死のなかの風景
原民喜



 妻が息をひきとったとき、彼は時計を見て時刻をたしかめた。

 妻の母は、念仏を唱えながら、隣室から、小さな仏壇をかかえて来ると、妻の枕許まくらもとの床の間にそっと置いた。すると、何か風のようなものが彼の背後で揺れた。と、彼ははじめて悲しみがこみあげて来た。彼はこれまでに、父や母の死に遭遇していたので、人間の死がどのように取扱われるかは既によく知っていた。仏壇を見たとき、それがどっと彼の心にあふれた。それよりほかに扱われようはない死がそこにあった。苦しみの去った妻はなされるがままに床のなかによこたわっているのだ。その細い手はまだ冷えきってはいなかったが、はじめて彼はこの世に置き去りにされている自分に気づいた。今は彼もなされるがままに生きている気持だった。

「僕はぼうとしてしまっているから、よろしく頼みます」

 葬いのことや焼場のことで手続に出掛けて行ってくれる義弟を顧みて、彼はそう云った。昨夜からの疲労と興奮が彼の意識をおぼろにしていた。妻のいる部屋では、今朝ほど臨終にかけつけたのに意識のあるうちには間にあわなかった神戸の義姉がいた。彼はひとり隣室に入って、煙草を吸った。障子一重隔てて、台所では義母が昼餉ひるげ仕度したくをしていた。(そうだったのか、これからもやはり食事が毎日ここで行われるのか)と彼はぼんやりそんなことを考えていた。……心のなかで何かが音もなくしきりにくずちるようだった。ふと机の上にある四五冊の書籍が彼の眼にとまった。それはみな仏教の書物だった。その年の夏に文化映画社に入社して以来、機械や技術の本ばかり読まされていた彼は、ふと仏教の世界が探求してみたくなった。それは今現に無慙むざんな戦争がこの地上を息苦しくしている時に、かつての人類はどのような諦感ていかんで生きつづけたのか、そのことが知りたかったからだ。だが、病妻のそばで読んだ書物からは知識の外形ばかりが堆積たいせきされていたのだろう。それが今、音もなく崩れ墜ちてゆくようだった。彼はぼんやりと畳の上にうずくまっていた。

 それは樹木がさかさまに突立ち、石が割れて叫びだすというような風景ではなかった。いつのまにか日が暮れて灯のついた六畳には、人々が集って親しそうに話しあっていた。……東京からやって来た映画会社の友人は、彼のすぐ横に坐っていた。ことさら悔みを云ってくれるのではなかったが、彼にはその友人が側に居てくれるというだけで気がしずめられた。床の間に置かれた小さな仏壇のまわりには、いつのまにか花が飾られて、蝋燭ろうそくの灯が揺れていた。開放たれた縁側から見ると、小さな防空壕ぼうくうごうのある二坪の庭は真暗なかたまりとなって蹲っていた。そのやみのなかには、悲しい季節の符号がある。彼が七年前に母と死別れたのも、この季節だった。三日前に、「きょうはお母さんの命日ね」と妻は病床で何気なくつぶやいていたのだが。……母をうしなった時も、暗い影はぞくぞくと彼のなかに流れ込んで来た。だが、それは息子むすことしてまだ悲しみに甘えることも出来たのだ。だが今度は、彼はこれからさきのことを思うと、ただ茫として遠いところに慟哭どうこくをきいているような気がした。

