苦しく美しき夏
原民喜
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陽の光の圧迫が弱まってゆくのが柱に凭掛っている彼に、向側にいる妻の微かな安堵を感じさせると、彼はふらりと立上って台所から下駄をつっかけて狭い裏の露次へ歩いて行ったが、何気なく隣境の空を見上げると高い樹木の梢に強烈な陽の光が帯のように纏わりついていて、そこだけが赫と燃えているようだった。てらてらとした葉をもつその樹木の梢は鏡のようにひっそりした空のなかで美しく燃え狂っている。と忽ちそれは妻がみたいつかの夢の極致のように彼におもえた。熱い海岸の砂地の反射にぐったりとした妻は、陽の翳ってゆく田舎路を歩いて行く。ぐったりとした四肢の疲れのように田舎路は仄暗くなってゆくのだが、ふと眼を藁葺屋根の上にやると、大きな榎の梢が一ところ真昼のように明るい光線を湛えている。それは恐怖と憧憬のおののきに燃えてゆくようだ。いつのまにか妻は女学生の頃の感覚に喚び戻されている。苦しげな呻き声から喚び起されて妻が語った夢は、彼には途轍もなく美しいもののようにおもえた。その夢の極致が今むこうの空に現れている……。彼にとっては一度妻の脳裏を掠めたイメージは絶えず何処かの空間に実在しているようにおもえた。と同時にそれは彼自身の広漠として心をそそる遠い過去の生前の記憶とも重なり合っていた。あの何か鏡のようにひっそりとした空で美しく燃え狂っている光の帯は、もしかするとあの頂点の方に総てはあって、それを見上げている彼自身は儚い影ではなかろうか。……これを見せてやろう、ふと彼は妻の姿を求めて、露次の外の窓から家のなかを覗き込んだ。妻は縁側の静臥椅子に横臥した儘、ぼんやりと向側の軒の方の空を眺めていた。それは衰えてゆく外の光線に、あたかも彼女自身の体温器をあてがっているような、祈りに似たものがある。ほんの些細な刺戟も彼女の容態に響くのだが、そうしていま彼女のいる地上はあまりにも無惨に罅割れているのだったが、それらを凝と耐え忍んでゆくことが彼女の日課であった。
「外へ椅子を持出して休むといいよ」
彼は窓から声をかけてみた。だが、妻は彼の云う意味が判らないらしく、何とも応えなかった。その窓際を離れると、板壁に立掛けてあるデッキ・チェアーを地面に組み立てて、その上に彼は背を横えた。そこからもさきほどの、あの梢の光線は眺められた。首筋にあたるチェアーの感触は固かったが、彼はまるで一日の静かな療養をはたした病人のように、深々と身を埋めていた。
それに横わると、殆どすべての抵抗がとれて、肉体の疵も魂の疼も自ら少しずつ医されてゆく椅子──そのような椅子を彼は夢想するのだった。その純白なサナトリウムは灝気に満ちた山の中腹に建っていて、空気は肺に泌み入るように冷たいが、陽の光は柔かな愛撫を投げかけてくれる。そこでは、すべての物の象ががっちりとして懐しく人間の眼に映ってくる。どんな微細な症状もここでは隈なく照らし出されるのだが、そのかわり細胞の隅々まで完膚なきまで治療されてゆく。厳格な規律と、行きとどいた設備、それから何よりも優しい心づかい、……そうしたものに取囲まれて、静かな月日が流れてゆく。人は恢復期の悦びに和らぐ眸をどうしても向うに見える樹木の残映にふりむけたくなるのだ……。
今、あたりは奇妙に物静かだった。いつも近所合壁の寄合う場所になっている表の方の露次もひっそりとして人気がなかった。それだけでも妻はたしかに一ときの安堵に恵まれているようだった。そして、彼もまたあの恢復期の人のように幻の椅子に凭りかかっていた。
