それから
夏目漱石
|
誰か慌たゞしく門前を馳けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄が空から、ぶら下つてゐた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退くに従つて、すうと頭から抜け出して消えて仕舞つた。さうして眼が覚めた。
枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちてゐる。代助は昨夕床の中で慥かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣が静かな所為かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋のはづれに正しく中る血の音を確かめながら眠に就いた。
ぼんやりして、少時、赤ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈を聴いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確に打つてゐた。彼は胸に手を当てた儘、此鼓動の下に、温かい紅の血潮の緩く流れる様を想像して見た。是が命であると考へた。自分は今流れる命を掌で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌に応へる、時計の針に似た響は、自分を死に誘ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生きてゐられたなら、──血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかつたなら、如何に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生を味はひ得るだらう。けれども──代助は覚えず悚とした。彼は血潮によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生きたがる男である。彼は時々寐ながら、左の乳の下に手を置いて、もし、此所を鉄槌で一つ撲されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。
彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中から両手を出して、大きく左右に開くと、左側に男が女を斬つてゐる絵があつた。彼はすぐ外の頁へ眼を移した。其所には学校騒動が大きな活字で出てゐる。代助は、しばらく、それを読んでゐたが、やがて、惓怠さうな手から、はたりと新聞を夜具の上に落した。夫から烟草を一本吹かしながら、五寸許り布団を摺り出して、畳の上の椿を取つて、引つ繰り返して、鼻の先へ持つて来た。口と口髭と鼻の大部分が全く隠れた。烟りは椿の瓣と蕊に絡まつて漂ふ程濃く出た。それを白い敷布の上に置くと、立ち上がつて風呂場へ行つた。
其所で叮嚀に歯を磨いた。彼は歯並の好いのを常に嬉しく思つてゐる。肌を脱いで綺麗に胸と脊を摩擦した。彼の皮膚には濃かな一種の光沢がある。香油を塗り込んだあとを、よく拭き取つた様に、肩を揺かしたり、腕を上げたりする度に、局所の脂肪が薄く漲つて見える。かれは夫にも満足である。次に黒い髪を分けた。油を塗けないでも面白い程自由になる。髭も髪同様に細く且つ初々しく、口の上を品よく蔽ふてゐる。代助は其ふつくらした頬を、両手で両三度撫でながら、鏡の前にわが顔を映してゐた。丸で女が御白粉を付ける時の手付と一般であつた。実際彼は必要があれば、御白粉さへ付けかねぬ程に、肉体に誇を置く人である。彼の尤も嫌ふのは羅漢の様な骨骼と相好で、鏡に向ふたんびに、あんな顔に生れなくつて、まあ可かつたと思ふ位である。其代り人から御洒落と云はれても、何の苦痛も感じ得ない。それ程彼は旧時代の日本を乗り超えてゐる。
約三十分の後彼は食卓に就いた。熱い紅茶を啜りながら焼麺麭に牛酪を付けてゐると、門野と云ふ書生が座敷から新聞を畳んで持つて来た。四つ折りにしたのを座布団の傍へ置きながら、
「先生、大変な事が始まりましたな」と仰山な声で話しかけた。此書生は代助を捕まへては、先生先生と敬語を使ふ。代助も、はじめ一二度は苦笑して抗議を申し込んだが、えへゝゝ、だつて先生と、すぐ先生にして仕舞ふので、已を得ず其儘にして置いたのが、いつか習慣になつて、今では、此男に限つて、平気に先生として通してゐる。実際書生が代助の様な主人を呼ぶには、先生以外に別段適当な名称がないと云ふことを、書生を置いて見て、代助も始めて悟つたのである。
「学校騒動の事ぢやないか」と代助は落付いた顔をして麺麭を食つて居た。
「だつて痛快ぢやありませんか」
「校長排斥がですか」
「えゝ、到底辞職もんでせう」と嬉しがつてゐる。
「校長が辞職でもすれば、君は何か儲かる事でもあるんですか」
「冗談云つちや不可ません。さう損得づくで、痛快がられやしません」
代助は矢つ張り麺麭を食つてゐた。
「君、あれは本当に校長が悪らしくつて排斥するのか、他に損得問題があつて排斥するのか知つてますか」と云ひながら鉄瓶の湯を紅茶々碗の中へ注した。
「知りませんな。何ですか、先生は御存じなんですか」
「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得にならないと思つて、あんな騒動をやるもんかね。ありや方便だよ、君」
「へえ、左様なもんですかな」と門野は稍真面目な顔をした。代助はそれぎり黙つて仕舞つた。門野は是より以上通じない男である。是より以上は、いくら行つても、へえ左様なもんですかなで押し通して澄ましてゐる。此方の云ふことが応へるのだか、応へないのだか丸で要領を得ない。代助は、其所が漠然として、刺激が要らなくつて好いと思つて書生に使つてゐるのである。其代り、学校へも行かず、勉強もせず、一日ごろ〳〵してゐる。君、ちつと、外国語でも研究しちやどうだなどゝ云ふ事がある。すると門野は何時でも、左様でせうか、とか、左様なもんでせうか、とか答へる丈である。決して為ませうといふ事は口にしない。又かう、怠惰ものでは、さう判然した答が出来ないのである。代助の方でも、門野を教育しに生れて来た訳でもないから、好加減にして放つて置く。幸ひ頭と違つて、身体の方は善く動くので、代助はそこを大いに重宝がつてゐる。代助ばかりではない、従来からゐる婆さんも門野の御蔭で此頃は大変助かる様になつた。その原因で婆さんと門野とは頗る仲が好い。主人の留守などには、よく二人で話をする。
「先生は一体何を為る気なんだらうね。小母さん」
「あの位になつて入らつしやれば、何でも出来ますよ。心配するがものはない」
「心配はせんがね。何か為たら好ささうなもんだと思ふんだが」
「まあ奥様でも御貰ひになつてから、緩つくり、御役でも御探しなさる御積りなんでせうよ」
「いゝ積りだなあ。僕も、あんな風に一日本を読んだり、音楽を聞きに行つたりして暮して居たいな」
「御前さんが?」
「本は読まんでも好いがね。あゝ云ふ具合に遊んで居たいね」
「夫はみんな、前世からの約束だから仕方がない」
「左様なものかな」
まづ斯う云ふ調子である。門野が代助の所へ引き移る二週間前には、此若い独身の主人と、此食客との間に下の様な会話があつた。
「君は何方の学校へ行つてるんですか」
「もとは行きましたがな。今は廃めちまいました」
「もと、何処へ行つたんです」
「何処つて方々行きました。然しどうも厭きつぽいもんだから」
「ぢき厭になるんですか」
「まあ、左様ですな」
「で、大して勉強する考もないんですか」
「えゝ、一寸有りませんな。それに近頃家の都合が、あんまり好くないもんですから」
「家の婆さんは、あなたの御母さんを知つてるんだつてね」
「えゝ、もと、直近所に居たもんですから」
「御母さんは矢っ張り……」
「矢っ張りつまらない内職をしてゐるんですが、どうも近頃は不景気で、余まり好くない様です」
「好くない様ですつて、君、一所に居るんぢやないですか」
「一所に居ることは居ますが、つい面倒だから聞いた事もありません。何でも能くこぼしてる様です」
「兄さんは」
「兄は郵便局の方へ出てゐます」
「家は夫丈ですか」
「まだ弟がゐます。是は銀行の──まあ小使に少し毛の生えた位な所なんでせう」
「すると遊んでるのは、君許りぢやないか」
「まあ、左様なもんですな」
「それで、家にゐるときは、何をしてゐるんです」
「まあ、大抵寐てゐますな。でなければ散歩でも為ますかな」
「外のものが、みんな稼いでるのに、君許り寐てゐるのは苦痛ぢやないですか」
「いえ、左様でもありませんな」
「家庭が余つ程円満なんですか」
「別段喧嘩もしませんがな。妙なもんで」
「だつて、御母さんや兄さんから云つたら、一日も早く君に独立して貰ひたいでせうがね」
「左様かも知れませんな」
「君は余つ程気楽な性分と見える。それが本当の所なんですか」
「えゝ、別に嘘を吐く料簡もありませんな」
「ぢや全くの呑気屋なんだね」
「えゝ、まあ呑気屋つて云ふもんでせうか」
「兄さんは何歳になるんです」
「斯うつと、取つて六になりますか」
「すると、もう細君でも貰はなくちやならないでせう。兄さんの細君が出来ても、矢っ張り今の様にしてゐる積ですか」
「其時に為つて見なくつちや、自分でも見当が付きませんが、何しろ、どうか為るだらうと思つてます」
「其外に親類はないんですか」
「叔母が一人ありますがな。こいつは今、浜で運漕業をやつてます」
「叔母さんが?」
「叔母が遣つてる訳でもないんでせうが、まあ叔父ですな」
「其所へでも頼んで使つて貰つちや、どうです。運漕業なら大分人が要るでせう」
「根が怠惰もんですからな。大方断わるだらうと思つてるんです」
「さう自任してゐちや困る。実は君の御母さんが、家の婆さんに頼んで、君を僕の宅へ置いて呉れまいかといふ相談があるんですよ」
「えゝ、何だかそんな事を云つてました」
「君自身は、一体どう云ふ気なんです」
「えゝ、成るべく怠けない様にして……」
「家へ来る方が好いんですか」
「まあ、左様ですな」
「然し寐て散歩する丈ぢや困る」
「そりや大丈夫です。身体の方は達者ですから。風呂でも何でも汲みます」
「風呂は水道があるから汲まないでも可い」
「ぢや、掃除でもしませう」
門野は斯う云ふ条件で代助の書生になつたのである。
代助はやがて食事を済まして、烟草を吹かし出した。今迄茶箪笥の陰に、ぽつねんと膝を抱へて柱に倚り懸つてゐた門野は、もう好い時分だと思つて、又主人に質問を掛けた。
「先生、今朝は心臓の具合はどうですか」
此間から代助の癖を知つてゐるので、幾分か茶化した調子である。
「今日はまだ大丈夫だ」
「何だか明日にも危しくなりさうですな。どうも先生見た様に身体を気にしちや、──仕舞には本当の病気に取つ付かれるかも知れませんよ」
「もう病気ですよ」
門野は只へえゝと云つた限、代助の光沢の好い顔色や肉の豊かな肩のあたりを羽織の上から眺めてゐる。代助はこんな場合になると何時でも此青年を気の毒に思ふ。代助から見ると、此青年の頭は、牛の脳味噌で一杯詰つてゐるとしか考へられないのである。話をすると、平民の通る大通りを半町位しか付いて来ない。たまに横町へでも曲ると、すぐ迷児になつて仕舞ふ。論理の地盤を竪に切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。彼の神経系に至つては猶更粗末である。恰も荒縄で組み立てられたるかの感が起る。代助は此青年の生活状態を観察して、彼は必竟何の為に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さへある。それでゐて彼は平気にのらくらしてゐる。しかも此のらくらを以て、暗に自分の態度と同一型に属するものと心得て、中々得意に振舞たがる。其上頑強一点張りの肉体を笠に着て、却つて主人の神経的な局所へ肉薄して来る。自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払ふ租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族となつた報に受る不文の刑罰である。是等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に為れた。否、ある時は是等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さへある。門野にはそんな事は丸で分らない。
「門野さん、郵便は来て居なかつたかね」
「郵便ですか。斯うつと。来てゐました。端書と封書が。机の上に置きました。持つて来ますか」
「いや、僕が彼方へ行つても可い」
歯切れのわるい返事なので、門野はもう立つて仕舞つた。さうして端書と郵便を持つて来た。端書は、今日二時東京着、たゞちに表面へ投宿、取敢へず御報、明日午前会ひたし、と薄墨の走り書の簡単極るもので、表に裏神保町の宿屋の名と平岡常次郎といふ差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。
「もう来たのか、昨日着いたんだな」と独り言の様に云ひながら、封書の方を取り上げると、是は親爺の手蹟である。二三日前帰つて来た。急ぐ用事でもないが、色々話しがあるから、此手紙が着いたら来てくれろと書いて、あとには京都の花がまだ早かつたの、急行列車が一杯で窮屈だつた抔といふ閑文字が数行列ねてある。代助は封書を巻きながら、妙な顔をして、両方見較べてゐた。
「君、電話を掛けて呉れませんか。家へ」
「はあ、御宅へ。何て掛けます」
「今日は約束があつて、待ち合せる人があるから上がれないつて。明日か明後日屹度伺ひますからつて」
「はあ。何方に」
「親爺が旅行から帰つて来て、話があるから一寸来いつて云ふんだが、──何親爺を呼び出さないでも可いから、誰にでも左様云つて呉れ給へ」
「はあ」
門野は無雑作に出て行つた。代助は茶の間から、座敷を通つて書斎へ帰つた。見ると、奇麗に掃除が出来てゐる。落椿も何所かへ掃き出されて仕舞つた。代助は花瓶の右手にある組み重ねの書棚の前へ行つて、上に載せた重い写真帖を取り上げて、立ちながら、金の留金を外して、一枚二枚と繰り始めたが、中頃迄来てぴたりと手を留めた。其所には廿歳位の女の半身がある。代助は眼を俯せて凝と女の顔を見詰めてゐた。
着物でも着換へて、此方から平岡の宿を訪ね様かと思つてゐる所へ、折よく先方から遣つて来た。車をがら〳〵と門前迄乗り付けて、此所だ〳〵と梶棒を下さした声は慥かに三年前分れた時そつくりである。玄関で、取次の婆さんを捕まへて、宿へ蟇口を忘れて来たから、一寸二十銭借してくれと云つた所などは、どうしても学校時代の平岡を思ひ出さずにはゐられない。代助は玄関迄馳け出して行つて、手を執らぬ許りに旧友を座敷へ上げた。
「何うした。まあ緩くりするが好い」
「おや、椅子だね」と云ひながら平岡は安楽椅子へ、どさりと身体を投げ掛けた。十五貫目以上もあらうと云ふわが肉に、三文の価値を置いてゐない様な扱かひ方に見えた。それから椅子の脊に坊主頭を靠たして、一寸部屋の中を見廻しながら、
「中々、好い家だね。思つたより好い」と賞めた。代助は黙つて巻莨入の蓋を開けた。
「それから、以後何うだい」
「何うの、斯うのつて、──まあ色々話すがね」
「もとは、よく手紙が来たから、様子が分つたが、近頃ぢや些とも寄さないもんだから」
「いや何所も彼所も御無沙汰で」と平岡は突然眼鏡を外して、脊広の胸から皺だらけの手帛を出して、眼をぱち〳〵させながら拭き始めた。学校時代からの近眼である。代助は凝と其様子を眺めてゐた。
「僕より君はどうだい」と云ひながら、細い蔓を耳の後へ絡みつけに、両手で持つて行つた。
「僕は相変らずだよ」
「相変らずが一番好いな。あんまり相変るものだから」
そこで平岡は八の字を寄せて、庭の模様を眺め出したが、不意に語調を更へて、
「やあ、桜がある。今漸やく咲き掛けた所だね。余程気候が違ふ」と云つた。話の具合が何だか故の様にしんみりしない。代助も少し気の抜けた風に、
「向ふは大分暖かいだらう」と序同然の挨拶をした。すると、今度は寧ろ法外に熱した具合で、
「うん、大分暖かい」と力の這入つた返事があつた。恰も自己の存在を急に意識して、はつと思つた調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。平岡は巻莨に火を点けた。其時婆さんが漸く急須に茶を注れて持つて出た。今しがた鉄瓶に水を射して仕舞つたので、煮立るのに暇が入つて、つい遅くなつて済みませんと言訳をしながら、洋卓の上へ盆を載せた。二人は婆さんの喋舌てる間、紫檀の盆を見て黙つてゐた。婆さんは相手にされないので、独りで愛想笑ひをして座敷を出た。
「ありや何だい」
「婆さんさ。雇つたんだ。飯を食はなくつちやならないから」
「御世辞が好いね」
代助は赤い唇の両端を、少し弓なりに下の方へ彎げて蔑む様に笑つた。
「今迄斯んな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」
「君の家から誰か連れて呉れば好いのに。大勢ゐるだらう」
「みんな若いの許りでね」と代助は真面目に答へた。平岡は此時始めて声を出して笑つた。
「若けりや猶結構ぢやないか」
「兎に角家の奴は好くないよ」
「あの婆さんの外に誰かゐるのかい」
「書生が一人ゐる」
門野は何時の間にか帰つて、台所の方で婆さんと話をしてゐた。
「それ限りかい」
「それ限りだ。何故」
「細君はまだ貰はないのかい」
代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になつた。
「妻を貰つたら、君の所へ通知位する筈ぢやないか。夫よりか君の」と云ひかけて、ぴたりと已めた。
代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して後、一年間といふものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。其時分は互に凡てを打ち明けて、互に力に為り合ふ様なことを云ふのが、互に娯楽の尤もなるものであつた。この娯楽が変じて実行となつた事も少なくないので、彼等は双互の為めに口にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでゐると確信してゐた。さうして其犠牲を即座に払へば、娯楽の性質が、忽然苦痛に変ずるものであると云ふ陳腐な事実にさへ気が付かずにゐた。一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の勤めてゐる銀行の、京坂地方のある支店詰になつた。代助は、出立の当時、新夫婦を新橋の停車場に送つて、愉快さうに、直帰つて来給へと平岡の手を握つた。平岡は、仕方がない、当分辛抱するさと打遣る様に云つたが、其眼鏡の裏には得意の色が羨ましい位動いた。それを見た時、代助は急に此友達を憎らしく思つた。家へ帰つて、一日部屋に這入つたなり考へ込んでゐた。嫂を連れて音楽会へ行く筈の所を断わつて、大いに嫂に気を揉ました位である。
平岡からは断えず音信があつた。安着の端書、向ふで世帯を持つた報知、それが済むと、支店勤務の模様、自己将来の希望、色々あつた。手紙の来るたびに、代助は何時も丁寧な返事を出した。不思議な事に、代助が返事を書くときは、何時でも一種の不安に襲はれる。たまには我慢するのが厭になつて、途中で返事を已めて仕舞ふ事がある。たゞ平岡の方から、自分の過去の行為に対して、幾分か感謝の意を表して来る場合に限つて、安々と筆が動いて、比較的なだらかな返事が書けた。
そのうち段々手紙の遣り取りが疎遠になつて、月に二遍が、一遍になり、一遍が又二月、三月に跨がる様に間を置いて来ると、今度は手紙を書かない方が、却つて不安になつて、何の意味もないのに、只この感じを駆逐する為に封筒の糊を湿す事があつた。それが半年ばかり続くうちに、代助の頭も胸も段々組織が変つて来る様に感ぜられて来た。此変化に伴つて、平岡へは手紙を書いても書かなくつても、丸で苦痛を覚えない様になつて仕舞つた。現に代助が一戸を構へて以来、約一年余と云ふものは、此春年賀状の交換のとき、序を以て、今の住所を知らした丈である。
それでも、ある事情があつて、平岡の事は丸で忘れる訳には行かなかつた。時々思ひ出す。さうして今頃は何うして暮してゐるだらうと、色々に想像して見る事がある。然したゞ思ひ出す丈で、別段問ひ合せたり聞き合せたりする程に、気を揉む勇気も必要もなく、今日迄過して来た所へ、二週間前に突然平岡からの書信が届いたのである。其手紙には近々当地を引き上げて、御地へまかり越す積りである。但し本店からの命令で、栄転の意味を含んだ他動的の進退と思つてくれては困る。少し考があつて、急に職業替をする気になつたから、着京の上は何分宜しく頼むとあつた。此何分宜しく頼むの頼むは本当の意味の頼むか、又は単に辞令上の頼むか不明だけれども、平岡の一身上に急劇な変化のあつたのは争ふべからざる事実である。代助は其時はつと思つた。
それで、逢ふや否や此変動の一部始終を聞かうと待設けて居たのだが、不幸にして話が外れて容易に其所へ戻つて来ない。折を見て此方から持ち掛けると、まあ緩つくり話すとか何とか云つて、中々埒を開けない。代助は仕方なしに、仕舞に、
「久し振りだから、其所いらで飯でも食はう」と云ひ出した。平岡は、それでも、まだ、何れ緩くりを繰返したがるのを、無理に引張つて、近所の西洋料理へ上つた。
両人は其所で大分飲んだ。飲む事と食ふ事は昔の通りだねと言つたのが始りで、硬い舌が段々弛んで来た。代助は面白さうに、二三日前自分の観に行つた、ニコライの復活祭の話をした。御祭が夜の十二時を相図に、世の中の寐鎮まる頃を見計つて始る。参詣人が長い廊下を廻つて本堂へ帰つて来ると、何時の間にか幾千本の蝋燭が一度に点いてゐる。法衣を着た坊主が行列して向ふを通るときに、黒い影が、無地の壁へ非常に大きく映る。──平岡は頬杖を突いて、眼鏡の奥の二重瞼を赤くしながら聞いてゐた。代助はそれから夜の二時頃広い御成街道を通つて、深夜の鉄軌が、暗い中を真直に渡つてゐる上を、たつた一人上野の森迄来て、さうして電燈に照らされた花の中に這入つた。
「人気のない夜桜は好いもんだよ」と云つた。平岡は黙つて盃を干したが、一寸気の毒さうに口元を動かして、
「好いだらう、僕はまだ見た事がないが。──然し、そんな真似が出来る間はまだ気楽なんだよ。世の中へ出ると、中々それ所ぢやない」と暗に相手の無経験を上から見た様な事を云つた。代助には其調子よりも其返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に於て有意義なものと考へてゐる。其所でこんな答をした。
「僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思つてゐる。苦痛がある丈ぢやないか」
平岡は酔つた眼を心持大きくした。
「大分考へが違つて来た様だね。──けれども其苦痛が後から薬になるんだつて、もとは君の持説ぢやなかつたか」
「そりや不見識な青年が、流俗の諺に降参して、好加減な事を云つてゐた時分の持説だ。もう、とつくに撤回しちまつた」
「だつて、君だつて、もう大抵世の中へ出なくつちやなるまい。其時それぢや困るよ」
「世の中へは昔から出てゐるさ。ことに君と分れてから、大変世の中が広くなつた様な気がする。たゞ君の出てゐる世の中とは種類が違ふ丈だ」
「そんな事を云つて威張つたつて、今に降参する丈だよ」
「無論食ふに困る様になれば、何時でも降参するさ。然し今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を嘗めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」
平岡の眉の間に、一寸不快の色が閃めいた。赤い眼を据ゑてぷか〳〵烟草を吹かしてゐる。代助は、ちと云ひ過ぎたと思つて、少し調子を穏やかにした。──
「僕の知つたものに、丸で音楽の解らないものがある。学校の教師をして、一軒ぢや飯が食へないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやつてゐるが、そりや気の毒なもんで、下読をするのと、教場へ出て器械的に口を動かしてゐるより外に全く暇がない。たまの日曜抔は骨休めとか号して一日ぐう〳〵寐てゐる。だから何所に音楽会があらうと、どんな名人が外国から来やうと聞に行く機会がない。つまり楽といふ一種の美くしい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちやならない。僕から云はせると、是程憐れな無経験はないと思ふ。麺麭に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちやんだと考へてるらしいが、僕の住んでゐる贅沢な世界では、君よりずつと年長者の積りだ」
平岡は巻莨の灰を、皿の上にはたきながら、沈んだ暗い調子で、
「うん、何時迄もさう云ふ世界に住んでゐられゝば結構さ」と云つた。其重い言葉の足が、富に対する一種の呪咀を引き摺つてゐる様に聴えた。
両人は酔つて、戸外へ出た。酒の勢で変な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも発展せずにゐる。
「少し歩かないか」と代助が誘つた。平岡も口程忙がしくはないと見えて、生返事をしながら、一所に歩を運んで来た。通を曲つて横町へ出て、成る可く、話の為好い閑な場所を撰んで行くうちに、何時か緒口が付いて、思ふあたりへ談柄が落ちた。
平岡の云ふ所によると、赴任の当時彼は事務見習のため、地方の経済状況取調のため、大分忙がしく働らいて見た。出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しやうと思つた位であつたが、地位が夫程高くないので、已を得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に頭の中に入れて置いた。尤も始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、何時も取り合はなかつた。六づかしい理窟抔を持ち出すと甚だ御機嫌が悪い。青二才に何が分るものかと云ふ様な風をする。其癖自分は実際何も分つて居ないらしい。平岡から見ると、其相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくつて、寧ろ相手にするのが怖いからの様に思はれた。其所に平岡の癪はあつた。衝突しかけた事も一度や二度ではない。
けれども、時日を経過するに従つて、肝癪が何時となく薄らいできて、次第に自分の頭が、周囲の空気と融和する様になつた。又成るべくは、融和する様に力めた。それにつれて、支店長の自分に対する態度も段々変つて来た。時々は向ふから相談をかける事さへある。すると学校を出たての平岡でないから、先方に解らない、且つ都合のわるいことは成るべく云はない様にして置く。
「無暗に御世辞を使つたり、胡麻を摺るのとは違ふが」と平岡はわざ〳〵断つた。代助は真面目な顔をして、「そりや無論さうだらう」と答へた。
支店長は平岡の未来の事に就て、色々心配してくれた。近いうちに本店に帰る番に中つてゐるから、其時は一所に来給へ抔と冗談半分に約束迄した。其頃は事務にも慣れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし、勉強をする暇が自然となくなつて、又勉強が却つて実務の妨をする様に感ぜられて来た。
支店長が、自分に万事を打ち明ける如く、自分は自分の部下の関といふ男を信任して、色々と相談相手にして居つた。所が此男がある芸妓と関係つて、何時の間にか会計に穴を明けた。それが曝露したので、本人は無論解雇しなければならないが、ある事情からして、放つて置くと、支店長に迄多少の煩が及んで来さうだつたから、其所で自分が責を引いて辞職を申し出た。
平岡の語る所は、ざつと斯うであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決を促がされた様にも聞えた。それは平岡の話しの末に「会社員なんてものは、上になればなる程旨い事が出来るものでね。実は関なんて、あれつ許の金を使ひ込んで、すぐ免職になるのは気の毒な位なものさ」といふ句があつたのから推したのである。
「ぢや支店長は一番旨い事をしてゐる訳だね」と代助が聞いた。
「或はそんなものかも知れない」と平岡は言葉を濁して仕舞つた。
「それで其男の使ひ込んだ金は何うした」
「千に足らない金だつたから、僕が出して置いた」
「よく有つたね。君も大分旨い事をしたと見える」
平岡は苦い顔をして、ぢろりと代助を見た。
「旨い事をしたと仮定しても、皆使つて仕舞つてゐる。生活にさへ足りない位だ。其金は借りたんだよ」
「さうか」と代助は落ち付き払つて受けた。代助は何んな時でも平生の調子を失はない男である。さうして其調子には低く明らかなうちに一種の丸味が出てゐる。
「支店長から借りて埋めて置いた」
「何故支店長がぢかに其関とか何とか云ふ男に貸して遣らないのかな」
平岡は何とも答へなかつた。代助も押しては聞かなかつた。二人は無言の儘しばらくの間並んで歩いて行つた。
代助は平岡が語つたより外に、まだ何かあるに違ないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んで飽迄其真相を研究する程の権利を有つてゐないことを自覚してゐる。又そんな好奇心を引き起すには、実際あまり都会化し過ぎてゐた。二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既に nil admirari の域に達して仕舞つた。彼の思想は、人間の暗黒面に出逢つて喫驚する程の山出ではなかつた。彼の神経は斯様に陳腐な秘密を嗅いで嬉しがる様に退屈を感じてはゐなかつた。否、是より幾倍か快よい刺激でさへ、感受するを甘んぜざる位、一面から云へば、困憊してゐた。
代助は平岡のそれとは殆んど縁故のない自家特有の世界の中で、もう是程に進化──進化の裏面を見ると、何時でも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象だが──してゐたのである。それを平岡は全く知らない。代助をもつて、依然として旧態を改めざる三年前の初心と見てゐるらしい。かう云ふ御坊つちやんに、洗ひ浚ひ自分の弱点を打ち明けては、徒らに馬糞を投げて、御嬢さまを驚ろかせると同結果に陥いり易い。余計な事をして愛想を尽かされるよりは黙つてゐる方が安全だ。──代助には平岡の腹が斯う取れた。それで平岡が自分に返事もせずに無言で歩いて行くのが、何となく馬鹿らしく見えた。平岡が代助を小供視する程度に於て、あるひは其れ以上の程度に於て、代助は平岡を小供視し始めたのである。けれども両人が十五六間過ぎて、又話を遣り出した時は、どちらにも、そんな痕迹は更になかつた。最初に口を切つたのは代助であつた。
「それで、是から先何うする積かね」
「さあ」
「矢っ張り今迄の経験もあるんだから、同じ職業が可いかも知れないね」
「さあ。事情次第だが。実は緩くり君に相談して見様と思つてゐたんだが。何うだらう、君の兄さんの会社の方に口はあるまいか」
「うん、頼んで見様、二三日内に家へ行く用があるから。然し何うかな」
「もし、実業の方が駄目なら、どつか新聞へでも這入らうかと思ふ」
「夫も好いだらう」
両人は又電車の通る通へ出た。平岡は向ふから来た電車の軒を見てゐたが、突然是に乗つて帰ると云ひ出した。代助はさうかと答へた儘、留めもしない、と云つて直分れもしなかつた。赤い棒の立つてゐる停留所迄歩いて来た。そこで、
「三千代さんは何うした」と聞いた。
「難有う、まあ相変らずだ。君に宜しく云つてゐた。実は今日連れて来やうと思つたんだけれども、何だか汽車に揺れたんで頭が悪いといふから宿屋へ置いて来た」
電車が二人の前で留まつた。平岡は二三歩早足に行きかけたが、代助から注意されて已めた。彼の乗るべき車はまだ着かなかつたのである。
「子供は惜しい事をしたね」
「うん。可哀想な事をした。其節は又御叮嚀に難有う。どうせ死ぬ位なら生れない方が好かつた」
「其後は何うだい。まだ後は出来ないか」
「うん、未だにも何にも、もう駄目だらう。身体があんまり好くないものだからね」
「こんなに動く時は小供のない方が却つて便利で可いかも知れない」
「夫もさうさ。一層君の様に一人身なら、猶の事、気楽で可いかも知れない」
「一人身になるさ」
「冗談云つてら──夫よりか、妻が頻りに、君はもう奥さんを持つたらうか、未だだらうかつて気にしてゐたぜ」
所へ電車が来た。
代助の父は長井得といつて、御維新のとき、戦争に出た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きてゐる。役人を已めてから、実業界に這入つて、何か彼かしてゐるうちに、自然と金が貯つて、此十四五年来は大分の財産家になつた。
誠吾と云ふ兄がある。学校を卒業してすぐ、父の関係してゐる会社へ出たので、今では其所で重要な地位を占める様になつた。梅子といふ夫人に、二人の子供が出来た。兄は誠太郎と云つて十五になる。妹は縫といつて三つ違である。
誠吾の外に姉がまだ一人あるが、是はある外交官に嫁いで、今は夫と共に西洋にゐる。誠吾と此姉の間にもう一人、それから此姉と代助の間にも、まだ一人兄弟があつたけれども、それは二人とも早く死んで仕舞つた。母も死んで仕舞つた。
代助の一家は是丈の人数から出来上つてゐる。そのうちで外へ出てゐるものは、西洋に行つた姉と、近頃一戸を構へた代助ばかりだから、本家には大小合せて四人残る訳になる。
代助は月に一度は必ず本家へ金を貰ひに行く。代助は親の金とも、兄の金ともつかぬものを使つて生きてゐる。月に一度の外にも、退屈になれば出掛けて行く。さうして子供に調戯つたり、書生と五目並をしたり、嫂と芝居の評をしたりして帰つて来る。
代助は此嫂を好いてゐる。此嫂は、天保調と明治の現代調を、容赦なく継ぎ合せた様な一種の人物である。わざ〳〵仏蘭西にゐる義妹に注文して、六づかしい名のつく、頗る高価な織物を取寄せて、それを四五人で裁つて、帯に仕立てゝ着て見たり何かする。後で、それは日本から輸出したものだと云ふ事が分つて大笑ひになつた。三越陳列所へ行つて、それを調べて来たものは代助である。夫から西洋の音楽が好きで、よく代助に誘ひ出されて聞に行く。さうかと思ふと易断に非常な興味を有つてゐる。石龍子と尾島某を大いに崇拝する。代助も二三度御相伴に、俥で易者の許迄食付いて行つた事がある。
誠太郎と云ふ子は近頃ベースボールに熱中してゐる。代助が行つて時々球を投げてやる事がある。彼は妙な希望を持つた子供である。毎年夏の初めに、多くの焼芋屋が俄然として氷水屋に変化するとき、第一番に馳けつけて、汗も出ないのに、氷菓を食ふものは誠太郎である。氷菓がないときには、氷水で我慢する。さうして得意になつて帰つて来る。近頃では、もし相撲の常設館が出来たら、一番先へ這入つて見たいと云つてゐる。叔父さん誰か相撲を知りませんかと代助に聞いた事がある。
縫といふ娘は、何か云ふと、好くつてよ、知らないわと答へる。さうして日に何遍となくリボンを掛け易へる。近頃はヷイオリンの稽古に行く。帰つて来ると、鋸の目立ての様な声を出して御浚ひをする。たゞし人が見てゐると決して遣らない。室を締め切つて、きい〳〵云はせるのだから、親は可なり上手だと思つてゐる。代助丈が時々そつと戸を明けるので、好くつてよ、知らないわと叱られる。
兄は大抵不在勝である。ことに忙がしい時になると、家で食ふのは朝食位なもので、あとは、何うして暮してゐるのか、二人の子供には全く分らない。同程度に於て代助にも分らない。是は分らない方が好ましいので、必要のない限りは、兄の日々の戸外生活に就て決して研究しないのである。
代助は二人の子供に大変人望がある。嫂にも可なりある。兄には、あるんだか、ないんだか分らない。会に兄と弟が顔を合せると、たゞ浮世話をする。双方とも普通の顔で、大いに平気で遣つてゐる。陳腐に慣れ抜いた様子である。
代助の尤も応へるのは親爺である。好い年をして、若い妾を持つてゐるが、それは構はない。代助から云ふと寧ろ賛成な位なもので、彼は妾を置く余裕のないものに限つて、蓄妾の攻撃をするんだと考へてゐる。親爺は又大分の八釜し屋である。小供のうちは心魂に徹して困却した事がある。しかし成人の今日では、それにも別段辟易する必要を認めない。たゞ応へるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方共大した変りはないと信じてゐる事である。それだから、自分の昔し世に処した時の心掛けでもつて、代助も遣らなくつては、嘘だといふ論理になる。尤も代助の方では、何が嘘ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩にはならない。代助は小供の頃非常な肝癪持で、十八九の時分親爺と組打をした事が一二返ある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、此肝癪がぱたりと已んで仕舞つた。それから以後ついぞ怒つた試しがない。親爺はこれを自分の薫育の効果と信じてひそかに誇つてゐる。
実際を云ふと親爺の所謂薫育は、此父子の間に纏綿する暖かい情味を次第に冷却せしめた丈である。少なくとも代助はさう思つてゐる。所が親爺の腹のなかでは、それが全く反対に解釈されて仕舞つた。何をしやうと血肉の親子である。子が親に対する天賦の情合が、子を取扱ふ方法の如何に因つて変る筈がない。教育の為め、少しの無理はしやうとも、其結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒教の感化を受けた親爺は、固く斯う信じてゐた。自分が代助に存在を与へたといふ単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考へた親爺は、その信念をもつて、ぐん〳〵押して行つた。さうして自分に冷淡な一個の息子を作り上げた。尤も代助の卒業前後からは其待遇法も大分変つて来て、ある点から云へば、驚ろく程寛大になつた所もある。然しそれは代助が生れ落ちるや否や、此親爺が代助に向つて作つたプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかつたのである。自分の教育が代助に及ぼした悪結果に至つては、今に至つて全く気が付かずにゐる。
親爺は戦争に出たのを頗る自慢にする。稍もすると、御前抔はまだ戦争をした事がないから、度胸が据らなくつて不可んと一概にけなして仕舞ふ。恰も度胸が人間至上な能力であるかの如き言草である。代助はこれを聞かせられるたんびに厭な心持がする。胆力は命の遣り取りの劇しい、親爺の若い頃の様な野蛮時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云へば、古風な弓術撃剣の類と大差はない道具と、代助は心得てゐる。否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有がつて然るべき能力が沢山ある様に考へられる。御父さんから又胆力の講釈を聞いた。御父さんの様に云ふと、世の中で石地蔵が一番偉いことになつて仕舞ふ様だねと云つて、嫂と笑つた事がある。
斯う云ふ代助は無論臆病である。又臆病で恥づかしいといふ気は心から起らない。ある場合には臆病を以て自任したくなる位である。子供の時、親爺の使嗾で、夜中にわざ〳〵青山の墓地迄出掛けた事がある。気味のわるいのを我慢して一時間も居たら、たまらなくなつて、蒼青な顔をして家へ帰つて来た。其折は自分でも残念に思つた。あくる朝親爺に笑はれたときは、親爺が憎らしかつた。親爺の云ふ所によると、彼と同時代の少年は、胆力修養の為め、夜半に結束して、たつた一人、御城の北一里にある剣が峰の天頂迄登つて、其所の辻堂で夜明をして、日の出を拝んで帰つてくる習慣であつたさうだ。今の若いものとは心得方からして違ふと親爺が批評した。
斯んな事を真面目に口にした、又今でも口にしかねまじき親爺は気の毒なものだと、代助は考へる。彼は地震が嫌である。瞬間の動揺でも胸に波が打つ。あるときは書斎で凝と坐つてゐて、何かの拍子に、あゝ地震が遠くから寄せて来るなと感ずる事がある。すると、尻の下に敷いてゐる坐蒲団も、畳も、乃至床板も明らかに震へる様に思はれる。彼はこれが自分の本来だと信じてゐる。親爺の如きは、神経未熟の野人か、然らずんば己れを偽はる愚者としか代助には受け取れないのである。
代助は今此親爺と対坐してゐる。廂の長い小さな部屋なので、居ながら庭を見ると、廂の先で庭が仕切られた様な感がある。少なくとも空は広く見えない。其代り静かで、落ち付いて、尻の据り具合が好い。
親爺は刻み烟草を吹かすので、手のある長い烟草盆を前へ引き付けて、時々灰吹をぽん〳〵と叩く。それが静かな庭へ響いて好い音がする。代助の方は金の吸口を四五本手烙の中へ並べた。もう鼻から烟を出すのが厭になつたので、腕組をして親爺の顔を眺めてゐる。其顔には年の割に肉が多い。それでゐて頬は痩けてゐる。濃い眉の下に眼の皮が弛んで見える。髭は真白と云はんよりは、寧ろ黄色である。さうして、話をするときに相手の膝頭と顔とを半々に見較べる癖がある。其時の眼の動かし方で、白眼が一寸ちらついて、相手に妙な心持をさせる。
老人は今斯んな事を云つてゐる。──
「さう人間は自分丈を考へるべきではない。世の中もある。国家もある。少しは人の為に何かしなくつては心持のわるいものだ。御前だつて、さう、ぶら〳〵してゐて心持の好い筈はなからう。そりや、下等社会の無教育のものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んで居て面白い理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が出るものだからな」
「左様です」と代助は答へてゐる。親爺から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云ふ習慣になつてゐる。代助に云はせると、親爺の考は、万事中途半端に、或物を独り勝手に断定してから出立するんだから、毫も根本的の意義を有してゐない。しかのみならず、今利他本位でやつてるかと思ふと、何時の間にか利己本位に変つてゐる。言葉丈は滾々として、勿体らしく出るが、要するに端倪すべからざる空談である。それを基礎から打ち崩して懸かるのは大変な難事業だし、又必竟出来ない相談だから、始めより成るべく触らない様にしてゐる。所が親爺の方では代助を以て無論自己の太陽系に属すべきものと心得てゐるので、自己は飽までも代助の軌道を支配する権利があると信じて押して来る。そこで代助も已を得ず親爺といふ老太陽の周囲を、行儀よく廻転する様に見せてゐる。
「それは実業が厭なら厭で好い。何も金を儲ける丈が日本の為になるとも限るまいから。金は取らんでも構はない。金の為に兎や角云ふとなると、御前も心持がわるからう。金は今迄通り己が補助して遣る。おれも、もう何時死ぬか分らないし、死にや金を持つて行く訳にも行かないし。月々御前の生計位どうでもしてやる。だから奮発して何か為るが好い。国民の義務としてするが好い。もう三十だらう」
「左様です」
「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」
代助は決してのらくらして居るとは思はない。たゞ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈である。親爺が斯んな事を云ふたびに、実は気の毒になる。親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつゝある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出してゐるのが、全く映らないのである。仕方がないから、真面目な顔をして、
「えゝ、困ります」と答へた。老人は頭から代助を小僧視してゐる上に、其返事が何時でも幼気を失はない、簡単な、世帯離れをした文句だものだから、馬鹿にするうちにも、どうも坊ちやんは成人しても仕様がない、困つたものだと云ふ気になる。さうかと思ふと、代助の口調が如何にも平気で、冷静で、はにかまず、もぢ付かず尋常極まつてゐるので、此奴は手の付け様がないといふ気にもなる。
「身体は丈夫だね」
「二三年このかた風邪を引いた事もありません」
「頭も悪い方ぢやないだらう。学校の成蹟も可なりだつたんぢやないか」
「まあ左様です」
「夫で遊んでゐるのは勿体ない。あの何とか云つたね、そら御前の所へ善く話しに来た男があるだらう。己も一二度逢つたことがある」
「平岡ですか」
「さう平岡。あの人なぞは、あまり出来の可い方ぢやなかつたさうだが、卒業すると、すぐ何処かへ行つたぢやないか」
「其代り失敗て、もう帰つて来ました」
老人は苦笑を禁じ得なかつた。
「どうして」と聞いた。
「詰り食ふ為に働らくからでせう」
老人には此意味が善く解らなかつた。
「何か面白くない事でも遣つたのかな」と聞き返した。
「其場合々々で当然の事を遣るんでせうけれども、其当然が矢っ張り失敗になるんでせう」
「はあゝ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を易へて、説き出した。
「若い人がよく失敗といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ。己も多年の経験で、此年になる迄遣つて来たが、どうしても此二つがないと成功しないね」
「誠実と熱心があるために、却つて遣り損ふこともあるでせう」
「いや、先ないな」
親爺の頭の上に、誠者天之道也と云ふ額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰つたとか云つて、親爺は尤も珍重してゐる。代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの後へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする。
其昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に当つた長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、刀を脱いで其前に頭を下げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。固より返せるか、返せないか、分らなかつたんだから、分らないと真直に自白して、それがために其時成功した。その因縁で此額を藩主に書いて貰つたんである。爾来長井は何時でも、之を自分の居間に掛けて朝夕眺めてゐる。代助は此額の由来を何遍聞かされたか知れない。
今から十五六年前に、旧藩主の家で、月々の支出が嵩んできて、折角持ち直した経済が又崩れ出した時にも、長井は前年の手腕によつて、再度の整理を委託された。其時長井は自分で風呂の薪を焚いて見て、実際の消費高と帳面づらの消費高との差違から調べにかゝつたが、終日終夜この事丈に精魂を打ち込んだ結果は、約一ヶ月内に立派な方法を立て得るに至つた。それより以後藩主の家では比較的豊かな生計をしてゐる。
斯う云ふ過去の歴史を持つてゐて、此過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない長井は、何によらず、誠実と熱心へ持つて行きたがる。
「御前は、どう云ふものか、誠実と熱心が欠けてゐる様だ。それぢや不可ん。だから何にも出来ないんだ」
「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」
「何う云ふ訳で」
代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合の奴を胸に蓄はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花の出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪くつては起り様がない。
「御父さんは論語だの、王陽明だのといふ、金の延金を呑んで入らつしやるから、左様いふ事を仰しやるんでせう」
「金の延金とは」
代助はしばらく黙つてゐたが、漸やく、
「延金の儘出て来るんです」と云つた。長井は、書物癖のある、偏窟な、世慣れない若輩のいひたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘はらず、取り合ふ事を敢てしなかつた。
それから約四十分程して、老人は着物を着換えて、袴を穿いて、俥に乗つて、何処かへ出て行つた。代助も玄関迄送つて出たが、又引き返して客間の戸を開けて中へ這入つた。是は近頃になつて建て増した西洋作りで、内部の装飾其他の大部分は、代助の意匠に本づいて、専門家へ注文して出来上つたものである。ことに欄間の周囲に張つた模様画は、自分の知り合ひの去る画家に頼んで、色々相談の揚句に成つたものだから、特更興味が深い。代助は立ちながら、画巻物を展開した様な、横長の色彩を眺めてゐたが、どう云ふものか、此前来て見た時よりは、痛く見劣りがする。是では頼もしくないと思ひながら、猶局部々々に眼を付けて吟味してゐると、突然嫂が這入つて来た。
「おや、此所に入らつしやるの」と云つたが、「一寸其所らに私の櫛が落ちて居なくつて」と聞いた。櫛は長椅子の足の所にあつた。昨日縫子に貸して遣つたら、何所かへ失なして仕舞つたんで、探しに来たんださうである。両手で頭を抑へる様にして、櫛を束髪の根方へ押し付けて、上眼で代助を見ながら、
「相変らず茫乎してるぢやありませんか」と調戯つた。
「御父さんから御談義を聞かされちまつた」
「また? 能く叱られるのね。御帰り匆々、随分気が利かないわね。然し貴方もあんまり、好かないわ。些とも御父さんの云ふ通りになさらないんだもの」
「御父さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目に大人しくしてゐるんです」
「だから猶始末が悪いのよ。何か云ふと、へい〳〵つて、さうして、些とも云ふ事を聞かないんだもの」
代助は苦笑して黙つて仕舞つた。梅子は代助の方へ向いて、椅子へ腰を卸した。脊のすらりとした、色の浅黒い、眉の濃い、唇の薄い女である。
「まあ、御掛けなさい。少し話し相手になつて上げるから」
代助は矢っ張り立つた儘、嫂の姿を見守つてゐた。
「今日は妙な半襟を掛けてますね」
「これ?」
梅子は顎を縮めて、八の字を寄せて、自分の襦袢の襟を見やうとした。
「此間買つたの」
「好い色だ」
「まあ、そんな事は、何うでも可いから、其所へ御掛けなさいよ」
代助は嫂の真正面へ腰を卸した。
「へえ掛けました」
「一体今日は何を叱られたんです」
「何を叱られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父さんの国家社会の為に尽すには驚ろいた。何でも十八の年から今日迄のべつに尽してるんだつてね」
「それだから、あの位に御成りになつたんぢやありませんか」
「国家社会の為に尽して、金が御父さん位儲かるなら、僕も尽しても好い」
「だから遊んでないで、御尽しなさいな。貴方は寐てゐて御金を取らうとするから狡猾よ」
「御金を取らうとした事は、まだ有りません」
「取らうとしなくつても、使ふから同じぢやありませんか」
「兄さんが何とか云つてましたか」
「兄さんは呆れてるから、何とも云やしません」
「随分猛烈だな。然し御父さんより兄さんの方が偉いですね」
「何うして。──あら悪らしい、又あんな御世辞を使つて。貴方はそれが悪いのよ。真面目な顔をして他を茶化すから」