 妻の寝床は部屋の片隅かたすみに移されて、顔は白い布でおおわれていた。そこの部屋のその位置が、前から一番よく妻の寝床の敷かれた場所だった。彼女は今も何ごともなく静かにねむりつづけているようだった。だが、四年前にこしらえたまま、まだ一度も手をとおさなかった訪問着が夜具の上にそっと置かれていた。電灯の明りに照らされてその緑色の裾模様すそもようえてうずくようだった。ふと外の闇から明りを求めて飛込んで来た大きな螳螂かまきりが、部屋の中を飛び廻って、その着物の裾のところに来てとまった。やはり死者の気配はこの部屋に満ちているのだった。読経どきょうがおわって、近所の人たちが去ると、部屋はしーんと冴え静まっていた。彼は妻の枕許に近より、顔の白布をめくってみた。あれから何時間たったのだろう。顔にしるされている死の表情は、苦悶くもんのはての静けさに戻っている。(いつかもう一度、このことについてお互に語りあえないのだろうか)だが、妻の顔は何ごともこたえなかった。義母が持って来たアルコールを脱脂綿に浸して、彼は妻の体をいて行った。義母はまだ看護のつづきのように、しみじみと死体に指を触れていた。それは彼にとって知りすぎている体だった。だが硬直した皮膚や筋肉に今はじめて見る陰翳いんえいがあった。

 その夜も明けて、次の朝がやって来た。棺に入れる花を買いに彼は友人と一緒に千葉の街へ出かけて行った。家を出てから、ずっと黙っていた友は、国道のアスファルトのみちへ出ると、

「元気を出すんだな、くじけてはいかんよ」

 と呟いた。

「うん、しかし……」と彼は応えた。しかし、と云ったまま、それからさきは言葉にはならなかった。わびしい単調な田舎街いなかまちながめが眼の前にあった。(これからさき、これからさきは、悲しいことばかりがつづくだろう)ふと、そういう念想が眼の前を横切った。……寝棺に納められた妻の白い衣に、彼は薄荷はっかの液体をふりかけておいた。顔のまわりに、髪の上に、胸の上に合掌した手のまわりに、花は少しずつ置かれて行った。彼はよく死者の幻想風な作品をこれまでも書いていたのだが、だが今眼の前で行われていることは幻ではなかった。郷里から妻の兄がその日の夕刻家に到着していた。そうした眼の前の一つ一つの出来事が、いつかまた妻と話しあえそうな気が、ぼんやりと彼のなかに宿りはじめた。

 霊柩車が市営火葬場の入口で停ると、彼は植込みのみちを歩いて行った。花をつけた百日紅さるすべりやカンナの紅が、てらてらした緑のなかに燃えていた。その街に久しく住みれていたのだが、彼はこんな場所に火葬場があるのを今日まで知らなかったのだ。妻も恐らくここは知らなかったにちがいない。ひつぎかまどの方へあずけられて、彼は皆と一緒に小さな控室で時間を待っていた。何気なく雑談をかわしながら待っている間、彼はあの柩の真上にあたる青空が描かれた。妻の肉体は今最後の解体を遂げているのだろう。(わたしが、さきにあの世に行ったら、あなたも救ってあげる)いつだったか、そんなことを云った彼女の顔つきがおもいだされた。それは冗談らしかったが、ひどく真顔のようでもあった。……しばらく待っているうちに火葬はすっかり終っていた。竈のところへ行ってみると焦げた木片や藁灰わらばいが白い骨と入混っていた。義母はしげしげとそれを眺めながら骨をり分けた。彼もぼんやり側にかがんで拾いとっていたが、骨壺こつつぼはすぐに一杯になってしまった。風呂敷に包んだ骨壺を抱えて、彼は植込の径を歩いて行った。するとにわかに頭上の葉がざわざわ揺れて、さきほどまで静まっていた空気のなかにどす黒いかげりが差すと、の光が苛立いらだって見えた。それはまた天気の崩れはじめるきざしだった。こういう気圧や陽の光はいつも病妻の感じやすい皮膚や彼の弱い神経を苦しめていたものだ。(地上には風も光ももとのまま)そう呟くと、急に地上の眺めが彼には追憶のように不思議におもえた。

