防雪林
小林多喜二
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北海道に捧ぐ |
一
十月の末だつた。
その日、冷たい氷雨が石狩のだゞツ廣い平原に横なぐりに降つてゐた。
何處を見たつて、何んにもなかつた。電信柱の一列がどこまでも續いて行つて、マツチの棒をならべたやうになり、そしてそれが見えなくなつても、まだ平であり、何んにも眼に邪魔になるものがなかつた。所々箒のやうに立つてゐるポプラが雨と風をうけて、搖れてゐた。一面に雲が低く垂れ下つてきて、「妙に」薄暗くなつてゐた。烏が時々周章てたやうな飛び方をして、少しそれでも明るみの殘つてゐる地平線の方へ二、三羽もつれて飛んで行つた。
源吉は肩に大きな包みを負つて、三里ほど離れてゐる停車場のある町から歸つてきた。源吉たちの家は、この吹きツさらしの、平原に、二、三軒づゝ、二十軒ほど散らばつてゐた。それが村道に沿つて並んでゐたり、それから、ずツと畑の中にひツこんだりしてゐた。その中央にある小學校を除いては、みんなどの家もかやぶきだつた。屋根が變に、傾いたり、泥壁にはみんなひゞが入つたり、家の中は、外から一寸分らない程薄暗かつた。どの家にも申譯程位にしか窓が切り拔いてなかつた。家の後か、入口の向ひには馬小屋や牛小屋があつた。
農家の後からは心持ち土地が、石狩川の方へ傾斜して行つてゐた。そこは畑にはなつてゐたが、所々に、石塊が、赤土や砂と一緒にムキ出しにころがつてゐた。石狩川が年一囘──五月には必ずはんらんして、その時は、いつでもその邊は水で一杯になつたからだつた。だから、そこへは五月のはんらんが濟んでからでなくては、作物をつけなかつた。畑が盡きると、丈が膝迄位の草原だつた。そして、それが石狩川の堤に沿つて並んでゐる雜木林に續いてゐた。そこからすぐ、石狩川だつた。幅が廣くて底氣味の惡い程深く、幾つにも折れ曲つて、音もさせずに、水面の流れも見せずに、うね〳〵と流れてゐた。河の向ふは砂の堤になつてゐて、やつぱり野良が續いてゐた。こつち同樣のチヨコレートのやうな百姓家の頭が、地平線から浮かんでぼつ〳〵見えた。雄鷄が向ふでトキをつくると、こつちの鷄が、それに答へて、呼び交はすこともあつた。
源吉は何か考へこんで、むつしりして歸つてきた。通つてくるどの家も、焚火をしてゐるらしく、窓や入口やかやぶきの屋根のスキ間から煙が出てゐた。が、出た煙が雨のために眞直ぐ空に上れずに、横ひろがりになびいて、野面にすれ〴〵に廣がつて行つた。家の前を通ると、だしぬけに、牛のなく幅廣い聲がした。野良に放してある牛が口をもぐ〳〵動かしながら頭をあげて、彼の方を見た。源吉が、自分の家にくると、中がモヤ〳〵とけむつてゐた。母親が何か怒鳴つてゐるのが表へ聞えた。すると、弟の由がランプのホヤをもつてけむたさに眼をこすりながら、出て來た。眼の𢌞はりが汚く輪をつくつてゐた。
「えゝ、糞母!」惡態をついた。
源吉はだまつて裏の方へ𢌞つて行つた。
由は裂目が澤山入つて、ボロ〳〵にこぼれる泥壁に寄りかゝりながら、ランプのホヤを磨きにかゝつた。ホヤの端の方を掌で押へて、ハアーと息を吹きこんで、新聞紙の圓めたのを中に入れてやつて磨いた。それを何度も繰り返した。石油ツ臭い油煙が手についた。由は毎日々々のこのホヤ磨きが嫌で〳〵たまらなかつた。由がそれを磨きにかゝる迄には、母親のせきが何十邊とどならなければならなかつた。それから、由の頬を一度はなぐらなければならなかつた。
「えゝ、糞母。」由は、磨きながら、思ひ出して、獨言した。
「由、そつたらどこで、今迄なにしてるだ!」
「今いくよオ!」さう返事をした。「えゝ、糞ちゝ、」
母親はへつつひの前にしやがんで火をプウ〳〵吹いてゐた。髮の毛がモシヤ〳〵となつて、眼に煙が入る度に前掛でこすつた。薄暗い煙のなかでは、せきは人間ではない何か別な「生き物」が這ひつくばつてゐるやうに思はれた。へつつひの火でその顏の半面だけがめら〳〵光つて見えるのが、又なほ凄かつた。由が入つてくると、
「早ぐ、ランプばつけれ!」と云つた。
由は煙いのと、何時ものむしやくしやで、半分泣きながら上つて行つて、戸棚の上からランプを下した。涙や鼻水が後から後から出た。ランプの臺を振つてみると、石油が入つてゐなかつた。
「母、油ねえど。」
「阿呆、ねがつたら、隣りさ行つてくるべ、糞たれ。」
「じえんこ(錢)は?」
「兄がら貰つて行け。」
「──隣りの犬おつかねえでえ。」
由はランプの臺を持つたまゝ、母親の後にウロ〳〵して立つてゐた。
せきは臺所にあげてあるザルの米を、釜の中に入れた。
「行げたら、行げ。」
由は、なぐられると思つて外へ出た。
「兄──!」さう呼んでみた。
それから裏口に𢌞りながら、もう一度「兄──」と呼んだ。源吉は裏の入口の側で茶色のした網を直してゐた。きまつた間隔を置いておもりを網につけてゐた。
「兄、じえんこ──油ば貰つてくるんだ。」
源吉はだまつて、腰のポケツトから十錢一枚出して渡した。由は一寸立ち止つて、兄のしてゐることを見てゐた。
「兄、あのなあ道廳の人來てるツて、入江の房云つてたど。」
「何時。」
「さつき、學校でよ。」
「何處さ泊つてるんだ?」
「知らない。──」
「馬鹿。」源吉は一寸身體をゆすつた。
「房どこで、んだから、網かくしたツて云つてだど。──兄、こゝさ道廳の人でも來てみれ、これだど。」由は、後に手を𢌞はしてみせた。
「──馬鹿。──行け、行け!」
由が行つてしまふと、源吉は、獨りでにやりと笑つた。それから幅の廣い、厚い肩をゆすつて笑つた。
日が暮れ出すと、風が少し強くなつてきた。そして寒くなつてきた。一寸眼さへ上げれば、限りなく廣がつてゐる平原と、地平線が見えた。その廣大な平原一面が暗くなつて、折り重なつた雲がどん〳〵流れてゐた。
暗くなつてから、源吉は兩手で着物の前についたゴミを拂ひ落しながら家の中に入つてきた。由はランプの下に腹這ひになつて、二、三枚位しかくつついてゐない繪本の雜誌をあつちこつちひつくりかへして見てゐた。
「姉、ここば讀んでけれや。」
由がさう云つて、爐邊で足袋を刺してゐた姉の袖を引つ張つた。
「馬鹿!」姉は自分の指を口にもつて行つて、吸つた。「馬鹿、針ば手にさしてしまつたんでないか。」
「なあ、姉、この犬どうなるんだ。」
「姉に分らなえよ。」
「よオ、──」
「うるさいつて。」
「んだら、いたづらするど。」
源吉が上り端で足を洗ひながら、お文に、
「吉村の勝居たか?」ときいた。
お文は顏をあげて兄の方を見たが、一寸だまつた。「何しただ?」
源吉も次を云はなかつた。
「居だつたよ。」それからお文がさう云つた。
「んか……何んか云つてながつたか。」
「何んも。」
「何んも? ……今晩どこさも行くつて云つてなかつたべ。」
「知らない。」
源吉は上に上ると、爐邊に安坐をかいて坐つた。家の中は長い年の間の焚火のために、天井と云はず、羽目板と云はず、何處も眞黒になつて、テカ〳〵光つてゐた。天井からは長い煤がいくつも下つてゐて、それが火勢や、風で、フラ〳〵搖れてゐた。
臺所は土間になつて居り、それがすぐ馬小屋に續いてゐた。だから何時でも馬小屋の匂ひが家に直接に入つてきた。夏など、それが熟れて、ムン〳〵した。馬小屋の大きな蠅が、澤山かたまつて飛んで來た。──馬が時々ひくゝいなゝいた。羽目板に身體をすりつける音や、前足でゴツ〳〵と板をかく音がした。
家の中にはまんなかにたつた一つのランプが點つてゐた。そのランプ自身の影が、丸太で組んである天井の梁に映つてゐた。ランプが動く度に影がユラ〳〵搖れた。
母親のせきはテーブルを持ち出しながら、
「源、お前え何んか勝さんに用でもあるのか?」ときいた。
「何んも。」
「網の相手そんだら誰だ。」
「ん……誰でもえゝ。」
「道廳の役人が來てるツて聞いたで。えゝか。」
源吉は肩を一寸動かして、「役人か……」さう云つて笑つた。
「なア兄、この犬どうするんだ。」
由が今度は繪本を源吉の側にもつて行つた。「こんだこの犬が仇討をするんだべか。──」
「母、ドザ(紺で、絲で刺した着物)ば仕度してけれや。」
「よオ、兄、この犬きつと強えどう。隣の庄、この犬、狼んか弱いんだつてきかねえんだ。嘘だなあ、兄。」
「これで二ヶ月も三ヶ月も魚ば喰つたことねえべよ、母。──馬鹿にしてる!」源吉はこはい聲を出した。
「んだつて、オツかねえ眞似までして……。」
「馬鹿こけや!」
母親は獨言のやうに何かぶつ〳〵云つた。
「さあ、まんまくべ。」
母親は焚火の上にかけてある鍋から、菜葉の味噌汁を皆に盛つて出した。「ん、お文もやめにして、まんまだ。」
由は、兄の眞似をするのが好きだつた。なるべく大きく安坐をかき、それから肱を張つて、飯を食ふ──時々、兄の方を見ながら、自分の恰好を直した。
「なア、兄、犬と狼とどつちが強えんだ。犬だなあ。」
「だまつて、さつさとけづかれ。」
せきが、芋と小豆の交つた熱い粥をフウ〳〵吹きながら、叱つた。鼻水を何度も忙しくすゝり上げた。
由は一杯の粥を食つてしまふと、箸で茶碗をカン〳〵とたゝいてせきに出した。
「兄、芳ちやんから手紙が來てたよ。」
「ん。」
「こゝにゐた時の方がなつかしいつて、そんなこと書いてるんだよ。フンだものなア、何がこつたら所。」
お文は、本當にフンとしたやうな顏をした。
「又! ──んだつて本當かもしれねえべよ。」母が口を入れた。
「うそ。大嘘、こつたらどこの何處がえゝツてか。どこば見たつてなんもなくて、たゞ廣ろくて、隣の家さ行ぐつたつて、遠足みたえで、電氣も無えば、電信も無え、汽車まで見たことも無え──んで、みんな薄汚え恰好ばかりして、みんなごろつきで、……。」
「兄、犬の方強えでなア。」
「んでさ、都會は汚れてゐると、そんなことが分る度に、石狩川のほとりで、働いてた頃の、ことが思ひ出されるつて。」
「んだべさ。」
「何んが、んだべさだ。こつたら處で、馬の尻ばたゝいて、糞の臭ひにとツつかれて働いて──フンだよ。」
「なア、兄、お文この頃駄目だでア。」
せきが源吉の方を見て、云つた。
源吉はだまつてゐた。
「わしも札幌さ行きてえからつて、云つてやれば、來るどこでねえつて──そのくせ、自分であつたらに行きたがつたこと忘れてよ。」
外では、時々豆でもぶツつけるやうに、雨が横なぐりに當る音がした。その度にランプが搖れて、後の障子に大きくうつつてゐる皆の影をゆすつた。──延びたり、ちゞんだりした。
由は飯を食ひ終ると、焚火に、兩足を立てゝ、繪本を見た。小指の先程のチンポコを出したまゝだつた。
「兄、狼見たことあるか。」
「見たことねえ。」
「繪で見たべよ。」
「ん。」
「どつち強い。」
「強え方強えべよ。」
「いや〳〵、駄目──え。」
源吉は大きな聲を出して笑つた。
樹の根ツこをくべてある爐の火が、節の處に行つたせゐか、パチ〳〵となつて、火が爐の外へはねとんだ。
一つが由の「朝顏の莟みたいな」チンポコへとんだ。
「熱ツ々々……‼」
由は繪本をなげ飛ばすと、後へひつくりかへつて、着物をバタ〳〵とほろつた。
「ホラ、見ろ、そつたらもの向けてるから、火の神樣におこられたんだべ。馬鹿。」
「糞、ううーうん、〳〵、」
由が半分泣きさうにして、身體をゆすつた。
せきとお文は臺所に、ローソクを立てゝ、茶碗などを洗つた。そこに取りつけてある窓にプツ〳〵と雨が當つた。そして横にスウーと硝子の面を流れた。
「ひどくなるでア。」
お文も「兄、やめればえゝによ。」と云つた。
「俺アだぢ來た頃なんてみんな取りてえだけ秋味(鮭)ばとつたもんだ。夜、だまつてれば、キユ〳〵〳〵つて、秋味なア河面さ頭ば出して泣くの聞えたもんだ。」
お文がくすツと笑つた。
「ん、馬鹿。ほんたうだで。をかしイ世の中になつたもんだ。」
遠くで、牛がないた。すると、別な方でもないた。が、風の工合で、途中でそれが聞えなくなつた。
由は仰向けになつて、何んか歌のやうなものをうたつてゐたが、
「お母、いたこツて何んだ?」ときいた。「いたこつ來て、吉川のお父うばおろしてみたつけアなあ、お父、今死んで、火焚きばやつて苦しんでるんだつて云つたどよ。──いたこつて婆だべ。いたこ婆つて云つてたど。」
「ふんとか?」
「いたこ婆にやるんだつて、吉川で油揚ばこしらへてたど。」
「お稻荷樣だべ。」
「お稻荷樣つて狐だべ。」
「んだ。」
「勝とこの芳なあ犬ばつれて吉川さ遊びに行つたら、怒られたど。」
「んだべよ。」
「兄、狐、犬よんか弱いんだべ。」
源吉はだまつてゐた。
「吉川の母かなし〳〵ツて泣いてたど。眼ば眞赤にしてよ。」
お文は裏の納屋に提灯をつけて入つて行つた。入口のすぐ片隅に積んである俵の中へ手を入れて、馬鈴薯をとり出した。それを自分の前掛の中に入れた。鼠がガサ〳〵と奧の方へ走つて行つた。提灯の影が眞暗な物置の天井に、圓く動いた。
「ホラ、芋だ。」
お文は、歸つてきて、爐邊へ前掛から芋をあけた。
「芋か──くそ、うまぐねえで。」
由はそれを仰向けに寢ながら足先で、あつちこつちへ、ごろ〳〵させて、惡戲した。
「ん、この罰當り!」せきがその足を火箸でなぐつた。由は足をちゞめると、舌を出した。
「吉川でなんか、薩摩芋ばくつてたど。」
「今に、見てれ、その足腐つて行ぐから。」
源吉は大きく兩腕を平行線にグツと上にのばして、あくびをした。その影が障子で、丁度鬼のやうにうつつた。
「おツかねえ。」由が首をちゞめて、その方をみた。
源吉が振りかへつてみて、「なアんだ、馬鹿!」さう云つて、芋を二つ三つとると、爐の灰の中にいけた。
「由、あとで、燒けてから食へたえなんて云ふなよ。」
由はワザと別な方を見て、そのまゝ身體を横へごろりところがした。
お文はランプの下に縫ひかけの着物を持つてきた。それから自分の芋を、灰にいけた。
「寒くなつた。もう雪だべ。嫌だな、これからの北海道つて! 穴さ入つた熊みたいによ。半年以上もひと足だつて出られないんだ──嫌になる。」
「嫌だつてどうなるか、えゝ。」
「どうにもならないからよ。」
「んだら、だまツてるもんだ。」
「……」フンとしたやうに「默つてるさ──」
由は寢ころびながら、物差をもつて、それをしのらしたり、なんだりしてゐたが、それで今度は姉の身體に惡戲し出した。初め、お文はプン〳〵してゐたので分らなかつた。無意識に、惡戲された處へ手をやつた。それが由には面白かつた。何度もさうした。それから首筋に物差の端をつけた。お文は今度は氣付いて、
「これ!」と云つた。
もう一度やつた。そして、「やア、こゝに、姉の首にかたがついてるど。」と云つて、そこをつツついた。
お文はいきなりふり向くと、物差を力まかせにとりあげてしまつた。
爐邊に安坐をかいてゐた母親は、何時か頭を振つてゐた。ランプの光で、顏にはつきり陰がつくと、急に母親の年寄つたのが分つた。
「母みたえになれば、一番えゝ。」
お文は母の方を見て云つた。
ランプの焔の工合で家が明るくなつたり、暗くなつたりした。表の泥濘を草鞋をはいてペチヤ〳〵と通る足音が聞えた。
ねぢのゆるんだ時計が八時のところでゆつくり四つ打つた。由は爐に外ツ方を向けたまゝ眠つてしまつた。源吉は雨工合を見るために一寸表へ出てみた。
それから源吉は自分で仕度をした。お文は仕事をしながら、時々兄を見た。
「いゝのかい?」
が源吉はだまつてゐた。源吉はすつかり仕度が出來ると、網を背負つて家を出た。雨は降つてゐなかつた。然し暗い夜だつた。彼は何度も足を窪地に落して、不意を喰つた。そんな處は泥水がたまつてゐるので、その度に思ひツ切り泥をはねあげて、顏までかゝつた。空には星が出てゐた。遠くの方で雜木林か何かに風が當つてゐるやうな音が不氣味に絶えずしてゐた。どつちを見ても明り一つ見えなかつた。遙か東南に、地平線のあたりがかすかに極く小部分明るく思はれた。岩見澤だつた。
彼は歩きながら、自分のこれからしてのけようと思つてゐることを考へてゐた。源吉は何かに對して「畜生!」と獨りで云つた。彼は何べんもツバをはいた。じつとしてゐられない氣持だつた。そして、何んか、かう、自分の歩いてゐることが齒がゆくてたまらなかつた。「畜生!」道が曲つてゐた。
そこを曲ると、二町程先きに明りが見えた。小さい窓からのランプの明りだつた。と、七、八間後の草ムラが、急にザアーと鳴つた、かと思ふと、雨が降つてきた。忽ち一面、彼の前も後も横も雨の音で包まれてしまつた。小さい窓の明りのところだけ、四角に限つて、雨脚が見えた。源吉が、その家の側に行くと、暗がりで、急に、犬ののどをうならせてゐる聲をきいた。彼はひよいと思ひ出して、犬の名を、その方へ見當をつけて、ひくゝ呼んでみた。すると、それが止んで、足にものが當つた、犬が今度は彼の足にまつはりついて來たのだつた。彼は二、三度犬の名を云つた。
雨のふる音が少し薄くなつたと思ふと、だん〳〵やんできた。じつとしてゐると、その雨の音が、西の方からやんできて、今では、東の方に移つて行くのがはつきり分つた。源吉のところでは雨が全く止んでゐるのに、石狩川の方に雨が降つてゐる音がした。それが、又だん〳〵野面を渡つて、後から後からとふり止んでゆく音が、はつきり分つた。
源吉は裏口にまはると、「勝、勝」と呼んだ。
家の中で誰かゞ立ち上つて、土間の下駄をつゝかけながら、來る音を源吉は聞いた。戸をガタ〳〵させてゐたが、がらつと開いた。光がサツと外へ流れ出た。入口に立つてゐた源吉に、眞向に光が來た。
「源さんか。」
「ウン、行くか。」
「行く。一寸待つてくれ。」
「どうだ、」さう云つて、一寸聲をひそめて、「お父なんか云はねえか。」
「ううん。」勝はあいまいに返事をした。
源吉はニヤツと笑つて、鼻を動かした。今朝源吉は、恐ろしがつて、嫌がる勝に、無理々々承知をさしたのだつた。彼はそのことを思ふと、をかしかつた。
「んだら、早く用意すべし。」と云つた。
一寸經つて、二人は暗い道を歩いてゐた。
「どの邊でするんだ。」
「小一里のぼるだよ。せば北村と近くなるべ。んでなえと見付かつたどき、うるせえべよ。」
「道廳の役人が入つてるさうだど。」
「んだべよ、きつと。んだから、なほ面白いんだよ。」
「…………」
「道廳の小役人に見付かつてたまるもんけ。あえつ等だつて、おツかながつてるし、今頃眠むがつてるべ。」
源吉は大きな聲で笑つた。が、だだツ廣い平原はちつとも響き返へしもしないで、かへつて不氣味に消えた。
源吉は先に立つて、あまりものも云はずについてくる勝を、引きずツてでもゐるやうに、グン〳〵歩いてゐた。五分位歩いたとき、又雨が降つてきた。眞暗闇の廣漠々とした平原に雨がザアーと音をさして降つてゐるその最中を提灯もつけずに歩くのは、勝には、然し、矢張り氣持よくなかつた。
「嫌だなア。」
「うん?」源吉はふり向いて、雨の音に逆つて、きいた。
「あまりよくねえツて。」
「何が。」
勝はてれたやうに笑つた。
しばらくしてから、
「役人は何處に泊つてるんだ。」と、勝が自分の前を歩いてゆく、がつしりした肩をしてゐる源吉にきいた。
「北村だべよ。北村の宿屋だべよ。──お湯さ入つて、えゝ氣持で長がまつてるべ。こつから三里もあるもの、ワザ〳〵こつたら雨降りに、出掛けて來なべえ。」
