やどなし犬
鈴木三重吉
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一
むかし、アメリカの或小さな町に、人のいい、はたらきものの肉屋がいました。冬の半の或寒い朝のことでした。外は、ひどい風が雨を横なぐりにふきつけて、びゅうびゅうあれつづけています。人々は、こうもりのえにかたくつかまりながら、ころがるようなかっこうをして、つとめの場所へ出ていきます。肉屋は、店のわかいものたちと一しょに、かじかんだ手で、肉切ぼうちょうをといでいました。
すると、店のまえのたたきのところへ、一ぴきのやせた犬がびしょぬれになって、のそりのそりとやって来ました。そして、はげしいしぶきの中に、のこりとすわって、店先に下っている肉のかたまりを、じろじろ見上げていました。どこかのやどなし犬でしょう。肉屋もこれまで見たこともないきたならしい犬でした。骨ぐみは小さくもありませんが、どうしたのか、ひどくやせほそって、下腹の皮もだらりとしなび下っています。寒いのと、おそらくひもじいのと両方で、からだをぶるぶるふるわせ、下あごをがたがたさせながら、引きつれたような、ぐったりした顔をして、じろじろと、かぎにかかった肉を見つめています。
肉屋は、おどけた目つきをして、ちょいちょいそのやせ犬を見やりながら、ほうちょうをこすっていました。犬は肉屋の注意を引くように、ときどきくんくん鼻をならしてはこっちを見ます。そのうちに肉屋はほうちょうをとぎおえて、刃先をためすために、そばの大きな肉のはしの、ざらざらになったところを、少しばかり切り落しました。そして、
「ほら。」と言って、やせ犬になげてやりました。すると犬は、それが地びたへおちないうちに、ぴょいと上手に口へうけて、ぱくりと一口にのみこんでしまいました。肉屋はおもしろはんぶんに、こんどは少し大きく切りとって、ぽいとたかくなげて見ました。犬はさっと後足で立ち上って、それをも上手にうけとり、がつがつと二どばかりかんでのみこみました。
「へえ、こいつはまるでかるわざ師だ。どうだい、牛一ぴきのこらずくうまでかるわざをやるつもりかい? ほら、来た。よ、もう一つ。ほうら。よ、ほら。」と、肉屋はあとから〳〵と何どとなく切ってはなげました。犬は、そのたんびに、ぴょいぴょいと上手にとって、ぱくぱく食べてしまいます。
「おまいは、おれの店の肉をみんなくっていく気だな? さあ、もうこれでおしまいだ。そのかわり少々かたいぞ。」と、肉屋は最後に、出来るだけわるいところをどっさり切ってなげつけました。しかし、犬はもうそのしまいの一きれだけは食べようともしずに、しばらくそれをじろじろ見つめています。
「何だ。何を考えてるんだい。」と肉屋は思いました。そのうちに、犬はふと、その肉をくわえるなり、どんどん、町角の方へかけさってしまいました。
そのあくる日は、からりと晴れたいいお天気でした。きのうの雨できれいにあらわれた往来にはもくもくと黄色い日かげがさしています。人々はあいかわらず急ぎ足で仕事に出ていきます。肉屋は、きょうは極上等の肉をどっさりつるして、お客をまっていました。すると、そこへ、きのうの犬がまたのこりと出て来て、同じように、たたきの上にすわったまま、じろじろと肉のきれを見上げています。
「ほう、また来たな。」と肉屋は言いました。
「来い来い。はいって来い。」と、チュッチュッと舌をならしますと、犬はこわごわ店の中へはいって来ました。
「ほら、ここまで来い。どら。」と肉屋はこごんで、かるく犬ののどの下をもち上げながら、
「へえ、かわいい目つきをしてるね、おまいは。毛並もよくちぢれていて上等だ。ちょっと歯を見せろ。歯なみもなかなかりっぱだ。おまいはおれの店の番人になるか。え? 今んとこはまったくやせ犬の見本みたいだが、二週間もたてばむくむくこえていい犬になる。おい、おれんとこにもいい犬がいたんだよ。そいつがにげ出して殺されたんだ。おまいは、かわりに、おれんとこの子になるか。なる? おお、よしよし。」
