だいがくの研究
折口信夫
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夏祭浪花鑑の長町裏の場で、院本には「折から聞える太鼓鉦」とあるばかりなのを、芝居では、酸鼻な舅殺しの最中に、背景の町屋の屋根の上を、幾つかの祭礼の立て物の末が列つて通る。あれが、だいがくと言ふ物なのである。尤、東京では、普通の山車を見せる事になつて居る様であるが、此は適当な飜訳と言ふべきであらう。
一昨年実川延二郎が本郷座で団七九郎兵衛を出した時は、万事大阪の型どほりで、山車をやめて、だいがくを見せたとか聞いて居る。一体此立て物は、大阪の町に接近した村々では、夏祭り毎に必出した物であつたが、日清役以後段々出なくなつて、最後に木津(南区木津)の分が、明治三十七八年戦争の終へた年に出たぎり、今では悉皆泯びて了うて居る。
此処には木津のだいがくの事を書いておく。だいがくの出来初めは、知れて居ない。唯老人たちは、台の上に額を載せて舁ぎ廻つたのが、原始的のもので、名称も其に基いて居るといふ。けれども今も豊能郡熊野田村の祭礼に舁ぐがく(額)と言ふ立て物と比べて見ると、或は大額の義かと思はれぬでもない。其後進歩して、台の上に経棒を竪て、一人持提灯一つ、ひげこ(第一図)額などを備へた形になつて来たのだと言ふが、恐らく、経棒は最初からあつた物で、額だけがぽつつり乗つて居たのではなからう。
別図の様な態を備へる事になつたのは、今から六十年程の前の事で、其以前は天幕の代りにひげこが使はれて居たのである。ひげこは、必、二重ときまつて居たさうである。明治三十年頃までは、西成郡勝間村・東成郡田辺村などには、ひげこのだいがくを舁いで居るのを見かけたものである。
一体ひげこは日の子の音転で、太陽神の姿を模したのだ、と老人たちは伝へて居るが、恐らくは、竪棒の上に、髯籠の飾りをとりつけて居たのが、段々意匠化せられて出来た(髯籠の話参照)ものか。今日なほ紀州粉河の祭礼の屋台には、髯籠を高くとりつける。のみならず、国旗の尖にもつけ、五月幟の頂にもつける事がある。竿頭を繖形に殺ぎ竹を垂して、紙花をつける事は、到る処の神事や葬式の立て物にある事である。
但し今一つ考へに入れて置かねばならぬのは、傘鉾の形式で、此は竿と笠とだしとの三つの要素で出来て居る事である。一体傘鉾は、力持ちが手で捧げながら練つたものであるが、此が非常に発達した場合には、籰に樹てゝ舁くか、車に乗せて曳き歩くより外に道はなくなる訣である。
だいがくの成立した形は、前者である。尚老人たちは、だいがくに数多の提灯をとりつける様になつた起りを、ある年の住吉祭り(大阪中の祭礼として、夏祭りの一番終りに行はれる)に、住吉まで出向いただいがくが、帰り途になつて日の暮れた為、臨時に緯棒を括りつけて、其に提灯を列ねた時からだと説いて居る。
其はともかく、住吉祭りといふ事が、だいがくと住吉踊りの傘鉾との関係を見せて居る様に思はれる。天幕に一重のも二重のもある点、竿頭にだしのついてゐる点、すべてかの踊りの傘鉾を、籰の上に竪てた物としか思はれぬ。熊野田のがくに近いだいがくのひげこが、形似の著しい傘鉾の形式をとり入れるとすれば、まづひげこを天幕にすべきは当然である。其傘鉾の天幕も、元はひげこであつた事は疑ひもない事実である。
だいがくのひげこは二重の上の方が大きくて、直径一丈で、下の方のは大分小さい。第一図の如く、蛇の目傘の様な形で、外囲りは藍紙、中囲りは赤紙、内廻りは亦藍紙を張つてゐる。外囲りの藍紙は、内の紙の倍の長さに作る。骨は竹である。日向国児湯郡三納の盆踊りの中に立てる花傘の紙花を「ひ」と言ふのも、名称上の関係があり相に思はれる。西鶴の「諸国ばなし大下馬」に見えた紀州の掛作観音の貸し傘が、肥後の奥山家に飛んで、古老の鑑定で、伊勢外宮日の宮の御神体だとして祀られたと言ふ話も、髯籠・傘鉾の信仰に根ざしあるものと思はれる。
天幕を使ふ様になつてから、非常に華美を競ひ出して、長さ八間幅一間余の緋羅紗に、大蛇対治の須佐之男命・石橋・予譲・楠公子別れなど、縫模様の立派な物になつた。天幕の裏はすべて墨書きの雲であつた様に思ふ。村と村との間ばかりか、一村の中の町々でも競争する処から、果は籰の地についた処からだしの尖端まで、十七間から十八間位の高さになつて、重さは二千貫、八十人乃至百人の力でなければ、動す事が出来なくなつた。
だいがくの名処のゑときをして見ると、
イ だし又はほことも言ふ。長さ凡一丈。町々で皆違うた物をつけてゐる。三日月・一本劔ぼこ・三本劔ぼこ・薙刀ぼこ・千成り瓢箪ぼこ・神楽鈴ぼこなどで、中でも、新町の薙刀ぼこをつけただいがくは、常によく活動して居た。西の町は、後に一本劔になつたが、古くは粟穂になるこで、なるこは鳥居に垂れてゐた処であつた。
