琉球の宗教
折口信夫
|
一 はしがき
袋中大徳以来の慣用によつて、琉球神道の名で、話を進めて行かうと思ふ。それ程、内地人の心に親しく享け入れる事が出来、亦事実に於ても、内地の神道の一つの分派、或は寧、其巫女教時代の俤を、今に保存してゐるものと見る方が、適当な位である。其くらゐ、内地の古神道と、殆ど一紙の隔てよりない位に近い琉球神道は、組織立つた巫女教の姿を、現に保つてゐる。
而も琉球は、今は既に、内地の神道を習合しようとしてゐる過渡期と見るべきであらう。沖縄本島の中には、村内の御嶽を、内地の神社のやうに手入れして、鳥居を建てたのも、二三ある。よりあけ森の神・まうさてさくゝもい御威部に、乃木大将夫婦の写真を合祀したのが一例である。
国頭の大宜味村の青年団の発会式に、雀の迷ひ込んだのを、此会の隆んになる瑞祥だ、と喜び合うたのは、近年の事である。此は、内地風の考へ方に化せられたので、老人仲間では、今でも、鳥の室に入ることを忌んでゐる。其穢れに会ふと、一家浜下りをして、禊いだものである。併しながら、宗教の上の事大の心持は、此島人が昔から持つてゐた、統一の原理でもあつた。甚しい小異を含みながら、大同の実を挙げて、琉球神道が、北は奄美の道の島々から、南は宮古、八重山の先島々まで行き亘つてゐる。
二 遥拝所──おとほし
琉球の神道の根本の観念は、遥拝と言ふところにある。至上人の居る楽土を遥拝する思想が、人に移り香炉に移つて、今も行はれて居る。
御嶽拝所は其出発点に於て、やはり遥拝の思想から出てゐる事が考へられる。海岸或は、島の村々では、其村から離れた海上の小島をば、神の居る処として遥拝する。最有名なのは、島尻に於ける久高島、国頭に於ける今帰仁のおとほしであるが、此類は、数へきれない程ある。私は此形が、おとほしの最古いものであらうと考へる。
多くの御嶽は、其意味で、天に対する遥拝所であつた。天に楽土を考へる事が第二次である事は「楽土」の条りで述べよう。人をおとほしするのには、今一つの別の原因が含まれて居る様である。古代に於ける遊離神霊の附著を信じた習慣が一転して、ある人格を透して神霊を拝すると言ふ考へを生んだ様である。近代に於て、巫女を拝する琉球の風習は、神々のものと考へたからでもなく、巫女に附著した神霊を拝むものでもなく、巫女を媒介として神を観じて居るものゝやうである。
琉球神道に於て、香炉が利用せられたのは、何時からの事かは知られない。けれども、香炉を以て神の存在を示すものと考へ出してからは、元来あつたおとほしの信仰が、自在に行はれる様になつた。女の旅行者或は、他国に移住する者は、必香炉を分けて携へて行く。而も、其香炉自体を拝むのでなく、香炉を通じて、郷家の神を遥拝するものと考へる事だけは、今に於ても明らかである。また、旅行者の為に香炉を据ゑて、其香炉を距てゝ、其人の霊魂を拝む事すらある。だから、村全体として、其移住以前の本郷の神を拝む為の御嶽拝所を造る事も、不思議ではない。例へば、寄百姓で成立つて居る八重山の島では、小浜島から来た宮良の村の中に、小浜おほんと称する、御嶽類似の拝所をおとほしとして居り、白保の村の中では、その本貫波照間島を遥拝する為に、波照間おほんを造つて居る。更に近くは、四箇の内に移住して来た与那国島の出稼人は、小さな与那国おほんを設けて居る。
此様におとほしの思想が、様々な信仰様式を生み出したと共に、在来の他の信仰と結合して、別種の様式を作り出して居る所もあるが、畢竟、次に言はうとする楽土を近い海上の島とした所から出て、信仰組織が大きくなり、神の性格が向上すると共に、天を遥拝する為の御嶽拝所さへも出来て来たのである。だから、御嶽は、遥拝所であると同時に、神の降臨地と言ふ姿を採る様になつたのである。
三 霊魂
霊魂をひつくるめてまぶいと言ふ。まぶりの義である。即、人間守護の霊魂が外在して、多くの肉体に附著して居るものと見るのである。かうした考へから出た霊魂は多く、肉体と不離不即の関係にあつて、自由に遊離脱却するものと考へられて居る。だから人の死んだ時にも、肉霊を放つまぶいわかしと言ふ巫術が行はれる。又、驚いた時には、魂を遺失するものと考へて、其を又、身体にとりこむ作法として、まぶいこめすら行はれて居る。
大体に於て、まぶいの意義は、二通りになつて居る。即、生活の根本力をなすもの、仮りに名付くれば、精魂とも言ふべきものと、祟りをなす側から見たもの、即、いちまぶい(生霊)としにまぶい(死霊)とである。近世の日本に於ては、学問風に考へた場合には、精魂としての魂を考へることもあるが、多くは、死霊・生霊の用語例に入つて来る。
けれども古代には、明らかに精霊の守護を考へたので、甚しいのは、霊魂の為事に分科があるものとした、大国主の三霊の様なものすらある。
但、琉球のまぶいは、魂とは別のものと考へられて居る。魂は、才能・伎倆などを現すもので、鈍根な人を、ぶたましぬむうんと言ふのは、魂なしの者、即、働きのない人間と言ふ事になつて居る。又、たまと言ふ語を、人魂或は庶物の精霊に使用する例は、恐らく日本内地から輸入したもので、古くは無かつたものと思ふ。強ひて日琉に通ずる、たまの根本義を考へると、一種の火光を伴ふものと言ふ義があるやうである。
精霊の点す火の浮遊する事を、たまがり=たまあがりと言ふのは、火光を以て、精霊の発動を知るとした信仰のなごりで、その光其自らが、たまと言はれた日琉同言の語なのであらう。だからもとは、まぶいは守護霊魂が精霊の火を現したのが、次第に変化して、霊魂そのものまでも、たまと言ふ日本語であらはす事になつたのであらう。そして、魂が火光を有つと言ふ考へを作る様になつたと思はれるのである。
此守護霊を、琉球の古語に、すぢ・せぢ・しぢなど言うたらしい。近代に於ては、すぢ或は、すぢゃあは、人間の意味である。其義を転じて、祖先の意にも用ゐてゐる。普通の論理から言へば、すぢゆん即、生れるの語根、すぢから生れるものゝ義で、すぢゃあが人間の意に用ゐられる様になつたのだ、と言ふことが出来よう。然しながら、更に違つた方面から考へれば、すぢが活動を始めるのは、人間の生れることになるのだから、すぢを語根として出来たすぢゆんが、誕生の動詞になつたとも見られよう。其点から見ると、すぢゆんは、生るの同義語であるに拘らず、多くは、若返る・蘇生するなどに近い気分を有つて居るのは、語根にさうした意味のあるものと思はれる。後に言ふ、聞得大君御殿の神の一なる、おすぢの御前は、唯、神と言ふだけの意味で、精しくは、金のみおすぢ即、金の神、或は米の神、或は楽土(かない)の神と言ふ位の意味に過ぎない。而も其もとは、霊魂或は、精霊と言ふ位の処から出て居るのであらう。琉球国諸事由来記其他を見ても、すぢ・せぢ・ますぢなどを、接尾語とした神語がある。柳田国男先生は、此すぢをもつて、我国の古語、稜威と一つものとして、まな信仰の一様式と見て居られる。
