四日間
ガールシン
二葉亭四迷訳
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忘れもせぬ、其時味方は森の中を走るのであった。シュッシュッという弾丸の中を落来る小枝をかなぐりかなぐり、山査子の株を縫うように進むのであったが、弾丸は段々烈しくなって、森の前方に何やら赤いものが隠現見える。第一中隊のシードロフという未だ生若い兵が此方の戦線へ紛込でいるから⦅如何してだろう?⦆と忙しい中で閃と其様な事を疑って見たものだ。スルト其奴が矢庭にペタリ尻餠を搗いて、狼狽た眼を円くして、ウッとおれの面を看た其口から血が滴々々……いや眼に見えるようだ。眼に見えるようなは其而已でなく、其時ふッと気が付くと、森の殆ど出端の蓊鬱と生茂った山査子の中に、居るわい、敵が。大きな食肥た奴であった。俺は痩の虚弱ではあるけれど、やッと云って躍蒐る、バチッという音がして、何か斯う大きなもの、トサ其時は思われたがな、それがビュッと飛で来る、耳がグヮンと鳴る。打たなと気が付た頃には、敵の奴めワッと云て山査子の叢立に寄懸って了った。匝れば匝られるものを、恐しさに度を失って、刺々の枝の中へ片足踏込で躁って藻掻いているところを、ヤッと一撃に銃を叩落して、やたら突に銃劔をグサと突刺すと、獣の吼るでもない唸るでもない変な声を出すのを聞捨にして駈出す。味方はワッワッと鬨を作って、倒ける、射つ、という真最中。俺も森を畑へ駈出して慥か二三発も撃たかと思う頃、忽ちワッという鬨の声が一段高く聞えて、皆一斉に走出す、皆走出す中で、俺はソノ……旧の処に居る。ハテなと思た。それよりも更と不思議なは、忽然として万籟死して鯨波もしなければ、銃声も聞えず、音という音は皆消失せて、唯何やら前面が蒼いと思たのは、大方空であったのだろう。頓て其蒼いのも朦朧となって了った……
どうも変さな、何でも伏臥になって居るらしいのだがな、眼に遮ぎるものと云っては、唯掌大の地面ばかり。小草が数本に、その一本を伝わって倒に這降りる蟻に、去年の枯草のこれが筐とも見える芥一摘みほど──これが其時の眼中の小天地さ。それをば片一方の眼で視ているので、片一方のは何か堅い、木の枝に違いないがな、それに圧されて、そのまた枝に頭が上っていようと云うものだから、ひどく工合がわるい。身動を仕たくも、不思議なるかな、些とも出来んわい。其儘で暫く経つ。竈馬の啼く音、蜂の唸声の外には何も聞えん。少焉あって、一しきり藻掻いて、体の下になった右手をやッと脱して、両の腕で体を支えながら起上ろうとしてみたが、何がさて鑽で揉むような痛みが膝から胸、頭へと貫くように衝上げて来て、俺はまた倒れた。また真の闇の跡先なしさ。
ふッと眼が覚めると、薄暗い空に星影が隠々と見える。はてな、これは天幕の内ではない、何で俺は此様な処へ出て来たのかと身動をしてみると、足の痛さは骨に応えるほど!
