ごろつきの話
折口信夫



     一 ごろつきの意味


無頼漢ゴロツキなどゝいへば、社会の瘤のやうなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。

ごろつきの意味に就ては、二様に考へられてゐる。雷がごろ〳〵鳴るやうに威嚇して歩くからだともいふが、事実はさうでなく、石塊がごろ〳〵してゐるやうな生活をしてゐる者、といふ意味だと思ふ。徳川時代には、無宿者・無職者・無職渡世などいふ言葉で表されてゐるが、最早其頃になつては、大体表面から消えてしまうたと言へるのである。

ごろつきが発生したには長い歴史があるが、其は略する。此が追々に目立つて来たのは、まづ、鎌倉の中期と思ふ。そして、其末頃になると、此やり方をまねる者も現れて来た。かくて、室町を経て、戦国時代が彼等の最跳梁した時代で、次で織田・豊臣の時代になるのだが、其中には随分破格の出世をしたものもあつた。今日の大名華族の中には、其身元を洗うて見ると、此頃のごろつきから出世してゐるものが尠くない。彼等には、さうした機会が幾らもあつたのだ。此機会をとり逃し、それより遅れたものは、遂に、徳川三百年間を失意に送らねばならなかつたのであつた。


     二 巡遊団体の混同


先、彼等は、どんな動き方をして現れて来たかを述べよう。

日本には、古く「うかれ人」の団体があつた事を、私は他の機会に述べてゐる。異郷の信仰と、異風の芸術(歌舞と偶人劇)とを持つて、各地を浮浪した団体で、後には、海路・陸路の喉頸の地に定住する様にもなり、女人は、其等の芸能と売色とを表商売とするやうになつたのであつたが、いつか彼等の間にほかひゞとの混同を見るやうになつた。大和朝廷の統一事業と共に、失職した村の神人たち、或は、租税を恐れて、自ら亡命したものなどがあつて、山林に逃げ込み、地方を巡遊したりしたものがあつたからだ。

一方、うかれ人の方も、漸次生活が変化して行つたが、何と言つても、彼等は奴隷としての待遇しか受けることが出来なかつた。

かうして、此二者は早くから歩み寄つてゐたのであつたが、更に、平安朝の末に至ると、愈其等のものが混同し、同化するやうになつた。行基門徒の乞食・陰陽師・唱門師・修験者など、さうした巡遊者が続出したからであるが、尚、それの一つの大きな原因は、貴族の勢力が失墜すると同時に、社寺の勢力も亦衰頽を来した為、其等の社寺に隷属してゐた奴隷たちが、自由解放を行うた事である。其等の社寺には、神人ジンニン・童子などゝ称し、社の祭事・寺の法会などに各種の演芸を行つたものが居つたが、彼等は生活の不安を感じ出した事によつて、其等の社寺を離れ、各自属した処の社寺の信仰と、社寺在来の芸能とを持つて、果なき流浪の旅に上る様なことになつた。彼等は、山伏し・唱門師の態をとつて巡遊したのであつた。在来の浮浪団体に混同したのは、当然のことである。

更に、此頃になつて目立つて来た、もう一つの浮浪者があつた。諸方の豪族の家々の子弟のうち、総領の土地を貰ふことの出来なかつたもの、乃至は、戦争に負けて土地を奪はれたものなどが、諸国に新しい土地を求めようとして、彷徨した。此が又、前の浮浪団体に混同した。道中の便宜を得る為に、彼等の群に投じたといふやうなことがあつたのだ。後世の「武士」は、実は宛て字である。「ぶし」の語原はこれらの野ぶし山ぶしにあるらしい。又、前の浮浪者とても、元来が、喰はんが為の毛坊主商売なのであつて見れば、利を見て、商売替へをするには、何の躊躇もなかつた。


     三 野伏し・山伏し気質


彼等は、先、人里離れた山奥に根拠を据ゑ、常には、海道を上り下りして、他の豪族たちの家々にとり入り、其臣下となり、土地を貰ひなどしたのであつたが、又中には、其等の豪族にとつて替つたものなどもあつた。

彼等が、豪族にとり入つた手段には種々あるが、一体に、彼等が道中したのは、武力で歩いたのではなく、宗教を持つて歩いた。行法を以てした山伏しである。義経が奥州へ落ちる時、山伏し姿で道中したのは、後の人から見れば、つくり山伏しであるが、当時としては、道中をするには其が普通だつたとも見られる。