とにかく、近代の信仰では、すべてが神の観念に飜訳せられて、抽象的な守護霊を考へる事が、出来なくなつて居る。けれども、長く引続いて居る神人礼拝の形式を溯つて見ると、さうした守護霊の考へられて居た事は、明らかである。
沖縄に於ては、妹をがみ・巫女をがみ・親をがみ・男をがみ等の形を残して居る。
おもろさうし巻二十二、てがねまるふしに、
きこゑ大きみが
おぼつ、せぢ、おるちへ
あんじ、おそいよみまぶて
と言ふ歌がある。此意味は
名にひゞく天子がことを言はむ。
楽土なるせぢをおろして、
大君主をみまもりてあらむ。
と言ふ位の意味である。此を見ても、せぢが神でなく、守護霊であることは、考へられる。又、くわいにやの例として、伊波普猷氏が引かれた、久高島のものには、かういふものがある。
にらいどに、おしよけて
かないどに、おしよけて
のろがすぢ、せんどう、しやうれ
主がすぢ、せんどう、しやうれ
きみがおすぢ、みおんつかひ、をがま
しゆうがおすぢ、みおんつかひ、をがま
此意味は、
楽土への渡りどに、大船おしうけてあれば、
此船に祈る巫女のすぢよ、せんどう、しませ。
天子のすぢよ、船頭しませ。
われはかくして、女君のおすぢを、をがみ迎へむ。
天子のおすぢを、をがみ迎へむ。
と言ふ意味であらうが、此は、巫女を拝み、君主を拝む事に因つて、それ〴〵のすぢを拝む事になるので、古くから、此すぢと、すぢのつく人との間に、区別が著しくは立つて居らないのである。畢竟、我国古代の、あきつかみと言ふ語も、此すぢを有つ天子を、すぢ自身とも観じたのである。即、主がおすぢと同じことになる。但あきつかみに於ては、其すぢが、神に飜訳せらるゝほどに、日本の霊魂信仰が、夙に変化して居つたことを示して居る。
四 楽土
琉球神道で、浄土としてゐるのは、海の彼方の楽土、儀来河内である。さうして、其処の主宰神の名は、あがるいの大神といふ。善縄大屋子、海亀に噛まれて死んだ後、空に声あつて、ぎらいかないに往つた由、神託があつた。而も、大屋子の亡骸は屍解してゐたのである。天国同時に、海のあなたといふ暗示が此話にある様である。(国学院大学郷土研究会での柳田先生の話)
昔の書物や伝承などから、楽土は、神と選ばれた人とが住む所とせられたやうである。六月の麦の芒が出る頃、蚤の群が麦の穂に乗つて儀来河内からやつて来ると考へられてゐる。此は、琉球地方では蚤の害が甚しい為、其が出て来るのを恐れるからである。儀来河内は、善い所であると同時に悪い所、即、楽土と地獄と一つ場所であると考へ、神鬼共存を信じたのである。
儀来は多く、にらい・にらや・にれえ・ねらやなど発音せられ、稀には、ぎらい・けらいなど言はれてゐる。河内は、かない・かなや・かねやと書く事がある。国頭地方ではまだ、儀来に海の意味のあることを忘れずにゐる。謝名城(大宜味村)の海神祭のおもろには「ねらやじゆ〔潮〕満すい、みなと〔湊〕じゆ満ゆい……」とあつて、沖あひの事を斥すらしい。那覇から海上三十海里にある慶良間群島も洋中遥かな島の意らしく思はれる。かないは、沖に対する辺で、浜の事ではなからうか。かな・かねで海浜を表す例が多いから。つまりは、沖から・辺からと言ふ対句が、一語と考へられて、神の在す遥かな楽土と言ふ事になつたのであるまいか。さうして其儀来河内から、神が時を定めて渡つて来る、と考へてゐる。其場合、其神の名をにれえ神がなしと称へてゐる。
先島では、にいるかないを地の底と考へてゐる。にいるに、二色を宛てゝゐる。毎年六七月の頃、のろの定めた干支の日、にいるかないから二色人が出て来ると言ふ信仰が、八重山を中心として小浜・新城・古見の三島に行はれてゐる。石垣島の宮良村には、なびんづうと言ふ洞穴があつて、祭りの日には、此穴から二色人が現れて来ると言はれてゐる。
此祭りは、少年を成年とする儀式で、昔は二色人が少年に対つて色々の難題を吹きかけたり、踊らしたりしたといふ。にいるぴとは、それ〴〵赤と黒との装束をしてゐたので、二色人と言うたのだと言ふが、他の島では一定した色はない。今は二色人を奈落人と考へてゐる。沖縄の言葉は、日本語と同じく、語部に伝誦せられた神語・叙事詩から出たものが多い。だから、対句になつてゐる儀来河内も其例の一つと見てよい。
沖縄本島から北の鹿児島県に属する道の島々並びに、伊平屋島に亘つては、其浄土を、なるこ国・てるこ国と言うてゐる。其処から来る神の名を、なるこ神・てるこ神(又、ちりこ神)と言ふ。なるこは勿論、にらい系統の語であらう。此伊平屋島は南北の島々の伝承を一つに集めてゐる様に見える場所で、沖縄本島近辺と同じく、にらいかないを信じ、にらい神・かないの君真者の名を言ふと共に、なるこ神・てるこ神を言ふ。其ばかりか、まやの神・いちき神といふ名称をさへ、右の海を渡つて来る神に、命けてゐる。
まやの神は、石垣島で六月の頃行ふ穂利の祭りの日に、ともまやの神を連れて家々を祝福して歩く神である。此神には勿論、村の青年が仮装するのであるが、村人は、神である事を信じてゐる。手四箇では盆の四日間にあんがまあが来る。もとは芭蕉の葉で面を裹んでゐたが、今は許されなくなつて薄布を以てする。また、老人の神うしゅめい(おしゅまい)・老婆の神あつぱあに連れられて来る亡者の群もある。此等は皆、同一系統のもので、後生から来ると言ふ。後生は、地方に依つては墓の意味に用ゐられてゐる。まやの神は、何処から来るか、訣らない。まやには猫の義があるが、此処ではそれではないらしく、土地の名であらう。此信仰は台湾に亘つて、阿里山蕃族が、ばく〴〵わかあ山或はばく〴〵やまから出て、分れて一つはまやの国へ行つたと言ふ伝説があるから、琉球の南方でも、恐らくまやを楽土と観じてゐたのであらう。
なるこ・てるこは、北方即道の島風であり、まや・いちきは南方、先島風の呼び名である。而も更に驚くのは、やはり右の渡り神を、場合によつては、あまみ神とも言うてゐる事である。あまみは、言ふまでもなく、琉球の諾冉二尊とも言ふべきあまみきょ・しねりきょの名から来てゐるのである。あまみきょ・しねりきょは、沖縄本島の東海岸、久高・知念・玉城辺に、来りよつたと言ふ事になつてゐるが、其名はやはり、浄土を負うてゐるものと見られる。ぎょ・きょう・きゅうなどは、人から出た神の接尾語で、あまみ・しねりが神の国土の名である。其を実在の島に求めて、奄美大島の名称を生んだものであらう。しねりに、儀来(ぎらい・じらい)との関係が見えるばかりか、あまみのあまには、儀来同様、海なる義が窺はれるのである。
