藤村詩抄
島崎藤村自選
島崎藤村
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若菜集、一葉舟、夏草、落梅集の四卷をまとめて合本の詩集をつくりし時に
遂に、新しき詩歌の時は來りぬ。
そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新聲と空想とに醉へるがごとくなりき。
うらわかき想像は長き眠りより覺めて、民俗の言葉を飾れり。
傳説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帶びぬ。
明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壯大と衰頽とを照せり。
新しきうたびとの群の多くは、たゞ穆實なる青年なりき。その藝術は幼稚なりき、不完全なりき、されどまた僞りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口脣にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢なる思潮は幾多の青年をして殆ど寢食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂せしめたるを。われも拙き身を忘れて、この新しきうたびとの聲に和しぬ。
詩歌は靜かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦鬪の告白なる。
なげきと、わづらひとは、わが歌に殘りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に勵まされてわれも身と心とを救ひしなり。
誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は聲なり。聲は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。
われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しく暗き月日を過しぬ。
藝術はわが願ひなり。されどわれは藝術を輕く見たりき。むしろわれは藝術を第二の人生と見たりき。また第二の自然とも見たりき。
あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの卷とはなれり。われは今、青春の記念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。
二十五六といふ青年時代が二度と自分の生涯には來ないやうに、最初の詩集も自分には二册とは無いものだ。その意味から、曾て私はこれらの詩を作つた當時のことを原本の詩集のはじに書きつけて置いたこともある。
明治二十九年の秋、私は仙臺へ行つた。あの東北の古い靜かな都會で私は一年ばかりを送つた。私の生涯はそこへ行つて初めて夜が明けたやうな氣がした。私は仙臺名影町の宿舍で書いた詩稿を毎月東京へ送つて、その以前から友人同志で出してゐた雜誌『文學界』に載せた。それを一册に集めて、『若菜集』として公にしたのが、私の最初の詩集だ。私の文學生涯に取つての處女作とも言ふべきものであつた。その頃の詩の世界は非常に狹い不自由なもので、自分等の思ふやうな詩はまだ〳〵遠い先の方に待つてゐるやうな氣がしたが、兎も角も先蹤を離れよう、詩といふものをもつと〳〵自分等の心に近づけようと試みた。默し勝ちな私の口脣はほどけて來た。
心の宿の宮城野よ
亂れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ
ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聽き
悲しみ深き吾眼には
色無き石も花と見き
(草枕)
私が一生の曙はこんな風にして開けて來た。
明治三十一年の春には私は東京の方に歸つてゐて、第二の集を出した。それは『一葉舟』とした詩文集で、その中には『若菜集』以後仙臺で書いた『鷲の歌』の外に、東京に歸つてからの詩數篇をも納めたものである。同じ年の夏、郷里の木曾へ旅して、福島にある姉の家で『夏草』を書いた。私の第三の詩集だ。
私が信州小諸へ行つてあの山の上の町に落ちつくやうになつたのは、翌三十二年のことであつた。そこで私はまた詩作をはじめて、第四の詩集をつくつた。『落梅集』はその全部が千曲川の旅情ともいふべきものである。
私の青春の形見ともいふべき四卷の詩集は、明治二十九年より三十三年へかけ前後五年に亙つて、それ〴〵別册として公にしたものであつたが、三十七年の夏に『一葉舟』や『落梅集』から散文の部を省いて、合本一卷とした。私の詩集として世に流布してゐるものがそれである。
さういふ私は今、岩波書店の主人から普及叢書の一册として、この詩集の抄本をつくることを求められた。思ふに、原本の詩集を縮め、僅かの省略を行ひ、たゞ形を變へるといふだけのことならば、抄本をつくることもさう骨は折れまい。しかしそれでは意味はすくない。長い月日の間には原本の詩集も幾度かの編み直しと改刷とを經たものであるが、更に私は編み方を變へて、此の抄本をつくることにした。尤も、詩集としての内容にさう變りのあらう筈もないが、編み方に意を用ひたなら、抄本は抄本として意味あるものとならうかと思ふ。
これを編むにつけても、もつと私は嚴しく選むべきであつたかとも考へる。今になつて見ると『若菜集』の中に、仙臺時代以前に書いた二三の古い詩を見つける。『君と遊ばむ』『流星』なぞがそれで、さういふものは省いたらとも考へたが、自分の出發の支度はそんなところにあつたことを思ひ、未熟なものも一概にそれを省き去る氣になれなかつた。原本の詩集のうち、一番多くを省いたのは『夏草』の中からで、『若菜集』や『落梅集』からも長短數篇を省いた。題目等もこの抄本にはいくらか改めて置いたものもある。すべてはこれらの詩を書いた當時の自分の心持に近づけることを主にした。
思へば私が『若菜集』を出したのは、今から三十一年の前にもあたる。この古い落葉のやうな詩が今日まで讀まれて來たといふことすら、私には意外である。頭髮既に白い私がこれを編むのは、自分の青年時代を編むやうなものである。この抄本をつくるにつけても、今昔の感が深い。
若菜集より
明治二十九年──同三十年 (仙臺にて) |
心無き歌のしらべは
一房の葡萄のごとし
なさけある手にも摘まれて
あたゝかき酒となるらむ
葡萄棚ふかくかゝれる
紫のそれにあらねど
こゝろある人のなさけに
蔭に置く房の三つ四つ
そは歌の若きゆゑなり
味ひも色も淺くて
おほかたは噛みて捨つべき
うたゝ寢の夢のそらごと
夕波くらく啼く千鳥
われは千鳥にあらねども
心の羽をうちふりて
さみしきかたに飛べるかな
若き心の一筋に
なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて
とけて涙となりにけり
蘆葉を洗ふ白波の
流れて巖を出づるごと
思ひあまりて草枕
まくらのかずの今いくつ
かなしいかなや人の身の
なきなぐさめを尋ね侘び
道なき森に分け入りて
などなき道をもとむらむ
われもそれかやうれひかや
野末に山に谷蔭に
見るよしもなき朝夕の
光もなくて秋暮れぬ
想も薄く身も暗く
殘れる秋の花を見て
行くへもしらず流れ行く
水に涙の落つるかな
身を朝雲にたとふれば
ゆふべの雲の雨となり
身を夕雨にたとふれば
あしたの雨の風となる
されば落葉と身をなして
風に吹かれて飄り
朝の黄雲にともなはれ
夜白河を越えてけり
道なき今の身なればか
われは道なき野を慕ひ
思ひ亂れてみちのくの
宮城野にまで迷ひきぬ
心の宿の宮城野よ
亂れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ
ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聽き
悲み深き吾目には
色彩なき石も花と見き
あゝ孤獨の悲痛を
味ひ知れる人ならで
誰にかたらむ冬の日の
かくもわびしき野のけしき
都のかたをながむれば
空冬雲に覆はれて
身にふりかゝる玉霰
袖の氷と閉ぢあへり
みぞれまじりの風勁く
小川の水の薄氷
氷のしたに音するは
流れて海に行く水か
啼いて羽風もたのもしく
雲に隱るゝかさゝぎよ
光もうすき寒空の
汝も荒れたる野にむせぶ
涙も凍る冬の日の
光もなくて暮れ行けば
人めも草も枯れはてゝ
ひとりさまよふ吾身かな
かなしや醉うて行く人の
踏めばくづるゝ霜柱
なにを醉ひ泣く忍び音に
聲もあはれのその歌は
うれしや物の音を彈きて
野末をかよふ人の子よ
聲調ひく手も凍りはて
なに門づけの身の果ぞ
やさしや年もうら若く
まだ初戀のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隱るゝその姿
野のさみしさに堪へかねて
霜と霜との枯草の
道なき道をふみわけて
きたれば寒し冬の海
朝は海邊の石の上に
こしうちかけてふるさとの
都のかたを望めども
おとなふものは濤ばかり
暮はさみしき荒磯の
潮を染めし砂に伏し
日の入るかたをながむれど
湧きくるものは涙のみ
さみしいかなや荒波の
岩に碎けて散れるとき
かなしいかなや冬の日の
潮とともに歸るとき
誰か波路を望み見て
そのふるさとを慕はざる
誰か潮の行くを見て
この人の世を惜まざる
暦もあらぬ荒磯の
砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の
落ちて汐となりにけり
遠く湧きくる海の音
慣れてさみしき吾耳に
怪しやもるゝものの音は
まだうらわかき野路の鳥
嗚呼めづらしのしらべぞと
聲のゆくへをたづぬれば
緑の羽もまだ弱き
それも初音か鶯の
春きにけらし春よ春
まだ白雪の積れども
若菜の萌えて色青き
こゝちこそすれ砂の上に
春きにけらし春よ春
うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか
梅が香ぞする海の邊に
磯邊に高き大巖の
うへにのぼりてながむれば
春やきぬらむ東雲の
潮の音遠き朝ぼらけ
たれか聞くらむ朝の聲
眠と夢を破りいで
彩なす雲にうちのりて
よろづの鳥に歌はれつ
天のかなたにあらはれて
東の空に光あり
そこに時あり始あり
そこに道あり力あり
そこに色あり詞あり
そこに聲あり命あり
そこに名ありとうたひつゝ
みそらにあがり地にかけり
のこんの星ともろともに
光のうちに朝ぞ隱るゝ
たれか聞くらむ暮の聲
霞の翼雲の帶
煙の衣露の袖
つかれてなやむあらそひを
闇のかなたに投げ入れて
夜の使の蝙蝠の
飛ぶ間も聲のをやみなく
こゝに影あり迷あり
こゝに夢あり眠あり
こゝに闇あり休息あり
こゝに永きあり遠きあり
こゝに死ありとうたひつゝ
草木にいこひ野にあゆみ
かなたに落つる日とともに
色なき闇に暮ぞ隱るゝ
舟路も遠し瑞巖寺
冬逍遙のこゝろなく
古き扉に身をよせて
飛騨の名匠の浮彫の
葡萄のかげにきて見れば
菩提の寺の冬の日に
刀悲しみ鑿愁ふ
ほられて薄き葡萄葉の
影にかくるゝ栗鼠よ
姿ばかりは隱すとも
かくすよしなし鑿の香は
うしほにひゞく磯寺の
かねにこの日の暮るゝとも
夕闇かけてたゝずめば
こひしきやなぞ甚五郎
たれかおもはむ鶯の
涙もこほる冬の日に
若き命は春の夜の
