音について
太宰治
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文字を読みながら、そこに表現されてある音響が、いつまでも耳にこびりついて、離れないことがあるだらう。オセロオであつたか、ほかの芝居であつたか、しらべてみれば、すぐ判るが、いまは、もの憂く、とにかくシエクスピア劇のひとつであることは間違ひない、とだけ言つて置いて、その芝居の人殺しのシイン、寝室でひそかに女をしめ殺して、ヒロオも、われも、瞬時、ほつと重くるしい溜息。額の油汗拭はむと、ぴくとわが硬直の指うごかした折、とん、とん、部屋の外から誰やら、ドアをノツクする。ヒロオは、恐怖のあまり飛びあがつた。ノツクは、無心に、つづけられる。とん、とん、とん、とん、ヒロオは、その場で気が狂つたか、どうか、私はその後の筋書を忘れてしまつた。
油地獄にも、ならずものの与兵衛とかいふ若い男が、ふとしたはづみで女を、むごたらしく殺してしまつて、その場に茫然立ちつくしてゐると、季節は、ちやうど五月、まちは端午の節句で、その家の軒端の幟が、ばたばたばたばたばたと、烈風にはためいてゐる音が聞えて淋しいとも侘びしいとも与兵衛が可愛さうでならなかつた。五人女にも、於七が吉三のとこへ夜決心してしのんで行つて、鈴に蹴躓き、からからと大音響、傍に寝てゐる小僧が眼をさまして、あれ、おぢやうさんは、よいことを、と叫ばれ、ひたと両手合せて小僧にたのみいる、ところがあつたと覚えてゐるが、あの思はざる鈴の音には読むものすべて、はつと魂消したにちがひない。
まだ誰も邦訳してゐないが、プロフエツサアといふ小説、作者は女のひと、別なもう一つの長篇小説で、なにかの文庫で日本にその名を紹介せられた筈であるが、その作者の名も、その長篇小説の名も、その文庫の名もすべて、いますぐ思ひ出せない。これとて、しらべてみれば、判るのだが、いま、その必要を認めない。プロフエツサアといふ小説は、さる田舎の女学校の出来事を叙したものであつて、放課後、余人ひとりゐないガランとした校舎、たそがれ、薄暗い音楽教室で、男の教師と、それから主人公のかなしく美しい女のひとと、ふたりきりひそひそ世の中の話を語つてゐるのであるが、秋風が無人の廊下をささと吹き過ぎて、いづこか遠い扉が、ばたん、と音たてる。いよいよ森閑として、読者は、思はずこの世のくらしの侘びしさに身ぶるひをする、といふ様な仕組みになつてゐた。
同じ扉の音でも、まるつきり違つた効果を出す場合がある。これも作者の名は、忘れた。イギリスのブルウストツキングであるといふことだけは、間違ひないやうだ。ランタアンといふ短篇小説である。たいへん難渋の文章で、私は、おしまひまで読めなかつた。神魂かたむけて書き綴つた文章なのであらう。細民街のぼろアパアト、黄塵白日、子らの喧噪、バケツの水もたちまちぬるむ炎熱、そのアパアトに、気の毒なヘロインが、堪へがたい焦躁に、身も世もあらず、もだえ、のたうちまはつてゐるのである。隣の部屋からキンキン早すぎる廻転の安蓄音器が、きしりわめく。私は、そこまで読んで、息もたえだえの思ひであつた。
ヘロインは、ふらふら立つて鎧扉を押しあける。かつと烈日、どつと黄塵。からつ風が、ばたん、と入口のドアを開け放つ。つづいて、ちかくの扉が、ばたんばたん、ばたんばたん、十も二十も、際限なく開閉。私は、ごみつぽい雑巾で顔をさかさに撫でられたやうな思ひがした。みな寝しづまつたころ、三十歳くらゐのヘロインは、ランタアンさげて腐りかけた廊下の板をぱたぱた歩きまはるのであるが、私は、いまに、また、どこか思はざる重い扉が、ばたあん、と一つ、とてつもない大きい音をたてて閉ぢるのではなからうかと、ひやひやしながら、読んでいつた。
ユリシイズにも、色様々の音が、一杯に盛られてあつた様に覚えてゐる。
音の効果的な適用は、市井文学、いはば世話物に多い様である。もともと下品なことにちがひない。それ故にこそ、いつそう、恥かしくかなしいものなのであらう。聖書や源氏物語には音はない。全くのサイレントである。
底本:「太宰治全集 10」筑摩書房
1990(平成2)年12月25日初版第1刷発行
初出:「早稲田大学新聞 第60号」早稲田大学新聞社
1937(昭和12)年1月20日
入力:砂場清隆
校正:林 幸雄
2002年12月3日作成
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