「青白き夢」序
森田草平
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おしづさんが安倍能成君の紹介で、阿母さんに連れられて私の許へ來たのは、今から恰度六年前の春の末だつたらうと記憶してゐます。何でも其當座は毎日のやうに遣つて來ました。それは長い間の病院生活の後で、たとへ松葉杖をついてなりとも人中へ出られると云ふ物珍らしさと、一つは文學で身を立てようと思ふうら若い女の一心からであつたのでせう。朝の間に來て、一日私の宅で遊んで居て、晩に歸る。別に私の宅でも構ひはしない。夕食後の散歩がてら番町の自宅まで送つて行つて上げたこともありました。靖國神社の裏のベンチの上で休んで居ると散り際の櫻の枝頭に殘つて居るのが眼に留まりました。私は松葉杖を傍に置いて、がつくりとベンチの上に凭れかゝつたおしづさんの姿と、其色の褪せた櫻とが妙に一緒に成つて、私の記憶に殘つてゐます。だからおしづさんが私の宅へ來たのは春の末でした。そして、年は十九の春の末でした。
前の年の春札幌の女學校を卒業すると同時に、結核性の關節炎に罹つて、療養のために上京して、其年の冬いよ〳〵右の足を切斷した。で、病院を出た時はもう松葉杖の助けを借らなければ一歩も外出の叶はない身に成つて居たのである。健康體に復したと云ふものゝ、普通の健康體ではない。阿母さんの云はれるには、これもこんな身體に成つて、もう女として人並に家庭生活を營むことも出來ない。これからは文學に專念して、浮世の事は忘れて暮すやうにして遣りたいと──其時、おしづさんも阿母さんの考へて居られるやうに考へて居たか何うかは知らない。併し私までがおしづさんを一生獨身主義を通す女として、常處女であるべく生れた女として受け取つたのは、全く愚であつた。愚であるばかりでなく、丸切り思ひ遣りと云ふものゝない、自分の趣味からばかり相手を眺めて──さうです、それは確かに私の趣味でした、同情でありませんでした──人の心に這入つて行くことの出來ない殘忍なエゴイズムでした。若し強ひて辯解すれば、私自身も若かつたのでした。
が、幸ひなことに、其愚は間もなく悟りました。私は温かな傍觀的態度で靜かにおしづさんの生長を見守ることが出來るやうに成りました。其間おしづさんは一日でも惜しまれるやうに、せつせと創作しては、私の許へ持つて來ました。處女作『松葉杖をつく女』にあゝ云ふ表題を附したのは私のジヤアナリズムでした。これは故人の名譽のために斷つて置きたい。つまり少しでも此作に世人の注意を向けたいと云ふ善意のジヤアナリズムでした。第二作『三十三の死』は明くる年の正月の新小説に載せられた。處女作も心ある人の注意を惹いたが、此作に到つておしづさんは女流作家としての立場を確實に握るやうに成りました。おしづさんは、始めて私の宅へ來出した時、恰度私が三十三であつたので、自分も、先生の歳まで生きられゝば、それで思ひ殘すところはないと云ひ〳〵して居ましたが、女の大厄である其年を待たないで、二十四で世を去りました。豫て期せられたることゝは云ひながら、又餘りに短かい人の命である。
おしづさんの創作で光つて居るところは、それはいろ〳〵好い素質もありませうが、矢張あの病氣に關聯した、病氣に虐げ惱まされた心が細い、而も鋭い漏口を見出したところにあるだらうと思ひます。元來極めて初心な、無邪氣な質の子でした。其ナイーブな心がこれから始めて世の中に接觸しようとする際、俄に病氣に罹つた。彼女の眼に映る人生には、卒然として價値の顛倒が齎された。病氣に罹つたのは不幸に相違ないが、病氣であるお蔭で本當に物を見得るやうに成つた。普通の人には見えない物を見得るやうに成つた。私はおしづさんが蝙蝠傘を翳して歩く他所の女を羨むのを見て驚かされた。ある時は又かうして歩けないで寢て居ると、疊の上だの、表の街の上なぞを歩く人間の足音が皆跛に聞こえる、誰の足音でも決して揃つて居ない、不思議だ、不思議だと云ふのを聞いて、成程と思つた。で、斯くの如き眼で見られた人間生活の描寫は異常なものであつたに相違ない。必ず看る人の驚異を惹かずには措かない。おしづさんの作品が一時に世人の注意を惹いたのも、主として此點にあつたらうと思ひます。