決して合理的な解釈を下す事は出来ない。北方、奄美大島から来た種族が、沖縄の開闢をなしたと考へるのは、神話から孕んだ古人の歴史観を、其儘に襲うた態度である。あまみ・しねりは、やはりにらい・かない、なるこ・てるこ同様に、信仰の上の理想国に過ぎないのであらう。まや・いちきと言ふ語も、同音聯想は違つた説明をも導く様であるが、やはり南方での、儀来河内なのであらう。楽土の主神の名のあがるいは、東方と言ふ意を含んでゐる。東海の中に、楽土を観じた沖縄本島の人の心持ちが見える。
此外に尚一つ、天国の名として、おぼつかぐらと言ふのがあつた様である。混効験集には「天上の事を言ふ。いづれも首里王府神歌御双紙に見ゆ」とある。天帝(太陽神)の居る天城で、あまみきょ・しねりきょも其処から来たものである。併し、此も「……雨欲しやに、水欲しやに、おぼつ通ちへ、かぐら通ちへ、にるやせぢ、かなやせぢ、まきょにあがて、くたにあがて……」などあるのを見ると、此語のなりたちも、大体は想像がつく。
屍解して昇天する話は、限りなくある。此は選ばれた人ばかりが、儀来河内に入るとせられた考へから出たのである。善縄大屋子の様なのもあるが、大抵は神人の上にある事なのである。のろに限つて、洗骨せぬ地方もあり、洗骨しても多くは、家族と同列に骨甕を列べないのを原則としてゐるのは、屍解昇天する人と然らざる者とを区別したので、若し此に反くと、神人昇天出来ぬ為に、祟る事があると考へられてゐたのであらう。此事は我内地の文献にも、同様の例を留めてゐる。
五 神々
琉球の神々を、天神と海神とに分つ。此等に関した文書は、琉球神道記の他に、球陽がある。球陽を漢訳したものが、中山世鑑である。
琉球の王室で祀つた神を、君真者と言ふ。真者とは、尊者の称呼である。此を正しい文法にすると、真者君と言ふことである。琉球の神々と、内地の神々との最甚しい差異点は、琉球の神々は、時々出現することである。此出現を、新降(あらふり)と言ふ。球陽の説では、君真者は、天神と海神との二つで、色々の神々を、此二つに分類して居る。此神々は、年に一度出現する神もあれば、三十年に一度出現する神もあり、一年の間に度々出現する神もある。其中で、最著しい神は、与那原のみおやだいり(御公事)の神である(中山世鑑)。この神は、琉球の王廟の中に祭祀する。其祭祀する者は、此国第一位の女神官である。天子の代の替る毎に、聞得大君が出来る。首里より一里程海岸の与那原に聞得大君が行く時に、与那原のみおやだいりの神が現れる。みおやだいりは、其神に奉仕するのであつて、其祭りに奉仕する時は、此を神と認めて儀礼を行ふのである。
毎年、夏の盛りに出現する神を、きみてすりと言ふ。此神は、仕官を司る神で、沖縄本島の北方にある辺土(ふいど)に出現する。此神の出現する時は此御嶽に神の笠が降り、其附近の今帰仁にも笠が降りる。此笠をらんさんと言つてゐる。此は、天蓋の如きもので、其を樹てると、神その蔭に現ると信じて居る。此らんさんの天降(あふり又はあほり)の時に言ふ言葉を、おもろと言ふ。柳田先生は、あふりとおもろと、同一であらうと説明されて居る。此おもろが、朝廷に伝はり、地方にも自然的に伝播する。即、地方の神官の家には、代々伝へられて、保存せられてゐた。
此を考へて見ると、太陽信仰の存する処には、笠はつきものなのである。琉球の大切な神を、おちだがなしと言ひ、ちだと略称して居る。台湾には、みさちだと言ふ太陽神がある。笠の観念は、月が暈を着ると言ふ信仰によるものと、尊い神に直接あたらぬ様にすると言ふ、二つの信仰が、合したものであるらしい。
琉球の女官・后・下々の女官・神職に到るまでの事柄は、女官御双紙に載つて居る。神職の名前の中で、今帰仁の神職に、あふりあぇと称して居る者がある。又一地方に、さすかさのあじと言ふ者がある。あじは按司(朝臣)であると言ふ。あふりはおらんさんの事で、さすかさも、翳し蔽ふ笠の事だと言ふ説がある。笠が最後に王城の庭に樹ち、王始め群臣の集つて見て居る前で、おらんさんが、三十余り立つて踊る。即、人間が神の姿を装うて居るのだが、其間は、すべての人間は、其仮装者に神格を認め、仮装者自身も、其間は神であると言ふ信念を有つて行動するのである。
島尻郡の知念には、昔、うふぢちう(大神宮)と言ふ人があつた。ちうとは、睾丸の義で、うふぢは大の義である。此人の子が、また、大豪傑であつた。うふぢちうの死後棺の蓋を取つて見ると、屍体は失くなつて居て、柴の葉が残つて居た。此は、昇天したのだと言うて居る。此人は、琉球神道記によると、実在の人物ではなく、海神であると見えて居る。此海神は、大きな睾丸を有つて居て、肩に担いで歩く。此頃では、国頭郡の方へ行つて居ると言ふ。どう言ふ訣か、解説に苦しむ事柄である。此海神の子孫が、現在字をなして残つて居る。
正式に首里王朝で認めて居る神の中に、変な神がある。其神の根本は、天から来る神と、海から来る神とに分つが、先島辺りは、此分け方は、行はれて居ない。此分け方は、民間信仰に基礎を置いたものであるが、島々の見方によると、多少の相違がある。琉球では、太陽神の他に、自然崇拝そのまゝの形を残して居る。それ故恐しい場所、ふるめかしい場所、由緒ある場所は、必、御嶽になつて居る。自分の祖先でも、七代目には必神になる。中山世鑑は、七世生神と書いてゐる。此は、死後七代目にして神となると言ふことである。以前には、人が死ぬと、屍体を、大きな洞窟の中へ投げこんで、其洞窟の口を石で固め、石の間を塗りこんだものであるが、此習はしが次第に変化して、墓を堅固に立派にするやうになつた為に、墓を造つて財産を失ふ人が多くなつた。七代経つと、其洞の中へは屍を入れないで、神墓(くりばか)と称し、他の場所へ、新墓所を設ける。神墓は拝所となる。此拝所ををがんと言ふ。時代を経るに従つて、他の人々も拝する様になる。此拝所が、恐しい場所になつて来る。拝所を時々発掘すると、白骨が出て来る。此を、骨霊と言ふ。
琉球神道の上に見える神々は、現にまだ万有神である。恐しいはぶは、山の神或は、山の口(蝮か)として、畏敬せられ、海亀・儒艮(ざん=人魚)も、尚神としての素質は、明らかに持つてゐる。地物・庶物に皆、霊があるとせられ、今も島々では、新しい神誕生が、時々にある。
而も其中、最大切に考へられてゐるのは、井の神・家の神・五穀の神・太陽神・御嶽の神・骨霊などである。大体に於て、石を以て神々の象徴と見る風があつて、道の島では、霊石に、いびがなし〔神様〕といふ風な敬称を与へてゐる処もある。又一般に、霊石をびじゅるといふのも「いび」を語根にしてゐるので、琉球神道では、石に神性を感じる事が深く、生き物の石に化した神体が、沢山ある。井の神として、井の上に祀られてゐるものは、常に変つた形の鐘乳石である。此をもびじゅると言うてゐる。ある人の説に、びじゅるは海神だとあるが、疑はしい。家の神の代表となつてゐるのは、火の神である。此亦、三個の石を以て象徴せられて、一列か鼎足形かに据ゑられてゐる。巫女の家や旧家には、おもな座敷に、片隅の故らに炉の形に拵へた漆喰塗りの場処に置く。普通の家では、竈の後の壁に、三本石を列べて、其頭に塩・米などの盛つてあるのを見かける。火の神の祭壇は、炉であつて、而も家全体を護るものと考へられてゐるのである。家があれば、火の神のない事はなく、どうかすれば、神社類似の建造物の主神が皆、火の神である様に見える。巫女の家なる祝女殿内、一族の本家なる根所の殿、拝所になつてゐる殿、祭場ともいふべき神あしゃげ、皆火の神のない処はない。併し恐らくは、火の神の為に、建て物を構へたのは一つもなく、建て物あつて後に、火の神を祀る事になつたので、某々の家の宅つ神、と考へて来たのに違ひない。