何さまこれは負傷したのに相違ないが、それにしても重傷か擦創かと、傷所へ手を遣ってみれば、右も左もべッとりとした血。触れば益々痛むのだが、その痛さが齲歯が痛むように間断なくキリキリと腹を挘られるようで、耳鳴がする、頭が重い。両脚に負傷したことはこれで朧気ながら分ったが、さて合点の行かぬは、何故此儘にして置いたろう? 豈然とは思うが、もしヒョッと味方敗北というのではあるまいか? と、まず、遡って当時の事を憶出してみれば、初め朧のが末明亮となって、いや如何しても敗北でないと収まる。何故と云えば、俺は、ソレ倒れたのだ。尤もこれは瞭とせぬ。何でも皆が駈出すのに、俺一人それが出来ず、何か前方が青く見えたのを憶えているだけではあるが、兎も角も小山の上の此畑で倒れたのだ。これを指しては、背低の大隊長殿が占領々々と叫いた通り、此処を占領したのであってみれば、これは敗北したのではない。それなら何故俺の始末をしなかったろう? 此処は明放しの濶とした処、見えぬことはない筈。それに此処でこうして転がっているのは俺ばかりでもあるまい。敵の射撃は彼の通り猛烈だったからな。好し一つ頭を捻向けて四下の光景を視てやろう。それには丁度先刻しがた眼を覚して例の小草を倒に這降る蟻を視た時、起揚ろうとして仰向に倒けて、伏臥にはならなかったから、勝手が好い。それで此星も、成程な。
やっとこなと起かけてみたが、何分両脚の痛手だから、なかなか起られぬ。到底も無益だとグタリとなること二三度あって、さて辛うじて半身起上ったが、や、その痛いこと、覚えず泪ぐんだくらい。
と視ると頭の上は薄暗い空の一角。大きな星一ツに小さいのが三ツ四ツきらきらとして、周囲には何か黒いものが矗々と立っている。これは即ち山査子の灌木。俺は灌木の中に居るのだ。さてこそ置去り……
と思うと、慄然として、頭髪が弥竪ったよ。しかし待てよ、畑で射られたのにしては、この灌木の中に居るのが怪しい。してみればこれは傷の痛さに夢中で此処へ這込だに違いないが、それにしても其時は此処まで這込み得て、今は身動もならぬが不思議、或は射られた時は一ヵ所の負傷であったが、此処へ這込でから復た一発喰ったのかな。
蒼味を帯びた薄明が幾個ともなく汚点のように地を這って、大きな星は薄くなる、小さいのは全く消えて了う。ほ、月の出汐だ。これが家であったら、さぞなア、好かろうになアと……
妙な声がする。宛も人の唸るような……いや唸るのだ。誰か同じく脚に傷を負って、若くは腹に弾丸を有って、置去の憂目を見ている奴が其処らに居るのではあるまいか。唸声は顕然と近くにするが近処に人が居そうにもない。はッ、これはしたり、何の事た、おれおれ、この俺が唸るのだ。微かな情ない声が出おるわい。そんなに痛いのかしら。痛いには違いあるまいが、頭がただもう茫と無感覚になっているから、それで分らぬのだろう。また横臥で夢になって了え。眠ること眠ること……が、もし万一此儘になったら……えい、関うもんかい!
臥ようとすると、蒼白い月光が隈なく羅を敷たように仮の寝所を照して、五歩ばかり先に何やら黒い大きなものが見える。月の光を浴びて身辺処々燦たる照返を見するのは釦紐か武具の光るのであろう。はてな、此奴死骸かな。それとも負傷者かな?
何方でも関わん。おれは臥る……
いやいや如何考えてみても其様な筈がない。味方は何処へ往ったのでもない。此処に居るに相違ない、敵を逐払って此処を守っているに相違ない。それにしては話声もせず篝の爆る音も聞えぬのは何故であろう? いや、矢張己が弱っているから何も聞えぬので、其実味方は此処に居るに相違ない。
「助けてくれ助けてくれ!」
と破れた人間離のした嗄声が咽喉を衝いて迸出たが、応ずる者なし。大きな声が夜の空を劈いて四方へ響渡ったのみで、四下はまた闃となって了った。ただ相変らず蟋蟀が鳴しきって真円な月が悲しげに人を照すのみ。
若し其処のが負傷者なら、この叫声を聴いてよもや気の付かぬ事はあるまい。してみれば、これは死骸だ。味方のかしら、敵のかしら。ええ、馬鹿くさい! そんな事は如何でも好いではないか? と、また腫眶を夢に閉じられて了った。
