旅日記から(明治四十二年)
寺田寅彦
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一 シャンハイ
四月一日
朝のうちには緑色をしていた海がだんだんに黄みを帯びて来ておしまいにはまっ黄色くなってしまった。船の歩みはのろくなった。艫のほうでは引っ切りなしに測深機を投げて船あしをさぐっている。とうとう船が止まった。推進機でかきまぜた泥水が恐ろしく大きな渦を作って潮に流されて行く。右舷に遠くねずみ色に低い陸地が見える。
日本から根気よく船について来た鴎の数がだんだんに減ってけさはわずかに二三羽ぐらいになっていたが、いつのまにかまた数がふえている。これはたぶんシナの鴎だろう。
四月二日
呉淞で碇泊している。両岸は目の届く限り平坦で、どこにも山らしいものは見えない。
シナ人の乞食が小船でやって来て長い竿の先に網を付けたのを甲板へさし出す。小船の苫屋根は竹で編んだ円頂で黒くすすけている。艫に大きな飯たき釜をすえ、たきたての飯を櫃につめているのもある。その飯の色のまっ白なのが妙に目についてしようがなかった。そしてどういうものか悲しいようなさびしいような心持ちを起こさせた。
テンダーに乗って江をさかのぼる。朱や緑で塗り立てたジャンクがたくさんに通る。両岸の陸地にはところどころに柳が芽を吹き畑にも麦の緑が美しい。ペンク氏は「どこかエルベ河畔に似ている」と言う。……
……宿の小僧に連れられて電車で徐家滙の測候所を見に行く。郊外へ出ると麦の緑に菜の花盛りでそら豆も咲いている。百姓屋の庭に、青い服を着て坊主頭に豚の尾をたらした小児が羊を繩でひいて遊んでいる。道ばたにところどころ土饅頭があって、そのそばに煉瓦を三尺ぐらいの高さに長方形に積んだ低い家のような形をしたものがある。墓場だと小僧が言う。
測候所では二時に来いというからそれまで近所を見てあるく。向こう側にジェスウィトの寺院がある。僧院の廊下へはいって見ると、頭を大部分剃って頂上に一握りだけ逆立った毛を残した、そして関羽のような顔をした男が腕組みをしてコックリコックリと廊下を歩いている。黙っておこったような顔をしてわき目もふらず歩いて行ってまた引き返して来る。……異国へ来たという事実がしみじみ腹の中へしみ込んだ。
寺院の鐘が晴れやかな旋律で鳴り響いた。会堂の窓からのぞいて見ると若いのや年取ったのやおおぜいのシナの婦人がみんなひざまずいてそしてからだを揺り動かして拍子をとりながら何かうたっている。
道ばたで薄ぎたないシナ人がおおぜい花崗石を細かく砕いて篩で選り分けている。雨が少し降って来た。柳のある土手へ白堊塗りのそり橋がかかってその下に文人画の小船がもやっていた。なんだか落ち着いたいい心持ちになる。……
夜福州路の芝居を見に行った。恐ろしく美々しい衣装を着た役者がおおぜいではげしい立ち回りをやったり、甲高い悲しい声で歌ったりした。囃の楽器の音が耳の痛くなるほど騒がしかった。ふたをした茶わんに茶を入れて持って来た。熱湯で湿した顔ふきを持って来た。……少しセンチメンタルになる。
帰りに四馬路という道を歩く。油絵の額を店に並べて、美しく化粧をした童女の並んでいる家がところどころにある。みんな娼楼だという。芸妓が輿に乗って美しい扇を開いて胸にかざしたのが通る。輿をささえる長い棒がじわじわしなっていた。活動写真の看板に「電光彩戯」と書いてある。
四月三日
電車で愚園に行く。雨に湿った園内は人影まれで静かである。立ち木の枝に鴉の巣がところどころのっかっている。裏のほうでゴロゴロと板の上を何かころがすような音がしている。行って見るとインド人が四人、ナインピンスというのだろう、木の球をころがして向こうに立てた棍棒のようなものを倒す遊戯をやっている。暗い沈鬱な顔をして黙ってやっている。棍棒が倒れるとカランカランという音がして、それが小屋の中から静かな園内へ響き渡る。リップ・ヴァン・ウィンクルの話を思い出しながら外へ出る。木のこずえにとまった一羽の鴉が頭を傾けて黙ってこっちを見ていた。……ゴロゴロ、カランカランという音が思い出したように響いていた。
二 ホンコンと九竜
夜の八時過ぎに呉淞を出帆した。ここから乗り込んだ青島守備隊の軍楽隊が艫の甲板で奏楽をやる。上のボートデッキでボーイと女船員が舞踊をやっていた。十三夜ぐらいかと思う月光の下に、黙って音も立てず、フワリフワリと空中に浮いてでもいるように。
四月四日
日曜で早朝楽隊が賛美歌を奏する。なんとなく気持ちがいい。十時に食堂でゴッテスディーンストがある。同じ事でも西洋の事は西洋人がやっているとやはり自然でおかしくない。
四月五日
朝甲板へ出て見ると右舷に島が二つ見える。窓ガラスの掃除をしているかわいらしい子供の船員に聞いてみたが島の名もわからない、福州の沖だろうという。
甲板の寝台に仰向きにねて奏楽を聞いていると煙突からモクモクと引っ切りなしに出て来る黒い煙も、舷に見える波も、みんな音楽に拍子を合わせて動いているような気がする。どうも西洋の音楽を聞いていると何物かが断えず一方へ進行しているように思われる。
黒服を着た顔色の赤い中年の保母が、やっと歩きだしたくらいの子供の手を引いて歩いている。そのあとを赫鬚をはやしたこわい顔の男がおもちゃの熊を片手にぶら下げてノソリノソリついて歩く。ドイツ士官が若いコケットと腕を組んで自分らの前を行ったり来たりする。女は通りがかりに自分らのほうを尻目ににらんで口の内で何かつぶやいた、それは Grob ! と言ったように思われた。
四月六日
昨夜雨が降ったと見えて甲板がぬれている。いかめしくとがった岩山が見える。ホンコンと九竜の間の海峡へはいるのだという。山の新緑が美しい。山腹には不規則にいろいろな建物が重なり合って立っている。みんな妙によごれくすんでいるが、それがまたなんとも言われないように美しい絵になっている。それは絵はがきや錦絵の美しさではなくて、どうしても油絵の美しさである。……
植物園では仏桑花、ベコニア、ダリア、カーネーション、それにつつじが満開であった。暑くて白シャツの胸板のうしろを汗の流れるのが気持ちが悪かった。両手を見るとまっかになって指が急に肥ったように感じられた。
ケーブルカーの車掌は何を言っても返事をしないですましていた。話をしてはいけない規則だと見える。急勾配を登る時に両方の耳が変な気持ちになる。気圧が急に下がるからだという。つばを飲み込むと直る。ピークで降りるとドンが鳴った。涼しい風が吹いて汗が収まった。頂上の測候所へ行って案内を頼むと水兵が望遠鏡をわきの下へはさんで出て来ていろいろな器械や午砲の装薬まで見せてくれる、一シリングやったら握手をした。……
夕飯後に甲板へ出て見るとまっ黒なホンコンの山にはふもとから頂上へかけていろいろの灯がともって、宝石をちりばめた王冠のようにキラキラ光っている。ルビーやエメラルドのような一つ一つの灯は濃密な南国の夜の空気の奥にいきいきとしてまたたいている。こんな景色は生まれて始めて見るような気がする。……シナ人が籐寝台を売りに来たのを買って涼みながらT氏と話していると、浴室ボーイが船から出かけるのを見たから頼んで絵はがきを出してもらう。桟橋へあやしげな小船をこぎよせる者があるから見ていると盛装したシナ婦人が出て来た。白服に着かえた船のボーイが桟橋の上をあちこちと歩いている。白のエプロンをかけた船のナースがシェンケでポルト酒かなにかもらってなめている。例のドイツ士官のコケットもきょうは涼しそうに着かえて歩きまわっている。