 持って戻った骨壺は床の間の仏壇のわきに置かれた。さきほどまで床の間にはまだ明るい光線が流れていたのだが、いつの間にかそのあたりも仄暗ほのぐらくなっていた。外では雨が降りしきっていた。湿気の多い、悲しげな空気は縁側からい上って畳の上に流れた。時折、風をともなって、雨はザアッと防空壕ぼうくうごうの上の木の葉を揺すった。庭は真暗にれて号泣しているようなのだ。こうした時刻は、しかし彼には前にもどこかで経験したことがあるようにおもえた。郷里から次兄とあによめがやって来たので、狭い家のうちは人の気配でにぎわっていた。その家の外側を雨は狂ったように降りしきっていた。

 二日つづいた雨があがると、郷里の客はそれぞれ帰って行った。義姉だけはまだ逗留とうりゅうしていたが、家のうちは急に静かになった。床の間の骨壺のまわりには菊の花がひっそりとにおっている。彼は近いうちに、あの骨壺を持って、汽車に乗り郷里の広島まで行ってくるつもりだった。が、ともかく今はしばらく心を落着けたかった。久し振りに机の前に坐って、書物をひらいてみた。茫然ぼうぜんとした頭に、まだ他人の書いた文章を理解する力が残っているかどうか、それをためしてみるつもりだった。眼の前にひろげているのは、アナトール・フランスの短篇集だった。読んで意味のわからないはずはなかった。だが意味は読むかたわらに消えて行って、それは心のなかに這入はいって来なかった。今、彼は自分の世界がおそろしく空洞くうどうになっているのに気づいた。

 久し振りに彼は電車に乗って、東京へ出掛けて行くと、家を出た時から、彼をとりまく世界はぼんやりと魔の影につつまれて回転していた。それは妻を喪う前から、彼の外をとりまいて続いている暗いもの悲しい、破滅の予感にちがいなかった。今も電車のなかには、どす黒い服装の人々で一杯だった。ホームの人混みのなかには、遺骨の白い包みをもった人がチラついていた。久し振りに映画会社に行くと、彼は演出課のルームの片隅にぼんやり腰を下ろした。間もなく、試写が始って、彼も人々について試写室の方へ入った。と、魔の影はフィルムのなかに溶け込んで、彼の眼の前を流れて行った。大陸の暗い炭坑のなかでひしめいている人の顔や、熱帯のまぶしい白い雲が、騒然と音響をともないながら挽歌ばんかのように流れて行った。映画会社の階段を降りて、道路の方へ出ると、一瞬、彼のまわりは、しーんと静まっていた。秋の青空が街の上につづいていた。ふと、その青空から現れて来たように、向うの鋪道ほどうに友人が立っていた。先日、彼の家にけつけてくれた、その友人は、一べつで彼のなかのすべてを見てとったようだった。そして、彼もその友人に見てとられている自分が、まるで精魂の尽きた影のように思えた。

「おい、なんだ、しっかりし給え」

「駄目なんだ」と彼は力なく笑った。だが、笑うと今まで彼のなかに張りつめていたものがかすかにほぐされた。だが、ほぐされたものはたちまち彼からすべり墜ちていた。彼はふらふらの気分で、しかしまっすぐ歩ける自分をいぶかりながら鋪道を歩いていた。友人と別れた後の鋪道にはまたぼんやりと魔の影がただよっていた。

 週に一度の出勤なのに、東京から戻って来ると、翌日はがっかりしたように部屋に蹲っていた。妻が生きていた日まで、この家はともかく、外の魔の姿からはさえぎられていた。妻のいなくなった今も、まだ外の世界がいきなりここへ侵入して来たのではなかった。だが、どこからか忍びよってくる魔の影は日毎ひごとに濃くなって行くようだった。彼は、ある画集で見た「死の勝利」という壁画の印象が忘れられなかった。オルカーニアの作と伝えられる一つの絵は、死者の群のまんなかに大きな魔ものが、どっしりと坐っていた。それからもう一つの絵は、画面のあちこちに黒い翼をした怪物が飛び廻っていた。その写真版からは、人間の頭脳を横切る魔ものの影がぞくぞくと伝わってくるようなのだった。人間の想像力で描き得る破滅の図というものは、いくぶん図案的なものかもしれない。やがて来る破滅の日の図案も、もう何処どこかの空間に静かに潜められているのだろうか。

