僻見
芥川龍之介
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この数篇の文章は何人かの人々を論じたものである。いや、それらの人々に対する僕の好悪を示したものである。
この数篇の文章の中に千古の鉄案を求めるのは勿論甚だ危険である。僕は少しも僕の批判の公平を誇らうとは思つてゐない。実際又公平なるものは生憎僕には恵まれてゐない、──と云ふよりも寧ろ恵まれることを潔しとしない美徳である。
この数篇の文章の中に謙譲の精神を求めるのはやはり甚だしい見当違ひである。あらゆる批判の芸術は謙譲の精神と両立しない。就中僕の文章は自負と虚栄心との吸ひ上げポンプである。
この数篇の文章の中に軽佻の態度を求めるのは最も無理解の甚だしいものである。僕は締切り日に間に合ふやうに、匆忙とペンを動かさなければならぬ。かう云ふ事情の下にありながら、しかも軽佻に振舞ひ得るものは大力量の人のあるばかりである。
この数篇の文章は僕の好悪を示す以外に、殆ど取り柄のないものである。唯僕は僕の好悪を出来るだけ正直に示さうとした。もし取り柄に近いものを挙げれば、この自ら偽るの陋を敢てしなかつたことばかりである。
晋書礼記は「正月元会、自獣樽を殿庭に設け、樽蓋上に白獣を施し、若し能く直言を献ずる者あらば、この樽を発して酒を」飲ましめたことを語つてゐる。僕はこの数篇の文章の中に直言即ち僻見を献じた。誰か僕の為に自獣樽を発し一杓の酒を賜ふものはないか? 少くとも僕の僻見に左袒し、僻見の権威を樹立する為に一臂の力を仮すものはないか?
斎藤茂吉
斎藤茂吉を論ずるのは手軽に出来る芸当ではない。少くとも僕には余人よりも手軽に出来る芸当ではない。なぜと云へば斎藤茂吉は僕の心の一角にいつか根を下してゐるからである。僕は高等学校の生徒だつた頃に偶然「赤光」の初版を読んだ。「赤光」は見る見る僕の前へ新らしい世界を顕出した。爾来僕は茂吉と共におたまじやくしの命を愛し、浅茅の原のそよぎを愛し、青山墓地を愛し、三宅坂を愛し、午後の電燈の光を愛し、女の手の甲の静脈を愛した。かう云ふ茂吉を冷静に見るのは僕自身を冷静に見ることである。僕自身を冷静に見ることは、──いや、僕は他見を許さぬ日記をつけてゐる時さへ、必ず第三者を予想した虚栄心を抱かずにはゐられぬものである。到底行路の人を見るやうに僕自身を見ることなどの出来る筈はない。
僕の詩歌に対する眼は誰のお世話になつたのでもない。斎藤茂吉にあけて貰つたのである。もう今では十数年以前、戸山の原に近い借家の二階に「赤光」の一巻を読まなかつたとすれば、僕は未だに耳木兎のやうに、大いなる詩歌の日の光をかい間見ることさへ出来なかつたであらう。ハイネ、ヴエルレエン、ホイツトマン、──さう云ふ紅毛の詩人の詩を手あたり次第読んだのもその頃である。が、僕の語学の素養は彼等の内陣へ踏み入るには勿論浅薄を免れなかつた。のみならず僕に上田敏と厨川白村とを一丸にした語学の素養を与へたとしても、果して彼等の血肉を啖ひ得たかどうかは疑問である。(僕は今もなほ彼等の詩の音楽的効果を理解出来ない。稀に理解したと思ふのさへ、指を折つて見れば十行位である。)この故に当時彼等の詩を全然読まずにゐたとしても、必しも後悔はしなかつたであらう。けれども万一何かの機会に「赤光」の一巻をも読まなかつたとすれば、──これも実は考へて見れば、案外後悔はしなかつたかも知れない。その代りに幸福なる批評家のやうに、彼自身の色盲には頓着せず、「歌は到底文壇の中心的勢力にはなり得ない」などと高を括つてゐたことは確かである。
且又茂吉は詩歌に対する眼をあけてくれたばかりではない。あらゆる文芸上の形式美に対する眼をあける手伝ひもしてくれたのである。眼を?──或は耳をとも云はれぬことはない。僕はこの耳を得なかつたとすれば、「無精さやかき起されし春の雨」の音にも無関心に通り過ぎたであらう。が、差当り恩になつたものは眼でも耳でも差支へない。兎に角僕は現在でもこの眼に万葉集を見てゐるのである。この眼に猿蓑を見てゐるのである。この眼に「赤光」や「あら玉」を、──もし正直に云ひ放せば、この眼に「赤光」や「あら玉」の中の幾首かの悪歌をも見てゐるのである。
斎藤茂吉を論ずるのは上に述べた理由により、少くとも僕には余人よりも手軽に出来る芸当ではない。且又茂吉の歌の価値を論じ、歌壇に対する功罪を論じ、短歌史上の位置を論ずるのはをのづから人のゐる筈である。(たとひ今はゐないにしろ、百年の後には一人位、必ず茂吉を賛美するか、或は茂吉を罵殺するか、どの道真剣に「赤光」の作者を相手どるものの出る筈である。)かたがた厳然たる客観の舞台に斎藤茂吉を眺めることは少時他日に譲らなければならぬ。僕の此処に論じたいのは何故に茂吉は後輩たる僕の精神的自叙伝を左右したか、何故に僕は歌人たる茂吉に芸術上の導者を発見したか、何故に僕等は知らず識らずのうちに一縷の血脈を相伝したか、──つまり何故に当時の僕は茂吉を好んだかと云ふことだけである。
けれどもこの「何故に?」も答へるのは問ふのよりも困難である。と云ふ意味は必ずしも答の見つからぬと云ふのではない。寧ろ答の多過ぎるのに茫然たらざるを得ないのである。たとへば天満の紙屋治兵衛に、何故に彼は曾根崎の白人小春を愛したかと尋ねて見るが好い。治兵衛は忽ち算盤を片手に、髪が好いとか眼が好いとか或は又手足の優しいのが好いとか、いろいろの特色を並べ立てるであらう。僕の茂吉に於けるのもやはりこの例と同じことである。茂吉の特色を説明し出せば、それだけでも数頁に及ぶかも知れない。茂吉は「おひろ」の連作に善男子の恋愛を歌つてゐる。「死にたまふ母」の連作に娑婆界の生滅を語つてゐる。「口ぶえ」の連作に何ものをも避けぬ取材の大胆を誇つてゐる。「乾草」の連作に未だ嘗なかつた感覚の雋鋭を弄んでゐる。「この里に大山大将住むゆゑにわれの心のうれしかりけり」におほどかなる可笑しみを伝へてゐる。「くろぐろと円らに熟るる豆柿に小鳥はゆきぬつゆじもはふり」に素朴なる画趣を想はせてゐる。「かうかう」「しんしん」の Onomatope に新しい息吹きを吹きこんでゐる。「父母所生」「海此岸」の仏語に生なましい紅血を通はせてゐる。……