彼等は団体をなして歩いた。山伏しについては、曾て「翁の発生」の中でも触れて置いたが、彼等が団体的に行動するなどゝいふことは、平安朝の頃まではなかつたのであつたが、時代の刺戟は、彼等を団体的に行動せしめるやうになつたのである。虚無僧・普化僧は、其一分派である。即、禅宗に結びついて出来たものである。彼等は単独の形をとつた。これの著しく目立つて来たのは、略、南北朝頃と思はれる。

彼等の団体には取締り監督があつた。先達が、其である。彼等は行く先々の家々村々を祈つて歩いた。彼等は、其で易々と糊口の道が得られたのであつた。若し、其等の家々村々でよくしないと、彼等は祈りの代りに呪ひをかけた。山伏しが逆法螺を吹くといふ事は、後々までも恐しい事にされてゐた。山伏しの悪業は近世ほどひどくなつたのであつたが、昔から、依頼と恐怖との二方面から見られてゐた。だから、彼等は易々と道中する事が出来たのであつた。


     四 治外法権下の悪業


昔から、宗教の方面には、政治の手が届かなかつた。其には理由があるので、言はず語らずの掟があつて、彼等は全く政治家の権力以外を行つた。江戸時代になつてからも、寺社奉行などはあつたが、山伏しの取締りには、随分幕府も困つた様である。駈落者・無宿者・亡命の徒などが彼等の中へ飛び込めば、政治家も、其をどうする事も出来なかつた。こんな事は以前からもあつた。だから、武力を失うたものが、逃避の手段として、山伏しになつたなどゝいふのが少くない。前に述べた様な理由と、二重の理由によつて、易々と生活して行けたからである。

更に、彼等は後々までも、殊に徳川初期に於て諸大名たちを弱らせた事実に就ても、考へて置かねばならぬ。彼等が大名たちを弱らせたには、弱らせるだけの理由があつたと見られる。諸大名が出世をしたには、皆彼等の手を借りてゐる。彼等は、戦国の当時には、殆ど庸兵として、諸国の豪族に腕貸しをしてゐる。後に大名になつたもので、彼等の助力を受けてゐないものは殆ど一人もない、と言うてよからう。又、彼等の中から出世したものもある。上州徳川の所領を失うたといふ徳阿弥父子が、三河の山間松平に入り婿となる迄の間は、遊行派の念仏聖として、諸方を流離したのであつた。江戸時代になつて、虚無僧は幕府から朱印を貰うたといふが、其には、訣があつたのだと考へられる。

かゝる事情があつた為に、彼等は後々までも我儘をし、大名たちも、其を抑へる事が困難だつたのである。それには、彼等が法力を持つてゐたことも関係してゐたと思はれる。九州彦山の山伏しが虐殺されたことがある。如上の理由があつて、あまりに彼等の我儘が募り、悪業が高じた為だと思はれる。


     五 祝言職としての一面


彼等はさうした法力を示してゐたが、山伏しの為事は、其だけではなかつた。常には、舞ひや踊りや歌をやつた。

彼等は、前にも言うたやうに、山奥に根拠を据ゑてゐた。私は幾度か三河の山奥へ行つたが、参・遠・信の三国に跨り、方五六里に亘つて、さうした山伏し村が多い。勿論、今は山伏しの影を止めてゐるに過ぎない。私たちが見学に行つたのは、既に「翁の発生」で述べて置いたやうに、其等の村に「花まつり」と称する初春の行事があつたからである。花まつりは、一口にいへば、其年の稲の花がよく咲く様にとコトホぎする初春の行事なのだが、其態は舞踊であつて、なか〳〵発達してゐる。

何故、こんな山奥に、こんな舞踊が発達したか。其は決して偶然ではなかつたと考へられる。即、戦国の末に、彼等が勢力を貸した豪族の家々が、其後栄えたからである。歴史の表面では、彼等がどれだけの事をしてゐるか、殆ど記されてゐないが、断篇的の記録はある。三河には徳川氏と関係ある地方に居つた者が多くゐて、徳川氏が栄えて後、擁護を受けたからである。

彼等は、戦争に際しては、其等の家々に勢力を貸したのであつたが、また初春には恒例として、其等の家々、即、檀那の家へ出て来ては、祝福をして行つたのである。ほかひ人としての、昔の記憶を忘れなかつたのである。

