繊細な美の観賞と云う事について
宮本百合子



「春」と云う名のもたらした自然の賜物おくりものの中にすべての美がこめられて私達の目前に日毎に育って居る。

 晴ればれと高い空を見ながら木蓮の白い花が青と紫の中に浮いて居るのを見ながら、私の心は驚くばかりの美を感謝もし讚えても居る。

「美」と云うものを幾度も幾度も口に云い筆先に現わすのはあんまり好い事ではないかもしれないけれ共私はだまって居る事は出来ない。

 嬉しい時に小声な歌を唄いたくなる様に低く小さくそしてつぶやく様にでも私は何か云わなければならない気持になって居る。

 すべての物の美くしさと云うものは、

 大きくまとまった美くしさ  と、

 相当に細っかい美くしさ  と、

 又は一目見ては人の心に何にも与えない様なものの中に棲む美くしさ、

と云うものが有ると思う。

 この分け方は極く大ざっぱなことだけれ共、その中にも亦色彩によって感じる美くしさ、連想によって美くしいと思うものなどがどの美くしさと云う中にも入って居ると思う。

 すべて大きくまとまった美と云うものは、多くの場合その色彩の工合で美くしいとも思い又は腹立たしいほど見っともなくも見えるものである。

 私達のみなりに対する注意と用意が必要で、又他人の身なりを見る時と同じ気持がいるものだと思う。

 かなり細っかい美くしさ──私はわざとここにかなり細っかいと云う言葉が必要だと思うから入れる──に於て我国古来の刺繍、蒔絵などは成功して居ると思う。

 一目見ては人の目を引かないものの中にひそむ美は、私がこの上もなく大切にも思い又嬉しくも思って居る美くしさである。

 この美に対して私は無条件な細かな美と云う事が出来る、繊細な美と云う事が出来る。

 極く精巧な細っかい美くしさではあっても、偉大な魅力と威をもって我々の上に高く輝いて居るものである。

 この美は多くの場合には自然の中に生きて居る、そしてどこにでもかしこにでも行きわたって居るものである。

 何事につけても柔かくシンナリとあつかって呉れる母親と同じ様に、この美は我々の心を笑わす事も涙をこぼさせる事も出来る力を持って居ると云う事を私は信じ私に対してはまったくそうなのである。

 こけおどしの利く勿体ぶった美のかげには常に何となくギスギスした、又人間で云って見れば「カブト町」に住んで居る四十近くの男の様に投機めいた様子のあるものを抱えて居る。

 しかし私の思う美くしさばかりは、どこの面をのぞいてもそう云う不快さは持って居ない。

 すなおに──しとやかに──さりながらやたら無精むしょうにかきまわす事の出来ない厳かさを持って居る。

 私達から進んで行ってその美に一致する事は出来ても、美の方から我々の心に入って来ない見識を持って居るのも勿体ぶった美くしさの向うから進んで私達に近づいて来るのとはまるで違って尊いものである。

 この美の我々の手になったものにあまりなくて大抵の時は自然の中に住んで居ると云うのもそうあるべき事で、又人間の手で造り出す事の出来ないものである事を私は望んで居る。

 一握りの土の中のただ黒いものの中にも、自らが進んで行きさえすれば想像もつかないで居た美が発見されるものである。

 色彩の工合いもなく、連想がどうあろうともどっちとも云われない感情がその美くしさから湧き上る。

 ただ名もない雑木が秋に会ってその葉を風情もない様な茶色にかえてガサガサして居る時、紅葉にくらべる美くしさはどこにもない様に思える。

 しかしにぶい日光がその葉の上にただよった時葉の縁には細い細いしかしながらまばゆいばかりの金線が出来てつつましく輝きながら打ち笑む様を見た時に、────

 やがて見て居るうちにはわけのわからない涙がにみじ出して心の中には只嬉しさと謙譲と希望に満ちてその美の中に自らが呼吸して居る様な気持になる。

 私は誰はばかる事なく世の中の人すべてに云う事が出来る。

 人の血を見る事を恐れず明暮れを只争闘と罪悪に暮して悔ゆる所のない哀れな不具な心を持ったものどもでも、一度若しこの美くしさをしみじみと感じたならば、悔いと安心の涙にむせびながら尊い美を感謝するに違いない────と。

 私は神をないものとは思わないながらもそれを信じて毎日毎日祈る事は出来ない、けれ共この美にささげる私の祈りは私が死ぬるその時までつづく長いものである。

 熱心な信者が聖母の御像を拝するだけで自らの行手に輝く光明を見出すと同じに、私はこの美によってすべての事を感じ思わされるのである。

 私はこの美にふれた時に我からはなれた我の中に生き、幼子の様なすなおな気持になる事が出来るのだ。

 誰に言葉をかけられても快く返事が出来、開いた心地で笑う事が出来る様にして呉れるのだ。

 私は心からこの美を讚美する。

 そして又地球が滅びてもなお此ればっかりは滅びると云う事を知らないで輝いて居るものである事を信じる。

 美はどこの暗い中にでも冷っこい隅にでもあるものだ、その普通の美よりももっと尊い美がより沢山ある事を若し思わない人が多くあったとしたらそれ等の人は自然から受くべき嬉びの半ばほか感じて居ない人達である。そして可哀そうな人達であるのだ。

 自然に反向心なく対して居る人は少ないと私よりも年を取った経験と名づくべきものを沢山に抱えて居る人が云った事を聞いて居る。

 けれ共私は心のありったけ自然を讚美し崇拝して居る。そしてそれは私の今の気持には幸福な事を知って居る。かなり長い時間が私が自然をなつっこがって居るうちに立った。

 初めは只偉大だと思ったりかなりの細っかい美くしさを感じたりして居るうちに、私が思いがけなく見出したのがこの驚くべき繊細な美であった。

 私の字のかかれる時には大方の時心の底にはこの美の力が発動して居る。そして思うままを書く事が出来、感じるままを唄う事が出来る。

 この美を私が感じ始めたと云う事は私にとって一つの変化でそれからの私の心は自由に目にあまる自然の中を泳ぎまわる事が出来る様になったのだった。

 この微妙な美くしさは私の行く所どこへでも宝石よりくらべものにならないほど何か目に見えぬ貴いもので私の心の宮殿を造って呉れ、その中に私をいざない入れて呉れる。

 凡そ世の中に自分の信仰して居る神をいやしむものが有るだろうか。

 自分の産みの母親を憎いと思うものがあるだろうか。

 私は人々が自らの信ずる神に対する心持、産の母親に対しての感情をもってこのいとも尊い繊細な美を思うのである。

 善い悪いを抜きにし只私の愛するものへ捧げるつもりで讚美し祝して、この筆を置く。

底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社

   1986(昭和61)年320日初版発行

※1914(大正3)年328日執筆の習作です。

入力:柴田卓治

校正:土屋隆

2008年228日作成

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