胚胎(二幕四場)
宮本百合子
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時代
中古、A.D. 十一世紀頃──A.D. 1077─A.D. 1095
人物
グレゴリオ七世 ローマ法王
ヘンリー四世 ドイツ帝
老人 ヘンリー四世の守役を勤めた人九十以上の年になって居る。
第一の女
第二の女
第三の女
非番の老近侍
帝の供人同宮人数多
法王の供人数多及び弟子達
イタリー、サレルノの農夫の老夫婦
人民数多、及び不信心な遊び者
第一幕
第一場
場所
ヘンリー王の城内の裏手
景 近侍達の住んで居る長屋体の建物の中央にある広場。
かなり間をおいて石の据置の腰掛が三つあって足の所に苔が生えて居る。
広場には一本も木がなく正面には三つほどの入口が見えて居て中央の一番大きい入口の左右の二本柱に王家の紋章が彫られて居る。
しおれかかった赤い花が一っかたまりその下に植えられて居る。
家の壁と石造の四角な煙突に這いかかったつたが赤く光って日光からそむいた側の屋根は極く暗くてそうでない方は気持の悪い様な変な色に輝いて居る。
木の彫刻の沢山ある小窓は開いたのと閉されたのと半々位で一つのまどには小鳥の籠が吊してある。広場をよぎって左右に道がついて居る。
一体に秋の中頃の黄色っぽい日差しで四方には何の声もしない。
幕が上ると中央から少し下手によった所に置いてある腰掛にたった一人第一の女が何をするともなしにつたの赤く光るのを見て居る。
かなり富んだらしい顔つきをして大変に目の大きい女。
深紅の着物のあさい襞を正しくつけたのをきて、白い頭巾をぴったりとつけて指にすっかり指環をはめて居る。
なかにも右の手の中指のはことに目立つ位まっさおでうす気味悪いほど大きい玉をつけた指環。
すぐ下手から第二第三の女と非番の老近侍が出て来る。
女達二人は極く注意した歩き振りでどんな時でも少し体をうかす様につまさきで歩く。
老近侍は大股にしかし気取った物ごし。
第二の女は深緑の着物と同じ形(第一の女と)の頭巾をつけ髪をかまっかく巻いて頭巾のそとに食み出させてよく光る耳飾りをする。
第三の女、第一の女と同じ色に縦に五本ほど太い組紐で飾りのついたのを着て頭巾は後の方のパッと開いたのをつける。
非番の老近侍は茶の上着を着て白と黒の縞のキッチリのズボン白い飾りのついた短靴をはいて飾りのついた剣をつるす。ふちのない上着と同色の帽子についた王家の紋章が動く毎に光る。
第二の女の声は陽気で、第一第三の女はふくみ声でゆっくりと口をきく人。
第二の女 まあ! ここにいらっしたんでございますの?
おさがしして居たんでございますよ。
第一の女 あらそうでございましたか。
大変お気の毒様な事を致しました。
私さっきからここに居たんでございますの。
あんまり静かな日でございますものねえ家の中に居るのは惜しゅうございますわ。
第三の女 丁度いいあんばいに日光をうけてつたが燃えそうでございますわねえ。
まあ□□一寸御覧なさいまし、少しでも雲が動くともう色が幾分かかわるんでございますよ。
あきませんわほんとうにいつまで見て居ても……
第二の女 まあほんとうに奇麗でございます事。
でももうやがてに冬が来る前知らせなんでございますわ。
ろくにあかりの入らない部屋の中で毎日毎日嵐の音をききながら寒さにめげて火の傍に置いてやってさえも鳴かない小鳥のふるえるの見ながらはだかの木の芽のふくれる時ばっかりまちかねて居なければならない冬がもうすぐ参りますわ。
第三の女 それにねえ、私は人様より倍も倍ももの寒がりなんでございますもの。
もう冬と云う声をきくとすぐこう、ぞっとしてまるで風でも引いた様になりますの、貴方様なんかよけい冬がおきらいでいらっしゃいましょう。(老近侍に向って云う)
老近侍 神の御恵でござるじゃ、一向に冬をつらいとは思いませんでの、息子達が止めさえ致さなんだら雪なげなり何なり十五六の子に交っていたすでの。
第一の女 何よりな事でございますわ。(低く陰気に云う。間を置いて地面を見ながら)私は冬よりもっと恐ろしい、そしていやらしい事をききましたの。
冬の来るのも寒くなるのも忘れて心配して心細がって居るんでございますわ。
世の中にたった一人にされた様にねえ。
第三の女 そんな事が? 私は一寸も知りませんの、きいた事だってないんでございますの、ましてこの頃は母のそばで仕事ばっかりして居るんでございますもの毎日毎日。
第二の女 私だって──もう此頃は一寸も心配な事は何にもないんでございます。
あの子の病気がなおりましてからはねえ、心配の仕じまいをしたと思って居りましたの、お坊様にさえ来ていただいたほどでございましたものねえ。
お話しなさって下さいましな、気になりますわ。
第一の女 私だって只きいたばっかりの事なんでございますけど……
昨晩でございますわ。
もうお月様がお沈みなさった頃、たくで御前から下って参りましてねえ。
私の顔を見るなり斯う申しましたの。
「陛下は大変御不機嫌でいらっしゃる、何か事が起るにきまって居るわ。あらましの事は知って居るが──」ってね。いろいろにききましたが頭が小さく生れついた女だと云うのでそれより外申しませんでした。
今朝町に参った若い者は、町中のものが、
良いおねだんの張った馬がさばけるし、武器の御注文は間に合いかねるほどだ
と申してお城の様子をきいたものさえあると申して居りましたの。
老近侍はだまって女達の話をきいて居る。
第二の女 まあ──、初耳でございますわ。
こんないやらしい事をじかにきかなかったのがまだしもの事でございますわ、ほんとうにねえ──
第三の女 あんな馬鹿な心配をしたと笑って仕舞う取越苦労だったら、どんなに嬉しいでございましょう──けれどそうは行かない事かもしれませんわ。
一体お相手はどこの王様なんでございますの。
若しお国そとに居る裸で真黒な顔をして居ると云う話の野蛮人となら私はかてるにきまって居ると信じて居りますわ。
そのきたない人間達は鉄の鎧なんか持って居りますまいもの。
ねえ貴方、ほんとうにお相手はどこの王様でいらっしゃいますの?