火の神と言ふ名は、高級巫女の住んでゐる神社類似の家、即、聞得大君御殿・三平等の「大阿母しられ」の殿内では、お火鉢の御前と言ふ事になつて居た。
尚王家の宗廟とも言ふべき聞得大君御殿並びに、旧王城正殿百浦添の祭神は、等しく御日・御月の御前・御火鉢の御前(由来記)であるが、女官御双紙などによると、御すぢの御前・御火鉢の御前・金の美御すぢの御前の三体、と言ふ事になつて居る。伊波普猷氏は、御すぢの御前を祖先の霊、御火鉢の御前を火の神、金の美御すぢを金属の神と説いて居られる。前二者は疑ひもないが、金の美おすぢは、日月星辰を鋳出した金物の事かと思はれる節〔荻野仲三郎氏講演から得た暗示〕がある。併し語どほりに解すると、かねは、おもろ・おたかべの類に、穀物の堅実を祝福する常套語で、又かねの実ともいふ。みおすぢの「み」が「実」か「御」かは判然せぬが、いづれにしても、穀物の神と見るべきであらう。或は、由来記を信じれば、月神が穀物の神とせられてゐる例は、各国に例のあること故、御月の御前に宛てゝ考へることが出来さうである。
御すぢの御前は、琉球最初の陰陽神たるあまみきょ・しねりきょの親神なる太陽神即、御日の御前を、祖先神と見たのだと解釈せられよう。琉球神道の主神は、御日の御前で、やはり太陽崇拝が基礎になつてゐる。国王を、天加那志(又は、おちだがなし、首里ちだがなし)と言ふのも、王者を太陽神の化現即、内地の古語で言へば、日のみ子と見たのであるらしい。
祖先崇拝の盛んな事、其を以て、国粋第一と誇つてゐる内地の人々も、及ばぬ程である。旧八月から九月にかけて、一戸から一人づゝ、一門中一かたまりになつて遠い先祖の墓や、一族に由緒ある土地・根所、其外の名所・故跡を巡拝して廻る神拝みと言ふ事をする。首里・那覇辺から、国頭の端まで出かける家すらある。単に此だけで、醇化せられた祖先崇拝と言ふ事は出来ない。常に其背後には、墓に対する恐怖と、死霊に対する諂び仕への心持ちが見えてゐる。
六 神地
琉球神道では、神の此土に来るのは、海からと、大空からとである。勿論厳密に言へば、判然たる区別はなくなるのであるが、ともかく此二様の考へはある様である。空から降ると見る場合を、あふり・あをり・あもりなど言ふ。皆天降りと一つ語原である。山や丘陵のある場合には、其に降るのが、古式の様だが、平地にも降る事は、間々ある。但、其場合は喬木によつて天降るものと見たらしい。蒲葵(=びらう)の木が神聖視されるのは、多く此木にあふりがあると見たからである。蒲葵の木が、最神聖な地とせられてゐる御嶽の中心になり、又さなくともくば・こぼう・くぼうなど言ふ名を負うた御嶽の多いのは、此信仰から出たのである。
神影向の地と信じて、神人の祭りの時に出入する外、一切普通の人殊に男子を嫌ふ場処が、御嶽である。神は時あつて、此処に凉傘を現じて、其下にあふるのである。首里王朝の頃は、公式に凉傘の立つ御嶽と認められて居たものは、極つて居た。併し、間切々々の御嶽の神々も、凉傘を下してあふるのが、古風なのである。御嶽のある地を、普通森といふ。「もり」は丘陵の事である。高地に神の降るのが原則である為の名に違ひない。其が、内地の杜と同じ内容を持つ事になつたのである。
神は御嶽に常在するのではないが、神聖視する所から、いつでも在す様に考へられもする。内地の杜々の神も、古くは社を持たなかつたに相違ない。三輪の如きは「三輪の殿戸」の歌を証拠として、社殿の存在した事を主張する人も出て来たが、あの歌だけでは、此までの説を崩すまでにはゆかぬ。杜・神南備などは、社殿のないのが本体で、社あるは、家つ神或は、梯立で昇り降りするほくらの神から始まるのである。社ある神と、ない神とが、同時に存在したのは、事実である。社殿に斎かなかつた神は、恐らく御嶽と似た式で祀られてゐたものであらう。
処によつては、極めて稀に、御嶽の中に、小さな殿を作つてゐる処もある。此は必、祭儀の必要から出来たもので、神の在り処でないであらう。
御嶽は、神人の外は入れない地方と、女ならば出入を自由にしてあるところとがある。女には、神人となる事の出来る資格を認めるからと思はれる。どの地方でも、男は絶対に禁止である。島尻の斎場御嶽でも、近年までは、女装を学ばねば這入れぬ事になつてゐた。
大きな御嶽なら、其中に、別に歌舞をする場処がある。久高の仲の御嶽の如きが其である。併し多くは、其為に神あしゃげがある。
神あしゃげ多くは、神あさぎと言ふ。神あしあげの音転である。建て物の様式から出た名であらう。此建て物は、原則として、柱が多く、壁はなく、床を張らぬ事になつてゐる。天地根元宮造りの、掘つ立ての合掌式の、地上に屋根篷の垂れたのから、一歩進めたものであらう。古式なのは、桁行長く、梁間の短い三尺位の高さのもので、地に掘つ立てた数多い叉木で、つき上げた形に支へられてゐる。つまり伏せ廬の足をあげたものであるからの名と思はれる。此式は国頭地方に多いが、外の地方は、大抵屋根は瓦葺き、柱は厚さの薄い物に、緯を沢山貫いて、柱間一つだけを入り口として開けてゐる。勿論丈も高くなつて、屈むに及ばない。中はたゝきになつて居て、一隅に火の神の三つ石を、炉の形にした凹みに据ゑてある。大抵御嶽からは遠く、祝女殿内からは近い。御嶽に影向あつたり、海から来た神を迎へて、此処で歌舞をする。其中では、祝女を中心に、根神おくで其他の神人が定まつた席順に居並ぶ。其中のあすびたもとと言ふ神人が、のろ等の謳ふ神歌(おもろ双紙の内にあるものでなく、其地方々々の神人の間に伝承してゐるもの)で、舞ふのである。舞ふのは勿論、右のあしゃげ庭と言ふ建て物の外の広場でゞある。又、唯あしゃげとばかり言ふ建て物がある。此は、根所々々の先祖を祀つてゐる建て物で、一軒建ちの、住宅と殆ど違ひのない、床もかいてある物である。此は正しくは、殿と言ふべきもので、根所之殿・里主所之殿など、書物にあるのが、其であらう。