肉屋が右手でくびのところをだくようにしますと、犬は、言われたことがわかったように、肉屋の左手の甲をぺろぺろなめました。犬はそのまま夕方まで肉屋の店先で番をしました。あたりの犬たちが出て来て、店の中へもぐりこもうとでもしますと、やせ犬はうゝうときばをむいておいまくり、うろんくさい乞食が店先に立つと、わんわんほえておいのけてしまいます。それはなかなか気がきいたものです。とおりに何かへんな物音がすると、すぐにとんでいって、じいっと見きわめをつけ何でもないとわかればのそのそかえって、店先にすわっているという調子です。
日がはいると、肉屋はくちぶえをならしてよび入れました。そして、やさしく背中をたたいたあとで、大きな肉のきれをなげてやりました。ところが犬はそれをたべないで、口にくわえて外へ出てしまいました。そして、どんどん走って、きのうのとおりに、町かどの向うへかき消えてしまいました。
「何だ。」と肉屋は、すっぽかされたような気がしました。しかし、あんなにおれになついて、一日中番をしていたくらいだから、夜になったらまたかえって来るかも知れないと思いながら、それとはなしにまっていましたが、夜おそくなっても、犬はそれなりとうとうかえって来ませんでした。
「やっぱりのら犬はのら犬だ。一ぺんでいっちまやがった。」と、肉屋は寝がけに一人ごとを言いました。
ところが、あくる朝、店のものが戸をあけますと、犬は、もうとくから外へ来てまちうけていたように、ついと店へはいって、うれしそうに尾をふって肉屋のひざにとびつきました。
「よし〳〵〳〵。分ったよ〳〵。」と肉屋は犬の両前足をにぎって、外のたたきの方へつれていきました。犬はそれからまた一日中、店先にいて、一生けんめいに番をしました。肉屋は夕方になると頭をなでて、きのうのとおりに、大きな肉のきれをやりました。ところが犬は、やはりそれを食べないで、口にくわえたまま、またどこかへいってしまいました。そしてあくる朝はまたちゃんと出て来て、店の番をしました。
とうとう一週間たちましたが、犬は毎日同じように、もらった肉を食べないでもっていきます。肉屋は、一たいああして肉をくわえてどこへもっていくのだろう、一日中おれのところにおりながら、どうして夜はきまって、ほかのところで寝るのだろうと、店のものたちと話し合いました。
「おいおい、きょうもまた食わないでもってったよ。一つあとをつけてって見よう。来な。」と、肉屋は或日店のものの一人をつれて、ついていきました。夕方は人どおりも少ないために、肉屋と店のものとは、犬のすがたを見失うこともなく、歩いたり走ったりして、どんどんついていきました。
「何だ。どこまでいくんだろう。え、おい。ずいぶん遠くまで来たじゃないか。」
犬はまだどんどんいって、とうとう町のはずれまで来てしまいました。そこには、ばらばらに小さい家が建ちぐさったりしている、どすぐろい、ひろい砂地がありました。そのあたりは、冬は風がはげしくて、砂がじゃりじゃり家々の窓や、とおる人の顔へふきとんで来ます。
「おお、ひどい砂だ。」と言いながら、肉屋は犬のあとから、そこのところをななめにつッきってかけていきました。犬は肉屋たちがおっかけて来ていることには気がつかないらしいのです。そしてそこいらの或小家のところまで来ますと、さもかえるところまでかえったというように、その家のうしろの方へのそのそはいっていきました。