かう云ふ特色は多少にもせよ、一一「何故に?」に答へるものである。が、その全部を数へ尽したにしろ、完全には「何故に?」に答へられぬものである。成程小春の眼や髪はそれぞれ特色を具へてゐるであらう。しかし治兵衛の愛するのは小春と云ふ一人の女人である。眼や髪の特色を具へてゐるのも実は小春と云ふ一人の女人を現してゐるからに外ならぬ。すると小春なるものを掴まへない以上、完全に「何故に?」と答へることは到底出来る筈のものではない。その又小春なるものを掴まへることは、──治兵衛自身も掴まへたかどうかは勿論千古の疑問である。少くとも格別掴まへた結果を文章に作りなどはしなかつたらしい。けれども僕は僕の好んだ茂吉なるものを掴まへた上、一篇の文章を作らなければならぬ。たとひはつきり掴まへることは人間業には及ばないにもしろ、兎に角義理にも一応は眼鼻だけを明らかにした上、寄稿の約束を果さなければならぬ。この故に僕はもう一度あり余る茂吉の特色の中へ、「何故に?」と同じ問を投げつけるのである。
「光は東方より来たる」さうである。しかし近代の日本には生憎この言葉は通用しない。少くとも芸術に関する限りは屡西方より来てゐるやうである。芸術──と大袈裟に云はないでも好い。文芸だけを考へて見ても、近代の日本は見渡す限り大抵近代の西洋の恩恵を蒙つてゐるやうである。或は近代の西洋の模倣を試みてゐるやうである。尤も模倣などと放言すると、忽ち非難を蒙るかも知れない。現に「模倣に長じた」と云ふ言葉は日本国民に冠らせる悪名の代りに使はれてゐる。しかし何ぴとも模倣する為には模倣する本ものを理解しなければならぬ。たとひ深浅の差はあるにしろ、兎に角本ものを理解しなければならぬ。その理解の浅い例は所謂猿の人真似である。(善良なる猿は人間の所業に深い理解を持つた日には二度と人真似などはしないかも知れない。)その理解の深い例は芸術の士のする模倣である。即ち模倣の善悪は模倣そのものにあるのではない。理解の深浅にある筈である。よし又浅い理解にもせよ、無理解には勝ると云はなければならぬ。猿の孔雀や大蛇よりも進化の梯子の上段に悠悠と腰を下してゐるのは明らかにこの事実を教へるものである。「模倣に長じた」と云ふ言葉は必しも我我日本人の面目に関はる形容ではない。
芸術上の模倣は上に述べた通り、深い理解に根ざしてゐる。況やこの理解の透徹した時は、模倣はもう殆ど模倣ではない。たとへば今は古典になつた国木田独歩の「正直者」はモオパスサンの模倣である。が、「正直者」を模倣と呼ぶのはナポレオンの事業をアレキサンダアの事業の模倣と呼ぶのと変りはない。成程独歩は人生をモオパスサンのやうに見たであらう。しかしそれは独歩自身もモオパスサンになつてゐた為である。或は独歩自身の中に微妙なる独歩モオパスサン組合の成立してゐた為である。更に又警句を弄すれば、人生も亦モオパスサンを模倣してゐた為と云はれぬことはない。「人生は芸術を模倣す」と云ふ、名高いワイルドのアフオリズムはこの間の消息を語るものである。人生?──自然でも勿論差支へない。ワイルドは印象派の生まれぬ前にはロンドンの市街に立ち罩める、美しい鳶色の霧などは存在しなかつたと云つてゐる。青あをと燃え輝いた糸杉もやはりゴツホの生まれぬ前には存在しなかつたのに違ひない。少くとも水水しい耳隠しのかげに薄赤い頬を光らせた少女の銀座通りを歩み出したのは確かにルノアルの生まれた後、──つひ近頃の出来事である。
便宜上もう一度繰り返せば、芸術上の理解の透徹した時には、模倣はもう殆ど模倣ではない。寧ろ自他の融合から自然と花の咲いた創造である。模倣の痕跡を尋ねれば、如何なる古今の作品と雖も、全然新しいと云ふものはない。が、又独自性の地盤を尋ねれば、如何なる古今の作品と雖も、全然古いと云ふものはない。「正直者」は上に述べた通り、独歩モオパスサン組合の製品である。と云ふのは何も署名だけは独歩であると云ふのではない。全篇に独歩の独自性をにじませてゐると云ふのである。すると独歩の見た人生は必しもモオパスサンを模倣することに終始してゐた訳ではない。これはワイルド自身にしても、人生の芸術を模倣する程度を厳密に規定はしなかつた筈である。実際又自然や人生はワイルドのアフオリズムを応用すれば、甚だ不正確に複製した三色版と云はなければならぬ。就中銀座街頭の少女などは最も拙劣なる三色版である。
近代の日本の文芸は横に西洋を模倣しながら、竪には日本の土に根ざした独自性の表現に志してゐる。苟くも日本に生を享けた限り、斎藤茂吉も亦この例に洩れない。いや、茂吉はこの両面を最高度に具へた歌人である。正岡子規の「竹の里歌」に発した「アララギ」の伝統を知つてゐるものは、「アララギ」同人の一人たる茂吉の日本人気質をも疑はないであらう。茂吉は「吾等の脈管の中には、祖先の血がリズムを打つて流れてゐる。祖先が想に堪へずして吐露した詞語が、祖先の分身たる吾等に親しくないとは吾等にとつて虚偽である。おもふに汝にとつても虚偽であるに相違ない」と天下に呼号する日本人である。しかしさう云ふ日本人の中にも、時には如何にありありと万里の海彼にゐる先達たちの面影に立つて来ることであらう。
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
かがやけるひとすぢの道遥けくてかうかうと風は吹きゆきにけり
野のなかにかがやきて一本の道は見ゆここに命をおとしかねつも
ゴツホの太陽は幾たびか日本の画家のカンヴアスを照らした。しかし「一本道」の連作ほど、沈痛なる風景を照らしたことは必しも度たびはなかつたであらう。