先刻から覚めてはいるけれど、尚お眼を瞑ったままで臥ているのは、閉じた眶越にも日光が見透されて、開けば必ず眼を射られるを厭うからであるが、しかし考えてみれば、斯う寂然としていた方が勝であろう。昨日……たしか昨日と思うが、傷を負ってから最う一昼夜、こうして二昼夜三昼夜と経つ内には死ぬ。何の業くれ、死は一ツだ。寧そ寂然としていた方が好い。身動がならぬなら、せんでも好い。序に頭の機能も止めて欲しいが、こればかりは如何する事も出来ず、千々に思乱れ種々に思佗て頭に些の隙も無いけれど、よしこれとても些との間の辛抱。頓て浮世の隙が明いて、筐に遺る新聞の数行に、我軍死傷少なく、負傷者何名、志願兵イワーノフ戦死。いや、名前も出まいて。ただ一名戦死とばかりか。兵一名! 嗟矣彼の犬のようなものだな。
在りし昔が顕然と目前に浮ぶ。これはズッと昔の事、尤もな、昔の事と思われるのは是ばかりでない、おれが一生の事、足を撃れて此処に倒れる迄の事は何も彼もズッと昔の事のように思われるのだが……或日町を通ると、人だかりがある。思わずも足を駐めて視ると、何か哀れな悲鳴を揚げている血塗の白い物を皆佇立てまじりまじり視ている光景。何かと思えば、それは可愛らしい小犬で、鉄道馬車に敷かれて、今の俺の身で死にかかっているのだ。すると、何処からか番人が出て来て、見物を押分け、犬の衿上をむずと掴んで何処へか持って去く、そこで見物もちりぢり。
誰かおれを持って去って呉れる者があろうか? いや、此儘で死ねという事であろう。が、しかし考えてみれば、人生は面白いもの、あの犬の不幸に遭った日は俺には即ち幸福な日で、歩くも何か酔心地、また然うあるべき理由があった。ええ、憶えば辛い。憶うまい憶うまい。むかしの幸福。今の苦痛……苦痛は兎角免れ得ぬにしろ、懐旧の念には責められたくない。昔を憶出せば自然と今の我身に引比べられて遣瀬無いのは創傷よりも余程いかぬ!
さて大分熱くなって来たぞ。日が照付けるぞ。と、眼を開けば、例の山査子に例の空、ただ白昼というだけの違い。おお、隣の人。ほい、敵の死骸だ! 何という大男! 待てよ、見覚があるぞ。矢張彼の男だ……
現在俺の手に掛けた男が眼の前に踏反ッているのだ。何の恨が有っておれは此男を手に掛けたろう?
ただもう血塗になってシャチコばっているのであるが、此様な男を戦場へ引張り出すとは、運命の神も聞えぬ。一体何者だろう? 俺のように年寄った母親が有うも知ぬが、さぞ夕暮ごとにいぶせき埴生の小舎の戸口に彳み、遥の空を眺ては、命の綱の掙人は戻らぬか、愛し我子の姿は見えぬかと、永く永く待わたる事であろう。
さておれの身は如何なる事ぞ? おれも亦まツこの通り……ああ此男が羨ましい! 幸福者だよ、何も聞ずに、傷の痛みも感ぜずに、昔を偲ぶでもなければ、命惜しとも思うまい。銃劒が心臓の真中心を貫いたのだからな。それそれ軍服のこの大きな孔、孔の周囲のこの血。これは誰の業? 皆こういうおれの仕業だ。
ああ此様な筈ではなかったものを。戦争に出たは別段悪意があったではないものを。出れば成程人殺もしようけれど、如何してかそれは忘れていた。ただ飛来る弾丸に向い工合、それのみを気にして、さて乗出して弥弾丸の的となったのだ。
それからの此始末。ええええ馬鹿め! 己は馬鹿だったが、此不幸なる埃及の百姓(埃及軍の服を着けておったが)、この百姓になると、これはまた一段と罪が無かろう。鮨でも漬けたように船に詰込れて君士但丁堡へ送付られるまでは、露西亜の事もバルガリヤの事も唯噂にも聞いたことなく、唯行けと云われたから来たのだ。若しも厭の何のと云おうものなら、笞の憂目を見るは愚かなこと、いずれかのパシャのピストルの弾を喰おうも知れぬところだ。スタンブールから此ルシチウクまで長い辛い行軍をして来て、我軍の攻撃に遭って防戦したのであろうが、味方は名に負う猪武者、英吉利仕込のパテント付のピーボヂーにもマルチニーにも怯ともせず、前へ前へと進むから、始て怖気付いて遁げようとするところを、誰家のか小男、平生なら持合せの黒い拳固一撃でツイ埒が明きそうな小男が飛で来て、銃劒翳して胸板へグサと。
何の罪も咎も無いではないか?
おれも亦同じ事。殺しはしたけれど、何の罪がある? 何の報いで咽喉の焦付きそうなこの渇き? 渇く! 渇くとは如何なものか、御存じですかい? ルーマニヤを通る時は、百何十度という恐ろしい熱天に毎日十里宛行軍したッけが、其時でさえ斯うはなかった。ああ誰ぞ来て呉れれば好いがな。
しめた! この男のこの大きな吸筒、これには屹度水がある! けれど、取りに行かなきゃならぬ。さぞ痛む事たろうな。えい、如何するもんかい、やッつけろ!