花にうつろふ夢の間と
あゝよしさらば美酒に
うたひあかさん春の夜を
梅のにほひにめぐりあふ
春を思へばひとしれず
からくれなゐのかほばせに
流れてあつきなみだかな
あゝよしさらば花影に
うたひあかさむ春の夜を
わがみひとつもわすられて
おもひわづらふこゝろだに
春のすがたをとめくれば
たもとににほふ梅の花
あゝよしさらば琴の音に
うたひあかさむ春の夜を
紅細くたなびける
雲とならばやあけぼのの
雲とならばや
やみを出でては光ある
空とならばやあけぼのの
空とならばや
春の光を彩れる
水とならばやあけぼのの
水とならばや
鳩に履まれてやはらかき
草とならばやあけぼのの
草とならばや
春はきぬ
春はきぬ
初音やさしきうぐひすよ
こぞに別離を告げよかし
谷間に殘る白雪よ
葬りかくせ去歳の冬
春はきぬ
春はきぬ
さみしくさむくことばなく
まづしくくらくひかりなく
みにくくおもくちからなく
かなしき冬よ行きねかし
春はきぬ
春はきぬ
淺みどりなる新草よ
とほき野面を畫けかし
さきては紅き春花よ
樹々の梢を染めよかし
春はきぬ
春はきぬ
霞よ雲よ動ぎいで
氷れる空をあたゝめよ
花の香おくる春風よ
眠れる山を吹きさませ
春はきぬ
春はきぬ
春をよせくる朝汐よ
蘆の枯葉を洗ひ去れ
霞に醉へる雛鶴よ
若きあしたの空に飛べ
春はきぬ
春はきぬ
うれひの芹の根は絶えて
氷れるなみだ今いづこ
つもれる雪の消えうせて
けふの若菜と萌えよかし
ねむれる春ようらわかき
かたちをかくすことなかれ
たれこめてのみけふの日を
なべてのひとのすぐすまに
さめての春のすがたこそ
また夢のまの風情なれ
ねむげの春よさめよ春
さかしきひとのみざるまに
若紫の朝霞
かすみの袖をみにまとへ
はつねうれしきうぐひすの
鳥のしらべをうたへかし
ねむげの春よさめよ春
ふゆのこほりにむすぼれし
ふるきゆめぢをさめいでて
やなぎのいとのみだれがみ
うめのはなぐしさしそへて
びんのみだれをかきあげよ
ねむげの春よさめよ春
あゆめばたにの早わらびの
したもえいそぐ汝があしを
たかくもあげよあゆめ春
たえなるはるのいきを吹き
こぞめの梅の香ににほへ
うてや鼓の春の音
雪にうもるゝ冬の日の
かなしき夢はとざされて
世は春の日とかはりけり
ひけばこぞめの春霞
かすみの幕をひきとぢて
花と花とをぬふ絲は
けさもえいでしあをやなぎ
霞のまくをひきあけて
春をうかがふことなかれ
はなさきにほふ蔭をこそ
春の臺といふべけれ
小蝶よ花にたはふれて
優しき夢をみては舞ひ
醉うて羽袖もひら〳〵と
はるの姿をまひねかし
緑のはねのうぐひすよ
梅の花笠ぬひそへて
ゆめ靜なるはるの日の
しらべを高く歌へかし
浮べる雲と身をなして
あしたの空に出でざれば
などしるらめや明星の
光の色のくれなゐを
朝の潮と身をなして
流れて海に出でざれば
などしるらめや明星の
清みて哀しききらめきを
なにかこひしき曉星の
空しき天の戸を出でて
深くも遠きほとりより
人の世近く來るとは
潮の朝のあさみどり
水底深き白石を
星の光に透かし見て
朝の齡を數ふべし
野の鳥ぞ啼く山河も
ゆふべの夢をさめいでて
細く棚引くしのゝめの
姿をうつす朝ぼらけ
小夜には小夜のしらべあり
朝には朝の音もあれど
星の光の絲の緒に
あしたの琴は靜なり
まだうら若き朝の空
きらめきわたる星のうち
いちいと若き光をば
名けましかば明星と
わきてながるゝ
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴
しらべもふかし
もゝかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うらゝかに
とほくきこゆる
はるのしほのね
處女ぞ經ぬるおほかたの
われは夢路を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河をながむれば
水靜かなる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の櫻の花影に
われは處女となりにけり
都鳥浮く大川に
流れてそゝぐ川添の
白菫さく若草に
夢多かりし吾身かな
雲むらさきの九重の
大宮内につかへして
清涼殿の春の夜の
月の光に照らされつ
雲を彫め濤を刻り
霞をうかべ日をまねく
玉の臺の欄干に
かゝるゆふべの春の雨
さばかり高き人の世の
耀くさまを目にも見て
ときめきたまふさまざまの
ひとのころもの香をかげり
きらめき初むる曉星の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き
天つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名の夕暮に消えて行く
秀でし人の末路も見き
春しづかなる御園生の
花に隱れて人を哭き
秋のひかりの窓に倚り
夕雲とほき友を戀ふ
ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門を出で
けふ江戸川に來て見れば
秋はさみしきながめかな
櫻の霜葉黄に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水靜にて
あゆみは遲きわがおもひ
おのれも知らず世を經れば
若き命に堪へかねて
岸のほとりの草を藉き
微笑みて泣く吾身かな
みそらをかける猛鷲の
人の處女の身に落ちて
花の姿に宿かれば
風雨に渇き雲に饑ゑ
天翔るべき術をのみ
願ふ心のなかれとて
黒髮長き吾身こそ
うまれながらの盲目なれ
芙蓉を前の身とすれば
泪は秋の花の露
小琴を前の身とすれば
愁は細き糸の音
いま前の世は鷲の身の
處女にあまる羽翼かな
あゝあるときは吾心
あらゆるものをなげうちて
世はあぢきなき淺茅生の
茂れる宿と思ひなし
身は術もなき蟋蟀の
夜の野草にはひめぐり
たゞいたづらに音をたてて
うたをうたふと思ふかな
色にわが身をあたふれば
處女のこゝろ鳥となり
戀に心をあたふれば
鳥の姿は處女にて
處女ながらも空の鳥
猛鷲ながら人の身の
天と地とに迷ひゐる
身の定めこそ悲しけれ
潮さみしき荒磯の
巖陰われは生れけり
あしたゆふべの白駒と
故郷遠きものおもひ
をかしくものに狂へりと
われをいふらし世のひとの
げに狂はしの身なるべき
この年までの處女とは
うれひは深く手もたゆく
むすぼゝれたるわが思
流れて熱きわがなみだ
やすむときなきわがこゝろ
亂れてものに狂ひよる
心を笛の音に吹かむ
笛をとる手は火にもえて
うちふるひけり十の指
音にこそ渇け口脣の
笛を尋ぬる風情あり
はげしく深きためいきに
笛の小竹や曇るらむ
髮は亂れて落つるとも
まづ吹き入るゝ氣息を聽け
力をこめし一ふしに
黄楊のさし櫛落ちにけり
吹けば流るゝ流るれば
笛吹き洗ふわが涙
短き笛の節の間も
長き思のなからずや
七つの情聲を得て
音をこそきかめ歌神も
われ喜を吹くときは
鳥も梢に音をとゞめ
怒をわれの吹くときは
瀬を行く魚も淵にあり
われ哀を吹くときは
獅子も涙をそゝぐらむ
われ樂を吹くときは
蟲も鳴く音をやめつらむ
愛のこゝろを吹くときは
流るゝ水のたち歸り
惡をわれの吹くときは
散り行く花も止りて
慾の思を吹くときは
心の闇の響あり
うたへ浮世の一ふしは
笛の夢路のものぐるひ
くるしむなかれ吾友よ
しばしは笛の音に歸れ
落つる涙をぬぐひきて
靜かにきゝね吾笛を
こひしきまゝに家を出で
こゝの岸よりかの岸へ
越えましものと來て見れば
千鳥鳴くなり夕まぐれ
こひには親も捨てはてて
やむよしもなき胸の火や
鬢の毛を吹く河風よ
せめてあはれと思へかし
河波暗く瀬を早み
流れて巖に碎くるも
君を思へば絶間なき
戀の火炎に乾くべし
きのふの雨の小休なく
水嵩や高くまさるとも
よひよひになくわがこひの
涙の瀧におよばじな
しりたまはずやわがこひは
花鳥の繪にあらじかし
空鏡の印象砂の文字
梢の風の音にあらじ
しりたまはずやわがこひは
雄々しき君の手に觸れて
嗚呼口紅をその口に
君にうつさでやむべきや
戀は吾身の社にて
君は社の神なれば
君の祭壇の上ならで
なににいのちを捧げまし
碎かば碎け河波よ
われに命はあるものを
河波高く泳ぎ行き
ひとりの神にこがれなむ
心のみかは手も足も
吾身はすべて火炎なり
思ひ亂れて嗚呼戀の
千筋の髮の波に流るゝ
花仄見ゆる春の夜の
すがたに似たる吾命
朧々に父母は
二つの影と消えうせて
世に孤兒の吾身こそ
影より出でし影なれや
たすけもあらぬ今は身は
若き聖に救はれて
人なつかしき前髮の
處女とこそはなりにけれ
若き聖ののたまはく
時をし待たむ君ならば
かの柹の實をとるなかれ
かくいひたまふうれしさに
ことしの秋もはや深し
まづその秋を見よやとて
聖に柹をすゝむれば
その口脣にふれたまひ
かくも色よき柹ならば
などかは早くわれに告げこぬ
若き聖ののたまはく
人の命の惜しからば
嗚呼かの酒を飮むなかれ
かくいひたまふうれしさに
酒なぐさめの一つなり
まづその春を見よやとて
聖に酒をすゝむれば
夢の心地に醉ひたまひ
かくも樂しき酒ならば
などかは早くわれに告げこぬ
若き聖ののたまはく
道行き急ぐ君ならば
迷ひの歌をきくなかれ
かくいひたまふうれしさに
歌も心の姿なり
まづその聲をきけやとて
一ふしうたひいでければ
聖は魂も醉ひたまひ
かくも樂しき歌ならば
などかは早くわれに告げこぬ
若き聖ののたまはく
まことをさぐる吾身なり
道の迷となるなかれ
かくいひたまふうれしさに
情も道の一つなり
かゝる思を見よやとて
わがこの胸に指ざせば
聖は早く戀ひわたり
かくも樂しき戀ならば
などかは早くわれに告げこぬ
それ秋の日の夕まぐれ
そゞろあるきのこゝろなく
ふと目に入るを手にとれば
雪より白き小石なり
若き聖ののたまはく
智惠の石とやこれぞこの
あまりに惜しき色なれば
人に隱して今も放たじ
くろかみながく
やはらかき
をんなごゝろを
たれかしる
をとこのかたる
ことのはを
まこととおもふ
ことなかれ
をとめごゝろの
あさくのみ
いひもつたふる
をかしさや
みだれてながき
鬢の毛を
黄楊の小櫛に
かきあげよ
あゝ月ぐさの
きえぬべき
こひもするとは
たがことば
こひて死なむと
よみいでし
あつきなさけは
誰がうたぞ
みちのためには
ちをながし
くにには死ぬる
をとこあり
治兵衞はいづれ
戀か名か
忠兵衞も名の
ために果つ
あゝむかしより
こひ死にし
をとこのありと
しるや君
をんなごゝろは
いやさらに
ふかきなさけの
こもるかな
小春はこひに
ちをながし
梅川こひの
ために死ぬ
お七はこひの
ために燒け
高尾はこひの
ために果つ
かなしからずや
清姫は
蛇となれるも
こひゆゑに
やさしからずや
佐容姫は
石となれるも
こひゆゑに
をとこのこひの
たはふれは
たびにすてゆく
なさけのみ
こひするなかれ
をとめごよ
かなしむなかれ
わがともよ
こひするときと
かなしみと
いづれかながき
いづれみじかき
旅と旅との君や我
君と我とのなかなれば
醉うて袂の歌草を
醒めての君に見せばやな
若き命も過ぎぬ間に
樂しき春は老いやすし
誰が身にもてる寶ぞや
君くれなゐのかほばせは
君がまなこに涙あり
君が眉には憂愁あり
堅く結べるその口に
それ聲も無きなげきあり
名もなき道を説くなかれ
名もなき旅を行くなかれ
甲斐なきことをなげくより
來りて美き酒に泣け
光もあらぬ春の日の
獨りさみしきものぐるひ
悲しき味の世の智惠に
老いにけらしな旅人よ
心の春の燭火に
若き命を照らし見よ