「今朝、俺アのお母川さ行つたら、五、六疋秋味が背中ば見せて下つて行つたツて云つたで。」
「ンか、うめえ〳〵。」
それからしばらく二人ともだまつて歩いた。勝は、大股な源吉に、急ぎ足で追ひつくやうに歩いてゐた。
急に横で、牛が幅の廣い聲で、ないた。思ひがけないので二人ともギヨツとした。
「畜生、びつくりさせやがる。めんこくもねえ牛だ!」
すると、ずウと遠くで、別な牛が答へるやうになくのが聞えた。一軒の家が横手に見えた。其處を通り過ぎるとき、思ひ出したやうに勝が、
「芳のことをきいたか?」と、前に言葉をかけた。勝は、芳が札幌へ行く前の、芳と源吉の關係を知つてゐた。
「うん、」源吉は面白くないことを露骨に出して返事をした。「お文も困りもんだよ。」
「…………」
二人は、そこで頭でも鉢合せしたやうに、言葉を切つた。
「勝、お前餘計なこと、お文に云ふんだべ。」
「俺?」
「うん。お前えも、お文に負けなえからなあ。百姓嫌やになつたんだべよ。」
勝はまだ何も云はなかつた。
「札幌の街ば見てから、夢ばツかし見てるべ。」
「こつたらどん百姓が、えゝかげん嫌にならなかつたら阿呆だらう。」
「ふん。──俺んだら阿呆だなあ。」さう云ふと、勝の眼の前をふさいでゐる肩がゆるいで、笑ひ出した。「俺ア百姓ツ子だよ。」
勝は、何んかしら、ギヨツとした。が「自慢にもならない。」さうひくゝ云つた。
「勝、お前え、芳札幌で何してるかおべでるか。」
勝は云ひづらさうに「あんまりいゝ處でないさうだツてよ。」
「淫賣でもしてるべよ。」
雨が殆どやんで、泥濘を歩く二人の足音だけが耳についた。
「……淫賣になんかしたくねえよ。」
源吉は獨言のやうに云つた。後になつてゐる勝にはよつく聞えなかつた。
眞暗な野ツ原の夜道を三十分近くも歩いた。
「こゝから川岸に出るんだ。」
源吉は立ち止つて、本道から小さい横道に入つた。「もう直ぐだよ。」
畑と畑との間の細い道だつた。それで、兩側の雨にぬれてゐる草が歩く度に股引に當つた。そして股引が、すぐ氣持惡くぐぢよ〳〵になつてしまつた。
「さあ、氣をつけるべ。」源吉はさう云つて、背の網をゆすり上げた。「まさか、こつたら雨の日に役人もゐめえよ。」
「俺──」
「うん?」
「…………」
「何んだ?」源吉は振りかへつた。「うん?」
「つかまつたりしたらわやだど。」
「……なんだ、おつかなくでもなつたんか。」
「…………」
「どうした?」
「あんまりよくねえ。」
「馬鹿ツ、元氣出すんだ。」
一寸した林の中に二人は入つた。梢越しに、空が見えた。雲が黒い、細い枝の上の頂上をかすめて、飛んでゆくやうに見えた。枝がゆれて、互に打ち當るそれ〴〵の音が一緒になつて、變な凄味のあるうなりがしてゐた。そして半町も行かないうちに、心持眼下に、石狩川の川面が見えた。秋の末の、荒模樣の暗い夜に、その川面が、鈍い、然し、底氣味の惡い光をもつて流れてゐた。石狩川は晝でも、あまり氣持はよくなかつた。川の中央頃には二つも三つも、水が少しの音もたてずに渦を卷いてゐた。棒切れとか、紙屑のやうなものが流れてくる。すると、その渦卷のところで、グル〳〵行つたり來たりする、と、何かゞ川底にゐて、丁度ひつぱりこむやうに、その木屑などが渦卷の中に「吸ひこまれて」しまふ。それ等は晝でもいゝ氣持がしなかつた。勝は、今、眼下に、その音をせず、變んに底氣味のわるい石狩川を見た、身體が瞬間ブルンと顫はさつた。
「渡船場だべ、こゝ?」
勝は源吉との距離をつめて、きいた。
二人は川岸に下りた。源吉は岸につないである小舟に背の荷物を、どしんと投げてやつた。それから舟の端に腰をかけて、一寸の間、四圍を見てゐた。
「オイ、勝、お前なんか大きな聲で、唄ば歌へや。」源吉は煙草を出しながら云つた。
勝は、變に思つて、きゝかへした。
「なんでもえゝんだ。──まア、先に俺一つ歌ふかなア。──なんでも、大ツきな聲でだ。」
スツトトン、スツトトンと通はせてえ──と、
今更ら嫌やとは、それア無理よ、──だ、
嫌やなら、嫌ぢやと最初からア──と、
云えば、ストトンと通やせぬ──と、
スツトトン、スツトトン
源吉は、しやがれた聲を、突調子もなく大きく張りあげて歌つた。それがちつとも反響もしないで、ぶつきら棒に消えてしまつた。勝は、氣味わるく、むしろキヨトンとしてゐた。
「どうしたんだ?」
源吉は、急に笑ひ出した。大きな身體をゆすつて、無遠慮に大きく笑つた。
「うん?」
笑ひをやめない。
「オイ、よせよ。」
勝は顏をしかめて、哀願でもするやうに立つてゐた。
「ハヽヽヽヽヽヽ。」
それから、「もう一つ歌ふど。」と云つた。
鳥も通はぬう……うーう
(あ、聲が出ない。と云つて、)
花──ア櫻木イ──
人はア──ア武士──か。
源吉は途中で止すと、勝をうながして、今來た道をもどつた。半町位來て又林の中に入つた。それから、源吉は立ちどまると、
「しばらく、かうやつてるんだ。」と云つて、源吉は耳をすまして、四圍に氣をつけながらじつとしてゐた。二十分も二人はさうしてゐた。
「よし〳〵、大丈夫。」さう云ふと、「さあ、行くべ。」
又二人は舟のところまで下りて行つた。そして、「乘るべし。」と云つた。
源吉は勝をのせると、力を入れた、舟を川の眞ん中に押し出し、うまく、その瞬間ひよいと舟の後に飛びのつた。そのはずみに、舟のへようしが、いきり立つた馬の首のやうに立ち上つた。そして舟がぐら〳〵ツとゆれた。
「なんだか、糞も分らねよ。」勝は源吉が網の上に身體を下すとさう云つた。
「んか。なんでもねえよ。役人がゐるかと思つてちよいとやつてみたのさ。お前え、初めだから分らねんだ。みんなあやつて、すんだ。」
さう云つて、「これから、その代り、おとなしくするんだ。」
勝は身體が顫へてどうにもならなかつた。勝は内心源吉と一緒に來たことを後悔し出してゐた。石狩川には「主」がゐる、と云はれてゐた。舟もろとも、渦卷の中にグル〳〵卷きこまれる。さういふ感じがしてならなかつた。とにかく、晝、それはきつと馬鹿らしい話か知れないが、今、勝にはそんな事は問題でなかつた。事實、どういふ理由か分らないが、石狩川に入つて死んだ人は、決してその死體が上らなかつた。川は夜の海より氣味が惡かつた。今にも水から、「突如」何か出さうで、──出さうでならなかつた。舟は或ひはともが先きになつたり、めおしが先きになつたりして流されて行つた。舟底で、ペチヤ〳〵と水が當る音がした。兩側は黒く、高くなつてゐるところは切りとつた斷崖のやうになつてゐた。又、すぐずウと地平線が見える程低いところもあつた。川岸まで林が來てゐて、それが風をうけて、搖れてゐた。その下の水は眞暗になつて、そこを舟が通ると、今まで水のかすかな光の反射で見えてゐたお互の顏が見えなくなつた。
「オ、勝、あのなア、お前こつち側を見て、誰か人がゐたら知らせれ。」
さう云ふと、源吉はそれと反對側を見守つた。
十分程下つた。二日も雨が降つたので、水量が五寸位も高くなつて、流れも早くなつてゐた。やがて、石狩川が大きく、ゆるやかにカーブしてゐるところへ來た。すると、源吉は櫂をとりあげて、その可成り強い水流にさからつて、舟を岸につけようとした。勝も櫓をとると、さうした。二人が滿身の力で漕ぐ度に、小さい舟がグラツ〳〵とゆれた。そして、櫓が弓のやうにしのつた。それに力を入れ過ぎて、自分の力でよろめいたりした。勝は、二、三囘も不態に自分の身體の中心を失つた。舟は二人の力にも拘らず、カーブの眞中の方へ流され勝ちだつた。「ウーツ、ウーツ!」源吉は、まるで文字通り仁王立ちになつて、唸りながら、漕いだ。舟は、やがて二人の努力の千分の一位づゝ效いてきた。
「そらツ! やれツ!」
勝も身體中が汗ばんできた。
舟が、そして、川の中心を一間程切り拔けると、あとは今度は、その惰勢のように、樂になつた。
「これでいゝ、これでいゝ!」
舟が砂の岸に、ズシンと乘りあげたとき、源吉は反動でよろめきながら着物の袖で顏中の汗をふいた。
「仕事さかゝる前、ちよつと、上さ行つて、見張つてゝくれ。」さう源吉が、勝に云ふと、彼は、網の中を探がして、丁度野球に使ふバツトとそつくり同じやうな棍棒を出して渡した。勝は、それをめづらしさうに受取つて、苦笑した。
「凄いなア。」
それを、何か玩具のやうにいぢりながら、砂の崖になつてゐる處をよぢ上り始めた。源吉はその後から、網の端の、ロープをもつて上つた。二人は平地の上に頭だけを出して、まづ、一度用心深く見𢌞はしてみた。眞暗でよくは分らなかつた。風がずウと遠くを渡つてゐた。──そしてそれが移つてゆく工合が、はつきり分つた。空は地面と區別が出來なかつた。横なぐりに降つてゐる雨が、時々ひよいと眼の前に白く光つてみえた。
「こつたらどき役人くるけア。」
源吉は、勝を立たして置いて、前から、それと決めてゐた樹の幹に、そのロープを卷きつけた。幹は雨でヌラ〳〵してゐて、源吉が力一杯に結ぶと、樹皮がボロ〳〵にはげて落ちた。しつかり結び終ると、今度は、兩手を幹にかけて、足場をふみならして、力一杯にゆすつた。急に頭の上で葉がガサ〳〵となると、パラ〳〵音がして、雨滴が落ちてきた。一寸離れて立つてゐた勝が、その時、ギヨツとしたやうに、源吉の立つてゐる所へ走つてきた。源吉も思はず緊張して、向き直つた。
「何んだ。」源吉は聲をひそめて、然し、鋭くきいた。
「今の、なんだ。」勝は、周章てゝ、どもつて云つた。
「うん?」
「ガサ〳〵つての。」
源吉は、「何アーんで。」と云つて、笑つた。「んか、──何アんでえ。俺の方でびつくりしてしまつたで。」
「何んだ。びつくりしたで。」
「樹ば振つてみたんだ。水流が早えから、大丈夫かなと思つて、幹ばためしてみたんだ。そつたらこつたら、その棍棒糞も役に立たねべよ。」源吉は笑つた。
二人は又舟にもどつた。そして、網をすつかり順序よく舟に積み直すと、源吉は自分で舟を漕いで、勝に、網を下してもらふことにした。舟は眞直ぐ向ひ側に、力一杯に漕ぎ出された。が、さうすると、丁度結局舟は斜め下流に、カーブにかゝつて向ひ側につくことになるのだつた。
源吉は漕ぎながら、「さア、やつた。」と云つた。勝はドン〳〵網を水の中になげこんで行つた。向ひ側につくと、源吉は勝に手傳はせて網の端のロープを河には後向きに、肩にかけ、網が水流に流される力に反抗して、岸の樹に結びつけた。二人の力でも、二人とも時々ヨロ〳〵と後によろけたことさへあつた。それから舟を岸にあげた。
それで終つた。
二人は次の朝四時頃、こゝへ來ることにして、そこから畑道に出て、家に歸つた。
源吉が家に入つて行くと、ランプを消して皆寢てゐた。彼は手さぐりで、臺所に行つて、水瓶からひしやくのまゝ、ゴクリ〳〵と咽喉をならして水を二、三杯續け樣にのんだ。厩小屋で、馬が尾毛で、ピシリ〳〵と自分の身體をうつ音がした。
二
朝の四時は、夜の九時、十時と同じやうに眞暗だつた。それよりは青みを帶びて、何處か底寒かつた。
川は水が増して、その勢ひで、ロープを結びつけてゐた樹が、たわんで、ゆれてゐた。二人が家を出て、其處に着くまでは雨が止んでゐたのに、仕事にとりかゝつた頃から、又ひどく降り出してきた。
すぐに網をひきにかゝつた。その水流に逆つて網をひくことは、然し容易な仕事ではなかつた。二人は何度もヨロめいた。そのまんま河ん中に、ひつぱりこまれかゝつたりした。二人は息をハア〳〵させて、二十分位あとには、身體中汗みどれになつて、それが湯氣になつて出た。それでも、やうやくひかさつてきた。さう、少しでもなると、二人は調子よく元氣づいてきて、「エンヤ、エンヤ」の掛聲をかけてひき出した。それからはどん〳〵引かさつた。力がさう要らなくなつた。
源吉は、一寸身體を休めると、「勝、棍棒は、あるべ?」ときいた。勝が「うん」と云ふと源吉はエヘ、エヘ〳〵と笑つた。「たまらねえぞ、畜生、野郎。」
天井で、水桶でもひつくりかへしたやうに、無茶に、雨が地面をたゝきつけ、はねかへり、ゴン〳〵音をして流れてゐた。眞暗なのにも拘らず、雨のために、妙に白つぽい明るさがたゞよつてゐた。
と、「バヂヤ〳〵〳〵」と水をはね返す音が起つたが、すぐそれツ切りだつた。一寸すると、又「バヂヤ〳〵」と水がはねかへつた。それからすぐ續いて、今度はもつと大きく「バヂヤ〳〵」となつた。網がだん〳〵引き寄せられてきた。
それ引いた、それ引いた。
女子の××を、それ引いた、それ引いた。
それ引いた、それ引いた、
嬶の××を、それ引いた、それ引いた。
アヽ、エンヤこらさと、エンヤこらさと。
どツこいしよ、どつこいしよ。
源吉は息をきりながら、はやしをつけて、その大きな圖體ををどる時のやうに振つた。心持腰をまげて、内股を「鎌」にしながら、身體に拍子をとつた。それが源吉をまるで子供々々にさせた。網がだん〳〵狹められてくると、鮭がまるで板で水の面をたたきつけるやうな音をたてた。
「源、々、々!」勝が呼んだ。
「うむ?」
「あらツ! 見ろ。」
夜は眞暗だつたのだ。──黒い衣で眼かくしされてゐるやうに暗かつた。見ると、そのなかに、然し眼をひよいと疑ふ程に、鱗光が、ひらめいた。その次にすぐ、力強い、水をたゝきつける音が起つた。
「秋味だ!」源吉は大きな聲を出した。「でけえど、〳〵」だん〳〵水の「ばぢや〳〵」がひどくなつてきた。子供が水のかけ合ひでもしてゐるやうだつた。そのうちに、二、三匹は砂濱にはね上つたらしく、その肉付きの厚い身體を打ちつけながら、あばれた。源吉は勝に網をひかせて、自分は棍棒をもつて、川岸に降りた。網のそばまでくると、源吉は、心分量で十匹以上鮭が入つてゐることが分つた。いきなり横ツ面をたゝきつけるやうに、尾鰭ではじかれて、水と砂がとんできた。
「野郎!」
源吉は顏を自分の雨でぬれた袖でぬぐふと、棍棒をふりあげた。見當をつけて、鮭の鼻ツぱしをなぐりつけた。
キユツン! といふと、尾鰭を空にむけたまゝ、身をのばした。そのまゝ一寸さうしてゐた。が、尾鰭が下つて行つた。そして全くぐつたりしたやうに、尾鰭が下へつくと、ピク〳〵と身體が二、三度動いた。そしてそれからもう動かなかつた。
源吉は、勝を呼んだ。勝が來たとき、源吉はものも云はずに、もう一匹の鼻へ一撃を加へた。勝はギヨツとして立ちすくんだ。源吉は、息がつまつた笑ひ方をした。源吉は一匹、一匹棍棒でなぐりつけて行つた。勝はそれをすぐえら(鰓)に手をかけて引つ張つて、舟にのせてあつた石油箱に入れた。ひつぱる度にピクツ〳〵と身體を動かすのや、まだ息だけはしてゐるらしく、鰓だけが動いてゐるのがあつた。
源吉はさうやつてゐるうちに、妙に強暴な氣持になつてゐた。彼は一匹々々、「野郎」「畜生」「野郎」「畜生」と、唇をかんだり、齒をかんだりしながら、さうした。變に顏の筋肉が引きつつて、硬ばつたりした。そして氣が狂つたやうに、滅多打ちをした。
さうかと思ふと、普段から、「野郎奴」と思つてゐたものの名を一々云ひながら、なぐりつけて行つた。そのことが、又、彼を不思議なほどにひきずつて行つた。
ひよいとすると、生温いのが、顏にとんでくることがあつた。顏につくと、すぐねつとりとして、氣味が惡かつた。血だつた。源吉は一匹なぐり殺す度に、一匹、二匹と數へてゐた。七匹、八匹──となつて行く度に、だん〳〵大きな魚のはね返る音が、少なくなつて行つた。十匹まで數へて行くと、源吉のところから少し離れてゐたところで、一匹はねかへす音がしただけだつた。源吉はその方へ行かうとして、鮭のヌラ〳〵した身體をふんだ。思はず、源吉でさへ、ひやりとした。深夜に、鐵道で、轢死人でもふみつけるやうな氣がした。「十一匹──と。」源吉はさう云つて、耳をすましてみた。もう音がしなかつた。急に雨の音だけ源吉の耳についた。「十一匹か」と思つた。
そして、「もう終りだ。十一匹。」と勝に云つた。
勝はそれを二つの石油箱に入れると、背負へるやうにした。
「網と舟はどうするだ?」
「舟か?──こゝさあげておくさ。朝になつたら、モーター通るべよ、そのどき引張つて行つてくれるだ。網なんて、俺しよつてえくべ。」
「冗談でない。水さ入つたら、とつても重くて。」
「何、こつたらもの!」
*
二人は、畑道に出た、源吉はこんなに澤山とれるとは思つてもゐなかつただけ、子供のやうに上機嫌でゐた。が、勝はビク〳〵してゐた。この歸り道で、もし、出合頭に役人に會はないか、そのことで、勝の心は、後首でもひつつかまれてゐるやうだつた。何處もまだ〳〵暗かつた。だしぬけに牛が、すぐ側の眞闇から起つたとき、勝は、聲を出すところだつた。
前から提灯が見えた。
「源、提灯。」勝は後から源吉に言葉をかけた。
「うん。」源吉は、すぐ道を外れて、畑の中に入つて行つた。十間程道から離れると、立ち止つた。二人はさうやつて提灯を行き過ごさした。じつと見てゐると、何處を見たつて一樣に眞暗な、ところが、提灯の動いてくる、火のとゞく一部分だけが見えた。草藪がちらつと光つたと思ふと、すぐ、道の兩側の畑の一部が見えたり、道の水たまりが見えたり、提灯がゆれると、その見える處が左に或ひは右に廣くなつたり、狹くなつたりした。
行き過ぎると、二人は又道に出た。
「役人なんて、提灯ばつけてくるけア。」と源吉が笑つた。
「んだら、なほおつかねべよ。鼻先さぶつつかるまで、分らねえでないか。」
「んだら、こら。」さう云つて、身體を半分後にねぢ曲げて、勝の鼻先に、さつきの棍棒をつき出した。「これよ。」
勝は、その棍棒から血なまぐさい臭ひがその時來たのを感じた、と同時に、ギヨツとした。
「馬鹿な!」勝は自分でもをかしいほどどもつて云つた。
「この村で、これで三ヶ月も一疋の魚ば喰つたことねえんだど。こつたら話つてあるか。後さ行つて、川ば見てれば、秋味の野郎、背中ば出して、泳いでるのに、三ヶ月も魚ば喰はねえつてあるか。糞ツたれ。そつたら分らねえ話あるか。それもよ、見ろ、下さ行けば、漁場の金持の野郎ども、たんまりとりやがるんだ。鑑札もくそもあるけア。」
勝はだまつてゐた。
源吉はさういふ事になると、心の中から、ヂリ〳〵と苛立つてくる不思議な怒りを感じた。こんな時役人にでも會つたら、彼は、鮭殺しに使つた棍棒をきつと、そいつの腦天にたゝきつけたかも知れない。
「俺、すきこのんで、こつたら事すると思つたら、大間違ひだで!」
勝は源吉には變に、「底恐ろしさ」があるのを知つてゐたので、それを思つて、恐ろしくなつた。役人に會はないでくれゝばいゝと思つた。それは、役人に會へば、源吉がきつと、──本當に、きつと──役人を打ツ殺す、と思つたからだつた。
勝は源吉のことで知つてゐることがあつた、それが今思はれた。餘程前、源吉の父親が内地からはる〴〵この熊の出る北海道に渡つて來て以來、身體を土の上にえびのやうにまげて働きに働きつくしたお蔭で、やうやく一人前の土地になつた、──その土地をある金持のために押へられたことがあつた。その日になり、どうしても駄目で、その金持の手に渡さなければならなかつた。父はがつくりして、頭が痛いと云つてゐた。
金持や役人などが二、三人どし〳〵入つてくると、父親に、ある書面に印を押さした。父親はまるで、ぼんやりして、印をとりに奧の間に入つて行くのに、その障子の前で、何かものでも忘れたやうにウロ〳〵した。
