古代生活の研究
常世の国
折口信夫
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一 生活の古典
明治中葉の「開化」の生活が後ずさりをして、今のあり様に落ちついたのには、訣がある。古典の魅力が、私どもの思想を単純化し、よなげて清新にすると同様、私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、謂はゞむだとも思はれる様式の、由来不明なる「為来り」によつて、純粋にせられる事が多い。其多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかな力を与へる。門松を樹てた後の心持ちのやすらひを考へて見ればよい。日の丸の国旗を軒に出した時とは、心の底の歓び──下笑ましさとでも言ふか──の度が違ふ。所謂「異教」の国人の私どもには、何の掛り合ひもないくりすますの宵の燈に、胸の躍るを感じるのは、古風な生活の誘惑に過ぎまい。
くりすますの木も、さんた・くろうすも、実はやはり、昔の耶蘇教徒が異教の人々の「生活の古典」のみやびやかさを見棄てる気になれないで、とり込んだものであつたのである。家庭生活・郷党生活に「しきたり」を重んずる心は、近代では著しく美的に傾いてゐる。大隅の海村から出た会社員の亭主と、磐城の山奥から来た女学生あがりの女房との新家庭には、どんな春が迎へられてゐるだらう。東京様を土台にして、女夫双方のほのかな記憶を入りまじへた正月の祝儀が行はれてゐるに違ひない。さうした寂しい初春にも、やすらひと下ゑましさとが、家の気分をずつと古風にしてゐることゝ思ふ。
生活の古典なるしきたりが、新しい郷党生活にそぐはない場合が多い。度々の申し合せで、其改良を企てゝも、やはり不便な旧様式の方に綟りを戻しがちなのは、其中から「美」を感じようとする近世風よりは、更に古く、ある「善」──尠くとも旧文化の勢力の残つた郷党生活では──を認めてゐるからである。此「善」の自信が出て来たのは、辿れば辿る程、神の信仰に根ざしのある事が顕れて来る。
数年前「東」の門徒が、此までかた門徒連のやつた宗風のすたれるのを歎いて「雑行雑修をふりすてゝ」と言ふ遺誡をふりかざして、門松標め縄を廃止にしようとした時は、一騒動があつた。攻撃した人達も「年飾り」をやめる事が、国人としての気分の稀薄になつた証拠だといふ論拠を深く示さうとしなかつた。唯漠然と道徳的でない感じがしたと言ふ程の処にあつた様である。処があれなどは、神道家がもつと考へて見なければならない古義神道、或は「神道以前」の考察を疎かにしてゐた証拠になるのである。陰陽神道・両部神道・儒教的神道・衛生神道・常識神道などに安住して、自由に古代研究をせなかつた為である。
古代研究家の思ひを凝さねばならぬのは、私どもの祖先からくり返して来た由来不明のしきたりが、時にはさうした倫理内容まで持つて来た訣についてゞある。言ふまでもない。神に奉仕するものゝ頼りと、あやまちを罪と観ずる心持ちである。此が信仰から出てゐるものと見ないで、何と言はう。
神道家の神道論にもいろ〳〵ある。私の思ふ所をぶつきらぼうに申せば、文献の上に神道と称せられてゐる用語例は、大体二つにはひつて来る。
素朴な意義は、神の意思の存在を古代生活の個々の様式に認めて言ふのであつた。併し、畢竟は、其等古代生活を規定する統一原理と言ふ事に落ちつく様である。其を対象とする学問が、私どもの伝統を襲いで来てゐる「国学」である。だから、神道の帰する所は、日本本来の宗教及び古代生活の軌範であり、国学は神道の為の神学、言ひ換へれば、古代生活研究の一分科を受け持つものなのである。
神道の意義は、明治に入つて大に変化してゐる。憲法に拠る自由信教を超越する為に、倫理内容を故意に増して来た傾きがある。出発点が宗教であり、過程が宗教であり、現にも宗教的色彩の失はれきつて居ぬ所を見れば、神道を宗教の基礎に立つ古代生活の統一原理と見、其信仰様式がしきたりとして、後代に、道徳・芸術、或は広意義の生活を規定したと見て、よいと思ふ。
日本の古代生活は、此まであまりに放漫な研究態度でとり扱はれて来た。江戸時代に、あれまで力強く働いた国学の伝統は、明治に入つて飛躍力を失うた。為に、外側からの研究のみ盛んに行はれた。古代人の内部の生活力を身に動悸うたせて、再現に努めようとする人はなくなつた。数種の文献に遺つた単語は、世界の古国や、辺陬の民族の語彙と、無機的に比較研究せられた。此は伝統的事業を固定させてゐた私どものしくじりであつた。