さくまを待たで花散らば
哀しからずや君が身は
わきめもふらで急ぎ行く
君の行衞はいづこぞや
琴花酒のあるものを
とゞまりたまへ旅人よ
中野逍遙をいたむ
『秀才香骨幾人憐、秋入長安夢愴然、琴臺舊譜壚前柳、風流銷盡二千年』、これ中野逍遙が秋怨十絶の一なり。逍遙字は威卿、小字重太郎、豫州宇和島の人なりといふ。文科大學の異材なりしが年僅かに二十七にしてうせぬ。逍遙遺稿正外二篇、みな紅心の餘唾にあらざるはなし。左に掲ぐるはかれの清怨を寫せしもの、『寄語殘月休長嘆、我輩亦是艶生涯』、合せかゝげてこの秀才を追慕するのこゝろをとゞむ。
思君九首 中野逍遙
思君我心傷 思君我容瘁
中夜坐松蔭 露華多似涙
思君我心悄 思君我腸裂
昨夜涕涙流 今朝盡成血
示君錦字詩 寄君鴻文册
忽覺筆端香 窻外梅花白
爲君調綺羅 爲君築金屋
中有鴛鴦圖 長春夢百祿
贈君名香篋 應記韓壽恩
休將秋扇掩 明月照眉痕
贈君双臂環 寶玉價千金
一鐫不乖約 一題勿變心
訪君過臺下 清宵琴響搖
佇門不敢入 恐亂月前調
千里囀金鶯 春風吹緑野
忽發頭屋桃 似君三兩朶
嬌影三分月 芳花一朶梅
潭把花月秀 作君玉膚堆
かなしいかなや流れ行く
水になき名をしるすとて
今はた殘る歌反古の
ながき愁ひをいかにせむ
かなしいかなやする墨の
いろに染めてし花の木の
君がしらべの歌の音に
薄き命のひゞきあり
かなしいかなや前の世は
みそらにかゝる星の身の
人の命のあさぼらけ
光も見せでうせにしよ
かなしいかなや同じ世に
生れいでたる身を持ちて
友の契りも結ばずに
君は早くもゆけるかな
すゞしき眼つゆを帶び
葡萄のたまとまがふまで
その面影をつたへては
あまりに妬き姿かな
同じ時世に生れきて
同じいのちのあさぼらけ
君からくれなゐの花は散り
われ命あり八重葎
かなしいかなやうるはしく
さきそめにける花を見よ
いかなればかくとゞまらで
待たで散るらむさける間も
かなしいかなやうるはしき
なさけもこひの花を見よ
いといと清きそのこひは
消ゆとこそ聞けいと早く
君し花とにあらねども
いな花よりもさらに花
君しこひとにあらねども
いなこひよりもさらにこひ
かなしいかなや人の世に
あまりに惜しき才なれば
病に塵に悲に
死にまでそしりねたまるゝ
かなしいかなやはたとせの
ことばの海のみなれ棹
磯にくだくる高潮の
うれひの花とちりにけり
かなしいかなや人の世の
きづなも捨てて嘶けば
つきせぬ草に秋は來て
聲も悲しき天の馬
かなしいかなや音を遠み
流るゝ水の岸にさく
ひとつの花に照らされて
飄り行く一葉舟
秋は來ぬ
秋は來ぬ
一葉は花は露ありて
風の來て彈く琴の音に
青き葡萄は紫の
自然の酒とかはりけり
秋は來ぬ
秋は來ぬ
おくれさきだつ秋草も
みな夕霜のおきどころ
笑ひの酒を悲みの
盃にこそつぐべけれ
秋は來ぬ
秋は來ぬ
くさきも紅葉するものを
たれかは秋に醉はざらむ
智惠あり顏のさみしさに
君笛を吹けわれはうたはむ
まだあげ初めし前髮の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の實に
人こひ初めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの
その髮の毛にかゝるとき
たのしき戀の盃を
君が情に酌みしかな
林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそうれしけれ
庭にかくるゝ小狐の
人なきときに夜いでゝ
秋の葡萄の樹の影に
しのびてぬすむつゆのふさ
戀は狐にあらねども
君は葡萄にあらねども
人しれずこそ忍びいで
君をぬすめる吾心
髮を洗へば紫の
小草のまへに色みえて
足をあぐれば花鳥の
われに隨ふ風情あり
目にながむれば彩雲の
まきてはひらく繪卷物
手にとる酒は美酒の
若き愁をたゝふめり
耳をたつれば歌神の
きたりて玉の簫を吹き
口をひらけばうたびとの
一ふしわれはこひうたふ
あゝかくまでにあやしくも
熱きこゝろのわれなれど
われをし君のこひしたふ
その涙にはおよばじな
君がこゝろは蟋蟀の
風にさそはれ鳴くごとく
朝影清き花草に
惜しき涙をそゝぐらむ
それかきならす玉琴の
一つの糸のさはりさへ
君がこゝろにかぎりなき
しらべとこそはきこゆめれ
あゝなどかくは觸れやすき
君が優しき心もて
かくばかりなる吾こひに
觸れたまはぬぞ恨みなる
二人してさす一張の
傘に姿をつゝむとも
情の雨のふりしきり
かわく間もなきたもとかな
顏と顏とをうちよせて
あゆむとすればなつかしや
梅花の油黒髮の
亂れて匂ふ傘のうち
戀の一雨ぬれまさり
ぬれてこひしき夢の間や
染めてぞ燃ゆる紅絹うらの
雨になやめる足まとひ
歌ふをきけば梅川よ
しばし情を捨てよかし
いづこも戀に戲れて
それ忠兵衞の夢がたり
こひしき雨よふらばふれ
秋の入日の照りそひて
傘の涙を乾さぬ間に
手に手をとりて行きて歸らじ
わが手に植ゑし白菊の
おのづからなる時くれば
一もと花の暮陰に
秋に隱れて窓にさくなり
こゝろもあらぬ秋鳥の
聲にもれくる一ふしを
知るや君
深くも澄める朝潮の
底にかくるゝ眞珠を
知るや君
あやめもしらぬやみの夜に
靜にうごく星くづを
知るや君
まだ彈きも見ぬをとめごの
胸にひそめる琴の音を
知るや君
さびしさはいつともわかぬ山里に
尾花みだれて秋かぜぞふく
しづかにきたる秋風の
西の海より吹き起り
舞ひたちさわぐ白雲の
飛びて行くへも見ゆるかな
暮影高く秋は黄の
桐の梢の琴の音に
そのおとなひを聞くときは
風のきたると知られけり
ゆふべ西風吹き落ちて
あさ秋の葉の窓に入り
あさ秋風の吹きよせて
ゆふべの鶉巣に隱る
ふりさけ見れば青山も
色はもみぢに染めかへて
霜葉をかへす秋風の
空の明鏡にあらはれぬ
清しいかなや西風の
まづ秋の葉を吹けるとき
さびしいかなや秋風の
かのもみぢ葉にきたるとき
道を傳ふる婆羅門の
西に東に散るごとく
吹き漂蕩す秋風に
飄り行く木の葉かな
朝羽うちふる鷲鷹の
明闇天をゆくごとく
いたくも吹ける秋風の
羽に聲あり力あり
見ればかしこし西風の
山の木の葉をはらふとき
悲しいかなや秋風の
秋の百葉を落すとき
人は利劍を振へども
げにかぞふればかぎりあり
舌は時世をのゝしるも
聲はたちまち滅ぶめり
高くも烈し野も山も
息吹まどはす秋風よ
世をかれがれとなすまでは
吹きも休むべきけはひなし
あゝうらさびし天地の
壺の中なる秋の日や
落葉と共に飄る
風の行衞を誰か知る
庭にたちいでたゞひとり
秋海棠の花を分け
空ながむれば行く雲の
更に祕密を闡くかな
うき雲はありともわかぬ大空の
月のかげよりふるしぐれかな
きみがはかばに
きゞくあり
きみがはかばに
さかきあり
くさはにつゆは
しげくして
おもからずやは
そのしるし
いつかねむりを
さめいでて
いつかへりこむ
わがはゝよ
紅羅ひく子も
ますらをも
みなちりひぢと
なるものを
あゝさめたまふ
ことなかれ
あゝかへりくる
ことなかれ
はるははなさき
はなちりて
きみがはかばに
かゝるとも
なつはみだるゝ
ほたるびの
きみがはかばに
とべるとも
あきはさみしき
あきさめの
きみがはかばに
そゝぐとも
ふゆはましろに
ゆきじもの
きみがはかばに
こほるとも
とほきねむりの
ゆめまくら
おそるゝなかれ
わがはゝよ
はるのよはひかりはかりとおもひしを
しろきやうめのさかりなるらむ
姉
わかきいのちの
をしければ
やみにも春の
香に醉はむ
せめてこよひは
さほひめよ
はなさくかげに
うたへかし
妹
そらもゑへりや
はるのよは
ほしもかくれて
みえわかず
よめにもそれと
ほのしろく
みだれてにほふ
うめのはな
姉
はるのひかりの
こひしさに
かたちをかくす
うぐひすよ
はなさへしるき
はるのよの
やみをおそるゝ
ことなかれ
妹
うめをめぐりて
ゆくみづの
やみをながるゝ
せゝらぎや
ゆめもさそはぬ
香なりせば
いづれかよるに
にほはまし
姉
こぞのこよひは
わがともの
うすこうばいの
そめごろも
ほかげにうつる
さかづきを
こひのみゑへる
よなりけり
妹
こぞのこよひは
わがともの
なみだをうつす
よのなごり
かげもかなしや
木下川に
うれひしづみし
よなりけり
姉
こぞのこよひは
わがともの
おもひははるの
よのゆめや
よをうきものに
いでたまふ
ひとめをつゝむ
よなりけり
妹
こぞのこよひは
わがともの
そでのかすみの
はなむしろ
ひくやことのね
たかじほを
うつしあはせし
よなりけり
姉
わがみぎのてに
くらぶれば
やさしきなれが
たなごゝろ
ふるればいとど
やわらかに
もゆるかあつく
おもほゆる
妹
もゆるやいかに
こよひはと
とひたまふこそ
うれしけれ
しりたまはずや
うめがかに
わがうまれてし
はるのよを
しは〳〵もこほるゝつゆははちすはの
うきはにのみもたまりけるかな
姉
あゝはすのはな
はすのはな
かげはみえけり
いけみづに
ひとつのふねに
さをさして
うきはをわけて
こぎいでむ
妹
かぜもすゞしや
はがくれに
そこにもしろし
はすのはな
こゝにもあかき
はすばなの
みづしづかなる
いけのおも
姉
はすをやさしみ
はなをとり
そでなひたしそ
いけみづに
ひとめもはぢよ
はなかげに
なれが乳房の
あらはるゝ
妹
ふかくもすめる
いけみづの
葉にすれてゆく
みなれざを
なつぐもゆけば
かげみえて
はなよりはなを
わたるらし
姉
荷葉にうたひ
ふねにのり
はなつみのする
なつのゆめ
はすのはなふね
さをとめて
なにをながむる
そのすがた
妹
なみしづかなる
はなかげに
きみのかたちの
うつるかな
きみのかたちと
なつばなと
いづれうるはし
いづれやさしき
はるあきにおもひみたれてわきかねつ
ときにつけつゝうつるこゝろは
妹
たのしからずや
はなやかに
あきはいりひの
てらすとき
たのしからずや
ぶだうばの
はごしにくもの
かよふとき
姉
やさしからずや
むらさきの
ぶだうのふさの
かゝるとき
やさしからずや
にひぼしの
ぶだうのたまに
うつるとき
妹
かぜはしづかに
そらすみて
あきはたのしき
ゆふまぐれ
いつまでわかき
をとめごの
たのしきゆめの
われらぞや
姉
あきのぶだうの
きのかげの
いかにやさしく
ふかくとも
てにてをとりて
かげをふむ
なれとわかれて
なにかせむ
妹
げにやかひなき
くりごとも
ぶだうにしかじ
ひとふさの
われにあたへよ
ひとふさを
そこにかゝれる
むらさきの
姉
われをしれかし
えだたかみ
とゞかじものを
かのふさは
はかげのたまに
手はふれで
わがさしぐしの
おちにけるかな
わかれゆくひとををしむとこよひより
とほきゆめちにわれやまとはむ
妹
とほきわかれに
たへかねて
このたかどのに
のぼるかな
かなしむなかれ
わがあねよ
たびのころもを
とゝのへよ
姉
わかれといへば
むかしより
このひとのよの
つねなるを
ながるゝみづを
ながむれば
ゆめはづかしき
なみだかな
妹
したへるひとの
もとにゆく
きみのうへこそ
たのしけれ
ふゆやまこえて
きみゆかば
なにをひかりの
わがみぞや
姉
あゝはなとりの
いろにつけ
ねにつけわれを
おもへかし
けふわかれては
いつかまた
あひみるまでの
いのちかも
妹
きみがさやけき
めのいろも
きみくれなゐの
くちびるも
きみがみどりの
くろかみも
またいつかみむ
このわかれ
姉
なれがやさしき
なぐさめも
なれがたのしき
うたごゑも
なれがこゝろの
ことのねも
またいつきかむ
このわかれ
妹
きみのゆくべき
やまかはは
おつるなみだに
みえわかず
そでのしぐれの