丁度父親が印を押した時だつた。その書面の上に、身體をまげて、その方にばかり氣をとられてゐた金持が、うむツ! と云つて、後へふんぞりかへつた。皆はびつくりして、はね上つた。と、その時十一、二であつた源吉が、金持の足にだきつきながら、その毛のない脛にかじりついてゐた、のを皆は見た。身體をひきつけのやうに震はして、眼の色をかへながら、源吉が喰らひついてゐた。父親や役人が吃驚して、いくら離れさせようとしても、離れなかつた。大きな男の金持は、ワナにかゝつた兎のやうに、身體をごろ〳〵のたうつた。大聲をあげて泣きわめいた──。
それまで──その日まで、源吉は一言も、畑のことについては云ひもしないし、父親が心配してゐるときでも、別に變つたことがなかつた。たゞ、かへつて何時もよりは無口に、おとなしくなつてゐた。それが、さうしたのだつた! この事件には隨分尾鰭がついて、部落内にひろまつた。勝もそれをきいた。
源吉は何か事件があつても、じつとしてゐた。他の者なら、それについて何か云つたり、云ひあつたりする。源吉にはそれがなかつた。そして他のもの等が、その癖、結局は何もせず、ワイ〳〵してゐるとき、ノソ〳〵と出掛けて行つて、獨りで、とてつもない大きなことを仕出かした。歸つてきて、しかも、そのまゝ、そのことは一ツ言も云はずに、むつしりしてゐた──かういふことがいくらもあつた。ウスのろだから、さうではなくて、何か、深い、しつかりしたのがあるので、さうなのだと、勝には思はれた。
今、勝は、だから若し、源吉が役人と、ひよつこり會つたとしたら、勝はすぐ昔金持の脛にかぶりついた源吉であることを考へ、源吉が、あの棍棒で、てつきり、やらかすとしか思はれなかつた。それがまるで、「恐怖」のさそりみたいに勝の心にかぶりついてしまつた。
二人はだまつて歩いた。ぬかる道を歩く足音だけがピチヤ〳〵〳〵と續いた。それが時々、くぼみに足を落して、身體を前のめりにのめらせたとき、亂れるだけだつた。さうしながら、勝は(勿論源吉も)前の方に氣を張つてゐた。勝が自分の家に來たとき、身體から急に力が拔けて、ヘナ〳〵になる程、氣を使つてゐたことを知つた。「助かつた」と思つた。
「一年振りだべ。ほら、お母ば喜ばせてやれよ。」
源吉はさう云ふと、もう勝には見えなかつた。足音だけが暗闇でし、それが、一寸聞えてゐたが、ぽつちり消えてしまつた。草原のある路を曲つたらしかつた。
それから、勝が裏口にまはつた。裏口のすぐ側にある納屋に、自分の荷物をおろしてゐると、誰かぬかる道を歩いてくる足音をきいた。勝は、自分の身體が丸太棒のやうに、瞬間、なつたのを感じた。
「勝。」──源吉だつた。
勝は、分つても、然し、すぐに口に言葉が出なかつた。「──源吉──か。」
「うん」さう云ふと、のそりと大きな身體が、源吉──か、と云つた言葉をたぐつて、寄つてきた。
「あのなア、朝になつたら、お前え、こつから川岸の家まで、一匹づゝ配るんだど。さうせ。誰も食はねえでるんだから。──買つて來たツて云へば、それでえゝ。俺の方は石田の方まで分けるよ。當り前の事だんだ! なあ。」
「うん。」
「分つたべ、んだら、行ぐど。」
そして歸つて行つた。
勝には、何か、かう力強い、一つ〳〵どつしりした足音であるやうに思はれ、源吉のもどつて行くのを、じつと聞いてゐた。
三
雪が今にも來る、さういふ天氣と思はれたのが、上つた。
秋の終りの、空が高く晴れた氣持のいゝ日が、それから續いた。
畑も、草原も、稻村も、林も、西の方だけに、遠くに見える低い山脈も、皆狐色になつてしまつてゐた。それが、澄んだ青空にくつきり對照されて、涯もなく廣がつてゐるのを見て、百姓たちは何んだか、目新しい、急に見せられたものゝやうに思つた。
今度は本當にくる冬のために、村の人達が畑に出て仕度をし始めた。雜穀を背負つて、停車場のある町まで出て、それからその近邊をふれて賣つて歩くために、娘達が四、五人朝早く荷馬車に乘つて出掛けて行つた。お文もそれに加はつた。キヤツ〳〵と馬車の上で騷ぎながら、農家の前にくる毎に、一軒々々外から言葉をかけた。その女達は暗くなつてから、腰卷や襦袢の布などを買つてもどつてきた。いゝ聲で、何人もで、歌をうたつてくるので、それとすぐ、家の中にゐる人には、
「あ、今歸つてきたとこだなア」と分つた。
停車場のある町から、荒物屋の小僧がよく、田舍道を自轉車に乘つてやつてきた。畑で働いてゐる百姓達は、その度に腰をのばして、見た。小僧は時々言葉をかけて行つた。
漬物の仕度をする女達は石狩川の堤を下りて行つて、拔いて來たすぐの土のついた大根を、繩ツ切れでこしらへたたはしでごし〳〵こすつて洗つた。そこは、河の曲り目などで、水流の關係で、砂洲になつてゐた。堤の上で働いてゐる百姓に、そこから、色々の女の歌が聞えてきた。
山方面に出來た農産物、──主に、青豌豆など──を運ぶために、發動機船が、うるさく音をバタ〳〵たてゝ流れに逆つて河を上つて行つた。子供達は、その音が、遠くから少しでも聞えると、どん〳〵川岸の道を走つた。そして、川岸の堤に腰をかけて、足をブラ〳〵させながら、發動機船の通るのを待つてゐた。子供達は天氣さへよければ、いつでもそれをした。發動機は「上り」だと、音ばかりして中々見えなかつた。然し河が曲りくねつてゐるので、かへつて思ひがけなく、ひよツこり現はれることがあつた。子供達が、喜んで、手をふつて、「萬歳」などゝ云つた。と、船から、青い、油じみた服を着た人が、時々帽子を振つた。子供達が、然し、いくら萬歳などゝ呼んでも、船から誰も相手をしてくれないと、彼等は、つまらなさうに、だまつて、その後を見送つてゐることもあつた。發動機は荷物を積んだハシケを引張つてゐる時は、シキリなしにバタ〳〵やりながら、その度に身體をエンサ〳〵といふ風にゆすつて、進んでゐるとも分らない程の早さで、子供達の前を通つて行つた。「あら、モーター、汗かいて、ハアハア云つてる。」──子供達がさう云つた。
由が隣りに坐つてゐる仲間の手をつかんで、自分の心臟にあてさせ、「分るべ。ドキ〳〵つて云つてるべ。」と云つた。「あのモーターの、バタ〳〵ツていふの、人間のこれど同んじだつて、うちの姉云つてたど。」
皆は「んか」「んか」と云つて、てんでに今度は自分の胸に手をあてゝ見た。そして「んだ。」「んだ。」と云つた。
發動機船が通り過ぎると、子供達は、畑にゐる親達に、手傳ふために、てんでに走つて行つた。
二、三日して、小學校に、町からワザ〳〵呼んだ坊さんの説教があつた。それは、この一帶の地面をもつてゐる親方が、百姓の精神修養のために、一年に二度必ずそれをやつた。年寄つた百姓達はそれを待つてゐた。そして、かういふ事をしてくれる地主を、有難い方だ、と云つて、喜んでゐた。地主は、その度に若い娘にも「必ず」出るやうにと云つた。だから、若い男もそれに引かれて行くこともあつた。
その日になると、何十年といふ百姓仕事で、風呂敷のやうに皺くちやになつた、曲つた錆釘のやうな年寄が、朝から、各〻誘ひ合つて出掛けて行つた。表へ小便にも行けない老婆も、行かなければならないものだとしてゐた。七つ、八つの小娘や、十七、八の女が手をひいてやつた。それで眞黒い顏に、不似合に綺麗な赤の目立つ着物を着た人達が、畑と畑の道路に見えた。
源吉の母親は、自分の夫が死んでからは、説教は決して缺かさなくなつた。娘のお文をも、その度に、連れて行きたがつた。が、お文は相手にしなかつた。「罰當り奴」と、母が云つた。
説教が始まる頃、學校の、机や椅子をとり除けた教室が一杯になつた。集つたどの百姓も長い苦しい生活でどこか、無理矢理にひし曲げられたところがあつた。──どこか片輪だつた。年寄は、土から出てきた蟇のやうだつた。皆、久し振りで顏を合はせるものばかりだつた。同じ處にゐてさう會ふことがなかつた。色々な話が出た。煙具を出して、煙草を喫ふものもあつた。一緒に來てゐる孫達がお互にいたづらをし合つたり、年寄の圓い背を跳ね越して騷いでゐた。變に甘ずつぱい空氣で、教室がムンとした。
坊さんは、こゝから四里ほどある村(それはこの東村よりもつと村らしい村だつた。)から來ることになつてゐた。坊さんは衣を着たまゝ自轉車に乘つてきたり、箱のついた荷馬車に、座布團をしいて、それに乘つてくる事もあつた。今度は、雨が上つたばかりなので荷馬車で來た。眼のひつこんだ、眉の濃い、そのくせ頭がてらりと禿げた、背の低い四十を越した男だつた。ザラ〳〵した聲で、大聲で説教をした。説教をしながら、たえず落着きなく、そのひつこんだ眼でギロ〳〵、あたりを見𢌞はす癖があつた。──その、この前來た坊さんと同じ坊さんだつた。
村の百姓達は、坊さんの云ふ一言々々に、「南無阿彌陀」を云つて、ガサ〳〵した厚い、ひびのよつてゐる掌でじゆずをならした。
「何事も阿彌陀樣のお心ぢや。──何事も阿彌陀樣のお心ぢや。それを忘れてはなりませぬぞ、いゝですか。」
「……決して不平を起してはなりません、さうおしやか樣はおつしやいましたぢや。何事もあみだ樣のお心ぢや。現世に於いて──この世の中に於いてぢや、苦しんだものは、あみだ樣のお側に參つたとき、始めて大極樂を得ることが出來るのだ。あの世に行つて、ちやんと、蓮華の上に坐つて、「なむあみだぶつ」と、心から云ふことが出來るのぢや。何事も不平を起してはなりませぬぢや。」
坊さんは、物慣れた調子で、云つた。百姓達は、これ迄何度もその文句はきいてきてゐた。が、何度きいても、有難い言葉だ、と思つてゐた。そして今更のやうに頭をさげ、「南無阿彌陀」をくりかへした。
年寄つた百姓達は、今まで生きて來た長い苦しかつた生涯をふりかへつてみた。そして自分は、不平を起さなかつたといふ事が分ると、ホツとした。さういふ苦しみを堪へてきた、それで、やがてあの世に行けば、あみだ樣のお側に行くことが出來る、年寄つた百姓はそのことより外に何んにも思はなかつた。何んだつて、この世の中の事は我慢しなければならない、と思つた。坊さんは又、お釋迦樣の難行苦行のことを持つてきて、それを丁度百姓のつらい一生にあてはめて云つた。それは百姓達を心から感激させた。
坊さんはこの説教を終へると、一番信心深い家へ泊めてもらつて、今度は一軒々々𢌞つて、説教をして歩いた。年寄のゐる百姓家では、足袋の切れたのを買はないで間に合はせても、坊さんを呼んだ。若しも、それが出來なかつたら、「後生」が惡くなるのではないか、と思つた。それは一番恐ろしいことだつた──百姓は今までこの長い間一息もしないで働かせられてきた、これ以上、死んでからも亦働かなければならない、そんなことであつたら、たまらないと思つた。百姓はどの百姓も多かれ少なかれ、あんまり働かなければならないこの世の中に、イヤ氣がさしてゐた。それから、何より、逃れたかつた。百姓にとつて、その事は足袋や、味噌どころではなかつた。百姓は、はつきりは考へてゐなくても、心の何處かで、何時も「來世」を思つてゐた。
源吉の母親は、坊さんが來るといふ日、朝から何か臺所でこしらへてゐた。そして坊さんが來ると、それを出した。
源吉の母親は、氣候が寒くなると腰や、足首などが痛んできた。長い間の、度を過ぎた働きが、だん〳〵身體にこたへてきたのだつた。母親は始終いやがる由に肩や腰をもませてゐた。坊さんは仔細らしく、お經を口早に、──うそぶくやうに唱へると、數珠をザラ〳〵とやつて、せきの肩や、腰などを、それでこすつたり、撫でたりした。そして、それはどの百姓家でもさうだつた。頑丈さうに見えても、百姓は大抵きつと、夜など、腰がやんできたり、肩がこつたりして眠れないで苦しんだ。だから、坊さんは一軒々々𢌞つて歩くと、その方でも隨分金になつた。
坊さんは二日ゐて、一軒々々𢌞り切つてしまふと歸つて行つた。餘程金を懷に入れてゐた。
源吉が畑から歸つてくるとき、その坊さんに會つた。坊さんはどこかこすい、商賣人らしく、一寸あいさつをした。が、源吉はムツとしたまゝ、だまつてゐた。それから少し來ると校長に會つた。
小學校の校長は、三十七、八の、何處か人好きのしない、澁面の男だつた。校長でもあり、訓導でもあり、小使でもあつた。教室は二十程机をならべたのが一室しかなかつた。一年から六年生迄の男の子も女の子も、そこに一緒だつた。教室には地圖もかゝつてゐたし、理科用の標本の入つてゐる戸棚もあつたし、(その中には剥製の烏が一羽ゐた。)白い鍵のはげたオルガンが一臺隅つこに寄せてあつた。校長は坊主を一番嫌つた。この先生がどうしてこの村へ來たか誰も知つてゐなかつた。そして又澁顏をして人好きが惡かつたが、「偉い人」だ、さういふので、尊敬されてゐた。市の小學校で校長と喧嘩したゝめに、こんな處へ來たのだとも云はれていた。先生の室──それは、その教室から廊下を隔てゝすぐ續いてゐた──には、澤山本が積まさつてゐた。
源吉は、先生に、「坊主歸りました。」と云つた。先生は顏をふむ! といふ風に動かして、「さうか、肥溜の中へでも、つまみ込んでしまへばよかつたのに。あれが村に來る度に、百姓がだん〳〵半可臭くなつて、頓馬になつてゆくんだ。──畜生。」と云つた。
*
この村のお祭りが、丁度、このいゝお天氣にかゝつた。
こんな事があれば、大抵先きに立つてやることに、決まつてゐる〼」、屋号を示す記号、47-9]の菊や、丸山のオンコなどが、神社の前に「奉納」の縱に長い、大きな旗を建て、子供を手傳はせて、がたぴしする舞臺を作つた。新しい半纏を着た、頭の前だけを一寸のばして油をつけたのが、自轉車で、幔幕を借りてきたり、停車場のある町から色々の道具を運んだりして、やつぱりお祭りらしくとゝのつた。朝のうちから、新らしい着物を着た子供が四、五人、若者が仕度をしてゐる側で遊んでゐた。神社は學校のそばの、野ツ原で、一寸した雜木林で三方だけ圍まれてゐた。晩になれば、ゴム風船などを賣る商人が荷物にした商品を背負つてやつてくることになつてゐるし、法界節屋の連中も停車場のある町から來て、その舞臺で、安來節や手踊りなどをすることになつてゐた。
お文と母親は、お祭りの御馳走をこしらへた。百姓はどんな慘めな暮しをしてゐても、かういふことはしなければならない、さう何時も考へてゐた。
源吉は、焚火をしてゐる大きな爐のわきに寢ころびながら、足で、由にいたづらをしてゐた。
「ホラ!」源吉の足にしがみついてゐた由が、一寸すると、ころばされた。
由は、負けまい負けまいと、自分の足に力を入れて突かゝつてくる。が、さうせば、さうするだけ、調子よく、すてんと身體を投げ出された。
「もツと!」
「糞ツ! 兄、足さかじるど。」
「馬鹿。」
母親が、薄暗い臺所から、「由、祭りさ行げ!」と怒鳴つた。
源吉は、面白がつて、由を足であやしてゐるうちに、足が留守になり勝ちになつて行つた。由が、それで、自分が勝ちさうになつたので、一層勢ひづいてきた。源吉は、昨年のお祭りのときを思ひ出した。自分の想つてゐたお芳が、札幌へ無斷で行つてしまつた晩だつたことを思つた。源吉は、そのことがあつてから、もつと、むつしりしてきた。
「やア──、兄、まけた、負けた!」
由が源吉の足をとう〳〵倒して、疊につけてしまつた。
源吉はひよいと自分にかへると、思はず足に力を入れ過ぎて跳ねかへした。はずみを食つて由はとばされて、爐邊につんである木に頭を打つけた。由は、ことさらに大きな聲を出して泣き出した。「兄、ずるいど、兄ずるい、ずるい!」
源吉は苦笑しながら、大きな掌で、由の頭をなでゝやつた。
「堅え頭してる。こゝか? ──えゝか、おまじないしてやるど。フエントカフエカシコラミヨノダイミヨウジン。」源吉は何度もそれを繰りかへして、由の頭をゴス〳〵なでた。始め、じいとしてゐた由が、惡戲だと、それが分ると、またワン〳〵と泣き出した。源吉は一つかみに由の頭をつかむと、
「こら、こら!」と、振つた。
「大きな態して、そつたら子と、さわいでればえゝ!」母親が、叫んだ。
由は、今度は泣きながら、
「兄、錢(ぜんこ)けれ、錢けれ。」と云ひだした。「錢ければ、えゝ。錢ければえゝ。」
「くそ、ずるい奴だ。──錢もらへば直るツてか?」
「錢けれ、ぜんこけれ。」
由は、勢ひづいて、足をばた〳〵させて、それを云ひ出した。
「ホオーオ、勝えの健なんて十錢も貰つてるど、石だつてよ。──なア、兄、錢けれ、錢けれ、錢(ぜんこ)よ、よオー。」
源吉は、それには、今度耳もかさずにじつとした。源吉は、お芳が札幌へ行つたと聞かされたとき、本當のところ、別な意味からも「淋しく」された事を思ひ出した。村ではとてもやつて行けないために、女達が都會へ出て下女になつたり、女工になつたり、──畠で働かなければならない男でさへ出て行つた。だん〳〵村の人がゐなくなる、さう思つた。源吉には、イヤな氣がした。
「ぜんこ、ぜんこ! よオー」
由は源吉の身體をゆすり出した。源吉はだまつて、身體を、急にひねつた。由は、他愛もなく、轉がつた。なほ激しく泣き出した。
「うんと騷げ、この糞たれ!」母親が、たまりかねたやうに又怒鳴つた。
源吉は、何んか、かう向ツ腹が不愉快に、ヂリ〳〵と立つてくるのを感じてゐた。
外へ、子供が二人程由を呼びに來た。
「ホラ、由、呼んでるど。」
由は、今迄泣いてゐたのを急にやめると、袖で顏中をぬぐつて、變な、附けたりの、極りの惡い笑ひ顏をして、外へ出て行つた。
源吉は仰向けに、煤けて黒光りに光つてゐる天井を、ぼんやり見ながら、今晩は行くまい、さう考へてゐた。
晩方になつて、表をガヤ〳〵七、八人の人が通つて行つた。停車場のある町から來た手踊りの連中だつた。紺のゴワ〳〵した大きな風呂敷包みを背負つた、色眼鏡をかけた男や、白粉をぬつた頬骨の出てゐる痩せた男、三味線を肩から釣つた、これも色眼鏡をかけた女、それにコテ〳〵と白粉をつけた十七、八の娘と七つ八つの女の子が三人程ゐた。その後から、村の子供達が四、五人ついてゐた。
源吉は寢ころんだまゝぼんやりしてゐた。そのすぐ側で、お文が所々裏の赤いのが剥げてゐる鏡に向つて坐つてゐた。何處から持つてきたのか、白粉の瓶を、自分の掌に逆さに振つては、顏につけてゐた。源吉はさつきから一口も、誰にも、云はないでゐた。
「今度どんな手踊りがあるんだらう?」お文は鏡から眼を外さずに云つた。
源吉は聞いてゐなかつたのか、だまつてゐた。お文には、別に返事のいることでなかつた。自分で何か云ひながら、そのくせ鏡に全部氣を取られてゐた。返事を待つてもゐなかつたので、源吉のことには氣付かなかつた。
「石田の録さんが、浪花節をやるつて……。」
それから、一寸して、
「録さんの浪花節てどうだらう。きつとをかしいよ。」と云つた。
「お母アどこさ行つたべ──」
源吉はやつぱり、天井ばかり見てゐた。足を立てゝゐた。片方の足の上に上げてゐた足の指先だけを時々、動かした。無心で動かしてゐた。
「妾、お祭りさ行くツて云ふのに、お母どうしたべ──本當に。」
それでも自分は鏡から顏を離さなかつた。
「兄、お祭りさ行くべ?」
源吉は頭をユル〳〵𢌞はしてお文の方を見た。お文は、鏡に顏がくつつきさうになる程に突き出して、鼻の側に出てゐる何かを、一生懸命しぼり取らうとしてゐた。口を變にゆがめて。源吉は頭をもとにもどすと、それにも、何んにも云はなかつた。
「困つた。」
今度はお文が手拭で顏をふき出した。