 しばらく滞在していた義姉が神戸の家に帰ることになった。義姉の家には挺身隊ていしんたいの無理から肺を犯されて寝ている娘がいた。そのめいのために彼は妻のかたみの着物を譲ることにした。箪笥たんすから取出した衣裳いしょうを義母と義姉はつぎつぎと畳の上にくりひろげて眺めた。妻はもっている着物を大切にして、ごく少ししか普段着ていなかったので、ほとんどがまだ新しかった。義母は愛着のこもった手つきで、見憶みおぼえのある着物の裾をひるがえして眺めている。彼には妻の母親が悲歎ひたんのなかにも静かな諦感をもって、娘の死を素直に受けとめている姿がうらやましかった。ある日こういうことになる日が訪れて来たのか、と彼は着物のにぎやかな色彩を眺めながら、ぼんやり考えた。

 広島までの切符が手に入ったので、彼は骨壺を持って郷里の兄の家に行くことにした。夕方家を出て電車に乗ると、電車はぎっしり満員だった。夜の混濁した空気のなかで、彼は風呂敷に包んだ骨壺と旅行カバンを両脇にかかえて、人の列にはさまれていた。無事にこの骨壺を持って行けるだろうか、押しあうカーキ色の群衆のなかで彼はひどく不安だった。駅のホームに来てみると列車は満員で、座席はとれなかった。網棚あみだなの片隅に置いた骨壺が、絶えず彼の意識から離れなかった。荒涼とした夜汽車の旅だったが、混濁と疲労の底から、何か一すじ清冽せいれつなものが働きかけてくるような気持もした。

 その清冽なものは、彼がそれから二日後、骨壺を抱えて郷里の墓地の前に立ったときも、附纏つきまとってくるようだった。納骨のために墓の石も取除かれたが、彼の持っている骨壺は大きすぎて、その墓の奥に納まらなかった。骨は改めて、別の小さな壺に移されることになった。改めて彼は再び妻の骨をはしりわけた。火葬場で見た時とちがって、今は明るい光線の下に細々とした骨が眼にみるようだった。壺に納まった骨は静かに墓の底に据えられ、余りの骨は穴のなかにばらかれた。この時、彼の後に立っている僧がゆるやかな優しい声で読経をあげた。それは誰かを静かにゆさぶり、慰め、あやしているような調子だった。彼は眼をあげて、高いところを見ようとした。眼の少し前には、ひょろひょろの樹木が一本、その後には寺の外にある二階建の屋根が、それらはすべてありふれた手ごたえのない眺めだった。が、陽の光ばかりははるかに清冽なものをたたえていた。

 埋葬につらなった人々は、それから兄の家に引かえして座敷に集った。「波状攻撃……」と誰かが沖繩の空襲のことを話していた。その酒席に暫く坐っているうちに、彼はふと居耐いたたまらなくなった。何かわからないが怒りに似たものが身に突立ってきた。彼はひとり二階に引籠ひきこもってしまった。葬儀の翌日から雨が降りだした。彼は二階の雨戸を一枚あけたまま薄暗い部屋で、昼間から寝床の上でうつうつと考えふけった。その部屋は彼が中学生の頃の勉強部屋だったし、彼が結婚式をあげてはじめて妻を迎えたのも、その部屋だった。ほのぼのとした生の感覚や、少年の日の夢想が、まだその部屋には残っているような心地ここちもした。だが彼は悶絶もんぜつするばかりに身をこわばらせて考えつづけた。彼にとって、一つの生涯は既に終ったといってよかった。妻の臨終を見た彼には自分の臨終も同時に見とどけたようなものだった。たとえこれからさき、長生したとしても、地上の時間がいくばくのことがあろう。生きて来たということは、恨にすぎなかったのか、生きて行くということも悔恨の繰返しなのだろうか。彼は妻の骨を空間に描いてみた。彼の死後の骨とても恐らくはあの骨と似かよっているだろう。そうして、あの暗がりのなかに、いずれは彼の骨も収まるにちがいない。そう思うと、微かに、やすらかな気持になれるのだった。だが、たとえ彼の骨が同じ墓地に埋められるとしても、人間の形では、もはや妻とめぐりあうことはないであろう。