ふゆのひに
きみにおくらむ
はなもがな
姉
そでにおほへる
うるはしき
ながかほばせを
あげよかし
ながくれなゐの
かほばせに
ながるゝなみだ
われはぬぐはむ
ゆふぐれしづかに
ゆめみむとて
よのわづらひより
しばしのがる
きみよりほかには
しるものなき
花かげにゆきて
こひを泣きぬ
すぎこしゆめぢを
おもひみるに
こひこそつみなれ
つみこそこひ
いのりもつとめも
このつみゆゑ
たのしきそのへと
われはゆかじ
なつかしき君と
てをたづさへ
くらき冥府まで
かけりゆかむ
しづかにてらせる
月のひかりの
などか絶間なく
ものおもはする
さやけきそのかげ
こゑはなくとも
みるひとの胸に
忍び入るなり
なさけは説くとも
なさけをしらぬ
うきよのほかにも
朽ちゆくわがみ
あかさぬおもひと
この月かげと
いづれか聲なき
いづれかなしき
一つの花に蝶と蜘蛛
小蜘蛛は花を守り顏
小蝶は花に醉ひ顏に
舞へども舞へどもすべぞなき
花は小蜘蛛のためならば
小蝶の舞をいかにせむ
花は小蝶のためならば
小蜘蛛の糸をいかにせむ
やがて一つの花散りて
小蜘蛛はそこに眠れども
羽翼も輕き小蝶こそ
いづこともなくうせにけれ
人妻をしたへる男の山に登り其
女の家を望み見てうたへるうた
誰かとどめむ旅人の
あすは雲間に隱るゝを
誰か聞くらむ旅人の
あすは別れと告げましを
清き戀とや片し貝
われのみものを思ふより
戀はあふれて濁るとも
君に涙をかけましを
人妻戀ふる悲しさを
君がなさけに知りもせば
せめてはわれを罪人と
呼びたまふこそうれしけれ
あやめもしらぬ憂しや身は
くるしきこひの牢獄より
罪の鞭責をのがれいで
こひて死なむと思ふなり
誰かは花をたづねざる
誰かは色彩に迷はざる
誰かは前にさける見て
花を摘まむと思はざる
戀の花にも戲るゝ
嫉妬の蝶の身ぞつらき
二つの羽もをれをれて
翼の色はあせにけり
人の命を春の夜の
夢といふこそうれしけれ
夢よりもいやいや深き
われに思ひのあるものを
梅の花さくころほひは
蓮さかばやと思ひわび
蓮の花さくころほひは
萩さかばやと思ふかな
待つまも早く秋は來て
わが踏む道に萩さけど
濁りて待てる吾戀は
清き怨となりにけり
寺をのがれいでたる僧のうたひし
そのうた
いざさらば
これをこの世のわかれぞと
のがれいでては住みなれし
御寺の藏裏の白壁の
眼にもふたゝび見ゆるかな
いざさらば
住めば佛のやどりさへ
火炎の宅となるものを
なぐさめもなき心より
流れて落つる涙かな
いざさらば
心の油濁るとも
ともしびたかくかきおこし
なさけは熱くもゆる火の
こひしき塵にわれは燒けなむ
波に生れて波に死ぬ
情の海のかもめどり
戀の激波たちさわぎ
夢むすぶべきひまもなし
闇き潮の驚きて
流れて歸るわだつみの
鳥の行衞も見えわかぬ
波にうきねのかもめどり
門にたち出でたゞひとり
人待ち顏のさみしさに
ゆふべの空をながむれば
雲の宿りも捨てはてて
何かこひしき人の世に
流れて落つる星一つ
君と遊ばむ夏の夜の
青葉の影の下すゞみ
短かき夢は結ばずも
せめてこよひは歌へかし
雲となりまた雨となる
晝の愁ひはたえずとも
星の光をかぞへ見よ
樂みのかず夜は盡きじ
夢かうつゝか天の川
星に假寢の織姫の
ひゞきもすみてこひわたる
梭の遠音を聞かめやも
花橘の袖の香の
みめうるはしきをとめごは
眞晝に夢を見てしより
さめて忘るゝ夜のならひ
白日の夢のなぞもかく
忘れがたくはありけるものか
ゆめと知りせばなまなかに
さめざらましを世に出でて
うらわかぐさのうらわかみ
何をか夢の名殘ぞと
問はば答へむ目さめては
熱き涙のかわく間もなし
をとこの氣息のやはらかき
お夏の髮にかゝるとき
をとこの早きためいきの
霰のごとくはしるとき
をとこの熱き手の掌の
お夏の手にも觸るゝとき
をとこの涙ながれいで
お夏の袖にかゝるとき
をとこの黒き目のいろの
お夏の胸に映るとき
をとこの紅き口脣の
お夏の口にもゆるとき
人こそしらね嗚呼戀の
ふたりの身より流れいで
げにこがるれど慕へども
やむときもなき清十郎
花によりそふ雞の
夫よ妻鳥よ燕子花
いづれあやめとわきがたく
さも似つかしき風情あり
姿やさしき牝雞の
かたちを恥づるこゝろして
花に隱るゝありさまに
品かはりたる夫鳥や
雄々しくたけき雄雞の
とさかの色も艶にして
黄なる口嘴脚蹴爪
尾はしだり尾のながながし
問うても見まし誰がために
よそほひありく夫鳥よ
妻守るためのかざりにと
いひたげなるぞいぢらしき
畫にこそかけれ花鳥の
それにも通ふ一つがひ
霜に侘寢の朝ぼらけ
雨に入日の夕まぐれ
空に一つの明星の
闇行く水に動くとき
日を迎へむと雞の
夜の使を音にぞ鳴く
露けき朝の明けて行く
空のながめを誰か知る
燃ゆるがごとき紅の
雲のゆくへを誰か知る
闇もこれより隣なる
聲ふりあげて鳴くときは
人の長眠のみなめざめ
夜は日に通ふ夢まくら
明けはなれたり夜はすでに
いざ妻鳥と巣を出でて
餌をあさらむと野に行けば
あなあやにくのものを見き
見しらぬ雞の音も高に
あしたの空に鳴き渡り
草かき分けて來るはなぞ
妻戀ふらしや妻鳥を
ねたしや露に羽ぬれて
朝日にうつる影見れば
雄雞に惜しき白妙の
雪をあざむくばかりなり
力あるらし聲たけき
敵のさまを懼れてか
聲色あるさまに羞ぢてかや
妻鳥は花に隱れけり
かくと見るより堪へかねて
背をや高めし夫鳥は
羽がきも荒く飛び走り
蹴爪に土をかき狂ふ
筆毛のさきも逆立ちて
血潮にまじる眼のひかり
二つの雞のすがたこそ
是おそろしき風情なれ
妻鳥は花を馳け出でて
爭鬪分くるひまもなみ
たがひに蹴合ふ蹴爪には
火焔もちるとうたがはる
蹴るや左眼の的それて
羽に血しほの夫鳥は
敵の右眼をめざしつゝ
爪も折れよと蹴返しぬ
蹴られて落つるくれなゐの
血汐の花も地に染みて
二つの雞の目もくるひ
たがひにひるむ風情なし
そこに聲あり涙あり
爭ひ狂ふ四つの羽
血潮に滑りし夫鳥の
あな仆れけむ聲高し
一聲長く悲鳴して
あとに仆るゝ夫鳥の
羽は血汐の朱に染み
あたりにさける花紅し
あゝあゝ熱き涙かな
あるに甲斐なき妻鳥は
せめて一聲鳴けかしと
屍に嘆くさまあはれ
なにとは知らぬかなしみの
いつか恐怖と變りきて
思ひ亂れて音をのみぞ
鳴くや妻鳥の心なく
我を戀ふらし音にたてて
姿も色もなつかしき
花のかたちと思ひきや
かなしき敵とならむとは
花にもつるゝ蝶あるを
鳥に縁のなからめや
おそろしきかな其の心
なつかしきかな其の情
紅に染みたる草見れば
鳥の命のもろきかな
火よりも燃ゆる戀見れば
敵のこゝろのうれしやな
見よ動きゆく大空の
照る日も雲に薄らぎて
花に色なく風吹けば
野はさびしくも變りけり
かなしこひしの夫鳥の
冷えまさりゆく其姿
たよりと思ふ一ふしの
いづれ妻鳥の身の末ぞ
恐怖を抱く母と子が
よりそふごとくかの敵に
なにとはなしに身をよする
妻鳥のこゝろあはれなれ
あないたましのながめかな
さきの樂しき花ちりて
空色暗く一彩毛の
雲にかなしき野のけしき
行きてかへらぬ鳥はいざ
夫か妻鳥か燕子花
いづれあやめを踏み分けて
野末を歸る二羽の雞
力を刻む木匠の
うちふる斧のあとを絶え
春の草花彫刻の
鑿の韻もとゞめじな
いろさまざまの春の葉に
青一筆の痕もなく
千枝にわかるゝ赤樟も
おのづからなるすがたのみ
檜は荒し杉直し
五葉は黒し椎の木の
枝をまじふる白樫や
樗は莖をよこたへて
枝と枝とにもゆる火の
なかにやさしき若楓
山精
ひとにしられぬ
たのしみの
ふかきはやしを
たれかしる
ひとにしられぬ
はるのひの
かすみのおくを
たれかしる
木精
はなのむらさき
はのみどり
うらわかぐさの
のべのいと
たくみをつくす
大機の
梭のはやしに
きたれかし
山精
かのもえいづる
くさをふみ
かのわきいづる
みづをのみ
かのあたらしき
はなにゑひ
はるのおもひの
なからずや
木精
ふるきころもを
ぬぎすてて
はるのかすみを
まとへかし
なくうぐひすの
ねにいでて
ふかきはやしに
うたへかし
あゆめば蘭の花を踏み
ゆけば楊梅袖に散り
袂にまとふ山葛の
葛のうら葉をかへしては
女蘿の蔭のやまいちご
色よき實こそ落ちにけれ
岡やまつゞき隅々も
いとなだらかに行き延びて
ふかきはやしの谷あひに
亂れてにほふふぢばかま
谷に花さき谷にちり
人にしられず朽つるめり
せまりて暗き峽より
やゝひらけたる深山木の
春は木枝のたゝずまひ
しげりて廣き熊笹の
葉末をふかくかきわけて
谷のかなたにきて見れば
いづくに行くか瀧川よ
聲もさびしや白糸の
青き巖に流れ落ち
若き猿のためにだに
音をとゞむる時ぞなき
山精
ゆふぐれかよふ
たびびとの
むねのおもひを
たれかしる
友にもあらぬ
やまかはの
はるのこゝろを
たれかしる
木精
夜をなきあかす
かなしみの
まくらにつたふ
なみだこそ
ふかきはやしの
たにかげの
そこにながるゝ
しづくなれ
山精
鹿はたふるゝ
たびごとに
妻こふこひに
かへるなり
のやまは枯るゝ
たびごとに
ちとせのはるに
かへるなり
木精
ふるきおちばを
やはらかき
青葉のかげに
葬れよ
ふゆのゆめぢを
さめいでて
はるのはやしに
きたれかし
今しもわたる深山かぜ
春はしづかに吹きかよふ
林の簫の音をきけば
風のしらべにさそはれて
みれどもあかぬ白妙の
雲の羽袖の深山木の
千枝にかゝりたちはなれ
わかれ舞ひゆくすがたかな
樹々をわたりて行く雲の
しばしと見ればあともなき
高き行衞にいざなはれ
千々にめぐれる巖影の
花にも迷ひ石に倚り
流るゝ水の音をきけば
山は危ふく石わかれ
削りてなせる青巖に
碎けて落つる飛潭の
湧きくる波の瀬を早み
花やかにさす春の日の
光炯照りそふ水けぶり
獨り苔むす岩を攀ぢ
ふるふあゆみをふみしめて
浮べる雲をうかゞへば
下にとゞろく飛潭の
澄むいとまなき岩波は
落ちていづくに下るらむ
山精
なにをいざよふ
むらさきの
ふかきはやしの
はるがすみ
なにかこひしき
いはかげを
ながれていづる
いづみがは
木精
かくれてうたふ
野の山の
こゑなきこゑを
きくやきみ
つゝむにあまる
はなかげの
水のしらべを
しるやきみ
山精
あゝながれつゝ
こがれつゝ
うつりゆきつゝ
うごきつゝ
あゝめぐりつゝ
かへりつゝ
うちわらひつゝ
むせびつゝ
木精
いまひのひかり
はるがすみ
いまはなぐもり
はるのあめ
あゝあゝはなの
つゆに醉ひ
ふかきはやしに
うたへかし
ゆびをりくればいつたびも
かはれる雲をながむるに
白きは黄なりなにをかも
もつ筆にせむ色彩の
いつしか淡く茶を帶びて
雲くれなゐとかはりけり
あゝゆふまぐれわれひとり
たどる林もひらけきて
いと靜かなる湖の
岸邊にさける花躑躅
うき雲ゆけばかげ見えて
水に沈める春の日や
それ紅の色染めて
雲紫となりぬれば
かげさへあかき水鳥の
春のみづうみ岸の草
深き林や花つゝじ
迷ふひとりのわがみだに
深紫の紅の
彩にうつろふ夕まぐれ
一葉舟より 明治三十年──同三十一年 (仙臺及び東京にて) |
みるめの草は青くして海の潮の香ににほひ
流れ藻の葉はむすぼれて蜑の小舟にこがるゝも
あしたゆふべのさだめなき大龍神の見る夢の
闇きあらしに驚けば海原とくもかはりつゝ
とくたちかへれ夏波に友よびかはす濱千鳥
もしほやく火はきえはてて岩にひそめるかもめどり
蜑は苫やに舟は磯いそうちよする波ぎはの
削りて高き巖角にしばし身をよす二羽の鷲
いかづちの火の岩に落ち波間に落ちて消ゆるまも
寢みだれ髮か黒雲の風にふかれつそらに飛び
葡萄の酒の濃紫いろこそ似たれ荒波の
波のみだれて狂ひよるひゞきの高くすさまじや
翼の骨をそばだててすがたをつゝむ若鷲の