と、這出す。脚を引摺りながら力の脱けた手で動かぬ体を動かして行く。死骸はわずか一間と隔てぬ所に在るのだけれど、その一間が時に取っては十里よりも……遠いのではないが、難儀だ。けれども、如何仕様も無い、這って行く外はない。咽喉は熱して焦げるよう。寧そ水を飲まぬ方が手短に片付くとは思いながら、それでも若しやに覊されて……
這って行く。脚が地に泥んで、一と動する毎に痛さは耐きれないほど。うんうんという唸声、それが頓て泣声になるけれど、それにも屈ずに這って行く。やッと這付く。そら吸筒──果して水が有る──而も沢山! 吸筒半分も有ったろうよ。やれ嬉しや、是でまず当分は水に困らぬ──死ぬ迄は困らぬのだ。やれやれ!
兎も角も、お蔭さまで助かりますと、片肘に身を持たせて吸筒の紐を解にかかったが、ふッと中心を失って今は恩人の死骸の胸へ伏倒りかかった。如何にも死人臭い匂がもう芬と鼻に来る。
飲んだわ飲んだわ! 水は生温かったけれど、腐敗しては居なかったし、それに沢山に有る。まだ二三日は命が繋がれようというもの、それそれ生理心得草に、水さえあらば食物なくとも人は能く一週間以上活くべしとあった。又餓死をした人の話が出ていたが、その人は水を飲でいたばかりに永く死切れなかったという。
それが如何した? 此上五六日生延びてそれが何になる? 味方は居ず、敵は遁げた、近くに往来はなしとすれば、これは如何でも死ぬに極っている。三日で済む苦しみを一週間に引延すだけの事なら、寧そ早く片付けた方が勝ではあるまいか? 隣のの側に銃もある、而も英吉利製の尤物と見える。一寸手を延すだけの世話で、直ぐ埒が明く。皆打切らなかったと見えて、弾丸も其処に沢山転がっている。
さア、死ぬか──待ってみるか? 何を? 助かるのを? 死ぬのを? 敵が来て傷を負ったおれの足の皮剥に懸るを待ってみるのか? それよりも寧そ我手で一思に……
でないことさ、そう気を落したものでないことさ。活られるだけ活てみようじゃないか。何のこれが見付かりさえすれば助かるのだ。事に寄ると、骨は避けているかも知れんから、そうすれば必ず治る。国へ帰って母にも逢える、マ、マ、マリヤにも逢える……
ああ国へはこうと知らせたくないな。一思に死だと思わせて置きたいな。そうでもない偶然おれが三日も四日も藻掻ていたと知れたら……
眼が眩う。隣歩きで全然力が脱けた。それにこの恐ろしい臭気は! 随分と土気色になったなア! ……これで明日明後日となったら──ええ思遣られる。今だって些ともこうしていたくはないけれど、こう草臥ては退くにも退かれぬ。少し休息したらまた旧処へ戻ろう。幸いと風を後にしているから、臭気は前方へ持って行こうというもの。
全然力が脱けて了った。太陽は手や顔へ照付ける。何か被りたくも被る物はなし。責て早く夜になとなれ。こうだによってと、これで二晩目かな。
などと思う事が次第に糾れて、それなりけりに夢さ。
大分永く眠っていたと見えて、眼を覚してみればもう夜。さて何も変った事なし、傷は痛む、隣のは例の大柄の五体を横たえて相変らず寂としたもの。
どうも此男の事が気になる。遮莫おれにしたところで、憐しいもの可愛ものを残らず振棄てて、山超え川越えて三百里を此様なバルガリヤ三界へ来て、餓えて、凍えて、暑さに苦しんで──これが何と夢ではあるまいか? この薄福者の命を断ったそればかりで、こうも苦しむことか? この人殺の外に、何ぞおれは戦争の利益になった事があるか?
人殺し、人殺の大罪人……それは何奴? ああ情ない、此おれだ!
