和太郎さんと牛
新美南吉
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牛ひきの和太郎さんは、たいへんよい牛をもっていると、みんながいっていました。だが、それはよぼよぼの年とった牛で、おしりの肉がこけて落ちて、あばら骨も数えられるほどでした。そして、から車をひいてさえ、じきに舌を出して、苦しそうにいきをするのでした。
「こんな牛の、どこがいいものか、和太はばかだ。こんなにならないまえに、売ってしまって、もっと若い、元気のいいのを買えばよかったんだ」
と、次郎左エ門さんはいうのでした。次郎左エ門さんは若いころ、東京にいて、新聞の配達夫をしたり、外国人の宣教師の家で下男をしたりして、さまざま苦労したすえ、りくつがすきで仕事がきらいになって村にもどったという人でありました。
しかし、次郎左エ門さんがそういっても、和太郎さんのよぼよぼ牛は、和太郎さんにとってはたいそうよい牛でありました。
どういうわけなのでしょうか。
人間にはだれしもくせがあります。和太郎さんにもひとつ悪いくせがあって、和太郎さんはそれをいわれると、いつもおそれいって頭をかき、ついでに背中のかゆいところまでかくのですが、それというのはお酒を飲むことでありました。
村から町へいくとちゅう、道ばたに大きい松が一本あり、そのかげに茶店が一軒ありました。ちょうどうまいぐあいに、松の木が一本と茶店が一軒ならんであるということが、和太郎さんにはよくなかったのです。というのは、松の木というものは牛をつないでおくによいもので、茶店というものはお酒の好きな人が、ちょっと一服するによいものだからです。
そこで和太郎さんは、そこを通りかかると、つい、牛を松につないで、ふらふらと茶店にはいって、ちょっと一服してしまうのでした。
ちょっと一服のつもりで、和太郎さんは茶店にはいるのです。けれど酒を飲んでいるうちに、人間の考えはよくかわってしまうものです。もうちょっと、もうちょっと、と思って、一時間くらいじきすごしてしまいます。するとちょうど日ぐれになりますから、「ま、こうなりゃ月が出るまで待っていよう。暗い道を帰るよりましだから」と、またすわりなおしてしまいます。
ほんとうに、そのうち月が出ます。野原は菜の花のさいているじぶんにしろ、稲の苗のうわったじぶんにしろ、月が出れば、明るくて美しいものです。しかし月が出ても出なくても、もう和太郎さんには、どうでもいいことです。というのは和太郎さんは、そのころまでにひどくよっぱらってしまうので、目などはっきりあけてはいられないからです。
それがしょうこに、和太郎さんは、牛と松の木の、区別がつかないのです。ですから、松の木にまきつけた綱をさがすつもりで、牛の腹をいつまでもなでまわしたりします。しかたがないので、茶屋のおよしばあさんが、手綱をといてやります。そのうえおよしばあさんは、小田原ちょうちんに火をともして、牛車の台のうしろにつるしてやります。なにしろ酒飲みは、平気でひとに世話をさせるものです。
和太郎さんは、およしばあさんに世話をさせるばかりではありません。これから牛のお世話になるのです。二、三町も歩くと、和太郎さんは「夜道はこうも遠いものか」と考えはじめるのです。そして手綱を牛の角にひっかけておいて、じぶんは車の上にはいあがります。
こうすれば、もう夜道がどんなに遠くても、和太郎さんにはかまわないわけです。ただ、ねむっているあいだに、車からころげ落ちないように、荷をしばりつける綱を輪にして、じぶんのあごにひっかけておくことを忘れてはいけないのです。
目がさめると、和太郎さんは、じぶんの家の庭にきています。牛がちゃんと道を知っていて、家へもどってきてくれるのです。
こんなことはたびたびありました。いっぺんも、牛は道をまちがえて、和太郎さんを海の方へつれていったり、知らない村の方へひいていったことはなかったのです。
だから和太郎さんにとって、この牛はこんなよぼよぼのみすぼらしい牛ではありましたが、たいへん役にたつよい牛でありました。もし、次郎左エ門さんのすすめにしたがって、この牛を売って若い元気な牛とかえたとしたら、こんど和太郎さんがよっぱらうとき、どこで目がさめるかわかったものではありません。十里さきの名古屋の街のまん中で、よいからさめるかもしれません。それともこの半島のはしの、海にのぞんだ崖っぷちの上で目がさめ、びっくりするようなことになるかもしれません。なにしろ若い牛は元気がいいので、ひと晩のうちに十里くらいは歩くでしょうから。
