まといの話
折口信夫



     一 のぼりといふもの


中頃文事にふつゝかであつた武家は、黙つて色々な為事をして置いた。為に、多くの田舎侍の間に、自然に進化して来た事柄は、其固定した時や語原さへ、定かならぬが多い。然るに、軍学者一流の事始めを説きたがるてあひに、其がある時、ある一人のだし抜けの思ひつきによつて、今のまゝの姿をして現れた、ときめられ勝ちであつた。其話に年月日が備はつて居れば居る程、聴き手は咄し手を信用して、互に印判明白に動かぬ物、と認めて来た。明敏な読者は、追ひ書きの日附けが確かなれば確かなるだけ、真実とは、ともすれば遠のきがちになつて居る、様々な場合を想ひ起されるであらう。

康正二年の萱振カヤブキ合戦に、カタキどうしに分れた両畠山、旗の色同じくて、敵御方の分ちのつきかねる処から、政長方で幟をつけたのが、本朝幟の始め(南朝紀伝)と言ふ伝へなども、信ずべくば、此頃が略、後世の幟の完成した時期、と言ふ点だけである。

のぼりはた袖(相国寺塔建立記)と言ふことばが、つゆ紐の孔をにした、幟旗風の物と見る事が出来れば、其傍証となる事が出来る訣である。千幾百年前の死語の語原が、明らかに辿られて、さのみ遠くない武家の為事に到つては、語の意義さへおぼつかないのは、嘘の様な事実で、兼ねて時代の新古ばかりを目安にして、外に山と積まれた原因を考へに置かずに、語原論の値打ちをきめてかゝらうとする常識家に向けての、よい見せしめである。

のぼるは、上へ向けての行進動作であつて、高く飜ると言ふ内容を決して、持つ事は出来ぬ。若し「幟」を「上り」だなど言ふ説を信じて居る方があつたら、「はためく」からの「旗」だと言ふのと一類の、お手軽流儀だ、と考へ直されたい。遥か後に、そらのぼりを立てゝ、陣備へをしたなすみ松合戦の記録(大友興廃記)があるから、空への上り等いふ、考へ落ちめいた事を、証拠に立てようとする人もあるかも知れぬ。併し遺憾な事には、此頃の幟が、今の幟と似た為立ての物なら「蝉口」に構へた車の力で、引きのぼす筈はない。さすれば、幟だけが「上り」と言ふ名を負ふ、特別の理由はなくなる。思ふに「上り」を語原と主張する為には、五月幟風のき・吹き流しの類を「のぼり」と言うた確かな証拠が見出されてから、マタの御相談である。今では、既に亡びて了うた武家頃のある地方の方言であつたのだらう、としか思案がつかぬのである。


     二 まといの意義


おなじ様な事は、まといの上にもある。火消しのまといばかりを知つた人は、とかくマトヒの字を書くものと信じて居られようが、既に「三才図会」あたりにも、𢁿幟・纏幟・円居などゝ宛てゝ、正字を知らずと言うてゐる。併し、一応誰しも思ひつくマトの方面から、探りをおろして見る必要があらう。

マトと言ふ語は、いくはなどゝは違うて、古くは独り立ちするよりも、熟語となつて表現能力が全う出来た様である。又、近代でも、必しもまとおと言ふ形を、長音化する方言的のもの、と言ひきつても了はれぬ様である。尠くとも、的・的居マトヰは一つで、其的居の筋を引いた物が、戦場に持ち出したまといである、と言ふ仮説だけは立ち相である。けれども、纏屋次郎左衛門から、六十四組の町火消しに供給した的と謂はゞ言はるべき、形の上の要素を多く具へた、馬簾バレンつき、白塗り多面体の印をつけた、新しい物を考へに置いてかゝる事だけは、控へねばならぬ。

徳川氏が天下をとつた時分が、まといの衰へ初めと考へても、大した間違ひは無さ相である。「武器短歌図考」を見ると、だし(竿頭の飾り)に切裂き・小馬簾をつけ、竿止めに菊綴ぢ風に見える梵天様の物をつけたのが円居で、蝉口に吹き流しをつけたのを馬印ウマジルシとしてゐるが、事実は、そんなに簡単に片づく物ではなかつた様である。此は、馬印がまといの勢力を奪うたので、段々まといが忘れられて来た為である。

右に馬印ウマジルシとした物を纏と記した上に、吹き流し吹き貫きにしたゞけの物を馬印として並べてゐる「弘前軍符」の類もある。此は、まといが忘れられる前に、まづ馬印と混同して、馬印は栄えて行き、まといは家によつては、形式の少し変つたさし物の名に、固定して残つたものと見るべきであらう。大様オホヤウは、徳川の初めにはまとい・馬印をごつちやにし、其中頃には、ばれんが馬印の、又の名と言ふ風になつて来たのだ。

思ふに、自身・自分・自身さし物(幣束から旗さし物へ参照)など言ふのが、まといの後の名として、一般に通用したもので、勝手に従うては、家々でまといと言ふ事もあつたのであらう。「三才図会」のまといの絵なども、今の人の考へるなどゝは全く違うた、三段笠を貫いた棒の図が出してある。此は「甲陽軍鑑」の笠の小まといで見ても知れる様に、まといの中で、類の多い物であつたと見える。

北条家の大道寺氏の小まといは、九つ提燈であつた(甲陽軍鑑)。又家康が義直に与へた大纏は、朱の大四半大幅掛に白い葵の丸を書き、頼宣のは、朱の六幅の四半であつて、めい〳〵其外に、馬印をも貰ひ受けて居る(大阪軍記)。又、同じ書物にある八田・菅沼等の人々の天王寺で拾うた円居は、井桁の紋の茜の四半で、別に馬印もあつたのである。