第一の女(極く低く細い声で恐る恐る云う)法王様でございますわ──
二人の女はだまって顔を見合わせる。暫時沈黙。
うめく様に非番の老近侍に云う。
第二の女 貴方……殿方でいらっしゃいますわ。
恐ろしい事にも度々お出会になった御方でございますわ。
私達の驚かない様にしずかにわけをお話しなさって下さいませな。
これだけの事を知って故を知らないのは尚恐ろしい気持がいたしますもの。
老近侍 荷の勝ちすぎるお望みじゃ……。が、ま、かいつまんで申せば法王様はあんまりお調子に御のりなされたと云うものでの。
お徳をあがめるものは日増にふえて御領地は日ましにひろがる法王様の御声がかりなら死ぬるのは欠伸するより御安い御用と思うものが沢山になると陛下が、
お前を法王に任ずる
と仰せらるるのがお気に入らんでの。
第一の女 お気に入らないからと云って。
第二の女 お徳の高いお方だと伺って居りますもの。
まさか御叛逆ではねえ。
老近侍 もう、ずんと前からの事じゃと申す話でござるわ、陛下にお書面でお坊様のお役をきめる事はわしにさせて下されと申し越されてお出でなされたのはの。二三度までのお願にはお偉いお方じゃ程に陛下もおだやかに「ならぬ」とばかり仰せられていらせられたが度重なる毎にはお二人のお心が荒立って、
力ずくでも
と法王様がついお洩しになったのをお気のつかぬ間に陛下がお伝え知りなされたのが事の始りで今ではもう火をかけた爆薬の様にまことにはや危い御様子じゃとな……。何せ苦々しい事でござるわ。
第三の女 神様は敵を愛せと仰せられていらっしゃいますのに……
老近侍 それが人間と云う名から逃れられぬ証拠でござるわ。
まして強いもの同志の「けんか」は昔からともだおれときまって居る事での。
第二の女 法王様は神の御子だと聞いた事がございますわ。それで人なみ以上の御力をお持ちだと──若しお二人の間にお争いでも起ったら悲しい事だけれ共勝は法王様にお譲りなさらなければならないでございましょうよきっと──
第三の女 この立派な御城も粉々になって仕舞うでございましょうよ、神様の御怒りと法王様の御心でねえ。そうしたらまあ私達はどこに住むんでございましょう。
雪の降り込む、風のひやびやと身にしみる丸木小屋に住ってふるえながら神様がお召になるまで泣きながら暮らさなければなりませんわね──
死んだ子の年を数えるよりもっと無駄とは知りながらもお城の中での楽しかった暮しを思い出さなければならないんでございますわ。
第一の女 私はお二人のどちらがおよろしいのか又どちらが御悪くていらっしゃるのだかそんな事を定める力はございませんけど、法王様がお怒り遊ばした──と云う只そればかりがもうたまらないほど恐ろしいんでございますわ。
法王様がお怒り遊ばした──神様だってお怒り遊ばしたに違いございませんわ。
まあ私は何をお祈りしていいんだかそれでどなたにおすがり申上げたらいいんだろう。
老近侍 皆様御自分にお祈りなされ、御自分におすがりなされ。世の中に自分ほどたよりになるものはござらぬわ。
法王様も──又陛下も、御自分の御力を偉大なものだとお信じなされたればこそこの事も出来たのでのう。
三人の女は一っかたまりになって青い顔をして屋根の方を見、老近侍はだまってその三人の女を見る。
二人の若い男が家の影の方から走って来て四人の前に立ちどまる。女達は急に取りつくろった様子をして顔を男の方に向ける。
若者の一 奥様方に申上ます。法王が城にお見えになりまして只今中門から此処をお通りなされると申す事でございますから……
若者の二 左様御承知なさいませとの事でござります。
若者去る。
第一の女 さぞまあ武士を沢山お連れ遊ばしてでございましょうねえ。
第二の女 さっととぎすました剣を捧げて居るんでございますよ。
第三の女、二人の間にわり込む様にはさまる。
四人ともだまって何も見えない下手を見る。
笛の音が段々近づく。人の足音も響いて来る。
三人の女は云い合わせた様にかたまって家のわきにピッタリと体をもたせかけてお互に手を握り合う。
老近侍は一人はなれて反対の側に立つ。
小さい旗をもつ二人が先ず姿を見せる。大きく煙の立つたいまつをもった男二人、二十人ほどの武士のあとから飾りたてた白馬に乗った法王が現る。
真白い外套が長く流れてひげも眉も白い。頸から金の十字架がかかってまぼしい様にチラチラと光る。
厚い髪を左右にピッタリとかきつけて心持下を向く法王の後からも、先に進む人と同じ様子に続いて沢山の宮人がついて行く。
おだやかに静かな行列は広場の中央をよぎって順々に見えなくなる。
息をつめた様な様子をして三人の女は消えて行く行列をながめる。
すっかり見えなくなった時三人同時に顔を見合わせる。
「いらしったんでございますよ。
第二の女が云う。
第一の女 ほんとうにねえ──とうとう。
低く云って指環の多い方の手で十字を切る。老近侍は法王の去った方をじっーと見つめる。
第一幕
第二場
場所
王の場内の一部
景 太い柱が堅固ラシクスクスクと立ちならんで、上手中央下手に左右に開く扉がある。
四方にはドッシリした錦の織物を下げて床には深青の敷物をしきつめる。
大きな卓子をはさんで二つ椅子。
大理石で少し赤味を帯び大形で彫刻の立派な方は玉座であるべき事をも一つの方をすべて粗末にして思わせる。
卓子の上には切りたての鵞ペンと銀の透し彫りの墨壺がのって居る。
部屋全体に紫っぽい光線が差し込んで前幕と同じ日の夕方近くの様子。
幕が上る。しばらくの間舞台は空虚。
細くラッパの音が響く。
中央の大きな扉が音もなく左右に開き真赤のビロードの着物に同色の靴、髪を肩までのばした十七八の小姓が二人左右から扉を押える様にして、片手ヲ胸にしてひざまずく。
二人青い着物に同色の靴の香炉持。
後からヘンリー四世。
緋の外套に宝石の沢山ついた首飾りをつける。
栗色の厚い髪を金冠が押えて耳の下で髪のはじがまがって居る。後から多くの供人。
王が大きい方の椅子に坐すと供人が後に立ち、香炉持ハ左右に。
紫っぽい細い煙りは絶えず立ちのぼって王の頭の上に舞う。
王 法王はわしに会いに参ったそうじゃのう。
小姓 御意の通りでございます、陛下。
王 呼んでおくりゃれ。
小姓下手から去る。
同じ口から法王が出て来る。
前の幕と同じ服装、手に聖書を持つ。
王の前に座ると後を沢山の供人が守る。
法 お達者で──
王 大変良い時候になり申してのう。
法 まことにおだやかな日和はつづき家畜共さえ持てあますほどリンゴも熟れまいてのう。
これも皆神の御恵でござるわ。
王 美くしゅうは熟れても、心のやくたいものうくされはてたのが多いのじゃ。
法 したが世の中はその方が良い事が多うござってのう、一概には得申されぬもので……
王 おお、わしが気がつかなんだが御事の御出でやった事には幾重に礼事を申さねばならぬ事らしいのう。
法 否、わしは母御の頭から生れたものと見え申して礼事を申さるる事と賞めらるる事は虫ずが走るほど厭でござるでの。
あまり調子にのって礼事を云われればやがてはいま一度心にもなくて礼申した人のためにせいではならぬ事が必ず生れるものでのう。
王 一寸も礼も申されいで笑うて居る人は十人に一人とはござらぬわ。
法 一度つい、ひょんな事から溝に落ちてからはどぶの上澄を見る事が噸ときらいになりまいた。
王 さてさてすきこのみの多い人じゃ。
わしは御事とはあべこべに大好じゃ。
細そい木片ですきまなくせせって、せっかく澄んだのを濁すのが面白うてのう。
とは申せ上手に濁す濁さぬはかき廻し手の器用不器用によるのじゃが……
法 どぶのわるさも自らの落ちぬ限りでのう、泥深くてやたらともぐり込むそうでござるから……
王 勿論の事じゃ。
わしはのう、夜毎にいろいろと老人達やら又は小鳥の様な者共からいろいろの話をきいたのじゃ。
罪のない面白い話はわしの口のはたでおどり狂うて居るのでのう。
久し振りに参った事故わしは御事に知って居る丈の話をきかすのをお事が見えたと申す事をきいた時から楽しみに致して居ったのじゃ。
法 欠伸の出ぬまでは……
王 まー、お聞きやれ。
ある所にその名はわからなんだがうす赤い胸毛とみどりの翼と紫の様なまなこを持った小鳥が居ったと申す事じゃ。
なりは鳥共の中でいっち小そうてはあったが色と声の美くしさはお造りなされた神さえ御驚きなされたと申すほどでの、神からも人間からも恵みは大したものであった。
毎日毎日太陽と共に歌い出て月に挨拶致いてからねぐらにもどったと申す事じゃ。
ところが或る日柄にない力にまかいてこれぞと云う目あてものうて朝早くから飛び出いた。神の御社を下に見ながら大きな御館の上を越して飛んでまいるうちに天気が急にかわっていかい大風になって参ったので小鳥はそのかくれ家を求めて居るとすぐそばに己れの飛んで居るより高い所にその梢のある大木が見つかったのでそこの葉かげに美くしい身をかくいた。
小鳥は木のかげでこの強い風にゆらりともせいで居る大木をいっち偉いものじゃと思うたので風がおさまってから己の棲家に羽根を休むるとすぐ、
お恵み深うていらせらるる天の神様
私の美くしい姿と声を御返しいたしますほどに今日私の宿を致いてたもったあの木と同じにさせて下され
と祈ったところが、地面の穴からそれをききつけた悪魔奴は人の悪い笑い様を致いてから、
叶えてつかわす
木はそなたの様に美くしい羽根はいらぬのじゃから皆ぬいて仕舞え
と神の真似をいたいたのじゃ。
正直な小鳥は涙をこぼいて痛さを堪えて赤はだかになってしまうと又次の日悪魔奴は、
木に嘴はいらぬ
と申して見えぬ所から石をなげて嘴を折ってしもうた。
毎日毎日一つずつ大切なものを奪われて七日たった夕方は美くしかった小鳥は赤裸で一本の足で枯枝に止まって居った。
神様、もう木になれまするか。
死にそうな哀な小鳥はきくと、悪魔は大声あげて笑いながら、
いずれそのうちにはなるじゃろう
木の芽生えの肥料に──
と申いた時小鳥は枝からころげ落ちて地面にポッカリあいて居った悪魔の穴の中にころげ込んでしまったと申す事じゃ。
長う話した事じゃ、欠伸は出なんだかな。
法 面白うお聞申いたから出ませぬじゃ。順礼に参った老人にきいた話でござるがかなり面白い事じゃ程に御きかせ致さいでは叶わぬのじゃ。
何でも南の国での事じゃったと申して居りまいたがの、
天井には黄金をはりつめて床には香り高い木を張った家に住む事の出来るほど富んだ人が居りまいたそうでの。
その国の景の良い処と云う処へは必ずその住居をつとめてでも建て居りまいたそうでの、
国々の宝をつめた倉は数えきれぬほど立って、月が満ちれば銀色に輝き月が消えれば黒くなると云う石も、人々の神から授けられた運勢を見る鏡もその中にあったと申す事じゃ。
したが分にかって富む人の情ない持前で貧しいものにようめぐみもせいで只宝の数の増して行くのばかりをたのしんで居りまいた。
或日一人の美くしい乙女が一つの小石を持って参って春は紫に夏はみどりに秋は黄金色に冬が参れば銀色に輝くと申しのこいてその石を置いて去んでしもうた。
その時は春での、小石はつゆのしたたりそうな葡萄と同じ色になって居りまいた。
その人は夏の来るのをいとう待遠がって夜は早く床に入り明けてからも中々床をでいで居ったそうでの。
その日はもう夏の来るのに間のない時であったそうで気ままなその人は夏の来るのがあまりおそいと申してのう、腹立ちまぎれに薬師に申しつけて三日三小夜眠りつづける薬をつくらせてそれをのむなりまるで息をせいで深く眠りこんでしまいましたのじゃ。
三日三小夜は夢中にすごいて南のはてに居るけものの様な伸を致いてフト傍の玉を見ると気のつかなんだ間にまっさおに神がお造りなされてから万年も立った池の水の色の様になって居ったので、その人はもう気の狂うほど嬉しがってそれから後と申すものは鉄の箱を造った中に銀の箱を造った中に金の小箱を作ってその中に小石をかくいて一番大切な倉の一番深くに入れて置いたそうでの。そのうちにも年は立ち行いてその事がござってから十年も立った時に、その人は夜な夜な怪しい夢にうなされる様になったと申す事じゃ。
何しろ金をくさるほど持った人じゃほどに罪滅しじゃと申して寺を建て僧侶を迎え致いたが一向に甲斐も見えいでうなされ始めてから三月立って死んで仕舞うたと申す事での。
学問のある人も徳の高い僧侶もそれが乙女の持ってまいった四季毎に色の変る石を倉の奥等へしまい込んで置いたのが、祟ってじゃと気づくものがなかったのでその人は死なねばならぬ様になったのじゃと申す事での。
王 面白い話じゃ。
したがのう、わしは三日前に使者の身なりと料紙だけはまことに見事な手紙をうけとったのじゃ。
法 中実は?
