夢殿
楠山正雄



     一


 むかし日本にほんくにに、はじめてほとけさまのおおしえが、外国がいこくからつたわって時分じぶんのおはなしでございます。

 だい三十一だい天子てんしさまを用明天皇ようめいてんのうもうげました。この天皇てんのうがまだ皇太子こうたいしでおいでになった時分じぶん、おきさき穴太部あなとべ真人まひと皇女おうじょというかたが、あるばん御覧ごらんになったおゆめに、からだじゅうからきらきら金色こんじきひかりはなって、なんともいえないとうと様子ようすをしたぼうさんがあらわれて、おきさきかい、

「わたしは人間にんげんくるしみをすくって、このの中をくしてやりたいとおもって、はるばる西にしほうからやってものです。しばらくのあいだあなたのおなかをりたいとおもう。」

 といいました。

 おきさきはびっくりなすって、

「そういうとうといおかたが、どうしてわたくしのむさくるしいおなかの中などへおはいりになれましょう。」

 とおっしゃいますと、そのぼうさんは、

「いや、けっしてそのづかいにはおよばない。」

 とうがはやいかおどがって、おきさきおもわずけた口の中へぽんとんでしまったとおもうとおゆめはさめました。

 がさめてのちきさきは、のどの中になにかたくしこるような、たまでもくくんでいるような、みょうなお気持きもちでしたが、やがてお身重みおもにおなりになりました。

 さて翌年よくねん正月元日しょうがつがんじつあさ、おきさきはいつものように御殿ごてんの中をあるきながら、おうまや戸口とぐちまでいらっしゃいますと、にわかにお産気さんけがついて、そこへ安々やすやすうつくしいおとこ御子みこをおみおとしになりました。召使めしつかいの女官じょかんたちはおおさわぎをして、あかさんの皇子おうじいて御産屋おうぶやへおれしますと、御殿ごてんの中はきゅう金色こんじきひかりでかっとあかるくなりました。そして皇子おうじのおからだからは、それはそれは不思議ふしぎなかんばしいかおりがぷんぷんちました。

 おうまやまえでおまれになったというので、皇子おうじのお厩戸皇子うまやどのおうじもうげました。のち皇太子こうたいしにおちになって、聖徳太子しょうとくたいしもうげるのはこの皇子おうじのことでございます。


     二


 さて太子たいしはおまれになって四月よつきめには、もうずんずんお口をおきになりました。くるとしの二がつ十五にちは、お釈迦しゃかさまのおくなりになった御涅槃ごねはんの日でしたが、二さいになったばかりの太子たいしは、かわいらしい両手りょうてをおわせになり、西にしほうそらかって、

南無釈迦仏なむしゃかぶつ。」

 とおとなえになったので、おつきの人たちはみんなびっくりしてしまいました。

 太子たいしが六さいときでした。はじめて朝鮮ちょうせんくにから、ほとけさまのおきょうをたくさん献上けんじょうしてまいりました。するとある太子たいしは、天子てんしさまのおまえへ出て、

外国がいこくからおきょうがまいったそうでございます。わたくしにませていただきとうございます。」

 とおもうげになりました。

 天皇てんのうはびっくりなすって、

「どうしておまえにおきょうかるだろう。」

 とおっしゃいますと、太子たいしは、

「わたくしはむかしシナの南岳なんがくという山にんでいて、長年ながねんほとけみち修行しゅぎょういたしました。こんど日本にほんくにまれてることになりましたから、むかしのとおりまたおきょうんでみたいとおもいます。」

 とおこたえになりました。

 天皇てんのうははじめて、なるほど太子たいしはそういうとうとい人のまれかわりであったのかとおさとりになって、おきょう太子たいしくださいました。

 太子たいしが八さいとしでした。新羅しらぎくにからほとけさまのお姿すがたきざんだぞう献上けんじょういたしました。その使者ししゃたちが旅館りょかんとまっている様子ようすようとおおもいになって、太子たいしはわざと貧乏人びんぼうにん子供こどものようなぼろぼろなお姿すがたで、まち子供こどもたちの中に交じってお行きになりました。すると新羅しらぎ使者ししゃの中に日羅にちらというとうとぼうさんがおりましたが、きたないわらべたちの中に太子たいしのおいでになるのを目ざとく見付みつけて、

