大嘗祭の本義
折口信夫
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一
最初には、演題を「民俗学より見たる大嘗祭」として見たが、其では、大嘗祭が軽い意義になりはせぬか、と心配して、其で「大嘗祭の本義」とした。
題目が甚、神道家らしく、何か神道の宣伝めいた様なきらひがあるが、実は今までの神道家の考へ方では、大嘗祭はよく訣らぬ。民俗学の立場から、此を明らかにして見たい。
此処で申して置かねばならぬのは、私の話が、或は不謹慎の様に受け取られる部分があるかも知れない、といふ事である。だが、話は明白にせぬと何も訣らぬ。話を明白にするのが、却つて其を慕ふ事にもなり、ほんとうの愛情が表れる事にもなる。或は、吾々祖先の生活上の陰事、ひいては、古代の宮廷の陰事をも外へ出す様になるかも知れぬが、其が却つて、国の古さ・家の古さをしのぶ事になる。単なる末梢的な事で、憤慨する様な事のない様にして頂き度い。国家を愛し、宮廷を敬ふ熱情に於ては、私は人にまけぬつもりである。
二
まづ「にへまつり」の事から話して見る。「にへ」は、神又は天皇陛下の召し上り物、といふ事である。調理した食物の事をいふので、「いけにへ」とはちがふ。生贄とは、生のまゝで置いて、何時でも奉る事の出来る様に、生けてある贄の事である。動物、植物を通じていふ。
只今の神道家では、にへといへば、生なものをも含めて言ふが、にへといふ以上は、調理したものを言ふのである。御意の儘に、何時でも調理して差し上げます、といつて、お目にかけておくのが、生贄である。ほんとうは食べられる物を差し上げるのが、当り前である。生物を差し上げるのは、本式ではない。この贄の事から出発して、大嘗祭の話に這入りたい。
大嘗祭は、古くはおほむべまつりと言うて居る。おほんべ即、大嘗に就ては、次の新嘗・大嘗の処で話す事にして、此処では、まづまつりの語源を調べて見る事にする。此まつりといふ語がよく訣らぬと、上代の文献を見ても、解決のつかぬ事が多い。
まつりごととは、政といふ事ではなく、朝廷の公事全体を斥して言ふ。譬へば、食国政・御命購政などゝ言ふし、平安朝になつても、検非違使庁の着駄の政などいふ例もある。着駄といふのは、首枷を著ける義で、謂はゞ、庁の行事始めと言つた形のものである。ともかくも、まつり・まつりごとは、其用語例から見ると、昔から為来りある行事、といふ意味に用ゐられて居る。
私は、まつる・またすといふ言葉は、対句をなして居て、自ら為る事をまつると謂ひ、人をして為さしむる事をば、またすと謂ふのであると見て居る。日本紀を見ても、遣又は令といふ字をまたすと訓ませて居る。
一体、まつるといふ語には、服従の意味がある。まつらふも同様である。上の者の命令通りに執り行ふことがまつるで、人をしてやらせるのをまたすといふ。人に物を奉る事をまたすといふのだ、と考へる人もあるが、よくない。人をしてまつらしむる事、此がまたすと謂ふのである。させる・してやらせる、此がまたすである。
日本の太古の考へでは、此国の為事は、すべて天つ国の為事を、其まゝ行つて居るのであつて、神事以外には、何もない。此国に行はれる事は、天つ神の命令によつて行つて居るので、つまり、此天つ神の命令を伝へ、又命令どほり執り行うて居る事をば、まつるといふのである。
処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行いたしました、と神に復奏する事をも、まつるといふ様になつた。古典に用ゐられて居る「祭り」といふ言葉の意味は此で、即御命令によつてとり行ひました処が、かくのごとく出来上りました、と報告する、神事の事を謂ふのである。
まつりは、多くは、言葉によつて行はれる。即、仰せ通りに致しましたら、此様に出来上りました、と言つた風に言ふのである。此処から段々と「申す」といふ意味に変つて来る。そして、復奏する事をも「申す」といふ様になり、其内容も亦、まつるの本義に、近づく様になつて来た。
まをすとは、上の者が理会をして呉れる様に、為向ける事であり、又衷情を訴へて、上の者に、理会と同情とをして貰ひ、自分の願ひを、相手に容れて貰ふ事である。こひまをす(申請)などいふ語も、此処から出て来たのだ。此様に、大体に於ては「申す」と「まつる」とは、意義は違ふが、内容に於て、似通つた所がある。此点は又、後に言ふ事にする。
三
日本の天子様は、太古からどういふ意味で、尊位にあらせられるか。古い文献を見ると、天子様は食国のまつりごとをして居らせられる事になつて居る。だから天孫は、天つ神の命によつて、此土地へ来られ、其御委任の為事をしに来らせられた御方である。
天子様が、すめらみこととしての為事は、此国の田の生り物を、お作りになる事であつた。天つ神のまたしをお受けして、降臨なされて、田をお作りになり、秋になるとまつりをして、田の成り物を、天つ神のお目にかける。此が食国のまつりごとである。
食すといふのは、食ふの敬語である。今では、食すを食ふの古語の様に思うて居るが、さうではない。食国とは、召し上りなされる物を作る国、といふ事である。後の、治める国といふ考へも、此処から出てゐる。食すから治める、といふ語が出た事は、疑ひのない事である。天照大神と御同胞でいらせられる処の、月読命の治めて居られる国が、夜の食国といふ事になつて居る。此場合は、神の治める国の中で、夜のものといふ意味で、食すは、前とは異つた意味で用ゐられて居る。どうして、かう違ふかと謂ふと、日本の古代には、口で伝承せられたものが多いから、説話者の言語情調や、語感の違ひによつて、意味が分れて行くのである。此は民間伝承の、極めて自然の形であつて、古事記と日本紀とでは、おなじ様な話に用ゐられてゐる、おなじ言葉でも、其意味は異つて来て居る。時代を経る事が永く、語り伝へる人も亦、多かつたので、かうした事実があるのである。
さて、食国をまつる事が天子様の本来の職務で、それを命令したのは、天つ神である。古事記・日本紀では、此神を天照大神として居る。此点は、歴史上の事実と信仰上の事実とが、矛盾して居る。歴史上では、幾代もの永い間、天子様は一系で治めていらつしやる。信仰上では、昔も今も同様で、天つ神の代理者として、此土地を治めておいでになる。此土地を御自分の領土になさる、といふ様な事や、領土拡張の事などは、信仰上では、御考へなさらない。天子様は、神の言葉を此国にお伝へなさる為に、お出でになつたのである。此意味がかはつて、神に申し上げる報告の意味が、出たのである。
吾々の考へでは、働かなければ結果が得られない、と訣つて居るが、昔は、神の威力ある詞を精霊に言ひ聞かせると、詞の威力で、言ふ通りの結果を生じて来る、と信じて居た。此土地の精霊は、神の詞を伝へられると、其とほりにせねばならぬのである。貴い方が、神の詞を伝へると、其通りの結果を生じたのである。此が、まつるといふ事で、又食国のまつりごとである。
私は、祭政一致といふ事は、まつりごとが先で、其まつりごとの結果の報告祭が、まつりであると考へて居る。祭りは、第二義的なものである。神又は天子様の仰せを伝へる事が、第一義である。処が、天子様は、天つ神の詞を伝へるし、又天子様のお詞を伝へ申す人がある。そして又、此天子様の代理者の詞を伝へる人がある。かうして段々、上から下へ、と伝へる人がある。此天子様のお詞を伝へる人をまつりごと人といふ。日本紀には、大夫・宰等の文字が宛てゝある。此大夫や宰は、高い位置の官吏ではないのに、何故まつりごと人などいふ、尊い名称で呼ばれるか。此は、前に言うた様に、段々下へ〳〵と行くからである。かうした人々の事を、御言持といふ。此意味で、天子様も御言持である。即、神の詞を伝達する、といふ意味である。
神の代理をする人は、神と同様で、威力も同様である。譬へば、神ながらの道などいふ語は、天子様の為さるゝ事すべてを、斥して言ふのであつて、決して神道といふ事ではない。天子様は、神ながらの方で、神と同様といふ事である。神ながらは、信仰上の語であつて、道徳上の語ではない。此意味に於て、天子様のお言葉は、即、神の御言葉である。日本の昔の信仰では、みこともちの思想が、幾つも重なつて行つて、時代が進むと、下の者も上の者も同様だ、と考へて来た。そして鎌倉時代から、下尅上の風も生じた。日本の古来の信仰に、支那の易緯の考へ方を習合させて、下尅上と言うたのである。此話は、幾らしても限りのない事であるが、申さねば、贄祭りのほんとうの意味が知れないから、述べたのである。
古い時代のまつりごとは、穀物をよく稔らせる事で、其報告祭がまつりである事は、前にも述べた。此意味に於て、天子様が人を諸国に遣して、穀物がよく出来る様にせしむるのが、食国の政である。処が穀物は、一年に一度稔るのである。其報告をするのは、自ら一年の終りである。即、祭りを行ふ事が、一年の終りを意味する事になる。此報告祭が、一番大切な行事である。此信仰の行事を、大嘗祭と言ふのである。
此処で考へる事は、大嘗と、新嘗との区別である。新嘗といふのは、毎年、新穀が収穫されてから行はれるのを言ひ、大嘗とは、天子様御一代に、一度行はれるのを言ふのである。処が「嘗」といふ字を宛てたのは、支那に似た行事があつて、それで当てたのである。新嘗の用語例を蒐めて考へて見ると、新穀を召し上るのを、新なめとは言へない。なめるといふ事には、召食るの意味はない。日本紀の古い註を見ると、にはなひといふ事が見えて居る。万葉集にも、にふなみといふ言葉があり、其他にへなみと書かれた処もある。
今でも、庄内地方の百姓の家では、秋の末の或一日だけ、庭で縄を綯ひ、其が済むと、家に這入る。此を行ふには、庭へ竈を造つて、其日一日は、庭で暮すらしい。日本紀の古註に見える庭なひと言ふのは、其であらう。此事は、考へて見ると、一種の精進で、禁慾生活を意味するのである。だが、庭で縄を絢ふから、庭なひだとしてはいけない。此には、何かの意味があつて、庭で縄を綯ふのであらう。
にはなひ・にふなみ・にひなめ・にへなみ、──此四つの用語例を考へて見ると、にへ・には・にふは、贄と同語根である事が訣る。此四つの言葉は、にへのいみといふことで「のいみ」といふことが「なめ」となつたのである。発音から見ても、極近いのである。結局此は、五穀が成熟した後の、贄として神に奉る時の、物忌み・精進の生活である事を意味するのであらう。新しく生つたものを、神に進める為の物忌み、と言ふ事になるのである。神様の召し上りものが、にへであることは、前にも言うた通りであるが、同時に、天子様の召し上りものも亦、にへである。さうすると、新嘗の大きな行事であるから、大にひなめといひ、それからおほんべとなつたことが訣る。
此大嘗と新嘗とは、どちらが先かは問題であるが、大嘗は、新嘗の大きなものといふ意味ではなくて、或は大は、壮大なる・神秘なるの意味を表す敬語かも知れぬ。此方が或は、本義かも知れぬ。普通には、大嘗は天皇御一代に一度、と考へられて居るが、古代ではすべて、大嘗であつて、新嘗・大嘗の区別は、無かつたのである。何故かと言ふと、毎年宮中で行はれる事は、尠くとも御代初めに、行はれる事の繰り返しに過ぎない、といふ古代の信仰から考へられるのである。御代初めに一度やられた事を、毎年繰り返さぬと、気が済まぬのであつた、と見るべきである。其が新嘗である。新嘗のみではなく、宮中の行事には、御代初めに、一度行へば済む事を、毎年繰り返す例がある。だから、名称こそ新嘗・大嘗といへ、其源は同一なものである。
此新嘗には、生物のみを奉るのではなく、料理した物をも奉る。其前には長い〳〵物忌みが行はれる。単に、神秘な穀物を煮て差し上げる、といふのみの行事ではない。民間には、其物忌みの例が残つて居る。常陸風土記を見ると、祖神が訪ねて行つて、富士で宿らうとすると、富士の神は、新粟の初嘗で、物忌みに籠つて居るから、お宿は出来ない、と謝絶した。そこで祖神は、筑波岳で宿止を乞うた処が、筑波の神は、今夜は新嘗をして居るが、祖神であるから、おとめ申します、といつて、食物を出して、敬拝祇承つた、とある。此話は、新嘗の夜の、物忌みの事を物語つたものである。此話で見る様に、昔は、新嘗の夜は、神が来たのである。