肉屋たち二人は、そっといってのぞいて見ました。家のうしろは、ちょっとした空地で、まん中に何かをたてようとした足場らしいものが、くずれかけたまま、ほうりっぱなされており、ぐるり一面にはごみくずや、いろんなきたならしいものが、ごたごたすててあります。犬はその空地の片すみにころがっている、底も天井もぬけた、古ぼけた穀物だるの口もとにすわりこみました。たるの中には、かんなくずや砂なぞがくしゃくしゃにはいっています。そのかんなくずの上に、何だかしゅろであんだ、ぼろぼろの靴ぬぐいをまるめ上げたような、そういう色とかっこうをしたものがころがっています。犬は、そのへんなもののまえに、くわえて来た肉のきれをおいて、くんくんなきつづけました。しかしそのへんなものが動き出しもしないので、犬はたまりかねたように、前足をあげて、おい、おきろ〳〵と言わないばかりにつッつきました。
すると靴ぬぐいのようなものは、むくむくと半たち上って、よろよろと肉のきれのそばへ来て、たおれるように腹ばいました。栗色をした、よぼよぼの犬です。病気でひどくよわっていると見えて、やせ犬のくれた肉のきれをものうそうに二、三どなめまわしましたが、それを食べる力もないように、そのままぐんなりと顔を下げてしまいました。こちらの犬は、
「さ、早くお上りよ。よ。よ。」と言うように、くんくん言っていましたが、それでもまだ食べようとしないので、相手の食慾をそそろうとするように、その肉のきれのかどを、小さく食い切って、ぺちゃぺちゃと食べて見せました。それでも病犬は、じっとしたまま動きません。こちらの犬は、しかたなしに、こんどは肉のきれを、二、三尺うしろの方へ引きずって来て、それを前足の間においてすわり、さも病犬をさそい出そうとするように、口の先で肉をつッつき〳〵しては、じっとまっています。
「さ、来て食べてごらん。おいしいよ。ね、ほら。うまそうだろう。食べない? きみが食べなけりゃ、わたしがみんな食べるよ。いいかい。食べてもいいかい。」と言わぬばかりに、しきりにくんくんないたりしました。しかし、いくら手をかえてすすめてもだめでした。病犬はちゅうとで一ど、よろよろと出て来て、肉のはしをちょっとかんで見ましたが、またのそのそとかんなくずの中へかえってうずくまり、目をつぶってうとうとと眠りかけました。
こちらの犬は、肉のきれをくわえていって、その犬の口のところへおき、じぶんも中にはいって砂だらけのかんなくずを、かきまわしたり、ならしたりして、病犬のそばへ一しょに寝ころびました。肉屋たちは、じっとすべてを見ていました。
「おい、もうかえろう。暗くなった。ほんとに感心なものだね。われわれ人間の中にも、あれほど情ぶかい、いきとどいたやつはちょっといないぜ。毎日朝からおれんところではたらいて、夕方になると肉をもって来てあの犬に食わしてるんだ。見上げたものじゃないか。」と肉屋は、しみじみこう言いました。
「まったくです。だが、だんな、あの犬は、ものが食べたいよりも、のどがかわいてるのじゃないでしょうか。水がのみたくても、あれじゃさがしに歩けないでしょうから。」と店のものが言いました。
「ふん、なァるほど。そいつァよく言った。どこかに水は目っからないかな。あ、そこの、へんなちっぽけな家には、だれか住んでるよ。」と肉屋は、空地の向うの家の戸口へいって、
「もしもしちょっと。どなたかいらっしゃいませんか。」と言って、戸をたたきました。すると、中から、うすぎたない女が戸をあけました。肉屋は今の病犬のことを話して、かわいそうですから水をのましてやりたいのですが、と言いますと、女は、小さなあきかんへ水を入れてもって来てくれました。肉屋がそれを病犬の口もとへおきますと、犬はすぐにくびをのばして、ぺちゃぺちゃと、一気に半分ばかりのみほしました。そして、さもうれしそうに、くびをふりふりしました。もう一つの犬も口をつけてぴちゃぴちゃのみました。病犬は水を飲んだために、少しは元気がついたように見えました。肉屋は、骨と皮とばかりの、そのからだをなでてやり、
「じゃァ、よくおやすみ。あすまた見に来てやるからな。おお〳〵、かわいそうに。──おまいもあしたまたおいで。」と、もう一つの犬をもなでていきました。