かみの子がおいでになる。」

 といって、太子たいしちかづこうといたしました。太子たいしはびっくりしてげて行こうとなさいました。日羅にちらはあわててくつもはかずしておあといかけました。そして太子たいしまえびたにぺったりひざをついたままうやうやしく、

敬礼救世きょうらいぐぜ観世音菩薩かんぜおんぼさつ妙教流通みょうきょうるづう東方日本国とうほうにっぽんこく。」

 ともうしますと、日羅にちらからだから光明こうみょうがかっとしました。そして太子たいしひたいからはしろひかりがきらりとしました。日羅にちらった言葉ことばは、人間にんげんくるしみをすくってくださる観世音菩薩かんぜおんぼさつに、そしてこのたびひがしての日本にほんくにおうさまにまれて、ほとけおしえをひろめてくださるおかたに、つつしんでごあいさつをもうげますという意味いみでございます。

 大きくおなりになると、太子たいし日羅にちらもうげたように、ほとけおしえを日本にほん国中くにじゅうにおひろめになりました。はじめ外国がいこくおしえだといってきらっていたものも、太子たいしがねっしんに因果応報いんがおうほうということのわけをいて、

人間にんげんのいのちは一だいだけでおわるものではない。まえとこののちと、三だいもつづいている。だからまえわるいことをすれば、このでそのむくいがくる。けれどこのでいいことをしてそのつみつぐなえば、のちにはきっと幸福こうふくむくってくる。だからだれもほとけさまをしんじて、このきているあいだたくさんいいことをしておかなければならない。」

 こうおさとしになりますと、みんななみだをこぼして、太子たいしとごいっしょにほとけさまをおがみました。けれど中でわがままな、がんこな人たちがどうしても太子たいしのおさとしにしたがおうとしないで、おてらいたり、仏像ぶつぞうをこわしたり、ぼうさんやあまさんをぶちたたいてひどいめにあわせたり、いろいろな乱暴らんぼうをはたらきました。太子たいしはその人たちのすることをて、ふかいためいきをおつきになりながら、

「しかたがない、悪魔あくまほろぼすつるぎをつかうときた。」

 とおっしゃって、弓矢ゆみや太刀たちをおりになり、身方みかた軍勢ぐんぜいのまっさきっていさましくたたかって、ほとけさまのてきのこらずほろぼしておしまいになりました。

 こうしてこの太子たいしのおちからで、いろいろの邪魔じゃまはらって、ほとけさまのおおしえがずんずんひろまるようになりました。摂津せっつ大阪おおさかにある四天王寺してんのうじ大和やまと奈良ならちか法隆寺ほうりゅうじなどは、みな太子たいしのおてになったふるふるいおてらでございます。


     三


 太子たいしのおとくがだんだんたかくなるにつれて、いろいろ不思議ふしぎことがありました。あるとき甲斐かいくにから四そくしろい、くろ小馬こうまを一ぴき朝廷ちょうてい献上けんじょういたしました。太子たいしはこのうま御覧ごらんになると、たいそうおよろこびになって、

「このうまって国中くにじゅうひとめぐりしてよう。」

 とおっしゃって、調使丸ちょうしまるという召使めしつかいの小舎人ことねりをくらのうしろにせたまま、うまって、そのまますうっとそらの上へんでおきになりました。下界げかいでは、

「あれ、あれ。」

 といってさわいでいるうちに、太子たいしはもう大和やまと国原くにばらをはるかあとのこして、信濃しなのくにからこしくにへ、こしくにからさらにひがし国々くにぐにをすっかりおまわりになって、三日みっかのちにまた大和やまとへおかえりになりました。このとき太子たいしのおあるきになったうまひづめあとが、国々くにぐにたかい山にいまでものこっているのでございます。

 またあるとき太子たいし天子てんしさまの御前ごぜんで、勝鬘経しょうまんきょうというおきょう講釈こうしゃくをおはじめになって、ちょうど三日みっかめにおきょうがすむと、そらの上から三じゃくはばのあるきれいな蓮花れんげってて、やがての上に四しゃくたかつもりました。その蓮花れんげくるあさ天子てんしさまが御覧ごらんになって、そこに橘寺たちばなでらというおてらをおてになりました。

 またあるとき日本にほんくにからシナのくにへ、小野妹子おののいもこという人をお使つかいにやることになりました。そのとき太子たいし妹子いもこかい、

「シナの衡山こうざんという山の上のおてらは、むかしわたしがんでいたところだ。その時分じぶんいっしょにいたそうたちはたいていんだが、まだ三にんのこっているはずだから、そこへ行って、むかしわたしが始終しじゅうつかっていた法華経ほけきょうほんをさがしてってておくれ。」

