ひととき
宮本百合子



 はるかな森の梢に波立って居るうす紅い夕栄の雲の峯を見入りながら、私は花園の入口の柱によりかかって居る。

 何となく朝から霧の晴れ切れない様な日だったので、非常に静寂な夕暮である。

 うす青い様な空気の中に素早い動作で游いで居るトンボと蝙蝠の幾匹かは、一層高いところを、東へ東へと行く白鳥の灰色の影の下に如何にも微妙な運動をしめして居る。

 つめたい風が渡って居そうに暗い木陰に、忘られた西洋葵の焔の様な花と、高々と聳え立って居る青桐の葉の黄金の網とが、眠りに落ち様とする沈んだ重い種々の者を目さめるまでに引きたてて、まだ虫の音のまばらな、ひると、よるとのとけ合った一時を、思い深げに飾って居る。

 くつろいだ心地になって、私は持って居た本の背をやさしくなでながら、斯う云う時に有り勝な、沈ついたどっちかと云えば悲しみのこもった気持で、はてしなくいろいろの事を思いふけった。


 永い間例え折々は気まずい思いをしあっても、自分の友達の一人として居たまだ若い人が廻復の望がないと云われた病にかかって居るときいてからはいつもいつもその事ばかりが思われてならない。

 額の広い、健な時はきれいだとは云われなかったその人がこの頃はああ云う病気特有のすき透るほど白い肌になって見違えるほどなよやかに美くしくなったとか、西洋人形の様に大きい眼に涙を一杯ためて居たとか云う事を、前から私より親しくして居た人々からきくと、ついつい涙を押えられなくなってしまう。

 何と云う痛ましい事かと思うと、彼の人の大まかな、おっとりした物ごしが一々目に見えて来る。

 根気が強くて、どんな細かしい事でもコツコツとやって居た。

 何だか生え際の薄い様な人であったがなどとも思われる。

 低いどっちかと云えば鼻に掛った声で、堪らなく可笑しい時には、上半身を後の方にのばして高笑をする様子が何だか中年の男の様な感じを与えたので、私はその人の笑声がすると注意して見て、面白いなと思って居たものだ。

 二十近くまで育って、頭の中も漸々ようようまとまりかけ、体も熟して来た今になって、近い内に、そのすべてがこの地上から消滅して仕舞うのだと思うと、人々の記憶に残るほどの仕事も、短い年月の一生に仕あげられなかった彼の人の気持を察しないわけには行かない。

 神田の病院で、彼の人は何を思って居る事だろう。

 私が若し今、そう云う境遇になって、死の宣告まで与えられたら、自然にその日が来るのを待ちつづけて居るほどの勇悍な心はない。

 はげしい生の執着に悩んだ揚句は、気でも違ってしまうだろう。

 あきらめがないと云われても仕方がない。

 意気地がないとけなされもしようけれども、自分の一生の仕事を心嬉しく定めて、日々務めて居る。この希望の多い、栄ある一生を、どうしてそう素気なく思い切れよう。

 私が四十代にでもなったらどうかは知らないけれども、今の斯う云う気持はいつわられない。

 彼の人がそんな悲しい日を送って居るときいた十日程後、私は到々思い切って手紙を書いた。

 雨が静かに降って居た。

 家人から遠ざかった私の書斎は夕飯時でさえやかましくない程なのに、更けた夜の淋しいおだやかさと、荒れた土の肌をうるおおして行く雨のしとやかさが、私の本箱だらけの狭い部屋に満ち満ちて、着て居る薄い袷衣も、髪の毛も皆心に添うた様な晩であった。

 机の広い面に両手を這わせて、じいっとして居ると、いつの間にか、今紀州に居る歌人の安永さんの事を思い出した。

 それにつれて、種々の事が頭を通りすぎた中にどうしても私に、あの人へのたよりを書かせずには置かない様な事があった。

 早い春の暮方、その頃歌をやって居た私共六七人のものは、学校の裏の草の厚い様な所に安永さんを中心に円く座って、てんでに詠草の見っこをして居た。

 その時、私の樫の木の歌の中に「空にひ入る」と云う言葉があったのを、

「私にはあんまり強すぎる言葉なんです。

 どんなにつとめても、斯う云うのは私に出来ません。

 ほんとうに弱いんですよねえ、体も心も。

と云って、自分が沼津に居た時の歌だと云って、熱にうかされる様になって昼間火鉢によりかかって目をつぶるといつでも好きな夢を見られる嬉しさをうたった歌を誦して聞かせた。