そうそう、おれが従軍しようと思立った時、母もマリヤも止めはしなかったが、泣いたっけ。何がさて空想で眩んでいた此方の眼にその泪が這入るものか、おれの心一ツで親女房に憂目を見するという事に其時はツイ気が付かなんだが、今となって漸う漸う眼が覚めた。
ええ、今更お復習しても始まらぬか。昔を今に成す由もないからな。
しかし彼時親類共の態度が余程妙だった。「何だ、馬鹿奴! お先真暗で夢中に騒ぐ!」と、こうだ。何処を押せば其様な音が出る? ヤレ愛国だの、ソレ国難に殉ずるのという口の下から、如何して彼様な毒口が云えた? あいらの眼で観ても、おれは即ち愛国家ではないか、国難に殉ずるのではないか? ではあるけれど、それはそうなれど、おれはソノ馬鹿だという。
で、まず、キシニョーフへ出て来て背嚢やら何やらを背負されて、数千の戦友と倶に出征したが、その中でおれのように志願で行くものは四五人とあるかなし、大抵は皆成ろう事なら家に寝ていたい連中であるけれど、それでも善くしたもので、所謂決死連の己達と同じように従軍して、山を超え川を踰え、いざ戦闘となっても負けずに能く戦う──いや更と手際が好いかも知れぬてな。尤も許しさえしたら、何も角も抛て置いて匇々と帰るかも知れぬが、兎も角も職分だけは能く尽す。
颯と朝風が吹通ると、山査子がざわ立って、寝惚た鳥が一羽飛出した。もう星も見えぬ。今迄薄暗かった空はほのぼのと白みかかって、輭い羽毛を散らしたような雲が一杯に棚引き、灰色の暗霧は空へ空へと晴て行く。これでおれのソノ……何と云ったものかしら、生にもあらず、死にもあらず、謂わば死苦の三日目か。
三日目……まだ幾日苦しむ事であろう? もう永くはあるまい。大層弱ったからな。此塩梅では死骸の側を離れたくも、もう離れられんも知れぬ。やがておれも是になって、肩を比べて臥ていようが、お互に胸悪くも思はなくなるのであろう。
兎に角水は十分に飲むべし。一日に三度飲もう、朝と昼と晩とにな。
日の出だ! 大きく盆のようなのが、黒々と見ゆる山査子の枝に縦横に断截られて血潮のように紅に、今日も大方熱い事であろう。それにつけても、隣の──貴様はまア何となる事ぞ? 今でさえ見るも浅ましいその姿。
ほんに浅ましい姿。髪の毛は段々と脱落ち、地体が黒い膚の色は蒼褪めて黄味さえ帯び、顔の腫脹に皮が釣れて耳の後で罅裂れ、そこに蛆が蠢き、脚は水腫に脹上り、脚絆の合目からぶよぶよの肉が大きく食出し、全身むくみ上って宛然小牛のよう。今日一日太陽に晒されたら、これがまア如何なる事ぞ? こう寄添っていては耐らぬ。骨が舎利に成ろうが、これは何でも離れねばならぬ──が、出来るかしら? 成程手も挙げられる、吸筒も開けられる、水も飲めることは飲めもするが、この重い動かぬ体を動かすことは? いや出来ようが出来まいが、何でも角でも動かねばならぬ、仮令少しずつでも、一時間によし半歩ずつでも。
で、弥移居を始めてこれに一朝全潰れ。傷も痛だが、何のそれしきの事に屈るものか。もう健康な時の心持は忘たようで、全く憶出せず、何となく痛に慣んだ形だ。一間ばかりの所を一朝かかって居去って、旧の処へ辛うじて辿着きは着いたが、さて新鮮の空気を呼吸し得たは束の間、尤も形の徐々壊出した死骸を六歩と離れぬ所で新鮮の空気の沙汰も可笑しいかも知れぬが──束の間で、風が変って今度は正面に此方へ吹付ける、その臭さに胸がむかつく。空の胃袋は痙攣を起したように引締って、臓腑が顛倒るような苦しみ。臭い腐敗した空気が意地悪くむんむッと煽付ける。
精も根も尽果てて、おれは到頭泣出した。