猶、万葉集巻十四に、
にほとりの 葛飾早稲をにへすとも、そのかなしきを、外に立てめやも
誰ぞ。此家の戸おそぶる。にふなみに、わが夫をやりて、斎ふ此戸を
新嘗の夜の、物忌みの有様の見えて居る歌である。此歌などは、もう神の来る事が忘れられて、たゞの男女関係の歌のやうに見えるが、猶、神が来たといふ原義が見えて居る。神の来たのが、愛人が来るやうに考へられて来たのだ。ところが、この新嘗に似た行事が、まだ他にもある。其は神嘗祭である。そこで、神嘗祭の話に移る。
四
神嘗祭・神今食・相嘗祭、此三つは新嘗祭に似て居る。だから、まづ神嘗祭から話を進めて見る。これは、新嘗祭と相対して行はれた祭りであつて、九月に行はれる。伊勢の神宮に早稲の走穂を奉る祭りであると考へられて居る。天子様の新嘗に先立つて行はれる。此より前の六月と十二月とにも同様な行事が行はれる。神今食といふのが其である。此神今食を、或人々は「かむいまけ」と読んで、新米を奉るのだとして居るが、十二月の方はともかくも、六月には、まだどの様にしても、新米は出来ないから、此説は同意出来かねる。猶、神今食に奉るものは、早稲の初穂ではなくて、古米を奉るのであらう、と私は考へて居る。
だが、従来、神今食と、神嘗と、新嘗とは、区別が判然して居ない。私は、新米を奉るのと、古米を奉るのとの違ひであらう、と考へて居る。何故かと言ふと、神今食の直前に行はれるのに、月次祭がある。此は、六月と十二月とに行はれる。つまり、一年を二つに分けて、行うたのである。此事は、平安朝に見えて居る。この月次祭の後、直に、つゞいて行はれるのが、神今食である。月次祭の時は、日本中の大きな社の神々が、天子様の許に集まつて来る。その集まつて来た神々に、天子様が、物を食べさせて、おかへし申すのが、神今食である。
一年に二度行ふといふのは、大切な祭りは、一年を二期に分けてする習慣が出来てからの事である。つまり、夏の終りを年の終りと考へ、又、年の終りの冬毎に神が来る。其神に御馳走して帰すのが、神今食である。此は、よく考へて見ると、新嘗を二つに分けて、日をちがへて行つた、といふ事になる。月次祭は、新嘗祭の変化したもので、新嘗祭を行ふ中に、変態な習慣が行はれ出したのである、と考へられる。
神嘗祭とは、諸国から奉つた処の、早稲の走穂を、宮廷で整理して置かれて、九月になつてから、伊勢の大神に奉られることである。諸国から、初穂を朝廷へ奉る使を、のさきのつかひといふ。荷前使と書くのである。古くから神嘗祭と言うたか、どうか。或は、新嘗といふ支那訳が出来てから後に、神の新嘗といふ意味から、神嘗と言うたのかも知れぬ。ともかくも、神嘗祭は、前に言うた相嘗祭と、関聯させて話さねばならぬ。
諸国から稲穂を奉るのは、鎮魂式と関係があるから、此処で話して置く。諸国から稲穂を奉るのは、宮廷並びに、宮廷の神に服従を誓ふ意味なのである。日本では、稲穂は神である。其には、魂がついて居る。国々の魂がついて居る。魂の内容は、富・寿命・健康等である。諸国から米を差し上げるのは、此等の魂を差し上げる事になる故に、絶対服従といふ事になる。米の魂が身に入ると強くなり、寿命が延び、富が増すのである。そして、此魂たる米を差し上げることを、みつぎといふ。たゞつぎといふ事もある。
かうして、諸国から差し上げた稲穂を、天子様は、御自分で召食らぬ先に、上の方で居られる処の伊勢の大神に奉られる。奉り物は、料理した御飯と、料理せない稲の穂のまゝのを二通り、はざ木にかけて、差し上げる。此をかけぢからといふ。かうして、諸国から到来した米を、天子様が自ら、伊勢の大神に差し上げるのは、祖神に魂を差し上げる事になり、即服従を誓はれる事になるのである。
かうした関係は、民間にもある。本家・中本家・小本家といつた風に分れて居る家では、各の家で、子分を持つて居る。其子分が小本家へ奉つた物を、小本家では中本家へ、中本家では、小本家から奉つたものと、自分の子分の奉つたものとを一処にして、大本家へ差し上げる。此場合には、到来物だから差し上げます、と言うて奉るのである。かうして子方から、次第に、上へ差し上げて行く。すると、献上物としての威力は、其効力を増し、且強くなる。此は信仰上の事実であつた。
上述の様な次第で、神嘗と新嘗とは、大分違つたものである。新嘗は、後にこそ刈り上げ祭りの様になつて居るが、ほんとうは、神の命令に依つて行つた、農事の報告であり、神嘗は、諸国から宮廷へ奉つた稲穂を整理して、更に、伊勢大神宮へ奉る行事である。処が、諸国から奉つた稲の魂を、天子様が更に、上位の神に奉られる行事は、他にもある。即、相嘗祭で、十一月の中の卯の日に行はれる。卯の日が二度しかない時は、上の卯の日に行はれる。新嘗祭よりは、一まはり先の卯の日に行はれるのである。此時は、宮廷から畿内の近辺の大きな社に、稲穂を供へる。此が、相嘗祭である。又、天子様のお血筋や、外戚の陵墓にも奉る。此を荷前といふ。
約言すると、地方から、宮廷へ奉る処の稲の初穂を、九月に入つて、伊勢へ奉るのを神嘗といひ、其他の神々又は、大きな社に奉るのを相嘗と言ひ、陵墓に奉るのを荷前と言ふのである。何れも、新嘗祭と前後して行はれたのである。本来は、神に奉るのは相嘗と云ひ、其以下の神で、而も天子様の尊敬する神、又は、天子様の御血つゞきの方に差し上げるのを荷前、と言うたのである。
此等の行事が済んだ後で、新嘗祭が行はれたのだ。新嘗祭は正式には、十二月の中の卯の日に行はれたのである。此処で問題となるのは、卯の日といふ干支を用ゐる事が、果して、古代からあつたかどうか、と言ふ事である。現在知り得る範囲では、日を数へる事よりは、干支を数へる暦法の方が古い、と云へよう。尠くも、支那の古い暦法を伝へた漢人種や、朝鮮人種が、天孫民族と同時に、或はそれ以前に、渡来して居た事は事実である。
新嘗祭其他、すべての行事をするのに、干支に依つて定められる以前は、占ひによつてきめた。此がいつの間にか、干支に依つて、定められるやうになつたのである。かうして日を定めて、十一月の中の卯の日、又は、下の卯の日に、新嘗祭をするのである。此を秋の祭りといふ。
延喜式の祝詞を見ると、大和の龍田の風神祭祝詞がある。此は、五穀の稔る事を祈り、さて稔ると、斯様々々に出来ました、と言うて、秋祭りをして、五穀を奉るのである。此処の秋祭りといふのは、四季でいふ「秋」ではなくて、新嘗祭といふ意味であつて、農事に関係ある語である。処が、相嘗祭は、龍田風神祭の詞の中には、見えては居ないが、古から無かつたとは見られない。中世から、何かの原因で絶えた、と見るべきである。
祝詞の、秋祭りに就て考へて見ても、新嘗、又は相嘗は、今の暦法上の秋ではない。だが、其を秋祭り、と古くから言うて居る処を見ると、秋に就ての考へ方が、昔と今とでは差異があつたのであらう。事実、地方の秋祭りは、早稲の刈り上げ前に行はれるのであつて、晩稲の刈り上げが済んでからやるのは、正式の秋祭りではなくて、其は家々の祭りである。何故、斯うして家々即、地方では、早く秋祭りをするか、と言ふと、朝廷へ奉る荷前の使と同時に、国々の神の祭りをする為である。朝廷の新嘗祭と前後して、諸国で神に差し上げる。此が秋祭りの始めである。もう一つ、後の理由であるが、稲の花の散つた後が大切だから、やるのである。
此二つの考へが一つになつて、今の秋祭りが行はれるのである。だから、今民間に行はれて居る秋祭りは、ほんとうの秋祭りとしてのものではなくて、寧、家々の祭りと見てよろしい。社の祭りではないのである。新嘗祭と同様なものが、ほんとうの秋祭りである。田舎の秋祭りは、新嘗祭よりも、早く行はれる。新嘗を中心にして考へると、少しく変だが、認容出来ぬ事はない。前に挙げた処の「にほどりの」と言ふ歌にしても、其地方で勝手に、祭りを行うた処から、出来た歌で、宮廷よりは先に、行つた消息が窺はれる。
宮廷の新嘗祭は、日本中の稲の総括りの様なものである。秋祭りには、前述の意味と、もう一つは、冬祭りともいふべき程の意味とがある。さて、秋祭りが、同時に冬祭りに当るのに、どうして冬祭りと言はぬかといへば、其は、秋祭りには、祭りの最古い意味があるが、冬祭りは、少し意味が違つて居るからである。
五
私の考へでは、一夜の中に、秋祭り・冬祭り・春祭りが、続いて行はれたものであつて、歳の窮つた日の宵の中に、秋祭りが行はれ、夜中に冬祭りが行はれ、明け方に春祭りが行はれるのである。
そして、続いて、初春の行事が行はれる、といふ順序である。此が後に、太陰暦が輸入せられてから、秋・冬・春といふ暦法上の秋・冬・春が当て篏められて、秋祭り・冬祭り・春祭りとなり、更に其中へ夏祭りが、割り込んで来たものと思ふ。
冬祭りとは何かと言ふと、歳、窮つた時期に、神がやつて来て、今年の出来たものを受けて、報告を聞き、家の主人の齢を祝福し、健康の寿ぎをする所の、祭りを言ふのである。古い書物を見ると、秋祭りの晩には、尊い方がやつて来られた事が、書いてある。神の来られた事を忘れた後には、自分よりも身分の高い人を頼んで、来て貰つて居る。後世の宴席に、又は祭事に当つて、正客の習慣は、遠い昔に、其起原のある事が知れる。即、秋祭りとは、主人より遠来の神に、田畑の成績の報告をする事である。そして冬祭りとは、此秋祭りが済んで、客神が主人の為に、生命の寿ぎと、健康の祝福とをする事である。同席で行はれても、両者の間には、区別は明らかにある。
此処で「冬」といふ言葉を考へて見る。ふゆは、殖ゆで、分裂する事・分れる事・枝が出る事などいふ意味が、古典に用ゐられてゐる。枝の如く分れて出るものを、取扱ふ行事が、冬の祭りである。ふゆは、又古くは、ふると同じであつた。元来、ふるといふ事は、衝突する事であるが、古くは、密着するといふ意味である。此処から「触れる」といふ意味も出て来る。
日本の古代の考へでは、或時期に、魂が人間の身体に、附着しに来る時があつた。此時期が冬であつた。歳、窮つた時に、外から来る魂を呼んで、身体へ附着させる、謂はゞ、魂の切り替へを行ふ時期が、冬であつた。吾々の祖先の信仰から言ふと、人間の威力の根元は魂で、此強い魂を附けると、人間は威力を生じ、精力を増すのである。
此魂は、外から来るもので、西洋で謂ふ処のまなあである。此魂が来て附着する事を、日本ではふるといふ。そして、魂の附着を司る人々があつた。毎年、冬になると、此魂を呼んで附着させる。すると春から、新しい力を生じて活動する。今から考へると、一生に只一度つければよい訣だが、不安に感じたのでもあらう。毎年繰り返した。新嘗を毎年、繰り返すのと同じ信仰で、魂は毎年、蘇生するものだ、との考へである。此復活の信仰は、日本の古代には、強いものであつた。
古代信仰に於ける冬祭りは、外来魂を身に附けるのだから、ふるまつりである。処が後には、此信仰が少し変化して、外来魂が身に附くと同時に、此魂は、元が減らずに分割する、と考へて来た。此意味が、第二義のふゆまつりである。
日本紀の敏達天皇の条を見ると、天皇霊といふ語が見えて居る。此は、天子様としての威力の根元の魂といふ事で、此魂を附けると、天子様としての威力が生ずる。此が、冬祭りである。処が後には、或時期に於て、此魂は分割するのだ、と考へ出して来た。そして分割の魂は、人々に分けてやつた。此分割の一つ〳〵の魂は、着物を以てしるしとした。一衣一魂として、年の暮に、天子様は、親しく近い人々に、着物を分配してやられた。此を御衣配といふ。天子様以下の人に於ても、やはり、家々の氏ノ上の魂は分割する。其を衣に附けて分配した。此を衣配りというた。此が近世まで続いて、武家時代になつても、召し使ひに為着せを呉れるといふ習慣があつた。
此魂の分割、衣分配の信仰は、冬祭りの第二義である。此祭りの事を鎮魂式といふのである。たまふり、又はみたまふりといふ。後世になると、たましづめといふ。たましづめといふのは、人間の魂が或時期に於て、游離し易くなるから、其を防ぐ為と、又既に、游離した魂を落ちつかせる為で、此考へ方は、後のものである。支那にも、此に似た行事があつて、鎮魂と謂うて居た処から、日本のたまふりをも鎮魂と訳したのである。その大元は、外来魂を身に附ける事が、第一義。更に、分割の魂を、人々の内身へ入れてやる事。此が、第二義。そして、鎮魂を意味するのが、第三義である。
