千世子(三)
宮本百合子
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(一)
千世子は大変疲れて居た。
水の様な色に暮れて行く春の黄昏の柔い空気の中にしっとりとひたって薄黄な蛾がハタハタと躰の囲りを円く舞うのや小さい樫の森に住む夫婦の「虫」が空をかすめて飛ぶのを見る事はいかにも快い身内の疲れを忘れさせて呉れる事だった。
あきる時を知らない様に千世子は自分の手足とチラッと見える鼻柱が大変白く見えるのを嬉しい様に思いながらテニスコートの黒土の上を歩きまわった。
町々のどよめきが波が寄せる様に響くのでまるで海に来て居る様な気持になって波に洗われる小石のすれ合う音や藻の香りを思い出し、足の下からザクザク砂を踏む音さえ聞えて来そうであった。
これから書こうと思って居るものの冒頭を考えたりしながら自分一人の世界の様に深い深い呼吸をゆったりとして澄んだ気持になった。
力強い自信と希望は今更の様に千世子の心の中いっぱいに満ち満ちて世の中のすべてのものが自分一人のために作られたと思う感情に疑をはさんだり非難したりなんかする事は出来なかった。
緑の色が黒く見えて尊げな星の群が輝き出した時しなければならない事をすました後の様な気持で室に戻った千世子は習慣的に机の前にさも大した事がありそうにぴったりと座った。
ゴンドラの形をした紙切りをはさんだ読みかけの本の頁をやたらにバラバラとめくったりして眠るまでの時間の費し方を考える様な様子なんかした。
誰か来ればいいのに──
門の外を通る足音に注意したりわざわざ女中を呼んで、
誰か来るっていいやしなかったかえ。
ときいたりなんかしたほど千世子には友達の来るのが待たれた。
かなり夜になっても誰あれも意志の悪い様に訪ねて来なかった。
我まんが仕切れなくなって、
お前ほんとうに、お気の毒だけどねえ、
一寸行ってお京さんを呼んで来てお呉れな。
どうでも来ていただかなければならないんですからってね。
と口上を教えて女中を一番近所に住んで居る京子の所へ迎にやった。
十五分許してから京子が書斎に入って来た時千世子は待ちくたびれた様にぼんやりした顔をしてつるした額の絵の女を見て居た。
今日は大変御機嫌が悪いんだってねえ、
どうしたの。
笑いながら京子は千世子の顔を見るとすぐ云った。
御機嫌が悪い?
歌を唱わなけりゃあ御機嫌が悪いんだと一人ぎめして居るんだものいやになっちゃう。
それに又彼の女にはその位の観察が関の山なんだものねえ。
女中が少しすかして行った戸をいまいましそうに見ながら千世子は云った。そしてだまったまんま京子の桃割のぷくーんとした髷を見て居た千世子は急に嬉しそうに高く笑いながら京子の肩をつかんで言った。
「いいえね、
ほんとうを云えばほんのちょっぴり御機嫌が悪かったの。
でもね今はすっかりなおった、
貴方が来て呉れたから。」
「貴方はお天気屋だもの、
そいで又我ままなんだもの、
あの女だって思いがけない処に気をつかって居るんですよきっと。
昨日の朝よった時に私の顔を見るなり、
「まあ、貴方様、いい処へお出下さいました事、御起ししなければならないんでございますけど少し工合が悪いと、
『私は朝が一番お前のきらいな時なんだよ』
なんておっしゃいますんですから。
って云ってたもの、可哀そうに──
「それもそうね、
さきおとといの朝六時にお起しって云って置いたんできっちり六時が鳴ると私の処へ来て肩をゆすりながら、
貴方様、お置き遊ばせ。
て云うのがさっきから目を覚して居る私にははっきりわかったけれ共、狸をして居たら、鏡の前に行ってしきりに何かして居たっけが音のしない様に私が起上って居たのを見てまああの様子ったら、ぶきりょうの女があわてた様子ったらありゃあしない。
こんならちもない事を云いながら千世子は男の様に不遠慮に笑った。
笑うために大きく開く口から「かんしゃく」やわだかまった気分が皆、飛び出してしまう様に気が軽くなって頭がピョコピョコはずみ出しそうに思われた。
陽気な声で千世子はついこの間書き上げた極く短っかいそいで可哀らしいものを京子に読んできかせたり思い浮ぶ歌を歌の様な調子に唄ったりした。
だまって陽気な顔を見て居た京子はしみじみとした低い声で云った。
「でも貴方なんか、思う通りの事をして苦労も心配もなしに暮して居るから少し位の不平は我まんしなけりゃあいけない。
此頃の私なんかほんとうにみじめこの上なしって云う様な様子なんだもの。
いくら画を書くのが商売だったってあけても暮れても植物の解剖図ばっかり描いて居るんじゃ何か張合も有りゃあしないんだもの。
こないだ描いて居た美人画は叔父が来て散々けなして行ったから洗ってしまったしするから──
好きで始めた仕事をしながら一寸でも、
ああ、いやだ。
と思うと淋しい様な気持がする」
「そりゃあ、誰だって他人のして居る仕事は易しくって苦労がなくっていい様に羨しい様な気がするにきまってる。
でもまあ、自分の仕事に、不平があったり何かするからこそいいんで若しそうででもなかったらそれこそほんとうに可哀そうだ。
悟りきった様な調子に千世子がしずかに云うのを京子は押つける様に笑って、
そうでしょうさ!
なんか云った。
千世子が気まぐれに時々水彩画を描く木炭紙を棚から下してそれを四つに切ったのに器用な手つきで炬燵につっぷして居る銀杏返しの女の淋しそうな姿を描いて壁に張りつけて眼ばたきを繁くしながらよっかかる様な声で云った。
「冬中私の一番沢山する様子だ」
「貴方の冬の姿はそんなに淋しそうなの?
私が若し描くんなら燃えしきる焔の上に座って室咲の花に取り巻かれて居るのを描く。
それだけ私と貴方はすべての事に違って居るんだ。
千世子はこの一月ほど燃かない「すとーぶ」のがらんとした口を見た。
そしてあんまりがらんとしていやだから土を敷いて草花でも植え様かと思って居ると云うと、
「ええさぞ結構な事ってしょうよ。
ろくに日もあたらない闇の中にヒョロヒョロといじけて咲く花を見て貴方が『かんしゃく』を起して叱りつけてる様子が目に見える様だ。
京子はこんな事を云ってからかう様に笑った。
「ほんまになあ、
あほらしい事や。
おどけた調子で真面目な顔をして千世子は云った。
それにつられた様に京子は西京へ行った時の話を丁寧に話した。
「大阪って云うと京都より塵っぽい煤煙の多い処許り見たいだけど成園さんの描いたあの近所は随分好い、お酌もこっちのより奇麗だし同じ位『すれ』て居ても言葉が柔いからいやな気持がそんなにしない。
『すれ』を上手にごまかして居るのかもしれないけれどすきになれそうなのが少くなかった。
こんな事も話した。
千世子はだまって壁を見ながら、彌左衛門町を歩いて居た時、お酌が大口あいて蜜豆を頬張って居るのを見た時の気持を思い出して居た。
京子はしきりに千世子の古い処々本虫の喰った本を出してはせわしそうにくって居るのを見て、
「何にするの?
