餓鬼阿弥蘇生譚
折口信夫
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一 餓鬼
世の中は推し移つて、小栗とも、照手とも、耳にすることがなくなつた。子どもの頃は、道頓堀の芝居で、年に二三度は必見かけたのが、小栗物の絵看板であつた。ところの若い衆の祭文と言へば、きまつて「照手車引き近江八景」の段がかたられたものである。芝居では、幾種類とある小栗物のどれにも「餓鬼阿弥」の出る舞台面は逃げて居た。祭文筋にも、餓鬼阿弥の姿は描写して居なかつた。私どもゝ、私より古い人たちも、餓鬼阿弥の姿を想ひ浮べる標準をば持たなかつたのである。合巻類には、二三、餓鬼阿弥の姿を描いたのもあるけれど、此も時々の、作者々々の創意のまじつてゐた事と思はれる。
だから私どもは、餓鬼阿弥と言ふ称へすら、久しく知らずに居た。現に祭文語りの持つ稽古本や、大阪板の寄せ本などを見ても、大抵はがきやみと書いて居る。「阿弥」から「病み」に、民間語原の移つて来た事が見える。私の根問ひに弱らされた家の母などは「かつたいや。疳やみやろ」など言うて居た。勿論、母たちにわかる筈はなかつたのである。熊野本宮に湯治に行く病人と言ふ点、おなじく毒酒から出た病ひの俊徳丸に聯想せられる点から、癩病と考へもし、餓鬼と言ふ名から、疳に思ひ寄せた事と思はれる。
其程「がきやみ」で通つて居たのであつた。此は一つは、此不思議な阿弥号の由来を説く「うわのが原」の段のかたられる事が稀になつた為と思はれる。陰惨な奇蹟劇の気分の陳い纏はりから、朗らかで闊達な新浄瑠璃や芝居に移つて行つたのが、元禄の「人寄せ芸」の特徴であつた。主題としては、本地物からいぶせい因縁物を展開して行つても、態度として段々明るさを増して行つた。此が餓鬼阿弥の具体的な表現を避けた原因である。
小栗判官主従十一人、横山父子に毒を飼はれて、小栗一人は土葬、家来はすべて屍を焚かれた。この小栗の浄瑠璃の定本とも言ふべきものは、説経正本「をぐり判官」〔享保七年正月板行〕であらうと思ふが、此方は、水谷氏の浄瑠璃の筋書以外に、まだ見て居ない。国書刊行会本の「をぐりの判官」はやゝ遅れて居るらしいが、説経本と筋立ての変りのないものである。或は一つ本の再板か、別な説経座或は其他の浄瑠璃座で刊行した正本なのかも知れない。
とにかく、国書刊行会本に従うて筋をつぐ。「さても其後、閻魔の庁では」家来十人は娑婆へ戻つてもよいが、小栗は修羅道へ堕さうと言ふ事になる。家来の愁訴で、小栗も十人のものどもと共に、蘇生を許される。魂魄を寓すべき前の世の骸を求めさせると、十一人とも荼毘して屍は残らぬと言ふ。それではと言ふので、十人に懇望して脇立の十王と定めて、小栗一人を蘇生させる事になる。そして其手の平に
この者を熊野本宮の湯につけてたべ。こなたより薬の湯を出すべし。藤沢の上人へ参る。王宮判。
と書いて、人間界に戻した。藤沢の上人「うわのが原」の塚を過ぎると、塚が二つに割れて、中から餓鬼が一体現れた。物を問うても答へない。手のひらを見ると、閻魔の消息が記してある。それで藤沢寺へ連れ戻つて、餓鬼阿弥陀仏と時衆名をつけて、此を札に書きつけ、土車にうち乗せて「此車を牽く者は、一ひき輓けば千僧供養万僧供養になるべし」と書いた木札を首にかけさせて、擁護人の出来るまでと言ふので、小法師に引かせて、海道を上らせた。此続きがすぐに、照手姫車引きになるのである。
国書刊行会本の「をぐりの判官」は、此段が著しくもつれてゐるやうである。古い語り物の正本としては、此位の粗漏矛盾はありがちの事ではあるが、肝腎の屍の顛末の前後不揃なのはをかしい。これは、小栗土葬、家来火葬ときめてよい。十王の本縁も其でよくわかるのである。唯、骸がどうなつて居たのか、判然せぬ点がある。
正本によると
此は扨措き、藤沢の上人は、うわのが原に、鳶鴉かわらふ比立ちよつて見給ふに、古のをぐりの塚二つに割れ……
とあるのだから、小栗の屍が残つて居たと見えるが、鳶鴉に目をつけて見ると「鳶鴉が騒ぐ故」位の意味で、元の屍は収拾する事の出来ぬ程に、四散して居たものとも見られる理由がある。古の小栗の塚と言ふよりも、古の塚の他人の骸を仮りて、魂魄を入れた話を合理化したものと見てもよい。