此鎮魂の行事は、非常に重大なもので、宮廷では、十一月中に、日を卜ひ定めて行うた。処が、たまふりの祭りの中にも、もう一つ違つた祭りがある。それは、魂を附着する、といふ意味の理会が変つて、目下の者が、自分の主人又は、長上の人に服従を誓ふ為に、自分の魂の主要なものを、相手の長上なり、主人なりに献上して了ふといふ祭りである。それで主人或は、目上の人は、元来の自分の魂と、目下が持つて来て奉つた魂とを合せて持つ事になるから、上位の人となる。此行事がやはり、天子様の御代初めに行はれた。其が又、新嘗の如く、毎年繰り返される事になつた。此行事も亦、みたまふりの一の意味である。
上述の如く、生きて居る人が、自分の魂の大部分を、長上に奉る事をみつぎといひ、目下が献つた数多の魂と、元来天子様の持つて居られる魂とを一処にして、其を分割して臣下が頂くのをば、みたまのふゆといふ。そして、此為の行事即、祭りの事をみたまのふゆ祭りといふ。結局冬祭りは、魂分割の祭りで、年の暮には、此魂の切り替へに関する行事が、いろ〳〵と行はれた。後世になると、年に二度、盆と年の暮れとに行はれた。更に其が、盆と正月とに行はれる事になつた。
元来、冬祭りと秋祭りとは、引続いて一日の中に行はれたのであつたが、漸次分れて来て、秋祭りを十一月、冬祭りを十二月に行ふ様になつた。かうなつて来てからは、十一月に行はれるのをば鎮魂祭といひ、十二月に行はれるのを、普通には御神楽といひ、内侍所の御神楽ともいふ。此二つは共に、鎮魂祭である。十一月の方の祭りは、元来日本にあるみたまふりの祭りで、十二月の方のは、後に、宮中へ這入つて来た処の鎮魂の祭りである。
天子様に、下から魂を差し上げる時期は、大体に於て、冬の祭りと一定して居つたが、後には、春行はれることになつた。併し、処によると、違つた時期にも差し上げた。此は、国や家によつて、違つてゐるのである。譬へば、出雲の国造家では、国造の代替りには、其年と、其年の翌年と、引続いて二度、京都へ出て来て、天子様に魂を奉る儀式をした。
六
前にも言うた通り、宮廷の鎮魂式には、三通りある。
一、猿女の鎮魂 鈿女の鎮魂法の事をいふ。高天原伝来のもの。
二、物部の鎮魂 物部氏に伝来されて居る処の石ノ上鎮魂法。
三、安曇の鎮魂 奈良朝の少し前、宮廷へ這入つた、と見るべき鎮魂法。
此三つの中、猿女鎮魂と、石ノ上鎮魂とは、合体して了うた。最後に這入つた処の、阿曇の鎮魂式は、海人部の者が取扱つたもので、此は、特殊な面白味があつたので、日本元来のみたまふりとは異つた待遇を受けて、十二月に行はれる事になつた。古来の日本流のがみたまふりで、阿曇のは、たましづめの意義が、主なる要素をなして居る。外来魂を身に附けるのが、古い意義の、日本伝来のみたまふりで、魂の発散を防止し、且既に、発散した魂をして、鎮まらせる。此が、阿曇のたましづめ即、御神楽である。
とにかく、鎮魂式といふのは、群臣から天子様に、魂を差し上げる事だ、とわかればよい。同時に、冬というても、時代によつては、十月の事でもあり、十一月の事でもあり、又十二月の事でもあつた、といふ事を承知してかゝらねばならぬ。
此鎮魂を行ふと、天子様はえらくなる。併し、かうした行事を毎年やるのは、どうした事か。一代に一度やれば、よろしいのであるが、昔の人は、魂は一年間活動すると、もう疲れて役に立たなくなる、と考へて居たから、毎年やるのである。毎年々々、新しく復活して来ねばならぬ、と考へて居つたからである。
恐れ多い事であるが、昔は、天子様の御身体は、魂の容れ物である、と考へられて居た。天子様の御身体の事を、すめみまのみことと申し上げて居た。みまは本来、肉体を申し上げる名称で、御身体といふ事である。尊い御子孫の意味であるとされたのは、後の考へ方である。すめは、神聖を表す詞で、すめ神のすめと同様である。すめ神と申す神様は、何も別に、皇室に関係のある神と申す意味ではない。単に、神聖といふ意味である。此非常な敬語が、天子様や皇族の方を専、申し上げる様になつて来たのである。此すめみまの命に、天皇霊が這入つて、そこで、天子様はえらい御方となられるのである。其を奈良朝頃の合理観から考へて、尊い御子孫、という風に解釈して来て居るが、ほんとうは、御身体といふ事である。魂の這入る御身体といふ事である。
此すめみまの命である御身体即、肉体は、生死があるが、此肉体を充す処の魂は、終始一貫して不変である。故に譬ひ、肉体は変つても、此魂が這入ると、全く同一な天子様となるのである。出雲の国造家では、親が死ぬと、喪がなくて、直に其子が立つて、国造となる。肉体の死によつて、国造たる魂は、何の変化も受けないのである。
天子様に於ても、同様である。天皇魂は、唯一つである。此魂を持つて居られる御方の事を、日の神子といふ。そして、此日の神子となるべき御方の事を、日つぎのみこといふ。日つぎの皇子とは、皇太子と限定された方を申し上げる語ではない。天子様御一代には、日つぎのみこ様は、幾人もお在りなされる。そして、皇太子様の事をば、みこのみことと申し上げたのである。
天子様が崩御なされて、次の天子様がお立ちになる間に、おほみものおもひ(大喪)といふのがある。此時期は、日本に於ては、日つぎのみこの中のお一方が、日の御子(天子様)となる為の資格を完成する時、と見る事が出来る。祝詞や、古い文章を見ると、「天のみかげ・日のみかげ」などゝいふ詞がある。此詞は普通には、天子様のお家の屋根の意味だ、と云はれて居るが、宮殿の奥深い所といふ事である。そこに、天子様はおいでになるのである。此は、天日に身体を当てると、魂が駄目になる、といふ信仰である。天子様となる為の資格を完成するには、外の日に身体をさらしてはならない。先帝が崩御なされて、次帝が天子としての資格を得る為には、此物忌みをせねばならぬ。此物忌みの期間を斥して、喪といふのである。喪と書くのは、支那風を模倣しての事で、日本のは「裳」或は「襲」であらうと思ふ。
大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちやんと御寝所が設けられてあつて、蓐・衾がある。褥を置いて、掛け布団や、枕も備へられてある。此は、日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、此御寝所に引き籠つて、深い御物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂の行事である。此処に設けられて居る衾は、魂が身体へ這入るまで、引籠つて居る為のものである。裳といふのは、裾を長く引いたもので、今の様な短いものゝみをいうては居ない。敷裳などゝいうて、着物の形に造つて置いたのもある。此期間中を「喪」といふのである。
或人は、此お寝床の事を、先帝の亡き御身体の形だといふが、其はよくない。死人を忌む古代信仰から見ても、よろしくない。猶亦、或人は、此が高御座だといふが、此もよくない。高御座に枕を置いたり、布団をおく筈はない。高御座は、天子様がお立ちになつて、祝詞を申される場所であつて、決してお寝になる場所ではない。此処では、何も、ものを仰せあらせないから、高御座と考へる事は出来ぬ。
古代日本の考へ方によれば、血統上では、先帝から今上天皇が、皇位を継承した事になるが、信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、等しく天照大神の御孫で居られる。御身体は御一代毎に変るが、魂は不変である。すめみまの命といふ詞は、決して、天照大神の末の子孫の方々といふ意味ではなく、御孫といふ事である。天照大神との御関係は、ににぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である。
此重大な復活鎮魂が、毎年繰り返されるので、神今食・新嘗祭にも、褥が設けられたりする事になる。大嘗祭と、同一な様式で設けられる。復活を完全にせられる為である。日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、真床襲衾と申して居る。彼のににぎの尊が天降りせられる時には、此を被つて居られた。此真床襲衾こそ、大嘗祭の褥裳を考へるよすがともなり、皇太子の物忌みの生活を考へるよすがともなる。物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが、真床襲衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである。此は、日本紀の話であるが、此を毎年の行事でいへば、新嘗祭が済んだ後、直に鎮魂祭が行はれ、其がすんで、元旦の四方拝朝賀式が行はれる。だが此は、元は、一夜の中に一続きに行はれたもので、秋祭りの新嘗祭と、冬祭りの鎮魂祭即、真床襲衾から出て来られ、やがて高御座にお昇りなされて、仰せ言を下される。此らの事は元来、一続きに行はれたのであるが、暦法の変化で、分離して行はれる様になつたのである。
日嗣ぎの皇子が、日の皇子(天子様)におなりなされると、天子様としての仰せ言が下る。すると、群臣は天子様に対して、寿言を申し上げる。寿言の正確な意味は、齢を祝福申し上げる、といふ処にある。すめみまの命の御身体に、天子霊が完全に這入つてから、群臣が寿言を申すのだ。寿言を申すのは即、魂を天子様に献上する意味である。群臣等は、自分の魂の根源を、天子様に差し上げて了ふのだ。此程、完全無欠な服従の誓ひは、日本には無い。寿言を申し上げると、其語について、魂は天子様の御身に附くのである。
天子様は倭を治めるには、倭の魂を御身体に、お附けにならなければならない。譬へば、にぎはやひの命が、ながすね彦の方に居た間は、神武天皇は戦にお負けなされた。処が、此にぎはやひの命が、ながすね彦を放れて、神武天皇についたので、長髓彦はけもなく負けた。此話の中のにぎはやひの命は、即、倭の魂である。此魂を身に附けたものが、倭を治める資格を得た事になる。
此大和の魂を取扱つたのは、物部氏である。ものとは、魂といふ事で、平安朝になると、幽霊だの鬼だのとされて居る。万葉集には、鬼の字を、ものといふ語にあてゝ居る。物部氏は、天子様の御身体に、此倭を治める魂を、附着せしむる行事をした。此が、猿女鎮魂以外に、石ノ上の鎮魂がある所以である。
此処で、猿女の鎮魂式を考へて見る。さうすると、日本人の生死観がよく訣る。元来、日本の古い信仰では、生と死との区別は、不明瞭なものであつた。人が死んでも、魂をよび戻せば生きかへる、と思うてゐた。そして、どうしても魂がかへらぬとあきらめるまでは、略一年間かゝつた。此一年の間は、生死不明の時期で、古い文献を見ると、殯宮、又はあらきの宮と言うて居るが、此は此魂を附着せしめようとして居る間の、信仰行事を斥していふのである。御陵を造つて居る間が殯宮だ、といふ考へは、後の考へ方で、支那の考へが這入つて来て居る。
殯宮の間に於ける天子様を、大行天皇と申上げて居る。此も亦、支那流の考へが混つて居る。此期間中は、生死不明であると共に、日つぎの皇子が、裳(襲)に籠つて居られる期間である。
猿女鎮魂の起原ともいふべきは、天ノ岩戸の一条の話である。天照大神は、天ノ岩戸に籠られた。そして、天ノ鈿女命は、盛んなる鎮魂術をやつた。それで、一度発散した天照大神の魂は、戻つて来て、大神は復活した。魂を附着せしむるといふ事は、直に死を意味するものとはならない。此処から考へても、あの大嘗祭の時の蓐の行事が、真に死骸だと考へる事は出来ぬ。
此蓐の行事の、毎年繰り返されるのが、神今食・新嘗祭などの蓐である。蓐に籠る度数が、多ければ多いだけ、威力を増す、といふ考へである。こんな考へ方からして、天子様は、御一代の間に、毎年新嘗をせられて復活されるのである。そして、毎年復活して、新しい威力ある御身体を以て、高御座にお昇りなされて、祝詞を下されるのである。