私どもはまづ、古代文献から出発するであらう。さうして其註釈としては、なるべく後代までながらへてゐた、或は今も纔かに遺つてゐる「生活の古典」を利用してゆきたい。時としては、私どもと血族関係があり、或は長い隣人生活を続けて来たと見える民族のしきたり、又は現実生活と比べて、意義を知らうと思ふ。稀には「等しい境遇が、等しい生活及び伝承を生む」と言ふ信ずべき仮説の下に、かけ離れた国々の人の生活・しきたりを孕んだ心持ちから、暗示を受けようと考へてゐる。
三月の雛祭り・端午の節供・七夕・盂蘭盆・八朔……などを中心に、私どものやすらひを感じるしきたりが毎年くり返へされる。江戸の学者が、一も二もなく外来風習ときめたものゝ中にも、多くは、固有の種がまじつてゐる。私は、今門松の事を多く言うた縁から、元旦大晦日に亘るしきたりの最初の俤を考へて、古代研究の発足地をつくる。
二 ふる年の夢・新年の夢
海のあなたの寂かな国の消息を常に聞き得た祖先の生活から、私の古代研究の話は、語りはじめるであらう。
其は、暦の語原たる「日数み」の術を弁へた人によつて、月日の運り・気節の替り目が考へられ、生産のすべての方針が立てられた昔から説き起す。暦法が行はれても、やはり前々の印象から、新暦に対立して、日よみの術が行はれて居り、昔、日よみを以て民に臨んだ人の末が、国々に君となり、旧来の伝承は、其部下の一つの職業団体の為事として、受け継がれてゐるやうになつてゐた。
大倭の国家が意識せられた頃には、もう此状態に進んでゐた。暦法は、最遅く移動して来たと思はれる出石人(南方漢人)などの用ゐたものが、一等進んでゐたであらう。道・釈の教が、記録の指定する年代よりも遥か以前に、非公式に将来せられてゐたのと同様、暦法も亦、史の書き留めを超越してゐるものと見てよい。天日矛や、つぬがのあらしとなどを帰化民団と見ずに、侵入者と認めた時代の、古渡りの流寓民の村々にくつゝいて渡つて来たものと思はれる。だから、表向き新暦法の将来せられた時は、ずつと遅れる訣である。唯一般になつたと言ふまでゞあらう。かうした村々で、色々な暦法を用ゐ、又次第に相融通するやうになりかけた時代に跨つて話を進める。従つて記録の上では、新暦の時代に入つてゐても、古代研究の立場からは逆にまた、新旧暦雑多の時代と見ねばならぬことも多い。
概算する事も出来ないが、祖先が、日本人としての文明を持ち出した事は、今の懐疑式の高等批評家の空想してゐる所よりも、ずつと古代にあると考へねばならない多くの事実を見てゐる。此古代研究の話も、落ちつく所は、その荒見当を立てる位の事になるであらう。考証と推理とに、即かず離れないで、歩み続けなければならないのは、記録の信じられない時代を対象とする学問の採るべきほんとうの道である。
暦の話ばかりでなく、古代を考へるものが、ある年数を経た後世の合理観を多量に交へた記録にたよる程、却つてあぶないものはない。私は大体見当を、大昔と言ふ処に据ゑて話してゆきたい。そこには既に、明らかに国家意識を持つた民もあれば、まだ村々の生活にさへ落ちつかなかつた人々もあつたものと、見て置いて頂きたい。強ひて問はれゝば、飛鳥の都以前を中心にしてゐるのだが、時としては飛鳥は勿論、藤原の都の世にも、同様の生活様式を見出す事もあり、更にさがつて奈良の時代にも、古代生活の俤を見る事があらう。私の言ひ慣れた言ひ方からすれば、即、万葉びと以前及び万葉人の生活に通じて、古い種を択り分けながらお話する次第である。
陰暦・陽暦・一と月遅らしと、略三通りの暦法をまち〳〵に用ゐてゐる町々村々が、境を接して居ると言ふ現状も、実は由来久しい事なのである。暦法を異にした古代の村々が、段々帰一して来る間に、其々の暦に絡んだ風習が、互にこんがらかつて来て、極めて複雑な民間年中行事をつくる様になつた。
譬へば、大晦日と元日、十四日年越しと小正月(上元)、節分と立春との関係を見ると、元々違つた其々の日の意味が、互に接近して考へられて来たのは事実である。
私は暦の上に、元日と立春との区別の茫漠としてゐた昔語りを試みる。
三 夜牀の穢れ
地震以後「お宝々々」「厄払ひませう」も聞く事稀に、春も節分も寂しくばかりなつて行く。「生活の古典」が重んぜられてゐた東京の町がかうでは、今の中に意義を話して、偲びぐさとしたくなる。
宝船は、初夢と関聯してゐる為に、聡明な嬉遊笑覧の著者さへも、とんだ間違ひをして、初夢を節分の夜に見るものを言ふとしてゐる。元は、宝船が役をすました後に現れる夢を、初夢と言うたらしいのである。だが、暦法のこぐらがりから、初夢と宝船とが全然離れ〳〵になつたり、宝船その物が、好ましい初夢を載せて来るものゝ様に考へ縺らかしたりして了うたのであつた。