身は覆羽やさごろもや腋羽のうちにかくせども
見よ老鷲はそこ白く赤すぢたてる大爪に
岩をつかみて中高き頭靜かにながめけり
げに白髮のものゝふの劍の霜を拂ふごと
唐藍の花ますらをのかの青雲を慕ふごと
黄葉の影に啼く鹿の谷間の水に喘ぐごと
眼鋭く老鷲は雲の行くへをのぞむかな
わが若鷲はうちひそみわが老鷲はたちあがり
小河に映る明星の澄めるに似たる眼して
黒雲の行く大空のかなたにむかひうめきしが
いづれこゝろのおくれたり高し烈しとさだむべき
わが若鷲は琴柱尾や胸に文なす鷸の斑の
承毛は白く柔和に谷の落し羽飛ぶときも
湧きて流るゝ眞清水の水に翼をうちひたし
このめる蔭は行く春のなごりにさける花躑躅
わが老鷲は肩剛く胸腹廣く溢れいで
烈しき風をうち凌ぐ羽は著くもあらはれて
藤の花かも胸の斑や髀に甲をおくごとく
鳥の命の戰ひに翼にかゝる老の霜
げにいかめしきものゝふの盾にもいづれ翼をば
張りひろげたる老鷲のふたゝびみたび羽ばたきて
踴れる胸は海潮の湧きつ流れつ鳴るごとく
力あふれて空高く舞ひたちあがるすがたかな
黒岩茸の岩ばなに生ふにも似るか若鷲の
巖角ふかく身をよせて飛ぶ老鷲をうかゞふに
紋は花菱舞ひ扇ひらめきかへる疾風の
わが老鷲を吹くさまは一葉を振るに似たりけり
たゝかふためにうまれては羽を劍の老鷲の
うたむかたむと小休なき熱き胸より吹く氣息は
色くれなゐの火炎かもげに悲痛の湧き上り
勁き翼をひるがへしかの天雲を凌ぎけり
光を慕ふ身なれども運命かなしや老鳥の
一こゑ深き苦悶のおとをみそらに殘しおき
金絲の縫の黒繻子の帶かとぞ見る黒雲の
羽袖のうちにつゝまれて姿はいつか消えにけり
あゝさだめなき大空のけしきのとくもかはりゆき
闇きあらしのをさまりて光にかへる海原や
細くかゝれる彩雲はゆかりの色の濃紫
薄紫のうつろひに樂しき園となりけらし
命を岩につなぎては細くも絲をかけとめて
腋羽につゝむ頭をばうちもたげたる若鷲の
鉤にも似たる爪先の雨にぬれたる岩ばなに
かたくつきたる一つ羽はそれも名殘か老鷲の
霜ふりかゝる老鷲の一羽をくはへ眺むれば
夏の光にてらされて岩根にひゞく高潮の
碎けて深き海原の岩角に立つ若鷲は
日影にうつる雲さして行くへもしれず飛ぶやかなたへ
みしやみぎはの白あやめ
はなよりしろき花瓶を
いかなるひとのたくみより
うまれいでしとしるやきみ
瓶のすがたのやさしきは
根ざしも清き泉より
にほひいでたるしろたへの
こゝろのはなと君やみむ
さばかり清きたくみぞと
いひたまふこそうれしけれ
うらみわびつるわが友の
うきなみだよりいでこしを
ゆめにたはふれ夢に醉ひ
さむるときなきわが友の
名殘は白き花瓶に
あつきなみだの殘るかな
にごりをいでてさくはなに
にほひありとなあやしみそ
光は高き花瓶に
戀の嫉妬もあるものを
命運をよそにかげろふの
きゆるためしぞなしといへ
あまりに薄き縁こそ
友のこのよのいのちなれ
やがてさかえむゆくすゑの
ひかりも待たで夏の夜の
短かき夢は燭火の
花と散りゆきはかなさや
つゆもまだひぬみどりばの
しげきこずゑのしたかげに
ほとゝぎすなく夏のひの
もろ葉がくれの青梅も
夏の光のかゞやきて
さつきの雨のはれわたり
黄金いろづく梅が枝に
たのしきときやあるべきを
胸の青葉のうらわかみ
朝露しげきこずゑより
落ちてくやしき青梅の
實のひとつなる花瓶よ
いのちは薄き蝉の羽の
ひとへごろものうらもなく
はじめて友の戀歌を
花影にきてうたふとき
緑のいろの夏草の
あしたの露にぬるゝごと
深くすゞしきまなこには
戀の雫のうるほひき
影を映してさく花の
流るゝ水を慕ふごと
なさけをふくむ口脣に
からくれなゐの色を見き
をとめごゝろを眞珠の
藏とは友の見てしかど
寶の胸をひらくべき
戀の鍵だになかりしか
いとけなきかなひとのよに
智惠ありがほの戀なれど
をとめごゝろのはかなさは
友の得しらぬ外なりき
あひみてのちはとこしへの
わかれとなりし世のなごり
かなしきゆめと思ひしを
われや忘れじ夏の夜半
月はいでけり夏の夜の
青葉の蔭にさし添ひて
あふげば胸に忍び入る
ひかりのいろのさやけさや
ゆめにゆめ見るこゝちして
ふたりの膝をうち照らす
月の光にさそはれつ
しづかに友のうたふうた
たれにかたらむ
わがこゝろ
たれにかつげむ
このおもひ
わかきいのちの
あさぼらけ
こゝろのはるの
たのしみよ
などいたましき
かなしみの
ゆめとはかはり
はてつらむ
こひはにほへる
むらさきの
さきてちりぬる
はななるを
あゝかひなしや
そのはなの
ゆかしかるべき
かをかげば
わがくれなゐの
かほばせに
とゞめもあへぬ
なみだかな
くさふみわくる
こひつじよ
なれものずゑに
まよふみか
さまよひやすき
たびびとよ
なあやまりそ
ゆくみちを
龍を刻みし宮柱
ふとき心はありながら
薄き命のはたとせの
名殘は白き瓶ひとつ
たをらるべきをいのちにて
はなさくとにはあらねども
朝露おもきひとえだに
うれひをふくむ花瓶や
あゝあゝ清き白雪は
つもりもあへず消ゆるごと
なつかしかりし友の身は
われをのこしてうせにけり
せめては白き花瓶よ
消えにしあとの野の花の
色にもいでよわが友の
いのちの春の雪の名殘を
天の河原を
ながむれば
星の力は
おとろへて
遠きむかしの
ゆめのあと
こゝにちとせを
すぎにけり
そらの泉を
よのひとの
汲むにまかせて
わきいでし
天の河原は
かれはてて
水はいづこに
うせつらむ
ひゞきをあげよ
織姫よ
みどりの空は
かはらねど
ほしのやどりの
今ははた
いづこに梭の
音をきかむ
あゝひこぼしも
織姫も
今はむなしく
老い朽ちて
夏のゆふべを
かたるべき
みそらに若き
星もなし
去年蔦の葉の
かげにきて
うたひいでしに
くらぶれば
ことしも同じ
しらべもて
かはるふしなき
きりぎりす
耳なきわれを
とがめそよ
うれしきものと
おもひしを
自然のうたの
かくまでに
舊きしらべと
なりけるか
同じしらべに
たへかねて
草と草との
花を分け
聲あるかたに
たちよりて
蟲のこたへを
もとめけり
花をへだてて
きみがため
聞くにまかせて
うたへども
うたのこゝろの
かよはねば
せなかあはせの
きりぎりす
かすみのかげにもえいでし
糸の柳にくらぶれば
いまは小暗き木下闇
あゝ一時の
春やいづこに
色をほこりしあさみどり
わかきむかしもありけるを
今はしげれる夏の草
あゝ一時の
春やいづこに
梅も櫻もかはりはて
枝は緑の酒のごと
醉うてくづるゝ夏の夢
あゝ一時の
春やいづこに
夏草より 明治三十一年 (木曾福島にて) |
ゆきてとらへよ
大麥の
畠にかくるゝ
小兎を
われらがつくる
麥畠の
青くさかりと
なるものを
たわにみのりし
穗のかげを
みだすはたれの
たはむれぞ
麥まきどりの
きなくより
丸根に雨の
かゝるまで
朝露しげき
星影に
片さがりなき
鍬まくら
ゆふづゝ沈む
山のはの
こだまにひゞく
はたけうち
われらがつくる
麥畠の
青くさかりと
なるものを
ゆきてとらへよ
大麥の
畠にかくるゝ
小兎を
時は暮れ行く春よりぞ
また短きはなかるらむ
恨は友の別れより
さらに長きはなかるらむ
君を送りて花近き
高樓までもきて見れば
緑に迷ふ鶯は
霞空しく鳴きかへり
白き光は佐保姫の
春の車駕を照らすかな
これより君は行く雲と
ともに都を立ちいでて
懷へば琵琶の湖の
岸の光にまよふとき
東膽吹の山高く
西には比叡比良の峯
日は行き通ふ山々の
深きながめをふしあふぎ
いかにすぐれし想をか
沈める波に湛ふらむ
流れは空し法皇の
夢杳かなる鴨の水
水にうつろふ山城の
みやびの都行く春の
霞めるすがた見つくして
畿内に迫る伊賀伊勢の
鈴鹿の山の波遠く
海に落つるを望むとき
いかに萬の恨をば
空行く鷲に窮むらむ
春去り行かば青丹よし
奈良の都に尋ね入り
としつき君がこひ慕ふ
御堂のうちに遊ぶとき
古き藝術の花の香の
伽藍の壁に遺りなば
いかに韻を身にしめて
深き思に沈むらむ
さては秋津の島が根の
南の翼紀の國を
囘りて進む黒潮の
鳴門に落ちて行くところ
天際遠く白き日の
光を泄らす雲裂けて
目にはるかなる遠海の
波の踴るを望むとき
いかに胸うつ音高く
君が血潮のさわぐらむ
または名に負ふ歌枕
波に千とせの色映る
明石の浦のあさぼらけ
松萬代の音に響く
舞子の濱のゆふまぐれ
もしそれ海の雲落ちて
淡路の島の影暗く
狹霧のうちに鳴き通ふ
千鳥の聲を聞くときは
いかに浦邊にさすらひて
遠き古を忍ぶらむ
げに君がため山々は
雲を停めむ浦々は
磯に流るゝ白波を
揚げむとすらむよしさらば
旅路はるかに野邊行かば
野邊のひめごと森行かば
森のひめごとさぐりもて
高きに登り天地の
もなかに遊べ大川の
流れを窮め山々の
神をも呼ばひ谷々の
鬼をも起し歌人の
魂をも遠く返しつゝ
清しき聲をうちあげて
朽ちせぬ琴をかき鳴らせ
あゝ歌神の吹く氣息は
絶えてさびしくなりにけり
ひゞき空しき天籟は
いづくにかある
九つの
藝術の神のかんづまり
かんさびませしとつくにの
阿典の宮殿の玉垣も
今はうつろひかはりけり
草の緑はグリイスの
牧場を今も覆ふとも
みやびつくせしいにしへの
笛のしらべはいづくぞや
かのバビロンの水青く
千歳の色をうつすとも
柳に懸けしいにしへの
琴は空しく流れけり
げにや大雅をこひ慕ふ
君にしあれば君がため
藝術の天に懸る日も
時を導く星影も
いづれ行くへを照らしつゝ
深き光を示すらむ
さらば名殘はつきずとも
袂を別つ夕まぐれ
見よ影深き欄干に
煙をふくむ藤の花
北行く鴈は大空の
霞に沈み鳴き歸り
彩なす雲も愁ひつゝ
君を送るに似たりけり
あゝいつかまた相逢うて
もとの契りをあたゝめむ
梅も櫻も散りはてて
すでに柳はふかみどり
人はあかねど行く春を
いつまでこゝにとゞむべき
われに惜むな家づとの
一枝の筆の花の色香を
さばれ空しきさへづりは
雀の群にまかせてよ
うたふをきくや鶯の
すぎこしかたの思ひでを
はじめて谷を出でしとき
朔風寒く霰ふり
うちに望みはあふるれど
行くへは雲に隱れてき
露は緑の羽を閉ぢ
霜は翅の花となる
あしたに野邊の雪を噛み
ゆふべに谷の水を飮む
さむさに爪も凍りはて
絶えなむとするたびごとに
また新たなる世にいでて
くしきいのちに歸りけり
あゝ枯菊に枕して
冬のなげきをしらざれば
誰が身にとめむ吹く風に
にほひ亂るゝ梅が香を
谷間の笹の葉を分けて
凍れる露を飮まざれば
誰が身にしめむ白雪の
下に萌え立つ若草を
げに春の日ののどけさは
暗くて過ぎし冬の日を
思ひ忍べる時にこそ
いや樂しくもあるべけれ
梅のこぞめの花笠を
かざしつ醉ひつうたひつゝ
さらば春風吹き來る
香の國に飛びて遊ばむ
さもあらばあれうぐひすの
たくみの奧はつくさねど
または深山のこまどりの
しらべのほどはうたはねど
まづかざりなき一聲に
涙をさそふ秋の雁
長きなげきは泄らすとも
なほあまりあるかなしみを
うつすよしなき汝が身か
などかく秋を呼ぶ聲の
荒き響をもたらして
人の心を亂すらむ
あゝ秋の日のさみしさは
小鹿のしれるかぎりかは
清しき風に驚きて
羽袖もいとゞ冷やかに
百千の鳥の群を出て
浮べる雲に慣るゝかな
菊より落つる花びらは
汝がついばむにまかせたり
時雨に染むるもみぢ葉は
汝がかざすにまかせたり
聲を放ちて叫ぶとも
たれかいましをとゞむべき
星はあしたに冷やかに
露はゆふべにいと白し
風に隨ふ桐の葉の
枝に別れて散るごとく
天の海にうらぶれて
たちかへり鳴け秋のかりがね
風かぐはしく吹く日より
夏の緑のまさるまで
梢のかたに葉がくれて
人にしられぬ梅ひとつ
梢は高し手をのべて
えこそ觸れめやたゞひとり