七
此処で春の祭りの話をする。春の祭りは、大嘗祭と、即位式と、四方拝と、もう一つ朝賀式とを兼ねたもので、正月の元日から三日の間に行はれるのである。
大宝令──詳しくは養老令──を見ると、五つの詔書々式が残つて居る。其中の主なものは二つで、此は、外国に対しての詔書々式で、他の三つは、国内に対してのものである。此は、大・中・小の三つに分れて居るが、大体から見て、内・外は対をなして居るもの、と見る事が出来る。
内国に対する詔書中、大きな事に用ゐられる書式は、最初の書き出しの言葉に、
明神御大八洲天皇詔旨……咸聞
といふ詞を、此書式の詔書のはじめに、据ゑねばならぬ。次に、外国即、朝鮮に対しての詔書には、同じく養老令を見ると、大八洲天皇詔旨の代りに、御宇日本天皇詔旨と書いて居る。(「高御座」参照。全集第二巻)
斯くの如く、国内に対しては大八洲天皇といひ、外国には御宇日本天皇といふのである。そして此言葉を唱へられる場合は、初春か、又は、即位式の時である。此点から見ても、即位式と、初春とは同一である、といふ事がわかる。
其意味は、大八洲は皆私のものだ、といふ意味である。そして、御宇日本天皇といふのは、此言葉を受ける人は、皆日本の天子様の人民になつて了ふ、といふ信仰上の言葉である。支那に対しては、言へなかつた。朝鮮にのみ用ゐられた。朝鮮の任那の国をば、内屯倉とよんで居つた。うちみやけは、朝廷の御料を収めて置く処といふ意味である。
初春の詔書の全体の意味は、即位式の詔書の意味と、全く同一である。内屯倉は、天子様の御言葉の勢力が及んだ証拠で、此大八洲天皇とか、御宇日本天皇とかいふ言葉を聞くと、もう、人々の心も身も、天子様のものになつて了ふ。後にこそ、大八洲・御宇日本と分けて用ゐられて居るが、語の及ぶ効力は同一で、其間に、少しの距たりも無かつたのであらう。即、此語の及ぶ範囲が、天子様の御領土といふ事になる。
日本歴史で、知り得る限りでは、大和国の山辺郡の大倭村が、やまとの本地であつたらしい。其が次第に拡がつて、今吾々の考へて居る程の、広さになつたのであらう。猶日本紀によつて、仮説を樹てゝ見れば、日本の宮廷は、或時期の間、筑紫の方面に栄えられた事を伝へて居る。筑紫の山門郡の名称が、神武天皇の大和に入られたのと同時に、ついて来た名称とも考へられる。とにかく、何故に、全国到る所をやまとと言うたかといふと、前に言うた通り、明神御大八洲天皇詔書……咸聞といふ、言葉の勢力が及ぶ範囲、といふ意味である。この信仰を度外視しては、何故に日本全体をやまとと言うたか、といふ事は訣らぬ。戦争で領土が拡まつた、といふ考へのみでは、説明は出来ぬ。
又、続日本紀を見ると、天子様は、御代初めに、何か仰せ言を下される時に、大倭根子何々天皇、と最初に言ひ出される。古事記にも、日本紀にもある。「根子」の古い例は、山背根子・難波根子等である。根子は、神主・君主といふ事である。昔は、神主は即、君主であつた。大倭根子といふと、大倭の地方全体の神事を司る人即、君主といふことになるのである。後には、日本全体の祭主、即君主との意味になつて来た。かうした天子様のお言葉も、古い時代は、口頭で言はれたが、奈良朝頃から、文書に書いてやられる事が行はれた。此を宣命といふ。此宣命が、飛鳥ノ宮の末頃からは、文書の形式が定まる様になり、天皇御即位の年の、春の初めには、必、宣命をお下しなされた。後になつて、御即位の式と、朝賀の式とが分れても、両方共に、仰せられるお言葉は、似たものである。
宮廷の儀式をみると、春の儀式と、即位式と沢山、似た処がある。昔から、即位式と、大嘗祭とは同じだ、といふ学者は、沢山ある。昔は必、同一な者であつたと思ふ。そして、此式が春行はれるものだ、と考へられる様になつた。
さて、春といふ語の本義が、不明である。草木の芽が発する事を「はる」といふ処から言ふのだ、と言はれて居るが、ほんとうの事は訣らぬ。其他、いろ〳〵と言はれて居るが、不明である。そして、春といふ用語例の、古い処も訣らぬ。何にしても、はるかす・はるく・はるなど考へて見ると、開けるといふ意味があるらしい。
今此処で、民間の春の行事からして、宮廷の春の行事を考へて見る事にする。俳句の歳事記を見ると、逆簑岡見といふ事がある。此は、大晦日の夜、簑を逆に着て、小高い所へ上つて四方を見ると、来年一年の村の吉凶・五穀の豊凶等、万事が見えるといふのである。此風習は、春の前に当つて、山の尾根伝ひに、村を祝福しに来た、神のあつた事を語るものである。
日本では、簑は、人間でないしるしに着るものである。処が、百姓は簑を着るが、此は、五月の神事の風習が便利だから、其神事の風を真似て了うたのである。すさのをの命は、千位置戸を負はせられて、爪をぬかれ、髪を抜かれ、涙も唾も痰も皆とられて、為方が無いから、青草を束ねて簑として、下つたと言うて居るし、奈良朝以前の風習と思ふが、簑を着て人の家に這入ると、這入つた人から、科料を取るといふ事もある。此は、簑は神の着るもので、神が来ると、祓へをしなければならぬから、其入費を科するのである。簑について神が来るので、簑を着て来る人から、入費をとるのである。今でも、民間には、人の家へ簑を着て行く時は、必、外でぬいで這入れ、というて居る。
又、前の岡見の話に還るが、高い山から、里に近い岡の上に神が来て、村人の為に、来年の様子を言うてくれた。此は、大晦日の夜から、明け方にかけてのことである。此風が替つて、今度は里人が神になつて、簑をきて、岡へ上つて行つた。こんな習慣が固定して出来たのである。神のやつてくれたのを、人間がやる様になり、神の祝福の語からして、人間がやつて見ても訣る、といふ風に変つて来たものである。
考へて見ると、ににぎの尊も、山の尾根伝ひに、降臨されて居る。一体、日本へ来られた神々は、皆高い所から、山の尾根伝ひに下つて来られて居る。此信仰上の事実が、今でも国々村々には、ざらに残つて居る。
処で、春といふのは、吾々の生活を原始的な状態に戻さうとする時であつて、其には、除夜の晩から初春にかけて、原始風な信仰行事が、繰り返される事になつて居る。つまり、原始時代に一度あつた事を毎年、春に繰り返すのである。古代の考へでは、暦も一年限りであつた。国の一番始めと、春とは同一である、との信仰である。此事からして、天子様が初春に仰せられる御言葉は、神代の昔、ににぎの尊が仰せられた言葉と、同一である。又、真床襲衾を被られ、其をはねのけて起たれた神事、そして、日の皇子となられた事など、其がつまり、代々の天子様が行はせられる、初春の行事の姿となつて居るのである。
八
元旦の詔詞は、後には書かれて居るが、元は、天子様御自分で、口づから仰せ出されたものである。だからして、天子様の御言葉は、神の言葉と同一である。神の詞の伝達である。此言葉の事を祝詞といふ。今神主の唱へる祝詞は、此神の言葉を天子様が伝達する、といふ意味の変化したものである。
のるといふのは、上から下へ命令する事である。上から下へ言ひ下された言葉によつて、すべての行動は規定される。法・憲・制等の文字に相当する意義を持つて居る。祝詞は正式には、天ツ祝詞ノ太祝詞といふのである。のりとは、のりを発する場所の事で、神座の事である。而して、此神座で発する言葉が、祝詞である。「天つ祝詞の太祝詞ごと」とは、神秘な壮大崇高な場所で下された御言葉、といふ事である。此尊い神座の事を高御座といふ。
高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。だから、祝詞を唱へる所は、どこでも高御座となる。そんなら、御即位式の時に昇られる高御座は、何を意味するかといへば、前述の様に、天が下の神秘な場所、天上と同一な価値を持つて居る所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天のみかどなどいふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持つて居る処、といふ意味である。みかどといふ語が後には、天子様の版図の事にもなるのは、此意味であり、後には、天子様の事をも申し上げる様になつて来て居る。
高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる。かうして、時も、人も、所も、詞も、皆元へかへる。不思議な事に、天上にある土地の名が、其々地上にもある。天の安河原は、天上の土地の名であるが、近江の国にもある。天上に高市があるかと思へば、倭にも高市郡がある。天上から降つて来た土地だなどいふ伝説も、かうした信仰から出たのである。
天子様は、申すまでもなく、倭の神主であらせられて、神事が多い故に、常に御物忌みをせられなければならぬ。殆ど一年中祭りをして居らせられねばならぬ。此は、信濃の国の諏訪の神主に見ても知れる様に、年中祭りに忙殺されて居る。天子様は、日本中の神事の総元締めで、中々やりきれない。そこで、日本には中臣といふ御言詔持が出来た。此中臣は、天子様と群臣との中間に居て、天子様の御言葉を、群臣に伝達する職のものである。
それから、天子様と、神との中間に在るものを、中天皇といふ。万葉集には、中皇命と出してある。此中皇命の役に立つものは、多くは、皇女或は后などである。
中臣は主として、天子様の御言葉を伝達するのが、為事であつた。元来なら、天子様が申されるはずの祝詞をも、中臣が代理で申すのだ。だから後には、中臣の詞が、祝詞と云はれる事になつた。今ある祝詞は、平安朝の延喜年間に書きとられたものである。平安朝には、斯様に、固定して居たのであらう。其前には、常に詞章が変化して居た、と見るべきである。後には、中臣の家一軒に定まつて了ひ、且、次第に勢力を得て来た。此は御言葉伝達の職をつとめたからである。
今ある祝詞は、一般に古いものとされて居るが、実は古い種の上に、新しい表現法が加はつて居る。神代ながらのものは無い。奈良朝又は平安朝頃の手加減が加はつて居る。古い姿のまゝでは、訣らなかつたのである。時代々々で理会し易い様に、変へて了ふ。又、故意になさずとも、口伝の間に、自ら誤りが生ずる。祝詞の中では、何の事か訣らなくなつて、手のつけようのなかつたと思はれる部分が、古いものである。天つ神の言葉とされて居るのを、天子様が高御座で唱へられるのが、古い意味の祝詞である。中臣の手に移つてからは、祝詞の価値は下つて了うた。
奈良朝の少し前頃から、地方の神々が、朝廷から良い待遇を受けて居る。平安朝では、地方の神々に、位を授けて居る。朝廷の神は別として、それ以外の地方神は、精霊の成り上りで、天子様よりは、位が下の筈である。だから、天子様から位を授けられるのも、尤な事である。併し、位を授けられてからは、漸次地位が高くなつて来て、遂には天子様と同じ程の位のものにも考へられて来た。其で地方神に申される言葉が、対等の言葉づかひで申される様になつて来た。処が、伊勢の天照大神に対しては、天子様の方が、下位に立たれて居る。だから、天子様が伊勢の大神に申される御言葉は、元来寿言の性質のものである。だが、延喜式では、前者も後者も等しく、祝詞と称して居る。
かうした訣で、祝詞には、今日から見れば、種々の意味があるが、ほんとうは天子様が、高御座で仰せ出されるのが、祝詞である。祝詞の中では、春の初めのが、一番大切である。古くは、大嘗祭の後に、天子様の即位式があつた。昔は、即位式といつて、別にあつた訣ではない。真床襲衾からお出になられて、祝詞を唱へられると、即、春となるのである。
元来、大嘗祭と、即位式と、朝賀の式とは、一続きである。其間に於て、四方拝といふのは、元来は、天子様が高御座から、臣下や神に対して、お言葉を下される事を斥して、言うたのであつたが、後に、支那の道教の考への影響を受けて、天子四方を拝すといふ様になつて了うた。
九
此処で大嘗祭に奏上される寿詞に就て言うて見る。