千世子はだるい声で云った。
「何ねー、
今して居る仕事の片が附いたら極く新らしい気持で昔の物語りの絵巻を作って見ようと思って。
気に入ったのが見つからないんだもの。
ほんとうに何がいいかしらん。
京子はほんとうにたずねあぐんだ様に云った。
「いいのが見つからなかったら自分で物語りを作ったらいいじゃあ、ありませんか、
何にも昔のでなけりゃあ、いけないって云うわけもないだろうのに。
自分で作ったものは気に入らなくってもあたる人がないから一番いい。
それにねえ、若し自分より前の人が自分より達者に同じ物を描いたのでも見るときっと破くか見えない所にしまうかしなければ安心が出来ない様な事が起こって来るもの。
「だって私にはそう都合よく行かないんだもの。
「仕て出来ない事ってありゃしない。
「そう云えばそれっきりだ。
二人はぽつりぽつりとこんな事を話した。
「あんなにしてわざわざ来てもらっても思いのほかだ」
いつもの通りの不平が千世子の心に湧いて来た。
そう思うと京子が自分の傍に座って居るのが何とはなしに「やっかい」ものがある様に思えて来た。
わきの時計を見上げて千世子は横目に京子の方を見ながら、
「ああああ、もう十時半になっちゃった。
とつぶやく様に云った。
「ほんとうにねえ。
もう帰ろう、あしたまた八時っから小石川へ行かなけりゃあならないんだもの。
今の仕事が片づくと当分は自由で居られる。
京子は立ちあがって「おはしょり」をなおしながらこれから家に帰ってねるまでの事を話したりした。
「どうしたって十二時だもの。
それで六時がなれば起きるんだから寝不足で黄色な顔をして居なけりゃあならないのは無理もない。
「それじゃあ日本人の先祖はよっぽど寝不足ばっかりしつづけたものと見える。
貧亡ひまなしで──
こんな事を云って笑いながら千世子は京子にかす本を抱えながら送って行くつもりで一緒に門を出た。
外は星夜の深い闇がいっぱいに拡がってどっかで下手な浪花節をうなって居るのが聞えて来た。
千世子の草履の音と京子の日和のいきな響が入りまじっていかにも女が歩くらしい音をたて時々思い出した様に又ははじけた様に笑う声が桜の梢に消えて行った。
京子のつつましやかな門の前に来た時千世子はいかにもとっつけた様に、ポックリ頭を下げて、
左様なら
今度、暇があったら又ね、
一人で帰るのがいやだ!
と云うとすぐ京子が何か云ったのを後にきいて大股にスッスッと歩いた。
少し行って後を振返った時京子がまだ立って居るのを見て前よりも一層速足に歩き出した。
広い屋敷町の道の両端にひそんで居る闇がどうっと押しよせて来る様に感じ三間ほどの長さに四尺ほどの高さにつまれて居る「じゃり」は瓦斯の光でひやっこく光って闇におぼれて死んだ人の塚の様に見えて居た。追われる様にして家に帰って机の前に座った時その上に葉書と手紙がのって居るのを見つけた。
叔母からよこした手紙にはこの次の日曜に御馳走をしてやるから来いと云うだけの用にいろいろのお飾りをつけてくどくどと巻紙半本も書いたかと思うほど長く書いてあった。
よっぽどの時間と根気がなけりゃあ。
千世子は叔母のひらったい顔と小っぽけな額を思い出した。
そしていかにも感謝の念にあふれた様な返事を書いて心の中に朗読しながら何とはなしの可笑しさに笑って居た。
葉書は、友達からカナリーが雛を育てたからあげようと云ってよこした。
育てるのは若しかすると楽しみかもしれないけれど、病気になった時やそのほかの面倒くさい事を考えるともらう気もしなかった。
千世子は床に入ってからも中々ねつかれなかった。
子供の時から幾人も変った友達の事を思い出したりして自分一人はなれたものの様にも思った。
自分一人多くの人の群からはなれたと云うのも必して不愉快なはなれ方ではなかった。
小さい時分からあくせくして友達を求め様としなかった千世子は今もあんまり沢山な友達を持っては居なかった。
頭の友達、
形の友達、
千世子は友達を斯う二つに分けて居る。
頭の友達──それは千世子の満足するだけの人は今だに得られないものであった。
形の友達でもそうだ。
御親友、とかりにも名づくべきものは一人も持って居なかった。
自分でも又そうである事を千世子は幸だと思って居た。笑いながら御親友になっても笑って別れる御親友はありゃあしない、と云う事を千世子は深く信じて居た。又そう云う経験も沢山持って居た。
親友のないために不都合な時より都合の好い場合の方が多かった。
貴方の一番御親しくなすっていらっしゃるのは?
よく人はこんな事をきく。
そのたんびに千世子はだまって笑いながら沢山の本に目を注いで居た。
近頃余計にそう云う気持になって居る千世子はその晩も京子の事を考えながらうす暗い燈の下でまたたく本の金色のかがやきやしずかにただよって居る紙の香りをしみじみと嗅いだ。
そうして自分でも喜んで居る大きな額が一層大きく──高くなった様に感じて居た。
まあ、何にしても丈夫にならなけりゃあ。
千世子は今月が去年も頭を悪くした月だと思って深い呼息を一度すると何も彼もほっぽり出した様な顔をして眼をふさいだ。
縁の下でいつの間にか鳴き出した虫がジージー、ひつっこく千世子が寝つくまで鳴きつづけた。
(二)
神田まで用で行って帰って見ると思いがけなく篤が来て千世子の帰るのを待って居た。
紙包と傘を持って元気らしく笑って立って居る女中は、
さきほどお出遊ばしたんでございます。
三時頃までに帰るとおっしゃってでございましたと申上たんでお待ちになっていらっしゃったんでございますよ。
と云いながら書架のわきに本を見て居た篤に、
只今お帰りになりました。
と云って奥へそわそわと引っ込んで行った。
千世子は銘仙の着物に八二重の帯を低くしめたまんま書斎に行った。
「どうもお待遠様。
いついらしったんです?
篤は本をふせて立ち上りながら丸い声で云った。
「も一寸前なんです。
帰ろうかと思ったんですけどあの女がもう直だって云ったんでこんな処に待ってたんです。
いそがしいんですか?
「ええ昨日まではね。
でも今日はようござんすよ、
きまった事がないんだから。
今日は一人なんですか?
「いいえね、□□そこの例のうちへ来たんです。
ほら、あの先一度会ったじゃあありませんかあの中村って云う人ね、
あの人と来たんです。
でも他所に用がまだ有るんだって京橋へ行きましたよ!
「へえ、わざわざ用を作ったんですよ、
そうにきまってますともね。
あの方はそう親しくない人なんかの家へ行きそうない様子ですもの、
引込思案らしい方ですものねえ。
「そりゃあ、そうかもしれませんよ、
あの人ではね!
それが又あの人の良い処なんだもの。
篤はその人の顔を思い出そうとする様な目差しをしながら云った、そしてまるで気を変えた様に千世子の指のオパールを見ながら声の練習でもする様に気をつけて節まわしよくするすると話し出した。
「此頃体の具合はどうなんです。
少し眼が窪んだ様ですねえ、
夏まけでもするんでしょうか。
「いいえね夏まけってんでもないんだけれ共四月から五月にかけてきっと頭の工合を悪くするんですよ。
もう四月の濃い空気が私にのしかかって来る様に重うく感じて来るともう少しずつ悪くなって行くんですから。
それでもね、じきなおるんですよ。
おととしだか神経衰弱をやったのが癖みたいになってねえ。
源氏物語りなら『御物の化』でもって──
陽気な声で千世子は笑った、そして手をのばして篤が今まで読んで居た本の頁をわけもなくめくったりした。
「ほんとうにねえ。
今年は今っから海岸にでも行ってたらどうです?
「今はまだ東京に居とうござんすよ、
今頃の東京は一寸ようござんすからねえ。
ネルの着物を着る頃の銀座の通りが大好きですよ。
かなり長い間おぼえて居られる人を見られるしするから。
「私なんか一寸でもおぼえて居られる人に会った事なんて銀座を歩いたってありません。
男だからでしょうかねえ。
「そんなこってあるもんですか、
目速くないからなんですよ。
いつまでもおぼえてた人の中でたった一人妙な事で私にわすられない人がありましたっけ。
何でもない人だったんだけれ共後れ毛をかきあげた小指の変な細さが目について忘られない人の仲間入りしたんですよ、
十七位の娘でしたけど。
そうして思い出す時には一番始めに前髪の処にあがった小指から頸から前髪から眼と云う順でしたよ、どんなはじっこにあるものでも一番先に目の行った場所から見えて来るもんですねえ。
そいで一寸も変な形容じゃないんです。
「私そんな事一度もあった事がありませんよ、
面白いもんですか?
そんな事を云う人はあんまりありませんねえ、
私達の知ってる人の中で。
「そうですか。
面白いなんて人によりますけどねえ、
いやなもんじゃあ、ありません。
いろんな想像が湧いて来ますもん、
それにねえ、私はすきな事の一つです。
「貴方って人はほんとうにいろんな楽しみを持って居る人だ!
篤は千世子の濃い青味がかった白眼や髪の間から一寸のぞいて居る耳朶を見ながら誘われる様な気持にうす笑いをした。
笑いながら濃い長い髪が額へ落ちかかって来るのを平手で撫で上げ撫で上げしながら窓の外にしげる楓の若葉越しにせわしく動いて居る隣りの家の女中の黒い影坊師を見て居た。
何です?
千世子は其の方を見ながらきいた。
「影っ坊師を見て居るんですよ隣りの女中の。
影っ坊師って何だか妙に思わせ振りなもんですねえ。
「女中の?