初夢と宝船とに少しの距離を措く必要があつたからこそ、江戸の二日初夢などの風が出来た。除夜の夢と新年の夢とには、区別を立てねばならなかつた。除夜の夢の為の宝船が、初夢と因縁深くなつてからは、さうした隠約の間の記憶は二つの間に区劃をつけて居るに拘らず、初夢のつき物として、宝船まで二日の夜に用ゐられるのであつた。ともかくも初夢が、元朝目の覚めるに先つて、見られたものを斥した事は疑ひがない。
処で、宝船の方は、節分の夜か除夜かに使ふのが原則であつた。宮廷や貴族の家々で、其家内に起居する者は勿論、出入りの臣下に船の画を刷つた紙を分け与へることは、早く室町時代からあつた。牀の下に敷いて寝た其紙は、翌朝集めて流すか、埋めるかして居る。だから、此船は悪夢を積んで去るものと考へたところから出た事が解る。今見る事の出来る限りの宝船の古図は、其が昔物ほど簡単で、七福神などは載せては居ない。併しあまり形の素朴なものも却て、擬古のまやかし物と言ふ疑ひがあるから信じられないが、石橋臥波氏の研究によると、荒つぽい船の中に稲を数本書き添へたものが、一等古いものと考へられて居る。画の脇に「かゞみのふね」と万葉書きがしてある。
次は米俵ばかりを積んだ小舟の画と言ふ順序である。こゝまでは疑はしい。が、其後の物になると帆じるしに「獏」の字があり、船の外にのしるしが書いてある。更に此が意匠化して、向ひ鍵の紋になり、獏の字も縁起のよい字か、紋所と変つて居る。其からは段々七宝の類を積み込み、新しいところで、七福神を書きこんでゐる。のしるしは、疑ひもなく呪符の転化したものであり、此画まで来る間に年月のたつて居る事を見せて居る。獏は、凶夢を喰はせる為であるから、「夢違へ」又は「夢払へ」の符と考へられて居たに違ひない。一代男を見ても、「夢違ひ獏の符」と宝船とが別物として書かれて居る。畢竟除夜又は節分の夜、去年中の悪夢の大掃除をして流す船で、室町の頃には、節分御船など言はれたものが、いつか宝船に変つたのであつた。船にすつかり乗せて了うた後、心安らかに元旦又は立春の朝の夢を見たものであつた。
かう言ふ風に、殆ど一紙の隔てもない処から、初夢を守る為の物と言ふ考へも出て来た。逐ひやらふべき船が、かうして宝の入り舟として迎へられる事になつた訣だ。が、宝船元を洗へば獏の符なのであつた。更に原形に溯つて見ると、単に夢を祓ふ為ではなかつたらう。神聖なる霊の居処と見られた臥し処に堆積した有形無形数々の畏るべき物・忌むべき物・穢はしい物を、物に托して捐てゝ、心すがしい霊のおちつき場所をつくる為である。(臥し処・居処を其人の人格の一部と見たり、其を神聖視する信仰は、古代は勿論近世までもあつた。)
此風習の起りの一部分は、確かに上流にある。上から下に船の画を与へる様子は、大祓その儘である。穢れた部分全体を托するものとして「形代」と言ふ物が用ゐられた。此で群臣の身を撫でさせたのを、とり集めて水に流したのが、大祓の式の一等衰へた時代の姿であつた。此船の画は、とりも直さず大祓式の分岐したものなる事は、其行ふ日からしても知れる。其上、尚、大殿祭に似た意味も含まれてゐる。其家屋に住み、出入りする者に負せた一種の課役のやうなものである。其等の無事息災よりも、まづ其人々の宗教的罪悪(主として触穢)の為に、主人の身上家屋に禍ひの及ばない様にするのであつた。此風が陰陽師等の手にも移つたものと見えて、形代に種類が出来て、禊の為の物の外、かうした意味の物が庶民にも頒たれる様になり、遂には呪符の様な観念が結ばれて来たらしい。神社などの中にも「夢違ひ」の呪符の意味で、除夜・節分の参詣者に与へる向きが出来たのである。併しかうした風習の民間に流布したのは、陰陽師の配下の唱門師等の口過ぎに利用した結果が多いのである。
けれども、此が庶民の間にとり容れられたには訣がある。前々からあつた似た種に、新来の様式がすつぽりとあてはまつたからなのだ。宝船に書き添へた意味不明の廻文歌「ながき夜のとおの眠りの皆目覚め……」は一種の呪文である。不徹底な処に象徴的な効果があるのだが、釈る部分の上の句は、人間妄執の長夜の眠りを言ふ様ではあるが、実は熟睡を戒しめた歌らしい。海岸・野山の散居に、深寝入りを忌んだ昔の生活が、今も島人・山民などの間に残つて居る。夜の挨拶には「お安み」の代りに「お寝敏く」の類の語を言ひ交す地方が、可なりある。此考へが合理的になると、百姓の夜なべ為事に居眠りを戒しめるものとして「ねむりを流す」風習が、随分行はれて居る。柳田国男先生の考へでは、奥州の佞武多祭りも、夜業の敵なる睡魔を祓へる式だとせられて居る。熟睡を戒しめる必要のなくなつた為に、さうした解釈をして、大昔の祖先からの戒しめを、無意味に守つて居るのである。此「眠り流し」の風も元は、船に積む形を採つた事と思はれる。
