弟子
中島敦



     一


 べん游侠ゆうきょうの徒、仲由ちゅうゆうあざなは子路という者が、近頃ちかごろ賢者けんじゃうわさも高い学匠がくしょう陬人すうひと孔丘こうきゅうはずかしめてくれようものと思い立った。似而非えせ賢者何程なにほどのことやあらんと、蓬頭突鬢ほうとうとつびん垂冠すいかん短後たんこうの衣という服装いでたちで、左手に雄雞おんどり、右手に牡豚おすぶたを引提げ、いきおいもうに、孔丘が家を指して出掛でかける。雞をり豚をふるい、かまびすしい脣吻しんぷんの音をもって、儒家じゅか絃歌講誦げんかこうしょうの声をみだそうというのである。

 けたたましい動物のさけびと共にいからしてんで来た青年と、圜冠句履えんかんこうりゆるけつを帯びてった温顔の孔子との間に、問答が始まる。

なんじ、何をか好む?」と孔子が聞く。

「我、長剣ちょうけんを好む。」と青年は昂然こうぜんとして言い放つ。

 孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、余りに稚気ちき満々たる誇負こふを見たからである。血色のいい・まゆの太い・眼のはっきりした・見るからに精悍せいかんそうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現れているように思われる。再び孔子が聞く。

「学はすなわちいかん?」

「学、あに、益あらんや。」もともとこれを言うのが目的なのだから、子路は勢込んで怒鳴どなるように答える。

 学の権威けんいについて云々うんぬんされては微笑わらってばかりもいられない。孔子は諄々じゅんじゅんとして学の必要を説き始める。人君じんくんにして諫臣かんしんが無ければせいを失い、士にして教友が無ければちょうを失う。なわを受けて始めて直くなるのではないか。馬にむちが、弓にけいが必要なように、人にも、その放恣ほうしな性情をめる教学が、どうして必要でなかろうぞ。ただおさみがいて、始めてものは有用の材となるのだ。

 後世に残された語録の字面じづらなどからは到底とうてい想像も出来ぬ・極めて説得的な弁舌を孔子はっていた。言葉の内容ばかりでなく、そのおだやかな音声・抑揚よくようの中にも、それを語る時の極めて確信にちた態度の中にも、どうしても聴者を説得せずにはおかないものがある。青年の態度からは次第に反抗はんこうの色が消えて、ようやく謹聴きんちょうの様子に変って来る。

「しかし」と、それでも子路はなお逆襲ぎゃくしゅうする気力を失わない。南山の竹はめずして自ら直く、ってこれを用うれば犀革さいかくの厚きをも通すと聞いている。して見れば、天性優れたる者にとって、何の学ぶ必要があろうか?

 孔子にとって、こんな幼稚な譬喩ひゆを打破るほどたやすい事はない。汝のうその南山の竹に矢の羽をつけやじりを付けてこれをみがいたならば、ただに犀革を通すのみではあるまいに、と孔子に言われた時、愛すべき単純な若者は返す言葉にきゅうした。顔をあからめ、しばらく孔子の前に突立つったったまま何か考えている様子だったが、急に雞と豚とをほうり出し、頭をれて、「つつしんで教を受けん。」と降参した。単に言葉に窮したためではない。実は、室に入って孔子のすがたを見、その最初の一言を聞いた時、直ちに雞豚けいとん場違ばちがいであることを感じ、おのれと余りにも懸絶けんぜつした相手の大きさに圧倒あっとうされていたのである。

 即日そくじつ、子路は師弟の礼をって孔子の門に入った。


     二


 このような人間を、子路は見たことがない。力千鈞せんきんかなえを挙げる勇者をかれは見たことがある。めい千里の外を察する智者ちしゃの話も聞いたことがある。しかし、孔子に在るものは、決してそんな怪物かいぶつめいた異常さではない。ただ最も常識的な完成に過ぎないのである。知情意のおのおのから肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡へいぼんに、しかし実にび伸びと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀ゆうしゅうさが全然目立たないほど、過不及かふきゅう無く均衡きんこうのとれた豊かさは、子路にとってまさしく初めて見る所のものであった。闊達かったつ自在、いささかの道学者しゅうも無いのに子路はおどろく。この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。可笑おかしいことに、子路のほこる武芸や膂力りょりょくにおいてさえ孔子の方が上なのである。ただそれを平生へいぜい用いないだけのことだ。侠者子路はまずこの点で度胆どぎもかれた。放蕩無頼ほうとうぶらいの生活にも経験があるのではないかと思われる位、あらゆる人間へのするどい心理的洞察どうさつがある。そういう一面から、また一方、極めて高くけがれないその理想主義に至るまでのはばの広さを考えると、子路はウーンと心の底からうならずにはいられない。とにかく、この人はどこへ持って行っても大丈夫な人だ。潔癖けっぺき倫理的りんりてきな見方からしても大丈夫だいじょうぶだし、最も世俗的な意味からっても大丈夫だ。子路が今までに会った人間のえらさは、どれもみなその利用価値の中に在った。これこれの役に立つから偉いというに過ぎない。孔子の場合は全然違う。ただそこに孔子という人間が存在するというだけで充分じゅうぶんなのだ。少くとも子路には、そう思えた。彼はすっかり心酔しんすいしてしまった。門に入っていまだ一月ならずして、もはや、この精神的支柱からはなれ得ない自分を感じていた。

 後年の孔子の長い放浪ほうろう艱苦かんくを通じて、子路ほど欣然きんぜんとして従った者は無い。それは、孔子の弟子たることによって仕官のみちを求めようとするのでもなく、また、滑稽こっけいなことに、師の傍に在って己の才徳を磨こうとするのでさえもなかった。死に至るまでかわらなかった・極端きょくたんに求むる所の無い・純粋じゅんすいな敬愛の情だけが、この男を師の傍に引留めたのである。かつて長剣を手離せなかったように、子路は今は何としてもこの人から離れられなくなっていた。

 その時、四十而不惑しじゅうにしてまどわずといった・その四十さいに孔子はまだ達していなかった。子路よりわずか九歳の年長に過ぎないのだが、子路はその年齢ねんれいの差をほとんど無限の距離きょりに感じていた。


 孔子は孔子で、この弟子の際立ったらし難さに驚いている。単に勇を好むとかじゅうきらうとかいうならばいくらでも類はあるが、この弟子ほどものの形を軽蔑けいべつする男もめずらしい。究極は精神に帰すると云いじょう、礼なるものはすべて形から入らねばならぬのに、子路という男は、その形からはいって行くという筋道を容易に受けつけないのである。「礼と云い礼と云う。玉帛ぎょくはくを云わんや。がくと云い楽と云う。鐘鼓しょうこを云わんや。」などというと大いによろこんで聞いているが、曲礼きょくれいの細則を説く段になるとにわかにまらなさそうな顔をする。形式主義への・この本能的忌避きひたたかってこの男に礼楽を教えるのは、孔子にとってもなかなかの難事であった。が、それ以上に、これを習うことが子路にとっての難事業であった。子路がたよるのは孔子という人間の厚みだけである。その厚みが、日常の区々たる細行の集積であるとは、子路には考えられない。もとがあって始めて末が生ずるのだと彼は言う。しかしそのもとをいかにして養うかについての実際的な考慮こうりょが足りないとて、いつも孔子にしかられるのである。彼が孔子に心服するのは一つのこと。彼が孔子の感化を直ちに受けつけたかどうかは、また別の事に属する。

 上智と下愚かぐは移り難いと言った時、孔子は子路のことを考えに入れていなかった。欠点だらけではあっても、子路を下愚とは孔子も考えない。孔子はこの剽悍ひょうかんな弟子の無類の美点をだれよりも高く買っている。それはこの男の純粋な没利害性のことだ。この種の美しさは、この国の人々の間に在っては余りにもまれなので、子路のこの傾向けいこうは、孔子以外の誰からも徳としては認められない。むしろ一種の不可解なおろかさとして映るに過ぎないのである。しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないことを、孔子だけは良く知っていた。