私はねよくそう思いますよ、
女中ってものは私達と同じ女でありながらまるで特別なものとして神から授かった頭を持ってるってね、面白い研究ですよ、その心理をしらべるのは。
女の見た女中と云うものはほんとうに妙なものに写ります。
きっと男の人なんかにはわかりますまいよ」
篤は窓から目をはなして考え深い様に一つ処を見て居る千世子の顔を見た。
「そうですかねえ。
篤は云った。
「私なんか女中に接する場合が少ないせいかそんなに知りません。
それに又知ろうとした事もありませんからねえ」
「生理的にも精神的にも違います。
特別な点に気がついてねえ、
奉公人根性をどうしたって無くさせる事は出来ませんよ、
長く奉公をすればするほど気持の悪くなる御追従と謙遜と憎らしい図々しさばかり大抵はふえるもんです。
平気で自分の躰をさいなんで笑う様になりますよ、恐ろしい様にねえ。
「いやなもんだ。
でもそう云う事のあるのは何とない痛ましい事ですねえ。
頭もなく形もととのわず才もない様に育った女が自立しようとすれば一番雑作ないのは女中ですからねえ、やっぱり」
「そうなんですよ。
例えば何か悪い事をしましょう、
頭の足りないせいだと思って同情してそうぎすぎすも云わずに置けばすぐ図にのって来ます、
あたり前だって云う様な顔をしてね」
千世子は一寸話を止めた。
そしてかなりの間口を開かなかった。
「どうしたんです?
気分が悪いんですか。
篤は千世子の顔をのぞき込みながらきいた。
小さい子供のする様に千世子は首を横に振った。
しばらくしてから静かに落ついた声で云った。
「何でもないんです。
けれどもね、今まで、あんまり下らない話をして居たのに気がついてね、
何だか馬鹿らしくなった」
「してしまった話をどうする事も出来ないじゃあありませんか」
篤は大きな声で話しながら笑った。
千世子にはほんとうの真面目な言葉としてそれが響いた。
「ほんとうですねえ。
そう云いながらも千世子は考える様な目つきをして居た。
「ほんとうにそうだ!」
つぶやく様に云った千世子の心の底に重いものが産れて来た。
よろける様にして行ってピアノのふたをあけた。
そしてたったままシューベルトの子守唄を弾いた。
しとやかにゆるい諧調は千世子の心をふんわりと抱えて揺籃の裡に居る様な気持にした。
篤はしずかに歌をつけた。
低いゆーらりゆーらりとした歌に千世子は涙をさそわれる様な心に柔さが出て来た。
ほんとうに好い曲ですね。
千世子は幾度も幾度も、繰返し繰返して「ふた」をしながら後に居る篤に云った。
ああ、貴方に不思議な気持のする音をきかせてあげましょう。
した蓋をわざわざ開けて千世子は篤の方を見ながらCDの音を一度に出した。
完全四度の音程のその音は三角派の絵の様に奇怪なそしてどっかに心安い安らかな思いのこもった響でその余韻には鋭い皮肉がふくまれていかにも官能的な音であった。
「ねえ、ワイルドの作品の様な──
音をききすます様な目をして千世子は云った。
「幾分かはそう思いますけど──
それほどに感じませんよ。
千世子は篤の答にがっかりした様に首を振って静かに蓋を閉じた。
「貴方、割合に鈍いんですねえ、
いけないじゃありませんか、そんなじゃあ。
わざとらしい笑い様をして千世子はとっぴょうしもないそっぽうを見て居た。
千世子は腰掛様ともしないで部屋のあっちこっちと歩きまわった。
茶っぽい帯の傍からうす色の帯上げが少しのぞいて白い足袋に蹴り上げられる絹の裾が陰の多い襞を作るのを篤は静かに見て居た。
貴方随分暢気らしい方だ。
千世子は向うの隅から両手を組合わせてズーッと下にのばしてこっちに歩きながら云った。
どうしてです?
何でもが、そう見えますよ、
なるがままにって云った様に──
こんな事を云って笑った。
笑った後急に口をたてなおして千世子は腰掛て肱掛に両肱をのせて顔の両わきを支えながら驚くほど真面目に云った。
私は見つけました、
自分では馬鹿馬鹿しくないと思えるだけの話をね。
貴方は驚く許りの奇麗さを知っていらっしゃる? 御化粧をした娘でもなく表面に表れて居る色彩でもなく──
「又私にわからない私の知らない事なんでしょう?」
「いいえ、考える事でも思い出さなければならない事でもないんです。
「私の驚くほど奇麗だと思うもの──
月の光の中の雪とオパアルと日向で見る銀器と。
篤は行きつまった様に千世子の方を見て笑った。
「ええ、ええ、そうです、
ほんとうにそんなものの中に生きて居るのはほんとうに奇麗なもんです。
でもね私はもっと知ってますよ。
ローソクの輝きで見る髪の毛、
太陽に向って透し見る小指の先、
ね? そんなのは貴方知ってらっしゃらない。
私はほんとうにそう云います、
表われて居ないものの中にひそむ美くしさが一番美くしいものだってねえ。
それで又人間の手で出来ないものの中にそのびっくりする様な美くしさが多くある。
私は自然の美くしさの讚美者なんです。
ギリシア神話は今我々の実際に見られないもんです、見ようと思うには必ず何か芸術的な何物かを通してでなければ出来なくて丁度──
ええ太陽の微笑を浴びなければ見られない銀器のあの美くしさの様なもんだからこそ今でも我々の頭の上にかがやいて居るんです。
ねえ、美くしさに大小はありませんねえ、
私は美くしさの中に生きてその中に葬られるんだと思ってます、
又それを望んでますもの。
千世子は興奮した眼つきをして云った。
私はね、
こんな事を云って居る時はいつでも何か大きなものの「ふところ」の中に居る様な気がして居るんですよ。
そして力強い希望と喜びが、美くしさ、と云うものの中から私の処へ来るんです。
美くしさを間違なく感じ得られる事をほんとうに私はどれだけ感謝して居るんだか。
篤は驚かされて千世子の顔を見て居た。
自然の美くしさを云う時千世子の興奮するのは常の事で奇麗な言葉のつながりを誦す様に云っていろいろの事をはなした。
「悲しみが喜びと云うものよりも微妙なものだと云うけれ共、自然の中の美くしさはそれと同じです。
ねえそうじゃあありませんか、
世の中の人が十分の九十九まで自然の美くしさを非難したり馬鹿にしたって私だけはほんとうに二心のない忠臣で居られる。
私が或る時は守ってやり又或る時は守られる事が出来るまで私と自然の美くしさは近づいて仲よしで居る事が出来る。
こんな事も云った。
篤はのぼせた様な千世子の頬と赤い若々しい唇を見ながら云った。
「独りで居る時でもそんな美くしさが感じられるんですか、
話したくなって来るとどうするんですか誰あれも来て居ない時──
「そんな時にはね、
急に千世子は大きなヒステリックな声で笑った。
それからすっかり声を落して上目で見ながら迫る様な調子で云った。
そんな時にはね、
心に浮む事をお祈りの文句を誦す様にとなえるんですよ、
手を胸に組んでね、
ひざまずいて美くしい太陽の光の中でね、
私の心の満足するまで云うんです。
私の心が満足した時にはたった一滴の涙がポロッとこぼれるとそれで私はすっかり満足するんです。
嬉しいんですよ、
貴方になんかどうしたってわかりません、
私の領分なんですからね。
千世子はこんな事を云った後であんまり長く話して疲れた様に深い溜息を吐いた。
今までとはまるで違った沈んだ目をして千世子は篤の顔を見て云った。
「貴方って云う方はほんとうに静かな方なんですねえ、
山の奥にある沼の水の様にねえ。
でもあの水位注味深いんならよござんすよ。
「ほんとですねえ、
自分でもよくそう思います。
でも性質だから仕方がありません。
だから『奇麗だ!』と思ったっていいかげんまで行けば立ち消えがして仕舞うし何かに刺撃されてもいいかげんまでほか行きませんからねえ。
すべてが小さくかたまって仕舞うんです。
自分でつとめても出来ませんよ、
極端に走る人がつとめていいかげんにする事は出来てもねえ、
私の様な人間はこれっきりなんですよ。
篤は静かな声で云った。
「そう云う運命に生れたんですねどうしても。
「運命に?