四月七日
朝食後に上陸して九竜を見に行く。……海岸に石切り場がある。崖の風化した柔らかい岩の中に花崗石の大きな塊がはまっているのを火薬で割って出すらしい。石のくずを方七八分ぐらいに砕いて選り分けている。これを道路に敷くのだと見えて蒸気ローラーが向こうに見える。その煙突からいらだたしくジリジリと出る煙を見ても暑くて喉がかわく。道ばたを見るとそら色の朝顔が野生していた。……
美しい緑の草原の中をまっかな点が動いて行くと思ったらインド人の頭巾であった。……町の並み木の影でシナの女がかわいい西洋人の子供を遊ばしている。その隣では仏桑花の燃ゆるように咲き乱れた門口でシャツ一つになった年とった男が植木に水をやっていた。
測候所の向かいは兵営で、インド人の兵隊が体操をやっている。運動場のすみの木陰では楽隊が稽古をやっているのをシナ人やインド人がのんきそうに立って聞いている。そのあとをシナ人の車夫が空車をしぼって坂をおりて行く。
船へ帰ると二等へ乗り込むシナ人を見送って、おおぜいの男女が桟橋に来ていた。そしていかにもシナ人らしくなごりを惜しんでいるさまに見えた。中には若い美しい女もいた。そしてハンケチや扇にいろいろの表情を使い分けて見せるのであった。十二時過ぎに出帆するとき見送りの船で盛んに爆竹を鳴らした。
甲板へズックの日おおいができた。気温は高いが風があるのでそう暑くはない。チョッキだけ白いのに換える。甲板の寝椅子で日記を書いていると、十三四ぐらいの女の子がそっとのぞきに来た。黒んぼの子守がまっかな上着に紺青に白縞のはいった袴を着て二人の子供を遊ばせている。黒い素足のままで。
ホンコンから乗った若いハイカラのシナ人の細君が、巻煙草をふかしていた。夫もふかしていた。
三 シンガポール
四月八日
朝から蒸し暑い。甲板でハース氏に会うと、いきなり、芝の増上寺が焼けたが知っているか、きのうのホンコン新聞に出ていたという。かなりにもう遠くなった日本から思いがけなくだれかが跡を追って来てことづてを聞かされるような気がした。
船客の飼っている小鳥が籠を放れて食堂を飛び回るのをつかまえようとして騒いでいた。鳥はここが果てもない大洋のまん中だとは夢にも知らないのだろう。
飛び魚がたくさん飛ぶ、油のようなうねりの上に潮のしずくを引きながら。そして再び波にくぐるとそこから細かい波紋が起こってそれが大きなうねりの上をゆるやかに広がって行く。
きのう日記をつけている時にのぞいた子供に、どこまで行くと聞いたらスペインへと言う、スペイン人かと聞くとそうだといった。
全部白服に着かえる。
四月九日
ハース氏と国歌の事を話していたら、同氏が「君が代」を訳したのがあると言って日記へ書き付けてくれた、そしてさびたような低い声で、しかし正しい旋律で歌って聞かせた。
きのうのスペインの少女の名はコンセプシオというのだそうな。自分ではコンチャといっている。首飾りに聖母の像のついたメダルを三つも下げている。
昼ごろサイゴンの沖を通る。
四月十日
朝十時の奏楽のときに西村氏がそばへ来て楽隊のスケッチをしていた。ボーイがリモナーデを持って来たのを寝台の肱掛けの穴へはめようとしたら、穴が大きすぎたのでコップがすべり落ちて割れた。そばにいた人々はだれも知らん顔をしていた。かえってきまりが悪かった。
午後には海が純粋なコバルト色になった。
四月十一日
きょうは復活祭だという。朝飯の食卓には朱と緑とに染めつけたゆで玉子に蝋細工の兎を添えたのが出る。米国人のおばあさんは蝋とは知らずかじってみて変な顔をした。ハース氏に聞いてみると、これは純粋なドイツの古習で、もとはある女神のためにささげた供物だそうな。今日では色つけ玉子を草の中へかくして子供に捜させる、そしてこの玉子は兎が来て置いて行ったのだと教えるという。
朝飯が終わったころはもうシンガポール間近に来ていた、そして強い驟雨が襲って来た。海の色は暗緑で陸近いほうは美しい浅緑色を示していた。みごとな虹が立ってその下の海面が強く黄色に光って見えた。右舷の島の上には大きな竜巻の雲のようなものがたれ下がっていた。ミラージュも見えた。すべてのものに強い強い熱国の光彩が輝いているのであった。
船はタンジョンパガールの埠頭に横づけになる。右舷に見える懸崖がまっかな紅殻色をしていて、それが強い緑の樹木と対照してあざやかに美しい。
西村氏が案内をしてくれるというのでいっしょに出かける。祭日で店も大概しまっており郵便局も休んでいる。つり橋のたもとの煙草屋を見つけて絵はがきと切手を買う。三銭切手二十枚を七十五銭に売るから妙だと思って聞くと「コンミッシォン」だと言った。
九竜で見たと同じ道普請のローラーで花崗石のくずをならしている。その前を赤い腰巻きをしたインド人が赤旗を持ってのろのろ歩いていた。
エスプラネードを歩く。まっ黒な人間が派手な色の布を頭と腰に巻いて歩いているのが、ここの自然界とよく調和していると思って感心した。
宝石屋の前を通ると、はいって見ろと無埋にすすめる。見るだけでいいからはいれという。自分の持っている蝙蝠傘をほめて、売ってくれと言う。売るのがいやなら宝石と換えぬかという。T氏の傘を見て This no good. というと、また一人が This good, but that the best. と訂正した。
いわゆる日本街を人力車で行った。道路にのぞんだヴェランダに更紗の寝巻のようなものを着た色の黒い女の物すごい笑顔が見えた、と思う間に通り過ぎてしまう。
オテルドリューロプで昼食をくう。薬味のさまざまに多いライスカレーをくって氷で冷やしたみかん水をのんで、かすかな電扇のうなり声を聞きながら、白服ばかりの男女の外国人の客を見渡していると、頭の中がぼうとして来て、真夏の昼寝の夢のような気がした。
植物園へはいる。芝生の上に遊んでいた栗鼠はわれわれが近よるとそばの木にかけ上った。木の間にはきれいな鳥も見かける。ねむの花のような緋色の花の満開したのや、仏桑花の大木や、扇を広げたような椰子の一種もある。背の高いインド人の巡査がいて道ばたの木の実を指さし「猿が食います」と言った。人糞の臭気があるというドリアンの木もある。巡査は手を鼻へやってかぐまねをしてそして手をふって「ノー・グード」と言い、今度は食うまねをして「ツー・イート・グード」と言う。動物はいないかと聞いたら「虎と尾長猿、おしまい、finished」といった。たぶん死んだとでもいう事だろうと思った。
水道の貯水池の所は眺望がいい。暑そうな霞の奥に見える土地がジョホールだという。大きな枝を張った木陰のベンチに人相の悪い雑種のマライ人が三人何かコソコソ話し合っていた。