二
あくる朝、肉屋がいつもの時間に店をあけますと、犬はもうちゃんと来てまっていて、くんくん言いながら尾をふります。肉屋は町中の人々や、買いものに来たお客たちに一々その犬の話をして聞かせました。すると、だれもかれも、
「へえ。」と感心して、犬を見入ったり、くびをなでたりしていきます。犬はやはり夕方まで店の番をつづけました。肉屋はきょうは肉の分量を少しおおくしてやりました。犬はあいかわらずそれをくわえてかえっていきました。肉屋はそのあとから、水さしに水を入れて、それをもってついていきました。
「どら、おれもいって見よう。」と、話を聞いた、となりの人も一しょに出かけました。
それからいく週間もたちました。感心な犬の話は、そこからかしこへとつたわって、町中で大評判になり、わざわざ肉を買いがてら見に来る人もあったりして、肉屋ははんじょうしました。
そのうちに夏が来ました。或朝のことです、これまではいつもひとりで来つづけていた犬は、その日は、ほかの一ぴきの犬と二人で店先へ来ていました。犬は、つれの犬を肉屋にひきあわすように、くんくん言い言い尾をふりました。片方は、やせ骨ばって、よろよろしています。それが、こわごわ肉屋の足もとへ来て、顔を見上げました。れいの病犬が歩けるようになって、一しょに来たのです。肉屋は、
「おお、よく来たね。」と、病犬をなでて、上等の肉を切ってなげてやりますと、すぐにがつがつ食べました。先からの犬はそれを見て、さも満足したように尾をふりました。それからは毎朝ふたりで出て来ました。ふたりとも店の中へは、めったにはいらないで、しき石の上にすわっていたり、そこいらを歩いて来たりします。ふたりがけんかなぞをしたことは、ただの一どもありません。夕方になると、いつも肉のきれをもらって食べて、ふたりで町はずれの寝場所へかえっていきます。町ののら犬たちも、このふたりが肉屋のまえにいるのを、もうあたりまえのように思って、けっしてあらそいもせず、さっさととおっていきます。たまに、はじめてまよいこんで来た犬などが、肉屋の店先にでも近よりますと、ふたりの犬はうんうんおこって、すぐにみぞの中へおとしこんだりします。そのころでは、もはや、町中全部の人が、そのふたりの犬のことを話にのぼしました。
そのうちに、町には急に或大工場が出来て、何千人という職工たちが移住して来ました。そのために、町の外へは、どんどん家がたちつまりました。こうして町が大きくなるにつれて、方々からいろいろの人がどっさり入りこんで来ます。その中には、浮浪人もかなりたくさんいて、いろいろわるいことばかりするので、警察も急にいろいろのやかましい法令をつくり、ついで衛生上のことにもあれこれと手をつくし出した結果、恐水病をふせぐために、町中に、のら犬を歩かせないことにきめてしまいました。その手段として、警察では、ほろのついた、大きな野犬運ぱん用のはこ車をつくり、それを馬にひかせて、飼主のわからない犬を見つけると、片はしからつかまえてつんでいき、きまった撲殺場へもってって殺しました。
ほろ馬車のはこは、鉄のこうしがはまって、中に入れられた犬が見えるようにしてあります。ふとしてくび輪をつけわすれたりしていたために、野犬としてつかまえていかれた場合には、警察へいって罰金をおさめると、はこから出してわたしてくれるのでした。町の人たちの中には、このとりしまり法のために、たとえ野犬でも、いつも来なれていた犬がどんどんひっくくられていくので、恐水病のおそれよりもまえに、じつにひどいことをすると言って、警察へ悪感情をいだくものがずいぶんいました。
或日、そのほろ馬車の一つが、びっこの馬へびしびしむちを入れながら、でこぼこのしき石の上をがたがたと、肉屋のとおりへはいって来ました。
「やあ、来た来た、犬殺しの馬車が来た。」と、向いの人が往来でどなりました。肉屋は、