全く敗亡て、ホウとなって、殆ど人心地なく臥て居た。ふッと……いや心の迷の空耳かしら? どうもおれには……おお、矢張人声だ。蹄の音に話声。危なく声を立てようとして、待てしばし、万一敵だったら、其の時は如何する? この苦しみに輪を掛けた新聞で読んでさえ頭の髪の弥竪そうな目に遭おうも知ぬ。随分生皮も剥れよう、傷を負うた脚を火炙にもされよう……それしきは未な事、こういう事にかけては頗る思付の好い渠奴等の事、如何な事をするか知たものでない。渠奴等の手に掛って弄殺しにされようより、此処でこうして死だ方が寧そ勝か。とはいうものの、もしひょッと是が味方であったら? えい山査子奴がいけ邪魔な! 何だと云ってこう隙間なく垣のように生えくさった? 是に遮られて何も見えぬ。でも嬉やたった一ヵ所窓のように枝が透いて遠く低地を見下される所がある。あの低地には慥か小川があって戦争前に其水を飲だ筈。そう云えばソレ彼処に橋代に架した大きな砂岩石の板石も見える。多分是を渡るであろう。もう話声も聞えぬ。何国の語で話ていたか、薩張聴分られなかったが、耳さえ今は遠くなったか。己れやれ是が味方であったら……此処から喚けば、彼処からでもよもや聴付けぬ事はあるまい。憖いに早まって虎狼のような日傭兵の手に掛ろうより、其方が好い。もう好加減に通りそうなもの、何を愚頭々々しているのかと、一刻千秋の思い。死骸の臭気は些も薄らいだではないけれど、それすら忘れていた位。
不意に橋の上に味方の騎兵が顕れた。藍色の軍服や、赤い筋や、鎗の穂先が煌々と、一隊挙って五十騎ばかり。隊前には黒髯を怒らした一士官が逸物に跨って進み行く。残らず橋を渡るや否や、士官は馬上ながら急に後を捻向いて、大声に
「駈足イ!」
「おおい、待って呉れえ待って呉れえ! お願いだ。助けて呉れえ!」
競立った馬の蹄の音、サーベルの響、がやがやという話声に嗄声は消圧されて──やれやれ聞えぬと見える。
ええ情ないと、気も張も一時に脱けて、パッタリ地上へひれ伏しておいおい泣出した。吸筒が倒れる、中から水──といえば其時の命、命の綱、いやさ死期を緩べて呉れていようというソノ霊薬が滾々と流出る。それに心附いた時は、もうコップ半分も残ってはいぬ時で、大抵はからからに乾燥いで咽喉を鳴らしていた地面に吸込まれて了っていた。
この情ない目を見てからのおれの失望落胆と云ったらお話にならぬ。眼を半眼に閉じて死んだようになっておった。風は始終向が変って、或は清新な空気を吹付けることもあれば、又或は例の臭気に嗔咽させることもある。此日隣のは弥々浅ましい姿になって其惨状は筆にも紙にも尽されぬ。一度光景を窺おうとして、ヒョッと眼を開いて視て、慄然とした。もう顔の痕迹もない。骨を離れて流れて了ったのだ。無気味にゲタと笑いかけて其儘固まって了ったらしい頬桁の、その厭らしさ浅ましさ。随分髑髏を扱って人頭の標本を製した覚もあるおれではあるが、ついぞ此様なのに出逢ったことがない。この骸骨が軍服を着けて、紐釦ばかりを光らせている所を見たら、覚えず胴震が出て心中で嘆息を漏した、「嗚呼戦争とは──これだ、これが即ち其姿だ」と。
相変らずの油照、手も顔も既うひりひりする。残少なの水も一滴残さず飲干して了った。渇いて渇いて耐えられぬので、一滴甞める積で、おもわずガブリと皆飲んだのだ。嗚呼彼の騎兵がツイ側を通る時、何故おれは声を立てて呼ばなかったろう? よし彼が敵であったにしろ、まだ其方が勝であったものを。なんの高が一二時間責さいなまれるまでの事だ。それをこうして居れば未だ幾日ごろごろして苦しむことか知れぬ。それにつけても憶出すは母の事。こうと知ったら、定めし白髪を引挘って、頭を壁へ打付けて、おれを産んだ日を悪日と咒って、人の子を苦しめに、戦争なんぞを発明した此世界をさぞ罵る事たろうなア!
