文藝運動と勞働運動
平林初之輔



       一


 明治以來の文藝運動は流派と流派との爭いであつた。それは單に個々人の性質や、趣味や、學閥や、交友關係によつて集る群と群との爭いであつた。論爭點は主として描寫の樣式、文體、せいぜいのところで藝術價値の見方、人生觀の相違にとどまつた。

 最近に起らんとしている階級藝術の運動は、少くもその本質に於ては階級鬪爭の一現象、階級鬪爭の局部戰、階級戰線の一部面に於ける鬪爭でなければならぬ。從つてこれは單なる文學運動、紙上の運動としては解決の見込みがない。階級戰の主力なるブルジョアとプロレタリヤの決勝によりてのみ解決されるものである。

 かくの如くプロレタリヤ文藝運動の意味を極限することは、文學者にとりては不滿であるかも知れない。文藝に一生を捧げている人達にとつては文藝運動は一切であり、絶對であつて、階級鬪爭の一小部分の戰線を分擔するというだけに止まらぬという人があるかも知れない。然しながらそういう人々は階級藝術の意義を遂に理會し得ず、調子に浮かされて吾知らずその運動の中へ飛びこんでいる周章者あわてものに他ならぬのだ。そういう人々は今の内に、けちくさい、あまり見榮えもしない階級戰の隅つこの方に陣どる代りに、「階級」というような窮屈な鎖はかなぐりすてて、藝術そのものの晴れの舞臺へ出づべきだ。

 如何なる運動にも不純分子が集る如く、階級藝術の運動にも不純分子が寄つてたかつてそれを利用し、くいものにしようとする。階級文藝の旗じるしの下にかくれてこそ泥をはたらこうとする者がある。かくてはじめの中は階級藝術の問題は無名作家と流行作家との爭いのように見られていた。實際、社會主義運動の中に、働くことのきらいなごろつき食いたおしやがまじりこむと同じように、階級藝術運動の中にも、文藝のいろはもわきまえない連中が、糞眞面目な月給取商賣はいやだからというのであわよくば流行作家になりすまそうというどえらい野心を抱いて飛びこんだもののあつたことは事實である。プロレタリヤの運動としての文藝運動はまずこういう人々の蟲のよい野心に對して答うるところがなければならぬ。プロレタリヤの文藝運動は流行作家の惡口をいう運動でもなければ、新進無名作家を引きたてたり擁護したりする運動でもない。無名と有名、流行と非流行とは問うところでない。それは階級戰である。ブルジョアに對するプロレタリヤの對抗運動である。

 次にプロレタリヤの文藝運動は文藝運動であるよりも先ずプロレタリヤの運動であることを念頭におかねばならぬ。だからその綱領は文藝上の綱領ではなくて、プロレタリヤそのものの綱領でなければならぬ。プロレタリヤの解放──それがプロレタリヤ文藝運動の唯一の綱領である。それ以外のものを求めるのもまたプロレタリヤ文藝運動の陣營を去つて「階級」の「上」に赴くべきだ。文藝の爭いの奧に階級の爭いを認むるもののみ、影法師のうしろに實體を、枝葉の下に根幹を認むるもののみが階級藝術運動の戰士となり得るのである。

 階級鬪爭の決勝戰はただ本隊の衝突によりてのみ決せられる。文藝運動はこのプロレタリヤ大衆の運動と協調聯絡を有しなければ全然無效である。大衆と離れた運動はただ徒勞であるか或は邪魔になるだけのものである。自ら階級文藝運動の戰士を以て任ずる人々にして往々これを理會しない爲めに大衆に對する運動を個人同志のこぜりあいと勘ちがいしているものがある。論敵や流行作家を緘口かんこうせしめることが何等かの絶對的意義を有しているかのように彼等は思いこんでいる。併しながら、局部の些々さゝたる勝利から全線の勝敗が逆睹ぎやくとされないと同じく、そんなことはいうに足りない。文藝家がすべてプロレタリヤの軍門に降るとしても、依然としてプロレタリヤの文藝運動は繼續される、一層の熱心をもつて、大衆がブルジョア觀念から解放されるまで。ブルジョア階級がたおれるまで。

 要するにプロレタリヤの文藝運動はそれ自身に絶對意義を有するものではない。プロレタリヤの政治運動や勞働運動との提携によりてのみ意味があるのである。そんな相對的意義しかない運動では張り合いがないと思う人は、絶對運動に携るがよい。そして神でも射とめるがいい。太陽でも吹き落すがいい。

 プロレタリヤの文藝運動は單なる觀念と觀念との戰いではない。その背後に利害と利害が睨みあい、權力と權力とが對峙たいじしている。だからその運動は觀念の一起一伏でけりがつくものではない。それは長期にわたる、あまり華々しくない、しかも困難に滿ちた運動である。萬人歡呼のうちに決勝戰に入るマラソン競走ではなくて、雪と險路と窮乏と寒氣とのシベリヤ旅行のようなものである。そしてマラソン競走のように勝つても褒美が貰えるわけではなく、途中で行き倒れるかも知れない運動である。その報酬はただ無産階級の解放があるのみだ。この困難に辟易へきえきし、この忍耐に怖じけづく人々は、プロレタリヤ文藝運動の行列を去つて、紅白の幔幕まんまくでめぐらした運動會場に赴くがいい。そこにはすぐに喝采してくれる群集がいる。おまけに子女もいる。

 プロレタリヤ文藝運動は氣質や趣味で決せられるものではない。いわんや一時の醉興で、これにまじらるべきものではない。前途は險難だ。光明の此方に闇黒といばらと鐵條網がある。しかもあまり榮えない運動だ。決勝力をもたない、一種の補助運動、牽制運動と言つてもいい位だ。この運動にたずさわる人はあまりに自己の役割を過大視してはならない。

 しかし大衆運動の一成員、壓迫されたものの運動の一員として、たとい隅つこの一部分でも、或は前衞隊の一員でもを分擔することは光輝あることではないか。特に後者たり得るならばこれ以上生き甲斐のある仕事はまたとないではないか。  

(大正十一年六月)

底本:「日本現代文學全集69 プロレタリア文學集」講談社

   1969(昭和44)年119日初版発行

入力:田中亨吾

校正:大野裕

2000年1110日公開

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