彼等二人がはじめてその土地に居着いた年の夏……。その年の夏は狂気の追憶のように彼に刻まれている。居着いた借家──それは今も彼の棲んでいる家だったが──は海の見える茫漠とした高台の一隅にあった。彼はその家のなかで傷ついた獣のように呻吟していた。狭い庭にある二本の黐の樹の燃えたつ青葉が油のような青空を支えていて、ほど遠からぬところにある野づらや海のいきれがくらくらと彼の額に感じられた。朝の陽光がじりじりと縁側の端を照りつけているのを見ただけでも彼は堪らない気持をそそられる。すべては烈しすぎて、すべては彼にとって強すぎたのだ。しーんとした真昼、彼は暑さに喘ぎながら家のうちの涼しそうなところを求めていたが、風呂場の流板の上に小桶に水を満たすと、ものに憑かれたようにぼんやりと視入った。小さな器の水ながら、それは無限の水の姿に拡ってゆく。と彼の視野の底に肺を病んで死んで行った一人の友人の姿が浮ぶ。外部の圧迫に細り細りながら、やがて瀕死の眼に把えられたものは、このように静かな水の姿ではなかろうかと……。
奇怪な念想は絶えず彼につきまとっていた。午睡の覚めた眼に畳の目は水底の縞のように朧気に映る。と、黄色い水仙のようなものが、彼の眼の片隅にある。それは黄色いワン・ピースを着た妻であったが、恐水病患者の熱っぽい眼に映る幻のようでもあった。今にも息が杜絶えそうな観念がぎりぎりと眼さきに詰寄せる。だが、妻はいつも彼の乱れがちの神経を穏かに揺り鎮め、内攻する心理を解きほぐそうとした。どうかすると妻の眼のなかには彼の神経の火がそのまま宿っているように想えることもある。彼は不思議そうにその眸に視入った。と忽ち、もっと無心なものが、もっと豊かなものが妻の眸のなかに笑いながら溢れていた。無心なものは彼を誘って、もっと無邪気に生活の歓びに浸らせようとするのだった。彼等が移って来たその土地は茫漠とした泥海と田野につつまれていて、何の拠りどころも感じられなかったし、一歩でも閾の外に出ることは妙に気おくれが伴なうのだったが、それでも陽が沈んで国道が薄鼠色に変ってゆく頃、彼は妻と一緒によく外に出た。平屋建の黝んだ家屋が広いアスファルトの両側につづいて、海岸から街の方へ通じる国道は古い絵はがきの景色か何かのようにおもえた。
(流竄。そういう言葉が彼にはすぐ浮ぶのだ。だが、彼は身と自らを人生から流謫させたのではなかったか)
鍛冶屋の薄暗い軒下で青年がヴァイオリンを練習していた。往来の雑音にその音は忽ち掻消されるのだが、ああして、あの男はあの場所にいることを疑わないもののようだ。低い軒の狭い家はすぐ往来から蚊帳の灯がじかに見透かされる。あのような場所に人は棲んでいて、今、彼の眼に映ることが、それだけのことが彼には不思議そのものであり微かに嗟嘆をともなった。だが、往来は彼の心象と何の関りもなく存在していたし、灯の賑わう街の方へ入ると、そこへよく買物に出掛ける妻は、勝手知った案内人のようにいそいそと歩いた。
彼はいつも外に出ると病後の散歩のような気持がした。海岸の方へ降る路で、ふと何だかわからないが、優しい雑草のにおいを感じると、幼年時代の爽やかな記憶がすぐ甦りそうになった。だが、どうかすると、彼にはこの地球全体が得態の知れない病苦に満ち満ちた夢魔のようにおもえる。……幾日も雨の訪れない息苦しさがあるとき彼をぐったりさせていた。
「少し外へ出てみましょうか」
妻は夜更に彼を外に誘った。一歩家の外に出ると、白い埃をかむったトタン屋根の四五軒の平屋が、その屋根の上に乾ききった星空があった。家並が杜切れたところから、海岸へ降りる路が白く茫と浮んでいる。伸びきった空地の叢と白っぽい埃の路は星明りに悶え魘されているようだった。
その茫とした白っぽい路は古い悲しい昔から存在していて、何処までも続いているのだろうか。その路の隈々には人間の白っぽい骨が陰々と横わっている。歪んだ掟や陥穽のために、磔刑や打首にされた無数の怨恨が今も濛々と煙っている。無辜の民を虐殺して、その上に築かれてゆく血まみれの世界が……その世界のはてに今この白い路が横わっているのだろうか。
