山吹町の殺人
平林初之輔
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一
男の顔にはすっかり血の気が失せていた。ふらふら起ち上って台所へ歩いてゆく姿は、まるで幽霊のようだった。出来るだけ物音をたてないように用心しながら、彼はそっと水道の栓をねじって、左手の掌にべっとりついている生々しい血糊を丹念に洗い落した。それから、電灯の下へ引き返して、両手をひろげて、何べんも裏返して見たり、斜にかざして光にすかして見たりして、指の股や、爪の根元に至るまで、精細に検査した。
ほっとした様子で、彼はぼんやり床の上へ眼をおとした。そこには一人の若い女が、見るも無残な殺されかたをして横っていた。左の乳房の下部、ちょうど心臓の真上と思われるところを、手拭地の浴衣の上から、ただ一突きに短刀で突き刺されて仰向けに倒れ、左手はあわてて傷口のあたりをおさえたような恰好になって血の中に埋まっており、右手は右の鬢のあたりまで上げられたまま硬直していた。下半身もしどけなく取り乱してはいたが、別段ひどい格闘の行われたようなあともなく、急所をねらったただの一突きで即死したものらしかった。
凝乎と見つめていると、躯幹とほぼ直角につきさされたままになっている短刀の柄が、かすかに動いているようにも見えたが、その実、傷口の周囲に夥しく流れている血液の表面にはもう大きな皺ができていた位だから、被害者が兇行を受けてから、既に少なくも一二時間を経過していることは確実であった。
男はくるりとうしろを向いて押入れの襖をあけ、メリンスのかけ布団を一枚出して、ふわりと屍体の上にかけた。短刀の柄のところが少し凸出してはいたが、何も知らぬ人が見れば、まるで、疲れてぐっすり熟睡しているように見えた。
突然、男は屍体のそばに膝をついた。そして、如何にも感慨にたえぬような様子で、被害者の蒼ざめた額をさわったり、ほつれ髪をかき上げたりしていたが、やがて、死人の顔とすれすれのところまで自分の顔をもって行って、まるで生きた恋人同志がするように、死人の唇に、ものの五秒間も接吻していた。男が顔をあげたとき、彼の両眼には大きな涙が浮んでいた。涙は頬を伝わって死人の冷たい顔の上へ二三滴落ちた。
不意に、何か容易ならぬことを思い出したものと見えて、男はすっくと起ちあがった。そして、まるで弾機をかけられた人形のように、非常な敏捷さをもって活動しはじめた。長火鉢の抽斗、鏡台の抽斗、それから戸棚の抽斗を次々にあけて、隅から隅まで、併し、非常にすばやく彼はしらべはじめた。それがすむと、室内をきょろきょろ見まわしながら、何べんも行ったり来たりして何物かを探している様子だったが、そのうちに、ひとりでに弾機がゆるんだような工合にばったり活動をやめて、茫然と部屋の真中に棒立ちになったまま太い吐息を洩らした。目的物はとうとう見つからなかったらしい。
男はもう一度屍体のそばに跪いて、前と同じように被害者の顔のそばへ自分の顔を寄せて、そっと頬と頬とをすりあわせていたが、やがて、力一ぱい女の顔を自分の頬におしつけた。死人を相手にしてのこれ等の凡ての動作は、全くの沈黙のうちに行われたのであった。
やがて男は、受持の役割を無事にすまして舞台裏へ退場する俳優のように、落ちつき払って玄関の間へ出て、帽子をかぶり、玄関に腰をかけて靴を穿こうとした。彼の視神経は忽ち緊張し、彼の視線は急速度で旋廻する探照灯のように前後左右へ旋廻した。
靴がないのだ。たしかに靴脱台の上へ脱いでおいた筈の靴が、影も形もなくなっているのだ。念のために彼は下駄箱をあけて見たが、無論そんなところへ靴がひとりでに移転している筈はない。土間には、平常履きの女下駄が一足脱ぎすててあるばかりだった。やっと回復した彼の落ちつきは、この思いがけない出来事のために根柢から覆えされてしまった。しかも、気がついて見ると、たしかにしめておいた筈の玄関の戸が開けっぱなしになっているのである。
──きっと誰かこの戸をあけて、どっかの隙間から自分の行為を見ていたに相違ない。そいつが、靴をかくして自分をまごつかせてやろうとたくらんだのだ。ことによると、もうおもてには警官が待ちかまえていて、自分が一歩門外へ足を踏み出すが早いか、自分の手には鉄の手錠がはめられるような手筈になっているのかも知れぬ──こういう疑いが、稲妻のように彼の頭を横って過ぎた。手頸に冷たい金属が触れたような感覚さえおぼえた。彼は急いで女下駄を爪先にひっかけて、夢中でおもてへ飛び出した。
意外にも、そとには何の変ったこともなかった。彼は張り合抜けがしたような気のゆるみを感じたが、それでも矢張りまんべんなく周囲に気をくばりながら、路地を抜けて通りへ出た。