「左様なもんでせうか」
「左様なもんでせうかつて、他の事ぢやあるまいし。少しや考へて御覧なさいな」
「何うも此所へ来ると、丸で門野と同じ様になつちまふから困る」
「門野つて何です」
「なに宅にゐる書生ですがね。人に何か云はれると、屹度左様なもんでせうか、とか、左様でせうか、とか答へるんです」
「あの人が? 余っ程妙なのね」
代助は一寸話を已めて、梅子の肩越に、窓掛の間から、奇麗な空を透かす様に見てゐた。遠くに大きな樹が一本ある。薄茶色の芽を全体に吹いて、柔らかい梢の端が天に接く所は、糠雨で暈されたかの如くに霞んでゐる。
「好い気候になりましたね。何所か御花見にでも行きませうか」
「行きませう。行くから仰しやい」
「何を」
「御父さまから云はれた事を」
「云はれた事は色々あるんですが、秩序立てて繰り返すのは困るですよ。頭が悪いんだから」
「まだ空つとぼけて居らつしやる。ちやんと知つてますよ」
「ぢや、伺ひませうか」
梅子は少しつんとした。
「貴方は近頃余つ程減らず口が達者におなりね」
「何、姉さんが辟易する程ぢやない。──時に今日は大変静かですね。どうしました、小供達は」
「小供は学校です」
十六七の小間使が戸を開けて顔を出した。あの、旦那様が、奥様に一寸電話口迄と取り次いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて客間を出やうとすると、梅子は振り向いた。
「あなたは、其所に居らつしやい。少し話しがあるから」
代助には嫂のかう云ふ命令的の言葉が何時でも面白く感ぜられる。御緩と見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の画を眺め出した。しばらくすると、其色が壁の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の眼球の中から飛び出して、壁の上へ行つて、べた〳〵喰つ付く様に見えて来た。仕舞には眼球から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、此方の思ひ通りに変化出来る様になつた。代助はかくして、下手な個所々々を悉く塗り更へて、とう〳〵自分の想像し得る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と坐つてゐた。所へ梅子が帰つて来たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた。
梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、何づれも不合格者ばかりであつた。始めのうちは体裁の好い逃口上で断わつてゐたが、二年程前からは、急に図迂々々しくなつて、屹度相手にけちを付ける。口と顎の角度が悪いとか、眼の長さが顔の幅に比例しないとか、耳の位置が間違つてるとか、必ず妙な非難を持つて来る。それが悉く尋常な言草でないので、仕舞には梅子も少々考へ出した。是は必竟世話を焼き過ぎるから、付け上つて、人を困らせるのだらう。当分打遣つて置いて、向ふから頼み出させるに若くはない。と決心して、夫からは縁談の事をついぞ口にしなくなつた。所が本人は一向困つた様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日迄暮して来た。
其所へ親爺が甚だ因念の深いある候補者を見付けて、旅行先から帰つた。梅子は代助の来る二三日前に、其話を親爺から聞かされたので、今日の会談は必ずそれだらうと推したのである。然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、此日何にも聞かなかつたのである。老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ了見を起した結果、故意と話題を避けたとも取れる。
此候補者に対して代助は一種特殊な関係を有つてゐた。候補者の姓は知つてゐる。けれど名は知らない。年齢、容貌、教育、性質に至つては全く知らない。何故その女が候補者に立つたと云ふ因念になると又能く知つて居る。
代助の父には一人の兄があつた。直記と云つて、父とはたつた一つ違ひの年上だが、父よりは小柄なうへに、顔付眼鼻立が非常に似てゐたものだから、知らない人には往々双子と間違へられた。其折は父も得とは云はなかつた。誠之進といふ幼名で通つてゐた。
直記と誠之進とは外貌のよく似てゐた如く、気質も本当の兄弟であつた。両方に差支のあるときは特別、都合さへ付けば、同じ所に食つ付き合つて、同じ事をして暮してゐた。稽古も同時同刻に往き返りをする。読書にも一つ燈火を分つた位親しかつた。
丁度直記の十八の秋であつた。ある時二人は城下外の等覚寺といふ寺へ親の使に行つた。これは藩主の菩提寺で、そこにゐる楚水といふ坊さんが、二人の親とは昵近なので、用の手紙を、此楚水さんに渡しに行つたのである。用は囲碁の招待か何かで返事にも及ばない程簡略なものであつたが、楚水さんに留められて、色々話してゐるうちに遅くなつて、日の暮れる一時間程前に漸く寺を出た。その日は何か祭のある折で、市中は大分雑沓してゐた。二人は群集のなかを急いで帰る拍子に、ある横町を曲らうとする角で、川向ひの方限りの某といふものに突き当つた。此某と二人とは、かねてから仲が悪かつた。其時某は大分酒気を帯びてゐたと見えて、二言三言いひ争ふうちに刀を抜いて、いきなり斬り付けた。斬り付けられた方は兄であつた。已を得ず是も腰の物を抜いて立ち向つたが、相手は平生から極めて評判のわるい乱暴もの丈あつて、酩酊してゐるにも拘はらず、強かつた。黙つてゐれば兄の方が負ける。そこで弟も刀を抜いた。さうして二人で滅茶苦茶に相手を斬り殺して仕舞つた。
其頃の習慣として、侍が侍を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。兄弟は其覚悟で家へ帰つて来た。父も二人を並べて置いて順々に自分で介錯をする気であつた。所が母が生憎祭で知己の家へ呼ばれて留守である。父は二人に切腹をさせる前、もう一遍母に逢はしてやりたいと云ふ人情から、すぐ母を迎にやつた。さうして母の来る間、二人に訓戒を加へたり、或は切腹する座敷の用意をさせたり可成愚図々々してゐた。
母の客に行つてゐた所は、その遠縁にあたる高木といふ勢力家であつたので、大変都合が好かつた。と云ふのは、其頃は世の中の動き掛けた当時で、侍の掟も昔の様には厳重に行はれなかつた。殊更殺された相手は評判の悪い無頼の青年であつた。ので高木は母とともに長井の家へ来て、何分の沙汰が公向からある迄は、当分其儘にして、手を着けずに置くやうにと、父を諭した。
高木はそれから奔走を始めた。さうして第一に家老を説き付けた。それから家老を通して藩主を説き付けた。殺された某の親は又、存外訳の解つた人で、平生から倅の行跡の良くないのを苦に病んでゐたのみならず、斬り付けた当時も、此方から狼藉をしかけたと同然であるといふ事が明瞭になつたので、兄弟を寛大に処分する運動に就ては別段の苦情を持ち出さなかつた。兄弟はしばらく一間の内に閉ぢ籠つて、謹慎の意を表して後、二人とも人知れず家を捨てた。
三年の後兄は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となつた。又五六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。さうして妻を迎へて、得といふ一字名になつた。其時は自分の命を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になつてゐた。東京へ出て仕官の方法でも講じたらと思つて色々勧めて見たが応じなかつた。此養子に子供が二人あつて、男の方は京都へ出て同志社へ這入つた。其所を卒業してから、長らく亜米利加に居つたさうだが、今では神戸で実業に従事して、相当の資産家になつてゐる。女の方は県下の多額納税者の所へ嫁に行つた。代助の細君の候補者といふのは此多額納税者の娘である。
「大変込み入つてるのね。私驚ろいちまつた」と嫂が代助に云つた。
「御父さんから何返も聞いてるぢやありませんか」
「だつて、何時もは御嫁の話が出ないから、好い加減に聞いてるのよ」
「佐川にそんな娘があつたのかな。僕も些つとも知らなかつた」
「御貰なさいよ」
「賛成なんですか」
「賛成ですとも。因念つきぢやありませんか」
「先祖の拵らえた因念よりも、まだ自分の拵えた因念で貰ふ方が貰ひ好い様だな」
「おや、左様なのがあるの」
代助は苦笑して答へなかつた。
代助は今読み切つた許の薄い洋書を机の上に開けた儘、両肱を突いて茫乎考へた。代助の頭は最後の幕で一杯になつてゐる。──遠くの向ふに寒さうな樹が立つてゐる後に、二つの小さな角燈が音もなく揺めいて見えた。絞首台は其所にある。刑人は暗い所に立つた。木履を片足失くなした、寒いと一人が云ふと、何を? と一人が聞き直した。木履を失くなして寒いと前のものが同じ事を繰り返した。Mは何処にゐると誰か聞いた。此所にゐると誰か答へた。樹の間に大きな、白い様な、平たいものが見える。湿つぽい風が其所から吹いて来る。海だとGが云つた。しばらくすると、宣告文を書いた紙と、宣告文を持つた、白い手──手套を穿めない──を角燈が照らした。読上げんでも可からうといふ声がした。其の声は顫へてゐた。やがて角燈が消えた。……もう只一人になつたとKが云つた。さうして溜息を吐いた。Sも死んで仕舞つた。Wも死んで仕舞つた。Mも死んで仕舞つた。只一人になつて仕舞つた。……
海から日が上つた。彼等は死骸を一つの車に積み込んだ。さうして引き出した。長くなつた頸、飛び出した眼、唇の上に咲いた、怖ろしい花の様な血の泡に濡れた舌を積み込んで元の路へ引き返した。……
代助はアンドレーフの「七刑人」の最後の模様を、此所迄頭の中で繰り返して見て、竦と肩を縮めた。斯う云ふ時に、彼が尤も痛切に感ずるのは、万一自分がこんな場に臨んだら、どうしたら宜からうといふ心配である。考へると到底死ねさうもない。と云つて、無理にも殺されるんだから、如何にも残酷である。彼は生の慾望と死の圧迫の間に、わが身を想像して、未練に両方に往つたり来たりする苦悶を心に描き出しながら凝と坐つてゐると、脊中一面の皮が毛穴ごとにむづ〳〵して殆んど堪らなくなる。
彼の父は十七のとき、家中の一人を斬り殺して、それが為め切腹をする覚悟をしたと自分で常に人に語つてゐる。父の考では兄の介錯を自分がして、自分の介錯を祖父に頼む筈であつたさうだが、能くそんな真似が出来るものである。父が過去を語る度に、代助は父をえらいと思ふより、不愉快な人間だと思ふ。さうでなければ嘘吐だと思ふ。嘘吐の方がまだ余っ程父らしい気がする。
父許ではない。祖父に就ても、こんな話がある。祖父が若い時分、撃剣の同門の何とかといふ男が、あまり技芸に達してゐた所から、他の嫉妬を受けて、ある夜縄手道を城下へ帰る途中で、誰かに斬り殺された。其時第一に馳け付けたものは祖父であつた。左の手に提灯を翳して、右の手に抜身を持つて、其抜身で死骸を叩きながら、軍平確かりしろ、創は浅いぞと云つたさうである。
伯父が京都で殺された時は、頭巾を着た人間にどや〳〵と、旅宿に踏み込まれて、伯父は二階の廂から飛び下りる途端、庭石に爪付いて倒れる所を上から、容赦なく遣られた為に、顔が膾の様になつたさうである。殺される十日程前、夜中、合羽を着て、傘に雪を除けながら、足駄がけで、四条から三条へ帰つた事がある。其時旅宿の二丁程手前で、突然後から長井直記どのと呼び懸けられた。伯父は振り向きもせず、矢張り傘を差した儘、旅宿の戸口迄来て、格子を開けて中へ這入た。さうして格子をぴしやりと締めて、中から、長井直記は拙者だ。何御用か。と聞いたさうである。
代助は斯んな話を聞く度に、勇ましいと云ふ気持よりも、まづ怖い方が先に立つ。度胸を買つてやる前に、腥ぐさい臭が鼻柱を抜ける様に応へる。
もし死が可能であるならば、それは発作の絶高頂に達した一瞬にあるだらうとは、代助のかねて期待する所である。所が、彼は決して発作性の男でない。手も顫へる、足も顫へる。声の顫へる事や、心臓の飛び上がる事は始終ある。けれども、激する事は近来殆んどない。激すると云ふ心的状態は、死に近づき得る自然の階段で、激するたびに死に易くなるのは眼に見えてゐるから、時には好奇心で、せめて、其近所迄押し寄せて見たいと思ふ事もあるが、全く駄目である。代助は此頃の自己を解剖するたびに、五六年前の自己と、丸で違つてゐるのに驚ろかずにはゐられない。
代助は机の上の書物を伏せると立ち上がつた。縁側の硝子戸を細目に開けた間から暖かい陽気な風が吹き込んで来た。さうして鉢植のアマランスの赤い瓣をふら〳〵と揺かした。日は大きな花の上に落ちてゐる。代助は曲んで、花の中を覗き込んだ。やがて、ひよろ長い雄蕊の頂きから、花粉を取つて、雌蕊の先へ持つて来て、丹念に塗り付けた。
「蟻でも付きましたか」と門野が玄関の方から出て来た。袴を穿いてゐる。代助は曲んだ儘顔を上げた。
「もう行つて来たの」
「えゝ、行つて来ました。何ださうです。明日御引移りになるさうです。今日是から上がらうと思つてた所だと仰しやいました」
「誰が? 平岡が?」
「えゝ。──どうも何ですな。大分御忙がしい様ですな。先生た余つ程違つてますね。──蟻なら種油を御注ぎなさい。さうして苦しがつて、穴から出て来る所を一々殺すんです。何なら殺しませうか」
「蟻ぢやない。斯うして、天気の好い時に、花粉を取つて、雌蕊へ塗り付けて置くと、今に実が結るんです。暇だから植木屋から聞いた通り、遣つてる所だ」
「なある程。どうも重宝な世の中になりましたね。──然し盆栽は好いもんだ。奇麗で、楽しみになつて」
代助は面倒臭いから返事をせずに黙つてゐた。やがて、
「悪戯も好加減に休すかな」と云ひながら立ち上がつて、縁側へ据付の、籐の安楽椅子に腰を掛けた。夫れ限りぽかんと何か考へ込んでゐる。門野は詰らなくなつたから、自分の玄関傍の三畳敷へ引き取つた。障子を開けて這入らうとすると、又縁側へ呼び返された。
「平岡が今日来ると云つたつて」
「えゝ、来る様な御話しでした」
「ぢや待つてゐやう」
代助は外出を見合せた。実は平岡の事が此間から大分気に掛つてゐる。
平岡は此前、代助を訪問した当時、既に落ち付いてゐられない身分であつた。彼自身の代助に語つた所によると、地位の心当りが二三ヶ所あるから、差し当り其方面へ運動して見る積りなんださうだが、其二三ヶ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない。代助の方から神保町の宿を訪ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには居つた。が、洋服を着た儘、部屋の敷居の上に立つて、何か急しい調子で、細君を極め付けてゐた。──案内なしに廊下を伝つて、平岡の部屋の横へ出た代助には、突然ながら、たしかに左様取れた。其時平岡は一寸振り向いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも快よさゝうな所は見えなかつた。部屋の内から顔を出した細君は代助を見て、蒼白い頬をぽつと赤くした。代助は何となく席に就き悪くなつた。まあ這入れと申し訳に云ふのを聞き流して、いや別段用ぢやない。何うしてゐるかと思つて一寸来て見た丈だ。出掛けるなら一所に出様と、此方から誘ふ様にして表へ出て仕舞つた。
其時平岡は、早く家を探して落ち付きたいが、あんまり忙しいんで、何うする事も出来ない、たまに宿のものが教へてくれるかと思ふと、まだ人が立ち退かなかつたり、あるひは今壁を塗つてる最中だつたりする。などと、電車へ乗つて分れる迄諸事苦情づくめであつた。代助も気の毒になつて、そんなら家は、宅の書生に探させやう。なに不景気だから、大分空いてるのがある筈だ。と請合つて帰つた。
夫から約束通り門野を探しに出した。出すや否や、門野はすぐ恰好なのを見付けて来た。門野に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵可からうと云ふ事で分れたさうだが、門野は家主の方へ責任もあるし、又其所が気に入らなければ外を探す考もあるからと云ふので、借りるか借りないか判然した所を、もう一遍確かめさしたのである。
「君、家主の方へは借りるつて、断わつて来たんだらうね」
「えゝ、帰りに寄つて、明日引越すからつて、云つて来ました」
代助は椅子に腰を掛けた儘、新らしく二度の世帯を東京に持つ、夫婦の未来を考へた。平岡は三年前新橋で分れた時とは、もう大分変つてゐる。彼の経歴は処世の階子段を一二段で踏み外したと同じ事である。まだ高い所へ上つてゐなかつた丈が、幸と云へば云ふ様なものゝ、世間の眼に映ずる程、身体に打撲を受けてゐないのみで、其実精神状態には既に狂ひが出来てゐる。始めて逢つた時、代助はすぐ左様思つた。けれども、三年間に起つた自分の方の変化を打算して見て、或は此方の心が向に反響を起したのではなからうかと訂正した。が、其後平岡の旅宿へ尋ねて行つて、座敷へも這入らないで一所に外へ出た時の、容子から言語動作を眼の前に浮べて見ると、どうしても又最初の判断に戻らなければならなくなつた。平岡は其時顔の中心に一種の神経を寄せてゐた。風が吹いても、砂が飛んでも、強い刺激を受けさうな眉と眉の継目を、憚らず、ぴくつかせてゐた。さうして、口にする事が、内容の如何に関はらず、如何にも急しなく、且つ切なさうに、代助の耳に響いた。代助には、平岡の凡てが、恰も肺の強くない人の、重苦しい葛湯の中を片息で泳いでゐる様に取れた。
「あんなに、焦つて」と、電車へ乗つて飛んで行く平岡の姿を見送つた代助は、口の内でつぶやいだ。さうして旅宿に残されてゐる細君の事を考へた。
代助は此細君を捕まへて、かつて奥さんと云つた事がない。何時でも三千代さん〳〵と、結婚しない前の通りに、本名を呼んでゐる。代助は平岡に分れてから又引き返して、旅宿へ行つて、三千代さんに逢つて話しをしやうかと思つた。けれども、何だか行けなかつた。足を停めて思案しても、今の自分には、行くのが悪いと云ふ意味はちつとも見出せなかつた。けれども、気が咎めて行かれなかつた。勇気を出せば行かれると思つた。たゞ代助には是丈の勇気を出すのが苦痛であつた。夫で家へ帰つた。其代り帰つても、落ち付かない様な、物足らない様な、妙な心持がした。ので、又外へ出て酒を飲んだ。代助は酒をいくらでも飲む男である。ことに其晩はしたゝかに飲んだ。
「あの時は、何うかしてゐたんだ」と代助は椅子に倚りながら、比較的冷やかな自己で、自己の影を批判した。
「何か御用ですか」と門野が又出て来た。袴を脱いで、足袋を脱いで、団子の様な素足を出してゐる。代助は黙つて門野の顔を見た。門野も代助の顔を見て、一寸の間突立つてゐた。
「おや、御呼になつたんぢやないですか。おや、おや」と云つて引込んで行つた。代助は別段可笑しいとも思はなかつた。
「小母さん、御呼びになつたんぢやないとさ。何うも変だと思つた。だから手も何も鳴らないつて云ふのに」といふ言葉が茶の間の方で聞えた。夫から門野と婆さんの笑ふ声がした。
其時、待ち設けてゐる御客が来た。取次に出た門野は意外な顔をして這入つて来た。さうして、其顔を代助の傍迄持つて来て、先生、奥さんですと囁やく様に云つた。代助は黙つて椅子を離れて坐敷へ這入つた。
平岡の細君は、色の白い割に髪の黒い、細面に眉毛の判然映る女である。一寸見ると何所となく淋しい感じの起る所が、古版の浮世絵に似てゐる。帰京後は色光沢がことに可くないやうだ。始めて旅宿で逢つた時、代助は少し驚ろいた位である。汽車で長く揺られた疲れが、まだ回復しないのかと思つて、聞いて見たら、左様ぢやない、始終斯うなんだと云はれた時は、気の毒になつた。
三千代は東京を出て一年目に産をした。生れた子供はぢき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、兎角具合がわるい。始めのうちは、ただ、ぶら〳〵してゐたが、何うしても、はか〴〵しく癒らないので、仕舞に医者に見て貰つたら、能くは分らないが、ことに依ると何とかいふ六づかしい名の心臓病かも知れないと云つた。もし左様だとすれば、心臓から動脈へ出る血が、少しづゝ、後戻りをする難症だから、根治は覚束ないと宣告されたので、平岡も驚ろいて、出来る丈養生に手を尽した所為か、一年許りするうちに、好い案排に、元気が滅切りよくなつた。色光沢も殆んど元の様に冴々して見える日が多いので、当人も喜こんでゐると、帰る一ヶ月ばかり前から、又血色が悪くなり出した。然し医者の話によると、今度のは心臓の為ではない。心臓は、夫程丈夫にもならないが、決して前よりは悪くなつてゐない。弁の作用に故障があるものとは、今は決して認められないといふ診断であつた。──是は三千代が直に代助に話した所である。代助は其時三千代の顔を見て、矢っ張り何か心配の為ぢやないかしらと思つた。
三千代は美くしい線を奇麗に重ねた鮮かな二重瞼を持つてゐる。眼の恰好は細長い方であるが、瞳を据ゑて凝と物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。代助は是を黒眼の働らきと判断してゐた。三千代が細君にならない前、代助はよく、三千代の斯う云ふ眼遣を見た。さうして今でも善く覚えてゐる。三千代の顔を頭の中に浮べやうとすると、顔の輪廓が、まだ出来上らないうちに、此黒い、湿んだ様に暈された眼が、ぽつと出て来る。
廊下伝ひに坐敷へ案内された三千代は今代助の前に腰を掛けた。さうして奇麗な手を膝の上に畳ねた。下にした手にも指輪を穿めてゐる。上にした手にも指輪を穿めてゐる。上のは細い金の枠に比較的大きな真珠を盛つた当世風のもので、三年前結婚の御祝として代助から贈られたものである。
三千代は顔を上げた。代助は、突然例の眼を認めて、思はず瞬を一つした。
汽車で着いた明日平岡と一所に来る筈であつたけれども、つい気分が悪いので、来損なつて仕舞つて、それからは一人でなくつては来る機会がないので、つい出ずにゐたが、今日は丁度、と云ひかけて、句を切つて、それから急に思ひ出した様に、此間来て呉れた時は、平岡が出掛際だつたものだから、大変失礼して済まなかつたといふ様な詫をして、
「待つてゐらつしやれば可かつたのに」と女らしく愛想をつけ加へた。けれども其調子は沈んでゐた。尤も是は此女の持調子で、代助は却つて其昔を憶ひ出した。
「だつて、大変忙しさうだつたから」
「えゝ、忙しい事は忙しいんですけれども──好いぢやありませんか。居らしつたつて。あんまり他人行儀ですわ」
代助は、あの時、夫婦の間に何があつたか聞いて見様と思つたけれども、まづ已めにした。例なら調戯半分に、あなたは何か叱られて、顔を赤くしてゐましたね、どんな悪い事をしたんですか位言ひかねない間柄なのであるが、代助には三千代の愛嬌が、後から其場を取り繕ふ様に、いたましく聞えたので、冗談を云ひ募る元気も一寸出なかつた。
代助は烟草へ火を点けて、吸口を啣へた儘、椅子の脊に頭を持たせて、寛ろいだ様に、
「久し振りだから、何か御馳走しませうか」と聞いた。さうして心のうちで、自分の斯う云ふ態度が、幾分か此女の慰藉になる様に感じた。三千代は、
「今日は沢山。さう緩りしちやゐられないの」と云つて、昔の金歯を一寸見せた。
「まあ、可いでせう」
代助は両手を頭の後へ持つて行つて、指と指を組み合せて三千代を見た。三千代はこゞんで帯の間から小さな時計を出した。代助が真珠の指輪を此女に贈ものにする時、平岡は此時計を妻に買つて遣つたのである。代助は、一つ店で別々の品物を買つた後、平岡と連れ立つて其所の敷居を跨ぎながら互に顔を見合せて笑つた事を記憶してゐる。
「おや、もう三時過ぎね。まだ二時位かと思つてたら。──少し寄り道をしてゐたものだから」
と独り言の様に説明を加へた。
「そんなに急ぐんですか」
「えゝ、成り丈早く帰りたいの」
代助は頭から手を放して、烟草の灰をはたき落した。
「三年のうちに大分世帯染ちまつた。仕方がない」
代助は笑つて斯う云つた。けれども其調子には何処かに苦い所があつた。
「あら、だつて、明日引越すんぢやありませんか」
三千代の声は、此時急に生々と聞えた。代助は引越の事を丸で忘れてゐた。
「ぢや引越してから緩くり来れば可いのに」
代助は相手の快よささうな調子に釣り込まれて、此方からも他愛なく追窮した。
「でも」と云つた、三千代は少し挨拶に困つた色を、額の所へあらはして、一寸下を見たが、やがて頬を上げた。それが薄赤く染まつて居た。
「実は私少し御願があつて上がつたの」
疳の鋭どい代助は、三千代の言葉を聞くや否や、すぐ其用事の何であるかを悟つた。実は平岡が東京へ着いた時から、いつか此問題に出逢ふ事だらうと思つて、半意識の下で覚悟してゐたのである。
「何ですか、遠慮なく仰しやい」
「少し御金の工面が出来なくつて?」
三千代の言葉は丸で子供の様に無邪気であるけれども、両方の頬は矢つ張り赤くなつてゐる。代助は、此女に斯んな気恥づかしい思ひをさせる、平岡の今の境遇を、甚だ気の毒に思つた。
段々聞いて見ると、明日引越をする費用や、新らしく世帯を持つ為めの金が入用なのではなかつた。支店の方を引き上げる時、向ふへ置き去りにして来た借金が三口とかあるうちで、其一口を是非片付けなくてはならないのださうである。東京へ着いたら一週間うちに、どうでもすると云ふ堅い約束をして来た上に、少し訳があつて、他の様に放つて置けない性質のものだから、平岡も着いた明日から心配して、所々奔走してゐるけれども、まだ出来さうな様子が見えないので、已を得ず三千代に云ひ付けて代助の所に頼みに寄したと云ふ事が分つた。
「支店長から借りたと云ふ奴ですか」
「いゝえ。其方は何時迄延ばして置いても構はないんですが、此方の方を何うかしないと困るのよ。東京で運動する方に響いて来るんだから」
代助は成程そんな事があるのかと思つた。金高を聞くと五百円と少し許である。代助はなんだ其位と腹の中で考へたが、実際自分は一文もない。代助は、自分が金に不自由しない様でゐて、其実大いに不自由してゐる男だと気が付いた。
「何でまた、そんなに借金をしたんですか」
「だから私考へると厭になるのよ。私も病気をしたのが、悪いには悪いけれども」
「病気の時の費用なんですか」
「ぢやないのよ。薬代なんか知れたもんですわ」
三千代は夫以上を語らなかつた。代助も夫以上を聞く勇気がなかつた。たゞ蒼白い三千代の顔を眺めて、その中に、漠然たる未来の不安を感じた。
翌日朝早く門野は荷車を三台雇つて、新橋の停車場迄平岡の荷物を受取りに行つた。実は疾うから着いて居たのであるけれども、宅がまだ極らないので、今日迄其儘にしてあつたのである。往復の時間と、向ふで荷物を積み込む時間を勘定して見ると、何うしても半日仕事である。早く行かなけりや、間に合はないよと代助は寐床を出るとすぐ注意した。門野は例の調子で、なに訳はありませんと答へた。此男は、時間の考などは、あまりない方だから、斯う簡便な返事が出来たんだが、代助から説明を聞いて始めて成程と云ふ顔をした。それから荷物を平岡の宅へ届けた上に、万事奇麗に片付く迄手伝をするんだと云はれた時は、えゝ承知しました、なに大丈夫ですと気軽に引き受けて出て行つた。
それから十一時過迄代助は読書してゐた。が不図ダヌンチオと云ふ人が、自分の家の部屋を、青色と赤色に分つて装飾してゐると云ふ話を思ひ出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、此二色に外ならんと云ふ点に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音楽室とか書斎とか云ふものは、成るべく赤く塗り立てる。又寝室とか、休息室とか、凡て精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付をする。と云ふのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足と見える。
代助は何故ダヌンチオの様な刺激を受け易い人に、奮興色とも見傚し得べき程強烈な赤の必要があるだらうと不思議に感じた。代助自身は稲荷の鳥居を見ても余り好い心持はしない。出来得るならば、自分の頭丈でも可いから、緑のなかに漂はして安らかに眠りたい位である。いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる脊の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好い気持に出来てゐると思つた。つまり、自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。
代助は縁側へ出て、庭から先にはびこる一面の青いものを見た。花はいつしか散つて、今は新芽若葉の初期である。はなやかな緑がぱつと顔に吹き付けた様な心持ちがした。眼を醒す刺激の底に何所か沈んだ調子のあるのを嬉しく思ひながら、鳥打帽を被つて、銘仙の不断着の儘門を出た。
平岡の新宅へ来て見ると、門が開いて、がらんとしてゐる丈で、荷物の着いた様子もなければ、平岡夫婦の来てゐる気色も見えない。たゞ車夫体の男が一人縁側に腰を懸けて烟草を呑んでゐた。聞いて見ると、先刻一返御出になりましたが、此案排ぢや、どうせ午過だらうつて又御帰りになりましたといふ答である。
「旦那と奥さんと一所に来たかい」
「えゝ御一所です」
「さうして一所に帰つたかい」
「えゝ御一所に御帰りになりました」
「荷物もそのうち着くだらう。御苦労さま」と云つて、又通りへ出た。
神田へ来たが、平岡の旅館へ寄る気はしなかつた。けれども二人の事が何だか気に掛る。ことに細君の事が気に掛る。ので一寸顔を出した。夫婦は膳を並べて飯を食つてゐた。下女が盆を持つて、敷居に尻を向けてゐる。其後から、声を懸けた。
平岡は驚ろいた様に代助を見た。其眼が血ばしつてゐる。二三日能く眠らない所為だと云ふ。三千代は仰山なものゝ云ひ方だと云つて笑つた。代助は気の毒にも思つたが、又安心もした。留めるのを外へ出て、飯を食つて、髪を刈つて、九段の上へ一寸寄つて、又帰りに新宅へ行つて見た。三千代は手拭を姉さん被りにして、友禅の長繻絆をさらりと出して、襷がけで荷物の世話を焼いてゐた。旅宿で世話をして呉れたと云ふ下女も来てゐる。平岡は縁側で行李の紐を解いてゐたが、代助を見て、笑ひながら、少し手伝はないかと云つた。門野は袴を脱いで、尻を端折つて、重ね箪笥を車夫と一所に坐敷へ抱へ込みながら、先生どうです、此服装は、笑つちや不可ませんよと云つた。
翌日、代助が朝食の膳に向つて、例の如く紅茶を呑んでゐると、門野が、洗ひ立ての顔を光らして茶の間へ這入つて来た。
「昨夕は何時御帰りでした。つい疲れちまつて、仮寐をしてゐたものだから、些とも気が付きませんでした。──寐てゐる所を御覧になつたんですか、先生も随分人が悪いな。全体何時頃なんです、御帰りになつたのは。夫迄何所へ行つて居らしつた」と平生の調子で苦もなく嘵舌り立てた。代助は真面目で、
「君、すつかり片付迄居て呉れたんでせうね」と聞いた。
「えゝ、すつかり片付けちまいました。其代り、何うも骨が折れましたぜ。何しろ、我々の引越と違つて、大きな物が色々あるんだから。奥さんが坐敷の真中へ立つて、茫然、斯う周囲を見回してゐた様子つたら、──随分可笑なもんでした」
「少し身体の具合が悪いんだからね」
「どうも左様らしいですね。色が何だか可くないと思つた。平岡さんとは大違ひだ。あの人の体格は好いですね。昨夕一所に湯に入つて驚ろいた」
代助はやがて書斎へ帰つて、手紙を二三本書いた。一本は朝鮮の統監府に居る友人宛で、先達て送つて呉れた高麗焼の礼状である。一本は仏蘭西に居る姉婿宛で、タナグラの安いのを見付けて呉れといふ依頼である。
昼過散歩の出掛けに、門野の室を覗いたら又引繰り返つて、ぐう〳〵寐てゐた。代助は門野の無邪気な鼻の穴を見て羨ましくなつた。実を云ふと、自分は昨夕寐つかれないで大変難義したのである。例に依つて、枕の傍へ置いた袂時計が、大変大きな音を出す。夫が気になつたので、手を延ばして、時計を枕の下へ押し込んだ。けれども音は依然として頭の中へ響いて来る。其音を聞きながら、つい、うと〳〵する間に、凡ての外の意識は、全く暗窖の裡に降下した。が、たゞ独り夜を縫ふミシンの針丈が刻み足に頭の中を断えず通つてゐた事を自覚してゐた。所が其音が何時かりん〳〵といふ虫の音に変つて、奇麗な玄関の傍の植込みの奥で鳴いてゐる様になつた。──代助は昨夕の夢を此所迄辿つて来て、睡眠と覚醒との間を繋ぐ一種の糸を発見した様な心持がした。
代助は、何事によらず一度気にかゝり出すと、何処迄も気にかゝる男である。しかも自分で其馬鹿気さ加減の程度を明らかに見積る丈の脳力があるので、自分の気にかゝり方が猶眼に付いてならない。三四年前、平生の自分が如何にして夢に入るかと云ふ問題を解決しやうと試みた事がある。夜、蒲団へ這入つて、好い案排にうと〳〵し掛けると、あゝ此所だ、斯うして眠るんだなと思つてはつとする。すると、其瞬間に眼が冴えて仕舞ふ。しばらくして、又眠りかけると、又、そら此所だと思ふ。代助は殆んど毎晩の様に此好奇心に苦しめられて、同じ事を二遍も三遍も繰り返した。仕舞には自分ながら辟易した。どうかして、此苦痛を逃れ様と思つた。のみならず、つく〴〵自分は愚物であると考へた。自分の不明瞭な意識を、自分の明瞭な意識に訴へて、同時に回顧しやうとするのは、ジエームスの云つた通り、暗闇を検査する為に蝋燭を点したり、独楽の運動を吟味する為に独楽を抑へる様なもので、生涯寐られつこない訳になる。と解つてゐるが晩になると又はつと思ふ。
此困難は約一年許りで何時の間にか漸く遠退いた。代助は昨夕の夢と此困難とを比較して見て、妙に感じた。正気の自己の一部分を切り放して、其儘の姿として、知らぬ間に夢の中へ譲り渡す方が趣があると思つたからである。同時に、此作用は気狂になる時の状態と似て居はせぬかと考へ付いた。代助は今迄、自分は激昂しないから気狂にはなれないと信じてゐたのである。
それから二三日は、代助も門野も平岡の消息を聞かずに過ごした。四日目の午過に代助は麻布のある家へ園遊会に呼ばれて行つた。御客は男女を合せて、大分来たが、正賓と云ふのは、英国の国会議員とか実業家とかいふ、無暗に脊の高い男と、それから鼻眼鏡をかけた其細君とであつた。これは中々の美人で、日本抔へ来るには勿体ない位な容色だが、何処で買つたものか、岐阜出来の絵日傘を得意に差してゐた。
尤も其日は大変な好い天気で、広い芝生の上にフロツクで立つてゐると、もう夏が来たといふ感じが、肩から脊中へ掛けて著るしく起つた位、空が真蒼に透き通つてゐた。英国の紳士は顔をしかめて空を見て、実に美くしいと云つた。すると細君がすぐ、ラツヴレイと答へた。非常に疳の高い声で尤も力を入れた挨拶の仕様であつたので、代助は英国の御世辞は、また格別のものだと思つた。
代助も二言三言此細君から話しかけられた。が三分と経たないうちに、遣り切れなくなつて、すぐ退却した。あとは、日本服を着て、わざと島田に結つた令嬢と、長らく紐育で商業に従事してゐたと云ふ某が引き受けた。此某は英語を喋舌る天才を以て自ら任ずる男で、欠かさず英語会へ出席して、日本人と英語の会話を遣つて、それから英語で卓上演説をするのを、何よりの楽みにしてゐる。何か云つては、あとでさも可笑しさうに、げら〳〵笑ふ癖がある。英国人が時によると怪訝な顔をしてゐる。代助はあれ丈は已めたら可からうと思つた。令嬢も中々旨い。是は米国婦人を家庭教師に雇つて、英語を使ふ事を研究した、ある物持ちの娘である。代助は、顔より言葉の方が達者だと考へながら、つく〴〵感心して聞いてゐた。
代助が此所へ呼ばれたのは、個人的に此所の主人や、此英国人夫婦に関係があるからではない。全く自分の父と兄との社交的勢力の余波で、招待状が廻つて来たのである。だから、万遍なく方々へ行つて、好い加減に頭を下げて、ぶら〳〵してゐた。其中に兄も居た。
「やあ、来たな」と云つた儘、帽子に手も掛けない。
「何うも、好い天気ですね」
「あゝ。結構だ」
代助も脊の低い方ではないが、兄は一層高く出来てゐる。其上この五六年来次第に肥満して来たので、中々立派に見える。
「何うです、彼方へ行つて、ちと外国人と話でもしちや」
「いや、真平だ」と云つて兄は苦笑ひをした。さうして大きな腹にぶら下がつてゐる金鎖を指の先で弄つた。
「何うも外国人は調子が可いですね。少し可すぎる位だ。あゝ賞められると、天気の方でも是非好くならなくつちやならなくなる」
「そんなに天気を賞めてゐたのかい。へえ。少し暑過ぎるぢやないか」
「私にも暑過ぎる」
誠吾と代助は申し合せた様に、白い手巾を出して額を拭いた。両人共重い絹帽を被つてゐる。
兄弟は芝生の外れの木蔭迄来て留つた。近所には誰もゐない。向ふの方で余興か何か始まつてゐる。それを、誠吾は、宅にゐると同じ様な顔をして、遠くから眺めた。
「兄の様になると、宅にゐても、客に来ても同じ心持ちなんだらう。斯う世の中に慣れ切つて仕舞つても、楽しみがなくつて、詰らないものだらう」と思ひながら代助は誠吾の様子を見てゐた。
「今日は御父さんは何うしました」
「御父さんは詩の会だ」
誠吾は相変らず普通の顔で答へたが、代助の方は多少可笑しかつた。
「姉さんは」
「御客の接待掛りだ」
また嫂が後で不平を云ふ事だらうと考へると、代助は又可笑しくなつた。
代助は、誠吾の始終忙しがつてゐる様子を知つてゐる。又その忙しさの過半は、斯う云ふ会合から出来上がつてゐるといふ事実も心得てゐる。さうして、別に厭な顔もせず、一口の不平も零さず、不規則に酒を飲んだり、物を食つたり、女を相手にしたり、してゐながら、何時見ても疲れた態もなく、噪ぐ気色もなく、物外に平然として、年々肥満してくる技倆に敬服してゐる。
誠吾が待合へ這入つたり、料理茶屋へ上つたり、晩餐に出たり、午餐に呼ばれたり、倶楽部に行つたり、新橋に人を送つたり、横浜に人を迎へたり、大磯へ御機嫌伺ひに行つたり、朝から晩迄多勢の集まる所へ顔を出して、得意にも見えなければ、失意にも思はれない様子は、斯う云ふ生活に慣れ抜いて、海月が海に漂ひながら、塩水を辛く感じ得ない様なものだらうと代助は考へてゐる。
其所が代助には難有い。と云ふのは、誠吾は父と異つて、嘗て小六づかしい説法抔を代助に向つて遣つた事がない。主義だとか、主張だとか、人生観だとか云ふ窮窟なものは、てんで、これつ許も口にしないんだから、有んだか、無いんだか、殆んど要領を得ない。其代り、此窮窟な主義だとか、主張だとか、人生観だとかいふものを積極的に打ち壊して懸つた試もない。実に平凡で好い。
だが面白くはない。話し相手としては、兄よりも嫂の方が、代助に取つて遥かに興味がある。兄に逢ふと屹度何うだいと云ふ。以太利に地震があつたぢやないかと云ふ。土耳古の天子が廃されたぢやないかと云ふ。其外、向ふ島の花はもう駄目になつた、横浜にある外国船の船底に大蛇が飼つてあつた、誰が鉄道で轢かれた、ぢやないかと云ふ。みんな新聞に出た事許である。其代り、当らず障らずの材料はいくらでも持つて居る。いつ迄経つても種が尽きる様子が見えない。
さうかと思ふと。時にトルストイと云ふ人は、もう死んだのかね抔と妙な事を聞く事がある。今日本の小説家では誰が一番偉いのかねと聞く事もある。要するに文芸には丸で無頓着で且つ驚ろくべく無識であるが、尊敬と軽蔑以上に立つて平気で聞くんだから、代助も返事がし易い。
斯う云ふ兄と差し向ひで話をしてゐると、刺激の乏しい代りには、灰汁がなくつて、気楽で好い。たゞ朝から晩迄出歩いてゐるから滅多に捕まへる事が出来ない。嫂でも、誠太郎でも、縫子でも、兄が終日宅に居て、三度の食事を家族と共に欠かさず食ふと、却つて珍らしがる位である。
だから木蔭に立つて、兄と肩を比べた時、代助は丁度好い機会だと思つた。
「兄さん、貴方に少し話があるんだが。何時か暇はありませんか」
「暇」と繰り返した誠吾は、何にも説明せずに笑つて見せた。
「明日の朝は何うです」
「明日の朝は浜迄行つて来なくつちやならない」
「午からは」
「午からは、会社の方に居る事はゐるが、少し相談があるから、来ても緩くり話しちやゐられない」
「ぢや晩なら宜からう」
「晩は帝国ホテルだ。あの西洋人夫婦を明日の晩帝国ホテルへ呼ぶ事になつてるから駄目だ」
代助は口を尖がらかして、兄を凝と見た。さうして二人で笑ひ出した。
「そんなに急ぐなら、今日ぢや、何うだ。今日なら可い。久し振りで一所に飯でも食はうか」
代助は賛成した。所が倶楽部へでも行くかと思ひの外、誠吾は鰻が可からうと云ひ出した。
「絹帽で鰻屋へ行くのは始てだな」と代助は逡巡した。
「何構ふものか」
二人は園遊会を辞して、車に乗つて、金杉橋の袂にある鰻屋へ上つた。
其所は河が流れて、柳があつて、古風な家であつた。黒くなつた床柱の傍の違ひ棚に、絹帽を引繰返しに、二つ並べて置いて見て、代助は妙だなと云つた。然し明け放した二階の間に、たつた二人で胡坐をかいてゐるのは、園遊会より却つて楽であつた。
二人は好い心持に酒を飲んだ。兄は飲んで、食つて、世間話をすれば其外に用はないと云ふ態度であつた。代助も、うつかりすると、肝心の事件を忘れさうな勢であつた。が下女が三本目の銚子を置いて行つた時に、始めて用談に取り掛つた。代助の用談と云ふのは、言ふ迄もなく、此間三千代から頼まれた金策の件である。
実を云ふと、代助は今日迄まだ誠吾に無心を云つた事がない。尤も学校を出た時少々芸者買をし過ぎて、其尻を兄になすり付けた覚はある。其時兄は叱るかと思ひの外、さうか、困り者だな、親爺には内々で置けと云つて嫂を通して、奇麗に借金を払つてくれた。さうして代助には一口の小言も云はなかつた。代助は其時から、兄に恐縮して仕舞つた。其後小遣に困る事はよくあるが、困るたんびに嫂を痛めて事を済ましてゐた。従つて斯う云ふ事件に関して兄との交渉は、まあ初対面の様なものである。
代助から見ると、誠吾は蔓のない薬鑵と同じことで、何処から手を出して好いか分らない。然しそこが代助には興味があつた。
代助は世間話の体にして、平岡夫婦の経歴をそろ〳〵話し始めた。誠吾は面倒な顔色もせず、へえ〳〵と拍子を取る様に、飲みながら、聞いてゐる。段々進んで三千代が金を借りに来た一段になつても、矢っ張りへえ〳〵と合槌を打つてゐる丈である。代助は、仕方なしに、
「で、私も気の毒だから、何うにか心配して見様つて受合つたんですがね」と云つた。
「へえ。左様かい」
「何うでせう」
「御前金が出来るのかい」
「私や一文も出来やしません。借りるんです」
「誰から」
代助は始めから此所へ落す積だつたんだから、判然した調子で、
「貴方から借りて置かうと思ふんです」と云つて、改めて誠吾の顔を見た。兄は矢っ張り普通の顔をしてゐた。さうして、平気に、
「そりや、御廃しよ」と答へた。
誠吾の理由を聞いて見ると、義理や人情に関係がない許ではない、返す返さないと云ふ損得にも関係がなかつた。たゞ、そんな場合には放つて置けば自から何うかなるもんだと云ふ単純な断定である。
誠吾は此断定を証明する為めに、色々な例を挙げた。誠吾の門内に藤野と云ふ男が長屋を借りて住んでゐる。其藤野が近頃遠縁のものゝ息子を頼まれて宅へ置いた。所が其子が徴兵検査で急に国へ帰らなければならなくなつたが、前以て国から送つてある学資も旅費も藤野が使ひ込んでゐると云ふので、一時の繰り合せを頼みに来た事がある。無論誠吾が直に逢つたのではないが、妻に云ひ付けて断らした。夫でも其子は期日迄に国へ帰つて差支なく検査を済ましてゐる。夫から此藤野の親類の何とか云ふ男は、自分の持つてゐる貸家の敷金を、つい使つて仕舞つて、借家人が明日引越すといふ間際になつても、まだ調達が出来ないとか云つて、矢っ張り藤野から泣き付いて来た事がある。然し是も断らした。夫でも別に不都合はなく敷金は返せてゐる。──まだ其外にもあつたが、まあ斯んな種類の例ばかりであつた。
「そりや、姉さんが蔭へ廻つて恵んでゐるに違ない。ハヽヽヽ。兄さんも余っ程呑気だなあ」
と代助は大きい声を出して笑つた。
「何、そんな事があるものか」
誠吾は矢張当り前の顔をしてゐた。さうして前にある猪口を取つて口へ持つて行つた。
其日誠吾は中々金を貸して遣らうと云はなかつた。代助も三千代が気の毒だとか、可哀想だとか云ふ泣言は、可成避ける様にした。自分が三千代に対してこそ、さう云ふ心持もあるが、何にも知らない兄を、其所迄連れて行くのには一通りでは駄目だと思ふし、と云つて、無暗にセンチメンタルな文句を口にすれば、兄には馬鹿にされる、ばかりではない、かねて自分を愚弄する様な気がするので、矢っ張り平生の代助の通り、のらくらした所を、彼方へ行つたり此方へ来たりして、飲んでゐた。飲みながらも、親爺の所謂熱誠が足りないとは、此所の事だなと考へた。けれども、代助は泣いて人を動かさうとする程、低級趣味のものではないと自信してゐる。凡そ何が気障だつて、思はせ振りの、涙や、煩悶や、真面目や、熱誠ほど気障なものはないと自覚してゐる。兄には其辺の消息がよく解つてゐる。だから此手で遣り損なひでもしやうものなら、生涯自分の価値を落す事になる。と気が付いてゐる。
代助は飲むに従つて、段々金を遠ざかつて来た。たゞ互が差し向ひであるが為めに、旨く飲めたと云ふ自覚を、互に持ち得る様な話をした。が茶漬を食ふ段になつて、思ひ出した様に、金は借りなくつても好いから、平岡を何処か使つて遣つて呉れないかと頼んだ。
「いや、さう云ふ人間は御免蒙る。のみならず此不景気ぢや仕様がない」と云つて誠吾はさく〳〵飯を掻き込んでゐた。
明日眼が覚めた時、代助は床の中でまづ第一番に斯う考へた。
「兄を動かすのは、同じ仲間の実業家でなくつちや駄目だ。単に兄弟の好丈では何うする事も出来ない」
斯う考へた様なものゝ、別に兄を不人情と思ふ気は起らなかつた。寧ろその方が当然であると悟つた。此兄が自分の放蕩費を苦情も云はずに弁償して呉れた事があるんだから可笑しい。そんなら自分が今茲で平岡の為に判を押して、連借でもしたら、何うするだらう。矢っ張り彼の時の様に奇麗に片付けて呉れるだらうか。兄は其所迄考へてゐて、断わつたんだらうか。或は自分がそんな無理な事はしないものと初から安心して借さないのかしらん。
代助自身の今の傾向から云ふと、到底人の為に判なぞを押しさうにもない。自分もさう思つてゐる。けれども、兄が其所を見抜いて金を貸さないとすると、一寸意外な連帯をして、兄がどんな態度に変るか、試験して見たくもある。──其所迄来て、代助は自分ながら、あんまり性質が能くないなと心のうちで苦笑した。
けれども、唯一つ慥な事がある。平岡は早晩借用証書を携へて、自分の判を取りにくるに違ない。
斯う考へながら、代助は床を出た。門野は茶の間で、胡坐をかいて新聞を読んでゐたが、髪を濡らして湯殿から帰つて来る代助を見るや否や、急に坐三昧を直して、新聞を畳んで坐蒲団の傍へ押し遣りながら、
「何うも『煤烟』は大変な事になりましたな」と大きな声で云つた。
「君読んでるんですか」
「えゝ、毎朝読んでます」
「面白いですか」
「面白い様ですな。どうも」
「何んな所が」
「何んな所がつて。さう改たまつて聞かれちや困りますが。何ぢやありませんか、一体に、斯う、現代的の不安が出てゐる様ぢやありませんか」
「さうして、肉の臭ひがしやしないか」
「しますな。大いに」
代助は黙つて仕舞つた。
紅茶々碗を持つた儘、書斎へ引き取つて、椅子へ腰を懸けて、茫然庭を眺めてゐると、瘤だらけの柘榴の枯枝と、灰色の幹の根方に、暗緑と暗紅を混ぜ合はした様な若い芽が、一面に吹き出してゐる。代助の眼には夫がぱつと映じた丈で、すぐ刺激を失つて仕舞つた。
代助の頭には今具体的な何物をも留めてゐない。恰かも戸外の天気の様に、それが静かに凝と働らいてゐる。が、其底には微塵の如き本体の分らぬものが無数に押し合つてゐた。乾酪の中で、いくら虫が動いても、乾酪が元の位置にある間は、気が付かないと同じ事で、代助も此微震には殆んど自覚を有してゐなかつた。たゞ、それが生理的に反射して来る度に、椅子の上で、少し宛身体の位置を変へなければならなかつた。
代助は近頃流行語の様に人が使ふ、現代的とか不安とか云ふ言葉を、あまり口にした事がない。それは、自分が現代的であるのは、云はずと知れてゐると考へたのと、もう一つは、現代的であるがために、必ずしも、不安になる必要がないと、自分丈で信じて居たからである。
代助は露西亜文学に出て来る不安を、天候の具合と、政治の圧迫で解釈してゐる。仏蘭西文学に出てくる不安を、有夫姦の多いためと見てゐる。ダヌンチオによつて代表される以太利文学の不安を、無制限の堕落から出る自己欠損の感と判断してゐる。だから日本の文学者が、好んで不安と云ふ側からのみ社会を描き出すのを、舶来の唐物の様に見傚してゐる。
理智的に物を疑ふ方の不安は、学校時代に、有つたにはあつたが、ある所迄進行して、ぴたりと留つて、夫から逆戻りをして仕舞つた。丁度天へ向つて石を抛げた様なものである。代助は今では、なまじい石抔を抛げなければ可かつたと思つてゐる。禅坊さんの所謂大疑現前抔と云ふ境界は、代助のまだ踏み込んだ事のない未知国である。代助は、斯う真卒性急に万事を疑ふには、あまりに利口に生れ過ぎた男である。
代助は門野の賞めた「煤烟」を読んでゐる。今日は紅茶々碗の傍に新聞を置いたなり、開けて見る気にならない。ダヌンチオの主人公は、みんな金に不自由のない男だから、贅沢の結果あゝ云ふ悪戯をしても無理とは思へないが、「煤烟」の主人公に至つては、そんな余地のない程に貧しい人である。それを彼所迄押して行くには、全く情愛の力でなくつちや出来る筈のものでない。所が、要吉といふ人物にも、朋子といふ女にも、誠の愛で、已むなく社会の外に押し流されて行く様子が見えない。彼等を動かす内面の力は何であらうと考へると、代助は不審である。あゝいふ境遇に居て、あゝ云ふ事を断行し得る主人公は、恐らく不安ぢやあるまい。これを断行するに蹰躇する自分の方にこそ寧ろ不安の分子があつて然るべき筈だ。代助は独りで考へるたびに、自分は特殊人だと思ふ。けれども要吉の特殊人たるに至つては、自分より遥かに上手であると承認した。それで此間迄は好奇心に駆られて「煤烟」を読んでゐたが、昨今になつて、あまりに、自分と要吉の間に懸隔がある様に思はれ出したので、眼を通さない事がよくある。
代助は椅子の上で、時々身を動かした。さうして、自分では飽く迄落ち付いて居ると思つてゐた。やがて、紅茶を呑んで仕舞つて、例の通り読書に取りかゝつた。約二時間ばかりは故障なく進行したが、ある頁の中頃まで来て急に休めて頬杖を突いた。さうして、傍にあつた新聞を取つて、「煤烟」を読んだ。呼吸の合はない事は同じ事である。それから外の雑報を読んだ。大隈伯が高等商業の紛擾に関して、大いに騒動しつゝある生徒側の味方をしてゐる。それが中々強い言葉で出てゐる。代助は斯う云ふ記事を読むと、是は大隈伯が早稲田へ生徒を呼び寄せる為の方便だと解釈する。代助は新聞を放り出した。
午過になつてから、代助は自分が落ち付いてゐないと云ふ事を、漸く自覚し出した。腹のなかに小さな皺が無数に出来て、其皺が絶えず、相互の位地と、形状とを変へて、一面に揺いてゐる様な気持がする。代助は時々斯う云ふ情調の支配を受ける事がある。さうして、此種の経験を、今日迄、単なる生理上の現象としてのみ取り扱つて居つた。代助は昨日兄と一所に鰻を食つたのを少し後悔した。散歩がてらに、平岡の所へ行て見やうかと思ひ出したが、散歩が目的か、平岡が目的か、自分には判然たる区別がなかつた。婆さんに着物を出さして、着換へやうとしてゐる所へ、甥の誠太郎が来た。帽子を手に持つた儘、恰好の好い円い頭を、代助の頭へ出して、腰を掛けた。
「もう学校は引けたのかい。早過ぎるぢやないか」
「ちつとも早かない」と云つて、笑ひながら、代助の顔を見てゐる。代助は手を敲いて婆さんを呼んで、
「誠太郎、チヨコレートを飲むかい」と聞いた。
「飲む」
代助はチヨコレートを二杯命じて置いて誠太郎に調戯だした。
「誠太郎、御前はベースボール許遣るもんだから、此頃手が大変大きくなつたよ。頭より手の方が大きいよ」
誠太郎はにこ〳〵して、右の手で、円い頭をぐる〴〵撫でた。実際大きな手を持つてゐる。
「叔父さんは、昨日御父さんから奢つて貰つたんですつてね」
「あゝ、御馳走になつたよ。御蔭で今日は腹具合が悪くつて不可ない」