その年の春、その土地へ移る前のことだが、彼は妻と一緒に特高課に検挙された。三十時間あまりの留置ですぐ釈放はされたが、その時受けた印象は彼の神経の核心に灼きつけられていた。得態の知れない陰惨なものが既に地上を覆おうとしているのだった。
息苦しさは、白い路を眺めている彼の眼のなかにあった。だが、暫く妻と一緒にそこに佇んでいると、やはり戸外の夜の空気が少しずつ彼を鎮めていた。再び家に戻って来ると、さきほどと違った、かすかな爽やかさが身につけ加えられていた。……こういう一寸した気分の転換を彼の妻はよく心得ているのだ。それで、彼は母親にあやされる、あの子供の気持になっていることがよくある。
粗末な生垣で囲まれた二坪ほどの小庭には、彼が子供の頃見憶えて久しく眼にしなかった草花が一めんに蔓っていた。露草、鳳仙花、酸漿、白粉花、除虫菊……密集した小さな茎の根元や、くらくらと光線を吸集してうなだれている葉裏に、彼の眼はいつもそそがれる。とすさまじい勢で時が逆流する。子供の時そういうものを眺めた苦悩とも甘美とも分ちがたい感覚がすぐそこにあり、何か密画風の世界と、それをとりまく広漠たる夢魔が入り混っていた。それは彼の午睡のなかにも現れた。ぐったりと頭と肩は石のように無感覚になっていて、彼の睡っている斜横の方角に、庭の酸漿の実が見えてくる。ほおずきの根元が急に嶮しく暗くなってゆくと、朱い実が一きわ赤く燃え立つのが、何か悪い予感がして、それを見ていると、無性に堪らなくなる。彼は子供の頃たしかにこれと同じような悪寒に襲われていたのをぼんやり思い出す。と、その夢とはまた別個に、彼の睡っている眼に、膝こぶしの一部が巨大な山脈か何かのように茫と浮び上る。見ると、そこは確か先日から小さな腫物ができて、赤くはれ上っていたのだが、今そこが噴火山となって赤々と煙を噴き上げている。二つの夢が分裂したまま同時に進行してゆく状態が終ると、彼は虚脱者のように眼を見ひらいていた。陽はまだ庭さきにギラギラ照っていたが、畳の上には人心地を甦らすものがあって、そのなかに黄色のワン・ピースを着た妻の姿があった。彼は柱に凭掛って、暫く虚脱のあとを吟味していた。あのような奇怪な夢も、それを妻に語れば、殆ど彼等は両方でみた夢を語り合っていたので、彼女はすぐ分ってくれそうであった。だが、彼はふと、いつも鋩のように彼に突立ってくるどうにもならぬ絶望感と、そこから跳ね上ろうとする憤怒が、今も身裡を疼くのをおぼえた。殆ど祈るような眼つきで、彼は空間を視つめていた。と、遠い昔の川遊びの記憶がふと目さきにちらついて来る。故郷の澄みきった水と子供のあざやかな感覚が静かな音響をともないながら……。
「こんな小説はどう思う」彼は妻に話しかけた。
「子供がはじめて乗合馬車に乗せてもらって、川へ連れて行ってもらう。それから川で海老を獲るのだが、瓶のなかから海老が跳ねて子供は泣きだす」
妻の眼は大きく見ひらかれた。それは無心なものに視入ったり憧れたりするときの、一番懐しそうな眼だった。それから急に迸るような悦びが顔一ぱいにひろがった。
「お書きなさい、それはきっといいものが書けます」
その祈るような眼は遙か遠くにあるものに対って、不思議な透視を働かせているようだった。彼もまた弾む心で殆ど妻の透視しているものを信じてもいいとおもえたのだが……。
彼の妻は結婚の最初のその日から、やがて彼のうちに発展するだろうものを信じていた。それまで彼の書いたものを二つ三つ読んだだけで、もう彼女は彼の文学を疑わなかった。それから熱狂がはじまった。さりげない会話や日常の振舞の一つ一つにも彼をその方向へ振向け、そこへ駆り立てようとするのが窺われた。彼は若い女の心に転じられた夢の素直さに驚き、それからその親切に甘えた。だが、何の職業にも就けず、世間にも知られず、ひたすら自分ひとりで、ものを書いて行こうとする男には、身を斫りさいなむばかりの不安と焦躁が渦巻いていた。世の嘲笑や批難に堪えてゆけるだけの確乎たるものはなかったが、どうかすると、彼はよく昂然と、しかし、低く呟いた。