 師の言に従っておのれおさえ、とにもかくにもに就こうとしたのは、親に対する態度においてであった。孔子の門に入って以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚しんせき中の評判である。められて子路は変な気がした。親孝行どころか、うそばかりついているような気がして仕方が無いからである。我儘わがままを云って親を手古摺てこずらせていたころの方が、どう考えても正直だったのだ。今の自分のいつわりに喜ばされている親達が少々情無くも思われる。こまかい心理分析家ぶんせきかではないけれども、極めて正直な人間だったので、こんな事にも気が付くのである。ずっと後年になって、ある時突然とつぜん、親の老いたことに気が付き、己の幼かった頃の両親の元気な姿を思出したら、急になみだが出て来た。その時以来、子路の親孝行は無類の献身的けんしんてきなものとなるのだが、とにかく、それまでの彼のにわか孝行はこんな工合ぐあいであった。


     三


 ある日子路が街を歩いて行くと、かつての友人の二三に出会った。無頼とは云えぬまでも放縦ほうじゅうにしてこだわる所の無い游侠の徒である。子路は立止ってしばらく話した。そのうちに彼の一人が子路の服装ふくそうをじろじろ見廻みまわし、やあ、これが儒服というやつか? 随分ずいぶんみすぼらしいなりだな、と言った。長剣がこいしくはないかい、とも言った。子路が相手にしないでいると、今度は聞捨ききずてのならぬことを言出した。どうだい。あの孔丘という先生はなかなかのわせものだって云うじゃないか。しかつめらしい顔をして心にもない事を誠しやかに説いていると、えらくあましるが吸えるものと見えるなあ。別に悪意がある訳ではなく、心安立こころやすだてからのいつもの毒舌だったが、子路は顔色を変えた。いきなりその男の胸倉むなぐらつかみ、右手のこぶしをしたたか横面よこつらに飛ばした。二つ三つ続け様にくらわしてから手を離すと、相手は意気地なくたおれた。呆気あっけに取られている他の連中に向っても子路は挑戦的ちょうせんてきな眼を向けたが、子路の剛勇ごうゆうを知る彼等は向って来ようともしない。なぐられた男を左右からたすけ起し、捨台詞すてぜりふ一つ残さずにこそこそと立去った。


 いつかこの事が孔子の耳に入ったものと見える。子路が呼ばれて師の前に出て行った時、直接にはれないながら、次のようなことを聞かされねばならなかった。いにしえの君子は忠をもって質となし仁をもって衛となした。不善ある時はすなわち忠をもってこれを化し、侵暴しんぼうある時はすなわち仁をもってこれを固うした。腕力わんりょくの必要を見ぬゆえんである。とかく小人は不遜ふそんをもって勇と見做みなし勝ちだが、君子の勇とは義を立つることのいいである云々。神妙に子路は聞いていた。


 数日後、子路がまた街を歩いていると、往来の木蔭こかげ閑人達かんじんたちさかんに弁じている声が耳に入った。それがどうやら孔子の噂のようである。──むかし、昔、と何でもいにしえかつぎ出して今をおとす。誰も昔を見たことがないのだから何とでも言える訳さ。しかし昔の道を杓子定規しゃくしじょうぎにそのままんで、それでうまく世が治まるくらいなら、誰も苦労はしないよ。おれ達にとっては、死んだ周公よりも生ける陽虎様ようこさまの方が偉いということになるのさ。

 下剋上げこくじょうの世であった。政治の実権が魯侯ろこうからその大夫たる季孫氏きそんしの手に移り、それが今やさらに季孫氏の臣たる陽虎という野心家の手に移ろうとしている。しゃべっている当人はあるいは陽虎の身内の者かも知れない。

 ──ところで、その陽虎様がこの間から孔丘を用いようと何度もむかえを出されたのに、何と、孔丘の方からそれをけているというじゃないか。口では大層な事を言っていても、実際の生きた政治にはまるで自信が無いのだろうよ。あの手合てあいはね。

 子路は背後うしろから人々を分けて、つかつかと弁者の前に進み出た。人々は彼が孔門の徒であることをすぐに認めた。今まで得々と弁じ立てていた当の老人は、顔色を失い、意味も無く子路の前に頭を下げてから人垣ひとがきの背後に身をかくした。まなじりを決した子路の形相ぎょうそうが余りにすさまじかったのであろう。


 その後しばらく、同じような事が処々で起った。かたいからせ炯々けいけいと眼を光らせた子路の姿が遠くから見え出すと、人々は孔子をそしる口をつぐむようになった。

 子路はこの事で度々師に叱られるが、自分でもどうしようもない。彼は彼なりに心の中では言分いいぶんが無いでもない。いわゆる君子なるものが俺と同じ強さの忿怒ふんぬを感じてなおかつそれを抑え得るのだったら、そりゃ偉い。しかし、実際は、俺ほど強く怒りを感じやしないんだ。少くとも、抑え得る程度に弱くしか感じていないのだ。きっと…………。


 一年ほどってから孔子が苦笑と共にたんじた。ゆうが門に入ってから自分は悪言を耳にしなくなったと。


     四


 ある時、子路が一室でしつしていた。

 孔子はそれを別室で聞いていたが、しばらくしてかたわらなる冉有ぜんゆうに向って言った。あの瑟の音を聞くがよい。暴厲ぼうれいの気がおのずからみなぎっているではないか。君子の音は温柔おんじゅうにしてちゅうにおり、生育の気を養うものでなければならぬ。昔しゅん五絃琴ごげんきんだんじて南風の詩を作った。南風のくんずるやもって我が民のいかりを解くべし。南風の時なるやもって我が民の財をおおいにすべしと。今ゆうの音を聞くに、誠に殺伐激越さつばつげきえつ、南音にあらずして北声に類するものだ。弾者の荒怠暴恣こうたいぼうしの心状をこれほど明らかに映し出したものはない。──

 後、冉有が子路の所へ行って夫子ふうしの言葉を告げた。

 子路は元々自分に楽才のとぼしいことを知っている。そして自らそれを耳と手のせいに帰していた。しかし、それが実はもっと深い精神の持ち方から来ているのだと聞かされた時、彼は愕然がくぜんとしておそれた。大切なのは手の習練ではない。もっと深く考えねばならぬ。彼は一室にこもり、静思してくらわず、もって骨立こつりつするに至った。数日の後、ようやく思い得たと信じて、再び瑟を執った。そうして、極めておそる恐る弾じた。その音をれ聞いた孔子は、今度は別に何も言わなかった。とがめるような顔色も見えない。子貢しこうが子路の所へ行ってそのむねを告げた。師の咎が無かったと聞いて子路はうれしげに笑った。

 人の良い兄弟子の嬉しそうな笑顔えがおを見て、若い子貢も微笑を禁じ得ない。聡明そうめいな子貢はちゃんと知っている。子路のかなでる音が依然いぜんとして殺伐な北声に満ちていることを。そうして、夫子がそれを咎めたまわぬのは、せ細るまで苦しんで考え込んだ子路の一本気をあわれまれたために過ぎないことを。


     五


 弟子の中で、子路ほど孔子に叱られる者は無い。子路ほど遠慮えんりょなく師に反問する者もない。「う。古の道をててゆうの意を行わん。可ならんか。」などと、叱られるに決っていることを聞いてみたり、孔子に面と向ってずけずけと「これあるかな。子のなるや!」などと言ってのける人間は他に誰もいない。それでいて、また、子路ほど全身的に孔子にり掛かっている者もないのである。どしどし問返すのは、心から納得なっとく出来ないものを表面うわべだけうべなうことの出来ぬ性分だからだ。また、他の弟子達のように、わらわれまい叱られまいと気をつかわないからである。

 子路が他の所ではあくまで人の下風に立つを潔しとしない独立不羈ふきの男であり、一諾千金いちだくせんきんの快男児であるだけに、碌々ろくろくたる凡弟子然ぼんていしぜんとして孔子の前にはんべっている姿は、人々に確かに奇異きいな感じをあたえた。事実、彼には、孔子の前にいる時だけは複雑な思索しさくや重要な判断は一切いっさい師に任せてしまって自分は安心しきっているような滑稽こっけいな傾向も無いではない。母親の前では自分に出来る事までも、してもらっている幼児と同じような工合である。退いて考えてみて、自ら苦笑することがある位だ。