暮れて間もない山吹町の通りは、いつものように大変な人出であった。夜店商人のまわりには用もない通行人がたちどまって、そこここに人垣をつくっており、夜店などには眼もくれない連中が、両側の人垣の間を、ひっきりなしに次から次へと往き来していた。こういう人ごみの中へ出てしまうと、彼の真蒼な顔も人眼をひく程目だたなくなり、背広をきて女下駄を穿いている妙な恰好にも誰一人注意する者はないらしかった。凡てが、普通であり、何等異常な点はなかった。つい数十歩はなれた路地に酸鼻を極めた悲劇が起っていることを思わせるような何物もなかった。大都会という巨大な存在には、あれ位な出来事は皮膚の上へ一片の埃が落ちた位の刺戟しか与えないのだろう。ことによると、東京市内に、これ位な事件は、現在二十も或いはそれ以上も起っていて、しかも誰一人それに気がついていないのかも知れぬ。
しかし、彼自身は大都会そのもののように無感覚ではあり得ない。彼は昼夜銀行の前まで来ると、筋向いの靴屋のショーウインドウの前に立ちどまり、その中から自分が前に穿いていた靴によく似た一足を物色して、中へはいってそれを買って穿いた。靴屋の小僧は、彼の風体などには全く無関心で、まるで洋服を着て女下駄をはいているのは極く普通の服装でもあるかのように、少しも平常と変ったところはなく、愛嬌よく、しかも非常に事務的に新聞紙で下駄を包んで彼に渡した。彼は、江戸川橋の上からそっと下の川へその包みを投げすてて、急いでひき返して電車にとびのった。
二
証拠をのこさないように非常に用心したに拘らず、既に二つの重大な手落ちをしたことがひどく彼の気を腐らした。一つは、昨日被害者に出した手紙をどうしても発見することができなかったことだ。昨日の夕方丸の内でポストへ入れたのだから、今日の午前中にあの手紙はついている筈だ。して見ると九分九厘まではあの家の中にその手紙はのこっているに相違ないし、家の中にのこっている以上は、おそかれ早かれ臨検の警官に見つかるにきまっている。しかもその手紙には、今日の夕刻役所からの帰りにあの家へ立ち寄るということが記されてあるのだ。
彼は電車に乗って間もなくしまったと思った。あの手紙は女が懐中か或は袂の中へ入れていたのにちがいないということが気がついたのである。女の身のまわりを探さなかったことは何という取り返しのつかぬ不覚だったろう。彼には、被害者の襟元から、水色の封筒のはしがはみ出しているのが、まざまざ見えるような気がした。ほんとうにそれを見たようにさえ思われ出して来た。おまけに、何よりも困ったことには手紙の用箋に役所の用箋をつかったことだ。
いま一つの手落ちは、何者かが玄関の戸をあけて靴を盗んで行ったのに気のつかなかったことである。玄関と居間との間の襖はしまっていたから、中の様子が玄関から見えるわけはないけれども、彼は靴を盗まれても知らずにいた位だから、どんな隙間からのぞかれていたか知れたものでない。靴を盗んだ奴は、靴をかくしておけば逃げ出す心配はないと単純に考えて、その間に交番へかけつけて一部一什を巡査に訴えたのかも知れない。そうだとすると彼は電車道までの帰りがけに、急をきいて現場へかけつける巡査とすれちがったのかも知れないことになる──考えただけでも彼は背筋が寒くなった。
──それにしてもあの女はかわいそうなことをしたものだ──彼の頭は急に別なことを考えはじめた。上野広小路で神明町行きに乗りかえてから、俄に混雑して来た電車の中で、彼は過去二年間にまたがる、被害者との関係を次から次へと回想しはじめた。
関係! といっても、まことに他愛のないものではある。思春期の男子に通有の、一種の女性崇拝とでもいった心的状態が、偶然に崇拝の対象として彼女をとらえたまでだったのだ。一体男子がこういう心的状態にあるときは、崇拝の対象となる女性には殆んど資格はいらないと言ってもよい。ただ人なみの容貌とほんのちょっとしたインテリジェンスの閃めきとをさえもっておればそれで沢山だ。大宅──これから彼の本名で呼ぶことにしよう──大宅三四郎は、その頃法科の三年生だった。女は朝吹光子といって、その頃浅草雷門のカフェ大正軒の女給の一人だったのである。
大宅は十数人の女給の中で、どういうわけか光子を崇拝の対象としてえらんだ。彼女は別に他の女給に比してすぐれた点をもっていたわけではないが、笑うとき両頬に笑くぼができることと、滑らかな関西訛りとがことによると大宅の気にいったのかも知れぬ。が実は大宅自身にだって、なぜ特に彼女が気に入ったかという理由はわからなかったのだし、そんなことはわからぬのが当然でもあったのだ。