市場へ行く。玉ねぎや馬鈴薯に交じって椰子の実やじゃぼん、それから獣肉も干し魚もある。八百屋がバイオリンを鳴らしている。菓汁の飲料を売る水屋の小僧もあき罐をたたいて踊りながら客を呼ぶ。
船へ帰るとやっぱり宅へ帰ったような気がする。夕飯には小羊の乗った復活祭のお菓子が出る。夜は荷積みで騒がしい。
四月十二日
朝から汗が流れる。桟橋にはいろいろの物売りが出ている。籐のステッキ、更紗、貝がら、貝細工、菊形の珊瑚礁、鸚鵡貝など。
出帆が近くなると甲板は乗客と見送りでいっぱいになった。けさ乗り込んだ二等客の子供だけが四十二人あるとハース氏が言う。神戸で乗った時は全体で九人であったのに。
マライ人がカノーのようなものに乗って、わが船のそばへ群がって来て口々にわめく。乗客が銭を投げると争ってもぐって拾い上げる。I say ! Herr Meister ! Far away, far away ! One dollar, all dive ! などと言っているらしい。自分はどうしても銭をなげる気になれなかった。
船が出る時桟橋に立った見送りの一組が「オールド・ラング・サイン」を歌った。船の上でも下でも雪白の服を着た人の群れがまっ白なハンケチをふりかわした。
四 ペナンとコロンボ
四月十三日
……馬車を雇うて植物園へ行く途中で寺院のような所へはいって見た。祭壇の前には鉄の孔雀がある。参詣者はその背中に突き出た瘤のようなものの上で椰子の殻を割って、その白い粉を額へ塗るのだそうな。どういう意味でそうするのか聞いてもよくわからなかった。まっ黒な鉄の鳥の背中は油を浴びたように光っていた。壇に向かった回廊の二階に大きな張りぬきの異形な人形があって、土人の子供がそれをかぶって踊って見せた。堂のすみにしゃがんでいる年とった土人に、「ここに祭ってあるゴッドの名はなんというか」と聞いたら上目に自分の顔をにらむようにしてただ一言「スプロマニーン」と答えた──ようであった。しかしこれは自分の問いに答えたのか、別の事を言ったのだかよくわからなかった。ただこの尻上がりに発音した奇妙な言葉が強く耳の底に刻みつけられた。こんな些細な事でも自分の異国的情調を高めるに充分であった。
立派なシナ商人の邸宅が土人の茅屋と対照して何事かを思わせる。
椰子の林に野羊が遊んでいる所もあった。笹の垣根が至るところにあって故国を思わせる。道路はシンガポールの紅殻色と違ってまっ白な花崗砂である。
植物園には柏のような大木があったり、いったいにどこやら日本の大庭園に似ていた。
夜船へ帰って、甲板でリモナーデを飲みながら桟橋を見ていると、そこに立っているアーク燈が妙なチラチラした青い光と煙を出している。それが急にパッと消えると同時に外のアーク燈も皆一度に消えてまっ暗になった。船の陰に横付けになって、清水を積んだ小船が三艘、ポンプで本船へくみ込んでいた。その小船に小さな小さなねこ──ねずみぐらいなねこが一匹いた。海面には赤く光るくらげが二つ三つ浮いていた。
ハース氏夫妻と話していると近くの時計台の鐘がおもしろいメロディーを打つ。あれはロンドンの議事堂の時計を模しているのだとハース氏がいう。西欧の寺院の鐘声というものに関するあらゆる連想が雑然と頭の中に群がって来た。
きのうの夕食に出たミカドアイスクリームというのは少し日本人の気持ちを悪くさせる性質のものではないかとハース氏に言ったら、「そんな事はない、それより毒滅という薬の広告のほうがはるかにドイツ人にわるく当たる」と言って笑った。
四月十四日
夜甲板の椅子によりかかってマンドリンを忍び音に鳴らしている女があった。下の食堂では独唱会があった。
四月十五日
自分らの隣の椅子へ子供づれの夫婦が来た。母親がどこかへ行ってしまうと、子供はマーンマーマーンマーと泣き声を出す。父親が子守り歌のようなものを歌ったり、口笛を吹いたりしても効能がない。
四月十六日
喫煙室で乗客の会議が開かれた。一般の娯楽のために競技や音楽会をやる相談である。
四月十七日
きのう紛失したせんたく袋がもどって来た。室のボーイの話ではせんたく屋のシナ人が持っていたのだそうな。
四月十八日
顔を洗って甲板へ出たらコロンボへ着いていた。T氏と西村氏と三人で案内者を雇うて馬車で見物に出かけた。市場でマンゴスチーンを買っていたら、子供がおおぜいよって来て銭をねだり、馬車を追っかけて来たがとうとう何もやらなかった。埠頭から七マイルの仏寺へ向かう。途中の沼地に草が茂って水牛が遊んでいたり、川べりにボートを造っている小屋があったり、みんなおもしろい画題になるのであった。土人の女がハイカラな洋装をしてカトリックの教会からゾロゾロ出て来るのに会った。
寺へ着くと子供が蓮の花を持って来て鼻の先につきつけるようにして買え買えとすすめる。貝多羅に彫った経をすすめる老人もある。ここの案内をした老年の土人は病気で熱があるとかいってヨロヨロしていたが菩提樹の葉を採ってみんなに一枚ずつ分けてくれた。カンジーにあるという仏足や仏歯の模造がある。本堂のような所にはアラバスターの仏像や、大きな花崗石を彫って黄金を塗りつけた涅槃像がある。T氏はこれに花を供えて拝していた。
帰途に案内者のハリーがいろいろの人の推薦状を見せて自慢したりした。N氏の英語はうまいがT氏のはノーグードだなどと批評した。年を聞くと四十五だという。われわれは先祖代々の宗教を守っているのに、土人の中には少し金ができるとすぐイギリス人のまねをして耶蘇信者になるのがある、あれはいけない、どの宗教でもつまり中身は同じで、悪い事をすな、ズーグードと言うだけの事だ、などと一人で論じていた。ヴィクトリアパークの前のレストランでラムネを飲んでいたら、給仕の土人が貝多羅の葉で作った大きな団扇でそばからあおいだ。馬丁にも一杯飲ませてやったら、亭前の花園の黄色い花を一輪ずつとってくれた。N氏がそれを襟のボタン穴にさしたからT氏と自分もそのとおりにした。馬丁はうれしそうにニコニコしていた。
五 アラビア海から紅海へ
四月二十日
昨夜九時ごろにラカジーブ島の燈台を右舷に見た。これからアデンまで四五日はもう陸地を見ないだろうと思うと、心細いよりはむしろゆっくり落ちついたような心持ちがした。朝食後甲板で読書していたら眠くなったので室へおりて寝ようとすると、食堂でだれかがソプラノでのべつに唱歌をやっている。芸人だとかいうオランダ人の一行らしい。この声が耳についてなかなか寝られなかった。それで昼食後に少し寝たいと思うと、今度はまたテノルの唱歌で睡眠を妨げられた。
午後九時から甲板で舞踏会を催すという掲示が出た。それに署名された船長の名前がいかめしく物々しく目についた。夕飯後からそろそろ準備が始まった。各国の国旗で通風管や巻き上げ器械などを包みかくし、手すりにも旗を掛け連ねた。赤、青、緑、いろいろの電球をズックの天井の下につるし並べてイルミネーションをやる。一等室のほうからも燕尾服の連中がだんだんにやってくる。女も美しい軽羅を着てベンチへ居並ぶ。デッキへは蝋かなにかの粉がふりまかれる。楽隊も出て来てハッチの上に陣取った。時刻が来ると三々五々踊り始めた。少し風があるのでスカーフを頬かぶりにしている女もある。四つの足が一組になっていろいろ入り乱れるのを不思議に思って見守るのであった。横浜から乗って来た英人のCがオランダの女優のいちばん若く美しいのと踊っていた。なんとなく不格好に、しかし非常に熱心に踊っているのがおかしいようでもあったが、ハイカラでうまく踊る他の多くのダンディよりこのほうが自分にはいい気持ちを与えた。舞踏というものは始めて見たが、なるほどセンシュアルな暗示に富んだものである。これを引き去ったらあとには何物が残るだろうと思ったりした。
