
編物の稽古は、英語よりも、面白いとみえて、隔晩の稽古を楽しみにして通う。お勢は、全体、本化粧が嫌いで、これまで、外出するにも、薄化粧ばかりしていたが、編物の稽古を初めてからは、「皆が大層作ッて来るから、私一人なにしない……」と咎める者も無いに、我から分疏をいいいい、こッてりと、人品を落すほどに粧ッて、衣服も成たけ美いのを撰んで着て行く。夜だから、此方ので宜いじゃないかと、美くない衣服を出されれば、それを厭とは拒みはしないが、何となく機嫌がわるい。
お政はそわそわして出て行く娘の後姿を何時も請難くそうに目送る……
昇は何時からともなく足を遠くしてしまッた。
第十九回
お勢は一旦は文三を仂なく辱めはしたものの、心にはさほどにも思わんか、その後はただ冷淡なばかりで、さして辛くも当らん﹆が、それに引替えて、お政はますます文三を憎んで、始終出て行けがしに待遇す。何か用事が有りて下座敷へ降りれば、家内中寄集りて、口を解いて面白そうに雑談などしている時でも、皆云い合したように、ふと口を箝んで顔を曇らせる、といううちにも取分けてお政は不機嫌な体で、少し文三の出ようが遅ければ、何を愚頭々々していると云わぬばかりに、此方を睨めつけ、時には気を焦ッて、聞えよがしに舌鼓など鳴らして聞かせる事も有る。文三とても、白痴でもなく、瘋癲でもなければ、それほどにされんでも、今ここで身を退けば眉を伸べて喜ぶ者がそこらに沢山あることに心附かんでも無いから、心苦しいことは口に云えぬほどで有る、けれど、尚お園田の家を辞し去ろうとは思わん。何故にそれほどまでに園田の家を去りたくないのか、因循な心から、あれほどにされても、尚おそのような角立った事は出来んか、それほどになっても、まだお勢に心が残るか、抑もまた、文三の位置では陥り易い謬、お勢との関繋がこのままになってしまッたとは情談らしくてそうは思えんのか? 総てこれ等の事は多少は文三の羞を忍んで尚お園田の家に居る原因となったに相違ないが、しかし、重な原因ではない。重な原因というは即ち人情の二字、この二字に覊絆れて文三は心ならずも尚お園田の家に顔を皺めながら留ッている。
心を留めて視なくとも、今の家内の調子がむかしとは大に相違するは文三にも解る。以前まだ文三がこの調子を成す一つの要素で有ッて、人々が眼を見合しては微笑し、幸福といわずして幸福を楽んでいたころは家内全体に生温い春風が吹渡ッたように、総て穏に、和いで、沈着いて、見る事聞く事が尽く自然に適ッていたように思われた。そのころの幸福は現在の幸福ではなくて、未来の幸福の影を楽しむ幸福で、我も人も皆何か不足を感じながら、強ちにそれを足そうともせず、却って今は足らぬが当然と思っていたように、急かず、騒がず、優游として時機の熟するを竢っていた、その心の長閑さ、寛さ、今憶い出しても、閉じた眉が開くばかりな……そのころは人々の心が期せずして自ら一致し、同じ事を念い、同じ事を楽んで、強ちそれを匿くそうともせず、また匿くすまいともせず﹆胸に城郭を設けぬからとて、言って花の散るような事は云わず、また聞こうともせず、まだ妻でない妻、夫でない夫、親で無い親、──も、こう三人集ッたところに、誰が作り出すともなく、自らに清く、穏な、優しい調子を作り出して、それに随れて物を言い、事をしたから、人々があたかも平生の我よりは優ったようで、お政のような婦人でさえ、尚お何処か頼もし気な所が有ったのみならず、却ってこれが間に介まらねば、余り両人の間が接近しすぎて穏さを欠くので、お政は文三等の幸福を成すに無て叶わぬ人物とさえ思われた。が、その温な愛念も、幸福な境界も、優しい調子も、嬉しそうに笑う眼元も口元も、文三が免職になッてから、取分けて昇が全く家内へ立入ったから、皆突然に色が褪め、気が抜けだして、遂に今日この頃のこの有様となった……