 三日ばかり部屋に閉籠って憂悶を凝視していると、眼は酸性の悲しみで満たされていた。雨があがると、彼は家を出て郷里の街をぶらぶら歩いてみた。足はひとりでに、墓地の方へ向った。彼は墓の前に暫くたたずんでいたが、寺を出ると、橋を渡って川添の公園の方へ向った。秋晴れの微風が彼の心を軽くするようだった。何もかも洗い清められた空気のなかに溶け込んでゆくようで天空のかなたにひらひらと舞いのぼる転身の幻を描きつづけた。

 一週間目に彼は妻の位牌いはいを持って、千葉の家に戻って来た。つくづくと戻って来たという感じがした。家に妻のいないことは分っていても、彼にはやはり住み馴れた場所だった。彼は書斎に坐ると、今度の旅のことをこまごまと亡妻に話しかけるような気分に浸れるのだった。だが、ある日、映画会社の帰りを友人と一緒に銀座に出て、そこで夕食をとったとき、彼にはあの魔ものの姿が神経の乱れのように刻々に感じられた。窓ガラスの外側にも、ざわざわするテーブルのまわりにも、陰惨なものの影がひしめきあっているようなのだ。

「いつか自分たちで、自分たちの好きな映画が作りたいな」

 彼の友人は、彼に期待を持たせるように、そうつぶやくのだった。だが、そういう明るい社会が彼の生存中にやって来るのだろうか。今、彼の眼の前には破滅にむかってずるずる進んでいる無気味な機械力の流れがあるばかりだった。

 食堂を出ると、彼はもっと夕暮のちまたを漫歩していたくなった。外で食事をとったり、帰宅を急がなくてもいい身の上になったことが、今しきりに顧みられた。彼は友人の行く方にいてぶらぶら歩いていた。

「橋を見せてやろうか」

 友は彼を誘って勝鬨橋かちどきばしの方へ歩いて行った。橋まで来ると、巷の眺めは一変して、広大無辺なものを含んでいた。冷やかな水と仄暗い空があった。(やがて、このあたりも……)夕靄ゆうもやのなかに炎の幻が見えるようだった。それから銀座四丁目の方へ引返して行くと、魔の影は人波と夕靄のなかに揺れていた。(このひとときが破滅への進行のひとときとしても……)靄のなかに動いている人々の影は陰惨ななかにも、まだかすかに甘い憂愁がのこっているようだ。だが、彼が友人と別れて電車に乗ると、夜の空気のなかから、何かぞくぞく皮膚に迫ってくるものがあった。暗い冷たいものが身内をいまわるようで、それはすぐにも彼を押し倒そうとしていた。(何がこのように荒れ狂うのだろうか)今迄に感じたことのない不思議な新鮮な疲れだ。家にたどりつくと、彼は夜具を敷いて寝込んでしまった。何かが彼のなかに流れ込んでくる、それは死の入口の暗い風のような心地がした。彼はそのまま眼をとじて闇に吸い込まれて行ってもいいと思った。しかし、二三日たつと彼の変調はえていた。