四 蚤の浄土
而も、まだ海河に祓へ捐つべき物が、臥し処には居る。其は牀虫の類で、蚤を以て代表させて居る。おなじ奥州仙台附近には「蚤の船」と言ふ草がある。節分の夜(?)に、其葉を寝牀の下に敷いて寝れば、蚤は其葉に乗つて去ると伝へてゐるよしを谷川磐雄氏から聞いた。さて、其牀虫は「蚤の船」に便乗して、どこへ流れて行くのか。縁もゆかりもなさ相な琉球本島では、初夏になると、蚤は麦稈の船に乗つて、麦稈の竿をさして、にらいかないからやつて来ると言ひ「にらいかないへ去つて了へ」と言うて蚤を払ふ。にらいかないの説明が私どもの祖先の考へて居たとこよの国と近よつて来るのである。
にらいかないと言ふのは、海の彼方の理想の国土で、神の国と考へられてゐる処である。儀来河内、じらいかないなど、色々に発音する。神はこゝから時に海を渡つて、人間の村に来るものと信じて居る。人にして、死んでにらいかないに行つて、神となつたものゝ例として遺老説伝には記してゐる。南方、先島列島に行くと、此浄土の名をまやの国といふ。先島列島の中、殊に南の島々の寄百姓から出来た八重山の石垣島は、此場合挙げるのに便宜が多い。
宮良といふ村の海岩洞窟から通ふ地底の世界にいる(又、にいる底)と言ふのがあるのは、にらいと同じ語である。此洞からにいるびと(にらい人)又はあかまた・くろまたと言ふ二体の鬼の様な巨人が出て、酉年毎に成年式を行はせることになつてゐる。青年たちは神と言ふ信念から、其命ずる儘に苦行をする。而も村人の群集する前に現れて、自身踊つて見せる。暴風などもにいるから吹くと言つてゐる。さう言へば、本島でも風凪ぎを祈つて「にらいかないへ去れ」と言ふことを伊波普猷氏が話された。にらいかないは本島では浄土化されてゐるが、先島では神の国ながら、畏怖の念を多く交へてゐる。全体を通じて、幸福を持ち来す神の国でもあるが、禍ひの本地とも考へて居るのである。唯先島で更に理想化して居るのは、にいるを信じる村と、以前は違つた島々に違うた事情で住んでゐた村々の間で言ふ、まやの国である。春の初めにまやの神・ともまやの神の二神、楽土から船で渡つて来て、蒲葵笠に顔を隠し、簑を着、杖をついて、家々を訪れて、今年の農作関係の事、其他家人の心をひき立てる様な詞を陳べて廻る。つまり、祝言を唱へるのである。にいるびともやはり成年式のない年にも来て、まやの神と同様に、家々に祝言を与へて歩くことをする。
五 祖先の来る夜
かうした神々の来ぬ村では、家の神なる祖先の霊が、盂蘭盆のまつ白な月光の下を、眷属大勢ひき連れて来て、家々にあがりこむ。此は考位の祖先の代表と謂ふ祖父と、妣位の代表と伝へる祖母と言ふのが、其主になつて居る。大人前は、家人に色々な教訓を与へ、従来の過ち・手落ちなどを咎めたりする。皆顔を包んで仮装してゐるのだから、評判のわるい家などでは、随分恥をかゝせる様なことも言ふ。其家では、此に心尽しの馳走をする。眷属どもは、楽器を奏し、芸尽しなどをする。
此行事は「あんがまあ」と言ふ。語原は知れぬが、やはり他界の国土の名かと考へられる。私はある夜此行列について歩いて、人いきれに蒸されながら考へた。有名な「千葉笑ひ」、京都五条天神の「朮参り」の悪口、河内野崎参りの水陸の口論、各地にあつたあくたい祭りは、皆かうした所に本筋の源があるのではなからうか。さう思つてゐる中に、大人前がずつと進んで出て、郡是として、其年から励行する事になつた節約主義を、哄笑を誘ふ様な巧みな口ぶりであてこすつた。村の共通な祖先が出て来て、子孫の中の正統なる村君のやり口を難ずるのに対して、村君も手のつけ様がなかつた理由が知れる。其が尚他の要素を含んで、あくたいの懸け合ひが生れて来たのであらう。
此三通りの人と神との推移の程度を示す儀式が、石垣一島に備つてゐるのである。此神も人も皆、村の青年の択ばれた者が、厳重な秘密の下に、扮装して出るのである。先島の祖先神は、琉球本島から見れば極めて人間らしいあり様を保つて居る。にいる人と言ふ名は、神の中に人間の要素を多く認めてゐるからなのである。而も、島人の中には、にいるを以て奈落の首将と考へて居る人もある程に、畏怖せられる神である。其は、地下の死後の世界の者で、二体と考へてゐるのは、大人前・祖母の対立と同じ意味であらう。さすれば、死の国土に渡つて後、さうした姿になつたと考へたか、元々さうした者の子孫として居たのか識らぬが、同根の語のにらいかないの説明には役立つ。