今の家内の有様を見れば、もはや以前のような和いだ所も無ければ、沈着いた所もなく、放心に見渡せば、総て華かに、賑かで、心配もなく、気あつかいも無く、浮々として面白そうに見えるものの、熟々視れば、それは皆衣物で、躶体にすれば、見るも汚わしい私欲、貪婪、淫褻、不義、無情の塊で有る。以前人々の心を一致さした同情も無ければ、私心の垢を洗った愛念もなく、人々己一個の私をのみ思ッて、己が自恣に物を言い、己が自恣に挙動う﹆欺いたり、欺かれたり、戯言に託して人の意を測ッてみたり、二つ意味の有る言を云ってみたり、疑ッてみたり、信じてみたり、──いろいろさまざまに不徳を尽す。
お政は、いうまでもなく、死灰の再び燃えぬうちに、早く娘を昇に合せて多年の胸の塊を一時におろしてしまいたいが、娘が、思うように、如才なくたちまわらんので、それで歯癢がって気を揉み散らす。昇はそれを承知しているゆえ、後の面倒を慮って迂濶に手は出さんが、罠のと知りつつ、油鼠の側を去られん老狐の如くに、遅疑しながらも、尚おお勢の身辺を廻って、横眼で睨んでは舌舐りをする(文三は何故か昇の妻となる者は必ず愚で醜い代り、権貴な人を親に持った、身柄の善い婦人とのみ思いこんでいる)。お政は昇の意を見抜いてい、昇もまたお政の意を見抜いている﹆しかも互に見抜れていると略ぼ心附いている。それゆえに、故らに無心な顔を作り、思慮の無い言を云い、互に瞞着しようと力めあうものの、しかし、双方共力は牛角のしたたかものゆえ、優もせず、劣もせず、挑み疲れて今はすこし睨合の姿となった。総てこれ等の動静は文三も略ぼ察している。それを察しているから、お勢がこのような危い境に身を処きながら、それには少しも心附かず、私欲と淫欲とが爍して出来した、軽く、浮いた、汚わしい家内の調子に乗せられて、何心なく物を言っては高笑をする、その様子を見ると、手を束ねて安座していられなくなる。
お勢は今甚だしく迷っている、豕を抱いて臭きを知らずとかで、境界の臭みに居ても、おそらくは、その臭味がわかるまい。今の心の状を察するに、譬えば酒に酔ッた如くで、気は暴ていても、心は妙に昧んでいるゆえ、見る程の物聞く程の事が眼や耳やへ入ッても底の認識までは届かず、皆中途で立消をしてしまうであろう﹆また徒だ外界と縁遠くなったのみならず、我内界とも疎くなったようで、我心ながら我心の心地はせず、始終何か本体の得知れぬ、一種不思議な力に誘われて言動作息するから、我にも我が判然とは分るまい、今のお勢の眼には宇宙は鮮いで見え、万物は美しく見え、人は皆我一人を愛して我一人のために働いているように見えよう﹆若し顔を皺めて溜息を吐く者が有れば、この世はこれほど住みよいに、何故人はそう住み憂く思うか、殆どその意を解し得まい﹆また人の老やすく、色の衰え易いことを忘れて、今の若さ、美しさは永劫続くように心得て未来の事などは全く思うまい、よし思ッたところで、華かな、耀いた未来の外は夢にも想像に浮ぶまい。昇に狎れ親んでから、お勢は故の吾を亡くした、が、それには自分も心附くまい﹆お勢は昇を愛しているようで、実は愛してはいず、只昇に限らず、総て男子に、取分けて、若い、美しい男子に慕われるのが何となく快いので有ろうが、それにもまた自分は心附いていまい。これを要するに、お勢の病は外から来たばかりではなく、内からも発したので、文三に感染れて少し畏縮た血気が今外界の刺激を受けて一時に暴れだし、理性の口をも閉じ、認識の眼を眩ませて、おそろしい力を以て、さまざまの醜態に奮見するので有ろう。若しそうなれば、今がお勢の一生中で尤も大切な時﹆能く今の境界を渡り課せれば、この一時にさまざまの経験を得て、己の人と為りをも知り、所謂放心を求め得て始て心でこの世を渡るようになろうが、若し躓けばもうそれまで、倒たままで、再び起上る事も出来まい。物のうちの人となるもこの一時、人の中の物となるもまたこの一時﹆今が浮沈の潮界、尤も大切な時で有るに、お勢はこの危い境を放心して渡ッていて何時眼が覚めようとも見えん。
このままにしては置けん。早く、手遅れにならんうちに、お勢の眠った本心を覚まさなければならん、が、しかし誰がお勢のためにこの事に当ろう?