「どら。」と言って出て見ました。馬車のうしろには巡査が乗って、野犬はいないかと目を光らせています。
「だんな、うちの犬が二ひきとも見えないがだいじょうぶでしょうか。」と店のものが言いました。
「何。あいつは二ひきともきびんだからだいじょうぶだよ。」と言っているうちに、馬車は、十四、五間手前で、ぱたりととまりました。
「おや。」と思って見ていますと、巡査は、先に針金の輪のついた、へんな棒きれをもったまま、馬車を下りて、そこの横丁へはいっていきました。と、一分間もたたないうちに、巡査は、犬を一ぴきつかまえて引きずッて来ました。犬はきゃんきゃんなきなきていこうしましたが、くびに綱を引っかけられて、ぐんぐん引っぱられるのですからかないません。馬車使は、すばやく鉄ごうしの戸をあけました。犬はたちまちその中へなげ入れられ、綱をとかれてとじこめられてしまいました。
「あきれたね。」と言いながら、肉屋は馬車に近づきました。警官は馬車のうしろへ乗りました。馬車使はちょっととび下りて馬の頬革をしめなおしています。肉屋がのぞいて見ますと、中には二十ぴきばかりの犬がごろごろしています。まさか、うちの犬はいないだろうな、と、よく見ようとするとたんに、「わうわう。」と、かなしそうなうなり声を上げた犬がいます。肉屋は、おやッとびっくりしました。うちの犬がつかまっているのです。病犬もいます。二ひきともやられてしまったのです。馬車使は車台へあがりました。
「おいおい、ちょっとまった。」と、肉屋はまっ青になって、馬のくつわを引ッつかみながら、巡査に向って、
「もしもし、私んとこの犬を二ひきとも出して下さい。何という乱暴なことをするんだ。」と喰ってかかりました。
「どけよ。野犬なら仕方がないじゃないか。こら。」と言いながら、馬車使は、ぴしんとむちで肉屋をなぐり、馬にもぴしぴしむちをあてて、かけ出そうとしました。
「ちきしょう、人をぶちゃァがったな。」と言いながら、肉屋は、すとんと馬車使を引きずりおろしてつきはなし、馬の口をもって、むりやりに店先の方へまわすはずみに、馬は足をすべらして、ばたんとたおれかけました。
「何だ何だ。」
「どうしたんだ。」と、町中のものや通行人たちがどやどやかけつけて来ました。
「こいつらがおれんとこのあの犬を、二ひきともひっくくりゃァがったんだ。下りろ、きさま。」と肉屋は巡査の足をつかまえて、むりやりに引きずり下しました。人々はみんな、あの二ひきの犬の同情者であるのは言うまでもありません。みんなは、
「なぐれなぐれ。」と言って、巡査をとりかこみました。そのうちに、気の早い男が、大きな大おのをかかえて来て、がちゃん〳〵と馬車をこわしはじめました。巡査はみんなにつきとばされ、けりつけられて、よろよろしながら、そばの或店の中へにげこみました。その間に、またある一人が鉄の棒をもって来て、がちゃんがちゃんと馬車をたたきつけ、とうとうふたりで鉄ごうしをやぶってしまいました。中の犬たちはおおよろこびでとび出して、八方へにげていきました。肉屋の二ひきの犬は肉屋の足もとへとんで来て、くんくん言ってよろこびました。
こんなさわぎがあってから、二、三年の後です。ふたりは、やはり毎日一しょに出て来ましたが、そのうちに、もと病犬だった方は、だんだんに皮ふのつやがなくなり、のちには、あばら骨がかぞえられるほどやせて来て、食べものもろくに食べなくなり、店先へ出て来ても、ただ一日じゅう、しき石の上にごろりとなったきりで、ときには、何時間となく、こんこんと眠りつづけています。目も急にかすんで来たようです。肉屋はくびをかしげて考えました。
夕方になると、その犬は、もうひとりの犬について、よちよちと寝どころへかえっていきます。ところが或とき、犬は一ぴきだけ来て、そのやせた犬は一日すがたを見せない日がありました。出て来た方は、夕方になると、もらった肉のきれを食べないでくわえてかえりました。