「和太郎さんはいい牛を持っている」とみんなはいっていました。「まるで、気がよくきいて親切なおかみさんのような」といっていました。
ところで、和太郎さんのおかみさんのことです。
和太郎さんは、おかみさんについて悲しい思い出がありました。
和太郎さんも、若かったとき、ひとなみにお嫁さんをもらいました。
いままで、年とった目っかちのおかあさんとふたりきりの、さびしい生活をしていましたので、若いお嫁さんがくると、和太郎さんの家は、毎日がお祭のように、明るくたのしくなりました。
美しくて、まめまめしく働くお嫁さんなので、和太郎さんも目っかちのおかあさんも、喜んでいました。
けれど、和太郎さんは、ある日、おかしなことに目をつけました。それは、ご飯を家じゅう三人でたべるとき、お嫁さんがいつも、顔を横にむけて壁の方を見ていることでありました。
和太郎さんは、十日間それをだまって見ていました。お嫁さんはあいかわらず、壁の方に顔をむけてご飯をたべるのでありました。
とうとう和太郎さんは、がまんができなくなって、ききました。
「おまえは、首をそういうふうに、ねじむけておかないと、ご飯がのどを通っていかないのかや。それとも、うちの壁に、なにかかわったことでもあるのかや」
するとお嫁さんは、なにもこたえないで、箸を持った手をひざの上においたまま、うつむいてしまいました。
あとでふたりきりになったとき、お嫁さんは小さな声で和太郎さんにつげました。
「わたしは、おかあさんのつぶれたほうの目を見ると、気持ちがわるくなるのです。つぶれて、赤い肉が見えているでしょう。あれを見てはご飯がのどを通らないので、横をむいているのです」
「そうか、だがおかあさんは、遊んでいて目をつぶしたのじゃないぞや。田の草をとっていて、稲の葉先でついたのがもとで、あの目をつぶしたのだぞや」
と、和太郎さんはいいました。
「わたしは、どういうもんか、あのつぶれた目の赤い肉の色を見ると、気持ちがわるくなるのです」
と、お嫁さんはまたいうのでした。
「だが、おかあさんは、稲でついて目をつぶしたのだぞや。そんなにして、わしをそだててくれたのだぞや」
「でも、わたしは、あのつぶれた目を見ていては、ご飯がのどを通りません」
和太郎さんはおかあさんとふたりきりになったとき、おかあさんに話しました。
「おチヨは、おかあさんのつぶれたほうの目を見ていると、気持ちがわるくて、ご飯がのどを通らんそうです」
それを聞くと、年とったおかあさんは、豆をたたくのをやめて、しばらく悲しげな顔をしていました。そしていいました。
「そりゃ、もっともじゃ。こんなかたわを見ていちゃ、若いものには気持ちがよくあるまい。わしはまえから、嫁ごがきたら、おまえたちのじゃまにならぬように、どこかへ奉公に出ようと思っていたのだよ。それじゃ、あしたから桝半さんのところへ奉公にいこう。あそこじゃ飯たきばあさんがほしいそうだから」
つぎの日、年とったおかあさんは、すこしの荷物をふろしき包みにして、日ざかりにこうもりがさをさして家を出ていきました。門先のもえるようにさきさかっているつつじのあいだを通って、いってしまいました。
畑の垣根をなおしながら、和太郎さんは、おかあさんを見送っていました。おかあさんが見えなくなると、つつじの赤が、和太郎さんの目にしみました。
和太郎さんはなけてきました。こんな年とったおかあさんを、今また奉公させに、よその家にやってよいものでしょうか。せっせと働いて、苦労をしつづけて、ひとり息子の和太郎さんをそだててくれたおかあさんを。
和太郎さんは縄きれを持ったまま、とんでいって、おかあさんの手をつかむと、だまってぐんぐん家へひっぱってきました。
「おい、おい、おチヨ」
と、和太郎さんはよびました。
お嫁さんは台所から、手をふきながら、出てきました。
「おまえは、近いうちにさとへいっぺん帰りたい用があるといっていたな」
「はい」
「それじゃ、きょう、いまからいきなさい」