かぜむかふ欅太樹の日てり葉の青きうづだちしまし見て居り
いちめんにふくらみ円き粟畑を潮ふきあげし疾風とほる
あかあかと南瓜ころがりゐたりけりむかうの道を農夫はかへる
これらの歌に対するのは宛然後期印象派の展覧会の何かを見てゐるやうである。さう云へば人物画もない訳ではない。
狂人のにほひただよふ長廊下まなこみひらき我はあゆめる
すき透り低く燃えたる浜の火にはだか童子は潮にぬれて来
のみならずかう云ふ画を描いた画家自身の姿さへ写されてゐる。
ふゆ原に絵をかく男ひとり来て動くけむりをかきはじめたり
幸福なる何人かの詩人たちは或は薔薇を歌ふことに、或はダイナマイトを歌ふことに彼等の西洋を誇つてゐる。が、彼等の西洋を茂吉の西洋に比べて見るが好い。茂吉の西洋はをのづから深処に徹した美に充ちてゐる。これは彼等の西洋のやうに感受性ばかりの産物ではない。正直に自己をつきつめた、痛いたしい魂の産物である。僕は必ずしも上に挙げた歌を茂吉の生涯の絶唱とは云はぬ。しかしその中に磅礴する茂吉の心熱の凄じさを感ぜざるを得ないのは事実である。同時に又さう云ふ熔鉱炉の底に火花を放つた西洋を感ぜざるを得ないのも事実である。
僕は上にかう述べた。「近代の日本の文芸は横に西洋を模倣しながら、竪には日本の土に根ざした独自性の表現に志してゐる。」僕は又上にかう述べた。「茂吉はこの竪横の両面を最高度に具へた歌人である。」茂吉よりも秀歌の多い歌人も広い天下にはあることであらう。しかし「赤光」の作者のやうに、近代の日本の文芸に対する、──少くとも僕の命を托した同時代の日本の文芸に対する象徴的な地位に立つた歌人の一人もゐないことは確かである。歌人?──何も歌人に限つたことではない。二三の例外を除きさへすれば、あらゆる芸術の士の中にも、茂吉ほど時代を象徴したものは一人もゐなかつたと云はなければならぬ。これは単に大歌人たるよりも、もう少し壮大なる何ものかである。もう少し広い人生を震蕩するに足る何ものかである。僕の茂吉を好んだのも畢竟この故ではなかつたのであらうか?
あが母の吾を生ましけむうらわかきかなしき力おもはざらめや
菲才なる僕も時々は僕を生んだ母の力を、──近代の日本の「うらわかきかなしき力」を感じてゐる。僕の歌人たる斎藤茂吉に芸術上の導者を発見したのは少しも僕自身には偶然ではない。
岩見重太郎
岩見重太郎と云ふ豪傑は後に薄田隼人の正兼相と名乗つたさうである。尤もこれは講談師以外に保証する学者もない所を見ると、或は事実でないのかも知れない。しかし事実ではないにもせよ、岩見重太郎を軽蔑するのは甚だ軽重を失したものである。
第一に岩見重太郎は歴史に実在した人物よりもより生命に富んだ人間である。その証拠には同時代の人物──たとへば大阪五奉行の一人、長束大蔵の少輔正家を岩見重太郎と比べて見るが好い。武者修業の出立ちをした重太郎の姿はありありと眼の前に浮んで来る。が、正家は大男か小男か、それさへも我々にははつきりしない。且又かういふ関係上、重太郎は正家に十倍するほど、我々の感情を支配してゐる。我々は新聞紙の一隅に「長束正家儀、永々病気の処、薬石効無く」と云ふ広告を見ても、格別気の毒とは思ひさうもない。しかし重太郎の長逝を報ずる号外か何か出たとすれば、戯曲「岩見重太郎」の中にこの豪傑を翻弄した、無情なる菊池寛と雖も、憮然たらざるを得ないことであらう。のみならず重太郎は感情以上に我々の意志をも支配してゐる。戦ごつこをする小学生の重太郎を真似るのは云ふを待たない。僕さへ論戦する時などには忽ち大蛇を退治する重太郎の意気ごみになりさうである。
第二に岩見重太郎は現代の空気を呼吸してゐる人物──たとへば後藤子爵よりもより生命に富んだ人間である。成程子爵は日本の生んだ政治的豪傑の一人かも知れない。が、如何なる豪傑にもせよ、子爵後藤新平なるものは恰幅の好い、鼻眼鏡をかけた、時々哄然と笑ひ声を発する、──兎に角或制限の中にちやんとをさまつてゐる人物である。甲の見た子爵は乙の見た子爵よりも眼が一つ多かつたなどと云ふことはない。それだけに頗る正確である。同時に又頗る窮屈である。もし甲は象の体重を理想的の体重としてゐるならば、象よりも体重の軽い子爵は当然甲の要求に十分の満足を与へることは出来ぬ。もし又乙は麒麟の身長を理想的の身長としてゐるならば、麒麟よりも身長の短かい子爵はやはり乙の不賛成を覚悟しなければならぬ筈である。けれども岩見重太郎は、──岩見重太郎もをのづから武者修業の出立をした豪傑と云ふ制限を受けてゐないことはない。が、この制限はゴム紐のやうに伸びたり縮んだりするものである。甲乙二人の見る重太郎は必しも同一と云ふ訳には行かぬ。それだけに頗る不正確である。同時に又頗る自由である。象の体重を惝怳する甲は必ず重太郎の体重の象につり合ふことを承認するであらう。麒麟の身長を謳歌する乙もやはり重太郎の身長の麒麟にひとしいことを発見する筈である。これは肉体上の制限ばかりではない。精神上の制限でも同じことがある。たとへば勇気と云ふ美徳にしても、後藤子爵は我々と共にどの位勇士になり得るかを一生の問題としなければならぬ。しかし天下の勇士なるものはどの位重太郎になり得るかを一生の問題にしてゐるのである。この故に重太郎は後藤子爵よりも一層我々の情意の上に大いなる影響を及ぼし易い。我々は天の橋立に大敵と戦ふ重太郎には衷心の不安を禁ずることは出来ぬ。けれども衆議院の演壇に大敵と戦ふ後藤子爵には至極に冷淡に構へられるのである。