「たとえ全世界を喪おうとも……」
たとえ全世界を喪おうとも……それはそれでよかった。だが、眼の前に一人の女が信じようとしている男、その男が遂に何ものでもなかったとしたら……。
彼にとって、文学への宿願は少年の頃から根ざしてはいた。が、非力で薄弱な彼には、まだ、この頃になっても殆ど何の世界も築くことができなかった。世界は彼にとっては恐怖と苦悶に鎖されていた。が、その向側に夢みる世界だけが甘く清らかに澄んでいた。妻は彼の向側にあるものを引き寄せようとしているのかもしれなかった。彼はそのような妻の顔をぼんやりと眺める。するとむしろ、妻の顔の向側に何か分らないが驚くべきものがあるようにおもえた。
その年の夏が終る頃から、作品は少しずつ書かれていた。外部の喧騒から遮断されたところで読書と瞑想に耽ることもできたが、彼はいつも神経を斫り刻むおもいで、難渋を重ねながらペンをとった。……このようにして年月は流れて行った。だが、外部の世界と殆ど何の接触もなく静かに月日を送っていることは、却って鋭い不安を掻きたてていた。天井の板が夜ことりと音をたてただけでも、彼の心臓をどきりとさせたし、雨戸の節穴から差してくる月の光さえも神経を青ざめさせた。
それからやがて、あの常に脅かされていたものが遂にやって来たのだ。戦争は、ある年の夏、既にはじまっていた。彼はただ頑な姿勢で暗い年月を堪えてゆこうとした。が、次第に彼は茫然として思い耽るばかりだった。幼年時代に見た空の青かったこと、水の澄んでいたこと、そのような生存感ばかりが疼くように美しかった。茫然としてもの思いに耽っている彼を、妻はよくこう云った。
「エゴのない作家は嫌です。誰が何と云おうとも、たとえ全世界を捨てても……」
そういう妻の眼もギラギラと燃え光っていた。澱みやすい彼の気分を掻きまぜ沈む心をひき立てようとするのも彼女だった。それから妻は茶の湯の稽古などに通いだした。だが、その妻の挙動にも以前と違ういらだちが滲んで来た。
「淋しい、淋しい、何かお話して頂戴」
真夜なかに妻は甘えた。二人だけの佗住居を淋しがる彼女ではなかったのに、何かの異常なものの予感に堪えきれなくなったらしい。だが、それが何であるかは、彼にはまだ分らなかった。
その悲壮がやって来たのは、もう二年後のことだった。夏の終り頃、彼は一人で山の宿へ二三泊の旅をしたが、殆ど何一つ目も心も娯しますもののないのに驚いた。山の湖水の桟橋に遊覧用のモーター・ボートが着く。青い軍服を着た海軍士官の一隊が──彼の眼には編笠をかむって珠数繋ぎになっている囚人の姿に見えてくる。こうした憂鬱に沈みきって、悄然とむなしい旅から戻って来た。家へ戻ってからも彼は己れと己れの心に訝りながら佗しい旅の回想をしていた。
そうした、ある朝、彼は寝床で、隣室にいる妻がふと哀しげな咳をつづけているのを聞いた。何か絶え入るばかりの心細さが、彼を寝床から跳ね起させた。はじめて視るその血塊は美しい色をしていた。それは眼のなかで燃えるようにおもえた。妻はぐったりしていたが、悲痛に堪えようとする顔が初々しく、うわずっていた。妻はむしろ気軽とも思える位の調子で入院の準備をしだした。悲痛に打ちのめされていたのは彼の方であったかもしれない。妻のいなくなった部屋で、彼はがくんと蹲り茫然としていた。世界は彼の頭上で裂けて割れたようだった。やがて裂けて割れたものに壮烈が突立っていた。
病院に通う路上で、赤とんぼの群が無数に一方の空へ流れてゆくのを視て、彼はひとり地上に突離されているようにおもえた。