寿詞とは服従を誓ふ時に、即、自分の守り魂を奉る時に、唱へる言葉である。此は国々に伝はつて居る物語と、同様なものである。後には変化して、宮廷と自分等の氏々、又は、国々との関係の、初めを説く様になつた。其で、宮中に仕へて居る役人等は、自分の職業の本縁・来歴を説く物語を申し上げる。朝廷に直接に、仕へて居る役人のみでなく、地方官・豪族の首長、又、氏々の長なども、地方を又は、氏々を代表して、寿詞を申し上げる。此事は、近世まで、初春の行事に、其儀を留めて居る。一年に二度行はれたらしい様子も、盆の行事に、其名残りが見えて居る。今日民間でも、初春に「おめでたう」といふのは、おめでたく今年一年間いらせられまする様に、といふ寿詞の最大事な部分が、単純化されたものである。此を言ふのが、即、服従を誓ふ所以である。
処が、初代から、朝廷に仕へて来た人々の寿詞と、国々で申し上げる寿詞とは、性質が違うて居る。初代からのものは、自分の職業の神聖なる所以と、来歴とを説くし、国々のは、天子様に服従した来歴・関係を物語るのである。譬へば、天孫降臨の時に、ににぎの尊がつれて来られた、五ノ伴ノ緒の子孫等の申される寿詞は、古いものであるが、朝廷と国々との関係を申し上げる物語は、新しい寿詞である。此寿詞をば、大嘗祭・即位式・元旦此三つの場合に申されるのである。後には、春と大嘗祭との二度、代表者で、間に合せる事になつた。
元旦の朝賀の式に、天子様が祝詞を下される式は、奈良朝には既に、陰に隠れて了うて、群臣が寿詞を申し上げに出る式のみとなつた。此は、物部とか、蘇我とか、大伴とかいふ、高い氏の代表者が出て、申し上げるのであつた。処が、大嘗祭の時には、中臣氏が代表して、寿詞を申し上げるのである。即、自分の家の職業を申し、天寿を祝福して、百官を代表するのである。同時に、諸国の寿詞が奉られるが、此諸国の寿詞の話は、後に言ふ事にして、此処では、中臣の寿詞の話をする。
後世では、大嘗祭の第二日目の辰の日の卯の刻に、中臣ノ天神ノ寿詞を奏上する。天子様は、此より少しまへに、悠紀殿へ御出御になり、つゞいて皇太子・群臣が着座する。そこへ神祇官の中臣が、榊の枝を笏に取り添へて、南門から這入つて、定座に着いて、寿詞を申し上げる。即位式にも、全く此と同様な事を行ふ。此から見ても、即位式と大嘗祭とは同一であると言へる。
では、中臣ノ天神ノ寿詞とは何かといふと、全く中臣の寿詞で、天つ神の寿詞ではない。元来、この寿詞は、藤原頼長の台記の中に書きとられたのが、残つたものである。康治元年に、近衛天皇が、即位式を挙げられた時に用ゐられたのを、書きとつたものである。実に、偶然な幸ひであつた。
寿詞の大体の意味は、次の如くである。
中臣の遠つみ祖である処のあめのこやねの命、皇御孫尊にお仕へ申してあめのおしくもねの命をして、二上山に登らしめて、其処で、天神にお尋ね申さしめられるには、皇御孫尊に差し上げる御膳の水は、如何致したらよろしうございますか、と申された。すると、天神の教へ諭されるには、其は、人間界の水と、天上の水とを一処にして、差し上げねばならぬ。あめのおしくもねの命は又、お尋ねした。然らば、其を得るには、如何致したらよろしうございますか、と問ふと、天神は、玉串をお授けになつて、言はるゝ事に、此玉串を地上に立てゝ、夕日の時から、朝日の照り栄える時まで、天つ祝詞と太祝詞を申せ。かく申せば、その祝詞の効力に依つて、直に兆象が顕れる。そして若蒜が五百個、篁の如く生える。そこを掘つて見ると、天の八井が湧く。その水をとつて奉れ、と教へられた。だから、此をおあがりなさいませといふ。
つまり、中臣としての聖職の歴史を申し上げるのである。此縁故・来歴によつて、悠紀・主基の地方の米に、天つ水をまぜて、御飯を炊き、お酒をこしらへて、天皇に差し上げる。此をお召しあがりなされると、天子様は健康を増し、弥栄えに栄えられるのである。
中臣家は、水の事を司る家筋である。だから、天子様の御湯殿にも、仕へる。そこからして、后が出る事にもなる。つまり中臣は、水の魂を天子様に差し上げる聖職の家である。言ひ換へれば、中臣の家は、水の魂によつて生活して居る家筋である。其故、水の魂を、天子様に差し上げるといふ事は、自分の魂を差し上げる事になる。中臣は、群臣を代表して居るから、他の臣たちのも、此意味で、各々の家筋の魂を天子様に奉る事になる。昔は、神事と家系とは、切り離す事の出来ぬ、深い〳〵関係があつたのである。
譬へば、大伴家にしても、本来は、宮廷の御門を守つた家筋である。一体「伴」といふのは、何にてもあれ、宮廷に属して居るものをいふ語であつて、大伴は御門の番人である。記・紀を見ると、門の神をば、大苫部と言うて居る処がある。大苫部と大伴部とはおなじで、門をお預りして居る役人といふ事である。後世は、かういふ職の役人も増して来て、物部の家筋の者も、御門の番人となつて来た。そこで、門部の発達をも見る様になつた。平安朝では、大伴は単に、伴というて居る。
大嘗祭の時に、悠紀・主基の御殿の垣を守る為に、伴部の人と、門部の人とが出る。此は両者同一な役を勤めるが、元来は、異つた系統の者である。此等の御門の番人は、元来は或呪言を以て、外来の悪い魂を退けたのである。此等の家筋の頭をば、伴造と云ひ、其部下の者をば、伴部又は部曲というて居る。此頭即、伴造は、種々あるが、神主の地位に居たのであつた。神主たる職業を以て、天子様に仕へて居た。此者達が、後には官吏化して、近衛・衛門・兵衛等の職が出来た。此等は、大伴部・門部・物部等が、元来の家筋を離れて、官吏化して出来たものである。平安朝にはもう、むちやくちやになつて、庭掃きの者に至るまで「殿守の伴のみやつこ」などゝ言ふ様になつて了うた。だが、大嘗祭の時には、昔の形を復活して、大伴部・門部・物部等の人々の代表を、官人から任命して、御門警衛の任に用ゐられた。
一〇
次には、大嘗祭の時の、御所の警衛の話をして見る。
一体、物部といふ語には、固有名詞としての意味と、普通名詞としての意味とがある。八十物部(八十武夫)といふ様に、此部に属する者は、沢山あつた。物部も、其中の一つである。広く言へば、魂を追ひ退けたり、ひつつけたりする処の部曲が、物部である。大伴が代表者となつたのは、大倭の魂を取り扱つたからである。大嘗祭の時に、物部の任務が重大視されるのも、此故である。物部氏が、本流は亡びたが、石ノ上氏が栄えてゐて、大嘗祭の時に、大切な御門の固めをした。門の処に、楯と矛とを樹てゝ、外敵を差し止める事をした。此楯を立てゝ、宮廷を守る事を歌つたのが、万葉集巻一に出てゐる。
健男の鞆の音すなり。物部の大臣楯立つらしも(元明天皇御製)
此歌に和せられたのが、
我が大君。物な思ほし。尊神のつぎて給へる君なけなくに(御名部皇女)
此御製は、大嘗祭の時に、物部の首長が、楯を立てる儀式をしてゐる様子を歌はれた、即興の歌である。和せられた方のは、天皇が何か考へて居られるを見てとつて「何もそんなに、お考へなさらずとも、いゝではありませんか。あなた様は、尊い神様が、順次にお立てになつた所の、尊い御方ですもの」との意である。
大嘗祭などの重大な儀式に当つて、楯を立てるのは、悪い魂が邪魔をすると、それを物部が追ひ払ふ為である。口では、呪言を唱へて、追ひ払ふ事をするが、具体的には、此楯を立てる。又、矛をも振り、弓をも鳴らす。かうして、宮廷の御門を固めるのみではなくて、海道四方の関所を固めた。日本の三関といはれて居る所の逢坂・不破・鈴鹿などは、何れも固められた。全く宮殿の御門を固めるのと同一な考へからやるのである。
さて、大嘗宮は、柴垣の中に、悠紀・主基の二殿を拵へてあつて、南北に門がある。天子様は、まづ悠紀殿へ出御なされて、其所の式をすませ、次に主基殿へお出でなされる。古来の習慣から見ると、悠紀殿が主で、主基殿は第二義の様である。すきは、次といふ意だと言はれて居る。悠紀のゆは斎む・いむなどの意のゆで、きは何か訣らぬ。そして、ゆき・すきとなぜ二つこしらへるのか、其も訣らぬ。だが、大体に於て、推定は出来る。
日本全国を二つに分けて、代表者として、二国を撰定し、其二国から、大嘗祭に必要な品物をすべて、持つて来させて、この二殿で、天子様が御祭りをなされる。昔は或は、宮廷の領分の国の数だけ、悠紀・主基に相当する御殿を建てたものかも知れぬ。そして、天子様が大きなお祭りをせられたのかも知れぬ。そして、此御祭りの中に、いろ〳〵の信仰行事が取り込まれて来て、天子様の復活祭をも行はれる様になつたのであらうと思ふ。
天子様は、悠紀・主基の二殿の中に、御蓐を設けられるのは、何時の頃からか、よく考へて見ると、何も左様な褥の設けられねばならぬ、といふ理由はない。悠紀殿・主基殿の二个所で、復活なされる必要はない。大嘗宮の外に、復活式をせられる場所がなければならぬ。悠紀殿・主基殿へ出御なさるのは、新嘗を御うけなされる為であらう。
大嘗祭の時には、廻立殿をお建てになるが、恐らく此が、天子様の御物忌みの為の御殿ではなかつたか、と考へられる。此宮でなされる復活の行事が、何時の間にか、悠紀・主基の両殿の方へも移つて行つて、幾度も此復活の式をなさる様になつたのであらう。次に、風俗と語部の話をして見たい。
一一
昔は、大嘗祭の時には、ゆき・すき二国からして、風俗歌が奉られた。平安朝の頃は、其国の古歌を用ゐて居た。後には、其国から出た、古い歌人の歌を用ゐる事になつた。後には、都の歌人が代表して歌を作る様になつた。
此風俗歌は、短歌の形式であつて、国風の歌をいふのである。此国ふりの歌は、其国の寿詞に等しい内容と見てよろしい。国ふりのふりは、たまふりのふりで、国ふりの歌を奉るといふ事は、天子様に其国の魂を差し上げて、天寿を祝福し、合せて服従を誓ふ所以である。
ふりは、儛にもいひ、歌にもいふ。ふりといふと、此二つを意味するのである。歌をうたつて居ると、天子様に、其歌の中の魂がつき、儛を舞つて居ると、其儛の中の魂が、天子様に附着する。諸国の稲の魂を、天子様に附着せしめる時に、儛や歌をやる。すると、其稲の魂が、天子様の御身体に附着する。
此魂ふりの歌を、いつでも天子様に申し上げる。其が宮中に残つたのが、記紀のふりの歌である。今残つて居るのは、短い長歌の形をして居る。国風の歌の出発は、呪詞と同様に、諸国の寿詞中から、分裂して出来たもので、つまり、長い呪言中のえきすの部分である。長い物語即、呪言を唱へずとも、此部分だけ唱へると、効果が同様だ、といふ考へである。大嘗祭の歌は、平安朝になると、全く短歌の形になつてゐる。
大嘗祭には、かうして、ふりの歌が奉られて居るが、一方、卯の日の行事を見ると、諸国から、語部が出て来て、諸国の物語を申し上げて居る。平安朝には、七个国の語部が出て来て居る。
美濃 八人 丹波 二人 丹後 二人 但馬 七人
因幡 三人 出雲 四人 淡路 二人
皆で、廿八人である。昔から、此だけであつたかどうか、其は訣らぬ。又、此だけの国が、特別な関係があつての事か、其も訣らぬ。恐らく、或時に行はれた先例があつて、其に倣つて、やつた事であらう。其が又、一つの例を作つて、延喜式には、かう定まつて居たと考へればよい。平安朝以前には、此よりも多くの国々から出たのか、或は、此等の国々が、代表して出たのか、其辺の事もよく訣らぬ。
何処の国にも、語部の後と見るべきものはあるが、正しく其職は伝はらない。語部は、祝詞・寿詞を語るものゝ他に、歴史を語るものもある。奈良朝を中心として、一時は栄えたが、やがては、衰へて了うた。大嘗祭の時に出て来る語部は、ふりの歌の本縁を語るのである。歌には又儛が附いて居るから、此歌の説明をすると、其由来の古さも感ぜられる。随つて、其歌の来歴も明らかになり、歴史づけられるのである。かうした訣で、大嘗祭には、語部は、歌の説明に来たのである。語部も、もう此辺になると、末期のもので、此から後は、どうなつたかよく訣らぬ。鎌倉や室町の頃になると、もう全く、わからなくなつててゐる。さて、国風の歌は奉らなくなつても、語部は出て来て居る。そして、風俗歌を出したのは、悠紀・主基二国だけである。