由来、日本の戦争には、法力の戦争が栄えた。旗・差し物なども、それから生れたものである。此には長い歴史があるが、其は略する。ともかくも、彼等が戦争に勢力を貸したといふのは、法力で戦争を勝たせるのが主であり、本筋のものだつたのである。


     六 にせ山伏しとの結合


ところで、此、初春に里へ出て来る山人といふのは、日本には至るところにあつて、必しも参・遠・信の山奥とは限らない。思はぬ奥山家から、大黒舞・夷舞などが出て来る。彼等は、年に一度、暮れ或は正月になると、どこからともなく出て来て、或特定の村、即、檀那村を祝福して歩いては、またどこへともなく帰つて行く。「隠れ里」の伝説はこれから起つたので、更に「隠れ座頭」などの嘘噺も出来、又、偶然山奥へ迷ひ込んだものゝ中には、此等の芸人村のあることを発見して、山伏し以上の法螺を吹いたものもあつたりしたのであつたが、要するに、隠れ里の伝説が、単なる伝説上のものでなかつた事だけは考へられるのである。

此も「翁の発生」で触れて置いたことだが、芸人の団体には、山奥のものと、更にもう一つ、海の岬に根拠を置いて海道を歩いた、くゞつとの二者があつた。併し、近世では、かうした芸人は、山奥のものに限られた。そして、此が本筋の山伏しだつたのであるが、鎌倉以後、戦国時代には、此をまねた、或は彼等の群に投じたにせ山伏しが横行するやうになつたので、此等のものが諸所の豪族の家々を頼つて、海道筋を上り下りし、其等の家々にとり入り、遂には、其にとつて替らうとさへしたのであつた。


     七 すりすつぱらつぱ


あまりに有名だから、名を出してもいゝだらう。蜂須賀家の祖先小六は、それの有名な一人である。彼が地位を得たのは、豊臣氏が栄えたからである。

彼等は、海道筋を上り下りする中に、一定の檀那(擁護者)を得たものが落ちつき、其を得ないものがうろつく。そして其中には落伍者が出来たので、其単独のものがすりとなり、団体的のものはすつぱらつぱと言はれた。いづれも盗人職だつたのである。職人とは土地を持たないものを謂うたので、髪結ひを女工業と言うたなどは、職人の直訳とも見られる。ともかくも、当時はさうした盗人職・ごろつき職が厳然として存在してゐたのであつた。尤、現在だつて不思議な団体があつて、而も彼等は厳然として存在してゐるのである。

すりは、すりといふ道具をもつて歩いた団体だともいひ、旅人の旅具をすり替へることから、さう呼ばれるやうになつたのだとも言ふが、恐らくはほかひくゞつなどゝ同じやうに、旅行者の持つて歩いた旅具からついた名だと思はれる。世人は、それを恐れてさう呼んだのであらう。後には、熟練を得て頗る敏捷なものになつたが、当時のは、もつと鈍なものだつたに相違ない。

すりは、早くから単独の職業になつたが、すつぱの方は──狂言では田舎人を訛す悪党で、すりすつぱと同じやうに言はれてゐるが──もう少し団体的のもので、親分を持つてゐた。そして更に、一層団体的だつたのが、らつぱである。小六は即らつぱの頭領だつたのである。当時は、かやうなものが幾つとなく、彷ひ歩いてゐた。尚、此外に、がんどう提灯に名残を止めた、強盗などもあつたのである。


     八 一二の例


押し借り強盗は武士の慣ひとは、後々までも残つた言葉であるが、当時は、実際にさうしたものが、諸民の部落を荒して廻つたので、山伏しも、陰陽師となつて、諸国に神道の祈りをして歩き、一方には、舞踊や唱歌をもした。其に交つた浪人者があり、其間に発達したらつぱすつぱもあり、荒すこと専門のらつぱすつぱがあり、一方、海道筋をうろつくがんどう連がある、と言うた訣であつた。

らつぱの専門は、庸兵となつて、諸国の豪族に腕貸しをする事であつた。そして其処の臣となり、或は、即かず離れずの態度で、其保護をうける。其中に、其主家にとつて替つたなどゝ言ふのもあつた。