岩見重太郎の軽蔑出来ぬ所以はあらゆる架空の人物の軽蔑出来ぬ所以である。架空の人物と云ふ意味は伝説的人物を指すばかりではない。俗に芸術家と称へられる近代的伝説製造業者の造つた架空の人物をも加へるのである。カイゼル・ウイルヘルムを軽蔑するのは好い。が、一穂のともし火のもとに錬金の書を読むフアウストを軽蔑するのは誤りである。フアウストの書いた借金証文などは何処の図書館にもあつたことはない。しかしフアウストは今日もなほベルリンのカフエの一隅に麦酒を飲んでゐるのである。ロイド・ヂヨオヂを軽蔑するのは好い。が、三人の妖婆の前に運命を尋ねるマクベスを軽蔑するのは誤りである。マクベスの帯びた短刀などは何処の博物館にもあつたことはない。しかしマクベスは相不変ロンドンのクラブの一室に葉巻を薫ゆらせてゐるのである。彼等は過去の人物は勿論、現在の人物よりも油断はならぬ。いや彼等は彼等を造つた天才よりも長命である。耶蘇紀元三千年の欧羅巴はイブセンの大名をも忘却するであらう。けれども勇敢なるピイア・ギユントはやはり黎明の峡湾を見下してゐるのに違ひない。現に古怪なる寒山拾得は薄暮の山巒をさまよつてゐる。が、彼等を造つた天才は──豊干の乗つた虎の足跡も天台山の落葉の中にはとうの昔に消えてゐるであらう。
僕は上海のフランス町に章太炎先生を訪問した時、剥製の鰐をぶら下げた書斎に先生と日支の関係を論じた。その時先生の云つた言葉は未だに僕の耳に鳴り渡つてゐる。──「予の最も嫌悪する日本人は鬼が島を征伐した桃太郎である。桃太郎を愛する日本国民にも多少の反感を抱かざるを得ない。」先生はまことに賢人である。僕は度たび外国人の山県公爵を嘲笑し、葛飾北斎を賞揚し、渋沢子爵を罵倒するのを聞いた。しかしまだ如何なる日本通もわが章太炎先生のやうに、桃から生れた桃太郎へ一矢を加へるのを聞いたことはない。のみならずこの先生の一矢はあらゆる日本通の雄弁よりもはるかに真理を含んでゐる。桃太郎もやはり長命であらう。もし長命であるとすれば、暮色蒼茫たる鬼が島の渚に寂しい鬼の五六匹、隠れ蓑や隠れ笠のあつた祖国の昔を嘆ずるものも、──しかし僕は日本政府の植民政策を論ずる前に岩見重太郎を論じなければならぬ。
前に述べた所を繰り返せば、岩見重太郎は古人はもとより、今人よりも生命に富んだ、軽蔑すべからざる人間である。成程豊臣秀吉は岩見重太郎に比べても、少しも遜色はないかも知れない。けれどもそれは明らかに絵本太閤記の主人公たる伝説的人物の力である。さもなければ同じ歴史の舞台に大芝居を打つた徳川家康もやはり豊臣秀吉のやうに光彩を放つてゐなければならぬ。且又今人も無邪気なる英雄崇拝の的になるものは大抵彼等の頭の上に架空の円光を頂いてゐる。広い世の中には古往今来、かう云ふ円光の製造業者も少からぬことは云ふを待たない。たとへばロマン・ロオラン伝を書いた、善良なるステフアン・ツワイグは正に彼等を代表するものである。
僕の岩見重太郎に軽蔑を感ずるのは事実である。重太郎も国粋会の壮士のやうに思索などは余りしなかつたらしい。たとへば可憐なる妹お辻の牢内に命を落した後、やつと破牢にとりかかつたり、妙に夢知らせを信用したり、大事の讐打ちを控へてゐる癖に、狒退治や大蛇退治に力瘤を入れたり、いつも無分別の真似ばかりしてゐる。その点は菊池寛の為に翻弄されるのもやむを得ない。けれども岩見重太郎は如何なる悪徳をも償ふ位、大いなる美徳を持ち合せてゐる。いや、必しも美徳ではない。寧ろ善悪の彼岸に立つた唯一無二の特色である。岩見重太郎は人間以上に強い。(勿論重太郎の同類たる一群の豪傑は例外である。)重太郎の憤怒を発するや、太い牢格子も苧殻のやうに忽ち二つにへし折れてしまふ。狒や大蛇も一撃のもとにあへない最期を遂げる外はない。千曳の大岩を転がすなどは朝飯前の仕事である。由良が浜の沖の海賊は千人ばかり一時に俘になつた。天の橋立の讐打ちの時には二千五百人の大軍を斬り崩してゐる。兎に角重太郎の強いことは天下無敵と云はなければならぬ。かう云ふ強勇はそれ自身我々末世の衆生の心に大歓喜を与へる特色である。
小心なる精神的宦官は何とでも非難を加へるが好い。天つ神の鋒から滴る潮の大和島根を凝り成して以来、我々の真に愛するものは常にこの強勇の持ち主である。常にこの善悪の観念を脚下に蹂躙する豪傑である。我々の心は未だ嘗て罪悪の意識を逃れたことはない。青丹よし奈良の都の市民は卵を食ふことを罪悪とした。と思へば現代の東京の市民は卵を食はないことを罪悪としてゐる。これは勿論卵ばかりではない。「我」に対する信仰の薄い、永久に臆病なる我々は我々の中にある自然にさへ罪悪の意識を抱いてゐる。が、豪傑は我々のやうに罪悪の意識に煩はされない。実践倫理の教科書はもとより、神明仏陀の照覧さへ平然と一笑に附してしまふ。一笑に附してしまふのは「我」に対する信仰のをのづから強い結果である。たとへば神代の豪傑たる素戔嗚の尊に徴すれば、尊は正に千位置戸の刑罰を受けたのに相違ない。しかし刑罰を受けたにしろ、罪悪の意識は寸毫も尊の心を煩はさなかつた。さもなければ尊は高天が原の外に刑余の姿を現はすが早いか、あのやうに恬然と保食の神を斬り殺す勇気はなかつたであらう。我々はかう云ふ旺盛なる「我」に我々の心を暖める生命の炎を感ずるのである。或は我々の到達せんとする超人の面輪を感ずるのである。
まことに我々は熱烈に岩見重太郎を愛してゐる。のみならず愛するのに不思議はない。しかしかう云ふ我々の愛を唯所謂強者に対する愛とばかり解釈するならば、それは我々を誣ひるものである。如何にも何人かの政治家や富豪は善悪の彼岸に立つてゐるかも知れない。が、彼岸に立つてゐることは常に彼等の秘密である。おまけに又彼等はその秘密に対する罪悪の意識を逃れたことはない。秘密は必しも咎めるに足らぬ。現に古来の豪傑も家畜に似た我々を駆使する為には屡々仮面を用ひたやうである。けれども罪悪の意識に煩はされるのは明らかに豪傑の所業ではない。彼等は強いと云ふよりも寧ろ病的なる欲望に支配されるほど弱いのである。もし嘘だと思ふならば、試みに彼等を三年ばかり監獄の中に住ませて見るが好い。彼等は必ずニイチエの代りに親鸞上人を発見するであらう。我々の愛する豪傑は最も彼等に遠いものである。もし彼等に比べるとすれば、活動写真の豪傑さへ数等超人の面影を具へてゐると云はなければならぬ。現に我々は彼等よりも活動写真の豪傑を愛してゐる。ハリケエン・ハツチの近代的富豪にはり倒される光景は見るに堪へない。しかし近代的富豪のハリケエン・ハツチに、──ハリケエン・ハツチもはり倒すほど、臆病なる彼等の一団に興味を持つかどうかは疑問である。