にらいに対するかないは対句として出来た語で、にらいが知れゝば、大体は釈ける。にらいかないは元、村の人々の死後に霊の生きてゐる海のあなたの島である。そこへは、海岸の地の底から通ふ事が出来ると考へる事もある。「死の島」には、恐しいけれど、自分たちの村の生活に好意を期待することの出来る人々が居る。かうした考へが醇化して来るに連れて、さうした島から年の中に時を定めて、村や家の祝福と教訓との為に渡つて来るものと考へる事になる。而も、此記憶がさうなつて久しい後まで断篇風に残つて居て、楽土の元の姿を見せて居るのである。
琉球諸島の現在の生活──殊に内部──には、万葉人の生活を、その儘見る事も出来る。又、万葉人以前の俤さへ窺はれるものも、決して尠くない。私どもの古代生活の研究に、暗示と言ふより、其儘をむき出しにしてくれる事すら度々あつた。私は今、日琉同系論を論じてゐるのではない。唯、東亜細亜の民族と同系を論ずる態度と、一つに見られたくない。此論が回数を重ねるほど、私の語は、愈裏打ちせられてゆくであらう。
六 根の国・底の国
祓禊の基礎となる観念は、やはり唯海原に放つだけではなく、此土の穢れを受けとる海のあなたの国を考へて居たものと思はれる。船に乗せて流す様式が、祓の系統にあると言ふ事は、其行き着く土を考へに持つて居るのである。「かくかゝ呑みてば、気吹戸にいますいぶきどぬしと言ふ神、根の国・底の国にいぶき放ちてむ。かくいぶき放ちてば、根の国・底の国にいますはやさすらひめと言ふ神、持ちさすらひ失ひてむ」とある六月晦大祓の詞は、必しも此土に居た古代人の代表的な考へと言ひきる事も出来まいし、又祝詞の伝誦が、久しく口頭に委ねられて居る間の自然の変化や、開化時代相応の故意の修正のある事が考へられるのであるから、多少注意はいる。が、日本の宗教が神学体系らしいものを持つて後も根の国を海に絡めて言つて居るのは、唯の平地や山辺から入るものとし、単に地の底とばかりで、海を言はぬ神話などよりは、形の正しさを保つて居るものと言ふ事が出来る。出雲風土記出雲郡宇賀郷の条に、
即、北海の浜に磯(大巌石の意)あり。名はなつきの磯と言ふ。高さ一丈許。上に松の木を生ず。磯までは、邑人朝夕に往来する如く、又木の枝も人の攀引する如くなれども、磯より西の方に、窟戸あり、高さ広さ各六尺許。窟内に穴あり。人入ることを得ず。深浅を知らず。夢に此磯の窟の辺に至る者は、必死す。故に俗人古より今に至る迄号けて黄泉の阪黄泉の穴と言へり。
夢にでも行けば死ぬと言ふので、正気では、巌の西に廻らないのである。(伯耆の夜見島大根島などを夜見の国・根の国に聯想した先人の考へも、地方から近きに過ぎる様に思はれるが、島を死の国と見た処は、姑らく棄て難い。海上遥かな死の島への道が、海底を抜けて向うへ通じて居ると言ふ考へが一転すると、海底にある国と言ふ様に変る。出雲風土記のも、或はさうした時代の考へ方に属してゐるのかも知れない。大祓詞の方も、底の国といふ語に重きをおいて考へれば、海中深く吹き込むと説ける。併し又、遠隔した死の島へ向けて吹きつけるともとられる様で、どうでも解釈は出来る。何にしても、出雲びとも、大倭びとも、海と幽冥界とを聯絡させて考へて居たと思うてもよい様である)。
七 楽土自ら昇天すること
奄美大島から南の鹿児島県下の島々は、どの点からでも、琉球と一と続きの血筋であるが、琉球の北端から真西に当る伊平屋群島をこめて、なるこ・てること言ふ理想国を考へてゐる。伊平屋は、南方のまやの国の考へも持つて居た様だし、琉球本島のにらいかないをも知つて居た事は、巫女の伝誦して居た神文をば証拠にする事が出来る。尚、琉球本島の宗教で、にらいかない以上のものとしたをぼつかぐらと言ふ地の名さへ唱へた様である。本島では、天の事をあまみやと言つた様に見えるが、此も神の名あまみきょ・しねりきょから想像出来るあまみ・しねりも楽土の名から出たものらしい。をぼつかぐらなる天上の神の国が琉球の信仰の上に現れたのは、当時の人の考へ得た限りでの、全能な神を欲する様になつてからの事であらう。私どもの今の宗教的印象を分解して見ても、幽冥界に属してゐる者は、一つに扱うて居る場合が多い。単に神の住みかと言ふだけではない。悪魔の世界なる内容も持つて居る。神・悪魔・死霊など、其性質に共通した点が尠くない。其著しい点は、皆夜の世界に属する事である。鶏鳴と共に顕明界に交替するからだ。一番鶏に驚いて事遂げなかつたのは、魔や霊に絡んだ民譚だけではない。神々すら屡鶏の時をつくる声の為に、失敗した事を伝へてゐる。