「春ちやんば誘つて行くんだけど、お母ア居なかつたら出られねえべよ。──兄、お祭りさ行くべ?」
初めて顏を鏡から離して、源吉の方を見て、さう云つた。裏で、久し振りに立てたお湯に入つた後なので、お文の顏は、スベ〳〵と、白く、綺麗になつてゐた。源吉がお文の顏を見ると、お文は一寸顏を赤くして、「どうする?」と、工合惡さうに云つた。
源吉は又頭をもとに返して、別な方にものを云ふやうに、初めて、
「行つてもえゝ。」
お文は奧に入つて行つた。そして着物を着かへると外へ出て行つた。
「フン、畜生!」
源吉は立ち上つた。が、何をするためか、自分で分らなかつた。窓から外を見た。が、眞暗で、(それに内が明るいので)外はちつとも見えなかつた。臺所へ行つて、源吉は水を、二杯ほど飮んだ。爐邊に歸つてきたが、坐るのか、どうか、源吉は考へつかなかつた。源吉は、そこにしばらく、ぼんやり立つてゐた。四圍りは、靜かだつた。ランプが、時々明るくなつたり、何處かへ吸ひこまれるやうに、暗くなつたりした。裏口の側にある馬小屋の馬さへ、しつぽの音も、蹄で床をたゝく音もさせなかつた。祭りの場所も餘程離れてゐるので、何も聞えなかつた。源吉は少し、わけの分らないいらだたしさを覺えてきた。表を誰か通つて行つた。何か話してゐる。初め源吉には何か分らなかつた。
「ホラ、なア、星とんだべ。」
「そこ、穴あるど。」
「あの星なあ、粉みだいになつて、落ちでくるんだど。──たまに、どしーんツて落ちてくることもあるんだどよ。」
相手が何か云つた。と、甘つたれるやうな、唇をとんがらした聲を出して、
「早くえがねば、踊り終るからなーア。」と、十一、二の子供が云ふのが聞えた。
「アツ──又、なア!」
「お母ア遲くてよーオ。」半分泣聲だつた。
遠くなつて、すぐ聞えなくなつた。又、もとの靜かなのにかへつた。
源吉は、自分の呼吸が聞えるのを知ると、その、變な靜かさが不氣味に思はれてきた。彼は坐らうと思つた。その時、鏡臺についてゐる小さい引出から、手紙が半分出てゐるのを、源吉がフト見た。お芳からの手紙だらうと思つた。
──貴女が札幌に出たがつてゐることは、自分のその頃のことから考へてみて、無理がない。……こつちの生活は、然し、自分が思つてゐたことゝ、まるつきり異つてゐる。……それで、貴女に、がつかりさせたくないために、あんなことを云つてやつたのだから許してくれ。──實は、こんないやな生活は、自分一人だけで澤山だと思つてゐる。
勿論こつちでは、そこのやうに、汚い恰好をして、年中、あんな風に働く必要はない。……然し、その代り、とてもそつちなどにゐては、どうしたつて分らないやうな「恐ろしい」ことが澤山ある。……
とにかく、貴女がどうしても、來るといふ決心をかへられないのであれば、仕方がないから、待つてゐる。……主人にも話したら人手が足りないから、丁度いゝと云つてゐる。(そして最後に)源さんには是非よろしく。
そんな意味のことが書かれてゐた。源吉はそれを、ぼんやり又初めから讀みかへしてみた。──「源さんには是非よろしく」──讀んでから、手紙を手にもつたまゝじつとしてゐた。
母親が歸つてきた。
「兄、何してる。行け、行つてみ。──今、お文と會つた。」
源吉は、手紙をもとの所におくと、母親には返事もしないで、外へ出た。母親は土間で、續けざまに「つかみツ鼻」をした。
「歸りに、由ば連れで來い。」と後から言葉をかけた。
外へ出ると、ヒヤリと寒氣を感じた。空が高く晴れて、ばらまいたやうな星空だつた。源吉は、別にお祭りにも行く氣がなかつた。然し、家にゐられない氣持だつた。少し來ると、左側に高い木が五、六間並んで立つてゐた。その木の間からすぐ、石狩川の川面が見えた。星は出てゐたが、四圍は眞暗だつた。そこを、川面だけが青く光つてゐた。手前の木の幹が、それと對照して、黒くはつきり見えた。よく見ると、川に星が無數にうつつてゐた。大氣は冷え〴〵としてゐた。源吉は何度も、身震ひをした。何時もお祭りの時には、神社の前よりも、若い男と女はこの河堤に集つた。源吉はお芳とそこで何囘も會つたことを思ひ出した。──源吉はイマ〳〵しさうに河の方へ唾をはいた。
道が曲つてゐた。そこを曲ると、ずウと前方に、お祭りのあかりが見えた。そのあかりのところだけが、こちらからでもはつきり分つた。急に、どよめきが聞えてきた。太鼓を打つてゐるのがきこえる。人聲の中から時々、頓狂に、ゴム風船の破れる音や、笛の音が聞えた。途中の、農家の前に、その家の年寄が立つて、お祭りの方を見てゐた。
「お晩です。」と、源吉にくらがりで言葉をかけた。
「お晩です。」源吉も云つた。
「出掛けるのげア?」
「あ──。」
源吉が行き過ぎかけると、「ごゆつくり。」と云つた。
お祭りの舞臺には、十位もランプをつけてゐた。その前にはござを引いて、村の人達がそこに坐つて見てゐた。主に若い女や子供や年寄だつた。その邊は殆んど暗かつた。その後の道の兩側には、ランプをつけた屋臺のゴム風船屋などが、四つ程ならんでゐた。絶えず、足で機械をふんでゐる、綿飴屋が、割箸に、それをからませて、子供の前につき出して、何か云つてゐた。
子供達が一つの屋臺の前に、二、三人づゝ立つてゐた。神社の後では、小さい土俵があつて、若者が相撲をとつてゐた。源吉は何處にも興味がなかつた。帶の前に兩手をさしながら、離れて、見てゐた。舞臺では手踊りだつた。足拍子をとる毎に、板がギシ〳〵云つた。たゞ手と足をどたん、ばたん、動かしてゐるといふ風に踊つてゐた。が、離れてゐるので、顏や着物のアラも見えず、澤山のランプの光で踊つてゐるのが、源吉には綺麗に見えた。所々で、踊つてゐる女が、「ハツ、──ハツ」と云つたり、聲を合せて、「そいつウーは、知らなかつた──ア」と唄を入れた。
源吉は胸が、ヂリ〳〵してきた。一寸見てゐるうちに、馬鹿らしくなつた。彼は風船屋の後側を通つて、神社の裏にある土俵の方へ行かうとした。相撲の太鼓が聞えてゐた。がそこへ行く途中、然し源吉は氣が變つて、もどると、神社の外へ出てしまつた。源吉が一寸來たとき、小便をしようと思つて、道端の草原の方へ寄つて行つた。と、すぐ眼の前で(然し、暗かつたので分らなかつた。)女が腰をかゞめ、一寸着物のすそをせり上げて──、用を足し終つたところだつた。源吉は外のことに氣をとられてゐた。そこを不意にやられた。二人は立ちすくんだやうに、ギヨツとした、彼は突嗟に變な衝動を感じた。自分でも、どうしてか分らなかつた。彼は、素早く手を延ばした。と、逃げ腰になつた女の帶に手がかゝつた。源吉は咽喉が急にグツとつまつた。女は、聲をたてずに、闇の中でさからつた。が、力がちがつてゐた。すぐ女は源吉の胸のそばに寄せられた。女は帶にかけてゐる源吉の手に、爪をたてようとした。「馬鹿!」彼は息聲で云ふと、思ひツ切り、ギユツと女の身體を抱きしめてしまつた。女は、ふくらんでゐる乳房を抑へつけられてゐるので苦しがつた。日本髮につけてゐる新らしい油の匂ひが、源吉の鼻にムツと來た。源吉の心臟も、自分で分るほど、ドギン〳〵早くうつた。女のもはつきり分つた。女は、源吉に抑へられてゐながら、身體をもがいた。その厚味のある肉體の、動きを直接に、自分の身體に源吉が感じた。源吉は、女を、今度は何の雜作もなく抱きあげると、そこから、畑に續いてゐる暗い小道へ出た。女は初め聲を出しさうに身體をふつた。滅茶苦茶に足で源吉をけつたり、胸をひつかいたりした。が、すぐ、何故かじつとした。そして、源吉のはだけられた胸に顏をあてた。暑い呼氣が源吉の胸を撫でた。
源吉は、息をきらしながら、三町も歩いた。それから、どん〳〵畑の中に入つて行つた。唐黍の切株が澤山殘つてゐて、源吉は何度もそれで足の皮をむいた。それにくぼみに足を落して、よろめいた。が、惡鬼のやうな恰好になつた源吉は、かまはずに、無茶苦茶に歩いた。女は思ひ出したやうに、又劇しく抵抗した。然し抵抗すればする程源吉は元氣づいた。そして身體中が、ワク〳〵と震ひ上つてくるやうに感じた。
四
又雨がやつてきた。日がだん〳〵薄暗くなり、寒さうな雲が垂れ下つてきて、霰が交つたりした。今度こそ、本當に冬がくる、さう皆が思つた。朝起きてみると水のたまつた溝の表面に氷が張つてゐた。
百姓達は冬圍ひが終つてしまふと、草家の中にもぐりこんで、土間にむしろを敷いて、繩を編んだり、草鞋を造つた。一年の間、畑に出て、腰をまげて土にへばりつきながら働き通して、然し、それでもまだ百姓には足りなかつた。娘達は、その出來たものや豆類などを背負つて停車場のある町に出掛けて行つた。百姓達は、誰のためにも分らずに、色んなものを作つた。が、その半分以上のものは一つ殘らず持つて行かれてしまつた。小作人は地主の小作料に、自作農は拓殖銀行の年賦の拂込金にそれが成りあがつてしまつた。その上に肥料店と農具店があつた。米をつくり、豆をつくり、唐黍をつくり、ナスビを作つた百姓は、毎日干した菜葉と、芋しか食ふものがなかつた。それより食へなかつた。その上に飯を食ふ時、百姓はそれだけを食ふのを勿體なく思つた。それで、米に水を何倍も割つて薄くトロ〳〵にして、芋を入れたり、豆を交ぜたり、して食つた。
夏にとつて軒に乾して置いた何十といふ南瓜を冬中食つた。それを毎日續け樣に食ふので、どの百姓も顏から、掌から、足からすつかり眞黄色になつてしまつた。眼玉の白いところにさへ、黄色い筋が入つた。
冬近くなると、一年中はき切らしてボロ〳〵になつた足袋を繕ふのが、その家の年寄の仕事になつた。それにつぎを幾つもあてゝ、もう一冬間に合はせた。シヤツも襦袢も、腰卷もさうだつた。源吉の母親は押入から、色々のボロを引張つてきて、それを爐邊に山のやうに積んで、片方の玉の壞れた眼鏡を糸で耳にひつかけて、ランプの下に顏を持つて行つて仕事をした。
收穫が終つてから、冬になる間、百姓の金を當てにして何人もの行商が、一日に何囘も寄つて行つた。玩具のやうな道具をもつた乞食も來ることがあつた。が、永い冬が待つてゐることを考へれば、一きれの布も、百姓にはうつかり買へなかつた。越中富山の藥屋も小さい引出の澤山ついた桐の藥箱を背負つてやつてきた。馬などの繪をかいた藥臭いちらしを子供達にくれて、いくら要らないと云つても、上り端に腰を下して動かなかつた。そして藥袋を置いて行つた。由は馬のちらしを大切に持つてゐて、暇があると、それを寫してゐた。
百姓達はそれでもとにかく、馬を仕立てゝ、停車場のある町に出掛けて行つて、味噌や醤油や、その他の入用なものを買つてきた。その頃は、停車場前の荒物屋の店先にある電信柱には、百姓の荷馬車が何臺もつながれてゐた。牝馬が多かつた。たまに牡馬が通ると、いなゝきながら、暴れた。すると、荒物屋の中から、醉拂つた顏の赤い百姓が飛び出してきて、牝馬を側の方へ引張つて行つた。荒物屋では土間に二つ三つ椅子があつて、そこへ腰をかけて、百姓が氷水を飮むコツプに冷酒をついで、干魚をさきながら、飮んでゐた。
百姓のうちでは、こゝで醉ひつぶれてしまふものがあつた。
「俺アなんぼ醉拂つたつて、あいつがみんなおべでる。」
そして、店の小僧にだかれて、味噌や醤油樽と一緒に、荷馬車に、まるで荷物のやうにつまれた。つみ込まれたまゝで、昔若い時に覺えた歌をうたひながら、いゝ機嫌になつてゐると、馬はひとりで、もと來た道を、もどつて行つた。
源吉はモツキリを二、三杯のむと、それが久し振りであつたゝめか、すつかり醉拂つてしまつた。源吉は、大きな圖體の身體を、ふりながら、他愛もなく踊りの手眞似をしたり、眼を細めて、變な聲を出して笑つたり、分けの分らないことをしやべつた。
八時頃荒物屋を出ると、源吉は側につないであつた馬の側に行つて、ヨロ〳〵しながら、馬の首につかまつて、それを支へにして、鼻面を撫でながら、何か獨りブツ〳〵云つた。さうしながらも始終身體をフラ〳〵させてゐた。馬から離れると、一寸立つてゐた。が、覺束ない足取りで歩き出した。もう町は人通りが無かつた。源吉は懷に兩手をはすがひにつつこんで、醉拂つたあとによくあるが、ブル〳〵震ひながら、そして、ひとりで何かブツ〳〵云ひながら歩いた。
「何んぼ働いたつて、何んになるんでえ。糞たれ。」何囘もこんな、同じことを繰り返してゐた。少し行くと軒の低いそばやがあつた。源吉は、そこの入口の柱にどしんと身體をうちつけた。そして、そのまゝそれによりかゝりながら、目もあけずに「誰だ、畜生、誰だ」と云つた。中で、白粉をつけた女が「兄さん、寄つてよ、上つて一杯のんで行つて。」と云つた。そして、すぐ立つて出て來た。
「まアいゝ機嫌ねえ。」
源吉は女の顏のすぐ前まで、自分の顏をつき出して、醉つてシヨボ〳〵した眼を、無理にひらいて、女を見た。安い白粉と、女の汗臭い匂ひがムーンと鼻に來た。
「この女子こ、めんこい顏してるど。」
「温めてやるよ。ねえ、上つてさ、──。」
源吉はよろけながら、土間に入つてしまつた。
荒物屋の前につないであつた源吉の馬は、次の朝まで其處に、そのまゝ、頭を長く下げてつながれてゐた。
*
長い秋の夜を、ランプを土間に下して、藁をたゝいて、繩をなつたりしながら、百姓は、自分達の過ごして來た一生を思ひかへした。秋の夜は百姓達にはさういふ時だつた。小聲で鼻唄をうたつてゐたのが、フト止むと、何時の間にか百姓達は昔のことを思つてゐた。
内地では彼等は芋ばかりしか食へなかつた。畑から出來上つたものは安くて、肥料や農具はその倍にもなつた。地主には小作料が、重なりに重なると、立毛は押へられた、土地はとりあげられた。「北海道に行つたら」さう思つて、追ひ立てられて、然し、大きな夢をもつて、彼等は「熊が出る」北海道にやつてきた。津輕海峽を渡つて、北へ、北へとやつてきた。親子で行李を背負ひながら、北海道の飛んでもない、プラツトフオームもない、吹きツさらしの停車場で降ろされると、何里もの涯しの見えない雪道を歩かせられた。何處まで行つても雪で、平であつた。指も顏の皮も切つて行かれさうな風にふきまくられた。そして落着いてみれば、どこにも立札がしてあつた。拾つていゝ土地なんか、重箱のふた程も殘つてゐなかつた。たまに、安く土地が「拾へても」、それを耕してゆく金がなかつた。結局人から借りた金でやれば、二、三年經つて、その荒蕪地がやうやく畑らしくなつた頃、そのかたに、すつかり、彼等の手からなくなつてゐた。──ここも矢張り住みよくはなかつた。
「國ではどうしてるべ。」
かういふ百姓にとつては、たとへ北海道に二十年ゐたとしても、三十年ゐたとしても、内地のことは忘れなかつた。死ぬ時は、内地で、──昔、自分たちには決していゝ仕打ちをさへしなかつた──村で、なければならない、さう、暗默に思つてゐた。何時でも、何時か國に歸つて行くことを考へてゐた。百姓たちが仕事の合間にフト口をきくとき、「國ではどうしてるべ。」きつと、さう云つた。内地のことは、今では、不思議にも、百姓達には、變な魅力をもつて、心の中によみがへつてきた。何かしら、綺麗な、樂しかつたものに想像されて、くるのだつた。豆腐屋の誰がどうしてゐるとか、〓(「冂」の左の縦棒を取った中に「△」)の金がまだ生きてゐるだらうかとか、角地の娘が婿をとつたとか、石屋の旦那が樺太へ行つてるとか……そんなことが、ボツ〳〵、切れさうになつたり、途切れてから續いたり、そしてそれに結びつけて、昔の自分達のことを、ゆつくりした調子で話した。
初め、「國」を出るときには、百姓たちは、北海道へ行つたら、一働きして、うんと金を作つて、國へもどつてきて安樂に暮さう、さう考へてゐた。誰でもさうだつた。源吉の父もさうだつた。然し、どの百姓だつて、それの出來たのが誰もゐなかつた。結局内地での昔の生活とちつとも異つてゐなかつた。然し百姓はそのことをちつとも分らうともしなかつた。だが本當のところどの百姓も、現實にはとてもそんなことは駄目なことだと「分つてゐながら」、漠然と、やつぱり、内地へ金をもつて歸ることを心の何處かで思つてゐた。北海道の百姓は皆平氣でさうだつた。
たまに、内地へ一ヶ月でも行つてくるといふ者があると、(──それは然し極くまれだつた。例へば、誰か肉親が急病だとか、さういふ場合を兼ねての場合に限られてゐた。)同じ國の者が集つて行つて、自分達の親類に色々なことづけを頼んだり、何かをとゞけてもらつたりした。村の樣子をきいてきて貰ふ事を約束したりした。
なんでも源吉の父親と母親が、初めて北海道に來て、雪の野ツ原を歩かせられたとき、(源吉はその時父の背におぶさつてゐた。)──丁度今ゐる村に入る少し手前の道端に、くひが一本立つてゐたのを見た。それは日暮れに近い時で、そのだゞツ廣い野原に、そのくひだけが、たつた一本しよんぼり立つてゐた。父親は標示杭と思ひ、まだ、何里位あるのか、その前にしやがんで雪を拂ひ落してみると、それには、「越後國──郡──村、── ──こゝに死す」と書いてあつた。父がそのことを母に云つてきかせた。二人とも、その時はゾツと寒氣がする程の頼りなさを感じた、──「なんぼなんでも、こんな風にだけはなりたくない」さう云つたのを、源吉は何度も聞かされて知つてゐた。
そのやうに百姓は何時でも「故里」の土に結びつかれてゐた。
農村の秋はます〳〵深くなつて行つた。
源吉の母親は、冬ま近になると、腰が痛んできた。土間に下りて、繩を作りながら、由に、腰をもませたり、肩をもませた。由が嫌がつて逃げて歩く度に、
「ぜんこ一銭けるど。」と云つたり、それでもまだ來ないと、
「せば二錢けるど」と云つた。
由が、母の後に𢌞つて、二度か三度、肩をもんで、すぐ、
「ぜんこけれ!」
「このほいと。」
「したツて、もんだでないか。」
「もつと。」
「ずるい〳〵。」
「馬鹿、お母ちやえゝツてまでだ。」
「ずるい〳〵〳〵。」
「この糞たれ!」
二人で本氣になつた。そして、──がフト、
「なあ、源ん──俺アこの冬、國さ行つてきてえんだよ──源ん。」ヅキ〳〵痛む腰を自分でもみながら云つた。そして暗い顏をして源吉を見た。
五
源吉の母親は、お文が札幌へお祭りの夜逃げて行つてから、何處か弱つてきた。何か仕事をしてゐるとき、フトお文のことを云ひ出した。そして、何時までも、そのことを獨言のやうにしやべつてゐた。源吉は、母親がさういふ事を云ひ出すと、默つて立つて、外へ出て行つた。
秋の更けた、靜かな、ある晩だつた。裏を流れてゐる川のあたりに時々鳥が啼いてゐた。源吉と母親はランプを低く下して、土間にむしろをおいて、草鞋を作つてゐた。
誰か表から呼んだと思つた。
「はアー」と源吉が表にきゝ耳をたてゝ言葉をかけた。
「俺だよ。」校長が、ガタピシする戸を身體であけて入つてきた。
「退屈で、話ししに來た。」と云つた。
爐のそばで、由が假寢をしてゐた。ランプは土間の方に持つて來られてゐるので、そこが暗くつて分らなかつた。
「お文はどうしてる?」何かの話から先生がきいた。母親は、何時もの通り、何度も何度も云つたことを又繰りかへして校長先生にきかした。源吉はだまつてゐた。
「どうして連れもどさないんだ。」
「わしなんぼさう云つても、源が駄目でねえ。行きたがらねえんだもの。──札幌ばおつかながつてるんだべよ。」
「源吉君、どうした。」
「駄目だんす。」源吉はさう云つた。「連れてきたつて、又行くべよ。」