王 まことにはや年寄った女子の背むしなのより見にくいものでの。
小姓に申しつけて直ぐ裂いてしまって燃してしもうたほどじゃ。
その見にくい手紙を書き記いたものも人並に眼が二つで耳まで口がさけて居らなんだが不思議じゃ。
法 その願うた事を貴方はお許しなされるか、
それとも打首かさらしものかにでもなされるかの、その憎い奴めを……
王 悪いと申すさえまだ言葉が上品なほどじゃ、
ならぬと申すさえまだにぶいのじゃ。
法 いかい事、気におとめなされてじゃ。
幾日ほどお考えなされたの、
にくい奴をどう処分しようとな。
王 一っ時じゃ、ただの──
一つ事を一日以上考えて居るのは大脳を神からよう授からなんだものの致す事での。
世間でわしは賢明じゃと申す通りの頭を持って居るのじゃ。
法 さてさて、
鏡のかげんであばたもえくぼ
己惚の生んだ児の頭は小うござってのう。
王 御事は母御がうみそこのうて口から先に娑婆の悪い風にふれたと見ゆるわ。
法 そのためで経典を誦する事がいこう巧者になりまいてのう──まんざらそんばかりもまいらなんだがまだしもの事──
ま! とどのつまり船は畑ではよう漕げぬと申す事さえ世の中の人すべてが存ずればよいのでの。
王 じゃと申して水と陸に生きる事のよう出来るものは神のお造り召された生きものの中にあるのじゃ。
法 二股かけたもの共の大方は、蛙の叔母だとやら「あひる」のやれ「いとこ」だとやら申すのが可笑しい事でのう。
王 よんべ、酒と感違い致いて油をお飲みやったと見ゆるわ。
法 おお、それはさて置き貴方は二時間ほか御やすみなさらなんだと見ゆる──
子兎の様なお目をなされてじゃ。
王 腹の立つ夢を夜も昼も見つづけて居るからじゃ。
法 お祈の甲斐ないせいでござるわのう。代って祈って進ぜようか。
王 わしの形をいたいた蝋人形を作られたり、よう気のつかなんだ間に髪を一つまみぬかれたりいたすよりはまだましじゃ。
法 思いもかけず、しとやかな御心をお持ちなされてじゃ。
王 おお! 片意志で見にくい怒り奴がそろそろとわしの心の臓を荒しはじめたわ、退り居ろう。
何の□□わしは賢明なのじゃからの。紙に書いつけた文字は見た所だけは美くしいものじゃ。
又見とうなくば破く事も焼きすてる事も出来るものじゃ。
人間の怒った顔と申すものは世の中の一番文字の下手がかいたものより尚見にくうて、
そうたやすくは、やきすてる事も出来んものでの。
いっち人こまらせものじゃ。
法 鏡のござらなんだのがまだしもの事でのう。
王 いかにもじゃよ。
わしはもう美くしい丁寧な言葉で話し居るのはいやになって参った。
もう明らさまに正直に申すのじゃ。
法 そして早うきりをつけたがよいのでの。
王 もうとうにきりがついて居るのじゃ、わしの方はの──
僧官の任命権を得ようとお事の致いて居るのはお事が人間である限り必ずそうも有ろう事じゃ。
又わしが御事にそれを許すまいと致いて居るのもわしが人間である限り必ずそうあるべきはずの事なのでの。
人間と申すものは高い低いにかかわらいで己の権内に歩みこまるるのをこのまぬものじゃ。
法 じゃが僧官の任命権等と申すものはもとより宗教の事でござるでの。
一国の宗教の司の法王がそれは持って居るべきはずのものでのう。
王 法王と申すものは政治の極く小さい部分の宗教を司って居るのじゃ。
国王はその国全体の政治その国の運命を握って居るのじゃと申す事は云わいでもわかって居る事での。
わしの幾代か前の祖先、幾代か昔の皇帝の時からこの権は王がもって居ったのをわしの時に法王にゆずったと申いては、わしがいかにものう愚かな者の様に後の人達は思うのじゃ。
心からわしが御事を偉い御方じゃと思うたらゆずっても進ぜようがのう、
あやにくわしはよう思わなんだ。
それ故にわしはならぬと申すのじゃ、許さぬと申すのじゃ。(少し力を入れて)
わしは皇帝じゃ御事はわしの命令には服さねばならぬ。
法 貴方は皇帝だと申いて居らるる。
したが「法」の力よりも、「神」の御力の偉大な事を御信じなされぬか。
神の一声に世のすべての花はその蕾を開いて蝶は美くしい装いをこらいて舞い、雲雀は紫立つ雲の上に神の御力をたたえて歌いますじゃ。
それを人は春と名づけ冬の寒さにめげたもの達の青白い頬にも血潮の華やかな色がさいのぼって、生のあるもののすべてに再び新な力のあたえられた時──
愚なものにはよう見えなんだ神の御力をたたえ謝さぬものは御座らぬのじゃ。
浅間敷くサタン奴に魅入られた欲心に後押しされて他人のものをことわりなしに我家に持ちかえった事をとがめられて、厳な司法官の宣告書にふるえの止まらぬ体をそのままただ一坪の四方は皆叩いても音の出ぬ石のただ一つ小窓の開いた牢獄につながれた時の罪人の、故里に待つ親しい者共の身を思い出いて流す涙はさぞ熱うさぞ多い事でござろう。
したが只一人闇の中に座して己の四辺を包む闇の中にひびく責悪の声を身にしめてつくづくと己の罪を悟ゆる時声高に呼ぶのは誰の名でござる。
救うて下されと祈るのは誰の徳をしとうてでござる。
偉大なる神の御名を呼び、
高い神の御徳をしとうておすがり申すのでござるじゃ。
王 お事は大なる神の御そば近く居ると申いてわしの領分のうちにお事のその強い音を出す翼で走り廻ろうと致すのじゃ。
わしは只己を信ずる許りじゃ。
神によって奇蹟は現わるると僧侶達は申してじゃ、
己を信じて己の力を祈って進んだ時にばかり驚くべき奇蹟は現れるものじゃ、神の御子じゃと申いて居るイエスは深く自分を御信じなされた。
己を深く信じて行われた事は奇蹟となって現れ水を酒ともおかえなされ又盲たものに再びこの世の光りをおあたえなされる事も出来たのじゃ。
世の中に己ほど尊い偉大なものはないのじゃ。
わしはいつでも己と云う尊い名をたたえ、
己と云うものの力にすがるのじゃ。
己の声はお事の望を、
許いてはならぬ!
