葦笛(一幕)
宮本百合子



    人物

  精霊    三人

  シリンクス ダイアナ神ニ侍リ美くしい又とない様な精女ニムフ

  ペーン   マアキュリの長子林の司

こんもりしげった森の中遠くに小川がリボンの様に見える所。

春の花は一ぱいに咲き満ちてしずかな日光はこまっかい木々の葉の間から模様の様になって地面をてらして居る。あまったるい香りがただよって居るおだやかな景色。

三人の精霊がねころんだり、木の幹によっかかったりしてのんきらしくしゃべって居る。小蜂が一匹とんで居る。


第一の精霊 サテサテマア、何と云うあったかな事だ、飛切りにアポロー殿ドノが上機嫌だと見えるワ。日影がホラ、チラチラと笑って御ざる。

第二の精霊 アポロー殿が上機嫌になりゃ私共までいや、世の中のすべてのものが上機嫌じゃがその中にたった一つ嬉しがりもせず笑いもせなんだものがあると気がるなあの木鼠奴が通りすがりの木の枝からわしに声をかけおった。何じゃろ、今日のよな日のあてものにはもってこいと云うものじゃ……

第一の精霊 嬉しがりもせず笑いもせなんだ? 一寸思えばうす暗い中にうごめいてござるプルートーかさもなくば──ものがもの故あとが一寸はつづかぬワ、マいずれその近くに違いあるまい。

第二の精霊 コレ、若い人、何をそのよにだまってござる。年はとっても私等ワシラはこの通りじゃ。とりのぼせぬまでにうかれるのも春は良いものじゃワお身の唇はその様にうす赤くて──はたから見ても面白い話が湧いて来そうに見える。口あくと歯にしみる風は願うても吹いては居ぬ、サ、今のあてものでも云って見なされ下らない様でも面白いものじゃ。

第三の精霊 私しゃ考えて居るのじゃ。

第一の精霊 とは御相拶な、考える事のなさそうなお身が考えて居るとは、──今のあてものかそれともほかの事かな。

第三の精霊 自分の事を考えて居るのじゃ。あてものよりもむずかしいものと見えて、すけをたのみたいほど迷って居るワ。

第二の精霊 自分を? 若い人には有り勝な事じゃワ、自分の心を機械カラクリかなんぞの様に解剖フワケをしてあっちこっちからのぞくのじゃ。あげくのはてが自分の心をおもちゃにしてクルリッともんどりうたしてそれを自分でおどろいてそのまんま冥府へにわかじたての居候となり下る。妙なものじゃ。

第一の精霊 その様に覚ったことは云わぬものじゃよ。どこの御仁かわしゃ得知らんがあの精女の白鳩の様な足にうなされて三日三小夜まんじりともせなんだ御仁があると風奴がたよりをもて来た。叶う事なりゃ、も十年とびもどりたいと云うてじゃそうな。心あたりはないかな?

第二の精霊 もうその先はやめにしよう、陽気のせいか耳がいたむワ。デモナ、口のさきではどうにでも□□るものじゃ、トックリと胸に手を置いて考えて見なされ、日光にてらされたばかりじゃなくはげた頭が妙に熱うなる骨ばった手がひえて身ぶるいが出る事が必ず有ろうナ。ヘッツミ作りな……

第一の精霊 若い人がござるは、年功でもない、一寸はつつしまねばならぬワイ。なんぼ春だと云うて御主のはげはやっぱりかがやいてあるのに、口元に関所を置いてとび出すならずものは遠慮なくからめとる様に手はずをなされ──そう思わぬか?

第三の精霊 思うも思わぬもわたしゃそんなひまをもたぬ、考えるにせわしいワ。考えれば考えるほどわかりにくくばかりなる心を新規蒔なおしに考え始めにゃならぬ。

第二の精霊 マ、そのまま考えたいなら考えさせて置きなされ、わし等に損は行かぬことじゃ。ところでじゃ、あの精女の姿を思い出して見なされ、思い出すどころかとっくに目先にチラツイてある事じゃろうがマア、そのやせ我まんと云う仮面をぬいで赤裸の心を出さにゃならぬワ、昨日キノウ今日知りあった仲ではないに……

第一の精霊(チラッと第三の精霊の方をぬすみ見しながら)ほんとうにそうじゃ、春さきのあったかさに老いた心の中に一寸若い心が芽ぐむと思えば、白髪のそよぎと、かおのしわがすぐ枯らして仕舞うワ。ほんとに白状しよう、わきを向いて居なされ──、お互さまじゃよ!