 だが、これほどの師にもなお触れることを許さぬ胸中の奥所がある。ここばかりはゆずれないというぎりぎり結著の所が。

 すなわち、子路にとって、この世に一つの大事なものがある。そのものの前には死生も論ずるに足りず、いわんや、区々たる利害のごとき、問題にはならない。侠といえばやや軽すぎる。信といい義というと、どうも道学者流で自由な躍動やくどうの気に欠けるうらみがある。そんな名前はどうでもいい。子路にとって、それは快感の一種のようなものである。とにかく、それの感じられるものが善きことであり、それのともなわないものがしきことだ。極めてはっきりしていて、いまだかつてこれに疑を感じたことがない。孔子の云う仁とはかなり開きがあるのだが、子路は師の教の中から、この単純な倫理観を補強するようなものばかりを選んでり入れる。巧言令色足恭コウゲンレイショクスウキョウウラミカクシテノ人ヲ友トスルハ、丘コレ とか、生ヲ求メテモッテ仁ヲ害スルナク身ヲ殺シテ以テ仁ヲ成スアリ とか、狂者ハ進ンデ取リ狷者ケンジャサザル所アリ とかいうのが、それだ。孔子も初めはこのつのめようとしないではなかったが、後にはあきらめてめてしまった。とにかく、これはこれで一ぴきの見事な牛には違いないのだから。むちを必要とする弟子もあれば、手綱たづなを必要とする弟子もある。容易な手綱では抑えられそうもない子路の性格的欠点が、実は同時にかえって大いに用うるに足るものであることを知り、子路には大体の方向の指示さえ与えればよいのだと考えていた。敬ニシテ礼ニ中ラザルヲ野トイヒ、勇ニシテ礼ニ中ラザルヲ逆トイフ とか、信ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノヘイゾク、直ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽ヤカウ などというのも、結局は、個人としての子路に対してよりも、いわば塾頭格じゅくとうかくとしての子路に向っての叱言こごとである場合が多かった。子路という特殊な個人に在ってはかえって魅力みりょくとなり得るものが、他の門生一般いっぱんについてはおおむね害となることが多いからである。


     六


 しん魏楡きゆの地で石がものを言ったという。民の怨嗟えんさの声が石を仮りて発したのであろうと、ある賢者が解した。すで衰微すいびした周室は更に二つに分れて争っている。十に余る大国はそれぞれ相結び相闘って干戈かんかの止む時が無い。斉侯せいこうの一人は臣下の妻に通じて夜ごとそのやしきしのんで来る中についにその夫にしいせられてしまう。では王族の一人が病臥びょうが中の王のくびをしめて位をうばう。では足頸を斬取きりとられた罪人共が王をおそい、晋では二人の臣がたがいに妻を交換こうかんし合う。このような世の中であった。

 魯の昭公は上卿じょうけい季平子きへいしを討とうとしてかえって国をわれ、亡命七年にして他国で窮死きゅうしする。亡命中帰国の話がととのいかかっても、昭公に従った臣下共が帰国後のおのれの運命を案じ公を引留めて帰らせない。魯の国は季孫・叔孫しゅくそん孟孫もうそん三氏の天下から、更に季氏のさい・陽虎のほしいままな手に操られて行く。

 ところが、その策士陽虎が結局己の策に倒れて失脚しっきゃくしてから、急にこの国の政界の風向きが変った。思いがけなく孔子が中都の宰として用いられることになる。公平無私な官吏かんり苛斂誅求かれんちゅうきゅうを事とせぬ政治家の皆無かいむだった当時のこととて、孔子の公正な方針と周到な計画とはごく短い期間に驚異的きょういてきな治績を挙げた。すっかり驚嘆きょうたんした主君の定公が問うた。汝の中都を治めし所の法をもって魯国を治むればすなわちいかん? 孔子が答えて言う。何ぞただ魯国のみならんや。天下を治むるといえども可ならんか。およそ法螺ほらとはえんの遠い孔子がすこぶるうやうやしい調子でましてこうした壮語をろうしたので、定公はますます驚いた。彼は直ちに孔子を司空に挙げ、続いて大司寇だいしこうに進めて宰相さいしょうの事をもらせた。孔子の推挙で子路は魯国の内閣書記官長とも言うべき季氏の宰となる。孔子の内政改革案の実行者として真先まっさきに活動したことは言うまでもない。

 孔子の政策の第一は中央集権すなわち魯侯の権力強化である。このためには、現在魯侯よりも勢力をつ季・叔・孟・三かんの力をがねばならぬ。三氏の私城にして百雉ひゃくち(厚さ三じょう、高さ一丈)をえるものにこうせいの三地がある。まずこれ等をこぼつことに孔子は決め、その実行に直接当ったのが子路であった。

 自分の仕事の結果がすぐにはっきりと現れて来る、しかも今までの経験には無かったほどの大きい規模で現れて来ることは、子路のような人間にとって確かに愉快ゆかいに違いなかった。ことに、既成きせい政治家の張りめぐらした奸悪かんあくな組織や習慣を一つ一つ破砕はさいして行くことは、子路に、今まで知らなかった一種の生甲斐いきがいを感じさせる。多年の抱負ほうふの実現に生々いきいきいそがしげな孔子の顔を見るのも、さすがにうれしい。孔子の目にも、弟子の一人としてではなく一個の実行力ある政治家としての子路の姿がたのもしいものに映った。

 費の城をこわしに掛かった時、それに反抗して公山不狃こうざんふちゅうという者が費人を率い魯の都を襲うた。武子台に難を避けた定公の身辺にまで叛軍はんぐんの矢がおよぶほど、一時は危かったが、孔子の適切な判断と指揮とによってわずかに事無きを得た。子路はまた改めて師の実際家的手腕しゅわんに敬服する。孔子の政治家としての手腕は良く知っているし、またその個人的な膂力の強さも知ってはいたが、実際の戦闘に際してこれほどのあざやかな指揮ぶりを見せようとは思いがけなかったのである。もちろん、子路自身もこの時は真先に立って奮い戦った。久しぶりにふるう長剣の味も、まんざらてたものではない。とにかく、経書の字句をほじくったり古礼を習うたりするよりも、あらい現実の面と取組み合って生きて行く方が、この男の性に合っているようである。


 斉との間の屈辱的くつじょくてき媾和こうわのために、定公が孔子をしたがえて斉の景公と夾谷きょうこくの地に会したことがある。その時孔子は斉の無礼をとがめて、景公始め群卿諸大夫を頭ごなしに叱咤しったした。戦勝国たるはずの斉の君臣一同ことごとくふるえ上ったとある。子路をして心からの快哉かいさいを叫ばしめるに充分な出来事ではあったが、この時以来、強国斉は、隣国りんこくの宰相としての孔子の存在に、あるいは孔子の施政しせいもとに充実して行く魯の国力に、おそれいだき始めた。苦心の結果、誠にいかにも古代支那しな式な苦肉の策が採られた。すなわち、斉から魯へおくるに、歌舞かぶに長じた美女の一団をもってしたのである。こうして魯侯の心をとろかし定公と孔子との間を離間りかんしようとしたのだ。ところで、更に古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国内反孔子派の策動とあいって、余りにも速く効を奏したことである。魯侯は女楽にふけってもはやちょうに出なくなった。季桓子きかんし以下の大官連もこれにならい出す。子路は真先に憤慨ふんがいして衝突しょうとつし、官を辞した。孔子は子路ほど早く見切をつけず、なおくせるだけの手段を尽くそうとする。子路は孔子に早くめてもらいたくて仕方が無い。師が臣節をけがすのを懼れるのではなく、ただこのみだらな雰囲気ふんいきの中に師を置いてながめるのがたまらないのである。

 孔子のねばり強さもついに諦めねばならなくなった時、子路はほっとした。そうして、師に従ってよろこんで魯の国を立退たちのいた。

 作曲家でもあり作詞家でもあった孔子は、次第に遠離とおざかり行く都城をかえりみながら、歌う。

 かの美婦の口には君子ももって出走すべし。かの美婦のえつには君子ももって死敗すべし。…………

 かくて、爾後じご永年にわたる孔子の遍歴へんれきが始まる。


     七


 大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに納得できないことに変りはない。それは、誰もが一向にあやしもうとしない事柄ことがらだ。じゃが栄えて正がしいたげられるという・ありきたりの事実についてである。