其は、小栗の蘇生が尋常の形でなく、魂魄とからだとが融合するまでに回復するのに手間どつてゐる点、おなじ説経正本の「愛護若」でも、愛護若の亡き母が娑婆へ来るのに、骸が残つて居ないので、鼬のむくろを仮りて来る段がある。此他人の骸を仮る点の脱落したらしいのが、小栗の蘇生を複雑に考へさせる。私は小栗説経の古い形は、此であつたのであらうとは思ふが、姑らく正本に従うて説明して行かう。
四五年前にも一度、小栗判官伝説の解説を書かうとして、柳田先生に餓鬼つきの材料を頂いた事があつて、企ては其まゝになつて居た。前号に先生のお書きになつた「ひだる神の話」を見て、今一度稿を起して見る気になつた。
私自身も実は、たに(た清音)に憑かれたのではないかと思ふ経験がある。大台个原の東南、宮川の上流加茂助谷での事である。米の字を手の平へ書けば、何でもなかつたのにと、後で木樵りから教へられた。
「ひだる神の話」に先生は、名義に就て二つの暗示を含めて置かれた様に思ふ。一つはだるがひだるから出てゐると言ふ考へ、今一つは、だにを本義として、虫のだにと一つものとする考へ方とである。此後とも此種の報告が集つて来て、先生の結論を、どう言ふ方面にお誘ひ申すかわからないが、私も此物語に絡んでゐる点だけの小口をほぐさせて頂く。あの室生山の入り口、赤埴仏隆寺のひだる神の事は知らないで居たが、あれを読んで、自分一人思ひ合せる事がある。中学生で居た頃、十八の春の夕、とつぷり暮れてから一人、あの山路を上つて室生へ下りた事がある。腹がすいて居たけれども、あるけなかつた程ではない。室生の村の灯を見かける様になつてから、棚田の脇にかけた水車の落し水を呑んだ。其水の光りはいまだに目に残つてゐる。あの報告を読んでぞつとした。其感銘を辿りながら書いて行く。
私は餓鬼についての想像を、前提せなければならぬ。餓鬼は、我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつたのである。北野縁起・餓鬼草子などに見えた餓鬼の観念は、尠くとも鎌倉・室町の過渡の頃ほひには、纏まつて居たものと思はれる。二つの中では、北野縁起の方が、多少古い形を伝へて居る様である。山野に充ちて人間を窺ふ精霊の姿が残されて居るのだ。
餓鬼の本所は地下五百由旬のところにあるが、人界に住んで、餓鬼としての苦悩を受け、人間の影身に添うて、糞穢膿血を窺ひ喰むものがある。おなじく人の目には見えぬにしても、在来種の精霊が、姿は餓鬼の草子の型に近よつて来、田野山林から、三昧や人間に紛れこんで来ることになつたのは、仏説が乗りかゝつて来たからであらうと思ふ。私はこの餓鬼の型から、近世の幽霊の形が出て来たものと考へてゐる。其程形似を持つた姿である。而も幽霊の腰から下は、一本足を原形とした事を示して居るのではなからうかと思はれる。さうすればやはり、山林を本拠とする精霊なるが故に、おなじ山の妖怪なる一本だゝら或は、片方だけにきまつて草鞋を供へて居る山の神などゝ共通する処があるのではあるまいか。
餓鬼と言ふと、先入主に囚はれ勝ちになるから、だるの名に沿うて話を進めて行く。私は山野に居る精霊類似のものに、山に入つて還らなくなつた人々の、死霊の畏れが含まれて居るのを認める。だるが憑くと立てなくなるのは、友引きであり、たとひ一粒の食物乃至は米の名を聞かせるだけでも、怨念退散するのは、一種のぬさに当つて居るからである。
二 ぬさと米と
聖徳太子が、傍丘に飢人を見て、着物を脱ぎかけて通られたといふ話は、奈良朝以前既に、実際の民俗と、その伝説化した説話とが並び行はれてゐた事を見せてゐる。而も其信仰は、今尚山村には持ち続けられてゐる。此太子伝の一部は明らかに、後世の袖もぎ神の信仰と一筋のものであると言ふことは知れる。行路死人の屍は、衢・橋つめ、或は家の竈近く埋めた時代もあつた、と思うてよい根拠がある。山野に死んだ屍は、その儘うち棄てゝ置くのであらうが、万葉びとの時代にも、此等の屍に行き触れると、祓へをして通つた痕が、幾多の長歌の上に残つて居る。歌を謡うて慰めた事だけは訣るが、其外の形は知れない。唯太子と同じ方法で着物を蔽うて通り、形式化しては、袖を与へるだけに止めて置いた事もあらうと思ふ。