ロ ふけちり 紋は、巴と木窠を裏表につける。但し、東の町は、五色のばれん。
ハ さんじやのたくせん 三社の託宣であらう。藁を束ねて結ぶ。伊勢・八幡・春日を表すと言ふ。
ニ 榊と御幣 ほこの結び目を掩ふ様にしてつける。
ホ ほこ だしをもほこと言ふ事はあるが、此とは別である。円錐形に縫うた緋羅紗の袋。巴と木窠とを、反対の側に白く縫ひ出す。(東の町は錦襴)。
ヘ てんまく 緋羅紗(白羅紗の物もある)に武者・龍虎・鳳凰など縫うた物。錘代りに無数の小さな鈴をつける。
ト へだての額 天幕と天幕とを隔てる額の意。ひげこのだいがく(別図。向つて右方の小さい物)の形式が残つたのである。長方形のはりこの函で、四方に天下太平・五穀成就・今月今日・祇園宮と書いてある。
因に、木津の氏神は、難波の名高い八坂とは別で、木津の祇園(敷津松の宮と言ふ)である。
チ 額 八坂神社と書く。
リ まむり 守り袋の大きな物を、鐘楼の撞木の様に吊る。赤地錦襴である。
ヌ 一人持ち提灯 額の下、第一の緯木の上下に、直角にさした腕木の間に吊るので、此提灯を始め、提灯といふ提灯は皆、町々の紋を描く定めである。昔は「一人持ち」と共に、五十七箇のきまりであつたのが、後には百七箇迄殖えた。
ル みづひき 紅白の縮緬で、緯木を結ぶので、昔は白木綿であつた相である。最後の緯木で結び垂げる。
ヲ 引き綱 正面と裏とに、一筋づゝ垂げてゐる。麻縄である。
ワ 緯木 明治以前は七本、以後は九本になつた。
カ 絹房と鈴と 水引きの末を隠す様につける。
ヨ 経棒 十五間乃至十六間。緯木と共に檜を使ふ。
タ 籰 高さ一間。欅を用ゐる。
レ 舁き棒 竪長さ六間。横長さ二間。
一体、大阪の町は勿論、農村ばなれをして来た郊村では、夏祭りは盛んだが、秋には唯、型ばかりな処が多い。だいがくなども、覚えてからは、秋祭りには出た事がない。多くは宵宮から二日間舁いたが、後には三日も舁いた。町々の広場で、横に寝さして組むので、組みあがると、引き綱とつっかひ棒とで起すのである。本祭りの日には、宮の前の大道に縦列を作つて、勢揃へをする。かう言ふ時に、とりわけ喧嘩が多かつた。
だいがくを動すのは、音頭と太鼓の拍子とである。唄の文句には、別に特有の物はない。此は、此たて物が近世に出来た物だと言ふ事を示してゐるのである。
大阪出てから、はや、玉造。笠を買ふなら、深江が名所
などが、記憶に止つてゐる。其外は「春は花咲く青山辺で、鈴木主水と云ふ士は」などいふやんれぶしの文句を使うた様である。音頭とりは、太鼓打ちや、子どもらと、籰の上に乗つて居て、ゆり甲と言つた調子で謡ふ。譬へば「大阪はなれてはや玉造」まで謡ふと、総勢が舁き棒から肩をはづして、
よゝい〳〵よい〳〵よい。そこぢやいな〳〵。あどっこい、どっこいとお なよい〳〵。よいさ〳〵〳〵
と合唱して「なよい〳〵」まで来ると、皆手を拍つて肩を入れて舁き出す。「よいさ〳〵」は舁きながら言ふことになる。舁きはじめると、又「笠を買ふなら、深江が名所」と謡ふ。此句ぎれ迄来ると、又囃しがはじまる。かうして、繰りかへし〳〵する中に、かなりの距離を動くのである。
たて棒は、引き綱で、廻すことが出来る様になつてゐたが、何にしろ非常な重みだから、さう自由にはならなかつた。夜は燈を入れて舁いた。其ゆさ〳〵と揺れて行く様は、村人の血を湧き立たせたものである。
電信の針金が、引かれてからは、舁いて廻る範囲を狭められたが、其でも祭り毎には、必舁き出した。併し、木津の家並みの処では、許されぬ事になつて、処をはづれた野原などに立てゝ、長さ一町位の広場を往来するだけ位で、辛棒してゐた。
とう〳〵、松の宮の境内に、絵馬堂を拵へるといふ事で、竪棒を切つて、其柱にしてからは、祭りが来ても、だいがくは出なくなつた。天幕其他、未練の種になる物はすべて売り払はれて、揃へのゆかたの若者どもが、右往左往に入り乱れる喧嘩沙汰も痕を絶つことになつた。
底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
1929(昭和4)年4月10日発行
初出:「土俗と伝説 第一巻第一・三号」
1918(大正7)年8、10月
※底本の題名の下に書かれている「大正七年八・十月「土俗と伝説」第一巻第一・三号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※校訂者注は除きました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2007年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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