はじめのうちは、大宅は、毎週土曜日に必ず、大正軒の一つのテーブル──それも大抵他の客が既に占領していない限り、入口から三番目の右側のテーブルときまっていた──に陣どって、好きでもないウイスキーをちびりちびりなめながら、時々光子の姿を見ることで満足していた。二人がはじめて口をきいたのは、それから約三カ月もたってからだった。それはほんのちょっとした挨拶に過ぎなかったのだが、大宅は有頂天になって、その日の日記のしまいに、今思い出すと冷汗の出るような甘ったるい詩を書いたことを今でもおぼえていた。
それから、しばらくたつと冗戯口の一つもきけるようになり、とうとう公休日に一度二人で日帰りで江の島まで遊びに行ったこともあった。とはいえその時だって、彼は、汽車に同席したというだけで手先や膝がふれあうのさえ、不必要に用心して彼の方でさけていた位だった。
外部にあらわれた二人の関係はこんなに淡いものであったが、心の中はそうではなかった。三四郎には光子のあらゆる部分、あらゆる動作が美しく、高貴に、なみなみならぬもののようにさえ見えた。ある時の如きは、大正軒の前まで来て、急に彼女にあうのがきまりわるくなって引き返したことすらもあった。
三四郎が大学を卒業して××省書記に採用されてからまもないある土曜日の晩であった。恰度四月のことで大正軒の広間には造花の桜が一ぱい咲き乱れており、シャンデリヤは部屋一ぱいに豊満な光を投げていた。白いエプロンの襟に真鍮の番号札をつけた光子は、三四郎のそばに立って一寸あたりに気をくばりながら低声で言った。
「妾近いうちにここをやめようと思うの」
芳醇なカクテールにほんのり微酔していた三四郎は、
「そりゃ困るね。君が居なくなっちゃ僕の生活はアメリカ無しのコロンブス同然だよ」と彼はドストエフスキーの文句をひいて不良少年じみた冗戯口調で言った。
「でもね」と光子は存外真面目で、矢張り四辺に気をくばりながら低声で続けた。「カフェの女給なんてまったく奴隷みたいなものよ。主人からもお客からもふみつけにされてね。それでいて朋輩同志だってみんなひがみあっているのよ。口先では体裁のいいことを言っているけれど、女なんて心の中じゃみんな仇同士だわ」
日頃からフェミニストをもって任じていた三四郎は、女からこの現実的な訴えをきいて、虐げられた女を虐げられた状態のままに享楽しようとしていた自分の矛盾を恥じた。そして非常に感激して、急に真面目になって言った。
「そりゃいい決心だ。まったくこういう所に長くいてはよくない。があとで生活に困りやしないかね?」
「………」
「月にいくらあったらやっていけるもんかなあ?」
「いくらもかからないと思うのよ。間借りでもしてゆけば」と光子はうつむきながら答えた。
「三十円位なら僕でも出せるがなあ。君さえかまわなければ」
「だってそんなことをしていただいちゃすまないわ」
「なあに、君の方さえよければ、僕は是非そうさして貰いたい位だ」
こうして光子はカフェをやめることになったのである。大宅は実際月三十円の負担と、一人の女性を奴隷状態から救ったという、人道主義者的の誇りとの交換を後悔してはいなかった。その日から大宅の生活は一層ひきしまって彼はふわふわした女性崇拝主義者から、堅実な青年に一変したのであった。それまでだって、二人の間の関係はきれいなものではあったが(勿論心の中まで彼がピューリタンであったわけではないが)その後は益々きちょうめんになって、光子が山吹町の路地に六畳に三畳の借家ずまいをするようになってから今まで、手紙の往復以外に、二人が直接会ったことは今夜とでも三度しかなかった位である。金で女に恩を売ったように思われることを極度に警戒して彼は避けていたのだ。
二人のこれまでの関係を知っているもの──或は誤解しているものと言った方が適当かもしれぬ──は世界中に一人しかない──少なくも大宅はそう信じていた。それは、大宅が役所へつとめてから間もなく田舎の女学校を出て上京してきた、許嫁の嘉子だった。大宅は嘉子と同棲する前に、そうするのが義務であると信じて、すっかり光子との従来の関係を彼女に平気で自白してしまったのであった。その時嘉子の顔がさっと曇ったのを大宅は今でもよく記憶していた。
光子からはその後時々手紙がきた。二人は会った時はいつも淡白にわかれたが、手紙ではかなり濃厚な文字をつらねることもあった。まるで普通の男女間の交際の公式の反対なのだ。それで光子からその手紙がつく度に、嘉子の心が平らかでなかったことは、言うまでもなかった。嘉子は明かに二人の関係を誤解しているのだし、誰だって誤解するにきまったような関係でもあったのだ。
ことに、昨日の朝着いた光子からの手紙には、是非今日会って話したいことがあると書いてあったので、それがもとになって、彼が光子にまだ仕送りをつづけているのはあまりに嘉子をふみつけにしたしうちだと、嘉子が涙ぐんで食ってかかったのをきっかけに、今朝、役所へ出がけに二人は同棲後はじめてひどい喧嘩をしたのであった。三四郎の方では、光子に対して何等疚しい関係はないということ、男子が一たん約束をした以上は、何とか相手の身のふりかたがきまるまでは約束をやぶるわけにはゆかないことを意地になって言い張ったので、とうとう喧嘩別れになったままで彼は出ていったのであった。嘉子は嘉子で「これから妾が光子さんに会ってじかに話をきめてきます」と捨台詞をのこして三四郎にわかれたのだった。