私は運命に使配される事はしたくありませんねえ、運命なんてものは自分で開く事が出来ますもの。
私一人かもしれないけどそう思ってます、
又きっとそうであるらしゅうござんすよ。
運命なんてものはどんなたくらみがしてあるかしれたもんですか。
運命の司が『なぐさみ』の多い様に気の小さい人間共にあやうい芸当をさせてよろこぶんですよ。
意志っぱりでも、と云った調子に千世子は強くこんな事を云った。
そしてもうほんとうにしんからつかれた様に椅子に頭をもたせて眼をつぶって居た。
疲れたんでしょう?
篤は笑いながらきいた。
ええ、
あんまりしゃべり様が多かったんでね。
いつも斯うなんですから。
欠伸を歯の間でする様な声で云った。
「私もう帰りますよ六時半までの約束が一つある、
ようやっと今から間に合うほどだから。
いつか上りますよ、誰かと一緒に──
「ええそいじゃあ左様なら、
つれて来ても好いから半端な数にしちゃあいけませんよ。
こんな事を千世子は云いながら出入口まで篤を送って行った。
風が出たらしいんですね。
篤はこんな事を云いながら石の上を一つ一つ踏んで出て行った。
部屋に帰るとすぐ千世子は大きな椅子の上にうずまる様に腰をかけた。
そうして頭を後のクッションにうずめると泣きつかれた子供の様に夢ばっかりの多い眠りに入った。
ややしばらく立って目をさました時躰に羽根布団がかけられてわきに電気のスタンドがふくれた色にともって居た。
顔を手の甲でこすりながら不精らしく身動きをして、女中の名を呼んだ。
まあ御目覚めなさいましたねえ。
と大きな声で云って女中が入って来た頃千世子は髪を解いて梳って居た。
「お客様がおすみになるとすぐおよったんでございますねえ。
「あああんまり話したんでね、
すっかり疲れたんだよ。
「私はまあ、貴方様があんまり大きなお声でお話しなすっていらっしゃるからどう遊ばしたんだと思って居りましたの。
女中はこんな事を云ってわけもないのに大きな声をたてて笑った。
そして女中が牛乳を銀色に光る器に入れて持って来た時また元の椅子に腰をかけて千世子はうつらうつら寝入りそうな気持になって居た。
軽い夕飯をすましてから千世子は近頃にない真面目な様子でたまって居る手紙の返事や日記をつけた。
その日から三日先の頁へほんの出来心で千世子は大きく白い処いっぱいに、「赤んべー」をして居る顔を描いた。そしてそのわきにボキボキと、
いいい
と書きそえた。
自分でもよくあきないで居ると思うほど長い間それを見つめて居た。
白鳩を呉れると云ってよこした友達に斯んな返事を、不器用なペン字で書いてやった。
小供っぽい私はほんとうに喜こんで居ますよ。
可哀いい白鳩の若い御夫婦が私の庭に来て呉れる日を今っから待って居るんです。
香りの高い紫色の夏の暮方に舞う様子を私は今っから想像して居ます。
うすっぺらな手紙を女中に出させてから明日金物屋へ「きゃしゃ」な「ふせかご」を命じる事を忘れてはならない事の様に思いつづけて居た。
お前ねえ、
どうしてもそう云わなけりゃあいけないよ!
千世子は女中の顔を見るなりいきなり云った。
何でございます?
何かお云いつけんなったんでございますか?
女中は怒られる事を予期して居る様な眼つきをして居ると思って、
「私怒ってるんじゃあないよ、
あれさ!
ほらこないだ云ってただろう、
近いうちに若い御夫婦がいらっしゃるって──
だからその人達の家を作ってやらなくっちゃあならないからねえ。
「へえ若い御夫婦って──
どこへお家を御建て遊ばすんでございます?
「何! なんでもないんだよ、
お前あした金物屋へ行ってね一寸目位の高さが四尺位で長さが一間半位の『ふせかご』を作るようにたのんどいで。
三日位まででね。
「何だろうまあ。
女中は大きな声で笑いながら、
鳩の事でございますねえ。
と今思いあたったらしく云った。
「たった二匹ぼっちの鳩をお入れになるのに一間半なんて長さがいるんでございますか?
「だってお前せまかったら気の毒じゃあないか、
一間半だってこれっぽっちだよ。
わざわざたって行って千世子は柱から柱までの間をさして見たりして、
何だか楽しみなもんだねえ。
なんかと云って笑った。
おあきなさらなけりゃあいいが。
そう云って居る女中の顔に、
「また飼番は私だよ。
と云う色がありありと見えて居た。
私の用はそれだけなんだよ。
千世子はがっかりした様に云ってクルリッと後を向いてしまった。
いつもになく千世子は自分の留守に罪もない鳩に女中がつけつけあたりゃあしまいかなんかと云う事がやたらに気になって居た。
あとをくっついてどこまでも来るといいんだけど。
こんな事も思って居た。
その日は床に入るまで千世子は鳩の事ばっかり思いつづけた。
(三)
鳩の御夫婦が来てから千世子は女中が起しに来るとすぐ床をぬけ出て「ふせかご」の中や木の枝に面白そうにのんきらしい様子に遊んで居る気軽者を見て機嫌よくして居る日が幾日も幾日もつづいた。
そうすると女中は気をゆるめた様にきっちりたのんだ時間でない時に耳元で、
貴方様
と呼んだり、
鳩はもうさっきから出て居りますんですよ。
と云ったりする様になった。
いまいましそうな顔をして、
お前ねえ鳩が来たからって時間は時間だよ。
なんかと云う様な事もあった。
女中も面白半分に鳩には親切にした。椿の花の下でしきりに羽虫を取りっこして居る二つの白いかたまりを見ながら日あたりのいい南の縁に足を投げ出して千世子は安っぽい──それでも絹の袢衿をやりながら云った。
お前がねえ、
鳩によくしてお呉れだからあげるんだよ、
だから若しひどくすれば取り返してしまう。
小娘の様な顔をして人のいい様子をして居る気むらな我ままな若い女主人の様子を女中は嬉しさと馬鹿にした気持が半々になった心で見ながら心の底の底では、今呉れた衿と今千世子の掛けて居るのとをくらべて居た。
鳩が来たんで御機嫌が取りよくなったって云って居たっけ。
ちょくちょく来る京子が笑いながらそんな事を云ったのも此の頃であった。
鳩を小屋に入れる頃から小雨が降り出して夜に入ってもやまなかった。
夕飯をすまして歌をうたって居た時京子の声がしきりに、
「一寸一寸、ここまで来て御覧なさいよ。
と云って居るのをききつけた。
千世子はつま先でとぶ様にして入口に行って障子を荒っぽくあけると思わず千世子は声をあげた。
「まあどうしたって云うんだろう。
「何故? 珍らしいでしょう。
そうやってパサパサな分髪にして居る貴方のわきに私が座ったらさぞ面白いだろう──
京子はこんな事を云った。
縁を緑色に塗った足駄をはいて蛇の目を手にもって京子は青い瓦斯の下に立って居る。
紫の様に見える濃い髪は形のいい島田に結ばれて長目な顔にほど良い美くしさをそえて居る。
お召のあらい縞の着物に縮緬のうすい羽織をようやっと止まって居る様に着て背が高い帯の形をコンモリと浮き出させていつもよりは倍も倍も美くしくすなおらしくすべての様子をととのわせて居た。
「わざわざこんななりをしたんです。
お召の着物の様な気持のする雨ですもん。
それにあのいやな仕事もすんだんでねえ。
「まあ、何んしろお上んなさいよ。
さっきね、
あの女と一寸気まずい事があったんですよ。
それで少しくさくさしてたんだから、
さあ、お上んなさいってばね。
上らないの?