「ふふん、とうとうまた寝ついてしまったな。」と言い言い、肉屋は、あとからついていって見ました。犬の寝場所は、もとのところは、家でもたちつまっておいたてられたと見えて、先とはちがった場末の、きたない空地にうつっていました。病犬は、そこにころがっている古材木の下にこごまって、苦しそうに腹でいきをしていました。
肉屋は、あくる日、大きなあきだるをもって来て、わらをどっさり入れて、小屋がわりにおいてやりました。そのあくる日は、どうしたものか、じょうぶな方の犬も出て来ません。肉屋はへんだとおもっていって見ますと、じょうぶな方の犬はたるのまえにすわって、中にいる病犬の見はりをしていました。
「おい、どうしたい。」と、そのくびをなでたのち、
「これこれ、おれだよ。おきないか、おい。」と言って、中の犬をよびました。しかし犬は、目もあけないで、ぐんなりしているので、肉屋はひきおこしてやろうと思って、手をのばして、からだにさわりましたが、いきなり、あッと言って手を引っこめました。犬は、もう死んでつめたくなっていたのです。
肉屋は、そこいらの片すみへ穴をほって、おお〳〵、かわいそうに〳〵と言い言い、死がいをうめてやり、その上へ土をもり上げました。もうひとつの犬は、かなしそうに、くんくんなきなきうろうろしていました。
その翌る日、肉屋は、のこった犬をその空地へかえさないようにして、すべてをわすれさせてやろうと思って、じぶんの家のうら手へきれいなわらをしいたはこをすえてやりました。しかし犬はどうしてもそこへ寝ないで、かえっていきます。ときには、もらった肉を、そのままくわえていくこともありました。へんだと思って、そのつぎの日についていって見ますと、きのうもってかえった肉は、そのままたるのまえにころがっていました。犬は、ときどきあの犬がなくなってしまったのをわすれて、ものを食べさせようと思ってはもってかえるものと見えます。店先へ来ている間も死んだ犬と同じ毛色の犬がとおりかかると、いそいでとび出して、じろじろ見ていますが、間ちがったとわかると、さもがっかりしたように、しおしおとひきかえして来ます。
犬はその後、だんだんにやせて元気がなくなって来ました。出て来ても、これまでのように、店の番もせず、何かなくしたものをさがすように、そこいらをまわって歩いたり、からになったような目つきをして、ものうそうに一つところを見つめていたりします。毛色も目立って灰色になり、皮ふがたるんで、だんだんにあばら骨まで見えて来ました。肉屋は、そのすべてが、みんなあの犬をうしなったかなしみから来ているのだと思うと、かわいそうでたまりませんでした。
その年の冬近くでした。犬はいよ〳〵よぼ〳〵におとろえてしまいました。或日、一日中ちっともすがたを見せないので、肉屋は夕方、れいの空地へ出かけて見ますと、犬は、たるの中で死んでいました。
肉屋は、その死がいをいつまでもなでつづけていましたが、間もなく、うちへかえって、シャベルとズックのきれとをもって来ました。そして、せんの犬の塚のとなりへ穴をほり、死がいをていねいにズックのきれでつつんで中へ入れ、ちゃんと土をもり上げました。そしてシャベルの土をおとしおとししていましたが、とうとうたまらなくなって、おんおん泣き出しました。
底本:「鈴木三重吉童話集」岩波文庫、岩波書店
1996(平成8)年11月18日第1刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集」文泉堂書店
1975(昭和50)年
初出:「赤い鳥」
1924(大正13)年1月
入力:鈴木厚司
校正:佳代子
2004年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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