一日
宮本百合子



 降りたくても降れないと云う様な空模様で、蒸す事甚い。

 今朝も早くから隣の家でピアノを弾いて居るが気になって仕様がない。

 もう二三年あの人は、此処に別荘を持って居て、ついぞ琴の音もした事がないのに、急にピアノがきこえて、それが又かなりよい音だ。

 おとといの晩から、何かして居ても、聞えると、一寸手をとめて耳をすます。

 食堂の出まどに腰をかけて、楓の茂みの中から響いて来る音に注意すると、Haydn のものらしい軽い踊る様な調子がよく分る。

 弾手は男かしら女かしら。

 女の人にしては少し疎雑な手ぶりがあるが、いつの間にとりよせたか、来たかしたんだろう。

 私は、そんな事をかなり真面目に考えて居た。

 その音をきいて居ると、急に、自分のピアノのFaのシャープの出ないのが気になり出す。

 雨がつづいて居る時分からああなり出したので、天気がなおるとよくなるまいものでもないと放って置いたけれ共、一向によくならない。

 今日はどうしても高井にたのまなければならないからと思って電話をかける。

 声の太い頭の鈍そうな男が出て、私が早口だと見えて、

「おそれ入りますが、どうぞ、

 もう少しゆっくりおっしゃって下さい。

と云う。

 主人が旅行中で十四日後でなければと云う。

 それでよいから、次手ついでに、マンドリンの第一の絃を二本持って来て下さいと云ってやる。

 楽器屋や本屋の取次が、はきはきして居ないのはほんとうに気持が悪いと思う。

 早口で云われるとききとれない様な頭では駄目じゃあないかと思ったりして居ると、母が寿江子の頭がひどいから来て見ろと云う。

 ほんとにまあ可哀そうに、頭の地一杯に何だか、かさぶたの様なものがついて居る。

 産れた時すぐオーレーフル油で拭いてやるべきを、あの看護婦がしなかったのだと云う。

 口の中の消毒が完全でなくて、「がこうそう」が出来そうにまで、舌苔の様なものをつけさせた上にこんな事までして行ったかと思うと、あの髪のちりちりの四角ばった頭の女が憎々しく思い出される。

 母が何か少し差図めいた事を云うと、すぐ変な顔をし万事のみこんで居ますと云う様な態度が、居る時からいい感じを与えて居なかった。

 一やかんもの熱湯を髪の癖なおしにつかって、一時間位鏡の前に座って居た彼の女をよく云うものはない。

 頭の地にすっかりオレーフル油を指ですりつけて、脱脂綿で、母がしずかに拭くと、細い毛について、黄色の松やにの様なものがいくらでも出て来る。

 小半時間もかかって、やっと、しゃぼんで洗いとると今までとは見違える様に奇麗になって、赤ちゃけて居た髪もすっかりつやがよくなって来た。

 よっぽど気持がいいものと見えて目をつぶって、フンとも云わないで居たのがその勢で、すっかり眠ってしまった。

 あんなに可愛い可愛いと口ぐせの様に云って居ても、他人はやっぱり他人だと思う。

 四時頃になって少し涼しくなってから、わきに濡手拭を引きつけて、汗をふきふきこれを書き出す。

 段々気が入って、ペン先の中に皆自分がこもってしまった様になると、背中の方から段々暑さが忘られて来るのが真に快い。

底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社

   1986(昭和61)年320日初版発行

※1915(大正4)年811日執筆の習作です。

入力:柴田卓治

校正:土屋隆

2008年228日作成

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