第二の精霊 わしの目玉の黒い内はハハハハ……

 マ良いワ、があのシリンクスの美くしさと云うたら……ま十年若かったらトナ、お互に思うのも無理であるまいと自分できめて居るのじゃ。ましてこの頃の気候で倍にも倍にも美くしく思われるワ。

第三の精霊はフッと首をあげて一つとこを見つめながら二人の話をきく目の中には悲しみと怒りがもえて居る。うつむきにねころんで居たのを右の手を台にして横になる、耳をすまして首が一寸かたむいて居る。

第一の精霊 だが及ばぬ事じゃ、いかな物ずきでもしわくちゃなはげおやじに……ウフフフフフおかしい様な気もするワ、いい年をして子の様な精女の姿にうなされるとは──はかりきれない美くしさをもって居ると見える。

第二の精霊 若さと美くしさの盛の年をして居るペーン殿のこの頃の眼の光りをお主は気づいてござるか? わしのすばしこい眼の奴は、ちゃんと見ぬいてしもうたワ、恋のやっこになってござるとナ。云うまでもなくシリンクスの肌のしなやかさをしとうてじゃ。

第一の精霊 アポロー殿がとび切りの上機嫌の今日でさえ嬉しがりもせず笑いもせなんだものと云う謎はとけたワ。ペーン殿は、年がまだ若いワ、髪が房々としなやかで頬は豊かで──うらやましい事じゃ、今はなやんでござっても末の日の望はあるワ。

第三の精霊(ひくくうなされてうなる様に)私も同じ事でなやむのじゃ。ペーン殿には末の日の望があろうが私は、ただ無駄になやむばかりじゃ──。──ただ無駄に──

第二の精霊 オヤ、若い御仁は何と云いなされた?──同じ事でなやむのじゃとナ? とがめはせぬワ、無理だとも思わぬワ、じゃが、マ、ただながめるだけの事で御あきらめなされと云わねばならん様な様子をあの精女はして居るじゃ。

第三の精霊 ──

第一の精霊 だれでも一度はうけるあまったるい苦しみじゃナ。そのあったかい涙をこぼして居られる中が花じゃと、私達の様になっては思われるワ。私達が若かった時──お事位の時には幸いあの精女の様な美くしい女は居なんだからその悲しみもうすいかなしみであったのじゃ。お事の若い心にはあの精女はあまり美くしすぎたの…………

第二の精霊 ほんにその通りじゃ。美くしすぎたのじゃ世の中すべての男に──

第三の精霊はうなだれてあっちこっちと歩き廻って居る。まわりには何となく重い気分がにじんで居る。

若い男は自分の老いた時の事を、老いた人達は自分の若かったことを思って居る。

三人ともだまったまんま木の間を行ったり来たりするうちに一番川に近い方に居る第二の精霊がとっぴょうしもない調子で叫ぶ。

第二の精霊 来る! 来る! ソラ、あすこに、私達の──

するどく叫んであとはポーッとした目つきで向うを見る三人の目が皆そこに集った。

白い着衣に銀の沓をはいてまぼしい様なかおをうつむけてシリンクスが向うの木のかげから出て来る。

かすかな風に黄金色の髪が一二本かるそうに散って居る。手には大理石の壺を抱えて居る。

何か考える様な風に見えて居る。

三人の精霊は一っかたまりになって息のつまる様な気持で一足一足と近づいて来る精女を見て居る。精女はうつむいたまんま前に来かかる。

第一の精霊 もうお忘れかネ、美くしいシリンクスさん。

少しふるえる様な強いて装うた平気さで云う。

精女 マア、──何と云う事でございましたろう、とんだ失礼を、──御ゆるし下さいませ。

しとやかなおちついた様子で云う。そしてそのまんま行きすぎ様とする。

第二の精霊 マア、一寸まって下され。今もお主の噂をして居ったのじゃそこにソレ、花が咲いてござるワ、そこに一寸足をのして行っても大した時はつぶれませぬじゃ、そうなされ。