殿(又、とん)と言ふのにも、色々ある。右のやうな殿もあり、又、祝女殿内(ぬるどのち=ぬんどんち)の様に、祝女の住宅を斥す事もある。が、畢竟、神を斎いてあるからの名で、なみの住宅には、殿とは言はぬ。琉球神道では、旧跡を重んじて、城趾・旧宅地などの歴史的の関係ある処には、必殿を建てゝ、祭日にのろ以下の神人の巡遊には、立ちよつて一々儀式がある。
殿・あしゃげと区別のない建て物か、又建て物なしに必拝む場処がある。其が海中である事も、道傍の塚である事も、崖の窟である事もある。総称してをがんといふ。拝所即をがみである。
人形遣ひをちょんだらあと言ひ、其子孫を嫌つてゐるが、此に似て一種の特殊部落の如きねんぶつちゃあと言ふのが、首里の石嶺に居る。此は葬式の手伝ひをし、亦人形を遣ふ。人形を踊らせる箱をてらと称するが、内地のほこらと同じやうなもので、寺とは全く違うてゐる。
七 神祭りの処と霊代と
神の目標となるものは香炉である。建築物の中には、三体の火の神が置かれてあると同様に、神の在す場所には、必香炉が置いてある。それ故、その香炉の数によつて、家族の集合して居る数が知れる。琉球の遊廓へ、税務所の官吏が出張して尾類(遊女)の数を見定めるには、竈の側に置いてある香炉の数で知る事が出来ると言ふ。
香炉は、其置く場所を、臨時に変へることは出来ない。女は各自、必香炉を所有して居る。女には、香炉は附き物である。香炉がなければ、神の在る所がわからない。其ほど、香炉に対する信仰がある。形は壺の如きものや、こ穢い茶碗の縁の欠けた物等が、立派に飾られてある。香炉がある所には、神が存在すると信じて居る故、香炉が神の様になつて居る。拝所には、幾種類もの香炉がある。八重山のいびと言ふ語は、香炉の事であると思ふが、先輩の意見は各異つて居る。
八重山には、御嶽に三つの神がある。又、かみなおたけ・おんいべおたけと言ふのがある。八重山のみ、いび又はいべと言ふ事を言ふが、他所のいびとうぶとは異つて居る。うぶは、奥の事である。沖縄では、奥武と書いて居る。どれがいびであるか、厳格に示す事は出来ないが、うぶの中の神々しい神の来臨する場所と言ふ意味であると思ふ。八重山の老人の話では、御嶽のうぶではなくて、門にある香炉であると言つて居る。即、香炉を神と信ずる結果、香炉自体をいびと言ふのである。処が火の神にも香炉がある。中には香炉だけの神もあるが、要するに自然的に香炉を神と信じて居る。其香炉が、又幾つにも分れる。香炉が分れるけれども、分れたとは言はないで、彼方の神を持つて来たと言ふ、言ひ方をする。つまり、嫁に行つたり、比較的長い間家を出て居るものは、香炉を作つて持つて行く。尾類(遊女)は、此例によつて、香炉を各自持参するのである。
沖縄には、遥拝所がある。三平の大阿母しられの殿内即、南風の平には首里殿内、真和志の比等には真壁殿内、北の比等には儀保殿内なる巫女の住宅なる社殿を据ゑ、神々のおとほしとして祀つてある。即、遠方より香炉を据ゑて、本国の神を遥拝するのである。此遥拝する事から、色々の問題が出て来る。例へば、祝の家にも香炉があり、御嶽にも香炉がある。のろは、家の香炉に線香を立てゝ御嶽に行く。時によると、香炉を中心にして社を造る事がある。沖縄の辺でも、久高島を遥拝する為に、べんが御嶽を作つて居り、八重山の中でも、よなぎ島より来た人々は、よなぎおほんを作り、宮良村では、小浜村より渡来したのであるから、小浜おほんを作り、各香炉を据ゑて、遥拝所として居る。又、白保村の波照間おほんの如きも其である。此等は皆、御嶽に属して居るけれども、個人で言へば、尾類が竈に香炉を置いて遥拝するのと同様である。
一族の神を祀るは、女の役目である。其家の香炉を拝するのは、其家の女であると言ふ観念が先入主となつて、女の旅行には必、此香炉を持つて行く。此は男にはよく訣らないが、女は秘密裡に此等を保存して居る。家によると、香炉が沢山ある所がある。中には、理由の訣らぬ香炉が出て来る。大昔、其家を造つたと称する者の香炉が二つある。嫁した娘の若死によつて、持つて行つた香炉が戻つて来る。さうして居る間に、何年も経ると理由の訣らぬ香炉が出来て来る。八重山では、香炉の格好が大分異つて来る。香炉に、ふんじんと、かんじん(又はこんじん)の二種類がある。ふんじんは、其家の分れて後の先祖を祀るもので、本神とも言ふ意味である。こんじんの名義は不明である。かんじんは、女でなければ触れる事すら出来ない。其に供へた物は、女のみが食し得るものである。此は女でなければ、供へ物をする事は出来ないと言ふ意味である。かんじんは、女の人の喰べ余りと言ふ解釈にもなる。かんじんは、女の嫁入りする時に持つて行く。而して、仏壇が別である。ふんじんは男も拝する事が出来るけれども、かんじんは女の専有物である。
沖縄本島では、自分の家の香炉を有つて来ても、別の場所に置いてある。自分の家の神は亭主が祀つてもよいが、嫁の持つて来た香炉は、女以外の人間の、全くどうする事も出来ないものである。こんじんは、根神より出たものではなからうかと思ふ。
八 色々の巫女
琉球の神話では、天地の初め、日の神下界を造り固めようとして、あまみきょ・しねりきょに命じて、数多くの島を造らせた。それが後の有名な御嶽或は、森となつた。さうして其二柱の産んだ三男・二女が、人間の始めとなつてゐる。長男は国主の始め、二男は諸侯の始め、三男は百姓の始め、長女は君々の始め、二女は祝々の始めと称せられてゐる。
のろは、始終ゆたと対照して考へられる所から、君々はゆたの元と考へられ勝ちであるが、男の方でも、三つの階級に分けて考へてゐる以上、女の方も亦、上級・下級二組の区別を見せたものと見てよいはずである。君と祝とは、女官御双紙を見ても知れるやうに、琉球の女官と言ふ考へには、普通の后妃・嬪・夫人以下の女官と聞得大君・島尻の佐司笠按司・国頭の阿応理恵按司などの神職を等しく女官として登録してゐる。思ふに君と言ふのは、右の三神職の外に、首里三比等の大阿母しられ其他、歴史的に意味のついてゐる地方の大阿母・阿母加奈志(伊平屋島)・君南風(久米島)など言ふ重い巫女たちを斥すものであらう。君南風は、南君と言ふのと同じ後置修飾格で、南方に居る高級巫女の意である。毎年十二月、君々御玉改めと言ふ事があつて、三平等の大阿母しられの玉かわら(巫女のつける勾玉)を調べたよし、由来記に見えてゐる。又、君に三十三人あつた事は、女官御双紙に出てゐる。君々の祖、祝々の祖とあるのは、巫女の起原を説いたので、巫女に高下あるのは、其祖の長幼の順によつたのだ、とするのである。