叶えてはならぬ!
と申いたのじゃ。
法 位と云うものは極く形式的な事でござりながら人はそれを尊びまするじゃ。矩を越えぬ形式はすべての事に大切でござる。
皇帝でさえ有れば素足に只一枚の衣をまとって居っても皇帝には違いのうてもその威を保つために形式的な厳かな冠もいただき目立つ衣もまといますのじゃ。
それと同じ法王となれば並の僧侶と同じ黒い衣をまとうてもよいのを只形式ばかりの白い衣を着、その威を保つためにはいろいろの権を持たねばなりませぬじゃ。
王 形式は人間のために作られたものでの、人間が形式のために造られたものではござらぬよ! 人間は形式を自由に致す力を持って居るはずじゃ。
何せわしは御事が毎日毎日神をお説きやってわしの息をひきとるまでお説やっても心はかわらぬのじゃ。
許すとは申さぬじゃ。
根くらべを致いて居るも、そうあきの来るほど長い事ではござらぬじゃ。
お互に千年とは生きられぬ事じゃほどにのう、土面の中で、うつろになった眼を見はって機嫌のよい娘の様に明けても暮れても歯をむき出いた口で云いあいながら根くらべを致す事はござらぬじゃろうからのう。
またたってお事が許いて欲しくば偉うお事をお守りなされる神に願うて不死の薬なりいただいてわしの十代あとの皇帝に許いておもらいなされ。
王は静かに立ち上って音もなく供人にかこまれて中央の扉のかげに消える、舞台には法王の群一つになる。
間もなく下手の扉をあけて小姓が一人手に書きものを握って入って来る。
法王に渡すと一目見て口に氷の様な冷笑をうかべる。
法 斯う御返事なされ、
有難う頂戴致す。
したがわしは幼いうちから礼儀をきつう育てられたのでの、これに御答え致すためには王に一言申したいのじゃが、口で申さぬかわり、相当な御返礼と思うてこれをさしあげるとな。
又御目にかかる日もそう大して遠くはあるまいと思って居る、
と足して申したとな、おつたえなされ。
法王は落ついた手つきで外套の下から巻いたものを出して小姓にわたす。
小姓はそれをうけとると一足急にさがって、
小姓 法王様!
これは破門の宣告状でございます、
陛下に──
お間違いだろうと存じます。
法王 盲にも、目くされにもなって居らんでの。
小姓はすくんだ様に下を向いてそこに立つ。
法 馬の用意をいたいて呉れ。
法王の供人一人下手から去る。
法 若い人何もその様におどろかぬとも良いのじゃ、王はわしに廃位の宣告状をお送りなされた御礼じゃもの。
ちとかるすぎるかも知れぬが、わしは貧しゅうてそれ丈のものほかもって居らなんだ。
法王の群はしずかに動いて上手の戸口から入ってしまう。
舞台には小姓一人のこって、法王の出て行った方をしばらく見つめて、
やがて深い溜息をついてから反対の戸口──下手からひきずる様な足つきをして退く。
第二幕
第一場(前幕より三ヵ月後冬も十二月に近い頃の事)(A.D. 千七十七年頃)
場所
ヘンリー四世の城内 王の居間。
景 そんなに広くない構えで四方に海老茶色の布を下げてある。
左右には二つ並べて大きく先王と王妃の像を画いた額がかかってその下に火が燃してある。
今のストーブとまでには発達しないごく雑な彫刻のある石板で四方をかこんだ窪い所に太い木の株を行儀よくかさねてある、その木と木の間から赤い焔が立ちのぼる。
反対の側には槍や剣。甲冑が厳めしく行列して居る。
中央には卓子が有って王の手まわりのものをのせる。
中心からかなりずれた所に燃える火をはすにうける様にして一つ長い腰掛があって上から長く重くて厚そうな毛皮をかけてある。
窓の小さいのが三つ位開いて単純な長方形のガラス越に寒そうな青白い月光の枯れ果てた果樹園を照らしてはるかに城壁が真黒に見える。
長椅子からよっぽどはなれた所に青銅製の思い切って背の高いそして棒の様な台の上に杯の様な油皿のついた燈火を置いて魚油を用うるので細い燈心から立つ黄色い焔の消えそうなほどチラチラする事が多くうすい油烟が絶えず立つ。すべてよっぽど更けた夜の様子。
幕が上ると王と守役を勤めた老人が長椅子に一緒に腰かけて居る。
王は冠をつけず寝間着の様な袖口の極くゆるい、長から下まで一つづきの深緑の着付。
手に沢山指環をはめる。少し疲れたらしい眼色とわだかまりのある眉の様子。
老人、もう九十以上の年で髪も眉も皆白くてつやつやしいおだやかな様子で真白な毛のついた足一っぱいの上着をつけて首から小さい銀の十字架をつるす。
王の親の様な心持で只やたらに可愛と云う気持。
王 月があまり美くしいので都娘にフト出会った百姓娘の様にいろいろなものは皆黙って居るわ。
老 ほんに静かでござりますのう。
私がまだねんねえで世間知らずの愚者でござった頃にはこの様な晩に出会う毎に寝間着のままで床にひざまずいて、僧正様のお祈りよりもそっと長い文句をくり返しくり返し血迷うた様に繰返してわけもない涙を身の浮くほど流いてのう貴方様、長い一夜をまんじりともようせんで明る日は藻抜のからの様に我れと我が脛等をつねってようやく血の通って居るのを知る様な事を致して居りましたものでのう。
王 今はその様な楽しみもないのにこの様におこいて置くのはあまり気ままじゃの。
老 何の、何の貴方様、どうしてその様な事がござりましょう。
私の様な、長あく長あく、神様がお召しなされるのをお忘れなされたのかと思うほどこの世の中の事を見て参るとな、人の我儘を申してござるのも無理を申して居らるるもその様に気にはならなくなるものでござりましての、それだけ我れも我儘も無理も申す様になって参りますのじゃ。
まいて貴方様は母君をおいては私が一番お小さい頃から何から何までお世話を申し上げたお方様じゃほどに何を仰せられても何とか存じ様と致しても出来ぬほどでござりましてのう。
王 いかにもじゃ。
わしが一番そなたと申すものは恐ろしい人間じゃと思うたのは今でもよう覚えて居る。
秋の初め頃わしが白い着物を着てリンゴの木にのぼって枝にのぼって皮のままに大きな実をたべて居るのをそなたが見つけてのう、
不意に斯うどなったのじゃ。
そこに居るのはどこの下郎の子じゃ、
早う下りて参れ、折檻してつかわす。
とな。
そなたの主人じゃ、わしじゃ。
と幾度申しても、
いくらお小さくても皇帝におなりなされるお方は木にはおのぼりなされても下郎の子の様にかくれ食い等はなさらぬものじゃ。
もそっとお身を貴くお思いなされるものじゃ。
必してわしのお主人ではないのがリンゴの皮のきたなく落ちて居るのでわかるのじゃ。
と申していつまでたっても立って居って、やがて向へ参いった時にこっそりと逃げて部屋にかくれて居った事があったのでの。
老 その様な事もござりましたかのう、まるで十年も前に見た夢の様に思い出す事さえよう致しませなんだ。
この貴方様にその様な事を申上たのも忘れて居ればこそ、さもなくば思い出す事がある毎にあまりの申上かたに御目にかかる事さえ出来ぬでござりましょうのう。
王 しかし、この様な思い出は考えたくもない事をしみじみと考えなけらばならぬわしをこの上なく慰めて呉れるでの、そしてその時だけもその時の罪のない幼子の心持で居らるるのじゃ。
一番罪の深いのは「王」と名のついた者と昔からきまって居るのじゃ。
法に随って大勢のためには老先の長いものの命も縮むるし威を守るためには又心にもない荒立った事をしなければならぬのは「王」と云うものの一生の仕事としなければならぬ事でのう。
老 のう、貴方様、下郎は、武士の身を、お主に捧げた自分のもので自分のものでない命を持って居るのは思わいで、
武士であったらなあ、
と思いますものでの。
武士は明け暮れ血眼で居らねばならぬ諸公の身分をうらやみ、諸公は王をうらやんで、すべてのものに仰がるる王は又神をうらやみ、下っては只一振りの剣が命の武士をうらやむと申すのは神でのうてはわかり得ぬほどいつの世にも変らぬ不思議な事の一つでござりますのう。
王 しかし、それはいつまで立っても人間にはわからぬ事に違いないのじゃ。
神の御領内にあまり人間の手の届くのは良くない事だからのう。
老 この頃は病をいやす薬が人間の手で出来る様になりましてのう。
まことに結構な事でござりますのが人々達はその生を与える薬でまるで反対の末長うござるはずの命をちぢめる事をよういたしますのじゃ。
まるで生き・死にを司っていらせらるる神の御力をうばうた様な事でござりまするわ。
この世の中から化物や病が少くなりましてからは──夜の神の御殿の厚い扉の中に封じ込まれてじゃとも聞きましてござりまするが──
悪魔はもそっと恐ろしい種を人々の心の中に植えつけましたと申す事でござりますじゃ。
したが、私はあまりいこう年を取ったので悪魔奴見限って魅入らぬのじゃと若いもの共は申して居りまするがのう。
王は淋しい眼つきをして燈心のゆらめくのを見つめる。老人は骨張ったしかし柔かい手で王の手をこすって居る。
窓の外に夜番の武人が持つ「たいまつ」の細長いほのおが二つ前後してかなりゆるゆるよぎって行くのが見える。
思いに沈んだ様に王は話す。
老人は王の体を静かに見上げ見下しして居る。
王 わしはそなたが、わし位の年頃であった時の世の中の事は恥かしい位に何にも存じて居らぬのだ。
覚えて居るだけでよいのじゃわしに話して呉れ。
老 古い巻物と同じにさぞ、とぎれとぎれでござりましょうがのう。