尊貴な神にすら、祭りの中心行事は、夜半鶏鳴以前に完へる事になつて居る。わが国の神々の属性にも存外古い種を残してゐるので、太陽神と信じて来た至上神の祭りにすら、暁には神上げをしなければならなかつた。古今集大歌所の部と、神楽歌とに見えた昼目歌を見れば、祭りの暁の気持ちは流れこむ様に、私どもの胸に来る。昔になるほど、神に恐るべき要素が多く見えて、至上の神などは影を消して行く。土地の庶物の精霊及び力に能はぬ激しい動物などを神と観じるのも、進んだ状態で、記録から考へ合せて見ると、其以前の髣髴さへ浮んで来るのである。其が果して、此日本の国土の上であつた事か、或は其以前の祖先が居た土地であつた事かを疑はねばならぬ程の古い時代の印象が、今日の私どもの古代研究の上に、ほのかながら姿を顕して来る事は、さうした生活をした祖先に恥ぢを感じるよりも、堪へられぬ懐しさを覚えるのである。庶物の精霊に「媚び仕へ」をした時代に、私どもの祖先の生活に段々力を持つて来、至上の神に至る段階になつた神と、神の国との話をせなければならなくなつた。
くどいまでに、琉球の例をとつて来たのは、此話をすらりと通す為である。生物・無生物が、些しの好意もなしに、人居を廻つて居る事を、絶えず意識に持つた祖先の生活を考へて見ればよい。古風土記には、いづれもさう言ふ活き物としての自然と闘うた暮し方の、後々まで続いてゐた事を示す幾多の話を書きとめてゐる。記録に載つて、私どもに最遠い「古代」を示す祖先たちは、海岸から遠ざかる事を避けた村人であつたと思はれる。山地に村を構へた人々の上は、今語る古代には、まだ現れなかつたのである。記録の年立に随ふなら、神武以前の物語をする事になる。
八 まれびとのおとづれ
祖先の使ひ遺した語で、私どもの胸にもまだある感触を失はないのは「まれびと」といふ語である。「まらうど」と言ふ形をとつて後、昔の韻を失うて了うた事と思はれる。まれびとの最初の意義は、神であつたらしい。時を定めて来り臨む神である。大空から、海のあなたから、或村に限つて、富みと齢と其他若干の幸福とを齎して来るものと、村人たちの信じてゐた神の事なのである。此神は宗教的の空想には止らなかつた。現実に、古代の村人は、此まれびとの来つて、屋の戸を押ぶるおとづれを聞いた。音を立てると言ふ用語例のおとづるなる動詞が、訪問の意義を持つ様になつたのは、本義「音を立てる」が戸の音にばかり偏倚したからの事で、神の来臨を示すほと〳〵と叩く音から来た語と思ふ。まれびとと言へばおとづれを思ふ様になつて、意義分化をしたものであらう。戸を叩く事に就て、根深い信仰と聯想とを、未だに持つてゐる民間伝承から推して言はれる事である。宮廷生活に於てさへ、神来臨して門におとづれ、主上の日常起居の殿舎を祓へてまはつた風は、後世まで残つてゐた。平安朝の大殿祭は此である。
夜の明け方に、中臣・斎部の官人二人、人数引き連れて陰明門におとづれ、御巫(宮廷の巫女)どもを随へて、殿内を廻るのであつた。かうした風が、一般民間にも常に行はれてゐたのであるが、事があまり刺戟のない程きまりきつた行事になつてゐたのと、原意の辿り難くなつた為に、伝はる事尠く、伝へても其遺風とは知りかねる様になつて了うてゐたのである。此よりも古い民間の為来りでは、万葉の東歌と、常陸風土記から察せられる東国風である。新嘗の夜は、農作を守つた神を家々に迎へる為、家人はすつかり出払うて、唯一人その家々の処女か、主婦かゞ留つて、神のお世話をした様である。此神は、古くは田畠の神ではなく、春のはじめに村を訪れて、一年間の予祝をして行つた神だつたらしい。
此まれびとなる神たちは、私どもの祖先の、海岸を逐うて移つた時代から持ち越して、後には天上から来臨すると考へ、更に地上のある地域からも来る事と思ふ様に変つて来た。古い形では、海のあなたの国から初春毎に渡り来て、村の家々に一年中の心躍る様な予言を与へて去つた。此まれびとの属性が次第に向上しては、天上の至上神を生み出す事になり、従つてまれびとの国を、高天原に考へる様になつたのだと思ふ。而も一方まれびとの内容が分岐して、海からし、高天原からする者でなくても、地上に属する神たちをも含める様になつて、来り臨むまれびとの数は殖え、度数は頻繁になつた様である。私の話はまれびとと「常世の国」との関係を説かねばならなくなつた。
九 常世の国