 ある午後、彼は、演出課のルームでぼんやり腰を下ろしていた。彼の目の前では試写の合評がだらだらと続いていたが、ふと誰かが立上ると、急に皆の表情が変っていた。人々はてんでに窓から地面の方へ飛降りてゆく。彼にもそれが何を意味しているのかぐにわかった。人々の後について、人々の行く方へ歩いて行った。人々が振仰ぐ方向に視線を向けると、丘の上の樹木のこずえの青空の奥に、小さな銀色のかぎのような飛行機が音もなく象眼されていた。高射砲の炸裂さくれつする音が遠くで聞えた、丘にくり抜かれている横穴のごうへ人々は這入って行った。暗い足許あしもとには泥土質の土塊つちくれ水溜みずたまりがあって、歩きにくかったが、奥へ奥へと進んで行くと、向側の入口らしい仄明りが見えて来た。人々はその辺で一かたまりになってうずくまった。撮影機をかかえた人や、蝋燭ろうそくを持った人の姿がぼうと見えた。じっとしていると、壕の壁は冷え冷えとした。ふと彼にはそこが古代の神秘な洞穴どうけつのなかの群衆か何かのようにおもえた。さきほど見た小さな飛行機も幻想のように美しくおもえた。……やがて、その騒ぎが収まると、後はうそのように明るい秋の午後だった。彼は電車の窓から都会の建築の上の晴れわたる空をぼんやり眺めていた。来るものが来たのだが、何という静かな空なのだろう。

 来るものは、しかし、それから後、つぎつぎにやって来た。ある午後、家で彼は机にむかって何か書きものをしていた。遠くで異様なもの音がしていると思うと、たちまちサイレンと高射砲のひびきが間近にきこえて来た。彼は机を離れて身支度みじたくにとりかかった。

「おや、案外落着いていられるのですね」と義母は彼の様子を見て笑った。彼も自分自身の変りように気づいていた。いきなり恐怖につんざかれて転倒する姿を、以前はよく予想していたものだ。だが、今は異常なもののなかにあっても逆上はほとんど感じられなかった。妻がまだ生きていたらと……彼はふと思った。病妻が側にいたら、彼の神経はもっと必死で緊張したかもしれないのだ。今では死が彼にとって地上の風景を微小にしてしまったのだろうか。屋根の上の青空の遙かなところを、小さな飛行機が星のように流れていた。それは海岸の方向にむかって散ってゆくらしかった。

 ある夜、彼は東京から帰る電車のなかで、にわかに人々の動揺する姿を見た。と、車内の灯は急に仄暗くなりつづいて電車は停車してしまった。窓のおおいを下げるもの、立上って扉のところから外をのぞくもの、急いで鉄兜てつかぶとかぶるもの……彼はしーんとした空気のなかに、ぼんやり坐っていた。間もなく電車は動きだした。次の駅に着いたとき、彼の側にいる女が外をのぞいて、駅の名前を叫んだ。それからその女は駅に来るたびに、駅の名を叫んでいた。ふと、短いサイレンの音が聴きとれた。灯は全く消された。

「ああ落している、落している」と誰かが窓の外を覗いて叫んでいた。サーチライトの交錯した灯が遠くに小さく見えた。今、彼は自分のすぐ外側に異常な世界が展がっているのを、はっきりと感じた。だが、何かが、それとぴったり結びつくものが、彼のなかから脱落しているようなのだ。彼はぼんやりと、まわりの乗客を眺めていた。それは彼と何のかかわりもない、ものがなしい歴史のなかの一情景のようにおもえて来る。もの哀しい盲目の群のように、電車の終点駅で、人々は暗闇のなかの階段を黙々と昇って行った。だが、そうした人々の群のなかを歩いていると、彼にも淡い親しみと憐憫れんびんいてくるようなのだった。道路の方では半鐘が鳴り「待避」と叫んでいる声がした。線路の方にはおぼろな闇のなかを赤いシグナルをつけた電車がのろのろと動いていた。

