M子
宮本百合子



 今消したばっかりの蝋燭の香りが高く室に満ちて居る。

 其中に座って一人ぽつねんと私は或る一人の友達の事を思って居る。

 其の人の名はM子と云う。

 年は私とそう違わない。

 大柄な背の高い髪の毛の大変良い人だけれ共色の黒いのが欠点だと皆知ってるものが云って居る。

 面長な極く古典的な面立がすっかりその性質を表わして居る。

 ほんとうのフトした事から交際つきあいしはじめてもう六年ほどにもなる今日、昔よりも尚親しい感情がお互の心に通って居る。

 友達などと云うものは大業に紹介されたりなんかしたよりも何時いつと云う事はなしに親しくなった人同志の方が久しく一致して居られるものだと見える。

 M子も私も小さい時に一つの学校に居た。

 丁度その学校を出ようとする前の年頃から年よりは早熟ませて居た私は、仲間とすっかり違った頭になって居たので親しい人も出来ずジイッと一つ事を思いふけったり、小供小供した事をしてさわいで居る仲間の者達の幼げな様子と自分の心を引きくらべて見たりして居た。皆は私を変り者あつかいにしたし、自分も亦、その人達の群からは「変り物」になる事を欲して居た。

 何でも秋であった。

 私は少しほか人の居ない静かな放課後の校庭の隅に有る丸太落しの上に腰をかけて膝の上に両手を立ててその上に頬をのせて、黄色になって落ちた藤の葉や桜の葉を見つめて居た。

 その時私は菊の大模様のついた渋いいメリンスの袷を着て居たと覚えて居る。

 そうして静かな中にじいっと一つ物を見つめて居る事は今になってさえ止まない私の気持のい胸のときめく様な気のする事である。

 私はややしばらくの間、そうやって居た。

 胸の中には何とも云い知れぬ喜びと平和な思いが満ち満ちて人が見たら変だろうと思われる微笑を唇に浮べながら地面を見て静かに藤棚の下を歩き廻って居た。

 それまで一寸も気のつかないで居た事だけれ共さっきまで私の居たすぐわきに下の級のものが五六人かたまって低い声で何か話して居るのに気がついた。

 その中で一番背の高い黒っぽい長い髪を房々とさげた人が気になる様に時々私の方を見ては何か云いたい様な様子をする。

 私は直覚的に若しやあの人が「Aさん」と云われて居る人じゃああるまいかと思った。

 私の下の級で「Aさん」は文章達者な人だと云う事が話に出た事があるし又その文章を見せてもらった事も有ったが、色の淡い、おっとりした淋しい筆つきの人だと云う事だけは知って居たけれ共顔は知らなかった。

 私はきっと彼の人だと思った。

 どうしても聞かずには置けない様な気がして傍に居る眼のギロリとした、いやな声を出す人に、

「Aさんって云うのはどんな方?」

ってきいた。

 その人は変に笑いながら、

「そらその方

と私のそうだろうと思って居た人を指さした。

 教えてもらって別に口を利くでもなくお互に悲しい様な笑をなげ合ってその日はそのまんま帰って仕舞った。

 それから私達は誰が何と云おうとも離れられないほど親しい友達になったのである。

 そこの学校を出て私が他処の学校へ通う様になってもM子の引けのおそい日にはわざわざまわって行って一緒に帰った。

 M子が学校を出て仕舞ってから一年に一度も会わない時もあったしその間手紙の一本もやり取りしなかった時さえ有ったけれ共その次会った時には昨日会った時と同じ何のこだわりも無い気持になれた。

 始めの間は只親しいと云うのに過なかったけれ共今はもう、私は何でもM子の事をかばってやる様な位置になった。

 そう云う気持になった。

 家庭的の事情からM子の生活状態は種々に変った。

 或時は思いきり華かな中に、或る時は涙の出るほどじみな中に──

 そうして私の喜ぶ事は度々の生活状態の変化はあっても、その素直な、生一本の気持が失われずに有る事である。

 おっとりした、深々ふかぶかと物をむずかしく考えない、口のはっきり利けない様な様子がM子の最も良い性質を表わして居る。

 M子の好い処はその生一本の気持にある。

 私より身なりの大きいM子が重そうな髪をうつむけながら低い声で何か相談をしかける様子を今も思うのである。

 M子の彼の良い性質は此度の生活状態の変化にも失われる様な事は有るまいとは思う。

 そうは思いながら私の心には云いがたい一種の不安が満ち満ちて居る。

 私は或程度まで低級な人達の間に入って苦痛なしに彼の人が暮せるかどうかと云う事である。

 ああ云う性質の人が甚しい苦痛を受けた時ほど情ないものはない。

 只自分を意味もなく卑下する事ばっかりを教え込まれるものである。

 只むやみと卑下する人の心を思うと私は何だか変な気持になる。

 そう云う心が二人の中に溝を掘りはすまいかと不安がるのである。

 私の親しい只一人の友達が止を得ぬ事からその名を呼びずてにされて他人の用を足さなければならない境遇にあるかと思うと、涙もこぼれないまでにせつない。

 私はどうあってもM子の心を慰めてやらなければならない。

 長い間の親しい友達として私は只手を束ねて傍観する事は出来ない事である。

 親しい友達と云うものの心をつくづく考えて見れば、なまなかの兄弟よりもたのもしいものである。

 幸福な境遇にあるものと、不幸な身上のものと、

 よく斯うした友達同志は、はなれ易いものであると云うけれ共、不幸な人は幸福に暮す友からはなれられても幸福なものは不幸な友を見すてる事は出来るものではない。

 よし見すてたとしても心をせめる或る物が有るに違いない。

 私はM子に死ぬまでの友達である事を望むのである。

 若しも──若しも彼の人が私からはなれる様な事があっても私だけは……と思うのである。

 それがはたして行われる事かどうかは私にも分らない、只、今そう思うばかりである。

 私はM子に願う事と云えば只自分の心に他人の足を踏込ませない様にと云う事ばかりである。

 不幸な友を、幸福な身の上にあって眺める事も情ない辛い事である。

底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社

   1986(昭和61)年320日初版発行

※1914(大正3)年1027日執筆の習作です。

入力:柴田卓治

校正:土屋隆

2008年228日作成

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