私が貴方様を「和子」とお呼び申して居った時より尚ずんと前の事でござりまするのじゃから世の中は今とは不思議なほど変って居りましての、今よりずんとわかり易う世の中の事のすべてが出来て居りましたじゃ。
男も三つに分ければすべてがすみまして一つはやたらに「けんか」がすきでまるで「けんか犬」の様に人間さえ見ればかみついたり吠えついたりする御仁と次には「名誉」に寝るとから起きるとまでうなされるお人と、恋を恋して居るお人とでの。
「けんか犬」の様なお人は甲冑と武器と馬の手入にきも入りして甲冑の裏に「のみ」ほどの曇りがある、馬の毛並が一本乱れて居るがお気に入らなんで御家来衆を試斬りになされたもので、尊がられるお館毎の御台所をほっつきめぐってごみだらけの汗みどろになってござったのは名誉にうなされるお仁でござりましたのじゃ。
御身なりと楽器と花束についやすお金で身代限りまでなされて文を送った婦人の門にパンのかけらをほおばりなされたり、歌う声をよくしようとて滝壺に座って歌ってござるうちに目がまわってそのままどこに行かれたか先のわからぬ様になられたも、フトもれきいた歌声とチラとかい間見た後姿に命がけでしのんで行かしゃったら思いもかけぬ御年よりで片目で菊石だらけでござったのに驚き様があまりはげしゅうてそのままはかなくなって仕舞うたお人は皆恋を恋してやりそこなったお仁なのでの。
その頃は人間の用う言葉だけで話は通じ赤い色は赤い色で間違いなく見分けのついたものでござりまするのじゃ。
この時小姓一人巻いた書いたものを持って来る。少し消えかかった薪をそえ燈心をとりかえ注意深く四方を見てから退く。
王は静かに巻物を開く。一寸目を通すとすぐ険しい目差しをして読むのをやめる。
老人 いずこからでござりますの、めったに見ぬ紋章でござりますのう。が、もう幾度も見たので忘れて居るのかもしれませぬが。
王 何! わしの家来のフランコニア公からよこいたのじゃ。
老人 何と申し越してござりますの?
王 下らん事じゃ、人間の申す事を申しよこいたまでの事なのだから。そなたの様にもう年を取ったものはあまり人間らしい人間の申す事は聞かなんだ方がよいのじゃ。
老人 わたくしの様に年取ったものは人々が十怒る所は精いっぱい四つ位ほかよう怒りませなんだ、そのかわりうれしい事もたのしい事も同じほどの。
王 わしもじゃ、わしはあまり下らぬ事をききすぎたのでがさがさとまるで一日中流シ元で洗いものをする水仕女の手の甲の様になった心を持って居るのじゃ。
老人 したがのう、貴方様。尊い身分の人にはわからぬ事でござりまするが、貧しい一年中一枚の着物をまとって人の門に物乞いするのを恥かしいと思う処がなりわいにして居る下賤なものどもは母親の胎から鳴きながら生れて三年も立てば、いじけた、かたくなな心を持つと申しますのじゃほどに貴方様が下らぬ事をききすぎなされた事位はまだのう徳な事でござりまするじゃ。
聞きたがって居るものにはおきかせなれるものでござります。
王 下手な文句を書い連ねた腹立たしく拙い手紙ほど紙数は多いものじゃが、まあ、ざっとかいつまんで申せばの。
貴方は法王から破門の宣告を授けられた。
法王の申した事もござるし又私としても死するより恥な破門をうけた王の命令を奉ずるのは神の御名を汚す事になるから同じ意見のものと皆かたらって命令は奉ぜぬ事に致した。
と申すのじゃ。
叛逆を起すにわざわざ知らせて寄こいたのじゃ。
老人 妙なものでござりまするの。
まだ世の中には、けんかずきのけんか犬が沢山ござるのでござりますのう。
王 けんか犬は世が滅びるまで絶える事なくあるものじゃ。
何──叛きたいものは勝手に逆くのがよいのじゃ。
若気の至りで家出した遊び者の若者は、じきに涙をこぼしながら故郷に立ち戻るものじゃと昔からきまって居る。
又わしはどんなにもつれた糸でも手際良くほごす力を授かって居るでの。
老人 いかな力がござってもわたくしは臆病のさせる事かもしれませぬが、けんかはきらいでござりますじゃ。
口だけですむけんかはまあござりませぬ。下賤なもののけんかはけんかする同志がつかみ合う、蹴る、なぐる、やがてどちらか一方が鼻血でも出せば事がすみますがのう。
広い領地を持ってござる方々のけんかはそう手軽には参らぬでの。
つかみ合いがしたくなれば兵士を互に出してつかみ合わせ短気なものがあやにく斯うした時にはふえるものですぐに剣の柄に手をかければこなたもだまって居られず、恐ろしい様子をいたいてまるで互にけんかの当人ででもある様に突いたり斬ったり心のままに互に荒れて、同じく神のお作りなされた同胞の血まみれになってうめくのを笑いながら見て居りまする浅間しい様子を思うのはまことにいやな事での。
修道院に若くて美くしい尼御前の大勢になるのもこの時でお寺の墓掘りの懐の肥えるのもその時でござりますじゃ。
尊い御仁のけんかほど、大きい地面がゆるぎますでの。
天にござる神々のけんかなされた時には──ずうっと幼ない時にききましたが、世が滅びてしまったとな──申す事でござりますのじゃ。
王 したが世の中はもとよりは事がそれぞれふえて参ったのじゃ。
理のあるけんかは誰もとがめるものがないのじゃ。
老人 何の何の左様な事はこのわたくしが合点出来ぬ事でござりましての、もとから申しつたえてござる通り
けんかは両制配
お互同志愚かだかりゃこそ、けんかが出来るものでござりまする。
誰もとがめぬのは、けんかする人達より賢こいもののござらぬ証拠でのう、
貴方様、
うじ虫と、輝いてござる太陽のけんかしたのを聞いた事はただの一度もござりませんでの。
王 そちが申す通りなら、わしも法王も愚者なのじゃ。
老人 わたくしはのう貴方様、
この上なく貴方様で可愛いいのでござりまするでの。
じゃと申して、まだお若かくていらせらるるので下らぬけんかをおこのみなされてのう、
お叱り申すねうちもない様な又わたくしももうお小言を申す等の事にはあきましてのう。
何々よろしゅうござりまするじゃ、貴方様はお利口なお方様でござりまするもの、わたくしはよろこんでおりますのじゃ。それからのう貴方様、まだ和子とお呼び申して居った頃の事での、
お城内の腕白共がフト迷い込んで出る道を忘れたあほう鳩を捕えて足に石を結いつけては追ってよう飛ばぬ不様な形を見て笑って居るのをお見なされてその者達の所にお出なされて、
もう王におなりなされた様な厳かなお声での、
これ、お前達は何を致して居るのじゃ。この鳩は神にさずかった命を我々と同じ様に持って居るのじゃ、必して苦しめてはならぬ。
お前達がその様に致されたら、どうじゃ。
早く石をのけて城の外までつれて参ってはなしてやるのじゃ。
と仰せられての。
青い顔を致して居る子供をつれて鳩をおはなしなされた時にはもうわたくしは嬉しくて嬉しくて。
「清い御心をお持じゃ、あのお柔しいお眼はどうじゃ。その上に又子供達をお叱りなされたお声のどうしてあんなに厳な威をお持ちなされてござったろう」とその晩はまんじりともようせいで笑いほうけて居りましたじゃ。
貴方様がまだ辛やっと七つ八つの頃でござりましたもののう、お可愛ゆいまっ最中でのう。
王 わしはもう悲しい事に一つも覚えて居らぬのだ、それにその後間もなくわしは沢山学問を致さねばならなかったのでよけいに忘らされてしまったのじゃ。
あまり早くから学者のむずかしい八の字だらけの顔を見たものの特典でのう。
老人 ああ、ああ、ぶしつけでござりますがわたくしはもう眠とうなりましたでの、居眠りながら貴方様とお話致すがまことにうれしいのでござる。
大変年を取った老人は苦のない安らかな顔をして王の手を持ったまま長椅子の少し前よりもはじによった方に行く。
王の顔にはたえがたい苦痛の色が現れて居るがこの老人の話に幾分まぎらされて居るらしい様子。
王 いくら暖いと申しても冬じゃ、意志の悪い風邪にとりつかれるといけぬわ。
老人 貴方様ばかりでのう、そう云うて下さるのも。
────
涙もろく老人はうるんだ声で云う。
王 わしが今そちの事に心を配るよりいく倍もいく倍も多くわしの事にそちは心配してお呉れやったもののう。
老人は王の云うのには答えず。
老人 母御の懐のむちゃにこいしゅうてござった頃貴方様はこの子守唄がおすきでのう。
美しい絹の帳をたれた揺籃をまだ血気でござったわたくしの白うて力のある手でおだやかな波の上を行く小船の様にゆーらり、ゆーらりとふりながらのう、貴方様。
母親のたまものの人に賞められた声で夜の来る毎にうたったものでござりまする。
ごく冥想的な低いかすれながら美くしい声で目をつぶってうたい出す、少し調子の後れ加減になるほどゆるく。
寝ませ和子よ
水色絹の
帳の裡に
夢まどらかに
バラの香りと
小鳩の声の
夢の御国を
おとのうまで
ねませ和子よ
夢まどらかに……
とのう。
したがあまり永く神のお恵を受けたので声がしわがれておねかし申した和子もこの様に御成人なされてわたくしがお寺の草の下に眠る様になればやがてこの歌をくり返すものもなく覚えて居るものさえなくなりまするでのう。
いとしい御方様じゃ。
王の心の中は老人の唄った子守唄から生れた何とも云えない一種の悲哀がみなぎって歌の余韻を追う様にうす暗い隅を見つめる。老人は何もかも忘れた様に大きな額を少しうつむけていつの間にか居眠って居る。
王 (老人のかすかないびきに驚いて)おう! もうねてじゃ。
まるで幼子の様に心持良さそうにいびきまでかいて居る……
誰か居るか!