見渡したところ、孫兵衛は留守、仮令居たとて役にも立たず、お政は、あの如く、娘を愛する心は有りても、その道を知らんから、娘の道心を縊殺そうとしていながら、しかも得意顔でいるほどゆえ、固よりこれは妨になるばかり、ただ文三のみは、愚昧ながらも、まだお勢よりは少しは智識も有り、経験も有れば、若しお勢の眼を覚ます者が必要なら、文三を措いて誰がなろう?
と、こうお勢を見棄たくないばかりでなく、見棄ては寧ろ義理に背くと思えば、凝性の文三ゆえ、もウ余事は思ッていられん、朝夕只この事ばかりに心を苦めて悶苦んでいるから、あたかも感覚が鈍くなったようで、お政が顔を皺めたとて、舌鼓を鳴らしたとて、その時ばかり少し居辛くおもうのみで、久しくそれに拘ってはいられん。それでこう邪魔にされると知りつつ、園田の家を去る気にもなれず、いまに六畳の小座舗に気を詰らして始終壁に対ッて歎息のみしているので。
歎息のみしているので、何故なればお勢を救おうという志は有っても、その道を求めかねるから。「どうしたものだろう?」という問は日に幾度となく胸に浮ぶが、いつも浮ぶばかりで、答を得ずして消えてしまい、その跡に残るものは只不満足の三字。その不満足の苦を脱れようと気をあせるから、健康な智識は縮んで、出過た妄想が我から荒出し、抑えても抑え切れなくなッて、遂にはまだどうしてという手順をも思附き得ぬうちに、早くもお勢を救い得た後の楽しい光景が眼前に隠現き、払っても去らん事が度々有る。
しかし、始終空想ばかりに耽ッているでも無い﹆多く考えるうちには少しは稍々行われそうな工夫を付ける、そのうちでまず上策というは、この頃の家内の動静を詳く叔父の耳へ入れて父親の口から篤とお勢に云い聞かせる、という一策で有る。そうしたら、或はお勢も眼が覚めようかと思われる。が、また思い返せば、他人の身の上なればともかくも、我と入組んだ関繋の有るお勢の身の上をかれこれ心配してその親の叔父に告げると何となく後めだくてそうも出来ん。仮使思い切ッてそうしたところで、叔父はお勢を諭し得ても、我儘なお政は説き伏せるをさて置き、却ッて反対にいいくるめられるも知れん、と思えば、なるべくは叔父に告げずして事を収めたい。叔父に告げずして事を収めようと思えば、今一度お勢の袖を扣えて打附けに掻口説く外、他に仕方もないが、しかし、今の如くに、こう齟齬ッていては言ったとて聴きもすまいし、また毛を吹いて疵を求めるようではと思えば、こうと思い定めぬうちに、まず気が畏縮けて、どうもその気にもなれん。から、また思い詰めた心を解して、更に他にさまざまの手段を思い浮べ、いろいろに考え散してみるが、一つとして行われそうなのも見当らず、回り回ッてまた旧の思案に戻って苦しみ悶えるうちに、ふと又例の妄想が働きだして無益な事を思わせられる。時としては妙な気になッて、総てこの頃の事は皆一時の戯で、お勢は心から文三に背いたのでは無くて、只背いた風をして文三を試ているので、その証拠には今にお勢が上って来て、例の華かな高笑で今までの葛藤を笑い消してしまおうと思われる事が有る﹆が、固より永くは続かん﹆無慈悲な記憶が働きだしてこの頃あくたれた時のお勢の顔を憶い出させ、瞬息の間にその快い夢を破ってしまう。またこういう事も有る﹆ふと気が渝って、今こう零落していながら、この様な薬袋も無い事に拘ッて徒に日を送るを極て愚のように思われ、もうお勢の事は思うまいと、少時思の道を絶ッてまじまじとしていてみるが、それではどうも大切な用事を仕懸けて罷めたようで心が落居ず、狼狽てまたお勢の事に立戻って悶え苦しむ。