「又神経だ」
「神経ぢやない本当だよ。全たく兄さんの所為だ」
「だつて御父さんは左様云つてましたよ」
「何て」
「明日学校の帰りに代助の所へ廻つて何か御馳走して貰へつて」
「へえゝ、昨日の御礼にかい」
「えゝ、今日は己が奢つたから、明日が向ふの番だつて」
「それで、わざ〳〵遣つて来たのかい」
「えゝ」
「兄の子丈あつて、中々抜けないな。だから今チヨコレートを飲まして遣るから可いぢやないか」
「チヨコレートなんぞ」
「飲まないかい」
「飲む事は飲むけれども」
誠太郎の注文を能く聞いて見ると、相撲が始まつたら、回向院へ連れて行つて、正面の最上等の所で見物させろといふのであつた。代助は快よく引き受けた。すると誠太郎は嬉しさうな顔をして、突然、
「叔父さんはのらくらして居るけれども実際偉いんですつてね」と云つた。代助も是には一寸呆れた。仕方なしに、
「偉いのは知れ切つてるぢやないか」と答へた。
「だつて、僕は昨夕始めて御父さんから聞いたんですもの」と云ふ弁解があつた。
誠太郎の云ふ所によると、昨夕兄が宅へ帰つてから、父と嫂と三人して、代助の合評をしたらしい。小供のいふ事だから、能く分らないが、比較的頭が可いので、能く断片的に其時の言葉を覚えてゐる。父は代助を、どうも見込がなささうだと評したのださうだ。兄は之に対して、あゝ遣つてゐても、あれで中々解つた所がある。当分放つて置くが可い。放つて置いても大丈夫だ、間違はない。いづれ其内に何か遣るだらうと弁護したのださうだ。すると嫂がそれに賛成して、一週間許り前占者に見てもらつたら、此人は屹度人の上に立つに違ないと判断したから大丈夫だと主張したのださうだ。
代助はうん、それから、と云つて、始終面白さうに聞いて居たが、占者の所へ来たら、本当に可笑しくなつた。やがて着物を着換て、誠太郎を送りながら表へ出て、自分は平岡の家を訪ねた。
平岡の家は、此十数年来の物価騰貴に伴れて、中流社会が次第々々に切り詰められて行く有様を、住宅の上に善く代表してゐる、尤も粗悪な見苦しき構へである。とくに代助には左様見えた。
門と玄関の間が一間位しかない。勝手口も其通りである。さうして裏にも、横にも同じ様な窮屈な家が建てられてゐる。東京市の貧弱なる膨脹に付け込んで、最低度の資本家が、なけなしの元手を二割乃至三割の高利に廻さうと目論で、あたぢけなく拵へ上げた、生存競争の記念である。
今日の東京市、ことに場末の東京市には、至る所に此種の家が散点してゐる、のみならず、梅雨に入つた蚤の如く、日毎に、格外の増加律を以て殖えつゝある。代助はかつて、是を敗亡の発展と名づけた。さうして、之を目下の日本を代表する最好の象徴とした。
彼等のあるものは、石油缶の底を継ぎ合はせた四角な鱗で蔽はれてゐる。彼等の一つを借りて、夜中に柱の割れる音で眼を醒まさないものは一人もない。彼等の戸には必ず節穴がある。彼等の襖は必ず狂ひが出ると極つてゐる。資本を頭の中へ注ぎ込んで、月々其頭から利息を取つて生活しやうと云ふ人間は、みんな斯ういふ所を借りて立て籠つてゐる。平岡も其一人である。
代助は垣根の前を通るとき、先づ其屋根に眼が付いた。さうして、どす黒い瓦の色が妙に彼の心を刺激した。代助には此光のない土の板が、いくらでも水を吸ひ込む様に思はれた。玄関前に、此間引越のときに解いた菰包の藁屑がまだ零れてゐた。座敷へ通ると、平岡は机の前へ坐つて、長い手紙を書き掛けてゐる所であつた。三千代は次の部屋で簟笥の環をかたかた鳴らしてゐた。傍に大きな行李が開けてあつて、中から奇麗な長繻絆の袖が半分出かかつてゐた。
平岡が、失敬だが鳥渡待つて呉れと云つた間に、代助は行李と長繻絆と、時々行李の中へ落ちる繊い手とを見てゐた。襖は明けた儘閉て切る様子もなかつた。が三千代の顔は陰になつて見えなかつた。
やがて、平岡は筆を机の上へ抛げ付ける様にして、座を直した。何だか込み入つた事を懸命に書いてゐたと見えて、耳を赤くしてゐた。眼も赤くしてゐた。
「何うだい。此間は色々難有う。其後一寸礼に行かうと思つて、まだ行かない」
平岡の言葉は言訳と云はんより寧ろ挑戦の調子を帯びてゐる様に聞こえた。襯衣も股引も着けずにすぐ胡坐をかいた。襟を正しく合せないので、胸毛が少し出ゝゐる。
「まだ落ち付かないだらう」と代助が聞いた。
「落ち付く所か、此分ぢや生涯落ち付きさうもない」と、いそがしさうに烟草を吹かし出した。
代助は平岡が何故こんな態度で自分に応接するか能く心得てゐた。決して自分に中るのぢやない、つまり世間に中るんである、否己れに中つてゐるんだと思つて、却つて気の毒になつた。けれども代助の様な神経には、此調子が甚だ不愉快に響いた。たゞ腹が立たない丈である。
「宅の都合は、どうだい。間取の具合は可ささうぢやないか」
「うん、まあ、悪くつても仕方がない。気に入つた家へ這入らうと思へば、株でも遣るより外に仕様がなからう。此頃東京に出来る立派な家はみんな株屋が拵へるんだつて云ふぢやないか」
「左様かも知れない。其代り、あゝ云ふ立派な家が一軒立つと、其陰に、どの位沢山な家が潰れてゐるか知れやしない」
「だから猶住み好いだらう」
平岡は斯う云つて大いに笑つた。其所へ三千代が出て来た。先達てはと、軽く代助に挨拶をして、手に持つた赤いフランネルのくる〳〵と巻いたのを、坐ると共に、前へ置いて、代助に見せた。
「何ですか、それは」
「赤ん坊の着物なの。拵へた儘、つい、まだ、解かずにあつたのを、今行李の底を見たら有つたから、出して来たんです」と云ひながら、附紐を解いて筒袖を左右に開いた。
「こら」
「まだ、そんなものを仕舞つといたのか。早く壊して雑巾にでもして仕舞へ」
三千代は小供の着物を膝の上に乗せた儘、返事もせずしばらく俯向いて眺めてゐたが、
「貴方のと同じに拵へたのよ」と云つて夫の方を見た。
「是か」
平岡は絣の袷の下へ、ネルを重ねて、素肌に着てゐた。
「是はもう不可ん。暑くて駄目だ」
代助は始めて、昔の平岡を当面に見た。
「袷の下にネルを重ねちやもう暑い。繻絆にすると可い」
「うん、面倒だから着てゐるが」
「洗濯をするから御脱ぎなさいと云つても、中々脱がないのよ」
「いや、もう脱ぐ、己も少々厭になつた」
話は死んだ小供の事をとう〳〵離れて仕舞つた。さうして、来た時よりは幾分か空気に暖味が出来た。平岡は久し振りに一杯飲まうと云ひ出した。三千代も支度をするから、緩りして行つて呉れと頼む様に留めて、次の間へ立つた。代助は其後姿を見て、どうかして金を拵へてやりたいと思つた。
「君何所か奉公口の見当は付いたか」と聞いた。
「うん、まあ、ある様な無い様なもんだ。無ければ当分遊ぶ丈の事だ。緩くり探してゐるうちには何うかなるだらう」
云ふ事は落ち付いてゐるが、代助が聞くと却つて焦つて探してゐる様にしか取れない。代助は、昨日兄と自分の間に起つた問答の結果を、平岡に知らせやうと思つてゐたのだが、此一言を聞いて、しばらく見合せる事にした。何だか、構へてゐる向ふの体面を、わざと此方から毀損する様な気がしたからである。其上金の事に付いては平岡からはまだ一言の相談も受けた事もない。だから表向挨拶をする必要もないのである。たゞ、斯うして黙つてゐれば、平岡からは、内心で、冷淡な奴だと悪く思はれるに極つてゐる。けれども今の代助はさう云ふ非難に対して、殆んど無感覚である。又実際自分はさう熱烈な人間ぢやないと考へてゐる。三四年前の自分になつて、今の自分を批判して見れば、自分は、堕落してゐるかも知れない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧して見ると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使ひ回してゐた。渡金を金に通用させ様とする切ない工面より、真鍮を真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽である。と今は考へてゐる。
代助が真鍮を以て甘んずる様になつたのは、不意に大きな狂瀾に捲き込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を来たしたといふ様な、小説じみた歴史を有つてゐる為ではない。全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によつて、次第々々に渡金を自分で剥がして来たに過ぎない。代助は此渡金の大半をもつて、親爺が捺摺り付けたものと信じてゐる。其時分は親爺が金に見えた。多くの先輩が金に見えた。相当の教育を受けたものは、みな金に見えた。だから自分の渡金が辛かつた。早く金になりたいと焦つて見た。所が、他のものゝ地金へ、自分の眼光がぢかに打つかる様になつて以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思はれ出した。
代助は同時に斯う考へた。自分が三四年の間に、是迄変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化してゐるだらう。昔しの自分なら、可成平岡によく思はれたい心から、斯んな場合には兄と喧嘩をしても、父と口論をしても、平岡の為に計つたらう、又其計つた通りを平岡の所へ来て事々しく吹聴したらうが、それを予期するのは、矢っ張り昔しの平岡で、今の彼は左程に友達を重くは見てゐまい。
それで肝心の話は一二言で已めて、あとは色々な雑談に時を過ごすうちに酒が出た。三千代が徳利の尻を持つて御酌をした。
平岡は酔ふに従つて、段々口が多くなつて来た。此男はいくら酔つても、中〳〵平生を離れない事がある。かと思ふと、大変に元気づいて、調子に一種の悦楽を帯びて来る。さうなると、普通の酒家以上に、能く弁する上に、時としては比較的真面目な問題を持ち出して、相手と議論を上下して楽し気に見える。代助は其昔し、麦酒の壜を互の間に並べて、よく平岡と戦つた事を覚えてゐる。代助に取つて不思議とも思はれるのは、平岡が斯う云ふ状態に陥つた時が、一番平岡と議論がしやすいと云ふ自覚であつた。又酒を呑んで本音を吐かうか、と平岡の方からよく云つたものだ。今日の二人の境界は其時分とは、大分離れて来た。さうして、其離れて、近づく路を見出し悪い事実を、双方共に腹の中で心得てゐる。東京へ着いた翌日、三年振りで邂逅した二人は、其時既に、二人ともに何時か互の傍を立退いてゐたことを発見した。
所が今日は妙である。酒に親しめば親しむ程、平岡が昔の調子を出して来た。旨い局所へ酒が回つて、刻下の経済や、目前の生活や、又それに伴ふ苦痛やら、不平やら、心の底の騒がしさやらを全然痲痺して仕舞つた様に見える。平岡の談話は一躍して高い平面に飛び上がつた。
「僕は失敗したさ。けれども失敗しても働らいてゐる。又是からも働らく積だ。君は僕の失敗したのを見て笑つてゐる。──笑はないたつて、要するに笑つてると同じ事に帰着するんだから構はない。いゝか、君は笑つてゐる。笑つてゐるが、其君は何も為ないぢやないか。君は世の中を、有の儘で受け取る男だ。言葉を換えて云ふと、意志を発展させる事の出来ない男だらう。意志がないと云ふのは嘘だ。人間だもの。其証拠には、始終物足りないに違ない。僕は僕の意志を現実社会に働き掛けて、其現実社会が、僕の意志の為に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや、生きてゐられないね。そこに僕と云ふものゝ存在の価値を認めるんだ。君はたゞ考へてゐる。考へてる丈だから、頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に建立して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか。何故と云つて見給へ。僕のは其不調和を外へ出した迄で、君のは内に押し込んで置く丈の話だから、外面に押し掛けた丈、僕の方が本当の失敗の度は少ないかも知れない。でも僕は君に笑はれてゐる。さうして僕は君を笑ふ事が出来ない。いや笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや不可ないんだらう」
「何笑つても構はない。君が僕を笑ふ前に、僕は既に自分を笑つてゐるんだから」
「そりや、嘘だ。ねえ三千代」
三千代は先刻から黙つて坐つてゐたが、夫から不意に相談を受けた時、にこりと笑つて、代助を見た。
「本当でせう、三千代さん」と云ひながら、代助は盃を出して、酒を受けた。
「そりや嘘だ。おれの細君が、いくら弁護したつて、嘘だ。尤も君は人を笑つても、自分を笑つても、両方共頭の中で遣る人だから、嘘か本当か其辺はしかと分らないが……」
「冗談云つちや不可ない」
「冗談ぢやない。全く本気の沙汰であります。そりや昔の君はさうぢや無かつた。昔の君はさうぢや無かつたが、今の君は大分違つてるよ。ねえ三千代。長井は誰が見たつて、大得意ぢやないか」
「何だか先刻から、傍で伺がつてると、貴方の方が余っ程御得意の様よ」
平岡は大きな声を出してハヽヽと笑つた。三千代は燗徳利を持つて次の間へ立つた。
平岡は膳の上の肴を二口三口、箸で突つついて、下を向いた儘、むしや〳〵云はしてゐたが、やがて、どろんとした眼を上げて、云つた。──
「今日は久し振りに好い心持に酔つた。なあ君。──君はあんまり好い心持にならないね。何うも怪しからん。僕が昔の平岡常次郎になつてるのに、君が昔の長井代助にならないのは怪しからん。是非なり給へ。さうして、大いに遣つて呉れ給へ。僕も是から遣る。から君も遣つて呉れ給へ」
代助は此言葉のうちに、今の自己を昔に返さうとする真卒な又無邪気な一種の努力を認めた。さうして、それに動かされた。けれども一方では、一昨日、食つた麺麭を今返せと強請られる様な気がした。
「君は酒を呑むと、言葉丈酔払つても、頭は大抵確かな男だから、僕も云ふがね」
「それだ。それでこそ長井君だ」
代助は急に云ふのが厭になつた。
「君、頭は確かい」と聞いた。
「確だとも。君さへ確なら此方は何時でも確だ」と云つて、ちやんと代助の顔を見た。実際自分の云ふ通りの男である。そこで代助が云つた。──
「君はさつきから、働らかない〳〵と云つて、大分僕を攻撃したが、僕は黙つてゐた。攻撃される通り僕は働らかない積だから黙つてゐた」
「何故働かない」
「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其影響はみんな我々個人の上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なつてゐる。のみならず、道徳の敗退も一所に来てゐる。日本国中何所を見渡したつて、輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間に立つて僕一人が、何と云つたつて、何を為たつて、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から怠けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂有の儘の世界を、有の儘で受取つて、其中僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外の人を、此方の考へ通りにするなんて、到底出来た話ぢやありやしないもの──」
代助は一寸息を継いだ。さうして、一寸窮屈さうに控えてゐる三千代の方を見て、御世辞を遣つた。
「三千代さん。どうです、私の考は。随分呑気で宜いでせう。賛成しませんか」
「何だか厭世の様な呑気の様な妙なのね。私よく分らないわ。けれども、少し胡麻化して入らつしやる様よ」
「へええ。何処ん所を」
「何処ん所つて、ねえ貴方」と三千代は夫を見た。平岡は股の上へ肱を乗せて、肱の上へ顎を載せて黙つてゐたが、何にも云はずに盃を代助の前に出した。代助も黙つて受けた。三千代は又酌をした。
代助は盃へ唇を付けながら、是から先はもう云ふ必要がないと感じた。元来が平岡を自分の様に考へ直させる為の弁論でもなし、又平岡から意見されに来た訪問でもない。二人はいつ迄立つても、二人として離れてゐなければならない運命を有つてゐるんだと、始めから心付てゐるから、議論は能い加減に引き上げて、三千代の仲間入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持つて来やうと試みた。
けれども、平岡は酔ふとしつこくなる男であつた。胸毛の奥迄赤くなつた胸を突き出して、斯う云つた。
「そいつは面白い。大いに面白い。僕見た様に局部に当つて、現実と悪闘してゐるものは、そんな事を考へる余地がない。日本が貧弱だつて、弱虫だつて、働らいてるうちは、忘れてゐるからね。世の中が堕落したつて、世の中の堕落に気が付かないで、其中に活動するんだからね。君の様な暇人から見れば日本の貧乏や、僕等の堕落が気になるかも知れないが、それは此社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、さうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だつて忘れてゐるぢやないか」
平岡は嘵舌つてるうち、自然と此比喩に打つかつて、大いなる味方を得た様な心持がしたので、其所で得意に一段落をつけた。代助は仕方なしに薄笑ひをした。すると平岡はすぐ後を附加へた。
「君は金に不自由しないから不可ない。生活に困らないから、働らく気にならないんだ。要するに坊ちやんだから、品の好い様なこと許かり云つてゐて、──」
代助は少々平岡が小憎しくなつたので、突然中途で相手を遮ぎつた。
「働らくのも可いが、働らくなら、生活以上の働でなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭を離れてゐる」
平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔を窺つた。さうして、
「何故」と聞いた。
「何故つて、生活の為めの労力は、労力の為めの労力でないもの」
「そんな論理学の命題見た様なものは分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ」
「つまり食ふ為めの職業は、誠実にや出来悪いと云ふ意味さ」
「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
「猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。食ふ為の働らきと云ふと、つまり食ふのと、働らくのと何方が目的だと思ふ」
「無論食ふ方さ」
「夫れ見給へ。食ふ方が目的で働らく方が方便なら、食ひ易い様に、働らき方を合せて行くのが当然だらう。さうすりや、何を働らいたつて、又どう働らいたつて、構はない、只麺麭が得られゝば好いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、何うも。夫で一向差支ないぢやないか」
「では極上品な例で説明してやらう。古臭い話だが、ある本で斯んな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の拵へたものを食つて見ると頗る不味かつたんで、大変小言を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を食はして、叱られたものだから、其次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがつて、始終褒められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の為に働らく事は抜目のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために働らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
「だつて左様しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働らきでなくつちや、真面目な仕事は出来るものぢやないんだよ」
「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや益遣る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか話が、元へ戻つちまつた。是だから議論は不可ないよ」と云つて、代助は頭を掻いた。議論はそれで、とう〳〵御仕舞になつた。
代助は風呂へ這入た。
「先生、何うです、御燗は。もう少し燃させませうか」と門野が突然入り口から顔を出した。門野は斯う云ふ事には能く気の付く男である。代助は、凝と湯に浸つた儘、
「結構」と答へた。すると、門野が、
「ですか」と云ひ棄てゝ、茶の間の方へ引き返した。代助は門野の返事のし具合に、いたく興味を有つて、独りにや〳〵と笑つた。代助には人の感じ得ない事を感じる神経がある。それが為時々苦しい思もする。ある時、友達の御親爺さんが死んで、葬式の供に立つたが、不図其友達が装束を着て、青竹を突いて、柩のあとへ付いて行く姿を見て可笑しくなつて困つた事がある。又ある時は、自分の父から御談義を聞いてゐる最中に、何の気もなく父の顔を見たら、急に吹き出したくなつて弱り抜いた事がある。自宅に風呂を買はない時分には、つい近所の銭湯に行つたが、其所に一人の骨骼の逞ましい三助がゐた。是が行くたんびに、奥から飛び出して来て、流しませうと云つては脊中を擦る。代助は其奴に体をごし〳〵遣られる度に、どうしても、埃及人に遣られてゐる様な気がした。いくら思ひ返しても日本人とは思へなかつた。
まだ不思議な事がある。此間、ある書物を読んだら、ウエーバーと云ふ生理学者は自分の心臓の鼓動を、増したり、減したり、随意に変化さしたと書いてあつたので、平生から鼓動を試験する癖のある代助は、ためしに遣つて見たくなつて、一日に二三回位怖々ながら試してゐるうちに、何うやら、ウエーバーと同じ様になりさうなので、急に驚ろいて已めにした。
湯のなかに、静かに浸つてゐた代助は、何の気なしに右の手を左の胸の上へ持つて行つたが、どん〳〵と云ふ命の音を二三度聞くや否や、忽ちウエーバーを思ひ出して、すぐ流しへ下りた。さうして、其所に胡坐をかいた儘、茫然と、自分の足を見詰めてゐた。すると其足が変になり始めた。どうも自分の胴から生えてゐるんでなくて、自分とは全く無関係のものが、其所に無作法に横はつてゐる様に思はれて来た。さうなると、今迄は気が付かなかつたが、実に見るに堪えない程醜くいものである。毛が不揃に延びて、青い筋が所々に蔓つて、如何にも不思議な動物である。
代助は又湯に這入つて、平岡の云つた通り、全たく暇があり過ぎるので、こんな事迄考へるのかと思つた。湯から出て、鏡に自分の姿を写した時、又平岡の言葉を思ひ出した。幅の厚い西洋髪剃で、顎と頬を剃る段になつて、其鋭どい刃が、鏡の裏で閃く色が、一種むづ痒い様な気持を起さした。是が烈敷なると、高い塔の上から、遥かの下を見下すのと同じになるのだと意識しながら、漸く剃り終つた。
茶の間を抜け様とする拍子に、
「何うも先生は旨いよ」と門野が婆さんに話してゐた。
「何が旨いんだ」と代助は立ちながら、門野を見た。門野は、
「やあ、もう御上りですか。早いですな」と答へた。此挨拶では、もう一遍、何が旨いんだと聞かれもしなくなつたので、其儘書斎へ帰つて、椅子に腰を掛けて休息してゐた。
休息しながら、斯う頭が妙な方面に鋭どく働き出しちや、身体の毒だから、些と旅行でもしやうかと思つて見た。一つは近来持ち上つた結婚問題を避けるに都合が好いとも考へた。すると又平岡の事が妙に気に掛つて、転地する計画をすぐ打ち消して仕舞つた。それを能く煎じ詰めて見ると、平岡の事が気に掛るのではない、矢っ張り三千代の事が気にかかるのである。代助は其所迄押して来ても、別段不徳義とは感じなかつた。寧ろ愉快な心持がした。
代助が三千代と知り合になつたのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の頃であつた。代助は長井家の関係から、当時交際社会の表面にあらはれて出た、若い女の顔も名も、沢山に知つてゐた。けれども三千代は其方面の婦人ではなかつた。色合から云ふと、もつと地味で、気持から云ふと、もう少し沈んでゐた。其頃、代助の学友に菅沼と云ふのがあつて、代助とも平岡とも、親しく附合つてゐた。三千代は其妹である。
此菅沼は東京近県のもので、学生になつた二年目の春、修業の為と号して、国から妹を連れて来ると同時に、今迄の下宿を引き払つて、二人して家を持つた。其時妹は国の高等女学校を卒業した許で、年は慥十八とか云ふ話であつたが、派出な半襟を掛けて、肩上をしてゐた。さうして程なくある女学校へ通ひ始めた。
菅沼の家は谷中の清水町で、庭のない代りに、椽側へ出ると、上野の森の古い杉が高く見えた。それがまた、錆た鉄の様に、頗る異しい色をしてゐた。其一本は殆んど枯れ掛かつて、上の方には丸裸の骨許残つた所に、夕方になると烏が沢山集まつて鳴いてゐた。隣には若い画家が住んでゐた。車もあまり通らない細い横町で、至極閑静な住居であつた。
代助は其所へ能く遊びに行つた。始めて三千代に逢つた時、三千代はたゞ御辞儀をした丈で引込んで仕舞つた。代助は上野の森を評して帰つて来た。二返行つても、三返行つても、三千代はたゞ御茶を持つて出る丈であつた。其癖狭い家だから、隣の室にゐるより外はなかつた。代助は菅沼と話しながら、隣の室に三千代がゐて、自分の話を聴いてゐるといふ自覚を去る訳に行かなかつた。
三千代と口を利き出したのは、どんな機会であつたか、今では代助の記憶に残つてゐない。残つて居ない程、瑣末な尋常の出来事から起つたのだらう。詩や小説に厭いた代助には、それが却つて面白かつた。けれども一旦口を利き出してからは、矢っ張り詩や小説と同じ様に、二人はすぐ心安くなつて仕舞つた。
平岡も、代助の様に、よく菅沼の家へ遊びに来た。あるときは二人連れ立つて、来た事もある。さうして、代助と前後して、三千代と懇意になつた。三千代は兄と此二人に食付いて、時々池の端抔を散歩した事がある。
四人は此関係で約二年足らず過ごした。すると菅沼の卒業する年の春、菅沼の母と云ふのが、田舎から遊びに出て来て、しばらく清水町に泊つてゐた。此母は年に一二度づつは上京して、子供の家に五六日寐起する例になつてゐたんだが、其時は帰る前日から熱が出だして、全く動けなくなつた。それが一週間の後窒扶斯と判明したので、すぐ大学病院へ入れた。三千代は看護の為附添として一所に病院に移つた。病人の経過は、一時稍佳良であつたが、中途からぶり返して、とう〳〵死んで仕舞つた。それ許ではない。窒扶斯が、見舞に来た兄に伝染して、是も程なく亡くなつた。国にはたゞ父親が一人残つた。
それが母の死んだ時も、菅沼の死んだ時も出て来て、始末をしたので、生前に関係の深かつた代助とも平岡とも知り合になつた。三千代を連れて国へ帰る時は、娘とともに二人の下宿を別々に訪ねて、暇乞旁礼を述べた。
其年の秋、平岡は三千代と結婚した。さうして其間に立つたものは代助であつた。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連なつて貰つたのだが、身体を動かして、三千代の方を纏めたものは代助であつた。
結婚して間もなく二人は東京を去つた。国に居た父は思はざるある事情の為に余儀なくされて、是も亦北海道へ行つて仕舞つた。三千代は何方かと云へば、今心細い境遇に居る。どうかして、此東京に落付いてゐられる様にして遣りたい気がする。代助はもう一返嫂に相談して、此間の金を調達する工面をして見やうかと思つた。又三千代に逢つて、もう少し立ち入つた事情を委しく聞いて見やうかと思つた。
けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に洗ひ浚い嘵舌り散らす女ではなし、よしんば何うして、そんな金が要る様になつたかの事情を、詳しく聞き得たにした所で、夫婦の腹の中なんぞは容易に探られる訳のものではない。──代助の心の底を能く見詰めてゐると、彼の本当に知りたい点は、却つて此所に在ると、自から承認しなければならなくなる。だから正直を云ふと、何故に金が入用であるかを研究する必要は、もう既に通り越してゐたのである。実は外面の事情は聞いても聞かなくつても、三千代に金を貸して満足させたい方であつた。けれども三千代の歓心を買ふ目的を以て、其手段として金を拵へる気は丸でなかつた。代助は三千代に対して、それ程政略的な料簡を起す余裕を有つてゐなかつたのである。
其上平岡の留守へ行き中てゝ、今日迄の事情を、特に経済の点に関して丈でも、充分聞き出すのは困難である。平岡が家にゐる以上は、詳しい話の出来ないのは知れ切つてゐる。出来ても、それを一から十迄真に受ける訳には行かない。平岡は世間的な色々の動機から、代助に見栄を張つてゐる。見栄の入らない所でも一種の考から沈黙を守つてゐる。
代助は、兎も角もまづ嫂に相談して見やうと決心した。さうして、自分ながら甚だ覚束ないとは思つた。今迄嫂にちび〳〵、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、斯う短兵急に痛め付けるのは始めてゞである。然し梅子は自分の自由になる資産をいくらか持つてゐるから、或は出来ないとも限らない。夫で駄目なら、又高利でも借りるのだが、代助はまだ其所迄には気が進んでゐなかつた。たゞ早晩平岡から表向きに、連帯責任を強ひられて、それを断わり切れない位なら、一層此方から進んで、直接に三千代を喜ばしてやる方が遥かに愉快だといふ取捨の念丈は殆んど理窟を離れて、頭の中に潜んでゐた。
生暖かい風の吹く日であつた。曇つた天気が何時迄も無精に空に引掛つて、中々暮れさうにない四時過から家を出て、兄の宅迄電車で行つた。青山御所の少し手前迄来ると、電車の左側を父と兄が綱曳で急がして通つた。挨拶をする暇もないうちに擦れ違つたから、向ふは元より気が付かずに過ぎ去つた。代助は次の停留所で下りた。
兄の家の門を這入ると、客間でピアノの音がした。代助は一寸砂利の上に立ち留つたが、すぐ左へ切れて勝手口の方へ廻つた。其所には格子の外に、ヘクターと云ふ英国産の大きな犬が、大きな口を革紐で縛られて臥てゐた。代助の足音を聞くや否や、ヘクターは毛の長い耳を振つて、斑な顔を急に上げた。さうして尾を揺かした。
入口の書生部屋を覗き込んで、敷居の上に立ちながら、二言三言愛嬌を云つた後、すぐ西洋間の方へ来て、戸を明けると、嫂がピヤノの前に腰を掛けて両手を動かして居た。其傍に縫子が袖の長い着物を着て、例の髪を肩迄掛けて立つてゐた。代助は縫子の髪を見るたんびに、ブランコに乗つた縫子の姿を思ひ出す。黒い髪と、淡紅色のリボンと、それから黄色い縮緬の帯が、一時に風に吹かれて空に流れる様を、鮮かに頭の中に刻み込んでゐる。
母子は同時に振り向いた。
「おや」
縫子の方は、黙つて馳けて来た。さうして、代助の手をぐい〳〵引張つた。代助はピヤノの傍迄来た。
「如何なる名人が鳴らしてゐるのかと思つた」
梅子は何にも云はずに、額に八の字を寄せて、笑ひながら手を振り振り、代助の言葉を遮ぎつた。さうして、向ふから斯う云つた。
「代さん、此所ん所を一寸遣つて見せて下さい」
代助は黙つて嫂と入れ替つた。譜を見ながら、両方の指をしばらく奇麗に働かした後、
「斯うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。
それから三十分程の間、母子して交る〴〵楽器の前に坐つては、一つ所を復習してゐたが、やがて梅子が、
「もう廃しませう。彼方へ行つて、御飯でも食ませう。叔父さんもゐらつしやい」と云ひながら立つた。部屋のなかはもう薄暗くなつてゐた。代助は先刻から、ピヤノの音を聞いて、嫂や姪の白い手の動く様子を見て、さうして時々は例の欄間の画を眺めて、三千代の事も、金を借りる事も殆んど忘れてゐた。部屋を出る時、振り返つたら、紺青の波が摧けて、白く吹き返す所丈が、暗い中に判然見えた。代助は此大濤の上に黄金色の雲の峰を一面に描かした。さうして、其雲の峰をよく見ると、真裸な女性の巨人が、髪を乱し、身を躍らして、一団となつて、暴れ狂つてゐる様に、旨く輪廓を取らした。代助はヷルキイルを雲に見立てた積で此図を注文したのである。彼は此雲の峰だか、又巨大な女性だか、殆んど見分けの付かない、偉な塊を脳中に髣髴して、ひそかに嬉しがつてゐた。が偖出来上つて、壁の中へ嵌め込んでみると、想像したよりは不味かつた。梅子と共に部屋を出た時は、此ヷルキイルは殆んど見えなかつた。紺青の波は固より見えなかつた。たゞ白い泡の大きな塊が薄白く見えた。
居間にはもう電燈が点いてゐた。代助は其所で、梅子と共に晩食を済ました。子供二人も卓を共にした。誠太郎に兄の部室からマニラを一本取つて来さして、夫を吹かしながら、雑談をした。やがて、小供は明日の下読をする時間だと云ふので、母から注意を受けて、自分の部屋へ引き取つたので、後は差し向になつた。
代助は突然例の話を持ち出すのも、変なものだと思つて、関係のない所からそろ〳〵進行を始めた。先づ父と兄が綱曳で車を急がして何所へ行つたのだとか、此間は兄さんに御馳走になつたとか、あなたは何故麻布の園遊会へ来なかつたのだとか、御父さんの漢詩は大抵法螺だとか、色々聞いたり答へたりして居るうちに、一つ新しい事実を発見した。それは外でもない。父と兄が、近来目に立つ様に、忙しさうに奔走し始めて、此四五日は碌々寐るひまもない位だと云ふ報知である。全体何が始つたんですと、代助は平気な顔で聞いて見た。すると、嫂も普通の調子で、さうですね、何か始つたんでせう。御父さんも、兄さんも私には何にも仰しやらないから、知らないけれどもと答へて、代さんは、それよりか此間の御嫁さんをと云ひ掛けてゐる所へ、書生が這入つて来た。
今夜も遅くなる、もし、誰と誰が来たら何とか屋へ来る様に云つて呉れと云ふ電話を伝へた儘、書生は再び出て行つた。代助は又結婚問題に話が戻ると面倒だから、時に姉さん、些御願があつて来たんだが、とすぐ切り出して仕舞つた。
梅子は代助の云ふ事を素直に聞いて居た。代助は凡てを話すに約十分許を費やした。最後に、
「だから思ひ切つて貸して下さい」と云つた。すると梅子は真面目な顔をして、
「さうね。けれども全体何時返す気なの」と思ひも寄らぬ事を問ひ返した。代助は顎の先を指で撮んだ儘、じつと嫂の気色を窺つた。梅子は益真面目な顔をして、又斯う云つた。
「皮肉ぢやないのよ。怒つちや不可ませんよ」
代助は無論怒つてはゐなかつた。たゞ姉弟から斯ういふ質問を受けやうと予期してゐなかつた丈である。今更返す気だの、貰う積りだのと布衍すればする程馬鹿になる許だから、甘んじて打撃を受けてゐた丈である。梅子は漸やく手に余る弟を取つて抑えた様な気がしたので、後が大変云ひ易かつた。──
「代さん、あなたは不断から私を馬鹿にして御出なさる。──いゝえ、厭味を云ふんぢやない、本当の事なんですもの、仕方がない。さうでせう」
「困りますね、左様真剣に詰問されちや」
「善ござんすよ。胡魔化さないでも。ちやんと分つてるんだから。だから正直に左様だと云つて御仕舞なさい。左様でないと、後が話せないから」
代助は黙つてにや〳〵笑つてゐた。
「でせう。そら御覧なさい。けれども、それが当り前よ。ちつとも構やしません。いくら私が威張つたつて、貴方に敵ひつこないのは無論ですもの。私と貴方とは今迄通りの関係で、御互ひに満足なんだから、文句はありやしません。そりや夫で好いとして、貴方は御父さんも馬鹿にして入らつしやるのね」
代助は嫂の態度の真卒な所が気に入つた。それで、
「えゝ、少しは馬鹿にしてゐます」と答へた。すると梅子は左も愉快さうにハヽヽヽと笑つた。さうして云つた。
「兄さんも馬鹿にして入らつしやる」
「兄さんですか。兄さんは大いに尊敬してゐる」
「嘘を仰しやい。序だから、みんな打ち散けて御仕舞なさい」
「そりや、或点では馬鹿にしない事もない」
「それ御覧なさい。あなたは一家族中悉く馬鹿にして入らつしやる」
「どうも恐れ入りました」
「そんな言訳はどうでも好いんですよ。貴方から見れば、みんな馬鹿にされる資格があるんだから」
「もう、廃さうぢやありませんか。今日は中中きびしいですね」
「本当なのよ。夫で差支ないんですよ。喧嘩も何も起らないんだから。けれどもね、そんなに偉い貴方が、何故私なんぞから御金を借りる必要があるの。可笑しいぢやありませんか。いえ、揚足を取ると思ふと、腹が立つでせう。左様なんぢやありません。それ程偉い貴方でも、御金がないと、私見た様なものに頭を下げなけりやならなくなる」
「だから先きから頭を下げてゐるんです」
「まだ本気で聞いてゐらつしやらないのね」
「是が私の本気な所なんです」
「ぢや、それも貴方の偉い所かも知れない。然し誰も御金を貸し手がなくつて、今の御友達を救つて上げる事が出来なかつたら、何うなさる。いくら偉くつても駄目ぢやありませんか。無能力な事は車屋と同なしですもの」
代助は今迄嫂が是程適切な異見を自分に向つて加へ得やうとは思はなかつた。実は金の工面を思ひ立つてから、自分でも此弱点を冥々の裡に感じてゐたのである。
「全く車屋ですね。だから姉さんに頼むんです」
「仕方がないのね、貴方は。あんまり、偉過て。一人で御金を御取んなさいな。本当の車屋なら貸して上げない事もないけれども、貴方には厭よ。だつて余りぢやありませんか。月々兄さんや御父さんの厄介になつた上に、人の分迄自分に引受けて、貸してやらうつて云ふんだから。誰も出し度はないぢやありませんか」
梅子の云ふ所は実に尤もである。然し代助は此尤を通り越して、気が付かずにゐた。振り返つて見ると、後の方に姉と兄と父がかたまつてゐた。自分も後戻りをして、世間並にならなければならないと感じた。家を出る時、嫂から無心を断わられるだらうとは気遣つた。けれども夫が為めに、大いに働らいて、自から金を取らねばならぬといふ決心は決して起し得なかつた。代助は此事件を夫程重くは見てゐなかつたのである。
梅子は、此機会を利用して、色々の方面から代助を刺激しやうと力めた。所が代助には梅子の腹がよく解つてゐた。解れば解る程激する気にならなかつた。そのうち話題は金を離れて、再び結婚に戻つて来た。代助は最近の候補者に就て、此間から親爺に二度程悩まされてゐる。親爺の論理は何時聞いても昔し風に甚だ義理堅いものであつたが、其代り今度は左程権柄づくでもなかつた。自分の命の親に当る人の血統を受けたものと縁組をするのは結構な事であるから、貰つて呉れと云ふんである。さうすれば幾分か恩が返せると云ふんである。要するに代助から見ると、何が結構なのか、何が恩返しに当るのか、丸で筋の立たない主張であつた。尤も候補者自身に就ては、代助も格別の苦情は持つてゐなかつた事丈は慥かである。だから父の云ふ事の当否は論弁の限にあらずとして、貰へば貰つても構はないのである。代助は此二三年来、凡ての物に対して重きを置かない習慣になつた如く、結婚に対しても、あまり重きを置く必要を認めてゐない。佐川の娘といふのは只写真で知つてゐる許であるが、夫丈でも沢山な様な気がする。──尤も写真は大分美くしかつた。──従つて、貰ふとなれば、左様面倒な条件を持ち出す考も何もない。たゞ、貰ひませうと云ふ確答が出なかつた丈である。
その不明晰な態度を、父に評させると、丸で要領を得てゐない鈍物同様の挨拶振になる。結婚を生死の間に横はる一大要件と見傚して、あらゆる他の出来事を、これに従属させる考の嫂から云はせると、不可思議になる。
「だつて、貴方だつて、生涯一人でゐる気でもないんでせう。さう我儘を云はないで、好い加減な所で極めて仕舞つたら何うです」と梅子は少し焦れつたさうに云つた。
生涯一人でゐるか、或は妾を置いて暮すか、或は芸者と関係をつけるか、代助自身にも明瞭な計画は丸でなかつた。只、今の彼は結婚といふものに対して、他の独身者の様に、あまり興味を持てなかつた事は慥である。是は、彼の性情が、一図に物に向つて集注し得ないのと、彼の頭が普通以上に鋭どくつて、しかも其鋭さが、日本現代の社会状況のために、幻像打破の方面に向つて、今日迄多く費やされたのと、それから最後には、比較的金銭に不自由がないので、ある種類の女を大分多く知つてゐるのとに帰着するのである。が代助は其所迄解剖して考へる必要は認めてゐない。たゞ結婚に興味がないと云ふ、自己に明かな事実を握つて、それに応じて未来を自然に延ばして行く気でゐる。だから、結婚を必要事件と、初手から断定して、何時か之を成立させ様と喘る努力を、不自然であり、不合理であり、且つあまりに俗臭を帯びたものと解釈した。
代助は固より斯んな哲理を嫂に向つて講釈する気はない。が、段々押し詰られると、苦し紛れに、
「だが、姉さん、僕は何うしても嫁を貰はなければならないのかね」と聞く事がある。代助は無論真面目に聞く積だけれども、嫂の方では呆れて仕舞ふ。さうして、自分を茶にするのだと取る。梅子は其晩代助に向つて、平生の手続を繰り返した後で、斯んな事を云つた。
「妙なのね、そんなに厭がるのは。──厭なんぢやないつて、口では仰しやるけれども、貰はなければ、厭なのと同なしぢやありませんか。それぢや誰か好きなのがあるんでせう。其方の名を仰やい」
代助は今迄嫁の候補者としては、たゞの一人も好いた女を頭の中に指名してゐた覚がなかつた。が、今斯う云はれた時、どう云ふ訳か、不意に三千代といふ名が心に浮かんだ。つゞいて、だから先刻云つた金を貸して下さい、といふ文句が自から頭の中で出来上つた。──けれども代助はたゞ苦笑して嫂の前に坐つてゐた。
代助が嫂に失敗して帰つた夜は、大分更けてゐた。彼は辛うじて青山の通りで、最後の電車を捕まえた位である。それにも拘はらず彼の話してゐる間には、父も兄も帰つて来なかつた。尤も其間に梅子は電話口へ二返呼ばれた。然し、嫂の様子に別段変つた所もないので、代助は此方から進んで何にも聞かなかつた。
其夜は雨催の空が、地面と同じ様な色に見えた。停留所の赤い柱の傍に、たつた一人立つて電車を待ち合はしてゐると、遠い向ふから小さい火の玉があらはれて、それが一直線に暗い中を上下に揺れつつ代助の方に近いて来るのが非常に淋しく感ぜられた。乗り込んで見ると、誰も居なかつた。黒い着物を着た車掌と運転手の間に挟まれて、一種の音に埋まつて動いて行くと、動いてゐる車の外は真暗である。代助は一人明るい中に腰を掛けて、どこ迄も電車に乗つて、終に下りる機会が来ない迄引つ張り廻される様な気がした。
神楽坂へかゝると、寂りとした路が左右の二階家に挟まれて、細長く前を塞いでゐた。中途迄上つて来たら、それが急に鳴り出した。代助は風が家の棟に当る事と思つて、立ち留まつて暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲はれた。戸と障子と硝子の打ち合ふ音が、見る〳〵烈しくなつて、あゝ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ば竦んでゐた。其時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。すると、突然右側の潜り戸をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ〳〵、大きな地震だと云つて出て来た。代助は其男の声を聞いて漸く安心した。
家へ着いたら、婆さんも門野も大いに地震の噂をした。けれども、代助は、二人とも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置し様かと思案して見た。然し分別を凝らす迄には至らなかつた。父と兄の近来の多忙は何事だらうと推して見た。結婚は愚図々々にして置かうと了簡を極めた。さうして眠に入つた。
其明日の新聞に始めて日糖事件なるものがあらはれた。砂糖を製造する会社の重役が、会社の金を使用して代議士の何名かを買収したと云ふ報知である。門野は例の如く重役や代議士の拘引されるのを痛快だ々々々と評してゐたが、代助にはそれ程痛快にも思へなかつた。が、二三日するうちに取り調べを受けるものゝ数が大分多くなつて来て、世間ではこれを大疑獄の様に囃し立てる様になつた。ある新聞ではこれを英国に対する検挙と称した。其説明には、英国大使が日糖株を買ひ込んで、損をして、苦情を鳴らし出したので、日本政府も英国へ対する申訳に手を下したのだとあつた。
日糖事件の起る少し前、東洋汽船といふ会社は、壱割二分の配当をした後の半期に、八十万円の欠損を報告した事があつた。それを代助は記憶して居た。其時の新聞が此報告を評して信を置くに足らんと云つた事も記憶してゐた。
代助は自分の父と兄の関係してゐる会社に就ては何事も知らなかつた。けれども、いつ何んな事が起るまいものでもないとは常から考へてゐた。さうして、父も兄もあらゆる点に於て神聖であるとは信じてゐなかつた。もし八釜敷い吟味をされたなら、両方共拘引に価する資格が出来はしまいかと迄疑つてゐた。それ程でなくつても、父と兄の財産が、彼等の脳力と手腕丈で、誰が見ても尤と認める様に、作り上げられたとは肯はなかつた。明治の初年に横浜へ移住奨励のため、政府が移住者に土地を与へた事がある。其時たゞ貰つた地面の御蔭で、今は非常な金満家になつたものがある。けれども是は寧ろ天の与へた偶然である。父と兄の如きは、此自己にのみ幸福なる偶然を、人為的に且政略的に、暖室を造つて、拵え上げたんだらうと代助は鑑定してゐた。
代助は斯う云ふ考で、新聞記事に対しては別に驚ろきもしなかつた。父と兄の会社に就ても心配をする程正直ではなかつた。たゞ三千代の事丈が多少気に掛つた。けれども、徒手で行くのが面白くないんで、其うちの事と腹の中で料簡を定めて、日々読書に耽つて四五日過した。不思議な事に其後例の金の件に就いては、平岡からも三千代からも何とも云つて来なかつた。代助は心のうちに、あるひは三千代が又一人で返事を聞きに来る事もあるだらうと、実は心待に待つてゐたのだが、其甲斐はなかつた。
仕舞にアンニユイを感じ出した。何処か遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見やうと云ふ気を起した。神楽坂から外濠線へ乗つて、御茶の水迄来るうちに気が変つて、森川丁にゐる寺尾といふ同窓の友達を尋ねる事にした。此男は学校を出ると、教師は厭だから文学を職業とすると云ひ出して、他のものゝ留めるにも拘らず、危険な商買をやり始めた。やり始めてから三年になるが、未だに名声も上らず、窮々云つて原稿生活を持続してゐる。自分の関係のある雑誌に、何でも好いから書けと逼るので、代助は一度面白いものを寄草した事がある。それは一ヶ月の間雑誌屋の店頭に曝されたぎり、永久人間世界から何処かへ、運命の為めに持つて行かれて仕舞つた。それぎり代助は筆を執る事を御免蒙つた。寺尾は逢ふたんびに、もつと書け書けと勧める。さうして、己を見ろと云ふのが口癖であつた。けれども外の人に聞くと、寺尾ももう陥落するだらうと云ふ評判であつた。大変露西亜ものが好で、ことに人が名前を知らない作家が好で、なけなしの銭を工面しては新刊物を買ふのが道楽であつた。あまり気焔が高かつた時、代助が、文学者も恐露病に罹つてるうちはまだ駄目だ。一旦日露戦争を経過したものでないと話せないと冷評返した事がある。すると寺尾は真面目な顔をして、戦争は何時でもするが、日露戦争後の日本の様に往生しちや詰らんぢやないか。矢っ張り恐露病に罹つてる方が、卑怯でも安全だ、と答へて矢っ張り露西亜文学を鼓吹してゐた。
玄関から座敷へ通つて見ると、寺尾は真中へ一貫張の机を据ゑて、頭痛がすると云つて鉢巻をして、腕まくりで、帝国文学の原稿を書いてゐた。邪魔ならまた来ると云ふと、帰らんでもいゝ、もう今朝から五五、二円五十銭丈稼いだからと云ふ挨拶であつた。やがて鉢巻を外して、話を始めた。始めるが早いか、今の日本の作家と評家を眼の玉の飛び出る程痛快に罵倒し始めた。代助はそれを面白く聞いてゐた。然し腹の中では、寺尾の事を誰も賞めないので、其対抗運動として、自分の方では他を貶すんだらうと思つた。ちと、左様云ふ意見を発表したら好いぢやないかと勧めると、左様は行かないよと笑つてゐる。何故と聞き返しても答へない。しばらくして、そりや君の様に気楽に暮せる身分なら随分云つて見せるが──何しろ食ふんだからね。どうせ真面目な商買ぢやないさ。と云つた。代助は、夫で結構だ、確かり遣り玉へと奨励した。すると寺尾は、いや些とも結構ぢやない。どうかして、真面目になりたいと思つてゐる。どうだ、君ちつと金を借して僕を真面目にする了見はないかと聞いた。いや、君が今の様な事をして、夫で真面目だと思ふ様になつたら、其時借してやらうと調戯つて、代助は表へ出た。
本郷の通り迄来たが惓怠の感は依然として故の通りである。何処をどう歩いても物足りない。と云つて、人の宅を訪ねる気はもう出ない。自分を検査して見ると、身体全体が、大きな胃病の様な心持がした。四丁目から又電車へ乗つて、今度は伝通院前迄来た。車中で揺られるたびに、五尺何寸かある大きな胃嚢の中で、腐つたものが、波を打つ感じがあつた。三時過ぎにぼんやり宅へ帰つた。玄関で門野が、
「先刻御宅から御使でした。手紙は書斎の机の上に載せて置きました。受取は一寸私が書いて渡して置きました」と云つた。
手紙は古風な状箱の中にあつた。其赤塗の表には名宛も何も書かないで、真鍮の環に通した観世撚の封じ目に黒い墨を着けてあつた。代助は机の上を一目見て、此手紙の主は嫂だとすぐ悟つた。嫂は斯う云ふ旧式な趣味があつて、それが時々思はぬ方角へ出てくる。代助は鋏の先で観世撚の結目を突つつきながら、面倒な手数だと思つた。
けれども中にあつた手紙は、状箱とは正反対に、簡単な言文一致で用を済してゐた。此間わざ〳〵来て呉れた時は、御依頼通り取り計ひかねて、御気の毒をした。後から考へて見ると、其時色々無遠慮な失礼を云つた事が気にかゝる。どうか悪く取つて下さるな。其代り御金を上げる。尤もみんなと云ふ訳には行かない。二百円丈都合して上げる。から夫をすぐ御友達の所へ届けて御上げなさい。是は兄さんには内所だから其積でゐなくつては不可ない。奥さんの事も宿題にするといふ約束だから、よく考へて返事をなさい。
手紙の中に巻き込めて、二百円の小切手が這入つてゐた。代助は、しばらく、それを眺めてゐるうちに、梅子に済まない様な気がして来た。此間の晩、帰りがけに、向から、ぢや御金は要らないのと聞いた。貸して呉れと切り込んで頼んだ時は、あゝ手痛く跳ね付けて置きながら、いざ断念して帰る段になると、却つて断わつた方から、掛念がつて駄目を押して出た。代助はそこに女性の美くしさと弱さとを見た。さうして其弱さに付け入る勇気を失つた。此美しい弱点を弄ぶに堪えなかつたからである。えゝ要りません、何うかなるでせうと云つて分れた。それを梅子は冷かな挨拶と思つたに違ない。其冷かな言葉が、梅子の平生の思ひ切つた動作の裏に、何処にか引つ掛つてゐて、とう〳〵此手紙になつたのだらうと代助は判断した。
代助はすぐ返事を書いた。さうして出来る丈暖かい言葉を使つて感謝の意を表した。代助が斯う云ふ気分になる事は兄に対してもない。父に対してもない。世間一般に対しては固よりない。近来は梅子に対してもあまり起らなかつたのである。
代助はすぐ三千代の所へ出掛け様かと考へた。実を云ふと、二百円は代助に取つて中途半端な額であつた。是丈呉れるなら、一層思ひ切つて、此方の強請つた通りにして、満足を買へばいゝにと云ふ気も出た。が、それは代助の頭が梅子を離れて三千代の方へ向いた時の事であつた。その上、女は如何に思ひ切つた女でも、感情上中途半端なものであると信じてゐる代助には、それが別段不平にも思へなかつた。否女の斯う云ふ態度の方が、却つて男性の断然たる所置よりも、同情の弾力性を示してゐる点に於て、快よいものと考へてゐた。だから、もし二百円を自分に贈つたものが、梅子でなくつて、父であつたとすれば、代助は、それを経済的中途半端と解釈して、却つて不愉快な感に打たれたかも知れないのである