ところが三四郎が役所から帰りに光子の家へ来て見ると、光子はもう屍体となってしまっていたのだ。
三
光子の屍体を見出した瞬間から、大宅三四郎の頭には、どうしても抹殺することのできない疑いが執拗に巣くった。彼はこの疑いに触れることを恐れて、わざと避けていたのであるが、避けようとすればする程、益々はっきりとした形を帯びてくるようにすら思われた。
彼は自分の家へ入るのを恐れた。──嘉子はもう帰っているだろうか? どうしているだろう。犯した罪の恐ろしさに泣きくずれているのじゃなかろうか? もう既に警官に発見されて引致されたのじゃなかろうか?──
まるではじめての家を訪れる時のように、彼はしばらく我が家の前に佇んで思案をこらしていた。家の中は森閑としていて別に変った様子もなかった。とうとう彼は思いきってくぐりを開けた。
玄関へ迎えに出た嘉子の態度にはひどく平常と変った点はなかった。ただいつもとちがっている点は、殆んど口かずをきかないこと位だった。しかし、それは今朝役所へ出かける時に傷つけられた感情の余勢と見る方が自然な位であった。
「まあどうしたんでしょう」大宅の脱いだズボンをたたんでいた嘉子は、突然吃驚して叫んだ。「おズボンに血がついててよ」
「えっ」と血相をかえて大宅は叫んだ。なる程ズボンの膝のところに、まだ生々しい血のりがついていた。あれだけ用心をして来たのに、家へ帰るが早いかこんな大手抜かりを発見されたことは、彼の心をひどく萎縮させた。彼はまごまごしてしまって、血のついたわけを説明する口実を見出すこともできなかった。
「どうしてそんなもんがついたのかなあ、とに角汚いからよく洗っといておくれよ……それからと、今日誰か訪ねて来なかったかい?」と彼はなるべく自然に話頭を転換しようとした。
「ええ別にどなたも……そうそう、そういえば夕方ちょっとお巡りさんが来ましたわ」
「何、巡査が?」
「ええ、ずいぶん人の悪いお巡りさんよ。わたしのことをいろいろ根掘り葉掘りきくんですもの」
「どんなことをきいたんだ?」
「………」
「なんてきいたの?」
「御主人とどういう関係ですかなんてね。妾返事に困っちゃったわ。だってまだ籍ははいっていないし、姓がちがうから妹だなんて言うわけにもいかないし、仕方がないから親戚のものだって言っといたわ」
「なんだ、戸籍しらべか? それっきりだったかい?」
「帰りがけににやにや笑っていたわ。きっともう知っているのよ」
「何を知ってるんだ?」
「………」
三四郎は思わずにじりよったが、不図勘ちがいで真面目になりすぎたことに気がついて、あとは笑いにごまかしてしまった。
それっきり二人はだまって食膳に向った。今朝の喧嘩のことも光子のことも二人とも一語も言わなかった。但し三四郎は嘉子の様子をそれとなく注視していた。彼には何もかもが意外だらけだった。恐るべき罪を犯した筈の嘉子のあの驚くべき落ちつきはどうだろう。ことによると嘉子は何も知らぬのじゃないかしら。いやそんなことは絶対にあり得ない。今朝の彼女の言葉、いま光子のことをわざと一言も言いださぬ点、つとめて落ちついた態度を装っているらしいこと、それ等の事実は、すべて彼女が犯人だという断定に帰着してゆくのであった。
──しかし、すんだことはしかたがない。なるべくこの事件は、このまま秘密に葬られてしまってくれればよいが、人を殺すというようなことは許すべからざる大罪だが、もとはみんな自分のためだ。自分を愛すればこそ、嘉子はあんな大胆なことをしたのだ。法網をくぐるのはよいことではないが、あの女が法のさばきを受けるとなると、自分は手を下さずして二人の女を殺したも同然になる。何とかしてこのままにそっとすましてしまいたいものだ──
四
三四郎はその晩一睡もできなかった。宵に目撃した惨劇、それにつながる様々な回想と、臆測とが、次から次へと彼の頭の中を交替して占領するのであった。神経は針のように尖って、ごとりと音がしても、警官がふみこんで来たのではないかと思ってひやりとした。
──嘉子が果して犯人だろうか? ──この疑いは特に彼を苦しめた。
──女というものは異常な場合には異常なことをし兼ねない性質をもっている。特に愛する男のためには、想像もできないような残忍性を発揮することがある──とりわけ──彼はバルザックの言葉を思い出した──女というものは、一度別の女のものであった男を愛する場合には、全力を賭して戦うものだそうである。しかも、彼女の場合がちょうどそれにあたるではないか?