相模の後北条早雲の出身は確かでない。伊勢関氏の分れだと言ふが、同時に、其はらつぱといふ事にならうかと思はれる。探りを入れて見ると、叡山・山王の信仰を伝へて歩いた山伏し、或は唱門師とも見られるので、戦国の頃、段々、東に出て来て、庸兵となつて歩いたらしい。妹が今川氏の妾(或は側室ともいふが)になつてゐたので、今川氏に頼り、それから段々、勢力を得た様にも言はれてゐるが、怪しいものである。妹を今川氏に入れるなどゝ言ふことは、後にも出来ることであり、殊に、彼等が豪族にとり入つたには、男色・女色を以てしたのが、一の手段でもあつたのだ。

ともかくも、祖先伊勢新九郎の出身は、宇治の山奥、田原であつて、其家は穴太アナホであつたらしくもある。此が伊勢の関まで出てゐたのであらう。彼が最初に連れて出た家来と言ふのは、十人足らずであつたが、いづれも宇治地名を帯びた名を持つてゐる。早雲は、後に追々と勢力を得て、遂に、小田原に根拠を据ゑるやうになつたが、最初は、山伏しとなり、庸兵となりして歩いたものだと思はれる。

更に、古い例としては、小早川氏もさうのやうである。「小」といふ字の付くのは、嫡流に対する小流(妾腹)の意で、小田原在に早川といふ所があるが、土肥実平の分れであつて、山伏し系統の巡遊者となつたものだと考へられる。

これらは古い例であるが、近世には頗多い。併し、あまり名前を挙げて行くことは遠慮しよう。


     九 村落制度から生れた親分・子分


かやうに、鎌倉末から戦国時代にかけては、或は山伏しとなり、或は庸兵となつた様な無頼の徒が、非常に多かつたのであつたが、此等の中、織田・豊臣の時代までにしつかりとした擁護者を得なかつたものは、最早、徳川の平定と共に、頭を上げることが出来なくなつて了うた。彼等は、止むを得ず、無職渡世などゝいつて、いばつて博徒となつた。此が侠客の最初である。

何故、彼等は、さうならなければならなかつたか。此には考ふべきことがあると思はれる。若、彼等が単独であつたら、譬へ徳川の平定があらうとも、博徒にはならずとも済せたかも知れない。もう少しは、何とか身の振り方が着いたであらう。けれども彼等には多くの仲間があつた。彼等は、先、其等の仲間・子分の処置に困つた。

此処で、親分・子分のことを一言述べて置くが、彼等の親分・子分は、農村の制度からとつたのだと思はれる。農村には、親方筋・子方筋といふのが幾軒もある。其外檀那筋など言ふのもあるが、親方・子方となると、其子供は親方の養子分となる。出産があれば、戸籍吏に届け出る様に、親方へまで届ける。此親子の関係が、らつぱすつぱにもある。彼等の団体は、此村落の生活が基礎になつてゐた、と見られるのである。


     一〇 人入れ稼業の創始


徳川氏の方でも、天下をとつて、納まると同時に、先、困つたのは、彼等らつぱすつぱの連衆の処置であつた。此までは、助力を得たのであつたが、関个原・冬・夏の戦ひで、彼等には手を焼いてゐる。其が多勢の子分を連れてやつてくる。而も、彼等は法力を持つてゐる。ひと先、整理をつけなければならぬ時が来たのであつたが、其処置には、全く困惑したやうであつた。

かうして彼等のうち、織田・豊臣の時代までに、しつかりとした擁護者を得て、落ちつく事が出来なかつた者は、再、落ちつく機会を失つて了うたのであつた。

それでも、村落にしつかりとした基礎を持つてゐたものは、まだよかつた。即、彼等は、そこへ帰つて、郷士となつた。

又、彼等の中には、早く江戸を棄て、宗教の名を借りて、悪事を働いた高野聖の様なものもある。其後も、永く旅人を困らせたごまの灰は、高野聖の一種であつた。高野でも、此には困つたので、非事吏などゝ、意味もないやうな名をさへ出したほどである。

彼等の中、最、困つたのは、江戸や大阪・堺などに未練を持つた連衆で、何と子分の始末をすべきか、其が大きな問題であつた。そこで、彼等は、其子分たちを、諸大名の家へ売りつけることを考へた。人入れ稼業は、かうして始つたのである。そして、彼等は所謂侠客となつた。親分・子分の関係は、前に述べた様に、農村の制度からとつたものであるが、今日人口に膾炙してゐる親分・子分は、此人入れ稼業から始つたと見ていゝ。有名な幡随院長兵衛の頃には、もうそんなことはなく、ほんとうの人入れ稼業になつてゐたのであらうが、古くは、其子分を大名の家に売りつけたのであつた。