「こんだもの。」母親はあきれたやうに、先生の顏を見た。そのことから、先生が札幌にゐたときの話をした。そしてこんなことを云つた。──若し一度でも都會の味が分つたら、こんな田舍には、とても居られるものでない。電話があつて、どんな遠くの人とでもすぐその場にゐて用事が話せる。自動車が何臺とある。電車がある。それに女は何時でも人形さんのやうに、綺麗に白粉をつけ、長い袖の着物を着て歩いてる。活動寫眞は毎日あるし、芝居も見れるし、音樂會はある。公園がある。
それに男だつて、外國の寫眞に出てくる人達とちつとも異らないやうな恰好で、町をキユツ〳〵と、光るほどに磨いた靴をはいて歩いてゐる。
「まあ、ねえ──」母がびつくりしたやう
「それにどうだ、百姓は。──」先生は一寸言葉を切つた。
「年中糞こやしの中にうづまつて、眞ツ黒けになつて、男だか女だか分らなくなる。この邊の女の手の皮なんて、まるで雜巾みたいでないか。朝は暗いうちから、それも夜まで。所がそれから又夜なべだ。──それで、ウンと金でも殘るんならいゝさ。ねえ、お母さん。」
先生は變な調子で笑つた。「市の金持なんて、綺麗なビルデイングあたりで、綺麗な、上品な仕事を、チヨイ〳〵とやると、もうそれで一日終り。そしてたんまり金が入る。とてもお話にならないさ。」さう云つてから、
「どうだい。」と源吉に云つた。
源吉はだまつてゐた。
「そんでせうねえ!」母親は感心して、「市の立派な人さんだちだものねえ。」
「源吉君分るかい、──この理窟が……」
「…………」
源吉は先生の顏を見たが、何も答へなかつた。そして口に水をふくんで、それを霧打ちにして、藁を木槌で打つた。先生は煙草を喫ひながら、少しだまつてゐた。それから、フト思ひ出したやうに、
「あ、勝君が苗穗の鐵道の工場へ入つたつて、聞いたか。」
「ほんですか。」源吉もひよいと氣をひかれた。「やつぱりねえ。んなもんだ。」
「勝君の家で云つてたよ。──勝君も亦一苦勞だ。」
「お文ばけしかけたんだ、あの勝!」母親は怒つて云つた。
「なア、源吉君、百姓がたつた一人働けば、自分の一家を食はして行つて、おまけに地主にぜいたく三昧な暮しをさしてやる事も出來るし、その地主のお蔭で生きて行つてゐる人にも恩惠を分けてやることも出來るんだ。大したもんだよ。人間を生かしてやるも、やらないも意のまゝに出來るのは、お百姓と職工だけなんだよ。面白いだらう。」先生はいつも決して見せなかつた笑顏をした。それから笑談のやうな調子で、「偉いもんだよ。世界中で一番偉いのは百姓と職工といふわけになるだらう。ハヽヽヽヽ。ところがねえ、源吉君、その百姓と職工さんが一番貧乏して、一番薄汚くて、一番人に馬鹿にされて、一番働かされてるから、愉快だよ。」
源吉も思はずその調子に引き入れられて、笑つた。母親は、何か、分つたやうな分らないやうな顏をしてゐた。
「面白いよ、こんなことを考へてれば。六月に地主が、皆んなを集めて、何んか饒舌つたらう。お前たちの貧乏するのは何處かお前達に罪があるんだ、働くものに追付く貧乏がないつて。皆もつともだ、もつともだつて、聞いてたツけ。──所が、なんのことない、さうやつて、ウンとこさ働かして置いて、その一番いゝ處をうま〳〵とひつたくつて行くのが地主だから面白いつて。まつたく地主に追付くものは一つだつてないさ。處が、奇妙な事もあればあるもんで、誰も地主にちよろまかされてるんだてえ事を知らないんだ。それでまだ稼ぎが足りないんだべ、まだ足りないんだべつて、一生懸命働いてるんだ。地主の奴、うしろで、舌ばペロ〳〵出して、喜んでるだべよ! 働け働けたつて、今まででさへ百姓が朝四時か五時から起きてさ、晩はまた晩で、七時も八時迄も働いてるんだ。これよりもつと朝早く、夜はおそくして、馬車馬見たいに、働いたら、それこそ三日で百姓ぶつ倒れるべよ。百姓位のべつ暇なしに働くものなんかあるか。──働きが足りないから貧乏してるなんて、ウソの大皮さ。」
「先生さま、まア何云ふだべ。」母親はびつくりして云つた。
「イヤ、お前んとこでも、ウンと働いてやれや。せば、地主の倉さ米俵が、うんとこさ積まさつて、逆にお前達の口がカラ〳〵になつてくるから。」先生は高聲で笑つた。
源吉は、つんのめされた人のやうな、固い、むづかしい顏をしてゐた。時々、フト木槌がとまつた。
「俺、何時でも不思議に思つてるのは、みんながこんなに貧乏してゐるのに、どういふわけでこんなに貧乏かつてことが、誰も分つてゐないことだよ。なア、源吉君。地主があつたらこと云ひやがるし、坊主は又坊主の奴で、地主からたんまり貰つたもんだから、何事も佛樣のみ胸のまゝだなんてぬかすもんで、分らないのが、イヨ〳〵こんがらがつて分らなくなつたんだ。が、洗つたところを見れば、──何も、かも、はつきりしたもんだよ。百姓、あんまりはつきりすると自分でどうしていゝか困るのかなア。」又そこで笑つた。そして、獨りで「ウン、困るんだ。困るんから……分らないことにして置いてるんだ。」
先生は源吉の方を見た。源吉が何か云ひ出すのを待つ、といふやうな恰好をした。が、源吉は眉をひそめたむづかしい顏を、まだ、してゐた。
「まア〳〵、先生樣、そつたらごと、地主樣にでも聞えたら、大變なごとになるべしよ。」
先生はちよつとだまつてゐた。が、それからは別なことを話した。爐邊に寢てゐた由が、何かに吃驚したやうに、跳ね上つた。そして、立つたまゝポカーンとした。皆その方を見た。
「由、何ば寢ぼけてるんだ!」
由は、それから四圍をキヨロ〳〵見ながら、身體を何囘もゆすつた。由の身體には虱が湧いてゐた。
「ホラ、校長さんがおいでになつてるど。」
由は校長先生を見ると、頭をさげた。が、何も云はずにすぐ又爐邊に坐つた。そして兩膝頭と顎が喰付くやうに、圓まつて寢込んでしまつた。
「うなされてる。」
校長先生はそれからしばらくして、イガ栗頭をゴシ〳〵かきながら歸つて行つた。表をあけながら、「ウツ、寒い。」と云つて、袂に手をひつこめた。戸がしまつてからすぐ家の側で、先生の小便をしてゐる音がした。
「お晩でした。」誰かゞさう云つて通つて行つた。
先生は小便をしながら、「や、お晩。」と、何時ものザラ〳〵した聲で云つた。
仕事が終つてから、母親が皮をむいて置いた馬鈴薯を大きな鍋に入れて湯煮をした。すつかり煮えた頃それを笊にとつて、上から鹽をかけた。母親と源吉が爐邊に坐つて、それを喰つた。うまい馬鈴薯は、さういふ風にして煮ると「粉を吹い」た。二人は熱いのをフウ〳〵吹きながら頬ばつた。母親は、源吉の向側に、安坐をかいて坐つてゐた。が、一寸すると、芋を口にもつて行きながら、その手が口元に行かずに、……母親は居眠りをしてゐた。が、手がガクツと動くので、自分にかへつて、とにかく芋を口に入れるが、口をもぐ〳〵させてゐるうちに、──のみ下さないで、口にためたまゝ、又居眠りを始めた。
爐にくべてある木が時々パチ〳〵とはねた。その音で、母親が時々、少し自分にかへつた。源吉はものも云はずに、芋を喰つてゐた。何か考へ事でもしてゐるやうに、口を機械的にしか動かしてゐなかつた。
柱時計が四つ、ゆるく、打つた。母親は、びつくりして、今度は本當に眼をさました。そして、くるつと圓くなつて寢てゐる由をゆり起した。由は眼をさますと、不機嫌に、ねじけ始めた。
「ホラ、校長先生!」母がどなつた。
由はギヨツとしたやうに、四圍を見た。
「うそ、うそ! うそ‼──うそ!!!……」とう〳〵由が本氣に泣き出してしまつた。
「この野郎。早く小便たれてこ。表さ行つて。」
由は中々立たなかつた。三度も、四度も云はれて、表へ立つた。が、戸を少し細目にあけると、そこからチンポコだけ出して、勢ひよく表へやつた。
「又、表さ出ねえで。なんぼ癖惡いんだか。──あどから臭せくツて!──赤びつき(赤子)でもあるまいし。えゝか、あとから兄から、うんブンなぐられるべ!」
「表おツかねえで。んに、寒いわ。」半分泣き聲で由が云つた。
「よし〳〵、うんと、そつたらごとせ。」
母親は床を三つ敷いた。
「なア源ん、校長先生あれきつと、──あれだ。飛んでもない事云ふもんだ。本氣に聞くなよ。うん。」床をしきながら、母がさう云つた。
源吉は、芋を喰ひあきると、火箸をもつたまゝ、爐の中を見てゐた。火箸で、火のオキを色々に、ならべてみたり、崩してみたり、しばらくさうしてゐた。
由と母親が寢てしまつた。
源吉は爐の側にある木をとつてくべた。それからそれが一しきり燃え終るまで、すゝけた青銅の像のやうに、坐つてゐた。ランプも石油がなくなつてきて、だん〳〵焔が細くなつてきた。
「源、まだ起きてたのか。燃料たいしだ。──寢かされ。」
母親が眼をさまして、一寸枕から顏をあげて、こつちを見ながら云つた。源吉は火も、もう燃え殘りしかなくて、自分が寒くなつてゐたのに氣付いた。
「うん。」さう云つて、立ち上つた。……
後の窓に、大きな影になつて、源吉の身體がうつつた。
「なんまんだ、なんまんだ、──。」ブツ〳〵母親が云ふのを源吉はきいた。
六
長い冬が來た。百姓は今年の不作の埋合せをしなければならなかつた。
源吉は、村の人達五、六人と、朝里の山奧へ入つて、しなの皮はぎに雇はれるために、雪が降つたら出掛けることに決めてゐた。それが二月一杯できり上ると、余市の鰊場へ行くことになつてゐた。そして四月の終り頃村へ歸つてくる。それはどの百姓も大抵さうした。──それで百姓の生活がカチ〳〵だつた。
何日も、何日も續いて、しつきりなしに吹雪いた。百姓はその間家から一歩も出ないで過ごした。窓から覗いてみても、たゞ眞白で、何も見えなかつた。時々、家がユキ〳〵と搖れた。そして、やうやく吹雪が上つた。戸をあけると外につもつてゐる雪が崩れて家の中に入つてきた。
雪の石狩の平原は、今度こそ、何處を向いたつて、涯しもなく眞白に、廣がつてゐた。百姓家は所々ポツ〳〵と、屋根だけ見せて、うづまつてゐた。たゞ隨分離れてゐたと思つた隣家がはつきり、聲をかけられる位に近く見えた。空はまだ吹雪のあとを殘してゐる低い、暗い雲に覆はれて、それが地平線のあたりで、眞白な地上と、結び合つてゐた。そつちが今吹雪いてゐるらしく、眞黒になつてゐた。風は時々ピユ〳〵と音をさして吹いた。その度に、雪が煙のやうに吹き上り、渦を卷きながら、遠くから吹きよせてきた。その渦卷がグル〳〵一所で渦卷いてゐたり、素晴らしい早さで移つて行つたり、急に方向を變へたりした。家の角の邊に大きな吹き溜りが出來てゐた。
寒氣がひどくなると、家の中などは夜中に、だまつてゐてもカリ、カリ、カリと、何かものの割れるやうな音がした。年寄つた百姓はテキ面にこたへて、腰がやんだり、肩が痛んだりして、動けなくなつた。
家の中にとぢこめられて、食ひ物のなくなつた百姓が停車場のある町に、買ひ物にゆく、馬の鈴が聞えた。その、リン〳〵とした鈴がそのまゝで凍えてゐるやうな空氣に、ひゞき返つて、しばらく、──餘程遠くへ行くまで聞えてゐた。そしてその馬橇が雪の、茫漠とした野原を、曲りくねつて、一散にかけて行くのが見えた。
雪が降り出してから、十日も經つと、百姓達は、ソロ〳〵この冬を、どうして過ごしてゆくかといふことを考へ出してきた。百姓達は雪を見ると、急に思ひつきでもしたやうだつた。食物がなくなつても、地主へ收めるものには手をつけることは出來ず、町へ仕入れにゆくにも金がなくなつてきた。百姓が顏を合はせると、ボツリ〳〵自分達の生活を話して、何んとかしなければと云つた。皆が苦しんでゐた。それで何時の間にか、そのことがずうと廣まつて行つた。
川向ひの村に用事を足して歸つてきた勝の父親が、源吉に會つたとき、川向ひでも、色々そんな話が出てゐると云つた。石狩川が凍つたので、自由に向ひ側に行けるやうになつた。授業料ををさめることが出來なくなつて、小學校へ行く生徒が急に減つた。金をかけて、一日中遊ばせて置かれるか、と云つた。
子供などはどこの子供も元氣のないきよとんとした顏をして、爐邊にぺつたり坐つてゐた。赤子は腹だけが、砂を一杯つめた袋のやうにつツ張つて、ヒイ〳〵泣いてばかりゐた。何も知らない赤子でさへ、いつも眉のあたりに皺を作つてゐた。頭だけが妙に大きくなつて、首に力なく、身體の置き方で、その方へ首をクラツと落したきり、直せなかつた。冬がくる前に、軒につるしておいた菜葉だけを、白湯のやうな味噌汁にして、三日も、四日も、五日も──朝、晝、晩續け樣に食つた。それに南瓜と馬鈴薯だつた。米は一日に一囘位しかたべられなかつた。菜葉の味噌汁が、終ひには味がなくて、のどがゲエ〳〵と云つた。
だん〳〵百姓達は本氣になつた。
話がかうしてゐるうちに纏つて行つた。源吉は誰からとなく、校長先生が裏に𢌞つてゐる、といふ事をきいた。所が、同じ村のある百姓が、地主のために、立退きをせまられてゐるといふことが出來上つてから、急にさういふことが積極的になつた。
川向ひから、若い男がやつてきた。自分の方も一緒にやつた方が、地主に當るにも都合がいゝといふことを云つた。日を決めて、一度、小學校に集つて、其處で、どうするか、といふことを打ち合はせることにした。
その日吹雪いた。風はめつたやたらにグル〳〵吹きまくつた。降つてくる雪は地面と平行線になつたり、逆に下から吹き上つたり、斜めになつたり、さうなるとすぐ眼先さへ、たゞ眞白に、見えなくなつてしまつた。それで道から外れると、膝まで雪の中にうづまつた。雪は外套のどんな隙からでも入りこんで、手の甲や、爪先などは、ヅキン〳〵痛んできた。小學校へは、遠い家は小一里もあつた。
どの百姓も、どの百姓も、入つてくるときはメリケン粉の中から出て來た人のやうに身體中眞白だつた。そしてかじかんだ兩手を口にあてゝハア、ハアと息をかけた。ひげも眉も、まつ毛さへも、一本々々白く凍りついてバリ〳〵してゐた。外套のない百姓は、着物を絲で刺したドサを頭からかぶつてやつてきた。何十年か前に、兵隊に行つたとき着た、カキ色のすゝけた外套をきたのや、ボロ〳〵の二重𢌞はしをきたのや、筒砲袖の外套をきたのや、色々だつた。教室に入ると、ストーヴがたいてあるので、それでも暖かかつた。眉やヒゲから、凍つたのがとけて、水玉を作つて頬を流れ落ちた。
百姓の顏は、どれも、風邪でもひいた後のやうな妙にはれぼつたい、それに、煤けた、生氣のない顏をしてゐた。背中が圓くなつたのや、身體はがつしりしてゐるが、どこか不平均なところのある百姓や、毛むぢやらのや、頭がすつかり禿げて、それが一年中も陽にさらされて、赤ひようたんのやうになつてゐるのや、色々だつた。さういふのが二、三人づゝ一かたまりになつて、てんでに、自分達のことを話し合つてゐた。キセルの吸殼を厚い掌にうけて、獨りで、何かむつちり考へこんでゐる年とつた百姓もゐた。五、六人を前に置いて、何か聲高に、手を振りながら、ものを云つてゐるのもゐた。
しばらくすると、百姓の集會らしい、變な人いきれの臭氣でムンとした。
片隅で、誰か五、六人のものが拍手をした。それにつれて、集つたものも、拍手をした。が、ぼんやりして、だまつて拍手をするのを見てゐたのもあつた。拍手が終ると、二十五、六のがつしりした身體の、眉の濃い、バリ〳〵した短い頬ヒゲをもつた石山といふ百姓が教壇に上つた。校長先生の親類だつた。
「皆に代つて、一通りのことをお話しします。」さう前置きをして石山は、百姓にはめづらしいはつきりした、分つた云ひ振りで(勿論、百姓などが殊更に改まつたときによくある、變な漢語も使つたが)──自分達は、犬や豚などより、もつと慘めな生活をしてゐること、──ところが自分達は何時か仕事をなまけた事でもあつたか。──では、何故か。自分達がいくら働いても働いても、とても何んの足しにもならない程貧窮してゐるのは、實に、地主のためであるといふことを分り易く、説明し、今度のやうな場合地主に小作料を收めることは「自分達の死」を意味してゐる、ナホ我々百姓は、高利貸の不當な利息、拓殖銀行の年賦にも、苦しめられ、それに税金がかゝつてくる。そして出來上つたものは、肥料や農具にも引合はない。かうまで、自分達がなつてゐるのに、だまつてゐられるか。そこで、我々は、皆んなにお集りを願ひ、その方策をきめることにしたいのだ、と結んで壇を下りた。百姓達は、聞き慣れない言葉が出る度に、石山の方を見て、考へこむ風をした。が、苦しい生活の事實を石山に云はれ、百姓は、「今更のやうに」、自分達自身の慘めさを、顏の眞ん前にとり出されて、見せられた氣がしたと思つた。石山が壇から下りると、急にガヤ〳〵し出した。今石山の云つた事について、あつちでも、こつちでも話し合つた。一番前にゐた年寄つた百姓が、「とんでもなえ、おつかねえこと云ふもんだ。」とブツ〳〵云つたのを石山はおりる時に聞いた。
石山が下りると、すぐもう一人が壇に上つた。まだ二十一、二のヒヨロ〳〵した感じのする、頭の前だけを一寸のばした男だつた。が、案外力のこもつた聲で、グン〳〵、簡單に、ものを云つて行つた。大體に於いて、石山の云ふことを認め、直ちに小作料減率の請求を、全部の署名をして、地主に「嘆願」することにしてはどうか、といふことを云つた。齋藤といふ兵隊歸りの若者だつた。
次は、四十位の百姓で、壇に上ると、いきなり手をふり𢌞はしながら、醉つた眼を皆の方へすえて「俺達は……」とか「そこで以て、故に……」とか「そして須く……」「しなければならないんであります。」そんなことばかり云つた。ぐでん〳〵に醉拂つてゐた。皆が笑つた。誰かゞ、そんな奴は下ろせ、とか、下りろとか叫んだ。その百姓は、臺の上で見得を切つてみせると、身體をフラつかせながら壇を下りた。もと旅役者に入つてゐたことがある男で、醉拂ふと、昔の型物の眞似をするので、皆んな知つてゐた。
年寄つた百姓が上つた。──色々説をきいたけれども、みんな「不義不忠」のことばかりだ、と云つた。言葉が齒からもれて、一言々々の間に、シツ、シツといふ音が入つた。──地主樣と自分達は親子のやうなものだ。若いものは、それを忘れてはならない。「いやしくも」地主樣にたてつくやうなことはしないことだ。「畑でも取り上げられたらどうするんだ。」──さう云つた。「お父アーン、分つたよ。」と、後から叫んだものがあつた。終つてその年寄が壇を下りると、又ガヤ〳〵した。
今迄かなり、皆んなの氣持が一緒にかたまつてグツ〳〵と進んできたとき、この年寄つた百姓の言葉が、皆を暗闇から出て來た牛のやうに、ハツと尻ごみさした。かういふことでは、百姓は牛だつた。
「何んだベラ棒奴! ウン、野郎!」さつきの、醉拂つた百姓が又身體をヨロめかして、壇に上つてきた。「何云つてるんだい。老ボレ。そつたらごどで俺だちの貧乏どうしてくれるんだい。」
「ウン〳〵」といふのがあつた。「下りろ」「さうだ〳〵」……
石山はそこで、出て行つた。──俺だちのしなけアならない事は、もう決つてゐるのだ。それをしなかつたら、明日食ふ米がなくなつて、俺だちは死ななければならない事だけだ。──俺だちはどうしても死んだ方がいゝと思つてゐるものは手をあげてくれ。さう云つた。
ガヤ〳〵が靜まつてきた。しばらく石山はつツ立つてゐた。
──誰もない。ぢや俺だちは生きるんだなあ。そしたら、俺だちは俺だちの方法を實行するんだ!