小姓(部屋の隅から出て来る、いかにもねむそうな顔つきをしながら)陛下! お呼び遊ばしましてすか?
王 いかにも──
これ風を引くといかぬ。
わしが無理であったのう、部屋に参って暖かく寝むのじゃ。(老人を起す様にゆりながら云う)
老 わたくしが和子様とお呼び申しながらお起し申した様に貴方様はわたくしを御ゆすりなされたのう貴方様。
好い夢を御覧なされませ。
小姓にたすけられて下手から消える
王がたった一人になる。
さっきいいかげんに見たフランコニア公からの書きものを見る。
よんで居るうちに段々けわしい顔になっていきなりそれをさいてなげつけてしまう。
王 何じゃ。
神の御名によって□□□□と云い居るわ。
破門までうけた王をいただく事は体内を流れて居る貴族の血がゆるさん、と申し居るわ。
叛くなら心のままに叛くがよいのじゃ。
そなた達の軍にせめよせられて自ら喉をつくほどの意くじなしではないのじゃ。あわれなうじ虫共は口惜しまぎれの法王にそそのかされて裏に裏の心はようもさぐらいで只がやがやとわめいて居る──
王の亢奮した神経はあたりの静けさにつれて次第にしずまって来る。
しずかに考え深く。
王 只らちものうさわぎたてる愚者を兵力で押える事はわけもない事じゃ。
したがわしは兵を殺す事はよう望まぬのじゃ。
この先致さいではならぬ事が多い程にのう。
わしは一番良い方法を考えねばならぬ。
これ! 頭よ、
いつもよりまいてかしこくなってお呉りゃれ。
ややしばらく沈黙。
ゆるやかな歩調で部屋を歩き廻る。
雪が降り出した音がサラサラ……サラサラと響く。
王 やや、何と申す? あやまれ? これ頭よ! はっきりと澄んだ眼をよう見開いて答えて御呉りゃれ、わしはの、あやまる事は大のきらいなのじゃ。
人に頭を下げるのがきらいなのじゃ。これまでわしはそれを致さいでも事がすんで居ったほど賢うてあったのじゃからの。
前よりも粉雪の音ははげしく炉の火はすっかり絶える。
王は前よりも早くいらいらした調子に部屋を歩いて無意識にまどによる。
王 おお降るわ! あの降りしきる雪の様にわしの心にも快い智恵が降りつもって呉れる事をのぞむのじゃ。
王は低くうなる様に云って炉を見て急に寒さを感じた様にひろい衿をかきあわせる。
王 わしはさっきからもういつもになく永い間考えたのじゃ、
一つ事をしみじみとのう。
わしのいつもの頭は今日よりは賢くてあった筈じゃが今日はどこの隅をせせっても、
あやまれ
と不吉な声で申すより考えが顔を出さぬのじゃ。
あやまれ
と申すのじゃ、法王に──
わしの生れて初めてきいた言葉、今までに一番わしをおびやかいた言葉なのじゃ。
頭奴は斯う申し居る、
只謀じゃほんの一っ時の──
したがわけもないのに只あやまる──何と云う意志のない事じゃ。
意志の悪いまま母に育てられた可哀そうないじけた子のあやまれと云わるるがままに震える声で、
母様、御免
と云うと同じほどのわけのわからぬ不甲斐ない事じゃ。
まま親が育てた子の不甲斐ないのは同情もいたさりょうが、王の不甲斐ないのは只世のもの笑となるばかりの事じゃ。
若しわしが、
あやまりまするじゃ
と一言申せば、あらゆるそしり、あらゆる下げすみをだまって聞かねばならぬのじゃ。
わしの母御はわしを育てるに心をお用いなされた、寒中の寒に堪ゆる事も暑さに堪ゆる事も又はせわしい仕事にたゆる事をお教えなされたのじゃ。
しかし、そしりをうけ、下げすみをうけた折にようこらえる術は教えて下さらなんだ。又その様な汚らわしいものをよううけいでもすむわしだとお思いなされであったかも知れぬ、……
粉雪のサラサラ云う音はやんで本降りにソクソクとつもって行く。
遠くの方で──それでも城の内でかすかに俗謡をうたって居る声と笛の音がする。
王の声と様子は段々重くなやまし気になり時に吹く風に歌の声と笛の音は折々とぎれてはまた続く。
燈火が大変弱い光線になって三つのまどからどっかによどみのある青白い光線がさし込む。
王はしっかり右の手で左の腕を握って一箇所を見つめる。
王 あやまる?
いかにも口惜しい、事じゃ。
我と我が身を雲を突く山の切り崖からなげ出いて目に見えぬほど粉々にくだいてしまいたいほどじゃ。
今までによう味わなんだ、
あやまる
と云う事を経験せねばならぬ時になったのじゃ。
わしは今まで、
あやまる
と云う言葉さえ聞くのをようこのまなんだ。
それにかかわらず、その言葉の響きを一つ一つ聞き自らその味をなめて見ねばならぬ時になったのじゃ。
わしはなやましい折も気の狂わぬ頭と体をもって居る。わしの勇気は最後の勝利を得ようためにこのいまわしい思いも致して見るがよいのじゃとしり押し致いて居る。
そうじゃ思い切って、あやまるのじゃ。法王に謝すと思えばこそ、腹も立つ。わしのこの尊い頭に少し許りでもいまわしい思いをいたさせた事を己の頭に謝するのじゃと思えばよいのじゃ。
最後の勝を得るためなのじゃ。
謝したものが愚者じゃ負者だとは定められぬものじゃと云う言葉をわしが云い始める様にするのじゃ。
しがいのある事をすれば敵が一人ふえ、立派なもののうしろにはいつもみじめな影のさすのはきまった事なのじゃ。
わしはこれから「カノサ」に参って法王に会うて参らねばならぬ。
只わしを偉大なものに致すためにのう。
王は長椅子によって深い溜息をつきながら小さくまたたく燈火を見ながら極く低くつぶやく。
王 わし自身のためじゃ、
最後の勝利を得るためなのじゃ。
首をたれて右の手でそれを支う。
第二幕
第二場
場処
イタリー、サレルノの一農家(法王の仮居する家)
景 舞台の略中央に、貧しいながらも白い清潔な帳を垂れた寝台が置いてある。
その囲りには古い家具が取りとめなくならんで、一番寝台に近い壁に十字架に登ったキリストの木彫が掛かって居る。
その他の壁には、色の分らないまでに古びた絵等をはり、出窓めいた窓の縁に小さい鳥籠が置いてあって、中には何にも居ない。新らしい野菜を盛った大きな盆が隅の方に明るい色をして居る。
品の好くて見栄えのしない法衣をまとった二人の若僧と、枯れた様な僧が一人寝台のすぐそばに居る。
二人の若僧は、大変に奇麗な顔をして居る。幕が上ると、一つ長腰掛に三人一っかたまりになって居る。
やがて第一の若僧が立って自分の肩のあたりをつかんで四辺を見廻して又座る。
第一の若僧 今日もまた、このまんま夜になっちゃうんですか?