 そうした哀しい風景は、過ぎ去れば、忽ち小さな点のようになって彼の内部から遠ざかって行った。彼はひっそりとした家のうちに坐って、ひっそりとした時間と向きあっていた。どうかすると、彼はまだここでは何ものも喪失していないのではないかと思われた。追憶というよりも、もっと、まざまざとしたものがその部屋には満ちていた。それから、もっと遠いところから、風のようなもののそよぎを感じた。そこには追憶が少しずつ揺れているようだった。世界はぎ澄まされて、甘美に揺れ動くのだろうか。静かな慰藉いしゃに似たものがかすかに訪れて来たようだった。……だが、そうした時間もたちまちサイレンの音でち切られていた。庭の防空壕の中に蹲っていると、夜の闇は冷え冷えとひともだえているようだった。太古の闇のなかで脅える原始人の感覚が彼には分るような気がした。

 だが、ある夜、壕を出て部屋に戻って来た義母は、

「ああこんな暮しはもう早く打切りましょう。私は郷里へ帰りたくなった」と切実な声で呟いた。すると彼にはすべてがすぐに了解できるようだった。一つの時期が来たのだった。病妻の看護のために彼の家に来ていてくれた義母は、今はもう娘のためにするだけのことはえていたのだ。年老いた義母には郷里に身を落着ける家があるのだ。急に彼もこの家を畳んで、広島の兄のところへ寄寓きぐうすることを思いついた。すると彼には空白のなかに残されている枯木の姿が眼によみがえって来た。それは先日、野菜買出しのため大学病院の裏側の路を歩いていた時のことだった。去年彼の妻がその病院に入院していたこともあり、感慨の多い路だった。薄曇りの空には微熱にうるむひとみがぼんやりと感じられた。と、コンクリートのへいに添う並木の姿が彼の眼にカチリと触れた。同じ位のたけの並木はことごとく枯枝を空白に差し伸べ冷え冷えと続いているのだ。それをているとたちまち悲しみが彼の顔をでまくるような気持がした。が、もっと深い胸の奥の方では静かに温かいものがまだ彼をささえているようにおもえた。

「もう広島に行ったら苦役に服するつもりなのです」と、彼は東京からやって来た義弟に笑いながら話した。彼は郷里の街が今、頭上に迫って来る破滅から免れるだろうとは想像しなかった。そこへ行けば更にもっと、きびしいむち苛酷かこくな運命が待ち構えているかもしれない。だが、殆ど受刑者のような気持で、これからは生きているばかりなのだろうと思った。ある日、彼は国道の方から路を曲って、自分の家の見えるところを眺めた。くさむら空地あきちのむこうに小さな松並木があって、そこに四五軒の家が並んでいる。あの一軒の家のなかには、今もまだ病妻の寝床があって、そして絶えず彼の弱々しい生存を励まし支えていてくれるような気がするのだった。

 引越の荷は少しずつまとめられていた。ある午後、彼は銀座の教文館の前で友人を待っていた。眼の前を通過する人の群は破滅の前の魔の影につつまれてフィルムのように流れて行く。彼にとって、この地上の営みが今では殆ど何のかかわりもないのと同じように、人々の一人一人もみな堪えがたい生の重荷を背負わされて、破滅のなかに追いつめられてゆくのだろうか。暗い悲しい堪えがたいものは、一人一人の歩みのなかに見えかくれしているようだった。と不意に彼の眼の前に友人が現れていた。社用で九州へ旅行することになった友は、新しい編上靴をはいていて、生活の意欲にもえている顔つきなのだ。だが、郷里へ引あげてしまえば彼はもう二度とこの友ともえないかもしれないのだった。

「何だ、しっかりしろ、君の顔はまるで幽霊のようだぜ」

 友は彼の肩を小衝こづいて笑った。と、彼も力なく笑いかえした。彼は遠いところに、ひそかな祈りを感じながら、透明な一つの骨壺を抱えているような気持で、青ざめた空気のなかに立ちどまっていた。


(昭和二十六年五月号『女性改造』)

底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社

   1973(昭和48)年730日初版発行

入力:tatsuki

校正:林 幸雄

2002年11日公開

2011年1121日修正

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