わがものがほに朝夕を
ながめ暮してすごしてき
やがて鳴く鳥おもしろく
黄金の色にそめなせば
行きかふ人の目に觸れて
落ちて履まるゝ野路の梅
遠征する人を思ひて娘の
うたへる
門田にいでて
草とりの
身のいとまなき
晝なかば
忘るゝとには
あらねども
まぎるゝすべぞ
多かりき
夕ぐれ梭を
手にとりて
こゝろ靜かに
織るときは
人の得しらぬ
思ひこそ
胸より湧きて
流れけれ
あすはいくさの
門出なり
遠きいくさの
門出なり
せめて別れの
涙をば
名殘にせむと
願ふかな
君を思へば
わづらひも
照る日にとくる
朝の露
君を思へば
かなしみも
緑にそゝぐ
夏の雨
君を思へば
闇の夜も
光をまとふ
星の空
君を思へば
淺茅生の
荒れにし野邊も
花のやど
胸の思ひは
つもれども
吹雪はげしき
こひなれば
君が光に
照らされて
消えばやとこそ
恨むなれ
老いたる鍛冶のうたへる
寶はあはれ
碎けけり
さなり愛兒は
うせにけり
なにをかたみと
ながめつゝ
こひしき時を
忍ぶべき
ありし昔の
香ににほふ
薄はなぞめの
帶よけむ
麗はしかりし
黒髮の
かざしの紅き
珠よけむ
帶はあれども
老が身に
ひきまとふべき
すべもなし
珠はあれども
白髮に
うちかざすべき
すべもなし
ひとりやさしき
面影は
眼の底に
とゞまりて
あしたにもまた
ゆふべにも
われにともなふ
おもひあり
あゝたへがたき
くるしみに
おとろへはてつ
爐前に
仆れかなしむ
をりをりは
面影さへぞ
力なき
われ中槌を
うちふるひ
ほのほの前に
はげめばや
胸にうつりし
亡き人の
語らふごとく
見ゆるかな
あな面影の
わが胸に
活きて微笑む
たのしさは
やがてつとめを
いそしみて
かなしみに勝つ
生命なり
汗はこひしき
涙なり
勞働は活ける
思ひなり
いでやかひなの
折るゝまで
けふのつとめを
いそしまむ
我あげまきのむかしより
潮の音を聞き慣れて
磯邊に遊ぶあさゆふべ
海人の舟路を慕ひしが
やがて空しき其夢は
身の生業となりにけり
七月夏の海の香の
海藻に匂ふ夕まぐれ
兄もろともに舟浮けて
力をふるふ水馴棹
いづれ舟出はいさましく
波間に響く櫂の歌
夕潮青き海原に
すなどりすべく漕ぎくれば
卷きては開く波の上の
鴎の夢も冷やかに
浮び流るゝ海草の
目にも幽かに見ゆるかな
まなこをあげて落つる日の
きらめくかたを眺むるに
羽袖うちふる鶻隼は
彩なす雲を舞ひ出でて
翅の塵を拂ひつゝ
物にかゝはる風情なし
飄々として鳥を吹く
風の力もなにかせむ
勢龍の行くごとく
羽音を聞けば葛城の
そつ彦むかし引きならす
眞弓の弦の響あり
希望すぐれし鶻隼よ
せめて舟路のしるべせよ
げにその高き荒魂は
敵に赴く白馬の
白き鬣うちふるひ
風を破るにまさるかな
海面見ればかげ動く
深紫の雲の色
はや暮れて行く天際に
行くへや遠き鶻隼の
もろ羽は彩にうつろひて
黄金の波にたゞよひぬ
朝夕を刻みてし
天の柱の影暗く
雲の帳もひとたびは
輝きかへる高御座
西に傾く夏の日は
遠く光彩を沈めけり
見ようるはしの夜の空
見ようるはしの空の星
北斗の清き影冱えて
望みをさそふ天の花
とはの宿りも舟人の
光を仰ぐためしかな
潮を照らす篝火の
きらめくかたを窺へば
松の火あかく燃ゆれども
魚行くかげは見えわかず
流れは急しふなべりに
觸れてかつ鳴る夜の浪
またゝくひまに風吹きて
舞ひ起つ雲をたとふれば
戰に臨むますらをの
あるは鉦うち貝を吹き
あるは太刀佩き劍執り
弓矢を持つに似たりけり
光は離れ星隱れ
みそらの花はちりうせぬ
彩美しき卷物を
高く舒べたる大空は
みるまに暗く覆はれて
目にすさまじく變りけり
聞けばはるかに萬軍の
鯨波のひゞきにうちまぜて
陣螺の音色ほがらかに
野の空高く吹けるごと
闇き潮の音のうち
いと新しき聲すなり
我あまたたび海にきて
風吹き起るをりをりの
波の響に慣れしかど
かゝる清しき音をたてて
奇しき魔の吹く角かとぞ
うたがはるゝは聞かざりき
こゝろせよかしはらからよ
な恐れそと叫ぶうち
あるはけはしき青山を
凌ぐにまがふ波の上
あるは千尋の谷深く
落つるにまがふ濤の影
戰ひ進むものゝふの
劍の霜を拂ふごと
溢るゝばかり奮ひ立ち
潮を撃ちて漕ぎくれば
梁はふたりの盾にして
柁は鋭き刃なり
たとへば波の西風の
梢をふるひふるごとく
舟は枯れゆく秋の葉の
枝に離れて散るごとし
帆檣なかば折れ碎け
篝は海に漂ひぬ
哀しや狂ふ大波の
舟うごかすと見るうちに
櫓をうしなひしはらからは
げに消えやすき白露の
落ちてはかなくなれるごと
海の藻屑とかはりけり
あゝ思のみはやれども
眼の前のおどろきは
劍となりて胸を刺し
千々に力を碎くとも
怒りて高き逆波は
猛き心を傷ましむ
命運よなにの戲れぞ
人の命は春の夜の
夢とやげにも夢ならば
いとど悲しき夢をしも
見るにやあらむ海にきて
まのあたりなるこの夢は
これを思へば胸滿ちて
流るゝ涙せきあへず
今はた櫂をうちふりて
波と戰ふ力なく
死して仆るゝ人のごと
身を舟板に投げ伏しぬ
一葉にまがふ舟の中
波にまかせて流れつゝ
聲を放ちて泣き入れば
げに底ひなきわだつみの
上に行方も定めなき
鴎の身こそ悲しけれ
時には遠き常闇の
光なき世に流れ落ち
朽ちて行くかと疑はれ
時には頼む人もなき
冷たき冥府の水底に
沈むかとこそ思はるれ
あゝあやまちぬよしや身は
おろかなりともかくてわれ
もろく果つべき命かは
照る日や月や上にあり
大龍神も心あらば
賤しきわれをみそなはせ
かくと心に定めては
波ものかはと勵みたち
闇のかなたを窺ふに
空はさびしき雨となり
潮にうつる燐の火の
亂れて燃ゆる影青し
我よるべなき海の上に
活ける力の胸の火を
わづかに頼む心より
消えてはもゆる闇の夜の
その靜かなる光こそ
漂ふ身にはうれしけれ
危ふきばかりともすれば
波にゆらるゝこの舟の
行くへを照らせ燐の火よ
海よりいでて海を焚く
青きほのほの影の外
道しるべなき今の身ぞ
碎かば碎けいざさらば
波うつ櫂はこゝにあり
たとへ舟路は暗くとも
世に勝つ道は前にあり
あゝ新潮にうち乘りて
命運を追うて活きて歸らむ
落梅集より 明治三十二年──同三十三年 (小諸にて) |
あら雄々しきかな傷ましきかな
かの常盤樹の落ちず枯れざる
常盤樹の枯れざるは
百千の草の落つるより
傷ましきかな
其枝に懸る朝の日
其幹を運る夕月
など行く旅の迅速なるや
など電の影と馳するや
蝶の舞
花の笑
など遊ぶ日の世に短きや
など其醉の早く醒むるや
蟲草の葉に悲めば
一時にして既に霜
鳥潮の音に驚けば
一時にして既に雪
木枯高く秋落ちて
自然の色はあせゆけど
大力天を貫きて
坤軸遂に靜息なし
ものみな速くうらがれて
長き寒さも知らぬ間に
汝千歳の時に嘯き
獨りし立つは何の力ぞ
白銀の花霏々として
吹雪の煙闇き時
四方は氷に閉されて
江海も音をひそむ時
汝緑の蔭も朽ちせず
空を凌ぐは何の力ぞ
立てよ友なき野邊の帝王
ゆゝしく高く立てよ常盤樹
汝の長き春なくば
山の命も老いなむか
汝の深き息なくば
谷の響も絶えなむか
あしたには葉をうつ霙
ゆふべには枝うつ霰
千草も知らぬ冬の日の
嵐に叫ぶうきなやみ
いづれの日にか
氷は解けて
其葉の涙
消えむとすらむ
あゝよしさらば枝も摧けて
終の色の落ちなむ日まで
雲浮かば
無縫の天衣
風立たば
不朽の緒琴
おごそかに
立てよ常盤樹
あら雄々しきかな傷ましきかな
かの常盤樹の落ちず枯れざる
常盤樹の枯れざるは
百千の草の落つるより
傷ましきかな
岸の柳は低くして
羊の群の繪にまがひ
野薔薇の幹は埋もれて
流るゝ砂に跡もなし
蓼科山の山なみの
麓をめぐる河水や
魚住む淵に沈みては
鴨の頭の深緑
花さく岩にせかれては
天の鼓の樂の音
さても水瀬はくちなはの
かうべをあげて奔るごと
白波高くわだつみに
流れて下る千曲川
あした炎をたゝかはし
ゆふべ煙をきそひてし
駿河にたてる富士の根も
今はさびしき日の影に
白く輝く墓のごと
はるかに沈む雲の外
これは信濃の空高く
今も烈しき火の柱
雨なす石を降らしては
みそらを焦す灰けぶり
神夢さめし天地の
ひらけそめにし昔より
常世につもる白雪は
今も無間の谷の底
湧きてあふるゝ紅の
血潮の池を目にみては
布引に住むはやぶさも
翼をかへす淺間山
あゝ北佐久の岡の裾
御牧が原の森の影
夢かけめぐる旅に寢て
安き一日もあらねばや
高根の上にあかあかと
燃ゆる炎をあふぐとき
み谷の底の青巖に
逆まく浪をのぞむとき
かしこにこゝに寂寥の
その味ひはにがかりき
あな寂寥や其の道は
獸の足の跡のみか
舞ひて見せたる大空の
鳥のゆくへのそれのみか
さてもためしの燈火に
若き心をうかゞへば
人の命の樹下蔭
花深く咲き花散りて
枝もたわゝの智慧の實を
味ひそめしきのふけふ
知らずばなにか旅の身に
人のなさけも薄からむ
知らずばなにか移る世に
假の契りもあだならむ
一つの石のつめたきも
萬の聲をこゝに聽き
一つの花のたのしきも
千々の涙をそこに觀る
あな寂寥や吾胸の
小休もなきを思ひみば
あはれの外のあはれさも
智慧のさゝやくわざぞ是
かの深草の露の朝
かの象潟の雨の夕
またはカナンの野邊の春
またはデボンの岸の秋
世をわびびとの寢覺には
あはれ鶉の聲となり
うき旅人の宿りには
ほのかに合歡の花となり
羊を友のわらべには
日となり星の數となり
夢に添ひ寢の農夫には
はつかねずみとあらはれて
あるは形にあるは音に
色ににほひにかはるこそ
いつはり薄き寂寥よ
いづれいましのわざならめ
さなりおもては冷やかに
いとつれなくも見ゆるより
深き心はあだし世の
人に知られぬ寂寥よ
むかしいましが雪山の
佛の夢に見えしとき
かりに姿は花も葉も
根もかぎりなき藥王樹
むかしいましが沅湘の
水のほとりにあらはれて
楚に捨てられしあてびとの
熱き涙をぬぐふとき
かりにいましは長沙羅の
鄂渚の岸に生ひいでて
ゆふべ悲しき秋風に
香ひを送る蕙の草
またはいましがパトモスの
離れ小島にあらはれて
歎き仆るゝひとり身の
冷たき夢をさますとき
かりに面は照れる日や
首はゆふべの空の虹
衣はあやの雲を着て
足は二つの火の柱
默示をかたる言の葉は
高きらつぱの天の聲
思へばむかし北のはて
舟路侘しき佐渡が島
雲に戀しき天つ日の
光も薄く雪ふれば
毘藍の風は吹き落ちて
梵音聲を驚かし
岸うつ波は波羅密の
海潮音をとゞろかし
朝霜ふれば袖閉ぢて
衣は凍る鴛鴦の羽
夕霜ふれば現し身に
八つのさむさの寒古鳥
ましてや國の罪人の
安房の生れの栴陀羅が子を
あな寂寥や寂寥や
ひとりいましにあらずして
天にも地にも誰かまた
そのかなしみをあはれまむ
げに晝の夢夜の夢
旅の愁にやつれては
日も暖に花深き
空のかなたを慕ふとき
なやみのとげに責められて
袖に涙のかゝるとき
汲みて味ふ寂寥の
にがき誠の一雫
秋の日遠しあしたにも
高きに登りゆふべにも
流れをつたひ獨りして
ふりさけ見れば鳥影の
天の鏡に舞ふかなた
思ひを閉す白雲の
浮べるかたを望めども
都は見えず寂寥よ
來りてわれと共にかたりね
小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす蘩蔞は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾の岡邊
日に溶けて淡雪流る
あたゝかき光はあれど
野に滿つる香も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ
暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飮みて