女官の中、皇后の次に位し、巫女では最高級の聞得大君(=きこえうふきみ)は、昔は王家の処女を用ゐて、位置は皇后よりも高かつたのを、霊元院の寛文七年に当る年、席順を換へたのである。王家の寡婦が、聞得大君となる事になつたのも、可なり古くからの事と思はれる。昔は、琉球神道では、巫祝の夫を持つ事を認めなかつたのであらうが、段々変じて、二夫に見えない者は、許す事になつたのである。地方豪族の妻を大阿母・祝女などに任じた事も、可なり古くからの事らしい。唯形式だけでも、いまだに、独身を原則として居るのは、国頭の巫女たちで、今帰仁の阿応理恵は独身、辺土のろは表面独身で、私生の子を育てゝゐる。其外のろの夫の夭折を信じてゐる事も、国頭地方に強い。神の怨みを受けると信じてゐたのである。此は、国頭地方が、北山時代からの神道を伝へて、幾分、中山・南山の神道と趣きを異にしてゐる所があるからであらう。久高島では、結婚の時、嫁が壻を避けて逃げ廻る習慣があつたが、其は夜分のことで、昼の間は現れて為事を手伝うたりした。夜になつて壻が大勢の友人と嫁を捜すのをとじとめゆん即嫁さがしと称する。此島には現在のろが二人居るが、其一人の老婆は、七十余日の間逃げ廻つたと言ふので有名である。
聞得大君は、我が国の斎宮・斎院と同じ意味のもので、其居処聞得大君御殿は、琉球神道の総本山の様な形があつた。此琉球の斎王が、皇后の上に在つたと言ふ事は、琉球の古伝説に数多い、巫女と巫女の兄なる国主・島主の話を生み出した根元の、古代習俗であつたのである。
久高島の結婚の時に合唱する謡
女神殿は、君の愛(?)。男神殿は、首里殿愛。
と言ふ文句は、新郎なる此島男は、国王に愛せられむ。新婦なる此女は、聞得大君に愛せられむとの意であらう。民間伝承にすら、此様に国王と、聞得大君とを双べ考へてゐる。
琉球本島を分けどつてゐた、昔の北山・南山・中山の三国は、各大同であつて小異を含んだ神道を持つてゐて、中山は聞得大君、南山は佐司笠按司、北山は阿応理恵按司を最高の巫女としてゐたものであらう、と柳田先生も、伊波氏も言うてゐられる。其三巫女の代理とも言ふべきものを、首里三平等(台地)に置いた。南風の平等には首里殿内、真和志の平等には真壁殿内、北の平等には儀保殿内なる巫女の住宅なる社殿を据ゑて、三つの台地に集めた、三山豪族たちの信仰の中心にしてあつた。而も、殿内々々には、聞得大殿同様の祭神を祀らして居た。此等の殿内は皆、三山の主神の遥拝所として設けたのであらう。三殿内には、真壁大阿母志良礼・首里大阿母志良礼・儀保大阿母志良礼を置いた。其上更に官として、聞得大君が据ゑてあつたのである。三つの大阿母志良礼の下には、其々の地方の巫女が附属してゐる。佐司笠・阿応理恵は、実力から自然に、游離して来る事になつたのである。併し、此とて、元々別々のものが帰一せられたものではなく、同根の分派が再び習合せられたものと見るのが、当を得てゐるであらう。
三比等の殿内の下には、間切々々(今、村)、村々(今、字)の君並びに、のろたちが附属してゐる。のろは敬称してのろくもいと言ふ。くもいは雲上と宛て字する。親雲上(うやくもい)などゝ同じく、役人に対して言ふ敬意を含んでゐるのであらう。王朝時代は、役地が与へられてゐて、下級女官の実を存してゐたのである。一間切に一人以上ののろがあつて、数多の神人(女)を統率してゐる。女は皆神人となる資格を持つのが原則だつたので、久高島の婚礼謡の様な考へ方が出て来る。上は聞得大君から、下は村々の神人に到る迄、一つの糸で貫いてあるのが、琉球の巫女教である。のろの仕へるのは、地物・庶物の神なる御嶽・御拝所の神である。又、自分ののろ殿内の宅つ神なる火の神に事へる。其外にも、村全体としての神事には、中心となつて祭りをする。間切、村の根所の祭りにも与る。
根所と言ふのは、各地にかたまつたり、散在したりしてゐる一族の本家の事である。根所は元々其地方の豪族であつたものであらう。根所々々には、先祖を祀つた殿或はあしゃげがあつて、其中には、仏壇風の棚に位牌を置くのが普通である。此神が根神である。標準語で言へば、氏神と言ふ事になる。一つ根所の神を仰いでゐる族人が根人(ねいんちゆ=にんちゆ=につちゆ)である。処が、根所の当主に限り特に根人と言ふ事も多い。此は男であつて、而も、神事に大切な関係を持つてゐるもので、勢頭神又は、大勢頭など言ふ者が、巫女中心の神道に於ける男覡である。根人腹(原と宛て字するのと一つであらう)と言ふ事は、氏子・氏人の意が明らかにある。
根神に仕へる女を亦、根神と言ふ。根神おくで(又、うくでい)と言ふが正しい。併し、ある神と、ある神専属の巫女との間に、区別を立てる事をせぬ琉球神道では、巫女を直に、神名でよぶ。根神おくでの略語と言ふ事は出来ないのである。御くでは、くでとかこでとか言ふ語が語根で、託女と訳してゐる。古くはやはり、聞得大君同様、根所たる豪族の娘から採つたものであらうが、近代は、根人腹の中から女子二人を択んで、氏神の陽神に仕へる方を男(神)託女、陰神に仕へるのを、女(神)託女と言ふ、と伊波氏は書いてゐられる(琉球女性史)。地方にあつては、厳重に此通りも守つては居ない様である。此根神おくでの根神が、一族中に勢力を持つてゐるので、一村が同族である村などでは、根神はのろを凌ぐ程の権力がある。根神はのろの支配下にあるのであるが、のろと仲違ひしてゐるものゝ多いのは、此為である。而も村の神事には、平生の行きがゝりを忘れて、一致する様である。根所々々にも、のろの為には、一つの御拝所であり、根神も、一方に村の神人である点から、根所以外の祭事にも与つて、のろの次席に坐る。
祖先崇拝が琉球神道の古い大筋だとの観察点に立つ人々は、のろが政策上に生まれたものと見勝ちである。けれども、祖先崇拝の形の整ふ原因は、暗面から見れば、死霊恐怖であり、明るい側から見れば、巫女教に伴ふ自然の形で、巫女を孕ました神並びに、巫女に神性を考へる所に始るのである。地方下級女官としてのろの保護は、政策から出たかも知れぬが、のろを根神より新しく、琉球の宗教思想に大勢力のある祖先崇拝も、琉球神道の根源とは見られないのである。
内地の神道にも、産土神・氏神の区別は、単に語原上の合理的な説明しか出来て居ないが、第二期以後の神道には、所謂産土神を祀る神人と、氏神に事へる神人とが対立して居た事が思はれる。厳格に言へば、出雲国造の如きも、氏神を祀つてゐたのではない。のろは謂はゞ、産土神の神主と言うてよいかも知れぬ。
のろ・根神の問題から導かれるのは、ゆた(ゆんた・よた)の源流である。伊波氏は、ゆんたはしやべるの用語例を持つてゐるから、神託を告げる者と言ふのと、八重山で、ゆんたと言ふのは、歌といふ事だから、託宣の律語を宣るものとの、二通りの想像を持つてゐられる様に見える。佐喜真興英氏は、のろよりもゆたが古いものだらうと演説せられてゐる(南島談話会)。私は、女官御双紙に見えた、国王下庫裡への出御や、他へ行幸のをり、いつも先導を勤める女官よたのあむしられと関係がないかと想像してゐる。場合は違ふが、天子神事の出御に必先導するのは、我が国では、大巫の為事になつて居た。王の行幸に、凶兆のある時は、君真者現れて此を止める国柄ゆゑ、行幸・出御に与る此女官に、さうした予知力ある者を択んで日時の吉凶を占はしたので、ときゆたなどいふ語も出来たのか、よた(枝)の義の分化に、尚多く疑ひはあるが、此方面から見る必要があり相である。よたのあむしられの今は伝らぬ職分の、地方に行はれたのが、ゆたの呪術ではあるまいか。正当なのろ・根神などの為事から逸れた岐路といふので、ゆた神人と言うたのが語原ではあるまいか。此点から見れば、よたのあむしられも、神事から分岐した為事に与る女官の意かも知れぬ。