かうしておしづさんは女流作家として認められ、名聲も次第に揚がつて來ました。が、おしづさんは何うもそれだけでは落着いて居られないやうに見えた。いろ〳〵な同人雜誌の記者と交はつて見たり、又は油繪を習はうなぞと云ひ出して見たりした。私はおしづさんを津田青楓君に紹介しました。おしづさんは作品にも表はれて居る通り、初心なあどけない所と共に、一方には又非常に器用だちな所がある。行く所として可ならざるはなしと云ふ工合で、畫の方でも素人としては誠に器用な、其上何處かぎろりとした所があるやうに私どもにも見受けられた。津田君も可愛がつて指導して居られるやうでした。が、さうかうして居るうちに、最初の病氣の結核菌が未だ體内に殘つて居て、肺を冒すやうに成つたと云ふので、おしづさんは伊豆の大島へ轉地療養をするやうに成つた。何でも私の宅へ來てから三年目の夏だつたらうとおぼえて居ます。おしづさんは大分悲觀して、最う一生島で暮して、内地へは歸らない。私とも生き別れのやうなことを云つて出立しました。
處が大島には上野山清貢君が矢張畫をかきに來て居て、二人の間に愛が成立した。そして、十箇月許り島に逗留した後で、二人は阿母さんと一緒に手を携へて歸つて來ました。二人の結婚には親戚の間に大分反對があつたやうでした。つまり最初にも述べたやうに、おしづさんのやうな身體に成つた以上は、獨身で終るのが正當だ、あれで結婚なぞするのは、見つともないと云ふやうな理窟からだと聞きました。が、それは餘りにいはれのない反對で、中の兄さんと云ふのが一人で皆の矢面に立つて、二人を結婚させたと云ふことです。私も無論それに賛成でした。想ふに、文藝と云つた處で沙門成道の道とは違ふ。それに一向專念して、浮世の事は忘れて、尼にでも成つたやうな氣で一生を暮す──そんな事が出來るものでない。寧ろおしづさんは蝙蝠傘を慕つたと同じやうに、世間が己れに與へまいとするものに一層心を惹かれたのではあるまいか。今から思ひ合はせると、おしづさんが文學だけに滿足されないで、繪畫其外いろんな事に手を出したがつたのも、矢張自分が求めて居るものゝ與へられない暗中摸索ではなかつたらうか。それなればこそ、上野山君の許へ行つて初めて本當に落着くことが出來た。私は何うもさう考へるのを至當のやうに思ふ。
それにおしづさんは作家としての好い素質を持ちながら、一方では又非常に家庭的な女でした。身體さへ滿足であつたら本當に好い世話女房にも成り得たことゝ信ずる。あんな不自由な身體をしながら、片時も手を休めて居たことがない。創作をする傍、赤ン坊の着物も縫へば、お芋の皮も剥く。いや、赤ン坊の着物を縫ひ〳〵、お芋の皮を剥く傍創作をしたのでした。實際、おしづさんは勝手元の料理が上手でした──尤も、多少飯事のやうでもあつたけれど。私の家は老女始め舊式な女ばかり揃つて居る家ですが、其の私の家へ始めてフライ鍋を輸入して、手製の洋食が喫べられるやうにして呉れたのはおしづさんでした。さう、あの子が來出した初めの頃です。臺所の板の間へぺちやんこと坐つて、新に買はせたフライ鍋や、ヘツトや、チーズや、パン粉を膝の周りに引寄せながら、あの可愛らしい手で──おしづさんは決して美人ではなかつたが、手だけは尖細の、あれが圓錐型とでも云ふでせう、非常に美しい手をして居ました──米利堅粉を捏ねて、始めてコロツケを造つて喰はせて呉れたことを今でもおぼえて居る。