岩見重太郎の武勇伝の我々に意味のあることは既に述べた通りである。が、重太郎の冒険はいづれも末世の我々に同じ興味を与へる訳ではない。その最も興味のあるものは牢破りと狒退治との二つである。一国の牢獄を破るのは国法を破るのと変りはない。狒も単に狒と云ふよりは、年々人身御供を受けてゐた、牛頭明神と称する妖神である。すると重太郎は牢破りと共に人間の法律を蹂躙し、更に又次の狒退治と共に神と云ふ偶像の法律をも蹂躙したと云はなければならぬ。これは重太郎一人に限らず、上は素戔嗚の尊から下はミカエル・バクウニンに至る豪傑の生涯を象徴するものである。いや、更に一歩を進めれば、あらゆる単行独歩の人の思想的生涯をも象徴するものである。彼等は皆人間の虚偽と神の虚偽とを蹂躙して来た。将来も亦あらゆる虚偽を蹂躙することを辞せぬであらう。重太郎の退治した狒の子孫は未だに人身御供を貪つてゐる。牢獄も、──牢獄は市が谷にあるばかりではない。囚人たることにさへ気のつかない、新時代の服装をした囚人の夫婦は絡繹と銀座通りを歩いてゐる。
人間の進歩は遅いものである。或は蝸牛の歩みよりも更に遅いものかも知れない。が、如何に遅いにもせよ、アナトオル・フランスの云つたやうに、「徐ろに賢人の夢みた跡を実現する」ことは事実である。いにしへの支那の賢人は車裂の刑を眺めたり、牛鬼蛇神の像を眺めたりしながら、尭舜の治世を夢みてゐた。(将来を過去に求めるのは常に我々のする所である。我々の心の眼なるものはお伽噺の蛙の眼と多少同一に出来てゐるらしい。)尭舜の治世は今日もなほ雲煙のかなたに横はつてゐる。しかし車はいにしへのやうに車裂の刑には使はれてゐない。牛鬼蛇神の像なども骨董屋の店か博物館に陳列されてゐるばかりである。よし又かう云ふ変化位を進歩と呼ぶことは出来ないにしろ、人間の文明は有史以来僅々数千年を閲したのに過ぎない。けれども地球の氷雪の下に人間の文明を葬るのは六百万年の後ださうである。人間も悠久なる六百万年の間には著しい進歩をするかも知れない。少くともその可能性を信ずることは痴人の談とばかりも云はれぬであらう。もしこの確信を事実とすれば、人間の将来は我々の愛する岩見重太郎の手に落ちなければならぬ。牢を破り狒を殺した超人の手に落ちなければならぬ。
僕の岩見重太郎を知つたのは本所御竹倉の貸本屋である。いや、岩見重太郎ばかりではない。羽賀井一心斎を知つたのも、妲妃のお百を知つたのも、国定忠次を知つたのも、祐天上人を知つたのも、八百屋お七を知つたのも、髪結新三を知つたのも、原田甲斐を知つたのも、佐野次郎左衛門を知つたのも、──閭巷無名の天才の造つた伝説的人物を知つたのは悉くこの貸本屋である。僕はかう云ふ間にも、夏の西日のさしこんだ、狭苦しい店を忘れることは出来ぬ。軒先には硝子の風鈴が一つ、だらりと短尺をぶら下げてゐる。それから壁には何百とも知れぬ講談の速記本がつまつてゐる。最後に古い葭戸のかげには梅干を貼つた婆さんが一人、内職の花簪を拵へてゐる。──ああ、僕はあの貸本屋に何と云ふ懐かしさを感じるのであらう。僕に文芸を教へたものは大学でもなければ図書館でもない。正にあの蕭条たる貸本屋である。僕は其処に並んでゐた本から、恐らくは一生受用しても尽きることを知らぬ教訓を学んだ。超人と称するアナアキストの尊厳を学んだのもその一つである。成程超人と言ふ言葉はニイチエの本を読んだ後、やつと僕の語彙になつたかも知れない。しかし超人そのものは──大いなる岩見重太郎よ、伝家の宝刀を腰にしたまま、天下を睨んでゐる君の姿は夙に僕の幼な心に、敢然と山から下つて来たツアラトストラの大業を教へてくれたのである。あの貸本屋はとうの昔に影も形も失つたであらう。が、岩見重太郎は今日もなほ僕の中に溌溂と命を保つてゐる。いつも人生の十字街頭に悠々と扇を使ひながら。
木村巽斎
今年の春、僕は丁度一年ぶりに京都の博物館を見物した。が、生憎その時は元来酸過多の胃嚢が一層異状を呈してゐた。韶を聞いて肉味を忘れるのは聖人のみに出来る離れ業である。僕は駱駝のシヤツの下に一匹の蚤でも感じたが最後、たとひ坂田藤十郎の演ずる「藤十郎の恋」を見せられたにしろ、到底安閑と舞台の上へ目などを注いでゐる余裕はない。況や胃嚢を押し浸した酸はあらゆる享楽を不可能にしてゐた。のみならず当時の陳列品には余り傑作も見えなかつたらしい。僕はまづ仏画から、陶器、仏像、古墨蹟と順々に悪作を発見して行つた。殊に龔半千か何かの掛物に太い字のべたべた並んでゐるのは殆ど我々胃病患者に自殺の誘惑を与へる為、筆を揮つたものとしか思はれなかつた。
その内に僕の迷ひこんだのは南画ばかりぶら下げた陳列室である。この室も一体にくだらなかつた。第一に鉄翁の山巒は軽石のやうに垢じみてゐる。第二に藤本鉄石の樹木は錆ナイフのやうに殺気立つてゐる。第三に浦上玉堂の瀑布は琉球泡盛のやうに煮え返つてゐる。第四に──兎に角南画と云ふ南画は大抵僕の神経を苛いらさせるものばかりだつた。僕は顔をしかめながら、大きい硝子戸棚の並んだ中を殉教者のやうに歩いて行つた。すると僕の目の前へ奇蹟よりも卒然と現れたのは小さい紙本の山水である。この山水は一見した所、筆墨縦横などと云ふ趣はない。寧ろ何処か素人じみた罷軟の態さへ帯びてゐる。其処だけ切り離して考へて見れば、玉堂鉄翁は姑く問はず、たとへば小室翠雲にも数歩を譲らざるを得ないかも知れない。しかし山石の苔に青み、山杏の花を発した景色は眇たる小室翠雲は勿論、玉堂鉄翁も知らなかつたほど、如何にも駘蕩と出来上つてゐる。僕はこの山水を眺めた時、忽ち厚い硝子越しに脈々たる春風の伝はるのを感じ、更に又胃嚢に漲つた酸の大潮のやうに干上るのを感じた。木村巽斎、通称は太吉、堂を蒹葭と呼んだ大阪町人は実にこの山水の素人作者である。