お嫁さんは、じぶんの生まれた家に久しぶりに帰ることができるので、うれしくてたまりませんでした。さっそくよい着物にかえました。
「さとには、たけのこがなかったな。たけのこを持っていきなさい。ふきもたくさん持っていきなさい」
と、和太郎さんはいいました。
お嫁さんはたくさんのおみやげをかかえこんで、戸口を出ていいました。
「それじゃ、いってまいります」
「ああいけや」と和太郎さんはいいました。
「そうして、もう、ここへこなくてもよいぞや」
お嫁さんはびっくりしました。しかしいくらお嫁さんがびっくりしたところで、和太郎さんの心は、もうかわりませんでした。
こうして、和太郎さんはお嫁さんとわかれてしまいました。
そののち、あちこちから、お嫁さんの話はありましたが、和太郎さんはもうもらいませんでした。ときどき、もういっぺんもらってみようか、と思うこともありましたが、壁を見ると、「やっぱり、よそう」と、考えがかわるのでした。
しかし、お嫁さんをもらわない和太郎さんは、ひとつ残念なことがありました。それは子どもがないということです。
おかあさんは年をとって、だんだん小さくなっていきます。和太郎さんも、今は男ざかりですが、やがておじいさんになってしまうのです。牛もそのうちには、もっとしりがやせ、あばら骨がろくぼくのようにあらわれ、ついには死ぬのです。そうすると、和太郎さんの家はほろびてしまいます。
お嫁さんはいらないが、子どもがほしい、とよく和太郎さんは考えるのでありました。
人間はほかの人間からお世話になるとお礼をします。けれど、牛や馬からお世話になったときには、あまりいたしません。お礼をしなくても、牛や馬は、べつだん文句をいわないからであります。だが、これは不公平な、いけないやり方である、と和太郎さんは思っていました。なにか、よぼよぼの牛のたいそう喜ぶようなことをして、日ごろお世話になっているお礼にしたいものだ、と考えていました。
すると、そういうよいおりがやってきました。
百姓ばかりの村には、ほんとうに平和な、金色の夕ぐれをめぐまれることがありますが、それは、そんな春の夕ぐれでありました。出そろって、山羊小屋の窓をかくしている大麦の穂の上に、やわらかに夕日の光が流れておりました。
和太郎さんは、よぼよぼ牛に車をひかせて、町へいくとちゅうでした。
和太郎さんは、いつもきげんがいいのですが、きょうはまたいちだんとはれやかな顔をしていました。酒だるをつんでいたからであります。
酒だるを、となり村の酒屋から、町の酢屋まで、とどけるようにたのまれたのです。その中には、お酒のおりがつまっていました。おりというのは、お酒をつくるとき、たるのそこにたまる、乳色のにごったものであります。
酒だるはゆれるたびに、どぼォン、どぼォン、と重たい音をたてました。そしてしずかな百姓の村の日ぐれに、お酒のにおいをふりまいていきました。
和太郎さんは、はれやかな顔をしながら、いつもこういう荷物をたのまれたいものだ、音を聞いているだけでしゃばの苦しみを忘れる、などと考えていました。するととつぜん、ぼんと音がしました。
見ると、ひとつのたるのかがみ板が、とんでしまい、ちょうど車が坂にかかって、かたむいていたので、白いおりが滝のように流れ出していました。
「こりゃ、こりゃ」
と和太郎さんはいいましたが、もうどうしようもありませんでした。おりは地面にこぼれ、くぼんだところにたまって、いっそうぷんぷんとよいにおいをさせました。
においをかいで、酒ずきの百姓や、年よりがあつまってきました。村のはずれに住んでいる、おトキばあさんまでやってきたところを見ると、おりのにおいは、五町も流れていったにちがいありません。
みんながあつまってきたとき、和太郎さんは車のまわりをうろうろしていました。
「こりゃ、おれの罪じゃない。おりというやつは、ゆすられるとふえるもんだ。牛車でごとごとゆすられてくるうちに、ふえたんだ。それに、このぬくとい陽気だから、よけいふえたんだ」
と和太郎さんは、旦那にするいいわけを、村の人びとにむかっていいました。
「そうだ、そうだ」
と人びとはあいづちをうちながら、道にたまった、たくさんのおりをながめて、のどをならしました。