それより外に斷じてないことになるだらう。
この斷定的な調子が、皆の氣持を、またグツと前へ突き出した。
石山は「齋藤案」を持ち出して、それに對して論議を進めることにしようと計つた。
そして、「この事に對して意見のある方は、手をあげて自分に云つて貰ひたい。」と云つた。
またやかましくなつた。地主のことを惡く云ふものや、それを然し何處かで擁護してゐるものや、さういふのが、お互にブツ〳〵云ひ合つた。中には、ブツキラ棒に興奮して、𢌞はらない口で、吃りながらしやべるものもあつた。が、さういふやうに色々のことを云ひながら、然し「どうする」といふことになると百姓達は、ちつとも分つてゐないやうに見えた。石山は壇上に立つたきりで、だまつて皆のしやべるのを聞いてゐた。石山は、皆の一番後の板壁に、先生が寄りかゝつてゐるのを見た。それから少し離れた窓際に、源吉が腕をくんで、がつしり立つてゐるのを知つた。皆の眞中頃にゐて、何か腕を振つてしきりにしやべつてゐる片岡といふ百姓は、此前、地主のお孃さんが遊びに來たとき、石狩川に落ちた、その時それを助けに飛込んで、自分で半分死ぬ目に會つた男だつた。が、大部分の百姓は、ポカーンと口をあいて、誰か云ふのを、代る代り、聞き惚れてゐた。
「誰か考へがありませんか。」
石山が大聲をあげて聞いた。それで、一寸靜かになつた。
すると、一人が、
「全然(まるツきり)地主さ納めねえ方がえゝべよ。」と云つた。
が、その意見は、忽ち皆の反對に會つてしまつた。そんなことはとても出來得ないことであり、又すべきことでない、さう百姓は誰も考へてゐた。
「では、皆の意見は、小作料率の低減ですか。その嘆願ですか。」石山がさうきいた。と、又ガヤ〳〵になつた。それがしばらく續いた。
「この意見に反對の人は手をあげて下さい。」
誰も上げなかつた。
「ありませんか。」
間。
誰もなかつた。
「ぢや、齋藤案に從ふことになるんですねえ。」
皆は互に見𢌞はしてみた。それから手が、あやふやに七ツ、八ツ擧がつた。
「そつたらごとで百姓の貧乏なほるもんけア!」
誰か後で野生的な太々しい聲で叫んだ。さういふ瞬間であつたので皆はその方を見た。──源吉だつた。
「ぢや、源吉君、どうするんです。」石山がきいた。
「分つてるべよ。地主から畑ばとツ返すのさ!」
ぴたり押へられた沈默だつた。次の瞬間、然し源吉の意見は一たまりもなく、皆が口々に云ふ罵言で、押しつぶされてしまつた。
それから後、源吉は一言も云はなかつた。始終、腕をくんだまゝでゐた。
まづ、そして、根本的なことが決められた。それからそれをどういふ風にしてやるか、といふことが問題になつた。それは、二、三日に、地主の差配が例年の通り𢌞つてくることになつてゐるので、それに、事情を説明し、すぐ地主に交渉を始めることになつた。この時、その色々な交渉の間小作の米をどうするのか、と云ひ出すのがあつた。それが又相當大きなことなので、中々意見が一致しなかつた。又百姓には、それを最後迄の見通しをつけた上で、確實な──手落ちのない成算でやつて行けることが出來なかつた。この所、先生の意見をきいた。校長先生は、まづ、町にゐる商賣人に自分達所有の畑物を全部賣つてしまひ、その背水の陣で、地主に當ることにしたらいゝ、といふことを云つた。それには二つの條件をつけた。第一は最初の地主への交渉が不調に終つたら、第二は地主がその結果、作物を無理に押へるといふやうな樣子が分つたら、といふのがそれだつた。一軒々々持つてゐたのではすぐ押へられるし、又そのために、結束が破れるおそれもあつた。先生はかういふ點を防ぐためにもこの方法は重大であると云つた。かういふ事は百姓にはかなり思ひきつたことだつたけれども、それが當り前のことのやうに思はれる程皆せツぱつまつてゐた。
かういふ風に決つたことを、實際にやつてゆくための人間とか、細則、具體的な方法、さういふことは、三、四人の重立つた人(その中には校長先生も入つた。)で決めて、すぐ皆に通知することにした。それでその日の集合が終つた。
百姓達は二人三人一緒になつて、今日のことを話しながら歸つて行つた。外はまだ風はやんでゐなかつた。百姓達は厚い肩を前の方へ圓め、首を外套の襟の中にちゞめて、外へ出て行つた。
源吉が歸らうと、外套に手を通してゐると、先生の子供が出てきて、源吉に是非遊んでゆけと、着かけてゐる外套をひつぱつて、居間の方へ連れて行つた。仕方なしに源吉は、しばらくの間、子供の相手になつてゐた。源吉は何時も他愛なく子供相手に遊ぶので、好きがられてゐた。が、源吉はその、子供達に好きがられる、何んとも云はれない大まかな、無心な氣持が、ちつとも出なかつた。源吉は何處かイラ〳〵して、じつとしてゐられなかつた。好加減にして出てきた。外へ行かうとして、教室の戸をあけると、殘つた四、五人が相談をしてゐた。
「源吉君、殘つて一つ相談に乘つたらどうだ。」と、若い一人が云つた。
源吉は口のなかで、煮え切らない返事をして、外へ出た。
「それどころか!」源吉はさう思つてゐた。
源吉は自分の考へが、皆に何んとか云はれる筈だと思つた。百姓は後へふんばる牛のやうだつた。理窟で、さうと分つてゐても、中々、おいそれと動かなかつた。けれども源吉はそんなケチな、中途半端な、方法はなんになるか、と思つた。何故、そこから、もう一歩出ないのか、さう考へた。
源吉は小さい時から、はつきりさうと云へないが、ある考へを持つてゐた。源吉の父親が、自分の一家をつれて、その頃では死にに行くといふのと大したちがひのなかつた北海道にやつて來、何處へ行つていゝか分らないやうな雪の廣野を吹雪かれながら、「死ぬ思ひで」自分達の小屋を見付けて入つた。その頃、近所を平氣で熊が歩いてゐた。よく馬がゐなくなつたり、畑が踏み荒らされたりした。石狩川の川ブチで熊が鮭をとつてゐるのを、源吉の父が馬を洗ひに行つた途中見て、眞青になつて家へかけこんで來たことがあつた。夜になると、食物のなくなつた熊が出てくるので各農家では、家の中にドン〳〵火を焚いた。熊は一番火を恐れた。源吉は小さい時の記憶で、夜になると、窓から熊が覗いてゐる氣がして震へてゐたことを覺えてゐる。──その時から二十年近く、源吉の父親達が働きに働き通した。
母親から、源吉が聞いたことだが──その頃父親が時々眞夜中に雨戸をあけて外へ出て行くことがあつた。母親は、用を達しに行くのだらうと、初め思つてゐると、中々歸つてこなかつた。一時間も二時間も歸つて來ないことがあつた。母はだん〳〵變に思つて、それを父にきいた。父は笑つて、「畑さ行つて來るんだ。」と云つた。それ以上云はなかつた。
いつかの晩、母があまり變に思つたので、後をついて行つた。すると父が眞暗な畑の中にズン〳〵入つて行くのを見た。その時には母も何かゾツと身震ひを感じた。母は、少ししやがんで、そつちの方をすかして見てゐると、父は畑の眞中に、立つたきり、じいとしてゐた。十分も、二十分も。それからその隣りの自分の畑の方へ行くと、又、やつぱり立つたまゝしばらくさうしてゐた。と、今度はそこから一寸離れた自分の畑に歩いて行つた。母にはちつとも、そのことが分らなかつた。
あとで、母はとう〳〵その晩のことを云ふと、
「馬鹿だなあ」と云つて笑つた。「俺なア、俺アの畑が可愛くてよ。可愛くて。畑、風邪でもひかなえかと思つてな。」
そして、眞面目に「お前だつて、目さめれば、源や文が風邪ひかねえかつて氣ばつけて、夜着かけてやるべよ。」と云つた。
が、何時の間にか、その生命のもとでのやうな土地が、「地主」といふものに渡つてゐた。父親は、ことに、死ぬ前、そのことばかりを口にして、グヂつてゐた。源吉は、それをきく度に、子供ながら、父親の氣持が分ると思つた。源吉が地主の足にかじりついたのは、さう無意味な理由からではなかつた。「畑は百姓のものでなければならない。」さう文字通りはつきりではなくても、このことは、源吉は十一、二の時から、父親の長い經驗と一緒に考へてきてゐた。
源吉は然し、やつぱり外の百姓達と同じやうに、さういふことを、たゞぼんやり考へてゐた(──考へてゐたとは云へない程度であつたが)が、そのぼんやりした考へ? が、今度は、源吉自身の經驗で、少しづゝ形をとつてきた。そしてそのことが、もう一歩思ひ切つた跳進をしたのは、校長先生の話したことであるやうだつた。こんな簡單な、分りきつたことを、然し百姓は一生がかりで分つた、或ひは分らずに終ふことさへあつた。分らずに終ふことが、かへつて多かつた。
「分つてるべよ、地主から畑ばとつかへすのさ!」──かう源吉が云つたのは、理窟でなかつた。源吉はさう背後で云はせる父親の氣持も感じてゐたのだ! 源吉は歩きながら、こんな事が分らない、そして又そこ迄行かうとしない百姓に、心から腹を立て、「勝手にしやがれ、俺ア俺アだ。」と思つてゐた。
七
源吉が、集會の途中、醉拂つて歸つてきた。札幌に行つてゐる勝から、手紙が來てゐた。
──札幌にも雪が降つた。やつぱり寒い。俺達には冬が一番堪へる。朝六時には工場へ行く。冬の朝の六時つたら、俺達若いものだつて身體の節々が痛んで來るほど寒い。油でヒンヤリする帽子をかぶり、背中を圓くして、辨當をブラ下げて出掛けてゆく。俺の前や後にも、やつぱりさういふ連中が元氣のない恰好で急いで歩いてゆく。工場では、ボヤ〳〵してはゐられない。六時から晩の五時迄、弓のつるみたいに心を張つてゐなけアならない。俺が來てから、仲間の若い男が二人も、機械の中にペロ〳〵とのまれてしまつた。ローラーから出てきた人間はまるで大幅の雜巾のやうなヒキ肉になつて出てきた。
一人の方の嬶が、それから淫賣をやつて子供を育てゝゐるといふ評判をきいた。
工場が、大きな機械の𢌞る音で、グアン〳〵してゐる。始めの一週間位は、家に歸つても、頭も、耳も工場にゐるときと同じやうに、グアン〳〵して、新聞一枚も讀めなくなつてしまつた。俺は、このまゝ馬鹿になつて行くのかと思つた。
夜五時になつて(今では眞暗だ)汽笛が鳴る、さうすると人を喰ふ機械から歸つてもいゝといふことになる、身體も心も、急にガツたりする。歸るのが、イヤになるほど疲れてゐる。其處へそのまゝ坐つてしまひたい位だ。俺はかう思つた──百姓は、かういふ工場で働いてゐるもの等より、もつと低い、馬鹿らしい、慘めな生活をしてゐても、あの野ツ原で働くのが、どんなに過勞だと云つたつて、空氣がいゝ、まるで澄んだ水のやうに綺麗な空氣だ。空氣のなかには毛一本程のゴミも交つてゐない。働きながら、歌もうたへる。晝には、畑の眞中に、仰向けになつて、空を見ながら、ぼんやりしてゐたり、晝寢も出來る。ところが、どうだ、こゝは! 俺はこの工場の中を、君に知らせたいのだ、然し、どう知らせていゝのか俺には一寸出來ない。まるで、それに比らべたら、場末のグヂヨ〳〵した大きな「塵箱の中で」働いてゐると云つてもいゝ。工場の中は、暗くて、臭くて、ゴミがとんで、ムツとして、ごう〳〵として、……お話にならない。仕事が終つて出てくるものは、眞黒い顏をして、眼だけを光らして酒に醉拂つた人のやうに、フラ〳〵してゐる。
こゝに働いてゐる人達は、百姓のやうに、貧乏はしてゐても、何處かがつしりしたところがなくて、青白くて、病身らしくて、いつでもセキをしてゐる。俺は、そのことを考へて、暗い氣持になつてゐる。石狩川の大平原にゐた方が、と、きまりきつた愚痴が、此頃出かゝつてゐる。本當のところ、其處の生活も亦いゝものではないが。
俺は、村にゐたときから、君とちがつて、どうしても落付いてゐることが出來なかつた。こんな生活でない、もつといゝ、本當の生活があると、いつでも、考へてゐた。何んであるかちつとも分らずに、そればかり考へてゐた。が、今になつて、俺達がどんなところに轉ばうが、轉べるところは決つてゐる、といふことが分つた。分らされたんだ。君はきつと、こんなことを云ふやうになつた俺を笑ふだらう。笑はれても仕方ない人間だ。然し、俺は、俺達皆が一體どんなものであり、どんなことをして居り、それがこの社會にどんな役目と、待遇をうけてゐるものであるか、かういふことを、こゝへ來てから初めて知るやうになつた。百姓も、このことは分らなければならないことだ。こゝには、こつそり、さういふことを研究してゐる人達がゐるんだ。俺も一寸顏を出すやうになつてから、ぼんやりながら分りかけてきた。そして、俺はびつくりしてゐる。この世の中が大變なからくりから出來てゐるといふことを初めて知つた。そして、そのどれもこれもが、皆、「俺達の」頭に成る程とピン〳〵くるものだ。
が、それはいづれ、詳しく書くつもりだ。そつちではどうして暮してゐる。もしなんなら、手紙を書いてくれたら有難い。
君の妹も、札幌に出てきたことを愚痴つてゐる、俺は君の妹を女給にだけはしたくないと思つて、今、何處かへ奉公させてやりたいと思つてゐる。
こんな意味の手紙だつた。
「兄、芳さん、歸つてきたツてど。」
源吉が臺所で水をのんでゐたとき、外から來た由が源吉を見て、云つた。源吉は口のそばまでもつて行つた二杯目のひしやくを、そのまゝに、とめて「うん⁉」と、ふりかへつた。眼がぎろりとした。
「お母アからきいてみればえゝさ。」
「うん?」源吉は、水の入つてゐるひしやくを持つたまゝ、ウロ〳〵した眼で母親を探がした。
「何處さ行つてる?」
由が裏口へ出て行つた。戸を開けた拍子に、いきなり雪が吹きこんできた。源吉はまだひしやくを、口の高さにもつたまゝ、うつろな眼をして立つてゐた。
「何處さ行つたか、居ねえわ。」由が歸つてきた。
源吉は、フト思ひ出したやうに、ゴクツとのどをならして、水をのむと、外へ出て行つた。
然し二分もしないで、歸つてきた。醉つた眼をすゑて。土間に立つてゐた。それから表の方を一寸見た。そして、何か考へ惑つてゐた。が、チエツ! と舌打ちすると、家へ上つた。源吉はすぐ、押入れから、垢でベト〳〵になつた丹前をとり出して、それを頭からかぶると、寢てしまつた。由は、隅の方で、さういふ兄を、半ば恐れながら、然しじいと見てゐた。
夜になつて、母親が、お芳のことを「驚いたもんだ。」と云つた。源吉はその時は何時ものむつちりにかへつて、飯を食ひながらだまつて聞いてゐた。
──お芳は札幌にゐたうちに、ある金持の北大の學生と關係した。そしてお芳が妊娠したと分つたときに、その學生にうま〳〵と棄てられてしまつた。その學生の實家は内地に澤山の土地をもつた地主だつた。
お芳は、何度も〳〵學生にすがつて行つた。「誰の子供だか分るもんか。」終ひにはさう云はれた。そのうちに、身體のそんな事情で、カフエーの方も工合わるくなり、大きな十ヶ月の腹で、歸つてきた。
本當は十日も前に、「こつそり」歸つてきてゐたのだつた。お芳の父親は家に入れないと云つた。貧乏百姓には、寢て米を食ふ厄介物でしかなかつたし、もう少したてば、それにもう一つ口が殖える。とんでもないものいりだつた。そして又そんな不しだらな「女郎」を家には置けない、とぐわんばつた。お芳は土間に蹴落された。「物置の隅ツこでもいゝから。」お芳は、土べたに横坐りになつたまゝ、泣いて頼んだ。──
母親のせきに、お芳の父が會つたとき、「あれア、もう百姓仕事も出來ねえ、ふにやけ身體になつて歸つてきたんし、手もまツ白くて、小さくなつて……良い穀つぶしが舞えこんだもんだし。──あつたらごとになつて親の罰だべなんす。」と云つた。
母が「まあ〳〵」と云ふと、
「なんかえゝごとでもなえべか?」ときいた。母がきゝかへすと、
「あの腹の子んしな。」と云つた。
「お前さん!」母はびつくりした。
すると、お芳の父は落着きなく、うやむやにして、頭を自分の手で押へて振りながら、歸つて行つた。「俺アは、もうどうもかもはア分かなくなつたんし。」……
母親は、源吉に、「無理しねえばえゝが。」と云つた。「あんの調子だら、あぶねえわ。」
源吉は返事も、相槌もうたず、にゐた。母親は、それから、聲をひそめて、
「よく聞いてみれば、お芳ア、そんなに札幌さ行ぎたい、行ぎたいつて、行つたんでねえツてなア。」
源吉は、母親の顏を見た。「うん?」
「なんでもよ、お芳居だら、口かゝるし、働くだけの畑も無えべよ、んで、ホラ、そつたらごとから、お芳にや、家つらかつたべ──。」
「それ、本當か?」
「お芳、隣りの、あの、なんてか、──石か、──石だべ、石さ云つたどよ、さうやつて。」
源吉はそれをきくと、溜めてゐた息を大きくゆるくはいて、それから又横を向いてだまつた。
「可哀さうに! 産婆さ見せる金も無えべし、それに、こツ恥かしくて見せもされねえべしよ。──お芳の弟云つてたけど、毎日札幌さ手紙ば出してるどよ。んから、あの郵便持ちがくる頃に、いつでも入口さ立つて待つてるんだけど、一度だつて、返事來たごと無えてたぞ。」
母親が、ポツリ、ポツリ云ふのが、源吉の胸に、文字通り、ぎぐり〳〵刺さりこんで行つた。
初め、源吉は、お芳が歸つてきたときいたとき、カツ! とした。拳固をぎり〳〵握りしめると、「畜生ツ!」と思つた。一思ひにと思つて、飛び出さうとさへした。
が源吉は、母親の、それをきいてゐるうちに、自分でお芳を憎んでゐるのか、あはれんでゐるのか分らない氣持になつた。げつそり頬のこけたお芳が郵便配達を入口に立つて待つてゐる恰好が、源吉には見えると思つた。弱々しい、考へ込んでゐる眼が、どうしても離れない。大きな腹をして、──だが、そこへ來ると、源吉は頭を振るやうにして、眼をじつとつぶつた。胸が變に、ドキついてきて、彼には苦しくてたまらなかつた。
次の日に、源吉は、お芳が始めどうしても飮まない、飮まない、とぐわんばつてゐた藥を、やうやく飮んでゐるといふ、噂をきいた。それは、何度も何度も出した手紙が一囘だつて返事が來ないのに、色々これからの事も考へ、飮み出したのだと、云つてゐた。源吉は、自分のことのやうに、氣持に狼狽を感じた。が、だまつて、それをこらへた。
「嘘だらう。」と云つた。
「本當々々。」母親は見てきたやうに云つた。「可哀さうにさ、眼さ一杯涙ばためて、のむんだと。んで、飮んでしまへば、可哀さうに、蒲團さ顏つけて、聲ば殺して泣くどよ。」
「馬鹿こけツ!」
源吉は、何かしら亂暴に、ブツキラ棒に云ふと、母親のそばから荒々しく立つた。
晩に飯を食つてゐたとき、
「赤子、んで墮りたのか?」と、ひよいときいた。
母親は源吉の顏をだまつてみて、それから「うん?」と云つた。
源吉は、自分がなんのきつかけもなく、突コツにそれを云つたことに氣付いて、赤くなつた。ドギまぎして「芳さ」と云つた。
「芳? ──うん、芳か。」さう母親が分ると、「それさ、まだ墮りねえどよ。體でも惡くしねえばえゝ。」と云つた。
*
百姓達は、さうやつて集つて決めたが、今度はそのことを、地主や差配を相手にやつて行くといふやうな事になると、お互が何處か、調子がをかしくなつた。知らず知らずの間に、どうにか我慢することにするか、そんな事に逆もどりをしさうな處が出てきた。さうなつたとしても、百姓は然し今までの長い間の貧乏の──泥沼の底のやうな底になれてゐたので、ちつとも不思議がらずに矢張り、その暮しに堪へて行つたかも知れなかつた。──源吉は、一層無口に、爐邊に大きく安坐をかきながら、「見たか!」と、心で嘲笑つた。
「お前え達のやることツたらそつたらごとだ。」
二、三日して、小作料を納められないので、立退きをされさうになつてゐた「河淵の澤」のところへ、差配がとう〳〵やつてきた。澤の畑を處分するから、雪が消えたら、家をあけろ、と云つた。女や子供に、ワン〳〵泣かれると、澤はすつかりオロ〳〵して、この前の會合の仲間へ、それを云ひに行つた。「幹部」の百姓は、急に、それで騷ぎ出した。そして、すぐ學校へ寄り合ふと、今更新しいことのやうに、この前と同じ相談を又やり直した。
「どうしても、やらなけアならないかな。」年寄つたのが、そんな事を云つた。が、他の「幹部」は、今時、こんな事を云ふのをきいても、「冗談云つちや困る」とさへ思はなかつた。かへつて、首を一緒にかしげて考へこんだりした。そして、
「まあ、さうしなけアなんねえべ。」と、そんな事になつた。
それから、何邊も同じ事を、グル〳〵繰りかへして、「がつしりかゝつてやるべ。」といふことに決つた。それで皆が、やうやく別れた。
差配が今年度分の小作料のことで、村にやつてきて、村の重だつた──小金をためてゐる丸山の家にゐることが分つたので、「幹部」の一番若い元氣のいゝ石山が、校長先生の入智慧で作りあげた恐ろしく漢字の多い、石山自身にさへ、さうはつきり文句も意味も分らない「陳述書」をもつて、出掛けて行つた。
差配は、石山がドモリながら、眞赤になつて、同じことを、何度も云ふのを飯を食ひながらきいてゐた。それから、眼鏡を袂から出して、袖で玉を一々丁寧にふきながら、「何しに來やがつた。警察さ突き出されたくてか⁉」と云つた。
そして、「陳述書」を五分も十分もかゝつて讀んでしまふと、「馬鹿野郎。一昨日來い!」と、どなつて、それを石山の膝に投げかへしてよこした。
「いつの間に、かう百姓生意氣になつたべ。」
口の中に手をつツこんで、齒の間にはさまつてゐるのを、とつてゐた丸山が、そばから口を入れた。
さう云はれると、石山は急に、不思議に、太々しい、何時もの元氣がかへつてきた。
「覺えてゐやがれツ!」向き直つて、タンカを切つた。
丸山は、穩かに、百姓はそんなことをするもんでない、地主は親で、俺達は子供のやうなものだ、何事も堪へしのんで働くことは立派なことだ。歸つたら、皆んなにさう云つた方がいゝ、差配さんには自分からよく頼んで置いてあげるから、と云つた。