人の心というものは同一の事を間断なく思ッていると、遂に考え草臥て思弁力の弱るもので。文三もその通り、始終お勢の事を心配しているうちに、何時からともなく注意が散って一事には集らぬようになり、おりおり互に何の関係をも持たぬ零々砕々の事を取締もなく思う事も有った。曾つて両手を頭に敷き、仰向けに臥しながら天井を凝視めて初は例の如くお勢の事をかれこれと思っていたが、その中にふと天井の木目が眼に入って突然妙な事を思った﹆「こう見たところは水の流れた痕のようだな」、こう思うと同時にお勢の事は全く忘れてしまった、そして尚お熟々とその木目に視入って、「心の取り方に依っては高低が有るようにも見えるな。ふふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」。ふと文三等に物理を教えた外国教師の立派な髯の生えた顔を憶い出すと、それと同時にまた木目の事は忘れてしまった。続いて眼前に七八人の学生が現われて来たと視れば、皆同学の生徒等で、或は鉛筆を耳に挿んでいる者も有れば、或は書物を抱えている者も有り又は開いて視ている者も有る。能く視れば、どうか文三もその中に雑っているように思われる。今越歴の講義が終ッて試験に掛る所で、皆「えれくとりある、ましん」の周囲に集って、何事とも解らんが、何か頻りに云い争いながら騒いでいるかと思うと、忽ちその「ましん」も生徒も烟の如く痕迹もなく消え失せて、ふとまた木目が眼に入った。「ふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」と云って、何故ともなく莞爾した。「『いるりゅうじょん』と云えば、今まで読だ書物の中でさるれえの「いるりゅうじょんす」ほど面白く思ったものは無いな。二日一晩に読切ってしまったっけ。あれほどの頭にはどうしたらなるだろう。余程組織が緻密に違いない……」。さるれえの脳髄とお勢とは何の関係も無さそうだが、この時突然お勢の事が、噴水の迸る如くに、胸を突いて騰る。と、文三は腫物にでも触られたように、あっと叫びながら、跳ね起きた。しかし、跳ね起きた時は、もうその事は忘れてしまッた、何のために跳ね起きたとも解らん。久く考えていて、「あ、お勢の事か」と辛くして憶い出しは憶い出しても、宛然世を隔てた事の如くで、面白くも可笑も無く、そのままに思い棄てた、暫くは惘然として気の抜けた顔をしていた。
こう心の乱れるまでに心配するが、しかし只心配するばかりで、事実には少しも益が無いから、自然は己が為べき事をさっさっとして行ってお勢は益々深味へ陥る。その様子を視て、さすがの文三も今は殆ど志を挫き、とても我力にも及ばんと投首をした。
が、その内にふと嬉しく思い惑う事に出遇ッた。というは他の事でも無い、お勢が俄に昇と疎々しくなった、その事で。それまではお勢の言動に一々目を注けて、その狂う意の跟を随いながら、我も意を狂わしていた文三もここに至って忽ち道を失って暫く思念の歩を留めた。あれ程までにからんだ両人の関繋が故なくして解れてしまう筈は無いから、早まって安心はならん。けれど、喜ぶまいとしても、喜ばずにはいられんはお勢の文三に対する感情の変動で、その頃までは、お政程には無くとも、文三に対して一種の敵意を挟んでいたお勢が俄に様子を変えて、顔を赧らめ合た事は全く忘れたようになり、眉を皺め眼の中を曇らせる事はさて置き、下女と戯れて笑い興じている所へ行きがかりでもすれば、文三を顧みて快気に笑う事さえ有る。この分なら、若し文三が物を言いかけたら、快く返答するかと思われる。四辺に人眼が無い折などには、文三も数々話しかけてみようかとは思ったが、万一に危む心から、暫く差控ていた──差控ているは寧しろ愚に近いとは思いながら、尚お差控ていた。