──二人の女が──しかも多感な女が一人の男を奪いあう場合、彼女達は手段をえらばない。どんな残忍な、どんな陰険な手段でもとりかねない。色情のために犯された放火や殺人等の惨劇は枚挙に遑ない程ある。──考えれば考える程、恐ろしい疑いは益々具体的な形をとって来るのであった。
──元来、女は嫉妬という兇器をもっている。恋することの強い女ほど嫉妬も強い。「嫉妬せざる女は恋せざる女なり」というオーガスチンの言葉を逆にすれば、「恋する女は嫉妬する女なり」ということになる。ところで嘉子は自分を熱愛している。自分を熱愛していることは、光子に対する強烈な嫉妬の存在を証するわけだ──
嘉子も長く眠つかなかった。三四郎は嘉子の小さい頭の中で、良心が彼女をせめさいなんでいるさまを想像していじらしくなって来たが、それと同時に、あくまでも自分の犯行をつつんで、表面平気を装うているらしい彼女の大胆さがにくらしかった。
いずれにしても、光子の家で、へまな証拠をのこして来たことを彼はかえすがえすも後悔した。あれがもとで足がついて、嘉子の犯罪が発覚するようなことになったら大変だと彼は思った。もしもの場合には、証拠をのこしておいたのを幸いに、自分ですべての罪をきてやろうかとも考えた。しかし、そんなことをしたところで嘉子の身は矢張り破滅だ。彼女は、自分に罪をきせてだまっているような女ではない。矢っ張りこのまま何事もわからず、闇から闇に葬られてしまえばよいがなあ──
彼が妄想にふけっているうちに、いつのまにか眠っていたらしい嘉子の唇がその時突然動いた。
「許して下さい、光子さん。あーれ、光子さん──」
三四郎は飛び上るほどびっくりして、
「どうしたんだ、おい」
と次の文句を聞くのがおそろしさに、嘉子の肩の辺をつかまえて揺り起した。嘉子はびっくりして眼をさました。
「ああ怖かった。夢でしたのね。ああよかった。妾何か言って?」
「何かうなされていたよ」
「まあこわかったわ──でも不思議ね。ちょうど妾が考えていることを夢に見たのよ」
「どんな夢を見たんだ?」
「あなたが気を悪くするといけないから今は言えないわ。ああ恐ろしかった」
彼女はまだ恐ろしさにふるえていた。三四郎も恐ろしさにふるえた。恐怖にとらわれて二人は思わず顔を見あわせた。そして、相手の形相を見て更にふるえた。恐ろしき夜は刻々にふけて行った。二人は無言のまま夜のあけるのを待っていたが、二人とも明けがたになって、うとうととまどろんだ。
五
翌朝、先に床をはなれた嘉子は、玄関に投げこんであった××新聞の社会面を見たとき、もう少しで卒倒するところだった。
「昨夜牛込山吹町の惨劇」、「被害者は妙齢の美人、犯人の目星つく」という初号活字を交えた四段抜き三行の標題で次のようなことが記されてあった。
「昨夜十一時、牛込区山吹町××番地朝吹光子(二二)は何者かのために胸部を短刀で突き刺されて惨殺されておるのを発見された。所轄××署よりは、直ちに数名の警官出張し、警視庁はただちに管下に非常線を張りて犯人厳探中である。臨検の警官は既に有力な証拠品をつかんだらしく、深夜にも拘らず×××署を捜査本部としてある方面に活動を開始した模様であるから、本日中には犯人は逮捕される見込である」
「被害者の屍体を発見した隣家の老婆は語る──光子さんの家では十一時にもなるのに、玄関の戸も居間の襖も開けっぱなしになっているので、あんまり不用心だと思ってのぞいて見ますと、光子さんが布団を着てやすんでおられる様子でしたから、二度ばかり呼んで見ましたが返事がないので上って見るとあの始末なのです。妾は腰を抜かしてしまってしばらくは言葉も出ませんでした。」
「被害者の身許は不明であるが、近隣の人々の話を総合したところでは、本年四月まで浅草雷門前のカフェ大正軒に女給をしていたということである」
「記者は逸早く大正軒を訪い生前被害者を知っていたという女給百合子についてただすと、百合子は『まあ光子さんが人手にかかって?』とおどろきながら語った。『あの人は人にうらまれるようなかたじゃないのですけれど、こちらに勤めておられる時分から色々なお客様と関係があったようですわ。何でも学生の方が二人と、たしか木見さんとかいう請負師の方と、それから、大宅さんとかいってこの春からお役所へつとめておられる方とが、よく見えたように思います。そして噂によると、その請負師のかたと今の所に同棲しておられたということですわ」
「被害者の懐中より一通の封書と一通の電報とが発見された。封書の差出人は単にO生とあるのみであるが、被害前日の日附にて、『明日夕方帰りに寄ります』という文句が認められてあり、用箋には××省の用箋が使用してあった。大正軒女給の言った大宅某と同一人であろうと記者は察する。電報は、名古屋駅発信で、発信時刻は当日午前七時二分、受信八時二十分で電文は『キユウヨウアリチユウオウセンニテマツモトヘユキアスアサイイダマチツクキミ』となっている。電文の末尾にあるキミとは請負師の木見のことではなかろうか」
「屍体にはメリンスの掛布団をかけて一見眠っているように見せかけてあった。兇行の発見を長びかすための犯人の小細工らしい。現場は非常に取り乱され、箪笥、鏡台等の抽斗はのこらずひき出して中味はまぜっかえしてあったが、紛失物もない模様であるからこれ亦強盗の仕わざと見せかけるための犯人の詭計らしい」
「同夜、山吹町で履物専門の空巣ねらいが逮捕されたが、同人は、被害者宅にてキッドの赤靴を一足盗んだという奇怪な陳述をしているので取調中である」
