砂丘
宮本百合子
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こまかいかげろうは砂の間からぬけ出したようにもえて居て海の色は黒いまでに蒼い、水と空と空の色、そのさかえからポッカリういたような連山の姿、いかにも春らしい、たるんだような、なつかしいような景色である。
風は有っても砂をまきたてるほどでもないので丁度いいかげんにネルの躰を吹いて行く、こののどかなうきうきした娘のような景色の中を恥かしいほど重っくるしい陰気な心持で渚づたいに、別荘のわき、両方から砂丘がせまって一寸したくぼい形になって居るそこへ私は向って行く、悲しみと名づくべきほどのものでもなくて居て又たえがたい悲しさとなやましさに自分のつまさきばかり見て居た私の目に急にその二つならんだ一片の砂丘はいかにも大きなおかすことの出来にくいもののように見られた。それを見た時丁度、そうっと他人の懐中物をかすめたすりが通りすがりに監獄の垣を見てふるえるように私の心と躰は何とも云われない悪寒とふるえをおこした、けれども、なきながら「なんだい、なくもんか男だもの」と云う子供のそれのように強いてのつけ元気にザクリザクリと心地の好い砂の音にそれをわすれるようにと思って歩いた。段々近よって段々いやな思をさせる砂丘のはじから中の窪地を見ると、居た女は! 今日逢って何を云われるのか、自分に対してどんな考を持って居るか、
こんな事は、一向考えずと好い事なんだ、と云うようにのんきらしく棒のような足を二本つんと前に張ってコーモリを立てて日にてらされる右の方をかばいながら海を見て居る。
私はそこに立ちすくんだようになって、そのたるんだ皮膚や、考のないことを明らさまに表して居る眼、口元などを一わたりズーと見つめた後今までの事をズーと考えて見た。私はあの女の無邪気にハキハキとして居て男気が有り、わり合に考も有って男の手管にまかれるような事は一度もない、
と云う事をきいてまだ言葉も交わさない内、まだかおも見ない内から少なからず動かされ、或る特別なような好奇心に動かされて居た。
始めて彼の女を□けた女、今までに一辺も見た事のないような張の有る、力のみちみちた、はきはきした口振の彼の女を見てどんなによろこんだ事だろう。
それから、妙なわけになって居るが段々その力つよさと男気の有るのが消え始めた。それでも私は、自分のたよりにするものが出来た気の張りのゆるんだため、あの心地好いツンツンした素振も、ハキハキした口のききかたも忘れてしまったものだろうと少しは喜びも交って心の中に育って居た。それから後も、その人が変ったようになってからも度々あったが別にそれほどいやな、毛虫にさわるような心持にはならなかった。それが今日、今、たった今、あの女のかおを見ると、あのだらけた皮膚の色と、いくじなさそうな様子とが毛虫よりいやに思われて来た、そうし敵でも見るように、そのかおの筋肉の一寸した動揺でも見のがしてなるものかと云うようにそのかおを見つめて居た、心の中では又ささやいて居る。
いくら私をどう思ってたからと云ってああまで馬鹿にうすのろになるはずはない、却って自分がどうか思ってりゃあ、よけいに気位の高いつんとした様子をして居るものだ、それがあの女は一年も半年も立たないうちに馬鹿になりうすのろになってしまった。かざって居たのだ、
だまして居たのだ、こっちがはかられたのだ!