 とおっしゃいました。

 妹子いもこはおいいつけのとおり、シナへわたるとさっそく、衡山こうざんというところへたずねて行きました。そしてその山の上のおてらへ行くと、もん一人ひとり小坊主こぼうずっていました。妹子いもこがこうこういうものだといって案内あんないをたのみますと、小坊主こぼうずはもうまえからっているといったように、

和尚おしょうさん、和尚おしょうさん、思禅法師しぜんほうしのお使つかいがおいでになりましたよ。」

 といいました。するとおてらの中からこしがったおじいさんのぼうさんが三にん、ことことつえをつきながら、さもうれしそうにやってて、太子たいし御様子ごようすをたずねるやら、昔話むかしばなしをするやらしたあとで、妹子いもこのいうままに、一かんふる法華経ほけきょうしてわたしました。妹子いもこはそれをって、日本にほんかえったということです。


     四


 太子たいしのおまいになっていたおみや大和やまと斑鳩いかるがといって、いま法隆寺ほうりゅうじのあるところにありましたが、そこの母屋おもやのわきに、太子たいし夢殿ゆめどのというちいさいおどうをおこしらえになりました。そして一月ひとつきに三ずつ、おはいってからだきよめて、そこへおこもりになり、ほとけみち修行しゅぎょうをなさいました。

 あるとき太子たいしはこの夢殿ゆめどのにおこもりになって、七日七夜なのかななよもまるでそとへお出にならないことがありました。いつもは一晩ひとばんぐらいおこもりになっても、明日あすあさはきっとおましになって、みんなにいろいろととうといおはなしをなさるのに、今日きょうはどうしたものだろうとおもって、おきさきはじめおそばの人たちが心配しんぱいしますと、高麗こまくにから恵慈えじというぼうさんが、これは三昧さんまいじょうるといって、一心いっしんほとけいのっておいでになるのだろうから、おじゃまをしないほうがいいといってめました。

 するとちょうど八日ようかめのあさ太子たいし夢殿ゆめどのからおましになって、

せんだって小野妹子おののいもこっててくれた法華経ほけきょうは、衡山こうざんぼうさんがぼけていたとえて、わたしのっていたのでないのをまちがえてよこしたから、たましいをシナまでやってってたよ。」

 とおっしゃいました。

 そののちまた小野妹子おののいもこが二めにシナへわたったとき衡山こうざんのおてらたずねると、まえにいた三にんぼうさんの二人ふたりまではんでしまって、一人ひとりだけのこっておりましたが、そのぼうさんのはなしに、

先年せんねんあなたのおくに太子たいしあおりゅうくるまって、五百にん家来けらいしたがえて、はるばるひがしほうからくもの上をはしっておいでになって、ふる法華経ほけきょうの一かんっておいでになりました。」

 とったそうでございます。


     五


 太子たいしのおきさき膳臣かしわできみといって、それはたいそうかしこくておうつくしいかたでしたから、御夫婦ごふうふのおなかもおむつましゅうございました。あるときふと太子たいしはおきさきかって、

「おまえとは長年ながねんいっしょにくらしてたが、おまえはただの一言ひとこともわたしの言葉ことばそむかなかった。わたしたちはしあわせであったとおもう。きているうちそうであったから、んでからもおなじ日に、おなじおはかの中にほうむられたいものだ。」

 とおっしゃいました。おきさきなみだをおながしになりながら、

「どうしてそんなかなしいことをおっしゃるのでございますか。このさき百ねんも千ねんきていて、おそばにつかえたいと、わたくしはおもっているのでございますのに。」

 とおっしゃいました。けれども太子たいしくびをおふりになって、

「いやいや、はじめがあればおわりのあるものだ。まれたものはかならぬにまったものだ。これは人間にんげんさだまったみちでしかたがない。わたしもこれまでいろいろのものに姿すがたをかえ、度々たびたび人間にんげんまれわってて、ほとけみちをひろめた。とうとうおしまいにこの日本国にほんこく皇子おうじまれてて、ほとけみち跡方あとかたもないところ法華ほっけたねいた。わたしの仕事しごともこれで出来上できあがったのだから、この上ながく、むさくるしい人間にんげんの中にんでいようとはおもわない。」

