湯ヶ島の数日
宮本百合子



十二月二十七日 湯ヶ島へ出立。

 すっかり仕度が出来上ったが余り時間がない。俥でことこと行くよりはと、フダーヤ老松町の通へ空車を捕えに出た。早朝なのでなし。かえって、一台だけ来た人力車にのって先へ出かけ、自分二十分も待たされて出発。列車は十時五十分に東京駅を出るというのに、飯田橋で時計を見ると、十五分しかない。自働車にのりかえ、やっと車室に乗込んだら直ぐ発車という程度で間に合った。

 隣席に一青年在り。サンデー毎日らしいものの小説を読む。ただ読むのではない。色鉛筆を片手に、無駄と思うところ(らしい)数行ぐるりとしるしをつけ、校正のようにトルと記入し、よいと思うところ(らしい)には傍線を附す。至極深刻な表情を保って居る。

 修善寺より乗合自働車。女の客引が客を奪い合う様子、昔の宿場よろしくの光景なり。然し、どれも婆。

 すっかり夜になり、自働車を降りて、更に落合楼に下る急な坂路にかかると、思いがけず正面に輪廓丸い二連の山、龍子の墨絵のようにマッシヴに迫り、こわい程遙か底に宿の小さい灯かげ、川瀬の響あり。十二夜の月を背負った山の真黒で力強い印象。目まいがした。

 落合楼、川に挾まれ、温泉宿らしくなくさっぱりしてよろし。部屋もよし。但、二部屋とれるかどうかは疑問だ。餅搗きの音がした。


十二月二十八日

 目が醒めると、隣に尺八を吹く人あり。少し悲観。部屋を、直ぐ横の六畳二つにして貰う。

 実に、すばらしい天気。碧い空、日光を吸って居る暖かそうな錆金色の枯草山、その枯草まじりに、鮮やかに紅葉したまま散りもせぬ蔦類。細かく風にそよぐ竹藪、蒼々とした杉木立、柑橘類、大島椿。伊豆はよいところという感銘深し。日本のなごやかな錦の配色など──金地に朱、黄、萌黄、茶、緑などあしらった──は、斯那自然の色調から生れたものと思う。蜜柑、橙々の枝もたわわに実ったのを見たら、岡本かの子の歌を連想した。南画的樹木多し。私達の部屋の障子をあけると大椎樹の下に、宿の吊橋が見える。


十二月二十九日

 昨日の天候は特別であった由。今日は寒い。隣の尺八氏のところへ、客あり。老女。三味線をとりよせて、合奏す。六段をやるのだがテントンシャンとなだらかにゆかず、三味線も尺八も、互にもたれあって、テン、トン、シャン、とやっとこ進む。大いに愛嬌があって微笑した。けれども困るので、尺八氏と相談し夜は静にしてお貰いすることとする。


十二月三十日。

 越年の客大分立てこんで来た。くに、いそがしがって上気のぼせて居る。子供連多し。くにに「おねえちゃん、御飯まだでちゅか」という男の子の声す。


十二月三十一日。

 夜十二時過まで机の前に居る。おなかが空いたが板場は宵に家へ帰ったというので、餅をやき、海苔を巻いてたべる。女中達が、夜なかに吊橋を渡って髪結いに出かける下駄の歯の音だけが、どうやら大晦日らしい。去年の都会的越年とはひどく違う。去年はフダーヤと暁の三時頃神楽坂で買物をした。


正月元日。

 朝のうち曇って居たが午近く快晴。くに、奇麗な髪で、おめでとうを述ぶ。自分達も改まった装はしたが一向正月らしからず。山の奥だから何だかぱっとしないのか、宿屋の風がそうなのか。玄関の松飾と女中の髪だけに表象される新年。


正月二日

 フダーヤ、都会で生れ、育った人間らしく淋しがること夥し。正月がない、ないと云う。午後散歩。下田街道を天城へ向って村落を通って見、此処の正月のひっそり閑として居るのは落合楼に限ったことでないのを知った。松林が尠い土地柄か、どの家にも松飾というものなし。ほんの形ばかりの輪飾が軒、炊事用の清水の出口の樋などにかけてある。目につくのは、荒壁に干し連ねた瘠大根ばかり。羽根をつく女の児一人もなし。凧をあげる男児もなし。日向の枯草堤に、着物だけ着換えた娘三四人詰らなさそうに、通る私達を見物して居た。消防詰所傍の広場で、数人の男児、自働車の古タイアを輪廻しのようにころがして来るのに遭う。太い、つるりと重いゴムの大輪を、一生懸命棒ちぎれで叩いてころがす。そのピシャ、ピシャいう音、ゴムの皮膚的な表面の感じ、一種、間抜けて滑稽な動物を追い走らせて居るような感じを起させた。一寸笑いを刺戟されたのは其だけ。不活溌な生活気分だ。寒中に雪も降らず、色だけ見事で結局は食べられない蜜柑が枝もたわわに実るという地方では、人の感情もそのように弾まないのか。土地の樹木の枝、葉など概して細々密接してついて居ると同じに、行き合う男の容貌、概して道具立てこまかく、手堅そうについて居るところ、興味あり。

 美しき富士山を見た。春先のような葉の色のおんばこ、あざみを処々に見る。

底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社

   1986(昭和61)年320日初版発行

初出:「文芸時報」

   1926(大正15)年

入力:柴田卓治

校正:富田倫生

2012年28日作成

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