編物を始めた四五日後の事で有った、或日の夕暮、何か用事が有って文三は奥座敷へ行こうとて、二階を降りてと見ると、お勢が此方へ背を向けて縁端に佇立んでいる。少しうなだれて何か一心に為ていたところ、編物かと思われる。珍らしいうちゆえと思いながら、文三は何心なくお勢の背後を通り抜けようとすると、お勢が彼方向いたままで、突然「まだかえ?」という。勿論人違と見える。が、この数週の間妄想でなければ言葉を交えた事の無いお勢に今思い掛なくやさしく物を言いかけられたので、文三ははっと当惑して我にも無く立留る、お勢も返答の無いを不思議に思ってか、ふと此方を振向く途端に、文三と顔を相視しておッと云って驚いた、しかし驚きは驚いても、狼狽はせず、徒莞爾したばかりで、また彼方向いて、そして編物に取掛ッた。文三は酒に酔った心地、どう仕ようという方角もなく、只茫然として殆ど無想の境に彷徨ッているうちに、ふと心附いた、は今日お政が留守の事。またと無い上首尾。思い切って物を言ってみようか……と思い掛けてまたそれと思い定めぬうちに、下女部屋の紙障がさらりと開く、その音を聞くと文三は我にも無く突と奥座敷へ入ッてしまった──我にも無く、殆ど見られては不可とも思わずして。奥座敷へ入ッて聞いていると、やがてお鍋がお勢の側まで来て、ちょいと立留ッた光景で「お待遠うさま」という声が聞えた。お勢は返答をせず、只何か口疾に囁いた様子で、忍音に笑う声が漏れて聞えると、お鍋の調子外の声で「ほんとに内海……」「しッ!……まだ其所に」と小声ながら聞取れるほどに「居るんだよ」。お鍋も小声になりて「ほんとう?」「ほんとうだよ」
こう成て見ると、もう潜ているも何となく極が悪くなって来たから、文三が素知らぬ顔をしてふッと奥座敷を出る、その顔をお鍋は不思議そうに眺めながら、小腰を屈めて「ちょいとお湯へ」と云ッてから、ふと何か思い出して、肝を潰した顔をして周章て、「それから、あの、若し御新造さまがお帰なすって御膳を召上ると仰ッたら、お膳立をしてあの戸棚へ入れときましたから、どうぞ……お嬢さま、もう直宜うござんすか? それじゃア行ってまいります」。お勢は笑い出しそうな眼元でじろり文三の顔を掠めながら、手ばしこく手で持っていた編物を奥座敷へ投入れ、何やらお鍋に云って笑いながら、面白そうに打連れて出て行った。主従とは云いながら、同程の年頃ゆえ、双方とも心持は朋友で、尤もこれは近頃こうなッたので、以前はお勢の心が高ぶっていたから、下女などには容易に言葉をもかけなかった。
出て行くお勢の後姿を目送って、文三は莞爾した。どうしてこう様子が渝ったのか、それを疑っているに遑なく、ただ何となく心嬉しくなって、莞爾した。それからは例の妄想が勃然と首を擡げて抑えても抑え切れぬようになり、種々の取留も無い事が続々胸に浮んで、遂には総てこの頃の事は皆文三の疑心から出た暗鬼で、実際はさして心配する程の事でも無かったかとまで思い込んだ。が、また心を取直して考えてみれば、故無くして文三を辱めたといい、母親に忤いながら、何時しかそのいうなりに成ったといい、それほどまで親かった昇と俄に疏々しくなったといい、──どうも常事でなくも思われる。と思えば、喜んで宜いものか、悲んで宜いものか、殆ど我にも胡乱になって来たので、あたかも遠方から撩る真似をされたように、思い切っては笑う事も出来ず、泣く事も出来ず、快と不快との間に心を迷せながら、暫く縁側を往きつ戻りつしていた。が、とにかく物を云ったら、聞いていそうゆえ、今にも帰ッて来たら、今一度運を試して聴かれたらその通り、若し聴かれん時にはその時こそ断然叔父の家を辞し去ろうと、遂にこう決心して、そして一と先二階へ戻った。
底本:「浮雲」新潮文庫、新潮社
1951(昭和26)年12月15日初版発行
1997(平成9)年4月10日81刷
初出:「新編浮雲」金港堂
1887(明治20)年6月発行
※「匇」と「匆」、「耊」と「耋」、「掻頭」と「挿頭」、「座舗」と「坐舗」の混在は底本通りです。
入力:佐野暢之、任天堂
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年12月1日作成
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