「さて、こりゃ、どうしたものぞい。ほっときゃ土がすってしまうが」
と、年とった百姓がわらすべをおりにひたしては、しゃぶりながらいいました。
ほんとに、ほっとけば土がすってしまう、とみんなが思いました。そのとき和太郎さんがいいことを思いついたのでした。
和太郎さんは、牛をくびきからはなしました。そして、こぼれたおりのところにつれていきました。
「そら、なめろ」
牛は、おりの上に首をさげて、しばらくじっとしていました。それは、においをかいで、これはうまいものかまずいものか、と判断しているように見えました。
見ている百姓たちも、いきをころして、牛は酒を飲むか飲まぬか、と考えていました。
牛は舌を出して、ぺろりとひとなめやりました。そしてまたちょっと動かずにいました。口の中でその味をよくしらべているにちがいありません。
見ている百姓たちは、あまりいきをころしていたので、胸が苦しくなったほどでありました。
牛はまた、ぺろりとなめました。そしてあとは、ぺろりぺろりとなめ、おまけに、ふうふうという鼻いきまで加わったので、たいそういそがしくなりました。
「牛というもなァ、酒の好きなけものとみえるなァ」
と村びとのひとりが、ためいきまじりにいいました。
ほかのものたちは、じぶんが牛でないことをたいそうざんねんに思いました。
和太郎さんは、牛がおいしそうにおりをなめるのを喜んで見ていました。
「おォよ。たべろたべろ。いつもおまえの世話になっておるで、お礼をせにゃならんと思っておったのだ。だが、おまえが酒ずきとは知らなかったのだ」
牛はてまえのおりがなくなると、ひと足進んで、むこうのおりをなめました。
「牛てもな、大酒くらいだなァ」
と村びとのひとりが、ほしいもののもらえなかった子どものように、なげやりにいいました。
「いくらでもええだけたべろ」と和太郎さんは、牛の背中をなでながらいいました。
「ようまでたべろ。よってもええぞ、きょうはおれが世話してやるで。きょうこそ、一生に一ぺんのご恩がえしだ」
ついに牛は、おりをなめてしまい、土だけが残りました。もうあたりはうす暗くなっていました。和太郎さんはまた牛をくびきにつけました。
青い夕かげが流れて、そこらの垣根の木いちごの花だけが白くういている道を、腹いっぱいたべた牛と、日ごろのご恩をかえしたつもりの和太郎さんが、ともに満足をおぼえながらのろのろといきました。
さて、和太郎さんも、きょうだけはじぶんがお酒を飲むのをよそうと決心していました。和太郎さんの意見では、牛が飲んだうえに、牛飼いまでが飲むのは、だらしのないことであったのです。しかし、それなら和太郎さんは、帰り道を一本松と茶屋の前にとってはならなかったのです。すこしまわり道だけれど、焼場の方のさびしい道をいけばよかったのです。
だが、和太郎さんは、なァに、きょうはだいじょうぶだ、と思いました。「おれにだってわきまえというものがあるさ」とひとりごとをいいました。そして一本松と茶屋の前を通りかかりました。
酒飲みの考えは、酒の近くへくると、よくかわるものであります。和太郎さんも、茶屋の前までくると、じぶんの石のようにかたかった決心が、とうふのようにもろくくずれていくのをおぼえました。
じつは和太郎さんも、牛に酒のおりをなめさせているとき、じぶんも、のどから手の出るほど飲みたかったのを、おさえていたのでした。その欲望が、茶屋の前できゅうに頭をもちあげてきました。
「ま、ちょっと一服するくらい、いいだろう」
と和太郎さんは、手綱を松の太いみきにまきつけながら、いいました。牛はいつものようにおとなしくしていました。
そして和太郎さんは、茶店に、手をこすりながら、はいっていきました。
いつものとおりでした。もうちょっと、もうちょっとといっているうちに、時間はすぎていきました。徳利の数もふえていきました。
茶屋のおよしばあさんが、いろいろ和太郎さんの世話をやいて、松から手綱をといてくれたり、小田原ちょうちんに火をともしてくれたのも、いつものとおりでした。
ただ、牛が地べたの上にねそべっていたことだけが、いつもとちがっていました。およしばあさんは、そうとは知らなかったので、もうすこしで牛につまずくところでした。和太郎さんは、
「坊よ、起きろ」
と、いいました。