巽斎は名は孔恭、字は世粛と云ひ、大阪の堀江に住んでゐた造り酒屋の息子である。巽斎自身「余幼年より生質軟弱にあり。保育を専とす」と言つてゐるのを見ると、兎に角体は脾弱かつたらしい。が、少数の例外を除けば、大抵健全なる精神は不健全なる肉体に宿るやうに、巽斎の精神も子供の時から逞しい力を具へてゐた。其処へ幸福なるブウルヂヨアの家庭は教養の機会を与へるのに殆ど何ものをも吝まなかつた。今試みに巽斎自身のその間の消息をもの語つた伝記の数節を抄記すれば、──
「余幼少より生質軟弱にあり。保育を専とす。家君余を憫んで草木花樹を植うることを許す。親族に薬舗の者ありて物産の学あることを話し、稲若水、松岡玄達あることを聞けり。十二三歳の頃京都に松岡門人津島恒之進、物産に委しきことを知り、此の頃家君の京遊に従つて、始めて津島先生に謁し、草木の事を聞くこと一回。翌年余十五歳、家君の喪にあひ、十六歳の春余家母に従つて京に入り、再び津島氏に従学し、門人と為ることを得たり。」
「余五六歳の頃より、頗る画事を解き、我郷の大岡春卜、狩野流の画に名あり。因つて従つて学ぶ。春卜嘗て芥子園画伝に傚ひ、明人の画を模写し、「明朝紫硯」と云ふ彩色の絵本を上木す。余之れを見て始めて唐画の望あり。此頃家君の友人、和洲郡山柳沢権太夫(即ち柳里恭である。)毎々客居す。因つて友人に托し、柳沢の画を学ぶ。(中略)十二歳の頃、長崎の僧鶴亭と云ふ人あり。浪華に客居す。長崎神代甚左衛門(即ち熊斐である。)の門人なり。始めて畿内に南蘋流の弘まりたるは此の人に始まれり。余従つて花鳥を学び、池野秋平(即ち大雅である。)に従つて山水を学ぶ。」
「余十一歳の比、親族児玉氏片山忠蔵(即ち北海である。)の門人たるを以て、余を引いて名字を乞ふ。片山余が名を命じ、名鵠字は千里とす。其の後片山氏京に住す。余十八九歳の頃片山再び浪華に下り、立売堀に住す。余従つて句読を受く。四書六経史漢文選等を読むことを得たり。」
是等の数節の示してゐる通り、巽斎の学芸に志したのは弱冠に満たない時代であり、巽斎の師事した学者や画家も大半は当時の名流である。そればかりではない。南蛮臭い新知識に富んだ物産の学に傾倒したのは勿論、一たび「明朝紫硯」を見るや、忽ち長江の蘆荻の間に生じた南宋派の画法に心酔したのも少年らしい情熱を語つてゐる。
この聡明なる造り酒屋の息子はかう云ふ幸福なる境遇のもとに徐ろに自己を完成した。その自己は大雅のやうに純乎として純なる芸術家ではない。寧ろ人に師たるの芸十六に及んだと伝へられる柳里恭に近いディレツタントである。が、柳里恭のディレツタンティズムは超凡の才力を負うてゐると共に、デカダンスの臭味もない訳ではない。少くとも随筆「独寝」の中に男子一生の学問をも傾城の湯巻に換へんと言つた通人の面目のあることだけは兎も角も事実と言はなければならぬ。しかし巽斎のディレツタンティズムは変通自在の妙のない代りに、如何にも好箇の読書人らしい清目なる風格を具へてゐる。柳里恭は乞食の茶を飲んだり、馬上に瞽女の三味線を弾いたり、あらゆる奇行を恣にした。或は恣にしたと伝へられてゐる。けれども巽斎に関する伝説は少しも常軌を逸してゐない。まづ世人を驚かしたと云ふのも、「江戸の筆工鳳池堂のあるじ浪華に遊びしところ、蒹葭堂を訪ひしに、しばし待たせ給はれ、その中の慰みにとて一帖を出せり。いかなるものぞと開き見れば、江戸の筆工の家号をしるしたる名紙といふものを一枚の遺漏もなく集めたりしとぞ」(山崎美成)と云ふ程度の逸話ばかりである。尤もこの逸話にしても、「その好事の勝れたる想像すべし」と云ふより外に考へられない次第ではない。巽斎は明らかに鳳池堂の主人へ無言の一拶を与へてゐる。更に無造作に言ひ換へれば、アルバムに満載した筆屋の名刺を「どうだ?」とばかりに突きつけてゐる。その辺は勿論辛辣なる機鋒を露はしてゐるのに違ひない。しかし柳里恭に比べれば、──殊に「独寝」の作者たる柳里恭に比べれば、はるかに温乎たる長者の風を示してゐることは確かである。
「余幼年より絶えて知らざること、古楽、管絃、猿楽、俗謡、碁棋、諸勝負、妓館、声色の遊、総て其の趣を得ず。況や少年より好事多端暇なき故なり。勝負を好まざるは余頤養の意あればなり。」
巽斎の所謂娯楽なるものに少しも興味のなかつたことはこの一節の示す通りである。
「余が嗜好の事専ら奇書にあり。名物多識の学、其他書画碑帖の事、余微力と雖も数年来百費を省き収る所書籍に不足なし。過分と云ふべし。其の外収蔵の物、本邦古人書画、近代儒家文人詩文、唐山真蹟書画、本邦諸国地図、唐山蛮方地図、草木金石珠玉点介鳥獣、古銭古器物、唐山器物、蛮方異産の類ありと雖も、皆考索の用とす。他の艶飾の比にあらず。」
巽斎は是等のコレクシヨンを愛し、蒹葭堂を訪れる遠来の客に是等のコレクシヨンを示すことを愛した。いや、コレクシヨンと云ふよりも寧ろ宛然たる博物館である。年少の友だつた田能村竹田の、「収蔵せる法書、名画、金石、彝鼎、及び夷蛮より出づる所の異物奇品棟宇に充積す」と言つたのも必しも誇張ではなかつたであらう。巽斎は是等のコレクシヨンを「皆考索の用とす」と言つた。唐山蛮方の地図の中には欧羅巴亜米利加の大陸もはるかに横はつてゐた筈である。いや、蛮方異産の類の中には更紗だの、銅版画だの、虫眼鏡だの、「ダラアカ」と云ふ龍の子のアルコオル漬だの、或は又クレオパトラの金髪だのも(勿論これは贋物である)交つてゐたのに違ひない。是等のコレクシヨンを「考索した、」この聡明なるディレツタントは不可思議なる文明の種々相の前に、どう云ふ感慨を催したであらうか? 少くとも世界の大の前にどう云ふ夢を夢みたであらうか?