代助は晩食も食はずに、すぐ又表へ出た。五軒町から江戸川の縁を伝つて、河を向へ越した時は、先刻散歩からの帰りの様に精神の困憊を感じてゐなかつた。坂を上つて伝通院の横へ出ると、細く高い烟突が、寺と寺の間から、汚ない烟を、雲の多い空に吐いてゐた。代助はそれを見て、貧弱な工業が、生存の為に無理に吐く呼吸を見苦しいものと思つた。さうして其近くに住む平岡と、此烟突とを暗々の裏に連想せずにはゐられなかつた。斯う云ふ場合には、同情の念より美醜の念が先に立つのが、代助の常であつた。代助は此瞬間に、三千代の事を殆んど忘れて仕舞つた位、空に散る憐れな石炭の烟に刺激された。
平岡の玄関の沓脱には女の穿く重ね草履が脱ぎ棄てゝあつた。格子を開けると、奥の方から三千代が裾を鳴らして出て来た。其時上り口の二畳は殆んど暗かつた。三千代は其暗い中に坐つて挨拶をした。始めは誰が来たのか、よく分らなかつたらしかつたが、代助の声を聞くや否や、何方かと思つたら……と寧ろ低い声で云つた。代助は判然見えない三千代の姿を、常よりは美しく眺めた。
平岡は不在であつた。それを聞いた時、代助は話してゐ易い様な、又話してゐ悪い様な変な気がした。けれども三千代の方は常の通り落ち付いてゐた。洋燈も点けないで、暗い室を閉て切つた儘二人で坐つてゐた。三千代は下女も留守だと云つた。自分も先刻其所迄用達に出て、今帰つて夕食を済ました許りだと云つた。やがて平岡の話が出た。
予期した通り、平岡は相変らず奔走してゐる。が、此一週間程は、あんまり外へ出なくなつた。疲れたと云つて、よく宅に寐てゐる。でなければ酒を飲む。人が尋ねて来れば猶飲む。さうして善く怒る。さかんに人を罵倒する。のださうである。
「昔と違つて気が荒くなつて困るわ」と云つて、三千代は暗に同情を求める様子であつた。代助は黙つてゐた。下女が帰つて来て、勝手口でがた〳〵音をさせた。しばらくすると、胡摩竹の台の着いた洋燈を持つて出た。襖を締める時、代助の顔を偸む様に見て行つた。
代助は懐から例の小切手を出した。二つに折れたのを其儘三千代の前に置いて、奥さん、と呼び掛けた。代助が三千代を奥さんと呼んだのは始めてゞあつた。
「先達て御頼の金ですがね」
三千代は何にも答へなかつた。たゞ眼を挙げて代助を見た。
「実は、直にもと思つたんだけれども、此方の都合が付かなかつたものだから、遂遅くなつたんだが、何うですか、もう始末は付きましたか」と聞いた。
其時三千代は急に心細さうな低い声になつた。さうして怨ずる様に、
「未ですわ。だつて、片付く訳が無いぢやありませんか」と云つた儘、眼を睜つて凝と代助を見てゐた。代助は折れた小切手を取り上げて二つに開いた。
「是丈ぢや駄目ですか」
三千代は手を伸ばして小切手を受取つた。
「難有う。平岡が喜びますわ」と静かに小切手を畳の上に置いた。
代助は金を借りて来た由来を、極ざつと説明して、自分は斯ういふ呑気な身分の様に見えるけれども、何か必要があつて、自分以外の事に、手を出さうとすると、丸で無能力になるんだから、そこは悪く思つて呉れない様にと言訳を付け加へた。
「それは、私も承知してゐますわ。けれども、困つて、何うする事も出来ないものだから。つい無理を御願して」と三千代は気の毒さうに詫を述べた。代助はそこで念を押した。
「夫丈で、何うか始末が付きますか。もし何うしても付かなければ、もう一遍工面して見るんだが」
「もう一遍工面するつて」
「判を押して高い利のつく御金を借りるんです」
「あら、そんな事を」と三千代はすぐ打ち消す様に云つた。「それこそ大変よ。貴方」
代助は平岡の今苦しめられてゐるのも、其起りは、性質の悪い金を借り始めたのが転々して祟つてゐるんだと云ふ事を聞いた。平岡は、あの地で、最初のうちは、非常な勤勉家として通つてゐたのだが、三千代が産後心臓が悪くなつて、ぶら〳〵し出すと、遊び始めたのである。それも初めのうちは、夫程烈しくもなかつたので、三千代はたゞ交際上已を得ないんだらうと諦めてゐたが、仕舞にはそれが段々高じて、程度が無くなる許なので三千代も心配をする。すれば身体が悪くなる。なれば放蕩が猶募る。不親切なんぢやない。私が悪いんですと三千代はわざ〳〵断わつた。けれども又淋しい顔をして、責めて小供でも生きてゐて呉れたら嘸可かつたらうと、つく〴〵考へた事もありましたと自白した。
代助は経済問題の裏面に潜んでゐる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く此方から問ふのを控えた。帰りがけに、
「そんなに弱つちや不可ない。昔の様に元気に御成んなさい。さうして些と遊びに御出なさい」と勇気をつけた。
「本当ね」と三千代は笑つた。彼等は互の昔を互の顔の上に認めた。平岡はとう〳〵帰つて来なかつた。
中二日置いて、突然平岡が来た。其日は乾いた風が朗らかな天を吹いて、蒼いものが眼に映る、常よりは暑い天気であつた。朝の新聞に菖蒲の案内が出てゐた。代助の買つた大きな鉢植の君子蘭はとう〳〵縁側で散つて仕舞つた。其代り脇差程も幅のある緑の葉が、茎を押し分けて長く延びて来た。古い葉は黒ずんだ儘、日に光つてゐる。其一枚が何かの拍子に半分から折れて、茎を去る五寸許の所で、急に鋭く下つたのが、代助には見苦しく見えた。代助は鋏を持つて椽に出た。さうして其葉を折れ込んだ手前から、剪つて棄てた。時に厚い切り口が、急に煮染む様に見えて、しばらく眺めてゐるうちに、ぽたりと椽に音がした。切口に集つたのは緑色の濃い重い汁であつた。代助は其香を嗅がうと思つて、乱れる葉の中に鼻を突つ込んだ。椽側の滴は其儘にして置いた。立ち上がつて、袂から手帛を出して、鋏の刃を拭いてゐる所へ、門野が平岡さんが御出ですと報せて来たのである。代助は其時平岡の事も三千代の事も、丸で頭の中に考へてゐなかつた。只不思議な緑色の液体に支配されて、比較的世間に関係のない情調の下に動いてゐた。それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えて仕舞つた。さうして、何だか逢ひたくない様な気持がした。
「此方へ御通し申しませうか」と門野から催促された時、代助はうんと云つて、座敷へ這入つた。あとから席に導かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を着てゐた。襟も白襯衣も新らしい上に、流行の編襟飾を掛けて、浪人とは誰にも受け取れない位、ハイカラに取り繕ろつてゐた。
話して見ると、平岡の事情は、依然として発展してゐなかつた。もう近頃は運動しても当分駄目だから、毎日斯うして遊んで歩く。それでなければ、宅に寐てゐるんだと云つて、大きな声を出して笑つて見せた。代助もそれが可からうと答へたなり、後は当らず障らずの世間話に時間を潰してゐた。けれども自然に出る世間話といふよりも、寧ろある問題を回避する為の世間話だから、両方共に緊張を腹の底に感じてゐた。
平岡は三千代の事も、金の事も口へ出さなかつた。従がつて三日前代助が彼の留守宅を訪問した事に就ても何も語らなかつた。代助も始めのうちは、わざと、その点に触れないで澄してゐたが、何時迄経つても、平岡の方で余所々々しく構へてゐるので、却つて不安になつた。
「実は二三日前君の所へ行つたが、君は留守だつたね」と云ひ出した。
「うん。左様だつたさうだね。其節は又難有う。御蔭さまで。──なに、君を煩はさないでも何うかなつたんだが、彼奴があまり心配し過て、つい君に迷惑を掛けて済まない」と冷淡な礼を云つた。それから、
「僕も実は御礼に来た様なものだが、本当の御礼には、いづれ当人が出るだらうから」と丸で三千代と自分を別物にした言分であつた。代助はたゞ、
「そんな面倒な事をする必要があるものか」と答へた。話は是で切れた。が又両方に共通で、しかも、両方のあまり興味を持たない方面に摺り滑つて行つた。すると、平岡が突然、
「僕はことによると、もう実業は已めるかも知れない。実際内幕を知れば知る程厭になる。其上此方へ来て、少し運動をして見て、つくづく勇気がなくなつた」と心底かららしい告白をした。代助は、一口、
「それは、左様だらう」と答へた。平岡はあまり此返事の冷淡なのに驚ろいた様子であつた。が、又あとを付けた。
「先達ても一寸話したんだが、新聞へでも這入らうかと思つてる」
「口があるのかい」と代助が聞き返した。
「今、一つある。多分出来さうだ」
来た時は、運動しても駄目だから遊んでゐると云ふし、今は新聞に口があるから出様と云ふし、少し要領を欠いでゐるが、追窮するのも面倒だと思つて、代助は、
「それも面白からう」と賛成の意を表して置いた。
平岡の帰りを玄関迄見送つた時、代助はしばらく、障子に身を寄せて、敷居の上に立つてゐた。門野も御附合に平岡の後姿を眺めてゐた。が、すぐ口を出した。
「平岡さんは思つたよりハイカラですな。あの服装ぢや、少し宅の方が御粗末過る様です」
「左様でもないさ。近頃はみんな、あんなものだらう」と代助は立ちながら答へた。
「全たく、服装丈ぢや分らない世の中になりましたからね。何処の紳士かと思ふと、どうも変ちきりんな家へ這入てますからね」と門野はすぐあとを付けた。
代助は返事も為ずに書斎へ引き返した。椽側に垂れた君子蘭の緑の滴がどろ〳〵になつて、干上り掛つてゐた。代助はわざと、書斎と座敷の仕切を立て切つて、一人室のうちへ這入つた。来客に接した後しばらくは、独坐に耽るが代助の癖であつた。ことに今日の様に調子の狂ふ時は、格別その必要を感じた。
平岡はとう〳〵自分と離れて仕舞つた。逢ふたんびに、遠くにゐて応対する様な気がする。実を云ふと、平岡ばかりではない。誰に逢つても左んな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過なかつた。大地は自然に続いてゐるけれども、其上に家を建てたら、忽ち切れ〳〵になつて仕舞つた。家の中にゐる人間も亦切れ切れになつて仕舞つた。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。
代助と接近してゐた時分の平岡は、人に泣いて貰ふ事を喜こぶ人であつた。今でも左様かも知れない。が、些ともそんな顔をしないから、解らない。否、力めて、人の同情を斥ける様に振舞つてゐる。孤立しても世は渡つて見せるといふ我慢か、又は是が現代社会に本来の面目だと云ふ悟りか、何方かに帰着する。
平岡に接近してゐた時分の代助は、人の為に泣く事の好きな男であつた。それが次第々々に泣けなくなつた。泣かない方が現代的だからと云ふのではなかつた。事実は寧ろ之を逆にして、泣かないから現代的だと言ひたかつた。泰西の文明の圧迫を受けて、其重荷の下に唸る、劇烈な生存競争場裏に立つ人で、真によく人の為に泣き得るものに、代助は未だ曾て出逢はなかつた。
代助は今の平岡に対して、隔離の感よりも寧ろ嫌悪の念を催ふした。さうして向ふにも自己同様の念が萌してゐると判じた。昔しの代助も、時々わが胸のうちに、斯う云ふ影を認めて驚ろいた事があつた。其時は非常に悲しかつた。今は其悲しみも殆んど薄く剥がれて仕舞つた。だから自分で黒い影を凝と見詰めて見る。さうして、これが真だと思ふ。已を得ないと思ふ。たゞそれ丈になつた。
斯う云ふ意味の孤独の底に陥つて煩悶するには、代助の頭はあまりに判然し過てゐた。彼はこの境遇を以て、現代人の踏むべき必然の運命と考へたからである。従つて、自分と平岡の隔離は、今の自分の眼に訴へて見て、尋常一般の径路を、ある点迄進行した結果に過ないと見傚した。けれども、同時に、両人の間に横たはる一種の特別な事情の為、此隔離が世間並よりも早く到着したと云ふ事を自覚せずにはゐられなかつた。それは三千代の結婚であつた。三千代を平岡に周旋したものは元来が自分であつた。それを当時に悔る様な薄弱な頭脳ではなかつた。今日に至つて振り返つて見ても、自分の所作は、過去を照らす鮮かな名誉であつた。けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等二人の前に突き付けた。彼等は自己の満足と光輝を棄てゝ、其前に頭を下げなければならなかつた。さうして平岡は、ちらり〳〵と何故三千代を貰つたかと思ふ様になつた。代助は何処かしらで、何故三千代を周旋したかと云ふ声を聞いた。
代助は書斎に閉ぢ籠つて一日考へに沈んでゐた。晩食の時、門野が、
「先生今日は一日御勉強ですな。どうです、些と御散歩になりませんか。今夜は寅毘沙ですぜ。演芸館で支那人の留学生が芝居を演つてます。どんな事を演る積ですか、行つて御覧なすつたら何うです。支那人てえ奴は、臆面がないから、何でも遣る気だから呑気なもんだ。……」と一人で喋舌つた。
代助は又父から呼ばれた。代助には其用事が大抵分つてゐた。代助は不断から成るべく父を避けて会はない様にしてゐた。此頃になつては猶更奥へ寄り付かなかつた。逢ふと、叮嚀な言葉を使つて応対してゐるにも拘はらず、腹の中では、父を侮辱してゐる様な気がしてならなかつたからである。
代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでゐた。さうして、これを、近来急に膨脹した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈してゐた。又これを此等新旧両慾の衝突と見傚してゐた。最後に、此生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯と心得てゐた。
この二つの因数は、何処かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を較べる日の来る迄は、此平衡は日本に於て得られないものと代助は信じてゐた。さうして、斯ゝる日は、到底日本の上を照らさないものと諦めてゐた。だからこの窮地に陥つた日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはたゞ頭の中に於て、罪悪を犯さなければならない。さうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつゝあるかを、互に黙知しつゝ、談笑しなければならない。代助は人類の一人として、かゝる侮辱を加ふるにも、又加へらるゝにも堪へなかつた。
代助の父の場合は、一般に比べると、稍特殊的傾向を帯びる丈に複雑であつた。彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。此教育は情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据ゑて、事実の発展によつて証明せらるべき手近な真を、眼中に置かない無理なものであつた。にも拘はらず、父は習慣に囚へられて、未だに此教育に執着してゐる。さうして、一方には、劇烈な生活慾に冒され易い実業に従事した。父は実際に於て年々此生活慾の為に腐蝕されつゝ今日に至つた。だから昔の自分と、今の自分の間には、大いな相違のあるべき筈である。それを父は自認してゐなかつた。昔の自分が、昔通りの心得で、今の事業を是迄に成し遂げたとばかり公言する。けれども封建時代にのみ通用すべき教育の範囲を狭める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に充たして行ける訳がないと代助は考へた。もし双方を其儘に存在させ様とすれば、之を敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。もし内心に此苦痛を受けながら、たゞ苦痛の自覚丈明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である。代助は父に対する毎に、父は自己を隠蔽する偽君子か、もしくは分別の足らない愚物か、何方かでなくてはならない様な気がした。さうして、左う云ふ気がするのが厭でならなかつた。
と云つて、父は代助の手際で、何うする事も出来ない男であつた。代助には明らかに、それが分つてゐた。だから代助は未だ曾て父を矛盾の極端迄追ひ詰めた事がなかつた。
代助は凡ての道徳の出立点は社会的事実より外にないと信じてゐた。始めから頭の中に硬張つた道徳を据ゑ付けて、其道徳から逆に社会的事実を発展させ様とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた。従つて日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考へた。彼等は学校で昔し風の道徳を教授してゐる。それでなければ一般欧洲人に適切な道徳を呑み込ましてゐる。此劇烈なる生活慾に襲はれた不幸な国民から見れば、迂遠の空談に過ぎない。此迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る時、昔の講釈を思ひ出して笑つて仕舞ふ。でなければ馬鹿にされた様な気がする。代助に至つては、学校のみならず、現に自分の父から、尤も厳格で、尤も通用しない徳義上の教育を受けた。それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、頭の中に起した。代助はそれを恨めしく思つてゐる位であつた。
代助は此前梅子に礼を云ひに行つた時、梅子から一寸奥へ行つて、挨拶をしてゐらつしやいと注意された。代助は笑ひながら御父さんはゐるんですかと空とぼけた。ゐらつしやるわと云ふ確答を得た時でも、今日はちと急ぐから廃さうと帰つて来た。
今日はわざ〳〵其為に来たのだから、否でも応でも父に逢はなければならない。相変らず、内玄関の方から廻つて座敷へ来ると、珍らしく兄の誠吾が胡坐をかいて、酒を呑んでゐた。梅子も傍に坐つてゐた。兄は代助を見て、
「何うだ、一盃遣らないか」と、前にあつた葡萄酒の壜を持つて振つて見せた。中にはまだ余程這入つてゐた。梅子は手を敲いて洋盞を取り寄せた。
「当てゝ御覧なさい。どの位古いんだか」と一杯注いだ。
「代助に分るものか」と云つて、誠吾は弟の唇のあたりを眺めてゐた。代助は一口飲んで盃を下へ下した。肴の代りに薄いウエーファーが菓子皿にあつた。
「旨いですね」と云つた。
「だから時代を当てゝ御覧なさいよ」
「時代があるんですか。偉いものを買ひ込んだもんだね。帰りに一本貰つて行かう」
「御生憎様、もう是限なの。到来物よ」と云つて梅子は椽側へ出て、膝の上に落ちたウエーフアーの粉を払いた。
「兄さん、今日は何うしたんです。大変気楽さうですね」と代助が聞いた。
「今日は休養だ。此間中は何うも忙し過て降参したから」と誠吾は火の消えた葉巻を口に啣えた。代助は自分の傍にあつた燐寸を擦つて遣つた。
「代さん貴方こそ気楽ぢやありませんか」と云ひながら梅子が椽側から帰つて来た。
「姉さん歌舞伎座へ行きましたか。まだなら、行つて御覧なさい。面白いから」
「貴方もう行つたの、驚ろいた。貴方も余っ程怠けものね」
「怠けものは可くない。勉強の方向が違ふんだから」
「押の強い事ばかり云つて。人の気も知らないで」と梅子は誠吾の方を見た。誠吾は赤い瞼をして、ぽかんと葉巻の烟を吹いてゐた。
「ねえ、貴方」と梅子が催促した。誠吾はうるささうに葉巻を指の股へ移して、
「今のうち沢山勉強して貰つて置いて、今に此方が貧乏したら、救つて貰ふ方が好いぢやないか」と云つた。梅子は、
「代さん、あなた役者になれて」と聞いた。代助は何にも云はずに、洋盞を姉の前に出した。梅子も黙つて葡萄酒の壜を取り上げた。
「兄さん、此間中は何だか大変忙しかつたんだつてね」と代助は前へ戻つて聞いた。
「いや、もう大弱りだ」と云ひながら、誠吾は寐転んで仕舞つた。
「何か日糖事件に関係でもあつたんですか」と代助が聞いた。
「日糖事件に関係はないが、忙しかつた」
兄の答は何時でも此程度以上に明瞭になつた事がない。実は明瞭に話したくないんだらうけれども、代助の耳には、夫が本来の無頓着で、話すのが臆怯なためと聞える。だから代助はいつでも楽に其返事の中に這入てゐた。
「日糖も詰らない事になつたが、あゝなる前に何うか方法はないもんでせうかね」
「左うさなあ。実際世の中の事は、何が何うなるんだか分らないからな。──梅、今日は直木に云ひ付けて、ヘクターを少し運動させなくつちや不可いよ。あゝ大食をして寐て許ゐちや毒だ」と誠吾は眠さうな瞼を指でしきりに擦つた。代助は、
「愈奥へ行つて御父さんに叱られて来るかな」と云ひながら又洋盞を嫂の前へ出した。梅子は笑つて酒を注いだ。
「嫁の事か」と誠吾が聞いた。
「まあ、左うだらうと思ふんです」
「貰つて置くがいゝ。さう老人に心配さしたつて仕様があるものか」と云つたが、今度はもつと判然した語勢で、
「気を付けないと不可よ。少し低気圧が来てゐるから」と注意した。代助は立ち掛けながら、
「まさか此間中の奔走からきた低気圧ぢやありますまいね」と念を押した。兄は寐転んだ儘、
「何とも云へないよ。斯う見えて、我々も日糖の重役と同じ様に、何時拘引されるか分らない身体なんだから」と云つた。
「馬鹿な事を仰しやるなよ」と梅子が窘めた。
「矢っ張り僕ののらくらが持ち来たした低気圧なんだらう」と代助は笑ひながら立つた。
廊下伝ひに中庭を越して、奥へ来て見ると、父は唐机の前へ坐つて、唐本を見てゐた。父は詩が好で、閑があると折々支那人の詩集を読んでゐる。然し時によると、それが尤も機嫌のわるい索引になる事があつた。さう云ふときは、いかに神経のふつくら出来上つた兄でも、成るべく近寄らない事にしてゐた。是非顔を合せなければならない場合には、誠太郎か、縫子か、何方か引張て父の前へ出る手段を取つてゐた。代助も椽側迄来て、そこに気が付いたが、夫程の必要もあるまいと思つて、座敷を一つ通り越して、父の居間に這入つた。
父はまづ眼鏡を外した。それを読み掛けた書物の上に置くと、代助の方に向き直つた。さうして、たゞ一言、
「来たか」と云つた。其語調は平常よりも却つて穏な位であつた。代助は膝の上に手を置きながら、兄が真面目な顔をして、自分を担いたんぢやなからうかと考へた。代助はそこで又苦い茶を飲ませられて、しばらく雑談に時を移した。今年は芍薬の出が早いとか、茶摘歌を聞いてゐると眠くなる時候だとか、何所とかに、大きな藤があつて、其花の長さが四尺足らずあるとか、話は好加減な方角へ大分長く延びて行つた。代助は又其方が勝手なので、いつ迄も延ばす様にと、後から後を付けて行つた。父も仕舞には持て余して、とう〳〵、時に今日御前を呼んだのはと云ひ出した。
代助はそれから後は、一言も口を利かなくなつた。只謹んで親爺の云ふことを聴いてゐた。父も代助から斯う云ふ態度に出られると、長い間自分一人で、講義でもする様に、述べて行かなくてはならなかつた。然し其半分以上は、過去を繰り返す丈であつた。が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を払つて聞いてゐた。
父の長談義のうちに、代助は二三の新しい点も認めた。その一つは、御前は一体是からさき何うする料簡なんだと云ふ真面目な質問であつた。代助は今迄父からの注文ばかり受けてゐた。だから、其注文を曖昧に外す事に慣れてゐた。けれども、斯う云ふ大質問になると、さう口から出任せに答へられない。無暗な事を云へば、すぐ父を怒らして仕舞ふからである。と云つて正直を自白すると、二三年間父の頭を教育した上でなくつては、通じない理窟になる。何故と云ふと、代助は今此大質問に応じて、自分の未来を明瞭に道破る丈の考も何も有つてゐなかつたからである。彼はそれが自分に取つては尤もな所だと思つてゐた。から、父が、其通りを聞いて、成程と納得する迄には、大変な時間がかゝる。或は生涯通じつこないかも知れない。父の気に入る様にするのは、何でも、国家の為とか、天下の為とか、景気の好い事を、しかも結婚と両立しない様な事を、述べて置けば済むのであるが、代助は如何に、自己を侮辱する気になつても、是ばかりは馬鹿気てゐて、口へ出す勇気がなかつた。そこで已を得ないから、実は色々計画もあるが、いづれ秩序立てゝ来て、御相談をする積であると答へた。答へた後で、実に滑稽だと思つたが仕方がなかつた。
代助は次に、独立の出来る丈の財産が欲しくはないかと聞かれた。代助は無論欲しいと答へた。すると、父が、では佐川の娘を貰つたら好からうと云ふ条件を付けた。其財産は佐川の娘が持つて来るのか、又は父が呉れるのか甚だ曖昧であつた。代助は少し其点に向つて進んで見たが、遂に要領を得なかつた。けれども、それを突き留める必要がないと考へて已めた。
次に、一層洋行する気はないかと云はれた。代助は好いでせうと云つて賛成した。けれども、これにも、矢っ張り結婚が先決問題として出て来た。
「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると父の顔が赤くなつた。
代助は父を怒らせる気は少しもなかつたのである。彼の近頃の主義として、人と喧嘩をするのは、人間の堕落の一範鋳になつてゐた。喧嘩の一部分として、人を怒らせるのは、怒らせる事自身よりは、怒つた人の顔色が、如何に不愉快にわが眼に映ずるかと云ふ点に於て、大切なわが生命を傷ける打撃に外ならぬと心得てゐた。彼は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を有つてゐた。けれども、それが為に、自然の儘に振舞ひさへすれば、罰を免かれ得るとは信じてゐなかつた。人を斬つたものゝ受くる罰は、斬られた人の肉から出る血潮であると固く信じてゐた。迸しる血の色を見て、清い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助は夫程神経の鋭どい男であつた。だから顔の色を赤くした父を見た時、妙に不快になつた。けれども此罪を二重に償ふために、父の云ふ通りにしやうと云ふ気は些とも起らなかつた。彼は、一方に於て、自己の脳力に、非常な尊敬を払ふ男であつたからである。
其時父は頗る熱した語気で、先づ自分の年を取つてゐる事、子供の未来が心配になる事、子供に嫁を持たせるのは親の義務であると云ふ事、嫁の資格其他に就ては、本人よりも親の方が遥かに周到な注意を払つてゐると云ふ事、他の親切は、其当時にこそ余計な御世話に見えるが、後になると、もう一遍うるさく干渉して貰ひたい時機が来るものであるといふ事を、非常に叮嚀に説いた。代助は慎重な態度で、聴いてゐた。けれども、父の言葉が切れた時も、依然として許諾の意を表さなかつた。すると父はわざと抑えた調子で、
「ぢや、佐川は已めるさ。さうして誰でも御前の好なのを貰つたら好いだらう。誰か貰ひたいのがあるのか」と云つた。是は嫂の質問と同様であるが、代助は梅子に対する様に、たゞ苦笑ばかりしてはゐられなかつた。
「別にそんな貰ひたいのもありません」と明らかな返事をした。すると父は急に肝の発した様な声で、
「ぢや、少しは此方の事も考へて呉れたら好からう。何もさう自分の事ばかり思つてゐないでも」と急調子に云つた。代助は、突然父が代助を離れて、彼自身の利害に飛び移つたのに驚ろかされた。けれども其驚ろきは、論理なき急劇の変化の上に注がれた丈であつた。
「貴方にそれ程御都合が好い事があるなら、もう一遍考へて見ませう」と答へた。
父は益機嫌をわるくした。代助は人と応対してゐる時、何うしても論理を離れる事の出来ない場合がある。夫が為め、よく人から、相手を遣り込めるのを目的とする様に受取られる。実際を云ふと、彼程人を遣り込める事の嫌な男はないのである。
「何も己の都合許で、嫁を貰へと云つてやしない」と父は前の言葉を訂正した。「そんなに理窟を云ふなら、参考の為、云つて聞かせるが、御前はもう三十だらう、三十になつて、普通のものが結婚をしなければ、世間では何と思ふか大抵分るだらう。そりや今は昔と違ふから、独身も本人の随意だけれども、独身の為に親や兄弟が迷惑したり、果は自分の名誉に関係する様な事が出来したりしたら何うする気だ」
代助はたゞ茫然として父の顔を見てゐた。父は何の点に向つて、自分を刺した積りだか、代助には殆んど分らなかつたからである。しばらくして、
「そりや私のことだから少しは道楽もしますが……」と云ひかけた。父はすぐ夫を遮ぎつた。
「そんな事ぢやない」
二人は夫限りしばらく口を利かずにゐた。父は此沈黙を以て代助に向つて与へた打撃の結果と信じた。やがて、言葉を和らげて、
「まあ、よく考へて御覧」と云つた。代助ははあと答へて、父の室を退ぞいた。座敷へ来て兄を探したが見えなかつた。嫂はと尋ねたら、客間だと下女が教へたので、行つて戸を明けて見ると、縫子のピヤノの先生が来てゐた。代助は先生に一寸挨拶をして、梅子を戸口迄呼び出した。
「あなたは僕の事を何か御父さんに讒訴しやしないか」
梅子はハヽヽヽと笑つた。さうして、
「まあ御這入んなさいよ。丁度好い所だから」と云つて、代助を楽器の傍迄引張つて行つた。
蟻の座敷へ上がる時候になつた。代助は大きな鉢へ水を張つて、其中に真白なリリー、オフ、ゼ、ヷレーを茎ごと漬けた。簇がる細かい花が、濃い模様の縁を隠した。鉢を動かすと、花が零れる。代助はそれを大きな字引の上に載せた。さうして、其傍に枕を置いて仰向けに倒れた。黒い頭が丁度鉢の陰になつて、花から出る香が、好い具合に鼻に通つた。代助は其香を嗅ぎながら仮寐をした。
代助は時々尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける。それが劇しくなると、晴天から来る日光の反射にさへ堪へ難くなる事があつた。さう云ふ時には、成る可く世間との交渉を稀薄にして、朝でも午でも構はず寐る工夫をした。其手段には、極めて淡い、甘味の軽い、花の香をよく用ひた。瞼を閉ぢて、瞳に落ちる光線を謝絶して、静かに鼻の穴丈で呼吸してゐるうちに、枕元の花が、次第に夢の方へ、躁ぐ意識を吹いて行く。是が成功すると、代助の神経が生れ代つた様に落ち付いて、世間との連絡が、前よりは比較的楽に取れる。
代助は父に呼ばれてから二三日の間、庭の隅に咲いた薔薇の花の赤いのを見るたびに、それが点々として眼を刺してならなかつた。其時は、いつでも、手水鉢の傍にある、擬宝珠の葉に眼を移した。其葉には、放肆な白い縞が、三筋か四筋、長く乱れてゐた。代助が見るたびに、擬宝珠の葉は延びて行く様に思はれた。さうして、それと共に白い縞も、自由に拘束なく、延びる様な気がした。柘榴の花は、薔薇よりも派出に且つ重苦しく見えた。緑の間にちらり〳〵と光つて見える位、強い色を出してゐた。従つて是も代助の今の気分には相応らなかつた。
彼の今の気分は、彼に時々起る如く、総体の上に一種の暗調を帯びてゐた。だから余りに明る過るものに接すると、其矛盾に堪えがたかつた。擬宝珠の葉も長く見詰めてゐると、すぐ厭になる位であつた。
其上彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲はれ出した。其不安は人と人との間に信仰がない源因から起る野蛮程度の現象であつた。彼は此心的現象のために甚しき動揺を感じた。彼は神に信仰を置く事を喜ばぬ人であつた。又頭脳の人として、神に信仰を置く事の出来ぬ性質であつた。けれども、相互に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じてゐた。相互が疑ひ合ふときの苦しみを解脱する為めに、神は始めて存在の権利を有するものと解釈してゐた。だから、神のある国では、人が嘘を吐くものと極めた。然し今の日本は、神にも人にも信仰のない国柄であるといふ事を発見した。さうして、彼は之を一に日本の経済事情に帰着せしめた。
四五日前、彼は掏摸と結託して悪事を働らいた刑事巡査の話を新聞で読んだ。それが一人や二人ではなかつた。他の新聞の記す所によれば、もし厳重に、それからそれへと、手を延ばしたら、東京は一時殆んど無警察の有様に陥るかも知れないさうである。代助は其記事を読んだとき、たゞ苦笑した丈であつた。さうして、生活の大難に対抗せねばならぬ薄給の刑事が、悪い事をするのは、実際尤もだと思つた。
代助が父に逢つて、結婚の相談を受けた時も、少し是と同様の気がした。が、これはたゞ父に信仰がない所から起る、代助に取つて不幸な暗示に過ぎなかつた。さうして代助は自分の心のうちに、かゝる忌はしい暗示を受けたのを、不徳義とは感じ得なかつた。それが事実となつて眼前にあらはれても、矢張り父を尤もだと肯ふ積りだつたからである。
代助は平岡に対しても同様の感じを抱いてゐた。然し平岡に取つては、それが当然な事であると許してゐた。たゞ平岡を好く気になれない丈であつた。代助は兄を愛してゐた。けれども其兄に対しても矢張り信仰は有ち得なかつた。嫂は実意のある女であつた。然し嫂は、直接生活の難関に当らない丈、それ丈兄よりも近付き易いのだと考へてゐた。
代助は平生から、此位に世の中を打遣つてゐた。だから、非常な神経質であるにも拘はらず、不安の念に襲はれる事は少なかつた。さうして、自分でもそれを自覚してゐた。夫が、何う云ふ具合か急に揺き出した。代助は之を生理上の変化から起るのだらうと察した。そこである人が北海道から採つて来たと云つて呉れたリリー、オフ、ゼ、ヷレーの束を解いて、それを悉く水の中に浸して、其下に寐たのである。
一時間の後、代助は大きな黒い眼を開いた。其眼は、しばらくの間一つ所に留まつて全く動かなかつた。手も足も寐てゐた時の姿勢を少しも崩さずに、丸で死人のそれの様であつた。其時一匹の黒い蟻が、ネルの襟を伝はつて、代助の咽喉に落ちた。代助はすぐ右の手を動かして咽喉を抑へた。さうして、額に皺を寄せて、指の股に挟んだ小さな動物を、鼻の上迄持つて来て眺めた。其時蟻はもう死んでゐた。代助は人指指の先に着いた黒いものを、親指の爪で向へ弾いた。さうして起き上がつた。
膝の周囲に、まだ三四匹這つてゐたのを、薄い象牙の紙小刀で打ち殺した。それから手を叩いて人を呼んだ。
「御目醒ですか」と云つて、門野が出て来た。
「御茶でも入れて来ませうか」と聞いた。代助は、はだかつた胸を掻き合せながら、
「君、僕の寐てゐるうちに、誰か来やしなかつたかね」と、静かな調子で尋ねた。
「えゝ、御出でした。平岡の奥さんが。よく御存じですな」と門野は平気に答へた。
「何故起さなかつたんだ」
「余まり能く御休でしたからな」
「だつて御客なら仕方がないぢやないか」
代助の語勢は少し強くなつた。
「ですがな。平岡の奥さんの方で、起さない方が好いつて、仰しやつたもんですからな」
「それで、奥さんは帰つて仕舞つたのか」
「なに帰つて仕舞つたと云ふ訳でもないんです。一寸神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからつて、云はれるもんですからな」
「ぢや又来るんだね」
「さうです。実は御目覚になる迄待つてゐやうかつて、此座敷迄上つて来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐てゐるもんだから、こいつは、容易に起きさうもないと思つたんでせう」
「また出て行つたのかい」
「えゝ、まあ左うです」
代助は笑ひながら、両手で寐起の顔を撫でた。さうして風呂場へ顔を洗ひに行つた。頭を濡らして、椽側迄帰つて来て、庭を眺めてゐると、前よりは気分が大分晴々した。曇つた空を燕が二羽飛んでゐる様が大いに愉快に見えた。
代助は此前平岡の訪問を受けてから、心待に、後から三千代の来るのを待つてゐた。けれども、平岡の言葉は遂に事実として現れて来なかつた。特別の事情があつて、三千代がわざと来ないのか、又は平岡が始めから御世辞を使つたのか、疑問であるが、それがため、代助は心の何処かに空虚を感じてゐた。然し彼は此空虚な感じを、一つの経験として日常生活中に見出した迄で、其原因をどうするの、斯うするのと云ふ気はあまりなかつた。此経験自身の奥を覗き込むと、それ以上に暗い影がちらついてゐる様に思つたからである。
それで彼は進んで平岡を訪問するのを避けてゐた。散歩のとき彼の足は多く江戸川の方角に向いた。桜の散る時分には、夕暮の風に吹かれて、四つの橋を此方から向へ渡り、向から又此方へ渡り返して、長い堤を縫ふ様に歩いた。が其桜はとくに散て仕舞つて、今は緑蔭の時節になつた。代助は時々橋の真中に立つて、欄干に頬杖を突いて、茂る葉の中を、真直に通つてゐる、水の光を眺め尽して見る。それから其光の細くなつた先の方に、高く聳える目白台の森を見上て見る。けれども橋を向へ渡つて、小石川の坂を上る事はやめにして帰る様になつた。ある時彼は大曲の所で、電車を下る平岡の影を半町程手前から認めた。彼は慥に左様に違ないと思つた。さうして、すぐ揚場の方へ引き返した。
彼は平岡の安否を気にかけてゐた。まだ坐食の不安な境遇に居るに違ないとは思ふけれども、或は何の方面かへ、生活の行路を切り開く手掛りが出来たかも知れないとも想像して見た。けれども、それを確める為に、平岡の後を追ふ気にはなれなかつた。彼は平岡に面するときの、原因不明な一種の不快を予想する様になつた。と云つて、たゞ三千代の為にのみ、平岡の位地を心配する程、平岡を悪んでもゐなかつた。平岡の為にも、矢張り平岡の成功を祈る心はあつたのである。
斯んな風に、代助は空虚なるわが心の一角を抱いて今日に至つた。いま先方門野を呼んで括り枕を取り寄せて、午寐を貪ぼつた時は、あまりに溌溂たる宇宙の刺激に堪えなくなつた頭を、出来るならば、蒼い色の付いた、深い水の中に沈めたい位に思つた。それ程彼は命を鋭く感じ過ぎた。従つて熱い頭を枕へ着けた時は、平岡も三千代も、彼に取つて殆んど存在してゐなかつた。彼は幸にして涼しい心持に寐た。けれども其穏やかな眠のうちに、誰かすうと来て、又すうと出て行つた様な心持がした。眼を醒まして起き上がつても其感じがまだ残つてゐて、頭から拭ひ去る事が出来なかつた。それで門野を呼んで、寐てゐる間に誰か来はしないかと聞いたのである。
代助は両手を額に当てゝ、高い空を面白さうに切つて廻る燕の運動を椽側から眺めてゐたが、やがて、それが眼ま苦しくなつたので、室の中に這入つた。けれども、三千代が又訪ねて来ると云ふ目前の予期が、既に気分の平調を冒してゐるので、思索も読書も殆んど手に着かなかつた。代助は仕舞に本棚の中から、大きな画帖を出して来て、膝の上に広げて、繰り始めた。けれども、それも、只指の先で順々に開けて行く丈であつた。一つ画を半分とは味はつてゐられなかつた。やがてブランギンの所へ来た。代助は平生から此装飾画家に多大の趣味を有つてゐた。彼の眼は常の如く輝を帯びて、一度は其上に落ちた。それは何処かの港の図であつた。背景に船と檣と帆を大きく描いて、其余つた所に、際立つて花やかな空の雲と、蒼黒い水の色をあらはした前に、裸体の労働者が四五人ゐた。代助は是等の男性の、山の如くに怒らした筋肉の張り具合や、彼等の肩から脊へかけて、肉塊と肉塊が落ち合つて、其間に渦の様な谷を作つてゐる模様を見て、其所にしばらく肉の力の快感を認めたが、やがて、画帖を開けた儘、眼を放して耳を立てた。すると勝手の方で婆さんの声がした。それから牛乳配達が空壜を鳴らして急ぎ足に出て行つた。宅のうちが静かなので、鋭どい代助の聴神経には善く応へた。
代助はぼんやり壁を見詰めてゐた。門野をもう一返呼んで、三千代が又くる時間を、云ひ置いて行つたか何うか尋ねやうと思つたが、あまり愚だから憚かつた。それ許ではない、人の細君が訪ねて来るのを、それ程待ち受ける趣意がないと考へた。又それ程待ち受ける位なら、此方から何時でも行つて話をすべきであると考へた。此矛盾の両面を双対に見た時、代助は急に自己の没論理に恥ぢざるを得なかつた。彼の腰は半ば椅子を離れた。けれども彼はこの没論理の根底に横はる色々の因数を自分で善く承知してゐた。さうして、今の自分に取つては、この没論理の状態が、唯一の事実であるから仕方ないと思つた。且、此事実と衝突する論理は、自己に無関係な命題を繋ぎ合はして出来上つた、自己の本体を蔑視する、形式に過ぎないと思つた。さう思つて又椅子へ腰を卸した。
それから三千代の来る迄、代助はどんな風に時を過したか、殆んど知らなかつた。表に女の声がした時、彼は胸に一鼓動を感じた。彼は論理に於て尤も強い代りに、心臓の作用に於て尤も弱い男であつた。彼が近来怒れなくなつたのは、全く頭の御蔭で、腹を立てる程自分を馬鹿にすることを、理智が許さなくなつたからである。が其他の点に於ては、尋常以上に情緒の支配を受けるべく余儀なくされてゐた。取次に出た門野が足音を立てゝ、書斎の入口にあらはれた時、血色のいゝ代助の頬は微かに光沢を失つてゐた。門野は、
「此方にしますか」と甚だ簡単に代助の意向を確めた。座敷へ案内するか、書斎で逢ふかと聞くのが面倒だから、斯う詰めて仕舞つたのである。代助はうんと云つて、入口に返事を待つてゐた門野を追ひ払ふ様に、自分で立つて行つて、椽側へ首を出した。三千代は椽側と玄関の継目の所に、此方を向いてためらつて居た。
三千代の顔は此前逢つた時よりは寧ろ蒼白かつた。代助に眼と顎で招かれて書斎の入口へ近寄つた時、代助は三千代の息を喘ましてゐることに気が付いた。
「何うかしましたか」と聞いた。
三千代は何にも答へずに室の中に這入て来た。セルの単衣の下に襦袢を重ねて、手に大きな白い百合の花を三本許提げてゐた。其百合をいきなり洋卓の上に投げる様に置いて、其横にある椅子へ腰を卸した。さうして、結つた許の銀杏返を、構はず、椅子の脊に押し付けて、
「あゝ苦しかつた」と云ひながら、代助の方を見て笑つた。代助は手を叩いて水を取り寄せ様とした。三千代は黙つて洋卓の上を指した。其所には代助の食後の嗽をする硝子の洋盃があつた。中に水が二口許残つてゐた。
「奇麗なんでせう」と三千代が聞いた。
「此奴は先刻僕が飲んだんだから」と云つて、洋盃を取り上げたが、蹰躇した。代助の坐つてゐる所から、水を棄てやうとすると、障子の外に硝子戸が一枚邪魔をしてゐる。門野は毎朝椽側の硝子戸を一二枚宛開けないで、元の通りに放つて置く癖があつた。代助は席を立つて、椽へ出て、水を庭へ空けながら、門野を呼んだ。今ゐた門野は何処へ行つたか、容易に返事をしなかつた。代助は少しまごついて、又三千代の所へ帰つて来て、
「今すぐ持つて来て上げる」と云ひながら、折角空けた洋盃を其儘洋卓の上に置いたなり、勝手の方へ出て行つた。茶の間を通ると、門野は無細工な手をして錫の茶壺から玉露を撮み出してゐた。代助の姿を見て、
「先生、今直です」と言訳をした。
「茶は後でも好い。水が要るんだ」と云つて、代助は自分で台所へ出た。
「はあ、左様ですか。上がるんですか」と茶壺を放り出して門野も付いて来た。二人で洋盃を探したが一寸見付からなかつた。婆さんはと聞くと、今御客さんの菓子を買ひに行つたといふ答であつた。
「菓子がなければ、早く買つて置けば可いのに」と代助は水道の栓を捩つて湯呑に水を溢らせながら云つた。
「つい、小母さんに、御客さんの呉る事を云つて置かなかつたものですからな」と門野は気の毒さうに頭を掻いた。
「ぢや、君が菓子を買に行けば可いのに」と代助は勝手を出ながら、門野に当つた。門野はそれでも、まだ、返事をした。
「なに菓子の外にも、まだ色々買物があるつて云ふもんですからな。足は悪し天気は好くないし、廃せば好いんですのに」
代助は振り向きもせず、書斎へ戻つた。敷居を跨いで、中へ這入るや否や三千代の顔を見ると、三千代は先刻代助の置いて行つた洋盃を膝の上に両手で持つてゐた。其洋盃の中には、代助が庭へ空けたと同じ位に水が這入つてゐた。代助は湯呑を持つた儘、茫然として、三千代の前に立つた。
「何うしたんです」と聞いた。三千代は例の通り落ち付いた調子で、
「難有う。もう沢山。今あれを飲んだの。あんまり奇麗だつたから」と答へて、リリー、オフ、ゼ、ヷレーの漬けてある鉢を顧みた。代助は此大鉢の中に水を八分目程張つて置いた。妻楊枝位な細い茎の薄青い色が、水の中に揃つてゐる間から、陶器の模様が仄かに浮いて見えた。
「何故あんなものを飲んだんですか」と代助は呆れて聞いた。
「だつて毒ぢやないでせう」と三千代は手に持つた洋盃を代助の前へ出して、透かして見せた。
「毒でないつたつて、もし二日も三日も経つた水だつたら何うするんです」
「いえ、先刻来た時、あの傍迄顔を持つて行つて嗅いで見たの。其時、たつた今其鉢へ水を入れて、桶から移した許だつて、あの方が云つたんですもの。大丈夫だわ。好い香ね」
代助は黙つて椅子へ腰を卸した。果して詩の為に鉢の水を呑んだのか、又は生理上の作用に促がされて飲んだのか、追窮する勇気も出なかつた。よし前者とした所で、詩を衒つて、小説の真似なぞをした受売の所作とは認められなかつたからである。そこで、たゞ、
「気分はもう好くなりましたか」と聞いた。
三千代の頬に漸やく色が出て来た。袂から手帛を取り出して、口の辺を拭きながら話を始めた。──大抵は伝通院前から電車へ乗つて本郷迄買物に出るんだが、人に聞いて見ると、本郷の方は神楽坂に比べて、何うしても一割か二割物が高いと云ふので、此間から一二度此方の方へ出て来て見た。此前も寄る筈であつたが、つい遅くなつたので急いで帰つた。今日は其積で早く宅を出た。が、御息み中だつたので、又通り迄行つて買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。所が天気模様が悪くなつて、藁店を上がり掛けるとぽつ〳〵降り出した。傘を持つて来なかつたので、濡れまいと思つて、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体に障つて、息が苦しくなつて困つた。──
「けれども、慣れつこに為てるんだから、驚ろきやしません」と云つて、代助を見て淋しい笑ひ方をした。
「心臓の方は、まだ悉皆善くないんですか」と代助は気の毒さうな顔で尋ねた。
「悉皆善くなるなんて、生涯駄目ですわ」
意味の絶望な程、三千代の言葉は沈んでゐなかつた。繊い指を反して穿めてゐる指環を見た。それから、手帛を丸めて、又袂へ入れた。代助は眼を俯せた女の額の、髪に連なる所を眺めてゐた。
すると、三千代は急に思ひ出した様に、此間の小切手の礼を述べ出した。其時何だか少し頬を赤くした様に思はれた。視感の鋭敏な代助にはそれが善く分つた。彼はそれを、貸借に関係した羞恥の血潮とのみ解釈した。そこで話をすぐ他所へ外した。
先刻三千代が提げて這入て来た百合の花が、依然として洋卓の上に載つてゐる。甘たるい強い香が二人の間に立ちつゝあつた。代助は此重苦しい刺激を鼻の先に置くに堪へなかつた。けれども無断で、取り除ける程、三千代に対して思ひ切つた振舞が出来なかつた。
「此花は何うしたんです。買て来たんですか」と聞いた。三千代は黙つて首肯いた。さうして、
「好い香でせう」と云つて、自分の鼻を、瓣の傍迄持つて来て、ふんと嗅いで見せた。代助は思はず足を真直に踏ん張つて、身を後の方へ反らした。
「さう傍で嗅いぢや不可ない」
「あら何故」
「何故つて理由もないんだが、不可ない」
代助は少し眉をひそめた。三千代は顔をもとの位地に戻した。
「貴方、此花、御嫌なの?」
代助は椅子の足を斜に立てゝ、身体を後へ伸した儘、答へをせずに、微笑して見せた。
「ぢや、買つて来なくつても好かつたのに。詰らないわ、回り路をして。御負に雨に降られ損なつて、息を切らして」
雨は本当に降つて来た。雨滴が樋に集まつて、流れる音がざあと聞えた。代助は椅子から立ち上がつた。眼の前にある百合の束を取り上げて、根元を括つた濡藁を挘り切つた。
「僕に呉れたのか。そんなら早く活けやう」と云ひながら、すぐ先刻の大鉢の中に投げ込んだ。茎が長すぎるので、根が水を跳ねて、飛び出しさうになる。代助は滴る茎を又鉢から抜いた。さうして洋卓の引出から西洋鋏を出して、ぷつり〳〵と半分程の長さに剪り詰めた。さうして、大きな花を、リリー、オフ、ゼ、ヷレーの簇がる上に浮かした。
「さあ是で好い」と代助は鋏を洋卓の上に置いた。三千代は此不思議に無作法に活けられた百合を、しばらく見てゐたが、突然、
「あなた、何時から此花が御嫌になつたの」と妙な質問をかけた。
昔し三千代の兄がまだ生きてゐる時分、ある日何かのはづみに、長い百合を買つて、代助が谷中の家を訪ねた事があつた。其時彼は三千代に危しげな花瓶の掃除をさして、自分で、大事さうに買つて来た花を活けて、三千代にも、三千代の兄にも、床へ向直つて眺めさした事があつた。三千代はそれを覚えてゐたのである。
「貴方だつて、鼻を着けて嗅いで入らしつたぢやありませんか」と云つた。代助はそんな事があつた様にも思つて、仕方なしに苦笑した。
そのうち雨は益深くなつた。家を包んで遠い音が聴えた。門野が出て来て、少し寒い様ですな、硝子戸を閉めませうかと聞いた。硝子戸を引く間、二人は顔を揃えて庭の方を見てゐた。青い木の葉が悉く濡れて、静かな湿り気が、硝子越に代助の頭に吹き込んで来た。世の中の浮いてゐるものは残らず大地の上に落ち付いた様に見えた。代助は久し振りで吾に返つた心持がした。
「好い雨ですね」と云つた。
「些とも好かないわ、私、草履を穿いて来たんですもの」
三千代は寧ろ恨めしさうに樋から洩る雨点を眺めた。
「帰りには車を云ひ付けて上げるから可いでせう。緩りなさい」
三千代はあまり緩り出来さうな様子も見えなかつた。まともに、代助の方を見て、
「貴方も相変らず呑気な事を仰しやるのね」と窘めた。けれども其眼元には笑の影が泛んでゐた。
今迄三千代の陰に隠れてぼんやりしてゐた平岡の顔が、此時明らかに代助の心の瞳に映つた。代助は急に薄暗がりから物に襲はれた様な気がした。三千代は矢張り、離れ難い黒い影を引き摺つて歩いてゐる女であつた。
「平岡君は何うしました」とわざと何気なく聞いた。すると三千代の口元が心持締つて見えた。
「相変らずですわ」
「まだ何にも見付らないんですか」
「その方はまあ安心なの。来月から新聞の方が大抵出来るらしいんです」
「そりや好かつた。些とも知らなかつた。そんなら当分夫で好いぢやありませんか」
「えゝ、まあ難有いわ」と三千代は低い声で真面目に云つた。代助は、其時三千代を大変可愛く感じた。引き続いて、
「彼方の方は差し当り責められる様な事もないんですか」と聞いた。
「彼方の方つて──」と少し逡巡つてゐた三千代は、急に顔を赧らめた。
「私、実は今日夫で御詫に上つたのよ」と云ひながら、一度俯向いた顔を又上げた。
代助は少しでも気不味い様子を見せて、此上にも、女の優しい血潮を動かすに堪えなかつた。同時に、わざと向ふの意を迎へる様な言葉を掛けて、相手を殊更に気の毒がらせる結果を避けた。それで静かに三千代の云ふ所を聴いた。
先達ての二百円は、代助から受取るとすぐ借銭の方へ回す筈であつたが、新らしく家を持つた為、色々入費が掛つたので、つい其方の用を、あのうちで幾分か弁じたのが始りであつた。あとはと思つてゐると、今度は毎日の活計に追はれ出した。自分ながら好い心持はしなかつたけれども、仕方なしに困るとは使ひ、困るとは使して、とう〳〵荒増亡くして仕舞つた。尤もさうでもしなければ、夫婦は今日迄斯うして暮らしては行けなかつたのである。今から考へて見ると、一層の事無ければ無いなりに、何うか斯うか工面も付いたかも知れないが、なまじい、手元に有つたものだから、苦し紛れに、急場の間に合はして仕舞つたので、肝心の証書を入れた借銭の方は、いまだに其儘にしてある。是は寧ろ平岡の悪いのではない。全く自分の過である。
「私、本当に済まない事をしたと思つて、後悔してゐるのよ。けれども拝借するときは、決して貴方を瞞して嘘を吐く積ぢやなかつたんだから、堪忍して頂戴」と三千代は甚だ苦しさうに言訳をした。
「何うせ貴方に上げたんだから、何う使つたつて、誰も何とも云ふ訳はないでせう。役にさへ立てば夫で好いぢやありませんか」と代助は慰めた。さうして貴方といふ字をことさらに重く且つ緩く響かせた。三千代はたゞ、
「私、夫で漸く安心したわ」と云つた丈であつた。
雨が頻なので、帰るときには約束通り車を雇つた。寒いので、セルの上へ男の羽織を着せやうとしたら、三千代は笑つて着なかつた。
何時の間にか、人が絽の羽織を着て歩く様になつた。二三日、宅で調物をして庭先より外に眺めなかつた代助は、冬帽を被つて表へ出て見て、急に暑さを感じた。自分もセルを脱がなければならないと思つて、五六町歩くうちに、袷を着た人に二人出逢つた。左様かと思ふと新らしい氷屋で書生が洋盃を手にして、冷たさうなものを飲んでゐた。代助は其時誠太郎を思ひ出した。
近頃代助は元よりも誠太郎が好きになつた。外の人間と話してゐると、人間の皮と話す様で歯痒くつてならなかつた。けれども、顧みて自分を見ると、自分は人間中で、尤も相手を歯痒がらせる様に拵えられてゐた。是も長年生存競争の因果に曝された罰かと思ふと余り難有い心持はしなかつた。