其を「奴」といつた。奴の名は髪の格好から出たものと思はれる。鬢を薄く、深く剃り込んだ其形が、当時ははいから風であつたのだ。そして、其が江戸で流行を極める様になつた。町奴の称が出来たのは、旗本奴が出来たからであつて、もとは、かぶきものと言うた。旗本奴もかぶきものかぶき衆などいはれたのであつた。併し、後には、此二者が交錯して、かぶきの中に奴が出る様なことにもなつたのであつた。


     一一 かぶきかぶき踊り


かぶきと言ふ語が、文献に現れたのは古いが、直接後世と関係したのが見えて来るのは、室町時代からだと思ふ。乱暴する、狼藉する意に用ゐられたのだが、古い用語例らしい。此語の盛んに用ゐられた一つの中心は、桃山時代であつた。当時は、事実此風が、盛んに行はれもしたのであつた。

阿国の念仏踊りを、かぶきと言ふ様になつたのは、彼女には、いろ〳〵な演芸種目があつて、其一つに「かぶき踊り」と言ふのがあつたのだと思ふ。

当時の貴族・豪族たちは、何でも、異つたものに目を止めた。阿国も、さうして認められた一人だつたのだ。彼女が京に出て来て、五条の橋詰め・北野の東などに舞台を構へた時に、此等の大名たちは、直に其に目を止めた。彼女が頭を擡げて来たのは、さうした擁護者を得る事が出来たからだつたのである。

彼等の芸を、何故かぶきと言うたかと言へば、彼等の持つてゐた演芸種目の中に「いざやかぶかん、いざやかぶかん」と言うて踊る踊りがあつて、其から名づけられたものだと思ふ。阿国の演芸では、阿国と名古屋山三との問答があり、それから「いざやかぶかん」になるので、此をかぶき踊りと言うたらしい。


     一二 幇間の前駆


かぶき踊りの起原は、名古屋山三が教へたとあるが、山三が阿国に教へたのは、早歌であつたらう。山三は、幸若の舞太夫だつたと思ふ。

当時は、幸若舞の最盛んな時代だつたので、舞ひと言へば幸若舞の事を言ふのであつた。其他、舞々・舞太夫、すべて幸若に関したものを言うたのであつた。幸若舞は、千秋万歳に系統を持つ曲舞から出たので、曲舞のうち、武家に好まれたものが、即、幸若舞であつた。随つて、幸若舞には、武張つたものが多い。併し、もと〳〵、幸若は社寺の芸術だつたのである。

伝説によると、山三は、蒲生氏郷の寵を受けた、当時有名の美少年だつたとあるが、其見出される迄は、建仁寺の西来院に居つたともある。当時、有名な美少年としては、彼の外に、もう一人、秀次の愛を受けた、不破伴作があつた。併し、もと〳〵、彼等は、ごろつきだつたのである。山三は、蒲生家から浪人して後、諸国を廻つたとあるが、彼等は、さうして、主君にありついた時には、其酒席に侍つた。男色は彼等が主君にとり入る一つの手段だつたのである。

すつぱと同じやうな意味を含んだ語に、しよろりといふものがあつた。やはり、諸国を流浪し、豪族たちの庸兵となつたので、其まゝ臣下となつたものもあつたが、多くは、一時的の臣だつたのである。併し、しよろりそろりの語から考へて、此は後の幇間の前駆をなしたもの、と見ることも出来ると思ふ。

日本には、幇間的職分を持つたものは、古くからあつた。王朝時代、貴族に仕へた女房たちの為事と言ふのは、そこの子弟を教育するのが、主なるものとなつてゐたのだが、其教育は、なか〳〵行き届いたもので、時には、其娘や息子たちの為に、艶書の代筆などをもやつてゐる。此が、後には、男で文筆あるものが替つてやるやうになつた。隠者の文学は、そこから発生した。兼好法師が、師直の為に艶書の代筆をしたといふのは、事実であつたらう。当時では、決して、珍しいことではなかつたのである。

尚、此外に、奴隷から出て、君側に侍つたものがあつた。併し、戦国時代には、すつぱしよろりなどが侵入して、いつか、此等のものとの間に、歩み寄つた生活をしてゐた。何故、彼等が、其等のものとの間に歩み寄つた生活を為し得たかに就ては、考ふべき点があると思ふ。