第一の精霊 ほんにそうじゃ。お主の細工ものの様な足が一寸も休まずに歩くのを見ると目の廻るほど私は気にかかる──

精女 いつもいつも御親切さまに御気をつけ下さいましてほんとうにマア、厚く御礼は申しあげますが急いで居りますから──この山羊の乳を早くもって参らなくてはなりませんでございますから──

第一の精霊 お急ぎ? それでもマ年寄の云う事は御ききなされ。

精女 お主様がさぞ御まちかねでございましょう。私は早う持って参じなければならないのでございます。

第二の精霊 ここに居る三人は皆お主をいとしいと思って居るものばかりじゃ故お主の御怒にふれたら命にかけてわびを叶えてしんぜようナ。

この間第三の精霊は木のかげからかおだけを出して絶えず精女を見て居る。

第一の精霊 女子オナゴのかたくななのは興のさめるものじゃ、良い子じゃ聞き分けて休んでお出でなされ。

精女 まことに──我がままで相すみませんでございますけれ共お主様に捧げました体でございますから自分の用でひまをつぶす事は気がとがめますでございますから今日は御許しあそばして──

第一の精霊 お主様に捧げた? おしい事じゃ、ほんにおしい事じゃ、お主の侍るお主──ダイアナ神は御事のために命をすてて御下さらんじゃろがここに居る三人の精霊──世の中にあるだけの精霊は皆お主のためなら命までもと云うておるじゃ。まして私共の様に白髪のない栗色の髪の房々した若い精霊の目が御主に会うた時のあの露のしたたりそうな輝きと会わなんだ時のあの曇り様をお主は知ってじゃろうが……

第二の精霊 そうじゃほんにおしい事じゃ、若々しい美くしいお主は自由な体で気がるに花をつみうたをうたい舞うて居るのが良いのじゃ、「時」は遠慮なく立って幾十年か立つと私共の様な──こんなみにくくはあるまいがとにかく年を取らにゃならぬじゃ、若い中──ほんに短かい若い中を自由に美くしくすごさにゃああまりおしいワ、お主の様にましてうつくしい人ハナ、……

この間精女はうつむいて足の先で小さな花をつっついて居る。

第三の精霊は木のかげに居るまんまで手でかおを押えて居る。

第一の精霊 ソレ、その様に自然に咲きほこって居る花を足の先でじゃらして何も忘れて居るのがお主にはよく美くしさとつりあって居るのじゃナ。今の一日はそうして気ままに歌をうとうて舞をまうて居なされ、声の美くしい駒鳥も姿のよい紅雀もつれて来てお相手さしょう。

第二の精霊 そうして居なされ。お主にそうして居られると私共は涙のこぼれるほど安心なおだやかな心持になれるのじゃ。美くしい花をもつ人はたれかがぬすみに来はせなんだかと思いわずらうと同じに私共はなやむのじゃ。

精女(涙ぐみながらいかにもこまったらしく小さなこえで)お主さまが御まちかねでございます。

第一の精霊 御待ちかね? ダイアナ殿は山羊の乳をまってござるのじゃ、私共はまっとそれより貴いものをダイアナ殿よりまちかねて居るのじゃ。

 まちかねて気の狂いそうなものさえある!

第二の精霊 お主の心の花の咲くのをまちかねて居るのじゃ、幼子の様なお主の瞳にかがやきのそわるのをまちかねて居るのじゃ。

第三の精霊はかるくふるえながら木のかげから出て来る。精女、二人の精霊は気がつかずに居るといきなり馳って精女の前にひざまずく。

二人の精霊はあとじさりをし精女はおどろいてとび上る。

精女 アラー? マア──……

第三の精霊 これまでに──お主を……命にかけてとまで思って居るのじゃ。

精女 お立ち下さいませ、泥がつきます。私は貴方さまにそんなにしていただくほど身分の高いものではございませんですから……

第一の精霊 云うでござる、身分の高いものではございませんですから──

 良う御ききなされ美くしいシリンクス殿。

 年老いた私共は、その若人のするほどにも思われなければ又する勢ももう失せて仕舞うたのじゃ──が年若い血のもえる人達はようする力をもってじゃ。

 身分の高い低いを思ってするのではござらぬワ。

 体中をもって狂いまわる血のヤツめが思う御人の前にその体をつきたおすのじゃ。

第二の精霊 私共にも、出来る力をもった時はあったが幸か不幸か自分の体をなげ出すほど美くしい精女は居らなんだ故死なずにもすんだのじゃ。

 ま十年若かったら、つくづく思われるのじゃワ。

第三の精霊はかおを手でおおうたままシリンクスの足元につっぷして居る。指の間からかすかなこえを響かせて云う。

第三の精霊 何とか云うて下され、美くしいシリンクス。お主のその美くしいしおらしげな目ざしで、そのしなやかな身ぶりで私の血は段々なくなって行ってしまう。アア、どうしていいやら、私は心臓ばかりのものになったのじゃあるまいか──