みてぐらとぬさとの違ひは此点にある。絵巻物の時代になると、みてぐら・ぬさを混同して、道の神にまでたむけて居る。ぬさは着物を供へる形の固定したものであらう。着物が袖だけになり、更に布になり、布のきれはしになると言ふ風に替つて、段々ぬさ袋の内容は簡単になつて行つたものと思はれる。山の神の手向けとして袖を截つた事もあつたのは「たむけには、つゞりの袖も截るべきに」と言ふ素性法師の歌(古今集)からでも知られる。而も、かうした精霊が自分から衣や袖を欲して請求するものと考へられる様になつて来る。此が袖もぎ神である。道行く人の俄かに躓き、仆れることに由つて、其処に神のあつて、袖を求めて居るものと言ふ風に判ぜられる様になる。壱岐の島などでは、袖とり神の外に草履とり神と言うて、草履を欲する神さへある。袖もぎ神は、形もなく祠もない。目に見えぬものと考へられて来た様である。
ぬさが布帛の方にばかり傾いて来たのは、恐らく古人の布帛を珍重する心が、みてぐらを供へる対象とぬさを献るべき神とを混同させる様にしたからであらう。ぬさの系統には布でないものもあつたのである。植物の枝や、食物までも使はれた。
植物の枝は着物同様、屍を蔽ふ為に投げかけられたのである。其が花の枝に替つた地方もある。此が柴立て場・花折り阪などの起りである。沖縄の国頭郡にある二个処の恥蔽阪の伝説は、明らかに其を説明して居る。恥処を蔽ふ為ばかりでなく、屍を完全に掩ふために、柴を与へて通つたのが、後世特定の場処に、柴や花をたむける風に固定したのである。
食物としては、米が多く用ゐられて居るけれども、菓物を投げ与へる事もあつたらしい。桃の実や、櫛・縵の化成した筍・野葡萄の類が悪霊を逐うた神話などは、或種の植物に呪力があると見る以外に、精霊を満悦せしめる食物としての意味を、考へに入れて見ねばならぬ。散飯を呪力あるものとしてばかり考へてゐるが、やはり食物としてゞある。大殿祭にもぬさと米とがうち撒かれるのは、宮殿の精霊に与へるのが本意で、呪力を考へるのは、後の事であらう。すべての精霊のたむけにはぬさと米とを与へる様になつた。其も亦、我々の想像を超越した昔の事であらう。
野山の精霊が米を悦ぶと言ふ信仰と、現にとり斂められずに在る行路死人とを一続きに考へると、其死因が専ら飢渇の為であり、此原因に迫つて行くのが、其魂魄を和める最上の手段とする事になる訣である。
天龍の中流と藁科の上流とに挟まれた駿遠の山地を歩いて知つた事は、山中に柴捨て場の多い事で、其が大抵道に沿うた谷の隈と言つた場所にあり、其処で曾て行き斃れるか、すべり落ちて死ぬかした人の供養の為にして通るのだ。さもないと、其怨念が友引きをするからとの説明を聞いたのであつた。
馬頭観音や、三界万霊塔の類は、皆友引きを防ぐ為に、浮ばれぬ人馬の霊を鎮めたのである。彼等の友引きする理由はどこに在るか。自身陥つた悪い状態に他の者をもひき込んで、心ゆかしにすると見るのは、後世の事であるらしい。さうした畏怖を起す原の姿は、精霊の憑くと言ふ点にある様である。野山の精霊の憑き易い事実を、拠るべき肉体を求める浮ばれぬ魂魄の在るもの、と考へて来るのが順道であらう。一方、非業に斃れた行路の死人を、其骸を欲して入り替つたものと見た。其が更に転じて、友引きと言ふ考へを導いたのであらう。総じてかゝる・つくなど言ふ信仰は、必、其根柢に肉体のない霊魂の観念を横へて居る。此考へ方が熟した結果、永久或は一時游離した霊魂の他の肉体にかゝると言ふ考へを導く。
小栗の場合は、他人の屍を仮りたとも、自分の不完全になつた骸に拠つて蘇つたとも、どちらにもとれる事は、前に言うたとほりである。
三 餓鬼つき
正本自体、火葬土葬を問題にしてゐるから、此事も言ひ添へて置きたい。所謂蚩尤伝説は、巨人の遺骸を分割して、復活を防ぐ型のものである。日本では古く、捕鳥部ノ万が屍を分割して梟せられてゐる。平将門は、此までから既に、此型に入るものと見られて来てゐる。此と樹精伝説と謂はれてゐるものとは、一つの原因から出たとは言はれないまでも、考への基礎になつたものは同じである。霊魂或は精霊の拠つて復活すべき身がらを、一つは分けて揃はない様にし、一つは焼いて根だやしにして了ふのである。日本の風葬も奈良以前のものは、必しも火葬の後、灰を撒いたともきまらぬ様である。「まく」と言ふ語は、灰を撒く事に聯想が傾くが、恐らく葬送して罷らせる意であつたものが(任くの一分化)骨を散葬した事実と結びついて、撒くの義をも含む事になつたのであらう。
秋津野を人のかくれば、朝蒔君が思ほえて、歎きはやまず(万葉巻七)
たまづさの妹は珠かも。あしびきの清き山辺に 蒔散染(?)