     一三 異風・乱暴の興味


阿国歌舞妓は、念仏踊りの一変化したもので、幸若舞に系統を持つ、謂はゞ、山三の芸の濃いものであつた。そして、此は初代の阿国の時あつたものではなく、二代の阿国が舞ひ出したのだと思ふ。其訣は、前にも言うた様に、かぶき踊りは、阿国と、山三の亡霊との間に問答があり、それから「いざやかぶかん」になる。此事実からも考へられると思ふのである。

かぶかんとは「あばれよう」と言ふ事である。即、舞ひに狼藉振りを見せたものらしい。後の芝居では、此が六法ロツパフとなつて残つてゐる。尚、六法は、前に言うたかぶき者の別名ともなり、其一分派には、丹前など言ふものも出来た。共に、あばれ者であり、伊達な風をして、市中を練つて歩いたのであつた。「六法はむほふとも訓むべし」など言ふやうになつたのは、恐らく、彼等の、さうした行動から出たものであつたらう。

併し、六法は、其以前からもあつた。室町の中期頃に、六法々師と言ふものがあつて、祭礼に練つて歩いた。

京の街では、早くから、祇園祭に異風の行列が流行つた。これのはつきりして来たのは、室町からであつたが、既に、其以前、平安朝に於ても、其風はあつたのだ。さうして、これの愈発達して来たものが、風流フリウであり、六法である。彼等は、仮装をして、盛んに暴れ廻つた。当時としては、其がはいからであり、さうして人目を驚かすことに、社会一般の興味があつたのだと思ふ。彼等は、好んで外国渡来の品などを身に著けた。かうした、異風・乱暴は、其がまた、性欲的でもあつたのだ。当時は、異風と荒つぽいことに性欲を感じたのである。

此等の傾向は、其後、歌舞妓芝居の舞台に、長く残つた。大帯なども、其一つと見られるのである。


     一四 歩く芸


戦国時代から徳川の初期へかけては、諸大名の中にも、さうした異風を好み、此をまねたものが少くなかつた。織田信長なども、其一人であつた。

当時は、社会一般が、異風といふことに、興味の中心を置いてゐたので、文芸・芸術もまたさうであつたと言へるのである。風流・六法は、さうして出来たものであつた。

風流は、後には、飾りものゝ名の様になつて了うたが、元来は、異つた扮装をする事を言うたのである。異つた扮装をして、祭礼などに練つて歩いた。此が多少の変化を来して、動作が主になつたものが、六法であり、それの分派がかぶきであり、それから「奴」が出来、徳川中期には「寛濶」などゝ言ふものも出来たのだが、もと〳〵此等の芸は、風流系統のものである。だから此等の芸は、後々までも、歩く芸──練つて歩く芸、謂はゞ祭礼のくづれ──として残つたのであつた。

芝居の六法は、かう考へて見るとき、あの特別な歩き振りにも、一つの意味が発見されようと思ふ。


     一五 幸若の影響


歌舞妓芝居では、元禄以後になつてからでも、平気で舞台を歩く芸があつた。若衆の出て来る芝居などにも、舞台を散歩してゐる様なものがあつた。奴をつれて「いゝ花ぢやなあ」といつた調子で、舞台を散歩してゐるのである。尤、此には、顔を見せるといふ事があつた。此も見逃せない事の一つであるが、歌舞妓を散歩芸として眺めるのには、尚、他にも考ふべき事があるので、譬へば、道行きには「舞ひ」の手ぶりがある。即、幸若が割り込んで来たからである。

元来、幸若の舞ひぶりなるものは、地固めの舞ひ(即、反閇ヘンバイ)から生れたもので、足ぶみをして舞ふものなのである。歌舞妓は、これから変化したものであつて見れば、愈、散歩芸・足の芸とならざるを得なかつたわけである。かういふわけで、散歩芸にも其起りがある。風流・六法・丹前・奴・寛濶──此等はいづれも皆歩く芸であつたのである。

歌舞妓芝居はそれから生れたのだが、尚、此には、狼藉の所作振りと、人目を驚かす異風とがとり入れられた。勿論、此にも、理由はあるので、前にも言うた様に、かぶくとはあばれる事であつた。かぶき者かぶき衆とは、異風をしてあばれ廻つた連衆のことである。後には、あぶれ者など言ふ語をさへ生む様になつた程で、もと〳〵彼等はごろつきだつたのである。山三が、津山で切り死にをしたといふのも、彼があばれ者だつたからである。団十郎が、舞台で殺されたのにも、さうした関係があつたのだと思ふ。荒事などゝ言ふものが演じられたのも、決して偶然の発生ではなかつたに相違ない。此乱暴狼藉は人形にまで影響した。即、金平ものゝ発生が其である。