はげしい馬鹿馬鹿しさの心と、不平の心が心の中をはしりまわって居る、いっその事ここにかくれて居て彼の女の様子を見て居ても見ようか。私はいつまで立っても来ない、あきてさぞあくびをする事だろう、いよいよ私の来ないと知った時はきっとのそのそと足をはこんで外の男のところへ遊に行くにきまって居るんだ。こんなかわいそうなむほんぎは心の片すみに起った、そして私はその時の女のこまったらしい顔や、口の中で云うブツブツ口こごとを思って思わず高声に心の底をゆすり出したように笑った。その声におどろいて女はくるりと向いて、今更らしくつくろうた声で、
「マア、一寸も私しゃ知らなかった、いついらっしゃったんです?」
「たった今、きたばかりで何故だか私は吹き出してしまった」
私は長い間立ちどまっていろいろな事を思った様子ははりでついたほども見せなかった、私は見せても見えないような彼の女だからだ。
「よっぽどまったんかい」
「ナニ、ほんの一寸、だけど、またれる身よりも待つ身の何とかってね……」
女は洋傘の甲斐絹のきれをよこに人指し指と、中指でシュシュとしごきながらふるいしれきったつまらないことを云った。
それで自分では出来したつもりで、かるいほほ笑みをのぼせて居る。
私はまるで試験官のようなひやっこいはっきりした心地で女の心を見とおすように傍にひかえてひややかに笑って居る。
「よく来られたネー、私は大抵だめだろうと思ってたんだが」
「ずいぶん工夫してネ、それでもやっと、夜までは……かまわないんですよ」
又女は何か心の中にわるいたくらみをもって居るおやじのように笑ってチラリと私のかおをすきみのように見る。
「お前知ってるんかい」
「何を?……」
「何をって私のこれから云おうて云う事をさね」
いきなり妙な問を出された女は、答える言葉もこの言葉の意味も考える余ゆうもないようにあわてた声で、
「神様じゃないもん、そんな事……」
「そんなら私が何を云うかも知れないでただ来たんだね……」
「貴方になら何を云われてもと思ってますもん」
「有がたいネ、ほんとにおやすくないわけだ」
だれの男にも云いなれたその御ついしょうを又私にもくりかえされるのかと思って又とない不快な心持になりながらそれを押えつけるように云った。女はだまって洋傘の切を音たてて居る。
二人はスレスレの心持になってだまって顔を見合わせて居る、女の小ばなにはあぶらがういて居てまだどこかに若々しい心が有ることをしめして居る。
「それでこれから先御前どうするつもりなんだい」
「どうするつもりって……そんなにハッキリなんかわかって居やしないけど」
「好い旦那でも見つかったんかい」
「また、旦那旦那って何故そう御云いなさるんだろう。そんなものなんかあてにしてやしませんやネ」
この言葉だけは昔の勢をのこして居るようにハギレよくひびいた。
少しでも女の様子に昔の有様の見えたと云うことは廃坑から又、新らしい石炭の層を見出したその時よりも嬉しい胸のおどる心地がして心からゆすり出るようなほほ笑みを私は口にうかべながら、
「マア、珍らしい事だ、よくそんな今までにないハッキリした口調に私のよろこぶような気持の好い事を云って呉れたネ」
「貴方って云う方は妙な御方だ事、私の云う事で私はこんな事はと思ってムカムカして云う口調を貴方はよろこんで居らっしゃる、だから、まるで私の嬉しがる事とあべこべの事をよろこんで居らっしゃるんですネ」
「世の中の苦労を、かみしめたものは、御前の思ってるよりあべこべの事をよろこぶものなんだ、そらね、赤坊から一寸育ったような小供はいい子だからねと云われるとくだらない用事をさせられてもよろこぶだろう、それと同じなんだネ」
「そんなもんでしょうか」
「それで御前はこれからどうすると云うんだネ」
「どうするって、どこか変えようかと思ってるんですよ」
「かえるもいいが、あんまり変えると何とか悪いことがおこりやしないかと思うんだけど…………」
「それもそうだと思ってネ、今迷って居るんですよ」
「まさか御前だもの、くだらないもんの手にかかって手をやかれるような事はしまいがね、とにかくよく考えて見ての上さ」
「そりゃネ、もちろん、誰と云って話相手になる人もなし自分で自分をまもってかなくちゃあならないんだから」
「まあよく考えるさ」
底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
1986(昭和61)年3月20日初版発行
※1913(大正2)年6月4日執筆の習作です。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年2月28日作成
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