などは、風葬とも限られない。
鏡なすわが見し君を。あばの野の花橘の珠に、拾ひつ(万葉巻七)
なども、火葬の骨あげとはきまらない。「ひろふ」と言ふ語に、解体して更に其骨を集める事を含んで居るのかと思ふ。勿論火葬は、既に一部では行はれて居たであらう。が、私はわが国の殯の風を洗骨に由来するものと考へて居る。今も佐賀県鹿島町の辺に、洗骨を行ふ村がある位である。南島と筋を引く古代人の間に、此風がなかつたものとも思はれない。併し、洗骨の事実を「珠に拾ひつ」と言うたと考へられないであらう。洗骨はやはり、復活を防ぐ手段なのであつた。何にしても日本の蚩尤伝説は、其が固定して後までも、実際民俗は解体散葬の方法を伝へて居たものと考へるのが、ほんとうであらう。
家来は火葬で蘇生の途を失ひ、小栗は土葬の為に、復活して来た。が、此物語の中には、肝腎の部分なる屍の不揃であつた、と言ふ点を落して居るらしい。斂葬に当つて、必体のある一部を抜きとつて置いたのが、散葬によらぬ場合の秘法であつて、其が Life-index の伝説形式を形づくる一部の原因になつたものらしい。小栗の、耳も聞かず、口も働かず、現し心もない間の「餓鬼阿弥」の生活は、此側から見ねば訣らないと思ふ。
鬼に、姿見えぬ人にせられた男が、不動火界呪によつて、再、形を顕したと言ふ六角堂霊験を伝へた今昔物語の話は、我が国には珍らしい型であるが、飜訳種とばかりはきまらない。よしさうであつたにしても、小栗の場合の今一つ残つた部分の説明には、役に立ち相である。
蘇生の条件の不備であつた屍の説明から、もう一歩踏み込んで見なければならぬのは、元来屍を持たない精霊の、肉身を獲る場合である。
私は長々と、だるが行路死人の魂魄から精霊化して、遂にはひだる神とまで称せられる様になつた道筋を暗示して来た。其が更に仏説に習合して、餓鬼と呼ばれる様になつた事も解説した積りである。かうした精霊の肉身を獲ようとする焦慮は、ぬさや、食物の散供を以てなだめられなければ、人に憑く事になつたのである。其が、食物を要求する手段として、人につく、と考へられる様になつたと見る事が出来る。
さうした精霊が、法力によつて肉身を獲て、人間に転生したと言ふ伝説の原型があつて、うわのが原の餓鬼阿弥の蘇生物語は出来たものであらう。曾て失はれた肉身をとり戻した魂魄の悦びを、単独に餓鬼阿弥の上に偶発したものと見るに及ばぬ。六角堂霊験譚も、やはり同じ筋のものであつて、仏説臭味の濃厚になつたものであつた。
それと比べると、餓鬼阿弥の方は、時衆の合理化を唯片端に受けて居るだけである。併しながら同時に、念仏衆の唱導によつて、此古い信仰が保存せられた事も否まれない。
底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
1929(昭和4)年4月10日発行
初出:「民族 第一巻第二号」
1926(大正15)年1月
※二行に渡り小書きになって居る箇所は、〔〕で囲いました。
※底本の題名の下に書かれている「大正十五年一月「民族」第一巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
2004年1月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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