     一六 遊女を太夫と言うた訣


かやうに当時は、乱暴・異風が、社会の興味の中心となつてゐた。それから歌舞妓のやうな芸術も生れた訣だが、此風潮は啻に、男の世界ばかりに見られたのではない。女の方にも、やはり、それがあつた。吉原其他の色街に於て見られたのである。

元来、吉原・島原の遊女を、何故太夫と言うたかと言へば、彼等は元は、幸若の女舞太夫だつたからだと思ふ。そして当時は、此女舞太夫が非常に流行を極めた。其訣は、男は一般に見識を持つて、あまり舞はなかつたが、女の方は激しく此舞ひを舞うて、それが世間に受けたのだと思ふ。

彼等は、それ〴〵座を持つてゐたので、最初は、市内の彼方・此方で演じてゐたのだが、遂に吉原に押し込められるやうになつた。

それでも彼等は、時を定めて、此を演じた。其が受けたので、追々これをまねるものが出来、彼等も亦、太夫を称へる様になり、遂に、此が遊女の称とさへなつたのである。

併し、彼等が最初、座を持つてゐた時には、村々によつて、其が違うた。随つて、彼等は、其等の村々の方言を持つてゐた。ざますありんすは、即、其形見と考へられるのである。而も、此言葉は、新吉原になつて後も、長くサト言葉として、保存されることになつたのであつた。


     一七 八文字は女六法


それはとにかく、彼等が男のかぶき・六法の、直接の影響を受けたと見られるものは、道中に見せた八文字である。八文字は明らかに女の六法であつた。

此が嵩じては、かの一中に謡はれた、勝山に迄なるので、一中節では、彼女が道中の途次、湯巻を落したが、其まゝ道中を続けたと言うて、大いに此を讃美してゐる。我々から考へれば、どこに其ほど讃美する価値があるのか、と思ふのであるが、要するに、当時としては、其が女六法にかなつてゐた。そして其が、性欲的でもあつたのだ。

いきはりなど言うても、もはや今日では、訣らぬものになつて了うたやうだが、所詮、女性と男性との意志の一緒になつたものである。

かうした気風は、吉原だけに見られたのではない。京の島原・大阪の新町、此等のサトにもあつたのだ。此様にかゝる方面にまで、ごろつきあばれものゝ影響があつたのである。


     一八 美的な乱暴


以上述べて来た様に、歌舞妓芝居の起るまでには、従来考へられてゐたものゝ外に、かうしたあぶれ者・乱暴者の生活から発生してゐると言ふ事実があり、尚、直接の原因としては、幸若の舞太夫の扶持を離れたものが、民間に下つたと言ふことがある。

そして、此二者が相寄つて、美的な乱暴を創始した。美的とは言うても、其は美学的見地からのものではない。尤、中には「助六」の様な美しくて、力のあるものもある。殊に、当時の、さうした風潮を念頭に置いて此を見るならば、団十郎の此を作つた気持ちは、容易に訣ると思ふのである。

かやうに、かぶきかぶくと言ふ語の、元の意味は、乱暴する・狼藉するといふことであつたので、歌舞妓芝居はそれから生れたのであるが、もはや今日の歌舞妓には、さうした元の意味は、殆ど無くなつて了うてゐる。併し、今日でも、全然それが無くなつてしまつたとは、言はれない。

譬へば、日本の芝居には、濡れ場・殺し場など言ふ、残虐な或は性欲的な場面が少くない。学者の中には、此は日本の国民性に合はない、不思議な挿入物だ、と言ふ様に見てゐる人もある。坪内・藤岡両博士の御意見も、さうの様であつたと記憶するが、此なども、以上述べたやうな、これの発生・源流に就て考へて見るならば、一応の解釈はつくと思はれる。

勿論、さうしたことは、時代の好尚、其他の事情によつて、特に、病的に発達して行くこともある。

しかし、歌舞妓芝居にあつては、既に、其起りが、乱暴・異風──そして、それが性欲的であつた──を採り入れた芸術なのであるから、さうしたこと──残虐的、或は、性欲的な場面──が、多分にあつたとしても、其は、必しも、不思議とするには当らないのである。