此頃誠太郎はしきりに玉乗りの稽古をしたがつてゐるが、それは、全く此間浅草の奥山へ一所に連れて行つた結果である。あの一図な所はよく、嫂の気性を受け継いでゐる。然し兄の子丈あつて、一図なうちに、何処か逼らない鷹揚な気象がある。誠太郎の相手をしてゐると、向ふの魂が遠慮なく此方へ流れ込んで来るから愉快である。実際代助は、昼夜の区別なく、武装を解いた事のない精神に、包囲されるのが苦痛であつた。
誠太郎は此春から中学校へ行き出した。すると急に脊丈が延びて来る様に思はれた。もう一二年すると声が変る。それから先何んな径路を取つて、生長するか分らないが、到底人間として、生存する為には、人間から嫌はれると云ふ運命に到着するに違ない。其時、彼は穏やかに人の目に着かない服装をして、乞食の如く、何物をか求めつゝ、人の市をうろついて歩くだらう。
代助は堀端へ出た。此間迄向の土手にむら躑躅が、団団と紅白の模様を青い中に印してゐたのが、丸で跡形もなくなつて、のべつに草が生い茂つてゐる高い傾斜の上に、大きな松が何十本となく並んで、何処迄もつゞいてゐる。空は奇麗に晴れた。代助は電車に乗つて、宅へ行つて、嫂に調戯つて、誠太郎と遊ばうと思つたが、急に厭になつて、此松を見ながら、草臥る所迄堀端を伝つて行く気になつた。
新見付へ来ると、向から来たり、此方から行つたりする電車が苦になり出したので、堀を横切つて、招魂社の横から番町へ出た。そこをぐる〳〵回つて歩いてゐるうちに、かく目的なしに歩いてゐる事が、不意に馬鹿らしく思はれた。目的があつて歩くものは賤民だと、彼は平生から信じてゐたのであるけれども、此場合に限つて、其賤民の方が偉い様な気がした。全たく、又アンニユイに襲はれたと悟つて、帰りだした。神楽坂へかゝると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしてゐた。其音が甚しく金属性の刺激を帯びてゐて、大いに代助の頭に応へた。
家の門を這入ると、今度は門野が、主人の留守を幸ひと、大きな声で琵琶歌をうたつてゐた。夫でも代助の足音を聞いて、ぴたりと已めた。
「いや、御早うがしたな」と云つて玄関へ出て来た。代助は何にも答へずに、帽子を其所へ掛けた儘、椽側から書斎へ這入つた。さうして、わざ〳〵障子を締め切つた。つゞいて湯呑に茶を注いで持つて来た門野が、
「締めときますか。暑かありませんか」と聞いた。代助は袂から手帛を出して額を拭いてゐたが、矢っ張り、
「締めて置いてくれ」と命令した。門野は妙な顔をして障子を締めて出て行つた。代助は暗くした室のなかに、十分許ぽかんとしてゐた。
彼は人の羨やむ程光沢の好い皮膚と、労働者に見出しがたい様に柔かな筋肉を有つた男であつた。彼は生れて以来、まだ大病と名のつくものを経験しなかつた位、健康に於て幸福を享けてゐた。彼はこれでこそ、生甲斐があると信じてゐたのだから、彼の健康は、彼に取つて、他人の倍以上に価値を有つてゐた。彼の頭は、彼の肉体と同じく確であつた。たゞ始終論理に苦しめられてゐたのは事実である。それから時々、頭の中心が、大弓の的の様に、二重もしくは三重にかさなる様に感ずる事があつた。ことに、今日は朝から左様な心持がした。
代助が黙然として、自己は何の為に此世の中に生れて来たかを考へるのは斯う云ふ時であつた。彼は今迄何遍も此大問題を捕へて、彼の眼前に据ゑ付けて見た。其動機は、単に哲学上の好奇心から来た事もあるし、又世間の現象が、余りに複雑な色彩を以て、彼の頭を染め付けやうと焦るから来る事もあるし、又最後には今日の如くアンニユイの結果として来る事もあるが、其都度彼は同じ結論に到着した。然し其結論は、此問題の解決ではなくつて、寧ろ其否定と異ならなかつた。彼の考によると、人間はある目的を以て、生れたものではなかつた。之と反対に、生れた人間に、始めてある目的が出来て来るのであつた。最初から客観的にある目的を拵らえて、それを人間に附着するのは、其人間の自由な活動を、既に生れる時に奪つたと同じ事になる。だから人間の目的は、生れた本人が、本人自身に作つたものでなければならない。けれども、如何な本人でも、之を随意に作る事は出来ない。自己存在の目的は、自己存在の経過が、既にこれを天下に向つて発表したと同様だからである。
此根本義から出立した代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としてゐた。歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる。考へたいから考へる。すると考へるのが目的になる。それ以外の目的を以て、歩いたり、考へたりするのは、歩行と思考の堕落になる如く、自己の活動以外に一種の目的を立てゝ、活動するのは活動の堕落になる。従つて自己全体の活動を挙げて、これを方便の具に使用するものは、自ら自己存在の目的を破壊したも同然である。
だから、代助は今日迄、自分の脳裏に願望、嗜欲が起るたび毎に、是等の願望嗜欲を遂行するのを自己の目的として存在してゐた。二個の相容れざる願望嗜欲が胸に闘ふ場合も同じ事であつた。たゞ矛盾から出る一目的の消耗と解釈してゐた。これを煎じ詰めると、彼は普通に所謂無目的な行為を目的として活動してゐたのである。さうして、他を偽らざる点に於てそれを尤も道徳的なものと心得てゐた。
此主義を出来る丈遂行する彼は、其遂行の途中で、われ知らず、自分のとうに棄却した問題に襲はれて、自分は今何の為に、こんな事をしてゐるのかと考へ出す事がある。彼が番町を散歩しながら、何故散歩しつゝあるかと疑つたのは正に是である。
其時彼は自分ながら、自分の活力の充実してゐない事に気がつく。餓えたる行動は、一気に遂行する勇気と、興味に乏しいから、自ら其行動の意義を中途で疑ふ様になる。彼はこれをアンニユイと名けてゐた。アンニユイに罹ると、彼は論理の迷乱を引き起すものと信じてゐた。彼の行為の中途に於て、何の為と云ふ、冠履顛倒の疑を起させるのは、アンニユイに外ならなかつたからである。
彼は立て切つた室の中で、一二度頭を抑えて振り動かして見た。彼は昔から今日迄の思索家の、屡繰り返した無意義な疑義を、又脳裏に拈定するに堪えなかつた。その姿のちらりと眼前に起つた時、またかと云ふ具合に、すぐ切り棄てゝ仕舞つた。同時に彼は自己の生活力の不足を劇しく感じた。従つて行為其物を目的として、円満に遂行する興味も有たなかつた。彼はたゞ一人荒野の中に立つた。茫然としてゐた。
彼は高尚な生活欲の満足を冀ふ男であつた。又ある意味に於て道義欲の満足を買はうとする男であつた。さうして、ある点へ来ると、此二つのものが火花を散らして切り結ぶ関門があると予想してゐた。それで生活欲を低い程度に留めて我慢してゐた。彼の室は普通の日本間であつた。是と云ふ程の大した装飾もなかつた。彼に云はせると、額さへ気の利いたものは掛けてなかつた。色彩として眼を惹く程に美しいのは、本棚に並べてある洋書に集められたと云ふ位であつた。彼は今此書物の中に、茫然として坐つた。良あつて、これほど寐入つた自分の意識を強烈にするには、もう少し周囲の物を何うかしなければならぬと、思ひながら、室の中をぐる〳〵見廻した。それから、又ぽかんとして壁を眺めた。が、最後に、自分を此薄弱な生活から救ひ得る方法は、たゞ一つあると考へた。さうして口の内で云つた。
「矢つ張り、三千代さんに逢はなくちや不可ん」
彼は足の進まない方角へ散歩に出たのを悔いた。もう一遍出直して、平岡の許迄行かうかと思つてゐる所へ、森川町から寺尾が来た。新らしい麦藁帽を被つて、閑静な薄い羽織を着て、暑い〳〵と云つて赤い顔を拭いた。
「何だつて、今時分来たんだ」と代助は愛想もなく云ひ放つた。彼と寺尾とは平生でも、この位な言葉で交際してゐたのである。
「今時分が丁度訪問に好い刻限だらう。君、又昼寐をしたな。どうも職業のない人間は、惰弱で不可ん。君は一体何の為に生れて来たのだつたかね」と云つて、寺尾は麦藁帽で、しきりに胸のあたりへ風を送つた。時候はまだ夫程暑くないのだから、此所作は頗る愛嬌を添へた。
「何の為に生れて来やうと、余計な御世話だ。夫より君こそ何しに来たんだ。又「此所十日許の間」ぢやないか、金の相談ならもう御免だよ」と代助は遠慮なく先へ断つた。
「君も随分礼義を知らない男だね」と寺尾は已を得ず答へた。けれども別段感情を害した様子も見えなかつた。実を云ふと、此位な言葉は寺尾に取つて、少しも無礼とは思へなかつたのである。代助は黙つて、寺尾の顔を見てゐた。それは、空しい壁を見てゐるより以上の何等の感動をも、代助に与へなかつた。
寺尾は懐から汚ない仮綴の書物を出した。
「是を訳さなけりやならないんだ」と云つた。代助は依然として黙つてゐた。
「食ふに困らないと思つて、さう無精な顔をしなくつて好からう。もう少し判然として呉れ。此方は生死の戦だ」と云つて、寺尾は小形の本をとん〳〵と椅子の角で二返敲いた。
「何時迄に」
寺尾は、書物の頁をさら〳〵と繰つて見せたが、断然たる調子で、
「二週間」と答へた後で、「何うでも斯うでも、夫迄に片付なけりや、食へないんだから仕方がない」と説明した。
「偉い勢だね」と代助は冷かした。
「だから、本郷からわざ〳〵遣つて来たんだ。なに、金は借りなくても好い。──貸せば猶好いが──夫より少し分らない所があるから、相談しやうと思つて」
「面倒だな。僕は今日は頭が悪くつて、そんな事は遣つてゐられないよ。好い加減に訳して置けば構はないぢやないか。どうせ原稿料は頁で呉れるんだらう」
「なんぼ、僕だつて、さう無責任な翻訳は出来ないだらうぢやないか。誤訳でも指摘されると後から面倒だあね」
「仕様がないな」と云つて、代助は矢っ張り横着な態度を維持してゐた。すると、寺尾は、
「おい」と云つた。「冗談ぢやない、君の様に、のらくら遊んでる人は、たまには其位な事でも、しなくつちや退屈で仕方がないだらう。なに、僕だつて、本の善く読める人の所へ行く気なら、わざ〳〵君の所迄来やしない。けれども、左んな人は君と違つて、みんな忙しいんだからな」と少しも辟易した様子を見せなかつた。代助は喧嘩をするか、相談に応ずるか何方かだと覚悟を極めた。彼の性質として、斯う云ふ相手を軽蔑する事は出来るが、怒り付ける気は出せなかつた。
「ぢや成るべく少しに仕様ぢやないか」と断つて置いて、符号の附けてある所丈を見た。代助は其書物の梗概さへ聞く勇気がなかつた。相談を受けた部分にも曖昧な所は沢山あつた。寺尾は、やがて、
「やあ、難有う」と云つて本を伏せた。
「分らない所は何する」と代助が聞いた。
「なに何かする。──誰に聞いたつて、さう善く分りやしまい。第一時間がないから已を得ない」と、寺尾は、誤訳よりも生活費の方が大事件である如く天から極めてゐた。
相談が済むと、寺尾は例によつて、文学談を持ち出した。不思議な事に、さうなると、自己の翻訳とは違つて、いつもの通り非常に熱心になつた。代助は現今の文学者の公けにする創作のうちにも、寺尾の翻訳と同じ意味のものが沢山あるだらうと考へて、寺尾の矛盾を可笑しく思つた。けれども面倒だから、口へは出さなかつた。
寺尾の御蔭で、代助は其日とう〳〵平岡へ行きはぐれて仕舞つた。
晩食の時、丸善から小包が届いた。箸を措いて開けて見ると、余程前に外国へ注文した二三の新刊書であつた。代助はそれを腋の下に抱へ込んで、書斎へ帰つた。一冊づゝ順々に取り上げて、暗いながら二三頁、捲る様に眼を通したが何処も彼の注意を惹く様な所はなかつた。最後の一冊に至つては、其名前さへ既に忘れてゐた。何れ其中読む事にしやうと云ふ考で、一所に纏めた儘、立つて、本棚の上に重ねて置いた。椽側から外を窺うと、奇麗な空が、高い色を失ひかけて、隣の梧桐の一際濃く見える上に、薄い月が出てゐた。
そこへ門野が大きな洋燈を持つて這入つて来た。それには絹縮の様に、竪に溝の入つた青い笠が掛けてあつた。門野はそれを洋卓の上に置いて、又椽側へ出たが、出掛に、
「もう、そろ〳〵蛍が出る時分ですな」と云つた。代助は可笑な顔をして、
「まだ出やしまい」と答へた。すると門野は例の如く、
「左様でしやうか」と云ふ返事をしたが、すぐ真面目な調子で、「蛍てえものは、昔は大分流行たもんだが、近来は余り文士方が騒がない様になりましたな。何う云ふもんでせう。蛍だの烏だのつて、此頃ぢやついぞ見た事がない位なもんだ」と云つた。
「左様さ。何う云ふ訳だらう」と代助も空つとぼけて、真面目な挨拶をした。すると門野は、
「矢っ張り、電気燈に圧倒されて、段々退却するんでせう」と云ひ終つて、自から、えへゝゝと、洒落の結末をつけて、書生部屋へ帰つて行つた。代助もつゞいて玄関迄出た。門野は振返た。
「また御出掛ですか。よござんす。洋燈は私が気を付けますから。──小母さんが先刻から腹が痛いつて寐たんですが、何大した事はないでせう。御緩り」
代助は門を出た。江戸川迄来ると、河の水がもう暗くなつてゐた。彼は固より平岡を訪ねる気であつた。から何時もの様に川辺を伝はないで、すぐ橋を渡つて、金剛寺坂を上つた。
実を云ふと、代助はそれから三千代にも平岡にも二三遍逢つてゐた。一遍は平岡から比較的長い手紙を受取つた時であつた。それには、第一に着京以来御世話になつて難有いと云ふ礼が述べてあつた。それから、──其後色々朋友や先輩の尽力を辱うしたが、近頃ある知人の周旋で、某新聞の経済部の主任記者にならぬかとの勧誘を受けた。自分も遣つて見たい様な気がする。然し着京の当時君に御依頼をした事もあるから、無断では宜しくあるまいと思つて、一応御相談をすると云ふ意味が後に書いてあつた。代助は、其当時平岡から、兄の会社に周旋してくれと依頼されたのを、其儘にして、断わりもせず今日迄放つて置いた。ので、其返事を促がされたのだと受取つた。一通の手紙で謝絶するのも、あまり冷淡過ると云ふ考もあつたので、翌日出向いて行つて、色々兄の方の事情を話して当分、此方は断念して呉れる様に頼んだ。平岡は其時、僕も大方左様だらうと思つてゐたと云つて、妙な眼をして三千代の方を見た。
いま一遍は、愈新聞の方が極まつたから、一晩緩り君と飲みたい。何日に来て呉れといふ平岡の端書が着いた時、折悪く差支が出来たからと云つて散歩の序に断わりに寄つたのである。其時平岡は座敷の真中に引繰り返つて寐てゐた。昨夕どこかの会へ出て、飲み過ごした結果だと云つて、赤い眼をしきりに摩つた。代助を見て、突然、人間は何うしても君の様に独身でなけりや仕事は出来ない。僕も一人なら満洲へでも亜米利加へでも行くんだがと大いに妻帯の不便を鳴らした。三千代は次の間で、こつそり仕事をしてゐた。
三遍目には、平岡の社へ出た留守を訪ねた。其時は用事も何もなかつた。約三十分許り椽へ腰を掛けて話した。
夫から以後は可成小石川の方面へ立ち回らない事にして今夜に至たのである。代助は竹早町へ上つて、それを向ふへ突き抜けて、二三町行くと、平岡と云ふ軒燈のすぐ前へ来た。格子の外から声を掛ると、洋燈を持つて下女が出た。が平岡は夫婦とも留守であつた。代助は出先も尋ねずに、すぐ引返して、電車へ乗つて、本郷迄来て、本郷から又神田へ乗り換えて、そこで降りて、あるビヤー、ホールへ這入つて、麦酒をぐい〳〵飲んだ。
翌日眼が覚めると、依然として脳の中心から、半径の違つた円が、頭を二重に仕切つてゐる様な心持がした。斯う云ふ時に代助は、頭の内側と外側が、質の異なつた切り組み細工で出来上つてゐるとしか感じ得られない癖になつてゐた。夫で能く自分で自分の頭を振つてみて、二つのものを混ぜやうと力めたものである。彼は今枕の上へ髪を着けたなり、右の手を固めて、耳の上を二三度敲いた。
代助は斯ゝる脳髄の異状を以て、かつて酒の咎に帰した事はなかつた。彼は小供の時から酒に量を得た男であつた。いくら飲んでも、左程平常を離れなかつた。のみならず、一度熟睡さへすれば、あとは身体に何の故障も認める事が出来なかつた。嘗て何かのはづみに、兄と競り飲みをやつて、三合入の徳利を十三本倒した事がある。其翌日代助は平気な顔をして学校へ出た。兄は二日も頭が痛いと云つて苦り切つてゐた。さうして、これを年齢の違だと云つた。
昨夕飲んだ麦酒は是に比べると愚なものだと、代助は頭を敲きながら考へた。幸に、代助はいくら頭が二重になつても、脳の活動に狂を受けた事がなかつた。時としては、たゞ頭を使ふのが臆劫になつた。けれども努力さへすれば、充分複雑な仕事に堪えるといふ自信があつた。だから、斯んな異状を感じても、脳の組織の変化から、精神に悪い影響を与へるものとしては、悲観する余地がなかつた。始めて、こんな感覚があつた時は驚ろいた。二遍目は寧ろ新奇な経験として喜んだ。この頃は、此経験が、多くの場合に、精神気力の低落に伴ふ様になつた。内容の充実しない行為を敢てして、生活する時の徴候になつた。代助にはそこが不愉快だつた。
床の上に起き上がつて、彼は又頭を振つた。朝食の時、門野は今朝の新聞に出てゐた蛇と鷲の戦の事を話し掛けたが、代助は応じなかつた。門野は又始まつたなと思つて、茶の間を出た。勝手の方で、
「小母さん、さう働らいちや悪いだらう。先生の膳は僕が洗つて置くから、彼方へ行つて休んで御出」と婆さんを労つてゐた。代助は始めて婆さんの病気の事を思ひ出した。何か優しい言葉でも掛ける所であつたが、面倒だと思つて已めにした。
食刀を置くや否や、代助はすぐ紅茶々碗を持つて書斎へ這入つた。時計を見るともう九時過であつた。しばらく、庭を眺めながら、茶を啜り延ばしてゐると、門野が来て、
「御宅から御迎が参りました」と云つた。代助は宅から迎を受ける覚がなかつた。聞き返して見ても、門野は車夫がとか何とか要領を得ない事を云ふので、代助は頭を振り〳〵玄関へ出て見た。すると、そこに兄の車を引く勝と云ふのがゐた。ちやんと、護謨輪の車を玄関へ横付にして、叮嚀に御辞義をした。
「勝、御迎つて何だい」と聞くと、勝は恐縮の態度で、
「奥様が車を持つて、迎に行つて来いつて、御仰いました」
「何か急用でも出来たのかい」
勝は固より何事も知らなかつた。
「御出になれば分るからつて──」と簡潔に答へて、言葉の尻を結ばなかつた。
代助は奥へ這入つた。婆さんを呼んで着物を出させやうと思つたが、腹の痛むものを使ふのが厭なので、自分で簟笥の抽出を掻き回して、急いで身支度をして、勝の車に乗つて出た。
其日は風が強く吹いた。勝は苦しさうに、前の方に曲んで馳けた。乗つてゐた代助は、二重の頭がぐる〳〵回転するほど、風に吹かれた。けれども、音も響もない車輪が美くしく動いて、意識に乏しい自分を、半睡の状態で宙に運んで行く有様が愉快であつた。青山の家へ着く時分には、起きた頃とは違つて、気色が余程晴々して来た。
何か事が起つたのかと思つて、上り掛けに、書生部屋を覗いて見たら、直木と誠太郎がたつた二人で、白砂糖を振り掛けた苺を食つてゐた。
「やあ、御馳走だな」と云ふと、直木は、すぐ居ずまひを直して、挨拶をした。誠太郎は唇の縁を濡らした儘、突然、
「叔父さん、奥さんは何時貰ふんですか」と聞いた。直木はにや〳〵してゐる。代助は一寸返答に窮した。已を得ず、
「今日は何故学校へ行かないんだ。さうして朝つ腹から苺なんぞを食つて」と調戯ふ様に、叱る様に云つた。
「だつて今日は日曜ぢやありませんか」と誠太郎は真面目になつた。
「おや、日曜か」と代助は驚ろいた。
直木は代助の顔を見てとう〳〵笑ひ出した。代助も笑つて、座敷へ来た。そこには誰も居なかつた。替え立ての畳の上に、丸い紫檀の刳抜盆が一つ出てゐて、中に置いた湯呑には、京都の浅井黙語の模様画が染め付けてあつた。からんとした広い座敷へ朝の緑が庭から射し込んで、凡てが静かに見えた。戸外の風は急に落ちた様に思はれた。
座敷を通り抜けて、兄の部屋の方へ来たら、人の影がした。
「あら、だつて、夫ぢや余まりだわ」と云ふ嫂の声が聞えた。代助は中へ這入つた。中には兄と嫂と縫子がゐた。兄は角帯に金鎖を巻き付けて、近頃流行る妙な絽の羽織を着て、此方を向いて立つてゐた。代助の姿を見て、
「そら来た。ね。だから一所に連れて行つて御貰よ」と梅子に話しかけた。代助には何の意味だか固より分らなかつた。すると、梅子が代助の方に向き直つた。
「代さん、今日貴方、無論暇でせう」と云つた。
「えゝ、まあ暇です」と代助は答へた。
「ぢや、一所に歌舞伎座へ行つて頂戴」
代助は嫂の此言葉を聞いて、頭の中に、忽ち一種の滑稽を感じた。けれども今日は平常の様に、嫂に調戯ふ勇気がなかつた。面倒だから、平気な顔をして、
「えゝ宜しい、行きませう」と機嫌よく答へた。すると梅子は、
「だつて、貴方は、最早、一遍観たつて云ふんぢやありませんか」と聞き返した。
「一遍だらうが、二遍だらうが、些とも構はない。行きませう」と代助は梅子を見て微笑した。
「貴方も余っ程道楽ものね」と梅子が評した。代助は益滑稽を感じた。
兄は用があると云つて、すぐ出て行つた。四時頃用が済んだら芝居の方へ回る約束なんださうである。それ迄自分と縫子丈で見てゐたら好ささうなものだが、梅子は夫が厭だと云つた。そんなら直木を連れて行けと兄から注意された時、直木は紺絣を着て、袴を穿いて、六づかしく坐つてゐて不可ないと答へた。夫で仕方がないから代助を迎ひに遣つたのだ、と、是は兄が出掛の説明であつた。代助は少々理窟に合はないと思つたが、たゞ、左様ですかと答へた。さうして、嫂は幕の相間に話し相手が欲いのと、夫からいざと云ふ時に、色々用を云ひ付けたいものだから、わざ〳〵自分を呼び寄せたに違ないと解釈した。
梅子と縫子は長い時間を御化粧に費やした。代助は懇よく御化粧の監督者になつて、両人の傍に附いてゐた。さうして時々は、面白半分の冷かしも云つた。縫子からは叔父さん随分だわを二三度繰り返された。
父は今朝早くから出て、家にゐなかつた。何処へ行つたのだか、嫂は知らないと云つた。代助は別に知りたい気もなかつた。たゞ父のゐないのが難有かつた。此間の会見以後、代助は父とはたつた二度程しか顔を合せなかつた。それも、ほんの十分か十五分に過ぎなかつた。話が込み入りさうになると、急に叮嚀な御辞義をして立つのを例にしてゐた。父は座敷の方へ出て来て、どうも代助は近頃少しも尻が落ち付かなくなつた。おれの顔さへ見れば逃げ支度をすると云つて怒つた。と嫂は鏡の前で夏帯の尻を撫でながら代助に話した。
「ひどく、信用を落したもんだな」
代助は斯う云つて、嫂と縫子の蝙蝠傘を抱げて一足先へ玄関へ出た。車はそこに三挺并んでゐた。
代助は風を恐れて鳥打帽を被つてゐた。風は漸く歇んで、強い日が雲の隙間から頭の上を照らした。先へ行く梅子と縫子は傘を広げた。代助は時々手の甲を額の前に翳した。
芝居の中では、嫂も縫子も非常に熱心な観客であつた。代助は二返目の所為といひ、此三四日来の脳の状態からと云ひ、左様一図に舞台ばかりに気を取られてゐる訳にも行かなかつた。堪えず精神に重苦しい暑を感ずるので、屡団扇を手にして、風を襟から頭へ送つてゐた。
幕の合間に縫子が代助の方を向いて時々妙な事を聞いた。何故あの人は盥で酒を飲むんだとか、何故坊さんが急に大将になれるんだとか、大抵説明の出来ない質問のみであつた。梅子はそれを聞くたんびに笑つてゐた。代助は不図二三日前新聞で見た、ある文学者の劇評を思ひ出した。それには、日本の脚本が、あまりに突飛な筋に富んでゐるので、楽に見物が出来ないと書いてあつた。代助は其時、役者の立場から考へて、何もそんな人に見て貰ふ必要はあるまいと思つた。作者に云ふべき小言を、役者の方へ持つてくるのは、近松の作を知るために、越路の浄瑠理が聴きたいと云ふ愚物と同じ事だと云つて門野に話した。門野は依然として、左様なもんでせうかなと云つてゐた。
小供のうちから日本在来の芝居を見慣れた代助は、無論梅子と同じ様に、単純なる芸術の鑑賞家であつた。さうして舞台に於ける芸術の意味を、役者の手腕に就てのみ用ひべきものと狭義に解釈してゐた。だから梅子とは大いに話が合つた。時々顔を見合して、黒人の様な批評を加へて、互に感心してゐた。けれども、大体に於て、舞台にはもう厭が来てゐた。幕の途中でも、双眼鏡で、彼方を見たり、此方を見たりしてゐた。双眼鏡の向ふ所には芸者が沢山ゐた。そのあるものは、先方でも眼鏡の先を此方へ向けてゐた。
代助の右隣には自分と同年輩の男が丸髷に結た美くしい細君を連れて来てゐた。代助は其細君の横顔を見て、自分の近付のある芸者によく似てゐると思つた。左隣には男連が四人許ゐた。さうして、それが、悉く博士であつた。代助は其顔を一々覚えてゐた。其又隣に、広い所を、たつた二人で専領してゐるものがあつた。その一人は、兄と同じ位な年恰好で、正しい洋服を着てゐた。さうして金縁の眼鏡を掛けて、物を見るときには、顎を前へ出して、心持仰向く癖があつた。代助は此男を見たとき、何所か見覚のある様な気がした。が、ついに思ひ出さうと力めても見なかつた。其伴侶は若い女であつた。代助はまだ廿になるまいと判定した。羽織を着ないで、普通よりは大きく廂を出して、多くは顎を襟元へぴたりと着けて坐つてゐた。
代助は苦しいので、何返も席を立つて、後の廊下へ出て、狭い空を仰いだ。兄が来たら、嫂と縫子を引き渡して早く帰りたい位に思つた。一遍は縫子を連れて、其所等をぐる〳〵運動して歩いた。仕舞には些と酒でも取り寄せて飲まうかと思つた。
兄は日暮とすれ〳〵に来た。大変遅かつたぢやありませんかと云つた時、帯の間から、金時計を出して見せた。実際六時少し回つた許であつた。兄は例の如く、平気な顔をして、方々見回してゐた。が、飯を食ふ時、立つて廊下へ出たぎり、中々帰つて来なかつた。しばらくして、代助は不図振り返つたら、一軒置いて隣りの金縁の眼鏡を掛けた男の所へ這入つて、話をしてゐた。若い女にも時々話しかける様であつた。然し女の方では笑ひ顔を一寸見せる丈で、すぐ舞台の方へ真面目に向き直つた。代助は嫂に其人の名を聞かうと思つたが、兄は人の集る所へさへ出れば、何所へでも斯の如く平気に這入り込む程、世間の広い、又世間を自分の家の様に心得てゐる男であるから、気にも掛けずに黙つてゐた。
すると幕の切れ目に、兄が入口迄帰つて来て、代助一寸来いと云ひながら、代助を其金縁の男の席へ連れて行つて、愚弟だと紹介した。それから代助には、是が神戸の高木さんだと云つて引合した。金縁の紳士は、若い女を顧みて、私の姪ですと云つた。女はしとやかに御辞義をした。其時兄が、佐川さんの令嬢だと口を添へた。代助は女の名を聞いたとき、旨く掛けられたと腹の中で思つた。が何事も知らぬものゝ如く装つて、好加減に話してゐた。すると嫂が一寸自分の方を振り向いた。
五六分して、代助は兄と共に自分の席に返つた。佐川の娘を紹介される迄は、兄の見え次第逃げる気であつたが、今では左様不可なくなつた。余り現金に見えては、却つて好くない結果を引き起しさうな気がしたので、苦しいのを我慢して坐つてゐた。兄も芝居に就ては全たく興味がなささうだつたけれども、例の如く鷹揚に構えて、黒い頭を燻す程、葉巻をゆらした。時々評をすると、縫子あの幕は綺麗だらう位の所であつた。梅子は平生の好奇心にも似ず、高木に就ても、佐川の娘に就ても、何等の質問も掛けず、一言の批評も加へなかつた。代助には其澄した様子が却つて滑稽に思はれた。彼は今日迄嫂の策略にかゝつた事が時々あつた。けれども、只の一返も腹を立てた事はなかつた。今度の狂言も、平生ならば、退屈紛らしの遊戯程度に解釈して、笑つて仕舞たかも知れない。夫許ではない。もし自分が結婚する気なら、却つて、此狂言を利用して、自ら人巧的に、御目出度喜劇を作り上げて、生涯自分を嘲けつて満足する事も出来た。然し此姉迄が、今の自分を、父や兄と共謀して、漸々窮地に誘なつて行くかと思ふと、流石がに此所作をたゞの滑稽として、観察する訳には行かなかつた。代助は此先、嫂が此事件を何う発展させる気だらうと考へて、少々弱つた。家のものゝ中で、嫂が一番斯んな計画に興味をもつてゐたからである。もし嫂が此方面に向つて代助に肉薄すればする程、代助は漸々家族のものと疎遠にならなければならないと云ふ恐れが、代助の頭の何処かに潜んでゐた。
芝居の仕舞になつたのは十一時近くであつた。外へ出て見ると、風は全く歇んだが、月も星も見えない静かな晩を、電燈が少し許り照らしてゐた。時間が遅いので茶屋では話をする暇もなかつた。三人の迎は来てゐたが、代助はつい車を誂へて置くのを忘れた。面倒だと思つて、嫂の勧を斥けて、茶屋の前から電車に乗つた。数寄屋橋で乗り易え様と思つて、黒い路の中に、待ち合はしてゐると、小供を負つた神さんが、退儀さうに向から近寄つて来た。電車は向ふ側を二三度通つた。代助と軌道の間には、土か石の積んだものが、高い土手の様に挟まつてゐた。代助は始めて間違つた所に立つてゐる事を悟つた。
「御神さん、電車へ乗るなら、此所ぢや不可ない。向側だ」と教へながら歩き出した。神さんは礼を云つて跟いて来た。代助は手探でもする様に、暗い所を好加減に歩いた。十四五間左の方へ濠際を目標に出たら、漸く停留所の柱が見付つた。神さんは其所で、神田橋の方へ向いて乗つた。代助はたつた一人反対の赤坂行へ這入つた。
車の中では、眠くて寐られない様な気がした。揺られながらも今夜の睡眠が苦になつた。彼は大いに疲労して、白昼の凡てに、惰気を催うすにも拘はらず、知られざる何物かの興奮の為に、静かな夜を恣にする事が出来ない事がよくあつた。彼の脳裏には、今日の日中に、交る〴〵痕を残した色彩が、時の前後と形の差別を忘れて、一度に散らついてゐた。さうして、それが何の色彩であるか、何の運動であるか慥かに解らなかつた。彼は眼を眠つて、家へ帰つたら、又ヰスキーの力を借りやうと覚悟した。
彼は此取り留めのない花やかな色調の反照として、三千代の事を思ひ出さざるを得なかつた。さうして其所にわが安住の地を見出した様な気がした。けれども其安住の地は、明らかには、彼の眼に映じて出なかつた。たゞ、かれの心の調子全体で、それを認めた丈であつた。従つて彼は三千代の顔や、容子や、言葉や、夫婦の関係や、病気や、身分を一纏にしたものを、わが情調にしつくり合ふ対象として、発見したに過ぎなかつた。
翌日代助は但馬にゐる友人から長い手紙を受取つた。此友人は学校を卒業すると、すぐ国へ帰つたぎり、今日迄ついぞ東京へ出た事のない男であつた。当人は無論山の中で暮す気はなかつたんだが、親の命令で已を得ず、故郷に封じ込められて仕舞つたのである。夫でも一年許の間は、もう一返親父を説き付けて、東京へ出る出ると云つて、うるさい程手紙を寄こしたが、此頃は漸く断念したと見えて、大した不平がましい訴もしない様になつた。家は所の旧家で、先祖から持ち伝へた山林を年々伐り出すのが、重な用事になつてゐるよしであつた。今度の手紙には、彼の日常生活の模様が委しく書いてあつた。それから、一ヶ月前町長に挙げられて、年俸を三百円頂戴する身分になつた事を、面白半分、殊更に真面目な句調で吹聴して来た。卒業してすぐ中学の教師になつても、此三倍は貰へると、自分と他の友人との比較がしてあつた。
此友人は国へ帰つてから、約一年許りして、京都在のある財産家から嫁を貰つた。それは無論親の云ひ付であつた。すると、少時して、直子供が生れた。女房の事は貰つた時より外に何も云つて来ないが、子供の生長には興味があると見えて、時々代助の可笑くなる様な報知をした。代助はそれを読むたびに、此子供に対して、満足しつゝある友人の生活を想像した。さうして、此子供の為に、彼の細君に対する感想が、貰つた当時に比べて、どの位変化したかを疑つた。
友人は時々鮎の乾したのや、柿の乾したのを送つてくれた。代助は其返礼に大概は新らしい西洋の文学書を遣つた。すると其返事には、それを面白く読んだ証拠になる様な批評が屹度あつた。けれども、それが長くは続かなかつた。仕舞には受取つたと云ふ礼状さへ寄こさなかつた。此方からわざ〳〵問ひ合せると、書物は難有く頂戴した。読んでから礼を云はうと思つて、つい遅くなつた。実はまだ読まない。白状すると、読む閑がないと云ふより、読む気がしないのである。もう一層露骨に云へば、読んでも解らなくなつたのである。といふ返事が来た。代助は夫から書物を廃めて、其代りに新らしい玩具を買つて送る事にした。
代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向を有つてゐた此旧友が、当時とは丸で反対の思想と行動とに支配されて、生活の音色を出してゐると云ふ事実を、切に感じた。さうして、命の絃の震動から出る二人の響を審かに比較した。
彼は理論家として、友人の結婚を肯つた。山の中に住んで、樹や谷を相手にしてゐるものは、親の取り極めた通りの妻を迎へて、安全な結果を得るのが自然の通則と心得たからである。彼は同じ論法で、あらゆる意味の結婚が、都会人士には、不幸を持ち来すものと断定した。其原因を云へば、都会は人間の展覧会に過ぎないからであつた。彼は此前提から此結論に達する為に斯う云ふ径路を辿つた。
彼は肉体と精神に於て美の類別を認める男であつた。さうして、あらゆる美の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考へた。あらゆる美の種類に接触して、其たび毎に、甲から乙に気を移し、乙から丙に心を動かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞家であると断定した。彼は是を自家の経験に徴して争ふべからざる真理と信じた。その真理から出立して、都会的生活を送る凡ての男女は、両性間の引力に於て、悉く随縁臨機に、測りがたき変化を受けつゝあるとの結論に到着した。それを引き延ばすと、既婚の一対は、双方ともに、流俗に所謂不義の念に冒されて、過去から生じた不幸を、始終嘗めなければならない事になつた。代助は、感受性の尤も発達した、又接触点の尤も自由な、都会人士の代表者として、芸妓を撰んだ。彼等のあるものは、生涯に情夫を何人取り替えるか分らないではないか。普通の都会人は、より少なき程度に於て、みんな芸妓ではないか。代助は渝らざる愛を、今の世に口にするものを偽善家の第一位に置いた。
此所迄考へた時、代助の頭の中に、突然三千代の姿が浮んだ。其時代助はこの論理中に、或因数を数へ込むのを忘れたのではなからうかと疑つた。けれども、其因数は何うしても発見する事が出来なかつた。すると、自分が三千代に対する情合も、此論理によつて、たゞ現在的のものに過ぎなくなつた。彼の頭は正にこれを承認した。然し彼の心は、慥かに左様だと感ずる勇気がなかつた。
代助は嫂の肉薄を恐れた。又三千代の引力を恐れた。避暑にはまだ間があつた。凡ての娯楽には興味を失つた。読書をしても、自己の影を黒い文字の上に認める事が出来なくなつた。落付いて考へれば、考へは蓮の糸を引く如くに出るが、出たものを纏めて見ると、人の恐ろしがるもの許であつた。仕舞には、斯様に考へなければならない自分が怖くなつた。代助は蒼白く見える自分の脳髄を、ミルクセークの如く廻転させる為に、しばらく旅行しやうと決心した。始めは父の別荘に行く積であつた。然し、是は東京から襲はれる点に於て、牛込に居ると大した変りはないと思つた。代助は旅行案内を買つて来て、自分の行くべき先を調べて見た。が、自分の行くべき先は天下中何処にも無い様な気がした。しかし、代助は無理にも何処かへ行かうとした。それには、支度を調へるに若くはないと極めた。代助は電車に乗つて、銀座迄来た。朗かに風の往来を渡る午後であつた。新橋の勧工場を一回して、広い通りをぶら〳〵と京橋の方へ下つた。其時代助の眼には、向ふ側の家が、芝居の書割の様に平たく見えた。青い空は、屋根の上にすぐ塗り付けられてゐた。
代助は二三の唐物屋を冷かして、入用の品を調へた。其中に、比較的高い香水があつた。資生堂で練歯磨を買はうとしたら、若いものが、欲しくないと云ふのに自製のものを出して、頻に勧めた。代助は顔をしかめて店を出た。紙包を腋の下に抱へた儘、銀座の外れ迄遣つて来て、其所から大根河岸を回つて、鍛冶橋を丸の内へ志した。当もなく西の方へ歩きながら、是も簡便な旅行と云へるかも知れないと考へた揚句、草臥れて車をと思つたが、何処にも見当らなかつたので又電車へ乗つて帰つた。
家の門を這入ると、玄関に誠太郎のらしい履が叮嚀に并べてあつた。門野に聞いたら、へえ左様です、先方から待つて御出ですといふ答であつた。代助はすぐ書斎へ来て見た。誠太郎は、代助の坐る大きな椅子に腰を掛けて、洋卓の前で、アラスカ探検記を読んでゐた。洋卓の上には、蕎麦饅頭と茶盆が一所に乗つてゐた。
「誠太郎、何だい、人のゐない留守に来て、御馳走だね」と云ふと、誠太郎は、笑ひながら、先づアラスカ探検記をポツケツトへ押し込んで、席を立つた。
「其所に居るなら、ゐても構はないよ」と云つても、聞かなかつた。
代助は誠太郎を捕まえて、例の様に調戯ひ出した。誠太郎は此間代助が歌舞伎座でした欠伸の数を知つてゐた。さうして、
「叔父さんは何時奥さんを貰ふの」と、又先達てと同じ様な質問を掛けた。
此日誠太郎は、父の使に来たのであつた。其口上は、明日の十一時迄に一寸来て呉れと云ふのであつた。代助はさう〳〵父や兄に呼び付けられるが面倒であつた。誠太郎に向つて、半分怒つた様に、
「何だい、苛いぢやないか。用も云はないで、無暗に人を呼びつけるなんて」と云つた。誠太郎は矢っ張りにや〳〵してゐた。代助はそれぎり話を外へそらして仕舞つた。新聞に出てゐる相撲の勝負が、二人の題目の重なるものであつた。
晩食を食つて行けと云ふのを学校の下調があると云つて辞退して誠太郎は帰つた。帰る前に、
「それぢや、叔父さん、明日は来ないんですか」と聞いた。代助は已を得ず、
「うむ。何うだか分らない。叔父さんは旅行するかも知れないからつて、帰つてさう云つて呉れ」と云つた。
「何時」と誠太郎が聞き返したとき、代助は今日明日のうちと答へた。誠太郎はそれで納得して、玄関迄出て行つたが、沓脱へ下りながら振り返つて、突然
「何処へ入らつしやるの」と代助を見上げた。代助は、
「何処つて、まだ分るもんか。ぐる〳〵回るんだ」と云つたので、誠太郎は又にや〳〵しながら、格子を出た。
代助は其夜すぐ立たうと思つて、グラツドストーンの中を門野に掃除さして、携帯品を少し詰め込んだ。門野は少なからざる好奇心を以て、代助の革鞄を眺めてゐたが、
「少し手伝ひませうか」と突立つたまゝ聞いた。代助は、
「なに、訳はない」と断わりながら、一旦詰め込んだ香水の壜を取り出して、封被を剥いで、栓を抜いて、鼻に当てゝ嗅いで見た。門野は少し愛想を尽した様な具合で、自分の部屋へ引き取つた。二三分すると又出て来て、
「先生、車を左様云つときますかな」と注意した。代助はグラツドストーンを前へ置いて、顔を上げた。
「左様、少し待つて呉れ給へ」
庭を見ると、生垣の要目の頂に、まだ薄明るい日足がうろついてゐた。代助は外を覗きながら、是から三十分のうちに行く先を極めやうと考へた。何でも都合のよささうな時間に出る汽車に乗つて、其汽車の持つて行く所へ降りて、其所で明日迄暮らして、暮らしてゐるうちに、又新らしい運命が、自分を攫ひに来るのを待つ積であつた。旅費は無論充分でなかつた。代助の旅装に適した程の宿泊を続けるとすれば、一週間も保たない位であつた。けれども、さう云ふ点になると、代助は無頓着であつた。愈となれば、家から金を取り寄せる気でゐた。それから、本来が四辺の風気を換えるのを目的とする移動だから、贅沢の方面へは重きを置かない決心であつた。興に乗れば、荷持を雇つて、一日歩いても可いと覚悟した。
彼は又旅行案内を開いて、細かい数字を丹念に調べ出したが、少しも決定の運に近寄らないうちに、又三千代の方に頭が滑つて行つた。立つ前にもう一遍様子を見て、それから東京を出やうと云ふ気が起つた。グラツドストーンは今夜中に始末を付けて、明日の朝早く提げて行かれる様にして置けば構はない事になつた。代助は急ぎ足で玄関迄出た。其音を聞き付けて、門野も飛び出した。代助は不断着の儘、掛釘から帽子を取つてゐた。
「又御出掛ですか。何か御買物ぢやありませんか。私で可ければ買つて来ませう」と門野が驚ろいた様に云つた。
「今夜は已めだ」と云ひ放した儘、代助は外へ出た。外はもう暗かつた。美くしい空に星がぽつ〳〵影を増して行く様に見えた。心持の好い風が袂を吹いた。けれども長い足を大きく動かした代助は、二三町も歩かないうちに額際に汗を覚えた。彼は頭から鳥打を脱つた。黒い髪を夜露に打たして、時々帽子をわざと振つて歩いた。
平岡の家の近所へ来ると、暗い人影が蝙蝠の如く静かに其所、此所に動いた。粗末な板塀の隙間から、洋燈の灯が往来へ映つた。三千代は其光の下で新聞を読んでゐた。今頃新聞を読むのかと聞いたら、二返目だと答へた。
「そんなに閑なんですか」と代助は座蒲団を敷居の上に移して、椽側へ半分身体を出しながら、障子へ倚りかゝつた。
平岡は居なかつた。三千代は今湯から帰つた所だと云つて、団扇さへ膝の傍に置いてゐた。平生の頬に、心持暖い色を出して、もう帰るでせうから、緩くりしてゐらつしやいと、茶の間へ茶を入れに立つた。髪は西洋風に結つてゐた。
平岡は三千代の云つた通りには中々帰らなかつた。何時でも斯んなに遅いのかと尋ねたら、笑ひながら、まあ左んな所でせうと答へた。代助は其笑の中に一種の淋しさを認めて、眼を正して、三千代の顔を凝と見た。三千代は急に団扇を取つて袖の下を煽いだ。
代助は平岡の経済の事が気に掛つた。正面から、此頃は生活費には不自由はあるまいと尋ねて見た。三千代は左様ですねと云つて、又前の様な笑ひ方をした。代助がすぐ返事をしなかつたものだから、
「貴方には、左様見えて」と今度は向ふから聞き直した。さうして、手に持つた団扇を放り出して、湯から出たての奇麗な繊い指を、代助の前に広げて見せた。其指には代助の贈つた指環も、他の指環も穿めてゐなかつた。自分の記念を何時でも胸に描いてゐた代助には、三千代の意味がよく分つた。三千代は手を引き込めると同時に、ぽつと赤い顔をした。
「仕方がないんだから、堪忍して頂戴」と云つた。代助は憐れな心持がした。
代助は其夜九時頃平岡の家を辞した。辞する前、自分の紙入の中に有るものを出して、三千代に渡した。其時は、腹の中で多少の工夫を費やした。彼は先づ何気なく懐中物を胸の所で開けて、中にある紙幣を、勘定もせずに攫んで、是を上げるから御使なさいと無雑作に三千代の前へ出した。三千代は、下女を憚かる様な低い声で、
「そんな事を」と、却つて両手をぴたりと身体へ付けて仕舞つた。代助は然し自分の手を引き込めなかつた。
「指環を受取るなら、これを受取つても、同じ事でせう。紙の指環だと思つて御貰ひなさい」
代助は笑ひながら、斯う云つた。三千代はでも、余りだからとまだ蹰躇した。代助は、平岡に知れると叱られるのかと聞いた。三千代は叱られるか、賞められるか、明らかに分らなかつたので、矢張り愚図々々してゐた。代助は、叱られるなら、平岡に黙つてゐたら可からうと注意した。三千代はまだ手を出さなかつた。代助は無論出したものを引き込める訳に行かなかつた。已を得ず、少し及び腰になつて、掌を三千代の胸の傍迄持つて行つた。同時に自分の顔も一尺許の距離に近寄せて、
「大丈夫だから、御取んなさい」と確りした低い調子で云つた。三千代は顎を襟の中へ埋める様に後へ引いて、無言の儘右の手を前へ出した。紙幣は其上に落ちた。其時三千代は長い睫毛を二三度打ち合はした。さうして、掌に落ちたものを帯の間に挟んだ。
「又来る。平岡君によろしく」と云つて、代助は表へ出た。町を横断して小路へ下ると、あたりは暗くなつた。代助は美くしい夢を見た様に、暗い夜を切つて歩いた。彼は三十分と立たないうちに、吾家の門前に来た。けれども門を潜る気がしなかつた。彼は高い星を戴いて、静かな屋敷町をぐる〳〵徘徊した。自分では、夜半迄歩きつゞけても疲れる事はなからうと思つた。兎角するうち、又自分の家の前へ出た。中は静かであつた。門野と婆さんは茶の間で世間話をしてゐたらしい。
「大変遅うがしたな。明日は何時の汽車で御立ちですか」と玄関へ上るや否や問を掛けた。代助は、微笑しながら、
「明日も御已めだ」と答へて、自分の室へ這入つた。そこには床がもう敷いてあつた。代助は先刻栓を抜いた香水を取つて、括枕の上に一滴垂らした。夫では何だか物足りなかつた。壜を持つた儘、立つて室の四隅へ行つて、そこに一二滴づゝ振りかけた。斯様に打ち興じた後、白地の浴衣に着換えて、新らしい小掻巻の下に安かな手足を横たへた。さうして、薔薇の香のする眠に就いた。
眼が覚めた時は、高い日が椽に黄金色の震動を射込んでゐた。枕元には新聞が二枚揃えてあつた。代助は、門野が何時、雨戸を引いて、何時新聞を持つて来たか、丸で知らなかつた。代助は長い伸を一つして起き上つた。風呂場で身体を拭いてゐると、門野が少し狼狽へた容子で遣つて来て、
「青山から御兄いさんが御見えになりました」と云つた。代助は今直行く旨を答へて、奇麗に身体を拭き取つた。座敷はまだ掃除が出来てゐるか、ゐないかであつたが、自分で飛び出す必要もないと思つたから、急ぎもせずに、いつもの通り、髪を分けて剃を中て、悠々と茶の間へ帰つた。そこでは流石にゆつくりと膳につく気も出なかつた。立ちながら紅茶を一杯啜つて、タヱルで一寸口髭を摩つて、それを、其所へ放り出すと、すぐ客間へ出て、
「やあ兄さん」と挨拶をした。兄は例の如く、色の濃い葉巻の、火の消えたのを、指の股に挟んで、平然として代助の新聞を読んでゐた。代助の顔を見るや否や、
「此室は大変好い香がする様だが、御前の頭かい」と聞いた。
「僕の頭の見える前からでせう」と答へて、昨夜の香水の事を話した。兄は、落ち付いて、
「はゝあ、大分洒落た事をやるな」と云つた。
兄は滅多に代助の所へ来た事のない男であつた。たまに来れば必ず来なくつてならない用事を持つてゐた。さうして、用を済ますとさつさと帰つて行つた。今日も何事か起つたに違ないと代助は考へた。さうして、それは昨日誠太郎を好加減に胡魔化して返した反響だらうと想像した。五六分雑談をしてゐるうちに、兄はとう〳〵斯う云ひ出した。
「昨夕誠太郎が帰つて来て、叔父さんは明日から旅行するつて云ふ話だから、出て来た」
「えゝ、実は今朝六時頃から出やうと思つてね」と代助は嘘の様な事を、至極冷静に答へた。兄も真面目な顔をして、
「六時に立てる位な早起の男なら、今時分わざわざ青山から遣つて来やしない」と云つた。改めて用事を聞いて見ると、矢張り予想の通り肉薄の遂行に過ぎなかつた。即ち今日高木と佐川の娘を呼んで午餐を振舞ふ筈だから、代助にも列席しろと云ふ父の命令であつた。兄の語る所によると、昨夕誠太郎の返事を聞いて、父は大いに機嫌を悪くした。梅子は気を揉んで、代助の立たない前に逢つて、旅行を延ばさせると云ひ出した。兄はそれを留めたさうである。
「なに彼奴が今夜中に立つものか、今頃は革鞄の前へ坐つて考へ込んでゐる位のものだ。明日になつて見ろ、放つて置いても遣つて来るからつて、己が姉さんを安心させたのだよ」と誠吾は落付払つてゐた。代助は少し忌々しくなつたので、
「ぢや、放つて置いて御覧なされば好いのに」と云つた。
「所が女と云ふものは、気の短かいもので、御父さんに悪いからつて、今朝起きるや否や、己をせびるんだからね」と誠吾は可笑い様な顔もしなかつた。寧ろ迷惑さうに代助を眺めてゐた。代助は行くとも、行かないとも決答を与へなかつた。けれども兄に対しては、誠太郎同様に、要領を握らせないで返して仕舞ふ勇気も出なかつた。其上午餐を断つて、旅行するにしても、もう自分の懐中を当にする訳には行かなかつた。矢張り、兄とか嫂とか、もしくは父とか、いづれ反対派の誰かを痛めなければ、身動が取れない位地にゐた。そこで、即かず離れずに、高木と佐川の娘の評判をした。高木には十年程前に一遍逢つた限であつたが、妙なもので、何処かに見覚があつて、此間歌舞伎座で眼に着いた時は、はてなと思つた。これに反して、佐川の娘の方は、つい先達て、写真を手にした許であるのに、実物に接しても、丸で聯想が浮ばなかつた。写真は奇体なもので、先づ人間を知つてゐて、その方から、写真の誰彼を極めるのは容易であるが、その逆の、写真から人間を定める方は中々六づかしい。是を哲学にすると、死から生を出すのは不可能だが、生から死に移るのは自然の順序であると云ふ真理に帰着する。
「私は左様考へた」と代助が云つた。兄は成程と答へたが別段感心した様子もなかつた。葉巻の短かくなつて、口髭に火が付きさうなのを無暗に啣へ易えて、
「それで、必ずしも今日旅行する必要もないんだらう」と聞いた。
代助はないと答へざるを得なかつた。
「ぢや、今日餐を食ひに来ても好いんだらう」
代助は又好いと答へない訳に行かなかつた。
「ぢや、己はこれから、一寸他所へ回るから、間違のない様に来てくれ」と相変らず多忙に見えた。代助はもう度胸を据ゑたから、何うでも構はないといふ気で、先方に都合の好い返事を与へた。すると兄が突然、
「一体何うなんだ。あの女を貰ふ気はないのか。好いぢやないか貰つたつて。さう撰り好みをする程女房に重きを置くと、何だか元禄時代の色男の様で可笑しいな。凡てあの時代の人間は男女に限らず非常に窮屈な恋をした様だが、左様でもなかつたのかい。──まあ、どうでも好いから、成る可く年寄を怒らせない様に遣つてくれ」と云つて帰つた。
代助は座敷へ戻つて、しばらく、兄の警句を咀嚼してゐた。自分も結婚に対しては、実際兄と同意見であるとしか考へられない。だから、結婚を勧める方でも、怒らないで放つて置くべきものだと、兄とは反対に、自分に都合の好い結論を得た。
兄の云ふ所によると、佐川の娘は、今度久し振に叔父に連れられて、見物旁上京したので、叔父の商用が済み次第又連れられて国へ帰るのださうである。父が其機会を利用して、相互の関係に、永遠の利害を結び付けやうと企だてたのか、又は先達ての旅行先で、此機会をも自発的に拵えて帰つて来たのか、どつちにしても代助はあまり研究の余地を認めなかつた。自分はたゞ是等の人と同じ食卓で、旨さうに午餐を味はつて見せれば、社交上の義務は其所に終るものと考へた。もしそれより以上に、何等の発展が必要になつた場合には、其時に至つて、始めて処置を付けるより外に道はないと思案した。
代助は婆さんを呼んで着物を出さした。面倒だと思つたが、敬意を表するために、紋付の夏羽織を着た。袴は一重のがなかつたから、家へ行つて、父か兄かのを穿く事に極めた。代助は神経質な割に、子供の時からの習慣で、人中へ出るのを余り苦にしなかつた。宴会とか、招待とか、送別とかいふ機会があると、大抵は都合して出席した。だから、ある方面に知名な人の顔は大分覚えてゐた。其中には伯爵とか子爵とかいふ貴公子も交つてゐた。彼は斯んな人の仲間入をして、其仲間なりの交際に、損も得も感じなかつた。言語動作は何処へ出ても同じであつた。外部から見ると、其所が大変能く兄の誠吾に似てゐた。だから、よく知らない人は、此兄弟の性質を、全く同一型に属するものと信じてゐた。
代助が青山に着いた時は、十一時五分前であつたが、御客はまだ来てゐなかつた。兄もまだ帰らなかつた。嫂丈がちやんと支度をして、座敷に坐つてゐた。代助の顔を見て、
「あなたも、随分乱暴ね。人を出し抜いて旅行するなんて」と、いきなり遣り込めた。梅子は場合によると、決して論理を有ち得ない女であつた。此場合にも、自分が代助を出し抜いた事には丸で気が付いてゐない挨拶の仕方であつた。それが代助には愛嬌に見えた。で、直そこへ坐り込んで梅子の服装の品評を始めた。父は奥にゐると聞いたが、わざと行かなかつた。強ひられたとき、
「今に御客さんが来たら、僕が奥へ知らせに行く。其時挨拶をすれば好からう」と云つて、矢っ張り平常の様な無駄口を叩いてゐた。けれども佐川の娘に関しては、一言も口を切らなかつた。梅子は何とかして、話を其所へ持つて行かうとした。代助には、それが明らかに見えた。だから、猶空とぼけて讐を取つた。
其うち待ち設けた御客が来たので、代助は約束通りすぐ父の所へ知らせに行つた。父は、案のじよう、
「左様か」とすぐ立ち上がつた丈であつた。代助に小言を云ふ暇も何も無かつた。代助は座敷へ引き返して来て、袴を穿いて、それから応接間へ出た。客と主人とはそこで悉く顔を合はせた。父と高木とが第一に話を始めた。梅子は重に佐川の令嬢の相手になつた。そこへ兄が今朝の通りの服装で、のつそりと這入つて来た。
「いや、何うも遅くなりまして」と客の方に挨拶をしたが、席に就いたとき、代助を振り返つて、
「大分早かつたね」と小さな声を掛けた。
食堂には応接室の次の間を使つた。代助は戸の開いた間から、白い卓布の角の際立つた色を認めて、午餐は洋食だと心づいた。梅子は一寸席を立つて、次の入口を覗きに行つた。それは父に、食卓の準備が出来上つた旨を知らせる為であつた。