新聞の記事は大体以上のようなものであった。嘉子は靴のところを読んだときに思わず、昨夜大宅が玄関に脱ぎすてたままになっていた靴に目をやった。それはまだ買いたての新しい靴であることが一目でわかった。
──靴──ズボンの血──××省の用箋──大宅──嘉子は咽喉がつまってものが言えなくなった。
「おい、新聞を貸して御覧」
いつのまにか、三四郎も起きて、嘉子のうしろにたっていた。嘉子は思わず新聞をかかえた。
「お見せというに、何か出てるんだろ」
嘉子の全身がわなわな慄えているので、大方の事情を察した三四郎は、つとめて冷静を装いながら追窮した。
「すみません、すみません……」
と言いながら、嘉子は新聞をそばにおいたままとうとうその場に泣き伏してしまった。
三四郎は非常に緊張して新聞の記事を読みおわった。彼は、自分に嫌疑がむいて来ることはもう覚悟していたのであったが、それでも新聞の記事を読むと胴慄いがとまらなかった。が新聞記者が嘉子に少しも嫌疑をかけていないのを発見してほっとした。やっぱり嘉子ではないのかなと思って彼は嘉子の方をちらりと見た。嘉子はまだ顔をふせたまますすりないていた。矢張り嘉子だ。「すみません」とたった今彼女が言った言葉の意味が、彼にははっきりとわかったような気がした。
二人は互に相手の言葉をおそれた。慰さめることも、責めることも、といただすことも敢てし得なかった。ただめいめい自分の胸の中で全てを諒解してだまっていた。
六
その朝私立探偵上野陽太郎は、マドロスパイプをくわえながら、矢来の通りの舗石道を大股に歩いていた。彼は必要のない時には何も考えないで出来るだけ頭を休めておくということをモットーとしていたので、今もそれを忠実に実行しているらしかった。
朝の新聞で光子殺害の記事を見て、彼は大急ぎで山吹町の兇行の現場へかけつけ、約二十分ほどの間、現場を精細に観察したり、見張りの警官に二三質問したりしてその場を引き上げ、これから今度の事件の捜査本部になっている×××警察署へ行くところなのだ。現場の視察からは彼は新聞紙に報道されている以外には、何等新しい証拠をつかめなかったらしく、ただ古新聞を一葉拾って来ただけだった。
「何かかわったことが見つかりましたかね?」
上野の名刺をもって出て来た×××署の佐々木警部に向って、彼は一寸パイプを口からはずしてたずねた。
「そうですな。」と佐々木警部は相手にも椅子をすすめながら、自分も椅子に腰を下して徐ろに言った。「例の手紙の差出人がやっとわかりましてね、これから検挙に向うところです」
「すると差出人は新聞に出ていたのとはちがうんですな?」
「そういうわけでもないのですが、何しろ相手が官吏ですからな、××省へ行って、本人が果して実在の人物か否かをしらべ、本人の自宅の番地などもききたださねばならず、筆蹟などもよくくらべて見て、愈々それにちがいないことをたしかめるには、新聞記者があてずっぽうに書きなぐるのとはひまがかかる点は認めていただきたいですな」
「でその大宅という男に嫌疑がかかっているわけですな?」
「まあそうです。」
「ほかに何か新しい材料は?」
「別に……そうそう、今朝被害者宛に電報が来ましてね。発信人は矢張りキミという男で、甲府の駅から打っているのです。今朝の四時二十分の発信で、配達されたのは六時半頃だったそうです。文面はたしか『一○ジ二一フンイイダマチツクエキマデムカイタノムキミ』となっているんです。かわいそうにその男は情婦が殺されたのも知らずに帰って来てさぞ吃驚することでしょう。しかし、この男をといただして見れば、被害者の身許や、大宅との関係などももっと詳しくわかるかも知れませんから、証人として直ぐに引致する手筈になっています。それに今のところ屍体の引取人もありませんから」
上野探偵はポケットから時計をとり出して見ながら言った。
「十時二十一分に飯田町へつくんですね。で木見という男の人相はわかっているんですかい?」
「そりゃ大正軒の女給の話でわかっていますが、念のためにその女給に駅まで行って貰うことになっています」
「そりゃよかった……ではもうすぐ十時ですから、私もちょっと駅まで行って見ますかな、ここから歩いて行ってもまだ間にあいますね。ああそうそう。忘れていたが、手紙と電報とは矢張り被害者の懐中にあったのですな?」
「懐中と新聞にあるのは間違いで、袂の中にあったのです」と佐々木は新聞の報道の杜撰を証明するのはこの時だとばかり少しそり身になって言った。
「手紙の封筒に血で指紋がのこっていたというのはほんとうですか。今見張りの警官にきいてきましたが? しかも指紋は被害者の指紋ではなかったということですな?」
「そのとおりです」
「被害者の家の状差しは空っぽでしたが、あの中には屍体が発見された時から手紙類は一つもはいっていなかったのですか?」
「そうです」
上野はポケットから一葉の古新聞をとり出して警部に渡した。
「現場でこれを拾って来たのですがね、何かの参考になるかも知れませんからお渡ししときましょう」
佐々木警部は小さく折って折り目の大分すれている××新聞を、大急ぎでひろげてずっと標題に眼をとおしながら言った。
「昨日の新聞ですね、これは、何か変ったことでもでているのですか?」
「六面をよくごらんなさい。」
「ほほう、これは静岡版ですな。ここに何か出ているのですか?」
佐々木の視線はいそがしく活字の上を走った。