 この事実にぶつかるごとに、子路は心からの悲憤ひふんを発しないではいられない。なぜだ? なぜそうなのだ? 悪は一時栄えても結局はそのむくいを受けると人は云う。なるほどそういう例もあるかも知れぬ。しかし、それも人間というものが結局は破滅はめつに終るという一般的な場合の一例なのではないか。善人が究極の勝利を得たなどというためしは、遠い昔は知らず、今の世ではほとんど聞いたことさえ無い。なぜだ? なぜだ? 大きな子供・子路にとって、こればかりは幾ら憤慨しても憤慨し足りないのだ。彼は地団駄じだんだむ思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗はんこうしないではいられない。天は人間とけものとの間に区別を設けないと同じく、善と悪との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかは畢竟ひっきょう人間の間だけの仮の取決とりきめに過ぎないのか? 子路がこの問題で孔子の所へ聞きに行くと、いつも決って、人間の幸福というものの真の在り方について説き聞かせられるだけだ。善をなすことのむくいは、では結局、善をなしたという満足の外には無いのか? 師の前では一応納得したような気になるのだが、さて退いて独りになって考えてみると、やはりどうしても釈然としない所が残る。そんな無理に解釈してみたあげくの幸福なんかでは承知出来ない。誰が見ても文句の無い・はっきりした形の善報が義人の上に来るのでなくては、どうしても面白くないのである。

 天についてのこの不満を、彼は何よりも師の運命について感じる。ほとんど人間とは思えないこの大才、大徳が、なぜこうした不遇ふぐうに甘んじなければならぬのか。家庭的にもめぐまれず、年老いてから放浪の旅に出なければならぬような不運が、どうしてこの人を待たねばならぬのか。一夜、「鳳鳥ほうちょう至らず。河、を出さず。んぬるかな。」と独言に孔子がつぶやくのを聞いた時、子路は思わずなみだあふれて来るのを禁じ得なかった。孔子が嘆じたのは天下蒼生そうせいのためだったが、子路の泣いたのは天下のためではなく孔子一人のためである。

 この人と、この人をつ時世とを見て泣いた時から、子路の心は決っている。濁世だくせのあるゆる侵害しんがいからこの人を守るたてとなること。精神的には導かれ守られる代りに、世俗的な煩労はんろう汚辱おじょくを一切おのが身に引受けること。僭越せんえつながらこれが自分のつとめだと思う。学も才も自分は後学の諸才人におとるかも知れぬ。しかし、いったん事ある場合真先に夫子のために生命をなげうって顧みぬのは誰よりも自分だと、彼は自ら深く信じていた。


     八


「ここに美玉あり。ひつおさめてかくさんか。善賈ぜんかを求めてらんか。」と子貢が言った時、孔子は即座そくざに、「これを沽らんかな。これを沽らん哉。我はあたいを待つものなり。」と答えた。

 そういうつもりで孔子は天下周遊の旅に出たのである。随った弟子達も大部分はもちろん沽りたいのだが、子路は必ずしも沽ろうとは思わない。権力の地位に在って所信を断行する快さは既に先頃の経験で知ってはいるが、それには孔子を上にいただくといった風な特別な条件が絶対に必要である。それが出来ないなら、むしろ、「かつ粗衣そい)をて玉をいだく」という生き方が好ましい。生涯しょうがい孔子の番犬に終ろうとも、いささかのくいも無い。世俗的な虚栄心きょえいしんが無い訳ではないが、なまじいの仕官はかえっておのれの本領たる磊落らいらく闊達を害するものだと思っている。


 様々な連中が孔子に従って歩いた。てきぱきした実務家の冉有ぜんゆう。温厚の長者閔子騫びんしけん穿鑿せんさく好きな故実家の子夏しか。いささか詭弁派的きべんはてき享受家きょうじゅか宰予さいよ気骨きこつ稜々りょうりょうたる慷慨家こうがいか公良孺こうりょうじゅ身長みのたけ九尺六寸といわれる長人孔子の半分位しかない短矮たんわい愚直者ぐちょくしゃ子羔しこう。年齢から云っても貫禄かんろくから云っても、もちろん子路が彼等の宰領格さいりょうかくである。

 子路より二十二歳も年下ではあったが、子貢という青年は誠に際立った才人である。孔子がいつも口を極めてめる顔回がんかいよりも、むしろ子貢の方を子路は推したい気持であった。孔子からその強靱きょうじんな生活力と、またその政治性とを抜き去ったような顔回という若者を、子路は余り好まない。それは決して嫉妬しっとではない。(子貢しこう子張輩しちょうはいは、顔淵がんえんに対する・師の桁外けたはずれの打込み方に、どうしてもこの感情を禁じ得ないらしいが。)子路は年齢が違い過ぎてもいるし、それに元来そんな事にこだわらぬたちでもあったから。ただ、彼には顔淵の受動的な柔軟じゅうなんな才能の良さが全然み込めないのである。第一、どこかヴァイタルな力の欠けている所が気に入らない。そこへ行くと、多少軽薄けいはくではあっても常に才気と活力とに充ちている子貢の方が、子路の性質には合うのであろう。この若者の頭の鋭さに驚かされるのは子路ばかりではない。頭に比べてまだ人間の出来ていないことは誰にも気付かれる所だが、しかし、それは年齢というものだ。余りの軽薄さに腹を立てて一喝いっかつを喰わせることもあるが、大体において、後世おそるべしという感じを子路はこの青年に対して抱いている。

 ある時、子貢が二三の朋輩ほうばいに向って次のような意味のことを述べた。──夫子は巧弁をむといわれるが、しかし夫子自身弁が巧過うますぎると思う。これは警戒けいかいを要する。宰予などの巧さとは、まるで違う。宰予の弁のごときは、巧さが目に立ち過ぎる故、聴者に楽しみは与え得ても、信頼しんらいは与え得ない。それだけにかえって安全といえる。夫子のは全く違う。流暢りゅうちょうさの代りに、絶対に人に疑をいだかせぬ重厚さを備え、諧謔かいぎゃくの代りに、含蓄がんちくに富む譬喩ひゆつその弁は、何人なんぴとといえども逆らうことの出来ぬものだ。もちろん、夫子の云われる所は九りんまで常にあやまり無き真理だと思う。また夫子の行われる所は九分九厘まで我々の誰もが取ってもってはんとすべきものだ。にもかかわらず、残りの一厘──絶対に人に信頼を起させる夫子の弁舌の中の・わずか百分の一が、時に、夫子の性格の(その性格の中の・絶対普遍的ふへんてきな真理と必ずしも一致いっちしない極少部分の)弁明に用いられるおそれがある。警戒を要するのはここだ。これはあるいは、余り夫子に親しみ過ぎれ過ぎたためのよくの云わせることかも知れぬ。実際、後世の者が夫子をもって聖人とあがめた所で、それは当然過ぎる位当然なことだ。夫子ほど完全に近い人を自分は見たことがないし、また将来もこういう人はそう現れるものではなかろうから。ただ自分の言いたいのは、その夫子にしてなおかつかかる微小ではあるが・警戒すべき点を残すものだという事だ。顔回のような夫子と似通った肌合はだあいの男にとっては、自分の感じるような不満は少しも感じられないに違いない。夫子がしばしば顔回をめられるのも、結局はこの肌合のせいではないのか。…………

 青二才あおにさいの分際で師の批評などおこがましいと腹が立ち、また、これを言わせているのは畢竟ひっきょう顔淵への嫉妬だとは知りながら、それでも子路はこの言葉の中に莫迦ばかにしきれないものを感じた。肌合の相違ということについては、確かに子路も思い当ることがあったからである。

 おれ達には漠然ばくぜんとしか気付かれないものをハッキリ形に表す・みょうな才能が、この生意気な若僧わかぞうにはあるらしいと、子路は感心と軽蔑とを同時に感じる。


 子貢が孔子に奇妙な質問をしたことがある。「死者は知ることありや? た知ることなきや?」死後の知覚の有無、あるいは霊魂れいこんの滅不滅についての疑問である。孔子がまた妙な返辞をした。「死者知るありと言わんとすれば、まさに孝子順孫、生をさまたげてもって死を送らんとすることを恐る。死者知るなしと言わんとすれば、まさに不孝の子その親をててほうむらざらんとすることを恐る。」およそ見当違いの返辞なので子貢ははなはだ不服だった。もちろん、子貢の質問の意味は良くわかっているが、あくまで現実主義者、日常生活中心主義者たる孔子は、この優れた弟子の関心の方向をえようとしたのである。