常世の国は、記録の上の普通の用語例は、光明的な富みと齢との国であつた。奈良朝以前から既に信仰内容を失うて、段々実在の国の事として、我国の内に、此を推定して誇る風が出来て来た様である。常陸風土記に、自ら其国を常世の国だとしたのは、其一例である。人麻呂の作と推測される「藤原ノ宮の役ノ民の歌」を見ても「我が国は常世にならむ」と言うてゐるのは、藤原の都の頃既に、常世を現実の国と考へてゐたからである。此等から見ると、海外に常世の国を求める考へ方は古代の思想から当然来る自然なものである。出石びとの祖先の一人たるたぢまもりが「時じくの香の木実」を採りに行つたと伝へる常世の国は、大体南方支那に故土を持つた人々の記憶の復活したものと見る事が出来る。此史実と思はれてゐる事柄にも、若干民譚の匂ひがある。垂仁天皇の命で出向いた処、還つて見れば、待ち歓ばれるはずの天子崩御の後であつたと言ふ。理に於て不都合な点は見えぬが、常世の国なる他界と、我々の住む国との間に、時間の基準が違うてゐると言ふ民譚の、世界的類型を含んでゐる事を示してゐる。浦島子の行つたのも、やはり常世の国であつた。此物語では「家ゆ出でゝ三年のほどに、垣も無く家失せめやも(万葉巻九)」と自失したまでに、彼土と此国との時間の物さしが違うてゐた。浦島の話は、更に一つ前の飛鳥の都の頃に既に纏つて居たものらしいが、早くもわたつみの宮ととこよの国とを一つにしてゐる。海底と海のあなたとに相違を考へなくなった事は、前にも述べた通りである。
常世の国を理想化するに到つたのは、藤原の都頃からの事である。道教信者の空想した仙山は、不死常成の楽土であつた。其上帰化人の支那から持ち越した通俗道教では、仙境を恋愛の理想国とするものが多かつた。我国のとこよにも恋愛の結びついて居るのは、浦島の外に、ほをりの命の神話がある。此は疑ひなく、海中にある国として居る。唯浦島と変つて居る点は、時間観念が彼此両土に相違のない事である。此海中の地は、わたつみの国と謂はれてゐる。此神話にも、富みと恋との常世の要素が十分にはひつて来てゐる。富みの豊かな側では、古代人の憧れがほのめいてゐる。海驢の皮畳を重ね敷いた宮殿に居て、歓楽の限りを味ひながら、大き吐息一つしたと言ふのは、万葉歌人に言はせれば、浦島同様「鈍や。此君」と羨み嗤ひをするであらう。ほをりの命の還りしなに、わたつみの神の釣り鈎を手渡すとて訓へた呪言は「此鈎や、呆鈎・噪鈎・貧鈎・迂鈎」と言ふのであつた。此鈎を受けとつた者は、これ〳〵の不幸を釣上げろと呪ふのである。其上に水を自在に満干させる如意珠を贈つて居るのは、農村としての経験から出てゐるので、富みの第一の要件を握る事になるのである。貧窮を与へる事の出来る神の居る土地は、とりも直さず、富みについても、如意の国土であつた訣である。
とこよと言ふ語が常に好ましい内容を持つてゐるに拘らず、唯一つ違つた例は皇極天皇紀にある。秦ノ河勝が世人から謳はれた「神とも神と聞え来る常世の神」を懲罰した其事件の本体なる常世神は、長さ四寸程の緑色で、黒い斑点のあつた虫だつたとある。橘の樹や蔓椒に寄生したものを取つて祀つたのである。「新しき富み入り来れり」と呼んで、家々に此常世神を取つて清座に置き、歌ひ舞うたと言ふ。巫覡の託言に「常世神を祭らば、貧人は富みを致し、老人は少きに還らむ」とあつた。かうした邪信と見るべきものだが、根本の考へは、やはり変つて居ない。常世並びに常世から来る神の内容を明らかに見せてゐる。
一〇 とこよの意義
とこよと言ふ語は、どう言ふ用語例と歴史とを持つてゐるか。とこは絶対・恒常或は不変の意である。「よ」の意義は、幾度かの変化を経て、悉く其過程を含んで来た為に「とこよ」の内容が、随つて極めて複雑なものとなつたのである。「よ」と言ふ語の古い意義は、米或は穀物を斥したものである。後には、米の稔りを表す様になつた。「とし」と言ふ語が、米穀物の義から出て、年を表すことになつたと見る方が正しいと同じく、此と同義語の「よ」が、齢・世など言ふ義を分化したものと見られる。更に万葉以後或は「性欲」「性関係」と言ふ義を持つたものがある。此は別系統の語かも知れぬが、常世の恋愛・性欲方面の浄土なる考へに脈絡がある様だからあげておく。
とこよを齢の長い義に用ゐた例は沢山にある。「とこよ」と言ふ語は、古くは長寿者を直に言ふ事になつてゐる。だが、長寿の国の義から出たと説くのは逆である。「とこよ」の義には、まだ前の形があるのである。「常世の国に住みけらし」と万葉人が老いの見えぬ女の美しさを讃へたのは、長寿の国の考への外に「恋愛の国に居たから」と言ふ考へ方も含まれてゐる様である。