反対の側のデッキには、舞踏などまるで問題にしないで談笑している一組もあった。
四月二十二日
夜九時から甲板で音楽会をやった。一人前五十ペンスずつ集めてロイド会社の船員の寡婦や孤児にやるのだという。
英国人で五十歳ぐらいの背の高い肥ったそしてあまり品のよくないブラムフィールド君が独唱をやると、その歌はだれでも知っているのだと見えて聴衆がみんないっしょに歌い出してせっかくの独唱はさんざんに押しつぶされてしまった。おかしくもあったが気の毒でもあった。なんだかドイツ人の群集の中で英国人のある特性そのものが嘲笑の目的物になっているような気がした。そしてその特性は自分もあまり好かないものであるのにかかわらず、この時はなんだか聴衆の悪じゃれを不愉快に感じた。それでもやっぱりおかしい事はおかしかった。ブラムフィールドという名前がこの人とこの小事件とになんとなく調和していると思った。
自分の室付きのボーイの兄のマクスが皆から無理にすすめられて演奏台に立った。美しいテノルで歌い出すと、今まで謙遜であった彼とは別人のように、燃えるような目を輝かせ肩をそびやかして勇ましい一曲を歌った。聴衆は盛んな拍手をあびせかけて幾度か彼を壇上に呼び上げた。
(この時から一年余り後にハンブルヒである大きいカフェーにはいったら、そこのオーケストラの中でバイオリンをひいているマクスを見いだした。声をかけたいと思ったがおおぜいの客の眼前に気がひけてついそのまま別れてしまった。彼の顔はなんだか少しやつれていたような気がした。)
四月二十三日
朝食後に出て見ると左舷に白く光った陸地が見える。ちょっと見ると雪ででもおおわれているようであるが、無論雪ではなくて白い砂か土だろう。珍しい景色である。なんだかわれわれの「この世」とは別の世界の一角を望むような心持ちがする。「陸地の幽霊」とでもいいたいような気がする。Weird という英語のほかに適当な形容詞は思いつかなかった。……あれがソコトラの島だろうと言っていた。
朝九時アデンに着いた。この半島も向かいの小島もゴシック建築のようにとがり立った岩山である。草一本の緑も見えないようである。やや平坦なほうの内地は一面に暑そうな靄のようなものが立ちこめて、その奥に波のように起伏した砂漠があるらしい。この気味のわるい靄の中からいろいろの奇怪な伝説が生まれたのだろう。
土人がいろいろの物を売りに来る。駝鳥の卵や羽毛、羽扇、藁細工のかご、貝や珊瑚の首飾り、かもしかの角、鱶の顎骨などで、いずれも相当に高い値段である。
船のまわりをかなり大きな鱶が一匹泳いでいる。その腹の下を小さい魚が二尾お供のようについて泳いでいる。あれがパイロットフィッシュだとだれかが教える。オランダ人で伝法肌といったような男がシェンケから大きな釣り針を借りて来てこれに肉片をさし、親指ほどの麻繩のさきに結びつけ、浮標にはライフブイを縛りつけて舷側から投げ込んだ。鱶はつい近くまで来てもいっこう気がつかないようなふうでゆうゆうと泳いで行く。
自分と並んで見ていた男が、けさ早く鯨の潮を吹いているのに会ったと話していた。鱶はいつまでも釣れそうにはなかった。
土人が二人、甲板で手拍子足拍子をとって踊った。土人の中には大きな石鹸のような格好をした琥珀を二つ、布切れに貫ぬいたのを首にかけたのがいた。やはり土人の巡査が、赤帽を着て足にはサンダルをはき、鞭をもって甲板に押し上がろうとする商人を制していた。
一時に出帆。昨夜電扇が止まって暑くて寝られなかったので五時半ごろまで寝た。夜九時にバベルマンデブの海峡を過ぎた。熱帯とも思われぬような涼しい風が吹いて船室の中も涼しかった。
四月二十五日
十二使徒という名の島を右舷に見た。それを通り越すと香炉のふたのような形の島が見えたが名はわからなかった。
一等客でコロンボから乗った英国人がけさ投身したと話していた。妻と三人の子供をなくしてひとりさびしく故国へ帰る道であったそうな。
四月二十六日
午後T氏がわざわざ用意して手荷物の中に入れて来た煎茶器を出して洗ったりふいたりした。そしてハース氏夫妻、神戸からいっしょのアメリカの老嬢二人、それに一等のN氏とを食堂に招待してお茶を入れた。菓子はウェーファースとビスケットであった。
六 紅海から運河へ
四月二十七日
午前右舷に双生の島を見た。一方のには燈台がある。ちょうど盆を伏せたような格好で全体が黄色い。地図で見ると兄弟島というのらしい、どちらが兄だかわからなかった。
アデンを出てから空には一点の雲も見ないが、空気がなんとなく濁っている。ハース氏の船室は後甲板の上にあるが、そこでは黒の帽子を一日おくと白く塵が積もると言っていた。どうもアフリカの内地から来る非常に細かい砂塵らしい。
午後乗り組みの帰休兵が運動競技をやった。綱引きやら闘鶏──これは二人が帆桁の上へ向かい合いにまたがって、枕でなぐり合って落としっくらをするのである。それから Geld Suchen im Mehl というのは、洗面鉢へ盛ったメリケン粉の中へ顔を突っ込んで中へ隠してある銀貨を口で捜して取り出すのである。やっと捜し出してまっ白になった顔をあげて、口にたまった粉を吐き出しているところはたしかに奇観である。Aepfel Suchen im Wasser というのは、水おけに浮いているりんごを口でくわえる芸当、Wurst Schnappen は頭上につるした腸詰めへ飛び上がり飛び上がりして食いつく遊戯である。将校が一々号令をかけているのが滑稽の感を少なからず助長するのであった。
船首の突端へ行って海を見おろしていると深碧の水の中に桃紅色の海月が群れになって浮遊している。ずっと深い所に時々大きな魚だか蝦だか不思議な形をした物の影が見えるがなんだとも見定めのつかないうちに消えてしまう。
右舷に見える赤裸の連山はシナイに相違ない、左舷にはいくつともなくさまざまの島を見て通る。夕方には左にアフリカの連山が見えた。真に鋸の歯のようにとがり立った輪郭は恐ろしくも美しい。夕ばえの空は橙色から緑に、山々の峰は紫から朱にぼかされて、この世とは思われない崇厳な美しさである。紅海は大陸の裂罅だとしいて思ってみても、眼前の大自然の美しさは増しても減りはしなかった。しかしそう思って連山をながめた時に「地球の大きさ」というものがおぼろげながら実認されるような気がした。
四月二十八日
朝六時にスエズに着く。港の片側には赤みを帯びた岩層のありあり見える絶壁がそばだっている。トルコの国旗を立てたランチが来て検疫が始まった。
土人の売りに来たものは絵はがき、首飾り、エジプト模様の織物、ジェルサレムの花を押したアルバム、橄欖樹で作った紙切りナイフなど。商人の一人はポートセイドまで乗り込んで甲板で店をひろげた。