寝つづけてお出遊ばすお師様の御夢を御守りして斯うやって居なければいけない──
私達の夢はどこの誰が守ってるんだろう。(低いうらめしい様な口調に云う)
第二の若僧 神の御試みに会って居るのだと思えばそれですべての事はすんで仕舞う筈なんです。このまんま死んで行っても神の御心にさえそうて居れば天に昇れる──
そうに違いないじゃあありませんか。
第一の若僧 私は死んでから天国に行く事よりも今都に居る事の方が望ましい。
神が天国をお教えなさるのも地獄をお教えなさるのもそれを恐れて生きて居る世を天国にして暮す様にさせ様ためになさった事だ。
第二の若僧は都をしたう心に堪えかねた様に部屋をしのび足に歩き廻る。
第一の若僧 まあ都へ帰る帰らないと云う事は別にしてこないだうちの事を思い出す毎にどれだけ、ほんとうに、今の身分が悲しいなさけないものに思われるんだか。
只考えて御覧なさい、あの時の事を。
雪が埋るほど積った日に、わざわざカノサまでヘンリー王があやまりに来た時の事をさ。
第二の若僧 ほんとうにあの時は今までになく目覚ましい事だった。(一人言の様に云う)
老僧は窓の処から外を見て動かない。
第一の若僧 七日七夜、寒さと饑に眼ばかり変に光る王が尚威厳を保とうとしたあやうい足許でお師様の前に立った時──
ほら知ってるでしょう、
あんなに奇麗な外套には泥の「しみ」がいっぱいついててねえ。
真青な顔の上に髪が乱れかかったあの王の前のお師様はほんとうに立派だった。
濡れた着物のまんま私共をにらみながら、
「仲なおりをしよう」と下手に出ておっしゃた王の眼は、今思い出せば随分謀み深い色だったけど──
ねえその時に、そんな事に気のついたものが一人だって有っただろうか、きっとなかったに違いない。
私達は、あんまり上熱すぎたんだ。
二人は顔を見合わせて淋しく笑う。
老僧 お得意になってか──
向うを向いたまんま云う。二人はフット口をつぐむ。それから又話しつづける。
第二の若僧(声をひそめて)ねえ私達はほんとうに巧く「わな」にかかった。
ほんとうに巧者にだまされてしまった。
震える身をじかに床に御据なさって、「もう仲なおりの時が来たのじゃ」と王がお云いなされた時の御師様は──まるで登る朝日の様にお見えなさった。
けれ共斯うやって都から追われて仕舞っては、私はもう末に望はちっとも掛けられない気持がする。
第一の若僧 私なら一度ゆるした者を又諸侯にそそのかされて罪しようなどとは思わないだろうのに──。
そしてあべこべに都を走らなければならない様な事はすまいのに──
重苦しい沈黙がしばらくつづく。
老僧は時々白い寝床の裡をのぞき見する。
一つ腰掛に三人は別々な処に眼をやって違った事を考えて居る。
第一の若僧 又暮方になる。
そうすると村の人共はお祈りを戴くためにあんなに押寄せて来る。
あのきたない、さわがしい様な群をお師様はよくもまあ御こらえ遊ばす。
第二の若僧 お師様の御徳の高い証だもの。
第一の若僧 ほんとうにそうなら、お徳が高ければいやな事がふえる──
今より私は偉くなりたくない、云いたい事さえ云えなくなる──
舞台は又、沈黙にかえる。
第一の若僧は何か聞えなくつぶやきながら一直線に行ったり来たりする。
時々一方を見つめては眉をひそめて、手と手とをもみ合せる。
第一の若僧 私はどうしても都で死にたい。
いくら私が斯うした身になったと云ったって私の年がまだこんな淋しい処で死んで仕舞うのを満足しないんだもの、ねえ、……
第二の若僧を見て同情を求める様な口調で云う。
第二の若僧は老僧のそばにぴったりとよって聖書を握って居る。
その二人を第一の若僧はじーっとややしばらく見てから、首に掛けて居た十字架を傍にはずして部屋を出て行く。
第二の若僧は老僧の顔をチラット見てそのうす笑いをたたえて居るのを驚いた様に口の中で何か云って自分の胸に十字を切る。やがて寝床の裡で人の身動く気合がして、かるい、力弱い、せきばらいが静かな裡に骸骨踊りの足音の様に響く。
第二の若僧 お目覚になった──
帳をかける。
やつれた、情ない姿の法王が半身を起して現れる。
老僧はその姿をまじまじと見ながら、
老僧 よう御休みなされました。
いかがでございますか? 御気分は──
法王(力なく──なつかしそうに)大層よいのじゃ。
第二の若僧が煙りのほそくたつ薬を持って来る。
第二の若僧 お師様、
お薬を煎じて参ったのでございます。
どうぞ召上って──
法王 いろいろといかい御手数じゃ。
したがの、わしは今日はもう、せっかくじゃが、薬は、いらぬのじゃ。
第二の若僧 どう遊ばしてでございます、
せっかく煎じて参りましたのに──
法王 心尽しは、存じて居る。
私の召されるのは必ず、今日に違いないと申す事を、わしは知ったのじゃ。
今まで、授かった、安らかな、快い眠りは、神のやさしい御心で、この世の、最後の眠りを楽しゅうさせ様がために下されたものなのでの、
わしは、久しい間神にお召をして居たほどに誤たない神の御心を伺う事が出来るのじゃ。
第二の若僧は暗い表情をうかめて力無く、薬をわきに置くと偶然さっき、第一の若僧の置いて行った十字架にさわる。
指でつまんでそうっとわきにどける。
老僧(理智的な眼つきと口調で)澄んだ正しい御心が、それはお感じなされた事でございましょう。
そして又、それは、最も幸福に御成りなさる道でございます。
第二の若僧 お師様。
ほんとうの御心で仰せられるのでございますか?
私などは、死ぬ事より恐ろしい悲しい事は無いと存じます。
あの暗くてじめじめした塚穴に入れられるのかと思いますと──
死ぬ、その時になっても私は、「生きたい」と申すでございましょうきっと。私はちっとも無理な事ではないと存じます。
法王 まだ若いからじゃ。
世の中に死ぬより恐ろしい悲しい事は有るのじゃ。
「生き過ぎた」と申す悲しみより、「死」の悲しみはうすいのじゃ。
わしは少し、「生き過ぎた」仲間なのでの。
第二の若僧が又何か云おうとすると下手の雑な彫刻をした扉が細く開いて遠慮深くここの主夫婦が出て来る。
目立たない──、それでも内福らしい着物に老婆の小指の指環が一つ目を引く。
老爺 いかがでござらっしゃります。
先ほど、お薬を煎じしゃった火が大方強すぎた事んだろうとの、婆がいかい事案じて居りまする。
婆 ほんにお坊様。
このほうけ婆が、ついうっかり薪をそえたで、常より苦うでござらしただろうかと案じましたので、おわびに出ましたでござります。
老僧話して居るつもりだけれど声は高いし一つ部屋なので法王に話すと同じ事になって仕舞う。
婆 (人の好いおしゃべりの口調で)それにの、お天とう様の、のぼらしゃった頃からつめてござらした衆が一刻も早くお尊い法王様をおがみたいと云うてでござりましての。
そらな、おききなされませ、
あの広場での人声がここまでどよんで参りましょうが。
老僧 しかしね、
どうしたって今日は駄目ですよ。
大変お疲れ遊ばしてだし第一今御目ざめなすったばっかりなんだから、
「明日」って云ってお帰しなさい。
その方がいい。
法王(老僧の背後から声をかけて云う)これ婆さん。
わしはよろこんで会うからここへお呼び。
老爺 お勿体もない御方様へ申します。
何にもその様に、今日に限ったことはござりませぬ。
三日も立ちましたならおつむりも軽くなる事でござりましょうから、その時にせいと申します。
それがよい。のう婆。
老婆 そうの事、そうの事。
それがいっちよい。
都にござらしてお歴々のお方の前へ度重ねてまかったものとはずんと違うて、お勿体もない、かたじけない、と思うと涙をらちもなく霑すのと、他愛もなく笑いこける事より存じませぬ者ばかりでござりますもの。
法王 わしはそれがうれしいのじゃ。
早く呼んでお出。
老爺 ほんに有難いと申しても足りぬほどじゃわい。先祖さえよう持たぬ老ぼれ爺が、法王様からお言葉なんかいただくちゅーは。
大きな手で信心深さに流れ出した涙をふきながら、
老爺 そんなら、そう致しますだ。
二人は戸口から去る。間もなく静かに沢山の足音がして日曜に着る着物を着た男女が多勢出て来る。
人々は戸口に恐れた様にひざまずいて仕舞うのを法王は泣く様な無理な笑顔をして居る。
老爺が群の一人に何か話すわきからせかせかしながら、
老婆 ほんのこったぞ。
これ皆の衆。
御勿体ない、法王様は御病気でござらしゃるだに皆を祝福してやるとこらえてああやってござらしゃる。常ならば、はるばる参らねばお衣のはじさえようおがめぬに斯うやって──
ああ、ああ、ほんにほんに──
第二の若僧に手を引かれて一番先に居た老人が法王の前にひざまずく。
細かく体をふるわして居る。
老人 はあ、恐れ多い事でござりまする。愚か者がしらぬ間に犯した罪はさぞ数多いことでござりましょう。
法王はやせて骨の目立つ手を老人の毛のうすい頭にのせて黙祷する。
それから順々に二言三言感謝の言葉をのべるものや、中には狂的に法王の手を接吻したりさすったりして祈るものがあるかと思えば、身の浮くほど泣くのも居る。
十九番目に母親に抱かれて法王の前にすわった小さい男の子は起ちあがるとすぐ、
阿母ちゃん。
ひやっこい、かたいお手々だよ!