牛は、ふううッと太い長い鼻いきでこたえただけで、起きようとしませんでした。
「坊よ、腹でもいてえか。起きろ」
といって、和太郎さんは、手綱でぐいッとひっぱりました。
牛はのろのろと、ものうげにからだを動かして、まずしりのほうを起こしました。前あしはふたつにおって地についたままでしばらくいて、大きい鼻いきをたてつづけにするのでした。
「あら、いやだよ。この牛は。かじやのふいごのように、ふうふう、いうんだもの」
と、およしばあさんはいいました。
「まるで、よいどれみたいだよ」
そのことばで、和太郎さんは、ようやく牛もたくさん飲んだことを思い出しました。そこでおかしくなって、げらげらわらっていいました。
「それにちげえねえ」
やっとのことで牛が前あしを立てると、和太郎さんはいよいよ家にむかって出発しました。
いつも茶屋のおよしばあさんは、和太郎さんが出発してから、かなり長いあいだ、和太郎さんの車の輪がなわて道の上にたてる、からからという音を聞いたものでした。それが、その日は、じききこえなくなってしまいました。へんだとは思いましたが、ばあさんは、あまり気にもとめませんでした。なにしろ、牛飼いと牛と両方がよっぱらっているのですから、どこへいくのやら、なにをするのやら、わかったもんじゃないからです。
和太郎さんの年とったおかあさんは、ぶいぶいと糸くり車をまわしては、かた目で柱時計を見あげ見あげ、夜おそくまで待っていました。
そのうちに、年とってすすびた柱時計は、しばらくぜいぜいと、ぜんそく持ちのおじいさんのようにのどをならしていてから、長いあいだかかって、十一時を打ったのでありました。
いつも十一時が打つころには、外に車の音がきっとしてくるのでした。今夜はどうしたことだろう、とおかあさんは思いました。
十分すぎました。まだ車の音が聞こえてきません。おかあさんは心配になって、ひざから綿くずをはらい落としながら、門口に出てみました。
よい月夜で、ねしずまった家いえの屋根の瓦が、ぬれて光っていました。道はほのじろくうかびあがり、遠くまで見えていました。けれど遠くには和太郎さんの車のかげはありませんでした。
和太郎さんが夜、家に帰らなかったことといえば、いままでに、ほんのかぞえるほどしかありませんでした。おかあさんは、どんなときに和太郎さんがよそでとまったか、ちゃんとおぼえていました。和太郎さんが小学生だったころ、学校から伊勢参宮をしたときふた晩、それから和太郎さんが若い衆であったころ、吉野山へ村の若い者たちといっしょにいったときが五晩、そしてやはり若い衆であったころ、毎年村の祭の夜ひと晩ずつ山車の夜番をしにいったものでした。そのほかに、和太郎さんが、家をあけてよそでとまってきたことは、一ぺんもなかったのです。そこでおかあさんは、だんだん心配になってきました。
十一時が二十分たちました。まだ和太郎さんは帰ってきません。おかあさんはとうとう決心しました。駐在所のおまわりさんのところへ相談にいったのでした。
おまわりさんの芝田さんは、なにか事件でも起こったかと、電燈の下であわてて黒いズボンをはき、サーベルを腰につるしながら下りてきました。
しかし芝田さんは、話を聞いて、すこしはりあいがぬけました。
「そりゃ、また和太さんが一ぱいやったんだろう」
といいました。
「ンでも、こげなこと、一ぺんもごぜえませんもの。あれにかぎって、いくらよっておっても、十一時にはちゃんと帰ってきますだがのィ」
と、和太郎さんのおかあさんはいいました。そして、十一時が二十分すぎてもまだ帰ってこないのは、きっと、とちゅうでおいはぎにでもつかまったにちがいないといいはるのでありました。
芝田さんは、このおさまった御代に、おいはぎなどが、やたらにいるものではないことをきかせました。和太郎さんが、いつもじぶんは正体もなくよって、牛にひかれて帰ってくるのだから、今夜は、牛がなにかのぐあいで二、三十分おくれたのだろう、なにしろ牛などというものは、あまり時間の正確な動物ではないから、ともいうのでした。
けれど和太郎さんのおかあさんは、じぶんの考えをいつまでもいいはるので、芝田さんもとうとう根負けしてしまって、
「よし、それでは、そうさくすることにしよう」
といいました。