十時出帆徐行。運河の土手の上をまっ黒な子供の群れが船と並行して走りながら口々にわめいていた。船ではだれも相手にしないので一人減り二人減り、最後に残った二三人が滑稽な身ぶりをして見せた。そして暑い土手をとぼとぼ引き返して行った。両岸ことにアラビアの側は見渡す限り砂漠でところどころのくぼみにはかわき上がった塩のようなまっ白なものが見える。アフリカのほうにははるかに兀とした岩山の懸崖が見え、そのはずれのほうはミラージュで浮き上がって見えた。苦海では思いのほか涼しい風が吹いたが、再び運河に入るとまた暑くなった。ところどころにあるステーションだけにはさすがに樹木の緑があって木陰には牛や驢馬があまり熱帯らしくない顔をして遊んでいた。岸べに天幕があって駱駝が二三匹いたり、アフリカ式の村落に野羊がはねていたりした。みぎわには蘆のようなものがはえている所もあった。砂漠にもみぎわにも風の作った砂波がみごとにできていたり、草のはえた所だけが風蝕を受けないために土饅頭になっているのもあった。
夜ひとりボートデッキへ上がって見たら上弦の月が赤く天心にかかって砂漠のながめは夢のようであった。船橋の探照燈は希薄な沈黙した靄の中に一道の銀のような光を投げて、船はきわめて静かに進んでいた。つい数日前までは低く見えていた北極星が、いつのまにか、もう見上げるように高くなっていた。
スエズで買ったそろいのトルコ帽をかぶったジェルサレム行きの一行十人ばかり、シェンケの側の甲板で卓を囲んで、あす上陸する前祝いででもあるかビールを飲みながら歌ったり踊ったりしていた。
七 ポートセイドからイタリアへ
四月二十九日
昨夜おそく床にはいったが蒸し暑くて安眠ができなかった。……際限もなく広い浅い泥沼のような所に紅鶴の群れがいっぱいいると思ったら、それは夢であった。時計を見ると四時であるのに周囲が騒がしい。甲板へ出て見るともうポートセイドに着いていた。夜明け前の市街は暑そうなかわいた霧を浴びている。粗末な家屋の間にあるわずかな樹木も枯れかかったのが多かった。
神戸からずっといっしょであった米国の老嬢二人も、コンチャーの家族も、いよいよここで下船して、ジェルサレムへ、エジプトへ、思い思いに別れて行くのであった。老嬢の一人はねんごろに手を握って「またいつか日本で会いましょう」などと言った。
「お早う、今日は」と日本語で呼びかけるものがある。見ると、若いスマートなトルコ人の煙草売りであった。横浜にいたことがあるとか言って、お定まりらしいお世辞を言ったりした。結局は紙巻き煙草を二箱買わされることになった。
音楽が水の上から聞こえて来る。舷側から見おろすと一隻のかなり大きなボートに数人の男女が乗って、セレネードのようなものをやっている。まん中には立派な顔をしたトルコ人だかアルメニア人かがゆるやかに櫂をあやつっている。その前には麦藁帽の中年の男と、白地に赤い斑点のはいった更紗を着た女とが、もたれ合ってギターをかなでる。船尾に腰かけた若者はうつむいて一心にヴァイオリンをひいている。その前に水兵服の十四五歳の男の子がわき見をしながらこれもヴァイオリンの弓を動かしている。もう一人ねずみ色の地味な服を着た色の白い鼻の高い若い女は沈鬱な顔をしてマンドリンをかき鳴らしている。船首に一人離れて青い服を着た土人の子供がまるで無関係な人のようにうずくまっていた。このような人々の群れの中にただ一人立ち上がって、白張りの蝙蝠傘を広げたのを逆さに高くさし上げて、親船の舷側から投げる銀貨や銅貨を受け止めようとしている娘があった。緑がかったスコッチのジャケツを着て、ちぢれた金髪を無雑作に桃色リボンに束ねている。丸く肥った色白な顔は決して美しいと思われなかった。少しそばかすのある頬のあたりにはまだらに白粉の跡も見えた。それで精一杯の愛嬌を浮かべて媚びるようなしなを作りながら、あちらこちらと活発に蝙蝠傘をさし出していた。上から投げる貨幣のある物は傘からはね返って海に落ちて行った。時々よろけて倒れそうになって舷や人の肩につかまったりした。そうして息をはずませているらしく肩から胸が大きく波をうっていた。楽手らはめいめいただ自分の事だけ思いふけってでもいるようにまた自分らの音楽の悲哀に酔わされてでもいるように、みんな思いつめたような暗い顔をしていた。滅びた祖国、流浪の生活、熱帯の夏の夜の恋、そんなものを思わせるような、うら悲しくなまめかしい音楽が黄色く濁った波の上を流れて行った。波の上にはみかんの皮やビールのあきびんなどが浮いたり沈んだりして音楽に調子を合わせていた。……淡い郷愁とでもいったようなものを覚えて、立って反対の舷側へ行くと、対岸をまっ黒な人とまっ黒な石炭を積んだ船が通って行った。
七時に出帆。レセップの像を左に見て地中海へ乗り出して行った。レセップは右手を運河のほうへ延ばして「おはいり」と言っているように見える。運河会社の円頂塔は朝日に輝いていた。
地中海は雲一つ見えなかった。もういよいよアジアとは縁が切れたのだと思う。……午後船の散髪屋へ行く。「ドイツ語がおじょうずですね」などと言われて、おしまいにはまたドロップの瓶入りを買わされた。
四月三十日
朝からもうクリート島が右舷に見えていた。島というにはあまり大きいこの陸地の連山の峰には雪らしいものが見えていた。まさか雪ではあるまいとハース氏と言っていたが、とうとう Es ist doch Schnee と言って承認した。甲板は少し寒かった。寒暖計はそんなでもないのに、長い間暑さに慣れて皮膚が甘やかされているのであった。
午後三時十五分から子供の祝宴 Kinderfest を催すという掲示が出た。
ハース氏がその掲示文を読んで文章のまずい所を指摘して教えてくれた。時刻が来るとおおぜいの子供が甲板へ集まる。食卓には日本製の造花を飾り、皿にクラッカーと紙旗とをのせたのを並べてある。見るだけでも美しいトルテや菓子も出ている。子供らは N. L. D. の金文字を入れた黒リボン付きの紙帽子をかぶり、手んでに各国の国旗を持ち、楽隊の先導で甲板を一周した後に食卓についた。おとならはむしろうらやましそうに見物していた。……T氏と艙へはいって、カバンを出してもらって、ハース氏に贈るべき品物を選み出したりした。
五月一日
午後にはもうイタリアの山が見えた。いよいよヨーロッパへ来たのかと思った。夕食時にはメッシナ海峡の入り口へかかった。左にエトナが見える。富士山によく似ているという人もあったが、自分の感じはまるでちがっていた。右舷の山には樹木は少ないが、灰白色の山骨は美しい浅緑の草だか灌木だかでおおわれている。海浜にはまっ白な小さい家がまばらに散らばっている。だれかの漁村の詩にこんな景色があったような気がした。もう「東洋」と「熱帯」の姿はどこにもなかった。まもなく右にレッジオ、左にメッシナの町の薄暮の燈火を見て過ぎる。メッシナは大地震のために破壊されて灯の数は昔の比較にならないとハース氏が話した。