よっぽど立姿でもいいって云われたと見える。
千世子は京子を引っぱる様にして書斎に通した。
ほんとうにがんなりした様な顔をして口をきくんでも京子はのろのろとした。
何か一つ事をするとほんとうにうんざりしますねえ、
昨日と今日は只もう空ばっかり見てるんですよ。
皿にゃあといた絵具がこびりついたまんまだし、筆はこちこちになったまんまで──
このまんま当分遊ぶときめた。
千世子によっかかりながら云う。
何故、そんなに甘ったれるんだろう、
大きななりをしてながら、
私より貴方は随分かさばって居るもの。
でも今日はいつもよりよっぽど奇麗に見えてますよ、気持がいい着物の色が──
それにね、
貴方みたいな人は黒っぽいものが一番似合う。
横縞は着るもんじゃあないんですよ、
大抵の時は横っぴろがりに見えるから。
母親の様にしげしげと京子のなりを見た。
貴方新ダイヤのついたものなんかするもんじゃあない。
私は大っきらい、
何だか変に山師じみてさ。
こんな事も千世子は云った。
二人は心から仲の良い様によっかかり合いながらとりとめもない事をぼそぼそと話した。
「これから毎日貴方は描く絵を持って来私もしたい事をして一日中一緒に居ようじゃあありませんか、
きっといいでしょうよ。
ね? ほんとうにそうしようじゃあありませんか。
「そうねえ。
「そうしましょうよ。
「私も先にそう思った事もあったけど、
あしたっからほんとうに──
目先が変ってようござんしょうねえ。
だけど私の道具を抱えて来るのは随分大変だ。
京子は真面目にそんな事を云った。
二人は芝居の話、此の頃の「流行」の話をあれから此れへと話しつづけだ。
京子は市村座の様な芝居がすきだと云って、
ねえまあ考えて御覧なさい、
丸の内にはない花道がありますよ。
いきななりをした男衆が幕を引いて行く時の気持、提灯のならんだ緋の棧敷に白い顔のお酌も見られますよ。
どんなに芝居特有の気持がみなぎって居るか──貴方なんかにわかるもんですか。
私みたいに珊瑚の粉や瑪瑙のまぼしい様な色をお友達にして居る人間はやっぱりその方がすきですよ。
そして又その方がする仕事につり合った気持だもの。
こんな事を云いながら美くしい濃い芸を見せると云って京子は散々に松蔦をほめちぎった。
そんなに?
千世子は気のない様な調子に聞いて居た。
つめたい御茶をのみながら二人はだまっててんでんに別々な方を見て居た。
何とはなしもの足りない気持が千世子の体中にみなぎって居た。
「一寸居ますか?
暗い外から誰かが声をかけた。
千世子は口の辺にうす笑をうかべて目を上の方に向けて耳をすます様に云った。
「誰?
「私ですよ。
千世子は手早く着物の衿をなおした。そして、
「お入んなさい。
と云いながら京子を見て、
「かまわない人ですよ、何んにも、
そうやっていらっしゃいよ。
と云う。
「あー今日はね、新らしい人をつれて来たんです、
会って下さるでしょう。
外にたったまんま篤は云って扉を細目にあけた。
京子の方を見てポックリ頭を下げて千世子の方に目を向けてたしかめる様にも一度、
「ねいいでしょう。
と云った。
千世子はだまってがっくんをした。
京子は間のわるそうないかにも世なれない様子をして、
なぜ別な部屋にしないの、
会った事もない人ん中に私は居るのがいやだもの。
鼻声でこんな事を云った。
千世子が何にも返事をしないで居るうちに入口に二つの黒い顔が重って見えた。
お入んなさいよ。
わだかまりのない声で千世子は云った。
君! お入りよ。
篤はも一人の肩を押て扉を開けたまま千世子のわきに行った。
いらっしゃいまし。
千世子は新らしい客を見て云って篤の方に目を向けて、
どなた?
何ておっしゃる方?
ときいた。
「あの──笹原の肇って云うんです。
早稲田だねえ、君!
小さい時っからの仲よしなんですよ。
「まあ、そんなら今までお目に掛らなかったのが不思議な位ですねえ。
ああそれから、
貴方こっちへいらっしゃいよ。
千世子は京子をまねきながら、
この方はね、私がもう随分長い間つきあってる人で山科のお京さんて云う──
絵をやってます今。
ごく簡短な紹介めいた事をすると四人は丸くなって腰をかけた。
京子は千世子のそばにぴったりとよって笹原って云う人は篤の傍をはなれまいとして居た。
四人の間には破る事の出来ない「初めて会った人」と云うへだてが出来てどうしても千世子と篤ばかりの話になり勝になった。
「のけもの」と云ういまわしい感じをさけるために千世子はだれにでも話しかけた。
何と云うまとまりもないありふれた世間話が四人の間を走りまわって白けかかる空気を取りもどすために、篤は下らない自分の日常の事についてまで話した。
肇は無口な男だった。
小さくってあつい様な輝のある目と赤い小さい唇と、やせて背の高い体をして居た。
話をきいては微笑んだりしかめたりして居る様子は何となし気障な様でありながら不愉快な感じは与えなかった。茶色っぽい絣の袷に黒い衿を重ねて小倉の袴の上から同じ羽織をかっつけた様にはおって居た。
千世子は笑いながら云った。
「貴方は無口な方でいらっしゃるんですねえ。
「ええ、兄弟もなし祖母のそばでばかり一人で居ましたから一人手に斯うなったんです。
でもしゃべる事だってないじゃあありません。
「ほんとうに無口同志の寄合なんですよ。
私達はせわしい中を大さわぎして会っても野原なんかに出かけて行ってよっかかりっこをしながら空を見て居て二言三言話したっきりで別れちゃう事だってあるんです。
でも妙なもんでそれでも満足するんです、
お互に。
篤はこんな事を云いながら肇の袴の紐をひっぱって居た。
ほんとうの仲よしになれればだれだってそうでしょうよ。
親友を持たない千世子は二人の兄弟の様な様子を面白そうに見て居た。
女中の持って来たチョコレートと紅茶を千世子は立って自分で配りながら、
おきらいじゃあないでしょう?
笑いながらクリクリに刈った肇の頭の地の白く見えるのを上から見ながら云った。
「この人はねえ、チョコレートのそこぬけなんですよ。
先にねえ、『海の夫人』だか何だったかの時に喰べたのたべないのって──
そのあげくが喉はいらいらする夜は眠られないって夜中の二時頃わざわざ手紙なんか書いて私の所へよこしたんですよ。」
篤はいつもになくこんな事を云った。
「そんなに云うもんじゃあないよ。
少し上っかわのかすれた様な細い丸い声であった。
笑う時少しのぞいた歯は寒くなるほど白い。
そして大変小粒にそろって居た。
京子は「云いたい事も云えないから」と云う様な顔をして、
私ももう帰らなけりゃあ、
本石町の伯父が来て居るんですから。
また上ります、失礼致しました。
千世子の何とも云いもしないうちに暗誦する様にスラスラっとのべて出て行きそうにした。
一寸御免なさい。
あわただしく千世子は立ちあがって京子の後をついて入口に行った。
またいらっしゃい、
あしたでもね!
京子の衿をなおしてやりながら云った。
外へ出て一寸空を見て、
上りましたよすっかり。
京子は透る声で云ったまんまカタカタと敷石を丹念に踏む音がかなり長い間響いて居た。
書斎に入った時二人は何か低く話して笑って居た。
ねえ私今もそう思ったんですよ
〔以下、原稿用紙一枚分欠〕
色が眼についた。
そんなに大きくない眼が神経的な色で云えば青味を帯びて輝いて居るのも見た。
そして少しうつむき勝にして上眼で人を見て話すくせのあるのをも知った。
肇は見るともなしに千世子の眼のあたりを見つめて居た。
篤の方を向いてしきりに何か話した。千世子はチラッと肇の方を見て、
墨がついてますか?
と云って笑った。
え?
肇はふっと思いあたった様にうす赤い顔をした、そして下を向いてくすぐったい様な顔をした。
その小供っぽい様子を見て千世子はおっかぶさる様に思い上った気持で笑った。
それからは多く肇の方を見て、千世子は話した。
絵の話も音楽の話もした。
貴方日本の楽器の中で何が一番気に入っていらっしゃるんです?
肇は一寸考える様子をして、
「そうですね、
はっきりはわかりませんけど、琴は自分で弾きます。
こんな事を云って篤と顔を見合わせて微笑んだ。
「御自分で?
御師匠さん処へ行らっしゃるんですか?