いつも事件が起こったときには、村の青年団が駐在巡査の応援をすることになっていましたので、芝田さんは青年団の人びとにあつまってもらいました。まもなく青年団員は制服を着てゲートルをまいて、ぼうきれを持ってよってきました。青年団員ばかりでなく、ほかのおとなや、腰のまがりかかったおじいさんまで、やってきました。
じつは、このような、夜中に人が消えたというような事件は、この村には、もうなん十年も、なかったのでした。このまえ、青年団が芝田さんの応援をしたのは、西山のふもとのわら小屋に草焼きの火がうつったときのことで、事件はたいそうかんたんでした。しかし、こんどの事件は、これはなかなかむずかしいのです。いったい、どうしてそうさくをはじめたらいいでしょう。
すると、富鉄さんという、大きい鼻のおじいさんが、いいことを思い出してくれました。それはいまから四十年くらいまえ、村の一文商いやが、坂谷まで油菓子の仕入れにいった帰り、ろっかん山のきつねにばかされて、まいごになったという事件でありました。そのとき、村の人びとは、かねやたいこを鳴らして、山や谷をさがして歩き、ついに、泉谷の泉の中で、ももひきを頭にかむってがつがつふるえながら、「これはええ湯じゃ、ええかげんじゃ」といっている一文商いやを見つけ出すことができたのでありました。富鉄じいさんはこの話をよく知っていて、こまかく説明しましたが、それもそのはずで、きつねにばかされたのはじぶんのことだったのです。
富鉄さんの話を聞いてみれば、きつねにばかされるということも、ありそうに思えました。ろっかん山では、今でもよく、きつねのちらりと走りすぎるのが見られますし、村の中でだって、寒い冬の夜ふけには、むじなの声が聞けるのですから。また、たとい、きつねやむじなにばかされないにしても、よっている人間というものは、ばかされている人間とあまりちがわないというわけです。
そこでみんなは、鳴物を持ってきました。かねはお寺でかりてきました。おそうしきの出る時刻を、知らせてまわるときにたたく、あのかねです。たいこは、夜番が「火の用心」といってはドンとたたく、あのねぼけたような音のたいこです。もと吉野山参りの先達をなんべんもやった亀菊さんは、ひさしぶりに鳴らしてやろうというので、宝蔵倉からほら貝をとり出してきました。しかしひとふきふいてみて、おどろいたことにもうそのほら貝は、しゅうしゅうという音をたてるばかりで、鳴りませんでした。「こりゃ、ひびがはいっただかや」と亀菊さんはいいましたが、息子の亀徳さんがふいたら、そのほら貝はよい音で鳴ったのです。そこで亀菊さんは、じぶんが年をとったことがよくわかりました。そして年をとることは、あほらしいことである、と思ったのでありました。青年団のラッパ手林平さんは、月の光でもピカピカ光るよいラッパを持ってきました。こいつなら三里ぐらいは聞こえるだろう、と林平さんは心のなかで得意でした。
そして男たちは、手に手にちょうちんを持って、山にはいっていきました。かねやたいこはたたかれ、ほら貝もふかれました。林平さんはラッパをどんなふしでふこうかまよいました。
しかし、きつねにばかされた人間と牛をさがすのには、こういうふしはどれもぴったりしないような気がしましたので、しまいには、ただ「プウーッ、プウーッ」とふしなしでふきました。すると、けなすことのすきな亀菊さんが「まるでゾウのおならみてえだ」といいましたので、林平さんは気をわるくしました。こんなことをいっても亀菊さんは、じっさいにゾウのおならを聞いたことなどありはしなかったのです。
みんなは、あちらこちらとさがしまわりましたが、同じ谷になんども下りたり、同じやぶになんどもはいったり、同じ池をなんどもめぐったりしました。これではまるで、じぶんたちがきつねにばかされているみたいだ、などと思いながら、みんなは十ぺんめにまた、同じ池をぐるりとまわりました。
もうだいぶんくたびれていて、ほら貝やラッパはもう鳴りませんでした。ときどきねぼけたような音でたいこが鳴るだけでした。さてこんなにしてさがしましたが、和太郎さんと牛は見つからなかったのです。それどころか、みんなのうちで、ふたりの人が、どこかへはぐれていってしまったことがわかりました。いやはやです。これでは、いつまでさがしていてもむだなばかりか、かえって損というものです。