と叫ぶ。母親はすぐその子の頭を胸に押しつけて仕舞う。
それと同時に扉が静かに開いてキョトキョトした落つかない口調で老爺が云う。
老爺 只今のお坊様、ヘンリー四世とか云う王様から偉う、いかめしい身なりのお使者が見えましたで。
御病気であらっしゃると申したら、大きな声で、
「それを聞きに参ったのではない」とこの爺を叱りましたじゃ。
人々の群の裡からヘンリー四世の名を聞いて罵のつぶやきが起る。
成行をわずらう様に僧の顔をのぞき込む者の数が多い。老僧は法王の考えを聞きもしないで老爺を先にたてて無言のまま出て行き、祝福は今まで通りつづく。
かなり時が立ってから老僧は渋い苦しい顔をして入って来る。
老僧 お聞きなさいました通り王から使者が参りました。
今になって使者をよこす王の心も大方はわかって居ります。
私はお疲れで会えないと申しましたらば、
悪智恵にたけた使者は、
あの偉大な法王が修業のたらぬ騎士の様な事を仰せらるるはずはござらぬ。
傍の者の愚な、計らいからじゃ。
と申します。
貴方様の御心にそむく事が有ってはと存じましたので、あちらに待たせてあるのでござります。
法王(疲れながら、はっきり力強い口調で)こちらへ──
若僧はぴったり寝床のそばにより、人民は一隅に出来るだけつめて座って、立って居るものはつま先だてて、壁にぴったりとすりよって居る。
小児達は母親や父親の首へしっかり抱きついて動かない様な不安な瞳を扉に向ける。
老僧を先だてて使者が入って来る。
使者 ヘンリー四世の使者として王の御伝言を申し□ます。
「わしは今度の出来事によって両親から授かったより以上に種々の智恵をましたのを喜ぶ。カノサの十二月は、雪のつめたさに肌をさされながら働かねばならぬ貧しい民の苦労を始めて教え不公平な政をせぬ様に致して呉れ、又他人に「あやまる」と申す事の味も知ったのじゃ。
雪の中に立ちつくいた三日三小夜の時はわしに思いもかけぬ智恵をおくった。
わしは御事に、頭を下げながらも願った「最後の勝利」を得た事を喜ぶ。新らしい考え深い試みに会うた事も喜ぶのじゃ。
「己を信ずる」と云うたしかな頼もしい信仰に、わしは、思い通りの仕事を産んだ。
お事のお云いやった神の奇蹟の現わるるのを信じ得ぬわしは待ちこがれて居るのじゃ。
王のお言葉はこれだけでございます。
そしてこれをさしあげる様にとの事でございます。
朽ちた様な鉄の十字架を置く。人民はよどみなくのべる使者の様子に気を奪われた様にさっきの罵などは忘れて見て居る。
やや長き沈黙の後。
法王 わしは今、神のお召をあずかろうとして居る。この荒屋に逝く身とはなったけれど、わしは幸福を身にあまるばかり感じて居る。
心ばかり富んだ人々が、わしを只の「不幸の人」として見て呉れ、わしに臥床をかすのを嫌わいで呉れると云う事は何よりも快い事じゃ。
末長うござる方に、栄を残す事は又よろこばしい。
これですべての事の方はついて仕舞う、とは云えこの徳も力もないわしが、やがての時、見事にすこやかに生い立つべき種を消ゆる事なく眼にはよう見えぬ土に蒔いたと申す事はわしを安らかに、御国へ行かせる──
息がきれた様に言葉の末をただほそく残す。
人々は一種の恐怖と何か期待して居る様な気持で時々、手で話し合ったり合点したり祈ったりして居る。
又云いつづける。
法王 わしを安らかに御神のそばに行かせて呉れる事なのじゃ。
末長う、栄ゆる様にと、まだ若うておいでるお方を祝福致す。
身にふさわしい贈物も、おうけ致す。
わしの御返事なのじゃ──
使者 たしかにお伝え申します。
一人で去る。
老僧 思わぬ事でお疲れがましました。
人々は帰ってもらう様に致しましょう。
法王 何のそれには及ばぬ。さあ。
また祈りが始まる。
父親に手を引かれて小さい男の子が出る。
父親がひざまずけと云ってもしない。
子供 阿父ちゃん、いや。
父 そんな事云うもんじゃあないよ、ね。
さあ、いつもお寺でする様におし。
子供 お寺じゃあないもん。
父の手からぬけて遠慮なく法王のすぐそばに立つ。
止め様とする父親を法王は止める。
子供(無邪気に云う)ね、法王様って偉いの? 大変うちの父ちゃんはあんまり偉くてこわいんだって。
法王 お前の方が好い児だからじゃ。
子供 だって阿母ちゃんは私を悪い児って叱っても、父ちゃんを叱った事ちょっとだってありゃしない。
そいからねえ、
坊に、木馬買って呉れない?
一度も、坊の処へ、クリスマスのおじいちゃんが来ないんだもの。
法王 よしよし可愛い児じゃ。
若しそう出来たら、買ってやろうね。
子供 ええ、きっとね。
さようなら、またあしたね。
他の人より長い祝福をうけて去る。
法王は十五許りの青白い体のほそい娘の頭に手を置く。
外で不信心な遊び者がほうけた声で唄って行くのが聞えて来る。
でこうて半間の猟人は
或る日ひょんなこってララ
狐つかまえた──
皮はごか──やれ煮て食おか
廻りかねたる智恵助に
憂き目を見せてござるうち
こすい狐はうまうまと
ばかしおおせて猟人を
あちら、こちらと、引き廻す
西へ五里、東へ三里とあゆむうち
でっかい沼についた時
長い旅故疲れたろ
水なと浴びて行きなされ
狐は笑うて云うたげな
雪はコンコン、霰サラサラ
冬の最中であった故
衣裳を抜ぐとそのまんま
いてて仕舞たとやれそれ
なんまいだあ トララヨウ──
祝福を願って集った人の群はますます数をます。
広場には人のどよめきと共に話す人声が随分とやかましい。
うす闇のたちこめた空の中に影の様な人が後から後からと押しよせて来る。
押されて低く罵るものの声もする。
恐ろしい死をもたらす様な人の影の形にとりかこまれて法王は段々短かい生命になって来る。
軽くおそって来る苦痛に法王は娘の頭を押えつける様にする。
娘 (上目で法王を見あげながら)あ! あ! あ!(小さく叫んで震える)
第二の若僧 お師様が──
法王のそばに飛びよる。
老僧は静かにその後に立って、消えかかる灯の様な法王の命を見守る。
法王 神の──又──
法王は絶え入る。
うす暗がりの部屋の裡で恐ろしく集った人の群は魔の影の様に音もなくひしひしと中央にせまって来る。
どっかで淋しいすすり泣きの声が響き、十字架を置いて出た第一の若僧は手に普通の人の着る着物を持って戸口に引きしまった青い顔をして立つ。
人の群はなおなお影の様に、中央に向って迫って行く──
底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年11月25日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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