「いいえ姉から習うんです。
いつでも千鳥の曲はいいと思ってます。
「随分精しいんですねえ。
私琴は弾けないんですよ、
ただ三味線はすきですきくだけですけど、
尺八のいい悪いなんかはわかるほど年を取って居ませんしねえ。
「いつでもね肇君の姉さんがそう云ってるんですよ。
お前なんかどうせろくなものにはなれないんだから琴の御師匠さんになる方がいいよってね。
そんな風をして琴の師匠なんかすると何かだと思われるだろうって笑うんですよ。
「若しなさったら私にした所が、
『ちっと変だな』位には思いますねえ。
一体男の人で目の開いて居る按摩と琴の御師匠ほどいや味たっぷりな虫ずの走るものはありませんよ、ほんとうに。
でもね、私達が小石川に居た所のそばにもう六十位の眼明きの御琴の御師匠さんが居ましてね、
かなり人望があって沢山の御弟子が居るんで『おさらい』だなんて云うと随分はでにしてました。
それがね何でも夏の中頃だと思ってましたけど一晩の中に貸家の札がおきまりにはすにはってあったんで大変な噂になりましたっけが酒屋の小僧がねこんな事を云ってましたよ。
「あの『じじい』はあの年をつかまつって居て銘酒屋の女房と馳け落したんですよ。
勿論女房も子供もない一人ものでしたがね。
相手の女はいくつだと思います、
五十六なんですよ」ってね。」
私は老ぼれた馳け落ちものが茶化した様にゲタゲタとてりつける日光をあびて汗をだくだくながしてほこりまびれになって居る様子を思って皮肉な芝居を見せられた様な気持がしましたよ。
誰も笑わなかった。
やがて肇は重々しい目つきをして云った。
「ポーかゴールキーが書いたらどんなだったでしょう。
「ええほんとにねえ。
若し私達がそれをモデルにした処がいかにも下司な馬鹿馬鹿しい滑稽ほか出されませんからねえ。
そんな事を書くには年も若すぎるし第一あんまり幸福すぎますもの。」
千世子はいかにも研究的な様子をして云った。
「ほんとに私共は苦労しらずですものねえ。
千世子は間もなく嬉しい様な声で云った。
「でも貴方なんか生活の苦労を知ったり下らない苦痛をたえなければならない様で育って来たらきっとごく疑い深いいやな人になったでしょうねえ。
篤はくるくると思い切って肥えた千世子の胸のあたりのゆるやかなふくらみを見ながら云う。
「ほんとうにうまく行って居るもんですよ。
母はもうそりゃああ冷たいいやな中に育ったんですけど平らかな人の心持をそこねない頭を持ってるんです。
もとより私とはまるで反対に理智的な澄んだ頭を持って生れたんですけどねえ。
「貴方!」
肇は始めて千世子を呼びかけた、そしてしずかなはにかみはにかみ子供の話する様にぽつんぽつんと、
「私はそれじゃあ例外ですよ。
両親も可哀がって呉れたし、貧亡ながらそんなにあくせくしないで居られる家庭に育ったんですけど、こんなかげの多い人間が出来上ったんです。
と云ってかすかに笑った。
「そいじゃあ、貴方が自分でそうしたんじゃあありませんか。
体が弱くてらっしゃったんでしょう。」
「ええ、学齢頃までは医者にかかりづめでしたよ。
「だからですよ。
きっとそうですよ、
子供のうち弱かった子はそのまんま育っても、あんまり快活にはならない様ですもんねえ。
でもまあよく今までに御なりんなったんですねえ。
千世子は年下のものに云う様な口調で云って笑った。三人はそんなに打ちとけた話も何故かしなかった。
「ねえ笹原さん、
私達が今日はお互に初めて会ったって云うんでどっか内密なものを抱えて考え考え口をきいてますけど、若し三年も四年も御つき合して居てその時に今日の事を考えて見ればきっと何となくふき出したくなる気持がしましょうね。
「そうかもしれませんねえ、
でもどうだかそんな事は今っからわからない。
肇は低い声で返事をした。
話しの種のなくなった様に三人は丸くなってだまって居るうち千世子の心にはいかにも突飛なお伽話めいたものが思いうかんだ。
けれ共千世子はそれを話す事はしなかった。
篤はそんな事に対しての興味はそんなに持って居ない、肇だって初めて会ったばっかりでわかりもしないのに。
こんな事を考えて居ると肇はチラッと頭をまげて瓦斯の燃える音を聞いて居る千世子の方を見ながら、
君? 何時だえ?
と篤にきく。
時間をきにしてらっしゃる?
千世子は元の所を見たまんまぶつかる様に云ったんで、篤は千世子が怒ったのかと思った。
だってあんまりおそくなるといけませんからねえ。
云いわけらしく云うと、
何! かまわないんですよ、いくら御覧なすったって!
大きな声で千世子は笑った。
時計の蓋をしめながら、
じゃ、もうあんまりおそいから失敬します。
と云って立ち上ろうとした二人は間の悪そうに袴の紐にくさりをまきつけてからも立つ機会がなかった。
今までよりも一層はげしいすき間が三人の間に出来た、千世子はそのすき間にすべり落ちて死んで仕舞えるほどの深さが有るに違いないとさえ思った。
瓦斯のポーポーと云う声よりももっと低い様な調子で話しながらしげしげ四方を見廻した。
そうして居るうちに、女中部屋のボンボン時計が間の抜けた大女の様な音で十一打った。
二人ははじかれた様に立ちあがって、
何ぼ何でもあんまりですから。
と云った。
「どうもお気の毒さま、さぞ待遠くていらしたんでしょうね。
「何がです?
「時計の鳴ってくれるのが。
急ににぎやかに入口に出ると肇は帽子をかぶりながら、
「お邪魔しました。
また今度上るかもしれません。
「どうぞ、
私のお天気屋と我ままと『かんしゃく』さえ御承知なら。
かるく頭をさげて千世子は笑った。
そしてまだ後姿の見えるうちに部屋へひっこんでしまった。
──○──
辺□な暗いばっかりで何のしなもない夜道を二人はぴったりならんで歩いた。そして若い女達がよくする様にお互に手をにぎりっこして水溜り等に来かかると、水溜の上に二人の手でアーチを作ってとび越えたりした。小石をけとばしながら篤は肇の顔をのぞき込む様にしてきいた。
「どうだったえ?
「何が?
「何がってさー、今日の訪問がさ、──どうだったかってきくんじゃあないか。
「そうだねえ、どうって別に──
肇は煮えきらない返事をした。
「あの女はどう思ったえ──
一寸見た時どんなだと思ったね。
「そうさねえ、
そんな事君一体はっきり云えるもんじゃないよ。
改まった口調で肇は云って瓦斯燈を見あげてしかめっつらをした。
「いやじゃあなかったろう、
今度っきり始めての最後にする気はないだろう。
篤は肇の肩を抱える様にして云った。
「でもね、
あの女はほんとうに感情家で我ままで御天気屋なんだよ。
そして──
肇は何とも云わずにひろびろと横わって居る淋しい町を見て居た。
「あの人はね、
だれでも若い者がきらいになれない人だよ。
すてきな顔つきでも姿でもありゃあしないけれど。
それにねあの人は音楽も少しは出来る──
篤はまとまりのつかない事をつづけて云った。
「でも僕はまだそんなに感じを受けて居やしない、
何にしろ初めて会った人だからねえ。
この次行く気んなったらまた一緒に行こうねえ。
肇は千世子の額と一風変った髪形を思い出して居た。そして筒の中からの様な声でこんな返事をした。
暗い通りを横ぎると見えないポールのさきから青白い火花を散らして電車が一台走って行った。
肇は赤い柱の下に立って篤の手をさぐりながら云った。
「ねえ君、僕達はもう二十年近く親しい友達で居たんだよ、
ねえ君──
二十年近くもさ──
「ああ──二十年近くになるねえ。
「でも僕は一番初めどうした事からこんなに仲よしになったんだか今だに分って居ない。
「そんな事、さがそうとするもんじゃあないよ。
「ああ、ほんとうにさがすもんじゃあない。
肇は何かひどく亢奮して低いふるえを帯た声で云った。
すいた電車に乗って二人は一っかたまりになってだまって居た。
肇は、今日始めて会った人の事について考え、
篤は自分のわきにぴったり座って居る肇の事を思い、電車は闇をかきわける様にしてつき進んだ。
丁度二人が電車に乗った頃千世子はふくふくの布団にくるまりながら自分で自分をねかしつける子守唄をうたって居た。
(四)
夜の眠られない晩が十日もつづいて千世子はとうとう床についてしまった。
私はまあほんとうに四月と五月の月に呪われて居るんだ。
青い眼のくぼんだ誰が見ても不愉快な顔つきをした千世子は甘苦い様な臭剥を飲みながらこんな事を云った。ふだんにまして気むずかしい機嫌を取りそこねて女中が一日中びくびくして居なければならない様なのもその頃だった。
京子は毎日の様に来て呉れた。
京子に云いつけられてだれが来ても女中は、
頭の工合が悪くいらしっておよってでございますから。
間が悪そうにことわった。
小さい紙っきれに短かい見舞の文句が書きつけられたのなんかがだんだんたまってごとごとと書きつけたなかにうす青い紙に女の様な字で、
御案じしてるんです、ほんとうに。
と書いてあったのが一番千世子の心を引いた、でもだれだかわからなかった。
そのわからないと云う方がその筆の主をかえって美くしいものに想像出来ていいとも千世子は云って居た。
京子は千世子の傍で終日絵を描いて居た。
誰にも会わず何にも読めもしないで居る千世子には、絶えずはかどって行く絵筆の運びと心も身もその筆の先にこめて居る京子の様子を見るのがたった一つの慰めであった。
京子は着物の色も模様もなるたけ千世子の心にかなった様にして居た。
ねえ、これは貴方の御伽にと思って書くんだから、貴方のおこのみ通りにねえ。
こんな事を云われるのが嬉しいほど人なつっこい気持になって居た千世子はたびたびいかにもすなおな娘らしい調子で母親の処へ手紙を書いた。
叱かられる京子の眼をぬすんで書くと云う事が一つの興味ある事でもあった。
床についてから七日目の日は朝からまるで夏が来た様にあつかった。
「まあほんとうにあつい、
こんな『かいまき』をかけてちゃあゆだっちゃう。
『女中』にそう云って赤いうすい『かいまき』を出させて下さいな。
千世子はこんな事を云いながら髪をとかしなおしたり爪の掃除をしたりした。
そしてしばらくの間京子に髪をおもちゃにさせて居た。
まあ貴方の髪は何てかるいんだろう、
ほんとうにフワフワしてる、
どうして斯うなんだろうかしら。
京子が云うのに返事もしないで目を細くして千世子は髪と髪の間に五本の指を入れてかきまわされる何とも云えない好い気味をしみじみと味わって居た。
「ねえ貴方、女で髪をこんな事されていい気持だなんて云う人はありませんよ、
大抵さわられたっていやだって云うのに──
私にした所でいい気持どころじゃあない却って頭痛がしてしまう。
年のわりに思いきった事がすきなんですねえ、
四十位の女の様だ!