草枕しばし慰む
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪
明日をのみ思ひわづらふ
いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水卷き歸る
嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過し世を靜かに思へ
百年もきのふのごとし
千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁を繋ぐ
星近く戸を照せども
戸に枕して人知らず
鼠古巣を出づれども
人夢さめず驚かず
情の海の淡路島
通ふ千鳥の聲絶えて
やじりを穿つ盜人の
寢息をはかる影もなし
長き尻尾をうちふりつ
小踊りしつゝ軒づたひ
煤のみ深き梁に
夜をうかがふ古鼠
光にいとひいとはれて
白齒もいとど冷やかに
竈の隅に忍びより
ながしに搜る鰺の骨
闇夜に物を透かし視て
暗きに遊ぶさまながら
なほ聲無きに疑ひて
影を懼れてきゝと鳴き鳴く
朝はふたゝびこゝにあり
朝はわれらと共にあり
埋れよ眠行けよ夢
隱れよさらば小夜嵐
諸羽うちふる鷄は
咽喉の笛を吹き鳴らし
けふの命の戰鬪の
よそほひせよと叫ぶかな
野に出でよ野に出でよ
稻の穗は黄にみのりたり
草鞋とく結へ鎌も執れ
風に嘶く馬もやれ
雲に鞭うつ空の日は
語らず言はず聲なきも
人を勵ます其音は
野山に谷にあふれたり
流るゝ汗と膩との
落つるやいづこかの野邊に
名も無き賤のものゝふを
來りて護れ軍神
野に出でよ野に出でよ
稻の穗は黄にみのりたり
草鞋とく結へ鎌も執れ
風に嘶く馬もやれ
あゝ綾絹につゝまれて
爲すよしも無く寢ぬるより
薄き襤褸はまとふとも
活きて起つこそをかしけれ
匍匐ふ蟲の賤が身に
羽翼を惠むものや何
酒か涙か歎息か
迷か夢か皆なあらず
野に出でよ野に出でよ
稻の穗は黄にみのりたり
草鞋とく結へ鎌も執れ
風に嘶く馬もやれ
さながら土に繋がるゝ
重き鎖を解きいでて
いとど暗きに住む鬼の
笞の責をいでむ時
口には朝の息を吹き
骨には若き血を纏ひ
胸に驕慢手に力
霜葉を履みてとく來れ
野に出でよ野に出でよ
稻の穗は黄にみのりたり
草鞋とく結へ鎌も執れ
風に嘶く馬もやれ
誰か知るべき秋の葉の
落ちて樹の根の埋むとき
重く聲無き石の下
清水溢れて流るとは
誰か知るべき小山田の
稻穗のたわに實るとき
花なく香なき賤の胸
生命踊りて響くとは
共に來て蒔き來て植ゑし
田の面に秋の風落ちて
野邊の琥珀を鳴らすかな
刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を
血潮は草に流さねど
力うちふり鍬をうち
天の風雨に雷霆に
わが鬪ひの跡やこゝ
見よ日は高き青空の
端より端を弓として
今し父の矢母の矢の
光を降らす眞晝中
共に來て蒔き來て植ゑし
田の面に秋の風落ちて
野邊の琥珀を鳴らすかな
刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を
左手に稻を捉む時
右手に利鎌を握る時
胸滿ちくれば火のごとく
骨と髓との燃ゆる時
土と塵埃と泥の上に
汗と膩の落つる時
緑にまじる黄の莖に
烈しき息のかゝる時
共に來て蒔き來て植ゑし
田の面に秋の風落ちて
野邊の琥珀を鳴らすかな
刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を
思へ名も無き賤ながら
遠きに石を荷ふ身は
夏の白雨過ぐるごと
ほまれ短き夢ならじ
生命の長き戰鬪は
こゝに音無し聲も無し
勝ちて桂の冠は
わづかに白き頬かぶり
共に來て蒔き來て植ゑし
田の面に秋の風落ちて
野邊の琥珀を鳴らすかな
刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を
揚げよ勝鬨手を延べて
稻葉を高くふりかざせ
日暮れ勞れて道の邊に
倒るゝ人よとく歸れ
彩雲や
落つる日や
行く道すがら眺むれば
秋天高き夕まぐれ
共に蒔き
共に植ゑ
共に稻穗を刈り乾して
歌うて歸る今の身に
ことしの夏を
かへりみすれば
嗚呼わが魂は
わなゝきふるふ
この日怖れをかの日に傳へ
この夜望みをかの夜に繋ぎ
門に立ち
野邊に行き
ある時は風高くして
青草長き谷の影
雲に嵐に稻妻に
行先も暗く聲を呑み
ある時は夏寒くして
山の鳩啼く森の下
たまたま虹に夕映に
末のみのりを祈りてき
それは逝き
これは來て
餓と涙と送りてし
同じ自然の業ながら
今は思ひのなぐさめに
光をはなつ秋の星
あゝ勇みつゝ踊りつゝ
諸手をうちて笑ひつゝ
樹下の墓を横ぎりて
家路に通ふ森の道
眠る聖も盜賊も
皆な土くれの苔一重
霧立つ空に入相の
精舍の鐘の響く時
あゝ驕慢と歡喜と
力を息に吹き入れて
勝ちて歸るの勢に
揚げよ樂しき秋の歌
散文にてつくれる即興詩
あら荒くれたる賤の山住や顏も黒し手も黒しすごすごと林の中を歸る藁草履の土にまみれたるよ
こゝには五十路六十路を經つつまだ海知らぬ人々ぞ多き
炭燒の烟をながめつゝ世の移り變るも知らで谷陰にぞ住める
蒲公英の黄に蕗の花の白きを踏みつゝ慣れし其足何ぞ野獸の如き
岡のべに通ふ路には野苺の實を垂るゝあり摘みて舌うちして年を經にけり
和布賣の越後の女三々五々群をなして來る呼びて窓に倚りて海の藻を買ふぞゆかしき
大豆を賣りて皿の上に載せたる鹽鮭の肉鹽鮭何の磯の香もなき
年々の暦と共に壁に煤けたる錦繪を見れば海ありき廣重の筆なりき
爺は波を知らず婆は潮の音を知らず孫は千鳥を鷄の雛かとぞ思ふ
たまたま伊勢詣のしるしにとて送られし貝の一ひらを見れば大わだつみのよろづの波を彫めるとぞ言ひし言の葉こそ思ひいでらるれ
品川の沖によるといふなる海苔の新しきは先づ棚の佛にまゐらせて山家にありて遠く海草の香をかぐとぞいふばかりなる
つと立ちよれば垣根には
露草の花さきにけり
さまよひくれば夕雲や
これぞこひしき門邊なる
瓦の屋根に烏啼き
烏歸りて日は暮れぬ
おとづれもせず去にもせで
螢と共にこゝをあちこち
枝うちかはす梅と梅
梅の葉かげにそのむかし
鷄は鷄とし並び食ひ
われは君とし遊びてき
空風吹けば雲離れ
別れいざよふ西東
青葉は枝に契るとも
緑は永くとゞまらじ
水去り歸る手をのべて
誰れか流れをとゞむべき
行くにまかせよ嗚呼さらば
また相見むと願ひしか
遠く別れてかぞふれば
かさねて長き秋の夢
願ひはあれど陶磁の
くだけて時を傷みけり
わが髮長く生ひいでて
額の汗を覆ふとも
甲斐なく珠を抱きては
罪多かりし草枕
雲に浮びて立ちかへり
都の夏にきて見れば
むかしながらのみどり葉は
蔭いや深くなれるかな
わかれを思ひ逢瀬をば
君とし今やかたらふに
二人すわりし青草は
熱き涙にぬれにけり
めぐり逢ふ君やいくたび
あぢきなき夜を日にかへす
吾命暗の谷間も
君あれば戀のあけぼの
樹の枝に琴は懸けねど
朝風の來て彈くごとく
面影に君はうつりて
吾胸を靜かに渡る
雲迷ふ身のわづらひも
紅の色に微笑み
流れつゝ冷ゆる涙も
いと熱き思を宿す
知らざりし道の開けて
大空は今光なり
もろともにしばしたゝずみ
新しき眺めに入らむ
あゝさなり君のごとくに
何かまた優しかるべき
歸り來てこがれ侘ぶなり
ねがはくは開けこの戸を
ひとたびは君を見棄てて
世に迷ふ羊なりきよ
あぢきなき石を枕に
思ひ知る君が牧場を
樂しきはうらぶれ暮し
泉なき砂に伏す時
青草の追懷ばかり
悲しき日樂しきはなし
悲しきはふたゝび歸り
緑なす野邊を見る時
飄泊の追懷ばかり
樂しき日悲しきはなし
その笛を今は頼まむ
その胸にわれは息はむ
君ならで誰か飼ふべき
天地に迷ふ羊を
思より思をたどり
樹下より樹下をつたひ
獨りして遲く歩めば
月今夜幽かに照らす
おぼつかな春のかすみに
うち煙る夜の靜けさ
仄白き空の鏡は
俤の心地こそすれ
物皆はさやかならねど
鬼の住む暗にもあらず
おのづから光は落ちて
吾顏に觸るぞうれしき
其光こゝに映りて
日は見えず八重の雲路に
其影はこゝに宿りて
君見えず遠の山川
思ひやるおぼろおぼろの
天の戸は雲かあらぬか
草も木も眠れるなかに
仰ぎ視て涕を流す
吾戀は河邊に生ひて
根を浸す柳の樹なり
枝延びて緑なすまで
生命をぞ君に吸ふなる
北のかた水去り歸り
晝も夜も南を知らず
あゝわれも君にむかひて
草を藉き思を送る
吾胸の底のこゝには
言ひがたき祕密住めり
身をあげて活ける牲とは
君ならで誰かしらまし
もしやわれ鳥にありせば
君の住む窻に飛びかひ
羽を振りて晝は終日
深き音に鳴かましものを
もしやわれ梭にありせば
君が手の白きにひかれ
春の日の長き思を
その絲に織らましものを
もしやわれ草にありせば
野邊に萌え君に踏まれて
かつ靡きかつは微笑み
その足に觸れましものを
わがなげき衾に溢れ
わがうれひ枕を浸す
朝鳥に目さめぬるより
はや床は濡れてたゞよふ
口脣に言葉ありとも
このこゝろ何か寫さむ
たゞ熱き胸より胸の
琴にこそ傳ふべきなれ
君こそは遠音に響く
入相の鐘にありけれ
幽かなる聲を辿りて
われは行く盲目のごとし
君ゆゑにわれは休まず
君ゆゑにわれは仆れず
嗚呼われは君に引かれて
暗き世をわづかに搜る
たゞ知るは沈む春日の
目にうつる天のひらめき
なつかしき聲するかたに
花深き夕を思ふ
吾足は傷つき痛み
吾胸は溢れ亂れぬ
君なくば人の命に
われのみや獨ならまし
あな哀し戀の暗には
君もまた同じ盲目か
手引せよ盲目の身には
盲目こそうれしかりけれ
こゝろをつなぐ銀の
鎖も今はたえにけり
こひもまこともあすよりは
つめたき砂にそゝがまし
顏もうるほひ手もふるひ
逢うてわかれををしむより
人目の關はへだつとも
あかぬむかしぞしたはしき
形となりて添はずとも
せめては影と添はましを
たがひにおもふこゝろすら
裂きて捨つべきこの世かな
おもかげの草かゝるとも
古りてやぶるゝ壁のごと
君し住まねば吾胸は
つひにくだけて荒れぬべし
一歩に涙五歩に血や
すがたかたちも空の虹
おなじ照る日にたがらへて
永き別れ路見るよしもなし
罪なれば物のあはれを
こゝろなき身にも知るなり
罪なれば酒をふくみて
夢に醉ひ夢に泣くなり
罪なれば親をも捨てて
世の鞭を忍び負ふなり
罪なれば宿を逐はれて
花園に別れ行くなり
罪なれば刃に伏して
紅き血に流れ去るなり
罪なれば手に手をとりて
死の門にかけり入るなり
罪なれば滅び碎けて
常闇の地獄のなやみ
嗚呼二人抱きこがれつ
戀の火にもゆるたましひ
風よ靜かに彼の岸へ
こひしき人を吹き送れ
海を越え行く旅人の
群にぞ君はまじりたる
八重の汐路をかき分けて
行くは僅に舟一葉
底白波の上なれば
君安かれと祈るかな
海とはいへどひねもすは
皐月の野邊と眺め見よ
波とはいへど夜もすがら
緑の草と思ひ寢よ
もし海怒り狂ひなば
われ是岸に仆れ伏し
いといと深き歎息に
其嵐をぞなだむべき
樂しき初憶ふ毎
哀しき終堪へがたし
ふたゝびみたびめぐり逢ふ
天つ惠みはありやなしや
あゝ緑葉の嘆をぞ
今は海にも思ひ知る
破れて胸は紅き血の
流るゝがごと滴るがごと
名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ
故郷の岸を離れて
汝はそも波に幾月
舊の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身の浮寢の旅ぞ
實をとりて胸にあつれば
新なり流離の憂
海の日の沈むを見れば
激り落つ異郷の涙