とこよの第一義は、遥かに後までも忘れられずにゐた。奈良盛時の大伴坂上郎女が、別れを惜しむ娘を諭して「常夜にもわが行かなくに」と言うたのは、海のあなたを意味したものとも取れるが、多少さうした匂ひをも兼ねて、其原義をはつきり見せたのである。宣長も、冥土・黄泉などの意にとつて、常闇の国の義としてゐる。常闇は時間について言ふ絶対観でなく、物処について言ふもので、絶対の暗黒と言ふ事である。此意味に古くから口馴れた成語と思はれるものに「常夜行く」と言ふのがある。かうした「ゆく」は継続の用語例に入るもので、絶対の闇の日夜が続く義である。
皇后(神功)南の方、紀伊の国に詣りまして、太子に日高に会ふ。……更に小竹ノ宮に遷る。是時に適りて、昼暗きこと夜の如し。已に多くの日を経たり。時人常夜行くと言ふ。
と日本紀にあるのは、此暗さを表すのに、語部の口にくり返されたと思はれる、成語を思ひ合せて「此が昔語りの天窟戸の条に言ふ天照大神隠れて常夜行くと言うたあり様なのだ」と考へたものであらう。此常夜は、ある国土の名とは考へられて居なかつたやうに見えるが「とこよ」の第一義だけは、釈る様である。併し尚考へて見ると、単純に「常夜の国に行つてゐる」やうなあり様と言ふ感じを表す語であつたかも知れない。さう思へば、古事記の「爾高天原皆暗く、葦原中つ国悉に闇し。此に因りて常夜往く……」とあるとこよゆくも甚固定した物言ひで、或は古事記筆録当時既に、一種の死語として神聖感を持たれた為に、語部の物語りどほりに書いたものであらう。第一義としての常闇の国土なる「とこよ」が、祖先の考へにあつた事は想像してよい。
一一 死の島
宝船の話から導いた琉球宗教の浄土にらいかないが元、死の島であつたことを説いた。私どもの国土に移り住んだ祖先のにらいかないは、実はとこよのくにと言ふ語で表されてゐたのであつた。村々の死人は元より、あらゆる穢れの流し放たれる海上の島の名であつたのである。其恐しい島が、富みと齢乃至は恋の浄土としての常世とはなつた過程は、にらいかないの思想の展開が説明してくれて居る。海岸に村づくりした祖先の亡き数に入つた人々の霊は、皆生きて遥かな海中の島に唯稀にのみあるものとせられてゐたのである。さうして、児孫の村をおとづれて、幸福の予言を与へて去る。その来るや常世浪に乗りて寄り、去る時も亦、常世浪に揺られて帰るのである。
時に、天照大神、倭姫ノ命に誨へて曰く、是の神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の美国なり。是国に居らむと思ふ。(日本紀)
子らに恋ひ、朝戸を開き我が居れば、常世の浜の浪の音聞ゆ(丹後風土記逸文)
此等は、如何にも極楽東門に向ふと言ふ様な感じであるが、更に語の陰にある古い印象を窺ふと、神の徂徠の船路を思はせるものがある。すくなひこなの神は此浪に揺られて、蘿摩の実の皮の船に乗つて、常世の国から流れ寄つた小人の神であつた。さうして去る時も粟島の粟稈に上つて稈に弾かれて常世に渡つたと言ふ。最古いものと言はれる宝船の画に「かゞみのふね」と書いてあるのは、此船がすくなひこなの命の乗り物なることを示したもので、学者の入れ智恵の疑はれる点である。唯すくなひこなの古ごとを忘れて後も、蘿摩の皮に嫌ふべきものを載せて海に棄てた風習があつたものとすれば、蚤の船の類のものとして其古さが加はる訣なのである。
とこよの国と根の国とが、一つと見え、又二つとも思はれる様になつたのは、とこよが理想化せられて、死の島と言ふ側は、根の国で表される事になつて了つた後の事である。而も、とこよは海上の島、或は国の名となり、根の国は海底の国ときまつたのである。
まれびとの来る島として、老いず死なぬ霊の国として、とこよは常夜ではなくなつて来た。恰もよし、同音異義の「よ」に富み(穀物)又は齢の意義があつた。聯想が次第に此方に移つて、事実と語と相俟つて、遂に動かされぬ富みと齢の浄土となつた事であつた。
底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
1995(平成7)年3月10日初版発行
初出:「改造 第七巻第四号」
1925(大正14)年4月
※底本の題名の下に書かれて居る「大正十四年四月「改造」第七巻第四号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※底本では「訓点送り仮名」と注記されている文字は本文中に小書き右寄せになっています。
※拗音・促音が小書きになっているところは底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2006年3月21日作成
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