燃えて行った夏、燃えて行った夏……彼は晩夏のうっとりとした光線にみとれて、口誦んだ。夏はまだいたるところに美しく燃えたぎっているようであった。病院の入口の庭ではカンナが赤く天をめざして咲いていた。病室のベッドのなかで、妻は赤らんだ顔をしていた。その額は大きな夏の奔騰のように彼におもえた。やがて彼には周囲の殆どすべてのものが熱っぽく視えて来た。それは病苦と祈りを含んだ新しい日々のようであった。「どうなるのでしょう」と妻の眼はふるえる。彼も突離されたように、だが、その底で彼は却って烈しく美しいものを感じた。彼はとり縋るようにそれに視入っているのだった。
その後、妻が家に戻って来て、療養生活をつづけるようになってからも、烈しく突き離されたものと美しく灼きつけられたものが、いつも疼いていた。この時を覘うように、殺気立った世の波は彼の家に襲って来た。家政婦は不意に来なくなり、それからその次に雇った女中は二日目にものを盗んで去った。彼はがくんと蹲り祈りと怒りにうち震えた。その次に通いでやって来るようになった女中は何事もなく漸くこの家に馴れて来そうだった。
それから少しずつ穏かな日がつづいた。いつも彼の皮膚は病妻の容態をすぐ側で感じた。些細な刺戟も天候のちょっとした変動もすぐに妻の体に響くのだったが、脆弱い体質の彼にはそれがそのまま自分の容態のようにおもえた。無限に繊細で微妙な器と、それを置くことの出来る一つの絶対境を彼は夢みた。静謐が、心をかき乱されることのない安静が何よりも今は慕わしかった。……だが、ある夜、妻の夢では天上の星が悉く墜落して行った。
「県境へ行く道のあたりです。どうして、あの辺は茫々としているのでしょう」
妻はみた夢に脅え訝りながら彼に語った。その道は妻が健康だった頃、一緒に歩いたことのある道だった。山らしいものの一つも見えない空は冬でもかんかんと陽が照り亘り、干乾らびた轍の跡と茫々とした枯草が虚無のように拡っていた。殆ど彼も妻と同じ位、その夢に脅えながら悶えることができた。妖しげな天変地異の夢は何を意味し何の予感なのか、彼にはぼんやり解るようにおもえた。だが、彼は押黙ってそのことは妻に語らなかった。……寝つけない夜床の上で、彼はよく茫然と終末の日の予感におののいた。焚附を作るために、彼は朽木に斧をあてたことがある。すると無数の羽根蟻が足許の地面を匐い廻った。白い卵をかかえて、右往左往する昆虫はそのまま人間の群集の混乱の姿だった。都市が崩壊し暗黒になってしまっている図が時々彼の夢には現れるのだった。
妻はきびしい自制で深い不安と戦いながら身をいたわっていた。静かに少しずつ恢復へ向っているような兆も見えた。柔かい陽ざしが竹の若葉にゆらぐ真昼、彼女は縁側に坐って女中に髪を梳かせていた。すると彼には、そういう静かな時刻はそのまま宇宙の最高の系列のなかに停止してしまっているのではないかと思える。
気分のいい日には、妻は自然の恵みを一人で享けとっているかのように静臥椅子で沈黙していた。すべて過ぎて行った時間のうち最も美しいものが、すべて季節のうち最も優しいものだけが、それらが溶けあって、すぐ彼女のまわりに恍惚と存在している。そういう時には彼も静臥椅子のほとりでぼんやりと、しかし熱烈に夢みた。たとえ現在の生活が何ものかによって無惨に引裂かれるとしても、こうした生存がやがて消滅するとしても、地上のいとなみの悉くが焼き失せる日があるとしても……。
底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
1973(昭和48)年7月30日初版発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2002年1月1日公開
2006年2月4日修正
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