九時ごろから喫煙室でN君ハース氏らと袂別の心持ちでシャンペンの杯をあげた。……十時過ぎにストロンボリの火山島が見えた。十五夜あたりの月が明るくて火口の光はただわずかにそれと思われるくらいであった。背の低い肥ったバリトン歌手のシニョル・サルヴィは大きな腹を突き出して、「ストロンボーリ、ストロンボーリ」とどなりながら甲板を忙しげに行ったり来たりしていた。故国に近づく心の興奮をおさえきれないように、あるいはまたこの「地中海の燈台」と言われる火山をできるだけ多くの旅客に見せたいと思っているかのように、最後から二番目の綴音「ボー」に強い揚音符をつけてまた幾度か「ストロンボーリ、ストロンボーリ」と叫んでいた。月夜の海は次第に波が高くなって、船は三十度近くも揺れるので、人々はもうたいてい室の毛布にくるまって、あす着くナポリの事でも考えているだろうに。……
八 ナポリとポンペイ
五月二日
朝甲板へ出て見ると、もうカプリの島が見える。朝日が巌壁に照りはえて美しい。やがてヴェスヴィオも見えて来た。遠い異郷から帰って来たイタリア人らは、いそいそと甲板を歩き回って行く手のかなたこなたを指ざしながら、あれがソレント、あすこがカステラマレと口々に叫んでいる。いろいろの本で読んだ覚えのある、そしていろいろの美しい連想に結びつけられたこれらの美しい地名が一つ一つ強い響きを胸に伝える。船が進むにつれて美しい自然と古い歴史をもった市街のパノラマが目の前に押し広げられるのである。子供の時分から色刷り石版画や地理書のさし絵で見慣れていて、そして東洋の日本の片田舎に育った子供の自分が、好奇心にみちた憧憬の対象として、西洋というものを想像するときにいつも思い浮かべた幻像の一つであったあのヴェスヴィアスが、今その現実の姿をついそこにまのあたり現わしていた。しかし思っていたほどの煙は吐いていなかった。同様に絵で見なれたイタリア松の笠をかむったようなのが丘の上などに並んでいるのもなつかしかった。
検疫がすんで桟橋へつくと、案内者がやって来てしきりにポンペイ見物をすすめた。年取ったふとった案内者の顔はどこかフランスの大統領に似ていたが、着ている背広はみすぼらしいものであった。T氏とハース氏とドイツ大尉夫妻と自分と合わせて五人の組を作ってこの老人の厄介になることにした。無蓋の馬車にぎし詰めに詰め込まれてナポリの町をめぐり歩いた。
とある寺院へはいって見た。古びたモザイックや壁画はどうしても今の世のものではなかった。金光燦爛たる祭壇の蝋燭の灯も数世紀前の光であった。壁に沿うて交番小屋のようなものがいくつかあった、その中に隠れた僧侶が、格子越しに訴える信者の懺悔を聞いていた。それはおもに若い女であった。ここでも罪を犯したもののほうが善人で、高徳な僧侶のほうが悪人であった。なんとなくこういう僧侶に対する反感のこみ上げて来るのをどうする事もできなかった。尼僧の面会窓がある。さながら牢屋を思わせるような厳重な鉄の格子には、剛く冷たくとがった釘が植えてあった。この格子の内は、どうしても中世紀の世界であるような気がした。
ここを出て馬車は狭い勾配の急な坂町の石道をガタガタ揺れながら駆けて行った。ハース氏はベデカを片手に一人でよく話していたが大尉夫妻はドイツ軍人の威厳を保っているかのように多くは黙っていた。T氏と自分もそれぞれの思いにふけっておし黙っていた。その──土地の人の目にはさだめて異様であったろうと思うわれわれ一組の観客の前を、美しくよごれた南欧の町の光景がただあわただしく走り過ぎて行った。
停車場へ着いてポンペイ行きに乗る。客車の横腹に Fumatori と大きく書いてあるのを、行く先の駅名かと思ったら、それは喫煙車という事であった。客車の中は存外不潔であった。汽車は江に沿うてヴェスヴィオのふもとを走って行った、ふもとから見上げると海上から見たほど高くは見えなかった。熔岩が海中へ流れ込んだ跡も通って行った。シャボテンやみかんのような木も見られた。粗末な泥土塗りの田舎家もイタリアと思えばおもしろかった。古風な木造の歯車のついた粉ひき車がそのような家の庭にころがっているのも珍しかった。青い海のかなたにソレントがかすんで、絵のような小船が帆をたたんで岸に群れているのも、みんなそれがイタリアであった。……トルレ・デル・アヌンチアタで汽車をおりた。アンデルセンの『即興詩人』を読んだ時に頭に刻まれていたいろいろの場面が、この駅の名の響きに応じて強く新しくよみがえって来るのであった。
馬車が古い昔の町を通り抜けると馬鈴薯畑の中の大道を走って行った。ところどころに孤立したイタリア松と白く輝く家屋の壁とは強い特徴のある取り合わせであった。
ホテル・ドゥ・ヴェシューヴと看板をかけた旗亭が見える。もうそこがポンペイの入り口である。入場料を払って関門を入ると、そこは二千余年前の文化の化石で、見渡す限りただ灰白色をした低い建物の死骸である。この荒涼な墓場の背景には、美しい円錐火山が、優雅な曲線を空に画してそびえていた。空に切れ切れな綿雲の影が扇のように遠く広がったすそ野に青い影を動かしていた。過去のいろいろの年代にあふれ出した熔岩の流れの跡がそれぞれ違った色彩によって見分ける事ができるのであった。しかし火山は昔の大虐殺などは夢にも知らないような平和な姿をして、頂上にただあるかなしの白い煙を漂わせているだけであった。
狭い町は石畳になって、それに車の轍が深い溝をなして刻みつけられてあった。車道が人道に接する所には、水道の鉛管がはみ出していた。それが青白くされ鏽びて、あがった鰻を思わせるような無気味な肌をさらしてうねっていた。
富豪の邸宅の跡には美しい壁画が立派に保存されていた。それには狩猟や魚族を主題としたものもあった。大きな浴場の跡もあった。たぶん温度を保つためであろう、壁が二重になっていた。脱衣棚が日本の洗湯のそれと似ているのもおもしろかった。風呂にはいっては長椅子に寝そべって、うまい物を食っては空談にふけって、そしてうとうとと昼寝をむさぼっていた肉欲的な昔の人の生活を思い浮かべないわけにはゆかなかった。
劇場の中のまるい広場には、緑の草の毛氈の中に真紅の虞美人草が咲き乱れて、かよわい花弁がわずかな風にふるえていた。よく見ると鳥頭の紫の花もぽつぽつ交じって咲いていた。この死滅した昔の栄華と歓楽の殿堂の跡にこんなかよわいものが生き残っていた、石や煉瓦はぽろぽろになっているのに。
酒屋の店の跡も保存されてあった。パン屋の竈の跡や、粉をこねた臼のようなものもころがっていた。娼家の入り口の軒には大きな石の penis が壁から突き出ていた。大尉夫人だけはここでひとり一行から別れて向こうの辻でわれわれを待ち合わせるように取り計らわれた。街路の人道から入り口へ踏み込むとすぐ右側に石のベンチのようなものがいくつか並んでいるだけで、狭い低い暗い部屋というだけであった。よく見ると天井に近く壁を取り巻いてさまざまの壁画が描かれてあった。何十いくつとかの verschiedene Stellungen を示したものだとハース氏が説明して聞かした。青や朱や黄の顔料の色の美しいあざやかさと、古雅な素朴な筆致とは思いのほかのものであった。そこには少しもある暗い恐ろしさがなかった。
