ソヴェトに於ける「恋愛の自由」に就て
宮本百合子
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ソヴェトは恋愛が自由である。
フランスも自由である。
そこでどう違うかということは、資本主義末期の個人主義的に恋が御互を拘束しないということから起って来る恋愛の自由だ。
男が或る女と関係して、嫌になって捨てる。女が妊娠しても男は責任を負わない。
それでも女は訴えるところがない。フランスの恋愛技術は男より数の多すぎる女の経済的必要から進歩して居るかも知れないが、社会的にはそういう風な個人的なものである。
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ソヴェトは恋愛が自由だというが、それは何故かというと、男も女も経済的に独立した社会人であるから、社会人としての責任は各自自分が負うから、そこで自由だということになって来るわけだ。
恋愛はいくら自由だといっても、男が女と関係して姙娠したり、子供を生んだりした時雲隠れしてそれで終れりとしてしまうことは出来ない。
子供の哺育費というものは男の月給の中から職業組合を通して取られる。
若しその男がずるくて女が補助費を貰えない場合は、裁判をして男の親があれば、その親の家から子供哺育費を取ることが出来る。
併し土地には手を触れることは出来ない。何故なれば、土地というものは農業生産の基礎である、一農戸に属するものだから、土地を子供の哺育費に取るということは出来ない。
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勿論ソヴェトでも社会的責任を理解して居る人間ばかりは居ないから、いろいろ間違ったことが沢山ある。
だから自分の女房があっても他に女をもって居る。要するに妾だ。妾をもって居る人もある。
併し形はそうであるけれども、女がそれによって、つまり男によって食わせてもらって居るか或はそれとも合意的に一時的に生産単位として独立して居る女が男とそういう関係を結んで居るかということで随分又社会的の意味は違って来る。
現在の若い共産党青年、共産党女子青年、そういうものの恋愛に対する観念はどうかといえば、戦時共産主義時代は、社会が新しいものを創り、古いものを壊そうとする非常に激越した時代だった。だから恋愛というものに対する考え方も或る点非常に機械的になってしまった。
個人個人の間の恋愛形態が社会にどれだけ連帯責任をもつかということよりはむしろ旧時代の恋愛および結婚生活が絶対のものであるという私有財産制から発生したブルジョア一夫一妻制の宗教的考えを打破するに急であった。
だけれども現在は建設時代に進んで居るから、恋愛、家庭生活、結婚ということが各個人の社会人としての連帯責任に基礎を置いて居るということがはっきりして居る。
だから万一一人の共産党青年が片っ端から女を引っかけてゆくとする。それを恋愛は自由であるからとして放任して置くかというと全然反対である。余り非社会的な行為をする場合には共産党青年団の中で、同志的制裁を加えるか、反省を促される。
女の社会的価値を無視したことをやれば勿論除名もされ得る。けれどもそれだけが第一の問題となって除名されるということはない。
つまりそういうことをするのがその男の社会連帯責任を無視する一つの実例として見られるのだ。
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お互の性的関係は先ず第一に衛生問題であって、性的慾望をいろいろ宗教的に決めてしまったり、そこへ妙な道徳観を拵えたりすることはさっぱり捨てている。
男女が互に好きだということ、それは性慾から発生した感情だという風にはっきり理解して行く。
だから自分の性慾が自分を刺戟して或る人間に対する興味を感じた場合、その対手の社会人としての価値で引きつけられたかどうかという点は切りはなして考える。
その点での誤謬を冒すことは非常に減って居り、その点ははっきりして居る。
フランスでは要するにブルジョア機構内で女が自分の性をどうしたら最も功利的に利用出来るかと考えている。
だからフランスの女権拡張運動というものはどういう状態にあるかということの説明になる。
けれどもソヴェトでは男も女もそういう意味のブルジョア的性別は、減っている。
何故かというと、労働において女は男の協力者であり、又家庭生活の中でも第一、小学校から男と女のする仕事が別れるということはない。……学校でくれる弁当を食べると、後の皿を洗ったりいろいろすることは男の子も女の子も混って一緒にする。