久高島久高のろの夫、西銘松三氏の話では「根神はしゆんくりの様な事をする」との事であつた。しゆんくりは同行の川平朝令氏にもわからなかつたが、東恩納寛惇氏は総括りと言ふ様な語の音転ではないかと言はれた。久高島の語は、沖縄本島の人にすらわからぬのが多い。西銘氏の前後の口ぶりでは、本島のゆたのする様な為事を、根神がする様な話だつたので、私は尚疑問にしてゐる。柳田先生が、大島で採集して来られたしよんがみい(海南小記)と同根でありさうに思ふ。此は、ゆたの為事をする男の事である。根神は一村の人と親しい事、のろよりも濃かるべきはず故、冠婚葬祭の世話を焼くは勿論、運命・吉凶・鎮魂術まで見てやつた処から、ゆた神人たる職業が分化して来たのではあるまいか。沖縄県では、のろは保護せぬまでも虐待しては居ないが、ゆたは見逃して居ないにも拘らず、ゆたの勢力は、女子の間には非常に盛んで、先祖の霊が託言したのだと称して風水見(墓相・家相・村落様式等を相
する人、主に久米村から出る)の様な事を言うて、沢山の金を費させる。先祖の墓を云々したり魂を預つて居る様な所は、根神の為事のある部分が游離して来たものらしい気がする。全体、琉球神道には、こんなゆたの際限なく現れるはずの理由がある。其は、神人に聯絡した問題である。
広い意味では、のろ・根神までも込めて神人といふが、普通は、村の女の中、択ばれてのろの下で、神事に与る者を言ふ様である。殆どすべてが女で、男では根人、並びに世話役とも言ふべき勢頭を二三人、加へるだけである。神人になるのは、世襲の処と、ある試験を経てなる地方との二つあるのである。発生から言ふと、後の方が却つて、古い風らしい。大体母から娘へと言ふ風に、神人を襲ぐ様である。だから、神秘の行事は、不文のまゝ、村の神人から神人に伝はる。夫や子ですらも、自分の妻なり母が神人として、どう言ふ為事をして居るのか決して知らない。神人には役わりがめい〳〵割りふられてゐて、重いものは何某の神に扮し、軽い者で歌舞を司る様である。さうして一々にそれ〴〵神名がついて居る。山の神・磯の神或はさいふあ(斎場御嶽の事か)神・にれえ神など言ふ風な名である。其外に、神人の神事に与つて居る時は、あそび神・たむつ神など言ふ風に言ふ。さうして其中、其扮する神の陰陽によつて、誰はうゐきい神(男神)彼はをない神(女神)と区別してゐる。人としての名と神としての名が、何処ののろに聞いても混雑して来る。
事実、あちこちののろどんちに残つた書き物を見ても、神人の常の名か、祭りの時の仮名か、判然せぬ書き方がしてある。殊にまぎらはしいのは、七人・八人とかためて書く様な場合に、七人・八人、又は七人神・八人神と書いたりする事である。実名も神名も書かないで、何村神と書いて、一年の米の得分を註記してある類もある。何村何某妻何村何某妻うし何村何某母親などあるかと思ふと、何村伊知根神何村さいは神何村殿内神など言つた書き方も見える。神人自身、神と人の区別がわからないので、祭りの際には、尠くとも神自身と感じてゐるらしい。其気持ちが平生にも続く事さへあるのである。神人を選択するのはのろ、根神は、一人子の場合は問題はないが、姉妹が多かつたり、沢山の女姪の中から択ばなければならなかつたりする時は、ゆたに占うて貰ふと言ふ変態の為方もあるが、大抵は病気などに不意にかゝつて、次の代ののろとして、神から択ばれたといふ自覚を起すのである。
処が、唯の神人は、さうした偶然に委せることの出来ない程、人数が多い。それで選定試験が行はれる。大体に於て、久高島に今も行はれるいざいほふといふ儀式が、古風を止めてゐるに近いものであらう。いざいほふをうける女は、若いのは廿六七、四十三四までが、とまりである。午年毎に、第三期まで勤めあげた神人と交迭するのである。十三年に一度、其年の八月の一日から三日間、殿庭とも、あさぎ庭ともいふ、神あしやげ前の空地に、桁七つに板七枚渡した低い橋を順々に渡つて、あしやげの中に入るのである。此を七つ橋といふ。此行事を遂げたものが皆、神人になるのであるが、若し姦通した女が交つてゐる時は、其低い芝生の上に渡した橋から落ちて死ぬものと信ぜられてゐる。そして、新しく神人になつた者の神名は、いざい神で、其を或期間勤め上げると、たむつ神の時期に入る。此が又、二期に分れてゐる様で、たむつ神を勤め上げて、神人関係を離れるのはどうしても六十を越してからである。西銘氏は、七十で満期だというてゐる。此いざいほふは、内地の託摩の鍋祭りと同じ意味のもので、久高人が今日考へてゐる様に、貞操の試験ではなく、琉球神道に於ける神人資格の第一条件である所の二夫に見えてゐない女といふ事が、根本になつてゐる様である。他の地方では今日それ程、厳重な儀式を経なくなつてゐる。
現在の久高のろは大正十年の春、前代の久高のろの子の西銘氏の妻であつたのが、嫁から姑の後をついだのであつた。それまでは、矢張りたむつ神として神人の一人であつた。此嫁のろの制度は、久高島では初めてゞあるが、本島では早くから行うてゐた処もある。それは、のろ役地を、娘のろであると、其儘持つて嫁入りするといふ虞れがあるからである。
九 祖先の扱ひ方の問題
七世生神は、人が死後七代経てば、其死人は神となると言ふことである。其が、父神(ゐきい神)母神(おめない神)の位に分れる。つまり、一番新しい家で言へば、其家には神がない。此を新宗家と言ふ。それより古い家を、中むうとと言ひ、其中、宗家の宗家を、大宗家と言ふ。即、八重山では、新建物に火の神を祀る。時によれば父・母二神の上に、根神の存する事がある。処が、おめない神・ゐきい神は、両方とも根神である。其で、ゐきいおくで・おめないおくでを統括するねがみおくでがある。即、ねがみおくでは、総本家の女房である。此女房が先達となつて、もとはか詣でに出かける。此は、今では一種の遊山旅行であるが如くになつて来た。(ほんとうの神体として、沖縄本島では、銅製の鏡を立てるが、八重山では、此を嫌つて居る。)