「では何うぞ」と父は立ち上がつた。高木も会釈して立ち上がつた。佐川の令嬢も叔父に継いで立ち上がつた。代助は其時、女の腰から下の、比較的に細く長い事を発見した。食卓では、父と高木が、真中に向き合つた。高木の右に梅子が坐つて、父の左に令嬢が席を占めた。女同志が向き合つた如く、誠吾と代助も向き合つた。代助は五味台を中に、少し斜に反れた位地から令嬢の顔を眺める事になつた。代助は其頬の肉と色が、著るしく後の窓から射す光線の影響を受けて、鼻の境に暗過ぎる影を作つた様に思つた。其代り耳に接した方は、明らかに薄紅であつた。殊に小さい耳が、日の光を透してゐるかの如くデリケートに見えた。皮膚とは反対に、令嬢は黒い鳶色の大きな眼を有したゐた。此二つの対照から華やかな特長を生ずる令嬢の顔の形は、寧ろ丸い方であつた。
食卓は、人数が人数だけに、左程大きくはなかつた。部屋の広さに比例して、寧ろ小さ過る位であつたが、純白な卓布を、取り集めた花で綴つて、其中に肉刀と肉匙の色が冴えて輝いた。
卓上の談話は重に平凡な世間話であつた。始のうちは、それさへ余り興味が乗らない様に見えた。父は斯う云ふ場合には、よく自分の好きな書画骨董の話を持ち出すのを常としてゐた。さうして気が向けば、いくらでも、蔵から出して来て、客の前に陳べたものである。父の御蔭で、代助は多少斯道に好悪を有てる様になつてゐた。兄も同様の原因から、画家の名前位は心得てゐた。たゞし、此方は掛物の前に立つて、はあ仇英だね、はあ応挙だねと云ふ丈であつた。面白い顔もしないから、面白い様にも見えなかつた。それから真偽の鑑定の為に、虫眼鏡などを振り舞はさない所は、誠吾も代助も同じ事であつた。父の様に、こんな波は昔の人は描かないものだから、法にかなつてゐない抔といふ批評は、双方共に、未だ嘗て如何なる画に対しても加へた事はなかつた。
父は乾いた会話に色彩を添へるため、やがて好きな方面の問題に触れて見た。所が一二言で、高木はさう云ふ事に丸で無頓着な男であるといふ事が分つた。父は老巧の人だから、すぐ退却した。けれども双方に安全な領分に帰ると、双方共に談話の意味を感じなかつた。父は已を得ず、高木に何んな娯楽があるかを確めた。高木は特別に娯楽を持たない由を答へた。父は万事休すといふ体裁で、高木を誠吾と代助に托して、しばらく談話の圏外に出た。誠吾は、何の苦もなく、神戸の宿屋やら、楠公神社やら、手当り次第に話題を開拓して行つた。さうして、其中に自然令嬢の演ずべき役割を拵えた。令嬢はたゞ簡単に、必要な言葉丈を点じては逃げた。代助と高木とは、始め同志社を問題にした。それから亜米利加の大学の状況に移つた。最後にエマーソンやホーソーンの名が出た。代助は、高木に斯う云ふ種類の知識があるといふ事を確めたけれども、たゞ確めた丈で、それより以上に深入もしなかつた。従つて文学談は単に二三の人名と書名に終つて、少しも発展しなかつた。
梅子は固より初から断えず口を動かしてゐた。其努力の重なるものは、無論自分の前にゐる令嬢の遠慮と沈黙を打ち崩すにあつた。令嬢は礼義上から云つても、梅子の間断なき質問に応じない訳に行かなかつた。けれども積極的に自分から梅子の心を動かさうと力めた形迹は殆んどなかつた。たゞ物を云ふときに、少し首を横に曲げる癖があつた。それすらも代助には媚を売るとは解釈出来なかつた。
令嬢は京都で教育を受けた。音楽は、始めは琴を習つたが、後にはピヤノに易えた。ヷイオリンも少し稽古したが、此方は手の使い方が六づかしいので、まあ遣らないと同じである。芝居は滅多に行つた事がなかつた。
「先達ての歌舞伎座は如何でした」と梅子が聞いた時、令嬢は何とも答へなかつた。代助には夫が劇を解しないと云ふより、劇を軽蔑してゐる様に取れた。それだのに、梅子はつゞけて、同じ問題に就いて、甲の役者は何うだの、乙の役者は何だのと評し出した。代助は又嫂が論理を踏み外したと思つた。仕方がないから、横合から、
「芝居は御嫌ひでも、小説は御読みになるでせう」と聞いて芝居の話を已めさした。令嬢は其時始めて、一寸代助の方を見た。けれども答は案外に判然してゐた。
「いえ小説も」
令嬢の答を待ち受けてゐた、主客はみんな声を出して笑つた。高木は令嬢の為に説明の労を取つた。その云ふ所によると、令嬢の教育を受けたミス何とか云ふ婦人の影響で、令嬢はある点では殆んど清教徒の様に仕込まれてゐるのださうであつた。だから余程時代後れだと、高木は説明のあとから批評さへ付け加へた。其時は無論誰も笑はなかつた。耶蘇教に対して、あまり好意を有つてゐない父は、
「それは結構だ」と賞めた。梅子は、さう云ふ教育の価値を全く解する事が出来なかつた。にも拘はらず、
「本当にね」と趣味に適はない不得要領の言葉を使つた。誠吾は梅子の言葉が、あまり重い印象を先方に与へない様に、すぐ問題を易えた。
「ぢや英語は御上手でせう」
令嬢はいゝえと云つて、心持顔を赤くした。
食事が済んでから、主客は又応接間に戻つて、話を始めたが、蝋燭を継ぎ足した様に、新らしい方へは急に火が移りさうにも見えなかつた。梅子は立つて、ピヤノの蓋を開けて、
「何か一つ如何ですか」と云ひながら令嬢を顧みた。令嬢は固より席を動かなかつた。
「ぢや、代さん、皮切に何か御遣り」と今度は代助に云つた。代助は人に聞かせる程の上手でないのを自覚してゐた。けれども、そんな弁解をすると、問答が理窟臭く、しつこくなる許だから、
「まあ、蓋を開けて御置なさい。今に遣るから」と答へたなり、何かなしに、無関係の事を話しつゞけてゐた。
一時間程して客は帰つた。四人は肩を揃へて玄関迄出た。奥へ這入る時、
「代助はまだ帰るんぢやなからうな」と父が云つた。代助はみんなから一足後れて、鴨居の上に両手が届く様な伸を一つした。それから、人のゐない応接間と食堂を少しうろ〳〵して座敷へ来て見ると、兄と嫂が向き合つて何か話をしてゐた。
「おい、すぐ帰つちや不可ない。御父さんが何か用があるさうだ。奥へ御出」と兄はわざとらしい真面目な調子で云つた。梅子は薄笑ひをしてゐる。代助は黙つて頭を掻いた。
代助は一人で父の室へ行く勇気がなかつた。何とか蚊とか云つて、兄夫婦を引張つて行かうとした。それが旨く成功しないので、とう〳〵其所へ坐り込んで仕舞つた。所へ小間使が来て、
「あの、若旦那様に一寸、奥迄入つしやる様に」と催促した。
「うん、今行く」と返事をして、それから、兄夫婦に斯ういふ理窟を述べた。──自分一人で父に逢ふと、父があゝ云ふ気象の所へ持つて来て、自分がこんな図法螺だから、殊によると大いに老人を怒らして仕舞ふかも知れない。さうすると、兄夫婦だつて、後から面倒くさい調停をしたり何かしなければならない。其方が却つて迷惑になる訳だから、骨惜をせずに今一寸一所に行つて呉れたら宜からう。
兄は議論が嫌な男なので、何んだ下らないと云はぬ許の顔をしたが、
「ぢや、さあ行かう」と立ち上がつた。梅子も笑ひながらすぐに立つた。三人して廊下を渡つて父の室に行つて、何事も起らなかつたかの如く着坐した。
そこでは、梅子が如才なく、代助の過去に父の小言が飛ばない様な手加減をした。さうして談話の潮流を、成るべく今帰つた来客の品評の方へ持つて行つた。梅子は佐川の令嬢を大変大人しさうな可い子だと賞めた。是には父も兄も代助も同意を表した。けれども、兄は、もし亜米利加のミスの教育を受けたと云ふのが本当なら、もう少しは西洋流にはき〳〵しさうなものだと云ふ疑を立てた。代助は其疑にも賛成した。父と嫂は黙つてゐた。そこで代助は、あの大人しさは、羞恥む性質の大人さだから、ミスの教育とは独立に、日本の男女の社交的関係から来たものだらうと説明した。父はそれも左うだと云つた。梅子は令嬢の教育地が京都だから、あゝなんぢやないかと推察した。兄は東京だつて、御前見た様なの許はゐないと云つた。此時父は厳正な顔をして灰吹を叩いた。次に、容色だつて十人並より可いぢやありませんかと梅子が云つた。是には父も兄も異議はなかつた。代助も賛成の旨を告白した。四人は夫から高木の品評に移つた。温健の好人物と云ふ事で、其方はすぐ方付いて仕舞つた。不幸にして誰も令嬢の父母を知らなかつた。けれども、物堅い地味な人だと云ふ丈は、父が三人の前で保証した。父はそれを同県下の多額納税議員の某から確めたのださうである。最後に、佐川家の財産に就ても話が出た。其時父は、あゝ云ふのは、普通の実業家より基礎が確りしてゐて安全だと云つた。
令嬢の資格が略定まつた時、父は代助に向つて、
「大した異存もないだらう」と尋ねた。其語調と云ひ、意味と云ひ、何うするかね位の程度ではなかつた。代助は、
「左様ですな」と矢っ張り煮え切らない答をした。父はじつと代助を見てゐたが、段々皺の多い額を曇らした。兄は仕方なしに、
「まあ、もう少し善く考へて見るが可い」と云つて、代助の為に余裕を付けて呉れた。
四日程してから、代助は又父の命令で、高木の出立を新橋迄見送つた。其日は眠い所を無理に早く起されて、寐足らない頭を風に吹かした所為か、停車場に着く頃、髪の毛の中に風邪を引いた様な気がした。待合所に這入るや否や、梅子から顔色が可くないと云ふ注意を受けた。代助は何にも答へずに、帽子を脱いで、時々濡れた頭を抑えた。仕舞には朝奇麗に分けた髪がもぢや〳〵になつた。
プラツトフオームで高木は突然代助に向つて、
「何うです此汽車で、神戸迄遊びに行きませんか」と勧めた。代助はたゞ難有うと答へた丈であつた。愈汽車の出る間際に、梅子はわざと、窓際に近寄つて、とくに令嬢の名を呼んで、
「近い内に又是非入らつしやい」と云つた。令嬢は窓のなかで、叮嚀に会釈したが、窓の外へは別段の言葉も聞えなかつた。汽車を見送つて、又改札場を出た四人りは、それぎり離れ〴〵になつた。梅子は代助を誘つて青山へ連れて行かうとしたが、代助は頭を抑えて応じなかつた。
車に乗つてすぐ牛込へ帰つて、それなり書斎へ這入つて、仰向に倒れた。門野は一寸其様子を覗きに来たが、代助の平生を知つてゐるので、言葉も掛けず、椅子に引つ掛けてある羽織丈を抱へて出て行つた。
代助は寐ながら、自分の近き未来を何うなるものだらうと考へた。斯うして打遣つて置けば、是非共嫁を貰はなければならなくなる。嫁はもう今迄に大分断つてゐる。此上断れば、愛想を尽かされるか、本当に怒り出されるか、何方かになるらしい。もし愛想を尽かされて、結婚勧誘をこれ限り断念して貰へれば、それに越した事はないが、怒られるのは甚だ迷惑である。と云つて、進まぬものを貰ひませうと云ふのは今代人として馬鹿気てゐる。代助は此ヂレンマの間に彽徊した。
彼は父と違つて、当初からある計画を拵らえて、自然を其計画通りに強ひる古風な人ではなかつた。彼は自然を以て人間の拵えた凡ての計画よりも偉大なものと信じてゐたからである。だから父が、自分の自然に逆らつて、父の計画通りを強ひるならば、それは、去られた妻が、離縁状を楯に夫婦の関係を証拠立てやうとすると一般であると考へた。けれども、そんな理窟を、父に向つて述べる気は、丸でなかつた。父を理攻にする事は困難中の困難であつた。其困難を冒した所で、代助に取つては何等の利益もなかつた。其結果は父の不興を招く丈で、理由を云はずに結婚を拒絶するのと撰む所はなかつた。
彼は父と兄と嫂の三人の中で、父の人格に尤も疑を置いた。今度の結婚にしても、結婚其物が必ずしも父の唯一の目的ではあるまいと迄推察した。けれども父の本意が何処にあるかは、固より明らかに知る機会を与へられてゐなかつた。彼は子として、父の心意を斯様に揣摩する事を、不徳義とは考へなかつた。従つて自分丈が、多くの親子のうちで、尤も不幸なものであると云ふ様な考は少しも起さなかつた。たゞ是がため、今日迄の程度より以上に、父と自分の間が隔つて来さうなのを不快に感じた。
彼は隔離の極端として、父子絶縁の状態を想像して見た。さうして其所に一種の苦痛を認めた。けれども、其苦痛は堪え得られない程度のものではなかつた。寧ろそれから生ずる財源の杜絶の方が恐ろしかつた。
もし馬鈴薯が金剛石より大切になつたら、人間はもう駄目であると、代助は平生から考へてゐた。向後父の怒に触れて、万一金銭上の関係が絶えるとすれば、彼は厭でも金剛石を放り出して、馬鈴薯に噛り付かなければならない。さうして其償には自然の愛が残る丈である。其愛の対象は他人の細君であつた。
彼は寐ながら、何時迄も考へた。けれども、彼の頭は何時迄も何処へも到着する事が出来なかつた。彼は自分の寿命を極める権利を持たぬ如く、自分の未来をも極め得なかつた。同時に、自分の寿命に、大抵の見当を付け得る如く、自分の未来にも多少の影を認めた。さうして、徒らに其影を捕捉しやうと企てた。
其時代助の脳の活動は、夕闇を驚ろかす蝙蝠の様な幻像をちらり〳〵と産み出すに過ぎなかつた。其羽搏の光を追ひ掛けて寐てゐるうちに、頭が床から浮き上がつて、ふわ〳〵する様に思はれて来た。さうして、何時の間にか軽い眠に陥つた。
すると突然誰か耳の傍で半鐘を打つた。代助は火事と云ふ意識さへまだ起らない先に眼を醒ました。けれども跳ね起きもせずに寐てゐた。彼の夢に斯んな音の出るのは殆んど普通であつた。ある時はそれが正気に返つた後迄も響いてゐた。五六日前彼は、彼の家の大いに揺れる自覚と共に眠を破つた。其時彼は明らかに、彼の下に動く畳の様を、肩と腰と脊の一部に感じた。彼は又夢に得た心臓の鼓動を、覚めた後迄持ち伝へる事が屡あつた。そんな場合には聖徒の如く、胸に手を当てゝ、眼を開けた儘、じつと天井を見詰めてゐた。
代助は此時も半鐘の音が、じいんと耳の底で鳴り尽して仕舞ふ迄横になつて待つてゐた。それから起きた。茶の間へ来て見ると、自分の膳の上に簀垂が掛けて、火鉢の傍に据ゑてあつた。柱時計はもう十二時回つてゐた。婆さんは、飯を済ました後と見えて、下女部屋で御櫃の上に肱を突いて居眠りをしてゐた。門野は何処へ行つたか影さへ見えなかつた。
代助は風呂場へ行つて、頭を濡らしたあと、独り茶の間の膳に就いた。そこで、淋しい食事を済して、再び書斎に戻つたが、久し振りに今日は少し書見をしやうと云ふ心組であつた。
かねて読み掛けてある洋書を、栞の挟んである所で開けて見ると、前後の関係を丸で忘れてゐた。代助の記憶に取つて斯う云ふ現象は寧ろ珍らしかつた。彼は学校生活の時代から一種の読書家であつた。卒業の後も、衣食の煩なしに、講読の利益を適意に収め得る身分を誇りにしてゐた。一頁も眼を通さないで、日を送ることがあると、習慣上何となく荒癈の感を催ふした。だから大抵な事故があつても、成るべく都合して、活字に親んだ。ある時は読書そのものが、唯一なる自己の本領の様な気がした。
代助は今茫然として、烟草を燻らしながら、読み掛けた頁を二三枚あとへ繰つて見た。そこに何んな議論があつて、それが何う続くのか、頭を拵える為に一寸骨を折つた。其努力は艀から桟橋へ移る程楽ではなかつた。食ひ違つた断面の甲に迷付いてゐるものが、急に乙に移るべく余儀なくされた様であつた。代助はそれでも辛抱して、約二時間程眼を頁の上に曝してゐた。が仕舞にとう〳〵堪え切れなくなつた。彼の読んでゐるものは、活字の集合として、ある意味を以て、彼の頭に映ずるには違ないが、彼の肉や血に廻る気色は一向見えなかつた。彼は氷嚢を隔てゝ、氷に食ひ付いた時の様に物足らなく思つた。
彼は書物を伏せた。さうして、こんな時に書物を読むのは無理だと考へた。同時にもう安息する事も出来なくなつたと考へた。彼の苦痛は何時ものアンニユイではなかつた。何も為るのが慵いと云ふのとは違つて、何か為なくてはゐられない頭の状態であつた。
彼は立ち上がつて、茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛た。さうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を穿いて馳け出す様に門を出た。時は四時頃であつた。神楽坂を下りて、当もなく、眼に付いた第一の電車に乗つた。車掌に行先を問はれたとき、口から出任せの返事をした。紙入を開けたら、三千代に遣つた旅行費の余りが、三折の深底の方にまだ這入つてゐた。代助は乗車券を買つた後で、札の数を調べて見た。
彼は其晩を赤坂のある待合で暮らした。其所で面白い話を聞いた。ある若くて美くしい女が、去る男と関係して、其種を宿した所が、愈子を生む段になつて、涙を零して悲しがつた。後から其訳を聞いたら、こんな年で子供を生ませられるのは情ないからだと答へた。此女は愛を専らにする時機が余り短か過ぎて、親子の関係が容赦もなく、若い頭の上を襲つて来たのに、一種の無定を感じたのであつた。それは無論堅気の女ではなかつた。代助は肉の美と、霊の愛にのみ己れを捧げて、其他を顧みぬ女の心理状体として、此話を甚だ興味あるものと思つた。
翌日になつて、代助はとう〳〵又三千代に逢ひに行つた。其時彼は腹の中で、先達て置いて来た金の事を、三千代が平岡に話したらうか、話さなかつたらうか、もし話したとすれば何んな結果を夫婦の上に生じたらうか、それが気掛りだからと云ふ口実を拵らえた。彼は此気掛が、自分を駆つて、凝と落ち付かれない様に、東西に引張回した揚句、遂に三千代の方に吹き付けるのだと解釈した。
代助は家を出る前に、昨夕着た肌着も単衣も悉く改めて気を新にした。外は寒暖計の度盛の日を逐ふて騰る頃であつた。歩いてゐると、湿つぽい梅雨が却つて待ち遠しい程熾んに日が照つた。代助は昨夕の反動で、此陽気な空気の中に落ちる自分の黒い影が苦になつた。広い鍔の夏帽を被りながら、早く雨季に入れば好いと云ふ心持があつた。其雨季はもう二三日の眼前に逼つてゐた。彼の頭はそれを予報するかの様に、どんよりと重かつた。
平岡の家の前へ来た時は、曇つた頭を厚く掩ふ髪の根元が息切れてゐた。代助は家に入る前に先づ帽子を脱いだ。格子には締りがしてあつた。物音を目的に裏へ回ると、三千代は下女と張物をしてゐた。物置の横へ立て掛けた張板の中途から、細い首を前へ出して、曲みながら、苦茶々々になつたものを丹念に引き伸ばしつゝあつた手を留めて、代助を見た。一寸は何とも云はなかつた。代助も、しばらくは唯立つてゐた。漸くにして、
「又来ました」と云つた時、三千代は濡れた手を振つて、馳け込む様に勝手から上がつた。同時に表へ回れと眼で合図をした。三千代は自分で沓脱へ下りて、格子の締を外しながら、
「無用心だから」と云つた。今迄日の透る澄んだ空気の下で、手を動かしてゐた所為で、頬の所が熱つて見えた。それが額際へ来て何時もの様に蒼白く変つてゐる辺に、汗が少し煮染み出した。代助は格子の外から、三千代の極めて薄手な皮膚を眺めて、戸の開くのを静かに待つた。三千代は、
「御待遠さま」と云つて、代助を誘ふ様に、一足横へ退いた。代助は三千代とすれ〳〵になつて内へ這入つた。座敷へ来て見ると、平岡の机の前に、紫の座蒲団がちやんと据ゑてあつた。代助はそれを見た時一寸厭な心持がした。土の和れない庭の色が黄色に光る所に、長い草が見苦しく生えた。
代助は又忙がしい所を、邪魔に来て済まないといふ様な尋常な云訳を述べながら、此無趣味な庭を眺めた。其時三千代をこんな家へ入れて置くのは実際気の毒だといふ気が起つた。三千代は水いぢりで爪先の少しふやけた手を膝の上に重ねて、あまり退屈だから張物をしてゐた所だと云つた。三千代の退屈といふ意味は、夫が始終外へ出てゐて、単調な留守居の時間を無聊に苦しむと云ふ事であつた。代助はわざと、
「結構な身分ですね」と冷かした。三千代は自分の荒涼な胸の中を代助に訴へる様子もなかつた。黙つて、次の間へ立つて行つた。用簟笥の環を響かして、赤い天鵞絨で張つた小さい箱を持つて出て来た。代助の前へ坐つて、それを開けた。中には昔し代助の遣つた指環がちやんと這入つてゐた。三千代は、たゞ
「可でせう、ね」と代助に謝罪する様に云つて、すぐ又立つて次の間へ行つた。さうして、世の中を憚かる様に、記念の指環をそこ〳〵に用簟笥に仕舞つて元の坐に戻つた。代助は指環に就ては何事も語らなかつた。庭の方を見て、
「そんなに閑なら、庭の草でも取つたら、何うです」と云つた。すると今度は三千代の方が黙つて仕舞つた。それが、少時続いた後で代助は又改ためて聞いた。
「此間の事を平岡君に話したんですか」
三千代は低い声で、
「いゝえ」と答へた。
「ぢや、未だ知らないんですか」と聞き返した。
其時三千代の説明には、話さうと思つたけれども、此頃平岡はついぞ落ち付いて宅にゐた事がないので、つい話しそびれて未だ知らせずにゐると云ふ事であつた。代助は固より三千代の説明を嘘とは思はなかつた。けれども、五分の閑さへあれば夫に話される事を、今日迄それなりに為てあるのは、三千代の腹の中に、何だか話し悪い或蟠まりがあるからだと思はずにはゐられなかつた。自分は三千代を、平岡に対して、それだけ罪のある人にして仕舞つたと代助は考へた。けれども夫は左程に代助の良心を螫すには至らなかつた。法律の制裁はいざ知らず、自然の制裁として、平岡も此結果に対して明かに責を分たなければならないと思つたからである。
代助は三千代に平岡の近来の模様を尋ねて見た。三千代は例によつて多くを語る事を好まなかつた。然し平岡の妻に対する仕打が結婚当時と変つてゐるのは明かであつた。代助は夫婦が東京へ帰つた当時既にそれを見抜いた。夫から以後改まつて両人の腹の中を聞いた事はないが、それが日毎に好くない方に、速度を加へて進行しつゝあるのは殆んど争ふべからざる事実と見えた。夫婦の間に、代助と云ふ第三者が点ぜられたがために、此疎隔が起つたとすれば、代助は此方面に向つて、もつと注意深く働らいたかも知れなかつた。けれども代助は自己の悟性に訴へて、さうは信ずる事が出来なかつた。彼は此結果の一部分を三千代の病気に帰した。さうして、肉体上の関係が、夫の精神に反響を与へたものと断定した。又其一部分を子供の死亡に帰した。それから、他の一部分を平岡の遊蕩に帰した。又他の一部分を会社員としての平岡の失敗に帰した。最後に、残りの一部分を、平岡の放埒から生じた経済事状に帰した。凡てを概括した上で、平岡は貰ふべからざる人を貰ひ、三千代は嫁ぐ可からざる人に嫁いだのだと解決した。代助は心の中で痛く自分が平岡の依頼に応じて、三千代を彼の為に周旋した事を後悔した。けれども自分が三千代の心を動かすが為に、平岡が妻から離れたとは、何うしても思ひ得なかつた。
同時に代助の三千代に対する愛情は、此夫婦の現在の関係を、必須条件として募りつゝある事もまた一方では否み切れなかつた。三千代が平岡に嫁ぐ前、代助と三千代の間柄は、どの位の程度迄進んでゐたかは、しばらく措くとしても、彼は現在の三千代には決して無頓着でゐる訳には行かなかつた。彼は病気に冒された三千代をたゞの昔の三千代よりは気の毒に思つた。彼は小供を亡くなした三千代をたゞの昔の三千代よりは気の毒に思つた。彼は夫の愛を失ひつゝある三千代をたゞの昔の三千代よりは気の毒に思つた。彼は生活難に苦しみつゝある三千代をたゞの昔の三千代よりは気の毒に思つた。但し、代助は此夫婦の間を、正面から永久に引き放さうと試みる程大胆ではなかつた。彼の愛はさう逆上してはゐなかつた。
三千代の眼のあたり、苦しんでゐるのは経済問題であつた。平岡が自力で給し得る丈の生活費を勝手の方へ回さない事は、三千代の口吻で慥であつた。代助は此点丈でもまづ何うかしなければなるまいと考へた。それで、
「一つ私が平岡君に逢つて、能く話して見やう」と云つた。三千代は淋しい顔をして代助を見た。旨く行けば結構だが、遣り損なへば益三千代の迷惑になる許だとは代助も承知してゐたので、強ひて左様しやうとも主張しかねた。三千代は又立つて次の間から一封の書状を持つて来た。書状は薄青い状袋へ這入つてゐた。北海道にゐる父から三千代へ宛たものであつた。三千代は状袋の中から長い手紙を出して、代助に見せた。
手紙には向ふの思はしくない事や、物価の高くて活計にくい事や、親類も縁者もなくて心細い事や、東京の方へ出たいが都合はつくまいかと云ふ事や、──凡て憐れな事ばかり書いてあつた。代助は叮嚀に手紙を巻き返して、三千代に渡した。其時三千代は眼の中に涙を溜めてゐた。
三千代の父はかつて多少の財産と称へらるべき田畠の所有者であつた。日露戦争の当時、人の勧に応じて、株に手を出して全く遣り損なつてから、潔よく祖先の地を売り払つて、北海道へ渡つたのである。其後の消息は、代助も今此手紙を見せられる迄一向知らなかつた。親類はあれども無きが如しだとは三千代の兄が生きてゐる時分よく代助に語つた言葉であつた。果して三千代は、父と平岡ばかりを便に生きてゐた。
「貴方は羨ましいのね」と瞬きながら云つた。代助はそれを否定する勇気に乏しかつた。しばらくしてから又、
「何だつて、まだ奥さんを御貰ひなさらないの」と聞いた。代助は此問にも答へる事が出来なかつた。
しばらく黙然として三千代の顔を見てゐるうちに、女の頬から血の色が次第に退ぞいて行つて、普通よりは眼に付く程蒼白くなつた。其時代助は三千代と差向で、より長く坐つてゐる事の危険に、始めて気が付いた。自然の情合から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆つて、準縄の埒を踏み超えさせるのは、今二三分の裡にあつた。代助は固より夫より先へ進んでも、猶素知らぬ顔で引返し得る、会話の方を心得てゐた。彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来る男女の情話が、あまりに露骨で、あまりに放肆で、且つあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪んでゐた。原語で読めば兎に角、日本には訳し得ぬ趣味のものと考へてゐた。従つて彼は自分と三千代との関係を発展させる為に、舶来の台詞を用ひる意志は毫もなかつた。少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、其所に、甲の位地から、知らぬ間に乙の位置に滑り込む危険が潜んでゐた。代助は辛うじて、今一歩と云ふ際どい所で、踏み留まつた。帰る時、三千代は玄関迄送つて来て、
「淋しくつて不可ないから、又来て頂戴」と云つた。下女はまだ裏で張物をしてゐた。
表へ出た代助は、ふら〳〵と一丁程歩いた。好い所で切り上げたといふ意識があるべき筈であるのに、彼の心にはさう云ふ満足が些とも無かつた。と云つて、もつと三千代と対座してゐて、自然の命ずるが儘に、話し尽して帰れば可かつたといふ後悔もなかつた。彼は、彼所で切り上げても、五分十分の後切り上げても、必竟は同じ事であつたと思ひ出した。自分と三千代との現在の関係は、此前逢つた時、既に発展してゐたのだと思ひ出した。否、其前逢つた時既に、と思ひ出した。代助は二人の過去を順次に溯ぼつて見て、いづれの断面にも、二人の間に燃る愛の炎を見出さない事はなかつた。必竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでゐたのも同じ事だと考へ詰めた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。彼は其重量の為に、足がふらついた。家に帰つた時、門野が、
「大変顔の色が悪い様ですね、何うかなさいましたか」と聞いた。代助は風呂場へ行つて、蒼い額から奇麗に汗を拭き取つた。さうして、長く延び過ぎた髪を冷水に浸した。
それから二日程代助は全く外出しなかつた。三日目の午後、電車に乗つて、平岡を新聞社に尋ねた。彼は平岡に逢つて、三千代の為に充分話をする決心であつた。給仕に名刺を渡して、埃だらけの受付に待つてゐる間、彼はしばしば袂から手帛を出して、鼻を掩ふた。やがて、二階の応接間へ案内された。其所は風通しの悪い、蒸し暑い、陰気な狭い部屋であつた。代助は此所で烟草を一本吹かした。編輯室と書いた戸口が始終開いて、人が出たり這入つたりした。代助の逢ひに来た平岡も其戸口から現はれた。先達て見た夏服を着て、相変らず奇麗な襟とカフスを掛けてゐた。忙しさうに、
「やあ、暫く」と云つて代助の前に立つた。代助も相手に唆かされた様に立ち上がつた。二人は立ちながら一寸話をした。丁度編輯のいそがしい時で緩くり何うする事も出来なかつた。代助は改めて平岡の都合を聞いた。平岡はポツケツトから時計を出して見て、
「失敬だが、もう一時間程して来てくれないか」と云つた。代助は帽子を取つて、又暗い埃だらけの階段を下りた。表へ出ると、夫でも涼しい風が吹いた。
代助はあてもなく、其所いらを逍遥いた。さうして、愈平岡と逢つたら、どんな風に話を切り出さうかと工夫した。代助の意は、三千代に刻下の安慰を、少しでも与へたい為に外ならなかつた。けれども、夫が為に、却つて平岡の感情を害する事があるかも知れないと思つた。代助は其悪結果の極端として、平岡と自分の間に起り得る破裂をさへ予想した。然し、其時は何んな具合にして、三千代を救はうかと云ふ成案はなかつた。代助は三千代と相対づくで、自分等二人の間をあれ以上に何うかする勇気を有たなかつたと同時に、三千代のために、何かしなくては居られなくなつたのである。だから、今日の会見は、理知の作用から出た安全の策と云ふよりも、寧ろ情の旋風に捲き込まれた冒険の働きであつた。其所に平生の代助と異なる点があらはれてゐた。けれども、代助自身は夫に気が付いてゐなかつた。一時間の後彼は又編輯室の入口に立つた。さうして、平岡と一所に新聞社の門を出た。
裏通りを三四丁来た所で、平岡が先へ立つて或家に這入つた。座敷の軒に釣忍が懸つて、狭い庭が水で一面に濡れてゐた。平岡は上衣を脱いで、すぐ胡坐をかいた。代助は左程暑いとも思はなかつた。団扇は手にした丈で済んだ。
会話は新聞社内の有様から始まつた。平岡は忙しい様で却つて楽な商買で好いと云つた。其語気には別に負惜みの様子も見えなかつた。代助は、それは無責任だからだらうと調戯つた。平岡は真面目になつて、弁解をした。さうして、今日の新聞事業程競争の烈しくて、機敏な頭を要するものはないと云ふ理由を説明した。
「成程たゞ筆が達者な丈ぢや仕様があるまいよ」と代助は別に感服した様子を見せなかつた。すると、平岡は斯う云つた。
「僕は経済方面の係りだが、単にそれ丈でも中々面白い事実が挙がつてゐる。ちと、君の家の会社の内幕でも書いて御覧に入れやうか」
代助は自分の平生の観察から、斯んな事を云はれて、驚ろく程ぼんやりしては居なかつた。
「書くのも面白いだらう。其代り公平に願ひたいな」と云つた。
「無論嘘は書かない積だ」
「いえ、僕の兄の会社ばかりでなく、一列一体に筆誅して貰ひたいと云ふ意味だ」
平岡は此時邪気のある笑ひ方をした。さうして、
「日糖事件丈ぢや物足りないからね」と奥歯に物の挟まつた様に云つた。代助は黙つて酒を飲んだ。話は此調子で段々はずみを失ふ様に見えた。すると平岡は、実業界の内状に関聯するとでも思つたものか、何かの拍子に、ふと、日清戦争の当時、大倉組に起つた逸話を代助に吹聴した。その時、大倉組は広島で、軍隊用の食料品として、何百頭かの牛を陸軍に納める筈になつてゐた。それを毎日何頭かづつ、納めて置いては、夜になると、そつと行つて偸み出して来た。さうして、知らぬ顔をして、翌日同じ牛を又納めた。役人は毎日々々同じ牛を何遍も買つてゐた。が仕舞に気が付いて、一遍受取つた牛には焼印を押した。所がそれを知らずに、又偸み出した。のみならず、それを平気に翌日連れて行つたので、とう〳〵露見して仕舞つたのださうである。
代助は此話を聞いた時、その実社会に触れてゐる点に於て、現代的滑稽の標本だと思つた。平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人宛昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張つて、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を付ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。今本郷に現はれた、今神田へ来たと、夫から夫へと電話が掛つて東京市中大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人の為に月々百円使つてゐる。同じ仲間の飴屋が、大道で飴細工を拵えてゐると、白服の巡査が、飴の前へ鼻を出して、邪魔になつて仕方がない。
是も代助の耳には、真面目な響を与へなかつた。
「矢っ張り現代的滑稽の標本ぢやないか」と平岡は先刻の批評を繰り返しながら、代助を挑んだ。代助はさうさと笑つたが、此方面にはあまり興味がないのみならず、今日は平生の様に普通の世間話をする気でないので、社会主義の事はそれなりにして置いた。先刻平岡の呼ばうと云ふ芸者を無理に已めさしたのも是が為であつた。
「実は君に話したい事があるんだが」と代助は遂に云ひ出した。すると、平岡は急に様子を変へて、落ち付かない眼を代助の上に注いだが、卒然として、
「そりや、僕も疾うから、何うかする積なんだけれども、今の所ぢや仕方がない。もう少し待つて呉れ玉へ。其代り君の兄さんや御父さんの事も、斯うして書かずにゐるんだから」と代助には意表な返事をした。代助は馬鹿馬鹿しいと云ふより、寧ろ一種の憎悪を感じた。
「君も大分変つたね」と冷かに云つた。
「君の変つた如く変つちまつた。斯う摺れちや仕方がない。だから、もう少し待つて呉れ給へ」と答へて、平岡はわざとらしい笑ひ方をした。
代助は平岡の言語の如何に拘はらず、自分の云ふ事丈は云はうと極めた。なまじい、借金の催促に来たんぢやない抔と弁明すると、又平岡が其裏を行くのが癪だから、向ふの疳違は、疳違で構はないとして置いて、此方は此方の歩を進める態度に出た。けれども第一に困つたのは、平岡の勝手元の都合を、三千代の訴へによつて知つたと切り出しては、三千代に迷惑が掛るかも知れない。と云つて、問題が其所に触れなければ、忠告も助言も全く無益である。代助は仕方なしに迂回した。
「君は近来斯う云ふ所へ大分頻繁に出はいりをすると見えて、家のものとは、みんな御馴染だね」
「君の様に金回りが好くないから、さう豪遊も出来ないが、交際だから仕方がないよ」と云つて、平岡は器用な手付をして猪口を口へ着けた。
「余計な事だが、それで家の方の経済は、収支償なふのかい」と代助は思ひ切つて猛進した。
「うん。まあ、好い加減にやつてるさ」
斯う云つた平岡は、急に調子を落して、極めて気のない返事をした。代助は夫限食ひ込めなくなつた。已を得ず、
「不断は今頃もう家へ帰つてゐるんだらう。此間僕が訪ねた時は大分遅かつた様だが」と聞いた。すると、平岡は矢張問題を回避する様な語気で、
「まあ帰つたり、帰らなかつたりだ。職業が斯う云ふ不規則な性質だから、仕方がないさ」と、半ば自分を弁護するためらしく、曖昧に云つた。
「三千代さんは淋しいだらう」
「なに大丈夫だ。彼奴も大分変つたからね」と云つて、平岡は代助を見た。代助は其眸の内に危しい恐れを感じた。ことによると、此夫婦の関係は元に戻せないなと思つた。もし此夫婦が自然の斧で割き限に割かれるとすると、自分の運命は取り帰しの付かない未来を眼の前に控えてゐる。夫婦が離れゝば離れる程、自分と三千代はそれ丈接近しなければならないからである。代助は即座の衝動の如くに云つた。──
「そんな事が、あらう筈がない。いくら、変つたつて、そりや唯年を取つた丈の変化だ。成るべく帰つて三千代さんに安慰を与へて遣れ」
「君はさう思ふか」と云ひさま平岡はぐいと飲んだ。代助は、たゞ、
「思ふかつて、誰だつて左様思はざるを得んぢやないか」と半ば口から出任せに答へた。
「君は三千代を三年前の三千代と思つてるか。大分変つたよ。あゝ、大分変つたよ」と平岡は又ぐいと飲んだ。代助は覚えず胸の動悸を感じた。
「同なじだ、僕の見る所では全く同じだ。少しも変つてゐやしない」
「だつて、僕は家へ帰つても面白くないから仕方がないぢやないか」
「そんな筈はない」
平岡は眼を丸くして又代助を見た。代助は少し呼吸が逼つた。けれども、罪あるものが雷火に打たれた様な気は全たくなかつた。彼は平生にも似ず論理に合はない事をたゞ衝動的に云つた。然しそれは眼の前にゐる平岡のためだと固く信じて疑はなかつた。彼は平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それを便に、自分を三千代から永く振り放さうとする最後の試みを、半ば無意識的に遣つた丈であつた。自分と三千代の関係を、平岡から隠す為の、糊塗策とは毫も考へてゐなかつた。代助は平岡に対して、左程に不信な言動を敢てするには、余りに高尚であると、優に自己を評価してゐた。しばらくしてから、代助は又平生の調子に帰つた。
「だつて、君がさう外へ許出てゐれば、自然金も要る。従つて家の経済も旨く行かなくなる。段々家庭が面白くなくなる丈ぢやないか」
平岡は、白襯衣の袖を腕の中途迄捲り上げて、
「家庭か。家庭もあまり下さつたものぢやない。家庭を重く見るのは、君の様な独身者に限る様だね」と云つた。
此言葉を聞いたとき、代助は平岡が悪くなつた。あからさまに自分の腹の中を云ふと、そんなに家庭が嫌なら、嫌でよし、其代り細君を奪つちまふぞと判然知らせたかつた。けれども二人の問答は、其所迄行くには、まだ中中間があつた。代助はもう一遍外の方面から平岡の内部に触れて見た。
「君が東京へ着たてに、僕は君から説教されたね。何か遣れつて」
「うん。さうして君の消極な哲学を聞かされて驚ろいた」
代助は実際平岡が驚ろいたらうと思つた。その時の平岡は、熱病に罹つた人間の如く行為に渇いてゐた。彼は行為の結果として、富を冀つてゐたか、もしくは名誉、もしくは権勢を冀つてゐたか。夫でなければ、活動としての行為其物を求めてゐたか。それは代助にも分らなかつた。
「僕の様に精神的に敗残した人間は、已を得ず、あゝ云ふ消極な意見も出すが。──元来意見があつて、人がそれに則るのぢやない。人があつて、其人に適した様な意見が出て来るのだから、僕の説は僕丈に通用する丈だ。決して君の身の上を、あの説で、何うしやうの斯うしやうのと云ふ訳ぢやない。僕はあの時の君の意気に敬服してゐる。君はあの時自分で云つた如く、全く活動の人だ。是非共活動して貰ひたい」
「無論大いに遣る積だ」
平岡の答はたゞ此一句限であつた。代助は腹の中で首を傾けた。
「新聞で遣る積かね」
平岡は一寸蹰躇した。が、やがて、判然云ひ放つた。──
「新聞にゐるうちは、新聞で遣る積だ」
「大いに要領を得てゐる。僕だつて君の一生涯の事を聞いてゐるんぢやないから、返事はそれで沢山だ。然し新聞で君に面白い活動が出来るかね」
「出来る積だ」と平岡は簡明な挨拶をした。
話は此所迄来ても、たゞ抽象的に進んだ丈であつた。代助は言葉の上でこそ、要領を得たが、平岡の本体を見届ける事は些とも出来なかつた。代助は何となく責任のある政府委員か弁護士を相手にしてゐる様な気がした。代助は此時思ひ切つた政略的な御世辞を云つた。それには軍神広瀬中佐の例が出て来た。広瀬中佐は日露戦争のときに、閉塞隊に加はつて斃れたため、当時の人から偶像視されて、とう〳〵軍神と迄崇められた。けれども、四五年後の今日に至つて見ると、もう軍神広瀬中佐の名を口にするものも殆んどなくなつて仕舞つた。英雄の流行廃はこれ程急劇なものである。と云ふのは、多くの場合に於て、英雄とは其時代に極めて大切な人といふ事で、名前丈は偉さうだけれども、本来は甚だ実際的なものである。だから其大切な時機を通り越すと、世間は其資格を段々奪ひにかゝる。露西亜と戦争の最中こそ、閉塞隊は大事だらうが、平和克復の暁には、百の広瀬中佐も全くの凡人に過ぎない。世間は隣人に対して現金である如く、英雄に対しても現金である。だから、斯う云ふ偶像にも亦常に新陳代謝や生存競争が行はれてゐる。さう云ふ訳で、代助は英雄なぞに担がれたい了見は更にない。が、もし茲に野心があり覇気のある快男子があるとすれば、一時的の剣の力よりも、永久的の筆の力で、英雄になつた方が長持がする。新聞は其方面の代表的事業である。
代助は此所迄述べて見たが、元来が御世辞の上に、云ふ事があまり書生らしいので、自分の内心には多少滑稽に取れる位、気が乗らなかつた。平岡は其返事に、
「いや難有う」と云つた丈であつた。別段腹を立てた様子も見えなかつたが、些とも感激してゐないのは、此返事でも明かであつた。
代助は少々平岡を低く見過ぎたのに恥ぢ入つた。実は此側から、彼の心を動かして、旨く油の乗つた所を、中途から転がして、元の家庭へ滑り込ませるのが、代助の計画であつた。代助は此迂遠で、又尤も困難の方法の出立点から、程遠からぬ所で、蹉跌して仕舞つた。
其夜代助は平岡と遂に愚図々々で分れた。会見の結果から云ふと、何の為に平岡を新聞社に訪ねたのだか、自分にも分らなかつた。平岡の方から見れば、猶更左様であつた。代助は必竟何しに新聞社迄出掛て来たのか、帰る迄ついに問ひ詰めづに済んで仕舞つた。
代助は翌日になつて独り書斎で、昨夕の有様を何遍となく頭の中で繰り返した。二時間も一所に話してゐるうちに、自分が平岡に対して、比較的真面目であつたのは、三千代を弁護した時丈であつた。けれども其真面目は、単に動機の真面目で、口にした言葉は矢張好加減な出任せに過ぎなかつた。厳酷に云へば、嘘許と云つても可かつた。自分で真面目だと信じてゐた動機でさへ、必竟は自分の未来を救ふ手段である。平岡から見れば、固より真摯なものとは云へなかつた。まして、其他の談話に至ると、始めから、平岡を現在の立場から、自分の望む所へ落し込まうと、たくらんで掛つた、打算的のものであつた。従つて平岡を何うする事も出来なかつた。
もし思ひ切つて、三千代を引合に出して、自分の考へ通りを、遠慮なく正面から述べ立てたら、もつと強い事が云へた。もつと平岡を動揺る事が出来た。もつと彼の肺腑に入る事が出来た。に違ない。其代り遣り損へば、三千代に迷惑がかゝつて来る。平岡と喧嘩になる。かも知れない。
代助は知らず〳〵の間に、安全にして無能力な方針を取つて、平岡に接してゐた事を腑甲斐なく思つた。もし斯う云ふ態度で平岡に当りながら、一方では、三千代の運命を、全然平岡に委ねて置けない程の不安があるならば、それは論理の許さぬ矛盾を、厚顔に犯してゐたと云はなければならない。
代助は昔の人が、頭脳の不明瞭な所から、実は利己本位の立場に居りながら、自らは固く人の為と信じて、泣いたり、感じたり、激したり、して、其結果遂に相手を、自分の思ふ通りに動かし得たのを羨ましく思つた。自分の頭が、その位のぼんやりさ加減であつたら、昨夕の会談にも、もう少し感激して、都合のいゝ効果を収める事が出来たかも知れない。彼は人から、ことに自分の父から、熱誠の足りない男だと云はれてゐた。彼の解剖によると、事実は斯うであつた。人間は熱誠を以て当つて然るべき程に、高尚な、真摯な、純粋な、動機や行為を常住に有するものではない。夫よりも、ずつと下等なものである。其下等な動機や行為を、熱誠に取り扱ふのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、然らざれば、熱誠を衒つて、己れを高くする山師に過ぎない。だから彼の冷淡は、人間としての進歩とは云へまいが、よりよく人間を解剖した結果には外ならなかつた。彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味して見て、其あまりに、狡黠くつて、不真面目で、大抵は虚偽を含んでゐるのを知つてゐるから、遂に熱誠な勢力を以てそれを遂行する気になれなかつたのである。と、彼は断然信じてゐた。
此所で彼は一のヂレンマに達した。彼は自分と三千代との関係を、直線的に自然の命ずる通り発展させるか、又は全然其反対に出て、何も知らぬ昔に返るか。何方かにしなければ生活の意義を失つたものと等しいと考へた。其他のあらゆる中途半端の方法は、偽に始つて、偽に終るより外に道はない。悉く社会的に安全であつて、悉く自己に対して無能無力である。と考へた。
彼は三千代と自分の関係を、天意によつて、──彼はそれを天意としか考へ得られなかつた。──醗酵させる事の社会的危険を承知してゐた。天意には叶ふが、人の掟に背く恋は、其恋の主の死によつて、始めて社会から認められるのが常であつた。彼は万一の悲劇を二人の間に描いて、覚えず慄然とした。
彼は又反対に、三千代と永遠の隔離を想像して見た。其時は天意に従ふ代りに、自己の意志に殉する人にならなければ済まなかつた。彼は其手段として、父や嫂から勧められてゐた結婚に思ひ至つた。さうして、此結婚を肯ふ事が、凡ての関係を新にするものと考へた。
自然の児にならうか、又意志の人にならうかと代助は迷つた。彼は彼の主義として、弾力性のない硬張つた方針の下に、寒暑にさへすぐ反応を呈する自己を、器械の様に束縛するの愚を忌んだ。同時に彼は、彼の生活が、一大断案を受くべき危機に達して居る事を切に自覚した。
彼は結婚問題に就て、まあ能く考へて見ろと云はれて帰つたぎり、未だに、それを本気に考へる閑を作らなかつた。帰つた時、まあ今日も虎口を逃れて難有かつたと感謝したぎり、放り出して仕舞つた。父からはまだ何とも催促されないが、此二三日は又青山へ呼び出されさうな気がしてならなかつた。代助は固より呼び出される迄何も考へずにゐる気であつた。呼び出されたら、父の顔色と相談の上、又何とか即席に返事を拵らえる心組であつた。代助はあながち父を馬鹿にする了見ではなかつた。あらゆる返事は、斯う云ふ具合に、相手と自分を商量して、臨機に湧いて来るのが本当だと思つてゐた。
もし、三千代に対する自分の態度が、最後の一歩前迄押し詰められた様な気持がなかつたなら、代助は父に対して無論さう云ふ所置を取つたらう。けれども、代助は今相手の顔色如何に拘はらず、手に持つた賽を投げなければならなかつた。上になつた目が、平岡に都合が悪からうと、父の気に入らなからうと、賽を投げる以上は、天の法則通りになるより外に仕方はなかつた。賽を手に持つ以上は、又賽が投げられ可く作られたる以上は、賽の目を極めるものは自分以外にあらう筈はなかつた。代助は、最後の権威は自己にあるものと、腹のうちで定めた。父も兄も嫂も平岡も、決断の地平線上には出て来なかつた。
彼はたゞ彼の運命に対してのみ卑怯であつた。此四五日は掌に載せた賽を眺め暮らした。今日もまだ握つてゐた。早く運命が戸外から来て、其手を軽く敲いて呉れれば好いと思つた。が、一方では、まだ握つてゐられると云ふ意識が大層嬉しかつた。
門野は時々書斎へ来た。来る度に代助は洋卓の前に凝としてゐた。
「些と散歩にでも御出になつたら如何です。左様御勉強ぢや身体に悪いでせう」と云つた事が一二度あつた。成程顔色が好くなかつた。夏向になつたので、門野が湯を毎日沸かして呉れた。代助は風呂場に行くたびに、長い間鏡を見た。髯の濃い男なので、少し延びると、自分には大層見苦しく見えた。触つて、ざら〳〵すると猶不愉快だつた。
飯は依然として、普通の如く食つた。けれども運動の不足と、睡眠の不規則と、それから、脳の屈托とで、排泄機能に変化を起した。然し代助はそれを何とも思はなかつた。生理状態は殆んど苦にする暇のない位、一つ事をぐる〳〵回つて考へた。それが習慣になると、終局なく、ぐる〳〵回つてゐる方が、埒の外へ飛び出す努力よりも却つて楽になつた。
代助は最後に不決断の自己嫌悪に陥つた。已を得ないから、三千代と自分の関係を発展させる手段として、佐川の縁談を断らうかと迄考へて、覚えず驚ろいた。然し三千代と自分の関係を絶つ手段として、結婚を許諾して見様かといふ気は、ぐる〳〵回転してゐるうちに一度も出て来なかつた。
縁談を断る方は単独にも何遍となく決定が出来た。たゞ断つた後、其反動として、自分をまともに三千代の上に浴せかけねば已まぬ必然の勢力が来るに違ないと考へると、其所に至つて、又恐ろしくなつた。
代助は父からの催促を心待に待つてゐた。しかし父からは何の便もなかつた。三千代にもう一遍逢はうかと思つた。けれども、それ程の勇気も出なかつた。
一番仕舞に、結婚は道徳の形式に於て、自分と三千代を遮断するが、道徳の内容に於て、何等の影響を二人の上に及ぼしさうもないと云ふ考が、段々代助の脳裏に勢力を得て来た。既に平岡に嫁いだ三千代に対して、こんな関係が起り得るならば、此上自分に既婚者の資格を与へたからと云つて、同様の関係が続かない訳には行かない。それを続かないと見るのはたゞ表向の沙汰で、心を束縛する事の出来ない形式は、いくら重ねても苦痛を増す許である。と云ふのが代助の論法であつた。代助は縁談を断るより外に道はなくなつた。
斯う決心した翌日、代助は久し振りに髪を刈つて髯を剃つた。梅雨に入つて二三日凄まじく降つた揚句なので、地面にも、木の枝にも、埃らしいものは悉くしつとりと静まつてゐた。日の色は以前より薄かつた。雲の切れ間から、落ちて来る光線は、下界の湿り気のために、半ば反射力を失つた様に柔らかに見えた。代助は床屋の鏡で、わが姿を映しながら、例の如くふつくらした頬を撫でゝ、今日から愈積極的生活に入るのだと思つた。
青山へ来て見ると、玄関に車が二台程あつた。供待の車夫は蹴込に倚り掛つて眠つた儘、代助の通り過ぎるのを知らなかつた。座敷には梅子が新聞を膝の上へ乗せて、込み入つた庭の緑をぼんやり眺めてゐた。是もぽかんと眠むさうであつた。代助はいきなり梅子の前へ坐つた。
「御父さんは居ますか」
嫂は返事をする前に、一応代助の様子を、試験官の眼で見た。
「代さん、少し瘠せた様ぢやありませんか」と云つた。代助は又頬を撫でて、
「そんな事も無いだらう」と打ち消した。
「だつて、色沢が悪いのよ」と梅子は眼を寄せて代助の顔を覗き込んだ。
「庭の所為だ。青葉が映るんだ」と庭の植込の方を見たが、「だから貴方だつて、矢っ張り蒼いですよ」と続けた。
「私、此二三日具合が好くないんですもの」
「道理でぽかんとして居ると思つた。何うかしたんですか。風邪ですか」
「何だか知らないけれど生欠許り出て」
梅子は斯う答へて、すぐ新聞を膝から卸すと、手を鳴らして、小間使を呼んだ。代助は再び父の在、不在を確めた。梅子は其問をもう忘れてゐた。聞いて見ると、玄関にあつた車は、父の客の乗つて来たものであつた。代助は長く懸ゝらなければ、客の帰る迄待たうと思つた。嫂は判然しないから、風呂場へ行つて、水で顔を拭いて来ると云つて立つた。下女が好い香のする葛の粽を、深い皿に入れて持つて来た。代助は粽の尾をぶら下げて、頻りに嗅いで見た。
梅子が涼しい眼付になつて風呂場から帰つた時、代助は粽の一つを振子の様に振りながら、今度は、
「兄さんは何うしました」と聞いた。梅子はすぐ此陳腐な質問に答へる義務がないかの如く、しばらく椽鼻に立つて、庭を眺めてゐたが、
「二三日の雨で、苔の色が悉皆出た事」と平生に似合はぬ観察をして、故の席に返つた。さうして、
「兄さんが何うしましたつて」と聞き直した。代助は先の質問を繰り返した時、嫂は尤も無頓着な調子で、
「何うしましたつて、例の如くですわ」と答へた。
「相変らず、留守勝ですか」
「えゝ、えゝ、朝も晩も滅多に宅に居た事はありません」
「姉さんは夫で淋しくはないですか」
「今更改まつて、そんな事を聞いたつて仕方がないぢやありませんか」と梅子は笑ひ出した。調戯ふんだと思つたのか、あんまり小供染みてゐると思つたのか殆んど取り合ふ気色はなかつた。代助も平生の自分を振り返つて見て、真面目に斯んな質問を掛けた今の自分を、寧ろ奇体に思つた。今日迄兄と嫂の関係を長い間目撃してゐながら、ついぞ其所には気が付かなかつた。嫂も亦代助の気が付く程物足りない素振は見せた事がなかつた。
「世間の夫婦は夫で済んで行くものかな」と独言の様に云つたが、別に梅子の返事を予期する気もなかつたので、代助は向の顔も見ず、たゞ畳の上に置いてある新聞に眼を落した。すると梅子は忽ち、
「何ですつて」と切り込む様に云つた。代助の眼が、其調子に驚ろいて、ふと自分の方に視線を移した時、
「だから、貴方が奥さんを御貰ひなすつたら、始終宅に許ゐて、たんと可愛がつて御上げなさいな」と云つた。代助は始めて相手が梅子であつて、自分が平生の代助でなかつた事を自覚した。それで成るべく不断の調子を出さうと力めた。
けれども、代助の精神は、結婚謝絶と、其謝絶に次いで起るべき、三千代と自分の関係にばかり注がれてゐた。従つて、いくら平生の自分に帰つて、梅子の相手になる積でも、梅子の予期してゐない、変つた音色が、時々会話の中に、思はず知らず出て来た。
「代さん、貴方今日は何うかしてゐるのね」と仕舞に梅子が云つた。代助は固より嫂の言葉を側面へ摺らして受ける法をいくらでも心得てゐた。然るに、それを遣るのが、軽薄の様で、又面倒な様で、今日は厭になつた。却つて真面目に、何処が変か教へて呉れと頼んだ。梅子は代助の問が馬鹿気てゐるので妙な顔をした。が、代助が益頼むので、では云つて上げませうと前置をして、代助の何うかしてゐる例を挙げ出した。梅子は勿論わざと真面目を装つてゐるものと代助を解釈した。其中に、
