生きるための恋愛
宮本百合子
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こういう質問が出ることはわたしたちに深く考えさせるものがあります。ブルジョア雑誌は毎号かかさないように新しい時代の幸福とか恋愛とか結婚の問題をとりあげて沢山のページをさいています。『アカハタ』にはぬやま・ひろしの「大うけだった恋愛談義」という見出で記事がのりました。それらの恋愛論はそして結婚論は今日こういう問が出てくることに対してどういう責任を負うのでしょう。幸福というものはできあい品となってヤミ市に売っているものではありません。わたしたちを不幸にしている今日の現実の社会の矛盾と闘って人間らしい生活を組立ててゆこうとしている、その建設のうちにわたしたちの感じる幸福と幸福への途があります。
女性の古い抑圧がとりさられて自分の判断で結婚の相手をえらび、また恋愛をする人間らしい自由が日本の社会にもだんだん実現してくるということは、自分で働き自分で人生の道を進んでゆく力のない昔の女が、どうせ愛情もなしに結婚するならばちょっとでもくらしの楽な身分のいい相手をみつけようとしてあせったその同じことを、こんどは親の手ばかりわずらわせず自分でさがしまわるということでしょうか。決してそうは思えません。まだまだ生活の実際では主食のことから住居のことからまったく自由でない苦しい生活のなかで、その苦しさと闘いながらすこしでも苦しさの原因となっている今日の社会の矛盾を改善してゆこうと努力する若い婦人であるならば、恋愛の相手としてヤミ屋の親分がえらべましょうか。食うに困らず、顔がきき、絹くつ下にも困らないからといって、そういう人の最善の愛人でありうるでしょうか。恋愛ということは字が示す通り、人間と人生を愛する心のうえにたって、男と女とが互いにひかれあう感情です。昔の人が手鍋さげてもといったその感情は、とぼしいなかにも二人が希望のある、そして見通しのある生き方をみとめあって、たすけあって不幸と闘ってゆくその幸福をいみした言葉ではないでしょうか。
若い婦人が戦争の間、あれほど幸福をうちやぶられてくらしてきたのに、まだ幸福というものが一つのきまった箱のようにどこかにあって、それを自分のものにするかしないかというふうに考えているとすれば、あんまり悲惨なことだと思います。愛は創造の力です。苦痛をのりこえてそこによろこびをつくりだしてゆく能力をもつものです。今日の主婦のすべてが経験している家事の重荷、これから結婚しようとする若い婦人たちをおそれさすほど重い世帯の苦労は、まじめなすべての男子が自分たちの不幸の一つとして見ているものです。愛しあった男女というのは、その社会的な苦労を、自分たちの一生の努力で社会的に少くしてゆこうと心をあわせて進んでゆく、そこに決して、倦怠の生じないような愛の発展を生むでしょう。
幸福になるために結婚する、結婚するために恋愛する、これはなんていう理屈っぽいような理屈にあわないことでしょう。わたしたちは互いに生きてゆく心のうえで気があうからこそ愛すのです。愛する人間同士だからこそ、結婚もしたいのです。幸福に生きてゆきたいからこそ、その愛をまもり、発展させてゆく社会的な条件をふやそうとして努力するのです。わたしたちはこの人生において自分たちの幸福を、自分たちの生きる力こそがつくってゆくものであることを、腹から知らなければならないと思います。
底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
1986(昭和61)年3月20日初版発行
初出:「アカハタ」
1947(昭和22)年7月7日
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年11月30日作成
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