少し喘息やみらしい案内者が No time, Sir ! と追い立てるので、フォーラムの柱の列も陳列館の中も落ち着いて見る暇はなかった。陳列館には二千年前の苦悶の姿をそのままにとどめた死骸の化石もあったが、それは悲惨の感じを強く動かすにはあまりにほんとうの石になり過ぎているように思われた。それよりはむしろ、半ば黒焦げになった一握りの麦粒のほうがはるかに強く人の心を遠い昔の恐ろしい現実に引き寄せるように思われた。
火山の名をつけた旗亭で昼飯を食った。卓上に出て来た葡萄酒の名もやはり同じ名であった。少しはなれた食卓にただ一人すわっている日本人らしい若い紳士にハース氏が「アナタハニホンノカタデスカ」と話しかけると Ja ! といってうなずいて見せた。こちらがわざわざ日本語で話しかけるのに Ja ! はおかしいと言ってハース氏は私の耳につぶやいた。しかし自分はおかしいとは思えなかった。それはさびしい旅客のある心持ちを適切に語るものだとしか思われなかった。名刺をもらって見るとそれは某大学の留学生で法学士のN氏であった。N氏の話によると自分の旧知のK氏が今ちょうどドイツからイタリア見物の途上でナポリに来ているとの事であった。自分は会いたかったが出帆前にとてもそれだけの時間はなかった。思いもかけぬ異郷で同じ町に来合わせながら、そのままにまた遠く別れて行くのをわびしくもまたおもしろくも思った。
旗亭の入り口に立ってギターをひく若者があった。その曲が、なんだかポートセイドの小船の楽手らのやっていたのとよく似た心持ちを浮かべるものであった。同じようにせつないやるせのないようなものであった。自分はこれを聞きながら窓掛けの外に輝く南国の日光を見つめているうちに、不思議な透明なさびしさといったようなものに襲われたのであった。
ナポリへ帰って、ポーシリッポの古城もただ外から仰いで見ただけで船へ帰ると、いろいろの物売りが来ていた。古めかしい油絵の額や、カメオや七宝の装飾品などが目についた。双眼鏡の四十シリングというのをT氏が十シリングにつけたら負けてよこした。……五時出帆。少し波が出て船が揺れた。
九 ゲノアからミラノ
五月三日
朝モントクリストの島を見て通った。鯨が潮を吹いていた。地中海に鯨がいてはいけない埋由はないだろうがなんだか意外な感じがした。昼過ぎから前方に陸が見えだし五時ごろにいよいよゲノアに着いた。
三十五日間世話になった船員にそれぞれトリンクゲルトを渡さなければならないのに、ちょうど食事時でボーイらは皆食堂へ出ているのでぐあいが悪くて少し気をもんだ。狭い廊下で待ち伏せして一人一人渡すのに骨が折れた。彼らはそれをかくしにねじ込みながら、カイゼルひげの立派な顔をしゃくって Glückliche Reise ! などと言った。
ハース氏は、イタリアの人足はずるくて、うっかりしていると荷物なんかさらわれるからと言って、先に桟橋へおりた自分らに見張り番をさせておいて船からたくさんのカバンや行李をおろさせた。税関の検査は簡単に済んだ。自分がペンク氏から借りて持って来た海図の巻物を、なんだと聞かれたから、いいかげんのイタリア語でカルタマリーナと答えたら、わかったらしかった。
ホテル・ロアイヤールというのの馬車でハース氏の親子三人といっしょに宿へ着いた。ハース氏が安い部屋をとかけ合ってくれて、No.65 という三階の部屋へはいる。あまり愉快な部屋ではない。窓から見おろすとそこは中庭で、井戸をのぞくような気がする。下水のそばにきたない木戸があって、それに葡萄らしいものがからんでいる。犬が一匹うろうろしている。片すみには繩を張って、つぎはぎのせんたく物が干してある。表の町のほうでギターにあわせて歌っている声もこの井戸の底から聞こえて来た。遠くの空のほうからは寺院の鐘の旋律も聞こえていた。夕食には自分らのほかにはたいして客もなかった。デセールの干し葡萄や干し無花果やみかんなどを、本場だからたくさん食えと言ってハース氏がすすめた。「エンリョはいりません」など取っておきの日本語を出したりした。
夜久しぶりで動かない陸上の寝室で寝ようとすると、窓の外の例の中庭の底のほうから男女のののしり合う声が聞こえて来て、それが妙に気になって寝つかれなかった。ことに女の甲高なヒステリックな声が中庭の四方の壁に響けて鳴っていた。夫婦げんかでもしているのか、それとも狂人だかわからなかった。
五月四日
朝八時四十分に立つハース氏を見送って停車場まで行った。「きょうからわれら二人は Waisen(みなし子)になる」と言ったら、「早くベルリンへついて、Weise Kinder(賢い子)におなりなさい」と言って笑った。
電車でカンポサントへ行った。もっとさびしみのある所かと思ったら意外であった。堅い感じのする回廊の床も壁も一面に棺で張りつめてあって、あくどい大理石像がうるさいほど並んでいた。しかし中庭の芝地の中に簡単な十字架の並んでいるのは気持ちがよかった。そこには日本で見るような雑草の花などが咲いていた。
十一時の汽車でミラノへ向かう。しばらくは山がかった地方のトンネルをいくつも抜ける。至るところの新緑と赤瓦の家がいかにも美しい。高い崖の上の家に藤棚らしいものが咲き乱れているのもあった。やがてロンバルディの平原へ出る。桑畑かと思うものがあり、また麦畑もあった。牧場のような所にはただ一面の緑草の中にところどころ群がって黄色い草花が咲いている。小川の岸には楊やポプラーが並んで続いていた。草原に派手な色の着物を着た女が五六人車座にすわっていて、汽車のほうへハンカチをふったりした。やがて遠くにアルプス続きの連山の雪をいただいているのも見えだした。とある踏切の所では煉瓦を積んだ荷馬車が木戸のあくのを待っていた。車の上の男は赤ら顔の肩幅の広い若者でのんきらしく煙管をくわえているのも絵になっていた。魚網を肩へかけ、布袋を下げた素人漁夫らしいのも見かけた。河畔の緑草の上で、紅白のあらい竪縞を着た女のせんたくしているのも美しい色彩であった。パヴィアから先には水田のようなものがあった。どんな寒村でも、寺の塔だけは高くそびえているのであった。
二時ごろミラノ着。ホテル・デュ・パルクに泊まる。子供の給仕人が日本の切手をくれとねだった。伽藍を見物に行く。案内のじいさんを三リラで雇ったが、早口のドイツ語はよく聞き取れなかった。夏至の日に天井の穴から日が差し込むという事だけはよくわかった。ステインドグラスの説明には年号や使徒の名などがのべつに出て来たが、別に興味を動かされなかった。塔の屋根へ登って見おろすと、寺の前の広場の花壇がきれいな模様になっている事がよくわかった。しかし寺院はやっぱり下から見るものだと思う。
ダヴィンチの像の近くのある店先に日本の水中花を並べてあった。それには Fiori magica という札を立ててあった。宿近くの公園を散歩する。新緑の美しさは西洋へ来て以来いちばん目についたものでまた予想以上のものである。何かしら薄紅の花が満開している。そこで子供がディアボロを回して遊んでいた。