「京子浪華の地、古より芸園に名高きもの輩出し、海内に聞ゆるものありといへども、その該博精通、蒹葭堂の如きもの少し。(中略)曾て長崎に遊歴せしところ、唐山の風俗を問ひこゝろみ、帰りて後常に黄檗山にいたり、大成禅師に随ひ遊べることありしに、人ありて唐山の風俗を禅師に問ふものあり。禅師蒹葭堂をさして、この人よくこれを知れり。吾れ談を費すに及ばずといはれたりき。禅師はもと唐山の人にて、投化して黄檗山に住せしなり。」(山崎美成)
「この人よくこれを知れり。吾れ談を費すに及ばず」の言葉は賛辞かどうか疑問である。或は生死の一大事をも外に、多聞を愛するディレツタントへ一棒を加へたものだつたかも知れない。しかも一棒を加へられたにもせよ、如何に巽斎の支那風に精通してゐたかと云ふことは疑ひを容れない事実である。巽斎は云はゞ支那に関する最大の権威の一人だつた。支那の画を愛し、支那の文芸を愛し、支那の哲学を愛した時代のかう云ふ蒹葭堂主人の多識に声誉を酬いたのは当然である。果然海内の文人墨客は巽斎の大名の挙がると共に、続々とその門へ集まり出した。柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里、頼春水、桑山玉洲、釧雲泉、立原翠軒、野呂介石、田能村竹田等は悉その友人である。殊に田能村竹田は、………大いなる芸術家といふよりも寧ろ善い芸術家だつた竹田はこの老いたるディレツタントの前に最も美しい敬意を表した。「余甫めて冠して、江戸に東遊し、途に阪府を経、木世粛(即ち巽斎である。)を訪はんと欲す。偶々人あり、余を拉して、将に天王寺の浮屠に登らんとす。曰、豊聡耳王の創むる所にして、年を閲すること既に一千余、唯魯の霊光の巍然として独り存するのみならずと。余肯かず。遂に世粛を見る。明年西帰し、再び到れば、則ち世粛已に没し、浮屠も亦梵滅せり。」
巽斎はかう云ふ名声のうちに悠々と六十年の生涯を了した。この六十年の生涯は無邪気なる英雄崇拝者には或は平凡に見えるかも知れない。巽斎の後代に伝へたものは名高い蒹葭堂コレクシヨンを除けば、僅かに数巻の詩文集と数幀の山水とのあるばかりである。しかし大正の今日さへ、帝国大学図書館の蔵書を平然と灰燼に化せしめた、恬淡無欲なる我等の祖国は勿論蒹葭堂コレクシヨンをも無残なる散佚に任かせてしまつた。アルコオル漬のダラアカは何処へ行つたか? 大雅や柳里恭の画は何処へ行つたか? クレオパトラの金髪は、──そんなものはどうなつても差支ない。が、畢竟蒹葭堂主人は寥々たる著書と画との外に何も伝へなかつたと言はなければならぬ。
何も?──いや、必しも「何も」ではない。豊富なる蒹葭堂コレクシヨンは──殊にその万巻の蔵書は当代の学者や芸術家に大いなる幾多の先例を示した。是等の先例の彼等を鼓舞し、彼等を新世界へ飛躍せしめたのは丁度ロダンだのトルストイだの或は又セザンヌだのの我々を刺戟したのも同じことである。このペエトロン兼蒐集家たる木村巽斎の恩恵もやはり後代に伝へた遺産、──謹厳なる前人の批判によれば、最大の遺産に数へなければならぬ。けれども冷酷に言ひ放せば、それは丸善株式会社の我々に与へた恩恵と五十歩百歩の間にあるものである。少くとも所謂趣味に富んだ富豪或は富豪の息子の我々に与へ得る恩恵と五十歩百歩の間にあるものである。僕はかう云ふ恩恵の前に感謝の意を表するのを辞するものではない。しかし唯その為にのみ蒹葭堂主人を賛美するのは──第一に天下のペエトロンなるものを己惚れさせるだけでも有害である!