「糞でも喰へツ!」石山はそのまゝ表へ出てしまつた。
一寸行つてから、帽子を忘れてきたことに氣付いた。石山はプン〳〵しながら、ひよいとその時だけ立ちどまつたが、もどりもせずに、結果を待つてゐる「幹部」のところへ、走つた。
それで、──それで百姓達が、やうやく、殺氣立つてきた「やうに見えた」。自然、そして幹部から、その氣勢が、だん〳〵一人々々と、傳つて行つた。誰も何んとも云はなくても、石山の家に、成行きを知るために、百姓がわざ〳〵出掛けてくるものも出來てきた。無口な百姓も、口少なではあるが、苛立つた調子で、ムツツリ〳〵ものを云つて行つた。
源吉達は、もう雪も固まつたので、山へ入る時期だつたけれども、この方が片付くまで行けなかつた。それに今では皆、そんな處でない、と思ふほど、興奮してゐた。石山の家に寄り合つて、色々の話をきいたりしてゐるうちに、殊に若い百姓などは、「地主つて不埓だ!」さういふ理窟の根據が分つてくるのが出てきた。始め「さうかなア」と思つて、フラ〳〵した氣持のものが、「野郎奴」などと云つてきた。澤山集ることがあると、校長先生は、手振りや、身振りまでして、「佐倉宗五郎」や「磔茂左衞門」などの義民傳を話してきかせた。それが、處が、理窟なしに百姓の頑固な岩ツころのやうな胸のすき間々々から、にじみ入つて行つた。それから、笑談のやうに、「北海道の宗五郎」といふ奴が、何處かから一人位は出たつて惡くないだらうさ、と云つた。すると、朴訥な百姓は、眞面目に、考へこんだ。
差配に掛合つても結局駄目だといふことが分り、そこへもつて行つて差配のとつた傲慢な態度のことから、カツ! とした元氣で、すぐ地主に掛け合ふことに、手はずがきめられてしまつた。校長先生の「北海道の宗五郎」が時機を得て、三人も、その大きな役目を引き受けるものが百姓の中から出た程だつた。
そこで、それに「幹部」のものが二人加はつて、都合五人で「停車場のある町」の地主の家へ出掛けることになつた。それから殘つた幹部が、百姓二、三人とで、村中の百姓家を𢌞つて、今迄の成行きを話し、愈〻すつかり手を組み合はせて、皆一緒に──一人も地主へ裏切るものがないやうに、どし〳〵やることにするといふことを云つて歩くことにした。
その連中は、お婆さんなどにつかまると、くど〳〵暮しの苦しいことや、自分達の昔からのことなどを口説かれた。そして、「地主樣」になんか、どうか手荒い事をしないでくれと拜まれたりした。「俺んどこの息子ば、そつたら寄合ひさなんか出さないで、すぐ歸れツて云つてくれ。」と、頭から、どなられたところもあつた。「碌なものにならない。」さういふ處は何んと云つても駄目だつた。それから、皆のする事を危ぶんで、「何んか、別にえゝこどでもねえべか。」と云つたり、「失敗じつたらハ、飯の食ひツぱぢになるべし。」と云はれたりした。
ところが、その連中のうちの誰かゞ眼をつけてゐる娘の家へ行つて、その娘のゐるところで、いきなり、「碌でなし奴等!」と怒鳴られて、がつかりするものがあつた。又、逆に、そんな娘のゐるところへは、その用事にかこつけて、上り端に腰を下して、別な話を長々して喜んだのもゐた。──そして然し、とにかく、皆ヘト〳〵になつて、石山の家へ歸つてきた。
地主の家へ行つた方は、家の中から野良犬でも「たゝき出される」やうに、上り端に腰もかけさせずに、そのまゝ「たゝき出」されて、戻つてきた。
「この野郎共、串だんごみたいに、手前え等ばつきさして、警察に、渡してやるから──今に、食はねえめに會ふな! 役人ばつれて行つて、お前達のものビタ〳〵片ツぱしから差押へてやるから。」
皆の出てゆく後を丸太棒でゞもなぐりつけるやうに、惡態をついた。五人とも涙を眼に一杯ためて、興奮してゐた。
幹部の百姓と、校長先生とは、すぐこの結果を、村中の百姓に一時も早く知らせて、皆を極度に激昂させ、その滿潮に乘つた勢ひで、やつてのけなければならないことを相談した。──「鐵は赤いうちに」! そして、一方、先生が町へ行つて、賣却の交渉を濟ませて置くことが、勿論必要な緊急事だつた。
「團結だ! 團結だ! 一人も殘らず團結だ!」
百姓の二、三人は、先生の使ふ「團結」といふ聞き覺えた言葉を使つて、叫んだ。
八
その朝、まだ薄暗いうちに、村の百姓は(川向ひの百姓も)馬橇に雜穀類を積んだ。
源吉は寒さのためにかじかんだ手を口にもつて行つて息をふきかけながら、馬小屋から、革具をつけた馬をひき出した。馬はしつぽで身體を輕く打ちながら、革具をならして出てきた。が、外へ出かゝると、寒いのか、何囘も尻込みをした。「ダ、ダ、ダ……」源吉は口輪を引つ張つた。馬は長い顏だけを前に延ばして、身體を後にひいた、そして蹄で敷板をゴト〳〵いはせた。「ダ、ダ、ダ……」それから舌をまいて、「キユツ、キユツ……」とならした。
源吉は馬を橇につけて、すつかり用意が出來ると、皆が來る迄、家のなかに入つた。母親は、縁のたゞれた赤い眼を手の甲でぬぐひながら、臺所で、朝飯のあと片付をしてゐた。由は、爐邊に兩足を立てゝ、開いてゐる戸口から外を見てゐた。
源吉が入つてくると、母親は、
「俺アそつたらことなら、やめたらえゝと思ふんだ。」と半分泣聲を出して云つた。
それは、このことが決つてから、毎日のやうに、何かの拍子に母親が云ふことだつた。何邊云つても、母親は又新しいことか何かのやうに、云つた。「地主樣に手向ふなんて、そつたら恐ろしいことしたつて、碌なことねえ。」
年寄つた百姓達は、どんなことがあらうと、全くそれは文字通り「どんな事」があらうとたゞ「仕方がない。」さう何年も、──何十年も思つてきてゐた。
そんな大それた事は、だから、思ひも寄らなかつた。
源吉は然し母親の云ふことには、別に何んとも、たてをつくやうな事は云ひもせず、しもしなかつた。ムツシリしてゐた。ことに、源吉は、この事があつてから、ずウと、何時ものムツシリがひどくなつてゐた。母親にはそれが分つた。源吉は、ひどくムツシリし出す、その次には何かキツトいゝことがなかつた。大きなことをやらかす前、源吉は鐵の固まりのやうにだまりこくつてゐた。母親はそんなことが無ければ、とそればかり思つてゐた。だから、何時もの愚痴が母親の口から出た。
「昔、こつたらごと無かつたんだど、本當に、おつかなこと仕出來すんだか。」
源吉は上り端に腰を下すと、やけにゴシ〳〵頭をかいた。
「なんもよくなるわけでなしさ。」
由は、火に足をたてたまゝ、母親と兄とを、見てゐた。何んのことを話し合つてゐるのか分らなかつた。
「きつとえゝことなんて無いんだ。」母親は鼻涕をすゝり上げた。
「それこそ本當にめしも喰へねええんた事始まるべよ。」
「あまり先き立たねえ方えゝべ。ん、源。」
母親はまだ、とぎれ、とぎれにくど〳〵云つた。
源吉は年寄つた母親の後姿を見てゐた。白髮の交つてゐるゴミの一杯くつついてゐるモシヤ〳〵した髮の下から、皮だけたるんだ、生氣ない首筋が見えた。肩がすつかり前こゞみになつて、腰もまがつてゐた。帶の代りにヒモをしめてゐた。身體全體がまるで握り拳位にしか見えなかつた。源吉は今更、氣付いたやうに、「年寄つたなア!」さう、思つた。
源吉は、今度のことでは、自分から、といふ風な氣乘りはなかつた。反對にこんな煮え切らないことなんて、見てろ、と思つてさへゐた。
一寸すると、遠くで、馬橇の鈴の音が聞えてきた。
「ホラ、兄。」由が表の方に聞耳をたてゝ云つた。
源吉は、どつこいしよ、と云つた風に腰をあげて、表へ出て行つた。
母親はため息をして、ブツ〳〵何か口の中で云つた。そして、腰をのばして、表の方を見た。「氣ばつけて行くんだで。」源吉の後からさう云つた。
源吉は、一寸、振返つて、母親を見た、が、そのまゝ戸をしめて、出た。
卷舌で、馬の手綱をとるのが聞えた。後から來た仲間と何か話してゐる。走つてきた馬が、いきり立つて、首を高くあげながら、嘶いた。鈴は、後から後からと聞えてきて、十二、三臺もとまつたらしかつた。由は、窓から覗いて、何頭來たとか、誰々だとか、一つ〳〵云つて母に知らせた。表の騷ぎはだん〳〵大きくなつて行つた。馬のいななく聲や鈴の音や、百姓達が、前や後の仲間を呼び交はすやうにしやべつてゐるのや、それ等が一つになつて、どよめきになつて聞えた。由は、うれしがつて、窓にぴつたり顏をあてながら、一生懸命に表を見てゐた。母親は、獨言のやうに、「罰當り」とか、「ふんとに碌でなし」だとか云つた。表へは出て見なかつた。
やがて、馬車が一齊に動き出した。鈴の音が、空氣でもそのまゝ凍えるやうな寒い空に、朗かに、しかしそれだけブルツとするほど寒さうにひゞきわたつた。それに百姓の馬をしかる聲や、革でぴしり〳〵打つ音や、馬のいなゝきなどが、何か物々しい、生々した、大きな事が今起らうとしてゐるやうに聞えてきた。
何臺も何臺も過ぎて行つた。誰かゞ源吉の家に言葉をかけてゆくものがあつた。母親は、やうやく戸をあけて表へ出てみた。その時は丁度もう終りさうで、鈴木の石が、母親をみて、「やア、お婆さん、行つてくるど!」と言葉をかけた。
見ると、涯もなく廣がつてゐるたゞ雪ばかりの廣野を、何臺もの馬橇がまがりくねつてついてゐる道を、勢ひよく走つて行く一列が見えた。遠くから、その橇の調子のいゝ鈴の音が聞えてきた。時々、雪煙が、パツ〳〵と上つた。後の方の馬橇で先頭のが見えなくなつたかと思ふと、道が逆に曲つてゐる處にくると、その先頭の方が玩具のやうに小さく見えたりした。一列はその度毎にまるで、のびたり、ちゞんだりくねつたり、する黒い糸筋のやうに見えた。それが雪の平野だけに、はつきり目についた。そしてリン〳〵といふ鈴の音が、遠くに聞えたり、急に近くに聞えたりした。母親は、氣でも呑まれた人のやうに、じつと立つて、それを見てゐた。フト、自分に歸ると、「なんまんだ〳〵〳〵。」と云つた。
停車場のある町では、幹部の百姓達が待つてゐることになつてゐた。雪道が、細くなつて續いてゐる行手に、防雪林の一列がみえ、すぐそこから電信柱や電氣柱が鉛筆を何本も立てたやうにみえ、煙草の煙程の、ストーヴの煙がシヨボ〳〵空に上つてゐるのが見える所迄來た。もうすぐだつた。
「どうだい、この威勢は!」
源吉の前の房公が、振りかへつて云つた。
「うまく行くツかい?」
源吉はあいまいな返事をした。
どの馬も口や馬具が身體に着いてゐる處などから、石鹸泡のやうな汗をブク〳〵に出してゐた。舌をだらり出して、鼻穴を大きくし、やせた足を棒切れのやうに動かしてゐた。充分に食物をやつてゐない、源吉の馬などはすつかり疲れ切つて、足をひよいと雪道に深くつきさしたりすると、そのまゝ無氣力にのめりさうになつた。源吉は、もうしばらくしたら、馬を賣り飛ばすなり、どうなり、處分をしなければならないと、考へてゐた。
十二、三臺もの馬橇が鈴を一せいに、雪の廣野に、おつぴらに響かせながら、前や後が時々呼びかはしたり、物々しく、精一杯に一散に走つてゐるうちに、それが、不思議に、こそくな百姓達の氣持を、グン〳〵殺バツな、誰でも、なんでも來い、といふ氣持に引きずつて行つた。四十をずつと過ぎてゐる、普段はおとなしい房公さへが、
「地主の野郎、下手なごとしたら、袋たゝきだ。」さう、大聲で源吉に云つた。そして、さういふ氣勢が、云はず語らず、皆の氣持を横に、太く強く一本に結びつけてゐた。若し、彼等の前に何か邪魔ものが出たとしたら、それがどんなものであらうと、騎兵の一隊が敵陣の眞只中に飛び込んで、馬の蹄で縱横に蹴ちらすやうに、一氣にやつつけたかも知れない。──それは、誇張なくさうだつた。
防雪林を出ると、鐵道線路の踏切があつた。
一番先頭に立つてゐたのが、いきり立つてゐる馬の手綱を力一杯に身體を後にしのらして引きながら、踏切番に、汽車をきいた。
「馬鹿に澤山だな、どうしたんだ。汽車はまだゞ。えゝよ。」
顏を見知つてゐた踏切番が、柄に卷いた白旗をもつて、出てきた。
「ぢや、やるよ!」
そのために、一時とまつた馬橇が、又順に動き出した。その踏切を越すと、今度は鐵道線路に添つてついてゐる道を七、八丁行けば、それで町には入れた。「さあ、愈〻しめてかゝるんだぞ。」さういふのが、前から順次に皆に傳つてきた。
町の入口に、七、八人の人が立つてゐるのが、眼に入つた。はつきり人は分らなかつた。が、先頭に立つてゐたのが、大きな聲で呼んだり、自分の帽子を振つて合圖をした。入口の七、八人は動かずに、こつちの方を見てゐるらしかつた。向ふには分らないのか、こつちからの合圖には、何も返事をしてゐるらしいしるしが無いやうに思はれた。
一寸すると、それ等の人が、一度に、こつちに向つて走つてくるらしかつた。
先きに立つてゐた百姓の二、三人が「あツ‼」と、一緒に叫んだ。そして、急に馬を止めた。後からの馬は、はずみを食つて、前の馬橇に前足を打つた。後から、「どうした、どうした」「やれ〳〵!」皆が馬橇の上でのめつたり、雪やぶにとび出したりして、前を見ながら叫んだ。
「大變だ! 巡査だ‼」
「えツ‼」皆、ギヨツ! として、瞬間、だんまりの表情人形のやうに、立ちすくんで、前方を見た。──巡査だ! たしかに巡査だつた。
だが、巡査とは! 百姓は巡査にはなれてゐなかつた。文字通りだじ〳〵になつて、何が何やら分らずにゐるうちに、手もなく巡査に兩側を守られて、十三人の百姓は警察に連れられて行つた。警察には幹部の百姓も連れて來られてゐた。地主が皆の入つてくるのを見ると、椅子に坐つたまゝ、大聲で笑ひ出した。その夜まで皆は、ブル〳〵震ひながら、駐在所の後の小さい室に押しこめられてゐた。巡査が三人もついてゐるので、お互が一言も話すことが出來なかつた。表からは、何頭もの馬のいなゝきや足がきが聞えてくることがあつた。皆は兩腕をはすがひに深く懷につツこんで、顎を胸にうづめ、鷺のやうに交る〳〵片足で立つて、片足は他の片足の脛や股にくつつけ、寒さのために爪先などが感覺のなくなるのを防いだりした。
一人々々、そこから呼び出されて、取調べられた。ドアー越しに、ピシリ〳〵と平手でなぐりつける音や、大きな身體がどつかへ投げられたやうな、肉が直接にぶち當る變に鈍い、音が、はつきり聞えてきた。低くうなるのや、鼠でもふみつけられたやうな叫聲なども聞えた。その度に、皆は思はず息をのんだ。だが、然したゞ不安な眼差しを、互ひに交はすことしか出來なかつた。荒々しく戸が開くと、よろ〳〵になつた百姓が、つツ飛ばされるやうに、のめつて入つてきた。
鼻血を出し、それが顏一杯についてゐて、鐵道線路の轢死人が立ち上つてきた、といふ風にみえるものもあつた。顏一杯が紫色にはれ上つて、眼が變に上ずつてゐるのや、唇をピク〳〵ケイレンさせて入つてくるものもあつた。皆は次の順番のくるのを、身體を硬直させながら、反つて、妙にうつろな氣持で待つてゐた。
源吉はいきなり──いきなり顏をなぐられた、と思つた。自分の體が瞬間ゴムマリのやうに縮まつたのを感じた。
「貴樣、皆をけしかけたろツ!」
源吉は反射的に、自分の頬を兩手で抑へた。と、次が來た。鼻がキーンとなると、強い藥でも嗅いだやうに感じて、──……べつたり尻もちをついてゐた。眼まひがした。彼は兩手で床に手をついて、自分の身體を支へた。鼻血の生ぬるいのが、床についてゐる手の甲に、落ちてきた。
「この野郎達案外、皆強情だ! 土ん百姓の癖に生意氣しやがると──」
側に立つてゐた巡査が、さう云ひながら、腰にさしてゐた鞘のまゝの劍をもつて、滅多打ちに、源吉をなぐりつけた。すると、二、三人の巡査もよつてきて、ふんだり、蹴つたりした。──源吉は、「夢中」になつてゐた。それから少し手をゆるめた。
「どうだ?」
源吉は、自分でも分らなかつたが、どうしたのか、眼蓋が重たくて、はつきり開けることが出來なかつた。そして顏全體に何か粘土でもぬられてゐるやうで、自分の手で抑へても、それがちつとも顏の感覺に來なかつた。何か別なものをつかんでゐるやうだつた。
「皆をけしかけたつて白状するんだ!」
巡査が云ふのも、何處かやつぱり一皮隔てた處から聞えてくる氣がした。
「大きな圖體しやがつて、この野郎。」
その途端に、源吉の身體がひよいと浮き上つた。「えツ!」氣合だつた。──源吉は床に投げ出されたとき「うむ」と云つた。と見る〳〵肺が急激に縮まつてゆく、苦しさを感じた。そして、自分の體が床から下へそのまゝ、グツ、グツと沈んでゆくやうに感じて……が、それから分らなくなつてしまつた。
三日間駐在所に置かれて、その暮方、十二、三人が歸つてもいゝ事になつて、表へ出された。幹部のものは札幌へ送られることになつたのでのこつた。
皆は駐在所の角につながれてゐた、空になつた馬橇に背中を圓くして乘ると、出掛けた。なぐられたあとに、寒い風が當ると、ヒリ〳〵とそこが痛んだ。吹雪いてゐた。町外れに出ると、それが遠慮なく吹きまくつた。皆は外套の上に、むしろやゴザをかぶつて、出來るだけ身體を縮めた。一臺、一臺、元氣なく暮方の、だん〳〵嚴しくなつてゆく寒氣の中を、鈴をならしながら歸つて行つた。誰も、何も云はなかつた。お互はお互の顏も見なかつた。見ようともしなかつた。
踏切りを越すと、前方一帶が吹雪で、眞白い大きな幕でも降ろされてゐるやうに、何も見えなかつた。東の方から少しづゝ暗さがせまつてきてゐた。平野の一本道は、すつかり消されてしまつてゐた。防雪林の側を通つた時にはそれに當る粉雪と強風で、そこから凄みのあるうなりが響いてきた。そして、たゞ天も地も眞白いところに、ぼかし畫のやうに、色々な濃淡で、防雪林が、頭を一樣にふつたり、身體をゆすつたりしてゐるのが見えた。全く何も障碍物のない平野に出てしまつた頃、源吉の馬橇だけは一番うしろで、餘程遲れてゐた。それさへ、然し源吉は分つてゐないやうに見えた。
源吉は齒をギリ〳〵かんでゐた。くやしかつた。憎い! たゞ口惜しかつた! たゞ憎くて、憎くてたまらなかつた。源吉は始めて、自分たち「百姓」といふものが、どういふものであるか、といふ事が分つた。──「死んでも、野郎奴!」と思つた──。源吉は、ハツキリ、自分たちの「敵」が分つた。敵だ! 食ひちぎつてやつても、鉈で頭をたゝき割つてやつても、顏の眞中をあの鎌で滅茶苦茶にひつかいてやつてもまだ足りない「敵」を、ハツキリ見た。それが「巡査」といふものと、手をくみ合はせてゐる「からくり」も! ウム、憎い! 地主の野郎! 源吉は齒をギリ〳〵かんだ。
「覺えてろ‼」
雪は眞向から吹きつけるかと思ふと、左側になつてゐたり、後から吹いたりした。馬は全身眞白になつて、年寄つた百姓のやうな、ガラ〳〵に瘠せた尻を跳ねあげるやうにして、足を動かしてゐた。尻毛が時々ピシリ〳〵と身體を打つた。が、風の向きで、その方へなびくこともあつた。眞白になつてゐるたてがみも風通りに動いた。前方を行く馬橇は、吹雪のために、二、三臺位しか見えなかつた。その先きの方は時々、吹雪の工合で、ひよつこり現れたり、見てるうちに又消されたりした。鈴は風の工合でまるつきり聞えないことがあるが、思ひがけなく實際よりもすぐ近く聞えることもあつた。何處からといふことなく、平野一帶がゴウ〳〵と物凄くうなつてゐた。だん〳〵薄暗くなつて行つた。
「覺えてろツ!」
寒さがギリ〳〵と、むしろの上から、その下の外套を通して、着物を通して、シヤツを通して、皮膚へ、ぢかにつき刺さつてきた。外套についてゐる細かい粉のやうな雪が、キラ〳〵と、小さいなりに一つ一つ結晶して、ついてゐた。手先や足先が痛むやうに冷えてきた。鼻穴がキン〳〵して、口でも耳でも鼻でも、こはばつてちつとでも動かせば、それつきり、割れたり、ピリ〳〵いひさうでたまらなかつた。皆の馬橇は雜木林の並木が續いてゐる處に出た。それは石狩川の川端に沿つてゐる林だつた。それで始めて、道を迷はずに來たことが分つた。時々、町からの歸りに、吹雪に會つて、道を迷つたものが、半分死にかゝつて、次の朝とんでもない逆の方向に行つてゐることを發見することがあつた。一樣に平なので、方向の見當が、つかないのだつた。
雜木林は、誰かゞワザとにやつてゐるやうなかん高い悲鳴をあげて、ゆれてゐた。それが終ると、その雪をお伴にしてゐる風が、うなりをあげて、平野の中心の方へ、たゝきつけるやうな勢ひで、移つてゆくのが分つた。が、すぐその後から、もつと強いのが追ひかけてきた。源吉の前をゆく馬橇の横で、吹雪が龍卷のやうに大きな物凄い渦卷をつくり、それが見てゐるうちに、大理石のやうな圓筒形のまゝ、別な方からの強風と一緒になつて、馬橇を乘り越して行つた。と、その百姓がかぶつてゐたむしろが、いきなり剥ぎとられて、空高くに舞上つてしまつた。風は自由氣まゝに、そして益〻強くなつて行つた。
「覺えてやがれ、野郎ツ‼」
源吉の胸一杯は、そのまゝ、この吹雪の嵐と同じやうに荒れきつてゐた。
源吉は前方に眼をやつた。風呂敷包みか何かのやうに馬橇の上に圓く縮こまつてゐる百姓を見ると、それが自分たち全部の生活をそのまゝ現してゐるやうに源吉には思はれた。このかまきり蟲のやうな「敵」が分らず、分らうともせず、蟻やケラのやうに慘めに暮してゐる百姓達がハツキリ見えた。彼等だつて、然し今こそ、敵がどいつだか、どんな畜生だか分つたらう。だが、こんなに打ちのめされた善良な百姓達は、もう一度、さうだ今度こそは、鎌と鍬をもつて、ふんばつて、立ち上れるか! 敵のしやれかうべを目がけて、鍬をザクツと打ちこめるか!