夕飯はまずく、米粒入りのスープは塩からかった。夜またドームの広場まで行く。ちょうど満月であった。青ずんだ空にはまっ白な漣雲が流れて、大理石の大伽藍はしんとしていた。そこらにある電燈などのないほうがよさそうにも思われた。ドーム前の露店で絵はがきやアルバムを買った。売り子は美しい若い女で軽快な仏語をさえずっていた。
十 ミラノからベルリン
五月五日
七時二十分発ベルリン行きの D-Zug に乗る。うっかりバーゼル止まりの客車へ乗り込んでいたが、車掌に注意されてあわててベルリン直行のに乗り換えた。
コモやルガノの絵のような湖も見られた。ボートの上にカンバスをかまぼこ形に張ったのが日本の屋根舟よりはむしろ文人画中の漁舟を思い出させた。きれいな小蒸汽が青い水面に八の字なりに長い波を引いてすべって行くのもあった。
牧場の周囲に板状の岩片を積んだ低い石垣をめぐらし、出入り口にはターンパイクがこしらえてあった。日当たりのいい山腹にはところどころに葡萄畑がある。そして道ばたにマドンナを祭るらしい小祠はなんとなく地蔵様や馬頭観世音のような、しかしもう少し人間くさい優しみのある趣のものであった。西洋でもこんなものがあるかと思ってたのもしいような気もした。山腹から谷を見おろすと、緑の野にまっ白な道路が真一文字に開かれて、その両側には新緑の並み木が規則正しく並んでいるのが、いかにも整然と片付いた感じを与えるのであった。
オーストリア人で、日本へ遊びに行った帰りだという童顔白髪の男と話す。富士屋ホテルの案内記のような小冊子をカバンから出して見せたりした。隣席のドイツ人も話しかけて、これから通過する鉄路のループの説明をしてくれたりした。山の腹の中でトンネルが大きな輪を描いていて、汽車は今はいった穴の真上へ出て来るのである。T氏が特に興味をもって根ほり葉ほり聞いていたら、そのループのプランをかいた図面をくれてよこした。
だんだん山が険しくなって、峰ははげた岩ばかりになり、谷間の樅やレルヘンの木もまばらになり、懸崖のそこかしこには不滅の雪が小氷河になって凍った滝のようにたれ下がっていた。サンゴタールのトンネルを通ってから食堂車にはいるとまもなくフィヤワルドステッター湖に近づく。湖畔の低い丘陵の丸くなめらかな半腹の草原には草花が咲き乱れ、ところどころに李やりんごらしい白や薄紅の花が、ちょうど粉でも振りかけたように見える。新緑のあざやかな中に赤瓦白壁の別荘らしい建物が排置よく入り交じっている。そのような平和な景色のかたわらには切り立った懸崖が物すごいような地層のしわを露出してにらんでいたりする。湖の対岸にはまっ黒な森が黙って考え込んでいる。
ルツェルンも想像のほかに美しかった。ここから先の地形が、なんとなく横浜大船間の丘陵起伏の模様と似通っていた。とある農家の裏畑では、若い女が畑仕事をしているのを見つけた。完全に発育している腰から下に裾の広がった袴を着けて、がんじょうな靴をはいて鍬をふるっている、下広がりのスタビリティのよい姿は決して見にくいものではなかった。ここに限らず女の農作をしているのを途中でいくらも見かけたが、派手なあざやかなしかし柔らかな着物の色がいずれも周囲の天然によく調和していた。そして遠くから見ると日に焼けた顔の色がどれもこれもまたなんとなく美しく輝いて見えた。このへんの風物に比べると日本のはただ灰色ややに色ばかりであるような気がした。
バーゼルからいよいよドイツへはいるのである。やっと目ざす国の国境をはいった心持ちには、長い旅から故郷に帰った時のそれに似たものがあった。フォスゲンやシュワルツワルドを遠くに見て、ライン地方の低地を過ぎて行くのである。至るところの緑野にポプラや楊の並み木がある。日が暮れかかって、平野の果てに入りかかった夕陽は遠い村の寺塔を空に浮き出させた。さびしい野道を牛車に牧草を積んだ農夫がただ一人ゆるゆる家路へ帰って行くのを見たときにはちょっと軽い郷愁を誘われた。カールスルーエからはもうすっかり暗くなって、月明かりはあったが景色は見えなかった。科学を誇る国だけに鉄路はなめらかで、汽車の動揺や振動は少ない。ただ大風のような音を立てて夜のラインランドを下って行った。フランクフルトで十時になった。Rrrreisekissen ! Die Decken ! と呼びあるく売り子の声が広大な停車場の穹状の屋根に響いて反射していた。そのrの喉音や語尾の自然な音韻が紛れもないドイツの生粋の気分を旅客の耳に吹き込むものであった。パンとゆで玉子を買って食う。ここでおおぜい乗り込んだ人々が自分ら二人にいろんな話をしかける。言語がよくわからないと見てとってむやみにゆっくり一語一語を区切って話す老人もあったがそのためにかえってなんの事だかわからなくなるのであった。ヤパンでは男女混浴だというがほんとうかなどと聞いたりした。このいやな老人はまもなく下車する。取って代わって派手な制服を着た男が日本に対するお世辞のような事をいうから、こっちも答礼としてドイツの科学のすぐれている点をあげてやった。服装で軍人かと思ったらフルダの市吏員であった。おりる時に握手して、機会があったら遊びに来いなどと言った。やっと二人きりになったのでそのまま横になって一寝入りする。四時ごろ一人はいって来た客が、自分らが起き上がろうとするのを、ビッテビッテと言って押しとどめて腰掛けのすみのほうへ小さくなって腰かけていた。
五月六日
目がさめると、もう夜が明けはなれていた。自分ら二人の疲れた眠り足らない目の前に、最初のドイツの朝が目さめていた。ゆるやかに波を打つ地面には麦畑らしい斑点や縞が見え、低い松林が見え、ポプラの並み木が見え、そして小高い丘の頂上には風車小屋があって、その大きな羽根がゆるやかに回転しながら朝日にキラキラしていた。それは自分の頭の中でさまざまな美しい夢と結びつけられているあの風車であった。自分の心は子供のようにおどった。そしてこの風車が何かしらいい事の前兆ででもあるような気がするのであった。
いつのまにか汽車はくすぶった大都会の裏町を通っていた。そして大きな数階の家の高い窓に干してあるせんたく物が目についたりした。午前七時三十五分にアンハルター停車場に着いた。H氏が迎いに来ていていきなり握手をした。それが西洋くさい事には最も縁の遠い地味なH氏であるだけに、妙な心持ちがしたが、これから自分らが入るべき新しい変わった生活の最初の経験として無意味な事とは思われなかった。ドロシケを雇ってシェーネベルヒの下宿へ行く途中で見たベルリンの家並みは、絵はがきや写真で想像したのに比べて妙に鈍い灰色をしていた。空気がなんとなくかすんだようで、日の光が眠っているようであった。そしてなんとなくさびしく空虚な頭の底によどんでいた長い長い旅の疲労が、今にも流れ出ようとしてすきまを求めていた。
底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
1997(平成9)年12月15日第81刷発行
入力:田辺浩昭
校正:田中敬三、かとうかおり
2003年6月25日作成
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