それから部屋の掃除も、畑を耕すことも、植物を採取することも一緒にする。托児所の揺籃から共学でそういう点でも気分が自然違うわけで、つまり子供のうちから女と一緒に働き、一緒に仕事をするということから先ず根本の感情が出来て居るから非常にはっきりして居る。
又女性の性の必然というものをソヴェト位保護して居るところはない。
フランスの様な服装の上でまでの性の誇張、そういうことは勿論、ソヴェトにはない。そのないことはそれで又健康であると思う。
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女と男は元来咽喉笛の出来工合から違う。又筋肉、骨格皆それぞれ男女違って居る。男は女の特色を気持よく感じ、又女は男の特徴を気持よく感ずる。それが性それ自身のもって居る美である。女の体が柔かくて、丸くって、男の体が角張って骨が多い。それは性の必然的差別と美しさである。
そこでお互いの肉体がお互いの必然的限度までよく働いて健康を保って居れば十分美はある。
ソヴェトの若い人間はそういう点で美しい。それだから、資本主義社会のような性の誇張というものがなくなったからと云って美は減少して居ない。
だからソヴェトに行っても決して美に対して心配する必要はない。それ故非常に朗かで、私が丸三年ソヴェトに居た間に、男と女と仕事の上のひけ目とか区別を感じない。
常に男が働いて居るところには女が働いている。又女の働いて居るところには常に男が働いて居る。だから男と女がまるで違った分野で違う給料で働いて暮すというようなことは、ソヴェトの若い人間にはそういう社会内に生きる男女の感情を知らない位だと思う。
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それで恋愛の表現等でも、パリとモスクワと違うところは、例えばパリは引け時間、地下電車の入口に立って見て居ると、女が先に来て改札口で待って居る。すると若い男が来る。互に抱き合って長い間接吻して、女と男と別々の方へ別れて行く、そういう表現をフランス人はする。
が、ソヴェトの若い人間は往来で接吻するようなことはない。第一そういうものに対する解釈、そういう恋愛技術というものに対する考え方が全然違う。
ソヴェトでは個人間の恋愛関係は、生産単位として各人を要求して居る社会の前に提出すべき第一の問題でないからそう云う点は考え方が違う。
仕事の為にどっかへ互に別れて行く。これは当然だ。
第一そんなに吸い付くということは衛生的でない。口の中には沢山のバチルスをもっているというようなことは子供の時から教えられて居る、そういうスローガンが衛生教育の一つの定規になっている位だ。
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共産青年団員は握手はしない。ピオニェルも握手しない。それで先ず第一に来ることは、恋愛の自由ということでも、家庭における婦人の地位の向上ということでも、要するに生産関係が変って、女が本当に生産の単位として社会の中に組織をもって現れて来ないうちは、何にも根本にはものにならないということがはっきりする。
で恋愛は自由というけれども、公事ではないから、自分の私事問題だ。これが社会的に問題となって各自責任があるのは、女のもっている、或は男のもって居る社会人としての責任義務を通して社会一般の問題となって行くだけである。
恋愛を其の日の事業として暮すというのであったら、それは社会人として第一に排撃される。
クララ・ツェトキンの書いた「レーニンの想出」に、戦時共産主義時代に若い党員が恋愛の自由ということを感違いしていろいろの誤謬を起したことにレーニンが非常に心配して、今の若いものは恋愛というものは一つの生理的問題に過ぎないということを非常に誤解して、あんなに有望な青年達が娘のスカートを追っかけて行くようではと非常に心配して居た事を書いて居る。
併しそういう点は今の若い人間はズット進歩して健全になって居り、それだけ社会状態が落付いて来たわけで、これはソヴェトが今再び建設時代に入って居るはっきりした証拠である。
底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
1986(昭和61)年3月20日初版発行
初出:「サラリーマン」
1932(昭和7)年1月号
※「宮本百合子全集 第十一巻」(新日本出版社、2001年)を参照して、底本の脱字を補いました。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年11月30日作成
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