 かがやかしいシリンクス──、私の命の──何とか云うて下され何とでも思うままに……

精女(おどろきにふるえながらかたくなって身動きもしないで居る。壺をしっかりかかえて)

第三の精霊 だまってござるナ、何故じゃ、私のこのやぶけそうに波打って居る鼓動がお主にはきこえなんだか、この様にふるえる体がお主には見えなんだか──お主の着物はひだ多く縫うてあるに心はただまったいらな小じわ二つも入って居らぬ、何とか云うて下され、──もう私は口がきかれぬほど──

第一の精霊 精女殿、哀れに思われなんだか?

 若い人の心は悶えるのも人一倍くるしみのますものじゃ。火の様になった若人の頭に額に一寸手を置いて御やりなされ、さもなくば髪の毛の上にかるい娘らしい接吻をなげて御やりなされ。

第二の精霊 して御やりなされ、悪い大神の御とがめをうくるほどの事ではない。

精女、ためらいながら左の手につぼをもちかえてまっしろな右の手を栗毛の若い精霊の髪の上に置く。

若い精霊は涙をこぼして居る。

第一の精霊 キッスをして御やりなされ額の上に──

精女(はっきりと)私はお主さまに朝と夕に御手にするほかいやでございます。

第二の精霊 お主さまに──。ほんに体を捧げて御ざるワ。

第三の精霊 有がとう、美くしいシリンクス、何とか云うて下されたんだ一こと、死ねとでも──

精女(沈黙。右の手を下にたれてうつむいて居る)

二人の精霊は向うを向いた木によっかかって何か小声で話し合って居る。

第三の精霊 何とか云うて下され精女、死ねとでも云うて下され、たんだ一ことで良いワ。

 そのバラの花をつんで置いた様な唇からもれる言葉をきけば私は死んでも、──ナ? 死ねとでも云うて下され──

第一の精霊の目は狂った様に輝いて、顔中の筋肉がズーッとしまって居る。

精女(足元を見つめたまんま震える声で)云っても良いんでございましょうか、──お死に遊ばせ。

第一の精霊は飛び上って精女の目を見つめ神経的に高笑をする。二人の精霊もその声にこっちを向いて二人の廻りをとり巻く。

第一の精霊 シリンクスお主はこの若人に何をお云いなされた? あの笑い声は──あんまりとりとめもない声だったが──

精女(かおを赤くしながら無邪気に)アノ、私はこの方が死ねと云えとおっしゃいましたので申したんでございますが──この方はそれをきいて御笑いなさったまででございます。

第二の精霊 死ね? 思い切った事をお主は御云いなされた──コレ若い人、お主はそれをほんの心で聞いては大した事が出来ぬともかぎらぬ、じょうだんだと聞き流され、三つ子の云うた事だと思って居なされナ?

第三の精霊 私のほんの心できいてもなにも大した事等は起らぬ、私がこの精女殿に──まっしろけな幼児の様な心をもったこの御人にたのんで云うてもらった事じゃ。

第二の精霊 その様な事をたのむとはサテサテ──ほんとうに御主にはこの精女殿が美くしすぎたのじゃ。

第三の精霊 私はこの上もない安心を得たのじゃ。

 嬉しい事だ、のぞみの満ち満ちた事だ。

二人の精霊と精女とは若人のうす笑をしながら云って居る事をおどろきの目を見はってきいて居る。第三の精霊は頭をかるくふって遠くに流れて居る小川を見つめるといきなり張りのある響く声で、

第三の精霊 美くしい精女殿、お二人の御年寄──さらばじゃ、この上ないよろこびのみちたところへ行く──青い水草は私の体をフンワリと抱えて冬の来ぬ国につれて行くワ、一寸の間頭の上に置いてたもった精女殿の指のほそさとうでの白さを夢見ながら、