此国風の中で、一種特別なものが、東歌であつて、即東の風俗である。不思議な事に、此東の歌や儛は、大嘗祭には参加しない。此は、東の国は大嘗祭が固定して了うて後に、天子様の領分になつた国であるからである。東がまだ、日本の国と考へられないうちに、大嘗祭は、日本の生活古典として、固定して了うて居たのだ。吉野の国栖や、薩摩の隼人が歌を奏するのに、東だけがやらぬといふのは、東が新しく領土となつたといふ証拠である。平安朝になつてから、何かの機会にやつと、宮中に奉られたのである。尤此より先に、万葉集には既に、東歌が採られて居る。古今集には、勿論ある。そして東遊び(寿楽)も、宮中へ這入つて居る。此は、何かの儀式の時に、東歌や、東遊びが、宮中で行はれ出したのに違ひない。
東歌が、どんな時に、宮中に這入つたか、略目当てはつく。此は、東の諸国から、荷前の使が行く時に、宮廷で奏したのであらう。即、東の国の稲の魂を持つて行つて、服従を誓うた時の歌が、東歌である。只、大嘗祭が行はれる時期と、東の国で、荷前を奉る時期とが、合つて居た為であらう。
平安朝に入つてから、風俗といへば、主として、悠紀・主基二国のものと考へられては居るが、其は、此二地方が注意にのぼり易く、且繰り返される場合が、多かつた為である。だが、東遊中の風俗歌は、主として、東の国のものが残つて居る処を見ると、風俗といふのは、何も悠紀・主基二国のものと限つて居つたわけでもない。寧、風俗歌は、東が主だと信ぜられて居つたと思はれる。
悠紀・主基の国では、稲穂を中心として、すべての行事が行はれる。稲穂は、神様の取り扱ひを受けて居る。其役員には、男・女共に定められる。女の方では、郡領の娘が造酒子に定められる。造酒子は、地位の高い巫女である。男の方は、稲実の君が定められる。此で、酒と米との役人が出来た訣である。──昔の考へでは、酒と米との間に、劃然とした区別はなかつた──それから、造酒子の下には、酒波が一人、篩粉が一人、共造が二人、多明酒波が一人あるが、此等は皆、酒に関する巫女である。男子の方は、稲実の君の外に、灰焼一人、採薪四人が定められる。猶、歌女二十人、其他、いろ〳〵の役割りが定められる。然も、酒の事に仕へるのみかと思ふと、さうではない。山へ行つて、薪や御用の木を伐る時に、一番先に斧を入れたり、又野原へいつて、御用の茅を刈るのも、造酒子の為事であつた。
此人々は、時期が来ると、稲を積んで都へ上り、土地を選んで、そこへ斎庭を作る。後世は大抵、北野につくられた。そして大嘗祭の前に、大嘗宮へ運んで来る。つまり、此等の人々は、稲の魂を守つて都へ上り、其で酒もこしらへ、御飯も焚きして、其を天子様の御身体に入れる、といふ信仰上の行事を行うた。
稲の魂は、神の考へが生ずる、一時代前の考へ方である。外来魂の考へである。此魂を身につけると、健康になり、農業に関する、すべての権力を得ることにもなる。大嘗祭の中へ、稲穂を入れる時には、警蹕の声をかける。警蹕は、神又は天子様の時でないと、かけない。そして、警蹕のかけ方で、何処の国、何処の誰といふ事が訣つた位である。
警蹕の意味は「尊い神が来た。悪い者よ。そこをどけ」といふ事である。此で見ても、稲穂が大切な尊いものであつた事が知れる。此稲魂の事をば、うかのみたまといふ。うかはうけで、召食ものといふ事で、酒の方に近い語である。
悠紀・主基の二个国は、何時頃から定められたか訣らぬが、近代は、亀卜で定められる。昔は、何かの方法があつたのであらう。延喜式で見ても、御幣について上る国を以て、其とする様だ。これを国郡卜定と言うて居る。だが、悠紀・主基の国といふのは、大抵、朝廷の近くの国である。そして、東は悠紀・西は主基とされる。御殿もやはり、此様にこしらへる。つまり、大倭朝廷を中心として、其進路の前後を示したのであらう。或は、往き・過ぎの意かも知れぬ。ともかく、悠紀は大和の東南、主基は西北に当つて居る。此二国が定まる前は、新嘗屋が沢山造られて、其をば、天子様は一々廻つて御覧なされた事と思ふ。
悠紀殿・主基殿は、おなじ囲ひの中にあつて、両殿の界は、目隠しだけである。後世は、立蔀を立てゝ拵へられた。立蔀というても、椎の青葉で立てられたもので、此は、昔の青柴垣の形である。南北に御門がある。御殿は、黒木を用ゐる。黒木といふのは、今考へる様に、皮のついたまゝの木といふ事ではなくて、皮をむいて、火に焼いた木の事である。かうすると、強いのである。昔は京都の近くの八瀬の里から、宮殿の材木を奉つた。此を八瀬の黒木というた。後世には、売り物として、市へも出した。此黒木を出すのが、八瀬の人々の職業であつた。とにかく、此は、神秘な山人の奉る木で、此の黒木で造つた御殿の周囲に、青柴垣を拵へたのである。
かうして、尊いお方の御殿を拵へるのに、青柴垣を以てした事は、垂仁記のほむちわけの命の話にも見えて居る。
故、出雲に到りまして、大神を拝み訖へて、還りのぼります時に、肥河の中に黒樔橋を作り、仮宮を仕へ奉りて、坐さしめき。こゝに、出雲国造の祖、名は岐比佐都美、青葉ノ山を餝りて、其河下に立てゝ、大御食献らんとする時に、其子詔りたまひつらく、此川下に、青葉の山なせるは、山と見えて、山にあらず。若、出雲の石〓(「石+囘」)の曾宮に坐す、葦原色許男大神を以て斎く祝が、大庭か、と問ひ賜ひき。こゝに、御伴につかはさえたる王等、聞き歓び、見喜びて、御子をば、檳榔の長穂の宮に坐せまつりて、駅使を貢上りき。
此話は、ほむちわけの命をして、青葉の山を拵へて、国造の岐比佐都美がお迎へしようとしたのである。即、青葉の山は、尊いお方をお迎へする時の御殿に当るもので、恐らく大嘗祭の青葉の垣と、関係のあるものであらう。かの大嘗祭の垣に、椎の若葉を挿すのも、神迎への様式であらう。尊い天つ神にも、天子様にも、かうするのである。
此、青葉の垣は、北野の斎場では、標の山として立てられる。此は平安朝にはへうのやまと発音されて居るが、其は誤つて音読したからである。本来はしめのやまで、神のしめる標の山といふ事である。神様を此標の山に乗せて、北野から引いて来て、悠紀・主基の御宮にお据ゑ申す。標の山は神の目じるしとしてのものである。だが後には此標の山は、どうなつて了うたかわからぬ。
併し、此標の山の形のものは、近世まで、祭りの時は引き出す。屋台とか、山車とか、お船とかいふ様なものは、此標の山の名残りの形と見る事が出来る。松本の青山様も、此様式のものであらう。
先に引いた垂仁記のは、古い形のものであらう。此が常に、尊い神や、人をお迎へする時に造られたのであつて、大嘗祭にも注意せられたのである。後世、祭りとして、一番「標の山」が用ゐられたのは、夏祭りの標本なる、祇園の祭りである。祇園祭りといふのは、ほんとうは、田植ゑのさなぶりの祭りで、田の神に振舞ひをする祭りであつて、本来は農村の祭りであつた。其が、だん〳〵と農村から出て、道教の考へと一処になり、怨霊の祟りの考へと一つになつて、御霊の信仰が強くなつた。京都などでは、殊に此考へが盛んになつて、五个処に御霊様を祀つて、御霊会を行ひ、神を慰め、悪事をやめて貰つたのである。こんな風で、後には、悪い事を防ぐ神と信じられて来て、其が仏教と習合して、牛頭天王様であると考へて来たのである。そして、其牛頭天王の垂跡が、すさのをの命だといふ様になつた。すさのをの命は、農業の神だから、直に一処にして了うたのだ。此時も「山」を出し、其山を中心として、祭りを行ふのである。こんな風で、後には、夏祭りには、鉾や山が行はれるやうになつた。
次に天子様の御禊の話をして見る。
一二
大嘗祭の用意として、十一月は全体、物忌みの月である。これを散斎と言うて居る。其中で、大嘗祭の前二日と、其当日とをば、殊に、致斎と呼ぶ。散斎は割合に自由な物忌みといふ事で、穢れた事や、神事上の絆れた問題には与らない、といふ程の意味である。致斎の方は、昔は絶対な物忌みであつたらうが、令の規定以来、少しく軽くなり、十月の末日と定められて、山城の京都では、加茂川の某地点で、御禊を行はせられた。かうした御禊は、伊勢の斎宮・加茂の斎院を定められる時も、予めなされる。天子様・斎宮・斎院の御禊は、同一な格式でなされる。平安朝になると、音読してごけいと言うて居るが、古くは、みそぎと言うて居る。
此所で、少しく、みそぎ(禊)とはらへ(祓)との区別をいうて見る事にする。
祓へといふのは、穢れ又は、慎しむべき事を冒した場合、又は彼方からして、穢れや慎しむべき事がやつて来て、此方に触れた時に、其を贖ふ為に、自分の持つて居るものを提供して、其穢れを祓ふ事である。神は、此贖ひ物を受けて、其穢れを清めて呉れるのである。元来、祓へは、神事に与る人が、左様にして呉れるから、他動風なものである。自分からするのならはらひであるが、はらへと他動風に昔からいうて居る。
次に、みそぎといふのは、神事に与る為の用意として、予め、身心を浄めておくことである。家でも、神の来べき時には浄める。謂はゞ、みそぎは、家でも身体でも、神に接する為の資格を得る方法である。後世の神道家は、吉事祓へ・悪事祓へと対照して言ふが、元来、吉事に祓へはない筈である。吉事をまつため、迎ふる為の行事は、禊ぎである。其に対して、祓へは悪事を前提として行はれるものである。謂はゞ、祓へは後世の刑罰に当るものである。
宮廷で大祓へというて居られるのは、実は禊ぎであつて、平安朝の初期から、間違うて居る。だが、まづ罪といふ事を考へて見る。大祓へのうちに、祓ふべき罪・穢れ即、神に対して、慎しむべき事を罪といふ。其中で「天つ罪」といふのは、天上の罪といふ事で、普通にはすさのをの尊が、天上で冒した罪を斥していふ。それから此国で慎しまねばならぬ罪を「国つ罪」といふ。国つ罪の中には、勿論慎しまなければならぬ事のあるのは勿論だが、又さうでなく、何でも無い様なのがある。譬へば、這ふ虫の禍罪・たかつどりの禍、かういふのがある。此は、鳥や蛇が家に這入つて来たのは、此家が、神の家になつたといふ標で、其故に慎しまねばならぬ、といふ意味である。
奈良朝の頃でも、此禊ぎと祓へとを混用して、両方とも慎しみ、と考へて居る。祓へは、贖罪として、祭りの費用を出す行事であるし、禊ぎはよい事を待ち迎へる為に、予め家又は、身心を清浄に、美しくする行事である。
日本古来の信仰からいふと、一度呪言を唱へると、何でも新しくなる。それで、新嘗祭の新室も、一言呪言を唱へて、其で、新室と信じきつて居つた。其事が、大嘗祭にも行はれ、また米を食べる神今食の時にも行はれる。其を宮廷では、大殿祭といふ。此は、祭りの行はれる前の日の夜明け方に、仮装した神人が、宮廷を浄めて廻る。家を浄める為である。そして其後で、祭りが行はれる。此清浄になつた家、即大殿へ、神様がお出でになると、天子様は御一処に、此処で御飯をおあがりなされる。凡て神様の来られるお祭りは、神様に振舞ふといふ事が、行事の中心になつて居るものである。
大殿祭は、大嘗祭の時にもあるのであるが、此は、悠紀殿・主基殿が出来ると、直に早く行はれる故に、隠れて見えないのである。此大殿祭の間、天子様は御身浄めの為に、御湯殿へ御這入りになつて居られる。つまり、天子様は、禊ぎをして居られる訣である。
神の祭りの時に、一番初めに出て来る人は、御馳走を享けられる神ではなくて、御殿を浄める為の神人である。此浄めの為に来る人々を、平安朝の考へでは、山人だとされて居る。山人は、山の神に仕へる神人である。本来は山の神が自ら来て、御殿を清めて呉れた、と考へて居るのである。此清浄にされた御殿へ客人神が来て、天子様と御一処に、御飯を召し上るのである。此御殿を清める時の詞を、延喜式によれば、大殿祭祝詞というて居る。
ほかひといふのは、祝福すること、又は其詞、或は動作などをくるめていふのである。此言葉を祝詞というたのは、平安朝の事で、元来は鎮詞、又は鎮護詞などゝいふべき詞である。其語の性質から見ても、仲間の親分が、子分に申し聞かせ、又は相談する様な物言ひぶりである。「かうだから、お互ひに、かうしようぞ」といふ意味が、主要な部分である。上から下への、のるではない。
かうして見ると、山の神は、土地の精霊の代理者で、同じ仲間の者同志である、其精霊の代理者が、精霊を鎮まらせるのである。さて、此いはひごとが済んだ後で、本式な祭りが行はれるのである。