「だつて、兄さんが留守勝で、嘸御淋しいでせうなんて、あんまり思遣りが好過ぎる事を仰しやるからさ」と云ふ言葉があつた。代助は其所へ自分を挟んだ。
「いや、僕の知つた女に、左様云ふのが一人あつて、実は甚だ気の毒だから、つい他の女の心持も聞いて見たくなつて、伺つたんで、決して冷かした積ぢやないんです」
「本当に? 夫や一寸何てえ方なの」
「名前は云ひ悪いんです」
「ぢや、貴方が其旦那に忠告をして、奥さんをもつと可愛がるやうにして御上になれば可いのに」
代助は微笑した。
「姉さんも、さう思ひますか」
「当り前ですわ」
「もし其夫が僕の忠告を聞かなかつたら、何うします」
「そりや、何うも仕様がないわ」
「放つて置くんですか」
「放つて置かなけりや、何うなさるの」
「ぢや、其細君は夫に対して細君の道を守る義務があるでせうか」
「大変理責めなのね。夫や旦那の不親切の度合にも因るでせう」
「もし、其細君に好きな人があつたら何うです」
「知らないわ。馬鹿らしい。好きな人がある位なら、始めつから其方へ行つたら好いぢやありませんか」
代助は黙つて考へた。しばらくしてから、姉さんと云つた。梅子は其深い調子に驚ろかされて、改ためて代助の顔を見た。代助は同じ調子で猶云つた。
「僕は今度の縁談を断らうと思ふ」
代助の巻烟草を持つた手が少し顫へた。梅子は寧ろ表情を失つた顔付をして、謝絶の言葉を聞いた。代助は相手の様子に頓着なく進行した。
「僕は今迄結婚問題に就いて、貴方に何返となく迷惑を掛けた上に、今度も亦心配して貰つてゐる。僕ももう三十だから、貴方の云ふ通り、大抵な所で、御勧め次第になつて好いのですが、少し考があるから、この縁談もまあ已めにしたい希望です。御父さんにも、兄さんにも済まないが、仕方がない。何も当人が気に入らないと云ふ訳ではないが、断るんです。此間御父さんによく考へて見ろと云はれて、大分考へて見たが、矢っ張り断る方が好い様だから断ります。実は今日は其用で御父さんに逢ひに来たんですが、今御客の様だから、序と云つては失礼だが、貴方にも御話をして置きます」
梅子は代助の様子が真面目なので、何時もの如く無駄口も入れずに聞いてゐたが、聞き終つた時、始めて自分の意見を述べた。それが極めて簡単な且つ極めて実際的な短かい句であつた。
「でも、御父さんは屹度御困りですよ」
「御父さんには僕が直に話すから構ひません」
「でも、話がもう此所迄進んでゐるんだから」
「話が何所迄進んでゐやうと、僕はまだ貰ひますと云つた事はありません」
「けれども判然貰はないとも仰しやらなかつたでせう」
「それを今云ひに来た所です」
代助と梅子は向ひ合つたなり、しばらく黙つた。
代助の方では、もう云ふ可き事を云ひ尽くした様な気がした。少なくとも、是より進んで、梅子に自分を説明しやうといふ考は丸で無かつた。梅子は語るべき事、聞くべき事を沢山持つてゐた。たゞ夫が咄嗟の間に、前の問答に繋がり好く、口へ出て来なかつたのである。
「貴方の知らない間に、縁談が何れ程進んだのか、私にも能く分らないけれど、誰にしたつて、貴方が、さう的確御断りなさらうとは思ひ掛けないんですもの」と梅子は漸くにして云つた。
「何故です」と代助は冷かに落ち付いて聞いた。梅子は眉を動かした。
「何故ですつて聞いたつて、理窟ぢやありませんよ」
「理窟でなくつても構はないから話して下さい」
「貴方の様にさう何遍断つたつて、詰り同じ事ぢやありませんか」と梅子は説明した。けれども、其意味がすぐ代助の頭には響かなかつた。不可解の眼を挙げて梅子を見た。梅子は始めて自分の本意を布衍しに掛かつた。
「つまり、貴方だつて、何時か一度は、御奥さんを貰ふ積なんでせう。厭だつて、仕方がないぢやありませんか。其様何時迄も我儘を云つた日には、御父さんに済まない丈ですわ。だからね。何うせ誰を持つて行つても気に入らない貴方なんだから、つまり誰を持たしたつて同じだらうつて云ふ訳なんです。貴方には何んな人を見せても駄目なんですよ。世の中に一人も気に入る様なものは生きてやしませんよ。だから、奥さんと云ふものは、始めから気に入らないものと、諦らめて貰ふより外に仕方がないぢやありませんか。だから私達が一番好いと思ふのを、黙つて貰へば、夫で何所も彼所も丸く治まつちまふから、──だから、御父さんが、殊によると、今度は、貴方に一から十迄相談して、何か為さらないかも知れませんよ。御父さんから見れば夫が当り前ですもの。さうでも、為なくつちや、生きてる内に、貴方の奥さんの顔を見る事は出来ないぢやありませんか」
代助は落ち付いて嫂の云ふ事を聴いてゐた。梅子の言葉が切れても、容易に口を動かさなかつた。若し反駁をする日には、話が段々込み入る許で、此方の思ふ所は決して、梅子の耳へ通らないと考へた。けれども向ふの云ひ分を肯ふ気は丸でなかつた。実際問題として、双方が困る様になる許と信じたからである。それで、嫂に向つて、
「貴方の仰しやる所も、一理あるが、私にも私の考があるから、まあ打遣つて置いて下さい」と云つた。其調子には梅子の干渉を面倒がる気色が自然と見えた。すると梅子は黙つてゐなかつた。
「そりや代さんだつて、小供ぢやないから、一人前の考の御有な事は勿論ですわ。私なんぞの要らない差出口は御迷惑でせうから、もう何にも申しますまい。然し御父さんの身になつて御覧なさい。月々の生活費は貴方の要ると云ふ丈今でも出して入らつしやるんだから、つまり貴方は書生時代よりも余計御父さんの厄介になつてる訳でせう。さうして置いて、世話になる事は、元より世話になるが、年を取つて一人前になつたから、云ふ事は元の通りには聞かれないつて威張つたつて通用しないぢやありませんか」
梅子は少し激したと見えて猶も云ひ募らうとしたのを、代助が遮つた。
「だつて、女房を持てば此上猶御父さんの厄介に為らなくつちや為らないでせう」
「宜いぢやありませんか、御父さんが、其方が好いと仰しやるんだから」
「ぢや、御父さんは、いくら僕の気に入らない女房でも、是非持たせる決心なんですね」
「だつて、貴方に好いたのがあればですけれども、そんなのは日本中探して歩いたつて無いんぢやありませんか」
「何うして、夫が分ります」
梅子は張の強い眼を据ゑて、代助を見た。さうして、
「貴方は丸で代言人の様な事を仰しやるのね」と云つた。代助は蒼白くなつた額を嫂の傍へ寄せた。
「姉さん、私は好いた女があるんです」と低い声で云ひ切つた。
代助は今迄冗談に斯んな事を梅子に向つて云つた事が能くあつた。梅子も始めはそれを本気に受けた。そつと手を廻して真相を探つて見た抔といふ滑稽もあつた。事実が分つて以後は、代助の所謂好いた女は、梅子に対して一向利目がなくなつた。代助がそれを云ひ出しても、丸で取り合はなかつた。でなければ、茶化してゐた。代助の方でも夫で平気であつた。然し此場合丈は彼に取つて、全く特別であつた。顔付と云ひ、眼付と云ひ、声の低い底に籠る力と云ひ、此所迄押し逼つて来た前後の関係と云ひ、凡ての点から云つて、梅子をはつと思はせない訳に行かなかつた。嫂は此短い句を、閃めく懐剣の如くに感じた。
代助は帯の間から時計を出して見た。父の所へ来てゐる客は中々帰りさうにもなかつた。空は又曇つて来た。代助は一旦引き上げて又改ためて、父と話を付けに出直す方が便宜だと考へた。
「僕は又来ます。出直して来て御父さんに御目に掛る方が好いでせう」と立ちにかかつた。梅子は其間に回復した。梅子は飽く迄人の世話を焼く実意のある丈に、物を中途で投げる事の出来ない女であつた。抑える様に代助を引き留めて、女の名を聞いた。代助は固より答へなかつた。梅子は是非にと逼つた。代助は夫でも応じなかつた。すると梅子は何故其女を貰はないのかと聞き出した。代助は単純に貰へないから、貰はないのだと答へた。梅子は仕舞に涙を流した。他の尽力を出し抜いたと云つて恨んだ。何故始から打ち明けて話さないかと云つて責めた。かと思ふと、気の毒だと云つて同情して呉れた。けれども代助は三千代に就ては、遂に何事も語らなかつた。梅子はとう〳〵我を折つた。代助の愈帰ると云ふ間際になつて、
「ぢや、貴方から直に御父さんに御話なさるんですね。それ迄は私は黙つてゐた方が好いでせう」と聞いた。代助は黙つてゐて貰ふ方が好いか、話して貰ふ方が好いか、自分にも分らなかつた。
「左様ですね」と蹰躇したが、「どうせ、断りに来るんだから」と云つて嫂の顔を見た。
「ぢや、若し話す方が都合が好ささうだつたら話しませう。もし又悪るい様だつたら、何にも云はずに置くから、貴方が始から御話なさい。夫が宜いでせう」と梅子は親切に云つて呉れた。代助は、
「何分宜しく」と頼んで外へ出た。角へ来て、四谷から歩く積で、わざと、塩町行の電車に乗つた。練兵場の横を通るとき、重い雲が西で切れて、梅雨には珍らしい夕陽が、真赤になつて広い原一面を照らしてゐた。それが向を行く車の輪に中つて、輪が回る度に鋼鉄の如く光つた。車は遠い原の中に小さく見えた。原は車の小さく見える程、広かつた。日は血の様に毒々しく照つた。代助は此光景を斜めに見ながら、風を切つて電車に持つて行かれた。重い頭の中がふら〳〵した。終点迄来た時は、精神が身体を冒したのか、精神の方が身体に冒されたのか、厭な心持がして早く電車を降りたかつた。代助は雨の用心に持つた蝙蝠傘を、杖の如く引き摺つて歩いた。
歩きながら、自分は今日、自ら進んで、自分の運命の半分を破壊したのも同じ事だと、心のうちに囁いだ。今迄は父や嫂を相手に、好い加減な間隔を取つて、柔らかに自我を通して来た。今度は愈本性を露はさなければ、それを通し切れなくなつた。同時に、此方面に向つて、在来の満足を求め得る希望は少なくなつた。けれども、まだ逆戻りをする余地はあつた。たゞ、夫には又父を胡魔化す必要が出て来るに違なかつた。代助は腹の中で今迄の我を冷笑した。彼は何うしても、今日の告白を以て、自己の運命の半分を破壊したものと認めたかつた。さうして、それから受ける打撃の反動として、思ひ切つて三千代の上に、掩つ被さる様に烈しく働き掛けたかつた。
彼は此次父に逢ふときは、もう一歩も後へ引けない様に、自分の方を拵えて置きたかつた。それで三千代と会見する前に、又父から呼び出される事を深く恐れた。彼は今日嫂に、自分の意思を父に話す話さないの自由を与へたのを悔いた。今夜にも話されれば、明日の朝呼ばれるかも知れない。すると今夜中に三千代に逢つて己れを語つて置く必要が出来る。然し夜だから都合がよくないと思つた。
角上を下りた時、日は暮れ掛かつた。士官学校の前を真直に濠端へ出て、二三町来ると砂土原町へ曲がるべき所を、代助はわざと電車路に付いて歩いた。彼は例の如くに宅へ帰つて、一夜を安閑と、書斎の中で暮すに堪えなかつたのである。濠を隔てゝ高い土手の松が、眼のつゞく限り黒く並んでゐる底の方を、電車がしきりに通つた。代助は軽い箱が、軌道の上を、苦もなく滑つて行つては、又滑つて帰る迅速な手際に、軽快の感じを得た。其代り自分と同じ路を容赦なく往来する外濠線の車を、常よりは騒々敷悪んだ。牛込見附迄来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影を認めた。代助は夕飯を食ふ考もなく、三千代のゐる方角へ向いて歩いて行つた。
約二十分の後、彼は安藤坂を上つて、伝通院の焼跡の前へ出た。大きな木が、左右から被さつてゐる間を左りへ抜けて、平岡の家の傍迄来ると、板塀から例の如く灯が射してゐた。代助は塀の本に身を寄せて、凝と様子を窺つた。しばらくは、何の音もなく、家のうちは全く静であつた。代助は門を潜つて、格子の外から、頼むと声を掛けて見様かと思つた。すると、椽側に近く、ぴしやりと脛を叩く音がした。それから、人が立つて、奥へ這入つて行く気色であつた。やがて話声が聞えた。何の事か善く聴き取れなかつたが、声は慥に、平岡と三千代であつた。話声はしばらくで歇んで仕舞つた。すると又足音が椽側迄近付いて、どさりと尻を卸す音が手に取る様に聞えた。代助は夫なり塀の傍を退いた。さうして元来た道とは反対の方角に歩き出した。
しばらくは、何処を何う歩いてゐるか夢中であつた。其間代助の頭には今見た光景ばかりが煎り付く様に踊つてゐた。それが、少し衰へると、今度は自己の行為に対して、云ふべからざる汚辱の意味を感じた。彼は何の故に、斯ゝる下劣な真似をして、恰かも驚ろかされたかの如くに退却したのかを怪しんだ。彼は暗い小路に立つて、世界が今夜に支配されつゝある事を私かに喜んだ。しかも五月雨の重い空気に鎖されて、歩けば歩く程、窒息する様な心持がした。神楽坂上へ出た時、急に眼がぎら〳〵した。身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げる様に藁店を上つた。
家へ帰ると、門野が例の如く漫然たる顔をして、
「大分遅うがしたな。御飯はもう御済みになりましたか」と聞いた。
代助は飯が欲しくなかつたので、要らない由を答へて、門野を追ひ帰す様に、書斎から退ぞけた。が、二三分立たない内に、又手を鳴らして呼び出した。
「宅から使は来やしなかつたかね」
「いゝえ」
代助は、
「ぢや、宜しい」と云つた限であつた。門野は物足りなさうに入口に立つてゐたが、
「先生は、何ですか、御宅へ御出になつたんぢや無かつたんですか」
「何故」と代助は六づかしい顔をした。
「だつて、御出掛になるとき、そんな御話でしたから」
代助は門野を相手にするのが面倒になつた。
「宅へは行つたさ。──宅から使が来なければそれで、好いぢやないか」
門野は不得要領に、
「はあ左様ですか」と云ひ放して出て行つた。代助は、父があらゆる世界に対してよりも、自分に対して、性急であるといふ事を知つてゐるので、ことによると、帰つた後から直使でも寄こしはしまいかと恐れて聞き糺したのであつた。門野が書生部屋へ引き取つたあとで、明日は是非共三千代に逢はなければならないと決心した。
其夜代助は寐ながら、何う云ふ手段で三千代に逢はうかと云ふ問題を考へた。手紙を車夫に持たせて宅へ呼びに遣れば、来る事は来るだらうが、既に今日嫂との会談が済んだ以上は、明日にも、兄か嫂の為に、向ふから襲はれないとも限らない。又平岡のうちへ行つて逢ふ事は代助に取つて一種の苦痛があつた。代助は已を得ず、自分にも三千代にも関係のない所で逢ふより外に道はないと思つた。
夜半から強く雨が降り出した。釣つてある蚊帳が、却つて寒く見える位な音がどう〳〵と家を包んだ。代助は其音の中に夜の明けるのを待つた。
雨は翌日迄晴れなかつた。代助は湿つぽい椽側に立つて、暗い空模様を眺めて、昨夕の計画を又変えた。彼は三千代を普通の待合抔へ呼んで、話をするのが不愉快であつた。已むなくんば、蒼い空の下と思つてゐたが、此天気では夫も覚束なかつた。と云つて、平岡の家へ出向く気は始めから無かつた。彼は何うしても、三千代を自分の宅へ連れて来るより外に道はないと極めた。門野が少し邪魔になるが、話のし具合では書生部屋に洩れない様にも出来ると考へた。
午少し前迄は、ぼんやり雨を眺めてゐた。午飯を済ますや否や、護謨の合羽を引き掛けて表へ出た。降る中を神楽坂下迄来て青山の宅へ電話を掛けた。明日此方から行く積であるからと、機先を制して置いた。電話口へは嫂が現れた。先達ての事は、まだ父に話さないでゐるから、もう一遍よく考へ直して御覧なさらないかと云はれた。代助は感謝の辞と共に号鈴を鳴らして談話を切つた。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確めた。平岡は社に出てゐると云ふ返事を得た。代助は雨を衝いて又坂を上つた。花屋へ這入つて、大きな白百合の花を沢山買つて、夫を提げて、宅へ帰つた。花は濡れた儘、二つの花瓶に分けて挿した。まだ余つてゐるのを、此間の鉢に水を張つて置いて、茎を短かく切つて、はぱ〳〵放り込んだ。それから、机に向つて、三千代へ手紙を書いた。文句は極めて短かいものであつた。たゞ至急御目に掛つて、御話ししたい事があるから来て呉れろと云ふ丈であつた。
代助は手を打つて、門野を呼んだ。門野は鼻を鳴らして現れた。手紙を受取りながら、
「大変好い香ですな」と云つた。代助は、
「車を持つて行つて、乗せて来るんだよ」と念を押した。門野は雨の中を乗りつけの帳場迄出て行つた。
代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩ふ強い香の中に、残りなく自己を放擲した。彼は此嗅覚の刺激のうちに、三千代の過去を分明に認めた。其過去には離すべからざる、わが昔の影が烟の如く這ひ纏はつてゐた。彼はしばらくして、
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云つた。斯う云ひ得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故もつと早く帰る事が出来なかつたのかと思つた。始から何故自然に抵抗したのかと思つた。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが幸であつた。だから凡てが美しかつた。
やがて、夢から覚めた。此一刻の幸から生ずる永久の苦痛が其時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失つた。彼は黙然として、我と吾手を眺めた。爪の甲の底に流れてゐる血潮が、ぶる〳〵顫へる様に思はれた。彼は立つて百合の花の傍へ行つた。唇が瓣に着く程近く寄つて、強い香を眼の眩う迄嗅いだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽せて、失心して室の中に倒れたかつた。彼はやがて、腕を組んで、書斎と座敷の間を往つたり来たりした。彼の胸は始終鼓動を感じてゐた。彼は時々椅子の角や、洋卓の前へ来て留まつた。それから又歩き出した。彼の心の動揺は、彼をして長く一所に留まる事を許さなかつた。同時に彼は何物をか考へる為に、無暗な所に立ち留まらざるを得なかつた。
其内に時は段々移つた。代助は断えず置時計の針を見た。又覗く様に、軒から外の雨を見た。雨は依然として、空から真直に降つてゐた。空は前よりも稍暗くなつた。重なる雲が一つ所で渦を捲いて、次第に地面の上へ押し寄せるかと怪しまれた。其時雨に光る車を門から中へ引き込んだ。輪の音が、雨を圧して代助の耳に響いた時、彼は蒼白い頬に微笑を洩しながら、右の手を胸に当てた。
三千代は玄関から、門野に連れられて、廊下伝ひに這入つて来た。銘仙の紺絣に、唐草模様の一重帯を締めて、此前とは丸で違つた服装をしてゐるので、一目見た代助には、新らしい感じがした。色は不断の通り好くなかつたが、座敷の入口で、代助と顔を合せた時、眼も眉も口もぴたりと活動を中止した様に固くなつた。敷居に立つてゐる間は、足も動けなくなつたとしか受取れなかつた。三千代は固より手紙を見た時から、何事をか予期して来た。其予期のうちには恐れと、喜と、心配とがあつた。車から降りて、座敷へ案内される迄、三千代の顔は其予期の色をもつて漲つてゐた。三千代の表情はそこで、はたと留まつた。代助の様子は三千代に夫丈の打衝を与へる程に強烈であつた。
代助は椅子の一つを指さした。三千代は命ぜられた通りに腰を掛けた。代助は其向に席を占めた。二人は始めて相対した。然し良少時くは二人とも、口を開かなかつた。
「何か御用なの」と三千代は漸くにして問ふた。代助は、たゞ、
「えゝ」と云つた。二人は夫限で、又しばらく雨の音を聴いた。
「何か急な御用なの」と三千代が又尋ねた。代助は又、
「えゝ」と云つた。双方共何時もの様に軽くは話し得なかつた。代助は酒の力を借りて、己れを語らなければならない様な自分を恥ぢた。彼は打ち明けるときは、必ず平生の自分でなければならないものと兼て覚悟をして居た。けれども、改たまつて、三千代に対して見ると、始めて、一滴の酒精が恋しくなつた。ひそかに次の間へ立つて、例のヰスキーを洋盃で傾け様かと思つたが、遂に其決心に堪えなかつた。彼は青天白日の下に、尋常の態度で、相手に公言し得る事でなければ自己の誠でないと信じたからである。酔と云ふ牆壁を築いて、其掩護に乗じて、自己を大胆にするのは、卑怯で、残酷で、相手に汚辱を与へる様な気がしてならなかつたからである。彼は社会の習慣に対しては、徳義的な態度を取る事が出来なくなつた、其代り三千代に対しては一点も不徳義な動機を蓄へぬ積であつた。否、彼をして卑吝に陥らしむる余地が丸でない程に、代助は三千代を愛した。けれども、彼は三千代から何の用かを聞かれた時に、すぐ己れを傾ける事が出来なかつた。二度聞かれた時に猶蹰躇した。三度目には、已を得ず、
「まあ、緩くり話しませう」と云つて、巻烟草に火を点けた。三千代の顔は返事を延ばされる度に悪くなつた。
雨は依然として、長く、密に、物に音を立てゝ降つた。二人は雨の為に、雨の持ち来す音の為に、世間から切り離された。同じ家に住む門野からも婆さんからも切り離された。二人は孤立の儘、白百合の香の中に封じ込められた。
「先刻表へ出て、あの花を買つて来ました」と代助は自分の周囲を顧みた。三千代の眼は代助に随いて室の中を一回した。其後で三千代は鼻から強く息を吸ひ込んだ。
「兄さんと貴方と清水町にゐた時分の事を思ひ出さうと思つて、成るべく沢山買つて来ました」と代助が云つた。
「好い香ですこと」と三千代は翻がへる様に綻びた大きな花瓣を眺めてゐたが、夫から眼を放して代助に移した時、ぽうと頬を薄赤くした。
「あの時分の事を考へると」と半分云つて已めた。
「覚えてゐますか」
「覚えてゐますわ」
「貴方は派手な半襟を掛けて、銀杏返しに結つてゐましたね」
「だつて、東京へ来立だつたんですもの。ぢき已めて仕舞つたわ」
「此間百合の花を持つて来て下さつた時も、銀杏返しぢやなかつたですか」
「あら、気が付いて。あれは、あの時限なのよ」
「あの時はあんな髷に結ひ度なつたんですか」
「えゝ、気迷れに一寸結つて見たかつたの」
「僕はあの髷を見て、昔を思ひ出した」
「さう」と三千代は恥づかしさうに肯つた。
三千代が清水町にゐた頃、代助と心安く口を聞く様になつてからの事だが、始めて国から出て来た当時の髪の風を代助から賞められた事があつた。其時三千代は笑つてゐたが、それを聞いた後でも、決して銀杏返しには結はなかつた。二人は今も此事をよく記臆してゐた。けれども双方共口へ出しては何も語らなかつた。
三千代の兄と云ふのは寧ろ豁達な気性で、懸隔てのない交際振から、友達には甚く愛されてゐた。ことに代助は其親友であつた。此兄は自分が豁達である丈に、妹の大人しいのを可愛がつてゐた。国から連れて来て、一所に家を持つたのも、妹を教育しなければならないと云ふ義務の念からではなくて、全く妹の未来に対する情合と、現在自分の傍に引き着けて置きたい欲望とからであつた。彼は三千代を呼ぶ前、既に代助に向つて其旨を打ち明けた事があつた。其時代助は普通の青年の様に、多大の好奇心を以て此計画を迎へた。
三千代が来てから後、兄と代助とは益親しくなつた。何方が友情の歩を進めたかは、代助自身にも分らなかつた。兄が死んだ後で、当時を振り返つて見る毎に、代助は此親密の裡に一種の意味を認めない訳に行かなかつた。兄は死ぬ時迄それを明言しなかつた。代助も敢て何事をも語らなかつた。斯くして、相互の思はくは、相互の間の秘密として葬られて仕舞つた。兄は在生中に此意味を私に三千代に洩らした事があるかどうか、其所は代助も知らなかつた。代助はたゞ三千代の挙止動作と言語談話からある特別な感じを得た丈であつた。
代助は其頃から趣味の人として、三千代の兄に臨んでゐた。三千代の兄は其方面に於て、普通以上の感受性を持つてゐなかつた。深い話になると、正直に分らないと自白して、余計な議論を避けた。何処からか arbiter elegantiarum と云ふ字を見付出して来て、それを代助の異名の様に濫用したのは、其頃の事であつた。三千代は隣りの部屋で黙つて兄と代助の話を聞いてゐた。仕舞にはとう〳〵 arbiter elegantiarum と云ふ字を覚えた。ある時其意味を兄に尋ねて、驚ろかれた事があつた。
兄は趣味に関する妹の教育を、凡て代助に委任した如くに見えた。代助を待つて啓発されべき妹の頭脳に、接触の機会を出来る丈与へる様に力めた。代助も辞退はしなかつた。後から顧みると、自ら進んで其任に当つたと思はれる痕迹もあつた。三千代は固より喜んで彼の指導を受けた。三人は斯くして、巴の如くに回転しつゝ、月から月へと進んで行つた。有意識か無意識か、巴の輪は回るに従つて次第に狭まつて来た。遂に三巴が一所に寄つて、丸い円にならうとする少し前の所で、忽然其一つが欠けたため、残る二つは平衡を失なつた。
代助と三千代は五年の昔を心置なく語り始めた。語るに従つて、現在の自己が遠退いて、段々と当時の学生時代に返つて来た。二人の距離は又元の様に近くなつた。
「あの時兄さんが亡くならないで、未だ達者でゐたら、今頃私は何うしてゐるでせう」と三千代は、其時を恋しがる様に云つた。
「兄さんが達者でゐたら、別の人になつて居る訳ですか」
「別な人にはなりませんわ。貴方は?」
「僕も同じ事です」
三千代は其時、少し窘める様な調子で、
「あら嘘」と云つた。代助は深い眼を三千代の上に据ゑて、
「僕は、あの時も今も、少しも違つてゐやしないのです」と答へた儘、猶しばらくは眼を相手から離さなかつた。三千代は忽ち視線を外らした。さうして、半ば独り言の様に、
「だつて、あの時から、もう違つてゐらしつたんですもの」と云つた。
三千代の言葉は普通の談話としては余りに声が低過た。代助は消えて行く影を踏まへる如くに、すぐ其尾を捕えた。
「違やしません。貴方にはたゞ左様見える丈です。左様見えたつて仕方がないが、それは僻目だ」
代助の方は通例よりも熱心に判然した声で自己を弁護する如くに云つた。三千代の声は益低かつた。
「僻目でも何でも可くつてよ」
代助は黙つて三千代の様子を窺つた。三千代は始めから、眼を伏せてゐた。代助には其長い睫毛の顫へる様が能く見えた。
「僕の存在には貴方が必要だ。何うしても必要だ。僕は夫丈の事を貴方に話したい為にわざ〳〵貴方を呼んだのです」
代助の言葉には、普通の愛人の用ひる様な甘い文彩を含んでゐなかつた。彼の調子は其言葉と共に簡単で素朴であつた。寧ろ厳粛の域に逼つてゐた。但、夫丈の事を語る為に、急用として、わざ〳〵三千代を呼んだ所が、玩具の詩歌に類してゐた。けれども、三千代は固より、斯う云ふ意味での俗を離れた急用を理解し得る女であつた。其上世間の小説に出て来る青春時代の修辞には、多くの興味を持つてゐなかつた。代助の言葉が、三千代の官能に華やかな何物をも与へなかつたのは、事実であつた。三千代がそれに渇いてゐなかつたのも事実であつた。代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した。三千代は顫へる睫毛の間から、涙を頬の上に流した。
「僕はそれを貴方に承知して貰ひたいのです。承知して下さい」
三千代は猶泣いた。代助に返事をする所ではなかつた。袂から手帛を出して顔へ当てた。濃い眉の一部分と、額と生際丈が代助の眼に残つた。代助は椅子を三千代の方へ摺り寄せた。
「承知して下さるでせう」と耳の傍で云つた。三千代は、まだ顔を蔽つてゐた。しやくり上げながら、
「余りだわ」と云ふ声が手帛の中で聞えた。それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。代助は自分の告白が遅過ぎたと云ふ事を切に自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁ぐ前に打ち明けなければならない筈であつた。彼は涙と涙の間をぼつ〳〵綴る三千代の此一語を聞くに堪えなかつた。
「僕は三四年前に、貴方に左様打ち明けなければならなかつたのです」と云つて、憮然として口を閉ぢた。三千代は急に手帛を顔から離した。瞼の赤くなつた眼を突然代助の上に睜つて、
「打ち明けて下さらなくつても可いから、何故」と云ひ掛けて、一寸蹰躇したが、思ひ切つて、「何故棄てゝ仕舞つたんです」と云ふや否や、又手帛を顔に当てゝ又泣いた。
「僕が悪い。堪忍して下さい」
代助は三千代の手頸を執つて、手帛を顔から離さうとした。三千代は逆はうともしなかつた。手帛は膝の上に落ちた。三千代は其膝の上を見た儘、微かな声で、
「残酷だわ」と云つた。小さい口元の肉が顫ふ様に動いた。
「残酷と云はれても仕方がありません。其代り僕は夫丈の罰を受けてゐます」
三千代は不思議な眼をして顔を上げたが、
「何うして」と聞いた。
「貴方が結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身でゐます」
「だつて、夫は貴方の御勝手ぢやありませんか」
「勝手ぢやありません。貰はうと思つても、貰へないのです。それから以後、宅のものから何遍結婚を勧められたか分りません。けれども、みんな断つて仕舞ひました。今度も亦一人断りました。其結果僕と僕の父との間が何うなるか分りません。然し何うなつても構はない、断るんです。貴方が僕に復讐してゐる間は断らなければならないんです」
「復讐」と三千代は云つた。此二字を恐るゝものゝ如くに眼を働かした。「私は是でも、嫁に行つてから、今日迄一日も早く、貴方が御結婚なされば可いと思はないで暮らした事はありません」と稍改たまつた物の言ひ振であつた。然し代助はそれに耳を貸さなかつた。
「いや僕は貴方に何所迄も復讐して貰ひたいのです。それが本望なのです。今日斯うやつて、貴方を呼んで、わざ〳〵自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方から復讐されてゐる一部分としか思やしません。僕は是で社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はさう生れて来た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方の前に懺悔する事が出来れば、夫で沢山なんです。是程嬉しい事はないと思つてゐるんです」
三千代は涙の中で始めて笑つた。けれども一言も口へは出さなかつた。代助は猶己れを語る隙を得た。──
「僕は今更こんな事を貴方に云ふのは、残酷だと承知してゐます。それが貴方に残酷に聞えれば聞える程僕は貴方に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。其上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きてゐる事が出来なくなつた。つまり我儘です。だから詫るんです」
「残酷では御座いません。だから詫まるのはもう廃して頂戴」
三千代の調子は、此時急に判然した。沈んではゐたが、前に比べると非常に落ち着いた。然ししばらくしてから、又
「たゞ、もう少し早く云つて下さると」と云ひ掛けて涙ぐんだ。代助は其時斯う聞いた。──
「ぢや僕が生涯黙つてゐた方が、貴方には幸福だつたんですか」
「左様ぢやないのよ」と三千代は力を籠めて打ち消した。「私だつて、貴方が左様云つて下さらなければ、生きてゐられなくなつたかも知れませんわ」
今度は代助の方が微笑した。
「夫ぢや構はないでせう」
「構はないより難有いわ。たゞ──」
「たゞ平岡に済まないと云ふんでせう」
三千代は不安らしく首肯いた。代助は斯う聞いた。──
「三千代さん、正直に云つて御覧。貴方は平岡を愛してゐるんですか」
三千代は答へなかつた。見るうちに、顔の色が蒼くなつた。眼も口も固くなつた。凡てが苦痛の表情であつた。代助は又聞いた。
「では、平岡は貴方を愛してゐるんですか」
三千代は矢張り俯つ向いてゐた。代助は思ひ切つた判断を、自分の質問の上に与へやうとして、既に其言葉が口迄出掛つた時、三千代は不意に顔を上げた。其顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えてゐた。涙さへ大抵は乾いた。頬の色は固より蒼かつたが、唇は確として、動く気色はなかつた。其間から、低く重い言葉が、繋がらない様に、一字づゝ出た。
「仕様がない。覚悟を極めませう」
代助は脊中から水を被つた様に顫へた。社会から逐ひ放たるべき二人の魂は、たゞ二人対ひ合つて、互を穴の明く程眺めてゐた。さうして、凡てに逆つて、互を一所に持ち来たした力を互と怖れ戦いた。
しばらくすると、三千代は急に物に襲はれた様に、手を顔に当てて泣き出した。代助は三千代の泣く様を見るに忍びなかつた。肱を突いて額を五指の裏に隠した。二人は此態度を崩さずに、恋愛の彫刻の如く、凝としてゐた。
二人は斯う凝としてゐる中に、五十年を眼のあたりに縮めた程の精神の緊張を感じた。さうして其緊張と共に、二人が相並んで存在して居ると云ふ自覚を失はなかつた。彼等は愛の刑と愛の賚とを同時に享けて、同時に双方を切実に味はつた。
しばらくして、三千代は手帛を取つて、涙を奇麗に拭いたが、静かに、
「私もう帰つてよ」と云つた。代助は、
「御帰りなさい」と答へた。
雨は小降になつたが、代助は固より三千代を独り返す気はなかつた。わざと車を雇はずに、自分で送つて出た。平岡の家迄附いて行く所を、江戸川の橋の上で別れた。代助は橋の上に立つて、三千代が横町を曲る迄見送つてゐた。夫から緩くり歩を回らしながら、腹の中で、
「万事終る」と宣告した。
雨は夕方歇んで、夜に入つたら、雲がしきりに飛んだ。其中洗つた様な月が出た。代助は光を浴びる庭の濡葉を長い間椽側から眺めてゐたが、仕舞に下駄を穿いて下へ降りた。固より広い庭でない上に立木の数が存外多いので、代助の歩く積はたんと無かつた。代助は其真中に立つて、大きな空を仰いだ。やがて、座敷から、昼間買つた百合の花を取つて来て、自分の周囲に蒔き散らした。白い花瓣が点々として月の光に冴えた。あるものは、木下闇に仄めいた。代助は何をするともなく其間に曲んでゐた。
寐る時になつて始めて座敷へ上がつた。室の中は花の香がまだ全く抜けてゐなかつた。
三千代に逢つて、云ふべき事を云つて仕舞つた代助は、逢はない前に比べると、余程心の平和に接近し易くなつた。然し是は彼の予期する通りに行つた迄で、別に意外の結果と云ふ程のものではなかつた。
会見の翌日彼は永らく手に持つてゐた賽を思ひ切つて投げた人の決心を以て起きた。彼は自分と三千代の運命に対して、昨日から一種の責任を帯びねば済まぬ身になつたと自覚した。しかも夫は自ら進んで求めた責任に違いなかつた。従つて、それを自分の脊に負ふて、苦しいとは思へなかつた。その重みに押されるがため、却つて自然と足が前に出る様な気がした。彼は自ら切り開いた此運命の断片を頭に乗せて、父と決戦すべき準備を整へた。父の後には兄がゐた、嫂がゐた。是等と戦つた後には平岡がゐた。是等を切り抜けても大きな社会があつた。個人の自由と情実を毫も斟酌して呉れない器械の様な社会があつた。代助には此社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦ふ覚悟をした。
彼は自分で自分の勇気と胆力に驚ろいた。彼は今日迄、熱烈を厭ふ、危きに近寄り得ぬ、勝負事を好まぬ、用心深い、太平の好紳士と自分を見傚してゐた。徳義上重大な意味の卑怯はまだ犯した事がないけれども、臆病と云ふ自覚はどうしても彼の心から取り去る事が出来なかつた。
彼は通俗なある外国雑誌の購読者であつた。其中のある号で、Mountain Accidents と題する一篇に遭つて、かつて心を駭かした。夫には高山を攀ぢ上る冒険者の、怪我過が沢山に並べてあつた。登山の途中雪崩れに圧されて、行き方知れずになつたものゝ骨が、四十年後に氷河の先へ引懸つて出た話や、四人の冒険者が懸崖の半腹にある、真直に立つた大きな平岩を越すとき、肩から肩の上へ猿の様に重なり合つて、最上の一人の手が岩の鼻へ掛かるや否や、岩が崩れて、腰の縄が切れて、上の三人が折り重なつて、真逆様に四番目の男の傍を遥かの下に落ちて行つた話などが、幾何となく載せてあつた間に、錬瓦の壁程急な山腹に、蝙蝠の様に吸ひ付いた人間を二三ヶ所点綴した挿画があつた。其時代助は其絶壁の横にある白い空間のあなたに、広い空や、遥かの谷を想像して、怖ろしさから来る眩暈を、頭の中に再現せずには居られなかつた。
代助は今道徳界に於て、是等の登攀者と同一な地位に立つてゐると云ふ事を知つた。けれども自ら其場に臨んで見ると、怯む気は少しもなかつた。怯んで猶予する方が彼に取つては幾倍の苦痛であつた。
彼は一日も早く父に逢つて話をしたかつた。万一の差支を恐れて、三千代が来た翌日、又電話を掛けて都合を聞き合せた。父は留守だと云ふ返事を得た。次の日又問ひ合せたら、今度は差支があると云つて断られた。其次には此方から知らせる迄は来るに及ばんといふ挨拶であつた。代助は命令通り控えてゐた。其間嫂からも兄からも便は一向なかつた。代助は始めは家のものが、自分に出来る丈長い、反省再考の時間を与へる為の策略ではあるまいかと推察して、平気に構へてゐた。三度の食事も旨く食つた。夜も比較的安らかな夢を見た。雨の晴間には門野を連れて散歩を一二度した。然し宅からは使も手紙も来なかつた。代助は絶壁の途中で休息する時間の長過ぎるのに安からずなつた。仕舞に思ひ切つて、自分の方から青山へ出掛けて行つた。兄は例の如く留守であつた。嫂は代助を見て気の毒さうな顔をした。が、例の事件に就ては何にも語らなかつた。代助の来意を聞いて、では私が一寸奥へ行つて御父さんの御都合を伺つて来ませうと云つて立つた。梅子の態度は、父の怒りから代助を庇う様にも見えた。又彼を疎外する様にも取れた。代助は両方の何れだらうかと煩つて待つてゐた。待ちながらも、何うせ覚悟の前だと何遍も口のうちで繰り返した。
奥から梅子が出て来る迄には、大分暇が掛つた。代助を見て、又気の毒さうに、今日は御都合が悪いさうですよと云つた。代助は仕方なしに、何時来たら宜からうかと尋ねた。固より例の様な元気はなく悄然とした問ひ振りであつた。梅子は代助の様子に同情の念を起した調子で、二三日中に屹度自分が責任を以て都合の好い時日を知らせるから今日は帰れと云つた。代助が内玄関を出る時、梅子はわざと送つて来て、
「今度こそ能く考へて入らつしやいよ」と注意した。代助は返事もせずに門を出た。
帰る途中も不愉快で堪らなかつた。此間三千代に逢つて以後、味はう事を知つた心の平和を、父や嫂の態度で幾分か破壊されたと云ふ心持が路々募つた。自分は自分の思ふ通りを父に告げる、父は父の考へを遠慮なく自分に洩らす、それで衝突する、衝突の結果はどうあらうとも潔よく自分で受ける。是が代助の予期であつた。父の仕打は彼の予期以外に面白くないものであつた。其仕打は父の人格を反射する丈夫丈多く代助を不愉快にした。
代助は途すがら、何を苦んで、父との会見を左迄に急いだものかと思ひ出した。元来が父の要求に対する自分の返事に過ぎないのだから、便宜は寧ろ、是を待ち受ける父の方にあるべき筈であつた。其父がわざとらしく自分を避ける様にして、面会を延ばすならば、それは自己の問題を解決する時間が遅くなると云ふ不結果を生ずる外に何も起り様がない。代助は自分の未来に関する主要な部分は、もう既に片付けて仕舞つた積でゐた。彼は父から時日を指定して呼び出される迄は、宅の方の所置を其儘にして放つて置く事に極めた。
彼は家に帰つた。父に対しては只薄暗い不愉快の影が頭に残つてゐた。けれども此影は近き未来に於て必ず其暗さを増してくるべき性質のものであつた。其他には眼前に運命の二つの潮流を認めた。一つは三千代と自分が是から流れて行くべき方向を示してゐた。一つは平岡と自分を是非共一所に捲き込むべき凄じいものであつた。代助は此間三千代に逢つたなりで、片片の方は捨てゝある。よし是から三千代の顔を見るにした所で、──また長い間見ずにゐる気はなかつたが、──二人の向後取るべき方針に就て云へば、当分は一歩も現在状態より踏み出す了見は持たなかつた。此点に関して、代助は我ながら明瞭な計画を拵えてゐなかつた。平岡と自分とを運び去るべき将来に就ても、彼はたゞ何時、何事にでも用意ありと云ふ丈であつた。無論彼は機を見て、積極的に働らき掛ける心組はあつた。けれども具体的な案は一つも準備しなかつた。あらゆる場合に於て、彼の決して仕損じまいと誓つたのは、凡てを平岡に打ち明けると云ふ事であつた。従つて平岡と自分とで構成すべき運命の流は黒く恐ろしいものであつた。一つの心配は此恐ろしい暴風の中から、如何にして三千代を救ひ得べきかの問題であつた。
最後に彼の周囲を人間のあらん限り包む社会に対しては、彼は何の考も纏めなかつた。事実として、社会は制裁の権を有してゐた。けれども動機行為の権は全く自己の天分から湧いて出るより外に道はないと信じた。かれは此点に於て、社会と自分との間には全く交渉のないものと認めて進行する気であつた。
代助は彼の小さな世界の中心に立つて、彼の世界を斯様に観て、一順其関係比例を頭の中で調べた上、
「善からう」と云つて、又家を出た。さうして一二丁歩いて、乗り付けの帳場迄来て、奇麗で早さうな奴を択んで飛び乗つた。何処へ行く当もないのを好加減な町を名指して二時間程ぐる〳〵乗り廻して帰つた。
翌日も書斎の中で前日同様、自分の世界の中心に立つて、左右前後を一応隈なく見渡した後、
「宜しい」と云つて外へ出て、用もない所を今度は足に任せてぶら〳〵歩いて帰つた。
三日目にも同じ事を繰り返した。が、今度は表へ出るや否や、すぐ江戸川を渡つて、三千代の所へ来た。三千代は二人の間に何事も起らなかつたかの様に、
「何故夫から入らつしやらなかつたの」と聞いた。代助は寧ろ其落ち付き払つた態度に驚ろかされた。三千代はわざと平岡の机の前に据ゑてあつた蒲団を代助の前へ押し遣つて、
「何でそんなに、そわ〳〵して居らつしやるの」と無理に其上に坐らした。
一時間ばかり話してゐるうちに、代助の頭は次第に穏やかになつた。車へ乗つて、当もなく乗り回すより、三十分でも好いから、早く此所へ遊びに来れば可かつたと思ひ出した。帰るとき代助は、
「又来ます。大丈夫だから安心して入らつしやい」と三千代を慰める様に云つた。三千代はたゞ微笑した丈であつた。
其夕方始めて父からの報知に接した。其時代助は婆さんの給仕で飯を食つてゐた。茶碗を膳の上へ置いて、門野から手紙を受取つて読むと、明朝何時迄に御出の事といふ文句があつた。代助は、
「御役所風だね」と云ひながら、わざと端書を門野に見せた。門野は、
「青山の御宅からですか」と叮嚀に眺めてゐたが、別に云ふ事がないものだから、表を引つ繰り返して、
「何うも何ですな。昔の人は矢っ張り手蹟が好い様ですな」と御世辞を置き去りにして出て行つた。婆さんは先刻から暦の話をしきりに為てゐた。みづのえだのかのとだの、八朔だの友引だの、爪を切る日だの普請をする日だのと頗る煩いものであつた。代助は固より上の空で聞いてゐた。婆さんは又門野の職の事を頼んだ。十五円でも宜いから何方へ出して遣つて呉れないかと云つた。代助は自分ながら、何んな返事をしたか分らない位気にも留めなかつた。たゞ心のうちでは、門野所か、この己が危しい位だと思つた。
食事を終るや否や、本郷から寺尾が来た。代助は門野の顔を見て暫らく考へてゐた。門野は無雑作に、
「断りますか」と聞いた。代助は此間から珍らしくある会を一二回欠席した。来客も逢はないで済むと思ふ分は両度程謝絶した。
代助は思ひ切つて寺尾に逢つた。寺尾は何時もの様に、血眼になつて、何か探してゐた。代助は其様子を見て、例の如く皮肉で持ち切る気にもなれなかつた。翻訳だらうが焼き直しだらうが、生きてゐるうちは何処迄も遣る覚悟だから、寺尾の方がまだ自分より社会の児らしく見えた。自分がもし失脚して、彼と同様の地位に置かれたら、果して何の位の仕事に堪えるだらうと思ふと、代助は自分に対して気の毒になつた。さうして、自分が遠からず、彼よりも甚く失脚するのは、殆んど未発の事実の如く確だと諦めてゐたから、彼は侮蔑の眼を以て寺尾を迎へる訳には行かなかつた。
寺尾は、此間の翻訳を漸くの事で月末迄に片付けたら、本屋の方で、都合が悪いから秋迄出版を見合せると云ひ出したので、すぐ労力を金に換算する事が出来ずに、困つた結果遣つて来たのであつた。では書肆と契約なしに手を着けたのかと聞くと、全く左様でもないらしい。と云つて、本屋の方が丸で約束を無視した様にも云はない。要するに曖昧であつた。たゞ困つてゐる事丈は事実らしかつた。けれども斯う云ふ手違に慣れ抜いた寺尾は、別に徳義問題として誰にも不満を抱いてゐる様には見えなかつた。失敬だとか怪しからんと云ふのは、たゞ口の先許で、腹の中の屈托は、全然飯と肉に集注してゐるらしかつた。
代助は気の毒になつて、当座の経済に幾分の補助を与へた。寺尾は感謝の意を表して帰つた。帰る前に、実は本屋からも少しは前借はしたんだが、それは疾の昔に使つて仕舞つたんだと自白した。寺尾の帰つたあとで、代助はあゝ云ふのも一種の人格だと思つた。たゞ斯う楽に活計てゐたつて決して為れる訳のものぢやない。今の所謂文壇が、あゝ云ふ人格を必要と認めて、自然に産み出した程、今の文壇は悲しむべき状況の下に呻吟してゐるんではなからうかと考へて茫乎した。
代助は其晩自分の前途をひどく気に掛けた。もし父から物質的に供給の道を鎖された時、彼は果して第二の寺尾になり得る決心があるだらうかを疑つた。もし筆を執つて寺尾の真似さへ出来なかつたなら、彼は当然餓死すべきである。もし筆を執らなかつたら、彼は何をする能力があるだらう。
彼は眼を開けて時々蚊帳の外に置いてある洋燈を眺めた。夜中に燐寸を擦つて烟草を吹かした。寐返りを何遍も打つた。固より寐苦しい程暑い晩ではなかつた。雨が又ざあ〳〵と降つた。代助は此雨の音で寐付くかと思ふと、又雨の音で不意に眼を覚ました。夜は半醒半睡のうちに明け離れた。
定刻になつて、代助は出掛けた。足駄穿で雨傘を提げて電車に乗つたが、一方の窓が締め切つてある上に、革紐にぶら下がつてゐる人が一杯なので、しばらくすると胸がむかついて、頭が重くなつた。睡眠不足が影響したらしく思はれるので、手を窮屈に伸ばして、自分の後丈を開け放つた。雨は容赦なく襟から帽子に吹き付けた。二三分の後隣の人の迷惑さうな顔に気が付いて、又元の通りに硝子窓を上げた。硝子の表側には、弾けた雨の珠が溜つて、往来が多少歪んで見えた。代助は首から上を捩ぢ曲げて眼を外面に着けながら、幾たびか自分の眼を擦すつた。然し何遍擦つても、世界の恰好が少し変つて来たと云ふ自覚が取れなかつた。硝子を通して斜に遠方を透かして見るときは猶左様いふ感じがした。
弁慶橋で乗り換えてからは、人もまばらに、雨も小降りになつた。頭も楽に濡れた世の中を眺める事が出来た。けれども機嫌の悪い父の顔が、色々な表情を以て彼の脳髄を刺戟した。想像の談話さへ明かに耳に響いた。
玄関を上つて、奥へ通る前に、例の如く一応嫂に逢つた。嫂は、
「鬱陶しい御天気ぢやありませんか」と愛想よく自分で茶を汲んで呉れた。然し代助は飲む気にもならなかつた。
「御父さんが待つて御出でせうから、一寸行つて話をして来ませう」と立ち掛けた。嫂は不安らしい顔をして、
「代さん、成らう事なら、年寄に心配を掛けない様になさいよ。御父さんだつて、もう長い事はありませんから」と云つた。代助は梅子の口から、こんな陰気な言葉を聞くのは始めてであつた。不意に穴倉へ落ちた様な心持がした。
父は烟草盆を前に控えて、俯向いてゐた。代助の足音を聞いても顔を上げなかつた。代助は父の前へ出て、叮嚀に御辞儀をした。定めて六づかしい眼付をされると思ひの外、父は存外穏かなもので、
「降るのに御苦労だつた」と労はつて呉れた。其時始めて気が付いて見ると、父の頬が何時の間にかぐつと瘠けてゐた。元来が肉の多い方だつたので、此変化が代助には余計目立つて見えた。代助は覚えず、
「何うか為さいましたか」と聞いた。
父は親らしい色を一寸顔に動かした丈で、別に代助の心配を物にする様子もなかつたが、少時話してゐるうちに、
「己も大分年を取つてな」と云ひ出した。其調子が何時もの父とは全く違つてゐたので、代助は最前嫂の云つた事を愈重く見なければならなくなつた。
父は年の所為で健康の衰へたのを理由として、近々実業界を退く意志のある事を代助に洩らした。けれども今は日露戦争後の商工業膨脹の反動を受けて、自分の経営にかゝる事業が不景気の極端に達してゐる最中だから、此難関を漕ぎ抜けた上でなくては、無責任の非難を免かれる事が出来ないので、当分已を得ずに辛抱してゐるより外に仕方がないのだと云ふ事情を委しく話した。代助は父の言葉を至極尤もだと思つた。
父は普通の実業なるものゝ困難と危険と繁劇と、それ等から生ずる当事者の心の苦痛及び緊張の恐るべきを説いた。最後に地方の大地主の、一見地味であつて、其実自分等よりはずつと鞏固の基礎を有してゐる事を述べた。さうして、此比較を論拠として、新たに今度の結婚を成立させやうと力めた。
「さう云ふ親類が一軒位あるのは、大変な便利で、且つ此際甚だ必要ぢやないか」と云つた。代助は、父としては寧ろ露骨過ぎる此政略的結婚の申し出に対して、今更驚ろく程、始めから父を買ひ被つてはゐなかつた。最後の会見に、父が従来の仮面を脱いで掛かつたのを、寧ろ快よく感じた。彼自身も、斯んな意味の結婚を敢てし得る程度の人間だと自ら見積てゐた。
其上父に対して何時にない同情があつた。其顔、其声、其代助を動かさうとする努力、凡てに老後の憐れを認める事が出来た。代助はこれをも、父の策略とは受取り得なかつた。私は何うでも宜う御座いますから、貴方の御都合の好い様に御極めなさいと云ひたかつた。
けれども三千代と最後の会見を遂げた今更、父の意に叶ふ様な当座の孝行は代助には出来かねた。彼は元来が何方付かずの男であつた。誰の命令も文字通りに拝承した事のない代りには、誰の意見にも露に抵抗した試がなかつた。解釈のしやうでは、策士の態度とも取れ、優柔の生れ付とも思はれる遣口であつた。彼自身さへ、此二つの非難の何れを聞いた時に、左様かも知れないと、腹の中で首を捩らぬ訳には行かなかつた。然し其原因の大部分は策略でもなく、優柔でもなく、寧ろ彼に融通の利く両つの眼が付いてゐて、双方を一時に見る便宜を有してゐたからであつた。かれは此能力の為に、今日迄一図に物に向つて突進する勇気を挫かれた。即かず離れず現状に立ち竦んでゐる事が屡あつた。此現状維持の外観が、思慮の欠乏から生ずるのでなくて、却つて明白な判断に本いて起ると云ふ事実は、彼が犯すべからざる敢為の気象を以て、彼の信ずる所を断行した時に、彼自身にも始めて解つたのである。三千代の場合は、即ち其適例であつた。
彼は三千代の前に告白した己れを、父の前で白紙にしやうとは想ひ到らなかつた。同時に父に対しては、心から気の毒であつた。平生の代助が此際に執るべき方針は云はずして明らかであつた。三千代との関係を撤回する不便なしに、父に満足を与へる為の結婚を承諾するに外ならなかつた。代助は斯くして双方を調和する事が出来た。何方付かずに真中へ立つて、煮え切らずに前進する事は容易であつた。けれども、今の彼は、不断の彼とは趣を異にしてゐた。再び半身を埒外に挺でて、余人と握手するのは既に遅かつた。彼は三千代に対する自己の責任を夫程深く重いものと信じてゐた。彼の信念は半ば頭の判断から来た。半ば心の憧憬から来た。二つのものが大きな濤の如くに彼を支配した。彼は平生の自分から生れ変つた様に父の前に立つた。
彼は平生の代助の如く、成る可く口数を利かずに控えてゐた。父から見れば何時もの代助と異なる所はなかつた。代助の方では却つて父の変つてゐるのに驚ろいた。実は此間から幾度も会見を謝絶されたのも、自分が父の意志に背く恐があるから父の方でわざと、延ばしたものと推してゐた。今日逢つたら、定めて苦い顔をされる事と覚悟を極めてゐた。ことによれば、頭から叱り飛ばされるかも知れないと思つた。代助には寧ろ其方が都合が好かつた。三分の一は、父の暴怒に対する自己の反動を、心理的に利用して、判然断らうと云ふ下心さへあつた。代助は父の様子、父の言葉遣、父の主意、凡てが予期に反して、自分の決心を鈍らせる傾向に出たのを心苦しく思つた。けれども彼は此心苦しさにさへ打ち勝つべき決心を蓄へた。
「貴方の仰しやる所は一々御尤もだと思ひますが、私には結婚を承諾する程の勇気がありませんから、断るより外に仕方がなからうと思ひます」ととう〳〵云つて仕舞つた。其時父はたゞ代助の顔を見てゐた。良あつて、
「勇気が要るのかい」と手に持つてゐた烟管を畳の上に放り出した。代助は膝頭を見詰めて黙つてゐた。