三人のかおをジッと見まわす。二人の精霊はサッと第三の精霊のまわりによる。若人は思い出した様に又笑って着物をひるがえして一足前に進む。二人は一足あとにタジタジとしりぞくと若人は青草の上を白い足で目まぐるしいほどに川の方に走って行く。二人の老人はかおを見合わせてホッと溜息をつきながらだまって涙ぐみながらトボトボとそのあとを追うて行く。

精女は力のぬけた様に草の上に座ってつぼをわきに置きながら。

シリンクス お主さまからしかられよう──私はただあの人が云って呉れと云った事ばかりを云ったのにあの人はあんなに川にとんで行ってしまった、二人の人も行って──私はマアこのひろい中にたった一人になってしまった。

細々と云って涙をふく。川のあべこべの方から林の司のペーンがみどり色のビロードの着物に銀の飾りのついた刀をさして来る。シリンクスの涙をこぼして居る様子を見てサッとかおを赤くする。それから刀の音をおさえてつまさきで歩いて精女のわきによる。やさしげな又おだやかなものしずかな調子で、

ペーン お前は泣いて居るネ、そして又大層美くしい。

精女はおどろいてかおから手をはなし身をしりぞける。

ペーン 何にもそんなにおどろくことはない。私はお前をどうしようと云うのではないから、どうして泣いて居る?

精女(沈黙。壺のふちを小指でなでながら耳をまっかにして居る)

ペーン 何故だまって居る? そんなに沈んだ泣いた眼をして居ると御前の美くしさは早く老いてしまうから──誰かが御身をつらくしたなら私は自分はどうされても仇をうってあげるだけの勇気を持って居るのだよ。

精女 誰にもどうもされたのではございませんけれ共──今ここに参りましたら老人と若人と三人の精霊が居りましてその若い人は私の前に体をなげ出しましたんでございます。そしたら年とった人達が髪の毛の上に手を置いて御あげ額に一度だけキッスして御上げって申しましたから私はその通りに髪の上に手をのせてあげたんでございます。

ペーン お前が? お前が? 私が三度あんなに心をこめた文をやったのに何とも云わない人が? そうしたらどうおしだ?

ペーンはねたましげなイライラしたしまったかおをして手をふってせきたてる。

精女 そうはいたしましたけど──私は何も申しませんでした。そしたら若い人は私に死ねと云え、死ねと云えと申しましたから私は云ってしまいました。

 若い人は川の方にとんで行ってしまって二人の老人もそのあとを追って行ってしまいました。私は何の事だかわかりませんで──ただ、一人ぼっちになったんで悲しゅうございました。

いかにも小供らしい口調で伏目になりながら云う。

ペーンはシリンクスの話のあんまり子供らしいのと泣きぬれてました美くしさにみせられて頬をうす赤くしながらそのムッチリした肩を見ながら、

ペーン ほんとうにマア、お前は美くしい体と心をもって居る事、私に御前の手の先だけさわらして御呉れ、その象牙ぼりの様な手の中に入れる事を──

精女 御さわりにならないで下さいませ。

ペーン 何故? 私はきたないものなんかは一寸もさわりゃしない──お前の手をさわりたいために私の花園で一番美くしい花の精をぬって来たほどだもの。

精女 御やめ下さいませ、何となく悪い事の起る前兆の様な気が致します。

ペーン 悪い事? 私は若い、そいで相応に見っともなくないだけに美くしい、それが若い美くしいやさしい精女に恋をする、何故悪い事だろう?

精女沈黙。重って来た困る事にすき通る様なかおをして壺のかすかに光るのを見る。ペーンはそのかおを眉のあたりからズーッと見廻して神秘的の美くしさに思わず身ぶるいをしてひくいながら心のこもった声で云う。

ペーン マア何と云う御前は美くしい事だ。そのこまっかい肌、そのうす赤くすき通る耳たぼをもって居る御前は──世界中にある美くしいものにつける形容詞を集めても御前の美くしさを云う事は出来まいネー。