     三 まといばれん


諸将から仰望せられた清正のまといは、だしに銀金具のばりんと思はれるものがついてゐる。馬印は別に、白地に朱題目を書いた物である(清正行状記)。此まとい、一にばれんと言はれたさし物の動きが、敵御方の目を睜らせた処から、指し物にばれんと言ふ一類が、岐れ出たものと思はれる。

一体ばれんは、後に変化を遂げた形から類推して、葉蘭バランの形だとする説もある様であるが、此は疑ひなく、ばりんである。ねぢあやめとも言ふ鳶尾草イチハツに似た馬藺バリンを形つた金具のだしをつけたからの名であらう。棕梠の紋所との形似を思はせる此だしは「輪貫ワヌき」を中心にして、風車の様に、四方へ丸形に拡つて居る。唐冠兜の後立ても、此と一類の物であらう。前にも述べた通り、神事のさし物には、薄の外に荻・かりやすをも用ゐるから、植物学的の分類に疎かつた古人が、菰・菖蒲・鳶尾草などを同類と見て、戦場の笠じるしさし物にも用ゐた名残りだといふ事も出来よう。

ばれんだしをつけたまといが名を得た処から、ばれんは此さし物に欠く事の出来ぬ要素と、考へられる様になつたらしい。火消しの纏を馬簾バレンといふ訣は、簾の字相応に四方へ垂れた吹き貫きの旗の手の様なものから出たと言ふが、此をばれんと言ふ事、東京ばかりではなく、大阪でもある事であるが、実は「竿止め」につけたばりんの、吹き貫きと融合を遂げた物と見るべきであらう。摂津豊能郡熊野田クマンダ村の祭りのたて物なるがくだし吹き貫き形ではなく、四方へ放射したぶりき作りのばらんと言ふ物がつく。此処にもばりんだしの関係は見えて居る。金紋葵のだしに、緋のばれんをつけた家康の馬印は、後世のまといの手本とも言ふべき物である。此頃既に、まとい・馬印の形式が、混雑して居たとすれば、其使ひ道から見て、此をまといとも言うた事があつたであらう。ばれん・馬印が形式上区別が無くなつても、初めの中は、僅かながら、用途の差違は、知られて居たことゝ考へる。

まといの要素たるばれんや、張り籠の多面体が、後の附加だとすれば、愈かの自身たて物と近づくので、旗の布を要素としない桙の末流らしく、益考へられて来る。蒲生家のさし物が、熊の棒(蒲生軍記)或は熊の毛の棒(古戦録)と言ふ名で、其猛獣の皮が捲いてあつたといふ事実は、愈すたんだぁど一類の物として、まとい自身たて物の源流らしいものがあつた事を、仄かして見せてゐるのではなからうか。やまとたける等の八尋桙・丈部の杖からまといに至る間に、歴史の表に顕れずして過ぎた年月があまりに長く、又可なり縁遠く見える。併し、幣束に似たはたが、唐土風な幡旗の陰に、僅かに俤を止めてゐた間に、戦場の桙は、都と交渉少い道のはて〳〵にかくれて、武士の世になると共に、又其姿を顕したが、長い韜晦の間に、見かはすばかり変つた姿になつて、其或物は家と縁遠い神々・精霊を竿頭にイハひこめて居なかつたとも限らぬ。

清正の様に、強力無双の人で無ければ、振られ(清正記)ない、大纏が出来てからは、纏持ちの職も出来たのである。

江戸の火消し役は、住宅にまといを立てゝ、若年寄の配下に三百人扶持をうけたと言ふから、市中出火の折には其まといを振りたてゝ、日傭人足の指図をしたのである。弓が袋に納つた世の中には、さし物の名目からまといが忘れられ、三軍を麾いた重器を、火事場へ押し出す様になつたのである。さうして銀箔地へ家々の定紋を書いてばれんをつけたまといが、今の白塗りの物となつたのは、寛政三年から後の事で、享保四年大岡越前守等の立案で、町火消六十四組を定めて、一本宛のまといを用ゐる事を許したのが、此迄武士の手を離れなかつた此軍器が駈付け人足の手に移つた始めである。

火消役のまといには、家々の定紋を押してゐたが、町人の手に移つてからは、組々の印を明らかに見せる為、かの多面体の張り籠が工夫せられたので、六十四本の中、竿頭にだしとしてつけた物には籠を想化し、又は籠其物を使うた物が多い。敢へて「籠目のまといはこはすとも」と豆辰マメタツの女房が、夫を励ました十番め組のものには限らないのであつた。

恐らく小まといなる物が、ある武士の国に作り出されて、大将自身に振つて居たのが、出来るだけ全軍の目につく様にといふ目的から、次第に大きなまといに工夫しなほされ、やがては大将在処の標ともなつたものであらう。

白石はかの「甲陽軍鑑」の記事から、其北条氏起原説を採つてゐる(白石紳書)。併し今一歩を、何故甲州方の観察にふみ入れて見なかつたのであらう。其形は、考へ知る事はおぼつかないが、古くはまといが甲州方の標識になつて居たと思はれる根拠(関八州古戦録・甲陽軍鑑・仙道記・平塞録)がある。的居などに交渉のない、存外な物の名を言ふ、甲州の古い方言が、此軍器と共に、山の峡から平野の国々に、おし出して来たものと言ふ想像が出来ぬでもない。

底本:「折口信夫全集 2」中央公論社

   1995(平成7)年310日初版発行

底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店

   1929(昭和4)年410日発行

初出:「土俗と伝説 第一巻第三号」

   1918(大正7)年10

※底本の題名の下に書かれている「大正七年十月「土俗と伝説」第一巻第三号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:多羅尾伴内

2007年428日作成

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