 子貢は不満だったので、子路にこの話をした。子路は別にそんな問題に興味は無かったが、死そのものよりも師の死生観を知りたい気がちょっとしたので、ある時死についてたずねてみた。

「いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。」これが孔子の答であった。

 全くだ! と子路はすっかり感心した。しかし、子貢はまたしてもあざやかに肩透かたすかしを喰ったような気がした。それはそうです。しかし私の言っているのはそんな事ではない。明らかにそう言っている子貢の表情である。


     九


 えいの霊公は極めて意志の弱い君主である。賢と不才とを識別し得ないほど愚かではないのだが、結局は苦い諫言かんげんよりも甘い諂諛てんゆよろこばされてしまう。衛の国政を左右するものはその後宮であった。

 夫人南子なんしはつとに淫奔いんぽんの噂が高い。まだそうの公女だった頃異母兄のちょうという有名な美男と通じていたが、衛侯の夫人となってからもなお宋朝を衛に呼び大夫に任じてこれとしゅう関係を続けている。すこぶる才走った女で、政治むきの事にまで容喙ようかいするが、霊公はこの夫人の言葉ならうなずかぬことはない。霊公にかれようとする者はまず南子に取入るのが例であった。

 孔子が魯から衛に入った時、召を受けて霊公にはえっしたが、夫人の所へは別に挨拶あいさつに出なかった。南子がかんむりを曲げた。早速さっそく人をつかわして孔子に言わしめる。四方の君子、寡君かくんと兄弟たらんと欲する者は、必ず寡小君かしょうくん(夫人)を見る。寡小君見んことを願えり云々。

 孔子もやむをえず挨拶に出た。南子は絺帷ちいうす葛布くずぬのの垂れぎぬ)の後に在って孔子を引見する。孔子の北面稽首ほくめんけいしゅの礼に対し、南子が再拝してこたえると、夫人の身に着けた環佩かんぱい璆然きゅうぜんとして鳴ったとある。

 孔子が公宮から帰って来ると、子路が露骨ろこつに不愉快な顔をしていた。彼は、孔子が南子風情ふぜいの要求などは黙殺もくさつすることを望んでいたのである。まさか孔子が妖婦ようふにたぶらかされるとは思いはしない。しかし、絶対清浄せいじょうであるはずの夫子が汚らわしい淫女に頭を下げたというだけで既に面白くない。美玉を愛蔵する者がそのたま表面おもてに不浄なるもののかげの映るのさえ避けたいたぐいなのであろう。孔子はまた、子路の中で相当敏腕びんわんな実際家ととなり合って住んでいる大きな子供が、いつまでたっても一向老成しそうもないのを見て、可笑おかしくもあり、困りもするのである。


 一日、霊公の所から孔子へ使が来た。車で一緒いっしょに都を一巡いちじゅんしながら色々話をうけたまわろうと云う。孔子は欣んで服を改め直ちに出掛けた。

 このたけの高いぶっきらぼうじいさんを、霊公が無闇むやみに賢者として尊敬するのが、南子には面白くない。自分を出し抜いて、二人同車して都をめぐるなどとはもっての外である。

 孔子が公に謁し、さて表に出て共に車に乗ろうとすると、そこには既に盛装せいそうらした南子夫人が乗込んでいた。孔子の席が無い。南子は意地の悪い微笑をふくんで霊公を見る。孔子もさすがに不愉快になり、冷やかに公の様子をうかがう。霊公は面目無げに目をせ、しかし南子には何事も言えない。だまって孔子のために次の車をゆびさす。

 二乗の車が衛の都を行く。前なる四輪の豪奢ごうしゃな馬車には、霊公とならんで嬋妍せんけんたる南子夫人の姿が牡丹ぼたんの花のようにかがやく。うしろの見すぼらしい二輪の牛車には、さびしげな孔子の顔が端然たんぜんと正面を向いている。沿道の民衆の間にはさすがにひそやかな嘆声たんせい顰蹙ひんしゅくとが起る。

 群集の間に交って子路もこの様子を見た。公からの使を受けた時の夫子の欣びを目にしているだけに、はらわたえ返る思いがするのだ。何事か嬌声きょうせいろうしながら南子が目の前を進んで行く。思わずかっとなって、彼は拳を固め人々を押分けて飛出そうとする。背後うしろから引留める者がある。振切ふりきろうと眼をいからせて後を向く。子若しじゃく子正しせいの二人である。必死に子路のそでひかえている二人の眼に、涙の宿っているのを子路は見た。子路は、ようやく振上げた拳を下す。


 翌日、孔子等の一行は衛を去った。「我いまだ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ざるなり。」というのが、その時の孔子の嘆声である。


     十


 葉公しょうこう子高しこうりゅうを好むこと甚だしい。居室にも竜を繍帳しゅうちょうにも竜を画き、日常竜の中に起臥きがしていた。これを聞いたほんものの天竜が大きに欣んで一日葉公の家にくだおのれの愛好者をのぞき見た。頭はまどうかがは堂にくという素晴らしい大きさである。葉公はこれを見るやおそれわなないてげ走った。その魂魄こんぱくを失い五色主無ごしきしゅなし、という意気地無さであった。

 諸侯は孔子の賢の名を好んで、その実を欣ばぬ。いずれも葉公の竜における類である。実際の孔子は余りに彼等には大き過ぎるもののように見えた。孔子を国賓こくひんとしてぐうしようという国はある。孔子の弟子の幾人いくにんかを用いた国もある。が、孔子の政策を実行しようとする国はどこにも無い。きょうでは暴民の凌辱りょうじょくを受けようとし、宋では姦臣かんしん迫害はくがいい、ではまた兇漢きょうかん襲撃しゅうげきを受ける。諸侯の敬遠と御用ごよう学者の嫉視と政治家連の排斥はいせきとが、孔子を待ち受けていたもののすべてである。

 それでもなお、講誦を止めず切磋せっさおこたらず、孔子と弟子達とはまずに国々への旅を続けた。「鳥よく木をえらぶ。木に鳥を択ばんや。」などと至って気位は高いが、決して世をねたのではなく、あくまで用いられんことを求めている。そして、己等おのれらの用いられようとするのは己がために非ずして天下のため、道のためなのだと本気で──全くあきれたことに本気でそう考えている。乏しくとも常に明るく、苦しくとも望を捨てない。誠に不思議な一行であった。

 一行が招かれての昭王のもとへ行こうとした時、ちんさいの大夫共が相計り秘かに暴徒を集めて孔子等を途に囲ましめた。孔子の楚に用いられることをおそれこれを妨げようとしたのである。暴徒に襲われるのはこれが始めてではなかったが、この時は最も困窮におちいった。糧道りょうどうが絶たれ、一同火食せざること七日におよんだ。さすがに、え、つかれ、病者も続出する。弟子達の困憊こんぱい恐惶きょうこうとの間に在って孔子は独り気力少しもおとろえず、平生通り絃歌してまない。従者等の疲憊ひはいを見るに見かねた子路が、いささか色をして、絃歌する孔子のそばに行った。そうして訊ねた。夫子の歌うは礼かと。孔子は答えない。絃を操る手も休めない。さて曲が終ってからようやく言った。

ゆうよ。われ汝に告げん。君子がくを好むはおごるなきがためなり。小人楽を好むはおそるるなきがためなり。それだれの子ぞや。我を知らずして我に従う者は。」

 子路は一瞬いっしゅん耳を疑った。この窮境に在ってなお驕るなきがために楽をなすとや? しかし、すぐにその心に思いいたると、途端とたんに彼は嬉しくなり、覚えずほこを執ってうた。孔子がこれに和して弾じ、曲、三度みたびめぐった。傍にある者またしばらくはうえを忘れ疲を忘れて、この武骨な即興そっきょうまいに興じ入るのであった。