──駄目だ、駄目だ、駄目かも知れない、源吉はさう考へた。然し、えツ、口惜しい、「覺えてろ!」源吉は齒をギリ〳〵かんだ。彼は何かに醉拂つたやうに、夢中になつてゐた。
九
源吉は村に歸つてから二日寢た。
村は雪の中のあちこちに置き捨てにされた塵芥箱のやうに、意氣地なく寂れてしまつたやうに見えた。鳶に油揚げをさらはれた後のやうに、皆ポカーンとしてしまつた。源吉は寢ながら、然し寢てゐられない氣持で、興奮してゐた。母親が、源吉の枕もとに飯を持つてきて、何時もの泣言交りの愚痴をクド〳〵してから、フト思ひついたやうに、
「お芳が來てゐたで。」と云つた。
「あつたら奴、ブツ殺してしまへばえゝんだ。」顏も動かさずに、ぶつきら棒に云つた。
「何んだか、お前えに話してえことあるてたど。すつかりやつれてよ。青ツぷくれになつてな。ヒヨロ〳〵してるんだど。」
「金持のなまツ白い息子さおべツかつくえんた奴だ──!」
「こゝさ來て話すのも、戸口さ手で身體ばおさへてねば駄目だ位だんだ。」
母親がそれからお芳のことをボツリ〳〵云つた。──お芳は、まだ然し大學生からの手紙をあきらめ切つてはゐなかつた。夢の中で手紙が配達されて、思はず聲をあげ、その自分の聲で眼をさましたりする事があつた。然し今では、その手紙を待つてゐる氣持が前とはだん〳〵異つてきてゐた。前は、その男がやつぱり戀しかつた。それが何より一番だつた。それでその手紙を待つてゐた。が、男から手紙がどうしても來ないといふことが分ると、今度はいくら藥をのんでも、おまじなひをしても墮りない、どうしても生れて來ようとしてゐる子供のために、男の手紙を待つやうになつてゐたのだつた。
お芳はあの體で一生懸命働いた。時々陣痛が起ると、物置に走つて行つて、そこで、エビのやうにまんまるにまるまつてうなつた。それは前に、家の中で突然陣痛がきたので、お芳は腹を抑へたまゝ、そこにうつぶせになつてうなつた、その時「この恥さらし」と、嫂に云はれたことがあつたからだつた。働いてゐながら、めまひが起ることもあつた。突然家の中がゆがんだまゝ、グウツと眼の前につり上つてみえた。そしてクラ〳〵ツと來た。自分でごはんの仕度をして、それがすつかり出來上つてならんでしまふと、お芳は家の隅ツこの方に坐つて、じいとしてゐた。そして皆がたべてしまつて、餘れば──餘りがあれば、コソ〳〵自分で今度はたべた。
寒い日だつた。お芳が仕事の手をフト置いて、ぼんやり考へこんでゐた。その時表から嫂が、手桶に一杯水をくんで入つてきた。寒中に水を汲みに行くのは、相當つらい仕事だつた。ところが入つてきて、お芳が何かぽかーんとしてゐたのを嫂が見た。
「えゝ、この穀つぶしの淫だら女。」いきなり、お芳の體に、ひしやくで水をぶツかけた。
「何するツ!」お芳はカツとして、向き直つた。
「ふにやけた體して、それで働きの足しになれるか。穀つぶし。」
……源吉は、お芳が話して行つたことを聞きながら、逆に憎惡をもつて、そんなことで、まだまだ足りないぞ! と思つてゐた。今までのお芳に對するどんな氣持もフツ飛んでしまつてゐた。
「んで、俺に?」
「何時くるべかツて云つてだ。分かねツて云つたらなんも云はなえで歸つて行つた。」
お芳から先だ! 源吉はまだ自分の顏が、自分のものでないやうに、はれ上つてゐる痛みを感じながら、一途にさう考へた。人もあらうに俺達のあの敵に身體を賣つた裏切者だ! あの女郎、眞裸にして、逆さにつり下げ、飴ん棒のやうにねぢり殺してやれ! こいつから先だ!
二、三日した。
今度の事件で、地主が普段生意氣な百姓の畑を取りあげてしまふ、といふ噂が村中に立つてきた。差配がそれを云つて歩いてゐるらしかつた。一度とてつもなく打ちのめされて、ウロ〳〵してゐる百姓達はビク〳〵に、一日一日を送つて行かなければならなかつた。勿論百姓達が土地を取上げられては、生きるか死ぬかの問題であつた。それに對して、本當に結束を固めて、地主に當らなければならない事であつた。然し、「幹部」を取られてしまひ、殘虐な仕打ちにあつては、百姓達はもう手も足も出ない形だつた。
お芳が薄暗い臺所に立つて、茶碗を洗つてゐた。家には、町へ出て行つたり、近所の通夜で誰もゐなかつた。
「お通夜さ行げば、お前の噂で、顏が狹くなる。」出しなに父親が云つた事を、お芳が考へてゐた。
「あ、痛た。」お芳は思はず息をのんで、顏に力を入れると、口をゆがめた。又、と思ふと、情ない氣がした。お芳は茶碗を洗ふ手をやめて、臺所の端につかまると、腰をゆがめて、ウン〳〵うなりながら、こらへてゐた。間をおいて、痛みが襲つてくる度に、クラ〳〵と目まひを感じた。額に油汗がネト〳〵に出てきた。お芳は額を腕の上にのせた。お芳はしばらくさうしてゐた。痛みはちつとも止まりさうでもなく、その滿ちひきの重なる度に、一つは一つと、痛みがひどくなつて行つた。
「あツ──うん、うん──うん、」お芳は腰から下の感覺が、しびれてしまつて、思はず、そこへ坐つてしまつた。腹の中で胎兒が動くのがはつきり分つた。瞬間、豫感が來た。お芳はハツと思ふと、夢中で、ゐざりのやうに臺所を這つた。ひどい痛みのために、黒瞳が變にひきつツて、お芳には、自分のそばが何が何やら見えなかつた。
「あツ痛、──うん──あツ痛、」お芳は齒をギリ〳〵かみながら、ケイレンでも起したやうになつた。臺所の土間から續いてゐる納屋の方へ這つて行つた。
納屋の中は暗かつた。藁が澤山積まさつてゐる甘酸つぱい匂ひや、馬鈴薯や、豆類の匂ひや、澤庵漬や鰊漬の腐つたやうな便所くさい臭ひが、ごつちやになつて、お芳にはハキ氣がしてきた。鼠がすぐ側から藁をガサ〳〵いはせて走つてゆくのを、お芳は感覺の何處かで、ひよいと感じた。お芳は、放り出された毛蟲のやうに、身體をまん圓にして、痛みがうすらいでくるのを待つてゐた。色々な今までのことが考へられた。それ等がグル〳〵と頭の中を慌しくまはつて行つた。
しばらく經つてから、町からお芳の兄と嫂が提灯をつけて、雪の夜道を歸つてきた。家の戸口が半開きになつたまゝ、うちには誰もゐなかつた。父親がお通夜に行つてゐたのは知つてゐた。お芳がゐる筈だつた。嫂はチエツと舌打ちすると、仕樣がないな、といふ顏をした。九時頃になつて、父親が歸つてきた。
「お芳どうした。」
「七時頃歸つたときから、居ない。」
「七時頃──」
三人とも急に不安になつた。皆は家中を探がした。それから提灯に火を入れて、三人で便所を探がしたり、うま屋を探がした。居なかつた。嫂は寒さと變な豫感から齒をカタ〳〵いはせながら、二人の後に身體をすりつけるやうにしてゐた。
納屋の戸をあける時、もうそこより殘つてゐる所がないので、三人が妙に心に寒氣をゾツと感じた。戸をあけて、提灯を土間の方へ、さしのべて見た。光の輪が床に落ちた。ゐない。漬物樽や藁などが重なり合つてゐた。
「もう少し奧かな。」
父親がさう云つて、納屋に入つたとき、何か重い、つり下つてゐるやうな、そして柔味のあるものに頭を打つつけた。
「あツ!」彼はものも云はずにいきなり横つ面をなぐられた人のやうに、棒立ちになつた。提灯を土間の方ばかり照らしてゐたので、空間の半分から上は分らなかつた。三人は一かたまりになつたまゝ誰かに力一杯押しもどされたやうに、戸の外へよろ〳〵ツと出た。
兄と嫂は近所の家に息を切らして走つた。そして又その家の人から他の家に知らしてもらつた。一寸して、十二、三人の村の人が集つてきた。
源吉も來てゐた。皆口々に何か云ひながら、提灯を澤山つけて納屋に入つて行つた。
お芳は入口の少し入つた所に、首を縊つて、下つてゐた。さつき父親が打ち當つたゝめか、ぶら下つてゐる身體が、その充分の重みをもつて空中でゆるく、その垂直の軸のまはりを、右へ左へと眼につかない程の圓轉を描いて搖れてゐた。
各自口を抑へ、提灯だけを差しのべて見てゐた百姓達に、そのかすかに動いてゐるといふ事が不氣味さを誘つた。お芳の顏色は紫色になつて、變にゆがんでゐた。身體には藁くづが澤山ついてゐた。
後で家の中をさがしたとき、前に書いて用意をして置いたらしい遺書が二通出てきた。一つは親、一つは源吉に宛てたものだつた。あとはいくら探がしてもない事は意外であつた。お芳は自分の關係した大學生には遺書をのこして行つてゐなかつた。それをきいたとき、源吉はぐいと心を何かに握られたやうに思つた。
──自分は金持を憎んで、憎んで、憎んで死ぬ。……自分は生きてゐて、その金持らに、飽きる程復讐しなければ死に切れない、さう思つたこともあつた。そして、それが本當だ、と思ふ。が、自分は女であり、(それだけなら差支へないが)女の中で一番やくざな、裏切りものである。それが出來さうもない。自分は、貴方と一緒になつてゐたら、どんなに幸福であつたか、と、今更自分のあやまつた、汚い根性を責めてゐる。──そして、最後に、自分は、札幌の大學生には、ツバをひつかけて死ぬ。と書いてあつた。
お芳も矢張り俺達と同じだつたんだ、──だまされるのは、何時だつて、外れツこなく俺達ばかりだ! ──源吉はさう思ふと、身體中がヂリ〳〵と興奮してくるのを覺えた。
十
源吉はいよ〳〵やらう、と思つた。それは警察の事件と、今度のお芳の縊死で、前にさうと考へてゐたのより、もつと根強いものになつてゐた。百姓達はいくら警察の拷問で、ビク〳〵してゐると云つても、如何に彼等が自分達を苦しめるものであるか、といふことが、骨の心までもしみ入つてゐた。それは間違ひなくさうだつた。だから、意志の強いものが、嫌應なしに、グン〳〵──グン〳〵その氣持をつツついて行つたら、今度百姓達は自分達の命である畑のことで、極めて不安な立場にも置かれてゐるのだから、又──そして而も前よりはモツト強く立ち上ることが出來る可能性があるやうに思はれた。「幹部」が居なくなつた今、初め源吉は、自分がそれを引きうけて、やつてみようと思つたのだつた。それがうまく行けば、それこそ素晴しいものだつた。さうなれば、源吉は、自分なら、あんなヘマな、そしてあんな生ヌルイことはしないぞ、と思つた。氣持は、この前のがきまる時からだつた。地主の家を燒打ちでもして、他人の血で肥つたまるで虱のやうな──いや、「虱そのまゝ」の彼奴等を、なぶり殺してやる!
源吉はそれを──さうならせる迄、然し、待つてゐられなかつた。勿論さうなれば、自分一人でやるよりは、もつときゝめがあることは分つてゐた。が、この場合、源吉の氣持としては、さうする事さへはがゆかつた。嚴密に云つて、源吉は、どうなる、など、さう先のことは考へなかつた。それよりも亦、自分のしようと思つてゐることさへ、出來るものか、どうかさへ分らずに、やつてのけようとしてゐたのだ。それは、この前の、鮭の密漁をした時、皆が二ヶ月も三ヶ月も魚を食へもせずに、モグ〳〵やつてゐたとき、源吉はそんなのにお構ひなしにさつさと自分でやつてのけた、それと同じだつた。「親父とお芳の遺言と、俺の考へ──この三つでやるんだ。」
然し、一方、源吉は自分のすることが、さう無駄であるとは思はなかつた。かへつて、自分の思ひ切つたことが、闇にゐる牛のやうにのろい百姓にキツト何か、グアンとやるだらう、そしたら、それが、口火のやうになつて、皆が案外かへつて手ツ取早く、一緒になつて、ヤレツ、ヤレツ‼ と鍬と鎌をもつて立ち上る! さうなれば、まんまと、畑は俺達百姓の手に、もぎ取れるやうになるかも知れないぞ。──源吉はそんな事まで想像した。然し、何より、憎い! 畜生、待つてゐやがれツ、源吉はまだすつかりハレの引かない痛みの殘つてゐる頬や身體をさすりながら、叫んだ。
その晩、源吉は、ドロツプスの罐程の石油罐に石油をつめ、それを、ボロ〳〵になつた座布團で包んで、外へ出た。母親には、今度皮はぎに朝里の山に入ることゝ、春の鰊場のことで、石田へ相談に行つて來る、と云つて置いた。外は星もない暗い夜だつた。雪道がカン〳〵に凍つてゐた。源吉は身體が、さうせまいと思つても、小刻みに顫へてゐた。ひよいとすると、獨りで齒がカチ〳〵と打ち當つてなつた。源吉は道を急いだ。然し、歩いてゐるといふことが、水落ちのあたりが變にくすぐつたくなつて、じつとしてゐられない程齒がゆく思はれた。しまひに源吉は小走りに走り出してしまつた。凍つてゐた空氣が兩方に分れて、後へ流れて行つた。もうどつちを向いても何んにもない處に出てゐた。何時のまにか、源吉は普通の速さにかへつてゐた。振りかへつてみると、灯りが二つ三つ暗い原ツぱにチカ〳〵今にも消えさうに、頼りなく光つて見えた。源吉は又ひよいと思ひついたやうに、走り出した。呼吸がはげしくなると冷たい空氣で、鼻穴がキン〳〵してきた。一寸すると源吉は又歩いてゐた。
夜道では誰にも會はなかつた。
「停車場のある町」の電燈の光が、ずウと前方の黒い幕のやうな闇に文字通り點々と見える所まで來たとき、フト源吉は、立ち止つた。何かにグイと立ち向ふやうな氣持の張りを感じた。
町に入ると、源吉は用心深く、本通りでなく、家の裏、裏と歩いて行つた。町の通りは誰も、もう歩いてゐるものがなかつた。大抵の家は、電燈を消してゐた。雪がつもつて馬の背のやうになつた狹いデコボコ道を、源吉は注意深く歩いて行つた。時々、戸がガラ〳〵ツと開いた。それが靜まり返つた平野の町に、思つたより高く響きかへつた。源吉は何度もその音でギヨツとした。
誰か、大きな聲で叫びながら、町の通りを、周章てゝ、走つて行つた。二、三軒の家の表戸がガラ〳〵と開いた。
「何んだべ。」と、隣り同志が、丹前の前を抑へながら、きゝ合つた。急に町がやかましくなつた。と思ふと、
「火事だ! 火事だ!」と叫びながら、停車場の方へ、二、三人走つて行つた。
表に立つてゐた町の人達が一齊に、そつちを見た。暗い空が、心持明るかつた。が、瞬き一つする間に、高さが一丈もある火の柱がフキ上つた。バチ〳〵と燒けあがる火の音が聞えてきた。見てゐるうちに、町中の、家と云はず、木と云はず、それ等の片側だけが、搖めく光をあびて、眞赤になつて、明暗がくつきりとついた。町を走つてゆく人の殺氣だつた顏が一つ一つ、赤インキをブチかけたやうに見えた。
町中の人が皆家から外へ飛び出してゐた。女や子供は、齒をガタ〳〵いはせて、互に肩を合はせながら立つて見てゐた。
「何處だらう。」
「さあ。──停車場だらうか。」
「停車場なら、方角が異ふよ。もうちよつと右寄りだ。」
「何處だべ。」向側の家の人に言葉をかけた。
「地主でないかな。」
「んだかも、知れない。──」
「まあ〳〵。」
走つてゆく人に、きくと、
「地主だ、地主だ‼」と、大聲でどなつて行つた。
「地主だら放つておけや。」誰かゞ、ひくい聲で云つた。
「たゝられたんだ。」
「んだべよ。」
「──放け火でねえか。」思はず大聲で云つたものがあつた。
一寸だまつた。
「さあ、大變なことになるべ。」
急に、皆の頭の上で、毀れたやうな音をたてゝ、半鐘がすりばんでなり出した。それが空中に反響して、不氣味な凄味で、人達の背中に寒氣を起さした。
地主の家は停車場からは離れてゐた。が、その邊は、ヂリ〳〵とこげる程熱くなつて、白い眩光を發しながら燃えてゐるので、消防の人や、立つて見てゐる人達の顏の皺一本、ひげ一本までもはつきり見分けがついた。
汽車が構内に入つてくる度に、警笛を長くならした。それが何か生物の不吉な斷末魔の悲鳴のやうに聞えた。地主の家は、立派な金をかけた建物なために、俗つぽい、腐れかゝつた町の家などゝ軒を並べるのを潔ぎよしとしないとあつて、とくに町並から離して建てられてあるために、──それに風もなかつたので、他に火が延びるといふ心配はなかつた。
消防をしてゐる人達は、あまり火足が早かつたので、家のものは全部燒け死んだんではないか、──誰も出た形跡がない、と云つてゐた。
この前、北濱村の小作人から取上げた雜穀などの、ぎつしりつまつてゐた倉が燒け落ちるとき、皆は思はず、聲をあげた。物凄い音を立てゝ、崩れ落ちると、そこからムク〳〵と、火の子と惡魔のやうな煙が太ぶとしく空へ渦をまいて、上つた。
凍つた川から引いてくる水ではどうにもならなかつた。消防の人や青年團が、怒鳴つたりしては、あつちこつち、提灯をふりかざして走り𢌞つてゐた。
「もう半分以上も燒けて、どうにもならなくなつてしまつた頃、家の中から、まるで聞いたゞけでも、身震ひするやうな、それア、それア──何んとも云はれないやうな叫び聲がきこえてゐたつて! ──その人、耳に殘つて耳に殘つて困るつて云つてたの。鷄でもしめ殺されるやうな、のどから血を出しながらしぼつてるつて聲だつて。」
女の人が、ヒソ〳〵並んで立つてゐた知合ひらしい人にささやいてゐた。
「たゝられたんだ、きつと。」
相手はもつと低い聲でさう云つた。それから二人ともだまつた。
源吉は誰にも氣付かれずに、防雪林が鐵道沿線に添つて並んでゐるところまで、走つてきた。防雪林の片側が火事の光を反射して明るくなつてゐた。振りかへつてみると、空一杯が赤く染つてゐた。現場の手前の家やその屋根の上に立つて、何やら手を振つてゐる人や、電柱などが一つ一つ黒く、はつきり見えた。そこで騷いでゐる人達の叫び聲などが、何かの拍子に、手にとるやうに、間近かに聞えたりした。半鐘は、プウーン、プウーン、とかすかに、うなつてゐるやうに聞えた。
「まだ足りねえや。」
源吉は獨言をすると、今度はしつかりした足取りで、暗い石狩平野の雪道を歩き出した。
「まだ足りねえぞ、畜生!」
底本:「防雪林・不在地主」岩波文庫、岩波書店
1953(昭和28)年6月25日第1刷発行
1959(昭和34)年2月15日第5刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本では「それから、勝が裏口にまはつた。~瞬間、なつたのを感じた。」の行が天付きになっています。
※「銭」と「錢」の混在は底本通りです。
入力:山本洋一
校正:林 幸雄、小林繁雄
2006年7月20日作成
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