毎年時候のよい時に、総本家の女房に率ゐられて、数多くの拝所を、拝みながら巡回する。琉球の島にあつて、神に関係ある場所は、此等の人々に大抵関係があるので、一つ〳〵巡つて歩く。少しでも関係ある墓等も、遺りなく拝み巡る。それ故、遠近の差で、其拝む度数が定まつて来る。又、血縁の遠近によつても、拝する度数が定まつて来る。其他、ゆたの言によつて、諸処を拝んで歩く。琉球の女は迷信深いから、到る処を拝してまはる。それで、西参り・東参りの話が出来た。此は西巡礼・東巡礼の如きものである。婚姻後には、更に巡礼する場所が増加して来る。参拝は、彼等にとつて、最大なる事業である。此巡礼をせなければ、神の祟りをうけると信じて居る。巡礼の原因は、死人の霊の祟りを怖れて、其霊魂に仕へる為であるが、此意味が次第に薄らいで来て遂に、神様になつたのである。古い時代には、途に骸骨等があると、自分の家と反対の方向へ向けて戻つた。其は、此骸骨から、魂が自分の家の方へ来てはならぬ様にするからである。塚なども、厳重に守られた。昔は、洞窟の中へ死体を入れて、其口を漆喰等で厳重に固めたのである。それで、現今古墳の漆喰の隙間をのぞくと白骨が非常に沢山見える。沖縄本島では、墓を祀つたものは大切にしないが、宮古・八重山では、墓をおほんとしたものが多い。即、墓の前に拝殿を築いた様なものも多くある。本島の方にも、此があるらしく想はれる。此墓から、うやあがん・ふあがんが出来て来るのである。
一〇 神と人との間
日本内地に於ける神道でも、古くは神と人間との間が、はつきりとしない事が多い。近世では、譬喩的に神人を認めるが、古代に於ては、真実に神と認めて居たのである。生き神とか現つ神とか言ふ語は、琉球の巫女の上でこそ、始めて言ふ事が出来る様に見える。即、神人は祭時に於て、神と同格である。
薩摩の大島郡喜界个島では、てんしゃばら(天者の系統)と言ふ家筋がある。昔、此附近へ女神が降りて来た時、村人は尾類(遊女)が降つたと言うて嘲笑した。天女は再び天へ上り、異つた地へ天降つた。此村のある百姓が発見して大切に連れ戻り、天女と結婚して子孫を挙げた。後に此女は高山へ登つたが、其櫛・かもじ等が、洞窟の中に残存して居る。此女の子孫が、天者腹であると言ふ。此は人間界の話を、神格化した物語である。此様な話は、内地から琉球へかけて非常に沢山ある。研究して行くと、此女は神人であつて、神人が結婚し得ざる時代、神人に男が関係する事の出来ない時代の話に他ならない。
神と人との境の明らかでないことが、前に述べた程甚しいのであるから、神を拝むか、人を拝むか、判然しない場合すらある。のろ殿内に祀るのは、表面は、火の神であるが、此は単に、宅つ神としてに過ぎない事は既に述べた。のろ自身は、由来記などに記した程、火の神を大切にはしてゐない。のろの祀る神は、別にあるのである。
正月には、村中のものがのろ殿内を拝みに行く。最古風な久高島を例にとると、其は確に久高・外間両のろの火の神を拝むのではない。拝まれる神は、のろ自身であつて、天井に張つた赤い凉傘といふ天蓋の下に坐つて、村人の拝をうける。凉傘は神あふりの折に、御嶽に神と共に降ると考へてゐるのであるから、とりも直さずのろ自身が神であつて、神の代理或は、神の象徴などゝは考へられない。併し、神に扮してゐるのは事実であつて、其が火の神ではなく、太陽神若しくは、にれえ神と考へられてゐる様である。外間のろの殿内には、火の神さへ見当らなかつた位である。外間のろ或は、津堅島の大祝女の如きは、其拝をうける座で、床をとり、蚊帳を釣つて寝てゐる。津堅の方は、そこで夫と共寝をする位である。のろ自身が同時に、神であると云ふ考へがなければ、かうした事はない筈である。本島に於て、神を意味するちかさ(司)は、先島ではのろと言ふ語の代りに用ゐられてゐる。ねがみおくでの「おくで」は、久高島では、神の意味らしく使ふ。
生前さへも其通りだから、死後に巫女を神と斎くは勿論である。本島から遠い離島に数ある女神の伝説は、殆どすべて、島々に巫女として実在した人の話にすぎない。即、沖縄神道では、君・祝に限つては、七世にして神を生ずといふ信仰以上に出て、生前既に、半ば神格を持つてゐるのである。羽衣・浦島伝説系統の女神・天女に関する限りなき神婚譚は、皆巫女の上にありもし、あり得べくもあつて(柳田氏)民習の説話化したものに疑ひない。其上余り古くない時代に、久高の女が現にある様に、一村の女性挙つて神人生活を経た者と見えて、今尚主として姉を特殊の場合に、尊敬してうない神といふ。姉妹神の義である。姉のない時は、妹なり誰なり、家族中の女をうない神と称へて、旅行の平安を祈る風習が、首里・那覇辺にさへ行はれてゐる。うない拝みをして、其頂の髪の毛を乞うて、守り袋に入れて旅立つ。此は全く、巫女の鬘に神秘力を認める考へから出たものである。尤、一村の男をすべて、男神(おめけい神)と見る例は、語だけならば、久高島の婚礼期にもあつた。国頭郡安田では一年おきに、替り番にうない神を拝み、ゐきい神を拝むと称して、一村の女性又は男性を、互に拝しあふ儀式がある。併しゐきい神を男子を以て代表させることは、女であつて陽神専属・陰神専属の神人があつたことの変化したものではあるまいか。でなくては、厳格にゐきい神といはれるのは、根人だけでなければならぬ。事実、男の神人は極めて少数で、男逸女労といはれる国土でありながら、宗教上では、女が絶対の権利を持つてゐたのである。
神人の墓と凡人の墓とを一緒にすると、祟りがあると言ふ。紀に見えた神功皇后の話も此と一つである。
久高・津堅二島は、今尚神の島と自称してゐる土地である。学校あり、区長がゐても、事実上島の方針は、のろたちの意嚮によつてゐる形がある。
神託をきく女君の、酋長であつたのが、進んで妹なる女君の託言によつて、兄なる酋長が、政を行うて行つた時代を、其儘に伝へた説話が、日・琉共に数が多い。神の子を孕む妹と、其兄との話が、此である。同時に、斎女王を持つ東海の大国にあつた、神と神の妻なる巫女と、其子なる人間との物語は、琉球の説話にも見る事が出来るのである。
此短い論文は、柳田国男先生の観察点を、発足地としてゐるものである事を、申し添へて置きます。
底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
1995(平成7)年3月10日初版発行
初出:「世界聖典外纂」
1923(大正12)年5月
※底本の題名の下に書かれて居る「大正十二年五月『世界聖典外纂』」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※拗音が小書きになっているところは底本通りにしました。
※「かないの君真者」は底本では右側に傍線、左側にルビがついています。
※踊り字(〴〵)の誤用は底本の通りとしました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2006年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。