上野山君と結婚してから、間もなくおしづさんは二人で伊勢から鳥羽、京都の邊へ半年餘りも旅行しました。あの時代がおしづさんの一生の花時代のやうに外間からは想像されます。其の代り隨分難儀もした樣でした。何しろ親戚では結婚に反對した位だから、二人の熱烈な、同時に無力なロマンチケルに對して、丸で補助と云ふものをして呉れませんでしたから、又二人の方でも、それを受けませんでしたから。併し物質的に苦しむのと同じ比例に於いて、二人は精神的に滿足だつたらうと信じます。そして、特殊な運命で結び附けられた二人は、なか〳〵物質的の苦痛位で醒めるやうな夢ではなかつたらうと思ふからです。で、互に滿足した二人は滅多に私の家へも寄り附きませんでした。其間に四谷見附の花家とかと往來して居たやうですが、其邊の悉しい話は私は殆ど知らない。只一昨々年の暮の大晦日の前の日と云ふに、上野山君がおしづさんが子を生んだと云ふので、私の家へ駈け込んで來ました。それから又五六箇月の間頻繁に往來をしましたが、夏の初めに成つておしづさんが又喀血して、茅ヶ崎へ轉地することに成りました。二人が茅ヶ崎へ移つてから更に病勢が宜しくないと云ふので、入院の便を計るために、私が二人と親戚との間を調停したのが妙な誤解を招いて、二人はそれから私の家へ來なく成りました。尤も、おしづさんからは一二度手紙を貰つたやうにも思ふが、其後一年半ばかりずつと顏を見ませんでした。從つて最近の消息は私には丸で分らなかつた。それが本年の正月廿九日の夕、私が宅で夕飯を認めて居る時、上野山君からおしづさんの訃を知らせる書状が屆きました。私は其足ですぐ白金の傳染病研究所へ行つて見ました。私は途中も上野山君が途方に暮れて、殆ど何事も手が附けてなからうとそればかり考へて居た。
傳染病研究所の病室の裏手で、だら〳〵と坂に成つてる林の中の小徑を提灯をつけた小使に連れられて降りて行くと、解剖室の隣の死亡室におしづさんの遺骸が安置してありました。棺側には四人の若い人達が寂しく夜伽をして居ました。私が上野山君に挨拶して居ると、傍の一人から聲を懸けられた。それはおしづさんの仲の兄さんで、岡山から急遽上京したと云ふ事でした。あゝ仲の兄さんが來て居る、それなら大丈夫だと、私は始めて安心の息を吐いた。
私は棺側に進んで、おしづさんの亡骸に見えた。おしづさんは病症の所爲とかで、宛然石膏細工のやうな顏や手をして居ました。髮だけは生前私が記憶して居るまゝに、黒く長く枕邊に亂れて居た。生前苦勞した影も見えない、おしづさんは笑つたやうな顏をして居ました。
短かい一生であつた。併し其の短かい間におしづさんは可也多くの經驗をした。好い作もした。戀もした。幼い時から憧れて居たといふ家庭も自分で作つて見た。子供の愛もおぼえて死んだ。遺して行く子供の心がゝりと云ふやうなものゝ外に、別段心殘りもあるまい。若し出來得べくんば、生前一二年の間、貧しさと云ふ苦艱から離れて、自分でも心行くだけの作が今一つ二つさして死なしたかつた。が考へて見れば、それは如何でも可いことである。
大正七年二月九日
底本:「青白き夢」新潮社
1918(大正7)年3月15日発行
※底本での題は「序」ですが、読者の便宜を計るため「『青白き夢』序」としました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
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