 同じ陳蔡のやくの時、いまだ容易に囲みの解けそうもないのを見て、子路が言った。君子も窮することあるか? と。師の平生の説によれば、君子は窮することが無いはずだと思ったからである。孔子が即座に答えた。「窮するとは道に窮するのいいに非ずや。今、きゅう、仁義の道を抱き乱世の患に遭う。何ぞ窮すとなさんや。もしそれ、食足らず体つかるるをもって窮すとなさば、君子ももとより窮す。ただ、小人は窮すればここにみだる。」と。そこが違うだけだというのである。子路は思わず顔をあからめた。己の内なる小人を指摘された心地である。窮するも命なることを知り、大難に臨んでいささかの興奮の色も無い孔子のすがたを見ては、大勇なるかなと嘆ぜざるを得ない。かつての自分のほこりであった・白刃はくじんまえまじわるも目まじろがざるていの勇が、何とみじめにちっぽけなことかと思うのである。


     十一


 きょからしょうへと出る途すがら、子路が独り孔子の一行におくれて畑中のみちを歩いて行くと、あじかになうた一人の老人に会った。子路が気軽に会釈えしゃくして、夫子を見ざりしや、と問う。老人は立止って、「夫子夫子と言ったとて、どれが一体汝のいう夫子やらおれわかる訳がないではないか」と突堅貪つっけんどんに答え、子路の人態にんていをじろりと眺めてから、「見受けたところ、四体を労せず実事に従わず空理空論に日をらしている人らしいな。」とさげすむように笑う。それから傍の畑に入りこちらを見返りもせずにせっせと草を取り始めた。隠者いんじゃの一人に違いないと子路は思って一揖いちゆうし、道に立って次の言葉を待った。老人は黙って一仕事してから道に出て来、子路を伴って己が家に導いた。既に日が暮れかかっていたのである。老人は雞をつぶしきびかしいで、もてなし、二人の子にも子路を引合せた。食後、いささかの濁酒にごりざけよいまわった老人は傍なる琴を執って弾じた。二人の子がそれに和してうたう。


湛々タンタンタルツユアリ

ニ非ザレバ

厭々エンエントシテ夜飲ス

酔ハズンバ帰ルコトナシ


 明らかに貧しい生活くらしなのにもかかわらず、まことに融々ゆうゆうたるゆたかさが家中にあふれている。なごやかに充ち足りた親子三人の顔付の中に、時としてどこか知的なものがひらめくのも、見逃みのがし難い。

 弾じ終ってから老人が子路に向って語る。陸を行くには車、水を行くにはふねと昔から決ったもの。今陸を行くに舟をもってすれば、いかん? 今の世に周の古法をほどこそうとするのは、ちょうど陸に舟をるがごときものとうべし。猨狙さるに周公の服を着せれば、驚いて引裂ひきさき棄てるに決っている。云々…………子路を孔門の徒と知っての言葉であることは明らかだ。老人はまた言う。「楽しみ全くして始めて志を得たといえる。志を得るとは軒冕けんべんの謂ではない。」と。澹然無極たんぜんむきょくとでもいうのがこの老人の理想なのであろう。子路にとってこうした遁世哲学とんせいてつがくは始めてではない。長沮ちょうそ桀溺けつできの二人にもった。楚の接与せつよという佯狂ようきょうの男にも遇ったことがある。しかしこうして彼等の生活の中に入り一夜を共に過したことは、まだ無かった。穏やかな老人の言葉とたるその容に接している中に、子路は、これもまた一つの美しき生き方には違いないと、幾分の羨望せんぼうをさえ感じないではなかった。

 しかし、彼も黙って相手の言葉にうなずいてばかりいた訳ではない。「世とつのはもとより楽しかろうが、人の人たるゆえんは楽しみをまっとうする所にあるのではない。区々たる一身を潔うせんとして大倫をみだるのは、人間の道ではない。我々とて、今の世に道の行われない事ぐらいは、とっくに承知している。今の世に道を説くことの危険さも知っている。しかし、道無き世なればこそ、危険をおかしてもなお道を説く必要があるのではないか。」

 翌朝、子路は老人の家を辞して道を急いだ。みちみち孔子と昨夜の老人とをならべて考えてみた。孔子の明察があの老人におとる訳はない。孔子のよくがあの老人よりも多い訳はない。それでいてなおかつ己を全うする途を棄て道のために天下を周遊していることを思うと、急に、昨夜は一向に感じなかった憎悪ぞうおを、あの老人に対して覚え始めた。ひる近く、ようやく、はるか前方の真青まっさお麦畠むぎばたけの中の道に一団の人影が見えた。その中で特に際立って丈の高い孔子の姿を認め得た時、子路は突然とつぜん、何か胸をめ付けられるような苦しさを感じた。


     十二


 宋から陳に出る渡船の上で、子貢と宰予とが議論をしている。「十室のゆう、必ず忠信きゅうがごとき者あり。丘の学を好むにかざるなり。」という師の言葉を中心に、子貢は、この言葉にもかかわらず孔子の偉大いだいな完成はその先天的な素質の非凡ひぼんさにるものだといい、宰予は、いや、後天的な自己完成への努力の方があずかって大きいのだと言う。宰予によれば、孔子の能力と弟子達の能力との差異は量的なものであって、決して質的なそれではない。孔子のっているものは万人のもっているものだ。ただその一つ一つを孔子は絶えざる刻苦によって今の大きさにまで仕上げただけのことだと。子貢は、しかし、量的な差も絶大になると結局質的な差と変る所は無いという。それに、自己完成への努力をあれほどまでに続け得ることそれ自体が、既に先天的な非凡さの何よりの証拠しょうこではないかと。だが、何にも増して孔子の天才の核心かくしんたるものは何かといえば、「それは」と子貢が言う。「あの優れた中庸ちゅうようへの本能だ。いついかなる場合にも夫子の進退を美しいものにする・見事な中庸への本能だ。」と。

 何を言ってるんだと、傍で子路が苦い顔をする。口先ばかりで腹の無い奴等め! 今この舟がひっくり返りでもしたら、奴等はどんなに真蒼まっさおな顔をするだろう。何といってもいったん有事の際に、実際に夫子の役に立ち得るのはおれなのだ。才弁縦横の若い二人を前にして、巧言は徳を紊るという言葉を考え、ほこらかに我が胸中一片の氷心ひょうしんたのむのである。


 子路にも、しかし、師への不満が必ずしも無い訳ではない。

 陳の霊公が臣下の妻と通じその女の肌着を身に着けてちょうに立ち、それを見せびらかした時、泄冶せつやという臣がいさめて、殺された。百年ばかり以前のこの事件について一人の弟子が孔子にたずねたことがある。泄冶の正諫せいかんして殺されたのは古の名臣比干ひかんの諫死と変る所が無い。仁と称して良いであろうかと。孔子が答えた。いや、比干と紂王ちゅうおうとの場合は血縁でもあり、また官から云っても少師であり、従って己の身を捨てて争諫し、殺された後に紂王の悔寤かいごするのを期待した訳だ。これは仁と謂うべきであろう。泄冶の霊公におけるは骨肉の親あるにも非ず、位も一大夫に過ぎぬ。君正しからず一国正しからずと知らば、潔く身を退くべきに、身の程をも計らず、区々たる一身をもって一国の淫婚いんこんを正そうとした。自ら無駄に生命をてたものだ。仁どころのさわぎではないと。

 その弟子はそう言われて納得して引き下ったが、傍にいた子路にはどうしてもうなずけない。早速、彼は口を出す。仁・不仁はしばらくく。しかしとにかく一身のあやうきを忘れて一国の紊乱びんらんを正そうとした事の中には、智不智を超えた立派なものが在るのではなかろうか。空しく命を捐つなどと言い切れないものが。たとえ結果はどうあろうとも。

ゆうよ。汝には、そういう小義の中にある見事さばかりが眼に付いて、それ以上はわからぬと見える。古の士は国に道あれば忠を尽くしてもってこれをたすけ、国に道無ければ身を退いてもってこれを避けた。こうした出処進退の見事さはいまだ判らぬと見える。詩にう。民よこしま多き時は自らのりを立つることなかれと。けだし、泄冶の場合にあてはまるようだな。」