「何も出てはいないのですが、犯人が昨日静岡県からか、若しくは静岡県下の駅を通過して東京へ来たものだということがこれでわかるじゃありませんか? 東京ではこの版は売っていませんからね。ところで、私は時間がありませんから、ちょっとこれから駅へ行って見ます」
こう言いながら上野探偵は麦藁帽子を被って、急いでおもてへ出た。
七
上野は駅へつくと先ず売店で旅行案内を一冊買った。
待合室には二人の知りあいの刑事が、一人の若い女と笑いながら何か話していたが、上野の姿を見ると、「あっ上野先生だ」と言いながら起ちあがってお叩頭をした。
「貴女が百合子さんですね?」探偵は女の方へむきなおって言った。「はあ」と女は低声で答えた。
「今汽車がつきますから、貴女は相手に見られないように僕のうしろにかくれていて木見という人間を私に教えて下さい。それから、あの男は山吹町の被害者の家へまっすぐに行くにきまっているから、君達も仰々しくここであの男を引致するようなことはしないがいいぜ」と上野は二人の刑事に向って言った。
そのうちに汽車が到着した。駅の構内は急にざわざわした。二人の刑事と上野とは改札口の近くに並んで立っていた。百合子は上野のうしろに身をかくして、二人の男の肩の間から眼だけ出して、改札口から出て来る人々を熱心に見張っていた。
「あれですよ。あの赧ら顔の肥った男です」と言いながら、彼女は上野の背を指でつついた。
四人の眼は同時に百合子が今説明した人物にそそがれた。
彼は、赤帽からトランクを受けとるや否や、急いで車をやとった。『山吹町』という声を四人ははっきりときいた。
「君たちはこれからタキシイであの男をつけて行きたまえ。そして向うでよく様子を見た上で、突然逮捕するんだ。早すぎてもおそすぎてもいけないよ。十分位様子を見ていたまえ、僕が署長には伝えておくからその点は心配ないよ。だが抵抗するかも知れんから、用心して四人位でかかるがいいよ。百合子さんはどうも御苦労でした。さあこれから私たちは本部へ帰りましょう」
飯田町駅から二台のタキシーが飛んだ。一台は山吹町へ、一台は×××署の方向へ。上野はタキシーの中で、非常に敏捷に旅行案内のページをめくって、しきりに手帳に数字を写し取っていた。
自動車が署の前でとまると、上野は急いでとびおりて佐々木警部の室へかけこんだ。
「大宅はもうつれて来ましたか?」
「もう帰って来る時分です」と佐々木は柱時計を見ながら答えた。上野はいそいで言葉をつづけた。
「木見という男は山吹町へ行きましたから、貴方の部下の刑事たちに様子を見せにやりました。大成功ですよ。もう三十分のうちに犯人は逮捕されます」
「いや、もう既に逮捕されてしまっているのです、ほら帰って来ました」
一台の自動車が×××署の構内へ徐行してはいって来た。中からは私服刑事が四五人もぞろぞろ出て来た。一番あとから、真蒼な顔をしておりて来たのは大宅三四郎であった。
大宅はすぐに一先ず留置所へ入れられた。「よく逃げようともしないでまごまごしていたね」と佐々木警部は一同を見まわしながら上機嫌で言った。
「ちょうど役所へ出るところだって言ってました」と一人の私服が汗を拭き拭きまるで自分の手柄のように言った。
「れこに泣かれたのは弱ったなあ」と第二の私服が小指を出しながら、第三の私服に向って内密で言った。「かわいそうに、ことによるとあの女も一生後家さんで暮さにゃならんぜ」
「あの男には細君があるのかね?」と二人の会話を耳さとくききつけた上野探偵は、突然第二の私服にたずねた。
「細君かどうかは知りませんが、きれいなのがいました。別れるときに泣いて困りました」
「ふん」と言いながら上野は手帳の紙を一枚引きさいて、鉛筆を出して何か書きつけていたが、やがて、給仕をよんで、「君すまないが電報を一つうって来てくれ給え。至急報でね」と言いながら件の紙片を渡した。それから佐々木警部に向って、「今の男の住所をちょっとこの子供に教えてあげて下さい、たしか田端でしたね」と言った。佐々木はその通りにした。
上野探偵が給仕に渡した紙片には「オオヤクンハムザイ、キヨウジユウニホウメンサルアンシンセヨ」と書いてあった。
「さて」と上野探偵は佐々木警部に向って言った。「もう僕の出る幕はすんだからお暇しますかな。しかしちょっと申し上げておきたいことがありますから、どうか別室でお話ししたいと思いますが」
二人はつれだって中へはいった。
「ほかでもないが」と上野探偵は座につくが早いか言った。「大宅君はなるべく早く家へ帰してあげて下さい。若い細君が心配しとるようですから、どんな間違いが起らんとも限りませんからな」
佐々木は当惑そうに答えた。
「そりゃ嫌疑が晴れれば帰しますが、今のところではあの男が……」
「いや嫌疑はすぐ晴れますよ。今にほんとの犯人がここへやって来て何もかも白状しますからね」と上野は佐々木の言葉を中途で遮って言った。
「大宅以外の犯人というのは誰のことです」と佐々木は少し気色ばんで反問した。