京子は生毛のまだ生えて居る千世子の頸を見ながら云った。
「四十位?
そんな事ってあるもんですか、
私達にわかるもんですかそんな事云ったって。
十五六から二十になるまで心の中に新らしいものが生れると同じ様に四十位の女の心には又新らしい或るものが産れて居るんですよ、
私達には到底分らないものがねえ。
千世子は午後になってから自分でも変だと思うっ位気分がよくなった。
その日まで着て居た着物をぬいでしっとりと折目のついたのに着かえた。
細っこい胴に巻きつく伊達巻のサヤサヤと云う気軽な音をききながら、
木の深い森へ行きとうござんすねえ。
すぐそこの──ほら、
先に行きましたっけねえ、
あすこへ行きましょうよ、
どんなにいいでしょうねえ。
千世子はそんな事を云いながらわきに絵筆をかんで居た京子をつっついた。
「あしたっからまた一週間寝たけりゃあ行きましょうさ。
とりすましたどこまでも千世子の保護者だと云う様な調子に云った。
千世子はそれなりだまった。
床の上に座って白い鳩の舞うのを見て居た千世子は小声に思い出す歌をつづけざまにうたった。
そして晴ればれした安心した気持になった。
「ねえお京さん私もうすっかり治ったらしゅうござんすよ。
そりゃあ頭が軽くていい気持だ。
「貴方なんか治ったと思ったら一分とたたないうちに治っちまいましょうよ、
自分で病気を作るんだもの。
起きて居たいんでしょう。
「でも少し頭がフラフラする。
「そんならまだ良くないんじゃありませんか、
何が何だか一寸もわけがわかりゃあしない。
二人は大きな声で笑った。
そして京子は千世子のくぼんだまぶたを見ながら、
少し目が有るらしくなりましたねえ。
なんかと云った。
夕飯がすむとすぐ肇が来た。
千世子は自分の居る部屋へ通した。
「いかがでいらっしゃるんです?
顔を見るとすぐ肇はきいた。
「有難う、今日はこの通りなんです。
度々来て下すったんですか?
「いいえ、そんなに度々でもありませんけど、
二三度上りました。
篤さんと一緒に──
「女中がおことわりしたんでしょう?
そんな事私が云い出したんじゃあないんですけどね、ここに居る人が云いつけたんですよ。
千世子は京子を見返りながら笑った。
「貴方にさわると思ってですよ。
京子は不平らしく云いながらも一緒に笑った。
「でもねお陰でもうすっかりいい様になったんです。
頭もそう気になるほどでもなくってねえ。
今日は午後っからずーっと起きてるんです、
いいお天気でしたからねえほんとうに──
「ようござんしたねえ、
早く御なおりなすって。
篤さんも随分心配してましたよ、
あの人は去年貴方が悪くていらした時もしってるってそう云ってました。
あの書斎のひろい椅子に腰かけて青い顔をして居るのを見るのはほんとうに変なほど気味が悪いって。
やっぱり眼の上が落ちました、
そいで眼が大きく見える。
千世子はさっきの京子の言葉を思い出して笑いながら小さい鏡を立って持って来た。
その小さい中にうつる自分の顔を見ながら、
「まあ、ほんとですねえ。
少し気違いじみた色をして、
随分青いんですねえ私の顔は、
それにふだんだってそんなに赤ら顔じゃあありませんからよけいなんですよ。
肇はだまって千世子の顔を見つめた居た。
「ああ貴方も見つめる癖を持ってらっしゃる、
私もそう云うくせが有るんですよ。
「そうですか、
自分じゃあ気がつきませんがねえ。
もう初めて会った日から一月目の今日までに五六度会った肇はよっぽど話をする様になった。
話す時にも長い「まつ毛」を見開いて一つ所を見つめて居るのが癖だった。
「どうしてあの人はあんな亢奮した様な声をいつでも出すんだろう」
とさえ千世子は思った事があった。
今夜はなお余計そんな様子が見えた。
千世子は沈んだ様な声で話した。
「貴方は重い顔色をしていらっしゃる、
頭でもどうかしてるんですか。
「いいえ、そうじゃあありません。
けれ共、頭にこびりついてはなれない事が有ってこまって居るんです、
見込まれた様に──
「私に云えないんですか。
「別に云えないなんて事はありません。
ほんとうに下らない事なんだけれ共私は考えさせられて居るんです。
「云ったっていいんならお話しなさいな。
「ええ──
肇はだまって庭の方ばかりを見て居た。
その思いあまった様な目つきやしまった頬を見ると千世子には肇が何を思ってるかが大抵見当がついた。
「ねえ笹原さん?
私が云って見ましょうか。
家庭の事なんでしょう、
それで考えていらっしゃるんでしょう、
きっとそうですよ。
千世子はいかにも確信があると云う様に云った。
「ええ、そうなんです。
どうしてわかったんです?
私はまだ一言だっていいやしません。
「だって私には分ります。
大抵の人のなやむ事ってすからねえ、一時は──
私だってそうでしたもの、
久しい間ね私はいろんな下らない事に迷って居たんです。
自分で恐ろしかった位ねえ。
「女の人ででもですか?
「そんな事は貴方た男だから女だからのって事はありゃあしません。
「そんなもんですかねえ。
肇はほんとうに沈みきった目附をした。
そして小机が一つ置かれて居る陰の多い部屋とうす赤い盛花の色を見て居た。
「おっしゃいな? いやなんですか?
「いいえ、でも何と云い出したらいいんだかわからないんでねえこまってるんです──が、
私が一番辛い事に思ってる事は両親になつかれないって云う事なんです。
年を取った親達はもうやたらに私をたよりにして居るのを見れば見るほど離れた気持になって来るんです。
どんなにつとめて思いなおしても。
「両親からはなれた気持になる?
小さい時に私も一時そんな事があったんですよ。
どうしていやなのか?
