田村将軍
楠山正雄
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一
京都に行ったことのある人は、きっとそこの清水の観音様にお参りをして、あの高い舞台の上から目の下の京都の町をながめ、それからその向こうに青々と霞んでいる御所の松林をはるかに拝んだに違いありません。また後ろをふり返ると御堂の上にのしかかるようにそびえている東山のはるかのてっぺんに、真っ黒に繁った杉の木立ちがぬっと顔を出しているのを見たに違いありません。この京都の町を一目に見晴らす高い山の上のお墓に埋められている人は、坂上田村麻呂という昔の名高い将軍です。そしてそのなきがらを埋めたお墓を将軍塚といって、千何年という長い間京都の鎮守の神様のように崇められて、何か世の中に災いの起こる時には、きっと将軍塚が音をたてて動き出すといい伝えているのでございます。
坂上田村麻呂は今から千年余りも昔、桓武天皇が京都にはじめて御所をお造りになったころ、天子さまのお供をして奈良の都から京の都へ移って来たうちの一人でした。背の高さが五尺八寸に胸の厚さが一尺二寸、巨人のような大男でございました。そして熊鷹のようなこわい目をして、鉄の針を植えたようなひげがいっぱい顔に生えていました。それから体の重みが六十四斤もあって、怒って力をうんと入れると、その四倍も重くなるといわれていました。それでどんな荒えびすでも、虎狼のような猛獣でも、田村麻呂に一目にらまれると、たちまち一縮みに縮みあがるというほどでした。その代り機嫌よくにこにこしている時は、三つ四つの子供もなついて、ひざに抱かれてすやすやと眠るというほどの人でした。ですから部下の兵士たちも田村麻呂を慕いきって、そのためには火水の中にもとび込むことをいといませんでした。
田村麻呂はそんなに強い人でしたけれど、またたいそう心のやさしい人で、人並みはずれて信心深く、いつも清水の観音様にかかさずお参りをして、武運を祈っておりました。
二
ある時奥州の荒えびすで高丸というものが謀反を起こしました。天子さまの御命令を少しも聞かないばかりでなく、都からさし向けてある役人を攻めて斬り殺したり、人民の物をかすめて、まるで王様のような勢いをふるっておりました。天子さまはたいそう御心配になって、度々兵隊をおくって高丸をお討たせになりましたが、いつも向こうの勢いが強くって、そのたんびに負けて逃げて帰って来ました。そこでこの上はもう田村麻呂をやるほかはないというので、いよいよ田村麻呂を大将にして、奥州へ出陣させることになりました。
天子さまの仰せ付けを受けますと、田村麻呂はかしこまって、さっそく兵隊を揃える手はずをしました。いよいよ出陣の支度ができ上がって、京都を立とうとする朝、田村麻呂はいつものとおり清水の観音様にお参りをして、
「どうぞこんどの戦に首尾よく勝って、天子さまの御心配の解けますように。」
と熱心にお祈りをして、奥州へ向かって立って行きました。
奥州へ着いていよいよ高丸と戦をはじめてみますと、なるほど向こうは名高い荒えびすだけのことはあって、一度戦をしかけたら勝つまでは決してやめません。味方が残らず討たれて最後の一人になるまでも決して後へは退きません。親が討たれれば子が進み、子が討たれれば親がつづくという風に、味方の死骸を踏み越え、踏み越え、どこまでも、どこまでも進んで来ます。
ですから田村麻呂の軍勢も、勇気は少しも衰えませんが、さしつめさしつめ矢を射るうちに敵の数はいよいよふえるばかりで、矢種の方がとうに尽きてきました。いくら気ばかりあせっても、矢種がなくっては戦はできません。残念ながら味方が負けいくさかと田村麻呂も歯ぎしりをしてくやしがりました。するといつどこから出て来たか、大きなひげの生えた男と、かわいらしい小さな坊さんが出て来て、どんどん雨のように射出す敵の矢の中をくぐりくぐり、平気な顔をして敵の勢の中へ歩いて行って、身方の射出した矢をせっせと拾っては、こちらへ運び返して来ました。お陰で身方は射ても、射ても、あとからあとから矢がふえて、いつまでもつきるということがありません。ますますはげしく射かけましたから、さすがに乱暴な荒えびすも総崩れになって、かなしい声をあげながら逃げ出しました。味方はその図をはずさず、どこまでも追っかけて行きました。敵の大将の高丸はくやしがって、味方をしかりつけては、どこまでも踏み止まろうとしましたけれど、一度崩れかかった勢いはどうしても立ち直りません。そのうち高丸も田村麻呂の鋭い矢先にかかって、乱軍の中に討ち死にしてしまいました。田村麻呂はこの勢いに乗って、達谷の窟という大きな岩屋の中にかくれている、高丸の仲間の悪路王という荒えびすをもついでに攻め殺してしまいました。
三
田村麻呂は奥州の荒えびすを平らげて、ゆるゆると京都へ凱旋いたしました。天子さまはたいそうおよろこびになって、田村麻呂にたくさんの御褒美をお授けになりました。そして改めて征夷大将軍という役におつけになりました。みんなはそれから後田村麻呂に田村将軍という名をつけて、尊敬するようになりました。
田村麻呂は自分がこれほどの名誉を受けることになったのも、清水の観音様にお祈りをした御利益だと思って、都に帰るとさっそく清水にお参りをして、ねんごろにお礼を申し上げました。
さてこの時までも始終不思議でならなかったのは、あの時の小さな坊さんと大きなひげ男でした。そこで話のついでに、田村麻呂はお寺の和尚さんに向かって、奥州の戦ではこれこれこういうことがあったと話しますと、和尚さんは横手を打って、
「ははあ、それでわかりました。するとその小坊主というのは勝軍地蔵さまで、大きなひげ男と見えたのは勝敵毘沙門天に違いありません。どちらもこの御堂にお鎮まりになっていらっしゃいます。」
といいました。田村麻呂は不思議に思って、
「ではさっそく、その地蔵さまと毘沙門さまにお参りをして来よう。」
といって、本堂に祀ってある勝軍地蔵と勝敵毘沙門天のお像の前に行ってみますと、どうでしょう。地蔵さまと毘沙門さまのお像の、頭にも胸にも、手足にも、肩先にも、幾箇所となく刀きずや矢きずがあって、おまけにお足にはこてこてと泥さえついておりました。
田村麻呂は今更仏さまの御利益のあらたかなのにつくづく感心して、天子さまから頂いたお金を残らず和尚さんにあずけて、お寺をりっぱにこしらえました。今の清水寺があれほどの大きなお寺になったのは、田村麻呂の時から、そうなったものだということです。
田村麻呂はその後鈴鹿山の鬼を退治したり、藤原仲成というものの謀反を平らげたり、いろいろの手柄を立てて、日本一の将軍とあがめられましたが、五十四の年に病気で亡くなりました。けれどもこれほどのえらい将軍をただ葬ってしまうのは惜しいので、そのなきがらに鎧を着せ、兜をかぶせたまま、棺の中に立たせました。そしてそれを都の四方を見晴らす東山のてっぺんに持って行って、御所の方に顔のむくように立てて埋めました。これが将軍塚の起こりでございます。
底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:今井忠夫
2004年1月6日作成
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