精女 ──

ペーン お前はだまって居る。そのしまった口元、見つめた目つき──美くしい事だ、ほんとうに。ビーナス殿の頬の豊かさも眼の涼しさも御前にはキット及ばないに違いない。

精女 そんなにおっしゃらないで下さいませ、そんなにおっしゃられるほどのものじゃあございませんですから──

ペーン まっしろな銀で作った白孔雀の様な──夜光球や蛋白石でかざった置物の様な──私はそう思って居るのだよ。

 お前の御主のダイアナも月の冠をかむって御出でるから美くしいのだ、まばゆい車にのっていらっしゃるから立派なのだ。

 お前の方がよっぽど美くしいと私は思って居るのだ。

精女、沈黙。

ペーン ネー、シリンクス? 私は一寸ためらわずにハッキリと「お前を愛して居る」と云えるのだよ。私の前にどんな尊いものがあってもどんなに立派な人が居ても──私はお前の心から侍えて居るダイアナに誓っても──アアそれはいけなかった、月は一晩毎に変るからいつでも同じ太陽に誓ってお前を愛して居るのだよ、どうぞ何とか云って御呉れ。

 ほんとうにお前は私の命なんだから……

精女 おっしゃらないで下さいませ──どうぞ。

ペーン どうぞ云わして御呉れ、そいでどうぞ御前の手にさわらせて御呉れ、どうぞ私の心を考えて御呉れ、アアお前はあんまりきれいな心をもって居る!

精女 ──

ペーン シリンクス! 美くしい精女! 私の気が狂いそうになって来た。私の目の前に──心の前にお前の顔が渦巻いて──あんなに調子をとった足なみで迫って来るじゃあないか? 私は何を云うんだろう。

 私はどうしたら好いんだろう、アア私のタマシイ

ペーンはシリンクスのわきにつっぷす。シリンクスも座って居る。

精女 アア私はどうしよう、さっきの若い人はキット川に入ってしまったんだろう、あの人は死んでしまったんだろう。そして又この方まで……アア恐ろしい。

 お主さまダイアナ様! どういたしましょう?

 私の体と心と一緒にふるえて居ります。

 あの人も──この方も──

立ち上りながらシリンクスはおそれて叫ぶ。

ペーンはその銀の沓をはいた足の上に体をなげかける、シリンクスはとびのきざま叫ぶ。

精女 おやめあそばせ! こわうございます! 息がつまりそうでございますワ。アラ、アポローさまがあんなにケラケラ笑っていらっしゃいます、冥府の御使者がソラ! そこの草のかげから目ばかり出して居りますワ!

たまらくなった様に又ペーンとならんで草の上につっぷす。

ペーンはソーッとよっておしげなく見えるくびにキッスしようとする。

シリンクスはとび上って云う。

精女 おさわりになりまして? おさわりになったんでございますか? アア私の終りの日がとうとう参りましたワ、お主さまのところへも参れません、アアほんとうに終りの日が参ったんでございますワ。

 私は恥うございます。

身をひるがえしてかけ出す。ペーンもすぐそのあとを追う。

精女 お許し下さいませ、お主さま! ダイアナ様!

 恥かしいんでございますワ。終りの日が来たんでございますワ。

シリンクスは小川の方に向ってかけながらとぎれとぎれに高い声で云う。

ペーン もう何も云わない、もう何もしない! かけるのをやめてお呉れ、どうぞシリンクス! 美くしい……、アア──

ペーンも追いながら叫ぶ。

シリンクスの速力はだんだんにぶくなって、

 恥かしいんでございますワ。

と叫ぶ声も細くなる。も一寸でペーンがおいつく様になる。小川の岸に来てしまった。

精女 恥かしいんでございますワ!

ペーン シリンクス、美くしい!

精女は水煙をたてて川に飛び込む。小さな泡が二つ葦の根にうく。

ペーン オオオ、シリンクス、お前は!

しぼる様な細い声で云う。まわりの葦にひびいて夢の歎きの様な好い音を出す。ペーンはそれをジッとききながら、

ペーン アア、あの響が……シリンクスの姿に似た響があの美くしさのせめてもの形見になるのだ。一生死ぬまでこの響を聞いて居なくっちゃ私はあの美くしかった精女にすまない……

ペーンは葦を切ってつたでからげてその先に唇をあてて響を出す。

ペーン あああのシリンクスの心が音にささやく、あの精女の姿がうき出して来る、──シリンクスの笛──それでいい、私のシリンクスを思ったほどに……あの美くしい姿は美くしい響になって残ってしまった!

夢の様な、歎く様な細い声に川辺にすわったまんま吹きならす。

幕。

底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年1125日初版発行

   1986(昭和61)年320日第6刷発行

入力:柴田卓治

校正:土屋隆

2009年1014日作成

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