「では」と大分長い間考えたあとで子路が言う。結局この世で最も大切なことは、一身の安全を計ることに在るのか? 身を捨てて義を成すことの中にはないのであろうか? 一人の人間の出処進退の適不適の方が、天下蒼生そうせいの安危ということよりも大切なのであろうか? というのは、今の泄冶がもし眼前の乱倫に顰蹙ひんしゅくして身を退いたとすれば、なるほど彼の一身はそれで良いかも知れぬが、陳国の民にとって一体それが何になろう? まだしも、無駄とは知りつつも諫死した方が、国民の気風に与える影響から言っても遥かに意味があるのではないか。

「それは何も一身の保全ばかりが大切とは言わない。それならば比干を仁人と褒めはしないはずだ。ただ、生命は道のために捨てるとしても捨て時・捨て処がある。それを察するに智をもってするのは、別にわたくしの利のためではない。急いで死ぬるばかりが能ではないのだ。」

 そう言われれば一応はそんな気がして来るが、やはり釈然としない所がある。身を殺して仁を成すべきことを言いながら、その一方、どこかしら明哲めいてつ保身を最上智と考える傾向が、時々師の言説の中に感じられる。それがどうも気になるのだ。他の弟子達がこれを一向に感じないのは、明哲保身主義が彼等に本能として、くっついているからだ。それをすべての根柢こんていとした上での・仁であり義でなければ、彼等には危くて仕方が無いに違いない。

 子路が納得し難げな顔色で立去った時、その後姿を見送りながら、孔子が愀然しゅうぜんとして言った。くにに道有る時も直きこと矢のごとし。道無き時もまた矢のごとし。あの男も衛の史魚しぎょの類だな。恐らく、尋常じんじょうな死に方はしないであろうと。


 楚がった時、工尹商陽こういんしょうようという者が呉の師を追うたが、同乗の王子棄疾きしつに「王事なり。子、弓を手にして可なり。」といわれて始めて弓を執り、「子、これを射よ。」と勧められてようやく一人を射斃しゃへいした。しかしすぐにまた弓をかわぶくろに収めてしまった。再びうながされてまた弓を取出し、あと二人をたおしたが、一人を射るごとに目をおおうた。さて三人を斃すと、「自分の今の身分ではこの位で充分反命するに足るだろう。」とて、車を返した。

 この話を孔子が伝え聞き、「人を殺すの中、また礼あり。」と感心した。子路に言わせれば、しかし、こんなとんでもない話はない。殊に、「自分としては三人斃した位で充分だ。」などという言葉の中に、彼の大嫌いな・一身の行動を国家の休戚より上に置く考え方が余りにハッキリしているので、腹が立つのである。彼は怫然ふつぜんとして孔子に喰って掛かる。「人臣の節、君の大事に当りては、ただ力の及ぶ所を尽くし、死してしこうして後にむ。夫子何ぞ彼を善しとする?」孔子もさすがにこれには一言も無い。笑いながら答える。「しかり。汝の言のごとし。われ、ただその、人を殺すにしのびざるの心あるを取るのみ。」


     十三


 衛に出入すること四度、陳に留まること三年、そう・宋・蔡・葉・楚と、子路は孔子に従って歩いた。

 孔子の道を実行に移してくれる諸侯が出て来ようとは、今更望めなかったが、しかし、もはや不思議に子路はいらだたない。世の溷濁こんだくと諸侯の無能と孔子の不遇とに対する憤懣ふんまん焦躁しょうそうを幾年か繰返くりかえした後、ようやくこの頃になって、漠然とながら、孔子及びそれに従う自分等の運命の意味が判りかけて来たようである。それは、消極的に命なりと諦める気持とは大分遠い。同じく命なりと云うにしても、「一小国に限定されない・一時代に限られない・天下万代の木鐸ぼくたく」としての使命に目覚めかけて来た・かなり積極的な命なりである。きょうの地で暴民に囲まれた時昂然こうぜんとして孔子の言った「天のいまだ斯文しぶんほろぼさざるや匡人きょうひとそれわれをいかんせんや」が、今は子路にも実に良くわかって来た。いかなる場合にも絶望せず、決して現実を軽蔑せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の智慧ちえの大きさも判るし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措きょその意味も今にして始めて頷けるのである。あり余る俗才に妨げられてか、明敏子貢には、孔子のこの超時代的な使命についての自覚が少い。朴直ぼくちょく子路の方が、その単純極まる師への愛情の故であろうか、かえって孔子というものの大きな意味をつかみ得たようである。

 放浪の年を重ねている中に、子路ももはや五十歳であった。圭角けいかくがとれたとは称し難いながら、さすがに人間の重みも加わった。後世のいわゆる「万鍾ばんしょう我において何をか加えん」の気骨も、炯々たるその眼光も、痩浪人やせろうにんいたずらなる誇負こふから離れて、既に堂々たる一家の風格を備えて来た。


     十四


 孔子が四度目に衛を訪れた時、若い衛侯や正卿孔叔圉こうしゅくぎょ等からわれるままに、子路を推してこの国に仕えさせた。孔子が十余年ぶりで故国にむかえられた時も、子路は別れて衛に留まったのである。

 十年来、衛は南子夫人の乱行を中心に、絶えず紛争ふんそうを重ねていた。まず公叔戍こうしゅくじゅという者が南子排斥をくわだてかえってそのざんに遭って魯に亡命する。続いて霊公の子・太子蒯聵かいがいも義母南子をそうとして失敗し晋にはしる。太子欠位の中に霊公がしゅっする。やむをえず亡命太子の子の幼いちょうを立てて後をがせる。出公しゅつこうがこれである。出奔しゅっぽんした前太子蒯聵は晋の力を借りて衛の西部に潜入せんにゅう虎視眈々こしたんたんと衛侯の位を窺う。これをこばもうとする現衛侯出公は子。位をうばおうとねらう者は父。子路が仕えることになった衛の国はこのような状態であった。

 子路の仕事は孔家こうけのために宰としての地を治めることである。衛の孔家は、魯ならば季孫氏に当る名家で、当主孔叔圉はつとに名大夫のほまれが高い。蒲は、先頃南子の讒に遭って亡命した公叔戍の旧領地で、従って、主人をうた現在の政府に対してことごとに反抗的な態度を執っている。元々人気じんきあらい土地で、かつて子路自身も孔子に従ってこの地で暴民に襲われたことがある。

 任地に立つ前、子路は孔子の所に行き、「邑に壮士多くして治め難し」といわれる蒲の事情を述べて教をうた。孔子が言う。「きょうにして敬あらばもって勇をおそれしむべく、かんにして正しからばもって強を懐くべく、温にして断ならばもって姦をおさうべし」と。子路再拝して謝し、欣然きんぜんとして任におもむいた。

 蒲に着くと子路はまず土地の有力者、反抗分子等を呼び、これと腹蔵なく語り合った。手なずけようとの手段ではない。孔子の常に言う「教えずしてけいすることの不可」を知るが故に、まず彼等に己の意の在る所を明かしたのである。気取の無い率直さが荒っぽい土地の人気に投じたらしい。壮士連はことごとく子路の明快闊達に推服した。それにこの頃になると、既に子路の名は孔門随一ずいいちの快男児として天下にひびいていた。「片言もってごくさだむべきものは、それゆうか」などという孔子の推奨すいしょうの辞までが、大袈裟おおげさ尾鰭おひれをつけてあまねく知れわたっていたのである。蒲の壮士連を推服せしめたものは、一つには確かにこうした評判でもあった。


 三年後、孔子がたまたま蒲を通った。まず領内に入った時、「善い哉、由や、恭敬にして信なり」と言った。進んで邑に入った時、「善い哉、由や、忠信にして寛なり」と言った。いよいよ子路の邸に入るに及んで、「善い哉、由や、明察にして断なり」と言った。くつわを執っていた子貢が、いまだ子路を見ずしてこれを褒める理由を聞くと、孔子が答えた。すでにその領域に入れば田疇でんちゅうことごとく治まり草莱そうらい甚だひら溝洫こうきょくは深く整っている。治者恭敬にして信なるが故に、民その力を尽くしたからである。その邑に入れば民家の牆屋しょうおくは完備し樹木は繁茂はんもしている。治者忠信にして寛なるが故に、民その営をゆるがせにしないからである。さていよいよその庭に至れば甚だ清閑せいかんで従者僕僮ぼくどう一人としてめいたがう者が無い。治者の言、明察にして断なるが故に、その政がみだれないからである。いまだ由を見ずしてことごとくその政を知った訳ではないかと。