もう一度便宜上繰り返すと、巽斎の後代に伝へたものは僅かに数巻の詩文集と数幀の山水とのあるばかりである。もし蒹葭堂コレクシヨンの当代に与へた恩恵の外に、巽斎の真価を見出さうとすれば、どうしても是等の作品に──少くともちよつと前に挙げた一幀の春山図に立ち帰らなければならぬ。あの画中に磅礴する春はたとへば偉大なる大雅のやうに、造化を自家の鍋の中に溶した無上の甘露味には富んでゐない。と云つて又蕪村のやうに、独絶の庖丁を天地に加へた俊爽の風のないことも確かである。が、少しも凡庸ではない。丁度大きい微笑に似た、うらうらと明るい何ものかはおのづから紙の上に溢れてゐる。僕はその何ものかの中に蒹葭堂主人の真面目を、──静かに人生を楽しんでゐるディレツタントの魂を発見した。たとひ蒹葭堂コレクシヨンは当代の学者や芸術家に寸毫の恩恵を与へなかつたとしても、そんなことは僕の問ふ所ではない。僕は唯このディレツタントに、──如何に落寞たる人生を享楽するかを知つてゐた、風流無双の大阪町人に親しみを感ぜずにはゐられないのである。
我々はパスカルの言つたやうに、ものを考へる蘆である。が、実はそればかりではない。一面にはものを考へると共に、他面には又しつきりなしにものを感ずる蘆である。尤も感ずると断らないにもせよ、風にその葉をそよがせるのは風を感ずるのと似てゐるであらう。しかし我々のものを感ずるのは必しもそれほど機械的ではない。いや、黄昏の微風の中に万里の貿易風を感ずることも案外多いことは確かである。たとへば一本の糸杉は微風よりも常人を動かさないかも知れない。けれども天才に燃えてゐたゴツホはその一本の糸杉にも凄まじい生命を感じたのである。この故に落寞たる人生を十分に享楽する為には、微妙にものを考へると共に、微妙にものを感じなければならぬ。或は脳髄を具へてゐると共に、神経を具へてゐなければならぬ。果然古来のディレツタントは多少の学者であると共に、多少の芸術家であるのを常としてゐた。物産の学を究めると共に、画道に志した巽斎も正にかう云ふ一人である。微妙にものを考へると共に、微妙にものを感ずる蘆、──さう言へば巽斎は不思議にも蒹葭堂主人と号してゐた!
しかし棘のない薔薇はあつても、受苦を伴はない享楽はない。微妙にものを考へると共に、微妙にものを感ずる蘆は即ち微妙に苦しむ蘆である。この故に聡明なるディレツタントは地獄の業火を免れる為に、天堂の荘厳を捨てなければならぬ。更に手短かに言ひ換へれば、あらゆる悪徹底を避けなければならぬ。無邪気なる英雄崇拝者は勿論かう云ふディレツタントの態度を微温底とか何とか嘲るであらう。けれども微温底に住するの可否は享楽的態度の可否である。享楽的態度を否定するのは、──古来如何なる哲学と雖も、人生の使命を闡明するのに成功しなかつたことは事実である。昔はその不可なるを知つて、しかも仁を説いた孔丘さへ微温底なる中庸を愛してゐた。今はカフエに出没する以外に一事を成就しない少年までも灼熱底なる徹底を愛してゐる。が、それは兎も角も、貪慾に歓喜を求めるのは享楽を全うする所以ではない。巽斎も亦この例に洩れず、常に中庸を愛してゐた。巽斎自身行状を記した一巻の「蒹葭堂雑録」は如何にその心の秤の平衡を得てゐたかを示すものである。由来貧富のロマンテイシズムほど文人墨客を捉へたものはない。彼等は大抵清貧を誇るか、或は又豪奢を誇つてゐる。しかしひとり巽斎だけは恬然と倹素に安んじてゐた。
「余家君の余資に因つて、毎歳受用する所三十金に過ぎず。其の他親友の相憐を得るが為めに、少しく文雅に耽ることを得たり。百事倹省にあらずんば、豈今日の業を成んや。世人は余が実を知らず。豪家の徒に比す。余が本意にあらず。」
一年に三十両の収入と言へば、一月に二両二分の収入である。如何に宝暦明和の昔にもせよ、一月に二両二分の収入では多銭善く買ふ訳にも行かなかつたであらう。しかもなほ文雅に耽つたばかりか、蒹葭堂コレクシヨンさへ残したのはそれ自身豪奢の俗悪なる所以を示してゐるものと言はなければならぬ。(生憎今は旅先にゐるから、参考する書物を持つてゐない。が、宝暦明和の昔はざつと米一石に銀六十匁位の相場である。仮に金一両を銀四十匁位に考へた上、米価を標準に換算すれば、当時の一年に三十両は僅かに今日の千円未満であらう。尤もこれは当推量以上に信用の出来る計算ではない。)
「宝暦六年余廿一歳、森氏を娶る。生質微弱にして余が多病を給するに堪へず。況や十年を歴と雖も、一子を産せず。故に家母甚だこれを愁ふ。明和二年家人に命じ、山中氏の女を娶り、給仕せしむ。(中略)三年を経て妻森氏明和五年冬一女を産す。又明和八年一女を産す。妾山中氏より妻の微質を助け、二女を憐愛す、故に妻妾反更和好にして嫌悪の事なし。」
倹素に安んじた巽斎の偏愛を避けたのは勿論である。恐らくは妻妾の妬忌しなかつたのも貞淑の為ばかりではなかつたであらう。
「余弱冠より壮歳の頃まで、詩文を精究す。応酬の多に因つて贈答に労倦す。況や才拙にして敏捷なること能はず。大に我が胸懐に快ならず。交誼に親疎あり。幸に不才に托し、限つて作為せば、偶興の到にあひ、佳句を得て快楽の事とす。」
詩文は巽斎の愛する所である。しかも巽斎はその詩文にさへ、妄に才力を弄さうとしない。たとひ応酬の義理は欠いても、唯好句の嗒然と懐に入る至楽を守つてゐる。かう云ふ態度の窺はれるのは何も上に挙げた数節ばかりではない。巽斎の一生を支配するものは実にこの微妙なる節制である。この己を抑へると共に己を恣にした手綱加減である。蒹葭堂主人の清福のうちに六十年の生涯を了したのも偶然ではないと言はなければならぬ。
前にも度たび挙げた春山図は老木や巨巌の横はつた奥へ一条の幽径を通じてゐる。その幽径の窮まる処は百年の雪に埋もれた無人の峰々に違ひない。天才と世に呼ばれるものはそれ等の峰々へ攀づることを辞せない勇往果敢の孤客である。百年の雪を踏破することは勿論千古の大業であらう。が、崕花の発したのを見、澗水の鳴るのを聞きながら、雲と共に徂来するのもやはり一生の快事である。僕の愛する蒹葭堂主人はこの寂寞たる春山に唯一人驢馬を歩ませて行つた。春山図の逸趣に富んでゐるのも素より怪しむに足りないかも知れない。…………
底本:「芥川龍之介全集 第十一巻」岩波書店
1996(平成8)年9月9日発行
初出:広告、斎藤茂吉「女性改造 第三巻第三号」
1924(大正13)年3月1日発行
岩見重太郎「女性改造 第三巻第四号」
1924(大正13)年4月1日発行
木村巽斎「女性改造 第三巻第八号、第三巻第九号」
1924(大正13)年8月1日、9月1日発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:土屋隆
2008年12月9日作成
2009年12月10日修正
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