だが、母もマリヤもおれがこう踠死に死ぬことを風の便にも知ろうようがない。ああ、母上にも既う逢えぬ、いいなずけのマリヤにも既う逢えぬ。おれの恋ももう是限か。ええ情けない! と思うと胸が一杯になって……
えい、また白犬めが。番人も酷いぞ、頭を壁へ叩付けて置いて、掃溜へポンと抛込んだ。まだ息気が通っていたから、それから一日苦しんでいたけれど、彼犬に視べればおれの方が余程惨憺だ。おれは全三日苦しみ通しだものを。明日は四日目、それから五日目、六日目……死神は何処に居る? 来てくれ! 早く引取ってくれ!
なれど死神は来てくれず、引取ってもくれぬ。此凄まじい日に照付られて、一滴水も飲まなければ、咽喉の炎えるを欺す手段なく剰さえ死人の臭が腐付いて此方の体も壊出しそう。その臭の主も全くもう溶けて了って、ポタリポタリと落来る無数の蛆は其処らあたりにうようよぞろぞろ。是に食尽されて其主が全く骨と服ばかりに成れば、其次は此方の番。おれも同じく此姿になるのだ。
その日は暮れる、夜が明ける、何も変った事がなくて、朝になっても同じ事。また一日を空に過す……
山査子の枝が揺れて、ざわざわと葉摺の音、それが宛然ひそめきたって物を云っているよう。「そら死ぬそら死ぬそら死ぬ」と耳の端で囁けば、片々の耳元でも懐しい面「もう見えぬもう見えぬもう見えぬ」
「見えん筈じゃ、此様な処に居るじゃもの、」
と声高に云う声が何処か其処らで……
ぶるぶるとしてハッと気が付くと、隊の伍長のヤーコウレフが黒眼勝の柔しい眼で山査子の間から熟と此方を覗いている光景。
「鋤を持ち来い! まだ他に二人おる。こやつも敵ぞ!」という。
「鋤は要らん、埋ちゃいかん、活て居るよ!」
と云おうとしたが、ただ便ない呻声が乾付いた唇を漏れたばかり。
「やッ! こりゃ活きとるンか? イワーノフじゃ! 来い来い、早う来い、イワーノフが活きとる。軍医殿を軍医殿を!」
瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが口中へ注入れられたようであったが、それぎりでまた空。
担架は調子好く揺れて行く。それがまた寝せ付られるようで快い。今眼が覚めたかと思うと、また生体を失う。繃帯をしてから傷の痛も止んで、何とも云えぬ愉快に節々も緩むよう。
「止まれ、卸せ! 看護手交代! 用意! 担え!」
号令を掛けたのは我衛生隊附のピョートル、イワーヌイチという看護長。頗る背高で、大の男四人の肩に担がれて行くのであるが、其方へ眼を向けてみると、まず肩が見えて、次に長い疎髯、それから漸く頭が見えるのだ。
「看護長殿!」
と小声に云うと、
「何か?」
と少し屈懸るようにする。
「軍医殿は何と云われました? 到底助かりますまい?」
「何を云う? そげな事あッて好もんか! 骨に故障が有るちゅうじゃなし、請合うて助かる。貴様は仕合ぞ、命を拾うたちゅうもんじゃぞ! 骨にも動脈にも触れちょらん。如何して此三昼夜ばッか活ちょったか? 何を食うちょったか?」
「何も食いません。」
「水は飲まんじゃったか?」
「敵の吸筒を……看護長殿、今は談話が出来ません。も少し後で……」
「そうじゃろうそうじゃろう寝ろ寝ろ。」
また夢に入って生体なし。
眼が覚めてみると、此処は師団の仮病舎。枕頭には軍医や看護婦が居て、其外彼得堡で有名な某国手がおれの傷を負った足の上に屈懸っているソノ馴染の顔も見える。国手は手を血塗にして脚の処で暫く何かやッていたが、頓て此方を向いて、
「君は命拾をしたぞ! もう大丈夫。脚を一本お貰い申したがね、何の、君、此様な脚の一本位、何でもないさねえ。君もう口が利けるかい?」
もう利ける。そこで一伍一什の話をした。
底本:「平凡 私は懐疑派だ」講談社文芸文庫、講談社
1997(平成9)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「二葉亭四迷全集」筑摩書房
1984(昭和59)年11月~1991(平成3)年11月
入力:長住由生
校正::はやしだかずこ
2000年11月8日公開
2005年12月8日修正
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