     一九 「士道」と「武士道」と


大体、今日一般が考へてゐる道徳なるものは、歴史的に見て、此がどれだけの価値を持つてゐるか、一考を要すべき点があらうと思ふ。

今日、一般が考へてゐるところの、所謂武士道なるものは、大体、徳川氏の世になつて概念化されたものである。徳川氏は、天下を取ると同時に、先、儒教によつて一般を陶冶しようとした。即、謀叛・反抗をしてはならぬといふ、道徳的陶冶をなすべく、最初は、此を禅僧に謀つたのであつた。山鹿素行などの一流の士道なるものは、其後に出来たのである。

武士道は、此を歴史的に眺めるのには、二つに分けて考へねばならぬ。素行以後のものは、士道であつて、其以前のものは、前にも言うた野ぶし山ぶしに系統を持つ、ごろつき道徳である。即、変幻極まりなきもの、不安にして、美しく、きらびやかなるものを愛するのが、彼等の道徳であつたのである。だから、彼等の道徳には、今日の道徳感を以て考へては、訣らないやうなものもある。


     二〇 気分本位の生活


一例を挙げるなら、北条早雲が三浦荒次郎を攻めたとき、三浦の城が落ちると聞くや、早雲の家来十幾人は、三浦方の方を向いて、割腹した。此は嘗て、三浦方に捕はれたとき、彼方で好遇を受けた其恩に感じたのだと言ふ。今日、それだけの雅量あるものが、果してあらうか。

後世の侠客・ごろつきの中には、多少それに似た道徳感が流れてゐた。睨まれゝば、睨み返すのが、彼等の生活であつた。即、気分本位で、意気に感ずれば、容易に、味方にもなつたが、また直に、敵ともなつた。我々が、多少でも、かうした気分を味ひ得たのは、釈場に於てゞあつたが、それも、今日では極めて淡いものになつてしまうた。時代々々の道徳の力は、あらゆるものを変化せしめずには置かない。同時に、時代々々の文芸・芸術は、此と交渉なしには生れない。現代の道徳は立派であると言へよう。だが、今日では、多少、それが固定したと思はれる。随つて、感激性を失つた。

現代の文芸・芸術が、此を重視しなくなつたのには、さうした理由があるのだと思はれる。


     二一 結び


話が、かなり岐路に分れたと思ふが、要するに、日本のごろつきには古い歴史がある。而して、鎌倉以後は、此が山伏しと結びつくやうになつて、著しく社会の表面に顔を出す様になつた。法術を利用して、大名にとり入るやうになつたからである。

併し、彼等が根拠地としたのは山奥で、常には、舞ひや踊りを職業とし、年の始めには、檀那の家々を祝福して廻りもしたので、其中には、山奥に残るものもあり、里に出て来たものもあり、里に出て来たものゝ中には、大名となり、また其臣下となつたやうなものもあつたが、遂に、其機を逸したものは、徳川の初期に於て人入れ稼業を創始して、大名・旗本に対しても、横柄を振舞つた。

歌舞妓芝居は、彼等の間に生れた芸術で、それには幸若舞が与つて、大きな力を致してゐる。

歌舞妓芝居は、其後非常な発達をして、もはや、昔の俤は止めぬほどになつてしまうたが、それでも尚、此等の、発生当初のものとの関係は、全然、別れ切りにはならなかつた。其間に纏綿たるものゝあつた事は考へなければならぬ。

尚、無頼の徒の芸術には、文学方面にも、言及すべきものがある。

日本の文学は、王朝時代に於ける女房の文学に始まり、次で隠者の文学が起り、此にごろつきの文学が提携し、此等のものゝ洗礼を受けて生れたのが、即、江戸時代の町人文学である。此等の点については、いづれ細論する日もあらう。茲には無頼の徒の芸術として、歌舞妓芝居の発生を述べた。大体、其特色は尽した積りである。

底本:「折口信夫全集 3」中央公論社

   1995(平成7)年410日初版発行

初出:「民俗芸術 第一巻第八・九号」

   1928(昭和3)年8、9月

※「昭和三年春、神奈川県図書館協会主催文芸講演会講演筆記」の記載が底本題名下にあり。

※底本の題名の下に書かれている「昭和三年春、神奈川県図書館協会主催文芸講演会講演筆記。昭和三年八・九月「民俗芸術」第一巻第八・九号」はファイル末の「初出」欄、注記欄に移しました。

入力:高柳典子

校正:多羅尾伴内

2007年713日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。