思ひやる八重の汐々
いづれの日にか國へ歸らむ
浦島の子とぞいふなる
遊ぶべく海邊に出でて
釣すべく岩に上りて
長き日を絲垂れ暮す
流れ藻の青き葉蔭に
隱れ寄る魚かとばかり
手を延べて水を出でたる
うらわかき處女のひとり
名のれ名のれ奇しき處女よ
わだつみに住める處女よ
思ひきや水の中にも
黒髮の魚のありとは
かの處女嘆きて言へる
われはこれ潮の兒なり
わだつみの神のむすめの
乙姫といふはわれなり
龍の宮荒れなば荒れね
捨てて來し海へは入らじ
あゝ君の胸にのみこそ
けふよりは住むべかりけれ
海にして響く艫の聲
水を撃つ音のよきかな
大空に雲は飄ひ
潮分けて舟は行くなり
靜なる空に透かして
青波の深きを見れば
水底やはてもしられず
流れ藻の浮きつ沈みつ
緑なす草のかげより
湧き出づる泉ならねど
おのづから滿ち來る汐は
海原のうちに溢れぬ
さながらに遠き白帆は
群をなす牧場の羊
吹き送る風に飼はれて
わだつみの野邊を行くらむ
雲行けば舟も隨ひ
舟行けば雲もまた追ふ
空と水相合ふかなた
諸共にけふの泊へ
鳥なき里の蝙蝠や
宗助鍬をかたにかけ
幸助網を手にもちて
山へ宗助海へ幸助
黄瓜花さき夕影に
蝉鳴くかなた桑の葉の
露にすゞしき山道を
海にうらやむ幸助のゆめ
磯菜遠近砂の上に
舟干すかなた夏潮の
鰺藻に響く海の音を
山にうらやむ宗助のゆめ
かくもかはれば變る世や
幸助鍬をかたにかけ
宗助網を手にもちて
山へ宗助海へ幸助
霞にうつり霜に暮れ
たちまち過ぎぬ春と秋
のぞみは草の花のごと
砂に埋れて見るよしもなし
さながらそれも一時の
胸の青雲いづこぞや
かへりみすれば跡もなき
宗助のゆめ幸助のゆめ
ふたゝび百合はさきかへり
ふたゝび梅は青みけり
深き緑の樹の蔭を
迷うて歸る宗助幸助
朝淺草を立ちいでて
かの深川を望むかな
片影冷しわれは今
こひしき家に歸るなり
籠の雀のけふ一日
いとまたまはる藪入や
思ふまゝなる吾身こそ
空飛ぶ鳥に似たりけれ
大川端を來て見れば
帶は淺黄の染模樣
うしろ姿の小走りも
うれしきわれに同じ身か
柳の並樹暗くして
墨田の岸のふかみどり
漁り舟の艫の音は
靜かに波にひゞくかな
白帆をわたる風は來て
鬢の井筒の香を拂ひ
花あつまれる浮草は
われに添ひつゝ流れけり
潮わきかへる品川の
沖のかなたに行く水や
思ひは同じかはしもの
わがなつかしの深川の宿
その名ばかりの鮨つけて
やがて一日は暮れにけり
いとまごひして見かへれば
蚊遣に薄き母の影
あゆみは重し愁ひつゝ
岸邊を行きて吾宿の
今のありさま忍ぶにも
忍ぶにあまる宿世かな
家をこゝろに浮ぶれば
夢も冷たき古簀子
西日悲しき土壁の
まばら朽ちたる裏住居
南の廂傾きて
垣に短かき草箒
破れし戸に倚る夏菊の
人に昔を語り顏
風吹くあした雨の夜半
すこしは世をも知りそめて
むかしのまゝの身ならねど
かゝる思ひは今ぞ知る
身を世を思ひなげきつゝ
流れに添うてあゆめばや
今の心のさみしさに
似るものもなき眺めかな
夕日さながら畫のごとく
岸の柳にうつろひて
汐みちくれば水禽の
影ほのかなり隅田川
茶舟を下す舟人の
聲遠近に聞えけり
水をながめてたゝずめば
深川あたり迷ふ夕雲
少年の昔よりかりそめに相知れるなにがし、獄に繋がるゝことこゝに三とせあまりなりしが、はからざりき飛報かれの凶音を傳へぬ。今春獄吏に導かれて、かれを巣鴨の病床に訪ひしは、舊知相見るの最後にてありき、かれ學あり、才あり、西の國の言葉にも通じ、宗教の旨をも味はひ知り、おほかたの藝能にもつたなからず、人にも侮られまじき程の品かたちは持てりしに、其半生を思ひやれば實に慘苦と落魄との連鎖とも言ふべかりき。かれは春の日の長閑に暖かなる家庭に生ひたちて、希望と幸福とを一身に荷ひたりしかど、やがて獄窓に呻吟せしの日は人生流離の極みを盡したる後なりき。あはれむべし、死と狂と罪とを除きて他にかれの行くべき道とてはあらざりしなり。われは今、かれが惡夢を憐むの餘り、一篇の蕪辭囚人の愁ひをとりて、みだりに花鳥の韻事を穢す、罪の受くべきはもとよりわが期する所なり。
其耳はいづこにありや
其胸はいづこにありや
激り落つ愁の思
この心誰に告ぐべき
秋蠅の窓に殘りて
日の影に飛びかふごとく
あぢきなき牢獄のなかに
伏して寢ねまたも目さめぬ
夜な〳〵の衾は濡れて
吾床は乾く間も無し
黒髮は霜に衰へ
若き身は歎きに老いぬ
春やなき無間の谷間
潮やなき紅蓮の岸邊
憔悴の死灰の身には
熱き火の燃ゆる罪のみ
銀の臺も碎け
戀の矢も朽ちて行く世に
いつまでか骨に刻みて
時しらず活くる罪かも
空の鷲われに來よとや
なにかせむ自在なき身は
天の馬われに來よとや
なにかせむ鐵鎖ある身は
いかづちの火を吹くごとく
この痛み胸に踊れり
なかなかに罪の住家は
濃き陰の暗にこそあれ
いとほしむ人なき我ぞ
隱れむにものなき我ぞ
血に泣きて聲は呑むとも
寂寞の裾こそよけれ
世を知らぬをさなき昔
香ににほふ妹を抱きて
すゝりなく恨みの日より
吾蟲は驕るばかり
わがいのち戲の臺
その惡を舞ふにやあらむ
わがこゝろ悲しき鏡
その夢を見るにやあらむ
人の世に羽を撃つ風雨
天地に身は捨小舟
今更に我をうみてし
亡き母も恨めしきかな
父いかに舊の山河
妻いかに遠の村里
この道を忘れたまふや
この空を忘れたまふや
いかなれば歎きをすらむ
その父はわれを捨つるに
いかなれば忍びつ居らむ
その妻はわれを捨つるに
くろがねの窓に縋りて
故郷の空を望めば
浮雲や遠く懸りて
履みなれし丘にさながら
さびしさの訪ひくる外に
おとなひも絶えてなかりし
吾窓に鳴く音を聽けば
人知れず涙し流る
鵯よ翅を振りて
黄葉の陰に歌ふか
幽囚の笞の責や
人の身は鳥にもしかじ
あゝ一葉枝に離れて
いづくにか漂ふやらむ
照れる日の光はあれど
わがたましひは暗くさまよふ
響りん〳〵音りん〳〵
うちふりうちふる鈴高く
馬は蹄をふみしめて
故郷の山を出づるとき
その黒毛なす鬣は
冷しき風に吹き亂れ
その紫の兩眼は
青雲遠く望むかな
枝の緑に袖觸れつ
あやしき鞍に跨りて
馬上に歌ふ一ふしは
げにや遊子の旅の情
あゝをさなくて國を出で
東の磯邊西の濱
さても繋がぬ舟のごと
夢長きこと二十年
たま〳〵ことし歸りきて
昔懷へばふるさとや
蔭を岡邊に尋ぬれば
松柏すでに折れ碎け
徑を川邊にもとむれば
野草は深く荒れにけり
菊は心を驚かし
蘭は思を傷ましむ
高きに登り草を藉き
惆悵として眺むれば
檜原に迷ふ雲落ちて
涙流れてかぎりなし
去ね〳〵かゝる古里は
ふたゝび言ふに足らじかし
あゝよしさらばけふよりは
日行き風吹き彩雲の
あやにたなびくかなたをも
白波高く八百潮の
湧き立ちさわぐかなたをも
かしこの岡もこの山も
いづれ心の宿とせば
しげれる谷の野葡萄に
秋のみのりはとるがまゝ
深き林の黄葉に
秋の光は履むがまゝ
響りん〳〵音りん〳〵
うちふりうちふる鈴高く
馬は首をめぐらして
雲に嘶きいさむとき
かへりみすれば古里の
檜原は目にも見えにけるかな
羽翼なければ繋がれて
朽ちはつべしとかねてしる
光なければ埋もれて
老いゆくべしとかねてしる
知る人もなき山蔭に
朽ちゆくことを厭はねば
牛飼ふ野邊の寂しさを
かくれがとこそ頼むなれ
埋もるゝ花もありやとて
獨り戸に倚り眺むれば
ゆふべ空しく日は暮れて
牧場の草に春雨のふる
罪人と名にも呼ばれむ
罪人と名にも呼ばれむ
歸らじとかねて思へば
嗚呼涙さらば故郷
駒とめて路の樹蔭に
あまたたびかへりみすれば
輝きて立てる白壁
さやかにも見えにけるかな
鬣は風に吹かれて
吾駒の歩みも遲し
愁ひつゝ蹄をあげて
雲遠き都にむかふ
戰ひの世にしあなれば
野の草の露と知れれど
吾父の射る矢に立ちて
消えむとは思ひかけずよ
捨てよとや紙にもあらず
吾心燒くよしもなし
捨てよとや筆にもあらず
吾心折るよしもなし
そのねがひ親や古りたる
このおもひ子や新しき
つくづくと父を思へば
吾袖は紅き血となる
靜息なく激つ胸には
柵もなにかとゞめむ
洪水の溢るゝごとく
海にまで入らではやまじ
はらからやさらば故郷
去ねよ去ねよ去ねよ吾駒
諸共に暗く寂しく
故の園を捨てて行かまし
胡蝶の夢の人の身を
旅といふこそうれしけれ
常世に長き天地を
宿といふこそをかしけれ
青き山邊は吾枕
花さく野邊は吾衾
星縫ふ空は吾帳
さかまく海は吾緒琴
いづこよりとは告げがたし
いづこまでとは言ひがたし
いま日の光いま嵐
來る歡樂哀傷の
人のさかりをかりそめに
夏といはむもおもしろや
あゝわれひとの知らぬ間に
心の色は褪せ易し
胸うち掩ふ緑葉の
若き命もいくばくぞ
かんばせの花紅き子も
あはれや早く翁顏
あるひは高く撃てれども
翅碎けて八重葎
あるひは遠く舞へれども
望は落ちて塵埃
譽も聲も浮ける雲
すぐれし才はいづこぞや
涙も夢も草の雨
流れて更に音も無し
思うて誰か傷まざる
歩みて誰か迷はざる
人の命を兒童の
嘻戲と言ふは誰が言葉
賤も聖も丈夫も
兒童ならぬものやある
晝には晝に遊ぶべし
夜には夜に遊ぶべし
破りはつべき世ならねば
身は狂ふこそ悲しけれ
捨てつ拾ひつこの命
行きつ運りつこの環
落葉松の樹はありとても
石南花の花さくとても
故郷遠き草枕
思はなにか慰まむ
旅寢は胸も病むばかり
沈む憂は醉ふがごと
獨りぬる夜の夢にのみ
たゞ夢にのみ山路を下る
ふと目は覺めぬ五とせの
心の醉に驚きて
若き是身をながむれば
はや吾春は老いにけり
夢の心地も甘かりし
昔は何を知れとてか
清しき星も身を呪ふ
今は何をか思へとや
剛愎なりし吾さへも
折れて泣きしは戀なりき
荒き胸にも一輪の
花をかざすは戀なりき
勇める馬の狂ひいで
鬣長く嘶きて
風こゝちよき青草の
野邊を蹄に履むがごと
又は眼も紫に
胸より熱き火を吹きて
汲めど盡きせぬ眞清水の
泉に喘ぎよるがごと
若き心の躍りては
軛も綱も捨てけりな
こがれつ醉ひつ筆振れば
筆神ありと思ひてき
あゝうつくしき花草は
咲く間を待たで萎むらむ
消えはてにけり吾戀は
藝術諸共消えにけり
そは何故のうき世にて
人に誠はありながら
戀路の末はとこしへの
冬を生命に刻むらむ
黒髮われを覆ふとも
血潮はわれを染むるとも
花口脣を飾るとも
思は胸を傷ましむ
繪筆うちふる吾指は
歎きのために震ふかな
涙に濡るゝ吾紙は
象空しく消ゆるかな
かはりはてたる吾命
かはりはてたる吾思
かはりはてたる吾戀路
かはりはてたる吾藝術
この世はあまり實にすぎて
あたら吾身は夢ばかり
なぐさめもなき幻の
境に泣きてさまよふわれは
縫ひかへせ縫ひかへせ
膩に染みし其袂
涙に濡れし其袂
濯げよさらば嘆かずもがな
縫ひかへせ縫ひかへせ
君が衣を縫ひかへせ
愁は水に汗は瀬に
濯げよさらば嘆かずもがな
縫ひかへせ縫ひかへせ
捨てよ昔の夢の垢
やめよ甲斐なき物思
濯げよさらば嘆かずもがな
縫ひかへせ縫ひかへせ
腐れて何の袖かある
勞れて何の道かある
濯げよさらば嘆かずもがな
縫ひかへせ縫ひかへせ
薄き羽袖の蝉すらも
歌うて殼を出づる世に
濯げよさらば嘆かずもがな
縫ひかへせ縫ひかへせ
君がなげきは古りたりや
とく新しき世に歸れ
濯げよさらば嘆かずもがな
底本:「藤村詩抄」岩波文庫、岩波書店
1927(昭和2)年7月10日第1刷発行
1957(昭和32)年7月5日第35刷改版発行
1991(平成3)年11月12日第75刷発行
※詩の本文は二字下げで、「鷲の歌」を除いて二段組みです。
入力:土屋隆
校正:浅原庸子
2004年5月10日作成
2016年5月7日修正
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