もう、池の面が、にぶく光っていました。そのとき、池のむこうのやぶで、年とったうぐいすがしずかに鳴きましたので、みんなは、やれ朝になったかと思いました。そこで村に帰りました。
村の人たちは夜っぴてねなかったうえに、山の中を歩きまわったので、たいへんくたびれて村に帰ってきました。そして、ひとまず駐在所の前にきたのですが、もう立っているのがものういので、道ばたの草をしいて、みんなすわってしまいました。
すると、西の方の学校のうら道を、牛車が一台やってきました。もう仕事にいくのかと、みんなはぼんやりした目で見ていました。
牛車が駐在所の前を通るとき、のっていた男が、
「おい、おまえら、朝早いのう。きょうは道ぶしんでもするかえ」
といいました。
見たことのある男だと思って、みんながよく見ると、それが和太郎さんだったのです。
「なんだやい。おれたちァ、おまえをさがして夜じゅう、山ん中を歩いておっただぞィ」
と、亀菊さんがいいました。
「ほうかィ。そいつァはご苦労だったのォ」
といって、和太郎さんは牛車から下りもせずに、家の方にいってしまいました。
「なんのことか」と、村びとたちはあいた口がふさがりませんでした。こんなことなら、大さわぎして山の中をさがしまわるなど、しなくてもよかったのです。
これは、和太郎さんをみんなで、しかりつけてやらねばならないと、年より連中はいいました。それでないとくせになるから、というのでした。そこでみんなはねむい目をこすりながら、和太郎さんの家につめかけていきました。
和太郎さんは庭で、よぼよぼ牛をくびきからはずして、たらいに水をくんで飲ませていました。
「やい、和太」と村でりこうもんの次郎左エ門さんがいいかけました。「おぬしは、村じゅうのもんにえらい迷惑をかけたが、知っとるかや。おれたち、村のもんは、ゆうべひとねむりもせんで、山から谷から畑から野までかけずりまわって、おぬしをさがしたのだが、おぬしは、それに対してだまっておってええだかや」
これでは次郎左エ門さんもそうさく隊にはいっていたようにきこえますが、ほんとうは、ついさっきまで家でねていたのです。
和太郎さんは、次郎左エ門さんのことばをきくと、びっくりしました。たいそう村の人たちにすまないと思いましたので、「そいつァ、すまなかったのォ」と十三べんもいって、そのたびに頭をかいたり、背中をかいたりしました。そして、牛もじぶんもよってしまったので、こんなことになってしまった、と説明しました。
村の人たちはいい人ばかりなので、じきに、腹がおさまりました。そこでこんどは、いろいろ和太郎さんにききはじめました。
「和太さん、それで、いままでどこをうろついていただィ」
と、亀徳さんがききました。
和太郎さんは首をかしげて、
「どこだか、はっきりしねえだ。右へかたむいたり、左へかたむいたり、高いところにのぼったり、ひくいところに下りたりしたことをおぼえているだけでのォ」
と、こたえました。
「それで、無燈で歩いとったのか」
と、おまわりさんの芝田さんはききました。
「無燈じゃごぜえません。ここに小田原ちょうちんがつけてありますに、ごらんくだせェ」
といって、和太郎さんは牛車の下へ頭をつっこみました。
ところが小田原ちょうちんは、上半分しか残っていませんでした。どうやら、水でぬれたため、紙がやぶれて、コイルのようにまいてあった骨がだらりとのび、それがとちゅうでなにかにひっかかって、ちぎれてしまったらしいのです。
「水にぬれたので、こんなになっちめえました」
と和太郎さんは、ちぎれて半分の小田原ちょうちんをはずして見せました。
「そういえば、牛車も牛も、和太郎さんの着物も、ぐっしょりぬれているが、こりゃ夜つゆにしてはひどすぎるようだ」と、だれかがいいました。
「ひょっとすると、どこかの池の中でも通ってきたのじゃねえか」
と、亀徳さんがいいました。
「まさか、そ、そんなことはありません」
と和太郎さんは、おかあさんがそばにいるので、あわててうちけしました。おかあさんに心配させたくなかったからです。