 としみじみとおはなしをなさいました。おきさきはなおなおかなしくおなりになって、とめなくなみだがこぼれてました。

 ちょうどそのころでした。太子たいし摂津せっつくに難波なにわのおみやへおいでになって、それから大和やまときょうへおかえりになるので、黒馬くろうまって片岡山かたおかやまというところまでおいでになりますと、山のかげ一人ひとりものべないとみえて、るかげもなく、おとろえたこじきが、むしのようにていました。おともの人たちは、太子たいしのお馬先うまさき見苦みぐるしいとおもって、あわてていたてようとしますと、太子たいしはやさしくおめになって、ものをおやりになり、なさけぶかいお言葉ことばをおかけになりました。そしてかえりしなに、

さむいだろうから、これをお。」

 とおっしゃって、していた紫色むらさきいろ御袍おうわぎをぬいで、おずからこじきのからだにかけておやりになりました。そのとき

「しなてるや

片岡山かたおかやま

いいえて

せるたびびと

あわれ親無おやなし。」

 という和歌わかをおみになりました。

「しなてるや」というのは、片岡山かたおかやまという言葉ことばかぶせたかざりの枕言葉まくらことばで、うた意味いみは、片岡山かたおかやまの上に御飯ごはんべずにえてているたびおとこがあるが、かわいそうに、おや兄弟きょうだいもない、かなしいうえなのであろうかというのです。

 するとそのときていたこじきが、むくむくとあたまをあげて、

斑鳩いかるが

とみ小川おがわ

えばこそ

大君おおきみ

御名みなわすれめ。」

 と御返歌ごへんかもうげたといいます。

 うたの中にある「斑鳩いかるが」だの、「とみ小川おがわ」だのというのは、いずれも太子たいしのおまいになっていた大和やまとくに奈良ならちかところで、そのとみ小川おがわながれのえてしまうことはあろうとも、太子たいしさまの今日きょうのおなさけをけっしてわすれるときはございませんというのでございます。

 さて太子たいし奈良ならきょうへおかえりになりましたが、そのあと片岡山かたおかやまのこじきは、とうとうんでしまいました。太子たいしはそれをおきになって、たいそうおなげきになり、あつくほうむっておやりになりました。それをいた七にん大臣だいじんが、太子たいしさまともあるものがそんな軽々かるがるしいことをなさるとはといって、やかましく小言こごともうしました。太子たいしはそのはなしをおきになると、七にん大臣だいじんして、

「おまえたちはそんなむずかしいことをいっていないで、まあ片岡山かたおかやまへ行ってごらん。」

 とおっしゃいました。

 大臣だいじんたちはぶつぶついながら、ともかくも片岡山かたおかやまへ行ってみますと、どうでしょう、こじきのなきがらをおさめたひつぎの中は、いつかからになっていて、中からはぷんとかんばしいかおりがちました。大臣だいじんたちはみんなおどろいて、太子たいしも、このこじきも、みんなただの人ではない、慈悲じひ功徳くどくの中の人たちにあまねくらせるために、とうと菩薩ぼさつたちがかりにお姿すがたをあらわしたものだろうとおもうようになりました。


     六


 さてこのことがあってからのちもなく、太子たいしはあるきさきかい、

「いよいよ、いつぞやの約束やくそくたす日がた。わたしたちは今夜限こんやかぎりこのろうとおもう。」

 とおいになりました。

 そして太子たいしとおきさきとはその日おし、あたらしい白衣びゃくえにお着替きかえになって、お二人ふたり夢殿ゆめどのにおはいりになりました。

 くるあさ、いつまでもお二人ふたりともおざめにならないので、おそばの人たちが不思議ふしぎおもって、そっと御堂おどうなかはいってみますと、お二人ふたりはまくらをならべたまま、それはそれはやすらかに、まるでいつもすやすやおやすみになっているような御様子ごようすで、いきっておいでになりました。おからだからはぷんとたかく、かんばしいにおいがちました。太子たいしのおとしは、四十九さいでございました。

 太子たいしのおかくれになった日、シナの衡山こうざんからとっておいでになったふる法華経ほけきょうも、ふとえなくなりました。それもいっしょにっておいでになったのだろうということです。

底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社

   1983(昭和58)年610日第1刷発行

入力:鈴木厚司

校正:今井忠夫

2004年16日作成

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