大嘗祭の時は、大殿祭は既に済んで居るので、卯の日には、其行事が見えないが、お湯へお這入りになる事は、屡行はれる。本来は、此湯へ這入つて居られる時に於て、一方では、御殿のほかひが行はれて居るのである。大嘗宮は、紫宸殿の前で、南に建てられる。東には廻立殿が造られる。そして、紫宸殿から廻立殿への出御は、廊下を渡つてなされる。
廻立殿といふのは、悠紀・主基両殿へお出でになる御用意の為に、設けられた御殿で、いはゞ祭事の為に、お籠りになる御殿である。
此御殿の名称が、何の故に廻立殿とよばれるか、其は訣らぬ。そして、此廻立殿の御儀式は、外部からは、一切訣らぬものにされて居る。廻立殿は、東西五間、南北三間の御殿である。西側三間を、天子様の居られる所とし、東側二間は、竹の簀子にしてある。此所が、茶の湯所となつて居るが、なにか、忌斎の場所らしい。天子様は、大嘗祭の卯の日の儀式にも、始終、この廻立殿へ出御なされる。そして、御湯をお使ひなされる。此処で、此お湯のお話をする事にする。
一三
湯は斎に通ずる音で、古く湯といつたのが、果して、今の吾々の云ふ所の温いものかどうか、一寸疑問である。斎川水といふ事もあつて、此は、天子様の御身体をお浄めになる水で、用水でも、池でも、泉でも、何でも左様にいふのである。だから、斎川といふのは、御禊に使ふ水をいふ事である。此斎川水が段々と変化して、終には湯にまでなつた、と見るべきである。
日本の古い信仰では、初春には、温い水が遠い国から、此国土へ湧き流れて来る、と信じて居つた。そして事実、日本には温泉が多い。こんな事からして、いづる湯についても、神秘な考へを持つて居つた。温泉は、常世の国から、地下を通つて来た温い水で、禊ぎには理想的なもので、そこで、斎川水として尊重されたものである。又さうでなくとも、斎川水は温いと信じて居つた。こんな風な信仰から、禊ぎには、温い水を用ゐる様になつた。だから古い書物に、湯とあつても、其は、今日の吾々の考へて居る温湯である、と直ぐに、極めつける事は出来ぬ。
藤原の宮から奈良・飛鳥の宮にかけては、天子様が時々、湯に行かれたり、温泉を求められたりした事が、記・紀・万葉集などには、非常に多く出てゐる。此温泉へ旅行せられるのは、今日の吾々の様に、たゞの遊山や避暑ではなく、御禊の信仰の考へから見ねばならぬ。とにかく、以上いうた様な信仰から、宮廷の斎川水の考へは、温い湯と変つたので、又其を直にゆと申す事になつた。此湯に這入られると、尊い方となられるのである。日本にある処の、天の羽衣伝説は、此禊ぎと深い関係を持つて居る話である。天上から降つた処女が、天の羽衣を脱いで、湯に這入つたら、人間になつてしまつた。又、天の羽衣を奪ふと、人間になる。かういふ筋の話は沢山あるが、此天女の羽衣の話の源をなすものは、丹波の天の真名井の、七人の天つ処女の伝説である。
天の真名井の話で見ると、七人の天女の中で、羽衣を奪はれた一人の娘が、後には、伊勢の外宮の豊受大神となられた。此七人の天つ処女の縁故で、丹波からは、八処女が、宮廷へも、伊勢へも出て来て、禊ぎの事に奉仕する。不思議なのは、禊ぎに奉仕する処女が、其尊い方の后となられる、習慣の見えて居ることである。だから、或時期の間は、丹波氏の娘が、宮廷へ仕へて、后となつて居る。さうでなくとも、丹波氏の娘の形式をとつて、后となつて居る。
先に申した所の、天の羽衣を脱いだから人間になつて了うた、といふのは誤りで、脱げば、物忌みから解放されたのだから、神人とならねばならぬ筈だ。御禊をせられた尊い方は神であり、羽衣をぬがれた処女は、或任務を果たす為の、巫女である。巫女は神に仕へる、最高な女である。
此処で、話をずつと、後世へ引き下げて言うて見る。汚い話のやうであるが、今より二百年前までは、御湯へ這入る時に、湯具・褌などは、締めたまゝ這入つた。ほんとうは、湯に行く時は、褌を二筋持つて行つた。一筋は締めて居り、一筋は這入る時に締め換へて這入る為の用意である。何の為に、締め換へて這入るのか。此は、陰所を見せては恥づかしい、といふ考へからでは、決してない。
元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである。民間では、褌をするのは、一人前の男になつた時のしるしだと言はれて居る。十五歳になると、褌を締めて、若衆宿へ仲間入りの挨拶に行く。此行事の事を、袴着というて居る。此が、女の方だと、裳着といふ。正式には、男女共に、二回ある筈だ。
第一回は、村の子どもとなる為で、五六歳頃にやる。平安朝頃の貴族たちの仲間でも、やかましく行はれた。源氏物語など見ても、書いてある。次のは、をとこ・をとめになる為の行事としてゞある。我々は、二度の行事をすまさぬと、一人前の男女には、なれなかつたのである。今日では略して、一回だけしか行はぬが、ほんとうは、二回あつた。第一回の時には、お宮参詣をして、それで子どもになつて、村の小さな神に仕へる資格を得る。子どもが、道祖神のお祭りをするのは、何処にでもある。二回目がすむと、村の産土の神に仕へる資格を得る。此二度の袴着を終つたものを、をとこ・をとめといふ。ふんどしはじめ・ゆもじはじめがすむと、立派な一人前の男女になる。だから、一人前の男女になつてから、初めて褌を締める、ゆもじをするといふのではない。男女になる前提の行事として、此事が行はれるのである。
此物忌みの褌を締めて居る間は、極端なる禁欲生活をせねばならぬ。禁欲というても、今日の我々の考へる様な、鍛錬風な生活ではない。神秘なる霊力をして発散させぬ為の禁欲である。処が或期間、禁欲生活をすると、解放の時が来る。すると、極めて自由になる。此処で初めて、性の解放がある。さうして、此紐を解いて、物忌みから解放されるのが、湯の中である。即、斎川水の中である。天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけなさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生ずるのである。
昔から、湯の信仰に就ては、わりあひに考へられて居なかつたが、今考へて見ると、不思議な事が多い。譬へば、御湯殿腹などいふ子どもゝある。そして、お湯殿腹の子、というて重んぜられた、傾向がある。さうかと思ふと、又、垢掻き女に子どもが出来るのは当然だ、とも云はれて居る。此等の事は、日本の昔の産湯の話をして見ると、判然として来る。
一体昔は、今の世の乳母の役をする者が、四人あつた。大湯坐・若湯坐・飯嚼・乳母である。此大湯坐は、主として、産児に産湯をつかはせる役目をする者、つまり湯の中へ、御子をお据ゑ申す役目なのである。若湯坐も同様である。乳母は、乳をのませる者、飯がみは、飯や食物を嚼んで、口うつしに呉れる者である。
まづ御子が産れると、其御子をば、豪族に附托して、養育せしめる。昔でいふと、其家筋を壬生氏といふ。壬生氏は、壬生部といふ団体の宰領である。
此話で名高いのは、反正天皇がお産れになつた時、天皇の為に、河内の丹比氏が、壬生部となつて、御育て申し上げた。其で、丹比の壬生部氏といふのである。御子が生れると、此氏の者の中から、四人の養育係が選定せられる。前にいうた所の、大湯坐・若湯坐は、高い身分の者から出る。大湯坐はつまり、水の神として、禊ぎの御世話をする役目である。御子がお産れになつた時に行はれるのが、第一回の禊ぎである。
此禊ぎをおさせ申して居る一方に於て、氏の上は、天つ寿詞を申して居る。水の魂をして、天子様となるべき尊いお方におつけ申すのだ。水中の女神が出て来て、お子様のお身体に、水の魂をおつけ申して、お育て申す儀式である。だから、壬生部の事を、入部とも書いて居る。「入」は水に潜る事であつて、水中に這入る事である。それから、大湯坐は主で、若湯坐は附き添への役である。
此第一回の禊ぎの形を、天子様は、毎年初春におやりなされる。生れ替つて、復活する、といふ信仰である。大湯坐は、年をとつた女で、若湯坐は、年の若い者がつとめる。それから事実に徴して見ると、大湯坐は、天子様の后となるし、若湯坐は、皇子の后となる傾きが見えて居る。飛鳥以前の后は、天子様の御家の禊ぎの行事に、奉仕した女がなつた。丹比氏は、元来禊ぎの事を司つた家筋で、宮廷及び伊勢のお宮へ、八処女を奉つて居る。此八処女は、五節の舞姫に関係があるが、其事は後に言ふ事にする。
一四
日本の昔の語に、天つ罪・国つ罪といふ並立した語のある事は、前に述べた。其天つ罪とは、すさのをの命が、天上で犯された罪で、其罪が此国土にも伝はつて、すべて農業に関する罪とされて居る。つまり、田のなり物を邪魔するのが、此国でいふ処の天つ罪である、とされて居る。だが今では、罪といふ語が、余りに新しい意味の罪悪観念に這入り過ぎて居る様である。天つゝみのつみの語原は、他に無くてはならぬ。
万葉集を見ると、雨障・霖禁・霖忌など書いて、あまつゝみとよませて居る。
あまつゝみ常する君は、久方の きのふの雨に こりにけんかも(巻四)
此歌は、いつも雨つゝみをしてゐるあなたは、昨日の雨で外出が出来ずに、懲りた事でせう、といふ意だとされて居るが、実は男、女の禁欲生活をして居る意味の罪である。
猶、此事を考へるのに、手がゝりとなるのは、景行記に見える次の話である。景行天皇が、美濃の国造の祖神、大根王の娘、兄媛・弟媛を、皇子大碓命をして召し上げさせられた時、大碓命は、媛二人を我ものとしてしまひ、他の娘を奉つた。そこで、天子様はお憤りなされて「つねに、長眼を経しめ、又婚しもせず、惚はしめたまひき」とある。普通には、此ながめのめは男女相合ふ機会の事を言ふから、其間を長く経る事をば、長目を経るといふのだとしてゐる。だが、此ながめは、霖禁に関係がありさうだ。
さて、此ながめ・ながむといふ言葉の意味は、平安朝頃になると、「ぼんやりして何も思はず」といふ位な風になつて居る。もう一つ伊勢物語の例を挙げると、
起きもせず、寝もせで夜をあかしては、春のものとて、ながめくらしつ
此等のながめは長雨で、長雨のふりつゞ頃の、物忌みから出た言葉であらうと思はれる。長雨の物忌み、即、雨のふりつゞくころの、慎しみから出た言葉であらうと思ふ。
かうして考へて来ると、天つ罪は、天上の罪ではない。本義は、五月の田植ゑ時の慎しみ、即、雨つゝみ(雨障・霖禁)である。今でも、処によると、田植ゑ時に夫婦共寝せぬ地方がある。田植ゑの頃は、一年中で一番、長雨のふりつゞく時期であつて、此間は、村の男女は、すつかりと神事関係になつて了うて、男は神、女は巫女となるのである。
四月の頃、女は山に籠つて成女戒を受け、躑躅の花をかざして下りて来て、今年の早処女をつとめる。此は、田植ゑの神事に与る巫女の資格で、田植ゑの終るまで処女の生活をする。此処で考ふべきは、処女生活といふ事であるが、此には三通りあつた。一つはほんとうの処女、此はまだ男を持つた事のない女(一)。次に或期間のみ男に逢はぬ女、即、或期間だけ処女生活をする女(二)。次は床退りをした女、即、或年齢に達すると、女は夫を去つて、処女生活に入る信仰があつたが、さういふ様な女(三)。此床退りの女は、其以後の生活は、神に仕へるのである。後世のお室様といふのは、此の事をいふのだ。平安朝には床退りした女は、尼となつて仏事に入り、処女生活をしたのである。
さて女は、五月の田植ゑの済むまでは、男を近づけない。男の方でも女に触れない。此期間は男女共に、袴や裳に標を附けて、会ふ事をしない。此間の事をながめをふるといふのである。一軒の家に同居して居ても、会はない。前の、景行天皇の話の、媛をして、長眼を経しめたまふといふのは、媛にお顔を見せながら、霖雨中放つて置いて、性欲的の苦しみをなさしめたといふ事である。其が固定してながめとなり、性欲的な憂鬱からして、ぼんやりして居る事を表す語になつたのである。
平安朝になつてからのながめは、美しい意味に替つて来て了うたので、根本は、性欲的の憂鬱の状態を言ひ表す語である。
五月の物忌みが雨つゝみで、此が天つ罪となるには、すさのをの命が元来、田の神で、其犯された罪を一処にして了うたのだ。すさのをの命は、仏教では牛頭天王にされて居る。悪い方の田の神である。其悪い方の田の神を祀つて、いたづらせぬ様に守つてもらふ所から出た、信仰である。悪い神も祀られると、よい事をするといふ考へ方である。さて、此すさのをの命に対する慎しみが、天つ罪である。其がちようど雨の時の慎しみと、同じ時期に当つて居る。