しかし、和太郎さんがいくらうちけしてもむだでありました。というのは、和太郎さんのふところから、大きなふなと、げんごろう虫と、かめの子が出てきたからであります。こういうものは池にしかいないものです。してみると和太郎さんの牛車は、どこかの池の中を通ってきたのです。
「この黄色い花はなんだろう」
とまた、だれかがいいました。見ると、よぼよぼ牛の前あしのつめのわれめに、黄色い花がひとふさ、はさまっておりました。
「れんぎょうの花ともちがうようだ。このへんじゃいっこう見ねえ花だなァ」
と、ひとりがいいました。
「そりゃ、えにしだの花だ。えにしだは、このへんにゃめったにない。まァず、南の方へ四里ばかりいくと、ろっかん山のてっぺんに、このえにしだのむらがってさくところがあるげな。そして、ろっかん山のきつねは、月のいい晩なんかそのかげで、胡弓をひくまねなんかしとるげなが」
と、植木職人の安さんがいいました。
和太郎さんはしかたがないので、
「面目ないけンが、どうやら、そこへもいったらしいて。ばかにりっぱな座敷があってのう、それが、たたみもふすまも天じょうも、みんな黄色かったてや。そういえば、耳のぴんと立った太夫がひとりござって、胡弓をじょうずにひいてきかしてくれたてや。じゃ、あれが、きつねだったのかィ」
「それにしても、どうして、あんな急な山のてっぺんへ、牛車がのぼったもんだろう」
と、村びとはふしぎがりました。
「なにしろ申しわけねえだな、牛もおれもよっておったで」
と、和太郎さんはあやまるのでした。
さておしまいに、村びとたちにも、和太郎さんにもどうしてか、わけのわからぬことがひとつあったのです。
それは、牛車の上にひとつの小さい籠がのっていて、その中に、花たばと、まるまるふとった男の赤ん坊がはいっていたことです。
どこでどうして、この籠をのせられたのか和太郎さんはいくら思い出してみようとしても、むだ骨おりでありました。てんでおぼえがなかったのです。
「天からさずかったのじゃあるめえか」と亀徳さんがいいました。「和太さんが、日ごろから、子どもがほしい、女房はいらんが、といっていたのを天でおききとどけになって、さずけてくれたのじゃねえか」
和太郎さんは、亀徳さんがいいことをいってくれたので、うれしそうな顔をしました。
しかし次郎左エ門さんは、
「そんなりくつにあわぬ話が、いまどきあるもんじゃねえ。子どもには両親がなけりゃならん」
といいました。
また、芝田さんはひげをいじりながら、
「捨て子じゃろう。一ぺんあとから駐在所へつれてこい。調査書を書いて本署にとどけるから」
といいました。
その後、和太郎さんは、赤ん坊の親たちがあらわれるのを待っていましたが、ついに、そんな人はあらわれませんでした。
そこで、その子には和助という名をつけて、じぶんの子にしました。そして、一ぱいきげんのときにはいつもでも、
「おらが和助は、天からさずかりものだ。おらと牛がよっぱらった晩に、天からさずけてくださったのだ」
といいました。すると、りこうもんの次郎左エ門さんは、
「そんなりくつにあわん話がいまどきあるもんか。子どもにゃ両親がなきゃならん。よって歩いているうちに天から子どもをさずかるようなことなら、世の中に法律はいらないことになる」
と、むずかしいりくつをいいました。
けれど、和太郎さんは負けていないで、こういうのでした。
「世の中は、りくつどおりにゃいかねえよ。いろいろふしぎなことがあるもんさ」
さて、この天からさずかった子どもの和助君は、それからだんだん大きくなり、小学校では、わたしと同級で、和助君はいつも級長、わたしはいつもびりのほうでしたが、小学校がすむと、和助君は、和太郎さんのあとをついで、りっぱな牛飼いになりました。そして、いまでは和太郎さんは、だいぶんおじいさんになりましたが、まだ元気です。おかあさんとよぼよぼ牛は、一昨年なくなりました。
底本:「牛をつないだ椿の木」角川文庫、角川書店
1968(昭和43)年2月20日初版発行
1996(平成8)年6月20日34版発行
初出:「花のき村と盗人たち」少国民文芸選、帝国教育会出版部
1943(昭和18)年9月30日
入力:山田芳美
校正:林 幸雄
2001年4月9日公開
2014年6月27日修正
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