     十五


 魯の哀公あいこうが西のかた大野たいやかりして麒麟きりんた頃、子路は一時衛から魯に帰っていた。その時小邾しょうちゅの大夫・えきという者が国にそむき魯に来奔した。子路と一面識のあったこの男は、「季路をして我に要せしめば、吾ちかうことなけん。」と言った。当時のならいとして、他国に亡命した者は、その生命の保証をその国に盟ってもらってから始めて安んじて居つくことが出来るのだが、この小邾の大夫は「子路さえその保証に立ってくれれば魯国のちかいなどらぬ」というのである。だくを宿するなし、という子路の信と直とは、それほど世に知られていたのだ。ところが、子路はこの頼をにべも無くことわった。ある人が言う。千乗の国の盟をも信ぜずして、ただ一人の言を信じようという。男児の本懐ほんかいこれに過ぎたるはあるまいに、なにゆえこれを恥とするのかと。子路が答えた。魯国が小邾と事ある場合、その城下に死ねとあらば、事のいかんを問わず欣んで応じよう。しかし射という男は国を売った不臣だ。もしその保証に立つとなれば、自ら売国奴ばいこくどを是認することになる。おれに出来ることか、出来ないことか、考えるまでもないではないか!

 子路を良く知るほどの者は、この話を伝え聞いた時、思わず微笑した。余りにも彼のしそうな事、言いそうな事だったからである。


 同じ年、斉の陳恒ちんこうがその君をしいした。孔子は斎戒さいかいすること三日の後、哀公の前に出て、義のために斉をたんことを請うた。請うこと三度。斉の強さを恐れた哀公は聴こうとしない。季孫きそんに告げて事を計れと言う。季康子きこうしがこれに賛成する訳が無いのだ。孔子は君の前を退いて、さて人に告げて言った。「吾、大夫のしりえに従うをもってなり。故にあえて言わずんばあらず。」無駄とは知りつつも一応は言わねばならぬおのれの地位だというのである。(当時孔子は国老の待遇たいぐうを受けていた。)

 子路はちょっと顔をくもらせた。夫子のした事は、ただ形をまっとうするために過ぎなかったのか。形さえめば、それが実行に移されないでも平気で済ませる程度の義憤なのか?

 教を受けること四十年に近くして、なお、このみぞはどうしようもないのである。


     十六


 子路が魯に来ている間に、衛では政界の大黒柱孔叔圉こうしゅくぎょが死んだ。その未亡人で、亡命太子蒯聵かいがいの姉に当る伯姫はくきという女策士が政治の表面に出て来る。一子かいが父ぎょあといだことにはなっているが、名目だけに過ぎぬ。伯姫から云えば、現衛侯ちょうおい、位を窺う前太子は弟で、親しさに変りはないはずだが、愛憎あいぞうと利慾との複雑な経緯けいいがあって、妙に弟のためばかりを計ろうとする。夫の死後しきりに寵愛ちょうあいしている小姓こしょう上りの渾良夫こんりょうふなる美青年を使として、弟蒯聵との間を往復させ、秘かに現衛侯逐出おいだしを企んでいる。


 子路が再び衛にもどってみると、衛侯父子の争は更に激化げきかし、政変の機運のただよっているのがどことなく感じられた。


 周の昭王の四十年うるう十二月某日ぼうじつ。夕方近くになって子路の家にあわただしく跳び込んで来た使があった。孔家の老・欒寧らんねいの所からである。「本日、前太子蒯聵都に潜入。ただ今孔氏の宅に入り、伯姫・渾良夫と共に当主孔悝こうかいおどして己を衛侯に戴かしめた。大勢は既に動かし難い。自分(欒寧)は今から現衛侯をほうじて魯に奔るところだ。あとはよろしく頼む。」という口上である。

 いよいよ来たな、と子路は思った。とにかく、自分の直接の主人に当る孔悝がとらえられ脅されたと聞いては、黙っている訳に行かない。おっ取り刀で、彼は公宮へ駈け付ける。

 外門を入ろうとすると、ちょうど中から出て来るちんちくりんな男にぶっつかった。子羔しこうだ。孔門の後輩で、子路の推薦すいせんによってこの国の大夫となった・正直な・気の小さい男である。子羔が言う。内門はもうしまってしまいましたよ。子路。いや、とにかく行くだけは行ってみよう。子羔。しかし、もう無駄ですよ。かえって難に遭うこともないとは限らぬし。子路が声をらげて言う。孔家のろくむ身ではないか。何のために難を避ける?

 子羔を振切って内門の所まで来ると、果して中から閉っている。ドンドンとはげしくたたく。はいってはいけない! と、中から叫ぶ。その声を聞きとがめて子路が怒鳴どなった。公孫敢こうそんかんだな、その声は。難をのがれんがために節を変ずるような、俺は、そんな人間じゃない。その禄を利した以上、そのかんを救わねばならぬのだ。けろ! 開けろ!

 ちょうど中から使の者が出て来たので、それと入違いに子路は跳び込んだ。

 見ると、広庭一面の群集だ。孔悝の名において新衛侯擁立ようりつの宣言があるからとて急に呼び集められた群臣である。皆それぞれに驚愕きょうがく困惑こんわくとの表情をかべ、向背こうはいに迷うもののごとく見える。庭に面した露台ろだいの上には、若い孔悝が母の伯姫と叔父おじの蒯聵とに抑えられ、一同に向って政変の宣言とその説明とをするよう、いられているかたちだ。

 子路は群衆の背後うしろから露台に向って大声に叫んだ。孔悝を捕えて何になるか! 孔悝を離せ。孔悝一人を殺したとて正義派はほろびはせぬぞ!

 子路としてはまず己の主人を救い出したかったのだ。さて、広庭のざわめきが一瞬静まって一同が己の方を振向いたと知ると、今度は群集に向って煽動せんどうを始めた。太子は音に聞えた臆病者おくびょうものだぞ。下から火を放って台を焼けば、恐れて孔叔(悝)をゆるすに決っている。火をけようではないか。火を!

 既に薄暮はくぼのこととて庭の隅々すみずみ篝火かがりびが燃されている。それを指さしながら子路が、「火を! 火を!」と叫ぶ。「先代孔叔文子(圉)の恩義に感ずる者共は火を取って台を焼け。そうして孔叔を救え!」

 台の上の簒奪者さんだつしゃは大いに懼れ、石乞せききつ盂黶うえんの二剣士に命じて、子路を討たしめた。

 子路は二人を相手にはげしく斬り結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。次第に疲労ひろうが加わり、呼吸が乱れる。子路の旗色の悪いのを見た群集は、この時ようやく旗幟きしを明らかにした。罵声ばせいが子路に向って飛び、無数の石や棒が子路の身体からだに当った。敵のほこ尖端さきほおかすめた。えい(冠のひも)がれて、冠が落ちかかる。左手でそれを支えようとした途端に、もう一人の敵の剣が肩先に喰い込む。血がほとばしり、子路はたおれ、冠が落ちる。倒れながら、子路は手をばして冠を拾い、正しく頭に着けて素速く纓を結んだ。敵のやいばの下で、真赤まっかに血を浴びた子路が、最期さいごの力をしぼって絶叫ぜっきょうする。

「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」


 全身なますのごとくに切り刻まれて、子路は死んだ。


 魯に在って遥かに衛の政変を聞いた孔子は即座に、「さい(子羔)や、それ帰らん。ゆうや死なん。」と言った。果してその言のごとくなったことを知った時、老聖人は佇立瞑目ちょりつめいもくすることしばし、やがて潸然さんぜんとして涙下った。子路のしかばねししびしおにされたと聞くや、家中の塩漬類しおづけるいをことごとく捨てさせ、爾後じご、醢は一切食膳しょくぜんに上さなかったということである。

(昭和十八年二月)

底本:「ちくま日本文学全集 中島敦」筑摩書房

   1992(平成4)年720日第1刷発行

底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房

   1987(昭和62)年9

入力:大内章

校正:川向直樹

2004年925日作成

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