神は普通には、夜出現するが、田植ゑ時には、昼間出て来る。夏祭り神事の中心は、昼間行はれる。昼間、田を植ゑて居ると、神が来て田を囃してくれる。後世では、田植ゑの前後にのみ囃しをするが、本来は植ゑて居る最中に、囃すのである。後には、囃す田も固定して、はやし田といふ名も出て来て居る。又、田植ゑの初めに囃して、其で、後やらぬ様になつた所もある。此囃しに来る神は、仮装して出て来る。此仮装がやがて、田舞ひを生む。そして田舞ひが、猿楽と合体して、田楽が出来る。男女共に顔を隠して、神の形になつて居る。五月の田植ゑの時は、昼は勿論、夜も神が廻つて歩いて居るから、男女相逢ふことは出来ぬ。だが、さなぶりの時から自由になつて、男女の語ひは許される。
此所で、不思議な誤解が一つある。其は神事が始まれば、物忌みは無い訣であるが、其がある事である。播磨風土記を見ると、田植ゑ女を大勢でかまつて、隠し所を断ち切つたといふ話がある。だから、雨つゝみといふのは、田植ゑの始まる前の、物忌みである事が知れる。其が、いつか田植ゑの済むまで続くものだ、と考へられて来たのである。此は、男の資格を得る為の褌が、いつか褌するのが男の資格だ、と考へられて来たのと、同一である。
ふんどしは、ふもだし・ほだし・しりがひ・おもがひ・とりがひなどゝ同一なもので、又たぶさき・たぶさくなどいふ語も、同一である。たぶさくとは、またふさぐといふ事で、着物の後の方の裾を、股をくゞらして前の方に引き上げて、猿股みたいにする事で、子どもの遊戯にも、今日は廿五日の尻たくり、といつて、此形をする。元来は、人間のふんどしも、馬のふもだしも同一任務のもので、或霊力を発散させぬやうに、制御しておくものである。そして、物忌みの期間が済むと、取り避けるものである。事実朝廷の行事に見ても、物忌みの後、湯殿の中で、天の羽衣をとり外して、そこで神格を得て自由になられ、性欲も解放されて、女に触れても、穢れではない様になられる。
先にもいうたが、大湯坐・若湯坐などが、御子を育てゝ行く間に、湯の中で、若い御子の着物をとりさけて、まづ其御子に触れられるのは、若湯坐である。大湯坐は、前述の如く、御子の父君につかへる。
此みづのをひもを解くと同時に、ほんとうの神格になる。そして、第一に媾はれるのが、此紐をといた女である。さうして、其人が后になるのである。だが此事は、もう奈良の頃は忘れられて了ひ、此行事以後、御子を育てる所の、乳母の役になつた。さうして、若い乳母即、子守りである人が、お育て申した方の妻となる。其証拠は、うがやふきあへずの尊が、御叔母玉依姫と御夫婦になられた、とあるのをみても訣る。元来、めのとといふ言葉は、妻の弟といふ事で、乳母の弟が、妻になつた事を意味してゐるのである。
不思議な事に、后になられる御方は、水の神の娘、又は水の神に関係の深い女である。かの丹波氏の家筋も、水の神に深い関係を持つて居る。世が下つてからは、丹波氏の資格を以て、藤原氏が禊ぎを司る事になり、其家から后が出た。
一体御湯殿は、平常でも、非常に重ぜられて居た。「御湯殿の上の日記」も、平安朝からのものではあらうが、女の手になつたもので、断篇ながら、参考にはなる。此で見ても、湯棚・湯桁は、神秘な行事の行はれた所である事が、察せられるのである。即、湯棚には天子様の瑞の緒紐を解く女が居て、天子様の天の羽衣、即ふもだしを解くのである。
話を元へ戻して、大嘗祭第一回に天子様が湯へお這入りになるのは、紫宸殿の近くで行はれるのかと思ふが、正式には廻立殿で行はれたのである。平安朝には既に、行はれなくなつて了うたらうが、太古は必、行はれたのである。此問題は、天の羽衣の話と関係がある。天人の話の天の羽衣と同一で、飛行の衣とする話は、逆に考へられて了うたからである。天子様の、天の羽衣をおぬがせ申し奉るのが、八処女のすべき勤めである。今では、廻立殿から大嘗宮へ行く道に敷かれてある布の事を、天の羽衣と称へて居るが、其は何かの間違ひである。或は、羽衣ではなくて、葉莚といふのであらう。此は、延喜式にも、見えて居る。葉莚は、天子様が、お通りなされる時に敷いて、通られると、直に後から巻いて行くものである。其を今では、新しく道を拵へた形であると言うて居る。一寸合理風でほんとうらしいが、やはり誤りである。
天子様はかくして、悠紀殿・主基殿へ行かれるが、其間に、折々お湯にお這入りになられる。とにかく、日本の后の出る根本は、水の神の女で、御子をして、神秘な者にする為事を、司る所から出て居るのである。
次に直会の事をいうて見る。
一五
直会は、直り合ふ事だと云はれて居るが、字は当て字で、当てになるまい。元来なほるといふ語は、直日の神の「直」と関係のある語で、間違ひのあつた時に、匡正してくれる神が、直日の神だから、延喜式にある所の、天子様の食事の時につかへる最姫・次姫の事から考へて見ねばならぬ。天子様が食事をせられる時に、此最姫・次姫は「とがありともなほびたまへ……」といふ呪言を唱へる。此は、よし、手落ちがあつたとしても、天子様の召し上り物には間違ひのない様に、といふ意味のとなへ言である。普通には、座をかへてものする時に、なほると言うて居る。此は或は、二度食事をする事から出た解釈かも知れぬ。大嘗祭の行事に見ても、一度食事をせられてから、座を易へて、もう一度、自由な態度でお召し上りなされる。此が直らひの式である。つまり、ゆつたりと寛いだ式である。そして、其席上へ出る神も亦、直日の神と言はれて居る。平安朝に入つてからは、直日の神といふのは、宴会の神、又は遊芸の神となつて居るのも、此考へから出たのである。
大嘗祭の直会の時には、大和舞ひが行はれ、田舞ひが行はれ、舞姫の舞ひも行はれる。そして、すべての人は、今までの厳重な物忌みから、開放される。直会は、一口に言へば、精進落ちともいへる。だが、精進とは、仏教の考へから、魚を食はぬ事を斥していふが、本来は、禁欲生活・物忌み生活を言うた語である。
昔は、正式な祭りが済んでも、猶、神が居られた。そして、祭りの後で、豊かな気分で宴席に臨んで、くだけた饗応を享けて帰られたのである。肆宴(豊明楽)といふのは、此行事をいふのである。とよのあかりとは、酒を飲んで、真赤な顔になるからだといふが、ほんとうは、よく訣らぬ。ともかく、とよのあかりのうちに、神を満足させて帰す、といふのが本義であらう。
大嘗祭に来られる神は、どんなお方か、よく訣らぬ。天子様は、神を招く主人でいらつしやると同時に、饗宴をなされる神である。つまり、客であり、又神主でもある。神の為事を行ふ人であると同時に、神その者でもある。だから、極点は解らぬ。結局、お一人でお二役つとめなされる様なものである。
他の家々でいふと、新嘗祭の時には、主人よりも格式の上の人を招いて、客になつてもらふ。此は其昔、尊い神が来られた形を見せて居るのである。
次に、五節の舞ひの話をして見る。五節といふのは、五節の舞ひを舞うたから言うたのではあるまいか。五節の舞ひは、天子様の寿命を祝福する舞ひで、天子様の禊ぎの時に、竹で御身の丈を計つて、御身の長さだけの処へ標をつける。此を節折と言ふ。折は繰り返すといふ事で、竹で幾度も〳〵、繰り返して計る。かうする事は亦、天子様の魂の事と関係がある。平安朝頃までの信仰によると、天子様の魂には、荒世の魂・和世の魂と言うて、二つあつたのである。其で、天子様の御身の丈を竹で計るにも、二度計つたのである。竹で計つて着物を拵へて、其着物を、節折の式に与つた人々に、分配なされる。あらよの御衣・にぎよの御衣といふのが、此である。
かう考へて来ると、五節の舞ひの時も、実は天子様の御身の丈を、五度繰り返して計つたのではなからうか。さうして、其行事に出る女が、五節の舞姫といふのであつたらうと思はれる。そして五節に出る女は、天子様の食事の事に与つた女である。すると、供饌に与つた女が、衣を進め、節折もし、舞ひも舞うたのである。舞ひを舞ふといふのは、みたまふり(鎮魂)の意味のもので、他の意味ではなかつた事と思ふ。
古く、神服女の舞ひといふ事も見えて居る。此は、着物を取扱ふ女の舞ひといふ事で、後の五節の舞ひと同一である。だから五節舞も神服女舞も同一で、正式には八人で舞うたのだらうと思ふ。神の八処女の事は、前にもいうた。
五節の舞姫の仕へる所を、五節の帳台といふ。そして、五節の帳台の試みといふ事が行はれる。此は、舞姫をして、天子様が、女にせしめる行事である。平安朝頃のものを見ると、舞姫が、何とかかとかいうて、言ひ騒がれて居るのも、此帳台の試みの考へから見ねば訣らぬ。
五節の舞ひがすむと、其後に悠紀・主基両殿の式の名残りとして、国風の奏歌が行はれる。各其国の国司が、歌人や歌姫を引きつれて行つて、やるのだ。そして、其後に、忌みを落す舞ひがある。此を解斎舞といふ。此がすむと、凡て此祭りに与つた人・神が、皆散らばる形になる。其時も、式に与つた人たちは、お酒や御飯を頂く。それから各人は、忌服をぬいで、散会する。散会の時は、男も女も乱舞して、躍り狂うて帰る。
一体宴会の時は、二度目の食事をすませて、最後の食事の時に、主人側から舞姫が出で、客人側からは、いろ〳〵の持ち芸が出る。つまり、此は主人に答へる形である。うたげは、打ち上げといふ事で、盛んに手を拍つてやる事である。此乱舞の時に、巡の舞ひというて、正座の客から次第に、下位の客に廻つて行つてやる。
此中に、一つ面白いのは、家の精霊が出て舞ふ形のものがある。滑稽な風をしてやる。此は、今見ても、地方の神社の祭りの時に、滑稽な踊りをするが、皆此精霊の舞ひから出て居るのである。今の民間の宴会は、神事の直会以後の形をとつてやつて居るのである。
此処で一寸、附け加へて置く。天子様をもてなす役は、藤原氏がやつた。藤原氏の家は、宴会に使用する道具を、大事にして居る。朱器・台盤は、藤原氏の家長が、大切に保存して伝へて居る。此は、藤原氏は、朝廷に仕へて、祭りのある時は、神をもてなす役をして居たからである。客人をもてなすに大切なのは、道具である。其道具を預つて居るのが、藤原氏であつた。今日でも、民間に、椀貸伝説はいくらも残つて居る。
私は、直会と宴会とを同一だ、とは思はぬ。宴会の方は、客人側が主人に替つて、大いに騒いだものと考へる。大嘗祭に於ける客人の式も、三段に考へられる。
一、供饌の式
二、直会の式
三、宴会の式
かうなると思ふ。
たゞ、此間に於て、客が主人になり、主人が客になり、主人か客か訣らぬ様な場合が多い。其は、長い間に於て、其時代々々で、祭りが合理化されて、其に又、種々の説明が加へられて、今日の如くに変化したからである。
ともかくも、大嘗祭は、平安朝に固定して、今日に及んだもの故、神代その儘、そつくりのものとは考へられない。吾々は、其変化のうちに、隠れて居る所を見たいものである。
以上、長々と話しはしたが、極荒筋のものである。今年の十一月に行はれる大嘗祭は、宮内省の方々も緊張して、出来るだけ古の形をとる、といつて居られるから、有り難い大嘗祭を拝める事と思ふ。
大分話が混み入つて、味のない、雑然たるものに終つてしまうた。だが、私の考へは、大体申したつもりである。
底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
1995(平成7)年4月10日初版発行
※「昭和三年講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
※底本では「訓点送り仮名」と注記されている文字は本文中に小書き右寄せになっています。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2007年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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