 細い細いこの上ない感傷的な調子で、体をゆーらり、ゆーらりと、前後にゆすって歌う安永さんの様子は皆の心を物柔かな悲しさに導いて行った。

 私の左向うに座して、私の詠草を見たまま身動きもしずに下を見つめて居たあの人の様がその時どんなに淋しそうに見えたろう。

 考えて見れば、自分と同じ病の人の歌の気持は、私共に想像出来ないほど他の人の心を打ったに違いない。その様子が、どうしても追う事の出来ない様に私の目先にチラツいた。

 そして、私は、涙をためながらあの人にたよりを書いたのであった。

 奇麗な白い紙に、細い平仮名ばかりのやさしい「ふみ」であった。

 何としても、あの人の病を私が明かに知って居る様な事を云えなかったので只心に浮ぶままを書きつらねて行った。小さい私の部屋の隅から隅までより倍もながかった。

 じいっと、柱にもたれて、次第次第に黒ずんで来る森を見て居ると、その中の文句がきれぎれに思い出される。

いつもいつもゆうぐれにさえなりますれば、私の心に夕ばえのくもの様にさまざまないろとすがたのおもい出がわきますなかの一つが、とうとうこうやってふでをとらせたのでございます。

 思いがけないあの長い長い私の手紙をうけとって、彼の人はどんなに妙に思った事だろう。

 私は、床の上に起きあがって封書を持ったまましばらくは私からと云う事をうたがって、やがて私の癖の多いのたくった様な字を見きわめてから一方のはじをきるに違いない。

 何事でも用心深くやって行くあの人の気だてが出て来るのであろう。

 あの時、この後も御たよりをさしあげるのを御許し下さいと云いながら何となしせわしさにとりまぎれて一度もあげなかったけれどもどうだろう。

 私の筆不性から、又あの人の気まぐれだろうと思われてしまう事は辛い事である。

 彼の人が斯う云う病気になった時は、私が丁度遺伝と云う事に何となし心を引かれて居た時だったので非常に悲痛な適例を見せられた気がした。

 今更恐ろしさに身震をせずには居られなかった。

 自分の慰安を得るために、未来はてしなく産れ出づべき子孫の者共の辛痛を思わずに無責任に家庭を作ると云う事が明かな罪悪である事を思わされる。

 人間は病苦と淋しさに堪え得る強い心がないのであろうか。

 それ等の涙の種を忘れ得る専心の仕事を得られないものであろうか。

 斯う思うにつけ、知人の一人でまだ若い人が自分の病苦を未知な子孫に与えるのに忍びないと云って、孤独の一生を送る決心をして居るのを尊まずには居られない。

 真に幸福な事には私の体には何の濁った血液も流れ入って居らず健な心臓と頭を持って生活して行けるので私の周囲に起って来るそう云うみじめな事柄を見ききすると実にたまらない様になって来る。

「幽霊」のオスワルド・アルヴィングが受けたと同じ深さの苦悩が彼の人の胸の中にも横わって居るのである。只その苦悩が外に現れたのと、劇しい争を眼に見えぬ心の中でして居るのとの違いがあるばかりである。

 或る種の病の様にその生命が危険になった時には既に意識を失って居ると云うのなら幾分苦痛をのがれる事も出来様けれど、最後の一息を吐く瞬間まで明かにすぎる頭のままでなやまなければならない気持を私は心から同情するのである。

 私はその人達の親をせめるのである。

 親がその子と云う血肉の分れたものを此上なく愛すると云うのなら、何故、楽しかるべき世の幾段かの階をふませた後に生を奪うみじめさを思わないのであろう。何故始めから、今日こぼすいとおしみの涙をこぼして、静かに安らかな未来の国の子供となし得なかったのであろうぞ。

 私は、親となった人達の無責任さを、その罪の浄むべくもあらず深いのを力の有らん限りせめたいのである。子孫を産み養い育てる事は人としての義務ではあるとして、箇々の人にとってはそれが必しもその人に対しての最も適切な義務ではない事があるのを思わねばならないではなかろうか。

 私は重くなった様な頭をあげてほの暖い夕闇のあたりをながめた。

底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社

   1986(昭和61)年320日初版発行

※1915(大正4)年98日執筆の習作です。

入力:柴田卓治

校正:土屋隆

2008年228日作成

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