「当人が気に入らないのかい」と父が又聞いた。代助は猶返事をしなかつた。彼は今迄父に対して己れの四半分も打ち明けてはゐなかつた。その御蔭で父と平和の関係を漸く持続して来た。けれども三千代の事丈は始めから決して隠す気はなかつた。自分の頭の上に当然落ちかゝるべき結果を、策で避ける卑怯が面白くなかつたからである。彼はたゞ自白の期に達してゐないと考へた。従つて三千代の名は丸で口へは出さなかつた。父は最後に、
「ぢや何でも御前の勝手にするさ」と云つて苦い顔をした。
代助も不愉快であつた。然し仕方がないから、礼をして父の前を退がらうとした。ときに父は呼び留めて、
「己の方でも、もう御前の世話はせんから」と云つた。座敷へ帰つた時、梅子は待ち構へた様に、
「何うなすつて」と聞いた。代助は答へ様もなかつた。
翌日眼が覚めても代助の耳の底には父の最後の言葉が鳴つてゐた。彼は前後の事情から、平生以上の重みを其内容に附着しなければならなかつた。少なくとも、自分丈では、父から受ける物質的の供給がもう絶えたものと覚悟する必要があつた。代助の尤も恐るゝ時期は近づいた。父の機嫌を取り戻すには、今度の結婚を断るにしても、あらゆる結婚に反対してはならなかつた。あらゆる結婚に反対しても、父を首肯かせるに足る程の理由を、明白に述べなければならなかつた。代助に取つては二つのうち何れも不可能であつた。人生に対する自家の哲学の根本に触れる問題に就いて、父を欺くのは猶更不可能であつた。代助は昨日の会見を回顧して、凡てが進むべき方向に進んだとしか考へ得なかつた。けれども恐ろしかつた。自己が自己に自然な因果を発展させながら、其因果の重みを脊中に負つて、高い絶壁の端迄押し出された様な心持であつた。
彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思つた。けれども彼の頭の中には職業と云ふ文字がある丈で、職業其物は体を具えて現はれて来なかつた。彼は今日迄如何なる職業にも興味を有つてゐなかつた結果として、如何なる職業を想ひ浮べて見ても、只其上を上滑りに滑つて行く丈で、中に踏み込んで内部から考へる事は到底出来なかつた。彼には世間が平たい複雑な色分の如くに見えた。さうして彼自身は何等の色を帯びてゐないとしか考へられなかつた。
凡ての職業を見渡した後、彼の眼は漂泊者の上に来て、そこで留まつた。彼は明らかに自分の影を、犬と人の境を迷ふ乞食の群の中に見出した。生活の堕落は精神の自由を殺す点に於て彼の尤も苦痛とする所であつた。彼は自分の肉体に、あらゆる醜穢を塗り付けた後、自分の心の状態が如何に落魄するだらうと考へて、ぞつと身振をした。
此落魄のうちに、彼は三千代を引張り廻さなければならなかつた。三千代は精神的に云つて、既に平岡の所有ではなかつた。代助は死に至る迄彼女に対して責任を負ふ積であつた。けれども相当の地位を有つてゐる人の不実と、零落の極に達した人の親切とは、結果に於て大した差違はないと今更ながら思はれた。死ぬ迄三千代に対して責任を負ふと云ふのは、負ふ目的があるといふ迄で、負つた事実には決してなれなかつた。代助は惘然として黒内障に罹つた人の如くに自失した。
彼は又三千代を訪ねた。三千代は前日の如く静に落ち着いてゐた。微笑と光輝とに満ちてゐた。春風はゆたかに彼女の眉を吹いた。代助は三千代が己を挙げて自分に信頼してゐる事を知つた。其証拠を又眼のあたりに見た時、彼は愛憐の情と気の毒の念に堪えなかつた。さうして自己を悪漢の如くに呵責した。思ふ事は全く云ひそびれて仕舞つた。帰るとき、
「又都合して宅へ来ませんか」と云つた。三千代はえゝと首肯いて微笑した。代助は身を切られる程酷かつた。
代助は此間から三千代を訪問する毎に、不愉快ながら平岡の居ない時を択まなければならなかつた。始めはそれを左程にも思はなかつたが、近頃では不愉快と云ふよりも寧ろ、行き悪い度が日毎に強くなつて来た。其上留守の訪問が重なれば、下女に不審を起させる恐れがあつた。気の所為か、茶を運ぶ時にも、妙に疑ぐり深い眼付をして、見られる様でならなかつた。然し三千代は全く知らぬ顔をしてゐた。少なくとも上部丈は平気であつた。
平岡との関係に就ては、無論詳しく尋ねる機会もなかつた。会に一言二言夫となく問を掛けて見ても、三千代は寧ろ応じなかつた。たゞ代助の顔を見れば、見てゐる其間丈の嬉しさに溺れ尽すのが自然の傾向であるかの如くに思はれた。前後を取り囲む黒い雲が、今にも逼つて来はしまいかと云ふ心配は、陰ではいざ知らず、代助の前には影さへ見せなかつた。三千代は元来神経質の女であつた。昨今の態度は、何うしても此女の手際ではないと思ふと、三千代の周囲の事情が、まだ夫程険悪に近づかない証拠になるよりも、自分の責任が一層重くなつたのだと解釈せざるを得なかつた。
「すこし又話したい事があるから来て下さい」と前よりは稍真面目に云つて代助は三千代と別れた。
中二日置いて三千代が来る迄、代助の頭は何等の新しい路を開拓し得なかつた。彼の頭の中には職業の二字が大きな楷書で焼き付けられてゐた。それを押し退けると、物質的供給の杜絶がしきりに踊り狂つた。それが影を隠すと、三千代の未来が凄じく荒れた。彼の頭には不安の旋風が吹き込んだ。三つのものが巴の如く瞬時の休みなく回転した。其結果として、彼の周囲が悉く回転しだした。彼は船に乗つた人と一般であつた。回転する頭と、回転する世界の中に、依然として落ち付いてゐた。
青山の宅からは何の消息もなかつた。代助は固よりそれを予期してゐなかつた。彼は力めて門野を相手にして他愛ない雑談に耽つた。門野は此暑さに自分の身体を持ち扱つてゐる位、用のない男であつたから、頗る得意に代助の思ふ通り口を動かした。それでも話し草臥れると、
「先生、将棋は何うです」抔と持ち掛けた。夕方には庭に水を打つた。二人共跣足になつて、手桶を一杯宛持つて、無分別に其所等を濡らして歩いた。門野が隣の梧桐の天辺迄水にして御目にかけると云つて、手桶の底を振り上げる拍子に、滑つて尻持を突いた。白粉草が垣根の傍で花を着けた。手水鉢の蔭に生えた秋海棠の葉が著るしく大きくなつた。梅雨は漸く晴れて、昼は雲の峰の世界となつた。強い日は大きな空を透き通す程焼いて、空一杯の熱を地上に射り付ける天気となつた。
代助は夜に入つて頭の上の星ばかり眺めてゐた。朝は書斎に這入つた。二三日は朝から蝉の声が聞える様になつた。風呂場へ行つて、度々頭を冷した。すると門野がもう好い時分だと思つて、
「何うも非常な暑さですな」と云つて、這入つて来た。代助は斯う云ふ上の空の生活を二日程送つた。三日目の日盛に、彼は書斎の中から、ぎら〳〵する空の色を見詰めて、上から吐き下す焔の息を嗅いだ時に、非常に恐ろしくなつた。それは彼の精神が此猛烈なる気候から永久の変化を受けつゝあると考へた為であつた。
三千代は此暑を冒して前日の約を履んだ。代助は女の声を聞き付けた時、自分で玄関迄飛び出した。三千代は傘をつぼめて、風呂敷包を抱へて、格子の外に立つてゐた。不断着の儘宅を出たと見えて、質素な白地の浴衣の袂から手帛を出し掛けた所であつた。代助は其姿を一目見た時、運命が三千代の未来を切り抜いて、意地悪く自分の眼の前に持つて来た様に感じた。われ知らず、笑ひながら、
「馳落でもしさうな風ぢやありませんか」と云つた。三千代は穏かに、
「でも買物をした序でないと上り悪いから」と真面目な答をして、代助の後に跟いて奥迄這入つて来た。代助はすぐ団扇を出した。照り付けられた所為で三千代の頬が心持よく輝やいた。何時もの疲れた色は何処にも見えなかつた。眼の中にも若い沢が宿つてゐた。代助は生々した此美くしさに、自己の感覚を溺らして、しばらくは何事も忘れて仕舞つた。が、やがて、此美くしさを冥々の裡に打ち崩しつゝあるものは自分であると考へ出したら悲しくなつた。彼は今日も此美くしさの一部分を曇らす為に三千代を呼んだに違なかつた。
代助は幾度か己れを語る事を蹰躇した。自分の前に、これ程幸福に見える若い女を、眉一筋にしろ心配の為に動かさせるのは、代助から云ふと非常な不徳義であつた。もし三千代に対する義務の心が、彼の胸のうちに鋭どく働らいてゐなかつたなら、彼は夫から以後の事情を打ち明ける事の代りに、先達ての告白を再び同じ室のうちに繰り返して、単純なる愛の快感の下に、一切を放擲して仕舞つたかも知れなかつた。
代助は漸くにして思ひ切つた。
「其後貴方と平岡との関係は別に変りはありませんか」
三千代は此問を受けた時でも、依然として幸福であつた。
「あつたつて、構はないわ」
「貴方は夫程僕を信用してゐるんですか」
「信用してゐなくつちや、斯うして居られないぢやありませんか」
代助は目映しさうに、熱い鏡の様な遠い空を眺めた。
「僕には夫程信用される資格がなささうだ」と苦笑しながら答へたが、頭の中は焙炉の如く火照つてゐた。然し三千代は気にも掛からなかつたと見えて、何故とも聞き返さなかつた。たゞ簡単に、
「まあ」とわざとらしく驚ろいて見せた。代助は真面目になつた。
「僕は白状するが、実を云ふと、平岡君より頼にならない男なんですよ。買ひ被つてゐられると困るから、みんな話して仕舞ふが」と前置をして、夫から自分と父との今日迄の関係を詳しく述べた上、
「僕の身分は是から先何うなるか分らない。少なくとも当分は一人前ぢやない。半人前にもなれない。だから」と云ひ淀んだ。
「だから、何うなさるんです」
「だから、僕の思ふ通り、貴方に対して責任が尽せないだらうと心配してゐるんです」
「責任つて、何んな責任なの。もつと判然仰しやらなくつちや解らないわ」
代助は平生から物質的状況に重きを置くの結果、たゞ貧苦が愛人の満足に価しないと云ふ事丈を知つてゐた。だから富が三千代に対する責任の一つと考へたのみで、夫より外に明らかな観念は丸で持つてゐなかつた。
「徳義上の責任ぢやない、物質上の責任です」
「そんなものは欲しくないわ」
「欲しくないと云つたつて、是非必要になるんです。是から先僕が貴方と何んな新らしい関係に移つて行くにしても、物質上の供給が半分は解決者ですよ」
「解決者でも何でも、今更左様な事を気にしたつて仕方がないわ」
「口ではさうも云へるが、いざと云ふ場合になると困るのは眼に見えてゐます」
三千代は少し色を変へた。
「今貴方の御父様の御話を伺つて見ると、斯うなるのは始めから解つてるぢやありませんか。貴方だつて、其位な事は疾うから気が付いて入つしやる筈だと思ひますわ」
代助は返事が出来なかつた。頭を抑えて、
「少し脳が何うかしてゐるんだ」と独り言の様に云つた。三千代は少し涙ぐんだ。
「もし、夫が気になるなら、私の方は何うでも宜う御座んすから、御父様と仲直りをなすつて、今迄通り御交際になつたら好いぢやありませんか」
代助は急に三千代の手頸を握つてそれを振る様に力を入れて云つた。──
「そんな事を為る気なら始めから心配をしやしない。たゞ気の毒だから貴方に詫るんです」
「詫まるなんて」と三千代は声を顫はしながら遮つた。「私が源因で左様なつたのに、貴方に詫まらしちや済まないぢやありませんか」
三千代は声を立てゝ泣いた。代助は慰撫める様に、
「ぢや我慢しますか」と聞いた。
「我慢はしません。当り前ですもの」
「是から先まだ変化がありますよ」
「ある事は承知してゐます。何んな変化があつたつて構やしません。私は此間から、──此間から私は、若もの事があれば、死ぬ積で覚悟を極めてゐるんですもの」
代助は慄然として戦いた。
「貴方に是から先何したら好いと云ふ希望はありませんか」と聞いた。
「希望なんか無いわ。何でも貴方の云ふ通りになるわ」
「漂泊──」
「漂泊でも好いわ。死ねと仰しやれば死ぬわ」
代助は又竦とした。
「此儘では」
「此儘でも構はないわ」
「平岡君は全く気が付いてゐない様ですか」
「気が付いてゐるかも知れません。けれども私もう度胸を据ゑてゐるから大丈夫なのよ。だつて何時殺されたつて好いんですもの」
「さう死ぬの殺されるのと安つぽく云ふものぢやない」
「だつて、放つて置いたつて、永く生きられる身体ぢやないぢやありませんか」
代助は硬くなつて、竦むが如く三千代を見詰めた。三千代は歇私的里の発作に襲はれた様に思ひ切つて泣いた。
一仕切経つと、発作は次第に収まつた。後は例の通り静かな、しとやかな、奥行のある、美くしい女になつた。眉のあたりが殊に晴〴〵しく見えた。其時代助は、
「僕が自分で平岡君に逢つて解決を付けても宜う御座んすか」と聞いた。
「そんな事が出来て」と三千代は驚ろいた様であつた。代助は、
「出来る積です」と確り答へた。
「ぢや、何うでも」と三千代が云つた。
「さうしませう。二人が平岡君を欺いて事をするのは可くない様だ。無論事実を能く納得出来る様に話す丈です。さうして、僕の悪い所はちやんと詫まる覚悟です。其結果は僕の思ふ様に行かないかも知れない。けれども何う間違つたつて、そんな無暗な事は起らない様にする積です。斯う中途半端にしてゐては、御互も苦痛だし、平岡君に対しても悪い。たゞ僕が思ひ切つて左様すると、あなたが、嘸平岡君に面目なからうと思つてね。其所が御気の毒なんだが、然し面目ないと云へば、僕だつて面目ないんだから。自分の所為に対しては、如何に面目なくつても、徳義上の責任を負ふのが当然だとすれば、外に何等の利益がないとしても、御互の間に有た事丈は平岡君に話さなければならないでせう。其上今の場合では是からの所置を付ける大事の自白なんだから、猶更必要になると思ひます」
「能く解りましたわ。何うせ間違へば死ぬ積なんですから」
「死ぬなんて。──よし死ぬにしたつて、是から先何の位間があるか──又そんな危険がある位なら、なんで平岡君に僕から話すもんですか」
三千代は又泣き出した。
「ぢや能く詫ります」
代助は日の傾くのを待つて三千代を帰した。然し此前の時の様に送つては行かなかつた。一時間程書斎の中で蝉の声を聞いて暮した。三千代に逢つて自分の未来を打ち明けてから、気分が薩張りした。平岡へ手紙を書いて、会見の都合を聞き合せ様として、筆を持つて見たが、急に責任の重いのが苦になつて、拝啓以後を書き続ける勇気が出なかつた。卒然、襯衣一枚になつて素足で庭へ飛び出した。三千代が帰る時は正体なく午睡をしてゐた門野が、
「まだ早いぢやありませんか。日が当つてゐますぜ」と云ひながら、坊主頭を両手で抑えて椽端にあらはれた。代助は返事もせずに、庭の隅へ潜り込んで竹の落葉を前の方へ掃き出した。門野も已を得ず着物を脱いで下りて来た。
狭い庭だけれども、土が乾いてゐるので、たつぷり濡らすには大分骨が折れた。代助は腕が痛いと云つて、好加減にして足を拭いて上つた。烟草を吹いて、椽側に休んでゐると、門野が其姿を見て、
「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から調戯つた。
晩には門野を連れて、神楽坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買つて来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。夜は深く空は高かつた。星の色は濃く繁く光つた。
代助は其晩わざと雨戸を引かずに寐た。無用心と云ふ恐れが彼の頭には全く無かつた。彼は洋燈を消して、蚊帳の中に独り寐転びながら、暗い所から暗い空を透かして見た。頭の中には昼の事が鮮かに輝いた。もう二三日のうちには最後の解決が出来ると思つて幾度か胸を躍らせた。が、そのうち大いなる空と、大いなる夢のうちに、吾知らず吸収された。
翌日の朝彼は思ひ切つて平岡へ手紙を出した。たゞ、内々で少し話したい事があるが、君の都合を知らせて貰ひたい。此方は何時でも差支ない。と書いた丈だが、彼はわざとそれを封書にした。状袋の糊を湿めして、赤い切手をとんと張つた時には、愈クライシスに証券を与へた様な気がした。彼は門野に云ひ付けて、此運命の使を郵便函に投げ込ました。手渡しにする時、少し手先が顫へたが、渡したあとでは却つて茫然として自失した。三年前三千代と平岡の間に立つて斡旋の労を取つた事を追想すると丸で夢の様であつた。
翌日は平岡の返事を心待に待ち暮らした。其明る日も当にして終日宅にゐた。三日四日と経つた。が、平岡からは何の便もなかつた。其中例月の通り、青山へ金を貰ひに行くべき日が来た。代助の懐中は甚だ手薄になつた。代助は此前父に逢つた時以後、もう宅からは補助を受けられないものと覚悟を極めてゐた。今更平気な顔をして、のそ〳〵出掛て行く了見は丸でなかつた。何二ヶ月や三ヶ月は、書物か衣類を売り払つても何うかなると腹の中で高を括つて落ち付いてゐた。事の落着次第緩くり職業を探すと云ふ分別もあつた。彼は平生から人のよく口癖にする、人間は容易な事で餓死するものぢやない、何うにかなつて行くものだと云ふ半諺の真理を、経験しない前から信じ出した。
五日目に暑を冒して、電車へ乗つて、平岡の社迄出掛けて行つて見て、平岡は二三日出社しないと云ふ事が分つた。代助は表へ出て薄汚ない編輯局の窓を見上げながら、足を運ぶ前に、一応電話で聞き合すべき筈だつたと思つた。先達ての手紙は、果して平岡の手に渡つたかどうか、夫さへ疑はしくなつた。代助はわざと新聞社宛でそれを出したからである。帰りに神田へ廻つて、買ひつけの古本屋に、売払ひたい不用の書物があるから、見に来てくれろと頼んだ。
其晩は水を打つ勇気も失せて、ぼんやり、白い網襯衣を着た門野の姿を眺めてゐた。
「先生今日は御疲ですか」と門野が馬尻を鳴らしながら云つた。代助の胸は不安に圧されて、明らかな返事も出なかつた。夕食のとき、飯の味は殆んどなかつた。呑み込む様に咽喉を通して、箸を投げた。門野を呼んで、
「君、平岡の所へ行つてね、先達ての手紙は御覧になりましたか。御覧になつたら、御返事を願ひますつて、返事を聞いて来て呉れ玉へ」と頼んだ。猶要領を得ぬ恐がありさうなので、先達てこれ〳〵の手紙を新聞社の方へ出して置いたのだと云ふ事迄説明して聞かした。
門野を出した後で、代助は椽側に出て、椅子に腰を掛けた。門野の帰つた時は、洋燈を吹き消して、暗い中に凝としてゐた。門野は暗がりで、
「行つて参りました」と挨拶をした。「平岡さんは御居でゞした。手紙は御覧になつたさうです。明日の朝行くからといふ事です」
「左様かい、御苦労さま」と代助は答へた。
「実はもつと早く出るんだつたが、うちに病人が出来たんで遅くなつたから、宜しく云つてくれろと云はれました」
「病人?」と代助は思はず問ひ返した。門野は暗い中で、
「えゝ、何でも奥さんが御悪い様です」と答へた。門野の着てゐる白地の浴衣丈がぼんやり代助の眼に入つた。夜の明りは二人の顔を照らすには余り不充分であつた。代助は掛けてゐる籐椅子の肱掛を両手で握つた。
「余程悪いのか」と強く聞いた。
「何うですか、能く分りませんが。何でもさう軽さうでもない様でした。然し平岡さんが明日御出になられる位なんだから、大した事ぢやないでせう」
代助は少し安心した。
「何だい。病気は」
「つい聞き落しましたがな」
二人の問答は夫で絶えた。門野は暗い廊下を引き返して、自分の部屋へ這入つた。静かに聞いてゐると、しばらくして、洋燈の蓋をホヤに打つける音がした。門野は灯火を点けたと見えた。
代助は夜の中に猶凝としてゐた。凝としてゐながら、胸がわく〳〵した。握つてゐる肱掛に、手から膏が出た。代助は又手を鳴らして門野を呼び出した。門野のぼんやりした白地が又廊下のはづれに現はれた。
「まだ暗闇ですな。洋燈を点けますか」と聞いた。代助は洋燈を断つて、もう一度、三千代の病気を尋ねた。看護婦の有無やら、平岡の様子やら、新聞社を休んだのは、細君の病気の為だか、何うだか、と云ふ点に至る迄、考へられる丈問ひ尽した。けれども門野の答は必竟前と同じ事を繰り返すのみであつた。でなければ、好加減な当ずつぽうに過ぎなかつた。それでも、代助には一人で黙つてゐるよりも堪え易かつた。
寐る前に門野が夜中投函から手紙を一本出して来た。代助は暗い中でそれを受取つた儘、別に見様ともしなかつた。門野は、
「御宅からの様です。灯火を持つて来ませうか」と促がす如くに注意した。
代助は始めて洋燈を書斎に入れさして、其下で、状袋の封を切つた。手紙は梅子から自分に宛てた可なり長いものであつた。──
「此間から奥さんの事で貴方も嘸御迷惑なすつたらう。此方でも御父様始め兄さんや、私は随分心配をしました。けれども其甲斐もなく先達て御出の時、とう〳〵御父さんに断然御断りなすつた御様子、甚だ残念ながら、今では仕方がないと諦らめてゐます。けれども其節御父様は、もう御前の事は構はないから、其積でゐろと御怒りなされた由、後で承りました。其後あなたが御出にならないのも、全く其為ぢやなからうかと思つてゐます。例月のものを上げる日には何うかとも思ひましたが、矢張り御出にならないので、心配してゐます。御父さんは打遣つて置けと仰います。兄さんは例の通り呑気で、困つたら其内来るだらう。其時親爺によく詫らせるが可い。もし来ない様だつたら、おれの方から行つてよく異見してやると云つてゐます。けれども、結婚の事は三人とももう断念してゐるんですから、其点では御迷惑になる様な事はありますまい。尤も御父さんは未だ怒つて御出の様子です。私の考では当分昔の通りになる事は、六づかしいと思ひます。それを考へると、貴方が入らつしやらない方が却つて貴方の為に宜いかも知れません。たゞ心配になるのは月々上げる御金の事です。貴方の事だから、さう急に自分で御金を取る気遣はなからうと思ふと、差し当り御困りになるのが眼の前に見える様で、御気の毒で堪りません。で、私の取計で例月分を送つて上げるから、御受取の上は是で来月迄持ち応へて入らつしやい。其内には御父さんの御機嫌も直るでせう。又兄さんからも、さう云つて頂く積です。私も好い折があれば、御詫をして上げます。それ迄は今迄通り遠慮して入らつしやる方が宜う御座います。……」
まだ後が大分あつたが、女の事だから、大抵は重複に過ぎなかつた。代助は中に這入つてゐた小切手を引き抜いて、手紙丈をもう一遍よく読み直した上、丁寧に元の如くに巻き収めて、無言の感謝を改めて嫂に致した。梅子よりと書いた字は寧ろ拙であつた。手紙の体の言文一致なのは、かねて代助の勧めた通りを用ひたのであつた。
代助は洋燈の前にある封筒を、猶つくづくと眺めた。古い寿命が又一ヶ月延びた。晩かれ早かれ、自己を新たにする必要のある代助には、嫂の志は難有いにもせよ、却つて毒になる許であつた。たゞ平岡と事を決する前は、麺麭の為に働らく事を肯はぬ心を持つてゐたから、嫂の贈物が、此際糧食としてことに彼には貴とかつた。
其晩も蚊帳へ這入る前にふつと、洋燈を消した。雨戸は門野が立てに来たから、故障も云はずに、其儘にして置いた。硝子戸だから、戸越しにも空は見えた。たゞ昨夕より暗かつた。曇つたのかと思つて、わざ〳〵椽側迄出て、透かす様にして軒を仰ぐと、光るものが筋を引いて斜めに空を流れた。代助は又蚊帳を捲つて這入つた。寐付かれないので団扇をはたはた云はせた。
家の事は左のみ気に掛からなかつた。職業もなるが儘になれと度胸を据ゑた。たゞ三千代の病気と、其源因と其結果が、ひどく代助の頭を悩ました。それから平岡との会見の様子も、様々に想像して見た。それも一方ならず彼の脳髄を刺激した。平岡は明日の朝九時頃あんまり暑くならないうちに来るといふ伝言であつた。代助は固より、平岡に向つて何う切り出さう抔と形式的の文句を考へる男ではなかつた。話す事は始めから極つてゐて、話す順序は其時の模様次第だから、決して心配にはならなかつたが、たゞ成る可く穏かに自分の思ふ事が向ふに徹する様にしたかつた。それで過度の興奮を忌んで、一夜の安静を切に冀つた。成るべく熟睡したいと心掛けて瞼を合せたが、生憎眼が冴えて昨夕よりは却つて寐苦しかつた。其内夏の夜がぽうと白み渡つて来た。代助は堪りかねて跳ね起きた。跣足で庭先へ飛び下りて冷たい露を存分に踏んだ。夫から又椽側の籐椅子に倚つて、日の出を待つてゐるうちに、うと〳〵した。
門野が寐惚け眼を擦りながら、雨戸を開けに出た時、代助ははつとして、此仮睡から覚めた。世界の半面はもう赤い日に洗はれてゐた。
「大変御早うがすな」と門野が驚ろいて云つた。代助はすぐ風呂場へ行つて水を浴びた。朝飯は食はずに只紅茶を一杯飲んだ。新聞を見たが、殆んど何が書いてあるか解らなかつた。読むに従つて、読んだ事が群がつて消えて行つた。たゞ時計の針ばかりが気になつた。平岡が来る迄にはまだ二時間あまりあつた。代助は其間を何うして暮らさうかと思つた。凝としてはゐられなかつた。けれども何をしても手に付かなかつた。責めて此二時間をぐつと寐込んで、眼を開けて見ると、自分の前に平岡が来てゐる様にしたかつた。
仕舞に何か用事を考へ出さうとした。不図机の上に乗せてあつた梅子の封筒が眼に付いた。代助は是だと思つて、強いて机の前に坐つて、嫂へ謝状を書いた。成るべく叮嚀に書く積であつたが、状袋へ入れて宛名迄認めて仕舞つて、時計を眺めると、たつた十五分程しか経つてゐなかつた。代助は席に着いた儘、安からぬ眼を空に据ゑて、頭の中で何か捜す様に見えた。が、急に起つた。
「平岡が来たら、すぐ帰るからつて、少し待たして置いて呉れ」と門野に云ひ置いて表へ出た。強い日が正面から射竦める様な勢で、代助の顔を打つた。代助は歩きながら絶えず眼と眉を動かした。牛込見附を這入つて、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄つた古本屋迄来て、
「昨日不要の本を取りに来て呉れと頼んで置いたが、少し都合があつて見合せる事にしたから、其積で」と断つた。帰りには、暑さが余り酷かつたので、電車で飯田橋へ回つて、それから揚場を筋違に毘沙門前へ出た。
家の前には車が一台下りてゐた。玄関には靴が揃へてあつた。代助は門野の注意を待たないで、平岡の来てゐる事を悟つた。汗を拭いて、着物を洗ひ立ての浴衣に改めて、座敷へ出た。
「いや、御使で」と平岡が云つた。矢張り洋服を着て、蒸される様に扇を使つた。
「何うも暑い所を」と代助も自から表立た言葉遣をしなければならなかつた。
二人はしばらく時候の話をした。代助はすぐ三千代の様子を聞いて見たかつた。然しそれが何う云ふものか聞き悪かつた。其内通例の挨拶も済んで仕舞つた。話は呼び寄せた方から、切り出すのが順当であつた。
「三千代さんは病気だつてね」
「うん。夫で社の方も二三日休ませられた様な訳で。つい君の所へ返事を出すのも忘れて仕舞つた」
「そりや何うでも構はないが。三千代さんはそれ程悪いのかい」
平岡は断然たる答を一言葉でなし得なかつた。さう急に何うの斯うのといふ心配もない様だが、決して軽い方ではないといふ意味を手短かに述べた。
此前暑い盛りに、神楽坂へ買物に出た序に、代助の所へ寄つた明日の朝、三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしてゐながら、突然夫の襟飾を持つた儘卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度は其儘に三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出て呉れと云ひ出した。口元には微笑の影さへ見えた。横にはなつてゐたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だつたら医者を呼ぶ様に、必要があつたら社へ電話を掛ける様に云ひ置いて平岡は出勤した。其晩は遅く帰つた。三千代は心持が悪いといつて先へ寐てゐた。何んな具合かと聞いても、判然した返事をしなかつた。翌日朝起きて見ると三千代の色沢が非常に可くなかつた。平岡は寧ろ驚ろいて医者を迎へた。医者は三千代の心臓を診察して眉をひそめた。卒倒は貧血の為だと云つた。随分強い神経衰弱に罹つてゐると注意した。平岡は夫から社を休んだ。本人は大丈夫だから出て呉れろと頼む様に云つたが、平岡は聞かなかつた。看護をしてから二日目の晩に、三千代が涙を流して、是非詫まらなければならない事があるから、代助の所へ行つて其訳を聞いて呉れろと夫に告げた。平岡は始めてそれを聞いた時には、本当にしなかつた。脳の加減が悪いのだらうと思つて、好し〳〵と気休めを云つて慰めてゐた。三日目にも同じ願が繰り返された。其時平岡は漸やく三千代の言葉に一種の意味を認めた。すると夕方になつて、門野が代助から出した手紙の返事を聞きにわざ〳〵小石川迄遣つて来た。
「君の用事と三千代の云ふ事と何か関係があるのかい」と平岡は不思議さうに代助を見た。
平岡の話は先刻から深い感動を代助に与へてゐたが、突然此思はざる問に来た時、代助はぐつと詰つた。平岡の問は実に意表に、無邪気に、代助の胸に応へた。彼は何時になく少し赤面して俯向いた。然し再顔を上げた時は、平生の通り静かな悪びれない態度を回復してゐた。
「三千代さんの君に詫まる事と、僕の君に話したい事とは、恐らく大いなる関係があるだらう。或は同じ事かも知れない。僕は何うしても、それを君に話さなければならない。話す義務があると思ふから話すんだから、今日迄の友誼に免じて、快よく僕に僕の義務を果さして呉れ給へ」
「何だい。改たまつて」と平岡は始めて眉を正した。
「いや前置をすると言訳らしくなつて不可ないから、僕も成る可くなら卒直に云つて仕舞ひたいのだが、少し重大な事件だし、夫に習慣に反した嫌もあるので、若し中途で君に激されて仕舞ふと、甚だ困るから、是非仕舞迄君に聞いて貰ひたいと思つて」
「まあ何だい。其話と云ふのは」
好奇心と共に平岡の顔が益真面目になつた。
「其代り、みんな話した後で、僕は何んな事を君から云はれても、矢張り大人しく仕舞迄聞く積だ」
平岡は何にも云はなかつた。たゞ眼鏡の奥から大きな眼を代助の上に据ゑた。外はぎら〳〵する日が照り付けて、椽側迄射返したが、二人は殆んど暑さを度外に置いた。
代助は一段声を潜めた。さうして、平岡夫婦が東京へ来てから以来、自分と三千代との関係が何んな変化を受けて、今日に至つたかを、詳しく語り出した。平岡は堅く唇を結んで代助の一語一句に耳を傾けた。代助は凡てを語るに約一時間余を費やした。其間に平岡から四遍程極めて単簡な質問を受けた。
「ざつと斯う云ふ経過だ」と説明の結末を付けた時、平岡はたゞ唸る様に深い溜息を以て代助に答へた。代助は非常に酷かつた。
「君の立場から見れば、僕は君を裏切りした様に当る。怪しからん友達だと思ふだらう。左様思れても一言もない。済まない事になつた」
「すると君は自分のした事を悪いと思つてるんだね」
「無論」
「悪いと思ひながら今日迄歩を進めて来たんだね」と平岡は重ねて聞いた。語気は前よりも稍切迫してゐた。
「左様だ。だから、此事に対して、君の僕等に与へやうとする制裁は潔よく受ける覚悟だ。今のはたゞ事実を其儘に話した丈で、君の処分の材料にする考だ」
平岡は答へなかつた。しばらくしてから、代助の前へ顔を寄せて云つた。
「僕の毀損された名誉が、回復出来る様な手段が、世の中にあり得ると、君は思つてゐるのか」
今度は代助の方が答へなかつた。
「法律や社会の制裁は僕には何にもならない」と平岡は又云つた。
「すると君は当事者丈のうちで、名誉を回復する手段があるかと聞くんだね」
「左様さ」
「三千代さんの心機を一転して、君を元よりも倍以上に愛させる様にして、其上僕を蛇蝎の様に悪ませさへすれば幾分か償にはなる」
「夫が君の手際で出来るかい」
「出来ない」と代助は云ひ切つた。
「すると君は悪いと思つた事を今日迄発展さして置いて、猶其悪いと思ふ方針によつて、極端押して行かうとするのぢやないか」
「矛盾かも知れない。然し夫は世間の掟と定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上がつた夫婦関係とが一致しなかつたと云ふ矛盾なのだから仕方がない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫たる君に詫まる。然し僕の行為其物に対しては矛盾も何も犯してゐない積だ」
「ぢや」と平岡は稍声を高めた。「ぢや、僕等二人は世間の掟に叶ふ様な夫婦関係は結べないと云ふ意見だね」
代助は同情のある気の毒さうな眼をして平岡を見た。平岡の険しい眉が少し解けた。
「平岡君。世間から云へば、これは男子の面目に関はる大事件だ。だから君が自己の権利を維持する為に、──故意に維持しやうと思はないでも、暗に其心が働らいて、自然と激して来るのは已を得ないが、──けれども、こんな関係の起らない学校時代の君になつて、もう一遍僕の云ふ事をよく聞いて呉れないか」
平岡は何とも云はなかつた。代助も一寸控えてゐた。烟草を一吹吹いた後で、思ひ切つた。
「君は三千代さんを愛してゐなかつた」と静かに云つた。
「そりや」
「そりや余計な事だけれども、僕は云はなければならない。今度の事件に就て凡ての解決者はそれだらうと思ふ」
「君には責任がないのか」
「僕は三千代さんを愛してゐる」
「他の妻を愛する権利が君にあるか」
「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件ぢやない人間だから、心迄所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来たつて、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。夫の権利は其所迄は届きやしない。だから細君の愛を他へ移さない様にするのが、却つて夫の義務だらう」
「よし僕が君の期待する通り三千代を愛してゐなかつた事が事実としても」と平岡は強いて己を抑える様に云つた。拳を握つてゐた。代助は相手の言葉の尽きるのを待つた。
「君は三年前の事を覚えてゐるだらう」と平岡は又句を更へた。
「三年前は君が三千代さんと結婚した時だ」
「さうだ。其時の記憶が君の頭の中に残つてゐるか」
代助の頭は急に三年前に飛び返つた。当時の記憶が、闇を回る松明の如く輝いた。
「三千代を僕に周旋しやうと云ひ出したものは君だ」
「貰いたいと云ふ意志を僕に打ち明けたものは君だ」
「それは僕だつて忘れやしない。今に至る迄君の厚意を感謝してゐる」
平岡は斯う云つて、しばらく冥想してゐた。
「二人で、夜上野を抜けて谷中へ下りる時だつた。雨上りで谷中の下は道が悪かつた。博物館の前から話しつゞけて、あの橋の所迄来た時、君は僕の為に泣いて呉れた」
代助は黙然としてゐた。
「僕は其時程朋友を難有いと思つた事はない。嬉しくつて其晩は少しも寐られなかつた。月のある晩だつたので、月の消える迄起きてゐた」
「僕もあの時は愉快だつた」と代助が夢の様に云つた。それを平岡は打ち切る勢で遮つた。──
「君は何だつて、あの時僕の為に泣いて呉れたのだ。なんだつて、僕の為に三千代を周旋しやうと盟つたのだ。今日の様な事を引き起す位なら、何故あの時、ふんと云つたなり放つて置いて呉れなかつたのだ。僕は君から是程深刻な復讐を取られる程、君に向つて悪い事をした覚がないぢやないか」
平岡は声を顫はした。代助の蒼い額に汗の珠が溜つた。さうして訴たへる如くに云つた。
「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛してゐたのだよ」
平岡は茫然として、代助の苦痛の色を眺めた。
「其時の僕は、今の僕でなかつた。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みを叶へるのが、友達の本分だと思つた。それが悪かつた。今位頭が熟してゐれば、まだ考へ様があつたのだが、惜しい事に若かつたものだから、余りに自然を軽蔑し過ぎた。僕はあの時の事を思つては、非常な後悔の念に襲はれてゐる。自分の為ばかりぢやない。実際君の為に後悔してゐる。僕が君に対して真に済まないと思ふのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに遣り遂げた義侠心だ。君、どうぞ勘弁して呉れ。僕は此通り自然に復讐を取られて、君の前に手を突いて詫まつてゐる」
代助は涙を膝の上に零した。平岡の眼鏡が曇つた。
「どうも運命だから仕方がない」
平岡は呻吟く様な声を出した。二人は漸く顔を見合せた。
「善後策に就て君の考があるなら聞かう」
「僕は君の前に詫まつてゐる人間だ。此方から先へそんな事を云ひ出す権利はない。君の考から聞くのが順だ」と代助が云つた。
「僕には何にもない」と平岡は頭を抑えてゐた。
「では云ふ。三千代さんを呉れないか」と思ひ切つた調子に出た。
平岡は頭から手を離して、肱を棒の様に洋卓の上に倒した。同時に、
「うん遣らう」と云つた。さうして代助が返事をし得ないうちに、又繰り返した。
「遣る。遣るが、今は遣れない。僕は君の推察通り夫程三千代を愛して居なかつたかも知れない。けれども悪んぢやゐなかつた。三千代は今病気だ。しかも余り軽い方ぢやない。寐てゐる病人を君に遣るのは厭だ。病気が癒る迄君に遣れないとすれば、夫迄は僕が夫だから、夫として看護する責任がある」
「僕は君に詫つた。三千代さんも君に詫まつてゐる。君から云へば二人とも、不埒な奴には相違ないが、──幾何詫まつても勘弁出来んかも知れないが、──何しろ病気をして寐てゐるんだから」
「夫は分つてゐる。本人の病気に付け込んで僕が意趣晴らしに、虐待でもすると思つてるんだらうが、僕だつて、まさか」
代助は平岡の言を信じた。さうして腹の中で平岡に感謝した。平岡は次に斯う云つた。
「僕は今日の事がある以上は、世間的の夫の立場からして、もう君と交際する訳には行かない。今日限り絶交するから左様思つて呉れ玉へ」
「仕方がない」と代助は首を垂れた。
「三千代の病気は今云ふ通り軽い方ぢやない。此先何んな変化がないとも限らない。君も心配だらう。然し絶交した以上は已を得ない。僕の在不在に係はらず、宅へ出入りする事丈は遠慮して貰ひたい」
「承知した」と代助はよろめく様に云つた。其頬は益蒼かつた。平岡は立ち上がつた。
「君、もう五分許坐つて呉れ」と代助が頼んだ。平岡は席に着いた儘無言でゐた。
「三千代さんの病気は、急に危険な虞でもありさうなのかい」
「さあ」
「夫丈教へて呉れないか」
「まあ、さう心配しないでも可いだらう」
平岡は暗い調子で、地に息を吐く様に答へた。代助は堪えられない思がした。
「若しだね。若し万一の事がありさうだつたら、其前にたつた一遍丈で可いから、逢はして呉れないか。外には決して何も頼まない。たゞ夫丈だ。夫丈を何うか承知して呉れ玉へ」
平岡は口を結んだなり、容易に返事をしなかつた。代助は苦痛の遣り所がなくて、両手の掌を、垢の綯れる程揉んだ。
「夫はまあ其時の場合にしやう」と平岡が重さうに答へた。
「ぢや、時々病人の様子を聞きに遣つても可いかね」
「夫は困るよ。君と僕とは何にも関係がないんだから。僕は是から先、君と交渉があれば、三千代を引き渡す時丈だと思つてるんだから」
代助は電流に感じた如く椅子の上で飛び上がつた。
「あつ。解つた。三千代さんの死骸丈を僕に見せる積なんだ。それは苛い。それは残酷だ」
代助は洋卓の縁を回つて、平岡に近づいた。右の手で平岡の脊広の肩を抑えて、前後に揺りながら、
「苛い、苛い」と云つた。
平岡は代助の眼のうちに狂へる恐ろしい光を見出した。肩を揺られながら、立ち上がつた。
「左んな事があるものか」と云つて代助の手を抑えた。二人は魔に憑かれた様な顔をして互を見た。
「落ち付かなくつちや不可ない」と平岡が云つた。
「落ち付いてゐる」と代助が答へた。けれども其言葉は喘ぐ息の間を苦しさうに洩れて出た。
暫らくして発作の反動が来た。代助は己れを支ふる力を用ひ尽した人の様に、又椅子に腰を卸した。さうして両手で顔を抑えた。
代助は夜の十時過になつて、こつそり家を出た。
「今から何方へ」と驚ろいた門野に、
「何一寸」と曖昧な答をして、寺町の通り迄来た。暑い時分の事なので、町はまだ宵の口であつた。浴衣を着た人が幾人となく代助の前後を通つた。代助には夫が唯動くものとしか見えなかつた。左右の店は悉く明るかつた。代助は眩しさうに、電気燈の少ない横町へ曲つた。江戸川の縁へ出た時、暗い風が微かに吹いた。黒い桜の葉が少し動いた。橋の上に立つて、欄干から下を見下してゐたものが二人あつた。金剛寺坂では誰にも逢はなかつた。岩崎家の高い石垣が左右から細い坂道を塞いでゐた。
平岡の住んでゐる町は、猶静かであつた。大抵な家は灯影を洩らさなかつた。向ふから来た一台の空車の輪の音が胸を躍らす様に響いた。代助は平岡の家の塀際迄来て留つた。身を寄せて中を窺ふと、中は暗かつた。立て切つた門の上に、軒燈が空しく標札を照らしてゐた。軒燈の硝子に守宮の影が斜めに映つた。
代助は今朝も此所へ来た。午からも町内を彷徨いた。下女が買物にでも出る所を捕まへて、三千代の容体を聞かうと思つた。然し下女は遂に出て来なかつた。平岡の影も見えなかつた。塀の傍に寄つて耳を澄ましても、夫らしい人声は聞えなかつた。医者を突き留めて、詳しい様子を探らうと思つたが、医者らしい車は平岡の門前には留らなかつた。そのうち、強い日に射付けられた頭が、海の様に動き始めた。立ち留まつてゐると、倒れさうになつた。歩き出すと、大地が大きな波紋を描いた。代助は苦しさを忍んで這ふ様に家へ帰つた。夕食も食はずに倒れたなり動かずにゐた。其時恐るべき日は漸く落ちて、夜が次第に星の色を濃くした。代助は暗さと涼しさのうちに始めて蘇生つた。さうして頭を露に打たせながら、又三千代のゐる所迄遣つて来たのである。
代助は三千代の門前を二三度行つたり来たりした。軒燈の下へ来るたびに立ち留まつて、耳を澄ました。五分乃至十分は凝としてゐた。しかし家の中の様子は丸で分らなかつた。凡てが寂としてゐた。
代助が軒燈の下へ来て立ち留まるたびに、守宮が軒燈の硝子にぴたりと身体を貼り付けてゐた。黒い影は斜に映つた儘何時でも動かなかつた。
代助は守宮に気が付く毎に厭な心持がした。其動かない姿が妙に気に掛つた。彼の精神は鋭どさの余りから来る迷信に陥いつた。三千代は危険だと想像した。三千代は今苦しみつゝあると想像した。三千代は今死につゝあると想像した。三千代は死ぬ前に、もう一遍自分に逢ひたがつて、死に切れずに息を偸んで生きてゐると想像した。代助は拳を固めて、割れる程平岡の門を敲かずにはゐられなくなつた。忽ち自分は平岡のものに指さへ触れる権利がない人間だと云ふ事に気が付いた。代助は恐ろしさの余り馳け出した。静かな小路の中に、自分の足音丈が高く響いた。代助は馳けながら猶恐ろしくなつた。足を緩めた時は、非常に呼息が苦しくなつた。
道端に石段があつた。代助は半ば夢中で其所へ腰を掛けたなり、額を手で抑えて、固くなつた。しばらくして、閉さいだ眼を開けて見ると、大きな黒い門があつた。門の上から太い松が生垣の外迄枝を張つてゐた。代助は寺の這入り口に休んでゐた。
彼は立ち上がつた。惘然として又歩き出した。少し来て、再び平岡の小路へ這入つた。夢の様に軒燈の前で立留つた。守宮はまだ一つ所に映つてゐた。代助は深い溜息を洩らして遂に小石川を南側へ降りた。
其晩は火の様に、熱くて赤い旋風の中に、頭が永久に回転した。代助は死力を尽して、旋風の中から逃れ出様と争つた。けれども彼の頭は毫も彼の命令に応じなかつた。木の葉の如く、遅疑する様子もなく、くるり〳〵と焔の風に巻かれて行つた。
翌日は又燬け付く様に日が高く出た。外は猛烈な光で一面にいら〳〵し始めた。代助は我慢して八時過に漸く起きた。起きるや否や眼がぐらついた。平生の如く水を浴びて、書斎へ這入つて凝と竦んだ。
所へ門野が来て、御客さまですと知らせたなり、入口に立つて、驚ろいた様に代助を見た。代助は返事をするのも退儀であつた。客は誰だと聞き返しもせずに手で支へた儘の顔を、半分ばかり門野の方へ向き易へた。其時客の足音が椽側にして、案内も待たずに兄の誠吾が這入つて来た。
「やあ、此方へ」と席を勧めたのが代助にはやうやうであつた。誠吾は席に着くや否や、扇子を出して、上布の襟を開く様に、風を送つた。此暑さに脂肪が焼けて苦しいと見えて、荒い息遣をした。
「暑いな」と云つた。
「御宅でも別に御変りもありませんか」と代助は、左も疲れ果てた人の如くに尋ねた。
二人は少時例の通りの世間話をした。代助の調子態度は固より尋常ではなかつた。けれども兄は決して何うしたとも聞かなかつた。話の切れ目へ来た時、
「今日は実は」と云ひながら、懐へ手を入れて、一通の手紙を取り出した。
「実は御前に少し聞きたい事があつて来たんだがね」と封筒の裏を代助の方へ向けて、
「此男を知つてるかい」と聞いた。其所には平岡の宿所姓名が自筆で書いてあつた。
「知つてます」と代助は殆んど器械的に答へた。
「元、御前の同級生だつて云ふが、本当か」
「さうです」
「此男の細君も知つてるのかい」
「知つてゐます」
兄は又扇を取り上げて、二三度ぱち〳〵と鳴らした。それから、少し前へ乗り出す様に、声を一段落した。
「此男の細君と、御前が何か関係があるのかい」
代助は始めから万事を隠す気はなかつた。けれども斯う単簡に聞かれたときに、何うして此複雑な経過を、一言で答へ得るだらうと思ふと、返事は容易に口へは出なかつた。兄は封筒の中から、手紙を取り出した。それを四五寸ばかり捲き返して、
「実は平岡と云ふ人が、斯う云ふ手紙を御父さんの所へ宛ゝ寄こしたんだがね。──読んで見るか」と云つて、代助に渡した。代助は黙つて手紙を受取つて、読み始めた。兄は凝と代助の額の所を見詰めてゐた。
手紙は細かい字で書いてあつた。一行二行と読むうちに、読み終つた分が、代助の手先から長く垂れた。それが二尺余になつても、まだ尽きる気色はなかつた。代助の眼はちらちらした。頭が鉄の様に重かつた。代助は強いても仕舞迄読み通さなければならないと考へた。総身が名状しがたい圧迫を受けて、腋の下から汗が流れた。漸く結末へ来た時は、手に持つた手紙を巻き納める勇気もなかつた。手紙は広げられた儘洋卓の上に横はつた。
「其所に書いてある事は本当なのかい」と兄が低い声で聞いた。代助はたゞ、
「本当です」と答へた。兄は打衝を受けた人の様に一寸扇の音を留めた。しばらくは二人とも口を聞き得なかつた。良あつて兄が、
「まあ、何う云ふ了見で、そんな馬鹿な事をしたのだ」と呆れた調子で云つた。代助は依然として、口を開かなかつた。
「何んな女だつて、貰はうと思へば、いくらでも貰へるぢやないか」と兄がまた云つた。代助はそれでも猶黙つてゐた。三度目に兄が斯う云つた。──
「御前だつて満更道楽をした事のない人間でもあるまい。こんな不始末を仕出かす位なら、今迄折角金を使つた甲斐がないぢやないか」
代助は今更兄に向つて、自分の立場を説明する勇気もなかつた。彼はつい此間迄全く兄と同意見であつたのである。
「姉さんは泣いてゐるぜ」と兄が云つた。
「さうですか」と代助は夢の様に答へた。
「御父さんは怒つてゐる」
代助は答をしなかつた。たゞ遠い所を見る眼をして、兄を眺めてゐた。
「御前は平生から能く分らない男だつた。夫でも、いつか分る時機が来るだらうと思つて今日迄交際つてゐた。然し今度と云ふ今度は、全く分らない人間だと、おれも諦らめて仕舞つた。世の中に分らない人間程危険なものはない。何を為るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。御前は夫が自分の勝手だから可からうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思つて見ろ。御前だつて家族の名誉と云ふ観念は有つてゐるだらう」
兄の言葉は、代助の耳を掠めて外へ零れた。彼はたゞ全身に苦痛を感じた。けれども兄の前に良心の鞭撻を蒙る程動揺してはゐなかつた。凡てを都合よく弁解して、世間的の兄から、今更同情を得やうと云ふ芝居気は固より起らなかつた。彼は彼の頭の中に、彼自身に正当な道を歩んだといふ自信があつた。彼は夫で満足であつた。その満足を理解して呉れるものは三千代丈であつた。三千代以外には、父も兄も社会も人間も悉く敵であつた。彼等は赫々たる炎火の裡に、二人を包んで焼き殺さうとしてゐる。代助は無言の儘、三千代と抱き合つて、此焔の風に早く己れを焼き尽すのを、此上もない本望とした。彼は兄には何の答もしなかつた。重い頭を支へて石の様に動かなかつた。
「代助」と兄が呼んだ。「今日はおれは御父さんの使に来たのだ。御前は此間から家へ寄り付かない様になつてゐる。平生なら御父さんが呼び付けて聞き糺す所だけれども、今日は顔を見るのが厭だから、此方から行つて実否を確めて来いと云ふ訳で来たのだ。それで──もし本人に弁解があるなら弁解を聞くし。又弁解も何もない、平岡の云ふ所が一々根拠のある事実なら、──御父さんは斯う云はれるのだ。──もう生涯代助には逢はない。何処へ行つて、何をしやうと当人の勝手だ。其代り、以来子としても取り扱はない。又親とも思つて呉れるな。──尤もの事だ。そこで今御前の話を聞いて見ると、平岡の手紙には嘘は一つも書いてないんだから仕方がない。其上御前は、此事に就て後悔もしなければ、謝罪もしない様に見受けられる。それぢや、おれだつて、帰つて御父さんに取り成し様がない。御父さんから云はれた通りを其儘御前に伝へて帰る丈の事だ。好いか。御父さんの云はれる事は分つたか」
「よく分りました」と代助は簡明に答へた。
「貴様は馬鹿だ」と兄が大きな声を出した。代助は俯向いた儘顔を上げなかつた。
「愚図だ」と兄が又云つた。「不断は人並以上に減らず口を敲く癖に、いざと云ふ場合には、丸で唖の様に黙つてゐる。さうして、陰で親の名誉に関はる様な悪戯をしてゐる。今日迄何の為に教育を受けたのだ」
兄は洋卓の上の手紙を取つて自分で巻き始めた。静かな部屋の中に、半切の音がかさ〳〵鳴つた。兄はそれを元の如くに封筒に納めて懐中した。
「ぢや帰るよ」と今度は普通の調子で云つた。代助は叮嚀に挨拶をした。兄は、
「おれも、もう逢はんから」と云ひ捨てて玄関に出た。
兄の去つた後、代助はしばらくして元の儘じつと動かずにゐた。門野が茶器を取り片付けに来た時、急に立ち上がつて、
「門野さん。僕は一寸職業を探して来る」と云ふや否や、鳥打帽を被つて、傘も指さずに日盛りの表へ飛び出した。
代助は暑い中を馳けない許に、急ぎ足に歩いた。日は代助の頭の上から真直に射下した。乾いた埃が、火の粉の様に彼の素足を包んだ。彼はぢり〳〵と焦る心持がした。
「焦る〳〵」と歩きながら口の内で云つた。
飯田橋へ来て電車に乗つた。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、
「あゝ動く。世の中が動く」と傍の人に聞える様に云つた。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従つて火の様に焙つて来た。是で半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだらうと思つた。
忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くる〳〵と回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあつた。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くる〳〵と渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売つてるものがあつた。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸て来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはつと電車と摺れ違ふとき、又代助の頭の中に吸ひ込まれた。烟草屋の暖簾が赤かつた。売出しの旗も赤かつた。電柱が赤かつた。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になつた。さうして、代助の頭を中心としてくるり〳〵と焔の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した。
底本:「漱石全集 第六巻」岩波書店
1994(平成6)年5月9日発行
初出:「東京朝日新聞」、「大阪朝日新聞」
1909(明治42)年6月27日~10月4日
※底本の本文は、漱石の自筆原稿によっています。
※ルビは、漱石の原稿にあったルビのみ付け、岩波編集部が付けたルビは省きました。
※ルビ、文字遣い、語句の混在は底本の通りとしました。
入力:Godot、野口英司、oto
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年4月16日作成
2013年3月13日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。