って聞かれればわけははっきり云えませんけどねえ、明けても暮れてもいやに陰気くさい子で居ましたっけ。
でも私はほんとうになおるもんだと思いますよ、
今なんか私はそりゃあ打ちまけて母親にすべてを云える気持で居ますもの。
両親にはなれた心を持って居るものの不幸な事なんかもこの頃は思ってます。
「どうなったってなおりゃあようござんすねえ。
でも私はなおりそうにもありませんよほんとうに、国に帰るのがだからいやなんです。
下の弟達が両親になついて居るのを見ると羨しさと憎しみが一度きに湧いて来るんです。
なつかない私を見れば両親だって頼りない様な眼附をしますしねえ、
女の母親なんかは私に気づかいさえして居るらしいんですもの。
「貴方が苦しいより以上にお母さんなんて辛い悲しい思いをしていらっしゃるに違いありませんよ。
この頃になって私はつくづく思うんです、
親の子供に対しての感情と云うものがどれだけ濃やかでどれだけ注意深い親切だかって事をねえ。
それで貴方子供はちっとも親になつかない、
まるで自分達にはなれた事だと思って考えて見たってハムレット以上の悲劇なんです、
私達が書き表しにくいほど複雑した心理状態と悲しさがこもってますものねえ。
だれでもがよくこの頃は親達を裏切った気持だって事を云います、
思想の違って居る事やなんかで少し位の事はあるかもしれないけど裏切るほどの気持にだれでもがなるもんでしょうか。
私は或る一つの悲しいいたましい『流行病』だって云うんですよほんとうに。
「じゃあ私もその『病』にかかったんだっておっしゃるんですか?
「そんな事どうだか私はわかるこっちゃあないじゃあありません。
私はねえ、貴方にまるで同情がないんじゃあないんですよ。
でも私は貴方にどうおつとめなさいとか斯うして御覧なさいとかっては云われませんからねえ。
第一貴方の御両親がどんな方だかだって知らないんですもの。
「じゃあやっぱり私は今まで通りの気持で居なけりゃあならないんですかねえ。
ほんとうは私の両親の考えやなんかがそんなにわかって居ないんですよ私に──
「そんなら貴方、今度お帰んなすった時に丁寧に親切にそして器用にお両親の頭をのぞいて御覧なさるといい、
きっと何かの結果のある仕事ですよ、
私は貴方が少しずつでもお両親に近づける様になるにきまってると思います。
ろくに二親の考えもしらないで居て近づけないのなんのかんのってったってまるで食べずぎらいみたいじゃあありませんかほんとうに。
二人は何ともつかない笑声をたてた。
「でも若し頭の中に恐ろしいものが居るのを見つけたらどうでしょう。
そうしたらほんとにまあ私はどうだろう。
肇はいかにも先を見すかして目の前に恐ろしいものでも見た様な声で云った。
「それがやっぱり分って居ないからなんですよ、
実の生みの親で気の狂った人ででもなければどっから見てもどっからのぞいても恐ろしいものなんかの有ろう筈は有りません。
そりゃあたしかですとも、
若し恐ろしいとか何とか思うのは只自分の感情が間違って感じたと云うんですよ、
はっきりしたたしかな心と眼で見て恐ろしい事は必してないといってもいい位でしょうからねえ。
でもねお互に人間なんだからあんまり批評的に見ると必していい気持のする事ばっかりはありませんからねえ。
いつもになく静かな気持で千世子はこんな事を話した。そう云う事──今肇がなやんで居る事等は千世子のもうとっくに解決のついて居る今から思って見れば何でもない事であったのだ。
千世子の家はおだやかに暖くて四辺の人がすべて千世子のためばかりに心を用いて居て呉れた。
「それだのにどうしてだったろう」
今思う事はある。
けれ共また同時にそれが必して無駄な経験ではなかったと云う事も思う。
「ねえ一度両親の心やなんかが分らないで下らなく思いまどって見たりなんかした末に考えて居る事もわかり自分に対しての感情もはっきり知った時両親になついて行く時の勢と云うものは大したものなんですよ、
モスケストロームの大渦巻よりもっとひどい勢でねえ。
理性やなんかで制えられるもんじゃありません到底。
大きな波のうねりになって押しよせて行く自分の心が浜の方で微妙な響と形で居る小波の様な両親の心とぶつかって水玉をとばしらせてそれと一緒になった時の気持はほんとうに口なんかじゃあ云えませんねえ。
嬉しい様な力強い様な勝ほこった様な──
千世子はだまって居る肇の顔を見てうす笑いした。
「貴方にも近々そんな日が来ますよきっと、
そうしたらほんとうに心からお祝をしましょうねえ。
こんな事も云った。
「なんだか出来そうもない様な気がします。
「不安がらないで居る方がいいんですよ、
きっと出来ると信じて居なけりゃあいけないんです。
肇は千世子に何も教えられたんでもない──何も思いついた事もないのに何とはなし気が軽くなった様に思った。
「少し気が軽くなったんですよ。
うすい唇の間から寒い様な歯をのぞかせて笑った。
「誰だって人と話して居れば少し位の気の重さはなおってしまいますよ。
私としゃべった位で気が軽くなる位ならそんなに大して重かったんでもなかったんでしょう。
はじけた様に千世子は笑った。
「いいえね、随分重かったんです
〔以下、原稿用紙四枚分欠〕
「貴方の手が私の琴を弾く時より奇麗に見えたからですよ、
羨しかったんです。
千世子は思いあがった様に笑った。
「ああ私もう帰りましょう、
あんまりいつまでも居ると貴方にさわりましょうから。
笛を吹く様に肇は云った。
千世子は別に止めようともしなかった。
「今度来る時には篤さんと一緒に来ます、
何だか、気がとがめる様ですよほんとうに。
「まだそんな事を気にしてるんですか。
誰とでもいらっしゃい、
いやでなかったら御会いします。
千世子はこんな事を云いながら黄色な焔のユラユラゆらめいて居るのを見て居た。
こんな陰気な中に居るのは千世子はあんまりよくなかった。
「ねえこんな影ぼう子ばっかり大きくうつる黒い部屋の中に居ると変な気持がしますねえ、
私の髪の毛がゾロゾロとぬけて行きそうな──
「私の首をくくる繩を握った大っきなものがひそんで居る様な──
ねえ。
千世子は迫る様な低い声で云った。
「ええ。
燭のゆらめきは二つの大きな入道の影に奇妙な踊りをおどらせて壁にうつして居た。
(五)
ベルの音に女中は口小言を云いながら出て見ると又例の二人が立って居た。
「いらっしゃるでしょう」
篤が笑いながらきいた。
「はい、
お上り遊ばして。
肇を先に立てて千世子の書斎に行った。
開けられたままの本の頁があけっぱなした窓からの風にあおられて居るばっかりで千世子はもうさっきっからここに居ないらしい様子になって居た。
「どこへいったんだろう?
「何、今に来るよ、きっと。
二人はこんな事を云いながら窓のそばに腰をかけて青々と海の様にしげった楓の葉やその中に交ってまっかににおって居る何かの葉を見たりした。
立ちどまって一寸頭をまげて篤は何か聞いて居た。
「外に居たんだねえ。
肇は低い声で云った。
葉の重なりを通して庭の方から高い声で歌を唄って居る千世子の声が二人の耳に響いた。
二人は顔を見合わせてうす笑をしてその声を聞く様にした。
「随分元気なんだねえ。
「天気がいいからだろう。
千世子の声はいつもよりつやつやしく力に満ちて白い雲の多い空の高い処へ消えて行く様だった。
篤は窓からのり出して木の幹の間から彼方をすかし見た。
木蓮の木の下に籐椅子をすえて千世子が居るのを見つけた。
ゆるく縞の着物の衿をかき合わせて「ひざ」の上に小さい詩集をのっけて上を向いてうたって居た。
唇がまっかに見えた。
真白い「あご」につづいてふくらんだ喉のあたりから声が出て居るらしく肩の上に葉の影がゆらめいて居た。
「何だい?
肇も同じ窓からのぞいた。
二人とも無言のまま千世子の様子を見て居た。
「いつもよりきれいだねえ、
どうしてだろう。
しばらくたってから肇が口をきいた。
「日光の差し工合だって女の人は奇麗に見えるよ」
そう云いながらも篤は千世子から眼をはなさなかった。
「呼ぼうか。
「お止めよ、
斯うやって居る方がいいもの。
二人はまただまって二つの首をならべて居た。
いきなり二人は頭を引っこめた、そしていたずらっ子僧の様に忍び笑いをしながら、
「見つけたねえ、きっと。
「見つけたとも、そりゃあ、
こっちを見て笑ったもの。
二人は可笑しさを堪えかねた様にして隅っこの椅子によっかかって戸の開くのを待った。
「いついらっしゃったんです、
さあっきっからあすこに居たんですか。
赤い様な顔を千世子ははずむ様な声で云った。
「ええ。
二人は一時に云った。
底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年11月25日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
初出:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年11月25日初版発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2008年5月16日作成
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