「先刻も申し上げたように昨日静岡をとおって帰った男ですよ。いいですか。犯人は昨日の朝七時二分に被害者に宛てて名古屋から電報を打って、急用ができたから中央線で松本へ廻って翌日東京へ帰ると言ってよこしたのですよ。中央線へ廻って松本へ寄ったりしておれば、昨日中に東京へ帰ることはできませんから無理もないですね。ところが警察医の検証によると被害者が兇行を受けたのは昨日のまだ明るいうちだということでしょう。一寸見ると犯人のために立派にアリバイが成立しているですね。ところが、その実彼は、電報をうったあとで七時二十分名古屋発の汽車にのって東海道線で真っ直に東京へ帰ったのです。静岡か沼津かあの辺で新聞を買ってね。その汽車が東京へつくのは四時五十五分です。すればそれからすぐ電車で行けば明るいうちに山吹町まで十分行けるじゃありませんか。きっとあの男は東京駅から中央線に乗りかえて牛込駅まで行って駅にトランクを預けておいて、それから江戸川橋まで市内電車で来たにちがいありません。兇行は無論前から計画してあったので、それからすぐに予定どおりに行われたのでしょう。兇行をおえると犯人は、現場に証拠をのこさないようにと用心して状差しにさしてあった手紙類をすっかり火鉢の中で焼きすてたのです。そしてただ、自分が名古屋からうった電報と大宅が当日被害者の家へ来るといって寄越した手紙とだけを取りのけて、それを被害者の袂の中へ入れておいたのです。勿論、電報の方はその男の現場不在証明になるし、手紙の方は大宅の方へ嫌疑がむくようになるからです。これは犯人の指紋をしらべて見ればすぐわかります。火鉢の中には実際手紙を焼いたあとがありましたよ。私は先刻よく見てきました。それだけ用心しておきながら犯人の大手抜かりは、手紙の上書に血の指紋を残したこと、静岡で買った新聞を不注意にも現場にのこしておいたことです」
「しかし」佐々木警部はまだ上野の説に不服そうに口をはさんだ。「貴方の仰言る犯人というのが木見のことであるなら、あの男は現に松本へ行ったじゃありませんか?」
「どうしてそれがわかりますかね?」
「どうしてって、今朝甲府から電報をうっているし、現に今飯田町駅へ着いた筈じゃありませんか?」
「なる程、甲府から電報をうったことはたしかです」と上野探偵は平然として答えた。「先刻飯田町へ着いたことも現在私が見てきたのですから、これ程たしかなことはありません。だが、それだけでは、あの男が松本へ行ったという証拠にも、名古屋から中央線に乗ったという証拠にもならんじゃありませんか。あの男は、兇行をすましたあとで被害者の家を抜け出し、それから牛込駅へトランクをとりにひき返したのですよ。尤もその間にどっかへ寄ったのかも知れませんがそれはどうでもよい問題です。まあ御覧なさい」と彼はポケットから旅行案内をとりだしてその中の或る頁を指さしながらつづけた。「飯田町を十時に発車する長野行の汽車があります。あの男は牛込駅でトランクを受取って飯田町まで後戻りしてこの汽車に乗ったのです。この汽車は今朝の二時五十八分に甲府へ着くのです。あの男は甲府で下車してしばらくしてから光子のところへ電報をうったのです。甲府からうった電報の発信時刻は今朝の四時二十分になっておるでしょう。あんな時刻に甲府の駅から電報をうつなんてそれ以外に説明がつかんじゃありませんか。それから駅でしばらく待っていて、五時二十分発の飯田町行の汽車であの男は東京へひきかえして来たのです。その汽車がちょうどさっきあの男が乗って帰った汽車なのです。あの汽車は甲府から出る汽車で松本とは連絡しとりませんよ。要するに、こんなことをしてあの男は現場に不在であったことを二重に証明しようとしたのですが、甲府発の四二四号列車に乗ったのは不注意でしたよ。旅行案内を見ればすぐに化の皮があらわれますからね」
「ふむ」と佐々木警部は茫然として言った。
「その証拠には」上野探偵は言葉をつづけた。「あの男は、わざわざ夜中に電報を打ってまで被害者にむかえに来てくれと言ってよこしておきながら、駅へ着いた時、あたりをふりむきもせず、待合室を探しもしないでまっすぐに俥をよんで乗りましたよ。誰も迎えに来ておらぬことをちゃんと知っていたのです。名古屋から打った電報も甲府から打った電報も二通とも貴方がたを瞞着するためにうったものですよ」
「しかし、何故あの男が光子を殺したのでしょう?」
「それは調べて見ねばわかりませんね。しかしことによると、被害者があの男の現在の秘密か旧悪かを知っているので、どうしても生かしておくわけにゆかない破目になっていたのかも知れませんよ。あの男はこの事件以外にも思いもよらん泥を吐くかも知れんと私は思いますね。いずれにしても犯罪が非常に計画的ですから、色情関係じゃなかろうと思います」
佐々木警部が、上野探偵の明鏡の如き推理にすっかり説服されてしまって、彼を×××署の入口まで送り出して来たのはそれからまもなくであった。上野探偵が×××署の門を出るとき、すれ違いに木見を乗せた自動車が同署の構内にはいったが、彼はもうそんなものには興味がないといった風に見向きもしないで、マドロスパイプをくわえたまま、いつもの無念無想の歩みをつづけて行った。
× × × ×
上野探偵からの知らせで、×××署の前まで三四郎の釈放されるのを迎えに来ていた嘉子が、署の構内から出て来る未来の夫の姿を見出したのはその日の夕方近くだった。二人は感慨無量でしばらく無言のまま顔を見合わしていたが、やがて女の方が口をきった。
「わたし、貴方だとばっかり思ったものですから、心配で心配で……」
「僕はまた嘉ちゃんだとばかり思って心配していたんだ。ほんとに嘉ちゃんじゃなかったのだね?」
二人は光子の屍体を引きとることを即座に可決し、その足で光子の霊前にそなえるべく花を買いに行ったのであった。
底本:「殺意を運ぶ列車 鉄道ミステリー傑作選」光文社
1994(平成6)年12月20日初版1刷発行
1999(平成11)年1月10日7刷発行
初出:「新青年」
1927(昭和2)年1月号
入力:田中亨吾
校正:土屋隆
2001年12月31日公開
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